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2022/06/30

「南方隨筆」底本正規表現版「紀州俗傳」パート 「三」

 

[やぶちゃん注:全十五章から成る(総てが『鄕土硏究』初出の寄せ集め。各末尾書誌参照)。各章毎に電子化注する。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(冒頭はここ)で視認して用いた。また、所持する平凡社「選集」や、熊楠の当たった諸原本を参考に一部の誤字を訂した。表記のおかしな箇所も勝手に訂した。それらは一々断らないので、底本と比較対照して読まれたい。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 本篇の各章は短いので、原則、底本原文そのままに示し、後注で(但し、章内の「○」を頭にした条毎に(附説がある場合はその後に)、読みと注を附した。そのため、本篇は必要性を認めないので、PDF版を成形しないこととした。]

 

      三、

 〇師走狐(鄕硏一卷一二一頁)に就て上芳養村の人の說に、昔し狐が十二支の何と後へ己を加へて吳れと望んで拒絕された。十三支では月を數えることが成ぬからだ。之を哀んで新年が近づく每に狐が鳴く。これを師走狐と言ふので、別に境大字の一老狐に限た事で無いと。

[やぶちゃん注:「鄕硏一卷一二一頁」本「紀州俗傳」の「一」の冒頭の条を指す。

「上芳養村」(うへはやむら)は前回の中芳養村の東北に接する旧芳養地区一番の内陸部。ここ(「ひなたGPS」)。]

 〇田邊町に接近せる湊村に、昔し金剛院てふ山伏有り、庚申山と云ふ山伏寺で山伏の寄合有るに、神子濱の自宅から赴く、途上老狐臥し居る、其耳に法螺を近づけ大に吹くと、狐大に驚き去る。其返報に彼狐が、鬪鷄權現社畔の池に入り、荐りに藻を被り金剛院に化る、庚申山へ行く山伏ら、この次第を睹、扨は今日狐が金剛院に化て寺へ來る積りだ、早く待受て打懲しやれと走り往て俟つと、暫くして金剛院殊勝げに來るのを、寄て圍んで散々に打擲しても化の皮が顯れず、苦しみ怒るのみで、遂に眞正の金剛院と解つた。全く法螺で驚された仕返しに、狐が惡戲をしたのだつた。熊楠謂ふ、此話と似た奴が支那の呂覽卷廿二、疑似篇に出て居る、梁北の黎丘部に奇鬼有り、善く人の子弟の狀を爲る、邑の丈人市に之て醉歸る所へ、其子の狀して化出で、丈人を介抱して歸る途中夥く苦めた、丈人家に歸て其子を誚ると、昔に東邑人に貸た物の債促に往て居た、何條父を苦むべき、僞と思はゞ彼人に聞玉へと云ふ、父ぢや屹度彼鬼の所爲だ、仕樣社有れと、明日復た市に之て飮み歸る所を、子が案じて迎へに行た、其れ鬼が來たと用意の劍を拔て、殺して視ると眞の吾子だつたと有る。

[やぶちゃん注:「湊村」現在の田辺の中心部である和歌山県田辺市湊(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。本篇発表当時(大正二(一九一三)年六月)は田辺町に接する湊村であったが、大正一三(一九二四)年に田辺町に編入されている。

「庚申山と云ふ山伏寺」現在の甲賀(こうか)市水口町(みなくちちょう)山上(やまがみ)にある真言宗庚申山(こうしんざん)広徳寺。山伏や甲賀忍者の修行の地として古くから知られる。

「神子濱」田辺市神子浜(みこはま)。

「鬪鷄權現社」既出既注。田辺市東陽にある鬪鷄(とうけい)神社。熊楠の夫人は当時の同社の宮司田村宗造の四女松枝さんである。

「荐りに」「しきりに」。

「化る」「ばける」。

「睹」、「み」。

「待受て打懲しやれ」「まちうけて、うちこらしやれ」。

「打擲」「ちやうちやく」。

「眞正」「選集」に従うなら、「ほんたう」。

「惡戲」「いたづら」。

「呂覽」「りよらん」は戦国末期の秦の丞相呂不韋(りょふい ?~- 紀元前二三五年)が食客を集めて共同編纂させた「呂氏春秋」の別称。秦の始皇八年(紀元前二三九年)に完成した。当該ウィキによれば、全二十六巻百六十篇で、『その思想は儒家・道家を中心としながらも』、『名家・法家・墨家・農家・陰陽家など諸学派の説が幅広く採用され、雑家の代表的書物とされ』、『天文暦学や音楽理論、農学理論など自然科学的な論説が多く見られ、自然科学史においても重要な書物とされる』とある。当該部は「中國哲學書電子化計劃」のこちらから、その影印本を視認されるのが良い。

「梁北の黎丘部」現在の河南省開封(かいほう)市の西北の旧地名。

「狀」「なり」又は「かたち」或いは「さま」。

「爲る」「まねる」。

「丈人」「ぢやうじん」。年寄を敬って言う語。「選集」では『おやかた』と振る。

「之て」「ゆきて」。

「醉歸る」「ゑひかへる」。

「化出で」「ばけいで」。

「夥く」「おびただしく」。

「誚る」「せむる」。

「昔に」「選集」に従い、「さきに」。

「東邑人」「ひがしむらのひと」と訓じておく。

「貸た」「かした」。

「債促」「催促」に同じ。

「往て居た」「ゆきてをつた」。

「何條」「なんぜう」。どうして。

「苦む」「くるしむ」。

「僞」「いつはり」。

「彼人」「かのひと」。

「聞玉へ」「ききたまへ」。

「父ぢや屹度彼鬼の所爲だ」「ちち、『ぢや、あのおにのしわざだ。』」。

「仕樣社有れ」「しやうこそ、あれ。」。仕返ししてやる方法が、これ、あるわい!

