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2022/06/20

「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「親の言葉に背く子の話」

 

[やぶちゃん注:本論考は大正七(一九一八)年一月発行の『人類學雜誌』第三十三巻第一号に初出され、後の大正一五(一九二六)年五月に岡書院から刊行された単行本「南方隨筆」に収録された。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(ここから)で視認して用いたが、「j-stage」のこちらで初出画像をダウン・ロードでき(PDF)、その他、初出も誤っている部分は平凡社「選集」も参考にした(それらで冒頭の初出誌の巻数の誤り(誤植か)や、鍵括弧の不全、漢字の誤字等を、複数、修正した。それは特に断っていない)。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 本篇は短いので、底本原文そのままに示し、後注で、読みを注した。そのため、本篇は必要性を認めないので、PDF版を成形しないこととした。]

 

     親の言葉に背く子の話

 

 明治四十一年七月二十三日の大阪每日新聞に、能登の一地方の傳說を載た。多分故角田浩々歌客の筆で、其後ち漫遊人國記とか云物にまとめて出された續き物の中に在たと記憶する。云く、梟は本と甚だ根性曲つた子で其母川へ往けと命ずれば山へ、山へ往けと言ば川へ往た。母臨終に吾死體を川端へ埋めよと遺言した。是は萬事親の言に反對する子故、斯く言置たら定て陸地へ埋め吳るだろと思ふてで有た。然るに子は母の死するを見て忽ち平生の不孝を悔い、生來始て母の詞に隨つて其尸を川端へ埋めた(熊楠謂ふ、此處に扨不孝の咎で其子終に梟と成たと有た筈)。其より雨降りさうな折每に、川水氾濫して母の尸を流し去りはせぬかと心配して梟が鳴くのだと。已上予が英譯しおいたのを復譯したのだから、多少原文と合ぬ所も有らうが、大意は失ひ居ぬ筈。右は支那で古く梟は不孝の鳥で成長の後ち其母を食ふと云のと、邦俗梟天晴る前に糊磨り置け、雨ふる前に糊取り置けと鳴くといふを取合せて作つたに相違無いが、不孝の子が親の死後悔て其尸を水邊に葬つたてふ一件は、今より凡そ一千一百年前唐の段成式が筆した酉陽雜俎續集卷四に見る次の話を作り替た者歟。云く、昆明池中に塚有り、俗に渾子と號す、相傳ふ昔し居民、子に渾子と名くる者有り、嘗て父の語に違ふ、若し東と云ば則ち西し、若し水と云ば則ち火を以てす、病で且に死せんとし陵屯處に葬られん事を欲す。矯り謂て曰く、我死なば水中に葬れ、死に及んで渾泣て曰く、我れ今日更に父の命に違ふ可らずと、遂に此に葬ると。盛弘之が荊州記に據るに云く、固城洱水に臨む、洱水の北岸に五女の墩有り、西漢の時に人有り、洱に葬る、墓將に水の爲に壞られんとす、其人五女有り、共に此墩を創めて以て其墓を防ぐ。又云く、一女陰縣の佷子に嫁す、子家貲萬金、少きより長ずるに及んで父の言に從はず、死に臨んで意山上に葬られんと欲す、子の從はざるを恐れて乃ち言ふ、必ず我を渚下磧上に葬れと、佷子が曰く、我れ由來父の敎を聽ず、今當に此一語に從ふべしと、遂に盡く家財を散じ、石塚を作り土を以て之を繞らし遂に一洲を成す、長さ數步、元康中に始て水の爲に壞られ、今石を餘して半榻を成す、數百枚計り、聚つて水中に在りと。

[やぶちゃん注:「明治四十一年」一九〇八年。

「角田浩々歌客」(かくだ こうこうかきゃく 明治二(一八六九)年~大正五(一九一六)年)は詩人・北欧文学者・文芸評論家で新聞記者。本名は角田勤一郎。大阪の論壇・文壇で重きを成し、世論形成に大きな力を持ち、東の坪内逍遙と並び称された。詳しくは当該ウィキを参照されたい。

