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2022/06/05

譚海 卷之五 天明六年江戶洪水の事 附流浪人御施行玉る事

 

○天明六年秋、關東大水にて難儀に及べり。六月中より時々雨氣にて、土用中も帷子(かたびら)など着たる事は、わづかに一二日ありしが、七月に至りて殊に雨はれず。十四日より十八日迄、去夜(いんぬるよ)五日大雨打つゞき、十九日に及(および)て快晴せしに、前夜より洪水押(おし)いで、淺草川の水(みづ)岸にあふれ、兩岸の陸地も舟にて通ふ事十日斗りは水中往來せり。御藏前は天王寺町の橋の邊より人のたけたゝず、萱寺(かやでら)の邊まで皆(みな)河の如し。淺草新堀ばたより下谷金杉千住をかけて、人家の床(ゆか)の上に水及べり。新吉原日本堤の向(むかひ)は、今戶新鳥越の邊まで、一望に海の如く、洪水堤をあまりて五丁町に押入床に及たり。中の町は床までには及ばず。本所囘向院邊も水(みづ)床をこゑ、三ツ目・四ツ目・龜井戶村に及(および)ては、水みな屋の棟に及びしゆゑ、萱屋根(かややね)を破りてはひ出(いで)、たすけ舟に乘(のり)てのがれたりといへり。三圍(みめぐり)の社の邊、秋葉權現のあたりもみなおなじ水の深さ也。平井・うけ地・木下川邊は、陸地水の高き事壹丈三尺に及べり。是は軒口(のきぐち)壹丈三尺の土藏あるによりて、水の高さを知(しり)たりと、其所の人(ひと)物がたりぬ。江戶にて水の及ばざる處は、馬喰町三丁目より、としま町をかけて、石町より芝邊に至るまで也。深川永代橋のむかひは水あふれず、仙臺河岸より北は皆水中に住居(すまひ)せり。馬喰町四丁目半(なかば)まで水押入(おしいり)、柳原あたらし橋お玉か池なども、ひとつに水中となりたり。新大橋・永代橋押流(おしなが)され、其外深川・本所邊の橋所々落(おち)たり。兩國橋は眞中の橋くひ三本水に拔(ぬか)れたれども、漸々(やうやう)にて防(ふせぎ)とめ橋落(おち)ず、川上に懸(かかり)たる大川ばしも、水勢にひづみたる故(ゆゑ)しばらく往來を通(つう)ぜず。兩國橋の西廣小路へ公儀より窮人御救(きふにんおすく)ひの小屋三十間斗(ばか)り建(たて)られ、粥を賜りしが、後々(のちのち)にぎり飯に味噌をそへて賜りたり。此まかなひは、堺町ふき屋町の茶屋へ命ぜられて、上(かみ)より米をわたし置(おか)れ、焚出しを茶屋にてせし也。每日食物(くひもの)を車に載(のせ)て運(はこび)送る。馬喰町四丁目馬場にも小屋建(たて)て、伊奈半左衞門支配所の、水に逢(あひ)たる百姓男女(なんによ)數多(あまた)入集(いりあつま)り、騷敷(さはがしき)事大かたならず。此まかなひは半左衞門殿より賜はり、廿日程をへてみなみな本地へ歸りぬ。歸る時半左衞門一人に米三合錢五文づつを賜ひ、夫(それ)より後(のち)本地に就て、日々如ㇾ此賜たる事凡(およそ)二三ケ月に至れり。洪水川普請(かはぶしん)はじまりて此事止(やみ)ぬ。普請御手傳(おてつだひ)は皆(みな)中國西國の大名に仰付られ、金子(きんす)にて伊奈家へ上納有(あり)、御普請場所へは、御勘定御役人二三人に、川方手代付添(つきそひ)、半左衞門殿家來同道にて取行(とりおこなは)れしとぞ。同時(おなじとき)井のかしら上水も漲(みなぎ)りあふれて、目白不動の山崩れ落(おち)、山下に懸(かかり)たる上水を押(おし)つぶし、小石川水道の水絕(たえ)しゆゑ、江戶の井涸(かれ)て、樋(とひ)修覆の間(あひだ)壹月餘(あまり)井水(ゐのみづ)に難儀せり。是は三年前七月、淺間山燒出(やけいで)て沙(すな)の降(ふり)たるとき、關東の川々沙に埋(うま)りて、川筋かはりしゆゑ洪水に及び、奥道中(おくだうちゆう)幸手(さつて)・杉戶の際(きは)の堤切(きれ)て、江府(がうふ)の難儀に及べりとぞ。四五十年以前大水なりしが、其年よりは水の高き事四五尺勝(まさ)れり。江戶草創以來未曾有の洪水也と、古老驚きいへり。同時(おなじとき)常州筑波の麓に安場山といふより山津浪押出(おしいで)て、銚子の湊に及びしかば、銚子の町大かた押流され、わづかに人家二軒殘りたりといへり。江戶にても芝切通しの山、小石川冰川明神の山など風雨に崩れて、往來しばらく絕(たえ)たり。四谷より牛込の際も、一兩日出水たゝへて難儀せり。此あたりは高き地面なれども水害にあへる事珍敷(めづらしき)事どもに云へり。

