「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「鳴かぬ蛙」 (附・柳田國男「蛙の居らぬ池」)
[やぶちゃん注:本論考は大正五(一九一六)年三月発行の『鄕土硏究』三巻第十二号に初出され、後の大正一五(一九二六)年五月に岡書院から刊行された単行本「南方隨筆」に収録された。
底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(ここから)で視認して用いた。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。
本篇は短いので、底本原文そのままに示し、後注で、読みを注した。そのため、本篇は必要性を認めないので、PDF版を成形しないこととした。
文中、熊楠が引く「隱州視聽合記」(いんしふしちやうがふき:寛文七(一六六七)年に著された隠岐国地誌。全四巻地図一葉。著者不詳であるが、現在は松江藩の藩士斎藤勘介が隠岐郡代として渡島した折の見聞に拠ったものとする説が有力である)の「輟耕錄」からの引用は「東京大学附属図書館コレクション」の「南葵文庫」にある前書の写本をここから視認し、それと校合した結果、底本にはかなりの異同があることが判明した(これは熊楠の縮約とも、彼の見た「隱州視聽合記」の写本の相違ともとれ、判然としない)。そこで底本や「選集」に拠らず、その「隱州視聽合記」写本と「輟耕錄」(早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらの承応元(一六五二)年訓点附和刻本)の当該部(巻一・巻二一括版PDFの70コマ目)から文字に起こした。「隱州視聽合記」自体が「輟耕錄」のかなりの部分をカットしているので、必要と思われる箇所はわざと残した。注での訓読はその両方を参考にした。
太字は底本では傍点「◦」である。]
鳴 か ぬ 蛙
川村氏は近江輿地誌略の一文に據つて、諸國の池の鳴かぬ蛙の俚傳は、神靈降臨するも歸り給うを見ぬの意で歸らずとを、蛙入らずと故事附けても、譯も無く反證が擧げられ得た爲、更に「居ても鳴かぬ義」に漕付て了つたのだらうと言つて反對論の有無を問はれた(鄕硏三卷六六八頁)。日本のばかりの解說は其でよいとして、全體鳴かぬ蛙の話は外國にも有る。プリニウスの博物志八の八三章に、キレネ島の蛙本來啞だつた處へ、後に大陸から鳴く奴を移した。但し今も鳴かぬ者が存在する。當時(西曆紀元一世紀)セリフヲス島の蛙も亦瘖だが他所へ移せば鳴く。テツサリアのシカンドルス湖の者亦然りと有る。是等は本邦の諸例の樣に偉人の爲に聲を封ぜられた沙汰は無い。J. Theodore Bent, ‘The Cyclades,’ 1885, p.1 に、著者躬ら往き見しに、セリフヲス島の蛙は今はみな鳴くと有る。一生蛙に付添うて鳴く鳴かぬを檢する人も無からうが、昔右樣の說が行はれたるを考ふるに、里近く鳴かぬとか人が少しく近づけば鳴かぬとか、常の蛙と異なつた者が有つたか、又丸で鳴かぬのも全く無かつたに限らぬ事と想ふ。國により少しも吠えぬ犬有る事今日も聞及ぶ。扨本邦同樣聲を封ぜられた蛙の例は、隱州視聽合記四に、海部郡葛田山源福寺の庭の池畔に、後鳥羽上皇御遊の折り松風蛙鳴を聞て「蛙なく葛田の池の夕疊み、聞まじ物は松風の音」、是より今に至り蛙鳴ず、門を出て三五步せざるに常の如く鳴くと有つて、元之大德年間、仁宗在潛邱、日奉答吉太后駐輦、特苦群䵷亂喧、終夕無寐翼旦、太后命近侍、傳㫖諭之曰、吾毋子方憒憒、䵷忍惱人耶、自後其毋再鳴、故至今此地雖有䵷而不作聲、後仁宗入京誅安西王阿難答等迎武宗即位時大徳十一年也越四年而仁宗継登大寳と輟耕錄を引き居る。