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« フライング単発 甲子夜話卷之三十二 9 河太郞幷圖 | トップページ | フライング単発 甲子夜話續篇卷之三十五 5 河神靈面圖 »

2022/06/21

フライング単発 甲子夜話卷之六十五 5 福太郞の圖

 

[やぶちゃん注:以下、現在、電子化注作業中の南方熊楠「河童の藥方」の注に必要となったため、急遽、電子化する。急いでいるので、注はごく一部にするために、特異的に《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを挿入し、一部、句読点や記号を変更・追加し、段落も成形した。四図は加工底本としている平凡社「東洋文庫」のものをトリミング補正して適切と思われる位置に挿入した。]

 

65-5 福太郞の圖

 先年、領國に、あやしき版施《はんせ》のものを到來す。後、思ひ出《いで》て、是を尋索《たづねもとむ》るに、有る處を審《つまびらか》にせざりしが、この頃【乙酉《きのととり》[やぶちゃん注:文政八(一八二五)年]。】、ふと篋裡《けふり》よりその故紙を獲《え》たり。その圖。

 

Kappagohu

[やぶちゃん注:護符に記されたそれは「水難除」(すいなんよけ)・「福太郎」・「疱瘡除」(はうさうよけ)。「疱瘡」は天然痘。頭部がもっさりと髪で覆われている。身体はミイラに近い感じである。]

 

 前圖に小記を添ふ。最《もつとも》鄙文《ひぶん》なれど、其旨《むね》を述ぶ。

「訓蒙圖彙」に云《いはく》、『川太郞。水中に有時は小兒の如くにして、長《た》け金尺《かねじやく》八寸より一尺二寸あり。「本草綱目」云、『水虎。河伯。』。

 出雲國に「川子《かはご》大明神」といふ。豐後國には「川太郞」。山國には「山太郞」【「山」の下、「城」の字を脫するか。】。筑後國には「水天狗」。九州には「川童子《かはどうじ》」。

 これ、恩返しに福を授く。因て「福太郞」と謂ふ。抑《そもそも》その由來は、相州金澤村の漁者重右衞門の家に持傳《もちつたへ》たる箱に、「水難・疱瘡のまもり」と記し有て、そのまゝ家内に祭り置くに、享和元年[やぶちゃん注:一八〇一年。]五月十五日夜、重右衞門の姊、夢中に童子來り、

「我、この家に年久しく祭らるれども、未だ能く知る者なし。願くは、我が爲めに一社を建給るべし。然らば、水誰・疱瘡・麻疹《はしか》の守神として應護あらん。」

と見へて、忽《たちまち》、夢、覺《さめ》たり。姊、訝《いぶか》しく思ひ、親類に告《つげ》て相集り、共に箱を啓《ひら》き見るに、異形のもの、あり。面《おもて》は猿の如く、四支に水かきありて、頭には凹《くぼ》かなる所あり。因て、前書の說にきわめ、夢告の故を以て、「福太郞」を稱す。後、又、某侯の需《もとめ》にて、その邸《やしき》に出《いだ》すに、某侯にも同物ありて、同じく夢告により、「水神」と勸請し、江都、その領國に於《おいて》も、屢々、靈驗ありとぞ。又、云《いはく》、今、この祠を建立に因て、「水神」と唱ふ。信心の輩は、この施版《せはん》を受《うけ》て、錢《ぜに》十二孔《こう》を寄せんことを請ふ。

  南八丁堀二丁目自身番向《むかひ》    丸屋久七

 又、この後に圖を附す。是は他人の添《そへ》る者なり。これも亦、こゝに載す。

 

Kappa31

[やぶちゃん注:以上の図にはキャプションがあり、「長ケ三尺」(約九十一センチメートル)・「重サ拾六貫目」(六十キログラム)とある。]

 

Kappa32

 

Kappa33

 

【重さ、圖の所記、信じ難し。されども、第十卷に記する、室賀氏の僕、辨慶堀にして岡へ引上んと爲《せ》しに、その力、盤石の如くにして、少も動かずと云へば、重さの如ㇾ此《かくのごとき》も、誣《しふ》ベからず[やぶちゃん注:「ありもしないことを事実のように言っていると断ずることは出来ぬ」の意。]。又、この圖を以て見れば、第三十二卷に所出の河童の圖は眞寫にして、全く一物のみ。この圖は甚《はなはだ》拙《つたな》し。】

 總じて、川童の靈あることは、領邑《りやういふ》などには、往々云《いふ》ことなり。予も先年、領邑の境村にて、この手と云《いふ》物を見たり。甚だ猿の掌に似て、指の節、四つありしと覺ゆ。又、この物は、龜の類《たぐひ》にして、猿を合せたる者なり。