「拔て」「ぬきて」。

「眞」「まこと」。]

 〇鄕硏一卷一一九頁なる、遠州橫須賀地方の螢狩の呼聲と少しく違ふのが、紀州田邊邊で行はれる、「ほーたる來い、ほーたる來い、彼方の水は苦い、此方の水は甘い、ほーたる來い、ほーたる來い、ほーたる來い、行燈の光で蓑着て來い」(又は行燈の光を見懸て來)。田邊町と殆ど町續きなる神子濱では、「ほー、ほー、ほーたる來い、彼方は云々」と云たあとで、「ほー、ほー、ほーたる來い、行燈の光で蓑きて笠きて飛でこい」と云ふ、有田郡津木村抔では、單に「螢來い、螢來い天河の水呑さう」と云ふ。

[やぶちゃん注:「鄕硏一卷一一九頁なる、遠州橫須賀地方の螢狩の呼聲」当該雑誌は全くネット上では見られないので、不詳。南方熊楠の記事ではないようだ。「遠州橫須賀地方」は現在の静岡県掛川市横須賀のことであろう。

「彼方」「あつち」。

「此方」「こつち」。

「有田郡津木村」和歌山県有田郡の旧村で、現在の同郡広川町の東半分、広川の上流域に相当する。「Geoshapeリポジトリ」の「 歴史的行政区域データセットβ版」のこちらで旧村域が確認出来る。]

 〇田邊近傍の里傳に、昔し雀と燕姉妹の所に親が臨終と告來つた、燕は衣を更え盛粧して行たので、親の死目に逢ず、雀は鐵漿付て居たが、事急也と聞て忽ち其儘飛往て死目に逢た。故に體色美ならず頰に黑き汚斑有れど、始終米粒其他旨い物多く食ふ、燕は全身光り美しけれど、不孝の罰で土斗り食ふと。去年死んだ英國昆蟲學大家「ウヰリアム、フオーセル、カービー」は廿年斗り前予が西印度で集めた蟲類を每々調べて吳れた在英中知人だつた、專門の方に大英博物館半翅蟲目錄等多く大著述が有た傍ら古話學に精通し、故「バートン」が亞喇伯夜譚の全譯を濟せた時も、特に「カービー」氏の亞喇伯夜譚諸譯本及び模作本の解說を請て卷末に附した程の名人だった。氏の著「エスソニア英雄傳」(一八九五年板)卷貳に「エスソニア」の燕の緣起を說て云く、常醉漢の妻が膝邊に子を載せ布を織る、其日の出立ちは頭に黑布、頸に赤切れ、白い下衣に黑い下裳だった、所へ醉た夫が還來て妻を押排け、斧で織を斷ち、拳で兒を殺し、序に妻を打て氣絕させた。大神之を憐れみ卽座に妻を燕に變ぜしめたが、逃んとする鳥の尾を夫が小刀で截たから兩岐に成た。爾來燕は當時の不幸を悲み、鳴き止ずに飛行くが、他鳥と異り人を怖れず、家内に來り巢ふと有る。本條に多少關係ある故、知人の記念に一寸附記す。

[やぶちゃん注:「逢ず」「あへず」。

「鐵漿」「かね」(「選集」)或いは「おはぐろ」。

「飛往て」「のびゆきて」。

「逢た」「あへた」。

「汚斑」「選集」は『よごれ』と振る。

「罰」「選集」は『ばち』と振る。

「斗り」「ばかり」。

『去年死んだ英國昆蟲學大家「ウヰリアム、フオーセル、カービー」』「ロンドン自然史博物館」で働いたイギリスの昆虫学ウィリアム・フォーセル・カービー(William Forsell Kirby 一八四四年~一九一二年)。当該ウィキによれば、『昆虫学の著作の他に少年向けの博物学の著書を執筆し』『フィンランドの民族叙事詩』「カレワラ」『など北欧神話の翻訳も行った』とある。『ロンドンの銀行家の家で生まれ』、『家庭教師から教育を受けた。子供時代から蝶などに興味を持ち』、僅か十八歳で、‘Manual of European Butterflies’『という著作を出版した』。一八六七年に王立ダブリン協会の博物館の学芸員となり、「昼行性鱗翅目のシノニム目録」(Synonymic Catalogue of Diurnal Lepidoptera :初版一八七一年・補遺版 一八七七年)『を出版した』。一八七九年、没した昆虫学者フレドリック・スミス(Frederick Smith)の後を継いで、『ロンドン自然史博物館の学芸員の仕事を』担当し、一九〇九年まで『その仕事を続けた』。彼は『自然科学の著作』がある『他に、北欧やオリエントの神話、民話に興味を持ち、フィンランドの民族叙事詩、カレワラなどを英訳し、同時代や後代の作家に影響を与えた』とある。

「大英博物館半翅蟲目錄」この書名相当のものを見出せなかったが、彼の著に成る‘Catalogue of the described Hemiptera Heteroptera and Homoptera of Ceylon’ (「記載されたセイロンの半翅目・異翅目及び同翅目の目録」:一八九一年)があった。半翅目はカメムシ目に同じ。

