[やぶちゃん注:本篇は昭和二五(一九五〇)年二月号『小説新潮』に初出し、後の作品集『拐帯者』(同年十一月・月曜書房刊)に所収された。
底本は「梅崎春生全集」第三巻(昭和五九(一九八四)年六月沖積舎刊)に拠った。文中に注を添えた。太字は底本では傍点「﹅」。
標題の添え辞の「上申書」は現行の裁判に於いて、裁判所や捜査機関などに対し、法律上の手続によらずに申立や報告を行う書面を言う。
本篇は添え辞で判る通り、全編が「鷹野マリ子」一人称の裁判長に対して提出した上申書という形式で書かれている点で、梅崎春生の小説でも女性主人公の一方的な告白文という特異点であり、深い陰翳に終始する点でも、変わった作品である。
なお、本テクストは2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが本日、つい先ほど、1,780,000アクセスを突破した記念として公開する。【藪野直史】]
黒 い 花
(未決囚鷹野マリ子より裁判長への上申書)
今かんがえると、戦時中挺身隊に行ってた時の方が、今よりも、もっともっと幸福だったような気がする。私は学徒として、その頃被服廠(ひふくしょう)の分工場に通っていたのです。そこでは、特攻隊の人々の外被(がいひ)を縫うのが、私たちの仕事だった。設備も不完全だったし、坐りきりなので、健康にもいいとは思えませんでしたけれど、まだ私たちの心には張りがあった。意義がある仕事をやっている、そんな気持でいっぱいでした。
もちろん私は子供だったし、何も知らなかったんです。みんなで力を合わせて、この戦争に勝てば、すぐ絶大の幸福が自分にも来るのだと、ぼんやりそう考えていたのです。校長先生もそう言って、私たちを送り出したし、工場の主任さんもそう言って、私たちを励ましたんです。無条件で私たちはそれを信じた。
私たちは競争で、外被縫いにいそしんだ。縫い上げたこれらの外被を、若い人たちが着る時は、もうその人たちは強制的に死ななければならないのだ、そんなことには私たちはあまり気がっかなかった。一所懸命に外被を縫うことが、すべての人々を幸福にし、また、自分を幸福にするのだと、本気で思っていたんです。わけもわからずに。思えば何という惨めな、残酷なことでしょう。
しかし三月十日の空襲で、学校も工場も家も、全部焼けてしまった。私は煙の中を、父と母といっしょに逃げた。ほとんど着のみ着のままです。やっと危険地区から脱出して、道ばたに休んでいたとき、私は自分の体の異常に気がついた。私は晩熟で、それが初潮だったのです。友達などから教えられて、そんな知識もないではなかったが、場合が場合だから、気が顚倒(てんとう)して、どうしていいのか判らなかった。道ばたの石の角材に腰をおろして私はぼんやりしていた。
母がそれを見つけたのです。その時の母の顔を、私は決して忘れない。軽べつとも違う、嘲笑ともちがう、異様なつめたい笑いを頰にうかべて、母は言った。
「まあ。なんてこの子は、バカな子だろう」
私は氷の穴の底に落ちてゆくような気がした。背筋がつめたく冷えてきて、我慢しようとしても、身体がガタガタと嘸えた。そのくせ私は、痴呆みたいな薄笑いを、顔にうかべていたのです。すると母の声が飛んできた。
「ニタニタするのは、お止し!」
着ていたものの片袖を裂いて、私は手当てをした。手当てしようとする母の手を、頑強にしりぞけて、私は自分で手当てをした。眼を吊り上げたような母の顔を、私は今でも思い出せる。
私の母は、継母(ままはは)でした。私が六つ位の時に来たのです。母は子宮が悪くて、子供は出来なかった。だから言わば私に、かかりきりのような形になっていました。幼い時から私が花柳流の踊りを習ったのも、その頃の母の趣味だったのです。でも私も、踊りは大好きだった。――ところが小学校の五年のとき、私が学校の成績がすこし落ちると、それを理由に、母はさっさと私に踊りを止めさせてしまった。成績が悪くなったと言っても、ほんの一寸なのです。その頃から私は、母にある感じをぼんやり持つようになっていた。胸の奥の奥の、気がつかない深いところでは、それ以前から持ってたのかも知れませんけれど。
私たちは本郷にある遠縁の家に、落ちつくことになりました。分工場は焼けたので、こんどは下町方面のある郵便局に働きに行くことになった。同級の人たちで、四人、あの夜行方不明になっていた。四人とも、炎上した地区の人達です。その一人は、二三日して、小さな池の中で死骸が見つかったそうです。お母さんらしい死骸から、抱きしめられるようにして、池の中に沈んでいたのだそうです。それを聞いたとき、熱いお湯みたいなものが眼玉の奥を走るような気がした。
郵便局の仕事は、郵便物の整理だった。一週間のうち学校ヘ一日出るだけで、あとの五日はこの仕事。だから学生と言っても、ほとんど勉強する時間はなかった。でも私たちは一所懸命でした。
そしていきなり、終戦です。日のかんかん当る空地に整列して、私はラジオを聞きました。私は涙がむちゃくちゃに流れて、とめどがなかった。悲しいとか、嬉しいとか、口惜しいとかいう、はっきりした気持ではなかった。涙というよりも、身体の中のものが溶けて、それが瞼から流れ出るような気がした。――そして私は、大人を憎んだ。心の奥底から。
と言うのは、それから二三時間後です。私は裏の倉庫で、ひとりぼんやりしていたのです。そこへ局の主任さん(私たちはそう呼んでいたのです)がやってきて、私にひどい悪戯(いたずら)をしかけようとしたのです。チョビ髭を立てた、赤黒い顔の男です。いつも鹿爪らしく私たちに、もっともらしい訓示をしていたこの男が、厭らしく力んだような顔を、いきなり私に寄せてくるのです。私はびっくりして、気がちがいそうになった。モンペの紐が音立てて千切れた。私は無我夢中で、そばに落ちていた硝子の破片を拾い上げた。自殺するつもりだったのです。すると男は、あわてて手を離して、冗談だよ、本気にするなよと言いながら、表へ出て行った。私は身体は汚されなかった。しかし心にどろどろの汚物をかけられたような気がした。男の大人ってあんな気持に平気でなれるのでしょうか。二三時間前お国がこんなになったというのに。私には判らない。それだったら、私は死んだ方がいい。裁判長さま。貴方も大人だから、この男の気持も、お判りでしょうね。
しかしこの出来事は、私は誰にも話さなかった。友達にも、まして父母にも。
挺身隊はそれで終り、また学校に通うようになった。その年の末、父の工面で、バラックながら小さな住居と、それに棟つづきの工場が建った。父の商売は木ネジの製造で、通いの職工も四五人いました。父は近所でも、やり手だという評判でした。
仕事が忙しいせいか、性格からか、父はお酒飲みでした。しかしお酒飲んだときの父の顔は、私はあまり好きではなかった。ひどくだらしなくなる方だったから。
翌年の十月、私は女学校を卒業した。成績は二番でした。勉強が好きでもあったのです。しかし本当は、いい加減な成績をとって、母からつめたい眼で見られるのが、口惜しかったのです。母は成績にはうるさかった。
そのくせ母は、私がいい成績をとっても、決して表だって喜びはしなかった。ふん、と鼻でうなずくだけだった。成績が少しでも落ちると叱りつけたり、つめたい皮肉を言ったりした。時には、私を生んだ実母の名を出したりして。
母は私の生母を、憎んでいたのではないかしら。しかし母は生母に逢ったことはないのだから、女になった私を通して、私の中にいる生母を憎んだのでしょう。それに違いありません。
私が大切にそっとしまっていた生母の写真が、ふと見えなくなったのも、その頃でした。そしてそれは、小さく千切られて、風呂の焚口に捨てられてありました。
家にいて、配給を取りに行ったり、台所の手伝いをする生活が、だんだん重く、憂鬱になってきました。元の学校の友だちが、上の学校やおつとめに通っているのを見て、私は自分が惨めで、たまらない気がしました。私は暇をつくっては、浅草の常盤座(ときわざ)や松竹座へ少女歌劇を見に行った。もともと踊りは大好きだったし、そのひとときだけ、その世界に溺れちれるのが、私には強い魅力だった。[やぶちゃん注:「常盤座」。浅草公園六区初の劇場で、明治二〇(一八八七)年開業。「浅草オペラ」発祥の、また、古川ロッパ・徳川夢声らの軽演劇劇団「笑の王国」の旗揚げ公演の舞台として、戦後は昭和二三(一九四八)年に日本で初めて踊りを演出したストリップ・ショーを開催、浅草六区のストリップ興行の嚆矢ともなった。一九九一年の末、再開発のために閉鎖され、現存しない。
舞台として知られる。「松竹座」「浅草松竹座」。同じ六区にあった劇場。昭和三(一九二八)年八月開業。「国際劇場」(昭和一二(一九三七)年開業・昭和五七(一九八二)年閉鎖)が出来るまでは「SKD」(「松竹歌劇団」)のホーム・グラウンドとして知られた。映画の他に実演や演劇興行なども行ったが、昭和三八(一九六三)年五月に閉鎖された。]
翌年の三月から、やっとのことで、私は山手のある洋裁学校に通うことになりました。こうなるにも、一騒動あったのです。父に談判して、もし行かして呉れなければ、自殺するとまで言ったのです。定期的な生理変化のために、その日は私の気持はあらくれて、兇暴になっていたのです。私の生理は、人より長くて、ひどかった。むしろ病的だった。(しかしそれを母に知られるのを、私は極度におそれていた)結局、父は許してくれた。母は父の言に反対しないたちだったから、黙っていました。こういう事になるについても、私は自分の生理期間のあらくれた気分を、利用する下心がなかったとは言えません。こういう気持の時でなくては言えないと、胸の奥底ではっきりそう感じ、それをけしかける気持にさえなっていたのですから。
こうして私は毎日、洋裁に通うことになりました。二十二年の三月のことです。生活の変化が、とにかく私を元気づけてくれた。大勢の中に自分がいること、それが私には愉しいことに思われました。
この学校には、洋裁の他に、ダンス科というのがありました。若い女性の社交に必要だというたて前からだそうです。四月頃、友達に誘われるまま、私はその科に入った。そして私はまたたく間に、それに夢中になって行った。
私は上達が早かった。日本舞踊の素養があったせいもあるでしょうが、踊るということが本当に好きだったからです。踊ってる間は、何もかも忘れることが出来たから。忘れてその世界に没入出来たから。――一箇月経たないうちに、私は一通りステップが踏めるようになった。
その私をダンスホールに誘ったのは、上級生の人でした。永木明子という人です。こうして私は、銀座のメリイゴールドヘ行くようになった。学校の粗末な教室で踊るのでも楽しかったのに、ここの床は磨いたようになめらかだし、立派なバンドさえあって、まるで夢の国のようだった。
ホールの入場料は、一人百二十円で、同伴は二百四十円でした。私は縫紙代とか糸代とか言って、父をだまして金を貰った。私がせびると、父は細かい事は聞かずに、面倒くさそうに大きな札入れから金を出した。洋裁課程の進行状態すら、訊ねようとしなかった。訊ねて呉れれば、いろいろ答える気持は私にあったのに。金を呉れると、私と向き合っている時間も惜しいように、また工場の方に出かけて行ったりするのでした。[やぶちゃん注:「縫紙」辞書にない熟語だが、生地を裁断する前に置く型紙のことであろう。「ぬいがみ」と訓じておく。]
