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2022/06/24

「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「子供の背守と猿」

 

[やぶちゃん注:本論考は大正四(一九一五)年十一月発行の『鄕土硏究』第三巻第八号に初出され、後の大正一五(一九二六)年五月に岡書院から刊行された単行本「南方隨筆」に収録された。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(ここから)で視認して用いた。また、所持する平凡社「選集」で一部を訂した。表記のおかしな箇所も勝手に訂した。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 なお、添え辞の「(人類三卷四六八頁參照)」の「人類」は「鄕硏」の誤りである。後注の冒頭を参照されたい。

 太字は底本では傍点「○」である。

 本篇は短いので、底本原文そのままに示し、後注で、読みを注した。そのため、本篇は必要性を認めないので、PDF版を成形しないこととした。]

 

     子供の背守と猿 (人類三卷四六八頁參照)

 

 中古男子の烏帽子や女房の頭に付けた物忌、近世小兒の衣に附ける背縫、守り縫、背紋など、何れも視害(印度語ナザール)や邪視(英語イヴル、アイ)を避ける本義に出た由を、明治四十二年五月の東京人類學會雜誌に書いて置いた。括り猿を奉納するは此邊では庚申・淡島・藥師等、何の神佛へもした事で、子安地藏に限らぬ。是も印度で殿堂辟邪の爲に斯る物を諸種掛けると同理由なる上に、本邦では猿を去るの意に取て婚儀や遊女屋などで大に忌むと同時に、まさる(滋殖)の義に比べて農家には大に敬愛し、猿舞しを持囃すは決して例の狙[やぶちゃん注:「さる」。]は馬を健にすの一事に止まらぬ。又和歌山などでは猿は山王の使物で甚だ出產の安い獸とて之を祀り、痘瘡の輕き物とて之を祭る所も有る。現に今日も紀州で女兒が立つて遊び出す時、第一に與ふる物は淡紅の布に古綿を詰めて作つた猿像で、三四五歲の間は他の玩具無くとも、必ず之を負ひ又懷いて遊ぶ。公事根源の「あかちこ」、伊勢守產所記等の「はふこ」又伽婢などの遺意で、詰り之を持つて遊ぶ子の罪禍を猿の像に負はせる事かと惟ふ。降つて彈き猿、幡猿、釣する猿、繫がり猿、水挽猿、米搗猿、桃核や蜜柑の猿(嬉遊笑覽六下)、猿の力持(守貞漫稿二十五)など、猿の翫具が多い。書紀に、「猿田彥大神、口尻明耀、眼如八咫鏡而赩然似赤酸醬、卽遣從神往問。時有八十萬神、皆不得目勝相問と有り、古事記を見るに此神比良夫貝を取らんとて手を貝に挾まれ溺死せし樣子、近頃迄熊野の僻地で猿が海邊に群至して蟹や貝に手を挾まれて泣くを目擊せる老人多かりしに參すれば、猿田彥大神は大なる猿で、その赩面炯眼よく一切の邪禍を壓倒擊退すと信ぜられたなるべし。甲子夜話卅に、著者靜山侯が備中で薩侯の息女江戶上りに行遇ひたるに、其調度の長櫃幾箇も持行く内飾り著けたる有り、竹を立てた上に又橫に結び絲を張り小さき鼓又括り猿などを下げ、竹の末三所には紅白の紙を截懸け長く垂れたる事神幣の如し、或は紅の吹貫小旗など結び附けたるも有り、華やかなりしと出づ。是はアラビア人が女子を駱駝に乘せて移す時の駱駝の飾りに似た事で、括り猿も旗幟も主として邪視を避ける本意に出た事だ。   (大正四年鄕硏三卷九號)

[やぶちゃん注:「選集」は標題の添え辞が改行下方インデント二行で『平瀬麦雨「背守のこと、および子供と猿」参照』『(『郷土研究』三巻八号四六八頁)』とある。

「中古男子の烏帽子」(えぼし)「や女房の頭に付けた物忌」本邦に於いて、上古より、公事・神事に先立って、一定期間、飲食・言行などを慎んで(特定の禁忌行為を行わない)、心身を清めることを指す「物忌み」があり、これは日常的に頻繁に行われた。宮中にあっては、「物忌み」であることを周囲に示すために、柳の木札や紙に、「物忌」と書いた物を、冠や烏帽子や衣服、居室の簾などに附けた。例えば、「枕草子」の「說經の講師は顏よき。……」に、