「古話學」「選集」では『ストリオロジー』のルビが振られてある。これは“Storyology”らしいが、通常の辞書には載らず、ネットでは、中国語で「故事学」と訳されている。所謂、「古譚考証学」という意味であろうか。何のことはない、邦文でこの単語を調べると、掛かってきたのは「私設万葉文庫」の「南方熊楠全集」第三巻の「ダイダラホウシの足跡」(明治四一(一九〇八)年四月発行の『東洋學藝雜誌』初出)の一節で、『世界通有の俚伝を Benjamin Taylor,Storyology,1900,p.11 に列挙せる中に』とある。この作者の事績はよく判らぬが、ロンドンで出版された同書の副題は‘Essays In Folk-Lore, Sea-Lore, And Plant-Lore’(「民間伝承と海洋伝承及び植物の伝承に関するエッセイ」)で、思うに、各種の伝承や民話中の核になっている広く見られるプロトタイプを探究する学問という意味で、或いはこのベンジャミン・テイラーなる研究者が造語したものかも知れない。

「バートン」「亞喇伯夜譚」(「選集」では『アラビアン・ナイツ』とルビする)既出既注

「請て」「こひて」。

『氏の著「エスソニア英雄傳」(一八九五年板)』‘The hero of Esthonia, and other studies in the romantic literature of that country’(「エストニアの英雄、及びその国のロマン的文学その他の研究」・一八九五年刊)。当該原本の当該部を「Internet archive」で発見した。ここからである。

「常醉漢」「選集」を参考にするなら、『ゑひどれ』。

「下衣」前注の原文を見ると、“shift”で、これは「ワンピース」或いは古語で「スリップ」のこと。以下と区別する上半身の「したぎ」と読んでおく。

「下裳」「したも」。同前で“petticoat”。ペティコートで、スカートの下に穿く下着である。熊楠なら「ゆまき」「ゆもじ」とでも訓じているかも知れない。

「醉た」「ゑふた」。

「還來て」「かへりきたつて」。

「押排け」「おしのけ」。

「織」「はた」。

「打て」「うつて」。

「大神」「選集」は『ウツコ』と振る。原文にある神名“Ukko”である。ウィキの「ウッコ」によれば、『ウッコ(フィンランド語 : Ukko、エストニア語 : Uku)は、フィンランド神話で、天空・天気・農作物(収穫物)とその他の自然の事象を司る神で』、『フィンランド神話・エストニア神話』『の中で最も重要な神でもあり、フィンランド語の「雷雨(ukkonen)」はこの神の名前から派生した言葉である。『カレワラ』では、全ての事物の神であるかのように「絶対神(ylijumala)」とも呼ばれており、神話で自然絡みの話となると大抵ウッコが登場する』。『ウッコの起源は恐らくバルト神話』『の「ペールコンス(Perkons)」と、古代フィンランド神話の空神「イルマリネン(Ilmarinen)」である』。『ウッコが天空神としての地位を得た事で、イルマリネンは人間の「鍛冶屋の英雄」となった』とする。『ウッコの武器は、「ウコンバサラ」と呼ばれる、稲光を発する事が出来るハンマー(もしくは斧・剣)であった。ウコンバサラはボートのような形をした(戦闘用の)石斧だったろうと言われるが、鉄器の時代が来て石器が使われなくなるうちに、石の武器の起源は謎になった。だが』、『人々は、それを先端の石の部分から稲光を出して攻撃するウッコの武器であると信じていた』。『ウッコが妻「アッカ(Akka)』『」と連れ添っている時には雷雨が起こり、二輪戦車で空を駆けても雷雨が起こった』。『ノコギリ型のヘビのイメージは、雷のシンボルである。ヘビと稲光の両方の特徴を持った石の彫刻もある』(現物の写真有り)とある。

「逃んと」「にげんと」。

「小刀」「選集」は原文通り、「ナイフ」とルビする。

「截た」「たつた」或いは「きつた」。「選集」は前者。

「兩岐」「ふたまた」。

に成た。

「飛行く」「とびゆく」。

「異り」「選集」に合わせるなら、『かはり』。

「巢ふ」「すくふ」。]

 〇田邊邊で家に子供多く、今生れた子限り又生るるを欲せざる時は、其子に澄、留、桐抔の名を付く。是で勘定濟み、是切り出產が留れてふ意だ想な。

[やぶちゃん注:「桐」音通の「きり」(切り)。松本清張の「霧の旗」を中一の時に読んで以来、桐子って名前、ムチャ好きだったんですけど。]

〇この邊で白僵蠶を希品とし、蠶の舍利と呼ぶ。之を穫る家、當年蠶の收利多しと云ふ。近江にても「おしやり」と云ふ由、重訂本草啓蒙卷卅五に見ゆ。

[やぶちゃん注:「白僵蠶」(はくきやうさん)は、菌界子嚢菌門チャワンタケ亜門フンタマカビ綱ボタンタケ目ノムシタケ科白僵菌属白僵菌(ムスカルジン)Batrytis bassiana に消化器官が自然感染して死んで硬化したカイコガ(鱗翅目カイコガ科カイコガ亜科カイコガ属カイコガ Bombyx mori)の幼虫を指す。白僵菌は昆虫病原糸状菌(Entomopathogenic fungus)の内、昆虫の体から水分を奪って殺し、体を硬化させるものを特に「僵病菌(きょうびょうきん)」と呼び、それによる病気を「僵病」「硬化病」と呼ぶ。感染した昆虫の死骸は乾燥してミイラ状になる。「白僵蠶」は日中の漢方薬名としても知られる。グーグル画像検索「白僵蠶」をリンクさせておく(虫が苦手な方は見ない方がまあよいかと存ずる)。なお、これについては、「和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 白殭蠶」の私の注でかなりディグしてあるので参照されたい。因みに「殭」は「僵」の異体字である。また、「堀内元鎧 信濃奇談 卷の下 木乃伊」にも登場する。

