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2022/07/31

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 火齊珠に就て (その二・「追加」の1)

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。但し、例によって段落が少なく、ベタでダラダラ続くため、「選集」を参考に段落を成形し、注は各段落末に配した。彼の読点欠や読点連続には、流石にそろそろ生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、句読点を私が勝手に変更したり、入れたりする。ちょっと注に手がかかるので、四回(本篇を独立させ、後のやや長い「追加」を三つに分ける)に分割する。]

 

追 加 (大正二年十一月考古學雜誌四卷三號)

 考古學雜誌第三卷第二號、予の「火齊珠に就て」なる文に對し、同卷第六號に古谷君の答有り。予が見出だせる淵鑑類函三六四に引る續漢書と漢魏叢書中の秘辛の文は、俱に隋唐前火齊なる語が支那に存せしを證するに足ざる由を序べ、更に件の二書の外、隋唐前此語ある明證あらば擧げ見よと覓められしを以て、予は後漢の班孟堅の西都賦なる翡翠火齊、流耀含英、又、同朝の張平子の西京賦なる、翡翠火齊絡以美玉の二例(文選卷一と二に出づ)を見出だし、序でに、瑠璃、玻瓈、硝子の名目に關する拙考を編し、揭載を乞んと從事する中、眼を煩ひ、荏苒、今、九月初旬に及べり。其間だ、第三卷第七號に、古谷君は依然、類函と秘辛の文の徵するに足らざるを主張さると雖も、隋唐前、既に火齊なる語が支那に行はれしを認めらるゝに及べる由を示されたれば、眼病全癒の上、拙考中、君と見を同じうする分を除き、改稿の後本誌に寄せんと欲す。而して、當初、予の問中に引ける二書の中、秘辛が楊脩の僞作らしいことは、予もほぼ同意に向へるも、類函引く所の文字に就ては、古谷君の答へ其正を得ずと惟ふを以て、爰に重て疑を述て、君の再答を待つ事とすべし。

[やぶちゃん注:「覓め」「もとめ」。

「同朝の張平子の西京賦」「張平子」は少し前代に生きた班孟堅(班固)と同じ後漢の文人政治家にして科学者であった張衡(七八年~一三九年)。平子は字。安帝に召されて郎中となり、侍中から河間相となって治績を上げ、後に尚書に移るも、間もなく、没した。広く学問に通じ、若い頃から文名が高く、十年の歳月をかけて作った、さながら、長安と洛陽の風俗史を思わせる「西京賦」(せいけいふ)と「東京賦」、抒情的な「思玄賦」などが知られる。彼の「四愁詩」は作者の明らかな七言詩としては、最も早い作品である。再度に亙って天文の太史令を務め、天文・暦算にも詳しく、天文書「霊憲」を著わしたほか、渾天儀・候風地動儀(地震計)をさえ発明している天才である(主文を「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「翡翠火齊絡以美玉」は「翡翠の火齊(かせい)、絡(まと)ふに美玉を以つてす。」。「西京賦」は非常に長いものなので、例によって、紀頌之氏のブログ「漢文委員会」のこちらの分割版がよい。その「#7-2」に、

   《引用開始》

翡翠火齊,絡以美玉。

翡翠と火斉の玉は、美玉で幾重にもからまり、まとわりつく。

   《引用終了》

とある。

「玻瓈」「玻璃」に同じ。

「荏苒」「じんぜん」と読む。なすこともなく、次第に月日が経ってしまうさま、物事が捗らず、延び延びになるさまを言う。]

 本草綱目玉類、水精附錄火珠、時珍曰、說文謂之火齊珠、漢書謂之玫瑰、音枚回、唐書云、東南海中有羅刹國、出火齊珠、大者如雞卵、狀類水精、圓白照數尺、日中以艾承之則得火、用炙艾炷不傷人、今占城國有之、名朝霞大火珠、又續漢書云、哀牢夷出火精琉璃、則火齊乃火精之訛、正與水精對、次に瑠璃、一名火齊、時珍曰云々、火齊與火珠同名、扠、集解の項に、集韻、異物志等を引り。此等の諸文を按ずるに、唐書の火齊珠は水精を硏き圓めたる者、若くは「ガラス」珠もて日より火を取りし者なるべく、楊孚の異物志に(古谷君は南州異物志とせるも、綱目同項に二書を竝べ別ちたれば別書也)、火齊狀如雲母、色如紫金、重沓可開、折之則薄如蟬翼、積之乃如紗縠、亦琉璃雲母之類也と有るは、今日、金石學者の苦土雲母(ビオタイト)と稱するものに相當するにや。全く火取り玉にも、梵語に所謂、吠瑠璃(モニエル・ウヰリヤムス・ベンフェイ、諸氏の梵語字典、アイテルの支那佛敎語彙、皆なラピスラズリ、乃ち、漢名空靑、邦名こんぜう、とせり)にも異り、吳の朝の萬震の南州異物志に、琉璃は本質是石、以自然灰治之、可爲器、石不得此則不可釋と有る琉璃は、「ガラス」の原料たる珪石(クヲールツ)の一種たるべきも、火齊と同物と明記無れば、是のみでは、火齊が「ガラス」也とは言い得ず。時珍の推察通り、火齊と玫瑰が果たして一物ならんには、韓非子已に、賣其櫝邊珠、飾以玫瑰と有り、文選卷七、司馬長卿の子虛の賦に、其石則赤玉玫瑰(註に晉灼曰、玫瑰火齊珠也)と見えたるにて、其の秦漢の際既に世に行われし名なるを知るも、夢溪筆談(趙宋の沈括著)に、予在漢東、得一玉琥、美玉而微紅、溫潤明潔、或云卽玫瑰也と有れば、宋の頃、早や玫瑰の何物たるを詳らかにせざりし也。述異記に蛇珠千枚、不及一玫瑰と有れば、決して「ガラス」と同價の者に非ざるべし。本草啓蒙卷四に、寶石の事、天工開物に詳か也、其玫瑰と云は津輕舍利の事也、他書に玫瑰と云は赤き玉の事也、「はまなす」を玫瑰花と云も、實の色赤玉の如きを以て名くと有れば、秦漢の時、玫瑰と呼しは、何か赤き貴石なるべし。

[やぶちゃん注:「本草綱目玉類、水精附錄火珠、時珍曰、……」原文は「漢籍リポジトリ」の「本草綱目」巻八「金石之二」の「水精」(「水晶」に同じ)の終りの方にある「附錄火珠」の影印画像([028-58a])m及び、国立国会図書館デジタルコレクションの寛文九(一六六九)板本の当該部と校合した。後者の訓点を参考に訓読する。

   *

 時珍曰はく、「說文」に、之れを『火齊珠』と謂い、「漢書」に、之れを『玫瑰(ばいくわ/まいくわい)』(音は「枚」・「回」。)と謂ふ。「唐書」に云はく、東南海中に羅刹國(らせつこく)有り、『火齊珠』を出だす。大なる者は雞卵(けいらん)のごとく、狀(かたち)は水精(ししやう)に類(るい)す。圓(まる)く白くして、數尺を照らす。日中に艾(もぐさ)を以つて之れを承(う)くれば、則ち、火を得。艾炷(がいしゆ)を炙(や)くに用ふれば、人を傷(そこな)はず。今、占城國(チヤンパこく)に之れ有り、『朝霞大火珠』と名づく、と。又、「續漢書」に曰く、哀牢夷(あいらうい)は『火精琉璃』を出だす。則ち、『火齊』は『火精(くわしやう)』の訛(なま)りにして、正(まさ)に『水精』と對(つい)たり、と。

   *

後で熊楠も解説しているが、「玫瑰」は通常、本邦では音では「マイクワイ(マイカイ)」と読まれることの方が多いように思う。和訓して「はまなす」とすることが多いが、本来は古い中国語で南方に産する赤い玉石の名であり、それを花に比して、中国原産の落葉低木である、五~六月頃に芳香のある、白又は紫紅色の八重の花が咲くバラ目バラ科バラ属 Eurosa 亜属 Cinnamomeae 節ハマナス Rosa rugosa に当てる。現代中国語でもこれは同じで漢字表記も同じである。「羅刹國」は、玄奘の「大唐西域記」に言及されてある羅刹女(らせつにょ:仏教で悪鬼の一種とされる羅刹の女。人を食う鬼女だが、非常に美しい容貌を持つとされ、仏教に護持神として吸収された十羅刹女いる)のいる国。当該ウィキによれば、『後に近世以前の日本人は日本の南方(若しくは東方)に存在すると信じていた』。「大唐西域記」では第十一巻で、『僧伽羅国(シンガラ)においてセイロン島(現スリランカ)の建国伝説として記述され』てある。五百『人の羅刹女のいる国に難破して配下の』五百『人の商人とたどりついた僧伽羅は』、一人、『命からがら逃げ出すも』、『妻にした羅刹女が追ってきたので、羅刹国と羅刹女のことを国王に説明するも』、『信じてもらえず、国王の他多くの者が食べられてしまう。そこで僧伽羅は逆に羅刹国に攻めこみ』、『羅刹女をたおし、そこの王となり』、『国名にその名がついたという』とある。スリランカ(セイロン)はルビー・サファイアの産地として知られる。「日中に艾(もぐさ)を以つて之れを承(う)くれば、則ち、火を得」もうお分かりと思うが、オリンピアの儀式と同じで、これは「天火」で神聖なる天空の太陽から採った聖なる火である。この場合は、水晶のレンズ効果を用いて火種である艾(もぐさ)に空中から火を移すのである。それは清浄な太陽の火であるからして、「艾炷(がいしゆ)を炙(や)く炷(ひ)に用ふれば、人を傷(そこな)はず」とあるのである。則ち、その火で、艾炷(がいしゅ:艾を円錐状に成形したものを言う)で御灸を据えるれば、決して人体に火傷などの疵はつかないというのである。但し、注意されたいが、「本草綱目」は孰れも「用炙艾炷不傷人」で、「お灸」の「灸」(音「キウ(キュウ)/訓「やいと」」ではなく、「人口に膾炙する」の「焼く」の意味の「炙」で似て非なるの別字である。意味が同じでも違うの字であることは言を俟たない。しかも、南方熊楠ばかりか、「選集」も「炙」を「灸」と誤っている。こういうことは、誰かが言っておかないと、誤った認識が後代に感染して、それが正しいものとされてしまう。どうしてもここでそれを指摘しておきたいのである。「占城國(チヤンパこく)」チャンパ王国。現在のベトナム中部沿海地方(北中部及び南中部を合わせた地域)に存在した国家。主要住民の「古チャム人」はベトナム中部南端に住むチャム族の直接の祖先とされる。中国では唐代半ばまで「林邑」と呼び、その後、「環王」を称したが、唐末以降は「占城」と呼んだ。位置は参照したウィキの「占城」の地図を見られたい。「哀牢夷」「正篇」で既出既注の「哀牢」と同じ。「火精」が『「水精」と對(つい)たり』というのは、五行思想の「相剋」の「水剋火(すいこくか)」の謂いで、水晶が「水」でありながら、「火齊珠」の「火」を内包していて、天火を齎すということに神秘性や聖性を感じているものと私は思う。

「次に瑠璃、一名火齊、時珍曰云々、火齊與火珠同名」先の「本草綱目」の「水精」に続く「瑠璃」の条。「一に火齊と名づく」だが、これは南方の意訳漢文で、原本では、「釋名」の部分に「火齊」とあるだけである。その以下に割注で、「時珍曰く」で始まるのを、「云々」で一部をカットしたもの。原文は「時珍曰、漢書作流離、言其流光陸離也。火齊與火珠同名。」とある最後だけを出してある。「火齊と火珠とは、同じ名なり。」である。

「扠」「さて」。「扨」に同じ。

「集解の項に、集韻、異物志等を引」(ひけ)「り。此等の諸文を按ずるに、唐書の火齊珠は水精を硏き圓めたる者、若くは「ガラス」珠もて日より火を取りし者なるべく、楊孚の異物志に(古谷君は南州異物志とせるも、綱目同項に二書を竝べ別ちたれば別書也)、火齊狀如雲母、色如紫金、重沓可開、折之則薄如蟬翼、積之乃如紗縠、亦琉璃雲母之類也と有る」「琉璃」の「集解」は、

   *

藏器曰、集韻云、琉璃火齊珠也。南州異物志云、琉璃、本質是石、以自然灰治之、可爲器石。不得此則不可釋。佛經、所謂七寳者、琉璃・車渠・馬腦・玻璃・眞珠是也。時珍曰、按魏畧云、大秦國、出金銀琉璃。有赤・白・黃・黑・靑・緑・縹・紺・紅・紫十種。此乃自然之物、澤潤光采踰於衆玉。今俗、所用皆銷冶石汁、以衆藥灌而爲之。虗脆不貞。格古論云、石琉璃出高麗。刀刮不動、色白厚半寸許。可㸃燈眀於牛角者。異物志云。南天竺諸國出火齊。狀如雲母、色如紫金。重沓可開。折之則薄如蟬翼。積之、乃如紗縠。亦琉璃雲母之類也。按此石今人以作燈球。眀瑩而堅耐久。蘇頌言、亦可入藥。未見用者。

   *

である。引いた箇所は、やや合成で、

   *

火齊、狀(かたち)雲母のごとく、色、紫金のごとし。重-沓(かさな)りて開くべし。之れを折(さ)くときは、則ち、薄くして蟬(せみ)の翼のごとし。之れを積むときは、乃(すなは)ち、紗(しや)の縠(ちぢみ)のごとし。亦、琉璃・雲母の類(るい)なり。

   *

となる。

「苦土雲母(ビオタイト)」これは現在の黒雲母(biotite)のこと。ケイ酸塩鉱物の一種で、金雲母と鉄雲母との中間組成の固溶体で、現在では独立した鉱物種とはされていない。当該ウィキによれば、『その名の』通り、『黒い。他の雲母と同じように』劈開(へきかい:結晶や岩石の割れ方がある特定方向へ割れやすいという性質)が『一方向であるため、紙の束のように薄く一方向にのみ』、『はがれる。一枚ずつ剥がすことが出来る。また、六角形である』。『火成岩のうちの酸性岩に普通に含まれる。火成岩の黒い斑点を形成するのはほとんどが黒雲母または角閃石である』。『Biotite(英名)の語源は、フランスの物理学者・鉱物学者』ジャン・バティスト・ビオ(Jean-Baptiste Biot 一七七四年~一八六二)の名に因んで、一八四七年に『されたたもの。ビオが、この鉱物の光学性(偏光)を研究したことを記念したもの』である。また、『Biotiteを黒雲母とも苦土雲母とも訳したのは』、鉱物学者『和田維四郎』(つなしろう 安政三(一八五六)年~大正九(一九二〇)年)で、明治一一(一八七八)年のことであったとある。和田はお雇い外国人で、「フォッサマグナ」の発見やナウマンゾウに名を残していることで知られるドイツの地質学者で、日本における近代地質学の基礎を築くとともに、日本初の本格的な地質図を作成した、かのハインリヒ・エドムント・ナウマン(Heinrich Edmund Naumann 一八五四年~ 一九二七年)の弟子であった。

「火取り玉」「ひとるたま」とも。古代、太陽の光線を集めて、火を取った玉。水晶の類。「和名類聚鈔」にも既に載っている。

「吠瑠璃」「べいるり」と読む。サンスクリット語の「バイドゥーリヤ」の漢音訳。仏教用語。「七宝」の一つで、青い色の宝石。「瑠璃」「毘瑠璃」(びるり)とも呼ぶ。

「モニエル・ウヰリヤムス・ベンフェイ」イギリスの東洋学者・インド学者でオックスフォード大学の第二代サンスクリット教授であったモニエル・モニエル=ウィリアムズ(Monier Monier-Williams 一八一九年~一八九九年)。「サンスクリット語辞典」(A Sanskrit-English Dictionary・一八七二年刊)を完成した業績は大きく、この辞典は今日に至るまで版を重ね、標準的梵英辞典となっている。古代インド文学の紹介にも貢献した。

「アイテルの支那佛敎語彙」エルンスト・ヨハン・エイテル(Ernst Johann EitelErnest John Eitel 一八三八 年~一九〇八年)。ドイツのヴュルテンベルク生まれのドイツ人で、元々は「ヴュルテンベルク福音教会」の牧師であったが、「バーゼル伝道会」に入って、広東省に福音を広めるために渡った。一八六二年からは、香港で布教活動に従事するとともに、香港政庁下での教育行政官としても活躍した。後には「ロンドン伝道協会」に入会するとともに、イギリス国籍を取得している。中英辞典・広東語発音本・広東語辞典など。多くの言語学の著書を編纂している。「支那佛敎語彙」が彼のどの著作を指しているかは判らぬ。

「ラピスラズリ」既出既注。

「漢名空靑」確かに、深い海の色や、真っ青な空の青を連想させる綺麗なブルーをしており、そもそもが、ラピスラズリのラピス(Lapis)はラテン語の「石」、ラズリ(Lazuli)は「青」や「空」を意味するペルシャ語の「lazward」が語源であるから、腑には落ちる。但し、中文ウィキでは「青金岩」である。

「邦名こんぜう」「紺青」であろう。

「吳の朝の萬震の南州異物志」三国時代(二二〇年~二八〇年)の呉の太守であった万震の撰になる南方地方の珍しい物産を記したもの。散佚したが、「太平御覧」などに佚文が載る。但し、熊楠のこれは後で明らかにしている通り、既に掲げた「本草綱目」の「琉璃」の「集解」に拠ったもの。

「琉璃は本質是石、以自然灰治之、可爲器、石不得此則不可釋」「琉璃は、本質、是れ、石にして、自然の灰を以つて、之れを治め、器と爲すべし。石、此れを得ざれば、則ち、釋(とか)すべからず。」。

「珪石(クヲールツ)」ガラス・陶磁器・セメント・煉瓦などの原料となる珪酸質の岩石。silica stone。石英(ドイツ語:Quarz:クォーツ)を主体としたものをかくも呼ぶ。

「韓非子已に、賣其櫝邊珠、飾以玫瑰と有り」「韓非子」(戦国時代末の法家の思想家韓非(?~紀元前二三四年?)が書いたとされる論集だが不確か。秦の始皇帝が感銘を受けたと伝えられ,峻厳な法治主義を特色とする。君主と人民の利害は相反することから、人民を法で厳格に規制すべきこと、臣下を賞罰を以って自在に操縦すべきこと,法の権威を保つべく一切の批判(とりわけ先王の法を以ってする批判)を封ずるべきことなどが説かれている。巻十一に当該部は出る。「中國哲學書電子化計劃」のこちらの影印本で確認出来るが(一行目)、ちょっと違う。他の中部サイトを見ても、以下が正しい。例の中国人の好きな喩えで、「本当の値打ちが判らず、外面の飾りや、見かけの美しさにのみ、心を惹かれてしまい、本来の重要なものの値打ちが判らずにしまうこと、方法を誤って目的を失うことを諌めるもので、爽やかな弁舌にすっかり騙されてはならないことを言う。話は、「昔、楚の人が木蘭(モクレン)の木で箱を作り、その外側を美しい珠玉で飾ったが、鄭(てい)の人が、その箱の美しさにばかり惹かれ、中に収めてあった宝珠の値打ちが判らず、箱だけ買って珠を返したという話の一節である。

   *

「爲木蘭之櫃、薰以桂椒之櫝、綴以珠玉、飾以玫瑰」

(木蘭の櫃を爲(つく)り、桂・椒を以つて櫝(はこ)薰(くん)じ、珠玉を以つて綴(つづ)り、玫瑰(まいくわい)を以つて飾れり。)

   *

「桂」「椒」は孰れも香木。

「文選卷七、司馬長卿の子虛の賦に、其石則赤玉玫瑰(註に晉灼曰、玫瑰火齊珠也)」「司馬長卿」は前漢の文人司馬相如(しょうじょ 紀元前一七九年~紀元前一一七年)の字。成都出身。若いころより読書を好み、撃剣を学んで景帝に仕え、武騎常侍となったが、職を辞して梁に遊んだ。文学を愛する梁の孝王のもとで、漢代に盛んとなった賦の創作に努め、この「子虚賦」(しきょふ)をつくった。孝王の死後、故郷に帰ったが、職もなく、困窮の最中、富豪卓王孫の娘、文君と駆け落ちして酒屋を開いた話は名高い。「子虚賦」が武帝の賞賛を受け、召されて郎となり、宮廷文人として活躍した。武帝の西南征伐に際し、中郎将となり、功績をあげ、のちに孝文園令となった。代表作の「子虚賦」及び続編である「上林賦」は、子虚・烏有(うゆう)先生・亡是公(ぶぜこう)の三人の架空の人物の問答形式を採ったもので、宮殿や庭園の壮麗さ、狩猟の盛大さを叙述した長編である。その最後に武帝の政治に対する諷諫がみられるが、これは付け足しであり、「百を勧めて一を諷す」などと評される。二賦ともに全編に美辞麗句を連ねた美文で、漢賦の代表的作品とされ、戦国末期の「楚辞」の伝統を引く賦形式文学の代表として六朝の文人や後世の文学者に大きな影響を与えた(小学館「日本大百科全書」に拠った)。「子虛賦」の全文は「維基文庫」のここにあるが、何時もの通り、紀頌之氏のブログ「漢文委員会」のこちらの分割版が良い。そこに、

   《引用開始》

交錯糾紛,上干青雲。

罷池陂陁,下屬江河。

其土則丹青赭堊,雌黃白坿,錫碧金銀。

眾色炫燿,照爛龍鱗。

其石則赤玉玫瑰,琳瑉琨珸,

瑊玏玄厲,礝石武夫。

   《引用終了》

と原文があって、書き下し文が、

   《引用開始》

交錯【こうさく】糾紛して,上 青雲を干【おか】す。

罷池【ひち】陂陁【はだ】として,下 江河に屬す。

其の土は則ち丹青【たんせい】赭堊【しゃあく】,雌黃【しこう】白坿【はくふ】,錫碧【せきへき】金銀あり。

眾色【しゅうしょく】炫燿【げんよう】として,照爛【しょうらん】として龍の鱗のごとし。

其の石は則ち赤玉【せきぎょく】玫瑰【ばいかい】,琳瑉【りんびん】琨珸【こんご】,

瑊玏【かんろく】玄厲【げんれい】,礝石【ぜんせき】武夫【ぶふ】あり。

   《引用終了》

とあった後に、「現代語訳」として、

   《引用開始》

もつれあった山々は、青空に触れんばかりである。

その斜面は、池に向かってなだらかに下っていって、大河のほとりへ続いていく。

この土地からは、丹砂・空靑・赤玉・白土・雌黄・白坿・錫・碧玉・金・鎚が掘り出される。

さまざまな色彩が輝いて、龍の鱗がきらめくようだ。

さらに、石としては、赤玉・攻塊・琳瑉・琨珸・瑊玏・玄厲・礝石・武夫などが採れる。

   《引用終了》

とある。並んでいる後の石は判らんが、流石に、注する気にはならない。悪しからず。

「夢溪筆談(趙宋の沈括著)」北宋中期の政治家・学者の沈括(しんかつ 一〇三一年~一〇九五年)の随筆。特に科学技術関連の記事が多いことで知られる。「中國哲學書電子化計劃」のこちらで、当該部(巻二十五の「雜志二」)の影印本で確認した。

「予在漢東、得一玉琥、美玉而微紅、溫潤明潔、或云卽玫瑰也」「予、漢東に在りて、一玉琥(ぎよくこ)を得たり。美玉にして微(わづか)に紅(あか)く、溫潤にして明潔たり。或いは云はく、『卽ち、玫瑰(まいくわい)なり。』と。」。

「述異記に蛇珠千枚、不及一玫瑰」南斉の祖沖之(四二九年~五〇〇年)が撰したとされる志怪小説集。「維基文庫」の「述異記(四庫全書本)/卷上」で文字列を確認した(そちらの「虵」は「蛇」の異体字)。「蛇珠(じやしゆ)の千枚は、一(いつ)の玫瑰(まいくわい)に及ばず。」。「蛇珠」は聖獣である龍が持つとされる赤い宝珠を指す。「如意宝珠」「摩尼宝珠」とも。

『本草啓蒙卷四に、寶石の事、天工開物に詳か也、其玫瑰と云は津輕舍利の事也、他書に玫瑰と云は赤き玉の事也、「はまなす」を玫瑰花』(まいくわいくわ)「と云も、實の色赤玉の如きを以て名く』国立国会図書館デジタルコレクション「重訂本草綱目啓蒙」の「寶石」の項。ここから読める。「津輕舍利」古くから青森県東津軽郡今別町(グーグル・マップ・データ)の海岸は瑪瑙の産地として知られる。【2022年8月2日追記】サイト・カテゴリ「和漢三才図会抄」で『「和漢三才圖會」卷第六十「玉石類伊」の内の「寶石(つがるいし)」』を電子化しておいたので参照されたい。]

2022/07/30

曲亭馬琴「兎園小説別集」下巻 下野國安蘇郡赤岩庚申山記 / 「兎園小説別集」~了

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの「新燕石十種」第四では本篇はここ。吉川弘文館随筆大成版で、誤字と判断されるものや、句読点(私が添えたものも含む)などを修正した。最後の四言古詩のみ、一段で組み、各句末の底本の読点は除去した。

 本篇を以って「兎園小説別集」は終わっている。]

 

   ○下野國安蘇郡赤岩庚申山記

 

Asogunakaiwakousinki0

 

Asogunakaiwakousinki

 

[やぶちゃん注:画像は標題の前にあるが、標題の後に移した。国立国会図書館デジタルコレクションの底本からトリミング補正した。最初のものは、囲み文字二行分けで、罫外の下方中央にポイント落ちで『◎圖省略』とある。ハイハイ、後にしっかり入れておきましたよ!

下野國安蘇郡

赤岩庚申山記

とある。後者は、囲み罫線で四分割されてある。以下に文字列のみを電子化すると、初めの縦長の一本の枠内に、

庚申山東西道中記

とあり、次いで中央の上下三段の枠内の最上段に、

江戶より熊谷へ十六里

熊谷より中瀨へ四里

中瀨より大原へ三里

大原より大間へ二里

大間より花輪へ三里

花輪より澤入へ三里半

澤入より足尾ヘ二里半

足尾より庚申山

とある。次に、中段に、

高崎より前橋へ三里

前橋より大胡へ三里

大胡より寶澤へ二里

寶澤より保澤へ二里

保澤より花輪へ二里

花輪より澤入へ三里半

澤入より足尾ヘ二里半

足尾より

とある。最後の下部の三段目に、

日光より細尾へ二里

細尾より峠ヘ一里半

峠より神子内ヘ一里半

神子内より足尾へ二里

足尾より

案内者  玉屋

赤澤村    宇兵衞

     八百屋

松原村    孫右衞門

     名主

       久右衞門

とある。最後の縦長の一本の枠内に、

四月八日より九月九日まで登山其外足尾宿に庚申山案内所有ㇾ之、

とある。ここに出る地名は注すると、煩瑣を極め、しかも、労多くして、実無しの感があるので、注しない。悪しからず。]

日本紀に曰、天地混成の始め、神人あり。可美葦牙彥男尊と申。又の名は國常立尊、此神の神胤伊弉諾、伊弉册尊、土を胎て國を生む云々。

是、人智を以、神世の事跡の議り知るべからず、天造の自然なり。仰げば高き大日本日高見の國、下野日光山の西にあたり、道程七里にして、足尾宿に至る。それより凡十町餘にして、又、二十町の登りあり。此峠より、又、十町餘り下る。此所より銀山まで、一里の間、澤傳ひ、是より登り三里餘にして、庚申山の胎内竇[やぶちゃん注:「くぐり」。]と云岩窟に至る。此石室に休息し、是より奧の院まで一里と云。胎内竇、凡、廣さ十坪餘、それより二十間ほど登りて、左右に大石あり。高さ五、六丈、形、二王の如し。是、天工の妙なり。又、登ること一町餘にして、臺石あり。廣さ五坪餘、自然にして砥の如し、立て四方を眺ば、則、山中の風景、座ながらにしてつくすベし。是より下ること二間餘、甚だしき險阻なり。鬼の鬚礱(ひげすり)と云。又下ること二町餘にして、自然の石橋あり。其長さ二間餘、廣さ五、六尺、此橋より少登りて、自然の石門あり。是を一の門と云。東向なり。大さ二十間餘、中間二間餘、左右の小竇各九尺計、門の形狀、瑟柱の如し。これより二町餘にして、左の幽谷より、數十尺の大石高く、塔の如く、櫓の如くにして、叢樹、頂上に生じ、是又、奇といふべし。又、下ること二町餘にして、裏見が瀧あり。幅五、六尺もあらん。その高さ、知難し。是、日光山の瀧に似て、其奇は、又、是にまさる。是より登り五町餘にして、右に五の大石あり。其色、白し。文字石と云。高さ、計難し。庚申の文字ありと云傳ふ。末よまず、又、登り下ること、一町餘にして、石門あり。是を二の門と云。大さ三間餘、中央通り九尺程なり。此門内、一町餘にして、燈籠石あり。高、四、五丈、又、登ること、數百步にして、遙に鐘石を見る。高、二、三丈、蘿(こけ)、生(むし)、兎絲(とし)生じ、眞に庚鐘の如し。又、下ること數百步にして、石橋あり。長さ十二、三間にして、丘より岑に跨り、橋下、谷、深くして、雲、生じ、澗底、見えず。恰、虹のごとし。しらず、是を仙境といはんや。寶藏石、舟石、釜石、龜鶴石、引出し石、二重の塀石にして巖々たり。天造奇構の妙といふべし。又、岩窟、數處あり。豈、上世穴居の址にあらずや。又、蹲々たる三窟あり、奧の院と云。屹として高き事、二、三丈、嶙として近づく事、あたはず。其形、中は方、左は三角、右は圓、孰、規矩を以て作るが如し。口、各、八、九尺、所謂、稚日孁尊、猿田彥命、素盞嗚尊鎭座の舊跡か。庚申山と尊稱す。神祇官の記に云、庚申の日、三神を奉拜すと、されば、貴賤尊敬すべし。神前に三の猿石あり。所謂、視るなかれ、聽なかれ、言ふなかれの箴にして、其狀、人に似たり。みな、活石也。右に陟る事、數百步にして、東のつまと云所あり。眺望、甚、よし。又、下ること、四町餘にして、大石あり。平岩と云。長三十間計、高一丈餘、建屛の如し。此石のきれめの間より、八町餘下れば、胎内竇の東方に出る。是此、神境、人寰を避る事、遠く、ことに絕險の地にして、古今、是をしる人、少し。中古人皇四十八代稱德天皇の御宇、神護景雲元年丁未歲、釋勝道、始て二荒山を開き、遂に此山に登り、神を拜すと云傳ふ。今を去ること一千五十有餘年なり。又、元祿年中、こゝに登るものあり、既に下りて奇を諸人に語り、再遊を謀りて、はたさず。此事を聞傳へ、糧を裹にし、登るものありといへども、容易に及ぶ所にあらずして止る。しかるに、余、先年、藥を名山にとり、此山の岩窟を探り、深く信仰の思ひを增、遂に道を造り、佳境を開くの志を發するといふこと、しかり。

 文政三年庚辰四月、再興道普請願主

    下野都賀郡三谷村佐野半兵衞藤原一信

    神祗伯二位王府祠官源朝臣臣彥謹記

              應需松本樂山書

 あふぎみよしらぬかみ代のむかしより

      今にみやまのおくのいはくら

藥品產物、追而悉記すべし。 

 黃連  熊膽  兎絲  内蓯蓉 ヱフリユ

 岩茸  細辛  蠟石  銀銅  錫鉛

 貫衆  當歸  石斛  綠靑  靑礞石

 白石英 石鍾乳 石膏  滑石  孔雀石

 鳳凰石  山玄玉

   邵康節幽明吟

明有日月

幽有鬼神

日月照ㇾ物

鬼神體ㇾ人

明由ㇾ物顯

幽由ㇾ人陳

人物不ㇾ佗

幽明何分

 

 

 

兎圖小說別集下卷

[やぶちゃん注:「下野國安蘇」(あそ)「郡赤岩庚申山記」栃木県日光市南西部にある円錐状成層火山。侵食が著しい。庚申山は標高千八百九十二メートル。「赤岩」は浸食のそれによる地肌の露出でかく冠したかと思ったが、サイト「Yamareco」のtaka0129氏の「皇海山…クラシックルート」の山行記録を見たところ、地図の庚申山の西方の鋸山を南下した標高「1836.1」とある「三等三角点」が、「基準点名 赤岩」(写真[18])とあったので、一応、これも現行ではピークの名称であることを言い添えておく。さて、以下、は「Yamakei Online」の「庚申山 こうしんざん」から引用する(地図も無論ある)。庚申山は『日光国立公園に属し、群馬県と栃木県の境、栃木県西部の足尾町にあり、日光火山群の西縁に位置する成層火山』で、『男体山と同じく勝道上人によって開山され、庚申信仰の山としてあがめられてきた』。『また、特別天然記念物「コウシンソウ」の自生地としても知られている』。千五百メートル『付近にある庚申山荘から上部は滝沢馬琴の』「南総里見八犬伝」でも有名な奇岩・『怪石の間を縫うようにして『ハシゴや鎖場の道が山頂へと導いてくれる。また』、『山荘を起点にしたスリル満点のお山巡りのコースもある』。庚申山『山頂は樹木に囲まれ』、『展望はよくないが』、五『分ほど皇海山』(すかいさん:庚申山の北西。二千百四十四メートル)『寄りの展望台まで足を延ばせば、皇海山』・日光『白根山』・『袈裟丸山』(けさまるやま)連峰『などの大展望が楽しめる』。『登山は足尾町の銀山平から庚申川沿いに進み、庚申山荘経由で山頂まで約』四『時間』とある(「コウシンソウ」(庚申草)は食虫植物のシソ目タヌキモ科ムシトリスミレ属コウシンソウ Pinguicula ramosa で、日本固有種。当該ウィキによれば、明治二三(一八九〇)年に植物学者三好学(みよしまなぶ 文久元(一八六二)年~昭和一四(一九三九)年:本邦の植物学の基礎を築いた人物の一人で、特に桜と菖蒲の研究の第一人者として知られ、殊に「桜博士」とも呼ばれた。また、「天然記念物」の概念を日本に広めた先駆者であり、希少植物の保存活動に尽力した。また、「景観」という語も彼が創出したとも言われる。以上は彼のウィキによった)『により』、『栃木県の庚申山で発見され、山の名前をとってコウシンソウと命名された』とある)。さて、この「赤岩庚申山記」の原著者「下野都賀」(つが)「郡三谷村佐野半兵衞藤原一信」という人物であるが、まず、「三谷村」は後の変遷が複雑で、過程は略すが、現在の栃木県岩舟町(いわふねまち)三谷(みや)である。「ひなたGPS」の戦前に地図でここ(現在と二画面にしておいた)である(なお、この岩舟町は広く、ここの西南に「三ツ谷」(同前)という地名があるが、理由は略すが、そこではないと判断した。なお、序に「ひなたGPS」の同地図の庚申山附近もリンクさせておく)。而して、この人物は佐野信一(さの のぶかず)で、国立国会図書館の「レファレンス協同データベース」のこちらによれば(村名や西暦に異同や誤りがある)、「下野文籍志 栃木県の人と書物(高宮太郎編・しもつけ社・一九六九年刊)元禄の末年(十四年。西暦は一七〇四年)に『足尾庚申山に薬草を採るために入り、この山が景勝と遺跡に富むことを知り、道を開き記録を残す。のち』、『上総の人三橋臣彦』(とみひこ:「神祗伯二位王府祠官源朝臣臣彥」とある人物)『これをもとにして庚申山記を著わす」とあ』った。さらに、幸いなことに、東京大学総合図書館所蔵の「鶚軒(がっけん)文庫」(近代の医学者土肥慶蔵が収集した和漢医学書の資料群)に、「有馬山温泉由来」と「下野國安蘇郡赤岩庚申山記」が合冊されたもので、本書の非常に古い板本が読めることが判った(但し、終りの方は欠損が甚だしい)。しかも、そこには本篇に附されていない絵図もあった。利用条件を確認したところ、画像の使用が許可されてあったので、以下に示す。大きくないと、細部が判らないので、大きめの二サイズの中型のものをダウン・ロードして掲げた。

 

J40_888_0012

 

本篇を読む際、大いに参考になる。

「日本紀に曰、天地混成の始め、神人」(かみひと)「あり。可美葦牙彥男尊と申。又の名は國常立尊」(くにとこたちのみこと)、「此神の神胤」(みすへ:「御末」の当て訓)「伊弉諾」(いざなぎ)、「伊弉册尊」(いさなみ)、土」(うち)「を胎」(はらみ)「て國を生む云々」黒板勝美編「日本書紀 訓読 上巻」(昭和八(一九三三)年岩波書店刊)の冒頭をリンクさせておくが、大端折りの書き換えで、誤りもある。例えば、「可美葦牙彥男尊」であるが、これは「男」は誤字で、「可美葦牙彦舅尊」で「うましあしかびひこぢのみこと」である(先の「鶚軒文庫」を見ると、正しい表記になっているので、馬琴の誤りである)。この名は、「葦の芽が萌え出ずるように、萌え上がるものから生まれた」神の名である。「うまし」は褒め言葉で、「あしかび」は「葦の芽」、「ひこぢ(じ)」は「成人男性」の意味である。「古事記」では「宇摩志阿斯訶備比古遲神」(うましあしかびひこぢのかみ)となっている。頭に挟んだ以上の他の読みは「鶚軒文庫」のそれに概ね従った。以下も概ね同じ。

「神世」(かみよ)「の事跡の議」(はか)「り知るべからず、天造の自然なり」原本は「事跡」は「自跡」となっている。

「大日本日高見の國」「おほやまとひたちみのくに」。ウィキの「日高見国」によれば、『日本の古代において、大和または蝦夷の地を美化して用いた語』で、「大祓詞」(おおはらえのことば)では『「大倭日高見国」として大和を指す』ものの、「日本書紀」の「景行紀」や、「常陸国風土記」では『蝦夷の地を指し』、『大和から見た東方の辺境の地域のこと』を言うとあり、ここは一番最後の意味となる。

「足尾宿」現在の栃木県日光市足尾町(あしおまち)の中心部(グーグル・マップ・データ)。近世より足尾鉱山の拠点として栄えた。

「町」一町は百九メートル。計算されたい。

「銀山」原本もママ。この「銀」は広義の鉱物の意で用いているのであろう。

「胎内竇」「たいないくぐり」。

「間」一間は約一・八二メートル。同前。

「砥」「と」。砥石。

「立て四方を眺ば」「たちてしはうをのぞめば」。

「座ながらにして」「ゐながらにして」。

「鬼の鬚礱(ひげすり)」「礱」は音「ロウ」(歴史的仮名遣では「ロウ」「ラウ」孰れか不明)で、籾穀(もみがら)を取り除くための臼を言う。

「石橋」原本「いしばし」。

「石門」「せきもん」と読んでおく。

「東向」「ひがしむき」。

「小竇」原本二字で「くゞり」と読みを振る。

「瑟柱」「ことぢ」。

「數十尺の大石高く」原本は最後に「峙(そばだち)」とある。脱字である。

「櫓」「やぐら」。

「知難し」「しりがたし」。

「其奇は、又、是にまさる」原本も同じだが、私は躓いた。「是」は「其」であろう。

「大石」参考に挙げた挿絵から「だいせき」。

「計難し」「はかりがたし」。

「末、よまず」「時が経った今では、読めなくなっている」の意であろう。

「中央通り」中央の人が普通に立って通れる部分の意であろう。

「此門内」「この、もんのうち」と訓じておく。

「燈籠石」原本の表記は「燈篭石」。

「鐘石」原本「つりがねいし」と振る。

「兎絲(とし)」本来は漢方生剤の呼び名。「菟糸子」(としし)。一年生の蔓植物であるマメダオシ(豆倒し:ナス目ヒルガオ科ネナシカズラ属マメダオシ Cuscuta australis )などの成熟した種子を乾燥したもの。樹脂様配糖体などを含み、強精・強壮薬として用いられる。

「庚鐘」不審だが、原本では「庚」七画目が垂直下りて止まっており、左側に「つりかね」と振っている(ここの右丁四行目頭)。

「岑」「みね」。

「跨り」「またがり」。

「橋下」原本「はしのした」と振る。

「澗底」原本「たにそこ」と振る。

「恰」原本「あたかも」と振る。

「寶藏石」同前「はふざうせき」。以下同じ。

「舟石」「ふねいし」。

「釜石」「かまいし」。

「龜鶴石」「きかくせき」。原本は「亀鶴石」と表字する。

「引出し石」「ひきだしいし」。

「二重」「にぢう」。

「塀石にして」原本は「塀石」は「へいせき」と振っているが、「にして」はなく、代わりに「塀石(へいせき)。屏風石(びやうぶせき)」となっている。

「巖々たり」「げんげんたり」。

「岩窟」原本「いわや」と振る。

「數處」原本「すしよ」と振る。以下同じ。

「上世」「かみよ」。

「穴居」「けつきよ」。の址にあらずや。

「蹲々たる」「そんそんたる」。「蹲って入らねばならぬような」或いは「蹲るような形で」の意。

「屹として」「きつとして」。聳え立つさま。

「嶙として」「りんとして」崖が深いさま。

「圓」「まどか」。

「孰」原本「たれも」。どれも。

「口」入り口。

「稚日孁尊」「わかひるめのみこと」。女神。ウィキの「稚日女尊」によれば、『日本神話では』、『まず』最初に「日本書紀」の「神代記上」の『七段の第一の一書に登場』し、かの有名な『高天原の斎服殿(いみはたどの)で神衣を織っていたとき、それを見たスサノオが馬の皮を逆剥ぎにして部屋の中に投げ込んだ。稚日女尊は驚いて』、『機から落ち、持っていた梭(ひ)で身体を傷つけて亡くなった。それを知った天照大神は天岩戸に隠れてしまった』。「古事記」では、『特に名前は書かれず』、『天の服織女(はたおりめ)が梭で女陰(ほと)を衝いて死んだとあり、同一の伝承と考えられる』とあり、『次にこの名前の神が登場するのは』、『人代記に入ってからで』、『神功皇后が三韓外征を行う際に審神を行い、その際に「尾田(現、三重県鳥羽市の加布良古の古名)の吾田節(後の答志郡)の淡郡(粟嶋= 安楽島)に居る神」として名乗った一柱の神が稚日女尊であるとされており、元々の鎮座地は三重県鳥羽市安楽島の伊射波』(いざわ)『神社に比定されている』。『神功皇后の三韓外征の帰途、難波へ向おうとしたが船が真直に進めなくなったため、武庫の港(神戸港)に還って占いを行った。そこで稚日女尊が現れられ「私は活田長峡国にいたい」と神宣があったので、海上五十狭茅に祭らせたとある。これが今日の生田神社である』。『神名の「稚日女」は』、「若く瑞々しい日の女神」という『意味で』、『天照大神の別名が大日女(おおひるめ。大日孁とも)であり、稚日女は天照大神自身のこととも、幼名であるとも言われ(生田神社では幼名と説明している)、妹神や御子神であるとも言われる。丹生都比賣神社(和歌山県伊都郡かつらぎ町)では、祭神で、水神・水銀鉱床の神である丹生都比賣大神(にうつひめ)の別名が稚日女尊であり、天照大神の妹神であるとしている』などとある。

「神祇官の記」奈良時代の「延喜式」に見える書名とするが、現存していない。神名帳などからの孫引きか。

「庚申の日、三神を奉拜す」庚申信仰がよく判らない方は当該ウィキを見られたいが、「三神」は猿田彦神とは関係するものの、それは私は後代の付会と認識しており、他の二神を含めて庚申信仰に於いて、以上の三神を礼拝するという話は、私は聴いたことがない。寧ろ、庚申信仰の道教系の根っこのところの、「三尸」(さんし)の虫と、「三神」が音通した謂いのように思われてしかたがない。

「三」(みつ)「の猿石」(さるいし)「あり……」三猿信仰は、単なる記号に過ぎない干支の「申」から習合したに過ぎない。

「箴」「しん」。戒め。

「活石」「くわつせき」。不詳。生きている石ととってはおく。

「陟る」原本を参考にすると「のぼる」。「登る」に同じ。

「數百步」の「數」は「す」と振る。

「東のつま」「つま」は「褄」或いは「端」。

「平岩」原本のこの附近は欠損していて読めない。「ひらいは」と読んでおく。

「建屛」原本「けんべう」。立てた屏風。

「東方」「ひがしがた」と訓じておく。

「是此」「これ、これ」。強意。

「人寰」原本「じんくはん」と振る。人間界のこと。

「避る」同前「さくる」。

「絕險」同前「ぜつけん」。原本は「絕」の表字は「絶」。

「少し」「すくなし」。

「稱德天皇の御宇」孝謙天皇が重祚した際の名。在位は天平宝字八(七六四)年から神護景雲四(七七〇)年。

「神護景雲元年丁未歲」七六七年。

「釋勝道」(しょうどう 天平七(七三五)年~弘仁八(八一七)年)は奈良から平安初期にかけての山岳仏教僧。下野の薬師寺で出家し、日光の補陀落山(ふだらくさん:現在の男体山)の開祖となり、延暦三(七八四)年には中禅寺湖畔に神宮寺(中禅寺)を創建した。上野の講師に任じられ,下野に華厳寺も建立している。

「二荒山」原本「ふたあらやま」と振る。前注の補陀落山(男体山)の古名。「ふたらさん」とも読む。

「糧」原本「かて」と振る。

「裹」同前で「ふくろ」。

「止る」「やむる」と訓じておく。

「增」「まし」と読んでおく。

「志」「こころざし」。同前。

「發する」原本は異なり、「發(おこ)す」(といふことしかり)である。

「文政三年庚辰」一八二〇年。

「再興道普請」「さいこう・みちぶしん」。信仰の再興と、参道の開鑿。

「應需」「需(もとめ)に應じ」と訓じておく。

「松本樂山」事績不詳。馬琴は「南総里見八犬伝」では、本篇の他に彼の紀行文を参考にしている。

「書」「しよす」と訓じておく。

「追而」「おつて」。

「悉記すべし」「ことごとくしるすべし」。

「黃連」「わうれん」。日本固有種キンポウゲキンポウゲ科オウレン属オウレン Coptis japonica の地中の根茎を消化器系の生薬とする。

「熊膽」「ユウタン」或いは「くまのい」。「熊の胆」。ツキノワグマの胆嚢。

「内蓯蓉」「にくじゆうよう」は多年草の寄生植物であるシソ目ハマウツボ科オニク属オニク Boschniakia rossica (別名をキムラタケと言うが、きのこではないので注意)本邦ではミヤマハンノキの根に特異的に寄生する。茎は高さ十五~三十センチメートルで、暗褐色で太く、黄褐色の鱗片葉が密生する。七~八月に茎の上半部が穂状となり、暗紅紫色の唇の形をした花を開く。中部地方以北の本州、北海道の亜高山帯から高山帯の林内に生え、アジア北部から北アメリカにも分布する。名は、同じく生薬とする中国西北部産の別種ハマウツボ科ホンオニク属ホンオニク(中文名「肉蓯蓉」) Cistanche salsa に相当させて用いたことによる。「キムラタケ」は「金精茸(きんせいたけ)」の意で、全草を乾燥したものを「和肉蓯蓉」と称し、古くから強壮・強精薬として珍重されてきた。

「ヱフリユ」不詳。ある種の漢方生剤の中国音か? 識者の御教授を乞う。

「岩茸」深山の岩壁に着生する地衣類の一種菌界子嚢菌門チャシブゴケ菌綱チャシブゴケ目イワタケ科イワタケ属イワタケ Umbilicaria esculenta 。生薬。当該ウィキを参照されたい。

「細辛」はウマノスズクサ目ウマノスズクサ科カンアオイ属ウスバサイシン Asarum sieboldii で、根及び根茎は精油成分に富み、「細辛(サイシン)」という生薬となる。去痰・鎮痛・鎮静・解熱作用を持つ。

「蠟石」葉蠟石(パイロフィライト:pyrophyllite)を主とする蠟(ろう)のような感触を持つ鉱石。白色・淡緑色・淡青色・淡黄色・淡褐色・淡灰色などの色を示す。酸性の火成岩などの熱水作用により生成されることが多いが、堆積岩として存在する場合もある。純度の高いものは、やや透明感があり、鈍い光沢を呈し、昔から、石筆の原料・印材・彫刻用・飾石などに利用されている。

「銀銅」拘るが、足尾銅山では銀が採れた場所もあるようだが、少しであったし、それは近代のことかも知れぬ。この「銀」は前注したように、広義の鉱物を指していると採っておく。

「錫鉛」「すず」と「なまり」。

「貫衆」漢代に成立した「神農本草経」に記載されている「貫衆」は現行、中国ではシダ植物門シダ綱ラボシ目オシダ科Dryopteridaceaeの貫衆属貫衆 Cyrtomium fortune に当てられている。この種は和名では、オシダ科ヤブソテツ属ヤマヤブソテツ(山藪蘇鉄)に当てられている。本邦にも本州から四国・九州に分布する。現在の漢方薬に同種起原のものが使用されていることが、薬剤サイトで確認出来た。

「當歸」(たうき)は知られた生薬名。セリ目セリ科シシウド属トウキ Angelica acutiloba の根。

「石斛」単子葉植物綱ラン目ラン科セッコク亜科デンドロビウム連 Dendrobieaeセッコク属セッコク Dendrobium moniliforme当該ウィキによれば、『本種は薬用にされることから、記紀神話の医療神である少彦名命(すくなひこなのみこと)にちなみ、少彦薬根(すくなひこなのくすね)の古名も持っている』とあった。

「綠靑」「ろくしやう」。銅が酸化することで生ずる青みがかった錆。当該ウィキによれば、日本では、過去に於いて、毒性(猛毒とも)が『あるとされてきたが、現在は否定されて』おり、『銅合金の着色に使用されたり、銅板の表面に皮膜を作って内部の腐食を防ぐ効果や、抗菌効果』も『ある』とある。

「靑礞石」(せいまうせき)は「緑泥石」(りょくでいせき:クロライト:chlorite)のこと。 アルミニウム・鉄・マグネシウムの含水珪酸塩鉱物。緑色・半透明で、ガラス光沢を持つ。印材などになる。

「白石英」(はくせきえい)は石英(ドイツ語:Quarz:クォーツ)或いは水晶のこと。二酸化ケイ素(SiO₂)が結晶してできた鉱物。六角柱状の綺麗な自形結晶を成すことが多い。中でも特に無色透明なものを水晶と呼び、古くは玻璃(はり)と呼ばれて珍重された。

「石鍾乳」(せきしようにゅう)は鍾乳石に同じ。

「石膏」(せつこう)は硫酸カルシウム(CaSO4)を主成分とするお馴染みの鉱物。

「滑石」(かつせき:タルク:talc)は珪酸塩鉱物の一種で、この鉱物を主成分とする岩石の名称。別名として「フレンチチョーク」などがあり、当該ウィキによれば、漢方として軟滑石と呼ばれるものが、薬剤に配合されるとあった。

「孔雀石」(くじやくいし)は緑色の単斜晶系の鉱物で、最も一般的な銅の二次鉱物であるマラカイト(malachite)。当該ウィキによれば、和名は『微結晶の集合体の縞模様が孔雀の羽の模様に似ていることに由来する』とあり、紀元前二〇〇〇年頃の『エジプトですでに宝石として利用されていた。当時のエジプト人はラピスラズリ(青)や紅玉髄(赤)などと組合せ、特定のシンボルを表す装身具に用いた。現在でも、美しい塊は研磨して貴石として扱われ、アクセサリーなどの宝飾にも用いられる』とある。

「鳳凰石」不詳。現行では「フェニックス・ストーン」(Phoenix Stone)に当てられているが、これは海外の銅鉱床で採取される希少なものであるから違う。或いは、前の「孔雀石」の非常にきめが細かいそれを言うか。

「山玄玉」不詳。「玄」は「黒」であるから、黒色の光沢のある鉱物か。

「邵康節幽明吟」「邵康節」(せうかうせつ 一〇一一年~一〇七七年)は北宋の学者。共城(河南省)出身。名は雍(よう)。神秘的宇宙観と自然哲学を説き、朱熹らに影響を与えた。著に「観物内外篇」・「皇極経世」が、詩集「伊川撃壌集」などがある。その同詩集の第四巻に本詩篇があった。「中國哲學書電子化計劃」の影印本を見られたいが、引用は四句目と七句目に誤りがある。四句目の三字目は「體」ではなく、「依」で、七句目の「佗」は「作」の誤りである。そこを訂して、再度、白文で挙げ、後に自然流で訓読する。

   *

 幽明吟

明有日月

幽有鬼神

日月照物

鬼神依人

明由物顯

幽由人陳

人物不作

幽明何分

  幽明吟(いうめいぎん)

 明 日月(じつげつ)有り

 幽 鬼神(きしん)有り

 日月は 物を照らし

 鬼神は 人に依れり

 明は 物に由(よ)りて顯(あらは)し

 幽は 人に由りて陳(の)ぶ

 人と物とは 作(な)さず

 幽明 何ぞ分(わか)たん

   *

意味は……判ったようで……判らんね。]

2022/07/29

曲亭馬琴「兎園小説別集」下巻 越後船石

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの「新燕石十種」第四では本篇はここ。吉川弘文館随筆大成版で、誤字と判断されるものや、句読点(私が添えたものも含む)などを修正した。

 標題は目録では「加賀金澤出村屋紀事【追錄越後船石。】」とあるのであるが、これは例の紙数が余って入れたものに過ぎず、前に電子化注した「加賀金澤出村屋紀事」とは無関係なものなので、ここに分離独立させた。因みに、底本も吉川弘文館随筆大成版も、以下の本文標題は「松山」なのだが、これ、原本の「船山」の誤記ではあるまいか? さればこそブログ標題は目録のものを用いた。

   ○追錄松山の船石

越後魚沼郡市ノ越村【上に記せし瑞稻の生出たる割野村を距ること二三里。】の持山に、船山といふ山あり。いかなる故にこの名あるにや。土人もこれを知るものなかりしに、近年、妻有(マヽ)三條邊大地震の頃、この山の澗間、崩れて、形、船の如き自然石、半分、出現しけり。その石、長さ一丈[やぶちゃん注:三・〇三メートル。]、橫四尺[やぶちゃん注:一・二一メートル。]、凹にて、宛も石工の彫れるが如し。里人等、神子の口よせに任して、掘出して、鎭守の社頭に曳つけたり。船山の名は、この石によりて命ぜしを、石の土中に埋れしより、遂に、しるものあらずなりしを、今やうやくに悟るといへり。

 これも鹽澤なる牧之が、郵書中にしるして

 おこしたるを、こゝに餘紙あれば追錄す。

    壬辰七月十二日    著作堂主人

[やぶちゃん注:「上に記せし瑞稻の生出たる割野村」これは、『曲亭馬琴「兎園小説別集」下巻 東大寺造立供養記(追記で「瑞稻」と「白烏」が付随する)』(これは分離独立するべきだったな)の「瑞稻」の記事を指す。但し、馬琴は自分が書いたものを誤って読んでいる。則ち、地名と人名をカップリングしてしまうというミスを犯しているのである。その冒頭は、『天保二年辛卯の秋、越後魚沼郡妻有の庄、十日町の在鄕割、野村久左衞門といふ者の家の裏の軒端に、稻一株自然と生出しを、そがまゝに捨置しに、漸々生立て長さ八九尺に及び、葉の幅、八、九分なり。』なのである。位置は判らないが、「在鄕割」は地名であり(私は現在の十日町市街と推定した)、「野村久左衞門」が姓名なのだ。則ち、そこで注したように「越後魚沼郡妻有」(つまあり)「の庄」は現代の旧十日町市・旧川西町・旧中里村・津南町の広い地域を指した広域地方名であったのである。この附近(グーグル・マップ・データ。指示のないものは以下同じ)に当たる。疑う人がいようから、同地図で「妻有」で調べた画面をお見せしよう。それでも、まだ、猜疑するなら、「新潟県」公式サイトの「越後妻有とは」を見るがよい! そこに、『新潟県南部に位置する十日町市と津南町の妻有郷からなり、日本一の長さを誇る信濃川中流域に開けた盆地を中心に栄えた地域です』。『なお、「妻有」とは古くからは旧十日町市、旧川西町、旧中里村、津南町地域のことを指しますが、ここでは旧松代町、旧松之山町も含めた十日町市、津南町を「越後妻有」として表現しています』とあることで、納得されるであろう。なお、間違っているのは、馬琴だけではない。底本の編者もまた、大ボケをカマしているのである。底本の編者が「妻有」にママ注記をしているのだが、この編者、新潟に古い広域地域名として「妻有」が存在することを知らずに、この二字を錯字と判断してしまったらしいのである。馬琴のミスと合わせて、正直、もう、救いようがないのである。

さて。閑話休題。

●この「船石」(「ふないし」と読む)は現存するのか?

●あるとするならば、どこにあるのか?

という素朴な疑問だ。まず、結論を先に言っておく。

◎「船石」は「ふないし」と読み、現存する。

◎「船石」がある場所は現在の新潟県十日町市市之越(いちのこし)のどこかである。

以下、私が激しく驚いた、ある事実を順に記す。

まず、「兎園小説 船石」のフレーズ検索で、「日文研」の「怪異・妖怪伝承データベース」でヒットした。ここである。読みもその「フナイシ」に従ったものである。なお、言っておくと、ここの出典は「兎園小説拾遺」(私は底本の配列順序に従い、一番最後に電子化注する予定である)となっているが、実はそちらにも、同じ内容の別記事が載っているのである。現在の底本のここである(左ページ上段末から下段の初めの部分)。さて、そこには、「地域」の項で、新潟県十日町市とし、『越後国魚沼郡の市の越村に船山という山がある。この山は文政』一二(一八二九)『年の地震で船山が崩れて、そこから長さ』一『丈ほど』で、幅四『尺ほどの船石が出現した。自然石なのに船の形をしており、石工の手による物ではないという。神子の口寄せによって同村の鎮守の社頭にもってきたという。』と要約されている。

私は、ここで内心、ホッとしたのである。ここでかく記されていれば、簡単に場所がポイントで容易に判ると考えたし、多くの信頼に足る記載も期待出来ると思ったからだ。

ところがドッコイ、アラマッちゃんデベソの宙返り、ときたもんだ!

確かに、公的に信頼出来る記載は、複数、見つけたことは、見つけた。

まずは、「十日町市観光協会」のズバり、「船石」(「ふないし」とルビ有り)だ! 写真入りで、これが最も信頼出来る唯一の「船石」の公式ページであると言ってよかろう。そこには、『小さな村に昔から伝わる伝説』。『船形の石は苔むし、たまった水の水面がひかります』。『石碑にはその伝説が彫ってありますのでぜひご覧ください』とロマンチックに始まり、『●船石伝説の全文はコチラ/梵天宮改修記念建立碑より』とあって、『昔天気の良いある日、神様は大きな石を見つけ天から市之越の森へ降りてきました』。『神様が市之越(いちのこし)に着くころは、村人たちの夕食時でしたが、外の豪音に驚き』、『これは大変な事が起きたと』、『雨戸を閉め』、『一晩中一睡もしないで一夜を明かしました』。『翌朝』、『村人たちは昨夜音のした森へ行ってみると』、『そこには大きな石がおちていて、石の上に背丈一寸八分』(五センチ四・五ミリ)『黄金色に輝く貴賓(きひん)ある「梵天様(ぼんてんさま)」が乗って居られました。村の人達は大きな橇(そり)をつくり』、『村中』、『総出となり』、『梵天様と』、『乗って降りた石を』、『市之越の村まで運び、お宮を造り』、『崇拝し』、また、『石は真中が窪んで船形をしているので「船石(ふないし)」と呼ぶようになりました』。『梵天様は村人たちに』いろいろ『良いことを教え導き、何時の間にか』、『お姿が見えなくなりましたが、それ以来、市之越の村には大変良い事が続き立派な村になりました』。『今も梵天様と船石降臨の地を「梵天森」と呼び』、『石の祠(ほこら)で祀(まつ)っており、その脇からは』、『絶えることなく清水が湧き出ており』、『村の水源地にもなっております。又、不思議な事に』、『船石にたまった水は』、『どんなに日照りが続いても決して絶える事はありません』とあって、グーグル・マップ・データもあるのである。ここで私は、九十九%、安心してしまっていた。おもむろに、地図を拡大してみた。

しかし、これ、それを航空写真に変えた瞬間、青くなった。別ウィンドウで調べてみて、まっ青になった。これは、グーグル・マップの地名「市之越」の箇所に機械的にポイントしただけであることが判明したからである。そこは貯水池の人口の堤だったからである。

『……まあ、それでも、調べりゃ、おっつけどこにあるか判るだろう。こんなに狭い地域なんだから。』

と私は楽観していた。だって、ここの中(グーグル・マップ・データ航空写真。人工物はそんなに多くはないのだ)なんだもんね。同観光協会のサイトには別に「中里地域の伝説」にも、一枚、写真があるんだから……

そこで私は公的な記事を探してみた。ある! ある! いっぱいあるんだな、これが!

例えば、中里村役場(新潟県中魚沼郡中里村大字田)の一九九六年八月号『広報 なかさと』PDF)の6ページ目に『梵天船石に参道と駐車場を完備!!』という記事を見て、胸を撫でおろしたもんだ。確かに――その石が舞い降りた場所は――判った。『現在の清津スキー場リフト脇の森』とあるからだ。ここ(グーグル・マップ・データ航空写真)の北東側か南西側だ。しかし……現在、置かれている場所が書かれていないのだ。先の観光協会の写真から、林か森の中にあることが判るが、それがどこか、一向、判らんのである。この『広報なかさと』が頼りになる。他にも二つ三つ、記載を見つけたのだ。その一つ、一九九一年六月号PDF)の6ページを見よ! 船石はUFOであるからして、それを絡めたイベントさえ行われていたんだ!!!……でも……その開催地は船石のあるところではないんだな、これが……

……んでもって、「中里村」が気になった。二〇〇五年四月一日、十日町市・中魚沼郡川西町・東頸城郡松代町・松之山町と合併して、新設の十日町市となったために消滅していたのである(当該ウィキに拠った)。則ち、中里村役場に問い合わせるという最終手段も、最早、失われていたのである。

検索もかけた……見得る古い地図も確認した……ストリートビューも見た(駐車場と参道を探した)……しかし……終に……この「船石」の所在地は判らなかった万事休す――どうか、現地の方の御援助を願いたく存ずるものである。それにしても、中里村時代は、盛んに記載があるのに……と、私は「平成の大合併」に、民俗社会が薄れてゆく、甚だ淋しい印象を感ずるのである…………(後注で濃厚なそれらしいものを記しはした)

「船山といふ山あり」古い地図も見たが、不明。但し、以上の記載を総合すると、先に出た「なかさと清津スキー場」のある山であろう。

「近年、妻有」「三條邊大地震」「三條」は現在の新潟県三条市で、十日町市の東北約四十キロメートルの位置にある。「近年」というところからは、文政十一年十一月十二日(一八二八年十二月十八日)に現在の新潟県三条市付近で発生した「三条地震」があるが、当該ウィキを見る限りでは、現在の十日町市附近は震災被害地としては出てこない。しかしそこに、『三条地震のニュースは、江戸まで伝わり、瓦版が大事件として扱った』とあり、さらに、『被災の惨状は瞽女口説』(くぜつ)『に切々と唄われ、一時は「三条滅亡説」さえ流れた』とあるから、これであろう。

「澗間」二字で「たにま」と訓じておく。

「宛も」「あたかも」。

「神子」「みこ」。巫女(みこ)。

「口よせ」「口寄せ」。民間の巫女が神憑 (かみがか) りの内に神霊(しんれい)や死霊(しりょう)を呼び出し、その託宣や心境を代りに口語(くちがた)ること。ここは「神口 (かみくち)」(神託)ということになるが、本来の「口寄せ」は、一般には死者の霊を呼び出して語る「仏口(ほとけぐち)」が多い。代表的な者としては、東北地方の「いたこ」、奄美・沖縄の「ゆた」などがそれである。

「任して」「まかして」。

「掘出して」「ほりいだして」。

「鎭守の社頭に曳」(ひき)「つけたり」古い戦前の地図を「ひなたGPS」で見ても、同地区には現在の「十二社」しかない。しかし、明治の神社合祀があるから、ここが船石の所在地だと言うことは出来ない。しかし、ストリートビューでここの近くを見ると、駐車場と、参道らしき道は確認出来、反対側の道路からの画像を見ても、如何にもそれっぽい感じはする。有力か?