午前中は学校でお講義だけ聞き、午後は明子さんに連れられて、毎日のようにホールにかよった。初めは私は、明子さんとばかり踊っていた。しかしその中[やぶちゃん注:「うち」。]に、方々の大学のダンスグループの人達と、顔見知りになってきた。毎日行ってるから、自然そうなってしまうのです。そしてその人達とも踊るようになった。大学のパーティの入場券なども、絶えず貰うようになった。六月頃には、メリイゴールドでは、お金を出さずに、ホールのボーイさんにそっと入れて貰える位になった。
明子さんが私を憎んでいると感じたのも、その頃からでした。私のダンス熱をあおったのは、いわば明子さんなのに、私がホールで他の人と踊っていると、いやな顔をするのです。自分もときどき大学生と踊るくせに、私が踊ると、厭味を言ったり皮肉を言ったりする。明子さんは頰骨が高く、頰にはそばかすがありました。スタイルは良かったけれども綺麗(きれい)な顔ではなかった。男の人たちは、かげで明子さんを「ジラフ」と呼んでいました。
明子さんは私より、ずっと年上だった。高慢なところがあるので、学校ではあまり好かれていませんでした。しかし私には、初めからやさしかった。学科の方の手伝いをして呉れたり、物を買って私に呉れたりした。私は明子さんに、別段どうという感じはなかった。私にやさしくなければ、むしろ嫌いな部類の人だったかも知れません。年長だから、従っていたに過ぎませんでした。しかし明子さんは、私を従えて、いい気になっていたところもあった。メリイゴールドヘ私を連れて行ったのも、そんな気持からだったに違いありません。
ホールでそんな具合になった頃から、明子さんの親切は、へんに粘っこく、執拗(しつよう)になってきました。一緒に踊るときも、頰を必要以上にくっつけてきたり、私の腕をひどくしめつけて、私が痛がるのを気持好さそうに眺めたりした。私はだんだん、明子さんと踊るのが厭になってきた。三度に一度は、断るようにさえなった。明子さんには枯草のような体臭がありました。その臭いも、私は厭に思えた。母にそれに似た体臭があったからです。石女(うまずめ)の私の継母にも。
明子さんが私の母に、匿名の手紙を書いたのも、その頃だったのでしょう。その頃私と明子さんの間は、変にしらけて、また幾分険しくなっていた。何でもない友達の間柄でいたいのに、明子さんは私に、とかく粘ったからまりをつけて来ようとする。私はそれをいやがった。ある夜のことでした。ホールの帰りに私は明子さんから、人民広場に誘われた。話があると言うのです。もう時刻も、暗くなっていました。[やぶちゃん注:「人民広場」皇居前広場の異称。戦後の一時期、左翼勢力から、かく呼ばれた。]
私のことを、堕落してるとしきりに責めるのです。私は承服しなかった。男と踊るのが好きなのではなく、ただ踊るのが好きなんだ。そう言って抗弁したのです。それは事実でした。私はその頃、早くダンスが上達して、将来ダンス教師として独立したいとか、この道を生かして少女歌劇に入りたいなどと、本気で夢想していたのです。自分の好きな道で独立して、家庭から離れることが出来たら、どんなにかいいだろう。そう思っていた。
しかし明子さんはきかなかった。しつこく言いつのった。言いつのることで、自分の内部のものを、燃え立たせようとするかのように。そしてそれが最高潮に達したとき、明子さんは獣みたいな眼付になって、いきなり私の身体にかぶさってきた。そしてうめくように言った。濡れた頰が、私の頰に押しつけられた。
「お前は、うつくしい。お前は……」
お前、という言葉を使った。私はもう子供じゃなかったから、あの郵使局の時のように錯乱はしなかった。しかしいきなり自殺したくなるような、たまらない嫌悪感と屈辱感はあった。私は声を立てずにもがいた。彼女の枯草のような体臭が、はっきり臭いを強めてきた。女が発情すると、休臭が強くなるものだと、私はその時初めて知った。私は顔をそむけて、彼女を押しのけようとした。しかし彼女の力は強かった。
彼女の指が下着をわけ、私の肌にとどいたとき、私の心は嫌悪でまっくろになり、生きている人間全部を強く呪い憎む気持になった。彼女のその行為を支えるものが、人間同士の愛情ではなく、むしろ動物間の憎しみみたいなものであるように、私は感じたのです。人間の奥の奥底に、どろどろに淀みうごめくもの。自分を満たし、充足させるためには、他を卑しめ、おとしめ、傷つける。ほとんど憎しみと言っていい暗い衝動。ましてこれは、女同士でした。その感じは、直接で、きわめて露骨でした。私は芝生へ押えつけられたまま、烈しくあえいだ。海水浴で溺れかかった時のように、それよりももっと苦しかった。―-そしてやがて私は、全身の力ではねのけると、脚で彼女の顔を蹴った。靴のままで力をこめて、二度も三度も。
そして私は、汗とも涙ともつかぬものを、顔いっぱいに流しながら、燈のある方面へ駆(か)け走った。
つまり私は無知だったのです。彼女がそういう目的で私に近づき、親切にしたということも、私は悟らなかった。ましてあちこちの洋裁学校には、そういう趣味の人がいて、洋裁もそっちのけにして、次々相手を物色していることも。そしてそういう慾望をそそるような顔貌や姿態を、私が持っているということも。女同土の頰ずりなども、単に友愛のしるしだと考えて、明子との場合も、気持の抵抗を私は打消していたのでした。そしていきなり、この夜の出来事です。明子にしてみれば、すべては熟したと錯覚したのでしょう。しかし明子の行為や仕草は、私の胸にいきなりどろどろの嫌悪を植えつけてしまった。――しかしそれにも拘らず、明子の不潔な指の動きは、ほんの一瞬ではあったが、私の胸の嫌悪と屈辱から、肉体の感覚をとつぜん裏切らせていた。これは書いておかねばならぬ。私の肌はわずか濡れた。――それを知覚した瞬間に私は彼女の顔を蹴り上げていたのです。必死の力をこめて。
私はその夜床に入って、長いこと眠れなかった。むこうの部屋に父母が寝て、こちらに私は一人寝るのです。私は私を女の身体に産んだ父と生母のことを思い、今父に添寝する継母のことを思った。さまざまな強く烈しい感じで。また郵便局の主任の顔や、初潮の時の継母の顔を思い出した。考えて見ると、あの陰惨な煙や火焰や、溺れて水ぶくれした屍や、赤剝けして男女の別もない屍がごろごろ転がっている状況の中で、私が初めて、女になったということは、なんと暗くかなしいことだったでしょう。わめき出したいような気持をこらえて、私はいつまでも眼を見開いていた。そして私は、お前は美しいと言った明子のうめき声すら、ちらちらと思い出していたのです。倉庫で乱暴しようとした郵便局の主任も、それと同じようなことを言ったことなども。
翌日から、私は明子さんと口さえきかなかった。明子さんは顔に擦り傷をこさえていた。彼女は私を見ると、さげすむような冷たい黙殺の仕方をした。かげでは私を中傷して歩いていたのです。学校の仲間や、ホールの人たちにも。淫乱な女だと言うのです。ホールである大学生と踊っていると、あまり変な踊り方をするので、私がなじると、その大学生はいやな笑い方をしながら、下品な口調でこう言った。
「こんな踊りが、君は好きだってえじゃねえか。ジラフがそう言ったぜ」
母に匿名の手紙を書いたのも、明子さんに違いありません。私はそれを火鉢の引出しから見つけ出したのです。ずいぶんひどいことが書いてあった。ホールに通ってることは勿論、男に見境いなく身体を許すとか、そんなことまで書いてあった。私が慄然としたのはその手紙の内容でもなく、それを書いた明子さんの気持でもなかった。この手紙を読んで、しかも母がつめたく黙っているということでした。
母は近頃、あまり私にかまわなくなっていた。やって呉れねば自殺すると言って、やっと洋裁に通い出したその頃からです。生理期間の私のヒステリー性を、あるいは母は見抜き、すこしおそれていたのかも知れません。それ以後は、私の動きや変化を、つめたく見守る態度に出ていました。私の直接的な反撥の機会を、母はこの意地悪い方法で封じているようでした。
その手紙を盗んで、私は便所でそっと焼きすてた。家の中にこんな手紙があることが、私にはたまらない気がしたのです。たとい母に知れようとも。手紙に火を点けながら、私が本当に堕落するのを、母はむしろ待望しているのではないかと、私はふっと考えた。安心して生きて行ける場所が、世界中どこにもない。そういう思いが、私の胸に荒涼とひろがった。やがて私は痴呆みたいな笑いを浮べて、便所を出てきた。
学校もあまり面白くなくなった。学科も遅れるし、親しい友達とも隔てが出来てきた。ホールには相変らずかよっていました。時間をつぶすためにも、自分を忘れるためにも、好都合な場所だったからです。しかしホールでも、古くからの友達は皆、私から離れるようになった。永木明子の中傷が、そこにも行き渡っていたのです。人間というものは、自分も悪党のくせに、他人の悪なら少しでも許容しないもののようでした。
他人の悪を卑しめ批難することで、自分の悪を正当化し合理化しようとするのです。だから人間は自分の生活の周囲に、神様への申し訳にささげるいけにえの小羊を、かならず一匹用意し、設定しているものなのです。彼等にとって、この私は、頃あいの小羊でした。なまじ少しばかり学間して、教養をつけたとうぬぼれている人々も、皆例外なく、このような無自覚なエゴイストでした。中傷家はその心理をよく知り抜き、そして煽動するのです。私は中傷家というものを、心から憎みます。
こうしてホールで、私とズベ公のつき合いが始まりました。[やぶちゃん注:「ズベ公」品行の悪い女性。だらしのない、素行の悪い女。「行動や性格がだらしないこと、また、そのさまや、そのような人」を意味する「ずべら」(「ずぼら」も同じ)に、罵りの意味を込めて「公」をつけた表現。「売女」や「ビッチ」「スベタ」などと同様、女性を強く罵る意味で用いられる語である。]
ズベ公というのは、不良少女のことです。いえ、そうじゃない。ズベ公とは、自分を不良少女だと、はっきり決めた女のことです。たんに不良というならば、上品な顔をして、もっとあくどく不潔なことをしている女もいる筈でしょう。ズベ公はもっと清潔でした。たとえば永木明子のような女より、ずっとさっぱりしていました。
ホールには、何人かこのズベ公が出入りしていました。自然に私はこの人達に近づくようになった。つき合いの、ピラピラした虚飾がないだけでも、私には気楽でした。上野のチコというズベ公と、私は仲良くなりました。チコは私と同じ歳だった。青い上衣がよく似合う顔立ちだった。お父さんは有名な洋画家だけれど、家がいやで飛び出したという話でした。そして私はチコに誘われて、やがて上野界隈まで遊びに行くようになった。上野には、また銀座とちがった、ヒリヒリするような生の刺戟があった。
チコは私を仲間に紹介して呉れました。一度紹介されれば、気楽に友達になれた。この世のわずらわしい約束から、追い出されたり逃げ出したりした女たちだから、そういう点ではこだわりなく、透明でした。私には初めてのぞき見た、異質の世界だった。
