フライング単発 甲子夜話卷之三十二 9 河太郞幷圖
[やぶちゃん注:以下、現在、電子化注作業中の南方熊楠「河童の藥方」の注に副次的に必要となったため、急遽、電子化する。急いでいるので、注はごく一部にするために、特異的に《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを挿入し、一部、句読点や記号を変更・追加し、段落も成形した。図は加工底本としている平凡社「東洋文庫」のものをトリミング補正して適切と思われる位置に挿入した。]
32―9 河太郞幷圖
對州《たいしう》には河太郞あり。浪よけの石塘《いしども》に集り、群《むれ》をなす。龜の石上に出《いで》て甲を曝《さらす》が如し。その長《たけ》二尺餘にして、人に似たり。老少ありて、白髮もあり。髮を被《かぶ》りたるも、又、逆に天を衝《つ》くも、種々、ありとぞ。人を見れば、皆、海に沒す。常に人につくこと、狐の人につくと同じ。國人の患《わづらひ》をなすと云。又、予、若年の頃、東都にて捕へたると云《いふ》圖を見たり。左にしるす。
これは享保中、本所須奈村の芦葦《ろゐ/あし》の中、沼田の間に子をそだてゐしを、村夫、見つけて、追出し、その子を捕《とらへ》たるの圖なり。太田澄元《ちやうげん》と云へる本草家の父岩永玄浩《げんこう》が鑑定せし所にして、
「水虎なり。」
と云。
又、本所、御材木倉《おざいもくぐら》取建《とりたて》のとき、芦藪を刈拂しに狩出して獲たりと云【「餘錄」。】。
■やぶちゃんの呟き
「對州」対馬。
「石塘《いしども》」加藤清正が熊本の井芹(いせり)川を高橋方面に向ける治水事業を行った際に分流のために築いた堤の名称の読みを用いた。ここは石を積み敷いた防波堤。
「天を衝《つ》く」「天」は「あたま」或いは「かしら」と当て読みしているかも知れない。要するに、尖って頭髪がない頭を言う。この辺り、何らかの海産哺乳類、アシカやアザラシのように感じられる。
「つく」「憑く」。河童が人に憑依するというのは、東日本ではあまり聴かないが、九州ではポピュラーである。「和樂web」の鳩氏の記事「河童とはどんな妖怪?伝説と正体を調べてみた!」の『九州の「河童憑(かっぱつき)」』に、『九州地方には古くから「河童は人間に取り憑く」という言い伝えがあります』。『例えば、熊本県では河童が若い女性に取り憑く言い伝えがあり』、『「河童が棲む水辺ではふしだらな様を見せないように」と戒められ、河童に取り憑かれると、甘ったるい声で言い寄るようになると言われていました』。『また、大分県では河童は少女を狙って取り憑き、一度取り憑かれてしまうと、心身ともに消耗し』、『記憶喪失のようになり』、『ふらふら行動するようになってしまうと言われています。同じように長崎県でも、河童に取り憑かれると譫言(うわごと)を喋り』、『食事も取らなくなると伝えられてきました』とある。
「享保中」一七一六年から一七三六年まで。
「本所須奈村」サイト「長崎県の河童伝説」の本篇の紹介記事「対州の河太郎」の注に、『須奈村について、河童村村議会の河童に、お尋ねしましたところ、以下の回答を得ました』として、『江東区に亨保年間以前から砂村新田という地名が有りました』(現在の『江東区砂町、北砂町)』。『この村は新田という名前からも開拓地であり、砂村新四郎と言う人が開拓したことから砂村新田という名前が付いたという説と、砂地で有ったので砂村と言う説の二説あります』。『しかし、須奈村では無くて砂村です』。『音をあわせて須奈村と書き記したのではないでしょうか』とあった。この附近(グーグル・マップ・データ)。
「太田澄元」(享保六(一七二一)年~寛政七(一七九五)年)は江戸出身の本草家。実父岩永玄浩に学び、後に幕府奥医師多紀氏の医学館「躋寿(せいじゅ)館」で教えた。その講義の筆記録「神農本経紀聞」があり、他に「本草綱目示蒙」「救荒本草臆断」などの著作がある。
「岩永玄浩」(生没年未詳)は本草家で医師。松岡恕庵に学んだ。享保一九(一七三四)年頃、和人参の栽培を試みている。元文元(一七三六)年には「詩経」等に記載されている動植物名を考察した「名物訳録」を編集している。名は「元浩」とも書く。
「本所、御材木倉」御竹蔵の前身。後に猿江御材木蔵へ移った。
「取建」建造すること。
「餘錄」「感恩斎校書餘錄」で「感恩斎」は松浦静山の別号。一種の手控えの随筆か。
« フライング単発 甲子夜話卷之十 19 室賀氏の中間、河童に引かれし事 | トップページ | フライング単発 甲子夜話卷之六十五 5 福太郞の圖 »