   *

烏帽子(えぼうし)に物忌(ものいみ)つけたるは、『さるべき日なれど、功德のかたには障(さは)らずと見えんむ』とにや。

   *

清少納言の、かの毒を含んだ評で、「烏帽子に物忌の札をつけているのは、わざと、『今日は物忌みに籠っておるべき日であるが、善根を積むためには構わぬのであるとこれみよがしに人に見せつけよう』というつもりなのかしら?」の意で、また、女房のケースでは、「節(せち)は、五月にしく月はなし。……」に、

   *

御節供(おほむせく)まゐり。若き人々、菖蒲の腰插(こしざし)、物忌(ものいみ)つけなどして、さまざまの唐衣(からぎぬ)・汗衫(かざみ)などに、をかしき折り枝ども、長き根に村濃(むらご)の組(くみ)してむすびつけたるなど、めづらしういふべきことならねど、いとをかし。

   *

とある。「御節供まゐり」は一語で名詞。節句の供えの御膳(おもの)を御前にお運び申し上げること。服装も特別でかなり雅やかなものであったという。「菖蒲の腰插(こしざし)、物忌(ものいみ)つけ」『新潮社日本古典集成』の「枕草子 上」(昭和五二(一九七七)年刊・萩谷朴校注)の頭注によれば、「延喜式」に「菖蒲珮(しょうぶのおもの)」とあり、『菖蒲の蔵人』(くろうど)『といって、若い女蔵人が腰に勝負の薬玉を佩(お)び、頭に菖蒲の蘰(かずら)[やぶちゃん注:髪飾り。]をつけた』。ここでは、そ『の菖蒲珮を「腰插」、菖蒲蘰を「物忌(ものいみ)」と記したのである』とある。則ち、この場合の「物忌み」は晴れの神事の非日常の潔斎のシンボルということになる。「唐衣・汗衫」成人女官の正装が前者、後者は童女のそれで衵(あこめ:女子の中着(なかぎ)。表着(うわぎ)と単(ひとえ)との間に着用した物)や打衣(うちぎぬ:表着の下、重ねの袿(うちき)の上に着用した物。貴族の女性の正装の際の着用着で、地質は平絹又は綾で、色は紅が多い)の上に着た正装着。「汗衫」の音「かんさん」の音変化したもの。平安以降、後宮に奉仕する童女が表着の上に着た。脇が空き、裾を長く引く。この服装の時には同時に濃(こき)の袴に表袴(うえのはかま)を重ねて穿いた。「晴」(はれ)の他に「褻」(け)の着装があり、着方が異なった。「をかしき折り枝ども、長き根に村濃(むらご)の組(くみ)して」季節の花の咲くついた枝などを、菖蒲の長い根に、濃淡を交互に染めつけた組み紐で結び附けて。

「背縫」(せぬひ)は、通常は衣服を背筋の所で縫い合わせること、またその縫目の所を指すが、嘗つては、その縫い目に魔除けの力があると信じられ、背後から忍び寄る魔を防ぐ力があると考えられていた。しかし、赤子の着る産着は、非常に小さく背縫いがなかったため、子どもに魔が寄りつかぬように背縫いの代わりとなる魔除けのお守りをを縫い附けた。「背守り」とも言う。始まりは定かではないが、鎌倉時代に成立した絵巻「春日権現験記」には、すでに背守りを縫い附けた着物を着ている子供が描かれてあり、かなり古い風習であることが判る。参照した「和樂web」のマキタミク氏の『魔除けの刺繍「背守り」とは?意味やデザインの種類、歴史を解説!』に多様なそれが写真で載っているので、是非、見られたい。