「鹽澤なる牧之」鈴木牧之(明和七(一七七〇)年~天保一三(一八四二)年)のこと。現在の新潟県魚沼市塩沢(グーグル・マップ・データ。以下同じ)の豪商で随筆家。私の偏愛する北国の民俗学的随筆「北越雪譜」の作者として、とみに知られる(天保八(一八三七)年、初版三巻を刊し、天保十二年には四巻を追加)。

「壬辰」天保三(一八三二)年。これは「兎園小説別集」にクレジットされる干支の中で、最も新しいものであり、本書の刊行がこの年(以降)であることが判然とした。

「著作堂主人」馬琴の号の一つ。]

曲亭馬琴「兎園小説別集」下巻 加賀金澤出村屋紀事 オリジナル現代語訳附

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの「新燕石十種」第四では本篇はここ。吉川弘文館随筆大成版で、誤字と判断されるものや、句読点(私が添えたものも含む)などを修正した。

 標題は目録では最後に割注があって、「追錄越後船石。」とあるのであるが、これは例の紙数が余って入れた無関係なものなので、この後に分離独立させた。

 なお、以下の全日本漢文のそれは、ずっと私の「兎園小説」シリーズに附き合って貰っている読者は、ちょっと読んだだけで、「前にこの話、読んだぞ!」と思われるはずである。その通りで、これは、既に電子化注した『曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 騙兒悔ㇾ非自新』と全く同じ話なのである。そちらは、「兎園小説」第十二集で正篇の最後に当たり、文政八乙酉(一八二五)年冬十二月に馬琴邸で催されたものの中の、馬琴の長子滝沢琴嶺舎興継の発表したものである(大概と同じく実際には馬琴が書いたもの)。そこで、メインの話を読み下した和文を示した後、終わりの方で以下のように述べている。私はそちらでは、底本のベタ文を書き変えて注を挟んでいるので、原形に戻した。

   *

折から、尾張の人の、篆刻をもて、遊歷したるが、「故鄕へ歸る。」と聞えしかば、「そが、『うまのはなむけ』に。」とて、件の趣を綴りたる漢文あり。この夏、聖堂の諸生石田氏【名は煥。】、江戶よりかへりて、舊故を訪ひし日、松任の驛なる友人木邨子鵠の宿所にて、中澤氏の紀事を閱して、感嘆、大かたならざれども、「惜むらくは、その文、侏𠌯なり。よりて、綴り、かへにき。」といふ。漢文、亦、一編あり。

   *

とあるところの、その「漢文」がこれなのである。まずは、新しい読者もそちらを読んで、以下を見て戴けば、訓点なしでも、さらさら読めましょうぞ。と言っても、そちらは注が五月蠅いばかりでしょうから、ここでは、さらっと新たに訓読して、続けましょうぞ(少し、シチュエーションの区切りで段落には、分けた)。但し、注はそちらで附してあるものを繰り返す気はない。その代わり、先行するものの注をブラッシュ・アップしておいた。また、今回は、特別に現代語訳も附したので、それが、既にして、注代わりとなろうかと存ずる。

 

    ○加賀金澤出村屋紀事

金澤出村屋太左衞門、家在枯木橋西。爲兌銀舖于淺野河橋東側。文化癸酉除日、有ㇾ人來曰、我是卯辰山觀音院之使也。有某事募緣、因騙銀百錢而去。後文政甲申除夜、有ㇾ人卒然乘ㇾ忙、投一袱于舖上而去。主人怪追ㇾ之。時街上人物雜沓、不ㇾ可復識、乃還閱ㇾ袱、中有銀錠若干、幷書云、往年僕不ㇾ堪貧困百方無ㇾ術。乃就貴鋪、騙銀百錢。以自救、兇惡之罪、容ㇾ身無ㇾ地。伏願幸寬容。本銀百錢封貨十六文【國制吏裹ㇾ銀爲一封、押ㇾ印以行、輙取錢十六文。謂之封賃。蓋充其紙費云。】。謹還納、如其利銀則期他日。多罪々々。不ㇾ所ㇾ謝云【不ㇾ記名氏。】。中澤、紀事云。乙酉正月十一日。予過卽願寺、遇太左衞門者、語以及是事、及出其書。固鄙俚庸劣。蓋必小民所ㇾ爲矣。是一人之身、爲非義則愚ㇾ之猶惡ㇾ之。及其悔ㇾ非改ㇾ過。則君子亦稱ㇾ之。書所ㇾ謂、惟聖不ㇾ念作ㇾ狂。狂克念作ㇾ聖。一念之發、其可ㇾ不ㇾ愼哉。孔子曰、過勿ㇾ憚ㇾ改。孟子云、人能知ㇾ恥、則無ㇾ恥。信哉。夫人不ㇾ知ㇾ恥、則非義暴戾、無ㇾ所ㇾ不ㇾ爲。苟能知ㇾ恥、則立ㇾ身行ㇾ道。豈難ㇾ爲哉。於ㇾ是知。國家仁政之效、有以使民遷ㇾ善而不自知。孔子所ㇾ謂、有ㇾ恥且格者、可ㇾ徵哉。

文政乙酉季夏【興秋。】、自江戶歸、到松任驛、訪舊友木邨子鵠、與語新故、陳情素一、子鵠出中澤子所ㇾ撰紀事一條、示ㇾ予曰、此雖細事、可以槪見國家治安、不亦美譚乎。予讀ㇾ之不ㇾ堪感歎、反復數過、乃憾其文之鄙而事實少差、因竊更記以肆ㇾ業。非ㇾ謂敢自善也。  石田 煥 記

[やぶちゃん注:まず、私の訓読を示す。読み易くするために、段落や配置に手を加えた。

   *

    ○加賀金澤出村屋(でむらや)の紀事

 金澤の出村屋太左衞門(でむらやたざゑもん)、家は枯木橋(かれきばし)の西に在り。兌銀舖(りやうがへや)を淺野河(あさのがは)の橋の東側にて爲(な)す。

 文化癸酉(みづのととり)の除日(おほつごもり)、人、有りて、來りて曰はく、

「我れは、是れ、卯辰山(うたつやま)の觀音院の使ひなり。某(なにがし)の事の募緣(ぼえん)のこと有り。」

と。

 因りて、銀百錢を騙(かたりと)りて、去れり。

 後(のち)、文政甲申(きのえさる)の除夜(おほつごもり)、人、有りて、卒然、忙しげに乘(のりこ)み、一つの袱(ふくさ)を舖(みせ)の上(うへ)へ投げて、去れり。

 主人、怪しくて、之れを追ふも、時、街(まち)の上(うへ)、人と物と、雜沓し、復(ま)た識(し)るべからず。

 乃(すなは)ち、還(かへ)りて、袱を閱(けみ)するに、中に銀錠(ぎんぢやう)若干(じやくかん)有り、幷びに書(ふみ)に云はく、

「往年(わうねん) 僕(ぼく) 貧困に堪へずして 百方(ひやくはう) 術(すべ)無し

 乃ち 貴鋪(きほ)に就きて 銀百錢を騙(かたりと)れり

 以つて自(おのづか)ら救はれしも 兇惡の罪 身を容(い)るるに 地 無し

 伏して願ふ 幸ひなる寬容を

 本(もと)の銀百錢と封貨(ふうか)十六文 謹んで還納し 其の利銀(りぎん)のごときは 則ち 他日を期したり【國制の吏は、銀を裹(つつ)みて一封と爲(な)すに、印(しるし)を押して以つて行(もちゆ)きて、輙(すなは)ち、錢十六文を取れり。之れを「封賃(ふうちん)」と謂ふ。蓋し、其の紙の費(あたひ)に充(あ)てて云へり。】

 多罪多罪 謝れる所にあらず」【名や氏は記さず。】

と云へり。

 中澤儉(なかざはけん)、紀事に云はく、

「乙酉(きのえとり)正月十一日、予、卽願寺を過(よ)ぐるに、太左衞門といふ者に遇ひ、語るに、以つて、是の事に及びて、及び、其の書(ふみ)をも出だせり。固(もと)より鄙俚(ひり)にして庸劣(ようれつ)たり。蓋し、必ずや、小民の爲す所ならん。是れ、一人の身、非義を爲(な)さば、則ち、之れを愚(ぐ)として、猶ほ、之れを惡(わる)くするがごとし。其れ、非を悔ひて、過(あやま)ちを改むるに及びて、則ち、君子も亦も、之れを稱す。「書」、謂ふ所は、『聖と惟(いへど)も、念(おも)はざれば、狂(きやう)と作(な)り、狂といへども克(よ)く念へば、聖と作(な)る。』と。一念の發(ほつ)、其れ、愼まざるべからざるや。孔子曰はく、『過(あやま)ちは、改むること、憚かる勿かれ。』と。孟子云はく、『人は、能(よ)く恥を知る。則ち、恥、無し。』と。信(しん)なるかな、夫(そ)れ、人、恥を知らざれば、則ち、非義・暴戾(ばうれい)、爲(な)さざる所、無し。苟(いや)しくも能く恥を知れば、則ち、身、立ち、道を行く。豈に爲すに難きや。是に於いて、知れり。國家の仁政の效は、以つて民をして善に遷(うつ)さしめ、自(おのづか)ら知らざる者たるに有り。孔子の謂ふ所は、『恥、有りて、且つ、格者たる。』なり。徵(ちやう)すべきかな。」

と。

 文政乙酉(きのととり)季夏(きか)【興秋(きようしう)。】、江戶より歸り、松任(まつたふ)の驛に到り、舊友木邨子鵠(きとんしこく)を訪ね、與(とも)に新故(しんこ)を語り、情素(じやうそ)を陳(の)ぶるに子鵠、中澤子の撰する所の紀事の一條を出だし、予に示して曰はく、

「此れ、細事(さいじ)と雖も、以つて國家の治安を槪見(がいけん)すべく、亦た、美譚ならざるか。」

と。

 予、之れを讀み、感歎に堪へず、反復すること數過(すうくわ)、乃(すなは)ち、其の文の鄙にして事實に少し差(ちが)ひあるを憾(うら)み、因つて、竊(ひそか)に更に、記を以つて、業(わざ)を肆(ほしいまま)にす。敢へて自(おのづか)ら善(ぜん)たりと謂ふには非ざるなり。  石田 煥 記

   *

 以下、私の現代語訳(敷衍訳)を示す。手紙文はもっと野卑なものであろうが、敢えてその心持ちを汲んで、普通に訳した。

   *

    ○加賀の金沢出村屋に纏わるある事実の経過について

 金沢の出村屋太左衛門、家は枯木橋の西にある。両替商を浅野川の東橋詰めで営んでいる。

 文化癸酉(みずのととり)の大晦日のことであった。

 とある人がおり、来って言うことには、

「我れらは、これ、卯辰山の観音院の使いにて御座る。これこれの事について、募縁(ぼえん)のことをお願い申します。」

と。[やぶちゃん注:「募縁」とは社寺、或いは、公共の橋梁や道路の建設・修復のために寄付を募ること。「勧進」に同じ。]

 かくして、銀百銭を騙(かた)り盗(と)って去った。

 後(のち)、文政甲申(きのえさる)の同じ大晦日のこと、ある人が来るや、急に、忙しげに店内に乗り込むや、一つの袱紗(ふくさ)を店(みせ)の内へ投げ入れて、去った。

 主人は怪しく思い、これを追いかけたが、時も時なれば、街(まち)の通りは、人と物とで混雑しており、その人の行方(ゆくえ)は、これまた、判らずじまいであった。

 そこで、仕方なく店へ戻り、袱紗を開き見たところが、中には、丁銀(ちょうぎん)が僅かに入っており、一緒に文(ふみ)があった。その書信には、

 

――往年、某(それがし)、貧困に堪えずして、万法(まんぽう)手を尽くしましたが、術(すべ)なく、されば、貴顕のお店に参り、銀百銭を騙り取りました。それを以って、我らは救われましたものの、凶悪の罪は決して忘れられず、内心、身をおくべき場所もないという思いが致しておりました。どうか、伏してお願い申し上げます。どうぞ、お願い出来る限りの寛容を下さいまし! 元(もと)の銀百銭と、封を致しました銀貨十六文、謹んでお返し納めて、なお、かの間の利子分は、必ずや、他日にお支払い申しまする![石田注:江戸幕府の官吏は、公的な支払いの際、銀を包んで一封(いっぷう)とするが、その折り、封印を押して、以って持ち行き、渡す時、銭十六文を、その相手から取るものである。これを「封賃(ふうちん)」と称する。さすれば、その封印の紙の値に相当するものとして添えた、という意味である。]

 多罪! 多罪! 謝って済むものでは御座いませぬが――[石田注:名や姓は記していなかった。]

 

と書かれてあった。

 中沢倹(なかざわけん)が、この事実経過を以下のように記している。

『文政八年乙酉(きのえとり)正月十一日、私が即願寺の前を通り過ぎたところ、知れるところの太左衛門という者に逢い、立ち話をしたが、その中で、この奇体な事実に話が及んで、それに従って、その手紙をも出して見せた。その文章は、もとより、いかにも、田舎染みたもので、凡庸にして劣悪なものであった。まず、必ずや、その辺の民草(たみぐさ)の書いたものと見える。しかし、これ、一人の人間が、義に悖(もと)る行為をなしたならば、則ち、それを何でもないことと考え、なおさら、行いを悪(わる)くするのが常道であろう。だが、そうではなく、非を悔いて、過(あやま)ちを改めるに及んでこそ、君子もまた、これを讃えるものである。「書経」に述べるところによれば、「聖人と雖も、あるべき思慮をなさざれば、狂人となり、狂人と雖も、よく思慮せば、聖人となる。」とある。一念発起は、これ、心から気を入れて成さずにいられないようなものだろうか? いや、余程の決心に他ならぬ! 孔子は仰せられて、「過(あやま)ちは、これ、正すことを憚かってはならない。』とする。孟子は仰せられて、「あるべき人は、よく『恥』という真の意味を知っているものである。そうであれば、『恥』という劣等な感情様態に、その人が落ち込むことはない。』とする。これは、まさしく信(まこと)であるぞ! それ、人間が真の『恥』を知らなかったならば、それこそ、義に悖る非道に満ちた行いや、荒々しく、道理に反する残酷で非道なことをなさないことは、これ、なくなってしまう。苟(いや)しくもよく、まことの『恥』を知っておれば、必ず、自(おのずか)ら一身も正しく保たれ、自然、正道を行くものである。さても。これをなすことは、そんなに難しいことであろうか? いや、そうではない! 思い至れば、容易なことだ! ここに於いて、知ることが出来る。国家の仁政の効果は、以って、民をして善道に移らせ、それは、自(おのずか)らそうなってゆくことを自覚しないでいる状態にあることにこそあるのである。孔子の仰せられたところは、『真の「恥」を保持していることこそ、同時に人格者なのである。』ということなのだ。これこそ我ら人間が追い求めるべきものであるなあ!」

と。

 文政七年乙酉(きのととり)の夏の終り[石田注:秋の初め。]、江戸から帰って、松任(まっとう)の宿駅に到って、旧友の木邨子鵠(きとんしこく)を訪ね、ともに最近のことや、旧知のことについて語り合い、自身の平素の感じたことを述べ合ったが、その折り、子鵠が、中沢氏の書かれたところの事実経過を記した、一条を持ち出し、私に示して言うに、

「これは、一見、日常の些細なことように見えるかも知れぬが、いや、以って、国家の治安を正しく概ね見渡すに足り、また、美談ではあるまいか?」

2022/07/28

曲亭馬琴「兎園小説別集」下巻 永錢考【小出問、山崎答。】・正八幡考【小出問、山崎答。】

曲亭馬琴「兎園小説別集」下巻 永錢考【小出問、山崎答。】・正八幡考【小出問、山崎答。】

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの「新燕石十種」第四では本篇はここから。吉川弘文館随筆大成版で、誤字と判断されるものや、句読点(私が添えたものも含む)などを修正した。

 標題の割注は目録のもの。「小出」は以下で自己紹介をしているが、これは後に古河(こが:現在の茨城県古河市。グーグル・マップ・データ。以下、指示のないものは同じ)の地誌「古河志」を著わした元古河藩士小出重固(しげかた 安永元(一七七二)年~嘉永五(一八五二)年)である。古河生まれで通称で三太夫。天明四(一七八四)年より出仕し、藩主土井利厚の老中時代(享和二(一八〇二)年就任で、文政五(一八二二)年六月に在職のまま没した)には江戸詰公用人(藩主が幕府の老中や側用人といった要職にある時、城使及び江戸留守居添役は、対幕府・諸藩等との外交専門の用人である公用人となった。御城使たる江戸留守居と添役は、藩主が幕府の役職にある時は将軍家の陪臣として、また、藩主の身内人として、公儀の御用に携わることになっており、そこから江戸後期から「公用人」の名が用いられるようになった)を勤めている。藩の役職としては家老に次ぐ公御用人にまでなったのだが、文化九(一八一二)年に引退して古河に戻り、文政三(一八二〇)年に隠居していた(本書簡は文政八(一八二五)年のものである)。「松斎」或いは「翠庵」と号し、和漢の学に通じていた。江戸詰の時には国学者清水浜臣(はまおみ 安永五(一七七六)年~文政七(一八二四)年)に和歌を学んでいる。特に歴史を好み、隠居後は古河藩領内の寺社・古文書・説話を調べ歩き、天保一二(一八四一)年に地誌「古河志」を著して、古河城主土井利位(としつら:三河刈谷藩主土井利徳の四男であったが、本家の古河藩主土井利厚の実子が早世していたため、文化一〇(一八一三)年にその養子に迎えられていた)に献上している才人である(以上は彼の墓がある古河市横山町の日蓮宗長久山妙光院本成寺(ほんじょうじ)のウィキに拠った)。「山崎」は、この年の直前の四月の『「けんどん」争い』で完全に絶交した山崎美成。馬琴って、それはそれとして、かく記載を漏らさないところは、まことに律儀である。

 本論考は、小出の問い、及び、山崎の応答からなるが、二件の関連性のない質問と応答がセットになった、二者の書簡のみから構成されてあるもので、内容を別々に分けて示すことが出来ない。

 

   ○永錢考、正八幡考

一、中古の文書に、永錢何貫文の田地と申儀御座候。右を考候。如何有ㇾ之べくや。何卒聢と[やぶちゃん注:「しかと」。]仕度奉ㇾ存候間、御透[やぶちゃん注:「おすき」。]の節御展覽の上、尊意の程、御存分御書入被ㇾ下候へば本懷の至、則、端紙二葉入御覽候。緩々[やぶちゃん注:「ゆるゆる」。]御留置、御考可ㇾ被ㇾ下候。

一、正八幡宮[やぶちゃん注:「しやうはちまんぐう」。]と申號、正の字、何故に御座候や。何にてか見申候。憶中に覺申候は、若宮八幡は大鷦命といふによりて、正は應神の帝を稱し奉ると書に御座候。乍ㇾ去落付不ㇾ申。印本に八幡宮本紀と申書御座候由、此書には定て相分り居可ㇾ申候得共、寒鄕、書に乏しく、いまだ穿鑿不ㇾ仕候。或は宇佐が本所正八幡なり。餘の男山等は若山と申す說も、昔、何方にて承り込候や、耳底に留り居申候。是も落付不ㇾ申。何れ御敎示を受申度、何分々々御序[やぶちゃん注:「ついで」。]の刻[やぶちゃん注:「きざみ」。]、御さとし可ㇾ被ㇾ下候。奉願上候。早々あらあら。

 十二月廿三日        小出三太夫

    山崎兵衞樣

何卒尊名幷御號等御座候はゞ、御序に承知仕置度奉ㇾ存候。僕名重固、字子威、號竹齋、別號每居、致仕後號烟霞樵者、讀書の所を烟霞樵屋と云。漢字の方にては藤原の草を斷て滕固と云。

[やぶちゃん注:「永錢」永楽通宝のこと。当該ウィキによれば、明の第三代皇帝永楽帝の永楽九(一四一一)年より『鋳造され始めた銅製銭貨。日本では室町時代に日明貿易や倭寇によって大量に輸入され、江戸時代初頭まで流通。永楽銭・永銭などと呼ばれた』。『貨幣価値は』一『文として通用したが、日本では天正年間以降』、『永楽通宝』一『枚が鐚銭』(びたせん)四『文分と等価とされた』。慶長一三(一六〇八)年には『通用禁止令が』出され、『やがて寛永通宝等の国産の銭に取って代わられた』が、『その後も』「永」という『仮想通貨単位』、則ち、『永一貫文=金一両であり』、一両の千分の一『両を表す』「永勘定(えいかんじょう)」が『年貢の取り立てに引き続き用いられるなど、長く影響を残した』(永一文は四文前後)とある。

「大鷦命」「おほさざきのみこと」と読む。応神天皇の第四皇子である仁徳天皇の諱(いみな)。

「八幡宮本紀」江戸前期の筑前国の儒学者・国学者貝原好古(かいばらよしふる/かいはらこうこ 寛文四(一六六四)年~元禄一三(一七〇〇)年:号は恥軒。本草学者貝原楽軒の長男)の著わした神祇書。元禄二(一六八九)年自序。

「宇佐が本所正八幡なり」現在の大分県宇佐市南宇佐にある宇佐神宮。全国に約四万四千社ある八幡宮の総本社で、石清水八幡宮(次注参照)・福岡県福岡市東区箱崎にある筥崎宮(又は鎌倉の鶴岡八幡宮)とともに日本三大八幡宮の一つ。この当時は宇佐八幡宮弥勒寺と称していた。祭神その他は当該ウィキを参照されたいが、その注1に『宇佐神宮を筆頭とする全国の八幡宮の場合は』、『そもそも八幡神自体が同時に八幡大菩薩という仏でもあったため、八幡宮と神宮寺は一体のものであり、「八幡宮」=「八幡大菩薩を本尊とする寺院」であった。宇佐神宮の場合は、その寺としての名称が弥勒寺であったのである。例えば、京都の石清水八幡宮の場合は神仏分離以前の正式には「石清水八幡宮護国寺」と称していた。このような事情から、神社のなかでも八幡宮はもっとも早くから神仏習合が進んだ神社であった』とある。なお、八幡大菩薩は、しばしば、ここで問題として挙げている「正八幡大菩薩」の呼称でも呼ばれる。

「餘の」「よの」。他の。

「男山等は若山と申す說」京都府八幡市八幡高坊にある石清水八幡宮。旧称は男山八幡宮。全国の八幡社で「若山」を名乗ったり、それを通称とする神社が実際にかなりある。その中には、無論、この石清水を分祀したものもある。

 以下が、最初の「一」にある、「端紙二葉」(はしがみにえふ)の封入の小出の考証。]

永金納と云事、畠より出す年貢は、夏、納るなり。依て、夏成り上納、或は、永金納などいふ。是、畑の年貢金なり。何百何貫文と云て、一貫文は小判一兩なり。百文はそれを十に割たる一つにて、餘は押てしるべし。扨、此永といふ名目は、もと唐山の永樂錢より出たるといふ。皆人のいふ所なり。されど古河領中田宿光了寺緣起の末に、永何貫文の地云々とあり。これを考るに、唐山の永樂の年號以前の事と覺ゆ。此緣起は後より取付たるものと見ゆれども、さすが傳來なき事を書べきにもあらず。不審の事なり。水府小宮山楓軒翁の考を左に記す。

[やぶちゃん注:「古河領中田宿光了寺」茨城県古河市中田にある浄土真宗大谷派光了寺。小出が、着々と「古河志」の準備に入っていることが窺われる。

「水府」常陸水戸藩の藩庁のある水戸。

「小宮山楓軒」(ふうけん 明和元(一七六四)年~天保一一(一八四〇)年)は水戸藩士で儒者。彰考館館員で儒者の小宮山東湖の長男。 立原翠軒(たちはらすいけん)に学び、彰考館で「大日本史」の編修に従事した。寛政一一(一七九九)年、郡(こおり)奉行となると、植林を進めるなど、窮乏する農村の救済に尽くし、後に町奉行から側用人を務めた。名は昌秀。編著に「農政座右」「水府志料」などがある。]

えい錢といふ名は、永樂錢渡來以前よりありしならん。既に太平記靑砥左衞門の事を記せし所にも、えいせんといふ事見えたり。此えい錢、何時比よりありし物か。猶又其前よりありし名目と見えたり。思ふに穎穀穎錢などいふ事あるを、音によりて永樂とかき來れるにもあるべくや。穎の字の義は、詩經大雅に、實穎實粟とある義にて、穎錢といふか云々。

[やぶちゃん注:「太平記靑砥左衞門の事を記せし所にも、えいせんといふ事見えたり」「巻第三十五」の「北野通夜物語(きたのつやものがたりの)事附(つけたり)靑砥左衞門(あをとのさゑもんが)事」。国立国会図書館デジタルコレクションの「太平記 下」(永井一孝校訂・昭和二(一九二七)年有朋堂書店刊)のここからで、「附けたり」のそれは、知られた、鎌倉時代の執権北条時頼の信頼厚かった青砥藤綱(モデルはあったかも知れぬが、理想的御家人として造形された架空の武士)の、知られた鎌倉滑川に落とした十文の銭を五十文で松明を買って探したという話で、ここの左ページ六行目からであるが、小宮山の言う「えいせん」に相当する文字はない(複数の所持する「太平記」で確認した。『永く失ひぬべし』や『永不ㇾ可ㇾ失』の「永」の字はある)。ところが、この前段の、右ページ後ろから五行目に、彼が「飢たる乞食(こつじき)、疲(つかれ)たる訴訟人などを見ては、分(うん)に随ひ品に依(よつ)て、米錢(べいせん)絹布(けんぷ)の類(るゐ)を與(あたへ)ければ、佛菩薩の悲願に均(ひとし)き慈悲にてぞ有ける」という一節があるのに目が止まった。

「米」と「永」の崩し字は書き手が悪筆だと似てくる

のである。或いは、

小宮山は、ひらがな書きの「太平記」を読んだのではないか? だから、「えいせん」と表記したのではないか?

という仮定が浮かんだ。さて、そこで仮に、

その小宮山の見た版本が杜撰で、誤って「べいせん」を「えいせん」と誤刻していたか

或いは

小宮山が、悪筆の草書崩し字で書かれた「へいせん」(濁点は落ちて普通)を「えいせん」と読み違えた

という可能性を私は考えてみた。大方の御叱正を俟つものである。なお、私は後の山崎の答えを無批判に受け入れずに、独自に確認し、考えたものであることを断っておく。

「穎穀穎錢」(えいこくえいせん)穀類の代わりに税として納めた銭で、これを「永銭」と呼んだ。但し、これは江戸後末期の謂いのようである(辞書の引用書から推定)。「穎」は音「エイ」で、訓は「のぎ」、稲の穂先についている尖ったそれを指す。

「音によりて永樂とかき來れるにもあるべくや」これはちょっと無理があると思うな。

 以下は小出の論考に戻るものと判断する。]

中古武家の知行に、何百貫文と云事見ゆ。區々にて今はしれぬ事なりしに、ある書に、

永一貫を高五石に積り、高に結ぶなり。又云、往古は高百石と申事無ㇾ之、永何百貫文と云。其後、高何百石と、永を高に積り候。古來、永を高に積り候には、一貫文を拾石にも積り候事有ㇾ之、聢と定り候事は慥に知れ不ㇾ申候。關東御入國以後者、一貫を高五石に極候積りの由。

[やぶちゃん注:「永一貫を高五石に積り、高に結ぶ」この中古にあったという「永」は換算値の仮単位で、永楽銭とは、無論、無関係で、謂わば、縁起を担いで、意味のめでたい「永」の字を用いたに過ぎないだろう。]

 此書、公儀御勘定の祕書にて、辻氏鶴翁といふ老人の集錄なりといふ。

[やぶちゃん注:「辻氏鶴翁」「辻(つぢ)」氏姓の「鶴翁(かくをう)」。幕臣辻六郎左衛門(承応二(一六五三)年~元文三(一七三八)年)。諱は守参(もりみつ)。隠居後に鶴翁と号した。初め、館林藩の家臣であったが、藩主徳川綱吉が第五代将軍になったため、幕臣となった。元禄元(一六八八)年に勘定組頭、元禄十二年には美濃郡代に出世し、蔵米五百俵の支給だったのを改められて、知行地五百石を与えられた。さらに享保三(一七一八)年には勘定吟味役となり、老齢で隠退する享保一七(一七二七)年まで同役を勤めた。地方巧者(じかたこうしゃ:江戸時代に地方の支配実務に精通した農政官僚(享保以降は民間登用が多くなる)のこと)として名声が高かったことから、享保年間(一七一六年~一七三六年)には、幕府から直々に地方支配についての諮問を受け、「上書」(「辻六郎左衛門上書」。「辻氏献可録」とも称する)を提出した。体験に基づいて田制の由来・慣例などを記しており、幕府の地方支配の実体を知るうえで貴重な史料とされる(以上は主文を小学館「日本大百科全書」に拠った。]

先[やぶちゃん注:「まづ」。]、大抵これにてわかりしを、後に水府の人高倉逸齋といふ老人の、田政考といふ書の内に、此貫代と云は、何が故に錢に積りたると思ふに、さしてかはる義なし。反別[やぶちゃん注:「たんべつ」。]を基本として、一段[やぶちゃん注:「たん」。]に付、錢三百文、或は二百八十文などゝ、土地の厚薄に隨て、段每に數を定め、收穫したるなり。舊書を考るに、常陸は大抵段の地より、三百文を限りに出せし樣なり。尤、所に甲乙有て、一定しがたし云々。

[やぶちゃん注:「高倉逸齋」水戸藩士高倉胤明(たねあき 寛保四・延享元(一七四四)年~天保二(一八三一)年)。「水府地理温故録」や、ここに関係ある「田制考証」(文化一〇(一八一三)年成立。国立国会図書館デジタルコレクションの「近世地方経済史料」第八巻のこちらで読める)等の著作がある。]

同國小宮氏按ずるに、此儀、國々には差別あり。今の石高に取りの高下もあると同意と見ゆ。大抵武家私の定めにて、今の入作直段などいふ物の如く、國々所々にて思ひ思ひの直段にて、一定に無ㇾ之とおもはる。然るに古文書一二を見し者など、押あてゝ國々同樣と思ふは、未だ考の足らぬ故か云々。

[やぶちゃん注:「入作」は「いれさく」「いりさく」と読み、江戸時代、他村の者が来て耕作することを指す。

「直段」「ねだん」。値段に同じ。

 以下、山崎美成の応答書簡となる。]

 右甲申季冬、小出氏問書、乙酉五月、答ること、左のごとし。

[やぶちゃん注:「甲申季冬」文政七(一八七四)年十二月。

「乙酉」翌文政八年。]

永錢の說、御示の御筆記、熟讀侍りしに、水府の楓軒翁と申人の說、予が兼て聞る說と符合して、いとおもしろくしかるべく思ひ侍りぬ。永といふ名目は、もと唐山の永樂錢より出たりといふ事、御申のごとく普通の說なれど、誤なるべし。そのよしは永樂錢のみならず、異國の錢を鑄形として、鑄しものさへ多かり【古今泉貨鑑、和漠錢彙に委し。】。永樂錢はことに多く、關東にては此錢のみ用來りしなり。慶長年中に御停止ありしなり。さて、古河領中田宿光了寺緣起に、永錢のこと見えて、此緣起、永樂年前のものゝよし、予が嘗[やぶちゃん注:「かつて」。]聞るは、相模鎌倉鶴岡の神職に、大伴平翁といふ人あり。はやくより地理の學に志ふかゝりければ、本國の地志撰ん[やぶちゃん注:「えらまん」。]ことを企たりしが、半に及ばで身まかりけるとぞ。いとをしき事になん。その稿中に田租部といふありて、永錢の說に及び、鎌倉將軍の頃の古文書に、永錢とあるを引用し、且その說に云、永は頴にて、永とかけるは、穎の省文にて、禾とかけるなり。その體[やぶちゃん注:「てい」。]、永字に似たれば、永字をもかよはして書たるなりといへるよし、いとおもしろく覺ゆ【按ずるに、八幡宮本紀に、鶴岡の社に賴朝卿直判の書にも、社領のことあり。今猶永樂錢四十貫文ありしとかや。かくしるしたるをおもふに、かの文書に、永錢何程と記したりしや。その文書には社領の事のみにて、永錢云々は、その計算をいヘるものにや。ことのさま似たれば、こゝにしるすのみ。】。しかはあれど、その稿だに見ざれば、いかにとも辨じがたし。されど光了寺緣起を倂せ考るに、いづれにも明の永樂年前、已に此稱あること、いちじるし。また云、我邦、省字を用ゆること、いとふるし。古事記に、弦を玄に作り、村を寸に作る。後世にも多し。おもふに兵革の間、民間、多くは文筆に拙く、つとめて簡便に從ふのみ。再按ずるに、穎は和訓カヒとよみたり。延喜式の祝詞【祈年祭。】初穗【乎波。】千穎八百穎(ちはいやかはひ)奉置氏とあり、江家次第に、本穎芥本謂之稻、切穗訓之穎、これなり。しかれば穎錢としもいへるは、穀穎にかへて納る錢といふ意なるべし。唐土にいふ税錢祖錢のことにて、我邦俗の年貢金というふものなりとしられたり。

[やぶちゃん注:「穎は和訓カヒとよみたり」調べてみると、「穎割れ」で「かいわれ」の読みがあった。その場合、しかし、「カヒ」ではなく、「カキ・カイ」であり、当て訓に過ぎない気がする。

「初穗【乎波。】千穎八百穎(ちはいやかはひ)奉置氏」割注は助詞を補ったもの。「初穗をば千穎八百穎に奉り置きて」。「祈年祭」の全文はサイト「神話の森」の「日本の神話」の「延喜式祝詞」を参照されたい。最初にある。

「江家次第」(がうけしんだい)「に、本穎芥本謂之稻、切穗訓之穎」「江家次第」は平安後期の有職故実書。大江匡房著。大嘗会や四方拝に関する記述を含め、この時代の朝儀の集大成として評価が高い。正確な編纂の開始時期は不明。作者の没した天永二(一一一一)年まで書き続けられたものと推定されている(後代に加筆・増補あり)。私には訓読出来ない。悪しからず。

 以下の一段落は底本では全体が一字下げ。]

楓軒翁の說に、太平記靑砥左衞門が條に、永銭の事有りといへど、予、嘗よみたりしに、さることありともおもほえねど、さらに試に一わたいよみたりしが、其こと見え侍らず、こは何ぞのおぼえたがひにてもあるべし。又武家知行の積り石高の高下あることなどは、地方の事考しるしたる書に、くさぐさ見ゆれど、予その事も委しからずといへども、いさゝか思ひよれるふしなきにあらねど、さして定說もあらざるをもて、姑く[やぶちゃん注:「しばらく」。]疑しきを闕き[やぶちゃん注:「のぞき」。]、强てこれが說をなさず。猶思ひえたることあらば、追て記しまゐらすべし。

[やぶちゃん注:以上で第一の質問への答えは終わって、以下、「正八幡宮」の答えとある。]

正八幡の事、正八幡宮と申ことの、先づふるく見えたるは、二十二社註式曰、大隅國正八幡宮【桑原郡。】、正宮者始在大隅國、兩八幡後至豐後國、坐宇佐郡、大隅宮大御前【大比留女、兼右按ㇾ之神功か。】、南面【應神。】、若宮【仁德。】、西向【武内。】、家記云、人皇三十代欽明天皇五年【甲子。】顯座。また帝王編年記曰、後深草院建長五年三月十二日、大隅國正八幡宮、神殿舍屋已下燒亡のよしも見えたり。按ずるに、註式の說による時は、宇佐、石淸水の御宮よりも、はやく鎭座ましましけるなり。さて延喜式神名帳に、大隅國桑原郡一座庶兒島神社と記す者、卽この御宮のことなり。そもそも此御宮の外に、古にも今にも、正しく正八幡宮と稱し奉るはあらず。しかるに諸社一覽に、鹿兒島神社、桑原郡に在り。正八幡と號す。祭神二說、彥火々出見尊、一說、○大隅國正八幡火々出見尊也、與宇佐八幡不ㇾ同【神書抄。】、大隅宮神功皇后乎、大御前豐玉姬、南面應神帝、若宮仁德帝、西向武内臣也【兼右說。】、また八幡宮本紀にも兼右のいはく、神功皇后也、予をもてこれをみれば、先づ火々出見尊とすること、古書の所見なし。此尊を八幡宮と稱し奉るも、そのよし、かなはず。又神功皇后といへるは、註式に、大比留女、兼右按ㇾ之神功歟といへるを、謬り解したるものなるべし。これは大比留女とあるが、八幡宮には似つかはしからねば、同女神なるを配して、神功歟といヘるならんとおもはれたり。さて正八幡の正字のよしは、安齋隨筆武藏鐙卷に、古き軍談の册子等に、武士の誓詞に、正八幡宮も照覽あれと云語あり。八幡の本地阿彌陀也とて、八幡大菩薩と號するに依て、神と佛と入交り紛らはしきゆゑ、本地を除去[やぶちゃん注:「のぞきさり」。]、正眞の八幡大神宮と云意なるべし。觀音は三十三身に變化すると云に依て、變化せざる時の正體を、正觀音と號するに同じといへり。かゝれば宇佐、石淸水などには、大菩薩の號もあり。放生會も行はれて、その緣起、託宣集などいへるものにも、佛語多く用ひたりければ、此大隅に齋き祭れる御社こそ、さる故もなく、いちはやく鎭座ましませしかば、やがて正八幡とたゝへ奉りしなるべし。

[やぶちゃん注:「二十二社註式」これには同名異本で二種ある。一つは吉田家の神社考究書の一つで、畿内に散在する二十二の神社誌(「群書類従」所収)。今一つは林羅山著の「本朝神社考」から、伊勢・北野・春日・三輪・賀茂等の記事を抄出したもの。前者であろうが、調べ得ない。

「大隅國正八幡宮【桑原郡。】」現在の鹿児島県霧島市隼人町内(はやとちょううち)にある鹿児島神宮。嘗つては「大隅正八幡宮」「国分八幡宮」などとも称されていた。当該ウィキによれば、『創始は社伝によると遠く神代とも、あるいは「神武天皇の御代に天津日高彦穗穗出見尊の宮殿であった高千穂宮を神社としたもの」とされる。和銅元年』(七〇八年)『に現在地に遷座され、旧社地には現在摂社石体宮(石體神社)が鎮座している。当社の北西』十三キロメートルの『地点には、穗穗出見尊の御陵とされる高屋山陵がある』。欽明天皇五(五四四)年に『八幡神が垂迹したのもこの旧社地とされる。当社を正八幡と呼ぶのは』、「八幡愚童訓」(鎌倉後期に成立した石清水八幡宮の霊験記。作者未詳。本地垂迹説に従って書かれており、内容が大きく異なる多種の異本が現存する)『「震旦国(インドから見た中国)の大王の娘の大比留女』(おおひるめ)は『七歳の時』、『朝日の光が胸を突き、懐妊して王子を生んだ。王臣達はこれを怪しんで空船』(うつろぶね)『に乗せて、船のついた所を所領としたまうようにと』、『大海に浮かべた。船はやがて日本国鎮西大隅の磯に着き、その太子を八幡と名付けたという。継体天皇の代のことであるという。」との記載がある。なお、白井宗因が記した』「神社啓蒙」では、『登場人物が「陳大王」と記されており、娘の名前が八幡であるとされている』。『八幡神は大隅国に現れ、次に宇佐に遷り、ついに石清水に跡を垂れたと』「今昔物語集」『にも記載されている』(巻第十二の「於石淸水行放生會語第十(石淸水(いはしみづ)にして放生會(はうじやうゑ)を行ふ語(こと)第十(じふ))。「やたがらすナビ」のこちらで読める。新字体)。『大隅正八幡の正の字が示すように、鹿児島神宮は八幡宮の根本社だともいわれている。伝承では』、『かつて国分八幡』國分八幡宮(こくぶはちまんぐう:香川県高松市国分寺町(こくぶんじちょう)国分(こくぶ)にある。古代の祭祀跡とされる磐座(いわくら)があることで知られる)『と宇佐八幡との間に、どちらが正統な八幡かを巡って争いが起き、宇佐八幡は密かに』十五人(十四人とも)の『の使者を遣わして国分八幡を焼かせたという。その際、燃え上がる社から立ち上る黒煙の中に「正八幡」の字が現れ、それを見て驚き怖れた使者達は溝辺』(みぞべ:鹿児島県霧島市溝辺町(みぞべちょう))『の地まで逃れてきたが、神罰を受けたのか』、『次々と倒れてその数は』十三『人に及んだ。その後』、『土地の人々は異境に死んだ者たちを憐れみ、それぞれが倒れた場所に塚を盛り霊を慰めたが、その数が』十三『であったことから、そこを十三塚原と名付けたといわれている。この十三塚原は鹿児島県の国分平野北方にあり、その北東部には鹿児島空港やこの伝承に基づく十三塚原史跡公園がある』(ここは、最近、私がものした『「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 十三塚の事』も参考になろう)。『この宇佐八幡の使者に関する伝承には、上記と内容の異なる伝承が他にもいくつかある』。『信頼できる史料での初出は、醍醐天皇』(在位:寛平九(八九七)年~延長八(九三〇)年)『の時に編纂された』「延喜式神名帳」に『「大隅国桑原郡 鹿児嶋神社」とあるもので大社に列しており、日向、大隅、薩摩のいわゆる南九州では最も格の高い唯一の式内大社である。その高い社格から桑幡氏、税所氏などの有力国人をその神職より輩出した』。『平安時代に宇佐八幡が九州五所の八幡別宮を勧請したのに伴い、当社に八幡神が合祀されたともされている。それ以降、正八幡宮・大隅正八幡宮・国分八幡宮などとも称される』ようになったとある。

「正宮者始在大隅國、兩八幡後至豐後國、坐宇佐郡、大隅宮大御前【大比留女、兼右按ㇾ之神功か。】、南面【應神。】、若宮【仁德。】、西向【武内。】、家記云、人皇三十代欽明天皇五年【甲子。】、顯座」手前勝手流で訓読する。

   *

正宮(しやうぐう)は、始め、大隅國(おほすみのくに)に在り、兩(ふたつなが)らに、八幡は、後(のち)、豐後國に至り、宇佐郡にも坐(ましま)す。大隅宮は、大御前(おほきおまへ)【大比留女(おほひるめ)、兼右(かねみぎ)、之れを按ずるに、神功(じんぐう)か。】、南面【應神。】、若宮【仁德。】、西向【武内。】、「家記(けき)」に云はく、『人皇三十代欽明天皇五年【甲子。】、顯座(あきらめてましま)す。』と。

   *

「兼右」吉田兼右(永正一三(一五一六)年~元亀四(一五七三)年)は戦国・織豊時代の神道家。本姓は卜部(うらべ)。元は清原宣賢(のぶかた)の次男であったが、従兄吉田兼満の養子となり、従二位・神祇大副(じんぎのたいふ)に進み、大内義隆ら戦国大名に招かれ、神道伝授を行い、また、全国の神社との結び付きを諮るなど、吉田家の勢力拡大に努めたことで知られる。「欽明天皇五年」機械的換算で五四四年。「武内」武内宿禰。

「帝王編年記」神代から後伏見天皇(在位:一二九八年~一三〇一年)までの歴史を漢文編年体で記した記録。全二十七巻。撰者は鎌倉末の僧永祐と伝えられるものの、確証はない。インド・中国の史実も広範囲に採録しており、本書の特徴の一つをなす。また、本書のみに述べられている事柄もかなりの数にのぼるが、こうした記事については十分な史料批判が必要とされる(平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「後深草院建長五年」一二五三年。天皇は後深草天皇。鎌倉幕府執権は北条時頼。

「諸社一覽」京の国学者坂内直頼(さかうち(ばんない)なおより 正保元(しょうほ)元(一六四四)年頃~正徳元(一七一一)年頃)著になる、諸国の神社の縁起などを問答形式で列挙した「本朝諸社一覧」(貞享二 (一六八五) 年刊)。

「彥火々出見尊」(ひこほほでみのみこと)は瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)と木花開耶姫(このはなさくやひめ)の子で、初代天皇神武天皇の祖父。

「與宇佐八幡不ㇾ同【神書抄。】」「宇佐八幡とは同じからず」。「神書抄」不詳。「神書口决抄」 (しんしょくけつしょう)のことかと思い、「新日本古典籍総合データベース」で写本の「八幡御傳」を見たが、違う。

「豐玉姬」(とよたまひめ)は海神(わたつみ)の娘で、神武天皇の父方の祖母にして、母方の伯母。

「安齋隨筆武藏鐙卷」江戸中期の故実家伊勢貞丈(さだたけ 享保二(一七一七)年~天明四(一七八四)年)著になる、公家・武家の有職故実や、事物起源、字訓の正誤などを広く随録したもの。安斎は彼の号。「新日本古典籍総合データベース」で写本を調べたが、動作が悪く、上手く見つからないので諦めた。

「八幡の本地阿彌陀也とて、八幡大菩薩と號する」ウィキの「八幡神」の「神仏習合」によれば、『東大寺の大仏を建造中の天平勝宝元年』(七四九年)、『宇佐八幡の禰宜尼、大神朝臣杜女(おおがのあそんもりめ)らが、上京して八幡神が大仏建造に協力しようと託宣したと伝えたと記録にあり、早くから仏教と習合していたことがわかる』。『天応元年』(七八一年)『朝廷は宇佐八幡に鎮護国家・仏教守護の神として八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)の神号を贈った。これにより、全国の寺の鎮守神として八幡神が勧請されるようになり、八幡神が全国に広まることとなった。後に、本地垂迹においては阿弥陀如来が八幡神の本地仏とされた』。『一方、日蓮は阿弥陀如来説を否定し』、『八幡大菩薩の本地を釈迦牟尼仏としている』。『平安時代以降、清和源氏、桓武平氏等の武士の尊崇をあつめて全国に八幡神社が勧請されたが、本地垂迹思想が広まると、僧形で表されるようになり、これを「僧形八幡神(そうぎょうはちまんしん)」という』とあった。

「神と佛と入交り紛らはしきゆゑ、本地を除去、正眞の八幡大神宮と云意なるべし。觀音は三十三身に變化すると云に依て、變化せざる時の正體を、正觀音と號するに同じといへり」この見解、結構、指示したい気がする。

 以下、最後まで底本では全体が一字下げ。]

御狀に御申こしの八幡宮本紀もよみもしつ。且藏弆なしたりけるを、再びよく見候へど、正八幡宮と申名は、右に引用のことゝ見ゆれど、正の字のよしなど曾てあらず。且その外の御說共も、予が管見には、未だ何の書にも見あたり侍らず。

 文政乙酉五月十九日    山崎美成識

[やぶちゃん注:「藏弆」本シリーズではしばしば出る熟語だが、一般的ではないので、たまには注しておくと、「弃」は「棄てる」の意で、ここは「整理もせずに放置しておいた蔵書」或いはそうした様態を指す語である。]

2022/07/27

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 火齊珠に就て (その一・正篇)

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。但し、例によって段落が少なく、ベタでダラダラ続くため、「選集」を参考に段落を成形し、注は各段落末に配した。ちょっと注に手がかかるので、四回(本篇が以下で、後のやや長い「追加」を三つに分ける)に分割する。]

 

     火齊珠に就て (大正元年十月『考古學雜誌』三卷二號)

        本文の「追加」が考古學雜誌に揭載
        されし後ち古谷氏の再答文有り。そ
        それに對して予は三たび答ふるの文
        を投ぜしが、揭載されざりし、此文
        は他日續々編に出すべし。(大正十
        五年九月十六日記)

 考古學雜誌第二卷第七號四〇七頁に古谷淸君は、「支那に於て、硝子なる者を表示するに瑠璃云々等の文字を用ひたり。此中硝子及び火齊珠の二つは、支那人の作出せる文字にして、Glass の意譯なるべく云々。玻璃、硝子及び火齊珠等の文字は、隋唐時代の書物に至て見る所にして、其れ以前の物に於ては、瑠璃若くは之に近き音を現はしたる文字を用ゐたり」と言はれたり。

[やぶちゃん注:「火齊珠」(くわせいしゆ)は複数の中文サイトの漢語辞典を見るに、最初に「宝玉の一種で、珠玉に似た石」(例を「南史」(二十五史の一つ。唐の李延寿撰。高宗(在位:六四九年~六八三年)の治世に成立した。南朝の宋・斉・梁・陳四国の正史を改修した通史)を引く)とし、二番目に「玻璃(ガラス)の別名」(例を「太平御覧」(北宋の類書。太祖の勅命によって李昉(りぼう)らが撰した。九八三年成立)から引く)とする。一方、源順(みなもとのしたごう)の「和名類聚鈔」(承平年間(九三一年~九三八年)の成立)を見ると(巻十一の「宝貨部第十七」・「玉類第百五十三」)、以下のように出る。ここで後のガラスの古名ともなる、青或いは青紫色のラピス・ラズリ(lapis lazuli)を指した「瑠璃」と、実は同じだと順が言う「雲母」と並んでいるので、三条、総てを示す(国立国会図書館デジタルコレクションの寛文七(一六六七)年版の当該部の訓点を参考にした)。

   *

瑠璃(ルリ) 『野王、按ずるに、「瑠璃」【「流」・「離」の二音。俗に「留利」と云ふ。】青色にして、玉のごとくなる者なり。』と。

雲母(キラヽ) 「本草」に云はく、『雲母【和名「岐良々」。】、五色、具はる、之れを「雲華」と謂ふ。赤、多き、之れを「雲珠」と謂ふ。青、多き、之れを「雲英」と謂ふ。白、多き、之れを「雲液」と謂ふ。黃なる多き、之れを「雲沙」と謂ふ。』と。

玫瑰(キウクワイ) 「唐韻」に云はく、『玫瑰【「枚」・「廻」の二音。今、案ずるに、和名、「雲母」と同じ。「文選」の「讀翡翠火齊」の處に見えたり。】、火齊珠なり。』と。

   *

とある(「雲母」の読みは前条に従った)。しかし、どうも、「玫瑰」『「文選」の「讀翡翠火齊」の處に見えたり』というのは、腑に落ちない。「翡翠火齊」の文字列は「文選」所収の後漢の歴史家・文学者班孟堅(班固 三二年~九二年)の、知られた長安を讃美した「西都賦」の一節にあるが、「讀翡翠火齊」というのはなく、不審だからである。ネット検索をしたところ、加藤良平氏のブログ・サイト「古事記・日本書紀・万葉集を読む」の『和名抄の「文選読」について 各論』のこちらで、和名抄の原文の「見于文選讀翡翠火齊處」の「于」について、『京本類と呼ばれる和名抄の諸本に、「于」は、「千」とも「干」ともとれる字体である』と指摘され、ここを加藤氏は、

   *

「干」に見ゆ。「文選」に『翡翠火齊』の處を讀む。

   *

という風に訓読され、『「干」は、琅玕を指す』とされており、これは甚だ腑に落ちた。「琅玕」(ろうかん)は暗緑色又は青碧色の半透明の硬玉を指す。則ち、ここで順は割注の頭で、『この「玫瑰(まいかい)」という鉱物は雲母と同じではあるが、琅玕のようにも見える。それは「文選」の『翡翠火齊』のところでそのように読める』と言っているように思えるからである。なお、「西都賦」はかなり長い。「維基文庫」のこちらで原文が見られるが、目がクラクラするばかりなので、紀頌之氏のブログ「漢文委員会」のこちらの分割版が良い。その「(24)#93」の頭に、

   《引用開始》

翡翠火齊,流耀含英。

弱翠の羽飾りのある火斉の天明りは、遠くまで照らし光を内に含んでいる。

   《引用終了》

とある。取り敢えず私は「翡翠の火齊、耀きを流し、英(ひかり)を含む。」と訓じておく。この「火斉」とは、グルグル巡って、再び、瑠璃(ラピス・ラズリ)を加工した燈明台となる。しかし、ここまでくると、私はガラスとの酷似・相同性を強く見出せるように感じられる。因みに、ウィキの「ガラス」の「ガラスの歴史」の「古代のガラス」には、『エジプトのアレクサンドリアで、宙吹きと呼ばれる製造法が紀元前』一『世紀の後半に発明された。この技法は現代においても使用されるガラス器製造の基本技法であり、これによって安価なガラスが大量に生産され、食器や保存器として用いられるようになった。この技法はローマ帝国全域に伝わり、ローマガラスと呼ばれるガラス器が大量に生産され、東アジアにまでその一部は達している』。『この時期には板状のガラスが鋳造されるようになり、ごく一部の窓にガラスが使用されるようになった』。『また、ヘレニズム的な豪華なガラスも引き続き』、『製造されていた。しかしローマ帝国の衰退とともにヨーロッパでの技法が停滞した。一方、東ローマ帝国の治める地中海東部やサーサーン朝ペルシャや中国の北魏や南朝では引き続き高水準のガラスが製造されている。日本では福岡県の須玖五反田遺跡などで古代のガラス工房があったことが確認されている』とあり、脇に、『古墳時代に日本に伝来した西アジア製のガラス碗』『ササン朝のカットグラス』で、『伝安閑陵古墳(大阪府羽曳野市)出土。国の重要文化財。東京国立博物館展示』とキャプションするガラス・グラスの写真が載る。則ち、ガラス工芸品は我々が思う以上に、中国でも日本でも、古くからよく知られていたことが判る。なお、「硝子」は日本語として漢字表現したもので、現代中国では「ガラス」は「玻璃」である(中文ウィキの「玻璃」の最後に『日語漢字以硝子代表』とあるのを見よ)。而して、「玻璃」の漢語自体は、古代インドや中国などで珍重された宝玉で、「七宝(しっぽう)」の一つで、無色の水晶を指したと辞書にはある。但し、中文ウィキの「玻璃」では最後には『玻璃在中國古代亦稱琉璃』とあるが、そこには出典要請がかけられており、「玻璃」という漢字表記が古代から一貫してガラスを指したわけではないようである。宮嶋純子氏の論文『漢訳仏典における翻訳語「頗梨」の成立』(『東アジア文化交渉研究』(二〇〇八年三月)収載。「関西大学学術リポジトリ」のこちらからダウン・ロード出来る)によれば、仏典が漢訳された中に最古形として出たのは「頗梨」であり、これは元来は、水晶、或いは、現在は限定出来ない宝石の類を現経典では指していたらしい。それが、『西域伝来の仏典の中で語られる透明で硬い鉱石のイメージと,西方産のガラスがどのように結びついたものか,「頗梨」は「玻璃」と字を変えて現代まで中国において受け継がれてきた』と述べておられる。さて、ここで古谷氏は、『玻璃、硝子及び火齊珠等の文字は、隋唐時代の書物に至て見る所にして、其れ以前の物に於ては、瑠璃若くは之に近き音を現はしたる文字を用ゐたり』と述べているのだが、まず、「硝子」は和製漢語だから誤りとなり、更に、紀元三世紀頃には中国でサンスクリット仏典の漢訳が開始されており、最も古い「頗梨」の一つとして、宮嶋氏は訳経僧鳩摩羅什(くまらじゅう 三四四年~四一三年/別説/三五〇年~四〇九年)訳の「仏説阿弥陀経」を例示されておられる。古谷氏は隋(五八一年~ 六一八年)よりも前にには「玻璃」は認められないというのは、単に原形の「頗梨」が「玻璃」に変化したに過ぎないことになる。さらに、「火齊珠」だが、「火齊」と書いた班固が生きたのは紀元後三二年から九二年であり、その「西都賦」のそれは「火齊珠」と同義ととって私はよいと考える。従って、古谷氏の以上の発生時期の遡上限界の見解部分は総て誤りと言ってよいと私は考える。

「大正元年」一九一二年。

「揭載されざりし、此文は他日續々編に出すべし」とあるが、「続々南方随筆」は刊行されず、その準備稿が「選集」第五巻に総て載るが、それらしい論考は見当たらない。

「古谷淸」生没年未詳だが、『考古学雑誌』やその他の雑誌の論考掲載が確認出来る。また、彼は、明治四四(一九一二)年、熊本の江田船山古墳を卑弥呼の墓とする論考「江田の古墳と女王卑弥呼」(同年末の『東洋時報』掲載)を発表している。これは、稗田阿礼氏のサイト「神社と古事記」の『古谷清「江田村の古墳」― 1912年、卑弥呼の墓を主軸にした邪馬台国論、考古学参入先駆け』で知った。但し、そこに、『その後の研究で、この江田村古墳の年代が、卑弥呼との時代と大幅に』乖『離していることが明らかになり、この論文は忘れられる形になる』。『しかし、考古学の方面からほぼ初めて、邪馬台国や卑弥呼について論じた研究であり、考古学者の同問題参入を促した高橋健自に先んじること10年余り、古墳と邪馬台国という分野においては先駆け的存在となったと言える』と述べておられる。

「此中」「このうち」。]

 Glass の意譯とは、何の意なるを詳らかにせず。大英類典十二卷「グラス」の條には、此英語は「チウトニク」語根「グロ」又「グラ」、光るという意より出ずと有り、惟ふに淵鑑類函第三六四卷に續漢書曰、哀牢出火精瑠璃、又出水精、潜確類書曰、水精千年水也、抔見ゆれば、火精は水精に對する名にて、火を以て練成せるより移りて、火の精塊となしたるならん。同卷に須彌之山有吠瑠璃、火不能燒など云へり。齊と精と音異なれど、火齊も何だか火で練成せりてふ意に出し樣察せらる。

[やぶちゃん注:「大英類典」は熊楠御用達の「エンサイクロペディア・ブリタニカ」(Encyclopædia Britannica)のことで、恐らく熊楠の所持する十一版の第十二巻を「Internet archive」のこちらで当該箇所を見つけた。当該項の冒頭に以下のように記されてある。

   *

 GLASS (O.E. glas, cf. Ger. Glas, perhaps derived from an old Teutonic root gla-, a variant of glo-, having the general sense of shining, cf. " glare," " glow "),

   *

O.E.」は「Old English」(古英語)の略号。「Teutonic」元は古代のユトランド半島(北海とバルト海を分かつ半島で、現在は北側がデンマーク領、根元のある南側がドイツ領)に住んでいたゲルマン民族の一部族チュートン族(「テウトニ」「テウトネス」「テュートン」とも音写する)を指す。紀元前二世紀に、同じ地域にいたキンブリ人とともに南下し、ローマの将軍マリウスに撃滅された。現在はヨーロッパのドイツ人を初めとする「ゲルマン系諸民族」と「言語」の称として用いられる。

「淵鑑類函第三六四卷に……」「淵鑑類函」は清の康熙帝の勅により張英・王士禎らが完成した類書(百科事典)で、南方熊楠御用達の漢籍である。「漢籍リポジトリ」の当該巻当該部の「水精一」([369-45b])と「琥珀一」([369-48b])の二ヶ所の記述のカップリング。訓読する。

   *

「續漢書」に曰はく、『哀牢は火精瑠璃を出だす』と。又、『水精を出だす』と。「潜確類書」に曰く、『水精は千年の水なり』と。

   *

「續漢書」は西晋の官吏で歴史家の司馬彪(ひょう ?~三〇六年)が、後漢の光武帝から献帝までの「本紀」・「列伝」・「志」(礼・楽・暦・天文・五行・食貨・刑法・地理・職官などの重要史料事項群)を備えた史書八十篇を著し、かく書名を附したもの。但し、「志」を除くものは散佚して纏まって残っていない。しかし、この「続漢書」の「志」(三十巻)だけは、二十四史の一つに数えられる、南朝宋の政治家にして文学者・歴史家であった范曄(はんよう 三九八年~四四五年)によって書かれた歴史書「後漢書」(本紀十巻・列伝八十巻)に欠けていた「志」を補うものとして、「後漢書」に合刻され、現在も残っている。「哀牢」(あいらう)は漢代に雲南省南西部地方に建国した西南夷の国。その種族についてはタイ語系諸族説とチベット・ビルマ語系諸族説に分かれている。始祖伝説によれば、牢山の婦人沙壱が魚を獲っている最中、龍の化身である沈木に触れて産んだ男子十人の内、龍に舐められた末子の九隆が、選ばれて、初代の王となったとする。当初は中国とは交渉を持たなかったが、四七年に後漢と戦って敗れて内属し、その地には永昌郡が置かれた(平凡社「世界大百科事典」に拠った)。「潜確類書」は「潛確居類書」とも。明代の学者陳仁錫(ちんじんしゃく 一五八一年~一六三六年)が編纂した類書。

「須彌之山有吠瑠璃、火不能燒」前掲引用元の「瑠璃一」の[369-38b] で原文が見られる。

   *

須彌(しゆみ)の山に吠瑠璃(べいるり)あり、火も燒く能はず。

   *

「須彌の山」須弥山(しゅみせん)は古代インドや仏教の宇宙観で中心に聳える伝説の山。サンスクリット語「メール山」「スメール山」の漢音写。「吠瑠璃」小学館「日本国語大辞典」では、『(vaiḍūrya の音訳)仏語。七宝の一つ。青い色の宝石。瑠璃。毘瑠璃とも』とするが、ウィキの「七宝(仏教)」を見ると、『瑠璃は、サンスクリット語ではvaiḍūrya(バイドゥーリヤ、漢音写:吠瑠璃)、パーリ語ではveḷuriya(ヴェルーリヤ)、青色の宝玉で、アフガニスタン産』ラピス・ラズリ『と推定されている。後に、青色系のガラスもさすようになった』とある。]

 扨、謝在杭の五雜俎卷八に、敍女寵者至漢事秘辛極矣、敍男寵者至陳子高傳極矣。秘辛所謂、拊不留手を、火齊欲吐等語、當流丹浹藉競爽、而文采過之云々、此の陳子高傳と云ふ者、先年大英博物館に在し日、陳書の子高の傳を指す事と思ひ調べしも、一向在杭が褒めし程の文無し。別に陳子高傳と云ふ物有るにや、在杭は其傳の吳孟子鐵纏矟の句を特に稱美せり。同性卽ち男と男との交り、男色の趣を述べたる句と察せらる。全體、予、漢學は一向修めざりし故、在杭の件の文、何の事か全く分らず、因て松岡香翠と云る紀州田邊の詩人に問合せしに、此人亦十分に解せぬ乍ら、略ぼ答て書れしは、「佩文韻府、楊愼書、漢雜事祕辛後漢雜事一卷、載桓帝懿獻梁皇后被選、及六禮册立事。又海國千房、火齊珠(詩句)、不如服取長流丹(詩句)等の語有り。又、王勃滕王閣之序、飛閣流丹下臨無地の語有り、此流丹は朱閣を形容せる者、前きの流丹は仙丹の如きならんか。(熊楠按ずるに、女陰を朱門と呼ぶ事、唐の釋法琳の辨正論卷七に、佛經の譯人譯語の本名を存する事を言て、非如朱門玉柱之讖陽父陰母之謠、註に、黃書云、開命門、抱眞人、嬰廻龍彪、載三五七九、天羅地網、開朱門進玉柱、陽思陰、母白加玉、陰思陽、父手摩捉也。朱門と、朱閣と、又それから流丹と關係ある事かとも思へど、丸で不案内の予の事故、ほんの宛て推量也。なほ昔し日本でも女陰を朱門といひしは、狩谷掖齋の箋注倭名類聚抄卷二、玉門の條に見えたり)浹藉の熟字は、何れの書にも見當り申さず、流丹浹藉は美文の勢を形容せしには非るか。火齊は珠の名なるべし。火齊欲吐は或は女陰の形容位ゐ云々、高見遠からざる事と存じ候」となり。

[やぶちゃん注:「謝在杭の五雜俎卷八に、敍女寵者至漢事秘辛極矣、……」「五雜組」とも表記する。明の文人官人謝肇淛(しゃちょうせい 一五六七年~一六二四年:在杭は字(あざな))が撰した歴史考証を含む随筆。全十六巻(天部二巻・地部二巻・人部四巻・物部四巻・事部四巻)。書名は元は古い楽府(がふ)題で、それに「各種の彩(いろどり)を以って布を織る」という自在な対象と考証の比喩の意を掛けた。主たる部分は筆者の読書の心得であるが、国事や歴史の考証も多く含む。一六一六年に刻本されたが、本文で、遼東の女真が、後日、明の災いになるであろう、という見解を記していたため、清代になって中国では閲覧が禁じられてしまい、中華民国になってやっと復刻されて一般に読まれるようになるという数奇な経緯を持つ。以上の熊楠の引用については、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の寛政七(一七九五)年京都板行版の訓点附きのこちらで、当該部と校合し、それを参考にしながら、オリジナルに訓読した。

   *

女寵(ぢよちよう)を敍する者は漢の「秘辛」を事とするに至りて極まれり。男寵を敍する者は「陳子高傳(ちんしこうでん)」に至りて極れり。「秘辛」の所謂、『拊(なづ)りて[やぶちゃん注:撫でて。]、手を留(とど)めず』、『火齊、吐かんと欲する』等の語は、當(まさ)に流丹・浹藉(きやうせき)と爽(さう)を競ひ、而して、文采(ぶんさい)は之れに過ぐ云々。

   *

『漢の「秘辛」』小説「雑事秘辛」(ざつじひしん)。当該ウィキによれば、『漢の桓帝が大将軍乗高の娘』の瑩(えい/よう)を『冊立して、后とした次第を叙したもの。漢代の作ともいい、明代の楊慎』(一四八八年~一五五九年:学者・文学者。一五一一年に進士に登第し、翰林修撰となった。後、世宗嘉靖帝が即位した際、その亡父の処遇について帝に反対したため、激怒を買い、平民として雲南に流され、約 三十五年を配所で過し、そのまま没した。博学で、雲南にあって奔放な生活をおくりながら、多くの著述を残した。その研究は詩曲・小説を含め、多方面に亙る)『の作である』『ともいう。作中、朝廷の使者である呉姁』(ごく/ごぐ)『が、勅を奉じて、梁商の第にのぞみ、皇后の燕処で身体検査をおこなうくだりは、後人の最も歎賞するところであり、文辞もまた』、『すこぶる奇艶をきわめているが、一方で、はなはだ』猥褻『の嫌があるともされ、性愛文学作品としても読まれる』とある。「流丹・浹藉」小説「飛燕外伝」に出るが、意味が全く判らない。前者は「丹」と後の松岡氏の記載から、薬物(房事用)名かとも思い、後者は「浹」は「広い」の意があり、「藉」は敷物の謂いであるから、閨房の褥(しとね)の意かなどと考えたが、どうも松岡氏の返事の最後のそれが、当たりかも知れぬ。文章の気が、鮮やかな艶麗な赤い流れのようであること、見渡す限り、端が見えないほどに薄絹の褥を敷いたような完璧さという意味ではなかろうか? どなたか教えて戴けると甚だ助かる。「中國哲學書電子化計劃」のこちらの影印本の最終行に出る。「飛燕外伝」は当該ウィキによれば、『漢代の伶玄の撰と伝わるが、内容的に六朝時代の成立であろうという』。『漢の成帝の皇后である趙飛燕の別伝の形式をとる。趙后飛燕が』、『その妹である昭儀と互いに寵愛をきそいあらそったことを叙する。「その閨幃媟褻』(けいゐせつせつ:「閨のとばりの内を描いて、穢(けが)し、猥褻、これ、極まりないこと」の意でとっておく)『の状は目を蔽はしめるものがある」(金築新蔵)といい、性愛文学作品としても読まれる。その内容はすこぶるおもしろく、詩文の典故となったものが多』く、『また、日本文学への影響もかならずしも小さくなく、平安時代の女流文学者に愛読され、種々の物語の粉本ともなり』、「源氏物語」の『作中人物が寵をあらそうのは、本書の趣向のならったものであるという』とある。

「陳子高傳」「陳子高」南朝の陳の文帝陳蒨(ちんせん)の武将韓子高(五三八年~五六七年)。当該ウィキによれば、『もとの名は蛮子』で、「侯景の乱」が『起こったとき、蛮子は建康に寓居していた。侯景の乱が平定され、陳蒨が呉興郡太守として出向したとき、』十六『歳の蛮子は総角』(あげまき)『で容貌が美しく、姿は婦人のようであったことから、陳蒨の目にとまった。陳蒨に仕官を求められ』、『受諾し、蛮子の名を子高と改めた。子高は陳蒨の側近で護衛と燗酒を届ける役をつとめ、性急な陳蒨に意を合わせることができた。成長すると、騎射を学ん』だ。『決断力があり、将帥となる志望を抱いた』。『陳蒨は子高を寵愛して、そばから離さなかった』とあって同性愛が仄めかされるだけなのだが、ところが、中文ウィキを見ると、最後に、『後世一些創作將陳蒨與韓子高的關係描繪為同性愛,例如明代李詡(或作李翊)在《陳子高傳》(收入《綠窗女史》卷五緣偶部,王世贞《豔異編》,馮夢龍《情史》)』『中寫陳蒨甚至曾打算登基後立他為皇后。王驥德的雜劇《裙釵壻》(男王后)是改編自《陳子高傳》的藝文作品』とあって、史伝ではない、男性の同性愛に焦点をおいた性愛小説版の「陳子高傳」であることが判る。そこには「陳蒨が王位に就いた後、彼を女王にすることさえ計画した」という驚きの記載(自動翻訳を参考にした)がある。熊楠が読んだのは「陳書」とあるので、そちら最後の「參考」に並んだ姚思廉の「陳書」四種の内の孰れか、中でも「卷八」の「列傳第二」或いは「卷二十」の「列傳第十四」の消毒されたそれだったのであろう。

「在杭は其傳の吳孟子鐵纏矟の句を特に稱美せり。同性卽ち男と男との交り、男色の趣を述べたる句と察せらる」原文に当たれない。「選集」の訓読を参考にすると、「吳孟子(ごまうし)は、鐵(てつ)、矟(ほこ)に纏(まと)ふ。」。「矟」は、この魏晋南北朝時代(一八四年~五八九年)になって鉄製になった槍の呼称で、白兵戦ではなく、馬上で盛んに使用された。恐らくは、この「矟」には隆々たる男根のイメージが匂わせてあるのであろう。なお、謝肇淛の中文ウィキに、彼は知られた詩人袁宏道から、かの性愛小説「金瓶梅」を借りたが、永い間、それを袁に返却しなかったと、わざわざ書いてあるから、その手の話が大好きだったことが有名らしい。

「松岡香翠」熊楠とは親しい関係にあったらしい。「南方熊楠顕彰館」の「自筆史料」で検索したところ、一件、「家父華甲不老萬年之図画賛」がヒットし、「作者」の欄に『梧堂画 南方熊楠、松岡香翠、喜多幅淡所賛』とあった。

「佩文韻府、楊愼書佩文韻府、楊愼の書『漢雜事祕辛・後漢雜事』一卷は、……」この書簡部分は、漢文と通常文が混雑していて読み難いので、一回、まず、「選集」を参考に、訓読してしまうことにする(熊楠の挿入部はカットして、注は後の回す)。

   *

「佩文韻府(はいぶんいんぷ)」に、『楊愼の書、漢の「雜事秘辛・後漢雜事」一卷は、桓帝のとき、懿獻梁(いけんりやう)、皇后に選ばれしこと、及び、六禮册立(りくれいさくりつ)の事を載せり。』と。又、『海國の千房、火齊の珠(しゆ)』(詩句)、『長流丹(ちやうりうたん)を服取(ふくしゆ)するに如(し)かず』(詩句)等の語、有り。又、王勃(わうぼつ)が「滕王閣(とうわうかく)の序」に『飛閣、流丹、下(しも)は無地に臨む。』の語、有り。此の「流丹」は朱閣を形容せる者、前(さ)きの流丹は仙丹のごときならんか。「浹藉」の熟字は、何れの書にも見當り申さず、「流丹浹藉」は美文の勢を形容せしには非ざるか。「火齊」は「珠」の名なるべし。「火齊、吐(は)かんと欲す。」は、或いは、「女陰(ぢよいん)」の形容位(ぐら)ゐ云々、高見(かうけん)遠からざる事と存じ候ふ。