「漫遊人國記」大正二(一九一三)年東亜堂書房刊の紀行随筆。国立国会図書館デジタルコレクションで原本を発見、当該部は「北陸」パートの「(一六)舟子の童話傳說」の一節。ここ(右ページ四行目下方から)。その男子が梟と変じたという叙述はないが、そのようには読める。

「予が英譯しおいた」本篇の第三段落参照。

「支那で古く梟は不孝の鳥で成長の後ち其母を食ふと云」(いふ)「のと、邦俗梟天晴」(はる「る前に糊」(のり)「磨り置け、雨ふる前に糊取り置けと鳴くといふ」孰れも私の「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鴞(ふくろふ) (フクロウ類)」を参照されたい。

「酉陽雜俎續集卷四に見る次の話」同巻は「貶誤」と標題する。「東洋文庫」の今村与志雄氏は意訳して『誤りをたどる』と添え辞されておられる。伝承の誤りを比較批評する章である。「中國哲學書電子化計劃」のこちらから影印本で当該部を視認出来る。

「昆明池」漢の武帝が長安城の西南に掘らせた人工の池。周囲四十里。この池で水軍を訓練したとされる。現存しない。

「渾子」「こんし」。

「且に」「まさに」。

「陵屯處」「りやうとんしよ」。今村氏は『小高い丘』と訳されておられる。

「矯り」「いつはり」。

「今日更に父の命に違」(たが)「ふ可」(べか)「らず」同前で『今日』(きょう)『だけは父の命令にさからえない』とある。

「盛弘之」(せいこうし)「が荊州記」盛弘之(生没年未詳)南朝の劉宋の臨川王の侍郎。同書は湖北地方の民俗誌で四三七年成立。なお、これ以下も「酉陽雑俎」の続きである。

に據るに云く、

「固城洱水」(じすい)今村氏の注に、し「水経注」の記載から『湖北省襄陽県西北』附近と推定され、「洱水」は恐らく沔水(べんすい)のことであろうとされる。

「五女の墩」五女墩(ごじょとん)。「選集」では「墩」に『どて』とルビする。堤(つつみ)。

「西漢」前漢。

「壞られん」「やぶられん」。

「創めて」「はじめて」。創(つく)って。

「陰縣」不詳。

「佷子」「こんし」。

「子家貲萬金」「し、かし、ばんきん」。今村氏の訳に『佷子の家は、巨万の財産があった』とある。

「少き」「わかき」。

「意山上」「意、山上に葬られんと欲す」で、「内心、山の上に葬られることを望んだ」の意。

「乃ち」「すなはち」。

「渚下磧上」「しよかせきじやう」。「渚(なぎさ)のところの砂州の上」の意。

「由來」今まで。

「繞らし」「めぐらし」。

「數步」「步」は距離単位。一歩は約一・八メートル。六掛けで十一メートル前後。

「元康中」二九一年~二九九年。

「石を餘して」その遺跡の石が残っており。

「半榻」「はんとう」。台の半分。以下の叙述から、元の大きさの半分の大きさの人口の石組が水中にあることであろう。

「枚」「個」に同じ。]

 以上の文を英譯して一九〇八年十一月二十一日のノーツ、エンド、キーリスに出し、和漢の外亦斯種の傳說ありやと問たが、答ふる者無く今に至つた。余も只今迄西漢外の例を一つも見出さぬが、近頃内田邦彥氏の南總俚俗を見るに此類の話二有り。其百四頁に云く、「天のじやくは意地惡の神樣也。神達人間を創造する際に其祕所を何處にせむ、胸にては惡し背にても良らず、目に立ぬ股間にこそと衆議一決しぬ、されどかの天のじやくは必ず人目に立つ額にと云なるべし。よしさらば法こそあれ迚、皆の決議は額にと成ぬと告たるに、果して意地わるの神は反對して股間にせむと言出せしかば皆の思ふが如くなりぬ」と。曾て外題不詳の零本百首に此の意の話を續き畫にしたるを見た。繪本に委しき宮武外骨氏說に、年代は寶曆頃畫者は北尾辰宣と鑑定すと。然らば、斯る傳說は其頃已に世に存したのだ。内田氏の著百六頁に、雨蛤[やぶちゃん注:「あまがへる」。]常に親の言を聽ず、右と云ば左し、山と云へば川と云ふ、母遺言す、我死せば屍を川邊に埋めよと。蓋し母の思ふに、斯云へば必ず山に埋るならんと、終に死たり、雨蛤、己れ今迄母に反きたり、此度許りは命に從はむとて母を川邊に埋めたり、されば雨の降むとする時は墳墓の流れもやするとて常に啼くと有て、好で人の言に反對する人を筑前にては山川さんといふと頭注し、筑前にも亦同じ童譚有り、彼地にては雨蛤を「ほとけびき」と云ふ、金澤市では雨蛤を山鳩に作り、テテツポツポ親が戀しと鳴くといふ。又雨蛤を蟬に作り、墓が見えぬ見えぬと鳴くともいふと有る。是にて此の類の話は廣く吾邦諸國に行れ居ると知る。