「守り縫」サイト「ワゴコロ」の「【背守り】子供を守る魔除けの刺繍!歴史や模様、作り方などを紹介!」(こちらも多数の写真が載る)に『基本の「守縫」』として、『背中の中心に沿って縦と斜めに縫い目をつけたシンプルな背守りで、「守縫もりぬい」「糸じるし」などと呼ばれています』。『男女による区別があり、男児は縦に』七『針と、襟下から右斜め下に』五『針縫い目を付け、女児は縦に』七『針と、襟下から左斜め下に』五『針縫い目を付けます』。『針目の数は』一年十二ヶ月『にあやかり、合計が』十二『針となるよう縦』七『針と斜め』五『針、または縦』九『針と斜め』三『針と決まって』おり、また、『糸の色は、赤、紅白、五色(赤・青・黄・黒・白)などさまざまで』、『また、縫い目をつけ終えたら』、『糸をそのまま長く垂らして』あるのが『特徴で、これには「子供が危険な目に遭いそうになった時、天の神様がその糸を引っ張って子供を引き上げてくれる」という意味が込められています』。『子供を神様に助けてもらいたいと願う、親の気持ちが込められた、呪術的な初期の背守りです』とあった。

「背紋」同前のページに、『手芸としての「背紋飾り」』に、『時代がたつにつれ、背守りは凝った図案の刺繍が施される手芸作品となっていきました』。『これを「守縫」と区別して、「背紋(せもん)」または「背紋飾り」と呼んでいましたが、現在では背守りというと、この背紋・背紋飾りのことを指します』。『図案となるモチーフは、昔からある縁起の良い吉祥文様が使われることが多く』、『図案集』も『販売されていました』とある。

「視害(印度語ナザール)や邪視(英語イヴル、アイ)を避ける本義に出た由を、明治四十二年五月の東京人類學會雜誌に書いて置いた」「選集」では「印度語」は『ヒンズー語』となっている。以上は先行電子化した「小兒と魔除」(リンク先はPDF一括版。ブログ版はカテゴリ「南方熊楠」で六回分割で載せた。なお、この論考の初出原題は「出口君の『小兒と魔除』を讀む」で「J-Stage」のこちらPDF)で初出原本が見られる)。

「庚申」庚申信仰。或いはその信仰対象たる庚申塔(庚申塚)や、その信仰形態である庚申講などを指す。

「淡島」淡島信仰。和歌山市加太(かだ)に鎮座する淡島神社の祭神に関わる信仰。祭神は住吉大神の妃神(きさきがみ)で、婦人病のため、当地に流されたと伝えられるが、それは住吉大社の御厨(みくりや)があったことによる付会である。婦人病・縁結び・安産・海上安全などの信仰を集めるが、婦人病の信仰が顕著であり、子の安全を祈ることと強い親和性がある。戦国末期天文二一(一五五二)年跋のある説話「塵塚物語」(全六巻。作者は明らかではないが、序に藤原某とあり、また、巻一の冒頭の「前飛鳥井(さきのあすかゐ)老翁、一日、語られていはく」とあるので、藤原氏のある公家の手になるものと考えられる。上梓は永禄一二(一五六九)年の序があるので、その頃か。内容は「宇治拾遺物語」に似た体裁をとり、主として鎌倉から室町時代に及ぶ故事・見聞・逸話など六十五編が収められてある。特に室町末期の公家・武家の風俗や、動向・信仰に関するものが多く、史料的にも価値がある)によって、当初の縁起や、この信仰を説いて回る半僧半俗の者の存在が知られる。これらの活動により、ほぼ全国に淡島神社が祀られたと考えられるが、岩手県では性神信仰と結びつくなど、各地で種々の信仰や伝承を伝える例もある。祈願のために雛人形などを奉納したことが「紀伊続風土記」(幕末の紀伊藩の地誌。本編九十七巻、付録に古文書と神社が十七巻、高野山が六十巻、高野山総分方(附属寺社等の地誌)二十一巻、聖方(高野山中核部の地誌)からなる。文化三(一八〇六)年に幕府の命を受け、紀伊藩は儒者仁井田好古(にいだこうこ)を編纂主任に任命して編纂を始め、一時中断の後、天保一〇(一八三九)年に仁井田が序文を書いた。各郡の総論に続いて、古郷名・村名・田畑総数などを挙げ、ついで各荘名毎に当時の凡ての村々の村高・戸数・沿革・旧家などに至るまで編述する)に見えるが、現在も雛人形や身の回りの物品を納める風習が残っている(「塵塚物語「紀伊続風土記」の解説も含め、概ね小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「藥師」東方の浄瑠璃世界の主宰で、除病安楽・息災離苦など十二の誓願を起こし、生ある凡てのものを救うとされる薬師如来への信仰。天武天皇九(六八〇)年頃から盛んになった。

