「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「熊野の天狗談に就て」
[やぶちゃん注:本論考は大正四(一九一五)年十月発行の『鄕土硏究』第三巻第八号に初出され、後の大正一五(一九二六)年五月に岡書院から刊行された単行本「南方隨筆」に収録された。
底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(ここから)で視認して用いた。また、所持する平凡社「選集」で一部を訂した。表記のおかしな箇所も勝手に訂した。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。
本篇は短いので、底本原文そのままに示し、後注で、読みを注した。そのため、本篇は必要性を認めないので、PDF版を成形しないこととした。]
熊野の天狗談に就て
田村君の天狗の話(鄕硏三卷三號一八三頁)を讀んで居る處へ、新宮生れで東牟婁南牟婁兩郡の珍事活法とも云ふべき山本鶴吉ちふ人が來たので聞いて見ると、元津野と田村君が書いたのは廣津野を正しとす。宇久井生れで廣津野に移住した者が山爺と成つたので、最近に鹽を貰ひに歸つたのは二十年程で無く三十年程前のことだつた。又「一人娘をわけ村にやるな」と唄はるるは南牟婁郡の和氣村下和氣で、此處新宮から三里半程、人家四五軒あるのみ、川を隔てゝ東牟婁郡の能城山本に、ヰノシヽグラとて野猪も滑り落るてふ高い崖がある。又川の中に大石磊砢と集まつて、水の減つた時遠望すると恰も味噌を延し敷いたやうに見える暗礁があつた。之をミソマメと呼んだが、明治二十二年の大水で川原の下に埋まつてしまうたと語られた。
(大正四年鄕硏第三卷第八號)
[やぶちゃん注:「田村君」「選集」割注によれば、田村吉永とある。日本史学者田村吉永(明治二六(一八九三)年~昭和五二(一九七七)年)であろう。奈良師範卒。生地の奈良県で中学校教員などを努める傍ら、歴史研究に励み、大正一二(一九二三)年に『大和史学会』を、昭和六(一九三一)年には『大和国史会』を創設、昭和九年には雑誌『大和志』を発刊している。後に梅光女学院大教授となった。著作に「天誅組の研究」などがある。
「天狗の話(鄕硏三卷三號一八三頁)」ネット上では読めない。されば、後の「一人娘をわけ村にやるな」とい意味も判らぬ。僅かに「日文研」の「怪異・妖怪伝承データベース」の「天狗」・「石」のカードが、当該論考に基づくものであることが判っただけである。そこの「要約」に『和気村というところがある。そこには今でも天狗が住んでいて、曇天の日などには、山から大きな石を投げてくるという。』とあった。いや、そもそも、何で、この短い訳の分からぬ話の題名が「熊野の天狗談に就て」となるんじゃい! と少々突っ込みたくなる。単に、熊楠は、その話柄の中の記載の誤りを天狗の鼻捕ったように言いたかっただけなんじゃないの? と皮肉を言いたくなる私がいる(そういう誤りの論いに偏執して、しかも批評対象の論考と同じ題名で書いたりするから、結局、後に柳田國男から絶交されちゃうことにもなったんでしょ? 熊楠先生?)。
「珍事活法」「活法」は「活用する方法・有効に働かす手段」で、所謂、諸事に就いてのハウトゥ書・手引書を謂う。例えば、漢詩を作るのに韻を手軽に調べる本に「詩韻活法」がある如くである。されば、ここは、珍事に就いての信頼出来る知恵者或いは情報屋という謂いである。
「山本鶴吉」不詳。
「元津野と田村君が書いたのは廣津野を正しとす」和歌山県新宮市新宮に廣津野神社(グーグル・マップ・データ。以下指示しないものは同じ)があるが、「ひなたGPS」で戦前の地図を見ると、ここの地区の旧名として、ズバり、「廣角」(「ひろつの」であろう)と出る。
「宇久井」「うぐゐ」。「選集」で『うぐい』と振るのに拠った。これは、新宮の南に近い和歌山県東牟婁郡那智勝浦町宇久井(うぐい)であろう。
「山爺」「やまをぢ」。「選集」に『やまおじ』と有るのに従った。これは妖怪のそれではなく、山に分け入って、住民との接触を極力断ち、隠棲する老人の謂いであろう。ともかくも、田村氏の論考が読めないのでそう解釈しておく。
「わけ村」「南牟婁郡の和氣村下和氣」現在の三重県熊野市紀和町(きわきちょう)和気(わき)であろう。「ひなたGPS」で「下和氣」を発見した。新宮からの距離も一致する。航空写真で拡大してみたが、現在は村落らしきものは見当たらない。
「川を隔てゝ東牟婁郡の能城」(のき)「山本」前注の「ひなたGPS」で二つの地名を確認出来る。現在は新宮市熊野川町能城山本(のきやまもと)として地区が合併している。
「磊砢」「らいら」岩石が重なり合っているさま。
「延し敷いた」「のばししいた」。
「明治二十二年の大水」一八八九年。この辺り、2011年の台風十二号による大水害が記憶に新しい。グーグル・マップ・データ航空写真の「紀伊半島大水害の碑」をリンクさせておく。まさに、この場所の対岸北方が旧下和気である。]
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