   *

「佩文韻府」は清代の蔡升元らが康熙帝の勅を奉じて編纂した韻書。補遺である汪灝(おうこう)らの撰になる「韻府拾遺」と一緒に用いられる。前者が一七一一年、後者が一七二〇年の成立。「懿獻梁皇后」は先に注した梁女瑩(りょう じょえい 一四七年~一五九年)の諡(おくりな)。当該ウィキによれば、一四七年に『女瑩は』桓帝によって『皇后に立てられた』。『当初、女瑩は桓帝の寵愛を一身に受けた。しかし女瑩は尊貴をたのんで驕慢であり、奢侈濫費を重ねた上』、実兄『梁冀』(りょうき)『の専横が続いたため、桓帝は女瑩をも恐れはばかることになった』。先帝順帝の皇后であり、義理の姑である『梁太后(順烈皇后)が崩御した後、桓帝は他の妃嬪』(ひひん:女官)を『寵愛するようにな』り、『女瑩は嫉妬し、妊娠した妃嬪を』、皆、『死に追いやった』が、『結局、女瑩は桓帝の信頼も寵愛も失』い、『憂憤のうちに崩じた』とある。「六禮册立」「六禮」は結婚に際しての六種の礼。納采・問名・納吉・納徴・請期・親迎の称で、「册立」は勅命によって皇后・皇太子などを立てることを言う語。「海國の千房」意味不明。「海を渡った彼方の異国の一千室もある閨房」か? 「王勃」(六四七年~六七四年)は初唐の詩人。山西龍門の出身。六六六年に幽素科に及第、朝散郎を授けられ、沛王の府修撰(史書編纂官か)となったが、戯れに書いた文章が高宗の怒りに触れ、出府を止められ、四川の成都に流客となった。一度は虢(かく)州(河南省)の参軍となったものの、後に奴隷を殺した罪でで官吏の資格を奪われ、同じ事件に連座して交趾(こうし:現在のベトナム北部)の令に左遷された。父を訪問する途中、海に落ちて溺死した。才気に溢れた華麗な詩で当時の詩壇を圧倒し、楊烱(ようけい)らとともに「初唐の四傑」と称された。私も好きな詩人である。特にここに記された「滕王閣序」は有名で、正しくは「秋日登洪府滕王閣餞別序」(秋日、洪府滕王閣に登り、餞別するの序)である。全文は中文ウィキのこちらにある(なお、二〇〇九年十二月十七日附の『Record China』によると、「日本版」という七〇七年に書写されたものが、今まで知られていたものの疑義をクリアーしており、正しいとする記事があった)。個人サイト「古代文化研究所」の「王勃:滕王閣序・解②」で書き下し文と訳が読める。かなり難解なものらしく、当該箇所は、『滕王閣の上層へ登り、紅漆の回廊に立って』、『直下を見ようとするのだけれ』ど『も、大きな軒が広がり、見ることは出来ない。』と訳しておられる。『「火齊、吐(は)かんと欲す。」は、或いは、「女陰(ぢよいん)」の形容位(ぐら)ゐ』赤い宝玉を女性の「ほと」に擬えたということか。

「高見(かうけん)遠からざる事と存じ候ふ」「貴殿が高見なさるには、あまりに遠く隔たった愚見で御座ろうかとお恥ずかしく思います。」の意。

「熊楠按ずるに、女陰を朱門と呼ぶ事、唐の釋法琳の辨正論卷七に、佛經の譯人譯語の本名」(ほんみやう)「を存する事を言」(いひ)「て、非如朱門玉柱之讖陽父陰母之淫、註に、黃書云、開命門、抱眞人、嬰廻龍彪、載三五七九、天羅地網、開朱門進玉柱、陽思陰、母白加玉、陰思陽、父手摩捉也。朱門と、朱閣と、又それから流丹と關係ある事かとも思へど、丸で不案内の予の事故、ほんの宛て推量也。なほ昔し日本でも女陰を朱門といひしは、狩谷掖齋の箋注倭名類聚抄卷二、玉門の條に見えたり」「大蔵経データベース」で校合した。「釋法琳」(しやくほふりん)「の辨正論」(べんしやうろん)「辨正論」は唐の法琳(ほうりん 五七二年~六四〇年:唐代の僧。道教の排仏論に対抗し、仏教の護法に努めた。晩年は道士の讒言により四川省に配流された)の著。 高祖の武徳九(六二六)年年の撰。 外教(主として道教)の「邪」に対して、仏教の「正」なることを弁じた書。 親鸞は 「教行信証」の「化身土巻」に、その「十喩篇」・「九箴(くしん)篇」・「気為道本篇」・「出道偽謬篇」・「帰心有地篇」を引用している。以下、漢文部を訓読する。

   *

朱門・玉柱の讖(しん)、陽父・陰母の謠(うた)のごときに非(あら)ず。

   *

「黃書」に言はく、『命門(めいもん)を開き、眞人を抱く。龍彪(りうひやう)を嬰廻(えいくわい)し、三五七九(さんごしちく)を載せ、天羅地網にす。朱門を開き、玉柱を進む。陽は陰を思ひ、母白(ぼはく)は玉(ぎよく)を加へ、陰は陽を思ひ、父手(ほしゆ)は摩捉(まそく)す。』と。

   *

前者の「朱門・玉柱」は男女性器を指す。「讖」は未来の吉凶・運不運などを占い説くことで、ここは在来の陰陽五行説や「易経」による詠唱的解釈を否定している。後者の「黃書」は「仏典」のこと。紙魚(しみ)の害を防ぐため、黄膚(きわだ)を漉き入れた紙が仏典に多く用いられたことによる。「命門」中医学で男女の精力の源を指す。「眞人」老荘思想・道教に於いて人間の理想像とされる存在を指すが、それを方便として仏教に転用したもの。「龍彪」ここは「龍虎」に同じで、最強の獣。「嬰廻」周囲に巡らす。龍虎を以ってさえ守護させることであろう。「三五七九」最も力を持つ陽数。それを「載せ」る=「身に附帯させる」で、やはり陰陽説の方便転用であろう。「天羅地網にす」四柱推命などで言われるのは、「鋭い直観力や霊感的な資質を備えている状態にある」ことを言うが、要は、「如来の大慈悲によって一切の漏れがない完全な救いの状態」に転用したものであろう。「母白」不詳。女性性器か。「玉を加へ」女性性器の生き生きと運動することか。「父手」不詳。男性性器か。「摩捉」エレクトを言うか。]

 松岡氏の此答へを得ても、予には上に抄せる謝氏の文意一向分らず。因て知らざるを知らざるとして讀者諸君の敎へを乞う所也。然し此答書にて、漢事秘辛とは後漢の懿獻梁皇后被選及び六禮册立の事を述たる書物の名と云ふ事丈けは分れり。此書果して後漢の世、若くは其時を去る事遠からぬ世に成りし物にて、火齊は取りも直さず火齊珠の事ならんには、瑠璃を火齊と呼ぶは、隋唐以前既に有りし事と思はる。因て錄して大方の敎を俟つ。

[やぶちゃん注:どうだろうか? 前の引用のように、遙かに後の明の楊慎の作ともされるのは、明より前の書物に「漢事秘辛」のことが、いっかな、抜粋も引用もされていないことを意味するからだろう(幾ら猥褻描写があるとしても、誰も引用しないなどというこことは、かの中国では百二十%考えられない)から、強力な証明にはちょっとならないな、南方先生。]

2022/07/26

曲亭馬琴「兎園小説別集」下巻 高野大師色葉

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの「新燕石十種」第四では本篇はここから。吉川弘文館随筆大成版で、誤字と判断されるものや、句読点(私が添えたものも含む)などを修正した。これも「けんどん」争いで絶交した直後の美成の記録。]

 

   ○高野大師色葉【印本。】

尾張八事山興正寺諦忍の以呂波問辨に云、問、此いろ葉の宇體は、弘法大師の作と云事、慥なる證ありや。答、イカニモ、的證、在なり。雲州神門郡の神門寺に、大師眞跡の以呂波あり。最初、以呂波制作の時の筆にして、此寺の重寶なり。時の住持も一代に一度ならでは、封を發きて拜見せぬ作法なり。別に尊圓親王の寫も、一通、添て、在なり。至極、信なることなり。庭前に以呂波石と名づくる石も在なり。今、その眞跡を寫して見せしめんとて、大師眞跡のいろはの草本を載たり。美成、按ずるに、靑李庵漫錄中に載するもの、卽、是なり。しかれども、問辨に載する所のものは、末に數字あり。漫錄中のものは、數字なくして、空海の二字あり。おもふに、この空海の二字は、後人の所爲なるべし。さて、此大師眞跡のいろはは、かく、その傳來も正しく、且、今も現存のものにて、疑ふべきものにあらず。已に三國筆海全書に載せ、また、輪池翁、草刻の本もありけり。

[やぶちゃん注:以下は底本では全体が一字下げ。]

此大師いろはの事、又、假名世說に載たり。これも先のごとく、本文にいろはの事あるをもて、抄し、贈りしなり。

 文政八年乙酉仲夏    北峯山崎美成撰

[やぶちゃん注:「色葉」「いろは」。知られた平安時代の頃から親しまれた、所謂、「いろは歌」は、永く院政期以降、平安初期の弘法大師(空海宝亀五(七七四)年~承和二(八三五)年)の作とされてきた。但し、近年では、空海より後の時代に作られたという説が有力である。詳しくは当該ウィキを読まれたい。

「尾張八事山興正寺」「八事観音」(やごとかんのん)として親しまれている、愛知県名古屋市昭和区八事本町(やごとほんまち)にある高野山真言宗八事山遍照院興正寺(こうしょうじ:本尊は大日如来)。ここ(グーグル・マップ・データ。以下、指示なしは同じ)。

「諦忍」江戸中期の真言律宗僧諦忍妙龍(たいにんみょうりゅう 宝永二(一七〇五)年~天明六(一七八六)年)。美濃国出身で、八事山興正寺第五世。当該ウィキによれば、『諦忍には国学への関心があり』、「伊呂波問辨(いろはもんべん)」という『著書では神代文字』(じんだいもじ/かみよもじ)『が実在していたと主張』している。『この著書は』、『太宰春台や貝原益軒の非存在説に対して反駁したもので、「儒者の癖として日本に生まれながら中国を崇めるあまり、日本にはもともと文字がなかったと思いこんでいる」と難じている。また古い神社には「神字」の記録が残されているとして』、「平岡宮」(現在の大阪府東大阪市出雲井町(いずもちょう)にある枚岡神社が後身とする)と「泡輪宮」(不詳。一説に「泡」は「阿波」で金刀比羅宮とするようである)『を例として挙げる』。安永七(一七七八)年に『尾張国の僧で金龍敬雄という者が』、「駁(ばく)伊呂波問辨」を『書いて神字があるなら』、『見せてみよとせまるのに対して、同じ年に』、「神國神字辨論」を著わし、鎌倉の鶴岡八幡宮の『宝庫にあったという神代文字を謄写して掲げた。神代文字と称されるものが書物に載ったのはこれが初めてという』とある。注に、『鶴岡八幡宮を訪れた』神代文字の近代の研究者であった宮崎小八郎(?~昭和一九(一九四四)年)が鶴岡八幡宮の『宮司に面会し、秘蔵の神代文字を拝観したい旨を伝えると、宮司は「その神代文字というのは平田篤胤の本に書いているが、今日』、『当社には存在していない」と答え、無くなった理由も要領を得なかった』ともある。もともとなかったんでは? と勘繰りたくなるな。因みに私は昔も今も「神代文字」はいかがわしいナショナリズムに過ぎないと思っているし、学術的にも否定されている(当該ウィキなどを見られたい)。なお、同書は「早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらで、宝暦一四(一七六四)年の刊本が見られる。

「在なり」「あるなり」。

「雲州神門郡の神門寺」現在の島根県出雲市塩冶町にある天応山(てんのうざん)神門寺(かんどじ)。別名を「いろは寺」と呼ぶ。Life-Like氏のブログの「【旅の記:出雲&松江④天応山神門寺】」には、『空海作と有名な「いろは四十八文字」をここから広めたとかで』、『かな文字の直筆が収蔵されていて、「この世から文字が失われた時に掘り返してみよ」といって、裏に「いろは歌」を刻んだとされる、「弘法の石」ってのがあるらしい』とあった。

「尊圓親王」(永仁六(一二九八)年~正平一一(一三五六)年)は南北朝時代の書家で青蓮院第十七世門跡。伏見天皇第六皇子。世尊寺流の書を学んだ後、小野道風や藤原行成の書や、中国の書風をも取り入れて、青蓮院流を確立したことで知られる。

「靑李庵漫錄」「靑李庵」は「耽奇会」のメンバーに名前があり、「兎園飼会」でも三度、馬琴自身が客篇として彼のものを記している。その中の一つ、『「兎園小説」(正編) 花』で正体が判る。京の一条千本東に住む書家角鹿清蔵の号である。しかし、この随筆はネット検索では見当たらなかった。

「問辨に載する所のものは、末に數字あり」早稲田大学図書館「古典総合データベース」の単体画像のこれ。「一二三四五六七八九十百千万億」とある。なんだか、「なんでも鑑定団」みたようじゃな。

「三國筆海全書」真幸正心(まさきせいしん 慶長一三(一六〇八)年~延宝二(一六七四)年:江戸前期の書家。薩摩出身。名は忠次。書を以って常陸水戸藩に仕えた)が書いた書道書。慶安五(一六五二)年跋。

「輪池翁」馬琴の盟友屋代弘賢。]

曲亭馬琴「兎園小説別集」下巻 異年號辨

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの「新燕石十種」第四では本篇はここ。吉川弘文館随筆大成版で、誤字と判断されるものや、句読点(私が添えたものも含む)などを修正した。]

 

   ○異年號辨

西國三十三所巡社札【近江石山寺什物。京師角鹿氏の草本、耽奇漫錄中に載たり。】、

[やぶちゃん注:以下三行は囲み罫の内にある。]

  ――――――――――――――――――――

    甲州巨麻郡布施庄   小池圖書助

    西 國 三 十 三 所 巡 禮

    時彌勒二年丁卯吉日

  ――――――――――――――――――――

右石山寺巡社札は、已に穗積保の異年號考に載て云、文安四年の丁卯か、永祿十年の丁卯なるべし。圖書助といふ名、民間にはあるべからず。もしくは吉野の朝廷に仕奉りし人、流浪したるか。又足利の季世、天下大に亂れて、官家の人々諸國に緣をもとめて、流客となり給ひしこと多くありければ、京家の人の甲斐國に住したるならんか。永祿十年の丁卯ならば、武田家の侍の中に小池主計助【山縣衆。】、小池玄蕃など云人、甲陽軍鑑に見えたりといへり。美成按ずるに、此考、うけがたし。そのよしは彌勒二年丁卯は永正四年なり。その證を以ていはゞ、下總國小金本土寺過去帳に、日富彌勒元丙寅十一月十一日とあり。丙寅は永正三年なり。又甲斐國都留郡妙法寺舊記に、永正四年を彌勒二年としるしたり。此二書によりての案も、永祿にもあらざること分明なり。猶この外に、彌勒の年號記したるは、常陸國六段田村六地藏寺、惠繩諸草心車抄卷二の編首に、於田野不動院、玉幡之供養と題したる願文の末に、彌勒二年三月六日とありて、その次に、永正三年十一月の願文、同五年三月の諷誦文、同四年八月の願文等を載たれば、これも永正中の號なること知るべし。又享祿年中にも彌勒の號あり。陸奧國耶麻郡新宮の神器の銘に、會津新宮大勸進僧淨尊證一、地頭代左兵衞尉藤原知盛、小寺宮預り所代右兵衞少尉國村、彌勒元年辛卯二月二十二日とあり。これを會津舊事雜考に、承安元年辛卯とするは誤なり。享祿四年なり。さて此彌勒の號及この比なほ福德命祿等の號あり。これらみな關東にのみ行れて、關西にかつて記したるものあることを聞かず。その起る所を思ふに、當時兵革絕ずして、朝儀のあまねく行れざりし故にや。遠鄕僻地の法師などの所爲にて、かゝるよしなしごとを、みだりに作り設け、流傳せしものなるべし。

[やぶちゃん注:以下、最後まで、底本では全体が一字下げ。]

因に云、去年市行の假名世說といふ書は、もと蜀山翁の筆のすさみに記し置しを、門人文寶子の補ひて上梓せしなり。其書の予が序にも記しゝ如く、予が覺居たることも、くさぐさその料にとて記し贈れり。原本に此彌勒の年號のこといさゝかありければ、永正中にもさる號ありとて、予が僞年號の事、これかれ考しるし置たりしものを見せ侍りしに、やがて抄して補の料に充らるゝことに、未定の稿本といひ自記ならねば、思ひたらはぬことなきにあらねど、いかゞはせん。このひとくだりは、えうなき贅言なれど、已に上木の書なるをもてこゝにしるす。

[やぶちゃん注:「石山寺」(いしやまでら)は滋賀県大津市石山寺にある東寺真言宗大本山石光山(せっこうざん)石山寺(グーグル・マップ・データ。以下、指示なしは同じ)。西国三十三所第十三番札所。天平勝宝元(七四九)年に聖武天皇の勅願により、良弁(ろうべん)が開創。東大寺大仏の鋳造・荘厳(しょうごん)のため、諸国に黄金を求めた際、勅を受けた良弁が、この石山の地の岩の上に天皇御持仏であった如意輪観音像を安置して草庵を結んで祈願したところ、間も無く陸奥国からの黄金献上という奇瑞を得、この地に寺を開いたと伝える。

「角鹿氏」旧角鹿国(越前国の南部)を支配した角鹿国造がいるので、読みは「つぬが」或いは「つのが」か。而して、その末裔(を名乗る者)か。

「摹本」(もほん)。「模本」に同じ。写本・写し。

「耽奇漫錄中に載」(のせ)「たり」「兎園小説」と並行して、山崎美成(本篇を書いている時には馬琴は既に絶交している。絶交する前後の彼の考証をちゃんと載せているのは、考証家として節を守って、まことに律儀ではある)・屋代弘賢が中心なって同時的(会員も多く重複する)に行っていた、好古好事の者の会合「耽奇会」を開催し、持ち寄った古書画や古器財などの図を考説したもので、美成序・跋本の二十巻本の他、馬琴序の五巻本がある。文政七(一八二四)年から翌年にかけて成立。国立国会図書館デジタルコレクションの二十巻本を調べたところ、第十四集(文政八年乙酉(一八二五年)五月十三日発会)の目次では、「弥勒年号巡禮札」とあ「青李菴」の発表とする。但し、当該パート(三品を挙げる)本文末には「平安 角鹿青李菴藏」(但し、角鹿の附記に彼の友人が現地にあるそれを写したものとする)とある後に「著作堂客品」とある(「著作堂」は馬琴の別号。本「兎園小説」シリーズでは本名の「解(とく)」以外では、これを使う)ので、馬琴が角鹿氏に代わって発表したもので(だから「客品」と表示している。正編の「兎園小説」でもしばしばあった)、この巡礼札の写し自体(角鹿が再模写したものであろう)も馬琴が所持していることが判る。幸い、我々は国立国会図書館デジタルコレクションでカラー画像の二十巻を視認することが出来る。ここと、ここが当該部(本図が写しが縦に長いため、原本自体が札の下半分が貼り付け・折り込みとなっているため、開閉写真で二コマを食っている)である。それぞれの画像をダウン・ロードして、トリミング合成して一ページ分にしたものを以下に示す。

 

Tankimanrokuzu

 

[やぶちゃん注:キャプションは、標題が(カタカナをひらがなに代え、句読点を加えた)、

西国三拾三所巡禮札【木の厚さ、六、七分。表黒塗、裏は木地なり。○ノ所はくり方あり、金入也。文字、金。】。

とある。○印の箇所は丸く刻み(刳り抜きではなく、浅く上を彫ったものであろう)が入っていて、そこに金箔を張り込んであるというのであろう。以下札の上から下方へ、

(左)此間七分。

(中央右寄り)此所、ほり、くぼめたり。

(中央右)此間七分。

(見開き下方)

 甲刕巨麻郡布施庄 小池啚書助

西国三拾三所順礼※

 旹弥勒二年丁卯六月吉日

この「※」は御覧の通りの異体字(「晋」の六画目を外して下に「王」を接合した字)で表示出来ない。思うに、「札」の同義の訓の「票」の変字であろうかと思われる。「旹」は「時」は異体字。ちょっとびっくりなのは、「国」「順礼」であることである。次の丁に解説がある。一部に濁点を附した。図形が入る部分は国立国会図書館デジタルコレクションの画像からトリミングした。

   *

四十餘年前、天明年中、江州石山寺、本堂修復普請の時、堂に棟より、出たるなり。弥勒の年号、いかゞ。諸君、定めて考あるべし。しらまほしくてぞ侍れ。

 曲亭、按ずるに、上の

Horikomi

 彫くぼめたる處は、観音の像をほりて、

 別に附したるなり。或は、画像を貼ぜし

 なるべきを、その仏像は、うせて、跡の

 み殘れるなるならし。

   *

「甲州巨麻郡布施庄」ウィキの「布施荘」によれば、甲斐国巨麻郡(現在の山梨県中央市布施)付近に位置した布施荘(ふせのしょう)は、十一世紀成立した摂関家領の荘園名。詳しくはリンク先を読まれたい。

「小池圖書助」不詳。「圖書助(づしよのすけ/ふみのすけ)」は正式には図書寮の次官で、正六位下相当官。

「彌勒」無論、こんな年号はない。こういうものを「私年号」(しねんごう)或いは「異年号」「偽年号」「僭年号」「窃年号」等と呼ぶ。当該ウィキによれば、『紀年法として元号を用いた東アジアにおいて、安定した統治能力を確立した王朝が定めた元号(公年号)以外の年号を指す』。『主として当時の王朝に対する反乱勢力や批判勢力によって使用されたものが多く、使用期間は概して短い。日本では、正史には記載されていないものの、天皇が定めたものとして後世の史書に記載があったり、考古資料に使用例が見られたりする古代の年号を逸年号』『と呼び、これに含める場合がある。なお、「私年号」を当時の王朝に対する対抗的性格の薄いものと定義し、明確な覇者的意志をもって建てられる「偽年号」「僭(窃)年号」などとは区別する場合もある』とあり、以下の「日本の私年号」の「中世後期」の項に、『室町幕府による分権体制への移行は地方の自立化を促したが、一部勢力の間では』、『反幕意識を表明するために私年号が使用されたこともあった。具体的には』、「禁闕の変」(嘉吉三(一四四三)年九月二十三日の夜に京で起こった後花園天皇の禁闕(皇居内裏)への襲撃事件。南朝復興を唱える勢力が御所に乱入、三種の神器のうち天叢雲剣と璽(じ:八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま))の二つを奪い、比叡山へ逃れたが、二十六日までに鎮圧された。幕府は宝剣の奪還には成功したが、神璽はそのまま奪い去られ、十五年後の長禄二(一四五八)年にやっと戻っている)の『後に近畿南部の南朝遺臣』『が使用したという「天靖」「明応」』、「永享の乱」(永享一〇(一四三八)年に坂東で発生した戦乱。鎌倉公方足利持氏と関東管領上杉憲実の対立に端を発し、室町幕府六代将軍足利義教が持氏討伐を命じた戦い)で『敗死した鎌倉公方足利持氏の子』『成氏』(しげうじ)『を支持する人々が使用した「享正」「延徳」などが』、『その例である。ところが』、十五『世紀末以降の戦国期に発生した私年号は、依然として戦国大名の抗争の中にありながら、従来の私年号とは性格を大きく異にしていることが指摘できる。すなわち、「福徳」「弥勒」』(☜)『「宝寿」「命禄」などは、弥勒や福神の信仰に頼って天災・飢饉などの災厄から逃れようとする願望の所産であって、単なる政治的な不満と反抗を理由に公年号の使用を拒否していた訳ではない。しかも、これらの私年号の多くは甲斐国(山梨県)から発生し』(☜)、『寺社巡礼の流行に乗じて中部地方・東北地方に伝播したとみられ、現在東国の広い地域に残る板碑・過去帳・巡礼札』(☜)『などの中にその実例を確認し得る。こうした事態の背景には、幕府と鎌倉公方との対立による改元伝達ルートの乱れや途絶があったに相違なく、その意味において、広範囲に通用した私年号は中世後期東国の歴史的所産と呼べるものであろう』とある。

「丁卯」「ていばう(ていぼう)」或いは「ひのとう」。

「穗積保の異年號考」穗積保(ほづみたもつ 延享元(一七四四)年~文化九(一八一二)年)は江戸中・後期の越後高田藩士で国学者であった鈴木一保(かずやす)の筆名。有職故実・本草学などに精通し、後に江戸詰家老となり、かの蘭学者大槻玄沢らと交わった。「頸城郡古物図考」のほか、「熊胆真偽弁」等を著した。彼の「異年號考」は文化元(一八〇四)年の序に、同五年の跋を持つ。「日文研」の「古事類苑データベース」の「歳時部四」の「年號下」の「逸年號」(第 一 巻三百六十九頁)のこちらの電子化にある。「逸年號考」というのは「増補逸号年表」(藤貞幹纂・中山信名補)で後代にこうした私年号を集成したもの(早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこれ)。後に続く「僞年號考」(前と同じもの)とともに以下に引く。正字不全があるので、原本画像を見て修正した。記号も一部を訂した。

   *

〔逸年號考〕

彌勒二年丁卯〈下總國野田里土中所堀出尼妙心墓碑銘、近江國石山寺順禮版、甲斐妙法寺記、〉順禮版に、甲州巨摩郡布施庄小池圖書助、西國卅三所順禮聖山旨、彌勒二年丁卯六月吉日〈此札は銅の板に彫付たるものにして、石山密藏院僧正摹搨して所ㇾ賜なり、此外に明應天文年中の札若干枚ありとぞ、〉とあり、穗積保云、前條に記せる彌勒元年辛卯と、此二年丁卯と支干相違したれば、同時にてはあるべからず、文安四年の丁卯か、永祿十年の丁卯なるべし、圖書助と云名民間にはあるべからず、もしくは吉野の朝廷に仕奉し人の流浪なしたるか、又は足利の季世は天下大に亂れて、官家の人々諸國に緣を求め流客となり玉ひし事多くありければ、若くは京家の人の甲斐國に住したるならんか、永祿十年の丁卯ならば、武田家の侍の中に小池主計助〈山縣衆〉小池玄蕃など云人あり、〈甲陽軍鑑にみえたり〉此氏族の中にて隱遁したる人にもあらんか、或人云、關東邊の古刹過去帳に、彌勒の年號ありと云ふ、寺號詳ならず、追て尋糺すべし、參河萬歲の詞に、彌勒十年酉の年と云事を歌ふと聞り、これらも何ぞ據あるべし、後考を俟と云り、

 

〔僞年號考〕

常陸國六段田村六地藏寺惠範諸草心車鈔卷二の篇、是に於田野不動院玉幡之供卷と題せる願文の末に、彌勒○○二年二月六日とあり、永正三年十一月の願文、同五年三月の諷誦文、同四年八月の願文等を載たり、因て永正中にこの號ありしをしれり、さて永正の何年にこの號ありしと考るに、本土寺過去帳に、日富彌勒元丙寅十一月とあり、丙寅は永正三年也、さらば是年始めてこの號ありて、四年丁卯まで彌勒の號ありしと見へたり、一說に、丁卯元年に作るものあり、本土寺過去帳に、妙春彌勒元丁卯十一月とあり、自相齟齬せり、恐らくは是にあらず、こヽの元丁卯は二丁卯の誤と見えたり、鹿島の社家禰宜が家にも、彌勒の號を用ひたる神符ありし由なれど、近年燒失せしと言へり、又今の世に萬歲丸が、美祿十年辰の歲と言へる事をうたへるは、陰陽者流の說に出たる物にて、こヽの彌勒と音同じけれども、其義は同じからず、會津舊事雜考に、耶麻郡新宮の神符の銘二ッを載す、其一に、會津新宮大勸進僧淨尊證一、地頭代左兵衞少尉荻原知成、〈◯成、本書作ㇾ盛、〉小寺宮預所代右兵衞少尉平國村、彌勒元辛卯二月二十二日とあり、其二に、大勸進僧淨尊、橫三郞、壬生廣末、會津新宮、彌勒元辛卯二月廿二日とありて、辛卯は享祿四年也、永正中彌勒の號ありしを、こゝに至りて更にその號を用ひしものと見ゆれど、この度は廣く行はれざりしにや、他書に於て見る所なし、

             

「文安四年の丁卯」一四四七年。天皇は後花園天皇、室町幕府将軍は空位。

「永祿十年の丁卯」一五六七年。天皇は正親町天皇、室町幕府将軍は足利義昭。

「流客」「りゆうかく」と読んでおく。志し半ばにして流浪の身となった人。

「山縣衆」山縣昌景(やまがたまさかげ 永正一二(一五一五)年又は享禄二(一五二九)年~天正三(一五七五)年:戦国から安土桃山にかけての甲斐武田氏の家臣で、譜代家老衆。後代には「武田四天王」の一人に数えられる)を始祖とする家臣団。

「小池玄蕃」詳細事績不詳。

「甲陽軍鑑」江戸初期に集成された軍学書。全二十巻。甲斐の武田晴信・勝頼二代の事績によって、甲州流軍法や武士道を説いたもの。異本が多く、作者は諸説あるが、武田家の老臣高坂弾正昌信の遺記を元に、春日惣二郎・小幡下野(おばたしもつけ)が書き継ぎ、小幡景憲が集大成したと見られている。現存する最古の板本は明暦二(一六五六)年のもの。

「永正四年」一五〇七年。天皇は後柏原天皇、室町幕府将軍は足利義澄。

「下總國小金本土寺」千葉県松戸市平賀にある日蓮宗長谷山(ちょうこくざん)本土寺(ほんどじ)。

「日富」「ひとみ」で姓か。

「丙寅」「ひのえとら」或いは「へいいん」。

「甲斐國都留郡妙法寺舊記」「妙法寺」は現在の山梨県南都留郡富士河口湖町(ふじかわぐちこまち)小立(こだち)にある法華宗本門流蓮華山妙法寺にあるの寺院。戦国時代の記録である「妙法寺記」(別名「勝山記」(かつやまき)。甲斐国の河口湖地方を中心とした富士山北麓地域の年代記。詳しくは当該ウィキを参照されたい)で知られ、これもそれと考えてよい。

「案」「あん」と読むしかない。考えること。

「常陸國六段田村六地藏寺」現在の茨城県水戸市六反田町(ろくたんだよう)にある真言宗豊山派倶胝密山聖寶院六地蔵寺(ぐていみつざんしょうほういんろくじぞうじ)。 古くから安産・子育ての霊場として知られ、「水戸大師」とも呼ばれる古刹。

「惠範」「諸草心車抄」同寺の公式サイト内のこちらに、室町後期の六地蔵寺第三世『恵範上人が西国の諸大寺へ遊学し、経典の収集・書写に努めた事により、本寺は檀林となり、多くの著名な学僧・修行僧を輩出』したとあり、「J-Stage」のこちらにある中野達慧氏の論文「江都督願文集と惠範大徳の學系に就て」(『密教研究』一九三〇年第三七号)に、彼は明応六年三十六歳の時に「倶舎論頌疏心車抄」十七巻(此内五巻だけは万治三(一六六〇)年九月に板行している。第四代将軍徳川家綱の治世)を、天文元(一七三六)年(吉宗の治世)七十一歳で同「心車再記」五巻を著わしたほか、「論名目心車」・「倶舎六十四轉劫」等が現存しているとあるので、これは、「倶舎論」の論考書であることが判る。

「於田野不動院、玉幡之供養」「田野の不動院に於いて、玉幡の供養す。」。この「不動院」現在の水戸市田野町(たのちょう)本郷屋敷にある真言宗豊山派の不動院。但し、現在は不動尊堂があるだけで、共同墓地のようである。「玉幡」は「ぎよくばん」で、宝玉で装飾した幡(はた:旗)。

「諷誦文」「ふじゅもん」或いは「ふうじゅもん」で、死者の追善供養のために「三宝衆僧に布施する」の意や、「施物のことや、その趣旨などを記して捧げる文章。施主の代わりに僧が代わって読むもので、法会の導師が読むのを例とした。平安時代以来の風習。

「享祿年中」一五二八年から一五三二年まで。天皇は後奈良天皇、室町幕府将軍は足利義晴。

「陸奧國耶麻郡新宮」地名。現在の福島県喜多方市慶徳町(けいとくまち)新宮(しんぐう)。会津盆地の北西部に位置し、南北朝から室町にかけて耶麻(やま)郡新宮荘を支配した新宮氏の城館跡。会津領有を命じられた佐原十郎義連の孫で、新宮六郎左衛門時連が築いたとされる。ここには新宮熊野神社があり、この神社は天喜三(一〇五五)年に陸奥守であった源頼義が勧請したとされる、平安末期に建てられた寝殿造で、その長床(ながどこ:拝殿の固有名)は国重要文化財に指定されている。

「淨尊證一」不詳だが、先の引用した「僞年號考」に以下が出る。以下の二人も不詳。

「會津舊事雜考」会津藩初代藩主で徳川家康の孫である保科正之の命で、漢学者・歴史家で、保科家陪臣の向井吉重(寛永三(一六二六)年~元禄七(一六九四)年編した会津史料。寛文一二(一六七三)年六月に成立(この年の十二月に正之は没している)。

「承安」(じやうあん)「元年辛卯」一一七一年。天皇は高倉天皇だが、この年に平清盛の娘徳子が後白河法皇の猶子となって入内しており、実質的に清盛の全盛期である。

 

「享祿四年」一五三一年。

「この比」「このころ」。

「福德」室町時代に関東を中心とする東日本で主に使用された私年号。一四九〇年を元年とする史料が多いが、一四八九年・一四九一年・一四九二年を元年とする史料も存在している(当該ウィキに拠った)。

「命祿」平凡社「世界大百科事典」の「異年号」には「命禄」に西暦一五四〇年を当てている。天文九年で、天皇は後奈良天皇。室町幕府将軍は足利義晴。

「去年市行の假名世說」(かなせせつ)は馬琴の言うように、大田蜀山人南畝(文政六(一八二三)年没)の随筆。文政八年に次に注した文宝亭文宝が補輯して板行した。従って、この最後の馬琴の記事は文政九(一八二六)年に記されていることが判る。

「門人文寶子」(ぶんぽうし)は狂歌師文宝亭文宝(ぶんぽうていぶんぽう 明和五(一七六八)年~文政一二(一八二九)年)。江戸飯田町の茶商。大田南畝に書と狂歌を学び、二代目蜀山人を名乗った。「兎園会」会員の常連で、馬琴とも親しかった。

「原本に此彌勒の年號のこといさゝかあり」「日本古典籍ビューア」のここで原本の当該部が読める(頭書の右丁の方の「言語補」の条)。以下に起こす。句読点は所持する吉川弘文館随筆大成版を参考にした。

   *

永正中に、弥勒の号あり。凡て、二年を經たり。常陸國六段田村六地藏寺惠範が、諸草心車抄卷二の篇首に於田野不動院玉幡之供養と題せる願文の末に、彌勒二年三月六日とあり。其次に永正三年十一月の願文、同五年三月の願文の諷誦文、同四年八月の願文等を載たり。よつて永正中に此号有しをしれり。さて、永正の何年にて号ありしと考るに、本土寺過去帳に、日冨弥勒元丙寅十一月十一日とあり。丙寅は永正三年なり。さらば、このとし、始て此号ありて、四年丁卯まで、弥勒の号ありしと見えたり。自相[やぶちゃん注:「おのづからあひ」。]齟齬せり。恐らくは是にあらず。こゝの丁卯は、二丁卯の誤とみえたり。鹿嶋の社家、枝家、禰宜が家にも、弥勒の号を用ひたる神符ありし由なれど、近年燒失せしといへり。又今の世に、万歳が美祿十年辰の年といへることをうたへるも、これらの事を考れば、其出所なきにしもあらず。されども、万歳のうたへるは、陰陽家の說より出たるものなるべし。

   *

「思ひたらはぬことなきにあらねど」満足出来ない部分がないわけではないが。]

ブログ・アクセス1,780,000アクセス突破記念 梅崎春生 黒い花

 

[やぶちゃん注:本篇は昭和二五(一九五〇)年二月号『小説新潮』に初出し、後の作品集『拐帯者』(同年十一月・月曜書房刊)に所収された。

 底本は「梅崎春生全集」第三巻(昭和五九(一九八四)年六月沖積舎刊)に拠った。文中に注を添えた。太字は底本では傍点「﹅」。

 標題の添え辞の「上申書」は現行の裁判に於いて、裁判所や捜査機関などに対し、法律上の手続によらずに申立や報告を行う書面を言う。

 本篇は添え辞で判る通り、全編が「鷹野マリ子」一人称の裁判長に対して提出した上申書という形式で書かれている点で、梅崎春生の小説でも女性主人公の一方的な告白文という特異点であり、深い陰翳に終始する点でも、変わった作品である。

 なお、本テクストは2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが本日、つい先ほど、1,780,000アクセスを突破した記念として公開する。【藪野直史】]

 

   黒 い 花

    (未決囚鷹野マリ子より裁判長への上申書)

 

 今かんがえると、戦時中挺身隊に行ってた時の方が、今よりも、もっともっと幸福だったような気がする。私は学徒として、その頃被服廠(ひふくしょう)の分工場に通っていたのです。そこでは、特攻隊の人々の外被(がいひ)を縫うのが、私たちの仕事だった。設備も不完全だったし、坐りきりなので、健康にもいいとは思えませんでしたけれど、まだ私たちの心には張りがあった。意義がある仕事をやっている、そんな気持でいっぱいでした。

 もちろん私は子供だったし、何も知らなかったんです。みんなで力を合わせて、この戦争に勝てば、すぐ絶大の幸福が自分にも来るのだと、ぼんやりそう考えていたのです。校長先生もそう言って、私たちを送り出したし、工場の主任さんもそう言って、私たちを励ましたんです。無条件で私たちはそれを信じた。

 私たちは競争で、外被縫いにいそしんだ。縫い上げたこれらの外被を、若い人たちが着る時は、もうその人たちは強制的に死ななければならないのだ、そんなことには私たちはあまり気がっかなかった。一所懸命に外被を縫うことが、すべての人々を幸福にし、また、自分を幸福にするのだと、本気で思っていたんです。わけもわからずに。思えば何という惨めな、残酷なことでしょう。

 しかし三月十日の空襲で、学校も工場も家も、全部焼けてしまった。私は煙の中を、父と母といっしょに逃げた。ほとんど着のみ着のままです。やっと危険地区から脱出して、道ばたに休んでいたとき、私は自分の体の異常に気がついた。私は晩熟で、それが初潮だったのです。友達などから教えられて、そんな知識もないではなかったが、場合が場合だから、気が顚倒(てんとう)して、どうしていいのか判らなかった。道ばたの石の角材に腰をおろして私はぼんやりしていた。

 母がそれを見つけたのです。その時の母の顔を、私は決して忘れない。軽べつとも違う、嘲笑ともちがう、異様なつめたい笑いを頰にうかべて、母は言った。

「まあ。なんてこの子は、バカな子だろう」

 私は氷の穴の底に落ちてゆくような気がした。背筋がつめたく冷えてきて、我慢しようとしても、身体がガタガタと嘸えた。そのくせ私は、痴呆みたいな薄笑いを、顔にうかべていたのです。すると母の声が飛んできた。

「ニタニタするのは、お止し!」

 着ていたものの片袖を裂いて、私は手当てをした。手当てしようとする母の手を、頑強にしりぞけて、私は自分で手当てをした。眼を吊り上げたような母の顔を、私は今でも思い出せる。

 私の母は、継母(ままはは)でした。私が六つ位の時に来たのです。母は子宮が悪くて、子供は出来なかった。だから言わば私に、かかりきりのような形になっていました。幼い時から私が花柳流の踊りを習ったのも、その頃の母の趣味だったのです。でも私も、踊りは大好きだった。――ところが小学校の五年のとき、私が学校の成績がすこし落ちると、それを理由に、母はさっさと私に踊りを止めさせてしまった。成績が悪くなったと言っても、ほんの一寸なのです。その頃から私は、母にある感じをぼんやり持つようになっていた。胸の奥の奥の、気がつかない深いところでは、それ以前から持ってたのかも知れませんけれど。

 私たちは本郷にある遠縁の家に、落ちつくことになりました。分工場は焼けたので、こんどは下町方面のある郵便局に働きに行くことになった。同級の人たちで、四人、あの夜行方不明になっていた。四人とも、炎上した地区の人達です。その一人は、二三日して、小さな池の中で死骸が見つかったそうです。お母さんらしい死骸から、抱きしめられるようにして、池の中に沈んでいたのだそうです。それを聞いたとき、熱いお湯みたいなものが眼玉の奥を走るような気がした。

 郵便局の仕事は、郵便物の整理だった。一週間のうち学校ヘ一日出るだけで、あとの五日はこの仕事。だから学生と言っても、ほとんど勉強する時間はなかった。でも私たちは一所懸命でした。

 そしていきなり、終戦です。日のかんかん当る空地に整列して、私はラジオを聞きました。私は涙がむちゃくちゃに流れて、とめどがなかった。悲しいとか、嬉しいとか、口惜しいとかいう、はっきりした気持ではなかった。涙というよりも、身体の中のものが溶けて、それが瞼から流れ出るような気がした。――そして私は、大人を憎んだ。心の奥底から。

 と言うのは、それから二三時間後です。私は裏の倉庫で、ひとりぼんやりしていたのです。そこへ局の主任さん(私たちはそう呼んでいたのです)がやってきて、私にひどい悪戯(いたずら)をしかけようとしたのです。チョビ髭を立てた、赤黒い顔の男です。いつも鹿爪らしく私たちに、もっともらしい訓示をしていたこの男が、厭らしく力んだような顔を、いきなり私に寄せてくるのです。私はびっくりして、気がちがいそうになった。モンペの紐が音立てて千切れた。私は無我夢中で、そばに落ちていた硝子の破片を拾い上げた。自殺するつもりだったのです。すると男は、あわてて手を離して、冗談だよ、本気にするなよと言いながら、表へ出て行った。私は身体は汚されなかった。しかし心にどろどろの汚物をかけられたような気がした。男の大人ってあんな気持に平気でなれるのでしょうか。二三時間前お国がこんなになったというのに。私には判らない。それだったら、私は死んだ方がいい。裁判長さま。貴方も大人だから、この男の気持も、お判りでしょうね。

 しかしこの出来事は、私は誰にも話さなかった。友達にも、まして父母にも。

 挺身隊はそれで終り、また学校に通うようになった。その年の末、父の工面で、バラックながら小さな住居と、それに棟つづきの工場が建った。父の商売は木ネジの製造で、通いの職工も四五人いました。父は近所でも、やり手だという評判でした。

 仕事が忙しいせいか、性格からか、父はお酒飲みでした。しかしお酒飲んだときの父の顔は、私はあまり好きではなかった。ひどくだらしなくなる方だったから。

 翌年の十月、私は女学校を卒業した。成績は二番でした。勉強が好きでもあったのです。しかし本当は、いい加減な成績をとって、母からつめたい眼で見られるのが、口惜しかったのです。母は成績にはうるさかった。

 そのくせ母は、私がいい成績をとっても、決して表だって喜びはしなかった。ふん、と鼻でうなずくだけだった。成績が少しでも落ちると叱りつけたり、つめたい皮肉を言ったりした。時には、私を生んだ実母の名を出したりして。

 母は私の生母を、憎んでいたのではないかしら。しかし母は生母に逢ったことはないのだから、女になった私を通して、私の中にいる生母を憎んだのでしょう。それに違いありません。

 私が大切にそっとしまっていた生母の写真が、ふと見えなくなったのも、その頃でした。そしてそれは、小さく千切られて、風呂の焚口に捨てられてありました。

 家にいて、配給を取りに行ったり、台所の手伝いをする生活が、だんだん重く、憂鬱になってきました。元の学校の友だちが、上の学校やおつとめに通っているのを見て、私は自分が惨めで、たまらない気がしました。私は暇をつくっては、浅草の常盤座(ときわざ)や松竹座へ少女歌劇を見に行った。もともと踊りは大好きだったし、そのひとときだけ、その世界に溺れちれるのが、私には強い魅力だった。[やぶちゃん注:「常盤座」。浅草公園六区初の劇場で、明治二〇(一八八七)年開業。「浅草オペラ」発祥の、また、古川ロッパ・徳川夢声らの軽演劇劇団「笑の王国」の旗揚げ公演の舞台として、戦後は昭和二三(一九四八)年に日本で初めて踊りを演出したストリップ・ショーを開催、浅草六区のストリップ興行の嚆矢ともなった。一九九一年の末、再開発のために閉鎖され、現存しない。

舞台として知られる。「松竹座」「浅草松竹座」。同じ六区にあった劇場。昭和三(一九二八)年八月開業。「国際劇場」(昭和一二(一九三七)年開業・昭和五七(一九八二)年閉鎖)が出来るまでは「SKD」(「松竹歌劇団」)のホーム・グラウンドとして知られた。映画の他に実演や演劇興行なども行ったが、昭和三八(一九六三)年五月に閉鎖された。]

 翌年の三月から、やっとのことで、私は山手のある洋裁学校に通うことになりました。こうなるにも、一騒動あったのです。父に談判して、もし行かして呉れなければ、自殺するとまで言ったのです。定期的な生理変化のために、その日は私の気持はあらくれて、兇暴になっていたのです。私の生理は、人より長くて、ひどかった。むしろ病的だった。(しかしそれを母に知られるのを、私は極度におそれていた)結局、父は許してくれた。母は父の言に反対しないたちだったから、黙っていました。こういう事になるについても、私は自分の生理期間のあらくれた気分を、利用する下心がなかったとは言えません。こういう気持の時でなくては言えないと、胸の奥底ではっきりそう感じ、それをけしかける気持にさえなっていたのですから。

 こうして私は毎日、洋裁に通うことになりました。二十二年の三月のことです。生活の変化が、とにかく私を元気づけてくれた。大勢の中に自分がいること、それが私には愉しいことに思われました。

 この学校には、洋裁の他に、ダンス科というのがありました。若い女性の社交に必要だというたて前からだそうです。四月頃、友達に誘われるまま、私はその科に入った。そして私はまたたく間に、それに夢中になって行った。

 私は上達が早かった。日本舞踊の素養があったせいもあるでしょうが、踊るということが本当に好きだったからです。踊ってる間は、何もかも忘れることが出来たから。忘れてその世界に没入出来たから。――一箇月経たないうちに、私は一通りステップが踏めるようになった。

 その私をダンスホールに誘ったのは、上級生の人でした。永木明子という人です。こうして私は、銀座のメリイゴールドヘ行くようになった。学校の粗末な教室で踊るのでも楽しかったのに、ここの床は磨いたようになめらかだし、立派なバンドさえあって、まるで夢の国のようだった。

 ホールの入場料は、一人百二十円で、同伴は二百四十円でした。私は縫紙代とか糸代とか言って、父をだまして金を貰った。私がせびると、父は細かい事は聞かずに、面倒くさそうに大きな札入れから金を出した。洋裁課程の進行状態すら、訊ねようとしなかった。訊ねて呉れれば、いろいろ答える気持は私にあったのに。金を呉れると、私と向き合っている時間も惜しいように、また工場の方に出かけて行ったりするのでした。[やぶちゃん注:「縫紙」辞書にない熟語だが、生地を裁断する前に置く型紙のことであろう。「ぬいがみ」と訓じておく。]

 午前中は学校でお講義だけ聞き、午後は明子さんに連れられて、毎日のようにホールにかよった。初めは私は、明子さんとばかり踊っていた。しかしその中[やぶちゃん注:「うち」。]に、方々の大学のダンスグループの人達と、顔見知りになってきた。毎日行ってるから、自然そうなってしまうのです。そしてその人達とも踊るようになった。大学のパーティの入場券なども、絶えず貰うようになった。六月頃には、メリイゴールドでは、お金を出さずに、ホールのボーイさんにそっと入れて貰える位になった。

 明子さんが私を憎んでいると感じたのも、その頃からでした。私のダンス熱をあおったのは、いわば明子さんなのに、私がホールで他の人と踊っていると、いやな顔をするのです。自分もときどき大学生と踊るくせに、私が踊ると、厭味を言ったり皮肉を言ったりする。明子さんは頰骨が高く、頰にはそばかすがありました。スタイルは良かったけれども綺麗(きれい)な顔ではなかった。男の人たちは、かげで明子さんを「ジラフ」と呼んでいました。

 明子さんは私より、ずっと年上だった。高慢なところがあるので、学校ではあまり好かれていませんでした。しかし私には、初めからやさしかった。学科の方の手伝いをして呉れたり、物を買って私に呉れたりした。私は明子さんに、別段どうという感じはなかった。私にやさしくなければ、むしろ嫌いな部類の人だったかも知れません。年長だから、従っていたに過ぎませんでした。しかし明子さんは、私を従えて、いい気になっていたところもあった。メリイゴールドヘ私を連れて行ったのも、そんな気持からだったに違いありません。

 ホールでそんな具合になった頃から、明子さんの親切は、へんに粘っこく、執拗(しつよう)になってきました。一緒に踊るときも、頰を必要以上にくっつけてきたり、私の腕をひどくしめつけて、私が痛がるのを気持好さそうに眺めたりした。私はだんだん、明子さんと踊るのが厭になってきた。三度に一度は、断るようにさえなった。明子さんには枯草のような体臭がありました。その臭いも、私は厭に思えた。母にそれに似た体臭があったからです。石女(うまずめ)の私の継母にも。

 明子さんが私の母に、匿名の手紙を書いたのも、その頃だったのでしょう。その頃私と明子さんの間は、変にしらけて、また幾分険しくなっていた。何でもない友達の間柄でいたいのに、明子さんは私に、とかく粘ったからまりをつけて来ようとする。私はそれをいやがった。ある夜のことでした。ホールの帰りに私は明子さんから、人民広場に誘われた。話があると言うのです。もう時刻も、暗くなっていました。[やぶちゃん注:「人民広場」皇居前広場の異称。戦後の一時期、左翼勢力から、かく呼ばれた。]

 私のことを、堕落してるとしきりに責めるのです。私は承服しなかった。男と踊るのが好きなのではなく、ただ踊るのが好きなんだ。そう言って抗弁したのです。それは事実でした。私はその頃、早くダンスが上達して、将来ダンス教師として独立したいとか、この道を生かして少女歌劇に入りたいなどと、本気で夢想していたのです。自分の好きな道で独立して、家庭から離れることが出来たら、どんなにかいいだろう。そう思っていた。

 しかし明子さんはきかなかった。しつこく言いつのった。言いつのることで、自分の内部のものを、燃え立たせようとするかのように。そしてそれが最高潮に達したとき、明子さんは獣みたいな眼付になって、いきなり私の身体にかぶさってきた。そしてうめくように言った。濡れた頰が、私の頰に押しつけられた。

「お前は、うつくしい。お前は……」

 お前、という言葉を使った。私はもう子供じゃなかったから、あの郵使局の時のように錯乱はしなかった。しかしいきなり自殺したくなるような、たまらない嫌悪感と屈辱感はあった。私は声を立てずにもがいた。彼女の枯草のような体臭が、はっきり臭いを強めてきた。女が発情すると、休臭が強くなるものだと、私はその時初めて知った。私は顔をそむけて、彼女を押しのけようとした。しかし彼女の力は強かった。

 彼女の指が下着をわけ、私の肌にとどいたとき、私の心は嫌悪でまっくろになり、生きている人間全部を強く呪い憎む気持になった。彼女のその行為を支えるものが、人間同士の愛情ではなく、むしろ動物間の憎しみみたいなものであるように、私は感じたのです。人間の奥の奥底に、どろどろに淀みうごめくもの。自分を満たし、充足させるためには、他を卑しめ、おとしめ、傷つける。ほとんど憎しみと言っていい暗い衝動。ましてこれは、女同士でした。その感じは、直接で、きわめて露骨でした。私は芝生へ押えつけられたまま、烈しくあえいだ。海水浴で溺れかかった時のように、それよりももっと苦しかった。―-そしてやがて私は、全身の力ではねのけると、脚で彼女の顔を蹴った。靴のままで力をこめて、二度も三度も。

 そして私は、汗とも涙ともつかぬものを、顔いっぱいに流しながら、燈のある方面へ駆(か)け走った。

 つまり私は無知だったのです。彼女がそういう目的で私に近づき、親切にしたということも、私は悟らなかった。ましてあちこちの洋裁学校には、そういう趣味の人がいて、洋裁もそっちのけにして、次々相手を物色していることも。そしてそういう慾望をそそるような顔貌や姿態を、私が持っているということも。女同土の頰ずりなども、単に友愛のしるしだと考えて、明子との場合も、気持の抵抗を私は打消していたのでした。そしていきなり、この夜の出来事です。明子にしてみれば、すべては熟したと錯覚したのでしょう。しかし明子の行為や仕草は、私の胸にいきなりどろどろの嫌悪を植えつけてしまった。――しかしそれにも拘らず、明子の不潔な指の動きは、ほんの一瞬ではあったが、私の胸の嫌悪と屈辱から、肉体の感覚をとつぜん裏切らせていた。これは書いておかねばならぬ。私の肌はわずか濡れた。――それを知覚した瞬間に私は彼女の顔を蹴り上げていたのです。必死の力をこめて。

 私はその夜床に入って、長いこと眠れなかった。むこうの部屋に父母が寝て、こちらに私は一人寝るのです。私は私を女の身体に産んだ父と生母のことを思い、今父に添寝する継母のことを思った。さまざまな強く烈しい感じで。また郵便局の主任の顔や、初潮の時の継母の顔を思い出した。考えて見ると、あの陰惨な煙や火焰や、溺れて水ぶくれした屍や、赤剝けして男女の別もない屍がごろごろ転がっている状況の中で、私が初めて、女になったということは、なんと暗くかなしいことだったでしょう。わめき出したいような気持をこらえて、私はいつまでも眼を見開いていた。そして私は、お前は美しいと言った明子のうめき声すら、ちらちらと思い出していたのです。倉庫で乱暴しようとした郵便局の主任も、それと同じようなことを言ったことなども。

 翌日から、私は明子さんと口さえきかなかった。明子さんは顔に擦り傷をこさえていた。彼女は私を見ると、さげすむような冷たい黙殺の仕方をした。かげでは私を中傷して歩いていたのです。学校の仲間や、ホールの人たちにも。淫乱な女だと言うのです。ホールである大学生と踊っていると、あまり変な踊り方をするので、私がなじると、その大学生はいやな笑い方をしながら、下品な口調でこう言った。

「こんな踊りが、君は好きだってえじゃねえか。ジラフがそう言ったぜ」

 母に匿名の手紙を書いたのも、明子さんに違いありません。私はそれを火鉢の引出しから見つけ出したのです。ずいぶんひどいことが書いてあった。ホールに通ってることは勿論、男に見境いなく身体を許すとか、そんなことまで書いてあった。私が慄然としたのはその手紙の内容でもなく、それを書いた明子さんの気持でもなかった。この手紙を読んで、しかも母がつめたく黙っているということでした。

 母は近頃、あまり私にかまわなくなっていた。やって呉れねば自殺すると言って、やっと洋裁に通い出したその頃からです。生理期間の私のヒステリー性を、あるいは母は見抜き、すこしおそれていたのかも知れません。それ以後は、私の動きや変化を、つめたく見守る態度に出ていました。私の直接的な反撥の機会を、母はこの意地悪い方法で封じているようでした。

 その手紙を盗んで、私は便所でそっと焼きすてた。家の中にこんな手紙があることが、私にはたまらない気がしたのです。たとい母に知れようとも。手紙に火を点けながら、私が本当に堕落するのを、母はむしろ待望しているのではないかと、私はふっと考えた。安心して生きて行ける場所が、世界中どこにもない。そういう思いが、私の胸に荒涼とひろがった。やがて私は痴呆みたいな笑いを浮べて、便所を出てきた。

 学校もあまり面白くなくなった。学科も遅れるし、親しい友達とも隔てが出来てきた。ホールには相変らずかよっていました。時間をつぶすためにも、自分を忘れるためにも、好都合な場所だったからです。しかしホールでも、古くからの友達は皆、私から離れるようになった。永木明子の中傷が、そこにも行き渡っていたのです。人間というものは、自分も悪党のくせに、他人の悪なら少しでも許容しないもののようでした。

 他人の悪を卑しめ批難することで、自分の悪を正当化し合理化しようとするのです。だから人間は自分の生活の周囲に、神様への申し訳にささげるいけにえの小羊を、かならず一匹用意し、設定しているものなのです。彼等にとって、この私は、頃あいの小羊でした。なまじ少しばかり学間して、教養をつけたとうぬぼれている人々も、皆例外なく、このような無自覚なエゴイストでした。中傷家はその心理をよく知り抜き、そして煽動するのです。私は中傷家というものを、心から憎みます。

 こうしてホールで、私とズベ公のつき合いが始まりました。[やぶちゃん注:「ズベ公」品行の悪い女性。だらしのない、素行の悪い女。「行動や性格がだらしないこと、また、そのさまや、そのような人」を意味する「ずべら」(「ずぼら」も同じ)に、罵りの意味を込めて「公」をつけた表現。「売女」や「ビッチ」「スベタ」などと同様、女性を強く罵る意味で用いられる語である。]

 ズベ公というのは、不良少女のことです。いえ、そうじゃない。ズベ公とは、自分を不良少女だと、はっきり決めた女のことです。たんに不良というならば、上品な顔をして、もっとあくどく不潔なことをしている女もいる筈でしょう。ズベ公はもっと清潔でした。たとえば永木明子のような女より、ずっとさっぱりしていました。

 ホールには、何人かこのズベ公が出入りしていました。自然に私はこの人達に近づくようになった。つき合いの、ピラピラした虚飾がないだけでも、私には気楽でした。上野のチコというズベ公と、私は仲良くなりました。チコは私と同じ歳だった。青い上衣がよく似合う顔立ちだった。お父さんは有名な洋画家だけれど、家がいやで飛び出したという話でした。そして私はチコに誘われて、やがて上野界隈まで遊びに行くようになった。上野には、また銀座とちがった、ヒリヒリするような生の刺戟があった。

 チコは私を仲間に紹介して呉れました。一度紹介されれば、気楽に友達になれた。この世のわずらわしい約束から、追い出されたり逃げ出したりした女たちだから、そういう点ではこだわりなく、透明でした。私には初めてのぞき見た、異質の世界だった。

 ズベ公たちは、日暮里(にっぽり)とか松戸とか、あちこちの宿屋に、八人十人とまとまって、泊っていた。昼は上野地下道の青柳という喫茶店に屯(たむろ)し、そこを根拠地として、お金がある時は映画を見たり、ダンスホールに行ったり、ボートに乗ったりして遊んでいた。夜になると煙草を売ったり、アイスキャンデーを売ったりして、小遺いをかせぐのです。その頃はまだ、世間に煙草が乏しい頃だった。だからズペ公たちは、近所の煙草屋にわたりをつけてピースやコロナを公定で手に入れるようにしていた。パンパンをからかったりしている男たちに、一本十円くらいで売るのです。パンパンが、あんた買ってやりなさいよ、と言えば、こんな処(ところ)にくる男はみえぼうだから、大てい黙って買う。一箱で、四五十円の儲けになるのです。

 また金がないと、グレン隊に小遺いをたかったり、ズベ公の姉御ともなれば、パンパンのかすりも入る。そのかわりズベ公たちはおのずから情報網をつくって、パンパンにカリコミの時を知らせたり、パンパンに悪ふざけをするひやかしを、追っぱらってやったりするのです。上野の山で生活している人々は、皆何かしらつながりを持ち、そのつながりの中でおのおのの職分を持っていました。女学校でならった蟻(あり)の世界を、私は聯想しました。女王蟻や、働き蟻や、見張りの役目をする蟻。ひとつの巣の中での、定められた職分。そうです。上野というところは、自然に形づくられた、ひとつの大きな巣でした。

 しかしこんなことは、ずっと後になって、私がズベ公の仲間入りをしてから、判ったことでした。その頃はなにも知らなかったのです。私はチコやその仲間の生活、自由にふるまい、誰からも束縛されない生活ぶりに接して、なにかしら羨望をかんじた。上野は恐いところと、雑誌でも読み、人からも聞かされていたのが、思いの外伸び伸びして、暮しやすい場所であることを、私は漠然と知り始めた。上野のズベ公とつき合うようになったのも、学校やホールの友達が、私をのけものにしたその反動もあったが、ズベ公たちに共通な性格や物の考え方が、私に強く共鳴できるせいもあったのです。この人たちは、精神のよりどころを失いながら、なお気持を張って生きて行こうとしていました。ズベ公はズベ公だけで寝泊りして、決してパンパンをやらないのが誇りでした。

 私がズベ公とつき合ってるという噂が拡がって、昔の友だちはますます、私から遠ざかった。しかし私はまだズベ公じゃなかった。ズベ公と自分を呼ばれたい気持も、全然なかった。ただ生活が満たされないままに、つき合っているに過ぎませんでした。

 そしてやがて夏休みがきました。夏休みに入ることは、洋裁学校から父兄へ通知がゆくので、ごまかしがきかなかった。暑い日を毎日家にいて、遊びにくる友達もなく、私は退屈な面白くない日をおくっていた。父は相変らず忙しそうだったし、母もいつもと同じくつめたかった。しかし毎日叱言(こごと)は言った。前に書いたように、この頃の母は、大本(おおもと)のところでは私を叱らなかった。黙ってつめたく見ているだけでした。そのくせ小さなことばかりを拾い上げて、私をしきりにとがめた。たとえば、足の拭き方が悪いとか、栄養があるのに大根の葉っぱを捨てたとか。行為や動作の末端ばかりを、責めたててくるのです。私たちの日常の大部分は、おおむねそんなもので構成されているのですから、それは私にやりきれない日々の連続でした。

 だから軽井沢の親戚から、引越しの手伝いに招かれたときは、ほんとに嬉しかった。

 この親戚は、戦時中そこに疎開していて、こんど東京に戻って来ようというのでした。父の許可を得て、私はすぐ出発した。八月七日のことです。

 むこうには、本郷の中野宗一さんも来ていました。三月十日に焼け出されて、半年ばかり厄介になった、本郷の遠縁の家のむすこさんです。歳も私より四つ上でした。海軍から帰ってきて、今はもとの大学に通っていました。色の浅黒い快活なひとでした。私たちが厄介になっていた頃は、海軍に行ってた訳ですから、逢うのも四五年ぶりでした。大へんなつかしい気持でした。

 荷造りの手伝いをしながら、宗一さんは戦争の話などを

して呉れました。軍艦に乗組んで、それはひどい戦争だったそうです。その艦が沈められて、たすかった八名の中に、宗一さんは入っていました。宗一さんは笑いながら、私に力強く言いました。

「もうどんなことがあっても、戦争だけは止そうな。マリちゃん」

 この四五日の間に、私は宗一さんをすっかり好きになっていた。初めは淡い思慕だったが、一日一日その思いはつのってきた。私は私の本当の苦しみを、聞いて呉れる人がほしかったのです。そして私の心の疲れや汚れを宗一さんなら救って呉れるだろうと私は率直に信じた。これは私の感傷だったでしょうか。

 しかし、この一週間ほどの私の気持の動きは、私はあまりくわしく書きたくない。書くと感傷的になったり、嘘になったりしそうだから。しかしこの期間、私は本当に素直になり、純粋な気持になり得たと思う。生れで初めての透明な幸福感が、私にみなぎっていた。そしてあの汚れた東京にふたたび帰るのが、いやになっていた。と言うより、東京での汚れた自分や環境に立ち戻って行くのが、ぞっとする程いやだったのです。何かに祈るような気持で、私は自分の心を宗一さんに近づけて行った。そしてついに宗一さんも、私の気持を知ってくれた。

 十三日のことでした。裏庭の竹垣のところで、世間話のつづきとして、私は自分の苦しみを宗一さんに話し始めた。話してる中に涙が出てきて、私はとうとう泣きじゃくりながら、すべてを打ちあけてしまった。母親のこと、ホールのこと、上野のこと。こんな自分を救ってくれということ。そして私はいつの間にか、宗一さんの広い胸幅のなかに、身を投げかけていた。私はつよく抱きしめられていた。弾力のある熱い唇が、私の唇をいきなりおおった。女と生れたことの戦慄が、初めて痛烈に、快く身体をつらぬき走った。私の全身は、火となった。

 そして翌日があの八月十四日です。荷物の整理も一段落ついて、宗一さんは朝の中に、沓掛から浅間の鬼押出を見物に行くと言って、出てゆきました。荷作りがすんだら行くんだと、宗一さんは三四日前から言っていたんです。私もついて行きたかったが、止しにした。昨日のことが、なんとなく恥かしかったからです。だから宗一さんが、どんなコースをとったか判らない。

 行ってみるとそこから浅間山が、手に取るように見えたので、きっと宗一さんは頂上まで登りたくなったのでしょう。それから元気にまかせて、独りで登って行ったのでしょう。可哀想な宗一さん!