ズベ公たちは、日暮里(にっぽり)とか松戸とか、あちこちの宿屋に、八人十人とまとまって、泊っていた。昼は上野地下道の青柳という喫茶店に屯(たむろ)し、そこを根拠地として、お金がある時は映画を見たり、ダンスホールに行ったり、ボートに乗ったりして遊んでいた。夜になると煙草を売ったり、アイスキャンデーを売ったりして、小遺いをかせぐのです。その頃はまだ、世間に煙草が乏しい頃だった。だからズペ公たちは、近所の煙草屋にわたりをつけてピースやコロナを公定で手に入れるようにしていた。パンパンをからかったりしている男たちに、一本十円くらいで売るのです。パンパンが、あんた買ってやりなさいよ、と言えば、こんな処(ところ)にくる男はみえぼうだから、大てい黙って買う。一箱で、四五十円の儲けになるのです。
また金がないと、グレン隊に小遺いをたかったり、ズベ公の姉御ともなれば、パンパンのかすりも入る。そのかわりズベ公たちはおのずから情報網をつくって、パンパンにカリコミの時を知らせたり、パンパンに悪ふざけをするひやかしを、追っぱらってやったりするのです。上野の山で生活している人々は、皆何かしらつながりを持ち、そのつながりの中でおのおのの職分を持っていました。女学校でならった蟻(あり)の世界を、私は聯想しました。女王蟻や、働き蟻や、見張りの役目をする蟻。ひとつの巣の中での、定められた職分。そうです。上野というところは、自然に形づくられた、ひとつの大きな巣でした。
しかしこんなことは、ずっと後になって、私がズベ公の仲間入りをしてから、判ったことでした。その頃はなにも知らなかったのです。私はチコやその仲間の生活、自由にふるまい、誰からも束縛されない生活ぶりに接して、なにかしら羨望をかんじた。上野は恐いところと、雑誌でも読み、人からも聞かされていたのが、思いの外伸び伸びして、暮しやすい場所であることを、私は漠然と知り始めた。上野のズベ公とつき合うようになったのも、学校やホールの友達が、私をのけものにしたその反動もあったが、ズベ公たちに共通な性格や物の考え方が、私に強く共鳴できるせいもあったのです。この人たちは、精神のよりどころを失いながら、なお気持を張って生きて行こうとしていました。ズベ公はズベ公だけで寝泊りして、決してパンパンをやらないのが誇りでした。
私がズベ公とつき合ってるという噂が拡がって、昔の友だちはますます、私から遠ざかった。しかし私はまだズベ公じゃなかった。ズベ公と自分を呼ばれたい気持も、全然なかった。ただ生活が満たされないままに、つき合っているに過ぎませんでした。
そしてやがて夏休みがきました。夏休みに入ることは、洋裁学校から父兄へ通知がゆくので、ごまかしがきかなかった。暑い日を毎日家にいて、遊びにくる友達もなく、私は退屈な面白くない日をおくっていた。父は相変らず忙しそうだったし、母もいつもと同じくつめたかった。しかし毎日叱言(こごと)は言った。前に書いたように、この頃の母は、大本(おおもと)のところでは私を叱らなかった。黙ってつめたく見ているだけでした。そのくせ小さなことばかりを拾い上げて、私をしきりにとがめた。たとえば、足の拭き方が悪いとか、栄養があるのに大根の葉っぱを捨てたとか。行為や動作の末端ばかりを、責めたててくるのです。私たちの日常の大部分は、おおむねそんなもので構成されているのですから、それは私にやりきれない日々の連続でした。
だから軽井沢の親戚から、引越しの手伝いに招かれたときは、ほんとに嬉しかった。
この親戚は、戦時中そこに疎開していて、こんど東京に戻って来ようというのでした。父の許可を得て、私はすぐ出発した。八月七日のことです。
むこうには、本郷の中野宗一さんも来ていました。三月十日に焼け出されて、半年ばかり厄介になった、本郷の遠縁の家のむすこさんです。歳も私より四つ上でした。海軍から帰ってきて、今はもとの大学に通っていました。色の浅黒い快活なひとでした。私たちが厄介になっていた頃は、海軍に行ってた訳ですから、逢うのも四五年ぶりでした。大へんなつかしい気持でした。
荷造りの手伝いをしながら、宗一さんは戦争の話などを
して呉れました。軍艦に乗組んで、それはひどい戦争だったそうです。その艦が沈められて、たすかった八名の中に、宗一さんは入っていました。宗一さんは笑いながら、私に力強く言いました。
「もうどんなことがあっても、戦争だけは止そうな。マリちゃん」
この四五日の間に、私は宗一さんをすっかり好きになっていた。初めは淡い思慕だったが、一日一日その思いはつのってきた。私は私の本当の苦しみを、聞いて呉れる人がほしかったのです。そして私の心の疲れや汚れを宗一さんなら救って呉れるだろうと私は率直に信じた。これは私の感傷だったでしょうか。
しかし、この一週間ほどの私の気持の動きは、私はあまりくわしく書きたくない。書くと感傷的になったり、嘘になったりしそうだから。しかしこの期間、私は本当に素直になり、純粋な気持になり得たと思う。生れで初めての透明な幸福感が、私にみなぎっていた。そしてあの汚れた東京にふたたび帰るのが、いやになっていた。と言うより、東京での汚れた自分や環境に立ち戻って行くのが、ぞっとする程いやだったのです。何かに祈るような気持で、私は自分の心を宗一さんに近づけて行った。そしてついに宗一さんも、私の気持を知ってくれた。
十三日のことでした。裏庭の竹垣のところで、世間話のつづきとして、私は自分の苦しみを宗一さんに話し始めた。話してる中に涙が出てきて、私はとうとう泣きじゃくりながら、すべてを打ちあけてしまった。母親のこと、ホールのこと、上野のこと。こんな自分を救ってくれということ。そして私はいつの間にか、宗一さんの広い胸幅のなかに、身を投げかけていた。私はつよく抱きしめられていた。弾力のある熱い唇が、私の唇をいきなりおおった。女と生れたことの戦慄が、初めて痛烈に、快く身体をつらぬき走った。私の全身は、火となった。
そして翌日があの八月十四日です。荷物の整理も一段落ついて、宗一さんは朝の中に、沓掛から浅間の鬼押出を見物に行くと言って、出てゆきました。荷作りがすんだら行くんだと、宗一さんは三四日前から言っていたんです。私もついて行きたかったが、止しにした。昨日のことが、なんとなく恥かしかったからです。だから宗一さんが、どんなコースをとったか判らない。
行ってみるとそこから浅間山が、手に取るように見えたので、きっと宗一さんは頂上まで登りたくなったのでしょう。それから元気にまかせて、独りで登って行ったのでしょう。可哀想な宗一さん!
そして頂上についた時、あの突然の噴火でした。宗一さんはいきなり煙にまかれ、石に打たれ、火に焼かれて、そしてとうとう死んでしまったのです。[やぶちゃん注:昭和二二(一九四七)年八月 十四日、浅間山が小規模なマグマ噴火を起こし、噴石があり、降灰・山火事が発生、噴煙高度は実に一万二千メートルに達し、実際に登山者が九名死亡している。以上は「気象庁」公式サイト内の「浅間山 有史以降の火山活動」に拠った。]
それから大騒ぎになりました。本郷の家に電報が飛びました。親戚の小父さんや私たちは、土地の人の案内で、浅間に急行しました。まだゴウゴウと山は鳴っていました。しかし私たちは登った。頂上近くなるにつれて、まだすさまじい山鳴りと共に、石が降り、灰が舞い落ちた。地につもった火山灰は、はだしで踏めないほど熱かった。鼻を刺す煙にむせびながら、三日間夜もろくろく眠らず、私たちは足を棒にして、気違いのように宗一さんの死骸を探してあるいた。四日目の朝、やっと宗一さんの死骸は見つかった。それは頂上近くの暗い岩かげでした。
大きな岩かげに、写真にある胎児のような形で、手足を丸くちぢこめて、宗一さんは死んでいました。火熱のために衣服は焼け落ち、皮膚も変色し、変形していました。腕に埋めた顔のかたちも、そうでした。唇のあたりも、焦げた肉のかたまりに過ぎなかった。そして顔面の焦げた肉の配置に、苦痛の表情がむき出しに残っていた。あの弾力のある熱い濡れた唇は、どこに行ってしまったのだろう。そしてあの広い胸幅や、汗ばんだ体臭や、思いやりの深そうな聡明な瞳は。私はくらくらと眩暈(めまい)がして、眼先がまっくらになり、まだ熱い火山灰のなかに、ふらふらと前のめりにぶっ倒れた。もうこのままで死んでしまいたい。わずかに残った意識で、そう必死に念じながら。
しかし私は生きていました。そして小父さんにたすけられて、やっと山を降りた。二日ほど経って、宗一さんを骨にして、みんな東京に戻ることになりました。
それは暑い日でした。その上、汽車は満員でした。連日の疲労、暑熱、それに加えるに汽車の酔い。悪いことには、あのショックのために、身体が変調して、私に生理日が始まっていたのです。人いきれの中に、しかし私は辛抱して立っていた。宗一さんのことばかりが思い出されるのでした。あの日接吻したあとで、宗一さんは私の頰をはさみながら私の顔をとてもきれいだと賞めてくれました。その時は私は単純にうれしかった。涙が出るほどありがたかった。しかし、私は既にその頃、自分がきれいに生れついていること、自分が男から好かれる顔立ちであることを、はっきりと意識し、自覚していたのです。宗一さんに教えられるまでもなく。――それなのに、どうして宗一さんの言葉が、私に強くひびいたのでしょう。
もちろんそれは、私が宗一さんを愛慕していたからだ。しかしその愛慕も、今思うと、決して偶発的なものではなかったでしょう。私は私の内部にみにくく折れ込んだもの、どろどろに淀んだものを、一瞬にして透明なものに変える力を、切に欲していたのです。宗一さんとの出会いは、その最も適した条件のもとだった。東京から離れた高原だし、私自身もわけの判らない混迷した危機を、感じ始めていた時だったから。だから私は、宗一さんの言葉に、強くおののき、懸命にすがる気になった。
それなのに、その宗一さんはどうなったでしょう。あの浅間の岩蔭で、あぶられたスルメみたいに丸くなり、いまは白い骨片になって、網棚に乗せられている。汽車の暑熱のなかで私はその気持の落差を、必死に耐えようとしていた。人いきれ。むんむんする体臭。汽車の動揺。車体の軋り。寝不足からくる疲労。そして生理的変調がもたらす、下腹部の不快感。――この汽車に立ちつづけた何時間かのあいだに、私は私の心の内部のものが、つぎつぎ傷つき、出血し、つめたくなり、やがて死んでゆくのが判った。
上野に着くと、私たちはまっすぐ本郷の家に行きました。時間が知らせてあったので、もう親類がたくさん集まっていました。家から父も母も来ていた。簡単な読経がすむと、お酒や料理がでて、お通夜みたいな形になりました。お酒がはいると、座はだんだん賑かになりました。私は疲れていたが、部屋のすみにいて、皆の様子を眺めていた。食慾も何もなかった。身体は疲れていたけれども、神経は冴えていて、遠くの人の話し声もはっきり聞えるようだった。賑かになってくると、悲しそうな雰囲気は、何時の間にかどこかに行ってしまった。宗一さんの死亡が、新聞に出たことなどが、しきりに話題になっていました。どの新聞の記事が大きかったとか、どの新聞のは一段組で小さかったとか。火山の爆発で死んで、そのため新聞に名前が出たことを、皆がよろこんでいるようにも見えました。みんな楽しそうに酒を飲んだり、料理を食べたりしていました。何故人間というものは、たとえば、結婚披露などの宴会よりも、お通夜の宴会のときの方が、楽しそうにおしゃべりになるのでしょう? そして、他のときより余計に、飲み食いしたりするのでしょう?
