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2022/06/27

「南方隨筆」底本正規表現版「紀州俗傳」パート 「一」

 

[やぶちゃん注:全十五章から成る(総てが『鄕土硏究』初出の寄せ集め。各末尾書誌参照)。各章毎に電子化注する。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(冒頭はここ)で視認して用いた。また、所持する平凡社「選集」や、熊楠の当たった諸原本を参考に一部の誤字を訂した。表記のおかしな箇所も勝手に訂した。それらは一々断らないので、底本と比較対照して読まれたい。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 本篇では、「選集」では、異様に多くのルビが振られている。その中には、「全集」(「選集」の底本)編者によるものとは思われない特異な読みが有意に見られ、或いは、初出誌・原稿で確認したとも思われるものが散見されるので、その内、こうは普通読まないと思う、気になるものは、概ね注に出した。

 本篇の各章は短いので、原則、底本原文そのままに示し、後注で(但し、章内の「○」を頭にした条毎に(附説がある場合はその後に)、読みと注を附した。そのため、本篇は必要性を認めないので、PDF版を成形しないこととした。なお、最後の初出書誌は時に月が書かれていないので、使い勝手が非常によくない。そこで「選集」で総て月を入れた。]

 

     紀 州 俗 傳

 

       

 〇西牟婁郡中芳養村境大字、三十戶斗り塊り立つ、墓地が池の傍に有る。村の人死する每に、老狐が池の藻を被て袈裟とし、殊勝な和尙に化て池邊を步いた、每年極月に及ぶと、「日が無い、日が無い」と鳴く。正月迄日數少なしとの譯だ。之を師走狐と稱へた。此二月迄予の宅に居た下女(十八歲)の母、少い時祖母の方に燈油を運ぶに、この狐出るかと怖ろしくて、度々油を覆し叱られたが、今は迺ち狐も無く成た。

[やぶちゃん注:「西牟婁郡中芳養」(なかはや)「村境大字」ここは現在の和歌山県田辺市芳養町のこの附近(グーグル・マップ・データ。以下指示のないものは同じ)である。「ひなたGPS」のここに旧「境」の地名を見出せ、「国土地理院図」では、この中央附近に相当すると読めることから、同定出来た。

「被て」「かぶりて」。

「化て」「ばけて」。

「師走狐」「しはすきつね」。

「少い」「ちひさい」。

「覆し」「くつがへし」或いは「ひつくりかへし」又は「こぼし」。最後がよかろう。

「迺ち」「すなはち」。

「無く成た」「なくなつた」。]

 〇除夜に湯に浴らねば梟に成ると、紀州一汎に言ふ。西牟婁郡秋津村で昔は、足に黑き毛密生すと云、田邊では足の裏に松の木生ると聞き傳えた人も有た。

[やぶちゃん注:「浴らねば」「いらねば」。

「西牟婁郡秋津村」和歌山県田辺市上秋津(かみあきづ)であろう。或いはその北の秋津川地区も含まれるか。

「云」「いひ」。

「生る」「はえる」。

「有た」「あつた」。]

 〇田邊等の俗傳に、雨ふる日吃を擬す可らず。忽ち吃になると云ふ。拙妻其父より聞たは、雨ふる日に某の方角に向て吃りの眞似す可らずと有たが、只今忘れて了つた。

[やぶちゃん注:「吃」「どもり」。吃音(障碍者)。

「擬す可らず」「まねすべからず」。

「聞たは」「きいたは」。

「某」「ぼう」。実際の一定の方角を指していたが、「妻」はその方角が何方であったかを「只今忘れて了つた」というのである。

「向て」「むきて」。]

 〇田邊邊の子供が傳ふ熊野詣の手毬唄、「私の隣の松さんは、熊野へ參ろと髮結て、熊野の道で日が暮れて、跡見りや怖しい、先見りや畏い、先の河原で宿取うか、跡の河原で宿取うか、先の河原で宿取て、鯰一疋押えて、手で取りや可愛し(又酷し)、足で取りや可愛し(同上)、杓子で把ふて、線香で擔ふて燈心で括て、佛樣の後で、一切食や旨し、二切食や旨し、三切目に放屁つて、佛樣え言て行たら、佛樣怒つて遣うと仰つた」。