 そして頂上についた時、あの突然の噴火でした。宗一さんはいきなり煙にまかれ、石に打たれ、火に焼かれて、そしてとうとう死んでしまったのです。[やぶちゃん注:昭和二二(一九四七)年八月 十四日、浅間山が小規模なマグマ噴火を起こし、噴石があり、降灰・山火事が発生、噴煙高度は実に一万二千メートルに達し、実際に登山者が九名死亡している。以上は「気象庁」公式サイト内の「浅間山 有史以降の火山活動」に拠った。]

 それから大騒ぎになりました。本郷の家に電報が飛びました。親戚の小父さんや私たちは、土地の人の案内で、浅間に急行しました。まだゴウゴウと山は鳴っていました。しかし私たちは登った。頂上近くなるにつれて、まだすさまじい山鳴りと共に、石が降り、灰が舞い落ちた。地につもった火山灰は、はだしで踏めないほど熱かった。鼻を刺す煙にむせびながら、三日間夜もろくろく眠らず、私たちは足を棒にして、気違いのように宗一さんの死骸を探してあるいた。四日目の朝、やっと宗一さんの死骸は見つかった。それは頂上近くの暗い岩かげでした。

 大きな岩かげに、写真にある胎児のような形で、手足を丸くちぢこめて、宗一さんは死んでいました。火熱のために衣服は焼け落ち、皮膚も変色し、変形していました。腕に埋めた顔のかたちも、そうでした。唇のあたりも、焦げた肉のかたまりに過ぎなかった。そして顔面の焦げた肉の配置に、苦痛の表情がむき出しに残っていた。あの弾力のある熱い濡れた唇は、どこに行ってしまったのだろう。そしてあの広い胸幅や、汗ばんだ体臭や、思いやりの深そうな聡明な瞳は。私はくらくらと眩暈(めまい)がして、眼先がまっくらになり、まだ熱い火山灰のなかに、ふらふらと前のめりにぶっ倒れた。もうこのままで死んでしまいたい。わずかに残った意識で、そう必死に念じながら。

 しかし私は生きていました。そして小父さんにたすけられて、やっと山を降りた。二日ほど経って、宗一さんを骨にして、みんな東京に戻ることになりました。

 それは暑い日でした。その上、汽車は満員でした。連日の疲労、暑熱、それに加えるに汽車の酔い。悪いことには、あのショックのために、身体が変調して、私に生理日が始まっていたのです。人いきれの中に、しかし私は辛抱して立っていた。宗一さんのことばかりが思い出されるのでした。あの日接吻したあとで、宗一さんは私の頰をはさみながら私の顔をとてもきれいだと賞めてくれました。その時は私は単純にうれしかった。涙が出るほどありがたかった。しかし、私は既にその頃、自分がきれいに生れついていること、自分が男から好かれる顔立ちであることを、はっきりと意識し、自覚していたのです。宗一さんに教えられるまでもなく。――それなのに、どうして宗一さんの言葉が、私に強くひびいたのでしょう。

 もちろんそれは、私が宗一さんを愛慕していたからだ。しかしその愛慕も、今思うと、決して偶発的なものではなかったでしょう。私は私の内部にみにくく折れ込んだもの、どろどろに淀んだものを、一瞬にして透明なものに変える力を、切に欲していたのです。宗一さんとの出会いは、その最も適した条件のもとだった。東京から離れた高原だし、私自身もわけの判らない混迷した危機を、感じ始めていた時だったから。だから私は、宗一さんの言葉に、強くおののき、懸命にすがる気になった。

 それなのに、その宗一さんはどうなったでしょう。あの浅間の岩蔭で、あぶられたスルメみたいに丸くなり、いまは白い骨片になって、網棚に乗せられている。汽車の暑熱のなかで私はその気持の落差を、必死に耐えようとしていた。人いきれ。むんむんする体臭。汽車の動揺。車体の軋り。寝不足からくる疲労。そして生理的変調がもたらす、下腹部の不快感。――この汽車に立ちつづけた何時間かのあいだに、私は私の心の内部のものが、つぎつぎ傷つき、出血し、つめたくなり、やがて死んでゆくのが判った。

 上野に着くと、私たちはまっすぐ本郷の家に行きました。時間が知らせてあったので、もう親類がたくさん集まっていました。家から父も母も来ていた。簡単な読経がすむと、お酒や料理がでて、お通夜みたいな形になりました。お酒がはいると、座はだんだん賑かになりました。私は疲れていたが、部屋のすみにいて、皆の様子を眺めていた。食慾も何もなかった。身体は疲れていたけれども、神経は冴えていて、遠くの人の話し声もはっきり聞えるようだった。賑かになってくると、悲しそうな雰囲気は、何時の間にかどこかに行ってしまった。宗一さんの死亡が、新聞に出たことなどが、しきりに話題になっていました。どの新聞の記事が大きかったとか、どの新聞のは一段組で小さかったとか。火山の爆発で死んで、そのため新聞に名前が出たことを、皆がよろこんでいるようにも見えました。みんな楽しそうに酒を飲んだり、料理を食べたりしていました。何故人間というものは、たとえば、結婚披露などの宴会よりも、お通夜の宴会のときの方が、楽しそうにおしゃべりになるのでしょう? そして、他のときより余計に、飲み食いしたりするのでしょう?

 私の父が酔っぱらって、端唄(はうた)かなにかをうたいました。みんなが手を叩きました。その時、親類のひとりのお爺さんが、こんなことを言いました。

「宗一君の顔かたちは、鷹野(父のこと)の若い頃にそっくりだったな。遠くても、血のつながりというものは、争われないものだなあ」

 座の老人たちは、皆それぞれにうなずき、その言葉に賛成した。父と宗一さんとは、ふた従弟(いとこ)になるのです。若い頃の父が宗一さんに似ているというその言葉は、なぜか私をぎょっとさせた。胸がどきどき鳴ってくるのが判った。――しかしその、似ているという事実は、私には初耳だった。知らなかった。いや、知らなかったのではない。気づいていなかったのです。その癖私は、家にあるアルバムで、父の若い頃の姿や顔かたちを、よく知っていたのです。そう言えば、どことなくそっくりだ。よく似かよっている。私がぎょっとしたのは、しかし二人が似ているという、その事実ではありませんでした。それは鷹野家の遺伝の因子が、分れた枝の二箇所に、偶然(?)に相似した果実を実らせただけのことでしょうから。――私がショックを受けたのは、その相似を、その時まで、気づかなかったという事でした。なぜ気がつかなかったのだろう。何でもないことかも知れませんけれど、その事はふいに激しく私の疲れた神経をゆすってきた。私はきっと蒼ざめていたのだと思う。私の側に坐っていた高井戸の従妹(いとこ)が、顔色が悪いから気つけにと、そっと湯呑みに酒を注いでくれた。私はそれを飲みました。酒を口にしたのは、これが初めてでした。その上空(す)き腹だったので、私は直ぐに酔ったのでしょう。情緒が急にするどくたかぶってくるのが、自分でもはっきり判った。

 母もすこし赤い顔になって、酒を注いで廻っていました。それまであまり気にとめなかったが、紋服を着た母の姿が、俄(にわ)かに馴染みなく、いやらしいものに感じられてきました。薄く刷いた襟白粉だの、どうかした拍子にくっきりする、黒い絹地におおわれた臀部(でんぶ)のあらわな曲線など。母は肥(ふと)り肉(じし)でした。少し酔ったためか、私はその母の肉体が、ぞっとするほど厭らしく、憎らしく思われた。おのずから私はするどい眼つきになっていたのでしょう。しかし母がそれに気づいたかどうかは知りません。私の三人むこうに、宗一さんのお母さんが坐っていました。私の母はその前に坐って、なにか世慣れた調子で、おくやみか慰めかを言っていた。

「うちのマリ子が死ねばよござんしたのに、宗一さんのような将来のある方が、あんなことにおなりになって――」

 宗一さんのお母さんも、何か答えてる風(ふう)だった。私のことに、話が移ったようだった。

「……ダンスホールなんかに――」

 母のその一句だけが、はっきり耳に入った。母は上気した横顔をみせて、頰に厭らしい笑いを浮べていた。そしてとうとう、私の方をちらと見もせずに、又立って行った。

 夜の九時頃、私は父と帰ることになった。母は残って後かたづけです。酔った父によりそって、夜風に吹かれて家の近くまで来たとき、私は急に情が激してくるのを感じ求した。私は黙りこくって、あるいていたのです。父は酔っぱらって、低声で歌などを口吟(くちずさ)んでいた。私は言いました。

「お父さん。お母さんと別れて!」

 突然だったから、父は少しびっくりしたようでした。そして立ち止って、

「なんだ。またヒステリーが起きたのか」

と半ば紛らすように、半ばなだめるように答えた。この四五日の気持の辛さが、その時かたまって、無茶苦茶にこみ上げてきて、私は泣き声を立てながら、父の身体にぶっつかって行った。

「あたし、このままだと、不良になっちまう。ほんとに不良になっちまう!」

 父は私の身体を、一度はふり払おうとした。しかし私があまり泣き声を立てたものだから、掌を廻して私を抱くようにした。瞬間私は父の体臭を嗅ぎ、そして背中に父の厚い掌をかんじた。幼い時、父に抱かれて寝た時の感覚が、急に私によみがえって来ました。しかし父は直ぐ、その私の身体を、持て余すように押しのけながら言った。

「みっともない。泣くのはお止し!」

 押しのけることで、私を泣き止ませようとしたのでしょう。酔いにもつれた声だったけれど、つっぱねたような言い方だった。私は泣き止んだ。ふっと涙が乾いて行った。父の声の中に、私の気持にはほとんど無関心な、他への体面だけを気にしている響きを、はっきりと感知したからです。工場で怠けてる職工を叱りつける声と、それはほとんど同じ響きだった。涙が乾くのと一緒に、私の心からも水気が引いて行った。私は家へ帰りつくまで、ガタガタと慄えていた。

 翌日から四五日、私は熱を出して寝込みました。医者の見立てでは、疲労からくる発熱でした。その夜のことを、父はどう思ったのか知りません。翌日からの私への態度も、別に変化はありませんでした。あるいは父は覚えていなかったのかも知れない。酔った時のことを、すっかり忘れてしまうのが、父の癖だったから。--しかし熱に伏したこの四五日の間に、家を出たいという気持だけが、ぼんやりした形で私の胸に起伏し始めていた。そしてその気持は、だんだん強まって行くようだった。家を出てどこへ行くのか、どうしたらいいのか、それは私には判らなかったし、考えもしなかった。衝動みたいな形でそれは時々私を襲った。

 そして二学期が始まった。私は再び洋裁に通い始めた。そして気がついたのですが、嘘みたいに、踊りに行きたいという気持が、私から無くなっていました。真面目になったわね、とお友達にからかわれたりしたけれど、真面目になろうと思ってメリイゴールドに行かなかったのではありません。すっかり興味がなくなっていたのです。それはふしぎなほどでした。

 そして九月十四日の朝のことでした。私は母と小さないさかいをした。犬に餌をやらなかった、というようなことです。母が可愛がっていた犬でした。餌をやるのは、しかし私の役目だったのです。へんてつもない、醜い犬でした。二言三言いいつのって、私はカッとなって口走った。

「あたし、ダンスホールなんかに、行かなくってよ!」

 どうしてそんな言葉を口走ったのか、今でも私には判らない。母はつめたく言い返した。

「犬とダンスホールと、何の関係があるんだい」

 しかし母は私の顔を見て、急に目を吊り上げたようだった。

「おや、お前。わらってるね!」

 私はわらってなんかいなかった、決して。しかし母は立ち上って、いきなり私の頰を物さしでピシリと打った。しびれるような痛みが、頰から耳にかけて走った。

 三十分後、私は父の机から三千円持ち出した。そして家を飛び出した。もう帰らないつもりでした。それなのに私は、どういう気持だったのでしょう。手帳を破って書置きをつくり、肉屋の源坊という子に託して、父のもとに届けさせようとした。内容は、家を出るということ、松戸の友達の家に泊るつもりでいること、心配しないで欲しいこと、などでした。源坊にはくれぐれも、父に直接手渡して呉れ、とたのんだのです。松戸の友達、などと書いたのも、行先きがあるということで、私は父を安心させようと思ったのかしら。それとも――松戸まではるばる探しにくる父の姿を、私は漠然と予想し、無意識にそれを待望していたのでしょうか?

 私は映画を見て時間をつぶし、夜になって松戸に行った。チコのところに行くつもりだったのです。松戸の駅に降りたとたん、私は摑(つか)まってしまった。中野の小母さんと、高荘戸の卓ちゃんです。私は両腕をしっかと摑まれて、また戻りの電車に乗せられた。

 黙りこくって電車に揺られている私に、中野の小母さんが言いました。

 「お父さんはまだ知らないのだから、安心おし」

 あれほど頼んだのに源坊は、父の姿が見当らなかったので、母に渡したらしいのです。母は父に知らせずに、親類をたのんで、松戸駅に待ち伏せさせたのでした。中野の小母さんは、なおもくどくどと、私をなだめたり、さとしたり、脅(おど)したりしました。私が父と合わなくて家を飛び出したと思ってるらしかった。その口説の果てに、お前のほんとのお母さんもこんな失敗したのだ、という意味のことを口辷(すべ)らした。私はすぐ聞きとがめた。

「小母さん。それはどんなこと?」

 小母さんはあわてたように、口をつぐんだ。そして取ってつけたように、語調を変えた。

「とにかくお父さんを怒らせないがいいよ。今まで育てて呉れた恩義もあるじゃないか」

「親が子を育てるのは、あたり前よ!」

 と私は言い返した。しかし私の生母になにか秘密があるらしい事を、私はその時うすうすと知った。しかしそれが何であるかは、この上申書を書いてる今も、私は全然知りません。生母は私が四つの時に死にました。父はその死床で、人目もかまわず、おいおいと泣いたそうです。これも人聞きだから、どこまで本当か判りませんけれど。(もっともその話を聞いた時、女学生の頃だったが、私も涙が流れて仕方がなかった)

 こうして家出は失敗に終った。父にはとうとう知られなかった。しかし中野の小母さんたちの附添いで、母の前に手をついて、以後こんなことをしないと誓わせられた。私は涙を流した。あの書置きが母の手に入ったということが、耐えがたく口惜しく、辱しめられた気持だったからです。しかし皆は、私の涙を見て、満足したようでした。

 

 父には知れなかったから、学校を止める羽目にはなりませんでした。しかし洋裁にも、私はだんだん興味をなくしてきました。洋裁を覚えたって、仕方がない。そんな気持でした。学科をさぼって、上野や浅草で遊びくらす日が、しだいに多くなってきた。

 そんなある日、上野でバッタリと、幼ななじみの男の子と逢いました。日野保という子です。荻窪に住んでいた頃ですから、七つ八つの時分の幼友達です。保は身体こそ大きくなっていたが、顔は子供のときのままでした。額の出た、目のくるくるした顔立ちです。保の身上話では、ほんとの両親は死んでしまって、継母と暮しているうちに戦災にあい、埼玉県へ継母と疎開していたのだけれども、居辛くなって飛び出してきたという話でした。後で知ったのだけれども、保は上野でチャリンコで生活していたのです。なぜ居辛かったのか、保は話さなかったし、また話したがらぬようだった。強いて訊ねると、その愛嬌のある顔に、ふっと暗いものが射(さ)して口をつぐんでしまう。[やぶちゃん注:「チャリンコ」子供(二十歳未満)の掏摸(すり)の俗称。悪餓鬼を表わす俗語「ヂャリンコ」「ジャリンコ」「邪婬児」からの訛化という。なお、子供の食い逃げを指す場合もある。]

 幼いとき仲の良かった間がらなので、私たちはすぐ親しみが戻ってきた。そして時々上野で逢って、いっしょに話したり、映画を見たりしました。またチコやその他のズベ公とも、再びつき合うようになった。学校なんかには、すっかり身が入らなくなってしまった。

 暮れが迫ってきて、寒い日のことでした。私は母から銀行の金を下げに行くことを言いつかって、昼頃銀行に行きました。そしてその帰り途(みち)、つい上野に寄って遊んでしまった。前々日から、保との約束もあったのです。そして家に戻った時は、もう暗くなっていた。私はそっと勝手口から入った。電燈はついているのに、家の中はしずかでした。

 私はそっと廊紙をあけた。そして眼がクラクラとした。父と母の厭なところを見てしまったのです。私はどうやって唐紙(からかみ)を閉めて、自分の部屋に来たか覚えていません。にがい水のようなものが咽喉(のど)にからまって、胸が熱く引裂かれるようだった。

 しばらくして、母がそっと私の背後に立ったようだった。いきなりお下げの髪を握って、うしろに引き倒された。母は蒼ざめて、手に物さしを握っていた。そして私の捲(めく)れたスカートの、裸の太股を、あざになるほど打った。

「今まで、どこで遊んでた。お父さまの工場で、直ぐ要る金じゃないか。それを今までウロウロして!」

 向うの部屋には、父がいる筈なのに、止める声もしませんでした。スカートはすっかり捲れ上り、私の太股はきつく打たれて、物さしは二つに割れた。

「またダンスをやってたんだろ。変な男と、遊んでたんだろ!」

 母は口汚なく罵った。私を罵るというより、向うの父に聞かせるような響きを感じると、怒りと屈辱が火箭(ひや)のように私を貫いた。私はぶるぶると慄えた。母がこんなにつけつけと私を罵ったのは、これが初めてだった。いつもの冷たさを、どこかに置き忘れているようだった。しかし父の部屋はしんかんとして、何の気配すら起らなかった。そのことが私を参らせた。私はあえぎながら、打たれるままにされていた。嘔吐(おうと)がこみ上げそうで、たまらない気持だった。せめて父が出てきて、止めはしないまでも、一緒になって殴って呉れた方が、まだしも私は救われただろうに!

 暮れが終って、正月に入った。静かな乾いた怒りが、私の胸の奥でつづいていた。正月も面白くなかった。三日のことでした。小遣いをためた五百円と、着換えの服一揃いを持って、私は第二回の家出をした。どこへ行くというあても無かったが、困ったら上野に行って、チコ達に相談したら、どうにかなるだろうと思った。

 浅草公園に先ず行きました。すると大勝館の前で、ぱったりと保に会った。近所の汁粉屋で汁粉をすすりながら、私は家を飛び出したことを保に打明けた。すると保は眼をくるくるさせながら、偉そうな口調で、

「家出はいかんな、家に帰った方がいいぜ」

と私に意見がましいことを言った。私はしゃくにさわって、保だって家出してきたんじゃないか、と言ってやった。すると保はかなしそうな顔をした。

「誰が何と言ったって、あんな家に帰ってやるものか。とにかくあたしを、あんたの所に連れて行って!」

 保はとても困った顔になって、腕を組んで考えていた。幼ななじみの私を、あんな世界に引き入れることを、保はひどくためらい、心を決めかねる風(ふう)だった。しかし私は強引に押し、保をしぶしぶ納得させた。[やぶちゃん注:「大勝館」(たいしょうかん)は浅草六区にあった映画館。明治四一(一九〇八)年七月開業で、昭和四六(一九七一)年に閉鎖された。]

 とにかくその夜は、平井の保の友達の家に泊めて貰った。翌日から保やその友達と一緒に、北千住や越ケ谷の宿屋を泊り歩くようになった。そして保たちがチャリンコであることを、初めて知った。しかし私はそれほど驚かなかった。保たちは、昼はチャリンコで稼ぎ、夜はバクチを打ちに行くのです。彼等の首領は、浅川と言って、二十五六の男でした。あとは皆、私と同年輩か、私より歳下でした。私より歳下のくせに、えらそうに大人ぶって、世をなめたようなことを言ってるけれども、みんな本音のところでは淋しく、人の愛情に飢えていました。浅川だけは、年長だから、別でした。

 浅川はちょっと見ても、ひややかな感じのする男でした。海軍の特攻隊の生き残りだということでした。海軍帰りだということが、私に宗一さんを思い出させた。すべすべした皮膚をした、おどろくほど機敏な動作ができる男でした。頭から耳にかけて、うすい傷痕があった。機銃弾がかすった痕(あと)だそうです。皆は浅川をこわがっていました。浅川の性格につめたいところがあったからでしょう。不思議なことには浅川の顔は、ひとりでぼんやりしてる時は、澄んで淋しそうに見えるのです。ところがその顔が笑いを浮べると、急に冷酷な感じをたたえてくるのでした。笑いの顔における位置が、ふつうの人と逆になっていました。皆はその笑いをこわがっていた。しかし、浅川は、私には割合に親切でした。

 あちこち泊り歩いている時も、保は私のことをしょっちゅう気にかけて、早く両親にあやまって家に帰れ、と暇さえあれば意見した。浅川兄貴はこわい男だから、などとも言いました。浅川が私に親切なのを、心配もしたのでしょう。とうとう或る日、そんな事で言い合いをした。

「うるさいわよ。ほっときゃ良いじゃないの。なにさ、自分もチャリンコの癖に!」

 そして私は飛び出して、上野に行った。保たちの仲間は、みんな男だから、夜バクチヘ行く時などに、私をのけものにするのが、私には面白くなかったのです。

 上野に来て、私は顔なじみのズベ公たちを探した。そして訳を話して、仲間に入れて呉れと頼んだ。松戸のチコは、その頃家に連れ戻されたという話で、上野にはいませんでした。そして私は、鶯谷(うぐいすだに)の大和寮という宿に連れて行ってもらった。そこはズベ公たちが、女だけでかたまって住んでいる溜りでした。そこでも姉さん達から、口々に、ふた親のあるものが家出なんかするもんじゃ無い、直ぐあやまって家に帰れ、と意見された。しかし私は何も言わずに、そこに居坐っていた。姉さんたちの意見も、通りいっぺんの定り文句らしく、居坐ってしまえば、誰もしつこくは言わなくなった。そんな点は、さっぱりしていた。[やぶちゃん注:「定り文句」「きまりもんく」。]

 ズベ公たちには、特別の気風や習慣があって、一緒に住んで寝起きしていても、ほんとうに自分の組の者でなければ、自分のやってる事も言わないし、他の人のことを詮索(せんさく)したりもしなかった。組をつくっていて、組以外の者にたいしては、冷淡なほど無関心でした。生活の表面でつき合い、触れ合ってるだけで、深いところまで手をさし伸べることは、決してなかったのです。(組に入れば、別ですが)

 だから、大和寮に寝起きするようになっても、ズベ公としては新米の私は、どうやって皆のようにお金を稼いで、生活をして行けるのか、てんで判らなかったし、見当もつかなかった。誰も指導して呉れなかった。結局、見よう見まねで、上野にくる虎やんというタバコ売りの男に頼んで、タバコを売らして貰ったり、上野や浅草の露店の手伝いをしたりするようになった。そんなことで、日に四五百円は入るようになりました。私一人ですから、これだけあれば、ドヤ賃もふくめて、けっこう楽に暮して行けた。金が余っても、貯めておく気にはなれなかった。みんな飲食や服装費に費ってしまった。明日のことを考えず、私は浮草のように生きていた。私にはそれが一番楽な姿勢でした。

 三月頃だったか、仲間のあるズベ公が私にあんたの彼氏が摑(つか)まって、川崎の新日本学院に入れられてる、と教えて呉れた。彼氏というのは、日野保のことです。べつだん彼氏でも何でもないのだけれども、あれからも時々逢ったり、連れ立って遊んだりしてたから、そう見られていたのでしょう。それを聞いて四五日経って、私は川崎まで面会に行きました。[やぶちゃん注:「新日本学院」旧司法少年保護団体で、現在は児童養護・保育施設として同じく川崎にある。昭和一一(一九三六)年五月に発足で、現在も川崎にある。公式サイトはこちら。]

 保はひどくやつれて、元気がなくなっていました。くりくりした眼が、なおのこと大きくなって、ぎょろぎょろしていた。その顔に似合わず、態度はたいそう神妙で大真面目でした。仲間の大半はアゲられて、あちこちに収容されたのだそうです。そして沈んだ声で、

「君もどうか家に帰って、まじめにやって呉れ。おれも今、まじめになることを、ほんとに考えているんだから」

というようなことを言った。あの愛嬌のある顔立ちや性格の幼ななじみの保が、やつれた姿でこんなことを言うのを聞いて、私はとつぜん涙が出て来そうになった。すると保は燃え上るような表情になって、その大きな眼に涙がいっぱいあふれてきたようだった。

「お、おれは、マリちゃんが好きなんだ。ほんとに心から好きなんだぜ!」

 保は掌で眼ややせた頰をごしごしこすりながら、乱れた声で言った。

「だから、だから、家へ帰って呉れ。ほんとにまじめになって呉れ!」

 言いようもない悲しさと淋しさが、いきなり私の胸に突きささって、私もすこしかすれ声になった。七つ八つの頃、鬼ごっこやメンコ遊びで無邪気に佇良かった二人が、今こんな形で会っていることが、私にはたまらなく哀しかった。歳をとるということは、大人になって行くということは、何と苦しく、残酷なことでしょう。

 それでも保の言うように、私は家に戻って真面目にはならなかった。相変らず上野で生活していました。しかし川崎の保のところには一週間に一度か十日に一度は、かならず土産をもって面会に行った。保が可哀そうだというよりは、失われそうになっている自分の内部のものを、それによって私は碓かめたかったのです。保の顔を見ている時だけは、浮草のような自分の生活に、私ははげしい自責と嫌悪をかんじることが出来たから。

 五月になりました。すっかり暖かで、いい陽気でした。そんな或る日、上野の駅内で、私はばったりと肉屋の源坊に会いました。あの書置きを頼んだ、十六の少年です。私はひどくなつかしい気がした。私が変ったのに、源坊はびっくりしたようでした。源坊は、私の父に頼まれて、私を探していたのです。父の手紙を、ポケットに持っていました。

 私は源坊をつれて、上野の山に行った。歩きながら、家のことを色々聞いた。父は私の家出いらい、すっかり元気をなくしてしまったそうです。私のことだけでなく、事業が急に不振になったせいもあるようでした。白髪(しらが)がふえたという源坊の話を聞いて、私はすこし胸が苦しくなった。父は警察に捜索願いは出さず、源坊などに頼んで、私を探させているらしかった。新聞種になるのが、父には一番こわいのでしょう。体面ということが、父の生活感情の大部分を支配しているのだ。私のことを本当に思っているのではないんだ。そうは思いながら、父の手紙を開いた時、やはり私は、ひとつの感情で切なく胸が瓢れるような気がした。

「父はお前のことで後悔している」

 手紙はそういう文句から始まっていた。特徴のあるその字を見ただけで、私は父の息吹(いぶ)きを感じ、体臭を嗅ぐ思いがした。両親とも後悔しているから、帰ってこいという文面でした。この数箇月家を離れ、家のことを忘れようとした結果、私の気持も少しはやわらぎ変化してきてはいました。しかし気持はどうともあれ、私の乾いた頭脳は、父のその文章にもはっきりと嘘をかんじた。私はするどい眼つきになって、源坊にただした。

「お父さんやお母さんは、後悔してるんだね。本当だね?」

 源坊は気押されたように、うなずいた。その様子が可愛かったので、すこし私の心も和(なご)んだ。で、その中帰る気になったら、帰るかも知れないこと、近いうちに必ず源坊の方に電話で連絡すること、などを答えて、源坊を返しました。

 こうして私の生活に再び、家のことや父の形象が新しく入ってきた。しかしそれは現実の父の形象ではなく、言わば架空の(びょう)鋲として、私の心のひとところに突き刺さっていた。そしてその鋲の根元は、自分でも判らないあの暗いどろどろした場所に、どこかでつながっていることを、私はぼんやりと感じていた。ある瞬間を転機として、私は父のもとに戻るかも知れない。そういう予感も私にあった。そして私にとっては運命的な、あの五月十五日が来たのです。

 五月十五日は、浅草の三社様のお祭りでした。お祭りの賑いを見に、私は浅草にゆきました。それは大変な賑いかたでした。ぶらぶら歩いている中に、私は露店の人達につかまった。以前から手伝いなどして、知り合いになってた人達です。大ぜい集まって、酒盛りをしていました。その人達につかまって、上手に酒をすすめられ、すっかり酔っぱらってしまった。酒を飲んだのは、宗一さんのお通夜のとき以来初めてです。私はわけも判らなくなって、クダを巻いたりした。皆は面白がって私をはやしたりした。それがまたしゃくにさわって、なんだい、世の中がこうなったのも、お前たち大人が戦争に負けたからじゃないか、などと皆に毒づいたりした。そしてすっかり酔い痴(し)れて、いつの間にか私は誰かに抱かれて、よろよろと夜道を歩いていた。酔った私は、ふっとそれを、宗一さんかと勘違いしたりしていた。軽井沢で抱かれた感じが、身体の記憶に、どこか残っていたのでしょう。しかしその男は、浅川でした。保たちの首領のあの浅川でした。

 私は浅川のために、森下の小さな宿屋に連れこまれました。そして私は、よごれた蒲団の上で、着ているものを次次、むしり取るように脱がされていた。酔っていて、身体が利かなかった。抵抗はしたが、男の力の方が強かった。浅川も酔っていました。酒臭い呼吸が私にかかった。酔っぱらったときの父の呼吸と、それは同じ臭いだった。暗闇の中で頭ががんがん鳴って、気が狂いそうだった。浅川の身体が、しっかと私の身体を押えつけていた。そして浅川のなめらかな指が、私を求めて、隠微にうごいた。

 

 やがて、激烈な痛みと激烈な快さが、瞬間にして、同時に私の身体を襲った。私は思わずうめいた。そのはげしい苦痛と快感は、同時ではあったが、並列的に走ったのではなかった。全くひとつのものとしてだった。しかし痛覚そのものが快感なのか、快感そのものが苦痛だったのか、私にはほとんど判らなかった。私は傷ついた獣のように、眼を吊り歯をかみ鳴らして、がたがたと慄えていた。あの永木明子との場合と同様な、それよりも一廻り強い隈(くま)どりをもった暗鬱な衝動が、私の内部からふき上げてきた。憎しみ。いや、もっと烈しい。何ものへとも知れぬ、反吐(へど)に似た復讐。そしてその瞬間に私は、私の内部にいる女を、ありありと知悉(ちしつ)した。そして男を。対象を傷つけることで充足しようとするすべてを。そしてその瞬間私にぴったりとのしかかっている男の重さの中に、私は遠くぼんやりと、架空の父を感じた。遠い遠い入口にうすうすと立つ人影のように。そしてその影は急速につかつかと近づいてきた。復讐。私の生母を愛してくれた父と、今継母を愛する父とが、私の脳髄の中で暗く入り乱れ、乱れたままはためいた。しかしそれとは別のものが、私の中で、熱い火の玉となって、感覚の坂をかけのぼった。そして私は突然、全身が震撼(しんかん)するのを感じた。

「お母さん、お母さん、って呼んだじゃねえか」

 しばらく経った。浅川は私から身を離しながら、ねばっこい含み声でそんなことを言った。その声音には、満足からくるいやな慣れ慣れしさがあるようだった。しかし私はそんなことを叫んだ覚えはありませんでした。絶対に。

「まだねんねだな、お前。男は初めてか」

 怒りと恥じで、私は顔をおおい、裸のまま足をよじってつめたい畳に伏せていた。心は激していたけれども、涙は一滴も出てこなかった。眼球は干葡萄(ほしぶどう)のように、しなびて乾いていました。

 翌日も一日、私はその宿屋にいた。熱が出たらしく、身体がひどくだるかった。その夜も、私は浅川に犯された。しかも私はしらふだったのに。

 その翌日の朝、熱のある身体で、宿屋を出ようとした。上野に戻るつもりだったのです。浅川は蒲団に腹這いになったまま、上目使いに私をじっと見ていた。

「お前、逃げる気かい」

 例の冷酷な笑いを浮べているのです。私は相手にならず、のろのろと身支度をしていた。すると浅川はおっかぶせるように、

「どこに行ったって、同じだぜ。これ以上いいとこも、これ以上悪いとこも、どこ探したってありゃしねえ。お前にや判らねえだろうが」

「判るわよ!」

 私ははっきりとこの男を憎んでいた。その憎しみは、一昨日の夜に発していた。その癖昨夜はしらふだったのに、ほとんど無抵抗で浅川に身を任せていたのです。

 こうして私は宿を飛び出して、上野に戻ってきた。この二日間で、見えるもの聞えるものが、ガラリと変ったような気がした。人間も変ったのでしょう。上野で私が可愛がっていた女の子の浮浪児が二人いたが、その子たちも私のことを、マリ姉さんは変った、とはっきりそう言った。私は何をするのにも、感動がなくなったのを感じていた。何か考えても、すぐ気持が白けてしまう。それがおのずから、態度に出たに違いありません。肉屋の源坊にも、電話をかける約束がありながら、どうしてもその気になれませんでした。家のことなんか、考える気もしなかった。考えようとすると、私の内のなにかが、ぴしゃりとそれをさえぎった。

 その中に私は、浅川から悪い病気をうつされたことが判った。それは激しいショックを私に与えた。そのことがなおのこと、私の気持の傾斜に拍車をかけた。しかしほっとく訳にはゆかなかった。治療費をかせぐために、私は孝子やスミ子と一緒に、上野でタバコとキャンデーを売り始めた。孝子もスミ子も、私が可愛がってた浮浪児です。孝子は新潟の子で十五歳。スミ子は横浜生れで十三歳。この子たちは駅で客にたかって食物や金を貰い、昼は西郷さんの広場で遊び、夜は山で青カンという生活をしてたのです。孝子は春ごろ栄養失調で、痩せていたのを、私ができるだけ金や食物を都合してやるようにしてたから、私にはなついていた。いつも新潟に帰りたいと言っていたから、タバコやキャンデーの売り方を仕込んで、金を溜めさせて、郷里に帰してやろうと思ったのです。スミ子は悪い仲間と一緒になって、手提(てさ)げ専門のチャリンコだったのです。それがある日、捕まりそうになって、私のところに逃げてきた。そしてお腹がすいたと言うので、もう悪いことをしなければお寿司を食べさしてやると言ったら、真面目な顔になって、もうやらないと約束をした。この二人と一緒に、私は毎日上野に立った。[やぶちゃん注:「青カン」野宿することを言う不良仲間の隠語。他に、屋外での売春も言うが、ここはそれではない。「手提げ」手提鞄や手提カゴを専門に狙う掏摸の意か。]

 六月の半ば頃でした。なんだか夏みたいに、むんむんする日でした。夕方私が山の下に立っていると、うしろから肩をたたくものがあります。ふり返ると、日野保だったので私はびっくりしました。どうしたの、と私はなじるように聞きました。

 保は少し肥って、以前よりは元気そうに見えました。新日本学院を逃げ出してきたと言うのです。困ったように眼をくるくるさせて。

「おれ、真面目な生活に入るつもりで、逃げ出しちゃったんだヨ。本当だヨ」

「じゃ、あてはあるの?」

「うん。まあ知ってる自転車屋にでも、入れて貰おうと思ってる」

 なんだかその言い方は、怪しそうだった。そしてその怪しさをごまかすように、保は口をとがらせて、私をなじってきた。

「なんだ。マリちゃんは、まだ真面目になってないじゃないか。あんなにおれが言ったのに」

「ほっといて、自分も逃げてきた癖に!」

 そう言い返すと、保はくやしそうに頸(くび)をちぢめて、口をもごもごさせた。しかしその夜は、二人で広小路を歩いたり、中華ソバを食べたりして遊んだ。保はしきりに学院からの追手を気にしていました。ソバを食べながら、保は急に気弱い口調になって、埼玉のオフクロにあやまって家に入れて貰(もら)おうかなあ、などと呟(つぶや)いたりした。保は子供の時から強情なところはあったが、シンは気の弱い子でした。そして、私の方を熱っぽい眼で眺めてマリちゃんもどこか変ったなあ、と嘆息するように言ったりした。その時私は保に、ほんの瞬間であったが、済まない、あやまりたい、という気持になった。

 しかしその保に、私はどうしてあんな気になったのでしょう。私は保と美術館前の草原にゆき、そこでいどんだのです。しかしその目的の為に、美術館前まで行ったのではなかった、決して。あまり月がきれいだったので、どちらからともなく言い出した散歩だったのです。私たちは手をつないで歩いていた。保の影と私の影が、地面に親しい黒さで動いていた。衝動みたいに、その熱っぽい気分は突然私におこった。気まぐれ、ともちがう。もっとどろどろした重い根を持っていた。私はきっと、痴呆みたいな笑いを浮べていたに違いありません。そんな気がします。草原は夜露に濡れていた。月の光の中で、その時保の顔は真蒼に見えた。

うに。

(どこに行ったって同じだぜ。これ以上いいとこも、これ以上悪いとこも、どこ探したってありゃしねえ!)

 そしてはげしい恐怖にも似た絶巓(ぜってん)がきた。私と保をつないでいた、あの荻窪時代の透明な思い出が、その一瞬に形をくずして、がらがらと落ちて行った。私は眼をかたく閉じ、声を呑んだ。

 やがて私たちは、ふたつの影法師と共に、惨(みじ)めにつかれて立ち上った。私は月から顔をそむけながら、今来た道を戻り始めた。私を追ってきながら、保はしきりに、済まねえ、済まねえ、と繰返して言った。その声は低く弱く、自責のひびきにも聞えたが、またその繰返しには、ひそやかな喜びをこめているようにも思われた。私はそれにも答えなかった。答えるべき言葉は、どこにもなかった。身体はしっとりと重かったのに、気分はからからにひからびていた。しかし山下まできて、明るい電燈の光のなかで、保の顔を見たとき、初めてするどく強い悔悟の念が、矢のように私の中を奔(はし)った。しかしそれも瞬間でした。黙りこくったまま、そこで私は保と別れた。

 そして保が刺されたあの日まで、私は彼に会わなかった。それまで保は、上野にいたことは事実だから、遠くから私の姿を見ても、避けていたのではないかと思います。その保の気持を思うと、私は今でも胸に錐(きり)を突き立てられるような気がする。しかし彼の噂は、ときどき私の耳に入った。病気にかかっているということや、行状がひどく荒れているということなど。病気は私からのに違いなかった。私に噂を伝えてくるズベ公や浮浪児の話では、どこで病気をうつされたか、保は絶対に口にしないとのことだった。強いて聞こうとすると、人間が違ったように、はげしく怒り出すという話でした。

 こうして私は酒の味を覚えるようになった。タバコやキャンデーの売上げも、治療代にはほとんど廻さずに、山下の屋台に首をつっこんで、酒代に費って[やぶちゃん注:「つかって」。]しまうようになった。酔っている間だけでも、酒は私の頭をしびれさせ、すべてを忘れさせて呉れた。意識の下に眠らしておかねばならぬ事柄が、私にはあまりにも多すぎたのです。ちょっと油断すると、それらはむらがり起って、私の胸に爪を立ててきた。保のことは、いちばん近いだけに、最もなまなましい爪跡を、するどく私に立てて来ようとするのでした。

 保つが刺されたということを聞いたのも、山下の屋台ででした。私は相当酔っていた。そこへ入って来た地廻りの男が、屋台のおやじにそんな話をしていた。何気なく聞いていたが、ふいに日野という名前が出たとき、私はぎょっとした。

「お兄さん。その場所は、どこなの?」

 場所を聞いて、私はすぐ駈けて行った。場所は池の端でした。保はまだ病院に運ばれていなかった。戸板の上に寝かせられていた。もう顔には死相がはっきり出ていて、意識はなかった。グレン隊とむちゃな喧嘩して、胸を深く剌されたのです。閉じた瞼はふかく落ちくぼんで皮膚はすっかり土色でした。着ているアロハシャツは、赤黒い血のりでべたべたでした。保がアロハシャツを着ていようなどとは、私には想像もできなかった。あんなに真面目になりたいと願い、あんなに善良な魂をもった保が、しおたれたぶざまなアロハシャツを、自らの血で汚して死んでゆく。私はたまらなくなって、横たわっている保にしがみついて、ゆすぶりながらその名を連呼した。[やぶちゃん注:「池の端」不忍池(しのばずのいけ)周辺の通称。]

「保さん。保さん。保さん」

 それで保はわずかに意識を取り戻した。瞼は開いたけれども、瞳にはほとんど光がなかった。しかし、死魚のような末期のその瞳にも、私の顔はぼんやりとうつったらしかった。何か言おうとして、保はしきりに唇をふるわせていた。少し経って、やっと押し出すように、しゃがれた低い声を立てた。

「マリちゃん。マリちゃんか」

 声は咽喉(のど)にひっかかって、ごろごろと鳴った。そして暫くして、今度ははっきりと、

「オレ、もう、くるしく、ないヨ」

 どんよりした瞳を私に定めて、その時そげた頰には、この世のものでないほどの静かな幽かな笑いがぼんやり浮んでいた。それから吸いこまれるように、瞼を閉じながら、ごく低い、ほとんど聞きとれない声でつぶやいた。それはもう声ではなく、最後の呼吸の慄えにちかかった。

「オレ、もう、死ぬ。もう、死んじゃったヨ」

 二分後に、保はしずかに呼吸を引きとった。月の光に顔を照らされて、医者も間に合わず、物見高い通行人や心ない弥次馬などに、がやがやと囲まれて。――そして呼吸を引きとる最後の瞬間を、しんから見守っていたのは、側にひざまずいているこの私だけでした。やがて警察医がきました。保の死顔は、すっかり血の気をおとして、子供のようにきれいでした。

 

 あの八月一日という日は、保が死んだこの日から、数えて三日目のことでした。

 その日は私は、朝からイライラしていた。月経が始まって二日目で、いちばんひどい盛りだったのです。もともとこの期間には、私の気持はひどく荒み、ヒステリーのような症状になるのですが、病気にかかって以来、その傾向はますます強くなっていました。この期間中は、神経が極度に敏感になり、何でもないことが強く心にひびいたり、一寸したことにむちゃくちゃに腹が立ったり、ふだんならやれないことが平気でやれたりするのでした。仲間のズベ公からも「あんた今アレでしょ」とすぐ悟られる位でした。

 その日の朝、ある浮浪児の女の子が、スミ子がまたチャリンコをやってる、と私に知らせて呉れた。私は腹が立った。そして昼頃、地下鉄の入口でスミ子をつかまえた。そして私は強くなじった。

「なぜスミ子はチャリンコを止めないの。なぜ私の言うことを聞かないんだい。自分がどんなことになっても、かまわないと言うのかい」

 しかしスミ子はなぜか、素直にあやまらなかった。何だかだと口ごたえをした。そしてしまいには、フンとそっぽを向いたりしたから、私はいきり立って、髪をつかんでそこに引きずり倒し、ひどくひっぱたいてやった。するとそこへ、三四人のグレン隊が通りかかって。

「何でえ。弱い者いじめするない」

と因縁をつけるつもりか、妙にからんできたから、いじめてるんじゃないわよ、お前たちが知ったことじゃないわよ、とやり返して、そこで人だかりするほど、相当派手に言い合いをした。

 それでよけい頭がむしゃくしゃして、タバコやキャンデーの仕入れもしたくなく、ましてスミ子や孝子の顔も見たくなかった。むしむしして、今にも降り出しそうな空模様でした。私は皆から離れてひとりで西郷さんの広場にのぼって、上野の街を見おろしながら、もうこんなゴミゴミした街には住みたくない。どこか遠い静かなところに行ってしまいたい、などとぼんやり空想したりしていた。保の死のことも、まだ私の心に、強く深く尾を引いていたのです。そうしているところへ、ちょっとした顔見知りの、本名は知らないがイノシシというあだ名のグレン隊の男が、私の側に寄ってきて。

「どうだい、マリ坊、今夜江の島の方へ遊びに行かないか。きれいな海で泳げるぜ。五六人で行くんだ」

と誘ったから、私は即座に、うん、と言ってしまった。するとイノシシは、今日の五時頃駅に来い、と言い残してどこかへ行ってしまった。私はこの数年間、青い海を見たことがなかったから、気持を変えるいい機会だと思って、心がすこし躍(おど)った。生理期間だから海に入れないとしても、海の青さや砂の白さを見るだけでもいいと思った。そう思うと、矢も楯もたまらなく行きたくなった。

 五時に駅に来てみると、もう皆は集まっていた。あの浅川がその中にいたのです。浅川は私の顔を見ると、ひどく驚いたような妙な表情をして。

「何でえ。マリ子。お前も行くのか」

と言ったから、私もつっけんどんに。

「誘ったから行ってやるんじゃないか。じゃあたしは止すよ」

とやり返してやったら、浅川はふと思い直したように、あの酷薄な笑いを浮べて、

「まあいいや。見張りくらいには役立つだろう」

と言った。その言葉も、私はあまり気にも止めなかった。見張りというのも、海水浴のときの着物の見張りを言ってるのだろうと思っただけで、深く考えもしなかった。前にも書きましたが、上野の山で生活していると、どんな人でも、その日その日というよりも、その時々の行き当りばったりの気持になって、他人のすることを詮索したり、他人の言うことの裏や先の先のことを、考えたりしないようになるものです。この場合もそうでした。

 そして私たちは、新宿に行って小田急に乗った。同行は私を入れて七人です。浅川、イノシシ、はちまき、エフタン、テラテラ、探海燈、それに私。女は私だけでした。男たちは、探海燈をのぞけば、皆一癖も二癖もある男たちだった。探海燈というのは、私と同いどしで、グレン隊にしては気が弱い、割に正義派肌の子でした。眼が大きいから探海燈というあだ名がついていて、感じがちょっと保に似ていた。笑うと頰にえくぼが出来る子でした。[やぶちゃん注:「エフタン」という綽名は意味不明。「探海燈」「たんかいとう」と読む。強大な反射鏡を用いて遠距離の海上を照らす灯火である「探照灯」(サーチライト)を海上で用いる時の呼名。梅崎春生は旧海軍兵であったから腑に落ちる用語である。]

 稲田登戸のすこし先の駅で、浅川を先頭にぞろぞろ下車した時も、私は別段変には思わなかった。もう夜だからここに泊り、明朝江の島に行くのだろうと思った。改札を出ると、雨がシトシトと降っていた。雨に濡れながらしばらく歩き、道を曲って家並の切れたところまで来たとき、テラテラが皆をふりかえって、

「もう直ぐそこだよ。家の者は、みんな鎌倉の別荘に行ってる筈だよ」

などと話し始めたので、空巣をやるつもりだなと、その時初めて知った。私はだまされたと判ったから、グッと癪(しゃく)にさわって顔色を変えた。するとその気配を察したのか、イノシシが私に寄ってきて、

「江の島でのドヤ銭を稼がねばならねえからな、マリ坊、今夜だけは辛抱してつき合って呉れよな」

となだめるように言った。私は腹が立って仕方がなかったけれども、こうなっては独りで帰るわけにも行かないし、ぬかるんだ道を渋々いっしょについて行った。道は暗くて歩きにくいし、着物は雨にぬれるし、むしゃくしゃしてたまらなかった。[やぶちゃん注:「稲田登戸」梅崎春生にとっては縁の深い場所である。「ブログ始動十六周年記念 梅崎春生 飢えの季節」の私の「稲田堤」の注を参照。]

 それから暗い坂をのぼったり、雑木林の中や道もない草やぶを通ったり、崖を這いのぼったりして、山の中にぽっかり立ったある一軒屋の裏手まできた。そこにある大きな栗の木の下に皆を待たせて、テラテラが偵察に行くことになった。ところがテラテラは行ったっきり、長いこと帰ってこなかった。どうしたのかと思ってると、犬がけたたましく吠える声がして、テラテラがあわてて戻ってきた。別荘に行って留守だと思ったら、燈が点いていて、家族は全部いるという報告でした。

 それから男たちが顔をよせて、電車賃を貰って帰ろうか、それともやっちゃおうか、などとコソコソ相談が始まった。その間に私はぬか雨にすっかり濡れて、湿気は下着まで通り、下腹部が石でも詰ったように重く不快になってきた。気分はイライラし、やがて頭がしんしんと痛んできた。神経が少しずつ狂ってくるのが、ありありと感じられるようでした。熱もすこし出てきたようだった。大声で叫び出したいような焦躁感が、間歇(かんけつ)的に起ってきて、私はそれを必死に我慢していた。探海燈だけはしきりに、「手荒なことは止そうよ。オレは厭だから帰りたい」と反対していたが浅川などが強硬に主張して、とうとうタタキを決行することに一致した。テラテラがそこいらから薪(たきぎ)を持ってきて、皆にくばった。そして、自分は家人に顔を知られているからここで待ってる、などとずるい事を言い出して、浅川に小突かれたりした。皆覆面することになった。私も白いネッカチーフで、自分の顔をおおった。着ているものは濡れていたけれども、身体は火のように熱くなっていました。気持の上の苦痛と、病気の悪化に加えるに生理の変調、そして肌まで雨に濡れたことのために、私の感情も神経も、すでに正常の状態ではなくなっていた。[やぶちゃん注:「タタキ」警察用語で強盗のこと。]

 浅川を先頭に、男たちは次々垣を越えた。私は一番しんがりだった。浅川がポーチからいきなり家の中におどりこむと、イノシシ、エフタンの順でそれに続いた。殺気が家の中いっぱいにみなぎった。ドタドタと音が走り、キャッと叫ぶ女の悲鳴。ガチャガチャガチャンとガラスが割れる音。そこの家の犬がけたたましく吠え出して、それに呼応して、あちこちの山かげや谷から、こんなに沢山犬がいたかとびっくりする程、方々で犬たちが吠え始めて、それらは高く低く入り乱れて夜空に反響した。やがて私はポーチに立って、内部の様子なうかがった。寝巻のまま飛び出してきたそこの主人らしい男を、丁度二三人で縛り上げてる所でした。山の中の入りこんだ一軒屋だから、皆は安心してゆうゆうと仕事をやっているようでした。探海燈だけが初心(うぶ)らしくおどおどしていて、浅川から、誰も来やしねえから安心して仕事をやれ、と叱言を言われたりしていた。家族をみんなしばり上げると、音は一応収まった。犬の声もやがて静まったようです。それから浅川の命令で、それぞれ手分けして、各部屋で金品を物色し始めたようだった。明朝までここに泊ってゆくんだから、ゆっくりと手ぬかりなくやれ、と浅川が注意をあたえているのが聞えた。しかし探海燈だけは、まだあがっているらしく、手が慄えてたんすの引手もカタカタと握れない風(ふう)でした。[やぶちゃん注:「ポーチ」porch。玄関。]

 ここで見張れと言いつけられた訳ではないけれども、私はポーチに立っていました。家の中に入る気がしなかったのです。家の中は明るかったが、外は真暗闇でした。言いようのない孤独感が、じわじわと私におちてきた。私は唇を嚙んで慄えながら立っていた。雨は相変らずしとしとと降っていました。その闇の中に眼を据えていると、肉体の不調からくる不快感が、しだいにわけのわからない兇暴な憤りに変ってゆくのを、はっきりと私は意識した。掌をあててみると、額は火のように熱かった。じっと立っているだけでも、眼がくらむような気がした。その癖神経がピリピリと張っていて、三里先の物音でも聞き分けられそうな感じでした。全身が山犬みたいなするどい感覚体になって行くのが、自分でも判るほどでした。

 そのままで二三十分ほども、私は張りつめたままポーチに立ちすくんでいたと思う。そしてどういう形の予感と危惧が、いきなり私の神経に触れてきたのか、私は今はっきりは思い出せない。突然かすかな戦慄が、電流のように、私の全身を走りぬけたのです。それは確かに、なにものかヘの予覚だった。私はほとんど昆虫のような本能で、突然ある何事かを感知した。私はぎょっと身体を堅くして、家の方をふり返った。家の中では、奥の方で、ときどき何かをかき廻すような、微かな音かするだけで、私が立っている場所からは、もう誰の姿も見えなかった。しかし私はポーチから家の中に入ろうとはしなかった。ふしぎな得体の知れぬ妙な力が、その瞬間私の足を導こうとするのが感じられた。その得体の知れぬ力にひかれて、私はそっとポーチを横に降りた。そして足音を忍ばせて、しとしと落ちるぬか雨の中を、家にそってのろのろと右手の方に廻り始めた。するとそこに黒い小さな梯子(はしご)がかかっているのが見えた。その梯子は、部屋から突き出た低い露台めいたものに連結していたのです。そとに何ごとかがある。何事かが起っている。私はとっさに、確実にそれを感知した。私はぐらつく梯子に慄える足をかけた。

 その部屋は、大きなガラス窓を、露台にひらいていました。その窓から電燈の光が、露台をぼんやりあかるく照していた。私の白い姿が、そこに浮き上った。私はその時、真白な服装をしていたのです。白い開襟シャツ、白いスカート、白いズックの靴、顔を覆ったネッカチーフも白色だった。露台に上り立つと、ためらうことなく私はその窓から、いきなりあかるい部屋の中をのぞきこんだ。そしてねばねばしたかたまりを、顔いっぱいにぶっつけられたような気がして、私はよろよろとよろめき、思わず窓枠をつかんで身体を支えた。言いようもなく激しく熱いものが、いきなり私の胸にふき上ってきた。

 この家の者らしい若い女が、その部屋の真中に倒れていました。二十一二の女でした。その上に浅川の身体がしっかとのしかかっていたのです。継母からひどく打たれたあの夜、父の部屋で私が見たその一瞬の光景と、それは形の上でほとんど同じでした。ただ違うところは、今見るこの部屋の情況には、あきらかに暴力の気配がいっぱいに満ちあふれていたのです。激しいショックのため、私は心臓が咽喉(のど)までのぼってきたような気がし、頭の鉢が五倍にもふくれ上ったような感じに襲われた。しかし、私は眼を見開いたまま、窓枠を握りしめて、そのまま視線を動かさないでいた。そして渇いた犬のように、私のあえぎはしだいに荒くなってきた。

 電燈の光の直射をうけて、その女の白い顔は、言葉で表現できないような表情をたたえていました。ふつうの女がその一生の起伏のなかで、いろんな情況下につくるさまざまの表情を、この女の顔は今の一瞬に凝集し定着させていました。痛み。苦しみ。憎しみ。さげすみ。怒り。悲しみ。ありとあらゆる感情のすべてを。しかもなお、親しみ。喜び。恍惚の感情の片鱗をすら、そこにひそやかにこめて。そしてその上に、浅川の身体がかぶさっていた。露骨な雄の姿勢で。言いようもなく醜く、同時にはげしい美しさで!

 何秒間、何十秒間、私がそこに立っていたか、私には全然覚えがありません。一瞬だったような気もするし、ずいぶん長い間だったような気もする。記憶がそこらから、混迷し分裂しかけているようです。きっと私の顔はその女の顔と同じ表情になっていたでしょう。それに違いありません。そして今思い出せるのは、その時の私の気持の一部分に、まぎれもない嫉妬の情がはっきりと動いていたことです。いえ。間違いはありません。疑いもなく、それはするどい嫉妬の感情でした。それは私の心の遠景の部分を、矢のようにひらめいて奔(はし)りぬけた。そしてその時私の全感情と全神経から、形のない重くわだかまったものが、ずるずると脱落するのが感じられた。その代りにすさまじい空白が、突如として私に降りてきた。私の行動を決定する要めのものが、急に私から遠のき、遙かな小さな一点となって、そして無限のむこうに消えて行くのが感じられた。しかしそれにも拘らず、私の五官や四肢の運動は、今思うと極めてしずかに正しく働いていたようでした。それは不思議なほどでした。

 私は双手を使って、静かに硝子窓を上へ押しあげた。鍵はかかっていませんでした。そして私は脚をあげて、音のしないように窓の閾(しきい)をまたいだ。今思い出したのですが、閾をまたぐ時私の白いスカートの一部が、ぽちりと自分の経血(けいけつ)でよごれているのに私は気がついた。いくらきれいに生れついても、女というものは、腐った血が降りる穴を一箇所持っているんだ。その時あらくれた気持で、そんなことを思ったりしたのを、私はぼんやりと覚えています。部屋に入ると、私はすぐ壁ぎわに身を寄せた。壁の上部には、古めかしい洋風の短剣がかざってあった。初めからそれを知ってたのかどうかは、私の記億にない。しかし既定の行動のように、私は手を伸ばして、それをそっと壁から外した。それは皮鞘(かわざや)で、インデアンの首が柄の尖端の飾りになっていた。妙なことばかりはっきり覚えているようですが、そのインデアンは頭に八本の羽の飾りをつけていました。たしかに八本。そして音がしないように、私は皮鞘をはらった。白い刀身が、するりと光を弾いた。私はそれをいきなり逆手に特つと、二人の営みの背後から、音を忍んで近づいて行きました。営みは終末に近づいていました。そのことは浅川の身体の動きの微妙な気配で判ったのです。浅川の上半身は、白地のうすい襯衣(シャツ)でおおわれていた。短剣の柄を両掌で握ると、私は全身の気力をこめて、微妙に起伏している浅川の背に、そのするどい刀身を力いっぱい突き刺しました。白く光る刀身の、ほとんど三分の二ほど。鮮血がパッと飛んだ。その瞬間物すごい痙攣(けいれん)が浅川の全身を走って、それきり動かなくなった。(後で聞いたのですが、検屍医のしらべでは、即死だったそうです)

 私は短剣を力をこめて引き抜いた。肉が刀身をぎゅっとしめつけていて、抜くのには満身の力が必要でした。やっと引き抜いた瞬間に、猛烈な虚脱感が私にやってきました。虚脱感もあんなに猛烈だと、強い緊張とほとんど変りありません。私は、まるで白痴みたいに、口辺の筋肉をゆるめたまま硬ばらせていた。そして――そしてその血塗れの刀身を、刀身の指す方向に、そのままぐっと押し進めたのです。今思えば、私はその刃を逆に向けて、はっきりと自分の胸に突き刺すべきだったのでしょう。しかしもう私は、その時は判断力を完全に失っていたのです。偶然に刀身の尖端がそちらを向いていたばかりに、あの女は私から刺し殺された。偶然に踏み殺された昆虫のように。もし刀身が私を向いていたならば、もちろん私はためらうことなく、私自身に突き刺したでしょう。その瞬間の私個人の意思でなく、私の歩いてきた生涯がつくり上げた、ある隈どりをもった架空の意思のために。――

 それから一時間後に、私たちは皆つかまってしまったのです。そして数珠(じゅず)つなぎになって、雨の中を原町田警察署へ引いて行かれた。刑事さんにいろいろ問いただされたけれども、私には何も答えられなかった。私は椅子にかけて黙りこんでいた。すっかり放心状態だったのです。私の側でイノシシが、私を江の島に誘って皆の相手をさせるつもりだった、と自供しているのを、ぼんやりと他人(ひと)事のように聞いていました。生きているということは何ということだろう。そんなことをしきりに自分の心に問いかけながら。

 ――それから私は八王子の少年刑務所に入れられました。そこで二箇月ほど過し、一週間前、この小菅(こすげ)の拘置所に移されてきたのです。今ここで、この上申書を書いているのです。この小菅拘置所の女区は、八王子にくらべると、ずっと暗いところのようです。八王子では、窓から小安ケ岡や富士山などが見えたけれど、ここの窓からは、ほとんど何も見えない。そのせいか、同房の女囚たちも、ひどく感傷的なようです。昨夜も同房の一人が、窓からきれいな星が見えると言い出して皆が窓に顔をあつめて眺めているところを、担当さんに見つかって、少し叱言(こごと)をいわれたりしたが、その後で、「お前たちは星も満足に見られないんだよ」とさとされて、私を除いた他の女囚は皆、掌で顔をおおったり抱き合ったりして、しばらく泣いていました。泣く気持が判らないではありませんが、私にはとても泣けません。涙が出てこないのです。しかし私はふと、そんな彼等が羨しいとも思う。彼等のように自ら悲傷して涙を流し、涙を流すことで気分を散らしてしまうような習慣を、もし私が早くから身につけていたら、私もあんな苦しい半生を過さずにすんだでしょう。その果てのこんな罪も犯さずに済んだでしょう。今となってそんな事を言っても、始まりませんけれども。[やぶちゃん注:「八王子の少年刑務所」東京都八王子市緑町にある多摩少年院(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。日本初の少年院として知られる。「小菅(こすげ)の拘置所」東京都葛飾区小菅にある東京拘置所。「小安ケ岡」不詳。但し、漢字違いだが、多摩少年院の東北の、八王子駅の南側の市街地区の地名が東京都八王子市子安町(こやすまち)である。或いは、ここに嘗つては丘陵地があって、かく呼ばれていたのかも知れない。判らぬ。]

 ここに身柄を移されてから、父も母もまだ訪ねてきません。八王子の頃は、三日をあげず、どちらかが訪ねてきて呉れました。父もずいぶん年老いたようです。私のせいもあるのでしょう。しかしあんな事件を起して以来、父にたいする気持ががらりと変化したのを、私は自分でも感じます。私の心の中のなにかが、あの瞬間を境として、はっきりと角度や方向を変えたようです。それが私には不思議でなりません。あの長い間の父に対する屈折した思いは、一体どこに行ったのでしょう。面会所で父と会っても、父に言いたいことも訴えたいことも、私には何もないのです。しかし私は、父に会うのが厭だと言うのではありません。父は以前よりも思いやり深くなり、私のことも親身に心配しているのです。それにも拘らず、私には父の姿が、私とつながりのない物体のようにふと感じられたりするのです。ただ父権をもつ物体のように。

 その父に対して、心の深層で私がこだわり、そのこだわりの核を探りあてかね、その周囲をしきりに屈折した愛情で隈(くま)どったこと、それが今の私には夢のように虚(むな)しく、遠いものに感じられます。母に対しても、同様な気持です。むこうにしたがって揺れ動く切なさがもはや私にはない。父は場末の町工場の平凡な主人であり、母はその貞淑な後妻というだけに過ぎません。今の私には、それだけなのです。その感じはいささか私に不安でなくもない。こういう具合に、私の心の中で、すでに完全に分解され、処理されでしまったものは、一体何なのでしょう。

 しかしふつうの意味で、大人になるということは、こういう過程を指すのでしょうか。もしそうだとすれば、私が殺人という犠牲をはらったところを、他の人々はどんなものを犠牲として、そこを通り抜けたのでしょう。他もそこなわず自らの身も傷つけず、たくさんの男女は安心して大人になっている。――そう思うのは、私のひがみでしょうか。私の負け惜しみでしょうか。それとも、私の独り相撲でしょうか。いえ、独り相撲なら、独り相撲でいいのです。私はその独り相撲で、慘(みじ)めにも負けたというだけの話なのですから。――

 私のこの上申書は、弁護士さんのすすめで書いているのです。弁護士さんは私にいろいろと上申書の要領を教えて下さったけれど、私はそれに従わず、とうとう本当のところを書いてしまった。罪を悔悟しているということは、一言も書かなかった。今更悔悟する位なら、初めからあんなことはやりません。しかしこれを貴方の前に差し出すのは、今となっては厭な気もします。あまり面白くない。本音を記しただけに、なおのこと、そういう感じが強いのです。貴方がこれを読んでいらっしゃる光景を、私はまざまざと想像できるような気がします。貴方は手入れのいい服を着て、日当りのいい判事室で、柔かくふかふかした椅子にもたれ、匂いのいい莨(たばこ)をふかしながら、忙しげにこれをお読みになるのでしょう。読み終ると腕を組んで三分間ばかり私のことを考え、そしてこの上申書を机の中にぽいとほうり込むのでしょう。そして数時間後には、その内容もお忘れになってるかも知れない。いえ、それがどうとも申し上げるのではありません。貴方は人を裁くのが職業だし、その職業は忙しいものだと聞いておりますから。しかし私にはそれがちょっと不思議な気がしてならないのです。貴方はいずれ私を法廷に呼び出し、私の罪状を厳しくただし、貴方の職業上の判断にもとづいて、私を死刑と決めるなり、懲役何年と決めるなりなさるのでしょう。私はどうせ裁かれる身なのですから、できるだけその日が早く来るようにと待ってはいるのですが。

 裁判長さま。

 しかし、人間が人間を裁くということは、一体どういうことなのでしょう?