[やぶちゃん注:「天明の洪水」として知られる天明六(一七八六)年七月に利根川水系で発生した大水害。当該ウィキによれば、「徳川実紀」の『中で、「これまでは寛保二年』一七四二年の旧暦七月から八月にかけて日本本州中央部を襲った豪雨による洪水と高潮による災害」『をもて大水と称せしが、こたびはなほそれに十倍」と言及する規模となった』とし、『利根川水系では』、天明三『年に浅間山が大噴火を起こし、吾妻川を火砕流が流下した。大量の土砂がさらに下流の利根川本流に流れ出し、河床の上昇を招いた。これが』三『年後の水害の遠因となった』。『関東地方は集中豪雨に見舞われ』、『利根川は羽根野(現茨城県利根町)地先で氾濫を起こし、江戸市中へ大量の濁流が流下した。「栗橋より南方海の如し」と伝えられるほどの惨状とな』り、『本所周辺では最大で』四・五メートル『程度の水深となり、初日だけでも』三千六百四十一『人が船などで救出されている』とある。サイト「日立市の歴史点描」の「史料 天明6年の洪水 大甕神社の記録から」が非常に優れているので、是非、参照されたい。標題は「天明六年江戶洪水の事 附(つけたり)流浪人御施行(おんせぎやう)玉(たまは)る事」と訓じておく。

「帷子」夏に着る麻・木綿・絹などで作った単衣(ひとえ)もの。

「七月」「十四日」天明六年七月十四日はグレゴリオ暦八月七日である。

「御藏前」現在の台東区蔵前(グーグル・マップ・データ)。

「天王寺町の橋」これは「天王町の橋」の誤りであろう。「人文学オープンデータ共同利用センター」の「江戸マップβ版」の「浅草御蔵前辺図(位置合わせ地図)」を拡大して「淺草御藏」の南西端を拡大すると、奥の川(現在は暗渠)沿いに「天王町」が見え、その東に二本の閉口した橋が見えるが、そこには「鳥越橋 里俗天王橋ト云」とあるのが見える。

「萱寺」前の「浅草御蔵前辺図(位置合わせ地図)」をそのまま東北方向に少しずらすと、御蔵が切れたごく北直近に「正覺寺 榧寺ト云」とあるのが、それである。現在のここであるから、凡そ六百メートルの浅草御蔵の陸側の大通りが一メートル半以上の水深で水没していたことが判る。

「淺草新堀ばた」「江戸マップβ版」の「江戸切絵図」の「浅草御蔵前辺図(Marker List)」(ここでは先と違って右が北となるので注意の、先の榧寺の内陸側を拡大すると、左右に走る堀がある(この左手の、この彫が合流して隅田川に流れるところに先の「天王橋」が確認出来る)が、その堀の左岸(図の堀の下)に「此川ヲ新堀ト云」とある(「新」の上にかかっているランドマーク記号は左下の不透明度を左端にすると見える)。