淵鑑類凾四四八、南史曰、沈僧昭少事天師道士、中年爲(ヲサム)山陰縣、梁武陵王紀爲會稽太守、宴坐池亭、蛙鳴聒耳、王曰殊廢絲竹之聽、僧昭咒厭十許口便息、及日晩、王又曰、欲其復鳴、昭曰王歡已闌、今恣汝鳴、卽便喧聒。輟耕錄曰、宋季城信州掘土南池、每春夏之交、群蛙聒耳、寝食不安、今三十八代天師張廣微、朝京囘、因以告天師朱書符篆於新瓦上、使人投池中、戒之曰、汝蛙毋再喧、自是至今寂然。又佛國のウルフ女尊者アミアン付近の小廬に住みし時、一朝ドミス尊者勤行を促がし其戶を敲きしも、蛙聲に紛れて聞えず眠り過した。ウルフ寤めて大に之を悔い基督に訴へしより、其處の蛙永く鳴き止んだ。リヲールとウアンの二尊者亦蛙が喧しくて說法と誦經を碍ぐるを惡み其鳴を永く禁じたと云ふ(Collin de Plancy, ‘Dictionnaire critique des Reliques et des Images miraculeuses,’ 1821-22, tom.i, p.39)。レグルスとベンノの二尊者傳亦同樣の事あり(Gubernatis, ‘Zoological Mythology,’ 1872, vol.ii, p.375)。是等諸例、古希臘や西歐其から支那にも鳴かぬ蛙の話有るを示し、其國々に蛙を「歸る」と同似の名で呼ばぬから、歸らずの意味から鳴かぬ蛙の譚が出たと言ひ難い。さりとて日本の話だけは語意の取違へから生じ、外國のは地勢や蛙の生理上の影響から生じたと說かんとも鑿せるに似たりだ。 (大正五年三月鄕硏第三卷十二號)
[やぶちゃん注:「鳴かぬ蛙」両生綱 Amphibia無尾目 Anuraのカエル類は南極大陸を除いた全大陸及び多くの島嶼に棲息する(アカガエル類(無尾目カエル亜目アカガエル科アカガエル亜科アカガエル属 Ranaの一部は北極線より北にも分布する)。彼らの発声器は鳴嚢(めいのう)を膨らませることによるが、鳴嚢が咽喉の前にある種類と、両側の頰にある種類とがある。さて、鳴かない蛙であるが、決して珍しいものではなく、そもそもが多くのカエルの♀は鳴かない(鳴く種もいる。但し、カエルの雌雄の識別は素人には難しいという)。また、無尾目アマガエル上科ヒキガエル科 Bufonidae のヒキガエル類の多くは鳴嚢が持たず、♂が繁殖期に鳴くものの、大きさに反して「クックッ」といった想像以上に小さな声で、寧ろ、鳥の声に似ている(以上は複数のウィキ及びQ&Aサイトの「鳴かないカエル」への回答を参考にした)。
「川村氏」「選集」の割注によれば、川村杳樹とある。本電子化で何度も注した通り、柳田國男のペン・ネームの一つ。同じく「選集」割注で、以下の論考元を「蛙のおらぬ池」(『郷土研究』三巻十一号六百六十八ページ)とする。この論考、所持する「ちくま文庫」版全集には所収されていないが、調べたところ、筑摩書房の旧全集「定本柳田國男集」の第二十七巻(一九六四年刊)にあることが判った。同巻は、サイト「私設万葉文庫」のこちらで電子化されてあるので、引用させて戴く。一部の漢字を正字化し、記号も一部で削除・変更を加えた。「(ノ)」は送り字と考え、上付き括弧なしとして処理した。「?」は表示不能字であろうが、「■」に代えた。「啞」(おし)或いは、その異体字、又は同義の別字か?