2022/07/24

杉田久女 日本新名勝俳句入選句 (久女には珍しい名句「谺して山ほととぎすほしいまま」の自句自解)

 

[やぶちゃん注:久女には極めて珍しい自句自解である。しかも、リアリズムに富み、この手の俳人の自解にありがちな、言いわけめいた誇大表現もなく、非常にさわやかなものとなっていて、まことに好ましい。発表は昭和六(一九三一)年だが、底本(後述)では、掲載誌の記載がない。この久女を代表する名句は、この年の四月に、『東京日日新聞』・『大阪毎日新聞』主催の「新名勝俳句」に入選句である。底本年譜によれば、『山岳の部英彦山』(ひこさん)『で帝国風景院賞句二十句中の金賞』で、他に、

 橡(とち)の實のつぶて颪(おろし)や豐前坊(ぶえんばう)

の句が銀賞となり、トップを独占した形となったのであった。当時、久女は満四十歳であった。或いは、受賞した際に主催者から感想を求められて書かれたもののようにも見える。因みに、以上の二句を含む「英彦山」での六句については、「杉田久女句集 255 花衣 ⅩⅩⅢ 谺して山ほととぎすほしいまゝ 以下、英彦山 六句」でオリジナル注を附してあるので参照されたい。

 底本は一九八九年立風書房刊「杉田久女全集第二巻」を用いたが、幸いにも本文は歴史的仮名遣が採用されていることから、恣意的に私の判断で多くの漢字を正字化した。そうすることが、敗戦前までが俳人としての活動期であった彼女の本来の表現原形に近づくと考えるからである。冒頭の句の前後を一行空けた。

 最後に注を附した。]

 

 日本新名勝俳句入選句

 

       英彥山

 

  谺して山ほととぎすほしいまま  久 女

 

 昨夏英彥山に滯在中の事でした。

 宿の子供達がお山へお詣りするといふので私もついてまゐりました。行者堂の淸水をくんで、絕頂近く杉の木立をたどる時、とつぜんに何ともいへぬ美しいひゞきをもつた大きな聲が、木立のむかうの谷まからきこえて來ました。それは單なる聲といふよりも、英彥山そのものゝ山の精の聲でした。短いながら妙なる抑揚をもつて切々と私の魂を深く强くうちゆるがして、いく度もいく度も谺しつゝ聲は次第に遠ざかつて、ぱつたり絕えてしまひました。

 時鳥! 時鳥! かう子供らは口々に申します。

 私の魂は何ともいへぬ興奮に、耳は今の聲にみち、もう一度ぜひその雄大なしかも幽玄な聲をきゝたいといふねがひでいつぱいでした。けれども下山の時にも時鳥は二度ときく事が出來ないで、その妙音ばかりが久しい間私の耳にこびりついてゐました。私はその印象のまゝを手帳にかきつけておきました。

 其後、九月の末頃再登攀の時でした。いつもの樣にたつたひとりで山頂に佇んで、四方の山容を見渡してゐますと、七人ばかりのお若い男の方ばかりが上つてきて私の床几の橫にこしをかけて、あれが雲仙だ、阿蘇だとしきりに眺めてゐられます。きいて見るとその人々は日田の方達で、その中に俳人もあり、私が小倉のものだと申すと、「では久女さんではありませんか」と云はれました。そんな話をし乍ら六助餠をたべてゐます折から、再び足下の谷でいつかの聞きおぼえある雄大な時鳥の聲がさかんにきこえはじめました。

 靑葉につゝまれた三山の谷の深い傾斜を私はじつと見下ろして、あの特色のある音律に心ゆく迄耳をかたむけつゝ、いつか句帳にしるしてあつたほととぎすの句を、も一度心の中にくりかへし考へて見ました。ほととぎすはをしみなく、ほしいまゝに、谷から谷へとないてゐます。じつに自由に。高らかにこだまして。

 その聲は從來歌や詩によまれた樣な悲しみとか、血をはくとかいふ女性的な線のほそいめめしい感傷的な聲ではなく、北嶽の嶮にこだましてじつになだらかに。じつに悠々と又、切々と、自由に――。

 英彥山の絕頂に佇んで全九州の名山をことごとく一望にをさめうる喜びと共に、あの足下のほととぎすの音は、いつ迄も私の耳朶にのこつてゐます。

 

[やぶちゃん注:「谺」「こだま」。

「ほととぎす」「時鳥」カッコウ目カッコウ科カッコウ属ホトトギス Cuculus poliocephalus 。博物誌は私の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 杜鵑(ほととぎす)」を参照されたい。

「英彥山」福岡県田川郡添田町と大分県中津市山国町に跨る山で標高は一一九九メートル。日本三大修験山の一つに数えられ、また、耶馬(やば)日田(ひた)英彦山国定公園の一部を成す。ここ(グーグル・マップ・データ。以下、支持なしのリンクのみは同じ)。詳しくは、「杉田久女句集 255 花衣 ⅩⅩⅢ 谺して山ほととぎすほしいまゝ 以下、英彦山 六句」の私の注を参照されたい。彼女は英彦山が好きで何度も登頂している。しかも和装でである。

「昨夏」昭和五(一九三〇)年夏。

「床几」「しやうぎ」。

「日田」当時は日田町(ひたちょう:現在の大分県北西端にある日田市(英彦山は北端の直近に当たる)の中心市街)を中心とした日田地区。この時には既に旧日田郡は廃止されていた。

「六助餠」(「餠」の字は江戸時代より近現代まで「餅」の字が優勢であるが、敢えてここはこの字体を用いた。個人的に「餅」よりは「餠」の方が好きだからである。正直、「并」という字は生理的に好きになれないのである)は不詳。但し、同じ英彦山での句に、

 六助のさび鐵砲や秋の宮

があり、「杉田久女句集 255 花衣 ⅩⅩⅢ 谺して山ほととぎすほしいまゝ 以下、英彦山 六句」の注で私が記したように、戦国期の毛谷村(現在の大分県中津市山国町(やまのくにまち)槻木(つきのき)。「毛谷村神社」と神社名に旧村名が残っているのが判る。英彦山の大分県側である)出身の怪力無双の義人毛谷村六助(木田孫兵衛)にあやかった力餅の名物餅か。調べてみたが、現在は売られていない模様である。

「三山」英彦山には北岳・中岳・南岳の三つの峰がある(グーグル・マップ・データ航空写真)。

「嶮」「けん」と音読みしておく。嶮しくそそり立った巌(いわお)。]

杉田久女 安德帝の柳の御所跡にて (句集未収録句五句)

 

[やぶちゃん注:杉田久女の本随想は発表誌や未詳で(本文から雑誌発表作或いは投稿予定稿であることは判る。「仰せにより」とあって句を掲げていることから、誰か俳人の主宰する俳誌であった可能性は高いであろう)、その「柳の御所跡」を訪れた年月日も未詳である。一つ、私の「杉田久女句集 124 龍胆」で注を附したが、角川学芸出版二〇〇八年刊の坂本宮尾「杉田久女 美と格調の俳人」の七〇ページに、『龍胆も久女が好んだ花で、門司近くの大里(だいり)の野にこの花を摘みに行った』とあり、これは坂本氏の著作では「Ⅱ 昭和六年まで」のパートにあるもので、坂本氏が、もし時系列で正確に記載をなさっているとすれば、同書にある大里訪問は昭和四(一九二九)年(満二十九歳)の秋となる。この時は、『ホトトギス』に投句しており、同年三月には吉岡禅寺洞の『天の川』の雑詠婦人俳句欄選者となっている。但し、本篇もこの同じ時であるという保証はなく、当時の住まいも小倉で、ごく近く、それ以後の再訪である可能性もすこぶる高いから、一概には言えない。但し、句柄は久女のものとしては、初期の若さを感ずるものではある。しかし、やはり、判らぬ。

 底本は一九八九年立風書房刊「杉田久女全集第二巻」を用いたが、幸いにも本文は歴史的仮名遣が採用されていることから、恣意的に私の判断で多くの漢字を正字化した(「跡」は江戸時代以降、特に近現代では、こうした熟語では「蹟」としない表記が圧倒的に多いので、「跡」とした)。そうすることが、敗戦前までが俳人としての活動期であった彼女の本来の表現原形に近づくと考えるからである(久女は昭和二〇(一九四五)年十月末に大宰府の県立筑紫保養院に入院し、翌昭和二十一年一月二十一日に同院で腎臓病で逝去している。満五十五歳であった)。

 なお、最後のある五句は、孰れも、現在、知られている杉田久女の句集類には所収しない句である。句は上下を揃えて割付されているが、ブログ・ブラウザでは上手く配置できないので、各句とも詰めた。

 最後に注を附した。]

 

 安德帝の柳の御所跡にて

 

 初冬の一日私は門司市大里(ダイリ)に柳の御所跡をたづねました。都落された安德帝は平家の一門にようせられて、筑前遠賀郡山鹿(塢舸(をか)の水門(みと))から更らにこの、豐前柳が浦に移らせ給うたことが平家物語にも見えてゐる樣であります。小倉から浦づたひ戶上山麓にあたるこの宮は、今は新開の町中に挾まれてゐますが、碑の御製

  都なる九重のうち戀しくば柳の御所をたづねても見よ

を拜しますと、此邊一帶が大里の松原(萬葉の菊の高濱)につどいてゐたといふ漁村の昔、馴れぬ雲上人に朝夕の戶上颪、壇の浦の御沒落迄をこゝにこもらせられたおいたはしさ。大瀨戶から彥島へかけて平家の兵船がみちみちてゐたであらうなどと、私はひとり巨柳のかげに佇んで、榮枯盛衰の感にうたれました。

 然し又、再びめぐむ柳の春に思ひいたると、國破れて山河ありで、人間の興亡にかゝはらず大自然の悠久も一しほ思はれ、眼前にそばだつ戶上山の姿に、ぬかづきたい敬虔な心地も起るのでした。

 輝しい天地の春を待つ心持で、御一家にも御誌の上にも祝福あらん事をはるかにいのります。

 仰せにより習作ながら

     大里の宮にて

  この宮や柳ちりしく夕颪  久 女

  柳ちる御製の俳にぞ佇めり

  町の名にのこる内裏や柳ちる

  散り柳掃く宮守もなかりけり

  ちりいそぐ柳のかげにたもとほり

 

[やぶちゃん注:「安德帝の柳の御所跡」「門司市大里(ダイリ)」大里は現在の福岡県北九州市門司区の地名及び地域名で門司区の南西部に位置する。参照したウィキの「大里」 他によれば、『九州最北端の宿場町として古くから繁栄した』とあり、嘗つての地名表記は「内裏(だいり)」であったが、享保年間(一七一六年~一七三六年)、『この地に海賊が出没し、内裏の海に血を流すのは恐れ多いとして大里に変更された』。この旧地名は寿永二(一一八三) 年に、この地に安徳天皇の御所であった柳の御所があったことに由来し、現在の御所神社(グーグル・マップ・データ。以下指示のないリンクは同じ)のある門司区大里戸ノ上一丁目附近が、その柳の御所の比定地となっているとある。『享保の頃、 この地に海賊が出没し、内裏の海に血を流すのは恐れ多いとし て大里に変更された』とあり、明治三五(一九〇二)年の『明治天皇の九州行幸の』際には、『御所神社の社殿が明治天皇の休憩場所に使われた』が、これは『安徳天皇の慰霊が目的だったとされる』ともある。

「ようせられて」「擁せられて」。

「筑前遠賀郡山鹿(塢舸(をか)の水門(みと))」「塢舸の水門」「岡の水門」は「をかのみなと」とも読み、現在の福岡県の遠賀川河口附近の地の古称である。神武天皇東征の際、に皇子や舟師を率いて到着した所とされる。因みに、ここや遠賀川流域は久女がとても愛した場所であった。

「豐前柳が浦」現在の北九州市門司区の大里を含む海辺の古称。「御製」が天皇及び皇族の和歌にしか用いないことを知らなかったとすれば、やはり久女の若い頃の感じがしてくる。

「戶上山」(とのうえやま)と読む。柳の御所の南東後背(頂上までは直線で約一・七キロメートル)に当たる同じ門司区大里の戸ノ上山(グーグル・マップ・データ航空写真)。

「御製」ちょっと痛い久女のミス。これは、かの歌の名手平忠度の一首である。サイト「源平史蹟の手引き」の「柳の御所<福岡県北九州市>」のページが写真が豊富で、碑や解説板などもよく見えるのでお勧めである。ただ、この碑、見るからに新しい感じだ。

「萬葉の菊の高濱」巻十二の「別れを悲しびたる歌」の最後に配されている一首(三二二〇番)、

   *

 豐國(とよくに)の

     企救(きく)の

    高濱高高(たかだか)に

  君待つ夜(よ)らは

          さ夜ふけにけり

   *

この「企救」は豊前の古い郡名で、現在の北九州市門司区及び小倉区に亙る。現在も大里のある半島の名として「企救半島」の名が残る(国土地理院図)。「ら」は「等」で、名詞に付いて語調を整えるもの。

「戶上颪」「とのかみおろし」。「颪」は冬季に山などから吹き下ろす風のこと。

「大瀨戶」(おおせと)関門海峡のこの附近の広域呼称。

「彥島」(ひこしま)は関門海峡の対岸の山口県下関市の南端にある陸繋島。本州最南西端に当たり、嘗つては大瀬戸と小瀬戸(こせと)の間の島であったが、小瀬戸が一部埋立てられた昭和一二(一九三七)年以来、人工の陸繋島となっている(当該ウィキに拠った)。ここ(国土地理院図)。

「たもとほり」「徘徊り」(動詞・ラ行四段活用の連用形)で「 行ったり、来たり、歩き回って」の意。]

2022/07/23

曲亭馬琴「兎園小説別集」下巻 天愚孔平傳

 

[やぶちゃん注:本来の底本である国立国会図書館デジタルコレクションの「新燕石十種」第四では本篇はここからだが、これは「曲亭雜記」巻第四・下のここから所収し、ルビも振られてあるので、それを基礎底本とし、先のものを参考にして本文を構成した。一部の読みを濁音化した。吉川弘文館随筆大成版を参考にしつつ、誤字と判断されるものや、句読点などを修正した。歴史的仮名遣の誤りはママ。] 

   ○天愚孔平傳       著作堂主人

萩野喜内(はぎのきない)、雲州候の臣、名は信敏、宇は求之(きうし)、鳩谷(きうこく)と號し、又天愚齋(てんぐさい)と號す。本姓は平氏也。孔子六十五代の子孫、明(みん)の世に孔胤椿(いんちゆん)といふ人あり。その妾(めかけ)胤椿が子を孕みたるに、胤椿死しければ、妾、流浪してありしを、日本の海賊、明の邊鄙(へんぴ)を侵(をか)したる時、その女を我國に連來(つれき)たる。平(たいら)の某(それ)といふもの、かの女の孔子の後裔を懷婚したると聞て、これを入れて妻とす。其生れし子を、則、養ふて子とし、孔子の孔と平とを合(あは)せ、孔平氏(くびらうじ)と名乘らす。その末葉(まつえふ)、氏を萩野と改む。喜内は古今に稀なる奇人なる事、世にかくれなけれども、其傳をしるしたるものなし。今喜内のみづから語れる所を、かたはらより書(かき)したること左の如し。

[やぶちゃん注:以上の一段落は底本では全体が一字下げ。

「天愚孔平」(てんぐこうへい 享保二(一七一七)年?~文化一四(一八一七)年)は江戸中・後期の儒者にして奇人の武家。本名は萩野信敏(はぎののぶとし)、通称を喜内、号は鳩谷(きゅうこく)。出雲松江藩江戸詰の三百石取りの武士であったが、異風奇行を好み、高慢なため、世人から「天狗」と異名され、自分も「天愚斎」と名のり、さらに「孔子の子孫」を自称し、名を「孔平」変えた。参拝者が寺社に貼る、所謂、「千社札」は彼の考案とされ、それを継竿(つぎざお)の先につけた刷毛(はけ)で天井などの高い所に貼り付ける風習も、彼の工夫とされている。墓は駒込の泰宗寺(たいそうじ)にある(リンクはグーグル・マップ・データ(以下同じ)。以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。また、松江歴史館学芸係主幹西島太郎氏の「第二回市史講座ミニレポート」(平成 三〇(二〇一八)年 五 月 十九 日開催)の「松江藩主松平宗衍・治郷二代の寵愛を受けた江戸詰藩士・萩野信敏―天愚孔平伝―」レジュメPDF)が年譜形式で非常に詳しいので、是非参照されたい。恐らくは現在入手し得る最も信頼出来る天愚孔平に関わる貴重な資料である。

「萩野喜内」早速だが、「曲亭雜記」では「荻野喜内(おきのきない)」とあるのだが、「新燕石十種」も吉川弘文館随筆大成版も「萩野」であり、諸資料を見ても「荻野」が正しいので、訂した。

「孔胤椿」(一五七一年~一六一九年)は清の衍聖公(えんせいこう:北宋から清にかけての封爵名で、孔子の嫡流の子孫が世襲した)の実子で山東省曲阜(孔子の出身地)の出身。事実、孔子の第六十五代嫡孫である。]

私儀、當年【文化九年壬申[やぶちゃん注:一八一二年。]。】百五つに相成候。寶永六年[やぶちゃん注:一七〇九年。]五月廿八日、麹町天神下にて生る。父は俗醫にて彥一郞と申。名は信龍(のぶたつ)、字は伯鱗(はくりん)、號を孔子の由緣(ゆかり)にて闕里(けつり)と申す。醫を以て始て雲州家に仕ふ。祖父は東溪と申て書を能(よ)くす。細井廣澤(ほそゐくわうたく)も東溪に書を學びたり。高祖父は春庵といふ。號を月笑と云て、徂徠の學問の師匠なり。放蕩不羈にて、女郞を二十七人まで受出(うけだ)し、芝居棧敷、每日なり。私は、父彥一郞、醫業をつがせまじとて、生れし事を旦那に屆けざること十二年、享保六年[やぶちゃん注:一七二一年。]に屆をしたるゆゑ、旦那前は當年九十四、五なるべし。漢の李少君(りしようくん)が故事にならひ、誰が年を問ても、七十々々といふ。故に世上にては、喜内が百五つといふは、虛言ならん。たかだか、七、八十ばかりに見ゆると取沙汰するよし、是と申も、容貌(かたち)の若く見ゆる故なり。長壽するには、いろいろ仕方あれども、先づ湯(ゆ)をつかはず、熱物(あつもの)をたべず、女をせぬが第一也。私儀、四十ばかりより、湯をつかひ不ㇾ申。冷飯(ひやめし)ばかりたべ、妻をも近付(ちかづけ)不ㇾ申。又爪をとる日を六と九とに定め、六の日には手の爪をとり、九の日には足の爪をとる。是も養生によろしき也。私儀、若年より一體(いつたい)性(せい)强く、妄想(まうざう)を十一歲より每夜々々見たり、十五、六のときには甚しく相成候。俗に妄想は、弱き人の見るものにて、宜しからぬ事なりと申せども、私のは强過(つよすぎ)て見る妄想と見えて、此年來まで在生仕る。當出羽守には曾祖母(ひいばゞ)にあたる、四代前出羽守の奧方、京都伏見殿より入輿(じゆよ)ありし、南海(なんかい)の養母にて後家になられ、天岳院と申されたる隱居の住居向(すまゐむき)、死後、明(あき)御殿となりてありしに、南海幼年の節、伽(とぎ)の子どもを連れ、每日遊びに行れし時、私も子供にて供(とも)したり。その明御殿にて、朋輩(はうばい)の子供、寄合(よりあ)ひ、私をとらまへ、手すさみをしてくれたり。其後、彼のひとり手すさみを、自分にて三度して見たる外、したる事なし。二十歲の時にはじめて女を仕る。是は内の女のよく寢入(ねいり)たるを伺ひて忍びより、既に合するまで、目をさまさず。その間に事果(ことはて)てかへれり。その女の名も忘れたり。養生には情(じやう)をうつさず、早く仕まふが、宜候。其後、丹羽左京大夫陶如入道の妾(めかけ)おきくの緣により、入道に懇(ねんごろ)に出入(でいり)したり。入道、私が偏屈なるをもつて、粹(すい)にせんとて吉原へ召連(めしつれ)られ、二の町といふ女郞を揚(あげ)て下されたり。一處(いつしよ)に床には寐たれども、妓女(ぎじよ)を犯す事は、孔氏の代々の遺戒なれば、發起(ぼつき)して仕方なきまゝ、かのひとり手すさみにて、帆柱を倒したり。入道のかよはれし、度々(たびたび)供いたし、その物入、三百兩ほどなり。入道の仰(おほせ)に、我等三百兩入れても、喜内を粹にせばやと思ひしに、終に粹にならず、と笑はれたり。又、南海、每度吉原へかよはれたれども、外(そと)の物をたべる事、きつう嫌ひなれば、屋敷より葵の紋(もん)付(つけ)たる膳(ぜん)だんすを用意し、その中に器物(うつはもの)を入れ、料理人にこしらへさせて、たべられ、私には、女郞屋より出したる吸物(すひもの)、硯蓋(すゞりぶた)等を、主人の名代にたべよ、とて、膝元ヘ、始終、おかれ、腹一ぱい、これをくひ候事、忝(かたじけなき)儀に存候。私儀、六候十三盜七妙一竒(ろくこうじうさんとうしちみやういつき)とて、世に珍らしき行ひあり。是は、いつぞ申べし。私妻は藤堂和泉守樣の醫者宮田良運娘にて、子九人あり。總領女、其次も、其次も女、五人目、男、六人目彥一。在二、今、近習頭見習(きんじゆがしらみならひ)を命ぜらる。その次、又、女、これは藩中の醫者加藤玄又(げんゆう)が妻となる。玄又は能書也。八人目、男、岩藏、藩中外山氏へ養子に遣り、當時、奧納戶取次をつとむ。九人目、女、早世す。下谷泰宗寺に葬る。知秋(しちう)と戒名をつけられたり。私、俸祿、本知三百石、家米五十石、是は一代切なり。先年、御客應對表向御出書向(おきやくおうたいおもてむきごしよむき)と申役儀を命ぜられし時、別に百五十石くれられしに、不首尾にて此百五十石は取上られ、本知三百石ばかり也【右、孔平傳、終。】。

[やぶちゃん注:「麹町天神下」現在の東京都千代田区平河町の平川天満宮附近。

「闕里」孔子が弟子を教え、没したとされる地名。山東省曲阜県にある。

「彥一郞」「信龍」「島根大学標本資料類データベース」のこちらに「出雲天隆公壽藏記」(松江市の月照寺にある石碑について書かれたもの)なる書が現存し、その作者は彼の父萩野信龍と、「萩野鳩谷」名義の彼の名が記されてある。

「東溪」不詳。

「細井廣澤(ほそゐくわうたく)」(万治元(一六五八)年~享保二〇(一七三六)年)は江戸中期の儒学者・書家・篆刻家。名は知慎(ともちか)。第十代松江藩藩主松平治郷不昧の幼少期からの書道の師である。彼の書道の師に「東溪」の名は見えない。

「高祖父は春庵といふ。號を月笑と云て、徂徠の學問の師匠なり」先の西島氏の年譜に、二代目『荻野春庵(珉(みん)・復堂(ふくどう))』として出る人物の先代の春庵であろう。しかし、この徂徠の師というのは、どうだろう、名前が挙がってこないが。

「李少君(りしようくん)が故事」(生没年未詳)前漢の第七代皇帝武帝(紀元前一五六年~紀元前八七年)に不老不死を説き、絶大なる信頼を得た道士。羽化登仙したとされ、また、彼は公的に神仙術・煉丹術の存在をアピールした始祖とされているようである。草野巧氏のサイト「フランボワイヤン・ワールド 中国神話伝説ミニ事典/神様仙人編」の「李少君」に、『丹薬の製造法を世界で始めて語り、煉丹術の始祖とされる漢代の神仙。伝説によると、斉の生まれで、海岸地帯を旅行していたとき』、『安期生に会い、煉丹術を授けられたという』『漢の武帝』『に仕えて大いに寵愛されたが、そのころこんなことがあった。ある宴会の席で』、九十『歳を超える老人に会った李少君は、「わたしはあなたの祖父と遊んだことがある」といい、老人の記憶どおりのことを詳しく語った。また、武帝が持っていた古い銅器を見て、「これは斉の桓公のものです」といったが、後に刻銘を調べると本当にそうだった。このため、人々は』、『李少君は生き神で数百歳だ』、『と考えたという』という話が、ここと親和性がある。

「當出羽守」出雲松江藩第八代藩主松平出羽守斉恒(なりつね 寛政三(一七九一)年~文政五(一八二二)年)。

「四代前出羽守の奧方、京都伏見殿より入輿(じゆよ)ありし、南海(なんかい)の養母にて後家になられ、天岳院と申されたる」出雲松江藩第五代藩主松平出羽守宣維(のぶずみ 元禄一一(一六九八)年~享保一六(一七三一)年)の継室(正室順姫は十九で逝去)邦永親王王女岩宮(元禄一二(一六九九)年~元文二(一七三七)年)の院号が天岳院。この「南海」は出雲松江藩第六代藩主松平出羽守宗衍(むねのぶ 享保一四(一七二九)年~天明二(一七八二)年)の法号。しかし、ここで甚だしい不審が起こる。孔平が自身で言った通り、彼の生年が「寶永六」(一七〇九)年だとしたら、宗衍が生まれた時には既に二十歳である。「私も子供にて供(とも)したり」というのは、これ、おかしだろ! 天愚! 享保七(一七二一)年でも、八つも上で、これもちょっとクエスチョンでねえかい? 寧ろ、先の西島氏の冒頭にリストしてある近年に生年説の、享保一六(一七三一)年・享保十七年・享保一八(一七三三)年が一番しっくりくるぜよ!

「手すさみ」自慰行為。

「内の女」(むすめ)下女。

「仕まふが」「しまふが」。

「宜候」「よろしくさふらふ」。

「丹羽左京大夫陶如入道」底本では「闊如(けつじよ)」とあるが、やはり前掲二種で、かくした。しかし、人物、誰だか、判らぬ。西島氏に年譜にも出てこない(実は妻子のことは嫡子彦一郎と次男の藩への出仕ぐらいしか載らない)。官位と金遣いの荒さからどこかの藩主っぽいが。

「二の町」「にのまち」と読んでおく。

「發起(ぼつき)」底本ではルビは「ほつき」。私の確信犯。

「硯蓋(すゞりぶた)」本当の硯箱(古くは花・果物・菓子などを載せるのに用いた)に似た方形の盆状の器(うつわ)。祝儀の席などで「口取り肴(くちとりざかな)」を盛るのに用いた。また、その料理をも指す。

「六候十三盜七妙一竒(ろくこうじうさんとうしちみやういつき)」不詳。

「藤堂和泉守」伊勢国津藩第九代藩主藤堂和泉守高嶷(たかさと/たかさど       延享三(一七四六)年~文化三(一八〇六)年)か。

「宮田良運」不詳。

「藩中外山氏」松江藩には家臣団に外山氏がいる。

「本知」本知行分。

「家米」一代限りで与えられた特別手当の扶持米か。

「御客應對表向御書向(おきやくおうたいおもてむきごしよむき)」判ったような判らぬ職だな。

 以下、底本では最後まで全体が一字下げ。]

解云、或人の話に、喜内が妹(いもと)は【或は娘ともいふ。】南海公の妾なりければ、喜内も用人格にまで進みたり。これにより、門外へ出る日は、衣裳も美々しく、若黨、草履取等の供人(ともびと)をめし連れねばならず、しかれども門外他行(たぎやう)の時、僅(わづか)に三、四町ゆくと、若黨等をかへし、ふるき衣裳を著かへ、上には古き合羽(かつぱ)を著て、草履をはき、草履取只の一人を俱して、江戶中をあるきしかば、世の人、天狗孔平と異名(いみやう)して、しらざる者なし。すべての事に高慢なれば、みづから天愚齋と號し、世の人も、天狗とは、いひしなり。年久しく浴(ゆあみ)みせざる故に、人、これと應對すれば、臭氣、鼻を穿(うが)てり。女子(をなご)どもは、いやがりて、立(たち)たる跡をば、はやく掃出(はきいだ)せしとなり。この他、この人の事に就ては、種々(くさぐさ)のおかしき物がたり、あり。予が總角(あげまき)の比、見かへり醫者、龜の甲(こふ)醫者、天狗孔平とて、三絕のやうに、人、いひけり。見かへり醫者は、總髮の老醫なりき。杖をつきながら、四、五間ゆく每に、跡を見かへる癖あり。龜の甲醫者は、龜の形につくりし笠をかぶりて、これも江戶中をあるきし賣藥の老醫なりき。孔平は晴天に破合羽(やぶれがつぱ)草鞋(わらじ)がけにて、江戶中をあるきし也。孔平が沒せし年は文化の末なり。月日は詳ならず。猶たづぬべし【千社參りの札を張ることは、この孔平がはじめたりといふ。孔平と印板せし紙札、今は稀にあり。】。

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 十三塚の事

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。]

 

     十三塚の事 (大正元年十二月考古學雜誌第三卷第四號)

 

 柳田國男氏の石神問答に、本邦諸國に多き十三塚の事散見するを見しに、大要は十三佛の信仰に基きて築きしと云ふ者の如し。其後柳田氏よりの書信に、鳥居龍藏氏蒙古で塚を十三づゝ相近接して立し者を屢々見たる由敎示されたるも、予は鳥居氏の原作を見ざる故委細を知らず。頃日讀書中、蒙古の十三塚の事一條見出たるに付き、多分は遼東の豕と察すれど念の爲め抄して此事を硏究する人に便にす。云く、李克用沙陀に王たりし時虐政甚しく、民爭ふて其歡心を得んとて爲さざる所ろ無し。其遺跡今も尙見るべき者の一例を擧んに、沙陀の諸部の道傍に大石塚恰も古「ゲーリック」國の古塚に似たる有り、必ず十三塚を一列に築き、中央の一は高さ一丈廣さ之に相應する大塚にて、他の十二は之より小さく、大さ皆相同じ。是れ往昔蒙古人が克用父子を悅ばしめんとて築きし所にて、十三は克用の十三子、中央の塚は其長子存勖に象る。今に至る迄之を十三大寳と名けて崇敬す。山地には石を用ひ、石無き地には木を用ひ、原野石も木も無き處には土にて作り、每年七月十五日に老若兒女喇嘛僧の相圖を見て騎馬して十三塚を走り廻る。又香と紙を焚て叩頭祈念し、其後羊肉を饗受す。此式を「アヲ・パヲ」と名く。拜王といふ義ならむと(John Hedley, ‘Tramps in Darkest Mongolia,’ 1910, pp.125-127 より抄出す)。

[やぶちゃん注:「柳田國男氏の石神問答」(いしがみもんだふ)は明治四三(一九一〇)年刊で、翌年には序を付して再刊している。日本民俗学の先駆的著作として広く知られる。日本に散見される各種の石神(道祖神・赤口神・ミサキ・荒神・象頭神など)についての考察を、著者と日本メソジスト教会の最初の牧師の一人で民俗学者でもあったペン・ネーム山中共古(きょうこ)の名で知られる山中笑(えむ)・人類学者伊能嘉矩(かのり)・歴史学者白鳥庫吉(しらとりくらきち)・歴史学者喜田(きた)貞吉・「遠野物語」の原作者佐々木喜善(繁)らとの間に交わした書簡をもとに柳田國男が編集した、一風変わった構成の論考著作である。国立国会図書館デジタルコレクションで初版本が視認出来るが、その「概要」目次のここに十三塚に関わる記載の本文ページのインデックスがあるので、それに従って、それぞれを読まれんことをお薦めする。私は所持する「ちくま文庫」版柳田國男全集で二十年程前に読み始めたが、書簡体という形式がまどろっこしくて堪えられず、途中でリタイアしたまま、放置して完読していない。

「十三塚」(じふさんづか)当該ウィキを引く。『日本列島各地に分布する、民間信仰による土木構造物で』、『一般には』十三『基の塚(マウンド)から構成される。また』、『地名となっているところもある。本来は十三仏に由来するとされているが、それぞれの塚の伝承では必ずしもそうなってはおらず、数も』十三『に限定されて』はいない。『典型的な例の場合、親塚』一『基とそれ以外の子塚』十二『基からなる。すべてが直径』十『メートル以下であることが多い。塚の上には板碑など』、『なんらかの石造物が置かれることがある。埋葬施設はなく、地下施設もない。築造時期は中世である。全国的に分布しており、岩手県から鹿児島県まで』三百『箇所以上』、『存在していたが』、『古墳などと異なり』、『文化財として残されることは少なく、一部例外を除けば』、『開発によって姿を消しつつある』。『村境や峠道に多くみられ』、『地方により十三坊塚、十三本塚、十三人塚、十三壇、十三森などと名付けられていることもある』。各地の伝承によれば、例えば、『戦死者、落武者ら』十三『人の供養塚』乃至は『墳墓として造られた』とするもの、『埋蔵金の隠し場所として造られた』とする説の他、昔話には十二匹の猫と、一匹の『大ネズミの墓とする』話譚がある。そのシノプシスは、『昔、その地にあった寺に』、『夜な夜な』、『正体不明の化け物が出るようになり、住職を恐れさせた。ある日』、十二『匹の猫を連れた旅人が寺に宿泊を求める。住職は化け物が出る事を話したが、近所に他の家もなく、旅人は猫たちと共に寺に宿を取った。その夜、現われた化け物に』十二『匹の猫が立ち向かい、一晩』、『死闘が続く。夜明けとともに静かになり、住職と旅人が様子を見ると、大犬ほどもあるネズミ』一匹と十二『匹の猫の死体があった。住職は』十二『匹の猫の塚を造って手厚く供養し、それに大ネズミの塚を加えて十三塚と呼ぶようになった』というものである。以下、「起源」の項。『学術的に本来の築造理由として考えられるものは』、『十三仏信仰』・『古墳時代の群集墳』・『経塚』若しくは『善根のための造塔行為として造られた』もの・『怨霊や無縁仏の供養塚』・『境界を鎮護するため』(結界塚)が挙げられてある。『史料に乏しく、発掘調査によっても埋納品が少ないことから(銭などの表面採集が多い)、まだ解明は進んでいない。また地元での呼称が十三塚でなくとも小塚が多数あって、実体は十三塚であるものもある(千葉県千葉市中央区の七天王塚や神奈川県横浜市旭区の六ツ塚など)』とあり、以下に「主な遺跡」として多くの場所・地域が挙げられてある。なお、『東京人類學會雜誌』の第十五巻第百六十九号(明治三三(一九〇〇)年四月発行)に載る坪井正五郎の論考『日本の「積み石塚」』も本篇と合わせて読むに、非常に価値がある。「J-Stage」のこちらからダウン・ロード可能であるので、是非、読まれたい。

「十三佛」当該ウィキによれば、中国で偽経によって形成された地獄思想の『十王をもとにして、室町時代になってから日本で考えられた、冥界の審理に関わる』十三『の仏(正確には仏陀と菩薩)』、閻魔王を初めとする冥途の裁判官たる十王と、『その後の審理(七回忌・十三回忌・三十三回忌)を司る裁判官の本地』(ほんじ)『とされる』仏に関わる十王信仰を指し、また、この十三仏は『十三回の追善供養(初七日〜三十三回忌)をそれぞれ司る仏様としても知られ、主に掛軸にした絵を、法要をはじめあらゆる仏事に飾る風習が伝えられ』ているとある。十三の冥王と本地仏は、リンク先で表になっているので、参照されたい。

「其後柳田氏よりの書信に、鳥居龍藏氏蒙古で塚を十三づゝ相近接して立し者を屢々見たる由敎示されたる」先に「南方熊楠・柳田國男往復書簡(明治四五(一九一二)年三月・三通)」を電子化注しておいたので、そちらを参照されたい。一部、そちらで注したこととダブっているが、そもそも先にここで注している最中に必要にかられてやったことであり、本篇をのみ読まれる向きには、残しておいてよかろうと思い、ここの注には手を加えなかった。「鳥居龍蔵」(明治三(一八七〇)年~昭和二八(一九五三)年)は人類学者・考古学者・民族学者・民俗学者。小学校中退後、独学で学び、東京帝国大学の坪井正五郎に認められ,同大人類学教室の標本整理係となった。後、東大助教授・國學院大學教授・上智大学教授などを歴任、昭和一四(一九三九)年から敗戦後の昭和二六(一九五一)年には燕京大学(現北京大学)客員教授(ハーバード大学と燕京大学の共同設立による独立機関「ハーバード燕京研究所」の招聘であったが、昭和一六(一九四一)年の太平洋戦争勃発によってハーバード燕京研究所は閉鎖されてしまい、戦中の四年間は北京で不自由な状態に置かれた。日本敗戦により研究再開)として北京で研究を続けた。日本内地を始め、海外の諸民族を精力的に調査、周辺諸民族の実態調査の先駆者として、その足跡は台湾・北千島・樺太・蒙古・満州・東シベリア・朝鮮・中国西南部など、広範囲に及んだ。考古学的調査の他にも民族学的方面での観察も怠らず、民具の収集も行ない、北東アジア諸民族の本格的な物質文化研究の開拓者となった。また、それらの調査を背景に日本民族形成論を展開した。鳥居の学説の多くは、現在ではそのままの形では支持できないものが多いが、示唆や刺激に富むものが少なく、後世に大きな影響を与えた研究者である。なお、柳田國男は「一目小僧その他」(ブログ・カテゴリ「柳田國男」で全電子化注済み)では、各所で、彼の「無言貿易」の説を批判しており、アカデミストとして、鳥居の学歴を軽蔑している雰囲気が充満しており、甚だ不快である。例えば『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 隱れ里 一』を見られたい。

「遼東の豕」(りやうとうのゐのこ)は「本人がひどく得意でも、ほかからみれば、いっこうにつまらないこと」の喩えで、「世間知らずで一人よがりの慢心」を指す成句。遼東は遼寧省南部を指す。後漢の光武帝の時、幽州の牧朱孚(ぼくしゅふ)が、功を誇って反乱を企てた漁陽の大守彭寵(ほうちょう)に、「昔、遼東で豕(ぶた)が白い頭の子を生んだ。珍しいことなので献上しようと思い、河東へ行くと、そこの豕は、皆、白かったので、恥ずかしい思いをして帰った」との喩えを引いて、彭の功が宮廷の場では、なんの価値もないことを戒めた、と伝える「後漢書」の「朱孚伝」の故事によるもの。

「李克用」(りこくよう 八五六年~九〇八年)は五代後唐の事実上の始祖。諡は武皇帝。廟号は太祖。後唐第一代の皇帝荘宗の父。軍功によって、唐朝から李国昌の姓名を与えられた突厥人(とっけつじん:六世紀に中央ユーラシアにあったテュルク系遊牧国家の末裔)の朱邪赤心の第三子。幼時から騎射をよくし、また、片方の目が悪かったことから「独眼竜」とも称された。「黄巣の乱」の鎮定に武功第一として検校司空同中書門下平章事・河東節度使に任ぜられ、次いで、隴西郡王・晋王に進んだ。唐末の藩鎮割拠の中で、朱全忠(後梁の太祖)と対立し、唐朝を守った。子の李存勗(そんきょく:本文の「存勖」と同字)が後唐を建国し、克用を「太祖武皇帝」とした。

「沙陀」(さた/さだ)は山西省北部(グーグル・マップ・データ)。

『古「ゲーリック」國』旧石器時代の紀元前七五〇〇年頃にアイルランド島に定住したアイルランド人の祖先ゲール人(アイルランド語:Na Gaeil:ナ・ゲール)の古代国家。

「象る」「かたどる」。

「喇嘛僧」「ラマそう」。

「焚て」「たきて」。

John Hedley, ‘Tramps in Darkest Mongolia,’ 1910, pp.125-127」ジョン・ヘドリー(一八六九年~?:詳細事績不詳)の「最暗黒のモンゴルの漂流者」か。サイト「HathiTrust Digital Library」のこちらで原本の当該ページから視認出来る。]

南方熊楠・柳田國男往復書簡(明治四五(一九一二)年三月・三通)

 

[やぶちゃん注:以下は、先般、電子化注を始めた「續南方隨筆」の「十三人塚の事」の注に必要となったため、急遽、電子化した。従って、注はどうしても必要なものと判断したものに限った。

 底本は一九八五年平凡社刊の「南方熊楠選集」の「別巻 南方熊楠 柳田國男 往復書簡」の「245」ページから「250」ページまでをOCRで読み込んだ。南方二通と柳田一通である。三通目は最後の部分が必要と考え、添えた。なお、底本は新字新仮名で書き変えられており、気持ちが悪いが、仕方がない。]

 

  南方熊楠から柳田国男ヘ

          明治四十五年三月六日

 拝啓。貴著『石神問答』山中笑氏の状に、仏教に十三の数に関すること少々挙げたり。しかし、十三仏ということはなし。小生按ずるに、この十三は十二に一を合わせたるものならん。(十二月に一の太陽を合わせ、十二神将に一の薬師仏を加うるごとく)、なにかまた暦占学・天文学上より出でたることかと存じ候。さて今日まで一切経およそ十分の六、七通り見たが、日本にいう十三仏は無論ないが、十三仏名ということはあり。貴下に目下何の用もないことかも知れねど申し上げ候。宋の紹興年中に王日休が校輯せる『仏説大阿弥陀経』巻上に、十三仏号分第十三あり、弥陀仏の十三の名を挙げたり。無量寿仏、無量光仏、無辺光仏、無礙光仏、無対光仏、炎王光仏、清浄光仏、歓喜光仏、智慧光仏、不断光仏、難思光仏、難称光仏、超日月光仏の十三なり。貴下の「己が命の早使い」の条はすでにでき上がりたりや。小生これに類せる話一、二見出でたれど、すこぶる長く要を摘むに困る。貴下のその条全文見せ下され候わば、貴下の入用らしき相似の点のみ書き抜き添記申すべく候。

[やぶちゃん注:「貴著『石神問答』山中笑氏の状に、仏教に十三の数に関すること少々挙げたり」「石神問答」は明治四三(一九一〇)年刊で、翌年には序を付して再刊している。日本民俗学の先駆的著作として広く知られる。日本に散見される各種の石神(道祖神・赤口神・ミサキ・荒神・象頭神など)についての考察を、著者と日本メソジスト教会の最初の牧師の一人で民俗学者でもあったペン・ネーム山中共古(きょうこ)の名で知られる山中笑(えむ)・人類学者伊能嘉矩(かのり)・歴史学者白鳥庫吉(しらとりくらきち)・歴史学者喜田(きた)貞吉・「遠野物語」の原作者佐々木喜善(繁)らとの間に交わした書簡をもとに柳田國男が編集した、一風変わった構成の論考著作である。国立国会図書館デジタルコレクションで初版本が視認出来るが、ここで熊楠が言っているのは、「書簡一 柳田國男より駿河吉原なる山中笑氏へ」の四ページ目にある「十三」の条を指す。読まれたい。

「十三仏ということはなし」博覧強記の熊楠にして、ちょっと意外。私でさえも知っている。当該ウィキによれば、中国で偽経によって形成された地獄思想の『十王をもとにして、室町時代になってから日本で考えられた、冥界の審理に関わる』十三『の仏(正確には仏陀と菩薩)』、閻魔王を初めとする冥途の裁判官たる十王と、『その後の審理(七回忌・十三回忌・三十三回忌)を司る裁判官の本地』(ほんじ)『とされる』仏に関わる十王信仰、また、この十三仏は『十三回の追善供養(初七日〜三十三回忌)をそれぞれ司る仏様としても知られ、主に掛軸にした絵を、法要をはじめあらゆる仏事に飾る風習が伝えられ』ているとある。十三の冥王と本地仏は、リンク先で表になっているので、参照されたい。

「紹興年中」中国、南宋の高宗趙構の元号。一一三一年から一一六二年まで。

「王日休」(おうにっきゅう 一一〇五年~一一七三年)。「WEB版新纂浄土宗大辞典」の「王日休」によれば、『宋代の』処士で『浄土教者』。現在の安徽省舒城生まれ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。南宋の初代皇帝高宗の治世(一一二七年~一一六二年)に『国学進士に推挙された』。学識深く、「春秋」・「易経」や刑法及び地誌関係の著書として膨大な著作があるほか、「金剛経」注釈書「金剛経解」四十二巻があるなど、その著述は広汎且つ大部に及ぶ。交遊関係も広く、『官吏仲間や宰相ばかりでなく、看話禅』(かんなぜん:禅宗用語。一つの公案を目標として、それを理解し得た後、更に別の公案を目標に立てて、最終的に悟りに至ろうとする禅風。元は南宋の宏智正覚(わんししょうかく)が大慧宗杲(だいえそうごう)の禅風を評した語であった。臨済宗は、この看話禅の伝統を現在も受け継いでいる)『の大成者として知られる大慧宗杲や』、『その門人達との関係も深かった。しかし晩年の王は、官職を捨てて浄土教に帰し、その布教に尽力しつつ、困窮者などへの救済活動(賑済)も実践していた』。紹興三二(一一六二)年には、「無量寿経」の異訳四本を校合した「大阿弥陀経」(ここに出る「仏説大阿弥陀経」に同じ)『二巻を編集し、同年末頃、仏教の民衆化・活性化を旗印に、あらゆる階層に浄土教を浸透させるため、経論や諸伝記から』、『広く』、『浄土教の要文を集めて』「龍舒浄土文」(りゅうじょじょうどもん)十巻を『撰述し、その流布につとめた。その後乾道九年』、六十九歳で『廬陵』(現在の江西省吉安(きつあん)市)『において』、『阿弥陀仏の来迎引接を得て』、『往生を遂げた』とある。

「十三仏号分第十三あり、弥陀仏の十三の名を挙げたり」「大蔵経データベース」で確認したが、誤りはない。

「無礙光仏」「むげこうぶつ」。

「無対光仏」「むたいこうぶつ」。]

 

  柳田国男から南方熊楠ヘ

         明治四十五年三月八日夕

 拝復。此方よりは御無沙汰のみ致しおり候に、御多忙にもかかわらずたびたび御報導を給わり御親切感佩仕り候。白井、高本の二氏とは折々相見るの折あり、間接にも御消息を知りおり候。小生は伝説の小篇あまり早く計画を人に漏らせしため、この夏ごろまでに公表せねば一分立たず、しかも材料はあとからもあとからも出て来るので幾度となく稿を改め、今なお長者栄華第七の辺にあり。それに本務がはなはだしく煩劇なるより、疲労と負懊悩とのために不眠症を起こし、これを医するために折々田舎を旅行する故、時間の不足はなはだしくついつい手紙をかくこと能わず候いき。申し上げたきことはなはだ多けれども一々思い出し得ず。さしあたりの分より追い追い申し上げ候。

[やぶちゃん注:「伝説の小篇」「選集」の注を参考にすると、柳田が「伝説十七種」と呼称していた考証物を指す。後にその内の部分が結実したのが、刊本「山島(さんとう)民譚集」(初版は大正三(一九一四)年七月に甲寅(こういん)叢書刊行会から「甲寅叢書」第三冊として甲寅叢書刊行所から発行された)である。この刊本は日本の民譚(民話)資料集で、特に、河童が馬を水中に引き込む話柄である「河童駒引(かっぱこまびき)」伝承と、馬の蹄(ひづめ)の跡があるとされる岩石に纏わる「馬蹄石(ばていせき)」伝承の二つを大きな柱としたものである。私はブログ・カテゴリ「柳田國男」で、同書の再版版(正字正仮名)の昭和一七(一九三二)年創元社刊(「日本文化名著選」第二輯第十五)を国立国会図書館デジタルコレクションの画像で起こして全八十九分割で電子化注を終えている。

「長者栄華第七」これは柳田没後、かなりたった昭和四四(一九六九)年に刊行された平凡社東洋文庫の「増訂 山島民譚集」に収録された生前未発表の「副本原稿」と呼ばれるものので、巻頭に「第七 長者栄華」と標題して出る。現在、「ちくま文庫」版の第五巻に東洋文庫底本で「山島民譚集㈢(副本原稿)」として収録されてある。なお、同巻の「山島民譚集㈡(初案草稿)」も加えて見ると、「十七」の内、「十四」までが載るが、「第八」は『欠』とあり、第十五から第十七までは稿自体がもともと存在しなかったようである。そのテーマは、まさに柳田國男の南方熊楠宛書簡の明治四十四年十月一日附に記されてあった。それを並べると(丸括弧の中の『 』は柳田の添え書き)、「川童駒引」・「神馬の蹄」(以上二種は刊本「山島民譚集」相当)・「ダイダ法師」「姥神」(『山姥のことなど』)・「榎の杖」(『杖をさして樹木生長することなど』)・「八百比丘尼」「長者栄花」・「長者没落」・「朝日夕日」「金の鶏」「隠れ里」「椀貸」「打出小槌」・「手紙の使」(『鬼より手紙を托せられたるに、その中に自分を殺せとかきてありし話など』)・「石誕生」・「石生長」・「硯の水」が挙げられている。この内、下線を附したものが、「山島民譚集㈡(初案草稿)」に載るもの、下線太字が「山島民譚集㈢(副本原稿)」]に載っている相同かごく相似の標題物である。「長者没落」は、「ちくま文庫」版が『欠』とする箇所と一致するが、しかし「朝日夕日」の冒頭は「長者塚」で、それとなく、「長者没落」の草稿が嘗つてはあったことを匂わせている。全く見当たらないのは最後の四つである。但し、柳田は南方が明治四十四年十月六日附の柳田宛の書簡で「手紙の使い」よりは「己が命の早使い」の方がよいのではないかと書いており、柳田はこの言を入れて、「己が命の早使ひ」と改めて、同年十二月発行の『新小説』で「己が命の早使ひ」として発表している(次の段落も参照)。当該論考、というよりはごく短い随筆は「万葉文庫」の「定本柳田國男集」の第四巻で読める。

なお、この「伝説十七種」というのは、明治四三(一九一〇)年十二月『太陽』発表の「伝説の系統及の分類」に於ける十三種の分類を発展させたもので、そこでは「一 長者伝説」・「二 糠塚伝説」・「三 朝日夕日伝説」・「四 金雞伝説」・「五 隠里伝説」・「六 椀貸伝説」・「七 生石伝説」・「八 姥神伝説」・「九 八百比丘尼伝説」・「一〇 三女神伝説」・「一一 巨人伝説」・「一二 ダイダラ法師伝説」・「一三 神馬伝説」・「一四 池月磨墨伝説」・「一五 川童馬引伝説」を掲げている。同論考は「万葉文庫」の「定本柳田國男集」第五巻で読める。]

 十三仏のことにつきては、かの後きわめてわずか日本のことを調べ候のみに候ところ、宋代の『大阿弥陀経』に十三仏名ありときき便を得申し候。十三塚などの十三の数は一加[やぶちゃん注:「くわえ」。]十二なるべきこと、先に『石神問答』中に仮定せし後、追い追いにその証を得申し候。大学出板の『史料』第四編(源平時代)各巻に当時各種の修法壇のプラン出でおり候が、いずれの法にも必ず障礙[やぶちゃん注:「しょうがい」。障碍・障害に同じ。]調伏のためとおぼしく十二天壇と聖天壇とを相接して設け有之候。十三塚は必ずこれと因あるべく存ぜられ候。聖天塚または十二大塚と申す塚も有之候。益軒翁の十三仏説は十三度の忌日に地獄の十王または地蔵を配せし十三仏妙の説より思いつきし説ならんも、十三塚の中にて一塚が特に大なる理由はこの説にては解くこと能わず候。鳥居竜蔵君が実見せし外蒙古各地の十三塚にも必ず右の大将塚有之候よしに候。日本にても早くよりこれを十三仏に托して十三坊とも申し、あるいは十三仏塚と申す所も有之。あるいは班足王十三人の子を殺して十三塚というとの説も古くより有之。蒙古のもまた十三人の兄弟なりとも釈迦と十二弟子とも申す由に候。この問題だけは発見も小生、解決も小生引き受け、何とぞしてこの東方文明の聯鎖点を明白に致したく、しきりに材料をあつめおり候。近きうち『考古学会雑誌』に第三回目の報告をするつもりに候。先年横浜の外人、かの附近の十三塚を発掘せしことあり、一物も出土せざりし由に候。

[やぶちゃん注:「宋代の『大阿弥陀経』に十三仏名あり」近日公開の「續南方隨筆」の「十三人塚の事」に羅列される。

鳥居龍蔵」(明治三(一八七〇)年~昭和二八(一九五三)年)は人類学者・考古学者・民族学者・民俗学者。小学校中退後、独学で学び、東京帝国大学の坪井正五郎に認められ,同大人類学教室の標本整理係となった。後、東大助教授・國學院大學教授・上智大学教授などを歴任、昭和一四(一九三九)年から敗戦後の昭和二六(一九五一)年には燕京大学(現北京大学)客員教授(ハーバード大学と燕京大学の共同設立による独立機関「ハーバード燕京研究所」の招聘であったが、昭和一六(一九四一)年の太平洋戦争勃発によってハーバード燕京研究所は閉鎖されてしまい、戦中の四年間は北京で不自由な状態に置かれた。日本敗戦により研究再開)として北京で研究を続けた。日本内地を始め、海外の諸民族を精力的に調査、周辺諸民族の実態調査の先駆者として、その足跡は台湾・北千島・樺太・蒙古・満州・東シベリア・朝鮮・中国西南部など、広範囲に及んだ。考古学的調査の他にも民族学的方面での観察も怠らず、民具の収集も行ない、北東アジア諸民族の本格的な物質文化研究の開拓者となった。また、それらの調査を背景に日本民族形成論を展開した。鳥居の学説の多くは、現在ではそのままの形では支持できないものが多いが、示唆や刺激に富むものが少なく、後世に大きな影響を与えた研究者である。

「近きうち『考古学会雑誌』に第三回目の報告をするつもり」底本の編者注記に、『大正二年一月『考古学雑誌』三巻五号に、「十三塚の分布及其伝説」を発表している。』とある。「私設万葉文庫」の「定本柳田國男集」第十二巻で電子化されてある。(485)ページで検索されたい。]

「命の早使」は十七篇中最も材料の少なき部分に候。かの題名はせっかく頂戴したれども、いろいろ考え候えばかの点は要素にあらずと考え申し候。二カ所の神霊が通信をするに人間を使役せりという点が根本にて、命を取れと書き込みたりというは後年の附加らしく候が、御見込み如何にや。しかりとすれば、この章名は当たらず候。むしろ「橋姫」と題せんか「謡坂(うたうさか)」とせんかなど思いおり候。御見当りの箇条はやはり一切経中にあるにや。一切経は手近にいずれの板も有之候につき、単に経名巻数標目のみにてもぜひ御聞かせ下されたく候。もっとも今回の書物にはせっかく神足石などにつきて国外の類例たくさん御示し下され候えども、他の部門には一言も外国との比較のできぬものあり、本の趣旨も国内の所有伝説を蒐集するにある故、各章の権衡上これを列載する能わず候も、御話のごとくば系統の解説上必ず多少の便宜を得べく存じ申し候。

[やぶちゃん注:「今回の書物」先に注した「伝説十七種」の仮構想の本を指す。

「権衡」(けんこう)は「均衡」に同じ。]

 このついでに伺いたきこと三条あり、御存じならば御示教下されたく候。

 その一は二又(ふたまた)の木または竹をもって霊異とすることに候。諸寺の什宝に二又竹多し。杖化成木伝説にも二又の木のことあり。絵巻などに見ゆる昔の人の杖は

Hutamata1

かかるもの多く、単に滑らぬ用心と思われず候。昨年下野茂木町辺にて岐路頭に立てたる犬頭観世音の塔婆、すなわち犬の死にたるを供養する木標のこと、前にも申し上げしが、

Hutamata2

かかる形に有之。奥羽山中に漂泊する一種の山民にてマタギ、又木、权とも書くもの有之。この者とは関係なきかと想像いたし候。

[やぶちゃん注:画像は底本から画像で取り込み、トリミング補正した。

「杖化成木伝説」「じょうかせいぼくでんせつ」。地面に突き刺した人工的に木材を加工した杖に、根が生え、一本の成樹となったとする類型伝説譚を指す。

「下野茂木町」(しもつけもてぎまち)現在の栃木県芳賀(はが)郡茂木町(もてぎまち)茂木

「岐路頭」読みが不明だが、「きのろとう」(分岐路の路頭)と読んでおく。

「犬頭観世音」(「いぬがしらかんぜおん」或いは「けんとうかんぜおん」)「の塔婆、すなわち犬の死にたるを供養する木標」最後は「もくひょう」或いは「きしるべ」。これ、甚だ興味があるのだが、現存しないようだ。残念!]

 第二には卍のことに候。この象を万の義とするは何に始まり候や、御承知にや。仏教には限らざるよう存じ申し候。これをマンジというは万字なりとの説あれど疑わしく候。小生はもしや蠱などのマジと関係あるにあらずやと考え候が御説奈何。

[やぶちゃん注:「卍」仏の胸や手足などに表される徳の象徴。「万字」とも書く。左万字(「卍」)右万字(「卍」の右に旋回した反転形)とがあるが、現今の本邦では左万字が圧倒的に多く用いられているが、インドの彫刻の古いものには右万字のものが多く、寧ろ、その方が元来は正しかったと言うべきかも知れないが、中国や本邦ではその区別はない。サンスクリット語でスバスティカ或いはシュリーバッツアといい、「吉祥喜旋」(きちじょうきせん)「吉祥海雲」とも訳す。インドの神ビシュヌの胸にある旋毛が起源ともされるが、実際は、もっと古く、偉大な人物の特徴を示すものだったらしく、瑞兆或いは吉祥を示す徳の集まりを意味するように変化したものである。本邦では地図を始め、仏教や寺院を示す記号・紋章・標識として一般に用いられている。なお、右万字は十字架の一種として、世界各地で古代から用いられたが、その起源に関しては異説が多い(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「象」「かたち」。

「蠱」音で「コ」であるが、ここは「まじ」「まじもの」「まじくり」と訓じているかも知れない。元は道教系の呪術(黒魔術)を指すが、ここは広義の咒(まじな)いの意。]

 第三には鍬をもって舞踏する風は、シャマンに限られたることに候や。たとえばアイノの鍬先のごときも、かの辺に根原をもつものなるべくや。近代の鍬神のことは『石神問答』にも書き候が『備中話』という書に、吉備郡(旧下道郡)上原村に上原相人(そうにん)という巫覡の一部落住す。近村の民家に頼まれて狐憑きを落とす祈禱をなす。二、三人打ちより、弓弦をならし鼓を打ち主人の悪事を歌にうたい罵る故、ザンゲ祈禱という。舞終わりての後鍬先を火にやきて赤くし、その上に抹香を載せて薫じ病室をふすべあるく行事有之。一異聞に候。アイノの鍬先は図を見るに、甲[やぶちゃん注:「かぶと」。]の鍬形のごとく流蘇を附すべき穴多くあり、手に持ちて振りまわすために造れるものなり。アイヌの中に山丹産の什器多きことは申すまでもなく候わんも、この物彼より輸せりということを聞かず候。

[やぶちゃん注:「シャマン」シャーマン。呪術師。

「アイノの鍬先」「アイノ」は「アイヌ」に同じ。「鍬先」は「くわさき」だが、鍬の先の意ではなく、昔の兜(かぶと)の頂に当人の標識として附けた鍬形に似た宝具の一種。The Sumitomo Foundationのページのこちらに写真がある。そこに『金属製品で、アイヌ社会では上位に位置づけられる宝物である。新井白石の「蝦夷志」や蛎崎波響の画像にも描かれている』。『土中に保管されることが多かったと考えられ、現在までに二十余例の発見が認められているものの、その多くは現状を留めていない』とある。

「備中話」全十三冊の備中の未完の地誌。著者は江戸後期の備中松山藩の漢学者・漢詩人のであった奥田楽山(安永六(一七七七)年~万延元(一八六〇)年)。彼は藩校有終館の学頭を務め、火災で廃校の危機にあった有終館を再建・復興させ、晩年は自宅の「莫過詩屋」に「五愛楼」と称する書斎を新築し、風流をもって自ら楽しんだという。

「吉備郡(旧下道郡)上原村」下道郡は「しもつみちのこおり」或いは「かとうぐん」と読んだ古代からあった旧郡。現在の総社(そうじゃ)市富原(とんばら)。

「上原相人」(そうにん)というのは、古くは人相見を指す語であるか、ここでは広く民間祈禱を行う呪術集団を指している。「大谷大学学術情報リポジトリ」のこちらからダウン・ロード出来る豊島修氏の同大学の学会研究発表会要旨「民間陰陽師の宗教活動」(『大谷学会大谷學報』第六十巻第四号・一九八一年一月発行)に、『備中地方(現・岡山県)には「平川ヤンブシ(山伏)・湯野タユウ(太夫)」という伝承があるように、古くから修験山伏や陰陽師太夫等の民間宗教者の活動が盛んであった。すでに『備中町誌』(民俗編)には、このような民間宗教者として巫女、サオ(社男)、法者、コンガラ、カンバラ、山伏等をあげ、かれらの多くが激しく祟りやすい一面をもつ荒神・ミサキを管理する一方、病気の祈禱や憑きもの落し、家相等の祈禱活動をおこなっていたことを指摘している。とりわけ備中南部、備前を中心に瀬戸内沿岸を信仰圈とするカンバラ太夫と称呼された陰陽師博士の宗教活動には注目すべきことが多い。この陰陽師博士は近世から近代にかけて、下道郡上原村枝富原(現・総社市富原)を根拠として、主に病気の旧悪を懺悔する祈禱をおこない、それをカンバラ祈禱と別称されて、この地方庶民の精神生活や社会生活に影響をあたえてきたのである』とあり、以下、この『総社市富原の陰陽師について』のより細かな解説が続く。そこに『近世には富原が備中地方の一大陰陽師村であったこと、それは土御門家配下の一派で、祈禱または狐付け落しを専業としていたことが知られる。また『吉備之志多道』(下道郡之部)にも「下原村の北に上原村と云あり。此所陰陽師一邑をなす。土人上原相人と称す。(中略)俗に云ふ妖巫の類なり。(中略)病気の旧悪を懺悔する事也。」云々とあるように、「上眠相人」と称する妖巫の類で、祈禱すなわち病気の旧悪を懺悔する「懺悔祈禱」をおこなっていたことがわかる。したがって富原の陰陽師を別称カンバラ相人(太夫)といわれたのは、一つに上原村に居住する相人という地名から呼称されたと考えられるが』、『この陰陽師太夫の祈禱作法によって「神祓い」をおこなう呪法から』こうした呼称がなされたのであろうと述べられ、さらには、『確証はないが』と断りをお入れになった上で、かの安倍晴明との血脈が、この地に伝えられたとする伝承も記されてある。

「山丹」「さんたん」と読む。ウィキの「山丹交易」に、『江戸時代に来航した山丹人(山旦・山靼とも書く。主にウリチ族や大陸ニヴフなど』の『黒竜江(露名:アムール川)下流の民族)からの中国本土や清朝の産品が、主として蝦夷地の樺太(露名:サハリン)や宗谷のアイヌを仲介し松前藩にもたらされた交易をさす。広義には黒竜江下流域に清朝が設けた役所と山丹人を含む周辺民族との朝貢交易から、松前藩と樺太北東部のウィルタなどのオロッコ交易も含む』とある。]

 秈[やぶちゃん注:「うるち」。]すなわち赤米、大唐米[やぶちゃん注:「だいとうまい」。]をトウボシということ、前にも申し上げ候が、関東の地名にトウボシ田という地名多く候。この物薄地(やせち)に生じ易く農民もこれを賤しみて、この辺には食する者を知らず。何故にこの名ありや不審に堪えざりしには一解を得申し候。上総茂原在の上永吉という地に行き候時その旧記を見るに、村開発の当時慶長前後にや三河辺より土坊師と称する一種の人民、土方体[やぶちゃん注:「どかたてい」。]の賤しき者三百人ほど一団体をなしてこの村に来たり、村居より丘一つ北なる谷に住む。この者山側を穿ちて窟居し、畑を作るとて遺址多く存せり。この土坊師はトウボシにて、流作場などの人の棄てて顧みぬ地に右の赤米を作りて生活せし故に、かの米をトウボシと申せしにはあらず候か。もちろん数多の旁証を得ざれば断定は下さず候も試みに申し上げ置き候。何かこれに関係あること御聞きなされ候わば御報下さるべく候。上総の東海浜には別にエンゾッホなどいう一種の居所不定の部落あり。この地方普通の崖地などに小屋をつくり、乞食はせず、冬も赤裸にて水に入り魚など取り候よしに候。

[やぶちゃん注:太字は底本では、傍点「﹅」。

「秈」(とうぼし)「赤米」「大唐米」「トウボシ」これは「占城稲」(せんじょうとう/チャンパとう)とも呼ぶ。ウィキの「占城稲」によれば、『チャンパ王国』(一九二年から一八三二年まで。現在のベトナムの南中部にあった。元は漢帝国の南端(日南(にちなん)郡象林(しょうりん)県)であったが、現地官吏の子の区連(くれん/おうれん)によって独立を果たした)『を原産地とする収穫量の多い早稲』(わせ)『で、小粒で細長だが』、『虫害や日照りに強く、痩せた土地や』、『あまり耕起していない水田でも良く育つ品種の稲である。「占城(チャンパ)米」の呼称で知られ、宋代の中国で盛んに栽培された』。『中国における「占城稲」』は、「唐会要」(「会要」中国の史書群「二十四史」の「志」や「表」の不足を補うもので、一つの王朝の国家制度・歴史地理・風俗民情を収録した補助歴史書の一種。中国史上で最初に編纂されたが、後周・北宋の官僚王溥(おうふ 九二二年~九八二年)が編纂した本書(九六一年完成)が最古のもの)『に「以二月為歳首。稻歳再熟」とあり、唐代にはチャンパに早稲があることは知られていた。北宋時代には既に現在の福建省でわずかながら栽培されていた』。一〇一二年には『当時の真宗の命により江南地方へ移植され、後に現地種との交配も進められた。長雨に弱い反面』、『旱害に強く、手間があまり掛からずに短期間で収穫可能な占城稲の普及は、江南以南の地域における二毛作や二期作が進展する一助となり、農業生産を増加させた。この種が普及したため、長江下流の江浙地方が米作の中心地となった』。『日本では、大唐米(だいとうまい)』(☜)・『太米(たいまい)・秈(とうぼし)』(☜)『などとも呼ばれている。遅くても鎌倉時代までには日本に伝えられた。収穫量は多く』、『落穂しやすく脱穀が楽な反面、強風や長雨で傷みやすく、粘り気も少なく』、『味も淡白であった』。『それでも室町時代には降水量の少ない瀬戸内海沿岸をはじめとして西国を中心に広まり、農家の生活水準の上昇につながった。その一方で、領主や消費者である都市民には評価は高くなく、領主の中には大唐米による納付の場合の納税額を他の納付方法よりも引き上げたりすることもあった。江戸時代には「赤米」』(☜)『と呼ばれて下等品扱いされ、小野蘭山』述の「重修本草綱目啓蒙」では『「最下品ニシテ賎民ノ食ナリ」と評された』。最後の部分は、国立国会図書館デジタルコレクションの「重修本草綱目啓蒙」(同書の第三版で梯南洋(生没年未詳)の校訂・出版で、南洋による増補が各所にあり、中には有用な記事も少なくないが、蘭山の孫で後継者であった小野職孝(もとたか)に無断で出版したものであった。以上はサイド・パネルの「解題/抄録」にある磯野直秀先生のそれに拠った)三十五巻本の巻之十七のこちらで視認出来る。他の二版を見たところ、当該記述はなかったので、この部分はまさに南洋の追記したものと思われる。

「関東の地名にトウボシ田という地名多く候」後の大正三(一九一四)年七月発行の『郷土研究』に柳田國男が発表した短い記事「大唐田又は唐干田と云ふ地名」(前者は「だいたうだ(だいとうだ)」、後者は「たふぼしだ(とうぼしだ)」)があり、その例を列挙するが、冒頭から、関東が四つ出る。以下である。【 】の数字は私が打った。

常陸眞壁郡太田村大字野殿唐米(たうぼし)【1】

下總千葉郡千城村大字小倉唐籾(たうぼし)【2】

上總市原郡五井町大字平田當干田(たうぼした)【3】

安房安房郡曾呂村大字上野唐穗種田(たうぼしゆだ)【4】

 

【1】は現在の茨城県筑西市野殿(のどの)、【2】は現在の千葉市若葉区小倉町(おぐらちょう)附近、【3】は現在の千葉県市原市平田附近、【4】は現在の千葉県鴨川市西のこの附近。「曾呂」は「そろ」と読む。総て「今昔マップ」で最も古い地図を確認したが、孰れも字名のそれは確認出来なかった。なお、柳田の記事全体は「私設万葉文庫」のこちらの「定本柳田國男集」第二十巻で正字正仮名版が読める。ページ・ナンバー(217)で検索されたい。

「上総茂原在の上永吉という地」現在の千葉県茂原(もばら)市上永吉(かみながよし)。

「慶長前後」慶長は一五九六年から一六一五年まで。言わずもがなであるが、安土桃山時代と江戸時代を跨いでいる。

土坊師」「トウボシ」ネット検索では、掛かってこないので、如何なる集団か不詳。

「村居より丘一つ北なる谷に住む」上永吉のグーグル・マップ・データ航空写真を見るに、この北の丘陵の谷らしいが、柳田の言う「遺址多く存せり」は現存しない模様である。

「流作場」「ながれさくば」或いは「りゅうさくば」で、江戸時代の田の種類の一つ。河川又は湖沼の氾濫により、水害を受けやすい場所にある田地。石盛(こくもり)は下田(げでん:地味の痩せた下級の田地)より低いのを通例とした。

「上総の東海浜」この海浜辺り

「エンゾッホなどいう一種の居所不定の部落あり」不詳。]

 このごろ英国より Sayce と申す老人来遊しあり、バビロニヤ、アッシリヤのことを専門とせる学者のよし。御聞き及びなされ候人物にや。古き辞書などにも名前見えおる人ゆえ、無下につまらぬ人にもあるまじく存じ、近日中佐伯好郎氏(ネストリヤン・モニュメント・オブ・シンガンを研究し著書を公けにせし人なり)の通訳にて会見するつもりに候。チゴイネル原住地につき何か研究せしことありやを聞き、兼ねて日本の漂泊人種のことを話すつもりに候。

[やぶちゃん注:「Sayce」イギリスの東洋学者、言語学者アーチボルド・ヘンリー・セイス(Archibald Henry Sayce 一八四五年~一九三三年)。アッシリア学の代表的な研究者として知られ、またアナトリア象形文字解読の草分けであった。詳しくは参照した当該ウィキを見られたい。なお、この書簡当時で六十七歳。

「佐伯好郎氏(ネストリヤン・モニュメント・オブ・シンガンを研究し著書を公けにせし人なり)」言語学者・英語学者・西洋古典学者・ローマ法学者・東洋学者・東洋宗教史家の佐伯好郎(よしろう 明治四(一八七一)年~昭和四〇(一九六五)年。広島生まれ。当該ウィキによれば、キリスト者で英名をPeter Saeki と称し、『言語学・法学・歴史学など複数分野にまたがる西洋古典学の研究・教育で大きな業績を残したが、特に』中国の『ネストリウス派キリスト教(景教)の東伝史に関する研究で国際的に有名になり』、『「景教博士」と称された。また日本人とユダヤ人が同祖であるとする』例の「日ユ同祖論」の『最初期の論者としても知られ、独自の歴史観を唱えた。戦後は故郷』の『廿日市の町長を務めるなど、戦災や原爆で荒廃した広島県の再建に尽くした』とある。「ネストリヤン・モニュメント・オブ・シンガン」は“Nestorian monument of Singan”か。“Singan”「中国中部の都市」を意味する。]

「狂言記」は徳川初世より新しきなきものなかるべしといえども、因幡堂の鬼瓦はこれによりて近世までも人のよく知れることなれば、その記事あるをもって屛風の古き証拠になす能わずと存じ候。

[やぶちゃん注:以上は先行する明治四十五年二月十一日午後二時発信の南方熊楠書簡に対する見解。これはその前の明治四十五年二月九日附の柳田書簡で、南方が、かの「オコゼ屛風」に『因幡堂鬼瓦の文句があるをもって同文を足利末ころという推測』をしたことに対して反論したもので、柳田が狂言「鬼瓦」は徳川氏の世に成ったもので、それ以前に遡れないと言ったことへの明証を求めたことへの再反論である。

「狂言記」は江戸時代に刊行された能狂言の台本集。万治三(一六六〇)年刊の「狂言記」、元祿一三(一七〇〇)年刊の「続狂言記」「狂言記外五十番」、享保一五(一七三〇)年刊の「狂言記拾遺」(いずれも初版)を総称したもの。絵入りで各集五冊五十番から成る。種々の異版が刊行され、読本として流布した。群小諸派の台本を集めたものらしく、内容も一様でない(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。

「因幡堂の鬼瓦」京都市下京区因幡堂町(いなばどうちょう)にある真言宗福聚山平等寺(びょうどうじ)。「因幡堂」「因幡薬師」の名で親しまれている。ここ。狂言「鬼瓦」の舞台としても知られる。但し、同寺の鬼瓦は鬼形(きぎょう)の形象は全くないらしい。Tappy氏のブログ「自社巡礼.com」の「【因幡薬師】日本三如来に数えられる、がん封じのお薬師さま(因幡堂)」の、本堂前に置かれた鬼瓦の写真とその画像の中の解説を見られたい。これは『「南方隨筆」版 南方熊楠「俗傳」パート/山神「オコゼ」魚を好むと云ふ事』でも言及している。]

 

  南方熊楠から柳田国男ヘ

       明治四十五年三月十一日夜九時

 御状拝見。因幡堂は土宜法竜師より寺僧に聞きくれしに、書上(かきあげ)を寺僧よりよこす。火事のため今は瓦なく、また瓦ありし伝もなしとのこと。小山源治氏もみずから寺に就いて聞きくれしに、その通りの返事なり。因幡堂に大なる鬼瓦ありしという記録、記事が徳川氏の世にできし書に有之(これあり)候や、御尋ね申し上げ候。狂言はいつのものか知れず、しかし、その内に大坂とか江戸とか駿府とかいうこと少しもなきより見れば、多くは徳川氏前のものと存ぜられ候。狼を山の神とするらしきことは他にも少々聞くことあり。そのうち人類学会へ出すべし。山の神オコゼを好むことも、小生は徳川氏前に記したるものあるを見ず候。土俗上必要のことにして、徳川氏前の書に一向見えぬことはこの外に多し。マルコ・ポロの支那記行に、文那人が豕(ぶた)を食うことを少しもいわぬごとく、われわれ西洋に久しくおったが、かの土でありふれたことは直(じき)に珍しくなくなり、日記に付けぬごとし。

