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2022/06/11

「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「幽靈の手足印」(1)

 

[やぶちゃん注:本論考は大正四(一九一五)年九月発行の『人類學雜誌』三十巻第九号に初出され、後の大正一五(一九二六)年五月に岡書院から刊行された単行本「南方隨筆」に収録された。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(ここから)で視認して用いた。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 本篇は短いので、底本原文そのままに示し、後注で、読みを注した。そのため、本篇は必要性を認めないので、PDF版を成形しないこととした。なお、他に比してやや長く、注も必要なので、底本の三段落で分割して公開する。

 

     幽靈の手足印

 

 甲子夜話續篇卷八五に、天保三年京都大佛開帳の時「京都を通行せし者に聞きしは、彼の大佛の宮の殿内寶物を置きし間所々有る中、書院の緣側幅二間長さ十間斗りの所の板天障に血付たる手の跡足形又はすべりたるかと見ゆる痕有り。其色赤きもあり黑み付きたるも有り。板天障一面此の如し。人傳ふ。關白秀次生害の時隨從せし人、腹切り刺違へて死したる時の板鋪の板を、のちに此天障板にせし者と云ふ」と有り。明治十五年予高野山に登つた時、秀次一行が自殺した靑巖寺で右樣の物を見たが今も存するか知らぬ。蔀關月の伊勢參宮名所圖會三にも、伊勢度會郡山田上の鄕久留町の久留山威勝寺の條に、「本堂の天井には人の手足の形多く、赤き色にて一面に見えたり。是を俗に三好(下總守長秀孫三郞賴澄兄弟、永正五年四月十一日當所にて北畠中納言材親と戰ひ負け自殺)討死の時の血に染たるを天井とせしと云ふ。又洛の養源院にも桃山の血天井と云る物有り。又堺の寺にも此類有り。是を以て思ふに是木理自然の斑文にして血に染みたるには非るべし」と見ゆ。 是等らは所謂血附きの手形足形を事實自殺者の遺跡と傳へたのだが、木板に留めた足形を神異の物とした例もある。和漢三才圖會七三、大和大三輪寺、寺丑寅隅有人足跡、遺形於板、于今溫煖、相傳、明神見里人女、生子、其兒十歲入定去云々。吉原賴雄君言く「常陸國土浦在殿里に、產兒の足として小流上の石橋に恰度赤子の右の足程の跡が筑波山の方を向つて凹んで黑く殘つて居る。餘程古くから有るらしい云々。此足跡に溜つた水を夜泣きする子供に飮せると必ず泣止むと云ふので、其水を採りに來る者が多い。左の片方は筑波山麓の神郡とかに有るさうだ」と(鄕土硏究一卷三號一七七頁)。大三輪寺の小兒の足跡は木板に殘したものだが血痕では無く、殿里のはただ石に印された小兒の足跡で、共に血天井に緣薄いが、小兒の足跡は本朝で此二例しか見當らぬが珍しさに書付く。

[やぶちゃん注:『甲子夜話續篇卷八五に、天保三年京都大佛開帳の時「京都を通行せし者に聞きしは、……』これは松浦静山の当該巻の冒頭の、「大佛殿諸堂緣起【樓門、尊像、二王御丈門内高麗犬之圖 ◦殿門の間數 ◦三十三間堂之由來矢數之濫觴。】幷御寶錄 ○大佛殿再建之繪圖椽側板天障豐氏の威哀、又大坂の人心舊染を脫ざる等の話」であるが、これは所持する「東洋文庫」版(二段組)で十六ページ(八つの図を含む)もあり、とてもこれは今までのように手軽にすぐ電子化することは出来そうもないので、あきらめた。熊楠の引用は、終わりの方の付記っぽい一節である。以下に当該部のみを恣意的に正字で電子化して、お茶を濁す。カタカナ・ルビは珍しい静山が振ったものである。

   *

この開帳のとき、京都を通行せし者來りたるに聞しは、かの大佛の宮の殿内、寶物を置し間所々有る中、書院の緣側、幅二間[やぶちゃん注:三・六三メートル。]長さ十間[やぶちゃん注:十八・一八メートル。]斗りの所の板天障(イタテンヂヤウ)に血つたる手のあと、足かた、又はすべりたるかと見ゆる痕あり。其色赤きもあり。黑みづきたるも有り。板天障一面この如し。人傳ふ。昔し關白秀次生害のとき、隨從の人、腹切り刺ちがへ抔して死したるときの板鋪の板を、後に此天障板に爲(セ)し者と云。

   *

これは、当時の京都東山の、例の因縁の方広寺(グーグル・マップ・データ。以下同じ)大仏の再建のための天保三(一八三二)年に行われた仮大仏殿の御開帳であり、その当時の同寺の宝物殿のそこに、そのような手足の跡があったというのである。しかし、思うに、これは、又聴きであり、実は方広寺から南に五百メートルほどの直近にある、後に注する養源院の血天井との混同ではないかと私には思われる。或いは、同様の血天井が方広寺にもあったのかも知れないが(しかし同寺は何度か地震崩壊や火災に遇っており、仮にあったとしても残っていたかどうかは怪しい)、よく判らぬ。

「明治十五年」一八八二年。

「靑巖寺」明治二(一八六九)年まで高野山上に存在した寺院。当該ウィキによれば、『現在の金剛峯寺境内の東部にあった寺院で、学侶方の寺務をつとめた中心寺院であったが、西隣にあって行人方の役寺であった興山寺(廃寺)と合体して金剛峯寺となっている。現在では高野山真言宗の管長・座主の住坊である』。文禄四(一五九五)年七月十日、『関白豊臣秀次は秀吉の不興をかって高野山に追放され、翌日、木食応其』(もくじきおうご)『に従って当寺で剃髪したが許されず、同月』十五日、『応其の勧めにより』、『青巌寺の柳の間で切腹し、雀部重政以下侍臣もみな殉死した』とある。その後に一度、青巌寺は焼失したらしく、熊楠の見たものも、これ、かなり怪しい。