「穫る」「うる」。

「當年蠶の收利多しと云ふ」蠶場で発生し、他の個体への感染拡大を考えれば、これは頗るクエスチョンである。

「重訂本草啓蒙卷卅五に見ゆ」国立国会図書館デジタルコレクションの弘化四(一八四七)年版本のここの、右丁の後ろから四行目以降。]

 〇又月の八日に旅立せぬ古風が有た。

[やぶちゃん注:根拠不詳。暦注や九星術などで、七日や八日の旅立ちや、帰還を忌むとするものがあるようであるから、そうしたものがズレて発生したものか。]

 〇西牟婁郡新庄村大字鳥巢邊では、以前正月禮に廻り來る人が是非家の中に蹴込まねば入り得ぬ樣、閾の直外に夥く神馬藻を積だ、藻を蹴込む(儲け込む)という欲深い洒落だ。

[やぶちゃん注:「西牟婁郡新庄村大字鳥巢」「二」で既出既注

「閾」「しきい」。

「直」「すぐ」。

「夥く」「おびただしく」。

「神馬藻」「じんばさう」。不等毛植物門褐藻綱ヒバマタ目ホンダワラ科 Sargassaceae或いはその下位タクソンのホンダワラ属 Sargassum のホンダワラ類を指す。何故、種を示さないかは、「大和本草卷之八 草之四 海藻(ナノリソ/ホタハラ) (ホンダワラの仲間)」の私の注を参照。]

 〇湊村磯間浦夷の鼻と云ふ磯の前に旗島有り。田邊權現船に乘り此浦に來りし時、旗立たる所と云ふ。夷の鼻邊に大波到れば鐘聲する所有り。鬪雞社(舊稱田邊權現)内に以前松雲院てふ寺有り、其に釣んとて鐘二つ作り、船に積來りしに、此處で雄雌の内一つ沈んだ、其が海底で鳴ると云ふ。扨殘る一つを寺に懸たが、偶を求めて鳴ぬ、八十貫目も有る物が不要と來たので、永く境内白身の木の下に雨曝しに伏置たのを、今は片付て仕舞た。

[やぶちゃん注:「湊村磯間浦」(いそまうら)「夷」(えびす)「の鼻という磯の前に旗島有り」国土地理院図でここ。グーグル・マップ・データで見ると、浜に「磯間浦安神社」があり、ここは恵比寿を祀っている。「夷の鼻」は現在の地名にないが、「ひなたGPS」で戦前の地形を見ると、「鼻」=岬上に突き出ていることが判るから、ここを指していると考えてよい。グーグル・マップ・データ航空写真を見ると、防波堤が形成されて、浜もかなり新しい人口海浜であることがわかり、その浜のド真ん中に「三壺崎」と場違いな名所表示があることから、ここは嘗ては、まさに「磯」の「鼻」だったことが理解出来る。

「鬪雞社(舊稱田邊權現)内に以前松雲院有り」別当寺であろう。廃仏毀釈で無くなったものと思われる。「ひなたGPS」で同神社を見ると、戦前には明らかに同神社に並んで寺の記号がある。ここは間違いなく、現在の同神社の南東直近であるが、現在の地図では寺など、影も形も、ない。

「偶」「とも」。

「鳴ぬ」「ならぬ」。

「八十貫目」三百キロ。

「白身」「びやくしん」。裸子植物門マツ亜門マツ綱マツ亜綱ヒノキ目ヒノキ科ビャクシン属イブキ Juniperus chinensis の異名「ビャクシン」(柏槇)だろう。大きくなると、幹が捩じれたようになり、幹の表面が裂けるところから、禅宗寺院で好んで植えられる。

「伏置た」「ふせおいた」。]