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蛙の居らぬ池
紀州小倉の七不思議の一に、寺の蓮池に住む蝦蟆、上人に叱られてより聲を出さずと云ひ(鄕土硏究三卷五六一頁)、伊豫松山城の濠の蛙も殿樣の沙汰で鳴かなくなつたと云ふ(同五六三、四頁)。上州太田の吞龍樣にも同じやうな話がある。かゝる譯も無い事柄が諸國に取囃されて居るのは、それこそ却つて不思議である。總別水に住む蛙は所謂妻を呼ぶ時の外は何處でも鳴かない。又遊牝(さかり)の季節になると集まる所があつて、どこの池でも躁ぐとはきまつて居らぬ。蛙の鳴かぬ池などは寧ろ七平凡の一に數ふべきものである。但し各地でそれを不思議と認むるに至つたのは、別に何等かの仔細が無くてはならぬ。近江野洲郡篠原村大字大篠原(おじのはら)の島橋の東に、不歸の池と云ふ東西に長い池がある。池の東の岡を夕日ノ岡と謂ひ、同じく西を朝日ノ岡と呼ぶ。齋藤實盛の首洗池と云ふ口碑もあるが、池の名の由來として傳ふるは、此郡兵主村大字五條の兵主の神、每日三度づつ此池へ影向あつて、歸りたまふを見ず、故に歸らずの池と呼ぶ。一說には此池神池にして蛙住まず、故に蛙不入池とも云ふ由(近江國輿地誌略六十八)。たつた一つの例では勿論斷定は能はぬけれども、事によると蛙が鳴かぬと云ふ各地の不思議は、右と同樣に歸らずの池の意味が不確かになつてからの後の造說であるかも知れぬ。歸らずと云ふ語の神靈降臨を意味するらしき事は、前に大和在原寺の一村薄(ひとむらすゝき)の由來に關聯して之を述べた(鄕土硏究二卷一九九頁)。卽ち業平が或朝吉野川の上に往つたまゝ歸つて來なかつた故に、塚を築いて薄を栽ゑたと云ふのである。橋占の場所を意味するらしき姿不見橋に出でて歸らざりし下部の話を傳へ(同二卷六〇三頁)、或は奧州三戶郡の淺水橋に、前夜來て宿つた旅人が朝になると見えぬと云うて居た如き(同上)、何れもこの簡單に失する地名の爲に、或は長者の寶埋め、或は一つ家の石の枕と云ふやうな意外の方面に話が移つて行つたが、實際は何れも神靈去來の跡の凡眼には認め難いことを意味したもので、自分は同じ例の中に數ふべきものと考へて居る。中にも蛙不入の如きは下手な解釋で譯も無く反證が擧げ得られた爲に、轉じては「居ても鳴かぬ」と云ふことに說き始めたのであらう。日每に三度づつと云ふのは食時の時と云ふことで、所謂朝饌問夕饌問(あさげとひゆふげとひ)の語の通り、神は祭を享けたまふ機會にのみ此世の人に應接せられるのが、日本の古い習であつたのである(鄕土硏究一卷二〇五頁)。同じ近江の地誌には兵主明神に就て又こんな話を記して居る。源の頼朝が平治の没落の際此地を過ぎた時、歸らずの池の畔に於てどうしても馬が進まぬのに不審し土地の者に聞くと、此神一日に三度づつ池へ影向あれば、今が或は其時であらうかとの答であつた。依つて下馬禮拜して武運を祈り、天下一統の後社殿を造營せられたと云ふ(近江國輿地誌略六十九)。巫覡を意味するヨリマシと云ふ語が、飛んでも無い地方に源三位賴政を神とする原因となつたことは曾て說いたが(鄕土硏究一卷五二一頁)それと同じ錯誤で神輿の前に立つ童兒を賴朝と云ふ實例も多いことである。又神を水邊に迎へて祭をすることも古來常の事であつた。此等の點に就ては更に證據を具へて又述べるつもりであるが、今は單に■の蛙の起源として此だけの推定を下し、反對論の有無を伺うて見る迄である。
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「近江輿地誌略の一文」「近江輿地誌略」(おうみよちしりゃく)は享保一九(一七三四)年に完成した近江国地誌。膳所藩主本多康敏の命により同藩士寒川辰清が編纂したものだが、寛政一〇(一七九八)年に藩主本多康完(やすさだ)から幕府に献上されるまで実に六十五年もの間、秘匿されていた書籍であった。以上の柳田の記載で巻号が判ったので、国立国会図書館デジタルコレクションの「大日本地誌大系」版でここに発見した。現在の滋賀県野洲(やす)市大篠原(おおしのはら)の蛙不鳴池(グーグル・マップ・データ。以下同じ。同書では「不歸(カヘラスノ)池」とする)で、ここの池の南東直近は源義経によって平宗盛の斬殺された場所とされ、「平家終焉の地」ともある。同書には、この池が「平宗盛が首洗池」と呼ばれたともある。記事には確かに神の影向(ようごう)してお帰りになる様子がないとあるのだが、これは寧ろ、宗盛と子の清宗が京に「帰らず」に殺された「池」という方が、噂としては遙かに説得力を持つように思うのだが。