「持囃す」「もてはやす」。

「例の狙」(さる)「は馬を健」(すこやか)「にすの一事」厩猿(まやざる)信仰。「和漢三才圖會卷第三十七 畜類 馬(むま) (ウマ)」の「猿猴〔(えんこう)〕を厩〔(むまや)〕に繫〔げば〕、馬の病ひを辟〔(さ)〕く」」の私の注を参照されたい。また、『柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(30) 「猿舞由緖」(2)』も参考になるはずである。

「山王」「さんわう」。山王権現(さんのうごんげん)。滋賀県大津市坂本にある日吉大社の祭神。最澄が中国の天台山国清寺の山王祠に象って、比叡山の守護神として山王祠を建立したことから起こったもの。本地垂迹説によって大山咋神(おおやまくいのかみ)を祭神とし、二十一社から成る。猿を神の使者とする信仰があり、山王祭・日吉祭などの祭礼も、近世までは陰暦四月の中の申の日に行なわれた(小学館「日本国語大辞典」に拠った。)

「今日も紀州で女兒が立つて遊び出す時、第一に與ふる物は淡紅の布に古綿を詰めて作つた猿像で、三四五歲の間は他の玩具無くとも、必ず之を負ひ又懷」(いだ)「いて遊ぶ」いろいろなフレーズの組み合わせで調べたが、和歌山での、この習慣は、ネット上では見出せなかった。現存していることを御存じの方は、御教授願いたい。なお、後の『「はふこ」又伽婢子』の引用の「☞」部を参照されたい。

「公事根源」「公事根源」(くじこんげん)は「公事根源抄」とも呼び、朝廷の年中行事を 十二ヶ月に分けて、それぞれの由来を解説した書。一条兼良撰。応永二九(一四二二)年成立。現存しない行事や、これを通しての民俗信仰を窺い得る好史料とされる。「あかちこ」は恐らく「六月」の頭にある「御贖物(ミアガモノ)」に出る「あがちこ」であろう。関根正直校注の「公事根源新釋」下巻(明治三六(一九〇三)年六合館刊)のここで、関根氏は注釈して、『「贖物」は、実の禍を祓ふ料』(れう)『の物なれば然』)しか)『いふ。「あかちご」は贖物を持參女子をいふ。年中行事秘抄に御巫(みかんこ)東宮年中行事には「畧してみかんとある是なり』とある。当初、巫女の袴の色から「赤稚兒」かと思ったが、「贖巫女(あがかんなぎ)」の縮約のようである。

「伊勢守產所記」室町中期から戦国時代にかけての幕臣で故実家でもあった伊勢貞陸(さだみち 寛正四(一四六三)年~永正一八(一五二一)年)の著「產所之記」であろう。

『「はふこ」又伽婢子』(とぎばうこ)は、元は「這子」(はふこ(ほうこ))。小学館「日本大百科全書」の斎藤良輔氏の解説がここに相応しい。『這(は)う子にかたどった布製の信仰的人形。婢子とも書く。白絹の縫いぐるみで絹糸の黒髪をつけ、金紙で束ねてあり、平安朝時代の官女に似た顔だちをしている。当時』、『貴族階級の間で、幼児の守りとして天児(あまがつ)という人形を枕頭(ちんとう)に置き、幼児にふりかかる災厄を、それに身代りさせることが行われたが、この天児と同じ意味で使用された。伽(とぎ)這子、御伽ともいった。室町時代には這子のことも天児とよんだ。これがしだいに変化して、天児と這子を男女一対の人形とする立ち雛(びな)形式が生まれ、雛人形の根元となった。江戸時代に入ると』、『貴族階級の天児に対して、庶民の間では同じく這子を幼児の祓(はらい)の具として用いるようになり、犬張り子なども添えて置き、雛祭には雛段に飾った。幼児の髪置(』三『歳)の宮参りにこれを持って行くこともあったが、江戸中期には天児(男)と這子(女)とを対(つい)の物として扱い、嫁入りにも持参した。家庭で婦人の手細工としてつくられた。また』、『頭だけ』を『人形屋で求めてきて、衣装は裁縫の初歩用に嫁たちが』作ったりした(☞)。『これがさらに玩具』『化されたものに猿子(さるこ)がある。桃色の木綿布でつくった人形で、中に綿を詰めて仕上げたもの。負い猿、お猿さんなどともよばれ、幼女の遊び相手にされた』(明らかに先の熊楠が言っている内容に完全に合致する)。『現在』、『岐阜県高山市産の郷土玩具「猿ぼぼ」などに名残』『をとどめている。また這子から転化した郷土玩具には、香川県高松市産の「ほうこさん」、鳥取県倉吉(くらよし)市産の「はこた人形」などがある』とある。