〇日高郡龍神村大字龍神は古來溫泉で著名だが、其地に本誌卷一、一一七頁に載た德島縣の濁が淵同樣の話が有る。但し所の者は之を隱して言ぬ。昔し熊野詣りの比丘尼一人此所へ來て宿つたが、金多く持てるを主人が見て、徒黨を組で、雞が栖る竹に湯を通し、夜中に鳴せて、最早曉近いと紿き、尼を出立せ途中で待伏て殺し、其金を奪ふた。其時尼怨んで、永劫此所の男が妻に先立て死する樣と咀ふて絕命した。其所を比丘尼剝と云ふ。其後果して龍神の家每、夫は早死し、寡婦世帶が通例と成て今に到る、其尼の爲に小祠を立て齋込たが、頓と祟は止まぬ想ぢや。十年斗り前に、東牟婁郡高池町から船で有名な、一枚岩を觀に往た時、古座川を鳶口で筏を引て、寒い水中を引步く辛苦を傷み問しに、此働き嚴く體に障り、眞砂と云ふ所の男子は悉く五十以下で死するが常なれど、故鄕離れ難くて皆々斯く渡世すと答へた。龍神に男子の早死多きも、何か其譯有る事で、比丘尼の咀に由ぬは勿論乍ら、此邊昔しの熊野街道で、色々土人が旅客に不正な仕向も度々有つた事と思ふ。第一卷一二一頁に出せる熊野詣りの手毬唄なども、實は、新しく髮結ふて熊野へ詣る娘を途上で古寺へ引込み、强辱する體を隱微の裏に述たものらしい。明治八年頃和歌山の裁縫匠予が父の持家に住んだ者が熊野の或村で、村中の人悉く角力見に行た所へ往合せ、大石で頭を碎かれ、所持品悉く奪はれて死だ事も有た。西鶴の本朝二十不孝卷二「旅行の暮の僧にて候、熊野に娘優しき草屋」の一章など、小說乍ら據ろ有たのだらう。序に云ふ、龍神邊の笑話に或寡婦多分現存の人だが、夏日麥を門外に乾し、私室徒然の餘り單獨祕戲を弄し居たるに忽ち驟雨到り、麥流ると兒童の叫聲に驚き、角先生(ガウデ・ミヒ)を足に結付けた儘走り出しを見て、この暑きに主婦は足袋を穿りと、兒童一同彌よ叫んだと云ふ。虛實は知ず、似た境遇は似た傳說を生ずる者で、印度にも二千年已上の昔し既に斯な事が有た。唐の義淨譯根本說一切有部苾芻尼毘奈耶卷拾七に云く、吐羅難陀苾芻尼、因行乞食、往長者家、告其妻曰、無病長壽、知夫不在、問曰、賢首、夫既不在、云何存濟、彼便羞恥、默而不答、尼乃低頭而出、至王宮内、告勝鬘妃曰、無病長壽。復相慰問、竊語妃曰、王出遠行、如何適意、妃言、聖者既是出家、何論俗法、尼曰、貴勝自在、少年無偶、實難度日、我甚爲憂、妃曰、聖者、若王不在、我取樹膠、令彼巧人而作生支、用以暢意、尼聞是語、便往巧匠妻所報言、爲我當以樹膠作一生支、如與勝鬘夫人造者相似、其巧匠妻報言、聖者出家之人、何用斯物、尼曰、我有所須、妻曰、若爾我當遣作、卽便告夫、可作一生支、夫曰、豈我不足、更復求斯、妻曰、我有知識、故來相憑、非我自須、匠作與妻、妻便付尼、時吐羅難陀、飯食既了、便入内房、卽以樹膠生支、繫脚跟上、内於身中、而受欲樂、因此睡眠、時尼寺中忽然火起、有大喧聲、尼便驚起、忘解生支、從房而出、衆人見時、生大譏笑、時諸小兒見唱言、聖者、脚上何物、尼聞斯言、極生羞恥、佛之を聞て、尼を波逸底迦罪犯とした。   (大正二年六月『鄕土硏究』一卷四號)

[やぶちゃん注:「日高郡龍神村大字龍神」現在の田辺市龍神村龍神

「本誌卷一、一一七頁に載」(のつ)「た德島縣の濁」(にごり)「が淵」この話、ネット上では纏まって電子化されたものがない。禁忌的隠蔽度が高いのかと思いきや、比較的メジャーな出版物の目録等には載っていたりするのだが、話の中身がまるで語られていない。昨夜から検索して今朝、やっと発見した。大正六(一九一七)年日本伝説叢書刊行会刊の民俗学者で小説家(児童文学)でもあった藤沢衛彦(もりひこ 明治二二(一八八五)年~昭和四二(一九六七)年)は、日本の小説家、民俗学者、児童文学研究者)氏執筆になる編「日本傳說叢書 阿波の卷」のここである。以下に電子化する。読みは一部に留めた。割注は二行丸括弧入りだが、本文同ポイントで【 】で示した。太字は底本では傍点「﹅」。踊り字「〱」は正字化した。頭書に「金鷄呪咀傳說」とある。藤沢衛彦は熊楠も他で言及しているから、本記事も或いは彼のものかも知れない。

   *

    濁 り が 淵(那賀郡桑野村)

 桑野川を、桑野村から十五六町北東に下ると、樹木鬱蒼と生ひ茂つてゐる山の端(は)に、奇岩突出した絕壁があつて、その丁度眞下に、物凄く濁つた暗黑の淵がある。

 桑野川の水は川上も川下も水晶のやうに透き通つて、淸い淸い流(ながれ)であるのに、こゝばかりは、どんよりと濁つて、水もどよみがちなのは不思議である。あゝ、濁りが淵、淸い流の間(あひ)にあつて物凄い傳說を傳へてゐる濁りが淵はこゝである。

 世紀を幾つ重ねた昔であつたか、確かな言ひ傳へがないので、時代はわからないが、然しなんでも、よつぽど以前の事であつたと言はれてゐる。桑野五箇村(そん)【その頃、桑野村、答島村、橘浦、山口村、内原村を、古くからかう呼んでゐた。何でも「神風抄」に出た桑野御厨の地であらうと言はれる位、古い村である。】の長者の宅へ、とある日、一人の修驗者(しうけんじや)が泊り合はした。桑野の長者と修驗者は、諸國の噂話から始まつて、修驗者は、諸國で見聞(みきゝ)した寶物の話をし出した。すると長者は、とてもの事に自分の家の寶物も見て欲しい。そして又諸國修行の旅の間に、桑野の長者の寶物の噂をして貰ひたいと、種々(いろいろ)の寶物を見せるのであつたが、修驗者が、これはと思う珍寶は、それら多くの寶物の中に一つも見當らなかつた。

『なるほど、貴尊のものゝやうには見うけますけれども、これらの寶物も、まあまあ、ありの物に過ぎないやうです。かりそめにも、珍寶として噂されるだけのものには、何か普通と變つたところがなければなりません。これを御覽なさい。』