[やぶちゃん注:「小山源治」不詳。同姓同名で、京都博物会会員で、新種の蝶を発見した人物がいるが、その人かどうかは判らない。]

 御尋問のトウボシは、小生は唐のホシイイということと存じ候。軍旅盛んなりし世にはホシイイ大切なりしゆえ多く用い、したがってかかる名もできしと存じ候。禾本科の牧草(雑草grass)にはトボシガラ、またそれに準じて大(おお)トボシガラという草も有之候(松村氏『改正増補植物名葉』一二四頁)。

[やぶちゃん注:「トボシガラ」単子葉植物綱イネ科ウシノケグサ属トボシガラ Festuca parvigluma当該ウィキによれば、『イネ科の軟弱な植物。長い芒のある小穂を長い柄の先にぶら下げ』、『全体にひょろりとした多年草。穂がないときは全く目につかない』とあり、『細い根茎があって地下を這い、茎は束になって生じる。花穂を含めて高さ』は三十~六十センチメートルで、『葉は根元から茎の途中の節につき、長さ』十~二十五センチメートル、『ざらつかず、深い緑色で光沢がある。葉鞘も葉の表と同じような質感』である。『花は』五~六『月に、茎の先端から出て、円錐花序をなす。花序の主軸は』八~十五センチメートルで、『数個の節があって、それぞれの節からは花序の枝が』一『本ずつ出るが、これが花序全体と同じくらいに長い。花序の主軸と枝は先が細くなって、そこにまばらに小穂をつける。小穂はその枝に寄り添う。花序全体としては、枝はやや主軸に沿うようにして、全体として先端が垂れるが、開花期には枝はやや広がる』。『小穂は緑色で』三つから五つの『花を含む。包穎はごく小さく、護穎は』五~六ミリメートル『あって、これがほぼ小穂の大きさにあたる。その先端からは』六~九ミリメートルの『細い芒が伸びる。内穎は護穎とほぼ同じ長さ』。『名前の由来は唐帽子殻で、古い時代の米の品種である唐帽子(とぼし)に似ていたためと』いう説と、『点灯茎』或いは『点火茎の意』とする説がある、とあって、『牧野は後者を採用しているが、その名の意味やその発祥については不明と述べている』と記す。

「大(おお)トボシガラ」ウシノケグサ属オオトボシガラ  Festuca extremiorientalis 。山地の林に植生し、葉は幅が五~十二ミリメートルで扁平、花序は長さ二十~三十センチメートル。トボシガラとともに食用にはならないようである。]

 鬼の手紙のうちのインシデント、己が命の早使いに似たことは、デンマルク語にて長き物語なり。小生走りがきに扣(ひか)えおけるが、デンマルク語はわずかに植物の記載を読み得るまでにて十分に読み得ず、字書を和歌山におきたるゆえなり。かつ貴著に用事少なき標子ゆえ、他日字書を取り寄せ悉皆読み訳し見ん。ちょっと摘要というわけに行かぬ、こみ入った長話なり。

[やぶちゃん注:「己が命の早使いに似たことは、デンマルク語にて長き物語」不詳。後の書簡にもない模様。]

 十三仏は、五仏、七菩薩、一明王の混淆なり。これを仏と称すること、いかにも俗人より出しことと存じ候。田舎には、今も紀州で、仏、菩薩、明王、諸天をカンカハン(神様(かみさま))などいうに同じ。なお障礙神法しらべ申し上ぐべく候。

  他のことはそのうちまた申し上ぐべく候。
  卍を万とよむは、インドにてこの印をマ
  ンとよむと覚え候。決して日本のことに
  あらず。賛斯の諸仏みな紋あり、これは
  釈迦仏の紋章に候。鍬形のこと、所考あ
  り、次回に申し上ぐべく候。

[やぶちゃん注:「五仏」真言密教の両部曼陀羅の法身大日如来と、如来から生じた、これを取り巻く四仏。金剛界と胎蔵界の五仏があるが、実は同体とする。金剛界では、大日(中央)・阿閦(あしゅく)(東)・宝生(南)・阿彌陀(西)・不空成就(北)をいい、胎蔵界では大日(中央)・宝幢(ほうどう)(東)・開敷華王(かいふげおう)(南)・阿彌陀(西)・天鼓雷音(北)を指す。なお、他に、阿彌陀仏を中心に観音・勢至・地蔵・龍樹の四菩薩を配した五尊のこともかく称する。

「七菩薩」七観音のことであろう。衆生を救済するために、姿を七種に変える観音。則ち、千手・馬頭・十一面・聖(しょう)・如意輪・準胝(じゅんてい(でい))・不空羂索(ふくうけんさく(じゃく))の各観音を指す。

「一明王」どの明王(みょうおう)を指すか不明。まあ、メジャーなのは不動明王だが、判らぬ。当該ウィキに主な明王に一覧がある。

「障礙神法」災厄防止の祈禱・咒(まじな)いの類。

「賛斯の」「賛斯」の読み不明。こんな熟語は見たことがない。音なら「サンシ」。「かく、さんするところ」の謂いか。]

2022/07/22

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 始動 / 画像解説・編者小記(岡書院編集者)・鳥が人に生れし話

[やぶちゃん注:本電子化注は、既にブログ・カテゴリ「南方熊楠」他(サイト「鬼火」の「心朽窩旧館」PDF縦書一括版)で完遂した正規表現版オリジナル注附「南方隨筆」に続けて始動する。

 「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。画像もそこからトリミングした(その都度、引用元を示す)。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした(但し、最後の「鷲石考」は同サイトの同全集の別な巻にある。それは当該論考の頭注で指示する)。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 なお私は、本書に含まれる、

「屍愛について」

「女性における猥褻の文身」

「人柱の話」

「奇異の神罰」

「武辺手段のこと」

「ウガという魚のこと」

「池袋の石打ち」

を古くに電子化しているが、以上の標題表記をご覧になれば判る通り、平凡社「選集」その他の新字新仮名版に拠っている。今回は正規表現版として零から始める。]

 

Tobira_20220722101501

 

 南 方 熊 楠 著

 

續南方隨筆

 

        岡  書 院 版

 

[やぶちゃん注:。この「南方隨筆」の部分は、筆跡が先行する第一篇と全く同じである。而して第一篇の編者であった中山太郎氏の「編者序」の中で、『一、本書の題簽に就ては、岡書院主と額を鳩めて種々相談して見たが名案が浮ばぬので、是非なく弘法大師の筆蹟から蒐めて是れに充てた。これは南方氏が代々眞言宗の信徒であつて、且つ故高野山座主土宜法龍師とは倫敦以來の飮み仲間でもあり、それに氏の發見せる粘菌の多數は高野山で獲られたものと聞いてゐるので、それやこれやで斯う極めたのである。恐らく此の題簽だけは六つかしやの南方氏も岡氏と私の苦心を買つてくれることだらうと信じてゐる。更に裝幀に就ては全く岡書院主が南方式の氣分を出したいと瘦せるほど苦心をされたのである。これも南方氏が我が意を得たものとて悅んでくれる事だらう。』とあるので、この「隨」も空海の遺墨から選んだものと考えてよかろう。因みに、下に捺されてあるのは、「内務省交付本」であることを示す印である。国立国会図書館の「リサーチ・ナビ」のこちらによれば、明治八(一八七五)年に、『納本事務を文部省から内務省へ移管する旨の太政官布告が発布されて以来』、昭和二〇(一九四五)年の敗戦まで、『国内で出版された図書は内務省へ』納本する義務があった。その『内務省に納本された図書の一部は、帝国図書館に移管され、帝国図書館の蔵書となり』、『それらの図書を、内務省交付本』略して「内交本」と呼んだのである。『帝国図書館で押された受入登録印に、「内務省交付」略して「内交」の文字が見られるものがあ』るとある、それである。こちらのページの「横長の楕円印:1904(明治37)年ごろ~」というのが(写真有り)、ここに捺されたタイプのものである。]

 

Syasinkyapusyon

 

 此写真は明治三十五年春末五月頃トリシ者

             和歌山市ニテ

               南方熊楠

 

[やぶちゃん注:扉の次の次のページの、この後に掲げられる写真に対するキャプション。但し、疑義があるので、次の写真に附した私の注を参照されたい。]

 

Kumagusu

 

[やぶちゃん注:南方熊楠の肖像写真。後の目次には「著者肖像」とある。但し、所持する中瀬喜陽・長谷川興蔵編「南方熊楠アルバム」(一九八〇年八坂書房刊)を調べてみると、これは同書の七十八ページに掲げられてある、明治三六(一九〇三)年に、熊楠が、姪や甥(孰れも少年少女で、亡き兄藤吉の長女楠枝・弟常楠の長女すみ・長男常太郎・姉の垣内くまの次女くら)四名を前に並べて一緒に撮影した(恐らくは写真館)ものから、熊楠の部分だけをトリミングし、映っている真ん前の二人の子を除去して補正したものと判明した。その結果として、全体に暗くなっており、原写真は遙かに明るい。而してこの「南方熊楠アルバム」のキャプションが正しいとすれば、以上の「三十五」は熊楠の勘違いとなる。当時、熊楠は数え三十七であった。]

 

     編 者 小 記

 

 今春南方隨筆を上梓して、江湖多年の翹望に副ふことを得ましたが、今又續篇として、貴重なる諸論稿を輯し終へて。再び大方の髙覽を仰ぐことになりました。正篇出版の際は、匇率、編輯上種々手違ひを生じ、遺憾の點が少くはありませんでしたが、本書に於ては、萬遺漏なきを期し、編輯方針、その他に就き、すべて南方先生の御指示に從つたのであります。特に記さなければなりませんのは、先生は御多忙中にも拘はらず、自ら舊稿を校訂し、且つその後の新材料及び新所見を加筆せられ、更に本邦にては未刊行の英文「燕石考」中より「鷲石考」を自身復譯せられるの勞をとられたことでありまして、編者の望外の歡とするところであります。先生の著作は本書に盡くるものでありません故、今後續々上梓して、集大成を期さうとして居る次第であります。

            岡  書  院

 大正十五年十月

               編  者

[やぶちゃん注:岡書院の本書の編集者の附記。正篇の時は編者が柳田國男の弟子の中山太郎であったが、好き勝手に、あることないことを書いた跋文などで熊楠や柳田の怒りを買ったからであろう、外されている。

「翹望」(げうばう(ぎょうぼう)の「翹」は「挙げる」の意で、首を長く伸ばして待ち望むこと。その到来を強く望み待つこと。

「匇率」「そうそつ」と読んでおく。「概ね忙しさにかまけてしまった結果」の意か。

 以下、「目次」となるが、それは本電子化が終わった後に添える。]

 

 

  續 南 方 隨 筆

 

 

     鳥が人に生れし話  (明治四十五年二月考古學雜誌第二卷第六號)

 

 考古學雜誌第二卷第三號一一〇頁に今泉君明人の獪園六を引て

 雉兄堵在半塘寺、傳、是晉朝生道人處邱說法、

 野雉來聽、明日誕生、爲城東坊氏兒、雉肋下有

 雉翼尙存、兒後出家半塘寺、化之日、寺僧造石

 幢、葬之。因名雉兒塔焉。

 按ずるに、之に似たる譚本邦にも有り。碧山日錄卷一、長祿三年二月二十四日、昨日、問同書記曰云々、又說前面池水之勝景、之次、同曰、(正覺)國師在濃之虎溪時、有鴛鴦、相馴久矣、國師後逸居西芳之時、一宵夢有紅衣小童、跪於前曰、吾是前身虎溪之鴛鳥也、久以隨師聽法故受人身、明日來可隨侍云、國師覺而記之、果有一童、著紅綃而來、見其手足、則有網羅之相(吾土之水爬。熊楠謂く、ニゥギニア土蕃に水爬有るもの有りと聞く)、師乃名之曰空念、俾爲行者、奉事之餘、常課維摩經、臨卒入定云、後生一子、是復網羅之手也、今有老行者常觀、其四世之孫也、行視猶如水鳧也、至今池中爲鴛鴦甚多、它鵁鶄鸂鶆之類不至云。實際かゝる遺傳の一族存せしより作り出たる譚なるべし。

[やぶちゃん注:「明治四十五年」一九一二年。

「今泉君」「選集」の割注から、美術教育家・鑑識家の今泉雄作(嘉永三(一八五〇)年~昭和六(一九三一)年)である。江戸生れ。明治一〇(一八七七)年フランスに留学し、パリの東洋美術博物館主ギメーに知られ、同館客員となった。明治十六年に帰国して文部省学務局に勤め、明治二十年には岡倉天心らとともに東京美術学校創立に尽力、開校後は教務監理となった。その後、京都美術工芸学校長・帝室博物館美術部長を経て、大正五(一九一六)年に大倉集古館館長となった。古社寺保存会委員も長く務めた。茶湯は石州流怡渓(いけい)派を学び、茶器にも詳しかった。

「獪園」は明の銭希言撰の志怪小説。「獪園志異」とも。蒲松齢の「聊齋志異」に大きな影響を与えている作品である。中國哲學書電子化計劃」の「獪園志異」の影印本の画像の当該部で校合したが、引用は全文ではなく、大事な箇所が抜けているので追加し、読点がおかしいと思われる箇所を修正した。訓読する。

   *

 雉兒塔(ちごたふ)は半塘寺(はんたうじ)に在り。傳ふ、是れ、晉朝の生道人(しやうだうじん)、虎邱(こきう)にて說法するに、野雉、來たりて聽く。明くる日、誕生して城東の某子の兒と爲(な)る。肋(あばら)の下に、雉の翼、尙ほ、存せり。兒、後に半塘寺にて出家す。化(し)せし日、寺僧、石幢(せきとう)を作りて、之れを葬むる。因りて「雉兒塔」と名づく。

   *

この「半塘寺」は現存しないようであるが、検索した結果、維基文庫の穆彰阿の「嘉慶重修一統志」(清代に政府の事業として編集された地誌「大清一統志」の別称。全領土の自然地理・人文地理を行政区画別に記述し、最後に朝貢各国として殆んど全世界のことを付説する。三度、作成され、第一版は一七四三年に完成し、第二版は一七六四年から二十年をかけて作成されて刊行、第三は一八四二年に完成したが、内容は嘉慶二〇(一八二〇)年(同年号の最終年)で終わっていることから「嘉慶重修一統志」と呼ばれる)のこちらに(影印画像有り)、「夀聖寺」として、『呉郡志。在長洲縣西北七里綵雲橋半塘。寺有雉兒塔。晉道生法師有誦法華經童子死葬此。義熙十一年。商人謝本。夜泊此岸。聞誦經聲。旦見墳上生青蓮花。事聞。詔建是塔。號法華院。宋治平間賜今額。』とあることから、現在の蘇州市の西にあった。清代の一里は五百七十六メートルであるから、二キロ強だが、旧長洲縣(蘇州市街に「長洲路」(グーグル・マップ・データ。以下同じ)の名が残る)は現在の蘇州市の四分の一を占める広域であったから、この寺は、まず、知られた太湖にごく近いところにあったことは確かである。なお、「雉」はこの場合は大陸産のキジ目キジ科キジ属コウライキジ Phasianus colchicus となる。本邦の固有種であるキジ目キジ科キジ属キジ Phasianus versicolor (亜種で四種)とは異なる(同種とする説もあるが、採らない)。詳しくは「和漢三才圖會第四十二 原禽類 野鷄(きじ きぎす)」私の注を参照されたい。

「誕生」「選集」は「誕生」を『ひとにうまれ』と訓じているが(「選集」は漢文は総て編者によって訓読されてある)、漢籍の訓読としては、頗る鼻白む落語の御隠居訓読で従えない。そのまま読んでも転生したことは馬鹿でも判る。

「碧山日錄」(へきざんにちろく)は室町中期の東福寺の禅僧太極(応永二八(一四二一)年~?)の日記。長禄三年正月から応仁二年十二月(一四五九年~一四六八年)が現存する。「応仁の乱」前後の社会と寺院の様子を窺える貴重な史料。「国立公文書館デジタルアーカイブ」のこちらで原本に当って脱字等を補った(20コマ目の四行目末から。頭書に「寅渓鴛鴦」と朱書がある。因みに、「選集」も一部は誤字のままに訓読している。例えば頭の「問」は一見不審なのに「間」のままである。頭の部分は前の19コマ目の左丁二行目)。原本は異体字が多いが、それは熊楠の表字で示した。訓読する。後の方の熊楠の割注は五月蠅いのでカットした。

   *

長祿三年二月二十四日、昨日、同書記に問ふて曰はく云々、又、前面なる池水の勝景を說く。次いで、同曰はく、(正覺)[やぶちゃん注:熊楠の割注。]國師、濃(のう)の虎溪に在りし時、鴛鴦(をしどり)有り、相ひ馴るること久し。國師、後(のち)、西芳(さいはう)に逸居の時、一宵(いつしやう)、夢(ゆめ)むらく、紅衣の小童有り、前に跪(ひざまづ)きて曰はく、「吾は、是れ、前身、虎溪の鴛鳥(をしどり)なり。久しく師に隨ひて、法を聽きし故を以つて、人身(じんしん)を受けり。明日、來たりて隨ひ侍るべし」云(うんぬん)と。國師、覺(めざ)めて、之れを記(おぼ)ゆ。果たして、一童有り、紅綃(こうせう)[やぶちゃん注:紅色の艶出しをしていない絹衣。]を著けて來たる。其の手足を見るに、則ち、網羅(あみ)[やぶちゃん注:蹼(みずかき)。]の相(かたち)有り【吾が土(くに)、之を水爬(みづかき)と謂ふ。】。師、乃(すなは)ち之れに名づけて「空念」と曰へり。行者と爲(な)らしめ、奉事の餘に「維摩經」を課(くわ)せり。卒するに臨んで入定す云(うんぬん)。後(のち)、一子の生まるるも、是れ復た、網羅(あみ)の手なり。今、老行者の「常觀」有り、其の四世の孫なり。行きて視れば、猶ほ水鳧(かも)のごとし。今に至るも、池中に、鴛鴦、甚だ多し。它(ほか)の鵁鶄(こうせい)・鸂鶆(けいちよく)の類は至らず云(うんぬん)。

   *

「書記」は同日記に先行記載する「的書記」という人物のことか。事績不詳。「正覺」「國師」は臨済僧で作庭家・漢詩人・歌人としても知られる夢窓疎石(建治元(一二七五)年~正平六/観応二(一三五一)年)。彼は鎌倉末期の正和三(一三一三)年に、美濃国に古谿庵、翌年に同地に観音堂(虎渓山永保寺(こけいざんえいほうじ))を開いており、また、延元四/暦応二(一三三九)年に足利幕府の重臣(評定衆)であった摂津親秀(中原親秀・藤原親秀とも称した)に請われ、「苔寺」の俗称で知られる京の西芳寺の中興開山(この時に同寺は浄土宗(開創時は真言宗)から臨済宗に改宗している)となっている。同寺の名庭園は彼の造園になるものである。「鴛鴦」カモ目カモ科オシドリ属オシドリ Aix galericulata 。私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鴛鴦(をしどり)」を参照されたい。「鵁鶄」ペリカン目サギ科サギ亜科ゴイサギ属ゴイサギ Nycticorax nycticorax 。同じく「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鵁鶄(ごいさぎ)」をどうぞ。「鸂鶆」「選集」では「鸂鷘」とするが、同義で、オシドリに似て紫色の強い鳥を指すと中文サイトにはあった。現在の種では不詳だが、一説にカモ科カモ亜科アイサ(秋沙)族 Mergini(アイサ亜科 Merginae とされることもあり)アイサ(ウミアイサ)属カワアイサ Mergus merganser 、或いはカモ科ハジロ属キンクロハジロ Aythya fuligula ともされる。前者は「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鸍(こがも/たかべ)〔コガモ〕」が、後者は「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鳧(かも)〔カモ類〕」がそれぞれ参考になろう。なお、「ニゥギニア土蕃」(どばん:未開地の先住民を指す蔑称)「に水爬有るもの有りと聞く」と熊楠は言うが、これは往年の少年雑誌の怪しい巻頭特集や、レベルの低い都市伝説の類である。]

 

追 加 (明治四十五年五月考古學雜誌第二卷第九號)

 唐の釋道宣の續高僧傳卷三十五に、次の條有るを見出せり。

 釋道安、齊文宣時、在王屋山、聚徒二十許人、

 講涅槃、始發題、有雌雉、來座側伏聽、僧若食

 時、出外飮啄、日晩上講、依時赴集、三卷未了、

 遂絕不至、衆咸怪之、安曰、雉今生人道、不須

 怪也、武平四年、安領徒至越州、行頭陀、忽云、

 往年雌雉應生在此、徑至一家、遙喚雌雉、一女

 走出、如舊相識、禮拜歡喜、女父母異之、引入

 設食、安曰、此女何故名雌雉耶、答曰、見其初

 生髮如雉毛、既是女、故名雌雉也、安大笑、爲

 述本緣、女聞涕泣、苦求出家、二親欣然許之、

 爲講涅槃、聞便領解、一無遺漏、至後三卷、茫

 然不解、于時始年十四、便就講說、遠近咸聽歎

 其宿習、因斯躬勸、從學者衆矣、

必ずしも同源より出しに非ざるべきも獪園より千年許り前の書に載たるを見て古く斯る話の支那に行はれたるを知るべし。

[やぶちゃん注:「唐の釋道宣の續高僧傳」梁の慧皎(えこう)の「高僧伝」に続けて撰せられた中国の高僧の伝記集。盛唐の南山律宗の開祖道宣(五九六年~六六七年)撰で、全三十巻。六四五年の成立である。以上の本文は「大蔵経データベース」で校訂した。訓読する。

   *

 釋道安、齊(せい)の文宣の時、王屋山(わうをくざん)に在り。徒二十人許りの人を聚め、「涅槃」を講ず。始め、發題するや、雌(めす)の雉(きじ)有り、來たりて、座の側(かたはら)に伏して聽く。僧、若(も)し食す時は、外に出でて、飮み、啄(ついば)む。日、晚(く)れて、講を上(はじ)むるや、時に依(したが)ひて、赴き集(きた)る。三卷、未だ了(をは)らざるに、終(つひ)に絕えて至らず。衆、皆、之れを怪しむ。安曰はく、

「雉は、今、人道(じんだう)に生まれり。怪しむべからず。」

と。

 武平四年、安、徒を領(ひき)いて越州に至り、頭陀(づだ)を行(ぎやう)ず。忽(には)かに曰く、

「往年の雌雉(しち)、應(まさ)に生まれて此(ここ)に在るべし。」

と。

 徑(ただ)ちに一(いつ)の家に至り、遙かに、

「雌雉。」

と喚(よ)ぶ。

 一の女(むすめ)、走り出でて、舊(ふる)くより相ひ識れるがごとく、禮拜(らいはい)して歡喜す。

 女の父母、之れを異とし、引き入れ、食を設(まう)く。

 安曰はく、

「此の女は、何故に雌雉と名づけしや。」

と。

 答へて曰はく、

「其れ、初めて生まるるを見るに、髮、雉の毛のごとし。既に、是れ、女(をんな)なれば、故に『雌雉』と名づけたり。」

と。

 安、大いに笑ひ、爲(ため)に本緣を述(の)ぶ。

 女(むすめ)、聞きて涕泣し、苦(ねんごろ)に出家せんことを求む。

 二親、欣然として之れを許す。

 爲(ため)に、「涅槃」を講じ、聞かば、便(すなは)ち領解(りやうげ)し、一も遺漏無し。

 後の三卷に至りて、茫然として解(かい)せず。

 時に、始めて年十四、便ち、就いて、講說せり。

 遠近(をちこち)、咸(みな)、聽きて、其の宿習(しゆくしふ)を歎(たん)ず。

 斯(これ)に因りて、躬(みづか)ら勸め、從ひて學ぶ者、衆(おほ)し。

   *

「釋道安」同名で中国仏教の基礎を築いた五胡十六国時代の僧がいるが、彼は三一四年生まれで、三八五年没であるから、以下の時制に合わない。しかし、彼は確かに王屋山にいたことがある(中文の彼のウィキの「漂泊修學」の項を参照されたい)ので、作者自身の何らかの誤解があるようである。

「齊の文宣の時」北斉の初代皇帝。在位は五五〇年から五五九年。

「王屋山」現在の河南省の北西端の済源(さいげん)市の北西約四十五キロの位置にある山。ここ

「涅槃」「涅槃経」。

「人道」六道の「人間道」。

「武平四年」、南北朝時代の北斉において、後主の治世に使用された元号。五七三年。

「越州」二つある。現在の広西チワン族自治区と広東省に跨る地域に設置されたものと、浙江省紹興市一帯に設置されたもの。ウィキの「越州」の解説のそれぞれのリンクのところにカーソルを置けば、孰れも位置が判る。

「頭陀」托鉢行(たくはつぎょう)。

「遠近」「遠くに住む人と、近くに住む人」。どこの人も。

「宿習」前世からの習慣や習性。因縁。]

2022/07/21

曲亭馬琴「兎園小説別集」下巻 追記異聞淸國荒飢亂

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの「新燕石十種」第四では本篇はここから。同書の「目錄」では、前の「墨水賞月詩歌」に割注で「追記淸國荒飢亂」としてセットになっているが、要は紙が余ったので、ここの挿入しただけで、何の関係もない。吉川弘文館随筆大成版で、誤字と判断されるものや、句読点(私が添えたものも含む)などを修正した。]

 

追記異聞淸國荒飢亂

去年來、唐國諸省洪水にて米穀不ㇾ熟、餓死の者多く、困窮に堪かね候處、去冬十一月比、河南の富家趙金龍と申者、米穀其外柴薪等迄、夫々施し救ひ、諸民安堵仕候處、知縣官所より、右可ㇾ施品々を官所ヘ指出し、官所より土民へ配當可ㇾ致、其義難ㇾ成候はゞ、官府へ相當の挨拶、賄賂を出し候樣との沙汰により、自身貯置候米穀を以、諸民を救ひ候儀にて、官府へ賄賂差出候わけ無ㇾ之趣相答候處、兩條共辭退いたし候者、疑しきよしにて入牢を申付候故、諸民、恨を生じ一揆を企、知縣を殺害し、牢屋を毀ち、金龍を救ひ出て騷動に及び、遂に河南の總兵幷に遊擊と申武官、軍勢を押出して征伐あり。此以前、趙金龍の妹趙金鳳を娶り候洞住居の猺人共、土民を救ひ、右之一揆に與し、官軍と戰ひ、河南の總兵幷に遊擊も、仙洞にて猺人の爲に討死し、官軍敗走に及び候。此山は四川廣東廣西河南の四省に通じ、猺人共居住仕候洞御座候。此節金龍の子は虜に成候由。又金龍の弟金虎が虜に成候と申噂、兩說に御座候。其後北京より英和と申大將、精兵十萬を領し、河南へ出陣有ㇾ之趣、當節出船の砌、專ら風聞仕候。

一、當節、江南省の内、上海と申所え、イギリス船一艘着船いたし、唐國通商相願候へ共、許容無ㇾ之。其以前、福建の沖へも繫り、商賣願いだし、夫より寧波えも船寄せ、願書差出し候へ共、何方にても許容無ㇾ之。此節は上海の沖手へ繫り居候故、海邊、武備嚴重にて、手當有ㇾ之。土民の經營は何の構も無ㇾ之。只、武官の備る而已に御座候。【此下ヰンギリス願出の譯文あり。略ㇾ之。】

右之通、此度御書上に成候に付差上候。私、唐人に出會候節、直に右の趣承り候處、當三月初旬、官軍大將、遊擊、謀に落入、敵地にて討死いたし、夫より四月、北京より大將十萬騎にて向ひ申候。いづれ、五月中、出立に相成申、北京より人數罷越候はゞ、程なく靜謐に相成可ㇾ申候よし申聞候。

一、北京より乍浦え、日本里數、六、七百里も有ㇾ之、あらまし、唐人に承り候。里數左の通り。

 

Sinkokuibun

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像よりトリミング補正した。キャプションは、時計回りに十二時位置から、

順天府

 北京

 ↓

六↓

百↓

程↓

 ↓

 

  乍浦

五 ↓

百 上海

里 ↙

程 寧波

 ↙

福建

廣東郡

 ↓

廣↓百

東↓五

 ↓十

 ↓里

 ↓程

 ↓

(山洞)[やぶちゃん注:丸印内にあるのを、丸括弧とした。]

四川 西

 ↓

河↓二

南↓百

 ↓里

河↓程

北↓

 ↓

[やぶちゃん注:最初の十二時位置に戻る。]

とある。本文にある通り、「里」は本邦の里程である。但し、この数字は信用出来ない。例えば、北京と乍浦間は直線で千百十三キロメートルあり、実測を凡そ倍換算としても二千キロ余りだが、六百里は二千三百六十六、七百里二千七百四十九キロメートルとなる。一方で、四川から北京は「二百里」で七百八十五キロメートルしかないが、直線距離でも現在の首都成都からは千五百キロメートル、四川省の東端から計測しても、千キロを有意に越える。

 

山洞と申所は、日本にて申さば、肥後國五ケ村米良とも可ㇾ申處に御座候。官府に貢物も差出不ㇾ申、洞に一箇の王のごとく、日本にて、凡、九州程も廣く領し居候。趙金龍は其大將方に緣組致し候と覺申候故、殊之外の大勢にて候よし、其上、河南省の一揆を合せ、何れ只事不ㇾ成候。

知縣官所と申は、所の代官の事なり。山洞は所の名也。四川省、廣東省、廣西省、河南省と申は、唐國は十八省と申て、唐を十八に割て、一つを一省と申、其省の内に、國郡城奉行所有ㇾ之候。【天和三壬辰八朔、宇都宮藤河合生、この(マヽ)外を懷にし來て、こは同僚何がしが見させたるを借謄したり。本文に歲月を記さゞれば、何の時ともわきまへがたし。鑑定を願ふ、といへり。予は云、こは本朝天明荒餓の比の事なるべし。當時唐山も荒飢にて、一揆起りし事は予も傳聞たり。大かたその折の事にて、昨今の事にはあらじと答たりき。則、この處に餘紙あるを以て、錄して後考に備ふ。追考、この兵亂は、去年淸の道光辛卯年の事也。長崎奉行より風聞言上の進達書の趣は、かくまで大造なる事にてはあらずといへり。未詳。なほたづぬべし。】

[やぶちゃん注:これは、そのままでもかなり読み易く、面白い。しかもこれは、清の行った少数民族弾圧史の中でも少数民族ヤオ族の起こした反乱「瑤民(ようみん)の乱」の記載である。瑤民(ヤオ族)は中国の南西部に住むミヤオ () 族の一支族で、中華人民共和国成立以前では「瑤族」とも記される。清朝の改土帰流政策(中国の西南地方に住む諸少数民族に対する元代から始まった中国化政策。「改土帰流」とは土司・土官を改めて流官(中央政府任命の地方官)にするという意)にも山岳地帯に住む瑤民は従わず、漢人は瑤民の無知をよいことに、彼らを欺き、官吏も瑤民の訴えを無視した。そのため、道光朝の初め、巫鬼で衆望を集めていた湖南省永州の趙金龍と、常寧の趙福才が、道光十一年 (一八三一年。本邦では文政十三年年末から天保二年年末に相当する)に反乱を起し、彼らを虐待していた天地会の会党や地方官を襲撃、これに呼応して広西省賀県で盤均華が,広東省北西辺で趙仔青の軍も反乱した。清朝は総督の盧坤,提督羅思挙らに命じて同十二年四月にこれを討伐、残存勢力も同年中に平定された。清朝は瑤民に対して懐柔政策を続けたが、この後も小規模な反乱はしばしば繰返された(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)、とある。さて、最後に馬琴は「道光辛卯年」と言っているのが、まさに道光十一年(一八三一)年なのである。そして、なかなかよく判らなかった、この「兎園小説別集」の成立時期が、この最後の「この兵亂は、去年」(☜)「淸の道光辛卯年の事也」の一節から、私が漠然と想像していた文政最後の文政十三年よりも前ではなく、その後と推定出来ることになるからである。何故なら、一八三一年は文政十三年では陰暦十一月十八日から十二月九日までの僅か二十二日で、天保元年は陰暦十二月十日から天保二年十一月二十九日までが一八三一年で、有意に長いからである。則ち、本「別集」の成立は天保元年或いは同二年と推定できることになるのである。【2022年7月29日追記】後の本「別集」の最後から二つ目の「船山の船石」の最後に「壬辰」のクレジットがあった。これは天保三(一八三二)年であった。

「去冬」「いんぬるふゆ」。

「河南」河南省(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「無ㇾ之趣」「これなきのおもむき」。

「候者」「さふらえば」。

「恨」「うらみ」。

「企」「くはだて」。

「毀ち」「こぼち」。

「出て」「いだして」。

「遊擊と申武官」「『いうげき』とまをす『ぶかん』」。この「遊擊」というのは、清国の正規の軍隊ではなく、清国が、古くに武将の一族であった者や、民間人に与えた、非正規軍属(傭兵)の集団・部隊を指すようである。ウィキの「明清交替」の中に、清朝の前身である『後金が新たに支配した地域は漢人の社会であり、ヌルハチは漢人の武臣や商人に遊撃』(☜)『と都司の職を与えて行政を任せた』とあることからも、そう推定出来る。

「洞住居の猺人」中文ウィキのヤオ族のページ「瑶族」を見ると、漢字表記に「猺族」があるので、同一であることが判った。そしてヤオ族はもともと山地に住むことから、或いは、古くは一部は山の洞窟などに集団で居住していた可能性は高いから(そうした洞窟に住居を構える中国の少数民族は現在も存在する)、この「洞住居」も腑に落ちるのである。

「與し」「くみし」。

「仙洞」不詳。以下に「此山は四川廣東廣西河南の四省に通じ」とあるからには、中国の長江中流域に近い山でないとおかしいが、判らぬ。或いは、後に出る「山洞」と同じではないか? と勘繰りたくなる(「山洞」も広域地方名ながら、判らぬのだが、そもそもが、この「四川」・「廣東」・「廣西」・「河南」とあるのは、現在の省名と比しても、全部が中抜け状態で、よう判らんのじゃて!

「精兵」「せいびやう」。

「砌」「みぎり」。

「繫り」「かかり」。錨を下ろして停泊し。

「商賣願いだし」「しやうばいねがひ、いだし」。

「何方」「いづかた」。

「備る」「そなふる」。

「而已」「のみ」。

「直に」「ぢきに」。

「謀」「はかりごと」

「落入」「おちいり」。

「出立」「しゆつたつ」。

「乍浦」(さほ)は現在の浙江省嘉興市平湖市乍浦鎮当該ウィキによれば、『杭州湾北岸の、水深の深い波止場として唐代から知られていた』。『明代には、倭寇の襲撃を受けたことがしばしば記録されており、港湾として一定の重要性をもっていたことが示唆されている』。『清代には、広範囲に運河網が整備されて杭州とも運河で結ばれ、この地域の重要な港湾となった』。『清代の海禁政策によって、当地の商人たちは、李氏朝鮮や江戸時代の日本との貿易を独占していた』とある。

「山洞」不詳。図では頭に「四川」とある。現在の四川省内にあると考えてよい。

「肥後國五ケ村米良」宮崎県児湯(こゆ)郡西米良村(にしめらそん)や、その東の熊本県内の山間部などをも含む古い広域地名。

「何れ只事不ㇾ成候」「いづれ、ただごとならざるさふらふ」。

「唐國」(からくに/たうこく)「は十八省と申」(まをし)「て、唐」(もろこし)「を十八に割」(わかち)「て」清代に配置された行政地域区画としての「十八省」はウィキの「中国本土」を見られたい。清末には五省が追加されている。

「國郡城奉行所」「こく・ぐん・じやう」の「ぶぎやしよ」。

「天和三壬辰八朔」天和三年は一六八三年だが、干支が誤っている。「癸亥」である。徳川綱吉の治世で、えらく前の話で、おかしい。文書も底本にママ注記がある通り、変であるし、干支を間違えている記事は資料価値が甚だ低い。

「宇都宮藤河合生」「宇都宮」と「藤河」という「合生」(「二人の書生」)の意か。或いは「合生」は姓で「あひおひ」か。

「借謄」「しやくとう」。原本を元に写すこと。

「何の」「いつの」。

「天明荒餓の比」「天明の大飢饉」は広義には、天明二(一七八二)年から天明八(一七八八)年を本格的な発生と終息を含む最終期とする。無論、この最初の馬琴の推定は大外れである。

「傳聞たり」「つたへききたり」。

「言上」「ごんじやう」。

「大造」「たいさう」。]

2022/07/20

「南方隨筆」底本正字版 目次 / 「南方隨筆」正規表現版オリジナル注附~了

 

[やぶちゃん注:底本のここから。当然のことだが、リーダとページ数は略した。リンクも張らない。私のブログ・カテゴリ「南方熊楠」を開いて戴ければ、当該電子化に容易にたどり着ける。PDF縦書ルビ一括版(一部はブログ版のみで作成していないものもある。中長編の論考は漏らさずPDF化してある)も私のサイト「鬼火」の「心朽窩主旧館」の「南方熊楠」のパートに纏めてあるので、そちらを利用されたい。

 本文内の「論考」より後の各個標題は実は非常にポイントが小さいが、それは再現していない。

 これを以って「南方隨筆」正規表現版オリジナル注附(全)を終了する。]

 

南 方 隨 筆 目 次

 

編 者 序

論   考

  本邦に於ける動物崇拜

  小兒と魔除

  西曆九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語

  秘魯國に漂着せる日本人

  厠神

  四神と十二獸に就て

  詛言に就て

  牛王の名義と烏の俗信

  龍燈に就て

  今昔物語の硏究

俗   傳

  山神「オコゼ」魚を好むと云ふ事

  イスノキに關する里傳

  睡眠中に靈魂拔出づとの迷信

  通り魔の俗說

  睡人及び死人の魂入替りし譚

  臨死の病人の魂寺に行く話

  睡中の人を起す法

  魂空中に倒懸する事

  鯤鵬の傳說

  神狼の話

  千年以上の火種

  親が子を殺して身を全うせし事

  鹽に關する迷信

  田螺を神物とする事

  水の神としての田螺

  女の本名を知らば其女を婚し得る事

  桃太郞傳說

  アイヌの珍譚

  鼈と雷

  泣き佛

  鹽を好まぬ獸類

  人を驢にする法術

  葦を以て占ふこと

  富士講の話

  猫を殺すと告げて盜品を取戾す事

  琵琶法師怪に遭ふ話

  孝行坂の話

  幽靈の手足印

  鳴かぬ蛙

  眼と吭に佛有りと云ふ事

  山の神に就て

  蛇を驅逐する咒言

  親の言菓に背く子の話

  河童に就て

  河童の藥方

  生駒山の天狗の話

  熊野の天狗談に就て

  子供の背守と猿

  時鳥の傳說

  ウジともサジとも

紀州俗傳

附   錄

  鄕土硏究記者に與ふる書

索 引「續南方隨筆」の卷末に併載す

         ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

私の知れる南方熊楠氏 (中 山 太 郞)

 

 

目  次 

 

[やぶちゃん注:以上のように、「索引」に就いては、本巻ではなく、続編である『「續南方隨筆」の卷末に併載す』とわざわざ言ってあるわけだが、実際には「續南方隨筆」(大正一五(一九二六)年十一月岡書院刊)を見ると、その「目次」に(国立国会図書館デジタルコレクションの当該原本の目次の終り部分)、何んと、『最終編卷末に全卷索引を載す』とやらかしてくれちゃってあるのである。この「最終編」とは「續々南方隨筆」(仮題)を指す。これは実際には完成・刊行には至っていないため、「索引」は当然、幻しとなったのである。但し、自筆草稿・筆写草稿その他から、現行では、その「續々南方隨筆」と思われる構成物が「続々南方随筆」として、筑摩版全集及び選集に当該標題で収録されている。

 一年八ヶ月かけて、やっと、終わった。しかし、「南方熊楠ロス」が恐いので、近々、「續南方隨筆」を起動することをここにお約束しておくこととする。

「南方隨筆」底本正字化版 跋 中山太郞「私の知つてゐる南方熊楠氏」 附・柳田國男名義の注意書き差し込み

 

[やぶちゃん注:底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(ここから)で視認して用いた。

 本篇は特に「跋」とはしていないが、跋文相当として、記事名の標題の頭に「跋」と附しておいた。

 筆者中山太郎(明治九(一八七六)年~昭和二二(一九四七)年)は足利生まれの民俗学者。本名は太郎治。東京専門学校(現在の早稲田大学)卒業。新聞記者・編集者を生業とする傍ら、柳田国男に師事し、自らの学問を「歴史的民俗学」と称し、古文献による研究を行なった。読書から得られた膨大なカードをもとに、巫女・盲人・売笑・婚姻・若者といったテーマごとの通史を纏め、独力で「日本民俗学辞典」(昭和八(一九三三)年刊)を編纂した。口頭伝承に基礎を置く柳田との対立などによって、学説史上、長らく評価されなかったが,近年その功績が認められつつある(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

 一部で読み難いと判断した箇所に読点を補った(それは特に断っていない)。また明らかな誤字と判断したものは訂した(特に注記はしていない)。注は最小限に留めた。]

 

   私の知つてゐる南方熊楠氏 中 山 太 郞

 

     私の知つてゐる南方熊楠氏 

                  中山太郞 

 私は南方熊楠氏を、奇人だとか、變人だとか、又は單なる物識りだとか、そんな陳套な文句を以て品隲することは、氏に對する大なる冒瀆であると信じてゐる。私は斷言する、南方氏は奇人とか變人とか云ふそんな小さなケタは、生れながらに超越した偉人であり哲人であると云ふことを。而して南方氏こそ眞に生ける日本の國寶であることを。

[やぶちゃん注:「陳套」(ちんたう)は「古臭いこと」。「陳腐」に同じ。

「品隲」(ひんしつ)は「品定め」の意。]

 我が南方氏は日本に過つて生れた大學者である、言ひ換へれば日本が過つて生んだ大天才なのである。學者必ずしも天才ではなく、天才又必ずしも學者でないが、南方氏に在つては一身で此の二面を具へてゐるのである。寡聞ではあるが私の知れる限りでは、其の學殖に於て、其の精力に於て、然も識見に於いて、氣魄に於て、我が南方氏に比肩すべき者を我國の現代に於て、其現代に於て、否、我國の過去に於ても遂に發見することが出來ぬのである。彼の勤續四十年を以て歐洲の學界に有名なるキングスカレツジ敎授ダクラス氏が『南方は大偉人なり』と敬服し、更にロンドン大學總長ヂツキンス氏が『南方は、それ、異常の人か、東西の科學と文藝とに兼通せり』と激稱したのは、決して世辭でもなければ追從でもない、氏は不世出の大偉人、大異常人なのである。

[やぶちゃん注:「キングスカレツジ敎授ダクラス」ロバート・ケナウェイ・ダグラス(Robert Kennaway Douglas 一八三八年~一九一三年)はイギリスの中国学者で、ロンドンの国立大学キングス・カレッジ・ロンドン(King's College London)教授。サイト「南方熊楠のキャラメル箱」のちらの記載によれば、『中国領事館に勤務』後、『大英博物館へ』移り、『東洋書籍部の初代部長を務め』た。『大英博物館館長フランクス卿の後見を受けてやって来た』熊楠『と出会い、その知識に瞠目したダグラスは熊楠に東洋書籍部の仕事を手伝わせ』たが、『熊楠は大英博物館内で何度ももめ事を起こし、その度にダグラスが事態の収拾に当た』ったとある。

「ロンドン大學總長ヂツキンス氏」イギリスの日本文学研究者・翻訳家フレデリック・ヴィクター・ディキンズ(Frederick Victor Dickins 一八三八年~一九一五年)。イギリス海軍軍医、領事館弁護士として来日し、帰国後はキングス・カレッジ・ロンドンの事務局長(副学長)を務めた。初の本格的英訳とされる「百人一首」を始めとして、「竹取物語」・「忠臣蔵」・「方丈記」などを英訳し、日本文学の海外への紹介に先駆的な役割を果たした人物として知られる。ハリー・パークスやアーネスト・サトウとも交流があり、熊楠が翻訳の手助けをする代わりに、イギリス留学中の経済的支援をするなど、深い交流があった(当該ウィキに拠った)。]

        ○

 南方氏の學殖に就ては、苟くも本書を通讀せられたお方ならんには、其の該博と深遠とに必ず驚かるゝことゝ思ふので敢て說明せぬが、精力の絕倫に就ては、氏が大藏經を三度精讀したとか、内外古今の書籍を讀破したとか、そんな月並のことではなく、更に驚くべき事實が數々ある。然し此處に其の總てを盡すことは許されぬが、私が一番驚いてるることは氏の書信である。一度でも氏の書信に接したお方ならば、卷紙に毛筆の飯粒大の細字で通例三尺五尺、長いのは一丈二丈と云ふ、一通讀むにも三日はかゝると云ふほどの書信を、一氣呵成に書きあげる精力である。然もその書信たるや南方一流の引例考證の微に入り細を極めたもので、書き出しの時間と書き終りの時間(氏は如何なる書信にても此の事を附記する)から推して、引用書を參考する餘裕はないと信ずるので、あれだけのものを全くの暗記で認めるのかと思ふと、實際異常の人を叫はざるを得ないのである。然も斯かる長文の書信を、明治三十四年の歸朝後に於て先づ佛敎に就ては故土宜法龍師(仁和寺門跡、後に高野山座主)に、植物學に就ては理學博士白井光太郞氏に、民間傳承に就ては柳田國男先生に、神話及び童話に就ては故高木敏雄氏に更に粘菌學に就ては小畔四郞氏に、淡水藻に就ては上松蓊氏に、人類學及び粘菌に就ては平沼大三郞氏に、多きは數百通、少きも數十通を寄せてゐる。以上の中で私が披見したものは白井博士、柳田先生、小畔氏の三氏だけであるが、故高木氏の分は學友ネフスキー氏の談によれば、一部の書册をなしてゐたと云ふし、上松氏の分も、平沼氏の分も、又相當の量に達してゐることゝ思ふ。これだけの書信、それは營業としてゐる手紙書きでも遣󠄁れるものではない。然もそれを硏究の傍ら遣󠄁り通す氏の精力には誰か企て及ぶものか。

[やぶちゃん注:「土宜法龍」仏教学者で真言僧として高野山真言宗管長などを勤めた名僧土宜法龍(どきほうりゅう 嘉永七(一八五四)年~大正一二(一九二三)年)。

「白井光太郞」(みつたろう 文久三(一八六三)年~昭和七(一九三二)年)は植物学者・菌類学者。「南方熊楠 履歴書(その43) 催淫紫稍花追記」の私の注を参照。

「高木敏雄」(明治九(一八七六)年~大正一一(一九二二)年)はドイツ文学者で神話学者・民俗学者。大正二~三年には『郷土研究』を柳田国男とともに編集していた。欧米の、特にドイツに於ける方法に依った神話・伝説研究の体系化を試み、先駆的業績を残した。

「小畔四郞」(こあぜしろう 明治八(一八七五)年~昭和二六(一九五一)年:熊楠より八つ下)は熊楠が亡くなるまで有能な助手として彼を支えた人物。「南方熊楠 南方隨筆 始動 / 画像解説・編者序(中村太郞)・本邦に於ける動物崇拜(1:猿)」を参照。

「上松蓊」(うえまつしげる 明治八(一八七五)年~昭和三三(一九五八)年)は熊楠の粘菌研究の門弟の一人。「南方熊楠 履歴書(その24) 小畔四郎との邂逅」の私の注を参照。

「平沼大三郞」(明治三三(一九〇〇)年~昭和一七(一九四二)年)は小畔・上松とともに三羽烏として熊楠を支えた門人。]

 氏の識見と氣魄とに就ては、別項に就て記す考へであるから改めて此處には舉げぬ。更に氏の專攻である粘菌學に於て、如何なる位置を世界的に占めてるるかと云へば、これは左の數字が雄辯に證明してゐる。

 大正十五年迄の世界植物學界に報告されてゐる粘菌の總數は、本種變種の二つを併せて(以下同じ)二百九十七種であるが、此の中で南方氏が獨力で發見報告した數は實に百三十七種に達し、氏の指導を受けてゐる小畔氏が五十二種、同じ上松氏が五種、外には理學博士草野俊助氏が十七種を報告してゐるだけで、他は世界各國の諸學者の報告である。多くを言ふを要しない。纔に此の一事から見るも氏の貢獻の如何に重きをなしてゐるかゞ窺はれやう。氏が英國で發表した『燕石考』が、今や十二ケ國の國語に飜譯されてゐるとか、更に『神跡考』が内外學者の驚異となつてゐるとかと云ふことは、氏の名譽には相違ないが、然し氏にとつては全く餘技である。これを以て氏を測らうとするのは、未だ廬山の總てを盡くさぬ人の管見である。

 私も敢て氏の總てを知つてゐるとは言はぬが、如上の書信を通じ、更に氏を知る方々のお話を承り、それへ私が大正十一年五月から八月まで、前後九十日間親しく氏の口から聽いたことを綜合して、その輪廓だけでも明かにしたいと思ふ。聽き違へ覺え違ひも澤山あらうが、それは總て私の罪であることは言ふまでもない。

       ○

 熊楠氏は本年六十だから、明治元年生れになる。家は代々紀州日高郡矢田村大字土生(はぶ)の庄屋を勤めて、同地方きつての大金持であつたと云ふことだ。何でも熊楠氏の幾代前かの當主の折に、大阪の豪商鴻ノ池で結婚式を學げる爲に、金屛風の借用方を同家へ申込で來たので、六曲一双を貸してやつたところ、鴻ノ池では一双では足りぬモウ二三双貸してくれとののことに、同家ではそんなに持合せが無いと斷りを言ふと、いや有る筈だ、貸し惜みするとは怪しからんと問答の末、當主が「金屛風とはドンナ物かね」と尋ねるので、使の者は「それは金箔を置いた屛風さ」て答へると「金箔の屛風か、私は金屛風と云ふから純金の屛風のことかと思ふて一双しか無いので斷つたのだが、それなれば幾らでもあるから持つて行くが宜い」と、五双貸したと云ふ逸話が殘されてゐる。此の一事から見るも南方家は素晴しい財產家であつたことが知られるが、熊楠氏の父は此家の次男として生れたのである。その頃は德川の世盛りが過ぎ、南方家も以前のやうな暮し向きでなく、且つ土生村は僅に三十戶ほどの山間の辟地、かゝる猫額大の土地の庄屋におさまつたところが致し方ないと見極めをつけたものか、十一歲の折に家を飛び出し諸方に年期奉公を勤めた上和歌山に赴き此處で鐵物屋を初めたのが、その時の資本は驚く勿れタツタ三圓五十錢だと云ふことである。

[やぶちゃん注:「明治元年生れ」一八六八年であるが、誤り。熊楠は(慶応三年四月十五日(一八六七年五月十八日)生まれである。

「日高郡矢田村大字土生」「ひなたGIS」の戦前の地図でここ。現在の日高郡日高川町土生(グーグル・マップ・データ。以下、特記のないものは同じ)。

「熊楠氏の父」南方弥兵衛(後に「弥右衛門」と改名)については、『「南方隨筆」底本正字化版「紀州俗傳」パート 「四」』の「予の亡父」の私の注を参照されたい。

「鐵物屋」「かなものや」。]

        ○

 氏は鐵物屋の次男として和歌山市に生れたのであるが、父なる人は非常なる勤儉力行家で、後に和歌山縣で五番目、和歌山市では第一番と云はれる資財を造りあげただけに、生活などは出來るだけ質素を極めたものである。熊楠氏が幼時の辛苦を訴へた書信の一節に

  (上略)家貧と云ふにぱ非ざれぎも、父母至て

  節儉なる人なりし故、金錢とては一文もくれず、

  因て家で賣る鍋釜に符牒つくる藍と紅がらにて、

  ブリキ板へ習字し、又鍋の包紙にと買ひ來りし

  内に訓蒙圖彙十册ありしを貰ひ、それを見て𤲿

  を學べり云々

とある程で碌々に學枝へも遣られなかつたのである。

[やぶちゃん注:「力行家」「りきかうか(りっこうか)」。非常な努力家。]

 然し氏の凡人でない閃きは靑鼻汁を垂してゐた時分から見えてゐた、それは十二歲の折であるが、同町内に古本屋があつて店頭に太平記五十册が飾られてあつた。氏は此の本が讀みたくて買ひたくて仕方がないが、代價はと訊くと大枚三圓だと云ふ。金三圓と云へば今日なら大食の者なら蕎麥食つても滿腹せぬほどの金であるが、當時の氏にとつては容易に手にすることの出來ぬ大金だ、さればとて本を貸してくれと賴んだところで、貸本屋ぢやないと云ふて斷わられるのは小供心にも豫測される。そこで氏は學校の往來每に店頭に立ち、件の太平記を偸み讀みして三枚五枚と暗記して歸宅し、半年餘りで全部五十册を立派に寫してしまつた。

 此の一事は全和歌山市の大評判となつた。それは人問業ではない、奇蹟だと云ふ聲が高くなり、流石に强情で學問嫌ひの父親も、「熊楠だけは別者だ、好きなら本を讀むがよい」と許すやうになつた。氏の學問はこれで幕が明き、爾來、六十年の今日に及んだのである。

        ○

 氏は十七歲にして上京し大學豫備門に籍を置いた。當時、同窓には芳賀矢一博士、故人となつた俳聖正岡子規、同海軍中將秋山眞之等がゐた。その頃の氏は遊學とは云ふものゝ決して世間並の書生のやうに、充分の學費を親から送つてもらつて、暢ん氣に本を讀むと云ふ境涯ではなかつたのである。半は苦學する有樣である上に、當時から大酒を好み、その飮代を尠からず要したのと、邊幅を飾らぬ天性とで蓬髮弊衣、所謂ボロ書生の模型たるを失はなかつた。同恣であつた本多光太郞博士が當時を回顧されて語るに

[やぶちゃん注:以下は「變つてゐた。」までが底本では全体が一字下げ。]

 南方君は變り者で通つてゐた。夏になつても熱いと言はず、冬になつても寒いと言はず、金があれば飮む、飮めば議論をしかける、相手がなければ寢ると云ふ有樣だつたが、此の寢るに就て珍談がある。それは南方氏は非常に猫を愛してゐた。素人下宿にクスぶつてゐたが猫だけは手放さず飼つてゐた。猫に食物を遣るのに肉でも飯でも、先づ氏が口中に入れて能く咀嚼し、營養の含まれてゐる汁は自分が嚥下し、殘りの滓だけを與へると云ふ方法で、一人前の食物で猫と二人分を間に合せると云ふ新工夫のものであつた。それで冬になると此の猫を抱いて寢るのだが、これさへあれば夜具などは要らぬと云ふて、煎餅蒲團一枚の外は、悉く酒に代へてしまつたやうである。これでは猫を可受がるのか利用するのか、一寸、その境目が分らぬが、兎に角に學生時分から變つてゐた。

南方氏が故原敬と交りを結び、故山座圓次郞と肝膽相照し、故福本日南を小石川武島町の寓居に訪ねて驚かしたのも此の頃であつた。

[やぶちゃん注:「暢ん氣」「のんき」。

「邊幅」「へんぷく」。見た目。外観。

「原敬」(はら たかし 安政三(一八五六)年~大正一〇(一九二一)年)大正七(一九一八)年に総理大臣に就任したが、三年後の十一月四日、山手線大塚駅職員で政権に不満を持っていた中岡艮一(こんにち)に東京駅頭で刺殺された。直前に発起された「南方植物研究所設立趣旨書」の発起人の一人として彼の名があるが(資金が思うように集まらず、この時の設立は成らなかった)、彼は明治三九(一九〇六)年に内務大臣として神社合祀の勅令を最初に出した張本人であるが、これまた面白い。

「山座圓次郞」山座円次郎(やまざ えんじろう 慶応二(一八六六)年~大正三(一九一四)年)は筑前出身の外交官。帝大卒。明治三四(一九〇一)年、外務省政務局長となり、外相小村寿太郎を補佐して「日英同盟」・「ポーツマス講和会議」などに関わった。特命全権公使として「辛亥革命」後の対中国外交に当たったが、北京で病死した。

「福本日南」(にちなん 安政四(一八五七)年~大正一〇(一九二一)年)はジャーナリスト・政治家・史論家。『「南方隨筆」版 南方熊楠「龍燈に就て」 「一」』の私の注を参照。

「小石川武島町」小石川小日向(こびなた)武島町。現在の文京区水道一丁目・二丁目。]

        ○

 南方氏は夙に軆操無用論を唱へてゐた。全體、體操なんてものは都人士の腹ツペらしにしか過ぎぬ。本當の學者には要らぬものであると稱へた。豫備門時代たゞの一度も此の學科に出たことがない。その時の體操敎師はフランスからのお雇數師であつたゞけに、氏の言分の通らう筈がなく立派に落第させられてしまつた。氏は憤慨やる方なく例の氣性で『ベラ棒め、己れほどの大學者を落第させるなんて、そんな日本には居てやらねえぞ』と大見得を切り、それこそ着のみ着たまゝで瓢然としてアメリカヘ渡航した。それは明治十九年の春で、帝都は墨陀や東臺の花に曉を覺えぬ行樂のときであつた。

[やぶちゃん注:「墨陀」「すみだ」と読み、隅田川のこと。

「東臺」「とうたい」或いは「とうだい」。「関東の台嶺」の意で東叡山寛永寺、及び、同寺のある上野の山の異称。]

        ○

 アメリカヘ渡つた氏は、ランシング大學の農科へ入學する考へで勉强してゐたが、此處でも例の體操無用論が祟り、それに敎室へ出るよりは圖書館へ行く方が多いので、こゝでも美事に落第させられたので癇癪玉を破裂させ『ベラ棒め、己れほどの大學者を落第させるなんて、そんなアメリカなら學校などには入つてやらねえぞ』と啖呵を切り、或るレストランの皿洗ひとなつて獨學をやり始めた。

[やぶちゃん注:「ランシング大學」ミシガン州ランシング市にあったミシガン州農業大学(現在のミシガン州立大学)。]

 當時、熊楠氏は學問の趨勢に就て深く考へた。その結果、將來の學問は哲學と生物學とが、その中心にならなければならぬ。而して生物學の鍵を握るものは植物學の粘菌でなければならぬ。從つて自分は粘菌の硏究に生涯を沒頭しやうと、斯う所存の臍を極めたのである。が、皿洗ひの身分では參考書も買へぬので、世界の大學者の卵を以て任じてゐる氏も、大に弱つてゐるところへ、氏にとつて一大福音が天の一方から落ちて來た。それは曲馬團(サーカス)の書記に雇はれると云ふことであつた。

        ○

 南方氏が歐米の事情に通じ、英、佛、獨、露、伊、蘭、支那、サンスクリツト等の各國語に通達する基調を作つたのは、實は此の曲馬團の書記となつた賜物である。偶然と云ふことが人間の運命を支配すをことの甚大なる、誠に思はざるべけんやである。

 書記となつた氏は一行と共に中米、南米、メキシコ、西印度、キユーパ等の各地の津々浦々まで約五年に及んで興行して廻り、親しく民情を究め文物を學んだ。そして氏の本職云ふのは書記に椙違ないが、實はラプレターの代書專門であつた。と云ふのは、何處も同じく女ならでは夜の明けぬが人情、曲馬團の到るところ一團の女藝人に對し浮かれ男の甲乙から花が贈られる戀文が來る、今晚は一緖に食事がしたいとか、明日は馬車で遊びに行きたいとか、何の彼のと甘ツたるい限りを盡し、駄辭迷句を聯ねたレターが舞込む、それに對して一々客の氣に障らぬやう、さればと言ふて曲馬團の面自を傷けぬやうな、柳に風的の返書を認めねばならぬ。之が熊楠氏の役目なのだから下情にも通ずる筈だし、辭書にも無いやうな通言粹句を覺えた譯である。然も此の間に在つて所期の粘菌學の標本採集と讀書とは一日も廢することなく、折を見たり隙を窺つたりして硏究を續けてゐた。

        ○

 曲馬團がキユバーに到着した時であつた、同地の革命軍が西斑牙の統治から脫がれやうと宣戰し、物情騷然たる有樣であつたが、熊楠氏は革命軍の祖國を愛する意氣に共鳴し、空拳を揮つて軍に加り各地に轉戰した。その折に敵軍から狙擊され左胸部に盲管銃創を受け病院に送られた。然るに此の從軍中、鄕里和歌山で氏の實父は永眠されたのである。後年、當時を追想した氏の書信の一節に

[やぶちゃん注:以下の引用は、底本では全体が一字下げ。]

 父は六十四歲にて死するに臨み、眞言宗の信徒なりし故高野山へ人を登せ、土砂加持と云ふことをなさしめたり、士砂を皿に盛り加持し、その砂の躍るる樣を見て病の吉凶を占ふなり。その時に加持僧の言はく、此病人は不治なりと、其者婦りて旨を父に告げしに少しも動ぜず、これ天命なりとて恰も借りた物を返すが如く從容として死にゆかれたり、其時小生キユバー島に在り、父死する六年前に出立、儀同三司の歌に「その時に着せましものを藤衣、ながき別れとなりにける哉」その如くにて在外十五年中に父母共に死なし、出立のとき別れしが生別となれ云々。

 回天の事業は志と違ひ、蕃地に創を痛んで故國慈父の訃音に接す。熊楠氏ほどの偉丈夫でも九腸寸斷の感を禁ずることが出來なかつたであらう。

[やぶちゃん注:【2022年7月21日改稿】当初、底本では「創を痛んで」(きずをいたんで」の「を」が印刷の擦れで(底本のここの右ページの七行目)読めなかったため「■」としていたが、早速、いつもお世話になるT氏から、国立国会図書館デジタルコレクションに、もう一冊、標題コマに『大正 15.6 7 内交』の印がある検閲副本があり、それでは当該部が「を」と読める、と御指摘を戴いた。「を」と確認し、修正した。T氏に御礼申し上げる。

「熊楠氏は革命軍の祖國を愛する意氣に共鳴し、空拳を揮つて軍に加り各地に轉戰した。その折に敵軍から狙擊され左胸部に盲管銃創を受け病院に送られた」これが事実なら、如何にも熊楠らしい強烈なエピソードで、映画にしたいぐらいスリリングだが、「南方熊楠記念館」の「熊楠の生涯」の「アメリカ時代」のページには、『この旅行中はキューバ独立戦争の最中で、革命軍に身を投じて負傷したというようなことが伝えられたが、そうした事実はなかった』とあった。具体な記述としては、中西裕(ゆたか)氏の論文「南方熊楠の大英博物館勤務および目録編纂説」(昭和女子大学紀要『學苑』七百八十五巻所収・こちらからPDFでダウン・ロード可能)が熊楠の言説と事実の齟齬を剔抉して頗る面白い。そこで、その「二」で、熊楠の長女である文枝さんの証言として、『聞いたことはございません。あれはウソではございませんか。何かお酒に酔ってホラを吹いたのではないですか。中山太郎さんのご本には「敵兵に狙撃されて、左胸部に盲管銃創を受け、野戦病院に護後送された」とありますけど、胸はきれいでしたし……。孫文を枚い出したというのも怪しいですね。』(論文ではここに中略指示がある)『わりに人を騙してケラケラひとりで笑っているということがございました』とあり、さらに別な証言として、『没後雑賀貞次郎は「先生の遺体納棺のために身を清めた際、銃創の跡は全くなく、きれいであった」とし、こうした荒唐無稽な伝説を否定している』(孰れも引用元は記載書誌が長いので、当該論文の後注を見られたい)ともあるので、間違いない。しかも、映画さながらの、この凄い話に関しては、熊楠自身の完全なデッチアゲであったことが、この二件の証言から明白なのである。

『儀同三司の歌に「その時に着せましものを藤衣、ながき別れとなりにける哉」』この歌、儀同三司藤原伊周や儀同三司の母のものなどを調べたが、行き当たらなかった。識者の御教授を乞う。]

        ○

 創が癒えると氏は英國に渡つた。そしてロンドン學曾で募つた天文學の懸賞諭文に多年の蘊蓄を傾けて應じ第一位を占め、學名一時に揚がり直ちに大英博物館の東洋調査部員に拔擢され日本及び東洋の爲に虹の如き氣を吐いてゐた。一八九八年大英科學奬勵會に論文を朗讀して大名をなし、一九〇三年ロンドン大學總長ヂツキンス氏を助けて、日本古文篇を大成してケンブリツチ大學から出版させ、更に同總長と鴨長明の方丈記を英譯し、皇立アヂヤ敎會から出版させるなど、氏の學名は歐洲人の耳に迅雷の如く響き渡つた。

 殊に氏が力を盡したのは、大英博物館の東洋部書籍目錄の編纂であつた。それこそ汗牛充棟も啻ならざる圖書に對して、一々解題を附し著者及び年代を明めるなど、氏の學殖と精力とでなければ、倒底、成す能はざる大事業である。今に同目錄が學者の間に珍重せられるのは全く氏の賜物と言ふべきである。

[やぶちゃん注:「ロンドン學曾で募つた天文學の懸賞諭文に多年の蘊蓄を傾けて應じ第一位を占め」渡英した翌年の一八九三年(明治二十六年)、科学雑誌『ネイチャー』(十月五日号)に載った熊楠の処女論文「極東の星座」(The Constellations of the Far East:過去、一般には一貫して「東洋の星座」と訳されている)を指すが、中山の謂いには誤りがある。これは「ロンドン學曾で募つた天文學の懸賞諭文」ではなく、同誌の「読者投稿欄」に載った自発的な投稿論文である。但し、これが多くの碩学の高い評価を受け、大英博物館への出入りを許可された点で、彼の公的な学者としての、エポック・メイキングな論文であることに変わりはない。

「一八九八年大英科學奬勵會に論文を朗讀して大名をなし」底本では「一九八九年」とあるが、どう考えても誤りとして訂した。しかし、この論文は不詳で、しかも不審がある。それは、私が調べた限りでは、ここに書かれた事実自体を所持する諸資料や、ネット記事の中に見出せないからである。もし御存知の方があれば、お教え願いたい。因みに、熊楠は一八九七年十一月八日に大英博物館で日本人としての人種差別を受け、暴力事件を起こし、出入り禁止として入館証を取り上げられている。但し、同年十二月には大英博物館から入館証返却を受け、再び読書を再開している。しかし、この一八九八年十二月夕刻、大英博物館の閲覧室で女性の高声を制し、監督官との口論の末、追い出され、同月十四日には、大英博物館から追放の通知を受けている。なお、先の中西裕氏の論文には、こういう事実は記されていない。

「啻ならざる」「ただならざる」。]

        ○

 當時、ロンドンに往つた者で、恐らく南方熊楠の學名の餘りに高きに驚かぬ者はなかつたであらう、然も此の名ある熊楠氏が素人下宿の陋室に起臥し、二十貫餘の巨軀を裹むにカラーもネクタイもない、醬油で煮染めたやうな上衣と、葱の枯ツ葉の如きよれよれの洋袴とを以てし、朝から晚まで大酒に食ひ醉つて熟柿のやうな曖氣(おくび)を吐いてゐなのを見ては、更に驚き山の峠を飛び越えて、たゞ呆れに呆れぬ者はなかつたであらう。當時、福本日南が氏の下宿の模樣を記して『彼(南方氏)が下宿の一室は、亦中々の見ものであつたと云ふことは、その穢ないことゝ云つたら、無類飛切である。凹んだ寢臺に、破れたる椅子、便器の傍らには食器が陣取り、掃除なんか何れの世紀に試みられたか分らぬと云ふ光景であるが、感心であつたのは、書籍と植物の標本とは幾んと一室を塡めてゐた』云々。眞況、見るが如しである。

[やぶちゃん注:「二十貫餘」七十五キロ超。

「飛切」「とびきり」或いは「とびつきり」。

「幾んと」「と」は「ど」の誤植であろう。「ほとんど」。]