「漕付て了つた」「こぎつけてしまつた」。「池」だから「漕ぐ」か。「こじつけて」の洒落だ。
「プリニウスの博物志八の八三章に、キレネ島の蛙本來啞だつた處へ、後に大陸から鳴く奴を移した。但し今も鳴かぬ者が存在する。當時(西曆紀元一世紀)セリフヲス島の蛙も亦瘖」(おし)「だが他所へ移せば鳴く。テツサリアのシカンドルス湖の者亦然りと有る」所持する平成元(一九八九)年雄山閣刊の中野定雄他訳になる第三版「プリニウスの博物誌Ⅰ」から引く。「主の地方的分布」の一節である。『キュレネではカエルは鳴かなかった。そして本土から鳴くカエルを輸入してきてもだまり種[やぶちゃん注:「だまり種」で一単語であろう。]はいなくならない。セリブス島のカエルも鳴かないが、その同じカエルもどこか他のところへ移されると鳴く。このことはテッサリアのシッカネア湖でも起るという。』。熊楠は「キレネ島」と言っているが、キュレネは島ではない。アフリカ大陸北岸の現在のリビア領内にあった古代ギリシャ都市である。「セリフヲス島」「セリブス島」は現在のギリシャの、エーゲ海にあるキクラデス諸島西部のセリフォス島。「テッサリアのシッカネア湖」テッサリアはギリシャのここだが、湖は判らない。
「是等は本邦の諸例の樣に偉人の爲に聲を封ぜられた沙汰は無い。J. Theodore Bent, ‘The Cyclades,’ 1885, p.1 に、著者躬ら往き見しに、セリフヲス島の蛙は今はみな鳴くと有る。」イギリスの探検家・考古学者・作家ジェームス・セオドア・ベント(James Theodore Bent 一八五二年~一八九七年)の「キクラデス諸島又は島内のギリシャ人たちの生活」(The Cyclades; or, Life among the Insular Greeks)。「Internet archive」で原本が見られ、当該ページはここ。
「元之大德年間、仁宗在潛邱日、……」冒頭注で述べた通りで、訓読を試みる。
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元の大德年間、仁宗、潛邸(せんてい)に在りし日(ひ)、答吉太后(たうきつたいごう)を奉りて、輦(くるま)を懷孟(くわいまう)に駐(とど)む。特(ただただ)、群䵷(ぐんあ)の亂喧(らんけん)なるを苦しみ、終夕(しゆうせき)、寐(い)ぬること無し。翼旦(よくあさ)、太后、近侍に命じて、旨(むね)を傳へ、之れを諭(さと)して曰はく、「吾れらが母子、方(まさ)に憒憒(くわいくわい)たり。䵷、人を惱まするに忍びんや、自-後(これより)其れ、再び鳴く毋(な)かれ。」と。故に、今に至りて、此の地、䵷、有りと雖も、聲を作(な)さず。後、四年を越えて、仁宗、大寶(たいほう)に登る。
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「潛邸」は皇帝となる前の人物の居場所或いは太子となる前の地位を指す。ここは後者であろう。「懷孟」現在の河南省焦作市一帯に設置された州名。「䵷」蛙の異体字。「憒憒」ごたごたとして、乱れるさま。「地雖有䵷而不作聲」の後には、「後仁宗入京誅安西王阿難答等迎武宗卽位時大德十一年也」が入って、「越四年而仁宗継登大寳」となっている。実はこれが入っていないと、歴史的事実を誤ることになる。則ち、「大德十一年」に先々代の成宗テムルが崩御し、武宗カイシャンが次ぐが「四年後」の至大四年に急死し、アユルバルワダが「大寳」(皇帝)仁宗となるからである。「答吉太后」アユルバルワダには皇后が二人おり、一人はダルマシリ「答里麻失里皇」というが、彼女であろう。
「淵鑑類凾四四八、南史曰、……」「淵鑑類凾」はさんざん出た熊楠御用達の清の康熙帝勅撰に成る類書(百科事典)。原文との校合は「漢籍リポジトリ」のこちらに拠った。ガイド・ナンバー[453-28b]を見られたいが、かなり途中を省略している。訓読する。
