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2022/06/08

「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「富士講の話」

 

[やぶちゃん注:本論考は大正四(一九一五)年二月発行の『鄕土硏究』二巻十二号に初出され、後の大正一五(一九二六)年五月に岡書院から刊行された単行本「南方隨筆」に収録された。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(ここ)で視認して用いた。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 本篇は短いので、底本原文そのままに示し、後注で、読みを注した。そのため、本篇は必要性を認めないので、PDF版を成形しないこととした。]

 

 

     富 士 講 の 話 (鄕硏二卷四八七頁參照)

 

 食行・角行の「兩行は當時の高等遊民、卽ち旗本か御家人の隱居などで有たらうと思ふ云々、衣食に不安を感じ無い彼等が、退屈紛れに樣々の事を云出して、御有難やの迷信をそゝつたので有う」とあるが、甲子夜話六十七に載せた福井行智(夜話の筆者松浦靜山侯出入りの眞言僧で梵蘭諸語に達した人)の小册富士講起原由來に此宗の祖師系圖有て、元祖書行藤佛於人穴入定、次に大法濱旺、次に旺心、次に月旺、次に星旺、次に妙法日旺佛、其次に月心と月行※忡あり[やぶちゃん注:「※」=「曾」+「月」。]。村山光淸が月心に次ぎ、月行の次に日行藤仲と食行身祿の二人を出す。これによれば書行(中山氏の所謂角行か)より八代目が食行で食行乃ち身祿と見ゆ。又書行は肥前長﨑の長谷川民部大輔てふ浪人の子で天文十一年生る(家康と同年生れ)。八歲頃より世を厭ひ成長後奧州某山に入り、次いで富士に行て苦行し一派を開く。食行身祿は伊勢國川上の產、十八にて江戶に來り本町二丁目に住で商ひし、一代に巨萬を積む。名は富山淸兵衞年來富士行を信じ苦行を勤むる事度々也。老後に殘り無く財貨を親屬窮民に施し盡して赤貧と成り、小石川春日町の裏店を借りて居り、油を鬻で漸く妻子を養ひ、享保某年富士山にて三十一日の斷食して餓死すと有れば、書行食行共に旗本御家人の隱居でも無つたらしい。嬉遊笑覽七を見ると、此身祿名は伊兵衞、本町二丁目吳服店富山淸右御門に奉公せしが、十七にて店を出で武家に中間を勤め後水道町の油商山崎屋より油を受け擔ひ賣せりと有るから一生貧乏だつたので、行智は件の吳服店主富山淸右衞門と身祿と主從を混じて一人とし、曾て大富だつたよう筆したらしい。予の知る所では上方に古來富士登山の團體は無かつた。但し予の父の出た家代々長壽で、祖父の代迄皆八十以上で終つたが、父のみ六十四で死なれた。是は一代身上を起したから其入れ合せに天が命の方で、差引いたと人皆云ふ。因て予は若死せぬやう朝夕金の儲からぬ工夫斗り運らし居る。其先祖の中に一人九十餘迄生きたのが有つて、每度富士山へ上ると足の下から雲が起つたと村中言傳へた。其頃一人斯る事を遠路思立つ筈も無いから、或は以前は關西にも富士講風の者が有つたのかと思ふ。知た事は是限り故果して角行と書行と同人か、食行と身祿は同人か別人かを、中山太郞君竝に讀者諸君に伺ひ置く。   (大正四年鄕硏第二卷十二號)

[やぶちゃん注:「選集」では、添え辞が、改行下方インデント二行で、『中山丙子「富士講の話」参照』『(『郷土研究』二巻八号四八七頁)』となっている。中山丙子は柳田國男や折口信夫らと同時代に活躍した栃木県出身の民俗学者中山太郎(明治九(一八七六)年~昭和二二(一九四七)年)のペン・ネーム。本名は中山太郎治で、「日本売笑史」(明治三九(一九〇六)年)が知られる。本底本の跋文「私の知れる南方熊楠氏」を中山太郎名義で記している。無論、最後に電子化する予定である。

『食行・角行の「兩行は當時の高等遊民、卽ち旗本か御家人の隱居などで有たらうと思ふ云々、衣食に不安を感じ無い彼等が、退屈紛れに樣々の事を云出して、御有難やの迷信をそゝつたので有う」とあるが』記事を確認出来ないが、以上は中山氏の論考からの引用であろう。「食行」(じきぎやう)と「角行」(かくぎやう)は、事前に電子化注した、以下で熊楠が引く「甲子夜話卷之六十七 18 富士講ノ始末」を見られたい(そこで読みを示し注したものは、ここでは繰り返さない。悪しからず)。そこに示したように、この二人は、それぞれウィキで立項されてある。

「享保某年富士山にて三十一日の斷食して餓死す」当該ウィキによれば、享保一八(一七三三)年六月十日、六十三『歳の時、駒込の自宅を出立して富士山七合五勺目(現在は吉田口八合目)にある烏帽子岩で断食行を行い』、三十五『日後にはそのまま入定した』とあるから、没したのは享保十八年七月十三日(一七三三年八月二十二日)である。

「嬉遊笑覽七を見ると、此身祿名は伊兵衞、……」何度も出した喜多村信節の随筆「嬉遊笑覽」の当該部は、国立国会図書館デジタルコレクションの昭和七(一九三二)年成光館出版部刊の活字本のここで読める。

「江戶本町」「えどほんちやう」。現在の中央区日本橋本町二・三丁目(グーグル・マップ・データ。以下同じ)、日本橋室町二・三丁目、日本橋本石町二・三丁目に相当する。

「水道町」「すいだうちやう」。新宿区水道町

「或は以前は關西にも富士講風の者が有つたのかと思ふ」ウィキの「富士講」によれば、本来の江戸及び富士山周辺の「富士講」とは別に、『修験道に由来する富士信仰の講集団も富士講(浅間講)と名乗っている。中部・近畿地方に分布しているが、実態は上記のもの』(江戸を中心とした富士講)とは、『大きく異なり、初夏に水辺で行われる水行(富士垢離)を特徴とする。また、富士山への登山も行うが』、奈良県の南部にある『大峰山』(おおみねさん)『への登山を隔年で交互で行うなど、関東のものには見られない行動をとる』とあった。]

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