「遺意」「いい」。習俗の名残。

「詰り」「つまり」。「所謂」の意。

「之を持つて遊ぶ子の罪禍を猿の像に負はせる」則ち、熊楠は、この玩具はお守りというよりも、児童が受けるべき災厄の身代わりとなる呪的な形代(かたしろ)が原形であると断じていることになる。

「惟ふ」「おもふ」。

「降つて」「くだつて」。

「彈き猿」「はじきざる」。前掲辞書の同じ斎藤良輔氏の記載。『棒に紅布製の括(くく)り猿を抱きつかせ、下から竹ばねをはじいて』、『猿を昇り降りさせる玩具』。『猿弾きともいう。江戸時代の明和』(一七六四年~一七七二年)『の末に出現した幟猿(のぼりざる)(五月節供の外飾りにつける猿)の着想から生まれた。江戸中期以後、外飾り幟が室内飾りに転移し、幟猿が』次第に『衰退したのに』代わって『流行した。ことに「はじきざる」の語呂(ごろ)が、災いを「弾き去る」という俗信に結び付き、縁起物として迎えられた』。『かつては郷土玩具として全国各地にみられたが、その多くがすでに姿を消している。現在では、宮城県気仙沼』『市唐桑(からくわ)町御崎(おさき)神社の祭礼』(一月十四日~十五日)『に売られる唐桑の弾き猿、東京都葛飾』『区柴又帝釈天』『の弾き猿、三重県松阪(まつさか)市の厄除』『け観音岡寺山(おかでらさん)継松寺で、旧暦初午』『の日』(三月中旬)『に露店で売られる松阪の猿弾きなどが代表的である』とある。なお、これ以下が、後に示される「嬉遊笑覽」(国学者喜多村信節(のぶよ 天明三(一七八三)年~安政三(一八五六)年)の代表作で、諸書から江戸の風俗習慣や歌舞音曲などを中心に社会全般の記事を集めて二十八項目に分類叙述した十二巻・付録一巻からなる随筆。文政一三(一八三〇)年成立)の「卷之六 下」所収のものである。国立国会図書館デジタルコレクションの「嬉遊笑覧 下」(成光館出版部昭和七(一九三二)年刊行)のここからである。以下もそちらをまず見られたい。

「繫がり猿」小型の猿人形が手を繋いで連なったものであろう。ネットに画像はないが、想像は出来る。欲しい。

「水挽猿」「みづひきさる」。小学館「日本国語大辞典」に「うすひきさる」(「臼挽猿」)があり、『人形の猿の下に車をつけ、水』(☜)『の吹き出す力によって水車が回転し、これにつれて猿が臼を引く仕掛けのおもちゃ』とある。以下の「米搗猿」(こめつきさる)も同じようなものと思われる。「嬉遊笑覧」の記載も同様である。