私の父が酔っぱらって、端唄(はうた)かなにかをうたいました。みんなが手を叩きました。その時、親類のひとりのお爺さんが、こんなことを言いました。
「宗一君の顔かたちは、鷹野(父のこと)の若い頃にそっくりだったな。遠くても、血のつながりというものは、争われないものだなあ」
座の老人たちは、皆それぞれにうなずき、その言葉に賛成した。父と宗一さんとは、ふた従弟(いとこ)になるのです。若い頃の父が宗一さんに似ているというその言葉は、なぜか私をぎょっとさせた。胸がどきどき鳴ってくるのが判った。――しかしその、似ているという事実は、私には初耳だった。知らなかった。いや、知らなかったのではない。気づいていなかったのです。その癖私は、家にあるアルバムで、父の若い頃の姿や顔かたちを、よく知っていたのです。そう言えば、どことなくそっくりだ。よく似かよっている。私がぎょっとしたのは、しかし二人が似ているという、その事実ではありませんでした。それは鷹野家の遺伝の因子が、分れた枝の二箇所に、偶然(?)に相似した果実を実らせただけのことでしょうから。――私がショックを受けたのは、その相似を、その時まで、気づかなかったという事でした。なぜ気がつかなかったのだろう。何でもないことかも知れませんけれど、その事はふいに激しく私の疲れた神経をゆすってきた。私はきっと蒼ざめていたのだと思う。私の側に坐っていた高井戸の従妹(いとこ)が、顔色が悪いから気つけにと、そっと湯呑みに酒を注いでくれた。私はそれを飲みました。酒を口にしたのは、これが初めてでした。その上空(す)き腹だったので、私は直ぐに酔ったのでしょう。情緒が急にするどくたかぶってくるのが、自分でもはっきり判った。
母もすこし赤い顔になって、酒を注いで廻っていました。それまであまり気にとめなかったが、紋服を着た母の姿が、俄(にわ)かに馴染みなく、いやらしいものに感じられてきました。薄く刷いた襟白粉だの、どうかした拍子にくっきりする、黒い絹地におおわれた臀部(でんぶ)のあらわな曲線など。母は肥(ふと)り肉(じし)でした。少し酔ったためか、私はその母の肉体が、ぞっとするほど厭らしく、憎らしく思われた。おのずから私はするどい眼つきになっていたのでしょう。しかし母がそれに気づいたかどうかは知りません。私の三人むこうに、宗一さんのお母さんが坐っていました。私の母はその前に坐って、なにか世慣れた調子で、おくやみか慰めかを言っていた。
「うちのマリ子が死ねばよござんしたのに、宗一さんのような将来のある方が、あんなことにおなりになって――」
宗一さんのお母さんも、何か答えてる風(ふう)だった。私のことに、話が移ったようだった。
「……ダンスホールなんかに――」
母のその一句だけが、はっきり耳に入った。母は上気した横顔をみせて、頰に厭らしい笑いを浮べていた。そしてとうとう、私の方をちらと見もせずに、又立って行った。
夜の九時頃、私は父と帰ることになった。母は残って後かたづけです。酔った父によりそって、夜風に吹かれて家の近くまで来たとき、私は急に情が激してくるのを感じ求した。私は黙りこくって、あるいていたのです。父は酔っぱらって、低声で歌などを口吟(くちずさ)んでいた。私は言いました。
「お父さん。お母さんと別れて!」
突然だったから、父は少しびっくりしたようでした。そして立ち止って、
「なんだ。またヒステリーが起きたのか」
と半ば紛らすように、半ばなだめるように答えた。この四五日の気持の辛さが、その時かたまって、無茶苦茶にこみ上げてきて、私は泣き声を立てながら、父の身体にぶっつかって行った。
「あたし、このままだと、不良になっちまう。ほんとに不良になっちまう!」
父は私の身体を、一度はふり払おうとした。しかし私があまり泣き声を立てたものだから、掌を廻して私を抱くようにした。瞬間私は父の体臭を嗅ぎ、そして背中に父の厚い掌をかんじた。幼い時、父に抱かれて寝た時の感覚が、急に私によみがえって来ました。しかし父は直ぐ、その私の身体を、持て余すように押しのけながら言った。
「みっともない。泣くのはお止し!」
押しのけることで、私を泣き止ませようとしたのでしょう。酔いにもつれた声だったけれど、つっぱねたような言い方だった。私は泣き止んだ。ふっと涙が乾いて行った。父の声の中に、私の気持にはほとんど無関心な、他への体面だけを気にしている響きを、はっきりと感知したからです。工場で怠けてる職工を叱りつける声と、それはほとんど同じ響きだった。涙が乾くのと一緒に、私の心からも水気が引いて行った。私は家へ帰りつくまで、ガタガタと慄えていた。
翌日から四五日、私は熱を出して寝込みました。医者の見立てでは、疲労からくる発熱でした。その夜のことを、父はどう思ったのか知りません。翌日からの私への態度も、別に変化はありませんでした。あるいは父は覚えていなかったのかも知れない。酔った時のことを、すっかり忘れてしまうのが、父の癖だったから。--しかし熱に伏したこの四五日の間に、家を出たいという気持だけが、ぼんやりした形で私の胸に起伏し始めていた。そしてその気持は、だんだん強まって行くようだった。家を出てどこへ行くのか、どうしたらいいのか、それは私には判らなかったし、考えもしなかった。衝動みたいな形でそれは時々私を襲った。
そして二学期が始まった。私は再び洋裁に通い始めた。そして気がついたのですが、嘘みたいに、踊りに行きたいという気持が、私から無くなっていました。真面目になったわね、とお友達にからかわれたりしたけれど、真面目になろうと思ってメリイゴールドに行かなかったのではありません。すっかり興味がなくなっていたのです。それはふしぎなほどでした。
そして九月十四日の朝のことでした。私は母と小さないさかいをした。犬に餌をやらなかった、というようなことです。母が可愛がっていた犬でした。餌をやるのは、しかし私の役目だったのです。へんてつもない、醜い犬でした。二言三言いいつのって、私はカッとなって口走った。
「あたし、ダンスホールなんかに、行かなくってよ!」
どうしてそんな言葉を口走ったのか、今でも私には判らない。母はつめたく言い返した。
「犬とダンスホールと、何の関係があるんだい」
しかし母は私の顔を見て、急に目を吊り上げたようだった。
「おや、お前。わらってるね!」
私はわらってなんかいなかった、決して。しかし母は立ち上って、いきなり私の頰を物さしでピシリと打った。しびれるような痛みが、頰から耳にかけて走った。
三十分後、私は父の机から三千円持ち出した。そして家を飛び出した。もう帰らないつもりでした。それなのに私は、どういう気持だったのでしょう。手帳を破って書置きをつくり、肉屋の源坊という子に託して、父のもとに届けさせようとした。内容は、家を出るということ、松戸の友達の家に泊るつもりでいること、心配しないで欲しいこと、などでした。源坊にはくれぐれも、父に直接手渡して呉れ、とたのんだのです。松戸の友達、などと書いたのも、行先きがあるということで、私は父を安心させようと思ったのかしら。それとも――松戸まではるばる探しにくる父の姿を、私は漠然と予想し、無意識にそれを待望していたのでしょうか?
私は映画を見て時間をつぶし、夜になって松戸に行った。チコのところに行くつもりだったのです。松戸の駅に降りたとたん、私は摑(つか)まってしまった。中野の小母さんと、高荘戸の卓ちゃんです。私は両腕をしっかと摑まれて、また戻りの電車に乗せられた。
黙りこくって電車に揺られている私に、中野の小母さんが言いました。
「お父さんはまだ知らないのだから、安心おし」
あれほど頼んだのに源坊は、父の姿が見当らなかったので、母に渡したらしいのです。母は父に知らせずに、親類をたのんで、松戸駅に待ち伏せさせたのでした。中野の小母さんは、なおもくどくどと、私をなだめたり、さとしたり、脅(おど)したりしました。私が父と合わなくて家を飛び出したと思ってるらしかった。その口説の果てに、お前のほんとのお母さんもこんな失敗したのだ、という意味のことを口辷(すべ)らした。私はすぐ聞きとがめた。
「小母さん。それはどんなこと?」
小母さんはあわてたように、口をつぐんだ。そして取ってつけたように、語調を変えた。
「とにかくお父さんを怒らせないがいいよ。今まで育てて呉れた恩義もあるじゃないか」
「親が子を育てるのは、あたり前よ!」
と私は言い返した。しかし私の生母になにか秘密があるらしい事を、私はその時うすうすと知った。しかしそれが何であるかは、この上申書を書いてる今も、私は全然知りません。生母は私が四つの時に死にました。父はその死床で、人目もかまわず、おいおいと泣いたそうです。これも人聞きだから、どこまで本当か判りませんけれど。(もっともその話を聞いた時、女学生の頃だったが、私も涙が流れて仕方がなかった)
こうして家出は失敗に終った。父にはとうとう知られなかった。しかし中野の小母さんたちの附添いで、母の前に手をついて、以後こんなことをしないと誓わせられた。私は涙を流した。あの書置きが母の手に入ったということが、耐えがたく口惜しく、辱しめられた気持だったからです。しかし皆は、私の涙を見て、満足したようでした。
父には知れなかったから、学校を止める羽目にはなりませんでした。しかし洋裁にも、私はだんだん興味をなくしてきました。洋裁を覚えたって、仕方がない。そんな気持でした。学科をさぼって、上野や浅草で遊びくらす日が、しだいに多くなってきた。
そんなある日、上野でバッタリと、幼ななじみの男の子と逢いました。日野保という子です。荻窪に住んでいた頃ですから、七つ八つの時分の幼友達です。保は身体こそ大きくなっていたが、顔は子供のときのままでした。額の出た、目のくるくるした顔立ちです。保の身上話では、ほんとの両親は死んでしまって、継母と暮しているうちに戦災にあい、埼玉県へ継母と疎開していたのだけれども、居辛くなって飛び出してきたという話でした。後で知ったのだけれども、保は上野でチャリンコで生活していたのです。なぜ居辛かったのか、保は話さなかったし、また話したがらぬようだった。強いて訊ねると、その愛嬌のある顔に、ふっと暗いものが射(さ)して口をつぐんでしまう。[やぶちゃん注:「チャリンコ」子供(二十歳未満)の掏摸(すり)の俗称。悪餓鬼を表わす俗語「ヂャリンコ」「ジャリンコ」「邪婬児」からの訛化という。なお、子供の食い逃げを指す場合もある。]
幼いとき仲の良かった間がらなので、私たちはすぐ親しみが戻ってきた。そして時々上野で逢って、いっしょに話したり、映画を見たりしました。またチコやその他のズベ公とも、再びつき合うようになった。学校なんかには、すっかり身が入らなくなってしまった。
暮れが迫ってきて、寒い日のことでした。私は母から銀行の金を下げに行くことを言いつかって、昼頃銀行に行きました。そしてその帰り途(みち)、つい上野に寄って遊んでしまった。前々日から、保との約束もあったのです。そして家に戻った時は、もう暗くなっていた。私はそっと勝手口から入った。電燈はついているのに、家の中はしずかでした。
私はそっと廊紙をあけた。そして眼がクラクラとした。父と母の厭なところを見てしまったのです。私はどうやって唐紙(からかみ)を閉めて、自分の部屋に来たか覚えていません。にがい水のようなものが咽喉(のど)にからまって、胸が熱く引裂かれるようだった。
しばらくして、母がそっと私の背後に立ったようだった。いきなりお下げの髪を握って、うしろに引き倒された。母は蒼ざめて、手に物さしを握っていた。そして私の捲(めく)れたスカートの、裸の太股を、あざになるほど打った。
「今まで、どこで遊んでた。お父さまの工場で、直ぐ要る金じゃないか。それを今までウロウロして!」
向うの部屋には、父がいる筈なのに、止める声もしませんでした。スカートはすっかり捲れ上り、私の太股はきつく打たれて、物さしは二つに割れた。
「またダンスをやってたんだろ。変な男と、遊んでたんだろ!」
母は口汚なく罵った。私を罵るというより、向うの父に聞かせるような響きを感じると、怒りと屈辱が火箭(ひや)のように私を貫いた。私はぶるぶると慄えた。母がこんなにつけつけと私を罵ったのは、これが初めてだった。いつもの冷たさを、どこかに置き忘れているようだった。しかし父の部屋はしんかんとして、何の気配すら起らなかった。そのことが私を参らせた。私はあえぎながら、打たれるままにされていた。嘔吐(おうと)がこみ上げそうで、たまらない気持だった。せめて父が出てきて、止めはしないまでも、一緒になって殴って呉れた方が、まだしも私は救われただろうに!