 かう言つて、修驗者は、携へてゐた櫃(ひつ)の中から、桐三重(きりみかさね)の箱に入れた黄金(わうごん)の盃(さかづき)を取り出して見せた。【盃ではなく、黃金の鷄と、一寸四方箱に收まる蚊帳(かや)とを持つてゐて、鷄と一所に出して見せたともいふ。

『へえ、これがその世にも珍らしい寶だとお言ひのですか。え、こんな小(ちいさ)い金の盃が何です。それ、そこらには、もつと大きな純金(こがね)の置物が、いくらでもあるではありませんか。』

 長者は、嘲(あざけ)り口調で、取散らかされて居ら自分の家の寶物の幾つかを指した。

『はゝ、御主人、理由を聞かないで、さうけなしては困ります。かう見えましても、この盃は、決して唯(たゞ)の黃金(こがね)の盃ぢやアありませんよ。まアまア見てゐらつしやい。それ。」

 修驗者は、薦められてゐた御馳走(おふるまひ)のお酒を取つて、稀代(きだい)の寶物だといふ、その黃金(きん)の盃の中に、なみなみと注ぎ更(か)へた。

『はゝアヽなるほど、そのお盃で飮むと、素敵もなく甘いとでも言ふのでせう。』

 長者は、よくある話だと言はぬばかり、自分で、自分の言ひ當てを感心したやうに言つたが、修驗者は、首を振つて、

『どうして、そんなつまらないことぢやアありません。』

 と打ち消しながら、零れさうになつてゐる盃のお酒を、何か言ひながら、一口ふうと吹いた。すると、驚くではないか、忽ち何處(どこ)かからともなく、黃金の鷄が現はれ出して、『こけこつこう。』と唄(うた)を唄ひ出した。立派に驚かされてしまつた桑野の長者を微笑(ほゝえみ)の眼で見やりながら、修驗者は、その溢れるばかりの盃を手にして、一息に飮みほし、

『あゝ、甘露、甘露。』

 とヽ舌皷(したつゞみ)を打つ。すると例の黃金の鷄も、酒が飮み干(ほ)されると同時に、どこともなく消え失せてしまつた樣子、長者は、たゞ呆氣(あつけ)に取らるゝばかりであつた。

『不思議、不思議。』

 と、間のあたりに見た靈事(くしごと)に感じ入つてゐた長者は、さうした珍らしい寶物を、どうしてどこから得られたかと尋ねたけれども、修驗者は、たゞ、祖先傳來の物とばかりで、詳しくは語らなかつた。

 そのうちに、桑野の長者は、無性に、その修驗者の黃金の盃が欲しくなつて來たので、修驗者に、いろいろに說(と)いて、交換(かうくわん)、讓渡(ゆづりわたし)のことを、くどくどと賴んだけれども、勿論、さうした珍寶を修驗者の易々(やすやす)と交換(とりかへ)や、讓渡(ゆづりわたし)の承知をしやうがない。手を換へ、品を換ヘて、長者は、どうかして其奇代(きだい)の珍寶を手に入れたいとしたけれども、其願ひはことごとく謝絶されてしまつた。かうなると、長者は、どうしても其珍寶が欲しくてたまらなくなる。惡い人間でもかかつたのであつたが惡魔に魅(み)せられたか、長者は、ふと氣が變つて、よしそれでは、修驗者を殺してでも、彼(あ)の珍寶を奪ひ取らうと決心してしまつた。修驗者も、どうも怪しく思はれだしたので、事があつてはめんどうと、そつと、其夜のうちに、斷りもせずに、長者の家を脫(む)けて出で、桑野川に添うて逃げて行つた。間も無く、修驗者の逃亡に氣の付いた長者は、獲物を提(と)つて、修驗者の跡を追ひ懸けて行つた。暫くすると、後(あと)から追ひかけて來る者があるやうなので、驚いた修驗者は、一生懸命になつて逃げ出したけれども、今の濁りが淵のところまで來ると、岩が川中(かわなか)へ突き出してゐるので、いよいよ絕體絕命、途方(とはう)に暮れてゐるところへ、早くも追ひ着いたのは桑野の長者であつた。『おのれツ。』と言ひさま、迫ひかゝりざまに斬り下げた一太刀は、うまく、修驗者を眞(まつ)二つにしてしまつて、まんまと、例の黃金の盃を奪ひ取る事が出來た。死體は、淀みがちな淵の中へ投げ込み、黃金の盃ばかりを懷中(ふところ)にして歸つては來たものゝ、肝心の黄金の鷄を呼び出す呪文を盜み取ることを忘れてゐたので、たゞ黄金の盃の酒を吹くだけでは、到底、黄金の鷄を呼び出すことは出來なかった。長者は、いまいましいので、『鷄出ろ。』『黃金の鷄さん出て下さい。』『これ、おでなさい、鷄さん。』『出て來(こ)よ、黃金の鷄。』『黃金の鷄現はれ出でよ。』などと、種々(いろいろ)にしてやってみたけれども、咒文は、全く違う文句であつたと見えて、どうしても言ふことを聞かなかつた。で、長者も、もてあまし、終(しまひ)には、庭先目がけて投(ほふ)り出したりなどしたけれど、そんな事をいくらしたって、黃禁の鷄を出す手段(てだて)にはならなかった。で、今(いま)桑野村の某家(ぼうけ)に傳はつて來た黃金の盃は、其(その)家の先祖が、桑野の長者から、やけの餘りに讓り受けたものものだといふ事だ。【黃金の鷄は、六部を殺した時逃げ去り傳へられたのは蚊帳ばかりであつたともいふ。】