[やぶちゃん注:「田邊邊」「たなべあたり」或いは「たなべへん」。

「髮結て」「かみゆふて」。

「畏い」「こわい」。

「宿取うか」「やどとらうか」。

「宿取て」「やどとつて」。

「可愛し」「をかし」。

「酷し」「むごし」。

「把ふて」「すくふて」。

「擔ふて」「になふて」。

「括て」「くくりて」或いは「くくつて」。

「一切」「ひときれ」。

「食や」「くらや」。「選集」に従った。

「旨し」「うまし」。

「屁放つて」「へひつて」。「選集」は「へへって」で一貫するので、「へへつて」が正しいか。

「言て」「いふて」

「行たら」「いつたら」。「選集」は「いたら」。手毬唄であるから、後者か。

「怒つて遣うと仰つた」「おこつてやらうとおつしやつた」。]

 ○異傳には、「燈心で括つて田邊へ賣りに往て、賣なんで、内へ持て來て煮て、一切食や旨い、二切食や旨い、三切目に放屁て、田邊え聞えた」。又、「西の宮へ聞えて、西の宮の和尙樣が、火事やと思ふて、太鼓叩いて走つた」。

放屁のことを附たは、主として童蒙を面白がらせたのだ。亞喇伯夜譚抔大人に聞す物だが、回敎人が基督敎徒を取て擲るに、多くは基督敎徒が放屁すと有る。其所を演ずる每に、聽衆歡極つて大呼動すと「バートン」の目擊談だ。四十年斗り前迄、和歌山市の小兒、夕時に門邊に集つて「岡の宮の巫女殿は、舞を舞ふ迚放屁て、鍋屋町へ聞えて、鍋三つ破て、鍋屋の爺樣怒つて、ヨー臭い臭いよ」と唄つて舞た物だ。岡の宮は聖武帝行宮の跡で、刺田彥を祀り、市中に今も社有り。鍋屋町は昔し鍋釜作る者のみ住し町で有る。

[やぶちゃん注:「往て」「いつて」。

「賣なんで」「うれなんで」。

「持て」「もて」。

「煮て」「選集」は「たいて」と読んでいる。

「西の宮」不詳。兵庫県西宮市のことか。「西の宮の和尙樣」とくるのであれば、寺もどこの寺か判りそうなものだが、私はよく知らないので、不明。或いは神仏習合時代の名残となら、最早、当該別当寺は最早ないかも知れぬ。

「附た」「つけた」。

「童蒙」道理にくらいがんぜない子ども。

「亞喇伯夜譚」「選集」は『アラビアン・ナイツ』と振る。イギリスの軍人・外交官で探検家にして作家・翻訳家のリチャード・フランシス・バートン(Richard Francis Burton  一八二一年~一八九〇年)の翻訳(バートン版英訳は一八八五年から一八八八年にかけて刊行された)で知られる「千夜一夜物語」(One Thousand and One Nights /英語通称 Arabian Nights )。