暮れが終って、正月に入った。静かな乾いた怒りが、私の胸の奥でつづいていた。正月も面白くなかった。三日のことでした。小遣いをためた五百円と、着換えの服一揃いを持って、私は第二回の家出をした。どこへ行くというあても無かったが、困ったら上野に行って、チコ達に相談したら、どうにかなるだろうと思った。
浅草公園に先ず行きました。すると大勝館の前で、ぱったりと保に会った。近所の汁粉屋で汁粉をすすりながら、私は家を飛び出したことを保に打明けた。すると保は眼をくるくるさせながら、偉そうな口調で、
「家出はいかんな、家に帰った方がいいぜ」
と私に意見がましいことを言った。私はしゃくにさわって、保だって家出してきたんじゃないか、と言ってやった。すると保はかなしそうな顔をした。
「誰が何と言ったって、あんな家に帰ってやるものか。とにかくあたしを、あんたの所に連れて行って!」
保はとても困った顔になって、腕を組んで考えていた。幼ななじみの私を、あんな世界に引き入れることを、保はひどくためらい、心を決めかねる風(ふう)だった。しかし私は強引に押し、保をしぶしぶ納得させた。[やぶちゃん注:「大勝館」(たいしょうかん)は浅草六区にあった映画館。明治四一(一九〇八)年七月開業で、昭和四六(一九七一)年に閉鎖された。]
とにかくその夜は、平井の保の友達の家に泊めて貰った。翌日から保やその友達と一緒に、北千住や越ケ谷の宿屋を泊り歩くようになった。そして保たちがチャリンコであることを、初めて知った。しかし私はそれほど驚かなかった。保たちは、昼はチャリンコで稼ぎ、夜はバクチを打ちに行くのです。彼等の首領は、浅川と言って、二十五六の男でした。あとは皆、私と同年輩か、私より歳下でした。私より歳下のくせに、えらそうに大人ぶって、世をなめたようなことを言ってるけれども、みんな本音のところでは淋しく、人の愛情に飢えていました。浅川だけは、年長だから、別でした。
浅川はちょっと見ても、ひややかな感じのする男でした。海軍の特攻隊の生き残りだということでした。海軍帰りだということが、私に宗一さんを思い出させた。すべすべした皮膚をした、おどろくほど機敏な動作ができる男でした。頭から耳にかけて、うすい傷痕があった。機銃弾がかすった痕(あと)だそうです。皆は浅川をこわがっていました。浅川の性格につめたいところがあったからでしょう。不思議なことには浅川の顔は、ひとりでぼんやりしてる時は、澄んで淋しそうに見えるのです。ところがその顔が笑いを浮べると、急に冷酷な感じをたたえてくるのでした。笑いの顔における位置が、ふつうの人と逆になっていました。皆はその笑いをこわがっていた。しかし、浅川は、私には割合に親切でした。
あちこち泊り歩いている時も、保は私のことをしょっちゅう気にかけて、早く両親にあやまって家に帰れ、と暇さえあれば意見した。浅川兄貴はこわい男だから、などとも言いました。浅川が私に親切なのを、心配もしたのでしょう。とうとう或る日、そんな事で言い合いをした。
「うるさいわよ。ほっときゃ良いじゃないの。なにさ、自分もチャリンコの癖に!」
そして私は飛び出して、上野に行った。保たちの仲間は、みんな男だから、夜バクチヘ行く時などに、私をのけものにするのが、私には面白くなかったのです。
上野に来て、私は顔なじみのズベ公たちを探した。そして訳を話して、仲間に入れて呉れと頼んだ。松戸のチコは、その頃家に連れ戻されたという話で、上野にはいませんでした。そして私は、鶯谷(うぐいすだに)の大和寮という宿に連れて行ってもらった。そこはズベ公たちが、女だけでかたまって住んでいる溜りでした。そこでも姉さん達から、口々に、ふた親のあるものが家出なんかするもんじゃ無い、直ぐあやまって家に帰れ、と意見された。しかし私は何も言わずに、そこに居坐っていた。姉さんたちの意見も、通りいっぺんの定り文句らしく、居坐ってしまえば、誰もしつこくは言わなくなった。そんな点は、さっぱりしていた。[やぶちゃん注:「定り文句」「きまりもんく」。]
ズベ公たちには、特別の気風や習慣があって、一緒に住んで寝起きしていても、ほんとうに自分の組の者でなければ、自分のやってる事も言わないし、他の人のことを詮索(せんさく)したりもしなかった。組をつくっていて、組以外の者にたいしては、冷淡なほど無関心でした。生活の表面でつき合い、触れ合ってるだけで、深いところまで手をさし伸べることは、決してなかったのです。(組に入れば、別ですが)
だから、大和寮に寝起きするようになっても、ズベ公としては新米の私は、どうやって皆のようにお金を稼いで、生活をして行けるのか、てんで判らなかったし、見当もつかなかった。誰も指導して呉れなかった。結局、見よう見まねで、上野にくる虎やんというタバコ売りの男に頼んで、タバコを売らして貰ったり、上野や浅草の露店の手伝いをしたりするようになった。そんなことで、日に四五百円は入るようになりました。私一人ですから、これだけあれば、ドヤ賃もふくめて、けっこう楽に暮して行けた。金が余っても、貯めておく気にはなれなかった。みんな飲食や服装費に費ってしまった。明日のことを考えず、私は浮草のように生きていた。私にはそれが一番楽な姿勢でした。
三月頃だったか、仲間のあるズベ公が私にあんたの彼氏が摑(つか)まって、川崎の新日本学院に入れられてる、と教えて呉れた。彼氏というのは、日野保のことです。べつだん彼氏でも何でもないのだけれども、あれからも時々逢ったり、連れ立って遊んだりしてたから、そう見られていたのでしょう。それを聞いて四五日経って、私は川崎まで面会に行きました。[やぶちゃん注:「新日本学院」旧司法少年保護団体で、現在は児童養護・保育施設として同じく川崎にある。昭和一一(一九三六)年五月に発足で、現在も川崎にある。公式サイトはこちら。]
保はひどくやつれて、元気がなくなっていました。くりくりした眼が、なおのこと大きくなって、ぎょろぎょろしていた。その顔に似合わず、態度はたいそう神妙で大真面目でした。仲間の大半はアゲられて、あちこちに収容されたのだそうです。そして沈んだ声で、
「君もどうか家に帰って、まじめにやって呉れ。おれも今、まじめになることを、ほんとに考えているんだから」
というようなことを言った。あの愛嬌のある顔立ちや性格の幼ななじみの保が、やつれた姿でこんなことを言うのを聞いて、私はとつぜん涙が出て来そうになった。すると保は燃え上るような表情になって、その大きな眼に涙がいっぱいあふれてきたようだった。
「お、おれは、マリちゃんが好きなんだ。ほんとに心から好きなんだぜ!」
保は掌で眼ややせた頰をごしごしこすりながら、乱れた声で言った。
「だから、だから、家へ帰って呉れ。ほんとにまじめになって呉れ!」
言いようもない悲しさと淋しさが、いきなり私の胸に突きささって、私もすこしかすれ声になった。七つ八つの頃、鬼ごっこやメンコ遊びで無邪気に佇良かった二人が、今こんな形で会っていることが、私にはたまらなく哀しかった。歳をとるということは、大人になって行くということは、何と苦しく、残酷なことでしょう。
それでも保の言うように、私は家に戻って真面目にはならなかった。相変らず上野で生活していました。しかし川崎の保のところには一週間に一度か十日に一度は、かならず土産をもって面会に行った。保が可哀そうだというよりは、失われそうになっている自分の内部のものを、それによって私は碓かめたかったのです。保の顔を見ている時だけは、浮草のような自分の生活に、私ははげしい自責と嫌悪をかんじることが出来たから。
五月になりました。すっかり暖かで、いい陽気でした。そんな或る日、上野の駅内で、私はばったりと肉屋の源坊に会いました。あの書置きを頼んだ、十六の少年です。私はひどくなつかしい気がした。私が変ったのに、源坊はびっくりしたようでした。源坊は、私の父に頼まれて、私を探していたのです。父の手紙を、ポケットに持っていました。
私は源坊をつれて、上野の山に行った。歩きながら、家のことを色々聞いた。父は私の家出いらい、すっかり元気をなくしてしまったそうです。私のことだけでなく、事業が急に不振になったせいもあるようでした。白髪(しらが)がふえたという源坊の話を聞いて、私はすこし胸が苦しくなった。父は警察に捜索願いは出さず、源坊などに頼んで、私を探させているらしかった。新聞種になるのが、父には一番こわいのでしょう。体面ということが、父の生活感情の大部分を支配しているのだ。私のことを本当に思っているのではないんだ。そうは思いながら、父の手紙を開いた時、やはり私は、ひとつの感情で切なく胸が瓢れるような気がした。
「父はお前のことで後悔している」
手紙はそういう文句から始まっていた。特徴のあるその字を見ただけで、私は父の息吹(いぶ)きを感じ、体臭を嗅ぐ思いがした。両親とも後悔しているから、帰ってこいという文面でした。この数箇月家を離れ、家のことを忘れようとした結果、私の気持も少しはやわらぎ変化してきてはいました。しかし気持はどうともあれ、私の乾いた頭脳は、父のその文章にもはっきりと嘘をかんじた。私はするどい眼つきになって、源坊にただした。
「お父さんやお母さんは、後悔してるんだね。本当だね?」
源坊は気押されたように、うなずいた。その様子が可愛かったので、すこし私の心も和(なご)んだ。で、その中帰る気になったら、帰るかも知れないこと、近いうちに必ず源坊の方に電話で連絡すること、などを答えて、源坊を返しました。
こうして私の生活に再び、家のことや父の形象が新しく入ってきた。しかしそれは現実の父の形象ではなく、言わば架空の(びょう)鋲として、私の心のひとところに突き刺さっていた。そしてその鋲の根元は、自分でも判らないあの暗いどろどろした場所に、どこかでつながっていることを、私はぼんやりと感じていた。ある瞬間を転機として、私は父のもとに戻るかも知れない。そういう予感も私にあった。そして私にとっては運命的な、あの五月十五日が来たのです。
五月十五日は、浅草の三社様のお祭りでした。お祭りの賑いを見に、私は浅草にゆきました。それは大変な賑いかたでした。ぶらぶら歩いている中に、私は露店の人達につかまった。以前から手伝いなどして、知り合いになってた人達です。大ぜい集まって、酒盛りをしていました。その人達につかまって、上手に酒をすすめられ、すっかり酔っぱらってしまった。酒を飲んだのは、宗一さんのお通夜のとき以来初めてです。私はわけも判らなくなって、クダを巻いたりした。皆は面白がって私をはやしたりした。それがまたしゃくにさわって、なんだい、世の中がこうなったのも、お前たち大人が戦争に負けたからじゃないか、などと皆に毒づいたりした。そしてすっかり酔い痴(し)れて、いつの間にか私は誰かに抱かれて、よろよろと夜道を歩いていた。酔った私は、ふっとそれを、宗一さんかと勘違いしたりしていた。軽井沢で抱かれた感じが、身体の記憶に、どこか残っていたのでしょう。しかしその男は、浅川でした。保たちの首領のあの浅川でした。
私は浅川のために、森下の小さな宿屋に連れこまれました。そして私は、よごれた蒲団の上で、着ているものを次次、むしり取るように脱がされていた。酔っていて、身体が利かなかった。抵抗はしたが、男の力の方が強かった。浅川も酔っていました。酒臭い呼吸が私にかかった。酔っぱらったときの父の呼吸と、それは同じ臭いだった。暗闇の中で頭ががんがん鳴って、気が狂いそうだった。浅川の身体が、しっかと私の身体を押えつけていた。そして浅川のなめらかな指が、私を求めて、隠微にうごいた。
