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2022/06/10

曲亭馬琴「兎園小説別集」下巻 問答三條【乞素壓狀、地口、八分、輪池問、馬琴答。】~(1)乞素壓狀

 

[やぶちゃん注:本来の底本である国立国会図書館デジタルコレクションの「新燕石十種」第四では本篇はここからだが、これも「曲亭雜記」巻第四・下のここから所収し、ルビも振られてあるので、それを基礎底本とし、先のものを参考にして本文を構成した。一部の読みを濁音化した。下線は底本では右二十傍線である。吉川弘文館随筆大成版で、誤字と判断されるものや、句読点などを修正した。三ヶ条は直に連関しないので、分割する。]

 

   ○問目第一三ケ條

    △輪池堂問、著作堂答、

源平盛衰記(げんへいせいすいき)に、太政入道(だじやうにふだう)の新院に、御起請(ごきしやう)かゝせ申せし事を、通親卿の詞に、コツソアフ狀(じやう)といへり。文字は乞素壓狀と書きたり。此比(このごろ)參考本(さんかうほん)を比校(ひかう)せしかば、乞索献狀(こつさくけんじやう)と書して、索獻二字舊素壓と注せり。これにて先(まづ)聞えたれども、昔よりコツソアフ狀ととなへ來り、俗間(よのなか)にアフデウズクメなどいへるも、この事にやと思はれるぞ。唐書柳仲郢が傳に彈壓といへるは、其の政(まつりごと)の嚴明なるをいひたれば、壓の字は本のまゝにても通ずべきにや。然るに獻と改たるは據(よりどころ)ありや。きかまほし【輪池堂問。】

答、獻狀の出處(しゆつしよ)はいまだ詳(つばら)ならねども、參考本にしか改められしは、なかなかに誤りなるべし。貴案の如く、今のさとび言(こと)に、アフデウズクメ、又ムリアツ狀、又クビネコヲオサエテトルなどいへば、壓狀はおしてかゝする證文の事と聞ゆ。又献狀といへば、唐山(からくに)にいはゆる上書の類也。よしや手臂(しゅひ)、倒(さかしま)に置く世なりとも、太政入道臣として、新院にかゝし奉る起請文を、献狀といふべくもあらず。おもふに漢籍(からぶみ)に、壓と厭と、打まかして書たる例(ためし)多かり。漢書王莽傳に、乘其未ダニ一ㇾカラ、厭其未シヲ一ㇾ、杜鄴傳、折。又潘岳賦、厭焉、乃云、厭ハ猶ㇾ抑也とある是也。厭又狀に作り、獻も亦献に作る。こは省文(せいぶん)なり。この四字、傳寫の手に誤り易し。おそらくは盛衰記の異本に、原本の壓或は厭狀などありしを、誤りて獻献などに作りしより、參考に乞素壓狀(こつそあふじやう)といふ義を、得わきまへざりし故に、却つて献狀を正文(せいぶん)なりとして、且つ意をもて乞素の素字をも、索に改められしならん。しからばそはなまじひなる物そこねにこそあんなれ。只壓狀のみらで、此頃は怠狀(たいじやう)といふことあれども、献狀といふことは所見なし。今の學者、怠狀は後世のあやまり證文に同じといへるは、大かたのことにて、保元物語、左府賴長公の學問のうへをいへる段の怠狀は、今のあやまり證文より、その差(しな)かろきことのやうに聞ゆ。そはとまれかくまれ、今の俗語に、人をあやぶみて、叮嚀反復することを、怠狀乞(たいじやうこひ)をするといふ。こは壓狀(あふじやう)ずくめと對(たい)すべし。幷びに古言(こげん)の遣(のこ)れる也。かゝれば壓狀、怠狀は、むかしの儒者詞(じゆしやことば)なるべし。さればとて、漢籍(からふみ)に出處あるべきことにはあらず。譬へば今の曲學者のおとしばなしを落語といひ、地口(ぢぐち)を語路(ごろ)といふが如くなるべし。さて又乞素はやはり乞素にて、乞索の誤りにあらず。ゆゑいかにとならば、盛衰記に乞素と書たるは假字(かりじ)にて、コツソは隱密(いんみつ)の義なり。今も、しのびてすることをコツソといひ、女子の頭巾をオコツソ頭巾(づきん)といふ。おは敬の詞(ことば)、コソはコツソリにて、しのぶの義也。是れかつき代(かはり)の長頭巾(ながづきん)にて、途中の人目をしのぶものなれば、この名あり。よりて又按ずるに、コソコモ也。と連聲、コモはこもる也。文字には隱又陰にも當れり。よろづうちこもりてすることは、しのぶの義あるをもて、隱密をコソといふ。則是コソコモ橫音コモルの略辭にて、ひそかといふに同じ。コソは必古言なるべし。さてそのコソの間へツもじをそえて唱へしは、すなはち古俗の訛(なま)りにて、猶今俗のかたむくをカタビツコ、ほかをホツカ、あさてをアサツテなどいふが如し。かくて盛衰記の本文に據(よ)るに、太政入道、ひそかに平家の子孫後世(こうせい)の爲に、新院におして起請文をかゝし奉りしかば、通親卿のそれを譏(そし)りて、コツソ壓狀(あふじやう)といひし也。コツソは上に辨じたる隱密(いんみつ)の義にて、ひそか也。壓狀はおさえてかゝし奉りし狀也。地をうつ槌(つち)のはづるゝとも、この事のみは違(たが)ふべからずと思ふも、嗚呼(をこ)のひがごとかしらず侍れど、とにもかくにも參考本に誤り也といはれしは、なかなかに誤りにて、ふかく考へざりしによれり。かゝれば献字のよりどころを、たづねずして分明(ぶんみやう)ならん歟。

