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2022/06/27

「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「ウジともサジとも」 / 「俗傳」パート~了

 

[やぶちゃん注:本論考は大正六(一九一五)年二月発行の『鄕土硏究』第四巻十一号に初出され、後の大正一五(一九二六)年五月に岡書院から刊行された単行本「南方隨筆」に収録された。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(ここ)で視認して用いた。また、所持する平凡社「選集」や、熊楠の当たった諸原本を参考に一部の誤字を訂した。表記のおかしな箇所も勝手に訂した。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 本篇は短いので、底本原文そのままに示し、後注で、読みを注した。そのため、本篇は必要性を認めないので、PDF版を成形しないこととした。

 さらに、本篇は「うじともさじとも」の語源として、不当に差別された旧被差別民「穢多」(えた)を語源説とする言及(誤り)があり、注で引いた南方熊楠の過去記事でも、現在は廃語とされている差別用語が出現する。そうした旧弊の差別意識に関しては批判的視点を忘れずに読まれたい。「ブリタニカ国際大百科事典」から、「穢多」の解説を引いておく(コンマは読点に代えた)。『封建時代の主要な賤民身分。語源はたかの餌取(えとり)という説があるが、つまびらかでない。南北朝時代頃から卑賤の意味をもつ穢多の字があてられるようになった。鎌倉、室町時代には寺社に隷属する手工業者、雑芸人らを、穢多、非人、河原者、散所(さんじょ)などと呼んだが、まだ明確な社会的身分としての規定はなく、戦国時代に一部は解放された。江戸時代に入り』、『封建的身分制度の確立とともに、没落した一部の住民をも加えて、士農工商の身分からも』、『はずされた』、『最低身分の一つとして法制的にも固定され、皮革業、治安警備、清掃、雑役などに職業を制限された。皮多、長吏、その他の地方的名称があったが、非人よりは上位におかれた。職業、住居、交際などにおいて一般庶民と差別され、宗門人別帳』『も別に作成された』。明治四(一八七一)年八月二十八日の『太政官布告で』、『その身分制は廃止され、形式的には解放されることになった。幕末には』二十八『万人を数えた』とある。

 なお、底本の「俗傳」パートは、この後に「葦を以て占ふこと」(前出同題の追記)があるが、これは既に『「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「葦を以て占ふこと」』にカップリングしてある。而してこれを以って底本の「俗傳」パートは終わっている。]

 

     ウジともサジとも

 

 と云ふことを、紀州邊で穢多を稱せしより起つた如く、傳說のまゝ記しおいたが(三卷一八八頁)、もとは唯「甲も乙も」と云ふ程の意で、南北朝の頃既に行はれた成語と見える。今より五百六十九年前の貞和四年のことを記した峯相記に曰く、欽明天皇御宇百濟より持戒の爲に惠辨惠聰二人渡り、守屋が父尾輿の連播磨國へ流しぬ云々。後には還俗せさせ、惠辨をば右次郞(うじらう)、惠聰をば左次郞(さじらう)と名付、又播磨國へ流し安田の野間に樓を造て籠置けり。每日食分には粟一合あてけり。然れども二人戒を破らじと、日中以後持來る日は少分の粟をも食せず、經論を誦しけり。守門者共口に經を誦し候と大臣に申しければ、是は我をのろふ也とて彌よ戒めけり。さらば向後物言はじとて無言す。右次左次(うじさじ)物言ずと云ふ事は是より初りけり下略。(大正六年鄕硏第四卷第十一號)

[やぶちゃん注:「ウジともサジとも」「と云ふことを、紀州邊で穢多を稱せしより起つた如く、傳說のまゝ記しおいたが(三卷一八八頁)」「選集」に『(『郷土研究』三巻三号一八八頁〔「紙上問答」答(七)〕)』とある。サイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(「南方熊楠全集」第三巻(雑誌論考Ⅰ)・一九七一年平凡社刊底本)から当該部を、原則。そのまま引用するが、傍線指示の部分はその指示を略して下線を施した。『?』は作成者のサイト主による表記不能字。

   *

七 いわゆる特殊部落の名称

  問。いわゆる特殊部落には、地方によっていろいろちがつた名称および風習があるようである。自分は久しくこの問題を調べておる。どうか諸君の近村に居住する彼らの名称、生業、その他特殊の事項をお知らせください。(沼田頼輔) (大正二年四月『郷土研究』一巻二号)

 和歌山市辺で旧えたを「よつ」と言った。四足《よつあし》の義とも、また彼輩は東京人と同じくの音を発しえずと言うから、四《し》の訓を取って「よつ」と呼ぶのだとも聞いた。 (大正二年五月『郷土研究』一巻三号)