 其後(そのご)、桑野の長者は、修驗者が殺された何回忌かに、修驗者の怨みで、修驗者の死體を投げ入れた濁りが淵に、ふらふらと迷つて來て、投身して果てたとも言ひ傳へられてゐる。

 濁りが淵の、今のやうに濁り出したのは、全く、桑野の長者が、修驗者を殺した日からの事で、以前は、桑野川の上流下流のやうに、透き通つた奇麗(きれい)な水であつたといふことである。(口碑)【六部を切つた長者の家は、今に蒸した餅を搗かない。搗けば必ず餅の中に血が混るので、其家では其代りにひき餅を用ゐてゐる。】

   *

「那賀郡桑野村」現在の徳島県阿南市桑野町(ちょう)内。北部を桑野川が南北に貫流する。全国的に見られる異人(まれびと)である「六部殺し」型で(当該ウィキを参照されたい)、餅搗きの禁忌(血染めの餅)もポピュラーな汎伝承である(小学館「日本大百科全書」の「餅なし正月」を引く。『家例として正月用の餅を搗』『かず、または餅を食べないという禁忌。餅精進』『ともいう。特定の家や一族で守られており、もし餅を搗くと血が混じるなどという。先祖が戦』さ『に負けて落ち延びてきたのが大晦日』『で、餅を搗く暇がなかったなどの由来譚』『を伴う。日本の農業は弥生』『時代から稲作を取り入れ、米を主食とする方向に進み、また儀礼食としては餅を重視してきたが、稲作以前の形態も一部に根強く残っていた。焼畑耕作による雑穀や』、『いもの利用である。雑煮』『にしてもサトイモを重視する例がある。正月には餅を用いることが一般化したため、古風を守っている家々が例外視されるようになったのである。』とある)。

「言ぬ」「いはぬ」。

「組で」「くんで」。

「雞」「にはとり」。一応、「鷄」の正字。

「栖る」「とまる」。

「曉」「選集」では『あけ』と振る。

「紿き」「あざむき」。

「出立せ」「いでたたせ」。

「待伏て」「まちぶせて」。

「先立て」「さきだちて」。

「咀ふ」「のろふ」。「詛」の異体字。

「比丘尼剝」「びくにはぎ」。

「家每」「いへごと」。

「早死」「選集」では『わかじに』と振る。

「小祠」同前で『ほこら』。

「齋込た」「選集」では『斎(いわ)に込めた』とする。

「頓と」「とんと」。

「想ぢや」「さうじや」。当て字。

「斗り」「ばかり」。

「東牟婁郡高池町」現在の和歌山県東牟婁郡古座川町(こざがわちょう)高池(たかいけ)。

「一枚岩」国指定天然記念物「古座川の一枚岩」。古座川町の古座川左岸にある、高さ約百五十メートル・幅約八百メートルの一枚の巨岩。当該ウィキによれば、『一枚の岩盤としては佐渡島の大野亀』(高さ約百六十七メートル)『や屋久島の千尋の滝』(高さ約二百メートル、幅約四百メートル)『などとともに日本最大級とされる』ものである。ここ。そのサイド・パネルや引用元に写真がある。

「眞砂と云ふ所」同町のここ(古座川の上流)。

「男子」「選集」には『おのこ』と振る。歴史的仮名遣は「をのこ」。

「由ぬ」「よらぬ」。

「仕向」「しむけ」。も度々有つた事と思ふ。

「第一卷一二一頁に出せる熊野詣りの手毬唄」本篇「一」のこと。甚だ腑に落ちる。

「詣る」「まゐる」。

「引込み」「ひきこみ」。

「體」「てい」。

「明治八年」一八七五年。

「裁縫匠」「選集」に『したてや』と振る。

「角力」「すまふ」。

「往合せ」「ゆきあはせ」。

「死だ事も有た」「しんだこともあつた」。この書き方だと、その熊楠(当時なら満八歳頃)も知る仕立て屋が殺害されたということで、ちょっと読みながらそのリアルさと近代であることから、聊かドキッとした。

『西鶴の本朝二十不孝卷二「旅行の暮の僧にて候、熊野に娘優しき草屋」の一章』国立国会図書館デジタルコレクションの「近代日本文学大系」第三巻(昭和四(一九二九)年国民図書刊)のここから視認出来る。

「據ろ」「よんどころ」。実際に起こった事件が素材であうということ。

「單獨」「選集」は『ひとり』とルビする。

「祕戲を弄し居たる」自慰行為をすることを言っている。

「驟雨」同前で『ゆうだち』。歴史的仮名遣では「ゆふだち」。

「兒童」同前で『こども』。

「叫聲」同前で『叫び声』。

「角先生(ガウデ・ミヒ)」「つのせんせい」と訓じておく。古く本邦では「張形」(はりかた・はりがた)或いは「こけし」などと言ったそれで、勃起した男性器を擬したそれ。世界的には紀元前より存在した。「角先生」は中国語。中文の「Baidu百科」のこちらに写真入りであり、少なくとも明末清初には「明角先生」と呼ばれて知られていたとある。また、別称として熊楠の引く経典に出る「生支」も出ている。現代では英語の“Dildo”(ディルド)の名で知られるが、「ガウデ・ミヒ」は如何にもドイツ語ぽい。私はドイツ語が分からぬが、所持する辞書をつまびらくに、“Gaudi Mich”(ガオディ・ミッヒ)ではないか? “Gaudi”は“Gaudium”で「冗談・楽しみ」、“mich”は「私を」である。「私を楽しませるもの」で腑に落ちるのだが。