やがて、激烈な痛みと激烈な快さが、瞬間にして、同時に私の身体を襲った。私は思わずうめいた。そのはげしい苦痛と快感は、同時ではあったが、並列的に走ったのではなかった。全くひとつのものとしてだった。しかし痛覚そのものが快感なのか、快感そのものが苦痛だったのか、私にはほとんど判らなかった。私は傷ついた獣のように、眼を吊り歯をかみ鳴らして、がたがたと慄えていた。あの永木明子との場合と同様な、それよりも一廻り強い隈(くま)どりをもった暗鬱な衝動が、私の内部からふき上げてきた。憎しみ。いや、もっと烈しい。何ものへとも知れぬ、反吐(へど)に似た復讐。そしてその瞬間に私は、私の内部にいる女を、ありありと知悉(ちしつ)した。そして男を。対象を傷つけることで充足しようとするすべてを。そしてその瞬間私にぴったりとのしかかっている男の重さの中に、私は遠くぼんやりと、架空の父を感じた。遠い遠い入口にうすうすと立つ人影のように。そしてその影は急速につかつかと近づいてきた。復讐。私の生母を愛してくれた父と、今継母を愛する父とが、私の脳髄の中で暗く入り乱れ、乱れたままはためいた。しかしそれとは別のものが、私の中で、熱い火の玉となって、感覚の坂をかけのぼった。そして私は突然、全身が震撼(しんかん)するのを感じた。
「お母さん、お母さん、って呼んだじゃねえか」
しばらく経った。浅川は私から身を離しながら、ねばっこい含み声でそんなことを言った。その声音には、満足からくるいやな慣れ慣れしさがあるようだった。しかし私はそんなことを叫んだ覚えはありませんでした。絶対に。
「まだねんねだな、お前。男は初めてか」
怒りと恥じで、私は顔をおおい、裸のまま足をよじってつめたい畳に伏せていた。心は激していたけれども、涙は一滴も出てこなかった。眼球は干葡萄(ほしぶどう)のように、しなびて乾いていました。
翌日も一日、私はその宿屋にいた。熱が出たらしく、身体がひどくだるかった。その夜も、私は浅川に犯された。しかも私はしらふだったのに。
その翌日の朝、熱のある身体で、宿屋を出ようとした。上野に戻るつもりだったのです。浅川は蒲団に腹這いになったまま、上目使いに私をじっと見ていた。
「お前、逃げる気かい」
例の冷酷な笑いを浮べているのです。私は相手にならず、のろのろと身支度をしていた。すると浅川はおっかぶせるように、
「どこに行ったって、同じだぜ。これ以上いいとこも、これ以上悪いとこも、どこ探したってありゃしねえ。お前にや判らねえだろうが」
「判るわよ!」
私ははっきりとこの男を憎んでいた。その憎しみは、一昨日の夜に発していた。その癖昨夜はしらふだったのに、ほとんど無抵抗で浅川に身を任せていたのです。
こうして私は宿を飛び出して、上野に戻ってきた。この二日間で、見えるもの聞えるものが、ガラリと変ったような気がした。人間も変ったのでしょう。上野で私が可愛がっていた女の子の浮浪児が二人いたが、その子たちも私のことを、マリ姉さんは変った、とはっきりそう言った。私は何をするのにも、感動がなくなったのを感じていた。何か考えても、すぐ気持が白けてしまう。それがおのずから、態度に出たに違いありません。肉屋の源坊にも、電話をかける約束がありながら、どうしてもその気になれませんでした。家のことなんか、考える気もしなかった。考えようとすると、私の内のなにかが、ぴしゃりとそれをさえぎった。
その中に私は、浅川から悪い病気をうつされたことが判った。それは激しいショックを私に与えた。そのことがなおのこと、私の気持の傾斜に拍車をかけた。しかしほっとく訳にはゆかなかった。治療費をかせぐために、私は孝子やスミ子と一緒に、上野でタバコとキャンデーを売り始めた。孝子もスミ子も、私が可愛がってた浮浪児です。孝子は新潟の子で十五歳。スミ子は横浜生れで十三歳。この子たちは駅で客にたかって食物や金を貰い、昼は西郷さんの広場で遊び、夜は山で青カンという生活をしてたのです。孝子は春ごろ栄養失調で、痩せていたのを、私ができるだけ金や食物を都合してやるようにしてたから、私にはなついていた。いつも新潟に帰りたいと言っていたから、タバコやキャンデーの売り方を仕込んで、金を溜めさせて、郷里に帰してやろうと思ったのです。スミ子は悪い仲間と一緒になって、手提(てさ)げ専門のチャリンコだったのです。それがある日、捕まりそうになって、私のところに逃げてきた。そしてお腹がすいたと言うので、もう悪いことをしなければお寿司を食べさしてやると言ったら、真面目な顔になって、もうやらないと約束をした。この二人と一緒に、私は毎日上野に立った。[やぶちゃん注:「青カン」野宿することを言う不良仲間の隠語。他に、屋外での売春も言うが、ここはそれではない。「手提げ」手提鞄や手提カゴを専門に狙う掏摸の意か。]
六月の半ば頃でした。なんだか夏みたいに、むんむんする日でした。夕方私が山の下に立っていると、うしろから肩をたたくものがあります。ふり返ると、日野保だったので私はびっくりしました。どうしたの、と私はなじるように聞きました。
保は少し肥って、以前よりは元気そうに見えました。新日本学院を逃げ出してきたと言うのです。困ったように眼をくるくるさせて。
「おれ、真面目な生活に入るつもりで、逃げ出しちゃったんだヨ。本当だヨ」
「じゃ、あてはあるの?」
「うん。まあ知ってる自転車屋にでも、入れて貰おうと思ってる」
なんだかその言い方は、怪しそうだった。そしてその怪しさをごまかすように、保は口をとがらせて、私をなじってきた。
「なんだ。マリちゃんは、まだ真面目になってないじゃないか。あんなにおれが言ったのに」
「ほっといて、自分も逃げてきた癖に!」
そう言い返すと、保はくやしそうに頸(くび)をちぢめて、口をもごもごさせた。しかしその夜は、二人で広小路を歩いたり、中華ソバを食べたりして遊んだ。保はしきりに学院からの追手を気にしていました。ソバを食べながら、保は急に気弱い口調になって、埼玉のオフクロにあやまって家に入れて貰(もら)おうかなあ、などと呟(つぶや)いたりした。保は子供の時から強情なところはあったが、シンは気の弱い子でした。そして、私の方を熱っぽい眼で眺めてマリちゃんもどこか変ったなあ、と嘆息するように言ったりした。その時私は保に、ほんの瞬間であったが、済まない、あやまりたい、という気持になった。
しかしその保に、私はどうしてあんな気になったのでしょう。私は保と美術館前の草原にゆき、そこでいどんだのです。しかしその目的の為に、美術館前まで行ったのではなかった、決して。あまり月がきれいだったので、どちらからともなく言い出した散歩だったのです。私たちは手をつないで歩いていた。保の影と私の影が、地面に親しい黒さで動いていた。衝動みたいに、その熱っぽい気分は突然私におこった。気まぐれ、ともちがう。もっとどろどろした重い根を持っていた。私はきっと、痴呆みたいな笑いを浮べていたに違いありません。そんな気がします。草原は夜露に濡れていた。月の光の中で、その時保の顔は真蒼に見えた。
うに。
(どこに行ったって同じだぜ。これ以上いいとこも、これ以上悪いとこも、どこ探したってありゃしねえ!)
そしてはげしい恐怖にも似た絶巓(ぜってん)がきた。私と保をつないでいた、あの荻窪時代の透明な思い出が、その一瞬に形をくずして、がらがらと落ちて行った。私は眼をかたく閉じ、声を呑んだ。
やがて私たちは、ふたつの影法師と共に、惨(みじ)めにつかれて立ち上った。私は月から顔をそむけながら、今来た道を戻り始めた。私を追ってきながら、保はしきりに、済まねえ、済まねえ、と繰返して言った。その声は低く弱く、自責のひびきにも聞えたが、またその繰返しには、ひそやかな喜びをこめているようにも思われた。私はそれにも答えなかった。答えるべき言葉は、どこにもなかった。身体はしっとりと重かったのに、気分はからからにひからびていた。しかし山下まできて、明るい電燈の光のなかで、保の顔を見たとき、初めてするどく強い悔悟の念が、矢のように私の中を奔(はし)った。しかしそれも瞬間でした。黙りこくったまま、そこで私は保と別れた。
そして保が刺されたあの日まで、私は彼に会わなかった。それまで保は、上野にいたことは事実だから、遠くから私の姿を見ても、避けていたのではないかと思います。その保の気持を思うと、私は今でも胸に錐(きり)を突き立てられるような気がする。しかし彼の噂は、ときどき私の耳に入った。病気にかかっているということや、行状がひどく荒れているということなど。病気は私からのに違いなかった。私に噂を伝えてくるズベ公や浮浪児の話では、どこで病気をうつされたか、保は絶対に口にしないとのことだった。強いて聞こうとすると、人間が違ったように、はげしく怒り出すという話でした。
こうして私は酒の味を覚えるようになった。タバコやキャンデーの売上げも、治療代にはほとんど廻さずに、山下の屋台に首をつっこんで、酒代に費って[やぶちゃん注:「つかって」。]しまうようになった。酔っている間だけでも、酒は私の頭をしびれさせ、すべてを忘れさせて呉れた。意識の下に眠らしておかねばならぬ事柄が、私にはあまりにも多すぎたのです。ちょっと油断すると、それらはむらがり起って、私の胸に爪を立ててきた。保のことは、いちばん近いだけに、最もなまなましい爪跡を、するどく私に立てて来ようとするのでした。
保つが刺されたということを聞いたのも、山下の屋台ででした。私は相当酔っていた。そこへ入って来た地廻りの男が、屋台のおやじにそんな話をしていた。何気なく聞いていたが、ふいに日野という名前が出たとき、私はぎょっとした。
「お兄さん。その場所は、どこなの?」
場所を聞いて、私はすぐ駈けて行った。場所は池の端でした。保はまだ病院に運ばれていなかった。戸板の上に寝かせられていた。もう顔には死相がはっきり出ていて、意識はなかった。グレン隊とむちゃな喧嘩して、胸を深く剌されたのです。閉じた瞼はふかく落ちくぼんで皮膚はすっかり土色でした。着ているアロハシャツは、赤黒い血のりでべたべたでした。保がアロハシャツを着ていようなどとは、私には想像もできなかった。あんなに真面目になりたいと願い、あんなに善良な魂をもった保が、しおたれたぶざまなアロハシャツを、自らの血で汚して死んでゆく。私はたまらなくなって、横たわっている保にしがみついて、ゆすぶりながらその名を連呼した。[やぶちゃん注:「池の端」不忍池(しのばずのいけ)周辺の通称。]
「保さん。保さん。保さん」
それで保はわずかに意識を取り戻した。瞼は開いたけれども、瞳にはほとんど光がなかった。しかし、死魚のような末期のその瞳にも、私の顔はぼんやりとうつったらしかった。何か言おうとして、保はしきりに唇をふるわせていた。少し経って、やっと押し出すように、しゃがれた低い声を立てた。
「マリちゃん。マリちゃんか」
声は咽喉(のど)にひっかかって、ごろごろと鳴った。そして暫くして、今度ははっきりと、
「オレ、もう、くるしく、ないヨ」
どんよりした瞳を私に定めて、その時そげた頰には、この世のものでないほどの静かな幽かな笑いがぼんやり浮んでいた。それから吸いこまれるように、瞼を閉じながら、ごく低い、ほとんど聞きとれない声でつぶやいた。それはもう声ではなく、最後の呼吸の慄えにちかかった。
「オレ、もう、死ぬ。もう、死んじゃったヨ」
二分後に、保はしずかに呼吸を引きとった。月の光に顔を照らされて、医者も間に合わず、物見高い通行人や心ない弥次馬などに、がやがやと囲まれて。――そして呼吸を引きとる最後の瞬間を、しんから見守っていたのは、側にひざまずいているこの私だけでした。やがて警察医がきました。保の死顔は、すっかり血の気をおとして、子供のようにきれいでした。
あの八月一日という日は、保が死んだこの日から、数えて三日目のことでした。
その日は私は、朝からイライラしていた。月経が始まって二日目で、いちばんひどい盛りだったのです。もともとこの期間には、私の気持はひどく荒み、ヒステリーのような症状になるのですが、病気にかかって以来、その傾向はますます強くなっていました。この期間中は、神経が極度に敏感になり、何でもないことが強く心にひびいたり、一寸したことにむちゃくちゃに腹が立ったり、ふだんならやれないことが平気でやれたりするのでした。仲間のズベ公からも「あんた今アレでしょ」とすぐ悟られる位でした。
その日の朝、ある浮浪児の女の子が、スミ子がまたチャリンコをやってる、と私に知らせて呉れた。私は腹が立った。そして昼頃、地下鉄の入口でスミ子をつかまえた。そして私は強くなじった。