「聞す」「きかす」。

「取て擲る」「とつてなげる」。

「放屁す」「ほうひす」。

「歡極つて」「くわんきはまつて」。

「大呼動」「だいこどう」。

「小兒」「こども」。

「巫女殿」「選集」は『いちとん』と振る。

「迚」「とて」。

「破て」「選集」は『破れて』とする。だと、「やぶれて」か。「こはれて」と読みたいが。「舞た」「まつた」。

「岡の宮は聖武帝行宮」(あんぐう)「の跡で、刺田彥」(さすたひこ)「を祀り、市中に今も社有り」和歌山県和歌山市片岡町(かたおかちょう)にある刺田比古(さすたひこ)神社当該ウィキによれば、『「岡の宮」の通称があるとあり、『刺田比古神社は数々の兵乱により古文書・宝物等を失っているため、古来の祭神は明らかとなっていない』「紀伊続風土記」『(江戸時代の紀伊国地誌)神社考定之部では刺国大神・大国主神とされており、明治に入って変更があったと見られている』。『社名は古くから「九頭明神」とも称されたと言い』、「紀伊続風土記」『所収の「寛永記」や』、天正一七(一五八九)年の『棟札に「国津大明神」』、慶安三(一六五〇)年の『石燈籠に「九頭大明神」』、延宝六(一六七八)年の『棟札に「国津神社」ともある』こと『から、この「九頭」は「国主」の仮字であり、本来は地主の神とする見解がある』。『神社側の考察では、祭神さえもわからないほど荒廃した刺田比古神社を氏子が再興した際、氏子が「国を守る神」の意で「国主神社」としたとして、また大国主命を祭神とする伝承も生まれたとしている』。『一方』、『本居宣長による説では、刺田比古神を』「古事記」の『出雲神話における「刺国大神」』(さしくにのおおかみ)『と推定している』。この神は「古事記」に『よると、大国主神を産んだ刺国若比売』(さしくにわかひめ)『の父神で、大国主の外祖父にあたる神である。そして』、「紀伊続風土記」では、『刺国若比売を「若浦(和歌浦)」の地名によるとし、大国主神が八十神による迫害で紀伊に至ったこととの関連を指摘している』。『そのほか「さすたひこ」の音から、刺田比古神を猿田彦神や狭手彦神と見る説もある』とある。なお、ウィキには記載がないが、「和歌山県神社庁」の同神社のページに、『一説には聖武天皇岡の東離宮跡とも伝えられる』とあった。

「鍋屋町」和歌山県和歌山市鍋屋町(なべやまち)として現存する。

「住し」「すみし」。]

〇西牟婁郡で螻蛄(ケラ)は佛の使ひ者で御器洗ふと云ふ。又蜥蜴は毒烈しく指すと忽ち其指が腐る迚、不意指た時、「蜥蜴ちよろちよろ尾の指(汝の指?)腐れ、己の指金ぢや」と咒ふ。東牟婁郡勝浦邊には、菌を指せば指が腐ると心得た老人も有た。田邊で家の入口人の多く履む處に、寬永四文錢抔を一文釘で地に打付有る。齒の痛みを防ぐ爲だ。又白紙を一二が二と唱へて橫に折り、二三が六と唱へて縱に折り、又二四が八と唱へて橫に折る。扨之を家の南の柱に釘で留置き、齒痛む時、鐵鎚で其釘を打つ時は、輙く治ると云ふ。   (大正二年四月鄕硏第一卷第二號)

[やぶちゃん注:「螻蛄(ケラ)」直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目コオロギ上科ケラ科グリルロタルパ(ケラ)属ケラ Gryllotalpa orientalis 。博物誌は私の「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 螻蛄(ケラ)」を参照されたい。「佛の使ひ者で御器洗ふ」の異名の起原は私にはよく判らない。鳴き声もこれとは一致しない。但し、ケラは捕まえて横腹を強く摘まむと、目立つ土掘り用にトゲトゲした前脚を広げ、緩めると合わせ閉じる。これは昔はよく子ども遊びでやったものだが、或いはこれが合掌の仕草に似るから「佛の使ひ者」とミミクリーしたのかも知れぬと私は思った。

「指す」「ゆびさす」であろう。

「不意」「ふと」。指た時、

「汝」「選集」では『うぬ』とルビする。

「己」同前で『わし』。

「金」同前「かね」。

「咒ふ」「まじなふ」。

「菌」「選集」では『くさびら』とルビする。茸(きのこ)のことである。

「履む」「ふむ」。

「寬永四文錢」同グーグル画像検索をリンクさせておく。

「一文」銭一枚の意。

「打付有る」「うちつけある」。

「一二が二」「いんにがに」。

「留置き」「とめおき」。

「鐵鎚」「かなづち」。

「輙く」「たやすく」。

「治ると云ふ」この咒文の原義は不明。識者の御教授を乞うものである。]

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