 或は、

「立《たち》て步することあり。」

と云。

 又、鴨を捕るを業《なりはひ》とする者の言を聞くに、

「水澤《みづさは》の邊《あたり》に窺居《うかがひゐ》て見るに、水邊を步して、魚貝を取り、食ふ。」

と。又、

「時として、水汀《みぎは》を見るに、足跡あり。小兒の如し。」

と。

 又、漁者の言には、

「稀に網に入ること、あり。漁人は、この物、網に入れば、漁獵なし迚、殊に嫌ふことにて、入れば、迺《すなは》ち、放捨《はなちす》つ。網に入《いり》て擧《あが》るときは、其形、一圓、石の如し。是は藏六の體《てい》なればなり。因て、廼ち、水に投ずれば、忽《たちまち》四足・頭尾を出《いだ》し、水中を行去《ゆきさ》ると。然れば、全く龜類なり。

■やぶちゃんの呟き

「版施」御札として施される刷られたもののことであろう。

「訓蒙圖彙」儒学者・本草学者中村惕斎(てきさい 寛永六(一六二九)年~元禄一五(一七〇二)年:京の呉服屋の子。店が零落しても意に介さず、学問に専心し、ほぼ独学で朱子学を修めた)によって寛文六(一六六六)年)に板行された図入りの類書(百科事典)。しかし、ネット上で異なる原本を三種見たが、以下の文字列は遂に見出せなかった。「~訓蒙圖彙」という似たようなものは後に複数出ているが、それらも管見した限りでは、見出せなかった。不審。

『「本草綱目」云、『水虎。河伯。』』とあるが、明の李時珍(一五一八年~一五九三年)の「本草綱目」(一五七八年に完成したが、板行は作者の死から一三年後の一五九六年であった)には「水虎」は出るが、「河伯」は出ない。「水虎」は巻四十二の「蟲之四」の「溪鬼蟲」の項の「集解」の末尾に出、それを説明するために直後の「附錄」に載る。「溪鬼蟲」というのは、正体不明の怪虫で、容易にはモデル生物(或いは、何らかの人体に有害で、時に致命的に作用する「現象」と言うべきかも知れない。当初、私はフィラリア症を考えていたが、それでは総てを説明し難い)を同定出来ない。「和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 蜮(いさごむし) 附 鬼彈」の私の注を読まれたい。その初出部分は、

   *

又、「水虎」あり。亦、水狐の類(たぐひ)なり。「鬼彈」有り、乃(すなは)ち、溪毒の類なり。葛洪(かつこう)が所謂(いはゆ)る「溪毒」なり。射工(しやこう)に似て、而して無物の者、皆、此の屬なり。並びに之れを附す。

   *

とあって、以下に続いて「水虎」と「鬼彈」が略述される。

   *

附錄水虎【時珍曰はく、「襄沔記(じやうべんき)」に云はく、『中廬縣に涑水(そくすい)有り、「注」に『沔中(べんちゆう)に、物、有り、三、四歲の小兒のごとく、甲(かふら)、鱗鯉(せんざんかう)のごとし。射(い)るも、入(い)る能はず。秋、沙の上に曝(さら)す。膝頭(ひざがしら)は虎の掌(てのひら)の爪に似て、常に水に沒す。膝を出だして、人に示す。小兒、之れを弄(もてあそ)べば、便(すなは)ち、咬(か)む。人人、生(しやう)にて得る者(もの)、其の鼻を摘(つま)みて、小小、之れを使ふべし。名づけて「水虎」と曰ふ。】

   *

この形状と最後の部分の意味不明さで、私が一筋縄ではいかないと言っている理由がお判りだろう。なお、「河伯」はしばしば河童のルーツのように言われるが、私は全く関係ないと考えている(九州の河童伝承には河伯との意味付けがなされてあるものがあるが、私は後付けと疑っている。本邦の河童伝承は中国の河伯などとは形態も属性も異なっている)。平凡社「世界大百科事典」によれば(コンマを読点に代えた)、『中国の神話にみえる北方系の水神』。「山海経(せんがいきょう)」の「大荒東経」に、『殷の王亥が有易(狄(てき))に身を寄せて殺され、河伯も牛を奪われたが、殷の上甲微が河伯の軍をかりて滅ぼした。そのことは』「楚辞」の「天問」篇にも『みえ、殷と北狄との闘争に河伯が殷に味方したことを示す。卜辞に河の祭祀をいうものが多く、五十』もの『牛を犠牲』(いけにえ)『として沈めることがあり、水神と牛との関係が注意される』「楚辞」の「九歌」篇にある「河伯」は、『その祭祀歌である』とある。当該ウィキによれば、「河伯」は中国音「ホーポー」で、『中国神話に登場する黄河の神』とし、『人の姿をしており、白い亀、あるいは竜、あるいは竜が曳く車に乗っているとされる。あるいは、白い竜の姿である、もしくはその姿に変身するとも、人頭魚体ともいわれる』。『元は冰夷または憑夷(ひょうい)という人間の男であり、冰夷が黄河で溺死したとき、天帝から河伯に命じられたという。道教では、冰夷が河辺で仙薬を飲んで仙人となったのが河伯だという』。『若い女性を生贄として求め、生贄が絶えると黄河に洪水を起こす』。『黄河の支流である洛水の女神である洛嬪(らくひん)を妻とする。洛嬪に恋した后羿(こうげい)によ』って、『左目を射抜かれた』とある。而して、『日本では、河伯を河童(かっぱ)の異名としたり、河伯を「かっぱ」と訓ずることがある。また一説に、河伯が日本に伝わり』、『河童になったともされ、「かはく」が「かっぱ」の語源ともいう。これは、古代に雨乞い儀礼の一環として、道教呪術儀礼が大和朝廷に伝来し、在地の川神信仰と習合したものと考えられ、日本の』六『世紀末から』七『世紀にかけての遺跡からも河伯に奉げられたとみられる牛の頭骨が出土している。この』ことから、『研究者の中には、西日本の河童の起源を』六『世紀頃に求める者もいる』とある。というのを読んでも、私の無関係説は変わらない。悪しからず。