解云、かさねていふ、ひそかに退(しりぞ)くものを、俗にこそこそとにげてゆくといひ、又意中に思ふのみにてあらはにいひがたきを、こそばゆくなどいふコソも、皆ひそかの義にて、今の俗語に、こそといふこと多かれども、人のこゝろつかぬにや。いまだ注せしものを見ず。又おこそ頭巾は御高祖頭巾(おかうそづきん)にて、日蓮の綿帽子より出たりといふものあれど、附會なるべし。解再白。

[やぶちゃん注:「輪池堂」お馴染みの屋代弘賢。

「源平盛衰記に、太政入道の新院に、御起請かゝせ申せし事を、通親卿の詞に、コツソアフ狀といへり」同書第二十三巻の「新院、嚴島より還御。附けたり新院、御起請に恐る。附けたり落書の事」の一節。国立国会図書館デジタルコレクションの明治四五(一九一二)年有朋堂刊の石川核校訂「源平盛衰記 上」のここ。右ページ後ろから五行目以降で、後ろから三行目に「乞素壓狀(こつそあふじやう)」の文字列で出る。時制は治承四(一一八〇)年の安徳天皇への譲位の翌月三月の厳島御幸から帰って後である。

「太政入道」平清盛。

「新院」高倉上皇。治承五(一一八一)年に二十一の若さで病没した。

「通親卿」(久安五(一一四九)年~建仁二(一二〇二)年)は当時は高倉帝の側近であった。彼は実に後白河天皇に始まり、二条天皇・六条天皇・高倉天皇・安徳天皇・後白河院及び後鳥羽天皇・後鳥羽院及び土御門天皇という平安末期から鎌倉初期にかけて、夥しい数の天皇に仕えた。

「コツソアフ狀」現行の辞書類では「乞索壓状(こつさくあふじやう(こっさくおうじょう))」の方を正規表現としている。他人の所有物を無理に請い求め、譲渡書や契約書を書かせること。また、その文書。乞索状(きっさくじょう)とも。

「柳仲郢」(りゅうちゅうえい ?~八六四年)は晩唐の大臣。

「アフデウズクメ」歴史的仮名遣が合わないが、「壓狀盡め」か。

「ムリアツ狀」「無理壓狀」か。

「クビネコヲオサエテトル」歴史的仮名遣が合わないが、「首根つこを壓へて取る」か。

「手臂(しゅひ)、倒(さかしま)に置く」手と臂(ひじ)を転倒して言うことであろう。

「漢書王莽傳に、乘其未ダニ一ㇾカラ、厭其未シヲ一ㇾ、杜鄴傳、折。又潘岳「笙賦」、『厭焉、乃。』云、厭ハ猶ㇾ抑也とある是也」訓読しておく。

   *

「漢書」王莽(わうまう)の傳に、『其の未だに堅からざるに乘じ、其の未だしを登をせずして厭ず。』と。「杜鄴(とげふ)」の傳に、『衝(しよう)を折り、難を厭(えん)ず。』と。又、潘岳(はんがく)が「笙の賦」に、『厭焉(えんえん)、乃(すなは)ち、揚(あが)る。」の注に云はく、『「厭」は「抑」のごとし。』とある、是れなり。