 氏は大酒の僻ある外に、更に一つの厄介な僻がある。それは體力の旺盛なる爲か、野人の生活に馴れてゐる爲か、常に好んで素ツ裸で暮らすことである。然も氏の素ツ裸は全く文字通りの赤裸で、腰間にすら布片だに纒はぬと云ふのである。此の僻はゼントルマン氣質を國風とするロンドンに在つては誰彼なしに鼻摘みであつた。氏が轉々として居を移した原因は、腰間の一物をブラリとさせて屋内を步くことが、常に下宿屋の物議の種となつて追放されるのである。そのクセ女は大嫌ひで四十歲まで淨く高く童貞を捧げて來たのである。

        ○

 氏は在英中に母國の名士と交りを訂した。その中で故加藤高明、山本達雄、故德川賴倫(氏の舊藩主)、鎌田榮吉、故土宜法龍、故福本日南氏等と誼が厚かつた。

 氏が大英博物飽に在職中、氏の雷名を更に轟かすべき事件が突發した。それは氏が在米中から懇親を結でゐた支那の革命兒孫逸仙が、支那公使館に監禁されたことである。支那政府としては孫氏が火の如き革命思想を皷吹することは、打ち棄て置けぬ事ではあらうが、友人たる氏としては此の監禁を抽手傍觀するには餘りに血の氣が多すぎた。そこで氏は支那公使館に怒鳴り込む、文書で不都合を攻擊するなど、百方、手を盡して見たが、倒底そんな事で釋放さるべき筈がないので、遂に博浪一擊の故智を學び、夜陰身を挺して公使館に忍び込み、漸くにして孫氏を救ひ出したのである。學者としてよりは寧ろ國士としての氣慨に富める氏としては、これ位のことは朝飯前の仕事に過ぎぬが、これが爲に氏の學名は侠名に壓せられるほどであつた。

[やぶちゃん注:「加藤高明」(安政七(一八六〇)年~大正一五(一九二六)年)は外交官・政治家・内閣総理大臣(第二十四代)。尾張出身で東大法学部卒。

「山本達雄」(安政三(一八五六)年~昭和二二(一九四七)年)は銀行家・政治家。第五代日本銀行総裁。後に政界に転じて貴族院議員・日本勧業銀行総裁・大蔵大臣・農商務大臣・内務大臣・立憲民政党の最高顧問を歴任した政界の長老的存在である。豊後国臼杵出身で、三菱財閥が経営していた明治義塾(三菱商業学校)卒。

「德川賴倫(氏の舊藩主)」(よりみち 明治五(一八七二)年~大正一四(一九二五)年)は政治家・実業家。紀州徳川家第十五代当主。田安徳川家第八代当主徳川慶頼の六男として東京府下の田安邸で生まれたが、明治一三(一八八〇)年に紀州徳川家第十四代当主徳川茂承(もちつぐ)の養子となった。明治二九(一八九六)年、イギリスのケンブリッジ大学に留学して政治学を専攻した。留学中に南方熊楠と邂逅し、彼を介してここに出た「支那の革命兒孫逸仙」、則ち、孫文(一八六六年~一九二五年:「文」は本名。「逸仙」は号)とも面会している。但し、「氏の舊藩主」は彼は藩主になっていない(という生年を見れば判る通り、なりようがなかった)ので、「舊藩主主家の当主」でないと正しくない

「鎌田榮吉」(安政四(一八五七)年~昭和九(一九三四)年)は教育者で政治家(最後は枢密顧問官)にして慶応義塾塾長となった人物で、熊楠と同じく和歌山県生まれ。和歌山藩校・同白修学校を経て、明治七(一八七四)年に慶応義塾に入り、卒業後、母校教諭となったが、その後に帰郷し、白修学校校長を経て、再び慶応教諭となった。明治十四年に鹿児島造士館教頭を経て、再び母校に戻った。明治十九年、内務省御用掛となり、大分中学校長や同師範学校長などを経て、明治二七(一八九四)年に和歌山から衆院議員に当選、明治三十年に欧米巡遊、二年後に帰国して慶応義塾長となった。後も高等教育会議議員や教育調査会委員を務め、明治三十九年には勅選貴院議員となった。大正八(一九一九)年の「ワシントン第一回国際労働会議」では政府代表となり、大正十一年には加藤友三郎内閣で文相を務めた。

「博浪一擊の故智」後に劉邦の名軍師となる張良による始皇帝暗殺未遂事件。張良の家柄は、代々、韓の宰相であったが、韓が秦に滅ぼされると、その仇を報じようと、巡幸中の始皇帝を博浪沙(はくろうさ:河南省新郷市原陽県の南)で襲撃するも失敗した。張良は秦の追捕を逃れて下邳(かひ:遙か東の江蘇省のうち)に隠れた。

「夜陰身を挺して公使館に忍び込み、漸くにして孫氏を救ひ出した」これもまた、ジェームス・ボンド顔負けのスパイ・アクションみたようだが、これが事実なら、実際に熊楠に好意を抱いていた孫文が、後にこの件について謝意を送るなり、覚え書として書き残すであろうに、そんなものは、これ、聴いたことがない。先に示した中西氏の論文「南方熊楠の大英博物館勤務および目録編纂説」の引用でも、娘の文枝さんはキューバ革命の戦闘負傷と同じく『怪しい』と否定的である。中西氏は、この事件についても、同じ「二」で言及されており、まさに以上の「支那政府としては」から「漸くにして孫氏を救ひ出したのである。」を引かれた上で、

   《引用開始》

 孫文幽囚事件における真実を熊楠自身が明確に認識していたことは次の書簡に見ることができる。

 

  御尋問の孫逸仙のことは古きことゆえ小生

 記臆たしかならず。氏が支那公使館に囚われ

 しときい ろいろ骨折り救出せし人は、マッ

 カートニー MacCartney [略]、たしか孫氏の

 旧師たりし医師か伝道師と記臆致し候。ロン

 ドンにありしときもっとも親交ありしは、小

 生とマルカーンというアイリシュ人なりし。

[やぶちゃん注:最後に注記番号があり、後注に、『上松蓊宛大正十四年九月二十一日書簡、『南方熊楠全集』別巻一 一九七四年三月一二日 一一五頁。』とある。]

 

 熊楠は事態を正確に記憶している。ところが、中山太郎の書いたものでは虚の部分がほとんどを占めるまでに変形されている。しかし、これは中山が想像にまかせて作文をしたのではなく、フィクションの出所は熊楠自身だろうと推測される。それを思わせる記述が熊楠の日記の中にある。

 

  [一八九七年]十月三目 日 快晴[略]

 六時過に至り北入口にて分れ、予は歩して中

 島氏方に之。輸船会社の吉井氏(伯者人)も

 あり、共に加藤元四郎氏方に之、余得意の

 「竜動(ロンドン)水滸伝」を演ず。それよ

 り酒店に之、又飲酒。十時過分れ、トラム及

 バスにて帰り来る。

[やぶちゃん注:最後に注記番号があり、後注に、『熊楠「ロンドン日記」、『南方熊楠全集』別巻二 平凡社 一九七五年八月三〇日 一〇〇頁。』とある。]

 

 ここで語られた「水滸伝」がすなわち孫文救出事件だという確証は何もないが、熊楠にまつわる虚構の誕生した場所がどこであったかの一端を想像させるものである。

   《引用終了》

とあるのである。但し、中西氏の注『30』(以上の引用前の私が言った本篇からの引用注記)に引用元書誌を記された後に、『孫文にかかわる記述のためかどうかは不明ながら、熊楠はこの文章を中山が載せたことに立腹した。柳田國男宛大正一五年五月二六日書簡に、関連する記述が見られる。そこでは熊楠が「中山君新聞記者の癖抜けず、人の話の忘れたところは勝手に作為するは毎々なれども、今度はあまりはなはだしく小生の言八割以上は作りごとに候。[略]二版にはもちろん取り去らしめ申すべく候。」と書いている(『柳田国男南方熊楠往復書簡集』平凡社 昭和五一年三月二六日 四四七頁)。なお、中山のこの文章は熊楠没後の昭和十八年二月十五日に『南方随筆』が再刊された際には削除された。』(以下略)とあった。ともかくも、やはり限りなく怪しい。]

 在英中の奇行逸話を記せば、それこそ僕を代えるも猶ほ足らぬと云ふ有樣である。現存の名士であるからワザと姓名は秘して置くが、某貴公子が「ナニを南方か」位で輕く視た爲に天窓から嘔吐を吐きかけられ(氏の嘔吐は實に不思議で、吐きたいと思ふて何時でも吐ける、同人間では牛と同じ反芻作用を有してゐるのだらうと言はれてゐる。氏は此の奧の手を以て、幾度が氣に喰はぬヤツを擊退してゐる)て失敗した話は有名である。更にロシヤの植物學者オツサンサツケン伯と學會の席上で議論し、亂醉の結果とは言ひへ伯の鼻ツ柱を嚙つたので、遂に大英博物館を免職になつた。これが日本人同士なら、咋日は酒の上で鼻ハダ失禮した位で濟んだか知れぬが、此の洒落は毛唐人には通用せぬのでクビになつてしまつたことや、更に氏がロンドン中の居酒屋(レストラン)(居酒屋は殆んど言ひ合したやうに街の角にある)を飮み廻り、自ら酪李白を以て許し、天子召せごも船に上らずを極め込んでゐるので、福木日南から『角屋(カドヤ)先生』のニツクネームを奉られ、それでも「我輩は食ふ物は食はなくとも飮む物だけは飮んで勉强した」と矜語したことや、更に德川賴倫侯を大英博物館の秘密室に案内し、印度から到來したる田を荒した女を牛が犯してゐる等身大の石像を見せて眼を廻させたことや、數へて來ると殆んど際限なく存してゐる。然しかゝる事は決して氏の大を加へるものでないから割愛するが、猶ほ最後に特筆すべき一事がある。

[やぶちゃん注:「訂した」「ていした」。「結んだ」の意。

「僕を代えるも猶ほ足らぬ」私が馬鹿なのか、これ、意味不明である。「墨」ならなんとなく判るけど。

「天窓」(あたま)「から嘔吐を吐きかけられ……」これは熊楠の奇体な特技としてよく知られたものである。

「オツサンサツケン伯」カール・ロバート・オステン=サッケン(Роберт Романович Остен-СакенCarl Robert Osten-Sacken 一八二八年~一九〇六年:彼は「伯爵」ではなく男爵である。)はペテルスブルグ生まれのロシア人。一八五六年から一八七七年まで、外交官としてアメリカ滞在した。幼少より昆虫好きで、アメリカ勤務後、欧州へ戻ると、ドイツのハイデルルグに居住し、膜翅類(膜翅(ハチ)目 Hymenoptera:ハチやアブの類)の研究者で同類についての目録の作成に勤しんだ。彼は晩年、膜翅類の研究をフォークロアのレベルまで掘り下げたが、その中で、聖書に出る蜂の伝説に関して、一八九三年十二月二十八日号の『ネイチャー』の読者投稿欄に資料提供を掲げた。それに対して熊楠は、一八四五年五月十日号の同誌で、‘ Some Oriental Beliefs about Bees and Wasps ’(所持する「南方熊楠英文論考[ネイチャー]誌篇」(二〇〇五年集英社刊)では「蜂に関する東洋の俗信」と訳されてある)を書いた(続論考もある)。一九八四年八月二十一日には、サッケン自身がロンドン滞在中に熊楠を訪問している(但し、二十分足らずの訪問であった。彼の部屋と、借りてきたティー・カップの汚さに閉口した結果とされる)。サッケンは同年に‘ Oxen-Born Bees of the Ancients (Bugonia) and Their Relation to Eristalis Tenax, a Two-Winged Insect ’(の訳(抄訳)では『牛から生まれた蜂の古説(ブーゴニア)とハナアブの関係』)を書き、そこで熊楠の提供した資料を披露している。但し、以下の、サッケン「と學會の席上で議論し、亂醉の結果とは言ひへ伯の鼻ツ柱を嚙」(かじ)「つたので、遂に大英博物館を免職になつた」というの全く事実とは異なる。これは、先の中西氏の注の記載から考えるに、熊楠の噓ではなく、中山の調子に乗り過ぎた、ひどい誤認と、迂闊な表現であると思われる。「鼻ツ柱を嚙つた」は換喩で、徹底的に論駁して封じ込んだの謂いであろう。とすれば、「落斯馬(ロスマ)論争」で熊楠が、書簡のやり取りで完膚なきまでにぼこぼこにした、オランダの東洋学者・博物学者でライデン大学中国語中国文学講座の初代教授でもあったグスタフ・シュレーゲル(Gustave Schlegel 一八四〇年~一九〇三年)を勘違いしているように思われる(同論争については、書き出すと長くなるので、サイト『南方熊楠を知る事典』の「松居竜五(まつい りゅうご)」氏のページの「シュレーゲル Schlegel」の項を読まれたい)。そもそも、彼の大英博物館の永久立入禁止(中西氏の論文でも考証されているが、熊楠は職員として採用されたのではなく、出入・参観許可が認められたというに過ぎないようである)の措置の原因は、一八九八年十二月のある夕刻、大英博物館の閲覧室で女性が高声で私語したことに彼が怒って、それを制し、間に入った監督官との口論の末に追い出されたという一件が元である(以上は英文、及び、露文のサッケンのウィキの他、所持する一九九三年講談社「南方熊楠を知る事典」及び前掲の「南方熊楠英文論考[ネイチャー]誌篇」や中西氏の論文等に寄った)。]

        ○

 それは氏が二度目に酒で大英博物館をシクジリ、それこそ大好物の角屋先生も廢業してゐると、突如として故ヴイクトリヤ女王からの敕命で、一日一ギネーで當分植物學を硏究せよとの御沙汰を被つたことである。當時の氏は「彌次喜多が富籤の札を拾ふた如き元氣と感激」とを覺えたのであるが、これは英國の帝室が貧乏な學者や技術家や、その他有能な著作等に取掛り居て硏究員に窮せる者があると、その事の獸怨により或は半年、或は一年と其の者の薪水の助にとて日々若干額の内帑を下されたものである。氏も此の露の惠みに俗したのである。勿論、これはロンドン大學總長ジツキンス氏の奏請によつたのであらうが、窮するも又た名譽なりと言ふべきである。

 かくて明治三十三年の秋に、在外十五年の硏究を終つて歸朝の途に就いたのである。

[やぶちゃん注:ここも何だか大風呂敷を広げている感じがする。河出書房新社「新文芸読本 南方熊楠」の年譜によれば、大英博物館退去追放された直後の一八九九年一月に先に注した大英博物館東洋図書部長ダグラスの尽力で、彼の『官房内に机を置く条件で復帰を許さるが、謝絶して大英博物館を去』り、『以後』、大英博物館の組織の一部である自然史博物館や南『ケンジントン美術館に通う』とある。更に、ウィキの「南方熊楠」によれば、この一月の三十一日には、実弟『常楠よりの手紙を読み』、『「此夜不眠」』と日記に記した『仕送りを当年限りで打ち切るという内容の前年』十二月二十一日『付の常楠書簡が残されており、このことかと思われる』とあって、結局、熊楠は、一九〇〇年(明治三十三年)九月にリヴァプールを出港して、十月十五日に実に十四年振りに日本に帰国することとなったのであった。

「内帑」「ないど」と読む。ここは「皇室・君主の所有する財貨」の意。]

        ○

 明治三十四年の正月、氏から福本一南に寄せた一書は、氏の當時を知るべきものがあるので左に要點だけ抄錄する。

[やぶちゃん注:以下、「御座候(下略)」までは、底本では全体が一字下げ。]

新年の嘉儀茅出度申納候、咋年は中山氏(孫逸仙)の居處敎へ下され罷有御禮申上候、早速、書狀差出し候處返辭これあり、今春は小生方へ來る由に御座候、一體、同氏の一擧などは多少水滸傳がかりたる事にて、霹靂火日南、華和尙熊楠などの人物を多く集め、白馬でも斬てスキ燒に致し、大■皷、大吹角、和尙こゝに於て滿々と酌み、一連に飮み乾しければと、高井蘭山流にやらねば合戰は出來るものにこれ無く、又敗軍ともならんには、和尙一人蹈止り例の嘔吐にて敵を破ること何の雜作もなき事に候に、惜い哉彼れ年少氣銳にして兵法を講ぜざりしことよ、魯人勾踐が荆鄕を惜みしが如く嘆息致し居り候(中略)。

但し今回小生ロンドンを去るに臨み、角屋の亭主・酌女ども別れを惜み、椅子に居据つたまゝ動かぬより、領布振山(ひれふるやま)の昔を思ひ、石にでもなりはせぬかと問ひ合せしに、每度ながら餘り尻が永いので、各々歸宅の道の遠きを案じ、容易に動かれぬとの苦情、それではとヤオラ戶外に出づれば、每屋半弔旗を揭げ候、扨は南方先生の去るを悲む古意かて思ひきや、女王の伜が死んだのとイタリー王の銀砲疵のお弔ひの爲と聞き、

   飮む人も飮まるゝ酒も諸共に

         如露如小便應作如是觀

歸朝の船中四十五日、小生胸に一物あれば下等に乘り、押出した剩餘金を學げて飮代に充て日々甲板に驅上り知らぬ連中を相手に珍談を講じ、それより大酒宴を催し候爲に、新嘉波に達する前三日、船中用意の麥酒大罎の方全く盡き、香港以後は小罎にて制限を加ふることゝ相成り候、是に由りて倩(つらつ)ら考ふるに、一船も亦一社會なり、一社會に氣運とか風潮とか申す事これあり候へど、それよりも必死となりて働く烈士はより必要にて、それが大精力を發揮すれば、氣運や風潮は手に麾くべくと存じ候、飮代自分八十圓、他人より亂戰の御馳走約五十圓、神戶に上れば五圓しか囊中にこれなく候、歸國後は每日平均日本酒二升と麥酒八本づゝ飮み候に兄弟呆れ果て候故、酒屋(中山曰、氏の令弟は南方常楠氏とて和歌山縣隨一の酒造家、故大隈侯から命名された名酒一統の釀造元である)が酒を悲む理由如何と問ひ候へば如何にも酒屋は酒徒の多きを喜び候へど家兄の如く無賤多飮の客はあらずもがなと遣り込められ、返答出來ず、こゝ少々閉口の體に御座候(下略)。

全幅、酒香に濤ちてゐるが、その中に氏の面目の躍如たるものがある。

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「﹅」。「■」一字は印刷の擦れで判読不能字。この書簡、「私設万葉文庫」で筑摩書房版「南方熊楠全集」の書簡を調べたが、見当たらない。

「茅出度申納候」「めでたくまをしをさめさふらふ」。

「中山氏(孫逸仙)」孫文の号は「中山」(ちゅうざん)の他に、日本名「中山樵」(なかやま きこり)・「中山二郎」(なかやま にろう)があり、中国や台湾では「孫中山」(スン・ヂョンシャン)として呼ばれることが多い。

「居處」「きよしよ」或いは「をるところ」。

「罷有」「まかりあり」。ここは丁寧表現。

「今春は小生方へ來る由」明治三四(一九〇一)年二月、来日していた孫文が和歌山に来訪し、再会している。

「霹靂火」(へきれきくわ)「日南」「霹靂火」は「水滸伝」の梁山泊第七位の秦明(しんめい)の渾名。彼の、非常に短気で剛直な性分と、異様に大きな怒鳴り声から、稲妻に喩えたもので、それを手紙の相手で、元勤王家にしてジャーナリスト・政治運動家で、孫文の中国革命運動の支援もしていた福本日南に擬したもの。

「華和尙」(くわをしやう)「熊楠」のそれは同じく梁山泊第十三位の魯智深の渾名に自身を擬したもの。「華」(花)は刺青(いれずみ)を指し、魯智深には全身に刺青があったことに由来する。

「斬て」「きりて」。

「大■皷」判読不能字の(つくり)は「畾」。(へん)が判らない。ありそうなのは「櫑」か? この字は「酒樽」を意味し、これは「皷」=「鼓」と親和性はある。而して後の「大吹角」の「吹角」は「角笛を吹き鳴らす」ことだから、対句っぽくもなる。「■皷(鼓)」及び「吹角」は「水滸伝」に出る熟語かとも思ったが、後者は当たり前に頻繁に出るが、どうもセットにした検索では掛かってこない。

「高井蘭山」(宝暦一二(一七六二)年~天保九(一八三九)年)は読本作者。名は伴寛。江戸生れの幕府与力であったが、寛政(一七八九~一八〇一)頃から、「和漢朗詠国字抄」という俗解本を執筆し、読本としての処女作は享和三(一八〇三)年刊の「絵本三国妖婦伝」(初編)という『絵本物』であるが、本書は同題材を扱った「絵本玉藻譚」の上方での出版計画を察知した江戸の書肆が、急ぎ作らせたものと言われる。他に「星月夜顕晦録」のように、鎌倉時代の史実をもとにした実録風の作品が多い。また、馬琴の後を承けて「新編水滸画伝」二十九編の訳を担当し、前代の儒者にして本格的な唐音学者・中国学者であった岡島冠山(延宝二(一六七四)年~享保一三(一七二八)年)の訳した「通俗忠義水滸伝」を利用して手軽に訳している。「高井蘭山流」という意味が今一つよく判らぬが、前で日南と自身を登場人物に擬えた「水滸伝」の、その訳の以上のお手軽なやり口を指して洒落たものか。よく判らぬ。

「彼れ」孫文を指すとしか読めぬ。しかし、「年少」とあるが、孫文は一八六六年生まれであるから、三十五で、熊楠(慶応三(一八六七)年)より一つ上である。革命家としては若過ぎるという年齢ではない。

「魯人勾踐が荆鄕を惜みし」「荆鄕」は「荆卿」の誤字か、誤植。始皇帝の暗殺未遂で知られる荊軻(けいか ?~紀元前二二七年)の異名が「荆卿」(けいけい)(燕の人が呼んだ呼称)。「勾踐」(こうせん)は侠客の名で、「会稽の恥を雪ぐ」で知られる春秋時代の越王勾践(?~紀元前四六五年)とは全く関係ない同名異人。これは「史記」の「刺客列伝」の「荊軻」の末の一節。冒頭の方で、若き日の荊軻が「軻游於邯鄲、魯勾踐與荊軻博、爭道、魯勾踐怒而叱之。荊軻嘿而逃去、遂不復會。」(軻、邯鄲(かんたん)に游び、魯(ろ)の勾踐(こうせん)、荊軻と博(はく:古代のボード・ゲーム)すに、道(みち)を爭ひ[やぶちゃん注:ゲームの進行について言い争いとなり。]、魯の勾踐、怒りて之れを叱(しつ)す。荊軻、嘿(もく)して[やぶちゃん注:黙って。]逃げ去り、遂に復た會はず。)とあり、最後の箇所で、荊軻が暗殺に失敗して殺されたことを聴き、『魯勾踐、已聞荊軻之刺秦王、私曰、「嗟乎、惜哉其不講於刺劍之術也。甚矣吾不知人也。曩者吾叱之、彼乃以我爲非人也。」。』(魯の勾踐、已に、荊軻の秦王を刺さんとせしを聞くや、私(ひそか)に曰はく、「嗟乎(ああ)、惜しいかな。其れ、刺劍の術を講(なら)はざるなり。甚だ、吾、人を知らざるなり。曩(さき)には、吾、之れを叱せしが、彼、乃(すなは)ち、我れを以つて、人[やぶちゃん注:武術や戦略を習うべき人物。]に非ずと爲せしなり。」と。)と惜しんだことを指す。荊軻は献上する巻物(地図)の芯に仕込んだ短剣を抜いて目前で始皇帝を刺殺しようとしたのだが、荊軻は短剣を投げて相手を倒す撃剣の達人であったが、彼が失敗したのは、接近戦の刺剣術を会得していなかったからで、あの時、逃げるのをとめて、ちゃんと教えてやるべきだったと魯人(ろひと)の勾踐は甚だ悔いているのである。

「領布振山(ひれふるやま)の昔を思ひ、石にでもなりはせぬか」これは各地に散在する〈袖振る女〉伝承の本家たる「松浦佐用姫(まつらさよひめ)」のこと。現在の佐賀県北部、日本海側の唐津市厳木町の豪族の娘とされる。単に佐用姫(さよひめ)とも呼ばれ、弁財天のモデルともされる。「宗祇諸國物語 附やぶちゃん注 無足の蛇 七手の蛸」の私の「松原姫(まつらひめ)」の注を参照されたい。]

「女王の伜が死んだ」イギリス・ハノーヴァー朝第六代女王ヴィクトリアの次男でエディンバラ公にしてザクセン=コーブルク=ゴータ公であったアルフレート(Alfred 一八四四年~ 一九〇〇年七月三十日)。

「イタリー王の銀砲疵」イタリア王国の第二代国王ウンベルトⅠ世(Umberto I 一八四四年~一九〇〇年七月二十九日)。アナーキストによりパレード中、四発の銃弾を受け、暗殺された。

「如露如小便應作如是觀」「によろやくによしやうべんおうさくによぜくわん」と読んでおく。「金剛経」出る語句で、「如露亦如電応作如是観」をパロったもの。元の語も普通、総て音読みする。敢えて訓読するなら、「露(つゆ)の如く、亦、電(かみなり)のごとし。應(まさ)に是(かく)の如き観(くわん)を作(な)すべし。」であるが、どうも気持ちが悪く、訓読には馴染まない。意味は「現世のものは仮象のものであって、総てはこれ、露、或いは、雷電のように、儚いものである。故に、かく、あらゆる存在をそのようなものとして常に観想せねばならない。」の意。

「下等」船の最下にある最下級の客室。

「新嘉波」シンガポール。当時はイギリスの植民地。

「方」「はう」。

「麾く」「さしまねく」が普通の読みだが、ここは私は「たなびく」と読んでいるように思われる。

「亂戰」カード・ゲーム博奕をしたのであろう。

「中山」これは本跋文の筆者中山太郎自身。割注。

「故大隈侯から命名された名酒一統の釀造元」底本は「名酒統一」とあるが、誤字・誤植と断じて訂したウィキの「世界一統」によれば、『社名は主力銘柄「世界一統」にちなむ。この酒名は二代目、南方常楠の時代に名づけられた。常楠は早稲田大学の出身で、明治の元勲大隈重信侯爵に師事した関係から、大隈が紀州高野山に参詣した際に酒名の選定を依頼した。気宇壮大な大隈は「世界を統一」する「酒界の一統」たれ、といった意味から』明治四〇(一九〇七)年に『「世界一統」と命名した』とある。現在も和歌山県和歌山市湊紺屋町のここに本社がある。]

        ○

 氏が海外に十五年の星霜を送るうちに、故家の實情も一變してしまつた。それは氏の兩親が亡くなると共に、氏の令兄の豪奢なる生活と且つ無謀なる山カン事業のために、僅かに五年間で全く家產を蕩盡してしまつた事である。生家は斯くして亡び次に令兄も死なれたので、當然、氏が家名を相續すべきであつたが、學問に忠なる氏とて令弟常楠氏に一切を讓り、その代り月月百五十圓の硏究費を生涯送らるゝ約束で氏は分家し、間もなく現住所の田邊町に居を移した。

 氏が田邊に永住の決心をしたのは、同所は熊野連峰に近き爲である。熊野は神代の大昔からの淨境、開闢以來、斧鉞を知らぬ處女林があるので、氏の粘菌採集及び硏究には實に理想境なのである。

 歸朝後直ちに大和大臺ケ原に赴き、酷烈なる寒氣を冐して約一ケ月に亙り露營した爲に、惡質なるリヤウマチスを惹き起し、右足の自由を半ば以上失つた氏にとつては、居ながらにして採集の便ある田邊町は、全く天が氏の爲に殘して置いた場所とも言へるのである。

 氏は此處に永住の地を覔め、幾くもなくして妻女を迎へた。妻女は源平盛衰記で有名な鬪鷄神社の社司の女、女今川をそのまゝ人間にしたやうな貞淑柔順の美點を備へた方だと聞いてゐる。然して氏は四十歲、妻女は二十八歲、共に初婚であつて然も共に童貞を保つてゐたのである。明治三十五年の正月七日に、初めて那智の一ノ瀧の下で面曾した小畔四郞氏に語つた氏の話の中に『我輩は美少年の事は知つてゐるが、女と名のつく者は嬶より外は知らぬ』との一句があつたと云ふ、更にy氏に宛てた書信の一節に

 小生四十歲まで女を知らず、然るに妻を迎へしに

 一發にして姙む、男子を擧ぐ、幼名を蟇(ひき)

 六と名く、これ便々たる腹をツキ出して這ひ廻

 る有樣の蟇に似たるを以てなり云々(中山曰、

 長男熊彌氏のことなり、後に長女を擧ぐ雪枝子

 と申さるゝ由、外に子なし)

硏究に秋夜を惜み、酒盃に春霄を愛した氏にとつては、實際、女などにかまけて居られなかつたのであらう。

[やぶちゃん注:「氏の令兄」熊楠に実兄熊楠藤吉(安政六(一八五九)年~大正一三(一九二四)年)。熊楠の実兄。元の名は藤吉。河出書房新社の「南方熊楠コレクション」の注によれば、明治二〇(一八八七)年七月十五日、父弥兵衛が『家督を長男藤吉に譲り』、『弥右衛門を名乗り、藤吉が弥兵衛を襲名した』とある。しかし、放蕩止まず、晩年には家を出、数え六十六で呉市西城町で没している。サイト「南方熊楠資料研究会」の「南方熊楠を知る事典」内のこちらのページの中瀬喜陽氏の彼の解説によれば、藤吉と妻の愛の間に生まれた『長女くすゑ』(明治二一(一八八八)年生)『は、熊楠から目をかけられた一人であ』り、また、『熊楠の戸籍は、昭和三年六月の分家届まで藤吉とその長男弥太郎を戸主とする、和歌山市十三番庁七番地にあった』とある。

「大和大臺ケ原」奈良県と三重県の県境にある標高千六百九十五・一メートルの大台ヶ原山(おおだいがはらやま)。

「冐して」「おかして」。「冒」の異体字。

「惡質なるリヤウマチスを惹き起し、右足の自由を半ば以上失つた」この出典不詳。熊楠からの聴き取りにしても、熊楠の右足が半ば不随であったというのは、ちょっと私は知らない。

「覔め」「もとめ」。「覓」(「求」と同義)の異体字。

「鬪鷄神社」複数回既出既注。当該ウィキをリンクさせるに留める。

「社司の女」(むすめ)闘鶏神社宮司田村宗造の四女松枝さん。

「女今川」室町前期の武将で室町幕府の九州探題や多くの守護に任ぜられ、歌人としても知られた今川了俊(りょうしゅん:法名。本名は貞世(さだよ))が養子の仲秋に書き残したとされる著名な「今川状」に擬えて、女性が日常に守るべき事柄が禁止条項の形で列挙されている教訓書群を指す。

「嬶」「かかあ」。

「y氏」柳田國男であろう。彼宛の明治四四(一九一一)年六月二十五日附書簡(「選集」の別巻(柳田國男との往復書簡集)で確認)に、『女は全く縁なく(四十の年に始めて今の妻を迎え一交すなわち孕むで男子あり、蟇六と名づく)』とある。但し、幼名のそれの命名由来に就いては書かれていない。不審。

「便々たる」「べんべんたる」太って腹が出ているさま。太鼓腹であるさま。

「春霄」「しゆんしやう」。春の空。]

        ○

 硏究に淫してゐた氏の日常生活は、新妻の身にとつては可なり厄介なものであつたらしい。熊楠一流の殆んど二六時中素ツ裸で、朝から晚まで顯微鏡ばかり覗つてゐられるのでは、家庭の和樂も夫婦の情味もあつたものではない。硏究の半ばに晝飯を出したと云ふては膳部を投げ飛す、思索の最中に世事を話しかけたと云ふては鐵瓶が宙に舞ふのでは、如何に女今川を其のまゝ人間にしたやうな妻女でも堪えられるものではない、三度に一度は賣り言葉に買ひ言葉、投げ交す言葉に花が咲いて實家へ逃げ歸へる。すると氏は其後を趁ふて鬪鷄社の拜殿に素ツ裸のまゝ大胡座をかき、結婚以來、微に入り細に至るまで、夫婦間の情事を漏さず書き記した日記を聲高らかに讀み上げる。安宅關の辨慶糞を喰へ、一茶の七番日記でも跣足で駈け出すほどの珍妙な日記だ。これを聽かされては妻女は顏から火を出さぬばかり、眞赤になつて便所に隱れて耳を塞ぐ、舅も姑も開いた口が塞がらず、何事が起つたかと駈けつける町内の甲乙も、腹をかゝへるやら顏の紐を解くやら大騷ぎ、兩親は娘を呼び出し「親が兩手を合せて賴むからどうぞ歸つてくれ」と宥(なだ)めたり偏(すか)したりして戻すのが常であつた。氏の戰法は斯かる事にも、奇想天外から落つるものがあつた。

[やぶちゃん注:「覗つて」普通なら「うかがつて」でだが、しっくりこない。「みいつて」と当て訓しておく。

「趁ふて」「おふて」。

「糞を喰へ」対句性から「くそをくはへ」と訓じておく。

「一茶の七番日記」小林一茶の「七番日記」は四十八歳から五十六歳までの九年間(文化七(一八一〇)年から文政元(一八一八)年)に亙る句日記で、知られた乱交交尾の蛙合戦で弾き出された雄蛙を詠んだ「瘦蛙負けるな一茶是(これ)に有(あり)」などの代表句が多く含まれているが、同時に妻(初婚相手である「菊」。結婚時で一茶五十二、菊二十八で、二十七も離れていた)との性交記録が丹念に記されていることでも知られる珍日記である。因みに、近代では徳富蘆花が女中との性交を記し(妻が読むことを意識した確信犯)、志賀直哉が日記に妻との性交をした日に「肉」と記していることがよく知られる。

「顏の紐を解く」意味不明。喋らせないようにすること、或いはばりばりに拘った語りの「紐を解」いて他の話をしようとさせることか。よく判らぬ。]

 更にこれにも增して愉快なのは、一年に一度、氏が和歌山の令弟常楠氏方へ、生活費を受取に往くときの有樣である。その日になると、氏は家に有るだけの紙幣を悉く銀銅貸に兩替させ、それを双の袂に入れ、多勢の人々に送られて家を出て、波止場まで赴く途中その銀銅貨を撒きながら步むのである。それは恰もお葬式の行列に花錢を撒くのと全く同じである。豫め此の事あるを知つてゐる町内の車夫馬丁、裏店小店の山ノ神連、腕白小僧など、幾百人と云ふ群衆が道の兩側に堵列し、その錢を拾はんとて押し合ひヘシ合ひ雜閙筆舌に絕えたる間を、二十貫餘の巨身を悠々と運びつゝ羅漢面の眼尻を四十五度位に下げ莞爾しながら乘船するのである。『我輩の爲に水火を辭せざる者四百名あり、これを起さば天下を取るべし』とは氏の口僻であるが、是等は悉く此の撒き錢で手なづけた連中である。從つて田邊町に於ける氏の威望と信用とは實に絕大なものであつて、單に『先生』と言へば氏のことだと、町民悉く承知してゐる。道德講話に來た縣廳のお役人に對し『女のみさほとは、どんな棹ですか』と奇問を發してお役人の眼の玉を白黑させた熊野浦でも『南方先生』と云へば泣く兒もだまると云ふ勢ひだと聞いてゐる。

 氏はかくして心靜に硏究を續けてゐたのである。

[やぶちゃん注:「花錢」読みは「くわせん」か「はなぜに」は不詳。三十五年程前、北関東出身の友人が、親族の葬儀で野辺の送りの際、籠に入れた百円玉を撒いたと言っていた。

「堵列」(とれつ)は、人が垣根(「堵」はその意)のように並び立つこと。

「雜閙」(ざつたう)は「雜踏」に同じ。]

        ○

 此の成望と信用とを双肩に荷ふてゐる我が熊楠氏が、監獄へ打ち込まれたと云ふのだから、田邊町は勿論のこと熊野浦まで鼎が沸くやうな大騷動となつたのは當然である。何で氏は投獄されたか、その事件の眞相はかうなのである。

 明治四十三年、原内相の方針として神社の併合を奬勵した。然るに和歌山縣では政商と利權屋がグルになり、由緖正しき神社であらうが、上下の尊信淺からぬ廟祠であらうが、苟くも其の境内なり神林なりに、大金になる樹木のある限り、神主を欺き宮守を詐して併合の許可を得て伐木採樹させた。此の暴狀を目堵耳聞した熊楠氏、天然物保存の上からも、崇神尊祖の風紀の上からも、看過すべからざる大問題となし、奮然渾身の勇を揮ひ縣當局者と政商利權屋を向ふに廻して戰ひを挑んだ。その結果、氏は新聞に演說に、將た文書の頒行に、三面六臂の大童となつて輿論の喚起を絕叫した。

[やぶちゃん注:「詐して」「だまして」。

「目堵耳聞」「もくとじぶん」であろうが、あんまり聴かない熟語である。「目を堵(さへぎ)ったもの」で「目に入ったもの」及び「耳に聞いたこと」の意ではあろう。

「將た」「また」。]

 氏の攻擊は相手方の急所を突いたので、縣屬田村某と云ふ者から、詳細は拜芝の上貴意を得るから、一時、攻擊の手を緩めてくれと言ふて來たので、その意に任せ宣傳を控へてゐると、その田村某が神社の供進使として田邊町へ來たにも拘らず、氏の許を訪づれぬどころか知らぬ顏の半ちやんを極めたので、氏の滿身の血は逆流し、直ちに和歌山に赴きしに田村某は講習曾のため中學校に居るとのことに、同所へ往き面會を求めしに、會へ會はぬの爭ひから椅子を投げたとか投げぬとかで騷ぎが大きくなり、取り靜めに出て來た和歌山縣察署長を、氏が蹴倒したので更に事件が面倒となり、遂に十八日間を監獄に送ることゝなつた。

[やぶちゃん注:「縣屬田村某」和歌山県県吏田村和夫。

「拜芝」(はいし)「芝眉(しび)を拝する」の意で、「面会すること」を、その相手を敬っていう謙譲語。

「供進使」(きやうしんし)は正確には幣帛供進使(へいはくっしょうしんし)と呼ぶ。官国幣社及び府県社等の新年祭・新嘗祭・例祭に幣帛を捧げる使い。明治六(一八七三)年の太政官布告による「奉幣使」を同四十四年に改めたもの。]

 和歌山顛の神社併合に不正事があること、それに對して氏が孤軍奮鬪してゐることは、在束京の友人達にも夙くから知れてゐたので、何事か起りはせぬかと、内々配慮してゐるところヘ『南方下獄』の飛電は、少からぬ驚愕と不安とを友人達に與へた。勿論、打ち棄てゝ置けぬ問題なので、相談の結果、當時、貴族院書記官長の柳田國男氏が友人總代として紀州へ急行して釋放に盡力することになつた。

 柳田氏は曾て當時を回想して左の如き意味のことを語られた。

[やぶちゃん注:以下、「話してゐた云々。」まで、底本では全体が一字下げ。]

南方が監獄へ入れられたと云ふので、我輩が往くことになつたが、その時に生れて始めて肩書のある名剌を刷らせた。そして和歌山へ着き令弟にも面會して釋放のことを相談したが、元々、たいした罪とか科とか云ふものがあるのではなし、それに同縣下の新聞が筆を揃へて當局の非常識を攻擊する、同じく辯護士會が其筋の無理解を詰問すると云ふ有樣なので間もなく放免された。その日、南方は欣喜雀躍の大元氣、ソレ酒だと云ふて飮み出し、十八日分を一度に飮んでしまつた。何でも七升位飮んだと云ふことだ。それで我輩が往くと、折角、束京から來てくれた、然も初對而の我輩に、此の醉顏をお眼にかけるのは失禮だと云ふて、夜具を天窓からすつぽり引き被り、夜具の袖から聲を出して挨拶すると云ふ有樣さ、それでも二人は夜明け近くまで話してゐた云々。

此の事件の經過に就ては、續南方隨筆に熊楠氏の「神社併合に關する意見書」が收錄されることになつてゐるから參照されたい。

[やぶちゃん注:『續南方隨筆に熊楠氏の「神社併合に關する意見書」が收錄されることになつてゐる』「續南方隨筆」は本書の電子化注終了後に続いて電子化する予定だが、実は載らない。しかも平凡社「選集」にも載らない。実はこれは同「全集」では第七巻「書簡Ⅰ」の明治四五(一九一二)年二月九日白井光太郎宛書簡に「神社合祀に関する意見(原稿)」として記されているものが原形である。また、所持する河出文庫版「南方熊楠コレクションⅤ 森の思想」によれば、同年、雑誌『日本及日本人』に四回に亙って「神社合併反對意見」として連載されたものがあるが、『これは未完で、内容も』その『原稿と重複するところが多い』とある。その書簡総ては、幸いにして、サイト「私設万葉文庫」の、こちらの同巻の電子化で読める(開始ページ数の「529」で検索されたい)。「青空文庫」で河出版底本で電子化されているが(ここ)、河出本は「附錄」部分をカットしており、不全であるのでお薦めしない。

 さて。この柳田國男の回想談話の部分には、初版刊行時に差し込みとして入れられたと思しい柳田國男の名義の事実齟齬を列挙して記した紙が、底本の国立国会図書館デジタルコレクションに添付されてあるここである。差し込みは本文に準ずるものであるからして、以下に前後一行空けで「*」で以って挟んで電子化する。

    *

中山君の小生が言といふもの僅十行内外の中に左の諸點は事實に反し居り候

            柳 田 國 男

一 南方氏が短期の入獄は小生が田邊行より二年餘り前なり。從つて救解の必要なかりし也

二 南方君令弟は今日迄一面識無し從つて和談の致しやうなし

三 小生は俗吏にていつも官名の名刺を所持をれり、又田邊旅行は貴族院の役人となるより一年程前なり

四 蒲團を被つた南方氏と深夜に話せし覺えなし多分暇乞の朝二日醉にて寢て居られしことを意味するならん七舛云々だけは少なくとも南方氏の言なりしこと事實なり

 

   *

[やぶちゃん注:以上から、この中山氏の柳田國男からの聴き取りというのは、ほぼ完全にデッチアゲであることが判る。これはひどい。ひどすぎる。前の注で示した中西裕氏の論文注にあるように、流石にこれでは、熊楠の事実の歪曲を差し引いても、この跋文を再刊版で削除したのは、全く以って、当然のことである。

        ○

 南方氏は睡眠四時間主義の實行者である。夏でも冬でも四時間以上は決して眠らぬ。そして極端な粗食主義である。衣服は嚴寒の頃には袷に半擘を重ねるだけで、他は裸體で押し通すのだから世話はない。それでは禮に嫻はぬ人かと云へば、隣人の慶弔とか町内の會合とか云ふ場合には、紋付羽織に仙臺平の袴と、時處に應じた嗜みは忘れぬ。たゞ夏でも冬でも水ツ涕を垂らしてゐるのが玉に瑕だ。これに就て珍談がある。

[やぶちゃん注:「半擘」意味不明。「半纏」の誤記か?

「嫻はぬ」「ならはぬ」。「嫻」には「みやびやか」の意があるので、「礼を以って飾る意識が全く欠落している」の意か。

「仙臺平」(せんだいひら)は、当該ウィキによれば、『宮城県仙台市で作られる絹織物で』、江戸から明治に『かけて袴地の最高級品として知られたが、袴の需要減少とともに生産量が少なくなり、現在』、製造しているのは一社のみとある。その当該会社「仙台平」公式サイトのこちらで袴の写真が見られる。

「水ツ涕」「みづつぱな」。]

 或年、高野に登山し、土宜管長を捉へて猥談(氏の猥談こそ天下一品であるが、詳細の記述が許されぬのは殘念だ)を始め、管長は澁面つくりながら相手をしてゐると、例の水ツ涕が二本、南方氏の阿呍の息につれて出たり入つたりする。見るに見兼て管長が「ソレ蜂の子が出た」と言ふと、氏は馬が行燈を啣えたやうな長い顏を突き出して、鼻汁をかんでくれと頤をしやくつて眼で知らせた。管長も擬ろなく鼻紙出しでかんでやつやが、その部屋が恰も閱白秀次が自刄した次の間であつたので氏の駄句に曰く

 鼻かます次は關白自害の間

 高野山の座主に鼻汁をかませたのは、天上天下僕一人だと鼻うごめかしたものだが。氏に初めて面曾する人は夢にも氏の水つ涕を氣にして「鼻汁が」など言ふてはならぬ。下手をすると、土宜管長の二の舞をやらされるからである。

        ○

 大正十一年四月、「己れは東京は嫌ひだ」と言ふてゐた氏が三十六年ぶりで上京した。それは『南方硏究所』を建設せん爲の資金募集の要務があつたからである。私は此の折に始めて京橋の三十間堀の高田屋旅館で氏に面曾したのである。然して氏が日光へ採集に行かれるまで、殆んど隔日位に推參して謦咳に接した。滯在中の珍談奇行も尠くないが、これは餘りに新しいので、他人に迷惑を及ぼす虞れがあるので姑らく預るとる。

[やぶちゃん注:「謦咳(けいがい)に接した」尊敬する人に直接話を聞いた、或いはお目にかかったの意。「謦咳」自体は「せきばらい・しわぶき・人が笑ったり話したりすること」の意。

「京橋の三十間堀」は現在の中央区銀座四丁目から七丁目相当。

「姑らく」「しばらく」。]

 硏究所の資金募集は、氏としては先づ好成績の方であつた。氏は之を銀行に預金し此の利子で近く菌類圖譜を發行すると云ふて居られる。

 氏に關しては未だ書きたいことが澤山ある。殊に氏の近狀に就て澤山ゐるが、餘りに長くなるので省略するより外に致し方がない。氏のパトロンであつて然も氏の高門である小畔氏の語るところによると、令息熊彌氏が昨年からの大病で非常に心身を疲らせ、それに永年顯微鏡ばかり覗いてゐたので視力を餘程損じたやうであろ。本年の正月に小畔氏が氏に會ふたときにも、持前の「六十四になれば己れは死ぬ」を繰り返して居られたと云ふことであつた。これは父が六十四歲で死んだから、己もその年には死ぬと云ふ氏の哲學ださうな。

 然し都々一の製作(南方氏は和歌も狂歌も狂句も作るが、都々一が最も手に入つてゐる)と酒量は少しも劣へず、今でも每日のやうに日本酒二升(冷酒が好物)て麥酒三四本を平げて平氣だと云ふから、此の分なら十年位は大丈夫と思はれる。切に自重を望んで止まぬ。

 

  大正十五年四月

        本鄕千駄木の寓居に執筆

 

[やぶちゃん注:「近く菌類圖譜を發行すると云ふて居られる」研究所も幻しとなり、この「菌類圖譜」の刊行も夢と終わった。先年、抜粋の刊本が出、旅先の京都の本屋で見たが、どうも抜粋が気に入らず、それっきりだったが、今は国立博物館の「南方熊楠アーカイブ」(リンクは同サイトの「第四章 菌類図譜 〜整然〜」)の中で現物画像の幾つかが画像で見られる。

「熊彌氏」熊楠の後半生に落ちる暗い陰の核には、この長男南方熊弥(くまや 明治四〇(一九〇七)年~昭和三五(一九六〇)年)の精神状態の悪化があった。詳しくは、「南方熊楠 履歴書(その23) 田辺定住と結婚」の私の「十八になる男子」の注を参照されたい。父熊楠は彼のことを気にかけながら、昭和一六(一九四一)年十二月二十九日、自宅で萎縮腎のため、永眠した。満七十四歳であった。

「都々一」「都々逸(どどいつ)」に同じ。

「手に入つてゐる」その道に熟練している。

「本鄕千駄木」東京都文京区千駄木。東大の北直近。

 以下、奥付であるが、底本のリンクに代える。なお、本電子化注の冒頭で、「目次」は最後に示すとして、略した。次回にそれを添えて終わりとする。]

2022/07/18

南方熊楠の『「鄕土硏究」の記者に與ふる書』に対する柳田國男の「南方氏の書簡について」

 

[やぶちゃん注:以下は先に電子化注した南方熊楠の『「鄕土硏究」の記者に與ふる書』(『郷土研究』誌上に南方の承諾を受けた上で『「鄕土硏究」の記者に與ふる書』という表記標題で公開された五月十四日午前三時をクレジットとする柳田國男宛私信(三分割。同誌第二巻第五号・第六号・第七号(大正三年七・八・九月発行))に対して柳田が、その最後の第七号の末尾に載せた「南方氏の書簡について」である。

 底本は平凡社「選集」の「別巻」として「柳田国男 南方熊楠 往復書簡」として独立編集されたもの(一九八五年初版)の『「鄕土硏究」の記者に與ふる書』の後に配されているそれを用いた。これは筑摩書房版「定本柳田國男集」に収録されておらず、所持する「ちくま文庫」の「柳田國男全集」にも所収せず、歴史的仮名遣正字表記のものを入手出来なかったので、南方の正規表現とのバランスが悪いが、新字新仮名のままで電子化する。

 

  南方氏の書簡について   柳田国男

 記者申す。右私信を南方氏承諾の上雑誌へ掲げたのは、もちろん記事に興味が多いからですが、ついでにその議論の廉(かど)をも見て置いて下さい。けだし南方氏の主張が全部もっともであるか、はたまたいずれの点までが無理であるかは、人に由って判断も区々でありましょう。記者が承服し兼ねた点は少なくも三つありました。それを御参考までに附記して置きます。この手紙で見ると、いわゆる「貴状」はよほど愚痴な「貴状」であったようにありますが、実ははなはだ簡単なもので、一には南方一流の記事ばかりたくさんは載せ得ぬことを申しました。今一つはこの手紙と縁がないから言いません。右の手紙はその返報であります。

 まず読者に説明せねばならぬ一事は、「地方経済学」という語のことです。記者の状にはそうは書かなかったはずで、慥(たし)かにルーラル・エコノミーと申して遣(や)りました。こんな英語は用いたくはないのですが、適当に表わす邦語がないからで、これを地方経済または地方制度などと南方氏は訳せられた。今日右の二語には一種特別の意味があります故に、私はそう訳されることを望みませぬ。もし強いて和訳するならば農村生活誌とでもして貰いたかった。何となれば記者が志は政策方針や事業適否の論から立ち離れて、単に状況の記述闡明のみをもってこの雑誌の任務としたいからです。この語が結局議論の元ですからくどく言います。エコノミイだから経済と訳したと言えばそれまでですが、経済にも記述の方面があるにかかわらず、今の地方経済という用語は例の改良論の方をのみ言うようで誤解の種です。あるいはルーラル・エコノミーでも狭きに失したのかも知れぬ。新渡戸博士のようにルリオロジーとかルリオダラフィーとでも言った方がよかったかも知れませぬ。さて記者の不承知であった三つの点というのは。

 一つは、雑誌の目的を単純にせよ、輪廓を明瞭にせよとの注文であります。これは雑誌であるからできませぬ。ことにこの雑誌が荒野の開拓者であるからできませぬ。適当なる引受人に一部を割譲し得るまでの間は、いわゆる郷土の研究はその全体をこの雑誌が遣らねばなりませぬ。もとより紙面の過半は読者の領分ではありますが、記者の趣味が狭ければどうしてもその方へ偏重し易いことは、南方氏のような人までが尻馬にならのろうと仰せられるのを見ても分かります。したがって、むしろなるだけ自分等の傾向より遠いものから、材料を採るように勉強したいと思います。こうして五年と七年と続くうちには、自然に仕事の幅が定まり、かつ各方面の研究者を網羅し得ることでしょう。広告もせぬ小雑詰の一年余の経験に由って、日本の学界の機運を卜するような大胆は、記者の断じて与(くみ)せざるところであります。

 二には、郷土会の諸君がもっと経済生活の問題に筆を執れということ、これも記者の力には及びませぬ。郷土会は名は似ていても『郷土研究』の身内ではありませぬ。雑誌に取っては南方氏同様の賓客であります。否同氏以上の珍客であります。たまたま記者がその講演を筆記する以外には、とんと原稿も下されませぬ。この会の諸君が南方氏ほど本誌の成長に熱心であったら、きっと満足すべき雑誌が今少し早くできたでしょう。何となればこの会に属する人人は皆趣味の深い田舎の生活を知り抜いている人ですから。しかし、冷淡はかの学者たちの自由でして、雑誌の責任を分担してもらうわけには参りませぬ。

 三には、「巫女考」を中止せよとの注文も大きな無理です。「巫女考」は本年の二月に完結しております。川村生は曾呂利(そろり)を口寄に掛けたような饒舌家でありまして、まだまだ長く論じようとしたのを、ちと無遠慮だろうと忠告して一年で止めさせました。今は時々隅の方で地蔵のことか何かを話しているばかりです。しかし、あの「巫女考」などはずいぶん農村生活誌の真只中であると思いますが如何ですか。これまで一向人の顧みなかったこと、また今日の田舎の生活に大きな影響を及ぼしていること、また最狭義の経済問題にも触れていることを考えますと、なお大いに奨励して見たいとも思いますが如何ですか。記者はここにおいてか地方制度経済という飛入りの文字が煩いをなしたかと感じます。政治の善悪を批判するのは別に著述が多くあります。地方の事功を録するものは『斯民』その他府県の報告があり過ぎます。ただ「平民はいかに生活するか」または「いかに生活し来たったか」を記述して世論の前提を確実にするものがこれまではなかった。それを『郷土研究』が遣るのです。たとい何々学の定義には合わずとも、たぶん後代これを定義にする新しい学問がこの日本に起こることになりましょう。最初の宣言に虚誕(うそ)は申してないが、足らぬ点があれば追い追いに附け足して行くまでです。この趣旨に由って見ますと、記者は少なくも従前の記事に無用のものがあったとは信じませぬ。

 最後に一言します。南方氏は口は悪いが善い人です。しかのみならず、われわれ編輯側の意見は代表しておられませぬ。読者はあまり気に御掛けなさらぬように願います。右の手紙は話として興味が多いから掲げました。

   (大正三年九月『郷土研究』二巻七号)

[やぶちゃん注:『斯民』(しみん)は明治三九(一九〇六)年四月から昭和二一(一九四六)年12月までに発行された(全四十編四百七十一号)地方改良運動・農村更生運動等に多大な影響を与えた「中央報徳会」の機関誌。]

「南方隨筆」底本正規表現版 「鄕土硏究」の記者に與ふる書

 

[やぶちゃん注:底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(ここから)で視認して用いた。また、所持する平凡社「選集」(本篇は柳田國男宛書簡であり、それを同「全集」では「別巻」として「柳田国男 南方熊楠 往復書簡」として独立編集している。所持するものは一九八五年初版で、その大正三(一九一四)年一月から同年十一月までの往復書簡を収めるパート標題「出会いの後――編集方針の対立」三七二ページから載る)を参考に一部の誤字を訂した。表記のおかしな箇所も勝手に訂した。それらは一々断らないので、底本と比較対照して読まれたい。また、やや長い段落は、「選集」に従って改行した。

 しかしここで断っておくと、実は「南方熊楠全集」も同「選集」も、孰れも書簡部ではなく、雑誌論考部に収録されている。これは、以下は書簡であり乍ら、『郷土研究』誌上に南方の承諾を受けた上で『「鄕土硏究」の記者に與ふる書』という表記標題で公開された(三分割。同誌第二巻第五号・第六号・第七号(大正三年七・八・九月発行))、書簡と異なり、謂わば、公にされた南方熊楠の『郷土研究』の編集方針に対する投稿者としての疑義をぶち上げた批判論考だからである。

 但し、本書簡は、その第一番目の五月十四日午前三時をクレジットとする柳田國男宛私信であるが、他に、実は立て続けに、十五日(書簡には『十四日夜一時』とある)午前一時、さらに、十六日と長文に書簡を熊楠は投函している。而して、柳田との応酬ががあって、それが何んとか納まるのが、五月二十二日の柳田の南方宛書簡であった。柳田國男に対する民俗学手法に対する具体な、しかも深刻な見解対立(最後は一種の絶交に到った)の決定的な始まりであったと言ってよい(プレの南方の柳田への、そうした批判は既に明治四四(一九一一)年十月に始まっている)。

 さて。ついでだから、柳田が以下の本篇連載の最後の号の末尾に載せた「南方氏の書簡について」が、平凡社のその「南方熊楠選集 別巻」に収録されているので、それも、この次に電子化しようと考えている。

 なお、私は、因みに、柳田國男と折口信夫によって起動された本邦の民俗学には、ある種の強い疑惑を持っている。それは、かなり早い時期に、――柳田と折口の間には、性的な問題に関わる民俗慣習には、なるべく言及しないようにしようというような密約が出来ていたのではないか?――という疑いである。これは大学時代、クラスメートの友人の演習発表の中で語られていたのを記憶する。聴いている教授は制止しなかったが、にやりと笑って頭を傾げた。しかし、その表情に、ある曇りがあるのを私は見逃さなかった。おそらく、事実そうした不文律があったのではないか? という気持ちが、その瞬間、私の中に根づいたことを告白しておく。因みに、熊楠先生は、言わんいいところで、わざわざニヤリと鮮やかに笑って下ネタを仰せられる。だから、私は大学時代以来、南方熊楠のファンなのである。

 なお、今まで通り、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第三巻「雑誌論考Ⅰ」(一九七一年刊)で新字新仮名)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 本篇は、原則、底本原文そのままに示し、各段落の後注で読みと注を附した。そのため、本篇は必要性を認めないので、PDF版を成形しないこととした。]

 

    「鄕土硏究」の記者に與ふる書

 

 五月十二日の芳翰拜讀。「鄕土硏究」は地方經濟學の雜誌なることは、創立の際貴下より承りたること有之。然るにこの地方經濟學の分限、小生には分らず。地方成立の硏究と言はば之に伴ひて必ず地方政治學硏究の必要あり。かの神社合祀の利害又地方に萬づ利益事業を計畫する利害の如きは、尤も此雜誌にて論ずべきもの也。たゞ椎茸を多く出すとか、柿を五百本植ゑたりとかにては、雲煙過眼閑人の思の儘の日記同前紙潰れなり。必ず之に今後の利害論を指示せざるべからず。而して經濟と云ひ政治と云ひ、地圖と統計とを伴はずしては、地方々々の事精確に知れず。地圖のことは姑く措き、日本の地方統計といふもの、思ひ思ひ地方小吏が勝手に數を見計ひ、帳面と報告を合すものなることは御存じの通り。

[やぶちゃん注:「有之」「これあり。」。

「神社合祀」『「南方隨筆」底本正規表現版「紀州俗傳」パート 「十一」』の「小野崎」の注を参照。

「雲煙過眼」雲や霞が、一旦、目の前を過ぎてしまえば、長く心に留まらないように、物事を、あまり、心に留めないことを言う。

「閑人」「ひまじん」と訓じておく。

「紙潰れ」「絵に描いた餅」と同義。もっともらしかったりするが、実際には何の役にも立たないものや、実現しない下劣な目論みの喩え。

「姑く措き」「しばらくおき」。

「見計ひ」「みはからひ」。

「合す」「あはす」。

 以下の段落は底本では全体は一字下げで補足の体(てい)を成している。「選集」ではそれは行われてはいない。]

 たとえば、當町(紀州田邊)の鬪鷄社に樟樹二本しかなきに、役所の帳面は二十五本、これは全くのうそにも非ざるべく、卽ち從來植付たのが前後二十五本あり、樟樹などは栽えたら一寸失せるものに非ざれば、二十五本ありと書付けたる也。然るに、近來神林で物を盜むは常の事にて、何の取締も行屆かず、神社で盜伐した木や柴をかつぎ、每日神社の前を通り過ぎるを咎めぬほどなれば、二十五本あるべきものが、全く失せて二本しか無き也。また蠶業の報告如きは丸でうそにて、蠶業は年により興廢夥しきものなれど、全く蠶業絕えたりと報告すると縣廳のうけ宜しからぬ故、蠶業無しと報告する村一つも無し。實際は蠶も見たことなき村でも、多少の蠶業ある如く書上る也。又地方の報知虛報多く粗陋多きは、實際朝來沼(あつそぬま)の耕地は二十四町ばかりなるに、縣廳では四十三町、東京の官廳では百四十三町となり居るにて知れる。當地の江川浦は縣下第一の大漁村なり。それすら年來縣廳へ書上げし通りの損益にては漁夫らたゞ働き、又年々食い込む外無し。斯くては此漁村今までつゞく筈無し。丸で勘定合はぬなり。然るにどうやらかうやら漁村續くのみならず、救濟會とか何とか小言いひ乍ら金を出し積み立て居る。實は縣廳へ年々の漁獲高十三萬圓と書くとすると、其實際は十七、八萬圓の漁獲ある也。色々の費用課稅夥しき故、加減して少なく書くなり。之に氣付かず、又氣を付くべきと言ふことすら氣付かず、斯くては年々損失ばかりで其漁村は全滅する筈と云ふことにも氣付かず。語を換へて言はゞ、漁利の外に何か内職あるべしと云ふ見解なり。かゝる除外例多き統計は、學問上あつても無くても何の益無き紙潰れの統計なり。

[やぶちゃん注:「鬪鷄社」既出既注なので、当該ウィキと、グーグル・マップ・データ(以下指示なきものは同じ。地図では旧南方熊楠邸・南方熊楠顕彰館を左中央に配した)をリンクさせるに留める。因みに再掲すると、南方熊楠は数え四十歳の明治三九(一九〇六)年七月、親友喜多福武三郎の紹介により、この闘鶏神社の宮司であった田村宗造(そうぞう:元紀州藩士で漢学者)の四女松枝さん(彼女は当時二十八歳)と結婚した。

「樟樹」「くすのき」。クスノキ目クスノキ科ニッケイ属クスノキ Cinnamomum camphora 当該ウィキによれば、『古くから寺や神社の境内にもよく植えられており』、『特に神社林ではしばしば』『巨木』『が見られ、ご神木として人々の信仰の対象とされるものもある』。『材から樟脳が採れる香木として知られ、飛鳥時代には仏像の材に使われた』とある。

「書上る」「かきあぐる」。

「朝來沼(あつそぬま)」」西牟婁郡上富田町(かみとんだちょう)朝来(あっそ)にあった沼。完全に干拓されてしまったらしく、現在の地図では痕跡が全くないが、古い記載と地形から考えるに、戦前の「ひなたGIS」の地図のこの中央附近にあったものと私は推定している。

「江川浦」会津川河口の右岸の漁師町である田辺市江川(えがわちょう)。江川漁港の港湾化で著しく原形と異なるので、同じく「ひなたGIS」の当該地も示しておく。

「小言」「こごと」。]

 地方經濟學は、地方に道が出來た、犬に車を牽かす所と牽かさぬ所あり、昔紙を作つたが今は布を作る。賣淫女が片手に魚を乾す等のことを序列した計りでは、日本中の一村一小字何れも日々生業無き所なければ、人別に骨相を記する如く、事煩しくして何の益無し。もし之を學說らしきものとせんとならば、利害の因る所を攻究せざるべからず。產業の變改、地境の分劃、市村の設置、水利道路の改全、衞生事業又殊には地方有利の天然物を論ぜざるべからず。然るに小生氣が付かぬ故か、地方經濟云々を主眼とする「鄕土硏究」に、從來何たる地方經濟らしき論文の出しを見ず。たゞ俳人の紀行にして俳句を拔去りたるが如きもの二三を見しのみ。

[やぶちゃん注:「犬に車を牽かす所と牽かさぬ所あり」ちょっと吃驚する記載である。

「人別」「にんべつ」。江戸時代の人別帳。]

 是は無理なことに非ず。地方經濟地方法制と云ふこと、材料繁冗にして何の興味無きによる。之に加ふるに吾邦の官廳上下虛僞を事とし、肝心骨髓たるべき統計が右の如く全く間に合わせ、公儀を繕ふ爲ばかりのものたるに因る。何の學問でも數字を離れては學問にならず。殊に地方經濟如きは然り。然るに此數字上信賴すべき材料が一つも無き也。又一つには地方經濟のこと、吾邦では何たる興味を感ぜぬほど材料が薄弱且つ乏しき也。御承知の通り礦物は岩石の(?)基にて、地球を成すものは岩石地層それがみな礦物より成らざるは無く、又一方には動植物人間迄ももとは無機體卽ち礦物元素より成り居る。生物何れも礦物より進化せし者たるは疑を容れず。然るに此礦物の學と云ふもの、專門家はあり乍ら何れの國に往きても礦物學會も無ければ礦物學專門の出版物も永く續かず。英國などには絕無なり。是は礦物を多く集めて一々觀察すれば相應に面白いものながら、堅度とか電力とか實物に就ての外、書物で見たり書いたりしては一向それ相應の感念を生ぜず。言はば面白味無き故のことと存じ候。地方經濟の學の如きも先づはこんな事にて、實際地方經濟に身を處する人にはそれ相應の興味もあり、又利害は頗る嚴しく感觸せらるゝものながら、其事項一々煩瑣にして規則立ちては筆に序述し盡し難き上、一地方一地方に限ることは他地方の人が讀んで何とも思わぬ故と存じ候。故に地方經濟の端緖としては、地方制度位から論を始められ度事なり。然るに此迄「鄕土硏究」を見るに、地方制度に關する論文又甚だ少なく、小生などは何かあつた位の記臆に止まり何が論ぜられありしやを記臆せず。

[やぶちゃん注:「堅度」「けんど」。「硬度」。

「始められ度事なり」「はじめられたきことなり」。

 以下の一段落は底本では全体が一字下げで、附記である。「選集」はその仕儀がない。]

 地方制度にも亦記錄を楯としては一向見出し得ぬ大要件多し。當地方の漁人が海上に魚(たとえば鰹)を見出した時、一番船二番船など云ひて、鰹を釣るに船の順序と制限あり。又勝浦邊では入港の際一つの株に二つ以上の船の繩を結付るに、一番二番三番を爭ふ。其事甚だ六つかしく、古老をわざわざ招き來り即決に裁判させしを小生親ら見しことあり。筏流しが木を出す舊慣其他、かゝること六かしき古傳多し。全く記錄には少しも無く老人に聞置くの外なし。其老人何れも正しき先例を知悉せるに非ざれば、老人同士異說も多くあり。日本紀に一書曰、戰國策や史記にどちらが正しくどちらが勝つたか分らぬやうに、魏の國の條と秦の國の條に記事の全反對異同ある如く、此等は雙方とも一說とし控へ置くの外無し。乃ち雙方とも個々に正しと見たる說なり。

[やぶちゃん注:「親ら」「みづから」。

「日本紀に一書曰」「とある如く」で、本邦の神話や古史書に異説が多いことを指示する謂い。

「乃ち」「すなはち」。]

 凡て古代の事や田舍の事は一說を正一說を否とすべきに非ず。同じ神にて一地方の傳に長生なりと云ひ、他地方では蛇に殺されたと云ふ類多し。此は同名の異神一は長生し一は殺されたか又一神長生し一神殺されしを、後世同名と知りて同神と見たりする外無し。又他の神の傳を訛り傳へたるもあるべし。さればとて其傳全く虛僞と云ふべからず。乃ち其の神長生したる外に他の神が蛇に殺されたる也。

 去年當地近傍鮎川村にて、夜這禁制のため壯丁夜出に必ず提燈を點し行かしむる法を設け、色色と六つかしき制規を定めたり。まことに都會の人が聞かば笑ふべきの甚だしき也。併し、そは笑ふ者の過にて、實は今日も地方に夜這と云ふ事の一夜も行はれぬ所無く、之を鄕土存立の大要件として村方に行はれ居るなり。夜這と云へばとて、彌次郞兵衞北八の徒の行ひし如き事に非ず。昔の物語に貴紳が歷々の娘に忍び通ひし如く、中古歐州の記に多き serenade(妻戀ひ歌樂)又米國創立の頃の bundling(衣裳解かずに村の男女共臥すこと、衣裳解かぬに子の作甚だ豐年とはをかしと云ふやうな妙文ワシントン、アービングの作にあり)、又言はゞ今日歐州の男女年頃になれば必ず相伴ひ遊ぶ如きことにて、田舍は田舍だけに其事やゝ露骨なるのみなり。娘をば甚だしく附けあるき一度嫁すれば一向知らぬ風する村あり。又娘をば頗る忌み、已嫁の婦のみ覘ふ風の處あり。(眞臘風土記に眞臘人は妻を人が附けまはるほど夫之を自慢すとあり。チヽスベオとて伊太利などに人の妻のみ專門の男多く、以前は夫が自分の妻他人と遊びあるくを一向構はぬを自慢の美風とせり。今日佛國邊の gallantry 全く之に同じ。)