『出雲國に「川子大明神」といふ』現在の島根県仁多郡奥出雲町下阿井にある河童伝承のある川子神社である。「奥出雲町」公式サイトの「奥出雲町遺産 第1回認定」の「【遺産認定No4】川子神社と河童伝説(推薦:阿井地区川子原自治会)」に、『川子神社は、古来より玉日女命』(たまひめのみこと:当該ウィキによれば、「出雲国風土記」にのみ見られる神名で、『仁多郡の条に』ただ『一度だけ登場する』神名とある)『を祭神とし、古老の伝えによれば、阿井川の下流よりワニが恋い慕って登ってくるので、困った玉日女命が大きな石を投げ込み塞ぎ、現在地にお座りになったという伝説を残しています。また、有名な伝説に河童伝説があります。その昔、川子原の竜が淵にカワコ(河童)が棲んでおり、馬を淵の中へ引きずり込もうと馬の尻尾をつかんだが、馬の力にかなわず』、『長栄寺』(ここ)『の境内まで引きずられていったという。カワコは頭の皿の水も少なくなり、和尚さんに簡単に捕まり、「私が悪かったです。命だけは助けてください」と一生懸命に頼んだので、和尚さんは、「そんなに頼むなら許してやろう。だが、竜が淵の岩に文字を刻みつけ、その文字が消えるまでは決して悪さをしてはならないぞ」といって、淵に逃がしてやりました。それ以来、カワコは姿を見せなくなったと伝えています。興味深い伝説を残す神社として地域で親しまれています』とある。

「川太郞」「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」の「かはたらう 川太郎」を参照されたい。十二年も前の古い電子化物であるが、かなりリキを入れて注してある。

「相州金澤村」横浜市金沢区

「重右衞門の家に持傳たる箱に、……」この伝承、意外にもネット上には、この「甲子夜話」本篇以外のヒットがない。静山がこれだけ詳しい記事を書いているからには、他にもソース元の記事があると考えるの自然なのだが?

「錢十二孔」江戸時代を通じて汎用された穴開き銅銭である寛永通宝には一文銭と四文銭があったが、ここは通常の前者で十二文であろう。

「南八丁堀二丁目」江戸切絵図と対照し、現在の中央区新富一丁目のこの中央附近に断定出来る。

「自身番」江戸時代、江戸・大坂などの大都会で、市中の警備のために各町内に置かれた番所。当初は地主自ら、その番に当たったが、後、町民の持ち回りとなった。

「丸屋久七」不詳。

「第十卷に記する、室賀氏の僕、辨慶堀にして岡へ引上んと爲しに、その力、盤石の如くにして、少も動かず」この電子化に先立って「フライング単発 甲子夜話卷之十 19 室賀氏の中間、河童に引かれし事」として電子化しておいた。

「第三十二卷に所出の河童の圖」同前で「フライング単発 甲子夜話卷之三十二 9 河太郞幷圖」。河童の絵図はこれ

「全く一物のみ」「見るからに、全く以って、同一の生物体と言わざる得ぬ」という感嘆。

「領邑の境村」村名としてかなり探してみたが、不詳。

「この物は、龜の類にして、猿を合せたる者なり」この「河童の手」と称するものは、カメの手(四肢)に猿の腕(かいな)のミイラを接(つ)き合わせたものである、と静山は鋭く河童、ならぬ、喝破しているのである。

「稀に網に入ること、あり。漁人は、この物、網に入れば、漁獵なし迚、殊に嫌ふことにて、入れば、迺ち、放捨つ。網に入て擧るときは、其形、一圓、石の如し」もう、これは幻想の妖怪河童なんぞではなく、明らかに実際に網に掛かって甚だ困る、海生哺乳類のアシカやアザラシの類、或いは、次注にように、大形の淡水カメやウミガメの類である。静山はこれを以って最終的には河童の正体はカメ類だと断定しているようである。

「藏六」四本の足と頭と尾の「六」つを甲の内に蔵(=隠)「かくす」ところから、カメの異称。

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