   *

まず、「王莽」(おうもう 紀元前四五年~紀元後二三年)は前漢の外戚で、新の建国者。幼少の皇帝を立てて実権を握り、紀元後八年に自らが帝位に就いた(在位:八年~二三年)。その間、儒教を重んじ、人心を治め、即位の礼式や官制の改革も、総て古典に則ったが、現実性を欠いていて失敗し、内外ともに反抗が相次ぎ、自滅した。後、光武帝により、漢朝が復興されている。「漢書」の当該部は「維基文庫」のこちらで、原文が確認でき、以下の箇所であることが判る(コンマを読点に代え、一部、漢字表記・記号を変更・追加した。太字は私が施した(以下同じ))。

   *

當此之時、宮亡儲主、董賢據重、加以傅氏有女之援、皆自知得罪天下、結讎中山、則必同憂、斷金相翼、藉假遺詔、頻用賞誅、先除所憚、急引所附、遂誣往冤、更徵遠屬、事勢張見、其不難矣! 賴公立入、卽時退賢、及其黨親。當此之時、公運獨見之明、奮亡前之威、盱衡厲色、振揚武怒、乘其未堅、厭其未發、震起機動、敵人摧折、雖有賁育不及持刺、雖有樗里不及回知、雖有鬼谷不及造次、是故董賢喪其魂魄、遂自絞殺。人不還踵、日不移晷、霍然四除、更爲寧朝。非陛下莫引立公、非公莫克此禍。「詩」云、「惟師尙父、時惟鷹揚、亮彼武王。」、孔子曰、「敏則有功。」、公之謂矣。

   *

これは、とても私の手には負えない。ブログ「てぃーえすのメモ帳」のこちらに、当該部の現代語訳が載り、『まだ董賢らの計画が固まる前に未然に防ぎ、敵の企みはくじかれました。』とあるのが当該部である。次の「杜鄴」(?~紀元前二年)は前漢の官吏(成帝・哀帝の代の涼州刺史)で学者。以下の引用も「漢書」の「杜鄴伝」の一節。同じく「維基文庫」のここで原文が確認できる。以下である。同前の仕儀で示す。

   *

昔文侯寤大鴈之獻而父子益親、陳平共壹飯之篹而將相加驩、所接雖在楹階俎豆之間、其於爲國折衝厭難、豈不遠哉!

   *

現在の「折衝」に同じで、「厭難」は恐らく如何なる状況をも厭わなかったことを言うのであろう。「潘岳」(二四七年~三〇〇年)は西晋の文人。権勢家賈謐(かひつ)の門に出入りしたが、讒言にあって誅された。流麗な詩文を書き、亡妻を悼んだ「悼亡詩」が知られ、美男であったため、美男の代名詞に使われる。「笙賦」はやはり「維基文庫」のこちらで全篇が見られ、当該部は、

   *

厭焉乃揚

   *

とある。国立国会図書館デジタルコレクションの「文選正文」(もんぜんせいぶん)(明三(一八七〇)年宝文堂刊・片山兼山訓点)を見ると(左丁五行目)、

   *

焉(えん)を厭(えん)すれば、乃(すなは)ち、揚(あが)る。

   *

とあるが、よく判らぬ。但し、「厭焉」という熟語は「隠す」の意であるから、対象を隠してしまうと、その対象への感懐は抑えられるという意か。識者の御教授を乞うものである。

「省文」省略した文字や文句。

「物そこね」「物損ね」。

「怠狀」この語自体の発生は古い。元は、古代・中世に於いて罪や過失を犯した者がそれを認めて差し出す謝罪状「おこたりぶみ」を指した後、平安末期には動詞として「過ちを詫びる・謝ること」となり、中世に入ると、「訴人(原告)が訴訟の係属中、訴訟の全部若しくは一部を取下げる際に裁判所に提出する書面」を指す法用語となった。