「下谷金杉千住」この中央の東北に向かう道が「金杉通り」で、この中央附近が旧金杉である。この東北の先の隅田川の左岸が千住である(グーグル・マップ・データ)。

「新吉原日本堤の向(むかひ)は、今戶新鳥越の邊まで、一望に海の如く」「江戸マップβ版」「江戸切絵図」「今戸箕輪浅草絵図(Marker List)」の中央の□なそれが新吉原(新吉原遊廓)で、そこから、東(下方)に延びる「山谷堀」の右岸が「日本堤」で、「今戸」は山谷堀が隅田川注ぐすぐ右手に、「新鳥越」は少し入った右岸から対岸を右斜めに続いている。

「五丁町」新吉原遊廓のこと。ここは江戸町一・二丁目、京町一・二丁目、角町(すみちょう)の計五町からなっていることに由来する。この辺りは、切絵図でも田圃が多く、もともとが低湿地帯であったと考えられる。

「中の町」「江戸マップβ版」の「江戸切絵図」の「浅草御蔵前辺図(Marker List)」浅草寺の東の部分(図の下方)の東西の両「仲町」のことであろう。

「本所囘向院」ここ(グーグル・マップ・データ)。

「三ツ目・四ツ目・龜井戶村」「江戸マップβ版」の「江戸切絵図」の「本所絵図(Marker List)」を見られたいが、図の左下方に回向院(「囬向院」と表記)があり、そこから右手(東)に向って通りの名を見られたい。「御竹藏」の東端を突き抜けるそれが、「一ツ目通り」、六区画を置いて、「三ツ目通り」、さらにそのずっと先に「四ツ目通り」あるのを指す。そして、さらにその東、堀を挟んで「龜戶村」がある。

「三圍(みめぐり)の社」現在の墨田区向島にある三囲神社(グーグル・マップ・データ)。

「秋葉權現」同じ向島の秋葉神社(グーグル・マップ・データ)。同名の神社は東京には複数あるが、ここは元禄一五(一七〇二)年に大改築が行われ、江戸でも有数の著名な神社となっていた。境内には各大名から寄進された石灯籠が今も残っており、中でも大奥での信仰が篤く、物見遊山も兼ねた女中の参詣が盛んだったという(当該ウィキに拠った)。

「平井・うけ地・木下川」これは「江戸マップβ版」の「江戸切絵図」の「隅田川向島絵図(Marker List)」によって、図(包囲逆転)左端に「平井村」が(現在の江戸川区平井)、川向こうの一画に「上」「下」の「木下川村」が確認出来る。グーグル・マップ・データで「切絵図」と合致するランドマークになる「万福寺」をポイントした。さらに、「今昔マップ」で両「木下川」の地名を発見出来た。さらに、「うけ地」というのは、「切絵図」の上部右寄りにある「請シ 臺ノ下村 秋葉山」と、その南北にある「請シ」ではないか? と推理した。そうして、同じく「今昔マップ」のここに相当すると思われる位置に、地名として「請地」を見出したのである。なお、「請地」は鎌倉・室町時代に、荘園において、地頭や荘官その他が、荘園領主に対して一定額の年貢の納入を請負っている場合、その請所の土地を「請地」と言ったと辞書にある。この地名の由来はそこまで遡るのであろう。

「壹丈三尺」三メートル九十四センチ。

「馬喰町三丁目」ここの中央附近(グーグル・マップ・データ)。

「としま町」豊島町。その北西直近のこの中央附近(グーグル・マップ・データ)。

「石町」「こくちやう」で、現在の中央区日本橋本石町三・四丁目、及び、日本橋室町三・四丁目、及び、日本橋本町三・四丁目付近。この範囲内(グーグル・マップ・データ)。

「芝」現在の港区芝

「深川永代橋」現在の永代橋の少し上流側に架けられてあった。ここが旧西詰(グーグル・マップ・データ)。

「仙臺河岸」現行の江東区清澄二・三丁目付近を広くかく通称したらしい(グーグル・マップ・データ)。

「馬喰町四丁目」この中央附近(グーグル・マップ・データ)。

「柳原」「柳原通り」。神田川の右岸(グーグル・マップ・データ)。

「あたらし橋」「新橋」。上記のここで神田川に架かっていた橋(「江戸マップβ版」の「江戸切絵図」の「日本橋北神田浜町絵図」)。現在の美倉橋附近(グーグル・マップ・データ)と推定される。