「主婦」同前で『おえはん』と振る。関西方言で「大奥様・女主人」を指す語である。

「穿り」「はけり」。

「唐の義淨」(ぎじやう)「譯」の「根本說一切有部苾芻尼毘奈耶」(現代仮名遣:こんぽんせついっさいうぶびなや)の引用部は、のっけから、漢字表記に不審があったので、底本ではなく、「大蔵経データベース」のものを用いた。同経典は全五十巻。初唐の長安三(七〇三)年、義浄(六三五年~七一三年:法顕・玄奘の風を慕い、六七一年に広州から、海路でインドに渡り、ナーランダ(那爛陀)寺で仏教の奥義を究め、各地を遊歴の後、六九五年に梵本四百部を持って洛陽に帰還、「三蔵」の号を受けた)によって漢訳された部派仏教上座部系の根本説一切有部で伝えた律蔵で、比丘戒二百四十九条に教訓物語を挿入した大部な経典である。「選集」の訓読を参考にしつつ、訓読を試みる。

   *

 吐羅難陀苾芻尼(とらなんだびしゆに)、行(ぎやう)して乞食(こつじき)せるに因りて、長者が家に往き、其の妻に告げて曰はく、

「無病にして長壽たれ。」

と。

 夫(をつと)の在らざるを知り、問ひて曰はく、

「賢首(おくがた)よ、夫、既に在(あ)らず。何(いか)にして存-濟(くら)すや。」

と。

 彼、便(すなは)ち、羞恥し、默して答へず。

 尼、乃(すなは)ち、低頭(ていとう)して出で、王宮の内に至りて、勝鬘(しやうまん)が妃に告げて曰はく、

「無痛にして長壽たれ。」

と。復(ま)た、相ひ慰問して、竊(ひそか)に妃に語りて曰はく、

「王、出でて遠く行く。如何にして意(おもひ)を適(かな)へしや。」

と。

 妃、言はく、

「聖者は、既に、是れ、出家なり。何ぞ俗法を論ぜんや。」

と。

 尼曰はく、

「貴(そなた)の勝(まうけ)は自在たり。少-年(わか)くして、偶(つれあひ)なく、實(げ)に日を度(わた)り難し。我れ、甚だ憂いと爲す。」

と。

 妃曰はく、

「聖者よ、若(も)し、王、在らざれば、我れは樹膠(じゆこう)[やぶちゃん注:樹脂。]を取り、かの巧人(さいくにん)をして生支(せいし)を作らしめ、用ひて、以つて、意(おもひ)を暢(のびのび)せし。」

と。

 尼、是の語を聞きて、便ち、巧-匠(たくみ)の妻の所へ往き、報(つ)げて曰はく、

「我が爲に、樹の膠を以つて一つの生支を作れ。勝鬘天人(しやうまんてんにん)の造り與へたる者と相ひ似るがごとく。」

と。

 其の巧匠の妻、報(こた)へて曰はく、

「聖者は出家の人なり。何ぞ斯かる物を用ひん。」

と。

 尼曰はく、

「我れ、須(もち)ふる所、有り。」

と。

 妻曰はく、

「若(も)し、爾(しか)らば、我れ當に作らしむべし。」

と。

 卽ち、夫に、

「一つの生支を作るべし。」

と告ぐ。

 夫、曰はく、

「豈に我れにては足らず、更に、復た、之れを求むるか」。

と。

 妻曰く、

「我れに、知識のもの有り、故(ことさら)に來たりて、相ひ憑(たの)めり。我れの自ら須(もち)ふにあらず。」

と。

 匠は作りて、妻に與へ、妻は、便ち、尼に付(わた)せり。

 時に吐羅難陀は、飯食、既に了(をは)り、便ち、内房に入り、卽ち、樹膠の生支を以つて脚の跟(かかと)の上に繫ぎ、身中に内(い)れ、慾樂を受けて、此れに因つて睡眠せり。

 時に、尼の寺の中(うち)に、忽然として、火、起こり、大喧聲、有り。

 尼、便ち、驚起(きやうき)し、生支を解(と)くを忘れ、房より、出づ。

 衆人、見、時に、大きに譏笑(きしやう)を生(しやう)ず。

 時に、諸(もろもろ)の小兒(こども)、見て、唱(はや)して言ふ、

「聖(ひじり)よ、脚の上にあるは何物なりや。」

と。

 尼、斯かる言を聞きて、極めて羞恥を生ず。

   *

熊楠はカットしているが、以上の直後に「作男根形」の文字列もはっきり出ている。因みに、上田天瑞氏の論文「有部律について―特に密教との關係―」(『密教研究』千九百三十二巻所収。サイト「123deta」のここでダウン・ロード可能)の十五ページに、「有部毘奈耶雑事」三十三巻に『吐羅難陀尼が能く警巫をなし鈴をふつて人家に至り男女の身體を洗浴して吉凶禍福を談じ病のあるものはこれによつて癒えた、この爲に人々は彼の尼を信じ専門の巫卜の人 が利養を失つたことを說いてをる。』とあった。なかなかいろんな意味でお盛んな尼さんだったわけだな。

「波逸底迦罪犯」「選集」は『フアーツチツチアざいはん』と振る。「波逸底迦」は「はいつていか」で「波逸提」(はいつだい)とも呼び、サンスクリット語「プラーヤシュチッティカ」の漢音写。これは仏教の出家者(比丘・比丘尼)に課される戒律(具足戒)の中の日常に諸々の禁戒の総称。比丘には九十二条が、比丘尼には百六十六条が課される。それを破戒した罪として指弾されたというのである。]

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