「蔀關月の伊勢參宮名所圖會三にも、伊勢度會郡山田上の鄕久留町の久留山威勝寺の條に、「本堂の天井には人の手足の形多く、……」蔀関月(しとみかんげつ 延享四(一七四七)年~寛政九(一七九七)年)は絵師。本姓は柳原氏。大坂で書店千草屋を営む傍ら、絵を嗜み、月岡雪鼎に師事。この「伊勢参宮名所図会」(寛政九(一七九七)刊」や、「日本山海名産図会」(寛政十一年刊)などの挿絵を描いた。私は後者を、昨年、四十九回で全電子化注を終えている。「久留山威勝寺」は明治三(一八七〇)年に廃寺となり、現存しない。三重県伊勢市辻久留(つじくる)のこの中央にあった。「伊勢参宮名所図会」の板行本では何故か見つからなかったが、国立国会図書館デジタルコレクションの活字本(「大日本地誌大系」大正五(一九一六)年刊)の「勢州度會(わたらい)郡」のここで見出せた。右ページの上段の「久留山威勝寺(クルサンヰシヤウジ)」の項の「○」解説の最初の部分に出る。

「永正五年」一五〇八年。

「北畠中納言材親」(きちか 応仁二(一四六八)年~永正一四(一五一七)年)は伊勢国司北畠政郷(まささと)の長男。材親の「材」の字は将軍足利義材の諱の一字。永正七(一五〇九)年に正三位、翌年には権大納言に任じられている。これに先立つ永正五年に、父政郷の死去を受けて国司家を継いだが、この頃、室町幕府は管領細川家が高国方と澄元方に分裂して激しく動揺していた。劣勢となった澄元の党類、三好長秀が伊勢山田に逃亡してくると、高国と結んだ材親は、永正六年、軍を送って、これを討ち滅ぼしている。

「養源院」京都府京都市東山区三十三間堂廻(まわ)り町(ちょう)にある浄土真宗南叡山養源院。寺名は浅井長政の院号から採られたもの(当初は天台宗)。三十三間堂(正式名称は「蓮華王院本堂」。同じ京都市東山区にある妙法院(天台宗)の飛地境内)。の東向かいに位置する。俵屋宗達作の重要文化財があり、これも伏見城で自刃した将兵の霊を供養するために描かれたものと伝えられており、本堂の俵屋宗達作の重要文化財「襖絵」と象や唐獅子や麒麟などを図案化した「杉戸絵」で知られる。

「桃山の血天井」本堂の天井。「関ヶ原の戦い」の前哨戦である「伏見城の戦い」で鳥居元忠以下二千人余りが城を死守して最後に自刃した、廊下の板の間を、供養のために天井としたもので、武将達の遺体は残暑の残る八月から九月中旬まで放置されていたとされ、そのため、今も生々しい血の痕があちこちに残っている。前注とともに参照した当該ウィキによれば、『同様の血天井は宝泉院・正伝寺・源光庵にもある』とある。私は京に冥く、行ったことがないが、グーグル画像検索「養源院 桃山の血天井」を見るに、これは……凄絶だな……

「堺の寺にも此類有り」よく判らないが、大阪府和泉市尾井町にある曹洞宗小林山蔭凉寺か。同じく「伏見城の戦い」由来の板による血天井がある。他の「血天井」も挙がっているが、グーグル画像検索「蔭凉寺 血天井」をリンクさせておく。

「木理」「もくり」木目(きめ)に同じ。

「自然の斑文にして血に染みたるには非るべし」う~ん、少なくとも、「養源院」のものは、画像を見る限り、そんなシミュラクラじゃないけどな。……

「和漢三才圖會七三、大和大三輪寺、……」所持する原本で訓読する。「大三輪寺」は「おほみでら」と訓じておくが、「大御輪寺(だいごりんじ)」が正しい。聖徳太子創建とされる、現在の桜井市の大神(おおみわ)神社の関連寺院(この寺を含めて三寺あった)であったが、廃仏毀釈で総て消え去った(後の一九七七年にその内の一寺は、曹洞宗三輪山平等寺として復興している)。

   *

大三輪寺   三輪社の近處(きんじよ)に在り。寺領三十石。

  開山 慶圓法師【法相[やぶちゃん注:法相宗の意。玄奘の弟子慈恩大師基(き)が開いた宗派。本邦では薬師寺・興福寺が知られる。]。】

丑寅の隅(すみ)に人の足跡、有り、形(なり)を板に遺す。今に。溫煖(あたゝ)かなり。相傳ふ、「明神、里人の女(むすめ)に見(まみ)えて、子を生(うま)す。其の子、十歲にして入定して去ると云云。

   *

「吉原賴雄君」民俗学研究者のようである。『郷土研究』の投稿に複数回の投稿を見る。

「常陸國土浦在殿里」「在」は地名ではなく、普通名詞の田舎を意味する「在」であろう。現在の茨城県土浦市殿里(とのさと)。

「小流上」一般名詞か同地の古い小字か判らない。「こながれうへ」とは読んでおく。

「恰度」「ちやうど」。

「神郡」「かんごほり」で、現在の茨城県つくば市の大字の神郡(かんごおり)のこと。

「殿里のはただ」「殿里のは、ただ」。珍しく表記が「たゞ」でも、「只」・「但」でもないので、ちょっと躓くかと思い、老婆心乍ら、注しておく。]

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