[やぶちゃん注:「以上の文を英譯して一九〇八年十一月二十一日のノーツ、エンド、キーリスに出し、和漢の外亦斯種の傳說ありやと問」(とふ)「た」‘Notes and Queries’(『ノーツ・アンド・クエリーズ』。「報告と質問」)は南方熊楠御用達の一八四九年にイギリスで創刊された読者投稿の応答に拠ってのみで構成された学術雑誌。熊楠の投稿記事は「Internet archive」で確認したが、どうもクレジットに誤りがあるようで、当該クレジットのそこには確かに熊楠の投稿があるものの、この内容ではなかった。

「内田邦彥氏の南總俚俗」既出既注だが、再掲しておくと、内田邦彦(明治一四(一八八一)年~昭和四二(一九六七)年)は千葉県長生郡二宮本郷村(現在の茂原市)の医家に生まれ、「真名(まんな)の医者どん」と呼ばれ、親しまれた。彼はこの「南總の俚俗」(これが正しい書名。大正四(一九一九)年桜雪書屋(おうせつしょおく)刊)や「津輕口碑集」(昭和四(一九二九)年)などで知られる民俗学者でもあった。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで原本が読める。当該箇所は、前者は「□天邪鬼」でここ、後者が「□雨がへる」で、ここ

「零本」一揃いの本の大半が欠けているもの。 端本(はほん) 。

「宮武外骨氏」(がいこつ 慶応三(一八六七)年~昭和三〇(一九五五)年)は文化史家でジャーナリスト。本名は外骨(とぼね)で「がいこつ」の読みはペン・ネームであるが、表記は実際の表記である。香川県出身。川柳・江戸風俗・明治文化などを研究した人物で、考現学の先駆者である。「東大明治新聞雑誌文庫」の初代主任も務めた。反権力的な文筆で、しばしば筆禍事件を起こした。収集マニアとしても有名であった。私の好きな作家である。

「寶曆」一七五一年から一七六四年まで。

「北尾辰宣」(生没年未詳)江戸中期の浮世絵師。大坂の周防町に住んだ。美人画に優れ、延享から安永(一七四四年~一七八一年)頃、多くの絵本や教訓書などの挿絵を描いた。

「斯云へば」「かくいへば」。

「好で」「このんで」。

「山川さん」「やまかはさん」。

「ほとけびき」「佛蟇」か。

「蟬に作り、墓が見えぬ見えぬと鳴く」この「蟬」はミンミンゼミか。]

 此序に言ふ、川底に死人を葬る事、吾邦で武田信玄の屍を石棺に容れて水中に沈めたと、飯田氏の野史か何かに在たと記憶する樣なれど確かならず。支那には河南の紅山在楡林縣北十里、環拱若屛、上皆紅石、落日返照、霞采爛然、山之兩崖、爲紅石峽、楡溪獐河、滙流其中、俗傳爲李主墓、昔李繼遷葬其祖彝昌、障水別流、鑿石爲穴、既塟復引水其上、疑卽此峽也(大淸一統志卷一四六)。一九〇九年五月十三日のネーチユール三一八頁に其頃クリーヴドン博物會でボブスコツト氏がジプシイの風俗等に就て演べた說を引て、此民族にも川を堰て他へ流し、其底に尸を埋めた後川を前通りに流れしむる事有たと載せ有た。西曆四一〇年ゴツト王アラリク死せし時、其臣下多數の俘囚をしてブセンチウス川の流れを他に向はしめ、其底に王の墓を營み埋め、流れを其上に復し、盡く從工俘囚を殺して永く其墓の所在を秘密ならしめたは讀史者の知り及んだ所で有る。