「なぜスミ子はチャリンコを止めないの。なぜ私の言うことを聞かないんだい。自分がどんなことになっても、かまわないと言うのかい」
しかしスミ子はなぜか、素直にあやまらなかった。何だかだと口ごたえをした。そしてしまいには、フンとそっぽを向いたりしたから、私はいきり立って、髪をつかんでそこに引きずり倒し、ひどくひっぱたいてやった。するとそこへ、三四人のグレン隊が通りかかって。
「何でえ。弱い者いじめするない」
と因縁をつけるつもりか、妙にからんできたから、いじめてるんじゃないわよ、お前たちが知ったことじゃないわよ、とやり返して、そこで人だかりするほど、相当派手に言い合いをした。
それでよけい頭がむしゃくしゃして、タバコやキャンデーの仕入れもしたくなく、ましてスミ子や孝子の顔も見たくなかった。むしむしして、今にも降り出しそうな空模様でした。私は皆から離れてひとりで西郷さんの広場にのぼって、上野の街を見おろしながら、もうこんなゴミゴミした街には住みたくない。どこか遠い静かなところに行ってしまいたい、などとぼんやり空想したりしていた。保の死のことも、まだ私の心に、強く深く尾を引いていたのです。そうしているところへ、ちょっとした顔見知りの、本名は知らないがイノシシというあだ名のグレン隊の男が、私の側に寄ってきて。
「どうだい、マリ坊、今夜江の島の方へ遊びに行かないか。きれいな海で泳げるぜ。五六人で行くんだ」
と誘ったから、私は即座に、うん、と言ってしまった。するとイノシシは、今日の五時頃駅に来い、と言い残してどこかへ行ってしまった。私はこの数年間、青い海を見たことがなかったから、気持を変えるいい機会だと思って、心がすこし躍(おど)った。生理期間だから海に入れないとしても、海の青さや砂の白さを見るだけでもいいと思った。そう思うと、矢も楯もたまらなく行きたくなった。
五時に駅に来てみると、もう皆は集まっていた。あの浅川がその中にいたのです。浅川は私の顔を見ると、ひどく驚いたような妙な表情をして。
「何でえ。マリ子。お前も行くのか」
と言ったから、私もつっけんどんに。
「誘ったから行ってやるんじゃないか。じゃあたしは止すよ」
とやり返してやったら、浅川はふと思い直したように、あの酷薄な笑いを浮べて、
「まあいいや。見張りくらいには役立つだろう」
と言った。その言葉も、私はあまり気にも止めなかった。見張りというのも、海水浴のときの着物の見張りを言ってるのだろうと思っただけで、深く考えもしなかった。前にも書きましたが、上野の山で生活していると、どんな人でも、その日その日というよりも、その時々の行き当りばったりの気持になって、他人のすることを詮索したり、他人の言うことの裏や先の先のことを、考えたりしないようになるものです。この場合もそうでした。
そして私たちは、新宿に行って小田急に乗った。同行は私を入れて七人です。浅川、イノシシ、はちまき、エフタン、テラテラ、探海燈、それに私。女は私だけでした。男たちは、探海燈をのぞけば、皆一癖も二癖もある男たちだった。探海燈というのは、私と同いどしで、グレン隊にしては気が弱い、割に正義派肌の子でした。眼が大きいから探海燈というあだ名がついていて、感じがちょっと保に似ていた。笑うと頰にえくぼが出来る子でした。[やぶちゃん注:「エフタン」という綽名は意味不明。「探海燈」「たんかいとう」と読む。強大な反射鏡を用いて遠距離の海上を照らす灯火である「探照灯」(サーチライト)を海上で用いる時の呼名。梅崎春生は旧海軍兵であったから腑に落ちる用語である。]
稲田登戸のすこし先の駅で、浅川を先頭にぞろぞろ下車した時も、私は別段変には思わなかった。もう夜だからここに泊り、明朝江の島に行くのだろうと思った。改札を出ると、雨がシトシトと降っていた。雨に濡れながらしばらく歩き、道を曲って家並の切れたところまで来たとき、テラテラが皆をふりかえって、
「もう直ぐそこだよ。家の者は、みんな鎌倉の別荘に行ってる筈だよ」
などと話し始めたので、空巣をやるつもりだなと、その時初めて知った。私はだまされたと判ったから、グッと癪(しゃく)にさわって顔色を変えた。するとその気配を察したのか、イノシシが私に寄ってきて、
「江の島でのドヤ銭を稼がねばならねえからな、マリ坊、今夜だけは辛抱してつき合って呉れよな」
となだめるように言った。私は腹が立って仕方がなかったけれども、こうなっては独りで帰るわけにも行かないし、ぬかるんだ道を渋々いっしょについて行った。道は暗くて歩きにくいし、着物は雨にぬれるし、むしゃくしゃしてたまらなかった。[やぶちゃん注:「稲田登戸」梅崎春生にとっては縁の深い場所である。「ブログ始動十六周年記念 梅崎春生 飢えの季節」の私の「稲田堤」の注を参照。]
それから暗い坂をのぼったり、雑木林の中や道もない草やぶを通ったり、崖を這いのぼったりして、山の中にぽっかり立ったある一軒屋の裏手まできた。そこにある大きな栗の木の下に皆を待たせて、テラテラが偵察に行くことになった。ところがテラテラは行ったっきり、長いこと帰ってこなかった。どうしたのかと思ってると、犬がけたたましく吠える声がして、テラテラがあわてて戻ってきた。別荘に行って留守だと思ったら、燈が点いていて、家族は全部いるという報告でした。
それから男たちが顔をよせて、電車賃を貰って帰ろうか、それともやっちゃおうか、などとコソコソ相談が始まった。その間に私はぬか雨にすっかり濡れて、湿気は下着まで通り、下腹部が石でも詰ったように重く不快になってきた。気分はイライラし、やがて頭がしんしんと痛んできた。神経が少しずつ狂ってくるのが、ありありと感じられるようでした。熱もすこし出てきたようだった。大声で叫び出したいような焦躁感が、間歇(かんけつ)的に起ってきて、私はそれを必死に我慢していた。探海燈だけはしきりに、「手荒なことは止そうよ。オレは厭だから帰りたい」と反対していたが浅川などが強硬に主張して、とうとうタタキを決行することに一致した。テラテラがそこいらから薪(たきぎ)を持ってきて、皆にくばった。そして、自分は家人に顔を知られているからここで待ってる、などとずるい事を言い出して、浅川に小突かれたりした。皆覆面することになった。私も白いネッカチーフで、自分の顔をおおった。着ているものは濡れていたけれども、身体は火のように熱くなっていました。気持の上の苦痛と、病気の悪化に加えるに生理の変調、そして肌まで雨に濡れたことのために、私の感情も神経も、すでに正常の状態ではなくなっていた。[やぶちゃん注:「タタキ」警察用語で強盗のこと。]
浅川を先頭に、男たちは次々垣を越えた。私は一番しんがりだった。浅川がポーチからいきなり家の中におどりこむと、イノシシ、エフタンの順でそれに続いた。殺気が家の中いっぱいにみなぎった。ドタドタと音が走り、キャッと叫ぶ女の悲鳴。ガチャガチャガチャンとガラスが割れる音。そこの家の犬がけたたましく吠え出して、それに呼応して、あちこちの山かげや谷から、こんなに沢山犬がいたかとびっくりする程、方々で犬たちが吠え始めて、それらは高く低く入り乱れて夜空に反響した。やがて私はポーチに立って、内部の様子なうかがった。寝巻のまま飛び出してきたそこの主人らしい男を、丁度二三人で縛り上げてる所でした。山の中の入りこんだ一軒屋だから、皆は安心してゆうゆうと仕事をやっているようでした。探海燈だけが初心(うぶ)らしくおどおどしていて、浅川から、誰も来やしねえから安心して仕事をやれ、と叱言を言われたりしていた。家族をみんなしばり上げると、音は一応収まった。犬の声もやがて静まったようです。それから浅川の命令で、それぞれ手分けして、各部屋で金品を物色し始めたようだった。明朝までここに泊ってゆくんだから、ゆっくりと手ぬかりなくやれ、と浅川が注意をあたえているのが聞えた。しかし探海燈だけは、まだあがっているらしく、手が慄えてたんすの引手もカタカタと握れない風(ふう)でした。[やぶちゃん注:「ポーチ」porch。玄関。]
ここで見張れと言いつけられた訳ではないけれども、私はポーチに立っていました。家の中に入る気がしなかったのです。家の中は明るかったが、外は真暗闇でした。言いようのない孤独感が、じわじわと私におちてきた。私は唇を嚙んで慄えながら立っていた。雨は相変らずしとしとと降っていました。その闇の中に眼を据えていると、肉体の不調からくる不快感が、しだいにわけのわからない兇暴な憤りに変ってゆくのを、はっきりと私は意識した。掌をあててみると、額は火のように熱かった。じっと立っているだけでも、眼がくらむような気がした。その癖神経がピリピリと張っていて、三里先の物音でも聞き分けられそうな感じでした。全身が山犬みたいなするどい感覚体になって行くのが、自分でも判るほどでした。
そのままで二三十分ほども、私は張りつめたままポーチに立ちすくんでいたと思う。そしてどういう形の予感と危惧が、いきなり私の神経に触れてきたのか、私は今はっきりは思い出せない。突然かすかな戦慄が、電流のように、私の全身を走りぬけたのです。それは確かに、なにものかヘの予覚だった。私はほとんど昆虫のような本能で、突然ある何事かを感知した。私はぎょっと身体を堅くして、家の方をふり返った。家の中では、奥の方で、ときどき何かをかき廻すような、微かな音かするだけで、私が立っている場所からは、もう誰の姿も見えなかった。しかし私はポーチから家の中に入ろうとはしなかった。ふしぎな得体の知れぬ妙な力が、その瞬間私の足を導こうとするのが感じられた。その得体の知れぬ力にひかれて、私はそっとポーチを横に降りた。そして足音を忍ばせて、しとしと落ちるぬか雨の中を、家にそってのろのろと右手の方に廻り始めた。するとそこに黒い小さな梯子(はしご)がかかっているのが見えた。その梯子は、部屋から突き出た低い露台めいたものに連結していたのです。そとに何ごとかがある。何事かが起っている。私はとっさに、確実にそれを感知した。私はぐらつく梯子に慄える足をかけた。
その部屋は、大きなガラス窓を、露台にひらいていました。その窓から電燈の光が、露台をぼんやりあかるく照していた。私の白い姿が、そこに浮き上った。私はその時、真白な服装をしていたのです。白い開襟シャツ、白いスカート、白いズックの靴、顔を覆ったネッカチーフも白色だった。露台に上り立つと、ためらうことなく私はその窓から、いきなりあかるい部屋の中をのぞきこんだ。そしてねばねばしたかたまりを、顔いっぱいにぶっつけられたような気がして、私はよろよろとよろめき、思わず窓枠をつかんで身体を支えた。言いようもなく激しく熱いものが、いきなり私の胸にふき上ってきた。
この家の者らしい若い女が、その部屋の真中に倒れていました。二十一二の女でした。その上に浅川の身体がしっかとのしかかっていたのです。継母からひどく打たれたあの夜、父の部屋で私が見たその一瞬の光景と、それは形の上でほとんど同じでした。ただ違うところは、今見るこの部屋の情況には、あきらかに暴力の気配がいっぱいに満ちあふれていたのです。激しいショックのため、私は心臓が咽喉(のど)までのぼってきたような気がし、頭の鉢が五倍にもふくれ上ったような感じに襲われた。しかし、私は眼を見開いたまま、窓枠を握りしめて、そのまま視線を動かさないでいた。そして渇いた犬のように、私のあえぎはしだいに荒くなってきた。
電燈の光の直射をうけて、その女の白い顔は、言葉で表現できないような表情をたたえていました。ふつうの女がその一生の起伏のなかで、いろんな情況下につくるさまざまの表情を、この女の顔は今の一瞬に凝集し定着させていました。痛み。苦しみ。憎しみ。さげすみ。怒り。悲しみ。ありとあらゆる感情のすべてを。しかもなお、親しみ。喜び。恍惚の感情の片鱗をすら、そこにひそやかにこめて。そしてその上に、浅川の身体がかぶさっていた。露骨な雄の姿勢で。言いようもなく醜く、同時にはげしい美しさで!