「保元物語、左府賴長公の學問のうへをいへる段の怠狀」同書上巻の「新院御謀叛(ごむほん)思し召し立つ事」の一節。大正三(一九一四)年国書刊行会刊「參考保元物語・參考平治物語」の当該部を視認して、カタカナをひらがなに直して電子化した(割注はカットし、一部の読点を句点に変え、追加もした。また一部の語に濁点を添えた。読みは推定で歴史的仮名遣で附した。その際、所持する「新日本古典文学大系」版を一部で参考にした。太字は私が附した)。

   *

 宇治の左大臣賴長と申(まをす)は、知足院の禪閤殿下忠實公[やぶちゃん注:元関白藤原忠実。当時、存命。]の三男にておはします。入道殿の公達の御中に、殊更愛子にておはしましけり。人がらも左右に及ばぬ上、和漢ともに人に勝れ、禮義を調へ、自他の記錄に暗からず。文才、世に知られ、諸道に淺深(せんじん)を探る。朝家、重臣・攝錄[やぶちゃん注:関白の唐名。]の器量也。されば御兄(おんあに)法性寺殿(ほつしやうじどの)[やぶちゃん注:藤原忠通。当時は関白。]の詩歌に巧(たくみ)にて、御手跡(ごしゆせき)の美しくおはしますをば、貶(そし)り申させ給て、

「詩歌は閑中(かにちゆう)の翫(もてあそび)なり。朝家の要事(えうし)に非ず。手跡は一旦の興也。賢臣、必しも是を好むべからず。」

とて、我身は宗(むね)と[やぶちゃん注:主に。]全經(ぜんきやう)[やぶちゃん注:四書五経を始めとした経書(けいしょ)。]を学び、信西(しんぜい)を師として、鎭(とこしなへ)に学窻(がくさう)に籠りて、仁義禮智信を正しくし、賞罰勳功をわかち給ふ。政務、きりとをしにして[やぶちゃん注:理非明快に処理して。]、上下(じやうげ)の善惡を糾(ただ)されければ、時の人、惡左大臣(あくさだいじん)[やぶちゃん注:「惡」は「鋭い」「苛烈な」の意。]とぞ申ける。

 諸人、加樣(かやう)に恐れ奉りしかども、眞實の御心(おんこころむき)は、極(きはめ)てうるはしくおはしまし、あやしの舍人(とねり)・牛飼(うしかひ)なれども、御勘當(ごかんだう)を蒙るとき、道理をたて申せば、こまごまと聞召(きこしめし)て、罪なければ、御後悔ありき。又、禁中、陣頭にて、公事(くじ)をおこなはせ給ふ時、外記(げき)官史(くわんし)等(ら)をいさめさせ給ふに、あやまたぬ次第を辨(わきまへ)申せば、『我(わが)僻事(ひがごと)』と思召(おぼしめ)す時は、忽(たちまち)に折れさせ給(たまひ)て、御怠狀(おんたいじやう)を遊ばして、彼らに、たぶ。恐(おそれ)をなして給はらざる時は、

「我、好(このみ)思召(おぼしめす)怠状也。只、給り候へ。一(いち)の上(かみ)[やぶちゃん注:左大臣。]の怠状を、以下臣下、取傳(とりつた)ふる事、家(いへ)の面目(めんぼく)に非ずや。」

と仰られければ、畏(かしこまつ)て賜(たまは)りけるとかや。

 誠(まこと)に是非明察(ぜひめいさつ)に、善悪無二におはします故也。世も是をもてなし奉り、禪定殿下も、大切の人に思召けり。

   *

「差(しな)」そのものが持つ質の違いを言う。

「地口(ぢぐち)」世間で普通に行なわれている成語に、語呂(ごろ)を合わせた言葉の洒落。次の条で考証されてある。

「連聲」「れんじやう」。平安末期から室町時代まで日本語にあった音韻現象。「三位(さんみ) 」「因縁 (いんねん) 」「雪隠 (せっちん) 」のように、ア行・ヤ行・ワ行音が、「m」音に続く時はマ行音に、「n」音に続く時はナ行音に、「t」音に続く時はタ行音に替ること。室町時代には撥音の「m」と「n」の区別が失われたので、マ行音に替る連声は殆んど見られなくなった。連声は、まず、上例のような漢字熟語の内部で起ったが、次第に「今日は (こんにった)」のように和語との結合にも及んだ(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「橫音」意味不明。「わうおん」で「普通でない発音」の意か。

「必古言なるべし」「かならず、こげんなるべし」。]

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