[やぶちゃん注:「此序に」「このついでに」。

「飯田氏の野史」幕末の徳山藩出身で後に有栖川宮に仕えた国学者・歴史家の飯田忠彦(寛政一〇(一七九九)年~万延元(一八六〇)年)の書いた、後小松天皇から仁孝天皇までの二十一代の帝の治世を紀伝体で記した歴史書「大日本野史」の略称。嘉永四(一八五一)年完成。全二百九十一巻。当該ウィキによれば、『徳川光圀による歴史書』「大日本史」が南北朝統一(明徳三(一三九二)年)をもって締めくくられていた『ため、飯田がその続編執筆を志し』、三十『年余りの月日をかけて完成さ』せた労作。『原本は漢文体で書かれている。後に飯田が』、「桜田門外の変」に『関与したとの容疑で逮捕されたことに抗議して自害したという事情もあって、原本は散逸して現存していないが、完成後に飯田が人に乞われて印刷に付されたものを元に』明治一四(一八八一)年に『遺族の手で刊行された』。『戦国武将や大名などの列伝が充実している。特に江戸幕府への配慮を必要とした江戸時代の部分よりも』、『室町時代の記事の方が優れているといわれており』、「応仁の乱」から『封建制の再構築の過程の執筆に力が入っている。しかし、信頼性を欠くとされる史料を引いていること』『や、飯田個人による執筆であるため、史料的な制約は免れず』、史家からは『正確さにやや欠けると指摘されている』とある。熊楠は「か何かに在たと記憶する樣なれど確かならず」と言っているので、探すのはやめた。

「支那には河南紅山在楡林縣北十里、……」引用元の「大淸一統志」は清代に政府事業として編集された地理書。全領土の自然と人文地理を、行政区画別に記述し、終わりに朝貢各国として殆んど全世界のことを付説してある。三度作られ、第一版は一七四三年に完成、第二版は一七六四年から二十年をかけて作られた。第三版は一八四二年に完成したが、内容は一八二〇年で終わっているため「嘉慶重修一統志」と呼び、これは全五百六十巻で、最も体裁が整い、内容も充実している。少し異なるが(より詳しい)、信頼出来るその第三版の影印本の当該部が「中國哲學書電子化計劃」のこちらで視認出来る(三行目の「紅山」)。訓読を試みる。

   *

環拱若屛、上皆紅石、落日返照、霞采爛然、山之兩崖、爲紅石峽、楡溪獐河、滙流其中、俗傳爲李主墓、昔李繼遷葬其祖彝昌、獐水別流、鑿石爲穴、既塟復引水其上、疑卽此峽也(卷一四六)。

   *

 河南の紅山(こうざん)は楡林(ゆりん)縣の北十里に在り。環拱(かんきよう)[やぶちゃん注:取り巻いて守ること。]すること、屏(びやう)のごとく、上は、皆、紅石(こうせき)にして、落日の返照(はんしやう)、霞(か)[やぶちゃん注:朝やけと夕やけ。]の采(いろど)り、爛然たり。山の兩崖、「紅石峽」と爲(な)し、「楡溪(ゆけい)」・「獐河(しやうが)」、滙(あつ)まりて其の中を流る。俗傳に「李主の墓」と爲す。昔、李繼、其の祖彝昌(いしやう)を遷(うつ)し葬(はうふ)らんとして、水を障(さえぎ)りて流れを別にし、石を鑿(うが)ちて穴を爲(つく)れり。既に塟(はうふ)[やぶちゃん注:「葬」の異体字。]りて、復た、其の上に、水を引く。疑ふらくは、卽ち、此の峽ならん。

   *

場所は河南省焦作市修武県にある紅石峡(グーグル・マップ・データ。以下同じ)か。よく判らぬ。「李繼、其の祖彝昌」は信頼出来る論文から、タングートの首長李元昊が現在の中国西北部(寧夏回族自治区)に建国した王朝西夏(一〇三八年~一二二七年)の王族の嫡流である。