何秒間、何十秒間、私がそこに立っていたか、私には全然覚えがありません。一瞬だったような気もするし、ずいぶん長い間だったような気もする。記憶がそこらから、混迷し分裂しかけているようです。きっと私の顔はその女の顔と同じ表情になっていたでしょう。それに違いありません。そして今思い出せるのは、その時の私の気持の一部分に、まぎれもない嫉妬の情がはっきりと動いていたことです。いえ。間違いはありません。疑いもなく、それはするどい嫉妬の感情でした。それは私の心の遠景の部分を、矢のようにひらめいて奔(はし)りぬけた。そしてその時私の全感情と全神経から、形のない重くわだかまったものが、ずるずると脱落するのが感じられた。その代りにすさまじい空白が、突如として私に降りてきた。私の行動を決定する要めのものが、急に私から遠のき、遙かな小さな一点となって、そして無限のむこうに消えて行くのが感じられた。しかしそれにも拘らず、私の五官や四肢の運動は、今思うと極めてしずかに正しく働いていたようでした。それは不思議なほどでした。
私は双手を使って、静かに硝子窓を上へ押しあげた。鍵はかかっていませんでした。そして私は脚をあげて、音のしないように窓の閾(しきい)をまたいだ。今思い出したのですが、閾をまたぐ時私の白いスカートの一部が、ぽちりと自分の経血(けいけつ)でよごれているのに私は気がついた。いくらきれいに生れついても、女というものは、腐った血が降りる穴を一箇所持っているんだ。その時あらくれた気持で、そんなことを思ったりしたのを、私はぼんやりと覚えています。部屋に入ると、私はすぐ壁ぎわに身を寄せた。壁の上部には、古めかしい洋風の短剣がかざってあった。初めからそれを知ってたのかどうかは、私の記億にない。しかし既定の行動のように、私は手を伸ばして、それをそっと壁から外した。それは皮鞘(かわざや)で、インデアンの首が柄の尖端の飾りになっていた。妙なことばかりはっきり覚えているようですが、そのインデアンは頭に八本の羽の飾りをつけていました。たしかに八本。そして音がしないように、私は皮鞘をはらった。白い刀身が、するりと光を弾いた。私はそれをいきなり逆手に特つと、二人の営みの背後から、音を忍んで近づいて行きました。営みは終末に近づいていました。そのことは浅川の身体の動きの微妙な気配で判ったのです。浅川の上半身は、白地のうすい襯衣(シャツ)でおおわれていた。短剣の柄を両掌で握ると、私は全身の気力をこめて、微妙に起伏している浅川の背に、そのするどい刀身を力いっぱい突き刺しました。白く光る刀身の、ほとんど三分の二ほど。鮮血がパッと飛んだ。その瞬間物すごい痙攣(けいれん)が浅川の全身を走って、それきり動かなくなった。(後で聞いたのですが、検屍医のしらべでは、即死だったそうです)
私は短剣を力をこめて引き抜いた。肉が刀身をぎゅっとしめつけていて、抜くのには満身の力が必要でした。やっと引き抜いた瞬間に、猛烈な虚脱感が私にやってきました。虚脱感もあんなに猛烈だと、強い緊張とほとんど変りありません。私は、まるで白痴みたいに、口辺の筋肉をゆるめたまま硬ばらせていた。そして――そしてその血塗れの刀身を、刀身の指す方向に、そのままぐっと押し進めたのです。今思えば、私はその刃を逆に向けて、はっきりと自分の胸に突き刺すべきだったのでしょう。しかしもう私は、その時は判断力を完全に失っていたのです。偶然に刀身の尖端がそちらを向いていたばかりに、あの女は私から刺し殺された。偶然に踏み殺された昆虫のように。もし刀身が私を向いていたならば、もちろん私はためらうことなく、私自身に突き刺したでしょう。その瞬間の私個人の意思でなく、私の歩いてきた生涯がつくり上げた、ある隈どりをもった架空の意思のために。――
それから一時間後に、私たちは皆つかまってしまったのです。そして数珠(じゅず)つなぎになって、雨の中を原町田警察署へ引いて行かれた。刑事さんにいろいろ問いただされたけれども、私には何も答えられなかった。私は椅子にかけて黙りこんでいた。すっかり放心状態だったのです。私の側でイノシシが、私を江の島に誘って皆の相手をさせるつもりだった、と自供しているのを、ぼんやりと他人(ひと)事のように聞いていました。生きているということは何ということだろう。そんなことをしきりに自分の心に問いかけながら。
――それから私は八王子の少年刑務所に入れられました。そこで二箇月ほど過し、一週間前、この小菅(こすげ)の拘置所に移されてきたのです。今ここで、この上申書を書いているのです。この小菅拘置所の女区は、八王子にくらべると、ずっと暗いところのようです。八王子では、窓から小安ケ岡や富士山などが見えたけれど、ここの窓からは、ほとんど何も見えない。そのせいか、同房の女囚たちも、ひどく感傷的なようです。昨夜も同房の一人が、窓からきれいな星が見えると言い出して皆が窓に顔をあつめて眺めているところを、担当さんに見つかって、少し叱言(こごと)をいわれたりしたが、その後で、「お前たちは星も満足に見られないんだよ」とさとされて、私を除いた他の女囚は皆、掌で顔をおおったり抱き合ったりして、しばらく泣いていました。泣く気持が判らないではありませんが、私にはとても泣けません。涙が出てこないのです。しかし私はふと、そんな彼等が羨しいとも思う。彼等のように自ら悲傷して涙を流し、涙を流すことで気分を散らしてしまうような習慣を、もし私が早くから身につけていたら、私もあんな苦しい半生を過さずにすんだでしょう。その果てのこんな罪も犯さずに済んだでしょう。今となってそんな事を言っても、始まりませんけれども。[やぶちゃん注:「八王子の少年刑務所」東京都八王子市緑町にある多摩少年院(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。日本初の少年院として知られる。「小菅(こすげ)の拘置所」東京都葛飾区小菅にある東京拘置所。「小安ケ岡」不詳。但し、漢字違いだが、多摩少年院の東北の、八王子駅の南側の市街地区の地名が東京都八王子市子安町(こやすまち)である。或いは、ここに嘗つては丘陵地があって、かく呼ばれていたのかも知れない。判らぬ。]
ここに身柄を移されてから、父も母もまだ訪ねてきません。八王子の頃は、三日をあげず、どちらかが訪ねてきて呉れました。父もずいぶん年老いたようです。私のせいもあるのでしょう。しかしあんな事件を起して以来、父にたいする気持ががらりと変化したのを、私は自分でも感じます。私の心の中のなにかが、あの瞬間を境として、はっきりと角度や方向を変えたようです。それが私には不思議でなりません。あの長い間の父に対する屈折した思いは、一体どこに行ったのでしょう。面会所で父と会っても、父に言いたいことも訴えたいことも、私には何もないのです。しかし私は、父に会うのが厭だと言うのではありません。父は以前よりも思いやり深くなり、私のことも親身に心配しているのです。それにも拘らず、私には父の姿が、私とつながりのない物体のようにふと感じられたりするのです。ただ父権をもつ物体のように。
その父に対して、心の深層で私がこだわり、そのこだわりの核を探りあてかね、その周囲をしきりに屈折した愛情で隈(くま)どったこと、それが今の私には夢のように虚(むな)しく、遠いものに感じられます。母に対しても、同様な気持です。むこうにしたがって揺れ動く切なさがもはや私にはない。父は場末の町工場の平凡な主人であり、母はその貞淑な後妻というだけに過ぎません。今の私には、それだけなのです。その感じはいささか私に不安でなくもない。こういう具合に、私の心の中で、すでに完全に分解され、処理されでしまったものは、一体何なのでしょう。
しかしふつうの意味で、大人になるということは、こういう過程を指すのでしょうか。もしそうだとすれば、私が殺人という犠牲をはらったところを、他の人々はどんなものを犠牲として、そこを通り抜けたのでしょう。他もそこなわず自らの身も傷つけず、たくさんの男女は安心して大人になっている。――そう思うのは、私のひがみでしょうか。私の負け惜しみでしょうか。それとも、私の独り相撲でしょうか。いえ、独り相撲なら、独り相撲でいいのです。私はその独り相撲で、慘(みじ)めにも負けたというだけの話なのですから。――
私のこの上申書は、弁護士さんのすすめで書いているのです。弁護士さんは私にいろいろと上申書の要領を教えて下さったけれど、私はそれに従わず、とうとう本当のところを書いてしまった。罪を悔悟しているということは、一言も書かなかった。今更悔悟する位なら、初めからあんなことはやりません。しかしこれを貴方の前に差し出すのは、今となっては厭な気もします。あまり面白くない。本音を記しただけに、なおのこと、そういう感じが強いのです。貴方がこれを読んでいらっしゃる光景を、私はまざまざと想像できるような気がします。貴方は手入れのいい服を着て、日当りのいい判事室で、柔かくふかふかした椅子にもたれ、匂いのいい莨(たばこ)をふかしながら、忙しげにこれをお読みになるのでしょう。読み終ると腕を組んで三分間ばかり私のことを考え、そしてこの上申書を机の中にぽいとほうり込むのでしょう。そして数時間後には、その内容もお忘れになってるかも知れない。いえ、それがどうとも申し上げるのではありません。貴方は人を裁くのが職業だし、その職業は忙しいものだと聞いておりますから。しかし私にはそれがちょっと不思議な気がしてならないのです。貴方はいずれ私を法廷に呼び出し、私の罪状を厳しくただし、貴方の職業上の判断にもとづいて、私を死刑と決めるなり、懲役何年と決めるなりなさるのでしょう。私はどうせ裁かれる身なのですから、できるだけその日が早く来るようにと待ってはいるのですが。
裁判長さま。
しかし、人間が人間を裁くということは、一体どういうことなのでしょう?