「桃核」(もものたね)「嬉遊笑覧」によれば、売り物ではなく、個人が手すさびに桃の種を彫琢して作った猿像とある。

「蜜柑の猿」同前で、『是今も柑瓤(ミカンノフクロ)を髮毛にて括りて猴に作るなり』とある。一寸、想像出来ないのだが。

「猿の力持(守貞漫稿二十五)」同書は「守貞謾稿」とも書く。江戸時代後期の三都(京都・大坂・江戸)の風俗・事物を説明した類書(百科事典)。著者は喜田川守貞(本名は北川庄兵衛。浪華生まれの商人)。起稿は天保八(一八三七)年で、実に約三十年の間、書き続けて全三十五巻(「前集」三十巻・「後集」五巻)を成した。刊行はされず、稿本のまま残されたが、明治になってから翻刻された。千六百点にも及ぶ付図と詳細な解説によって近世風俗史の基本文献と見做されている。私は別名の「近世風俗志」の岩波文庫で所持するが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで当該部「猿の力持蝙蝠」が視認出来るが、その僅かな記載から、守貞自身、いかなる形状の玩具であるか判らなかったようである。

『書紀に、「猿田彥大神、口尻明耀、……」底本では、「猿田彥大神、口尻明耀、眼如八咫鏡而赩然」以下の「似赤酸醬、卽遣從神往問。時有」までない。猿田彦の神が降臨した天孫を迎え奉るシークエンスである。訓読する。

   *

猿田彥大神(さるたひこのおほかみ)、口、尻(かく)れ、明(あ)かり耀(て)れり、眼(まなこ)は八咫(やた)の鏡のごとくして、赩然(てりかがや)けること、赤酸醬(かがち)に似たり。八十萬(やをよづる)の神、皆、目勝(まが)ちて相ひ問ふことを得ず。

   *

「赤酸醬」ホオヅキの熟して赤くなった実。「目勝ちて」目が眩(くら)んで。

「古事記を見るに此神比良夫貝を取らんとて手を貝に挾まれ溺死せし」原文は以下。

   *

故其猿田毘古神、坐阿邪訶時、爲漁而、於比良夫貝其手見咋合而、沈溺海鹽。故其沈居底之時名、謂底度久御魂、其海水之都夫多都時名、謂都夫多都御魂。

   *

角川文庫の武田祐吉訳注版を参考に訓読する。

   *

故(かれ)、其の猿田毘古神(さるたひこのかみ)、阿邪訶(あざか)に坐(ま)しし時、漁(すなど)り爲(し)て、比良夫貝(ひらぶがひ)に其の手を咋(く)ひ合(あ)はさえて、海鹽(うしほ)に沈み、溺れたまひき。故、其の底に沈み居(ゐ)たまふ時の名を、「底(そこ)どく御魂(みたま)」と謂ひ、其の海水のつぶたつ時の名を、「つぶたつ御魂」と謂ふ。

   *

「阿邪訶」地名。三重県松阪市に小阿坂町と大阿坂町があり、孰れにも阿射加(あざか)神社がある。ここ(北が大阿坂町、が小阿坂町)。「比良夫貝」斧足綱翼形亜綱イタヤガイ目イタヤガイ上科イタヤガイ亜科ツキヒガイ属ツキヒガイ Amusium japonicum 説、タイラギ説があるが(日本産タイラギは、一九九六年、アイソザイム分析の結果、有鱗型と無鱗型と個体変異とされていたものが、全くの別種であることが明らかとなった。学名は現在も混迷中で早急な修正が迫られている。私の「大和本草卷之十四 水蟲 介類 タイラギ」の私の注を参照されたい)、まあ、後者の方が溺れ死にとは合うんだろうが(大真面目にこれをタイラギに断定している(その御仁はシャコガイ説を『お笑い』として一蹴しておられる)ページを見て、私は正直、タイラギの冤罪には微苦笑せざるを得なかった)、私は未だ嘗つてタイラギに手を挟まれて亡くなった人というのを知らないね。そんなことは太古でもあるまいと思う。しかも、かの天狗の原型ともされる国津神の猿田彦が、おめおめと貝に挟まれて死ぬはずがなかろうに。おう、或いは、……天孫の送り込んだ女の暗殺者で……「貝」だったのかもね……なお、瀬戸内海で潜水服でタイラギ漁をしていた漁師さんが亡くなったのは知っているが(一九九二年)、その事件の真相はサメに襲われたものと推定されているね。

「甲子夜話卅に、著者靜山侯が備中で薩侯の息女江戶上りに行遇ひたるに、……」事前にこちらで電子化注しておいたので、まず、そちらを読まれたい。

「旗幟」「はた・のぼり」。]

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