「一九〇九年五月十三日のネーチユール三一八頁」『ネイチャー』(Nature:一八六九年(明治二年相当)にイギリスで、太陽観測で知られる天文学者ジョセフ・ノーマン・ロッキャー(Joseph Norman Lockyer 一八三六年~一九二〇年)によって創刊された自然科学雑誌。創刊当時から現在に至るまで、世界で最も権威のある自然科学雑誌の一つである。当該部は「Internet archive」のここ

「堰て」「せいて」或いは「せきて」或いは「せきとめて」。

「ゴツト王アラリク」西ゴート族の最初の王アラリックⅠ世(三七〇或いは三七五年~四一〇年/在位:三九五年~四一〇年)。当該ウィキによれば、その名は彼が成した四一〇年の「ローマ略奪」で最も知られ、西ローマ帝国の衰退を決定づける事件であった、とある。また、この「ローマ略奪」の『後、アラリックはカラブリア』(現在のイタリア南部)『へと南下していった。アラリックはアフリカ属州』と『イタリアを掌中に収めるための要石としてみなし、かの土地を征服しようとした。しかし、嵐がアラリックの艦隊を襲い、船舶もろとも多くの兵士を奪い取った』。『まもなくアラリックは、恐らくは熱病と思われる病に倒れ』、イタリアの『コゼンツァに没した』。『アラリックの軍勢は、彼らの王を讃えて特別な墓を築いて埋葬した。その埋葬地はブゼント川とクラーティ川の合流点』(ここ)『であったと伝えられている。ブゼント川の水を迂回させ、アラリックを征服地から集めた財宝のすべてとともに納めるのに十分な大きさの墓穴を掘る工事には、多くの奴隷が動員された。墓が完成すると、川の水は本来の流路に戻され、墓は水底に眠ることとなった。そして、墓の場所の秘密を守るために、奴隷たちはみな殺害されたという』とある。

「ブセンチウス川」Bucentius。ブゼント川のラテン名。英文ウィキの‘Busento’参照。]

追 記

右書き終りてトマス、テーラー英譯パウサニアスの希臘廻覽記(西曆二世紀の著)六卷十八章を見るに、歷山王[やぶちゃん注:「アレクサンドルスわう」。アレキサンダー大王。]ラムプサクス城を攻し時、城中の民歷山王の舊知アナキシメネスを王に使はし降を請はしむ。王其意を察し、アが城民の爲に來り請ふ所の者は悉く反對に實行せんと誓ふ。ア之を知り、王に見えてラ城を全壞し其神廟を燒盡し其兒女を奴隷とせよと請ひければ、王今更誓言を渝る能はず、全くアの請に反しラ城を保全しその民を安んぜしと云ふの此譚、本話と同類異趣な所が面白い。   (大正七年一月人類第三十三卷)

[やぶちゃん注:「トマス、テーラー英譯パウサニアスの希臘廻覽記」イギリスの翻訳家で新プラトン主義者にしてアリストテレスとプラトンの全作品を最初に英訳したトーマス・テイラー(Thomas Taylor 一七五八年~一八三五年)の ‘Pausanias's Description of Greece’(「パウサニアスによるギリシャの案内記」:一七九四年初版・一八二四年二版)。パウサニアス(一一五年頃~一八〇年頃)はギリシアの旅行家で地理学者。この本は当時のギリシアの地誌・歴史・神話伝承・モニュメントなどについて知る貴重な手掛かりとされている書である。

「ラムプサクス城」(ラテン文字転写:Lampsakos)小アジアのヘレスポントス(現在のチャナッカレ)海峡沿岸にあった古代ギリシアの植民市(アポイキア)。良港に恵まれ、富裕で、「デロス同盟」の一員として多額の貢納金を納めていた。アテネの衰退とともにアケメネス朝ペルシアの支配下に入ったが、起源前四世紀には自治を行い、その繁栄はローマ帝政期に至まで続いた。ワインの産地としても名高かった。

「降」降伏。

「アナキシメネス」不詳。

「見えて」「まみえて」。

「渝る」「かふる」。]

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