 紀州田辺で喧嘩の仲裁などする時、「ウジともサジとも言わずに仲直れ」と言うが、何のこととも分からず。しかるに古老の伝えに、ウジもサジもえたの別称で、この言句の起りは、むかし別処のえた男と女がおのおの真人間と婚せんと志し、大阪に出てある商店に奉公を励んだ甲斐あって、年季満ちて夫婦になり店を出し、おのおの満足、家業繁昌、子まで儲けたのち、ある日夫が妻に向かい、?《なんじ》われに嫁して子までできたに国元から祝い状の一本も来ぬは不審だ、まさかウジでもあるまいにと言うと、妻ござんなれという顔つきで、御身もこの年ごろ郷里から手紙一つ著いたことない、サジでないかと疑念が断えなんだと打ち返し、双方相問い詰めて到頭えた同士の夫妻と判り、素性は争われぬもの、せっかく出世して志を達したと思うたが、やはりえたはえたと縁が定まっておる、この上はウジともサジとも言わずに天の定めた分際に安んじ、和楽して家業を励むのほかなし、と協議が調うたということだ。『風来六六部集』や『嬉遊笑覧』に見えた「一つ長屋の佐治兵衛殿、四国を巡って猴《さる》となるんの」という唄の佐治兵衛など、猟師また屠者が猴を多く殺した報いに猴となったということらしく、サジとは古くこの輩を呼んだので、佐治兵衛という戯名もこれから生じたのかと惟う。 (大正四年五月『郷土研究』三巻三号)

   *

『もとは唯「甲も乙も」と云ふ程の意で、南北朝の頃既に行はれた成語と見える』小学館「日本国語大辞典」では「うじさじ」を「右事左事・右次左次」とし、副詞で『あれやこれや。あれこれ。』の意とし、使用例を「玉塵抄」(漢籍の類書「韻府群玉」の講釈本。室町後期の永禄六(一五六三)年成立)の巻九の「吾は右事左事(ウじさじ)しらいで」を引くが、一方、同じ辞書の「うじさじ【右次左次】 物(もの)言(い)わず」の項を見ると、『甲とも乙とも言わない。あれこれ文句を言わない。転じて、全く口をきかない。』とあり、使用例を、「名語記」(鎌倉時代の辞書で経尊の著。増補本は文永一二・建治元(一二七五)年成立)の巻九の「うじさじ物もいはずなどいへる、如何。これは、右じ左じやらむと存せり。みぎせり、ひだりせりの心歟」を引いている。されば、「うじさじ」は南北朝ではなく、鎌倉後期には既に使われていたと考えないとおかしい。

「貞和四年」南北朝時代の北朝方が用いた年号。一三四八年。室町幕府将軍は足利尊氏。

「峯相記」(みねあひき)は「ほうそうき」「ぶしょうき」とも読む。作者は不明だが、貞和四(一三四八)年に播磨国の峯相山鶏足(ほうそうざんけいそく)寺(現在の兵庫県姫路市内にあったが、天正六(一五七八)年、中国攻めの羽柴秀吉に抵抗したため、全山焼き討ちに遇つて廃寺となった)に参詣した旅僧が同寺の僧から聞書したという形式で記述されている。中世(鎌倉末期から南北朝にかけて)の播磨国地誌となっており、同時期の社会を知る上で貴重な史料とされる。中でも柿色の帷子を着て、笠を被り、面を覆い、飛礫(つぶて)などの独特の武器を使用して奔放な活動をしたと描かれてある播磨国の悪党についての記述は有名である。兵庫県太子町の斑鳩寺に永正八(一五一一)年に写された最古の写本が残っている(平凡社「百科事典マイペディア」に拠った)。以下は「国文学研究資料館」の電子データの、ここから読める(左丁後ろ二行目末から次の丁まで。写本と思われるが、訓点と本文平字が混在するものだが、非常に読み易い)。

「欽明天皇御宇」宣化天皇四年十二月五日(五三九年十二月三十日)?~欽明天皇三十二年四月十五日( 五七一年五月二十四日)?。

「惠辨」「ゑべん」。

「惠聰」「ゑさう」。

「守屋が父尾輿の連」物部尾輿(もののべのおこし 生没年未詳)は古墳時代の豪族。安閑・欽明両天皇の頃の大連。中臣鎌子とともに廃仏を主張したことで知られる。

「安田の野間」兵庫県多可郡多可町の安田地区の内と思われる(グーグル・マップ・データ)。

「造て籠置けり」「つくりてこめおけり」。

「日中以後持來る日は少分の粟をも食せず」仏教徒は原則、食事は午前中に一度しか摂らない(それを「斎時(とき)」と呼ぶ。実際にはそれでは身が持たないので「非時」と称して午後も食事をした)。それをこの二人は見事に守ったのである。

「守門者共」「しゆもんしやども」。見張りの番人たち。

「彌よ」「いよいよ」。

「戒めけり」「いましめけり」。厳しく読経をさえも制限させたのである。以下、写本を見ると。守屋が「丁未の乱」(ていびのらん:用明天皇二(五八七)年七月)で。仏教の礼拝を巡って崇仏派の大臣蘇我馬子に守屋が殺された後は、再び剃髪、僧衣を許されたとある。]

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