「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「孝行坂の話」
[やぶちゃん注:本論考は大正四(一九一五)年七月発行の『鄕土硏究』三巻第五号に初出され、後の大正一五(一九二六)年五月に岡書院から刊行された単行本「南方隨筆」に収録された。
底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(ここから)で視認して用いた。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。
本篇は短いので、底本原文そのままに示し、後注で、読みを注した。そのため、本篇は必要性を認めないので、PDF版を成形しないこととした。]
孝 行 坂 の 話
鄕土硏究二卷四七四―六頁に、越原君が大宮邊から來たらしい下婢より聞いたとて、孝女が奉公中朝夕其母に似せ作つた假面を拜した話を出されたが、不幸にも君は其話の後の方を忘れたさうで、結めが一向分つて居無い。予は君の彼文を讀むと直ぐ斯話の出處を憶出したが、其書が半年歷た今日(四月十八日)やっと手に入つた故、大意を抄記して寄書とする。
此話は湖東駒井光闡寺の僧南溟著續沙石集(寬保癸亥の自序有り延享元年京都板)卷四の第二章、孝行坂得名事と題した者で、四葉半に涉れる長譚たるに依て、出來る丈縮めて話の筋を演る。云く、丹後國に孝行坂と云ふ所有り、往古は隣村の名で呼んだ。其が孝行坂と成た譯は、昔し此坂の奧なる、小家に貧な母子有て、子は女で二十歲計り、自村で生活六かしい故、村人勸めて母一人は介抱しやるから汝は他へ奉公に出よと云ふ。因て坂を踰て三里離れた地の或大百姓方で一年程勤める中、朝夕針凾の蓋を開けて拜するを傍輩の女注意して見ると、けしかる女の面一つあり。主人之を聞き鬼の面を拵へ、密かに彼女の面と替置いた。其日の暮に女例の通り箱を開き鬼の面を見て吃驚し、强て主人に暇を乞ひ風呂敷持て自村へ還る。坂の峠で大男二人立出で其風呂敷を奪ひ見るに、假面の樣な物の外に何も無いから抛歸し、今夜は仕合せが惡い切て此女を連れ往き茶でも焚さうと云て引立行く。山奧の小家に五六人居る所へ入つて博奕する内、女は茶を焚て持運ぶ中にも在所の母は死で鬼に成た者か、我拜した母の面が鬼に化たと極て心配の餘り、風呂敷から鬼の面を出し、拜しては眺め又自分の顏に掛けなどす、賊輩又茶を持つて來いと喚ぶから氣付かずに件の面掛けた儘茶を運ぶと、一同肝を消し何か打捨て散々に遁去つた。女自分の掛居る鬼の面に氣が附かず不思議な事と思い居ると、老僧一人來て、汝在所へ歸りたくばわれ案内してやらうと云つて、賊が捨置いた金銀悉く風呂敷に包み是は汝の物だと云ふ。女誰の物やら分らぬを取るべき樣無しと云ふと、更に苦しく無い我是を汝に與ふとて女に持せ坂越る迄附添て去た。女其邊を顧ると頓かに見失うた。女里に歸つて母を訪ふと、夜中何事有つて歸たかと急ぎ戶を明け見れば娘で無くて鬼女だから母氣絕した。娘心得ず、こはいかにと騷ぐ内始て氣が付き、鬼の面を脫ぎ水を注いで母正氣附いた。扨母が何故夜中歸つて來たかとの問に娘答へて奉公に出てより每朝夕拜した母の面が突然鬼の面と化たので不祥が生じたと察し、暇貰ふて還る途中斯樣の難に遭うたと物語つて、金銀を母に渡す。母驚いて何角の歡びに一兩日休息せよとて里人を賴み主人へ告る。主人其は氣の毒な事をした、母の面が鬼と化たは全く余が摺替へたのだ。仔細も云ず暇を乞れたので其事を忘れ居た。何に致せ女の至孝を感じ天道が賊難を遁れしめた上財寶を賜ふたので、其老僧は化人だらうと主人頻りに感心し、直に母親に面會に往て其子の妻に彼娘を貰受け、里の母には下女一人添へて萬事不自由無く暮させたから、母も娘も夢の心地と思ふ程悅んだ。其から件の坂を誰言しむとも無く孝行坂と號けた事ぢや。
(大正四年鄕硏第三卷五號)
[やぶちゃん注:本電子化に先立ち、ここで熊楠が紹介した「續沙石集」の当該話を『「續沙石集」巻四「第二 孝行坂得名事」』としてブログで電子化しておいた。熊楠の読みにくい箇所は、その私の電子化を先に読めば、すんなり読めるはずであるので、まずは、そちらを読まれたい。されば、縮訳部の読みはここではつけない。
「越原君が大宮邊から來たらしい下婢より聞いたとて、孝女が奉公中朝夕其母に似せ作つた假面を拜した話を出された」「選集」の割注によれば、『塚原宮雄』氏の『松山鏡の話』という記事らしい。作者の事績は不詳。
「結め」「とじめ」。話の結末。
「彼文」「かのぶん」。
「斯話」「かのはなし」。
「憶出した」「おもひだした」。
「寄書」「よせがき」。
「湖東駒井光闡寺」寺名は「くわうせんじ(こうせんじ)」と読む。現在の滋賀県草津市新堂町(しんどうちょう)に現存する。ここ(グーグル・マップ・データ)。浄土真宗ではあるが、作者南冥が在住したかどうかは確認出来なかった。
「寬保癸亥」一七四三年。
「延享元年」一七四四年。
「演る」「のべる」。]
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