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「南史」に曰はく、『沈僧昭(ちんそうしやう)、少(わか)くして天師道士に事(つか)へ、中年にして山陰縣を爲(をさ)む。梁の武陵王紀(き)、會稽の太守たり。池亭に宴坐するに、蛙、鳴くこと、耳に聒(かまびす)し。王曰く、
「殊に絲竹の聽(ちやう)を廢(めつ)す。」
と。僧昭、呪-厭(まじなひ)すること十口(じつく)許(ばか)りにて、便(すなは)ち、息(や)む。日の晚(く)るるに及び、王、又、曰はく、
「其れ、又、鳴くを欲す。」
と。昭曰はく、
「王の歡、すでに闌(たけなは)なり。今、汝の鳴くに恣(まか)す。」
と。
卽-便(たちま)ちに喧-聒(かまびす)し。』と。
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「天師」道教の一派である天師道。五斗米道(ごとべいどう)とも呼ぶ。後漢末に起こった初期道教の宗教結社。二世紀後半に張陵が老子から呪法を授かったと告げて創始し、自らを「天師」と称し、祈禱によって病気を治し、信者に謝礼として米五斗を納めさせた。孫の張魯に至って教説が大成し、組織も確立して一大宗教集団を築いたが、魏の曹操の征伐を受け、弱体化した。
「輟耕錄曰、宋季城信州掘土南池、……」「輟耕錄」は元末の一三六六年に書かれた陶宗儀の随筆。中文サイトのこちらの電子化原文と校合した。やはり省略があり、熊楠の引用には一部に不審箇所があったので訂した。訓読する。
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「輟耕錄」に曰はく、『宋の季城、信州の南池は、春夏の交(かは)り每に、群蛙(ぐんあ)、耳に聒(かまびす)しく、寢食、安(やす)んぜず。今、三十八代の天師張廣微、京に朝(てう)して囘(かへ)るや、因りて朱書を以つて新しき瓦の上に符篆(ふてん)し、人をして池中に投ぜしめ、之れを戒(いまし)めて曰はく、「汝ら、蛙、再び喧(かまびす)しきこと、毋(な)かれ。」と。是れより、今に至るまで、寂然たり。』と。
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「佛國のウルフ女尊者」引用元の「Collin de Plancy, ‘Dictionnaire critique des Reliques et des Images miraculeuses,’ 1821-22, tom.i, p.39」コラン・ド・プランシー(J. Collin de Plancy 一七九四年或いは一七九三年~一八八一年或いは一八八七年)はフランスの文筆家。当該書は「遺物と奇跡のイメージに関する評論的辞書」。一八二一年刊。「Internet archive」で原本が見られ、当該部はここで、そこに“Ulphe”の名があり、「ドミス」も“Domice”と出る。前者はカトリック教会によって聖人として認められている女性のサント・ウルフェ(Sainte Ulphe 七一一年~七八九年)で、後者は彼女ともに朝の礼拝をせんとした人物である。仏文の彼女のウィキに、“La légende du miracle des raines”(「蛙の奇蹟の伝説」)の項がある。機械翻訳でも十分に意味が採れるので、参照されたい。それによれば、ドミスがその泉のカエルを鳴かぬようにしたのは聖ドミスとするが、別なヴァージョンではウルフェ本人が祈って黙らせたともあって、熊楠の記すのは後者である。
「アミアン」Amiens。フランスの北部の現在のソンム県の県庁所在地。
「小廬」「せうろ」或いは「いほり」。
「寤めて」「さめて」。
「レグルスとベンノの二尊者」「Gubernatis, ‘Zoological Mythology,’ 1872, vol.ii, p.375」イタリアの文献学者コォウト・アンジェロ・デ・グベルナティス(Count Angelo De Gubernatis 一八四〇年~一九一三年)の「動物に関する神話学」。「Internet archive」のこちらで当該原本が見られ、そこの右ページ中央に、“St. Regulus and St.Benno”と出て、以下にカエル絡みの話が出る。]
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