「お玉か池」「お玉が池」或いは「於玉ヶ池」。現存しない。当該ウィキによれば、『現在の東京都千代田区岩本町』二『丁目』五『番地の辺りにあった池』で、『伝承によると、江戸期にあった池の近隣の茶屋にいた看板娘の名前「お玉」からとされる』。「江戸名所図会」に『よると、あるとき「人がらも品形(しなかたち)もおなじさまなる男二人」が彼女に心を通わせ、悩んだお玉は池に身を投じ、亡骸(なきがら)は池の畔(ほとり)に葬られたとある。 人々が彼女の死を哀れに思い、それまで桜ヶ池』『と呼ばれていたこの池を於玉ヶ池と呼ぶようになり、またお玉稲荷』『を建立して彼女の霊を慰めたという』。『また、江戸期の古地図では景勝地として現在の不忍池程度の面積を有していたらしいが、江戸後期頃から徐々に、神田山(駿河台)を削って埋め立てて宅地化されて、弘化』二(一八四五)年の『時点で池自体も存在し』ていなかったとある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

なども、ひとつに水中となりたり。

「新大橋」ここ(グーグル・マップ・データ)。

「兩國橋」現在のそれはここ(グーグル・マップ・データ)。但し、江戸時代のものはここよりも二十メートルほど上流にあった。

「大川ばし」現在の吾妻橋の異名(グーグル・マップ・データ)。

「兩國橋の西廣小路」「江戸マップβ版」の「江戸切絵図」の「日本橋北神田浜町絵図」の右上端。

「三十間」五十四・五四メートル。

「堺町」現在の台東区千束四丁目(グーグル・マップ・データ)。以下の葺屋町とともに歓楽街としてしられた。名称は堺出身の女性が多かったことに由来する。

「ふき屋町」「葺屋町」。中央区日本橋堀留町一丁目・日本橋人形町三丁目(グーグル・マップ・データ)。芝居小屋が多かった。

「伊奈半左衞門」【2022年6月6日改稿】公開時、誤ってずっと先代の伊奈家当主の人物を当ててしまっていたのを、何時も情報を戴くT氏が御指摘下さった。これは伊奈家最後の関東郡代であった伊奈忠尊(ただたか 明和元(一七六四)年~寛政六(一七九四)年)であるので、ここで修正した。T氏のご紹介下さった国立国会図書館デジタルコレクションの「寛政重脩諸家譜」第五輯のここに事績が記されてあり、そこにこの天明六年十二月二日に、『さきに洪水のとき、庶民賑救』(しんきふ:施し物をして貧民や被災者などを救うこと)『のことを沙汰せしにより、黃金五枚をたまひ、ことにこの事により、忠尊がはからひ、殊更によかりしとて、時服』(将軍から諸臣が褒美として賜った衣服)『二領を恩賜せらる』とあるのが、ここでの事績である。ただ、その後、家中家臣とのごたごたや、彼の養子が逐電したことを公儀に届けなかったこと等によって咎められ、寛政四年三月九日に採地没収の上、永蟄居の憂き目に遇っている。その辺りの経緯や背景は当該ウィキに詳しい。何時もながら、T氏に感謝申し上げる。

「目白不動」東豊山新長谷寺。戦前まで現在の東京都文京区関口にあった真言宗豊山派の寺院。金乗院に吸収合併されて現存しない。

「幸手・杉戶」埼玉県の江戸川(或いは古くは利根川もか)右岸の連続した地区(グーグル・マップ・データ)。

「安場山」不詳。

「芝切通しの山」この中央附近の切通しの旧称と思われる(グーグル・マップ・データ)。

「小石川冰川明神」現在の小石川にある簸川(ひかわ)神社(グーグル・マップ・データ)のことであろう。嘗つては「氷川神社」と名乗っていた。]

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