[やぶちゃん注:「點し」「ともし」。

「過」「あやまち」。

bundling」バンドリング。原義は「複数の対象を真ん中で括って束にしたもの」を指すが、「重ね着」などの用法もある。但し、ここに書かれたアメリカの性習俗は調べ得なかった。

「ワシントン、アービング」アメリカの作家ワシントン・アーヴィング(Washington Irving 一七八三年~一八五九年)。小学館「日本大百科全書」より引く。『富裕な商人の子としてニューヨーク市に生まれた。病弱のため正規の教育を受けず、独学で弁護士の資格をとった。その間、文学に興味をもち』、『文筆活動に入』った。一八〇四年、『ヨーロッパを訪れ』、二『年余り滞在』、『帰国後、兄とともに、イギリスの『スペクテーター』誌を模した『サルマガンディ』誌を刊行したり、ニッカーボッカーの筆名で風刺とユーモアを交えた「ニューヨーク史」(一八〇九年)を『出版したりして、文名を得た。その後、婚約者の死が原因で、しばらく不振な生活を送った』が、一八一五『年、兄の事業を助けるために渡英し』、十七『年間、海外に滞在』したが、『彼の歴史に対する関心、懐古趣味もこの時代に形成された。渡英後』三『年にして兄の事業が破産し、文筆に頼らざるをえなくなり』三十四『編の物語、随筆を収録した』「スケッチ・ブック」(一八二〇年)を『ジェフリー・クレヨンの筆名で出版して、アメリカ最初の国際的作家としての名声を確立した』。『続いて』、「ブレースブリッジ・ホール』(一八二二年)・「一旅行者の物語集」(一八二四年)を発表し、一八二六年から三年間は、『スペインのアメリカ公使館に勤務しながら』、「コロンブス伝」・「グラナダ征服」・「アルハンブラ物語」を出版している。一八三二年に『帰国後、西部開拓にまつわる』「大草原の旅」(一八三二年)や、「アストリア」(一八三六年)、及び、『かねてから私淑していた』イギリスの詩人で作家のオリバー・ゴールドスミス(Oliver Goldsmith  一七三〇年?~一七七四年)の伝記(一八四〇年)『などを発表』、一八四二年から約四年間は、再び、スペイン公使として『スペインに赴き、帰国後、かねて計画していた「ジョージ・ワシントン伝」(一八五五年~一八五九年)を『刊行した。彼の懐古趣味は、新しい創造を求めたアメリカ文学のなかでは古ぼけたものにみえるが、アメリカ最初の短編小説作家としての地位はいまも揺るぐことはない』とある。

「已嫁」(いか)「の婦」既に嫁となった夫人。

「覘ふ」「ねらふ」。

「眞臘風土記」(カンボジアふどき」)は元の成宗(テムル)の代の中国人外交官周達觀(一二七〇年頃~?)の著。一二九六年、元の正式な使節団をカンボジアにあったクメール朝に送った際の一員となり(但し、元の公式記録には彼の名は載らない)、その当時のクメール王朝の習慣について書き記したもの。また、その滞在の際にアンコールの寺院群を訪問したことでも知られる。詳しくは参照したウィキの「周達観」を見られたい。「維基文庫」に原文が載るが、幾つかの性風俗が記されているものの、熊楠が言うような記載らしいものは、ざっと見では、見出し得なかった。

「チヽスベオ」「Amazon」の書籍広告にロベルト・ビッツォッキ著・宮坂真紀訳の「チチスベオ:イタリアにおける私的モラルと国家のアイデンティティ(叢書・ウニベルシタス 1091)」(二〇一六年刊)が載り、その解説に『「チチスベオ」は、18世紀のイタリアで、夫の同意のもと既婚貴婦人に付き従い、助ける任務を負った「付き添いの騎士」のこと。正式な夫妻の生活に割り込む特異な存在だが、その役割は組織化された三角関係の中で公然と承認されたものだった。しかし、複数の国に分かれていたイタリアが「統一国家」へと劇的に変貌する過程で彼らはその姿を消した』とあった。

gallantry」この英語は古フランス語「galant」(陽気な)が語原で、古語で「プレイボーイ・女たらし」の意。]

 一寸かく書くを讀むのみにては、一向卑猥淫奔のみのこゝと思ふべけれど、實際は大に然らず。都會の紳士が仲居を相手にする程の不義にも非ず。婚嫁の成立大家に非ざる限は皆この夜這に由りて定まることで、色色試驗した後に確定する夫婦故、却つて反目離緣等の禍も少なく、古印度や今の歐米で男女自ら撰んで相定約する如く、村里安全繁盛持續の爲の一大要件なり。四角八面の道義家など之を不埒な事の如く論ずるも、歐州の若き夫婦が老父母にパンのかけを食せて己等が蜜を啜り肉を食ふて口を相拭ふ如く、實は其老父母亦若き時は彼等の老父母の前で斯くしたる也。今の老人亦古は夜這に由つて緣を組み今の若者を生みたるなれば、梁武の所謂吾より之を得て吾より之を失ふ又何ぞ恨みんと云ふ奴なり。封建壓迫時代の舊慣を襲ふて、折角生んだ子女を顯官富商の側室慰み物にして、御手が掛つたなど悅ぶ者より遙にましな了簡なり。此夜這の規條不成文法如きも實は大に硏究を要することにて、何とか今のうちに書き置きたき事なり。それを忽諸に付し又例の卑猥々々と看過して、さて媒灼がどうするの下媒人に何人を賴むの、進物は何を使ふのと、事の末にして順序の最後にあることをのみ書留むるは迂も甚し。田舍にては煤灼はほんの式だけのもの、夜這に通ふ内の通はせ文、約束の條々等が婚姻の最要件であるなり。

[やぶちゃん注:「梁武の所謂吾より之を得て吾より之を失ふ又何ぞ恨みんと云ふ奴」「梁武」は南朝梁の初代皇帝蕭衍(しょうえん 四六四年~五四九年)。諡号を「武皇帝」とする。当該ウィキの惨めな彼の最期を記す「侯景の乱」の項を読まれたい。熊楠の引用の原典は不詳。

「忽諸」「なほざり」。

「下媒人」「したなかうど」。阪井裕一郎「仲人の近代 見合い結婚の歴史社会学」(二〇二一年青弓社刊・「グーグルブックス」で当該部を確認)によれば、『配偶者の紹介と縁組の下ごしらえだけに関与する仲人を「下媒人」』と呼ぶとあった。

「何人」「なんぴと」。

「迂も甚し」「うもはなはだし」。

 以下、二つの段落は底本では二字下げで、孰れも頭の字下げがないはママ。]

熊野に、十年ばかり前まで松葉と小礫とを餽つてマツニコイシなど表示し、又其媒に由り生れし少女を小石と名くる等の風、小生も目擊せり。

兵生に四年前ありし時、十四歲ばかりの少女風呂場に來り、十七八の木挽の少年に附けまわり、種臼きってくだんせと荐に言ふ。解說は聞かなんだが、斯る年頃の者の破素せられぬを大耻辱とするらしく、乃ち種臼切るとは破素のことなり。

[やぶちゃん注:「小礫」「こつぶて」。

「餽つて」「おくつて」。

「媒」「なかだち」。

「兵生」「ひやうぜい」。複数回既出既注。ここ

「木挽」「こびき」。

「種臼」「たねうす」。

「荐に」「しきりに」。

「破素」「はそ」と読んでおくが、見慣れぬ。「破瓜(はくわ(はか))」のことで、「性交によって処女膜が破れること」を指す。]

 兎に角隗より始めよで、地方經濟地方制度の事を主とする雜誌ならば、貴下自ら先づ巫女考などを中止し、若しくは他の地方經濟地方制度專門で風俗學不得手の人に、然るべく堂々たる模範的のしかとしたる論文を、隔月ぐらゐに册の初部に出させられ度こと也。

[やぶちゃん注:「巫女考」(ふぢよかう)後に同題で単行本化される柳田國男の論考。初出は『郷土研究』大正二(一九一三)年三月より翌年二月まで連載。]

 最初高木氏より鄕土硏究の初號に載せるとて、小生に民俗學の要領を求められし。又高木氏自ら一卷一號に書かれし「鄕土硏究の本領」には、地方經濟地方制度比較法律俚團(Village Community)硏究等のことは少しもなく(民族生活の硏究と云ふことはありしも、それでは Ethnology または Ethnography 卽ち人種學又は記載人種學の事となる)、主として民俗學又說話學の事を述べられし。此外にも誰も地方經濟等の要領の論說ありしを見ず。隨つて讀者一汎に鄕土硏究とは民俗學のことゝ思ひ居るは、資料報告の九分九厘は皆民俗學に關し、殊には珍話奇譚の居多なるにて知るべし。若し鄕土會の人々之を面白く思はぬなら、自ら進んで地方經濟地方制度の論文を出すか、せめては之に關する質問だけでも多く出さるるを要す。今日の處では雜誌の半分以上を占むべき地方經濟制度の事が其一小部分に減縮し、他の一部分を占むべかりし民俗學が甚しく膨大し、且つ民俗學に多少緣ありながら地方經濟に何の必要なき說話學が別に又著しく贅附をなし居るなり。

[やぶちゃん注:「高木氏」既出既注。ドイツ文学者で神話学者・民俗学者でもあった高木敏雄(明治九(一八七六)年~大正一一(一九二二)年)。大正二~三年には、この『郷土研究』を柳田国男とともに編集していた。欧米の、特にドイツに於ける方法に依った神話・伝説研究の体系化を試み、先駆的業績を残した。

「居多」「きよた(きょた)」。大部分。

「贅附」「ぜいふ」。

 以下の一段落は底本では全体に二字下げ。頭の字下げがないのはママ。]

小生の今昔物語硏究又堀氏の窮鳥入懷談、高木氏の早太郞童話考桃太郞の考、志田氏の國文學の杉等何れも本誌の要領に何の益も關係も無く除外せらるべきもの也。

「小生の今昔物語硏究」先行する『「南方隨筆」版 南方熊楠「今昔物語の硏究」』(「一」あ大正二(一九一三)年八月、「二」が同年十一月、「三」が同年、最後の「四」が翌大正三年五月発行の『郷土研究』初出)。一括PDF縦書版はこちら、ブログではカテゴリ「南方熊楠」で十四回分割。

「堀氏の窮鳥入懷談、高木氏の早太郞童話考桃太郞の考、志田氏の國文學の杉」同誌に当たれないので以上には「早太郎」を除き、注を附さない。「早太郎」は人身御供譚に出る霊犬の名。長野県駒ヶ根市にある天台宗宝積山(ほうしゃくざん)光前寺公式サイト内の「霊犬 早太郎伝説」を読まれたい。高木敏雄氏には「人身御供論」がある。]

 斯の如きは最初創刊の際鄕土硏究の何たるを說明するに地方經濟地方制度を主眼とする由を明示せざりしに由り、殊にその解釋なかりしに由る。今囘の御狀の如くば一ツタタラ山姥山男等は一向本誌に揭ぐべきものに非ず。此際鄕土會の人々奮發してなるべく一人一論づゝ、又はせめて質問だけにても多く出さるべきなり。但し從來かゝる論文質問風俗學に比して少なかりしにて、實際地方經濟制度の學に留意する人の甚だ少なきを知る。

[やぶちゃん注:「一ツタタラ」「一本だたら」。熊野地方の山中などに棲み、一つ目で、一本足の姿の妖怪。詳しくは当該ウィキを読まれたい。]

 又貴狀の如くば、廣告如きも今度の「民俗」に出せる如く地方經濟に關する條項は少なく民俗學に關すること居多なるはいよいよ不適當ならずや。例へば、商賣物貨交換入質に關する在來法の如きは尤も重要なる一目なれど、全然廣告には見當らず、社寺に關する口碑はあれど之に關する習慣法も目錄に無し。地方制度より見れば此事最も重大にして、口碑などはほんの小事なり。

[やぶちゃん注:「民俗」雑誌名であろうが、不詳。

 以下の段落は底本では全体が一字下げ。ところが、「選集」では前の段落に繋がって改行されていない。]

 例へば熊野にては、寺を改築するに、從來三四年住職を止め無住にし節儉して儲蓄寄付し(住職自ら俸給を棄捐する意となる)、さて新築せし也。此事に氣付かず、書上に無住とある寺を、何の差別もなくむちやくちやに合併したり小寺に入れた故に、由緖正しき大寺にして亡びて田畑となり、何の益も無きこと多し。又此邊に禪宗昔大にはやり、熊野地方は多く禪宗坊主が開きし。今も地方の俗謠に禪語のみのもの多く、一寸聞きては何の事か分らず。此禪坊主が地方を開きし方法の如きは大に硏究を要す。諺に「天臺公家眞言武家淨土町人禪百姓」と云ひて、禪宗は百姓の敎化を專ら力めし也。又禪宗の尼は多く越前美濃より來る。良家の女も多く中には絕世の美女あり。蒙古人が子を多く喇嘛僧にする如く、不知不識の間に人口增殖を防ぐ一具ともなりたることらし。彼邊にて一家每に一人僧尼になりし所ありときく。其割合など調べたき事也。

[やぶちゃん注:「儲蓄」「ちよちく」。「貯蓄」に同じ。

「敎化」「けうげ・けうげ(きょうげ・きょうけ)」。

「力めし」「つとめし」。

「喇嘛僧」「ラマそう」。ラマ教はチベット仏教のこと。

「不知不識」「しらずしらず」。]

 要するに貴狀垂示の如くならば、貴下先づ巫女考を中止し、制度經濟の論文を卷頭に隔月位に必ず一つづゝ出され度こと也。然らざれば、到底目的の奇談珍傳、又論文とても鄕土に關係少なき古語考や傳說編のみで滿たさるることとなるべし。

 但し高木氏編輯中は其人に出る偏重も多かりしは、地方郡縣誌などに古語學、民俗學の材料多きときは口を極めて之を譽め、又經濟制度を主とする書や報告の批評少なかりし。

[やぶちゃん注:「出る」「いづる」。]

 實業の日本、實業の何々と題して、實業の事は少しも無く、放恣なる英雄的の人傳放言のみ書き連ねあると等しく、制度經濟を主とする「鄕土硏究」に制度經濟に關する論文少なく、資料報告に至つては、全く民俗古傳說のことのみなるは甚だ名義に背く。故に貴狀の意の如くならば、何とぞ半分又は三分一だけは必ず制度等に關する事を述べられ度こと也。

 次に論文又は報告中には虛文のみで紙數限ある雜誌に何の益なき事無きに非ず。堀氏の窮鳥入懷譚の如きは短く書かば如何やうにも書得ること也。

[やぶちゃん注:「限」「かぎり」。

 以下の一段落は、底本では全体が一字下げ。「選集」では、前の段に続いてしまっている。]

 かゝるもの鄕土硏究に出せしは心得られず。窮鳥入懷とは三國の時劉政の故事にて、佛說に關することに非ず。若し關することなりとせば、此の古諺と佛說との聯絡を述べざるべからざるに、一言も其事無し。川口孫治郞氏の捕魚の話、又蜜蜂を徙す話等に、土地の風景や春色の序述で夥しく紙面を埋めたる所多し。此等は文章見る雜誌に非ざる以上は編輯人全く刪除して可なりと思ふ。乃景色形容等の文は一行以上長きものは勝手に刪除することとせば、投書家終に自警することゝ思ふ。

「窮鳥入懷とは三國の時劉政の故事」河野長生氏のブログ「中国通史で辿る名言・故事探訪(窮鳥入懐)」を読まれたい。]

 若し又全誌の半分又は三分一以上も地方經濟制度に關する論文材料報告質問で埋め得ずとならば、是れ地方制度經濟の學は今日日本で成立せざるを示すもの也。公然綱領を改め民俗・傳說學を主として經濟制度を從とする事を望む。

[やぶちゃん注:以下の一段落は、底本では全体が一字下げ。「選集」では字下げはない。]

 貴書に「記事の少なくも三分一位は貴下の注文外のもの有之次第」とあれど、實は每號三分一位どころか五分一六分一も小生注文外のもの無きこと多し。又皆無に近きこと屢々あり。是れ地方制度經濟の學は本邦で「らしきこと」を喋々し氣取る人士は多少あるも、進んで自ら之を論じ得る人甚だ乏しきを證す。卽ち其學が成立し居らず、發展の見込も無き也。一卷一號の「鄕土硏究の本領」には、地方制度經濟學に關する指示少しも明ならず。只日本民族の來由硏究に關する指示あるのみ。それならば人種學 Ethnology なり。又此「本領」を筆せし高木氏自分は、一文も制度や經濟に關することを書き居らず。從つて地方の者は何れも鄕土硏究とは民俗學のことゝ思ひ居れり。人類學雜誌昨年末再活の折の批評にも、「馬鹿に鄕土硏究じみた論文が多い」とありし。卽ち批評家(高木氏と思ふ)自身も民俗學を鄕土硏究の異名と心得居りたる也。何となれば人類學雜誌の十二月號は出口前田等諸氏の民俗に關する文のみ多く、經濟制度に關する文は無論一つも無かりし也。

[やぶちゃん注:「有之」「これある」。

「人類學雜誌昨年末再活」ここで最後に述べているように、大正二年十二月号『人類学雑誌』には、民俗学的論考の投稿が久しぶりに多かったことを言うのであろう。但し、この時期、嘗ては常連の読者であり、投稿者であった南方熊楠も柳田國男も孰れも、『人類学雑誌』とは距離を置いていた。]

 當地、今年雨多く菌類夥しく生ず。八歲になる男兒に十八歲になる阿房の下女添へ日々遊びに遣るに、必ず珍奇の新種二三は採り來る。之を畫くうち此長の日も暮れる。夜分は例の眼惡く何も出來ず。故に論文はいつ出來るやら分からず。從來の如き短きもの、又長くとも他人の論文や記事に附隨して書出すものは時々出來得べきも、右の如きわけならば何卒まず小生の民俗傳說のみに關する文は急がず、半年ばかりも主として地方經濟制度に關する文を出されたき事なり。論文が集まらずば此等に關する質問だけにても、多く出されたき事なり。小生はもと記臆よかりし故、今も多分こんな事があつた位のことは多々知り居る故に、時として書き始むれば底止する所を知らぬこと多し。因つて成るべく短く書かんと、はがき一枚を限り書き始むるも、猶不知不識はがき二枚三枚續くこと多し。要するに質問の答文や資料報告、又論文と云ふ程のものならぬ(他人の論文や記事に附隨する批評半分の)追加文如きものは、いくらでも書き得又いつでも出來得る也。地方經濟制度等に關して民俗傳說に於ける小生如き人無きは遺憾なり。

[やぶちゃん注:「阿房」「あはう」。阿呆。]

 本當に日本の地方制度經濟を硏究して外國のと比較論斷する人あらんには、是れ國家の慶事なり、又頗る大必要のこと也。それにはそれの準備なかるべからず。小生外國の書目だけ控へ置くが今一寸見えず。見出でたら寫し可申上候。風俗學や傳說學は一地方一地方の材料を集めたもの多く、總論と云ふべきもの甚だ少なし。之に反し、比較制度經濟の學論は歷然たるもの甚だ多く、殊に獨逸に多し。

 貴下試みに地方の制度經濟の學に關する綱領を作り見られんことを望む。水論の處置、野を苅るに何れの村を先にし、何れを後にするか、他村領に入りて取りて構はぬもの等、夥しく事項はあることゝ存候。只之を網目にして前書申上たる民俗學の分類ほどに作り上げたるものあるを見ず。綱領を示さゞれは衆人は地方制度とは何の事か一向解し得ず。早々以上。

 大正三年五月十四日午前三時出す

    (大正三年鄕硏第二卷第五乃至七號所載)

2022/07/17

曲亭馬琴「兎園小説別集」下巻 墨水賞月詩歌

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの「新燕石十種」第四では本篇はここから。吉川弘文館随筆大成版で、誤字と判断されるものや、句読点などを修正した。]

   ○汎ㇾ舟賞ㇾ月詩歌

    九月十三目夜卽事    屋 代 弘 賢

 ふねうけてめづるこゝろもすみだ川

      水のゆくへの長月の影

    九月十三日夜汎ㇾ舟賞月 山 崎 美 成

皎兮明水月。秋老繼華筵。玉墖橫芝海。金波湧墨川。雁行侵ㇾ夜遠。霜葉逐ㇾ流解。緬憶能登壘。兼懷大堰船。形猶一分缺。光勝滿輪圓。今夕無雙賞。仰ㇾ高延喜天。

[やぶちゃん注:以下の山崎の自註は、底本では全体が一字下げ。]

自註。眞俗交談記【建久二年九月十日の記。】云、九月十三夜名繼華會。○北越軍記云、天正二年八月能登陣なり。七尾の城を九月十一日に攻落。同月十三夜明月なれば、謙信の作、霜滿軍營秋氣淸。數行過雁月三更。越山併得能州景。任他家鄕念遠征。○散木奇歌集云、九月十三夜、大井河にまかりて、船にのりてきよ瀧河のわたりまでのぼりて、

 紅葉ちる淸瀧川に舟出して

     名にながれたる月をこそ見れ

躬恆集云、淸凉殿の南のつまに、みかは水めぐり出たり。延喜十九年九月十三夜、その宴をさせ給ヘり。○中右記云、九月十三夜、今宵雲淨月明。是寬平法皇。明月無雙の由被仰出云々。

   舟中賞月         關 克 明

一夜扁舟棹水月。白鷗相近轉縱橫。淸光最奸金波裏。酌酒高談物外情。

 影きよみ漕ゆく船にこゝろさへ

      すみだがはらの秋の夜の月

   九月十三日舟中同諸賢墨水賞ㇾ月

                關 思 亮

澄江數里遡ㇾ流時。水面躍金千月奇。話ㇾ古說ㇾ今蘆荻裏。一船淸味少人知

   九月十三夜卽事       谷 文 二【十四歲】

 すみだ川水さへきよく空さえて

      ふけゆくよはもなが月のつき

   乙酉季秋十三夜。與耽奇社友。倶潮墨水月光、舟中憶故人松蘿館。賦一絕

                 瀧 澤 解

九月十三泛墨水。晚潮來去任ㇾ船流。蟾精未ㇾ滿明先缺。遠岸松蘿奈舊遊

 苫舟のおなじながれにすみだ川

      こゝろ隈なき月の夜の友

   九月十三夜墨水賞ㇾ月    瀧 澤 興 繼

冰輪冷艷擅淸光。銀漢斜添雁一行。船倚枯葭櫻樹岸。人忘榮利宿鵝傍。斑姬哭ㇾ子狂何甚。在五思ㇾ京諷詠芳。月色今宵千古似。秋寒徹水覺風霜

   是夜舟中醉間即事狂題    曲 亭 陳 人

耽奇會了又將ㇾ遊。六友相攜月見舟。漕戾竪川今戶廻。逆登橫網藏前頭。夜深風冷雞膚立。樽竭腹空蟲齒浮。雖ㇾ爾棧橋無涉氣。金波如ㇾ睨照名樓。【今戶有酒肆號金波樓。】

[やぶちゃん注:これは、馬琴の漢詩前書他で、文政八年乙酉九月十三日(グレゴリオ暦一八二五年十月二十四日)に行われた耽奇会第八回会集の後の、会員たちで墨田川(隅田川)に舟遊びをして月見をした際の寄書であることが判る。この「兎園小説別集」の文章自体がいつ書かれたかは判然としないが、恐らくは文政八年末までには書かれたものであろう。何故かというと、おぞましき山崎美成と「けんどん」争い(文政八年四月)で絶交したずっと後に、この懐古記事を書くとは馬琴に性格から考えてあり得ないと思うことと、「兎園小説」の続きの単独記事として板行されている以上、だらだらと遅くては、逆に世間が「兎園小説」を忘れ、売れ行きが甚だ悪くなるからである。

「汎ㇾ舟賞ㇾ月詩歌」「舟を汎(うか)べ、月を賞(しやうす)の詩歌」。「汎」には「浮ぶ・漂う」の意がある。

「うけて」「浮(う)けて」。浮かべて。

「皎兮明水月。秋老繼華筵。玉墖橫芝海。金波湧墨川。雁行侵ㇾ夜遠。霜葉逐ㇾ流解。緬億能登壘。兼懷大堰船。形猶一分缺。光勝滿輪圓。今夕無雙賞。仰ㇾ高延喜天。」この時既に始まっていた『「けんどん」爭ひ』で馬琴が絶交することになる山崎好問堂美成(よししげ)の作(同論争は私のこの「兎園小説」で『曲亭馬琴「兎園小説別集」中巻 「けんどん」爭ひ』を全四回で分割して電子化注している)。但し、この論争の発端は同年三月十三日に、この時、初めて耽奇会会員になった文宝堂(亀屋久右衛門)が「大名けんどん」を出品したのが発端で、加藤好夫氏のサイト「浮世絵文献資料館」の『耽奇漫録』のデータによれば、馬琴の入会は第八回(前年文政七年十一月十四日)からであり、この月見の後、第十四回までは馬琴は出席しているものの、この辺りで馬琴が完全にキレて、第十五回(同六月十三日)には馬琴の息子琴嶺舎(瀧澤興継(おきつぐ))が加入して馬琴の代わりとなり、第十九回集(同年十月十三日)まで興継しか出席していない。そうして、この二ヶ月後の同年十一月十三日に行われた第二十回耽奇会(馬琴・美とも出席で、興継は欠席。なお、この耽奇会を主導(今一人は第二回加入で馬琴とも親しいこの前の歌を詠じた屋代弘賢(ひろかた:号は輪池(りんち))で、本会の集成である「耽奇漫録」も屋代が刊行した。その「けんどん」図は『曲亭馬琴「兎園小説別集」中巻 「けんどん」爭ひ 始動 (その1)「けんどん」名義・瀧澤氏批考・山崎「けんどん」批考問辨』の冒頭注で国立国会図書館デジタルコレクションをリンクさせてある)した美成は全二十回総てに出席している)を以って同会は自然消滅している。自然流で訓読してみる。

   *

皎(かう)たり 明水(めいすい)の月

秋老(ふけ)て 繼華(けいくわ)の筵(えん)

玉墖(ぎよくたふ) 芝(しば)の海に橫たふ

金波(きんぱ) 墨川(ぼくせん)に湧き

雁行(がんかう) 夜(よ)を侵(おか)して 遠し

霜葉(さうえふ) 流れを逐(お)ひて 解け

緬憶(めんおく) 能く登壘(とうるい)す

兼ねて 懷(いだ)く 大堰(たいせき)の船(ふね)

形 猶ほ 一分(いちぶ)に 缺く

光 勝(まさ)りたり 滿輪の圓(ゑん)

今夕(こんせき) 無雙(むさう)の賞(しやう)

高く仰ぐ 延喜(えんぎ)の天

   *

「皎」は月の光が白く見えるさま。「玉墖」「墖」は「塔」の異体字。ここは月光が波に反射して伸び、白玉で出来た塔のように見えることを言ったものであろう。「緬憶」回想すること。「登壘」「壘」は高く築いた城で、「天の城の遙か高みに登る思いがする」という意であろう。「大堰の船」よく判らぬが、大いなる「知」の大海を開鑿することを言うか。美成らしい。「延喜」は平安前期の醍醐天皇の時の年号で、九〇一年から九二三年。醍醐天皇は摂関を置かず、「延喜格式」が編纂されるなど、後世の人々から、天皇親政による理想の政治が行われた治世と評価されて「延喜の治」と呼ばれたから、古き昔の理想の世界を指すか。

「眞俗交談記【建久二年九月十日の記。】」平安後期から鎌倉初期にかけての皇族(以仁王の同母兄)で僧の守覚法親王(久安六(一一五〇)年~建仁二(一二〇二)年)が、建久二(一一九一)年の重陽の宴の後宴として、真衆(真言宗の正規な僧衆の意か)と俗士が、仁和寺御所で世俗の故実と真言の秘事口伝について、学術の交換を行った言談の記録という体裁をとるが、仮託作とされる(以上は「J-Stage」の山崎誠氏の論文「秘説の興宴 : 真俗交談記・真俗擲金記」の抄録に拠った)。

「九月十三夜名繼華會」「九月十三夜を『繼華會(けいくわゑ)』と名づく」か。美成の詩句は船中に敷いた花を綴ったような豪華な莚(むしろ)の意のように受け取れるが、この場合の前記の山崎氏の論文PDF)を管見するに、「華」は「法華経」の意が原義のようであり、その教えの真義を「継」ぐ法「会」のことのようにも読める。

「北越軍記」「北越太平記」兵学者宇佐美定祐著で寛永二〇(一六四三)年自序。上杉謙信・景勝二代の軍記を纏めたもので、武田氏との川中島合戦について詳細に記しており、後の軍記物が多く参考にされていると言われるが、地名・人名及び事実関係の誤りが多いと指摘されている(以上は寄居町の広報『よりい』のこちら(部分記事・PDF)を参照した)。

「天正二」(一五七四)「年八月能登陣なり。……」上杉謙信の能登平定の攻略戦であるが、時制がおかしい。実際の侵攻は天正四(一六七八)年十一月で、七尾城の落城は翌天正五年の九月十五日で「九月十一日」ではないウィキの「上杉謙信」の「越中・能登平定」の条を参考にした)。とすれば、以下の漢詩は七尾城を攻め落とす直前に確信の詠と読め、その方がより迫力を持つように思われる。

「霜滿軍營秋氣淸。數行過雁月三更。越山併得能州景。任他家鄕念二遠征。」訓読する。

   *

霜 軍營に滿ちて 秋氣 淸(きよ)し

數行(すかう)の過雁(くわがん) 月(つき) 三更(さんかう)

越山(えつざん)併(あは)せ得たり 能州(のうしう)の景

遮莫(さもあらばあ)れ 家鄕(かきやう)の 遠征を思ふを

   *

「三更」午後零時前後。「越山」自身の領地越後国と越中国の山々。「能州」能登国。「遮莫」「どうあろうとも、ままよ!」の意。

「散木奇歌集」平安末期の名歌人として知られる源俊頼生誕(天喜三(一〇五五)年~大治四(一一二九)年)の自撰私家集。全十巻。大治三(一一二八)年頃に成立した。単に「散木集」とも呼ぶ。

「大井河」淀川水系の桂川上流部の別名。

「きよ瀧河」桂川上流の、南北に流れて京都市右京区嵯峨清滝地区を貫流する清滝川(グーグル・マップ・データ)。

「紅葉ちる淸瀧川に舟出して名にながれたる月をこそ見れ」「日文研」の「和歌データベース」で確認した。

「躬恆集」(みつねしふ)は、かの凡河内躬恒(貞観元(八五九)年?~延長三(九二五)年?)の家集。原型は平安後期の成立とされる。

「淸凉殿の南のつまに、みかは水めぐり出たり」「みかは水」は「御溝水(みかはみづ)」で、一般名詞では、内裏の殿舎や塀に沿って設けられた溝(みぞ)を流れる水を指すが、特に、清涼殿の北と東(前庭の殿脇)と南を流れるものが風流のそれとして名高く、ここもそれを指す。

「延喜十九年」九一八年。

「中右記」(ちういうき)は平安末期の公卿中御門右大臣藤原宗忠(康平五(一〇六二)年~永治元(一一四一)年)の日記。家号と官名の一字をとった名で、寛治元(一〇八七)年から保延四(一一三八)年までの記事を含み、有職故実に詳しく、院政期の政治情勢を克明に記録している。

「九月十三夜、今宵雲淨月明。是寬平法皇。明月無雙の由被仰出云々」「九月十三夜、今宵、雲、淨(きよ)く、月、明かなり。是れ、寬平法皇(くわんぴやうほふわう)、『明月、無雙。』の由、仰せ出だされ云々」。「寬平法皇」は宇多天皇(貞観九(八六七)年~承平元(九三一)年:在位/仁和三(八八七)年~寛平九(八九七)年)の出家後の称で、彼は初めての法皇号を名乗った。彼が法皇となったのは昌泰二(八九九)年十月二十四日であるから、これは同日記のどこかで、過去史料記事を引用して記したものらしい。

「關克明」後に並ぶ「兎園小説」でお馴染みの関思亮海棠庵の父親で書家・儒者であった関克明(こくめい 明和五(一七六八)年~天保六(一八三五)年)。

「一夜扁舟棹水月。白鷗相近轉縱橫。淸光最奸金波裏。酌酒高談物外情。」訓読を試みる。

   *

一夜(ひとよ) 扁舟(へんしう)にて 水月に棹(さをさ)す

白鷗(はくおう) 相ひ近くして 轉(まろぶ)こと 縱橫(じゆうわう)

淸光(くわう) 最も奸(おか)す 金波の裏(うち)

酌酒(しやくしゆ)高談(かうだん) 物外(ぶつぐわい)の情(じやう)

   *

「九月十三日舟中同諸賢墨水賞ㇾ月」「九月十三日、舟中、諸賢と同じうして、墨水に月を賞す。」。

「澄江數里遡ㇾ流時。水面躍金千月奇。話ㇾ古說ㇾ今蘆荻裏。一船淸味少人知。」

   *

澄江(ちようこう) 數里 流れを遡(さかのぼ)る時

水面(みなも) 躍金の千月 奇なり

古(いにし)へを話(わ)して 今を說(の)ぶ 蘆荻(ろてき)の裏(うち)

一船(いつせん)の淸味(せいみ) 少(わづ)かに 二人のみ知る

   *

「二人」は父と自分で、ここは他の乗客を「ないもの」としての私的な感懐したもので、特に自分らを特別に示したものではなかろう。

「谷文二【十四歲】」(たに ぶんじ 文化九(一八一二)年~嘉永三(一八五〇)年)は画家。当該ウィキによれば、父『谷文晁の後継者として将来を嘱望されたが』、『若くして歿した』。『谷文晁の長男』で、『後妻』の『阿佐子との間に生まれ』た。『画は文晁に受け』、『才能は義兄』『文一に劣ったものの』、『文晁の秘蔵っ子として寵愛を受け』た。『そのためか』、我が儘『に育ち』、『直情的な性質だった。遊女と役者を極端に嫌い、得意客であっても』、『棍棒を投げて追い返したほどだった。 享年』三十九で、『浅草清島町源空寺に葬られ』た。『子に文中(文晁の孫)がいる』とある。

「乙酉季秋十三夜。與耽奇社友。倶潮墨水月光、舟中憶故人松蘿館。賦一絕。」「乙酉(おついう)季秋、十三夜、耽奇社(たんきしや)の友と、倶(とも)に墨水に潮(てう)して、月光を賞す。舟中に故人松蘿館を憶ひ、一絕を賦す。」。「潮す」はあまり聞かないが、「舟に棹さす」の意であろう。「故人」はこの場合、「古馴染み」「旧知」の意なので注意。「松蘿館」は「耽奇会」・「兎園会」の両会員であった西原好和。柳河藩留守居であったが、「驕奢遊蕩を競って風聞宜しからず」によって、幕府から国元蟄居の譴責を受け、この十年前の文化一二(一八一五)年四月に江戸を退去されられていた。天保(一八三〇年~一八四四年)の初めに没したと伝えられる。

「九月十三泛墨水。晚潮來去任ㇾ船流。蟾精未ㇾ滿明先缺。遠岸松蘿奈舊遊、」

   *

九月十三(じふさん) 墨水に泛(うか)ぶ

晚潮(ばんてう) 來たり去つて 船を任せて 流る

蟾精(せんせい) 未だ滿たず 明先(めいせん) 缺(か)く

遠岸の松蘿(しようら) 舊遊(きふいふ) 奈(いかん)ぞ

   *

「蟾精」月の異名。中国で古来より月には霊的な蟾(ひきがえる:蟾蜍(せんじょ))が住むとされたことによる。「明先」明るい部分。「松蘿」は「松の木に絡まる蔓」(因みにこの語は「男女の契りの固いこと」の喩えとしてよく用いられた)で、それを遠い岸辺の実景としつつ(実際には夜で見えるはずはないから仮託)、失意のうちに江戸を追い出された「舊遊」(旧友)松蘿館西原好和を沈痛に「どうしているだろう!?」と偲んでいるのである。

「苫舟」「とまぶね」。苫を被せた卑賤な者の小舟。

「隈」「くま」。「すみ」の読みがあるから、それを前の「すみだ川」に縁語として示したもの。

「冰輪冷艷擅淸光。銀漢斜添雁一行。船倚枯葭櫻樹岸。人忘榮利宿狛傍。斑姬哭ㇾ子狂何甚。在五思ㇾ京諷詠芳。月色今宵千古似。秋寒徹水覺風霜。」

   *

冰輪(ひようりん) 冷たく艷として 淸光(せいくわう)を擅(ほしいまま)にす

銀漢 斜めに添ふ 雁 一行(いつかう)

船は倚る 枯葭櫻樹(こかわうじゆ)の岸(きし)

人は忘る 榮利宿鵝(えいりしゆくが)の傍(かたはら)

斑姬(はんぴ) 子に哭(な)きて 狂ふこと 何ぞ甚し

在五(ざいご) 京(きやう)を思ひて 諷詠すること 芳(かんば)し

月色(げつしよく) 今宵(こんしやう) 千古の似(じ)

秋 寒く 徹して 水 風霜を覺ゆ

   *

「冰輪」氷のように冷たく輝いている月。冷たく冴えた月。「船倚」は当初、「倚掛(よりかか)り」のこと(和船の外艫(そとども:船尾の戸立(とだて:船尾を固める主要構成材で、船の後部に構成される艫回りの総称)の上枻(うわだな:和船の上部の舷側板)を延長した部分。高く反り上がっているところからいう。参照した「精選版 日本国語大辞典」の同語の図を参照)と考えたが、次の句と対句にならぬのでかく読んだ。「榮利宿鵝」意味不明。「斑姬」ハト目ハト科チョウショウバト属チョウショウバトGeopelia striata のことらしい。本邦の漢字表記は「長嘯鳩」だが、同種の中文の当該ウィキでは、中文名を「斑姬地鳩」とするからである。本邦には棲息しない。詳しくは日本語の当該ウィキを読まれたいが、そこに『鳴き声は柔らかく連続して、断続的にクークーという調子で鳴く。タイやインドネシアにおいては、その鳴き声のためにペットとして人気があり、鳴き合わせ競争が最も良い声をもつ個体を見つけるために開催されている』とある。東南アジアに分布し、中国にはいないが、どうもこの一句は漢籍の中のずっと南方の同種類に関する記載が元のようには感じられる。最終句は全く判りません。悪しからず。

「是夜舟中醉間即事狂題」「是れ、夜舟(やしう)の中(うち)、醉へる間(あひだ)、即事にして、狂題(きやうだい)す」。

「陳人」馬琴の号の一つ。「古ぼけた人」の意。

「耽奇會了又將ㇾ遊。六友相攜月見舟。漕戾竪川今戶廻。逆登橫網藏前頭。夜深風冷雞膚立。樽竭腹空蟲齒浮。雖ㇾ爾棧橋無涉氣。金波如ㇾ睨照名樓。」

   *

耽奇の會(くわい) 了(をは)りて 又 將に遊ばんとす

六友(りくいう) 相ひ攜へて 月見の舟

漕ぎ戾るに 竪川(たてかは)今戶 を廻(めぐ)り

逆登(さかのぼ)るに 橫網(よこあみ)の藏前(くらまえ)の頭(さき)

夜(よ) 深くして 風 冷たく 雞膚(とりはだ)立ち

樽(たる) 竭(つ)きて 腹(はら)空(す)きて 蟲齒(むしば)浮(う)けり

爾(しか)ると雖も 棧橋(さんばし) 涉(わた)る氣(き) 無し

金波(きんぱ) 睨むがごとく 名樓(めいらう)を照らす

   *

かなり面白い狂詩である。

「今戶有酒肆號金波樓。」「今戶、酒肆(しゆし)にして、『金波樓』と號せる者、有り。」。]

2022/07/16

泉鏡花生前最後発表作「縷紅新草」(正規表現版・オリジナル注附・PDF縦書版)を公開

泉鏡花の生前最後の発表作となった「縷紅新草」(正規表現版・オリジナル注附・PDF縦書版)「心朽窩旧館」に公開した。

2022/07/14

「南方隨筆」底本正規表現版「紀州俗傳」パート 「十五」 / 「紀州俗傳」~了

 

[やぶちゃん注:全十五章から成る(総てが『鄕土硏究』初出の寄せ集め。各末尾書誌参照)。各章毎に電子化注する。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(ここから)で視認して用いた。また、所持する平凡社「選集」を参考に一部の誤字を訂した。表記のおかしな箇所も勝手に訂した。それらは一々断らないので、底本と比較対照して読まれたい。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 本篇の各章は短いので、原則、底本原文そのままに示し、後注で(但し、章内の「○」を頭にした条毎に(附説がある場合はその後に)、読みと注を附した。そのため、本篇は必要性を認めないので、PDF版を成形しないこととした。太字は底本では傍点「﹅」。

 なお、「紀州俗傳」は本「十五」章を以って終わって、「南方隨筆」の正規本文はこれで終わっている。但し、この後に「附錄」として『「鄕土硏究」の記者に與ふる書』(柳田國男宛南方熊楠書簡の雑誌転載)及び、跋文相当の中山太郎氏の「私の知れる南方熊楠氏」が続く。無論、これらも電子化する。

 

      十五、

 〇紀州の七人塚 紀州西牟婁郡長野村大字馬我野(ばがの)字鎌倉に七人塚と云ふ所がある。塚は今は無い。昔七人の山伏がこゝに住んで居た。ある日田邊沖を通る船に向つて祕術を以て之を止めると、船の中にもえらい者があつて沖より山伏どもを見付け、祕術を行ふて止(と)めたから七人の山伏皆動くこと能はず、遂に其處で死んだと云ふ。今も尙沖を通る船から此地を望むと、一點の靑い火が怪しく夜(よる)光ると云ふ。以上本年七月十一日の牟婁新報より抄出す。又森彥太郞氏通信に日高郡上山路(かみさんぢ)村大字西にも七人塚あり。鶴が城落ちた時戰死の七士を葬ると稱して塚の上に小祠(ほこら)がある。尙紀伊續風土記牟婁郡三里鄕(みさとがう)伏拜(ふしをがみ)村(今の東牟婁郡三里村大字伏拜)の條にも七人塚を記し、堀内左馬助(ほりのうちさまのすけ)鬼が城を攻めた時、三十七人手を負ひて死す。其七人を葬つた所で、碑石一基ありと見えて居るとのことである。(大正四年九月鄕硏第三卷第七號)

[やぶちゃん注:本篇本条のみの初出がこちらPDF)で確認出来る。以上ではそれに従い、ルビを、一部、増補した。

「西牟婁郡長野村大字馬我野字鎌倉」「Geoshapeリポジトリ」の「歴史的行政区域データセットβ版」の「和歌山県西牟婁郡長野村」で旧村域が確認出来る。「ひなたGIS」の戦前の地図に「馬我野」が見出せた。現在の地図と照合すると、グーグル・マップ・データ航空写真のこの中央附近に相当する。「鎌倉」確認出来ず。

「牟婁新報」「不二出版」公式サイト内の同新聞の復刻本の解説に、『本紙は』、明治三三(一九〇〇)年四月に『和歌山県田辺町(現在の田辺市)で創刊された。社長・主筆は毛利柴庵(さいあん 明治四(一八七一)年~昭和一三(一九三八)年)で、彼は和歌山県新宮市生まれ。明治一七(一八八四)年十三歳で『和歌山県田辺市の高山寺にて得度。僧名清雅』。『東京日々新聞の社員を経験し、高野山大学林を主席で卒業』、『高山寺住職となっ』た。後、明治三三(一九〇〇)年四月、『『牟婁新聞』の主筆兼主宰とな』り、そこでで『論陣を張る傍ら』、明治四十三年には『田辺町町議会議員、翌』『年には和歌山県県会議員に当選』した。大正一四(一九二五)年の『牟婁新報』休刊後は、和歌山市に移り住み』、『紀州毎日新聞社主となった』。『柴庵は進歩的仏教徒であり、仏教界の革新を目指した『新仏教』にも関与しており、その関係から初期の社会主義者たちとの交流も深かった』。『そのため』、この『牟婁新報』は、『単なる一地方紙にとどまらず、県内は大石誠之助・成石平四郎、県外からは幸徳秋水・堺利彦・管野すが・荒畑寒村など、社会主義者をはじめとする革新思想者が多く論陣を張り、平民社落城後は』、『ほとんど唯一の初期社会主義の砦とも言うべき存在であった』。『また一方、環境保全・自然保護の問題にいちはやく取り組んだメディアでもあ』り、明治三九(一九〇六)年からの『「神社合祀問題」を宗教の自由の問題として、そして環境破壊の問題としてとりあげたが、このとき柴庵とともに健筆を揮ったのが』『南方熊楠であった』とある。

「森彥太郞」(明治二一(一八八八)年~昭和二二(一九四七)年)は郷土研究家として紀州ではかなり著名な人物のようである。ネット上で複数の彼自身の論考が読める。例えば、個人サイト「百姓生活と素人の郷土史」の「日高地方の郷土史関係資料(清水長一郎文庫)」に「森彦太郎遺文集」(全三巻・PDF)他があり、こちらには、電子化された彼の「羽山大学の彗星夢雑誌(すいえいゆめぞうし)」という文章がある。

「日高郡上山路(かみさんぢ)村大字西」「Geoshapeリポジトリ」の「歴史的行政区域データセットβ版」の「和歌山県日高郡上山路村」で旧村域が確認出来る。「ひなたGIS」の戦前の地図に大字「西」が見出せた。ここは現在のグーグル・マップ・データ航空写真でこの附近。北に「鶴ヶ城跡」を配した。

「鶴が城」「龍神観光協会」公式サイト内の「龍神村の観光情報」の「鶴ヶ城祉」のページに、『日高川本流とその支流丹生ノ川の合流地点の山頂に玉置直虎(下野守直虎)の城塞として』、鎌倉幕府滅亡の年である元弘三(一三三三)年に『構築された』。後の天正一三(一五八五)年、『玉置氏第』十一『代当主、玉置惣左衛門太夫の頃、秀吉軍に攻撃され』、『落城』したとある。

「紀伊續風土記牟婁郡三里鄕(みさとがう)伏拜(ふしをがみ)村(今の東牟婁郡三里村大字伏拜)の條にも七人塚を記し」同書は紀州藩が文化三(一八〇六)年に、藩士の儒学者仁井田好古(にいだこうこ)を総裁として編纂させた紀伊国地誌。編纂開始から三十三年後の天保一〇(一八三九)年に完成した。原本の当該箇所は国立国会図書館デジタルコレクションの明治四四(一九一一)年帝国地方行政会出版部刊の活字本のここで確認出来る。「東牟婁郡三里村」は「Geoshapeリポジトリ」の「歴史的行政区域データセットβ版」のこちらで旧村域が確認出来る。現在の田辺市本宮町大居(ほんぐうちょうおおい)附近。

「堀内左馬助」ウィキの「鬼ヶ城」(次注参照)によれば、『室町時代』(一五二三年頃)『に有馬忠親が隠居城として山頂に築城した日本の城。有馬氏はのちに堀内氏によって滅ぼされる。堀内氏は豊臣秀吉に仕え、関ヶ原の戦いまで当地を治めた』とある滅ぼした堀内氏の一人であろうか。

「鬼が城」「選集」は「鬼ヶ島」とするが、底本及び「紀伊續風土記」に従う。前の大居に近い「鬼が城」とすると、三重県熊野市の「鬼ヶ城」しかない。前の大居の地図の右端に配した。しかし、この間は直線でも四十キロメートル弱離れる。山中に逃げ落ち延びた者をここで捕えて討ったものか? にしては、ちょっとおかしい感じがしなくもない。よく判らぬ。]

 〇血を吸わぬ蛭 鄕土硏究一卷十二號に、紀州日高郡上山路村殿原の谷口と云ふ小字の田中に晴明の社てふ小祠あり、此田に棲む蛭、大きさも形も尋常の蛭に異ならねど、血を吸はず醫療の爲捕へても益無しと書いたが(鄕硏一卷一二號七五二頁)、そればかりでは面白くない。昨年五月彼所から知人が來たので篤と尋ねると、晴明此處の蛭に血を吸はれ、怒つて其口を捻ぢた。それから一向血を吸はなくなつた。川一つ渡つてナガソウと云ふ小字には蛭頗る多く、至つて血を吸ふ力が强い故、醫用として多く捕らるゝと云ふ。又西牟婁郡旦來村の不動坂の邊に地藏菴あり。その地藏を念ずれば產安く、又村人祈願して蛭を調伏す。故に此邊の蛭人を螫さずと聞く。(大正五年二月鄕硏第三卷第十一號)

[やぶちゃん注:「鄕土硏究一卷十二號に、紀州日高郡上山路村殿原の谷口と云ふ小字の田中に晴明の社てふ小祠あり、此田に棲む蛭、大きさも形も尋常の蛭に異ならねど、血を吸はず醫療の爲捕へても益無しと書いた」先行する「七」の「〇又曰く溪流又池にも腹赤き「はへ」有り、……」の条の「日高郡上山路村殿原の谷口と云ふ字の田の中に晴明の社てふ小祠有り、此田に棲む蛭大さも形も尋常の蛭に異ならねど血を吸はず、醫療の爲捕へても益無し。莊子に、散木は斧伐を免ると云る類だ」とあるのを指す。

「彼所」「選集」に従うと、「そこ」。

「篤と」「とくと」。

「捻ぢた」「ねじた」。刎部を捩じったということのようである。「七」の「此田に棲む蛭大さも形も尋常の蛭に異ならねど血を吸はず」の注を見られたい。腑に落ちる謂いである。

「ナガソウ」「長澤」で「ながそう」と読む。「国土地理院図」で確認出来る。直近の東の丹生ノ川を渡った対岸の谷口の地名文字の直下に「安倍晴明社」がある。

「西牟婁郡旦來」(あつそ)「村」サイト「KEY SPOT」の「紀伊続風土記」の「牟婁郡」の「岩田郷」の「朝来村:紀伊続風土記(現代語訳)」に、「朝来村 あっそ」とあり、『田辺荘の新庄村からは戌の方』一里五『町の距離。熊野大辺路街道である。朝来は旦来と同じく古くはアサコと正しく唱えたのであろう』とある。国立国会図書館デジタルコレクションの先に示した活字原本のここである。則ち、ここは現在の西牟婁郡上富田町(かみとんだちょう)朝来(あっそ)である(グーグル・マップ・データ)。

「不動坂の邊に地藏菴あり」確認出来ない。]

 〇肉吸ひと云ふ鬼 紀州田邊町住前田安右衞門今年六十七歲、以前久しく十津川邊で郵便脚夫を勤めた。此人話しに、昔し東牟婁郡燒尾の源藏てふ高名の狩人が果無山を行くと狼來つて其袖を咬み引き留る。其時十八九の美しき娘ホーホー笑ひ乍ら來り近付き、源藏火を貸せといふ。必定妖恠と思ひ、止を得ずんば南無阿彌陀佛の彈丸で擊べしと思ふ内、何事も無く去る。然る時狼又其袖を咬み行べしと勸むる樣子に源藏安心して步み出した。其後又二丈程高き怪物に遇ひ、南無阿彌陀佛と彫付た丸で擊つと、大きな音して僵れたのを行て見れば白骨のみ殘り在たと。又廿五年前、前田氏、北山の葛川郵便局に勤め居た時、或脚夫木の本の附近寺垣内より笠捨てふ峠迄四里のウネ(東山の背)を夜行し來るに、後より十八九の若い美女ホーホー笑ひ乍ら來り近づく、脚夫は提燈と火繩持ち有た、其火繩を振つて打付ると女は後ろへ引返した。脚夫葛川の局へ來り、恐ろしければ此職永く罷むべしと云ふ故、給料を增し六角(六發の訛稱、拳銃の事)を携帶せしめて依然其職を勤め彼山を夜行したが一向異事無つた由。是は肉吸と云ふ妖恠で人に觸れば忽ち悉く其肉を吸取るとの事。熊楠曾て二十年前出たウヱルスか誰かの小說に、火星世界の住人此地球へ來り亂暴する體を述て、其人支體に章魚の吸盤如き器を具し、地上の人畜に觸て忽ち其體の要分を吸ひ奪ひ、何とも手に合ぬ筈の處ろ、彼世界に絕て無くて此世界に有餘つたバクテリアが、彼の妖人を犯して苦も無く仆し了ると有たと記臆するが、其外に類似の噺を聞た事無く、肉吸ひてふ名も例の吸血鬼抔と異り頗る奇拔な者と惟ふ。

   (大正七年二月人類第三十三卷二號)

[やぶちゃん注:実は以上の一条は私の偏奇趣味から、二〇一三年六月十一日に「選集」を底本に「肉吸いという鬼 南方熊楠」として電子化注してある。従ってまずはそちらを読んで戴くことにして、ここではそで注さなかった部分のみを追加して示すこととする。

「十津川」和歌山県と西と南で接する奈良県吉野郡十津川村(グーグル・マップ・データ)。

「東牟婁郡燒尾」(やけを)読みは「選集」を参考にした。戦前の地図をかなり念入りに調べたが、発見出来なかった。

「果無山」(はてなしやま)古い記事で注したが、「ひなたGIS」の旧地図で確認出来る

「引き留る」「選集」では『引き留める』。

「必定」「ひつぢやう」。

「妖恠」「妖怪」に同じ。

「擊べし」「うつべし」。

「行べし」「ゆくべし」。

「彫付た」「ゑりつけた」。

「丸」「たま」。

「僵れた」「たふれた」。

「行て」「選集」に倣うと、「いつて」。

「在た」「あつた」。

「廿五年前」本篇初出から機械換算すると、明治六(一八九三)年頃となる。

「北山の葛川郵便局」十津川村のこの附近に旧地名として散在する(グーグル・マップ・データ)。「ひなたGIS」の戦前の地図ではここに「上葛川」「下葛川」を確認出来る

「居た」「をつた」。

「木の本」(きのもと:地名と思われるが、確認出来ない)「の附近寺垣内」(てらかいと)「より笠捨」(かさすて)「てふ峠迄四里のウネ(東山の背)を夜行」(やこう)「し來るに」「ひなたGIS」で、上葛川の東北直近に「笠捨山」が、その右上のところの「寺垣内(カイト)」を確認出来た。「東山の背」は「東の山並みの背の尾根」の意か。笠捨山はそこに標高千三百五十二メートルとあるから、郵便配達といっても、これは殆んど登山と変わらぬ大変な仕事だ。

「有た」「あつた」。

「打付ると」「選集」に倣うなら、「うちつけると」。

「六角(六發の訛稱、拳銃の事)を携帶せしめて」実は永く郵便配達員には銃の所持が法的に許可されていたことは、今はあまり知られていない。ウィキの「郵便物保護銃規則」によれば、同『規則は、郵便物保護の為に郵便配達員に銃砲所持を認めたもの(日本)である』。明治六(一八七三)年に『「短銃取扱規則」により既に郵便配達員は拳銃』(六連発銃)『の携帯を許されていたが、多額の現金書留の需要が増えたため』、明治二〇(一八八七)年四月二十七日に制定されている。『法形式としては一般に公布する法令ではなく』、『逓信管理局長から各郵便局長への通達である。もちろん官報に掲載はなく、国立公文書館の保存文書も逓信省の関係ではなく』、『内務省へたまたまやりとりがあり』、『保存されていたものである』。『郵便物(現金書留など)に危害がある場合、正当防衛をするために郵便配達員に拳銃(郵便物保護銃)の所持が許されていた』。『明治政府は』明治四(一八七一)年から『新しい郵便制度を発足させたが、強盗被害が多かったことから』、二年後の明治六年に『「短銃取扱規則」で郵便配達員に銃を一丁だけ所持が認められた』。『さらに』、明治二十年には、『現金書留郵便の配達が増えたため、郵便物保護の』ための『銃の所持が認められた』。これは、第二次世界大戦後の昭和二四(一九四九)年六月一日、『逓信省が郵政省へ改変する際に廃止された』とある。

「彼山」「かのやま」。

「觸れば」「ふるれば」。

「二十年前出たウヱルスか誰かの小說に、火星世界の住人此地球へ來り亂暴する體」(てい)「を述」(のべ)「て、其人」(火星人を指す)「支體」(したい:体を支える脚部)「に章魚」(たこ)「の吸盤如き器」(き)「を具し、地上の人畜に觸」(ふれ)「て忽ち其體の要分を吸ひ奪ひ、何とも手に合」(あは)「ぬ筈の處」(とこ)「ろ、彼」(かの)「世界に絕」(たえ)「て無くて此世界に有餘」(ありあま)「つたバクテリアが、彼」(か)「の妖人」(ようじん)「を犯して苦も無く仆」(たふ)「し了」(をは)「ると有」(あつ)「たと記臆する」言わずもがな、イギリスの作家ハーバート・ジョージ・ウェルズ(Herbert George Wells 一八六六年~一九四六年)一八九八年(明治三十一年)に発表した火星人の襲来を描いたSF小説「宇宙戦争」(The War of the Worlds :「世界同士の戦争」)のこと。ウィキの「火星人」によれば、本作に『登場したタコのような火星人のイメージが世間に』定番的異星人像として『定着した。異常に発達した頭脳に対して四肢は退化しており、消化器官も退化していて動物の血液を直接摂取して栄養を得る。これらの特徴は、一応は火星の環境を考慮している。すなわち、重力が地球より小さいから体を支える構造が軟弱で、空気が薄いから空気を吸い込む部分が大きい。「トライポッド」』(「三本脚」の意)『と呼ばれる巨大戦闘機械によって地球上を蹂躙するが、地球の病原体に対して抵抗力を持たなかったために全滅する』とある。なお、「バクテリア」(bacteria)は一般には「細菌類」と訳されるが、元来は「微小なもの」の意であり、生物学的には「原核生物」を意味し、その場合、藍藻類(原核植物。比較的知られているものでは、アオコの類、例えば、クロレラ属 Chlorella など)も含まれる。このため、細菌類は「バクテリア」ではあるが、「バクテリア」は細菌類とは限らないので注意が必要である。

「吸血鬼」「選集」では『ヴアムパヤー』と振る。

「異り」「ことなり」。

「惟ふ」「おもふ」。]

2022/07/13

「南方隨筆」底本正規表現版「紀州俗傳」パート 「十四」

 

[やぶちゃん注:全十五章から成る(総てが『鄕土硏究』初出の寄せ集め。各末尾書誌参照)。各章毎に電子化注する。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(ここから)で視認して用いた。また、所持する平凡社「選集」を参考に一部の誤字を訂した。表記のおかしな箇所も勝手に訂した。それらは一々断らないので、底本と比較対照して読まれたい。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。本篇冒頭の話、折角の童話が、句読点の不備で甚だ読み難くなっている。この条に限り、特異的に私が勝手に句読点や記号を増やし、改行もした。

 本篇の各章は短いので、原則、底本原文そのままに示し、後注で(但し、章内の「○」を頭にした条毎に(附説がある場合はその後に)、読みと注を附した。そのため、本篇は必要性を認めないので、PDF版を成形しないこととした。]

 

      十四、

 〇打出小槌の童話 紀州に傳はる打出小槌の童話、小生、久しく忘れ、氣付かず居りしに、昨夜、四歲になる小生の女兒に聞き(童話は、なるべく子供の語る所、眞に近し)、さて妻に聞きたる上、左に申し上げ候。多分、紀州のみに限らぬ話と存候。グリンムの獨逸童話其他伊太利葡萄牙等にも大略同じ話多きも、槌の事は無之候。

「むかし、繼母、繼女を憎むこと甚しく、林中へ柯子(しひ)を拾ひに遣るに、吾が生んだ女には尋常の籃を渡し、繼女には底拔けた籃を與ふ。

 林に入り、柯子を拾ふに、繼女、如何に勉めて拾ふも、籃の底を漏れ落ちて、滿たず。

 實の女は、繼女の籃より漏るを拾ひ、容易に滿籃して去る。

 繼女、籃、充たずして、林中に、日、晚る。

 泣き居ると、遠方に幽かな燈影あり。

 因つて、尋ね往けば、老媼、一人あり。

 入りて譯を語るに、媼、之を愍み、

「如何なる事あるも物言ふべからず。」

と敎へ、牀の下に潜ましむ。

 夜に入り、家主の鬼、歸り、

「人臭い、人臭い。」

と言ふ。媼、言く、

「誰も人は宿めず。」

と。

 鬼、安心して眠る。

 媼、握り飯を牀の下に落し、かの少女に食はす。

 鬼、寤めて、

「何をする。」

と言ふに、媼、

「今夜は簀子(牀のこと)の祭なり。」

と言ふ。

 然るに、少女、耐へず、喉を咳る。

 鬼、

「さては、人あるに極まつたり。」

とて、牀をまくり、少女を見つけて、啖はんとす。

 老媼、遮り止めて、その繼母に苛遇せらるゝ狀を說く。

 鬼は、諺の鬼の眼にも淚を出し、

「不愍のことなれば、われ、よく難を解くべし。」

とて、槌一つ與へ、

「汝、家に歸り、これを母に呈せよ。」

と敎ふ。

 女、家に歸るに、繼母、

「何故おくれたるか。」

と怒る。

 女、かの槌を母に獻じ、

「罪を赦せ。」

と乞ふ。

 母、大いに怒り、

「こんな物、いらぬ。」

とて、槌を抛り付けると、夥しく、錢、出づ。

 是れ、貸を打出す槌と知り、貴寶を得たるを悅び、それより、此繼女を實子同然に愛した、ということ也。」

 右の「簀子の祭」とは何の事か。御承知の讀者は敎示せられん事を望む。(大正四年五月鄕硏第三卷第三號)

[やぶちゃん注:「打出小槌」ウィキの「うちでのこづち」をリンクさせておく。しかし、以上の話、これ、展開はどうも西洋版の「継子いじめ譚」の影響を甚だ強く受けたもののように感じられてしょうがないのだが?

「小生の女兒」長女の文枝さん。明治四四(一九一一)年生まれ。後に日本大学経済学部教授となる岡本清造氏(四十二歳)と三十四歳の昭和二一(一九四六)年に結婚(清造氏は昭和五四(一九七九)年没)。文枝さんは平成一二(二〇〇〇) 年に亡くなった。

「存候」「ぞんじさふらふ」。

「グリンム」グリム。

「大略」「ほぼ」と当て訓しておく。

「無之候」「これなくさふらふ」。

「繼母」「ままはは」。

「繼女」「ままむすめ」(「選集」ルビ)。

「柯子(しひ)」ブナ目ブナ科シイ属 Castanopsis の椎の実。本邦ではツブラジイ Castanopsis cuspidata (関東以西に分布。果実は球形に近く、以下のスダジイに比べ、小さい)とスダジイCastanopsis sieboldii (シイ属は主にアジアに約百種が分布するが、本邦はシイ属の分布北限で、最も北に進出した種。福島県・新潟県佐渡島まで)が植生する。

「女」「むすめ」。

「籃」「かご」。

「實の女」「じつむすめ」と読んでおく。

「滿籃」「まんらん」。

「晚る」「くる」。

「老媼」「らうわう(ろうおう)」或いは当て読みで「らうば」。

「媼」「をうな」と訓じておく。

「愍み」「あはれみ」。

「牀」「ゆか」。

「落し」「おとし」。

「寤めて」「さめて」。

「簀子」「すのこ」。「簀子の祭」は不詳。

「喉を咳る」「のどをたぐる」。「たぐる」は「選集」のルビに従った。「たぐる」は上代以来の古語「吐(たぐ)る」で「へどをはく・もどす」或いは「咳(せき)をする」の意。ここは後者。

「啖はん」「くらはん」。

「苛遇」「かぐう」。

「狀」「さま」。

「不愍」「ふびん」。

「抛り付ける」「はふりつける(ほうりつける)」。

「錢」「ぜに」。

「貸」「選集」に『たから』とルビする。]

 〇田邊で小兒蟻群を見れば「蟻呼で來い、ども呼んで來い」、又「蟻の婆よー、蟻の婆よー、引きにごんせよー、引きにごんせよー」、和歌山では「蟻どん來い、どもやろか、おまえの力であくものか」。どもとは大きな武勇な蟻魁(ありのかしら)を云ふ。和歌山で以前行なわれた蟻の道という兒戯のことは、民俗第一年第二報へ出し置いた。

[やぶちゃん注:「婆」「選集」のルビに倣うと、「をば」。

「蟻の道という兒戯のことは、民俗第一年第二報へ出し置いた」後の「續南方隨筆」に「蟻の道」として所収する。大正二年九月発行の『民俗』初出。国立国会図書館デジタルコレクションの同書のここで視認出来る(次ページに図有り)。本書の電子化後にそちらを続ける予定なれば、フライング電子化はしない。]

〇獾(あなぐま)が女に化けること、鄕土硏究一卷六號三六九頁すでに述べたが、其後西牟婁郡上秋津村の人に聞いたは、獾は誠に旨く美裝した處女に化けるが、畜生の哀しさ行儀を辨へず、木に捷く昇つたり枝に懸下(ぶらんこ)したり、處女に有るまじし事斗りするから、化の皮が直顯はれると。予幼時雷獸と云ふ物を紀州で屢ば見世物で見たが、悉く獾だった。馬琴の何かの小說に附けた雷獸考の中に、猪狀で爪銳き雷獸を畫き有つたが、獾は支那で猪獾(ちよくわん)と呼ぶ程猪に似た者だから、之を雷獸とするは少々據有りそうだ。文部省の博物指敎圖に畫いた雷獸一名キテンは貂の類らしい。

[やぶちゃん注:「獾(あなぐま)」。「四」で既出既注(「鄕土硏究一卷六號三六九頁すでに述べた」がそれ)だが、再掲しておく。本邦固有種である食肉目イヌ型亜目クマ下目イタチ小目イタチ上科イタチ科アナグマ属ニホンアナグマ Meles anakuma 。私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 貉(むじな) (アナグマ)」を参照されたいが、面倒なことに、寺島良安は「本草綱目」に従ったために、「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 貒(み) (同じくアナグマ)」及び「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 獾(くわん) (同じくアナグマ)」も別に立項してしまっている。

「西牟婁郡上秋津」(かみあきづ)「村」「Geoshapeリポジトリ」の「歴史的行政区域データセットβ版」の「和歌山県西牟婁郡上秋津村」で旧村域が確認出来る。現在は田辺市上秋津(グーグル・マップ・データ)。だいたい一致はする。

「旨く」「うまく」。上手く。「四」で、『安堵峰で予』アナグマの『肉を味噌で煑て食ふと甚だ甘かつた』というのに、つい、惹かれましたな、熊楠先生!

「處女」「おとめ」。

「捷く」「すばやく」。

「直」「すぐ」。

「雷獸」落雷とともに現れるとされた、本邦の、特に江戸時代には、かなりメジャーな妖怪。当該ウィキを見られたい。ここで熊楠が言っている曲亭馬琴の考証随筆「玄同放言」(三巻六冊。滝沢瑣吉名義で出版。息子の琴嶺と、その友人であったかの渡辺崋山が画を担当している。一集は文政元(一八一八)年、二集は同三年刊。主として天地・人物・動植物に関し、博引傍証して著者の主張を述べたもの。「玄同」は「無差別」の意)の「卷一上 天部」の「第四 雷魚雷鷄雷鳥【並異形雷獸圖】」からとして、狼に似て、前脚が二本、後脚が四本で計六脚、尻尾が三股に分かれているはずの雷獣図の絵が添えられてあるが、これは恐ろしく下手な写図で、見るに足らぬ(だいたい、尾が二股にしかなっていないぞ!?!)。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の同原版本のこれを見よ! ひでえもんだ! 当該解説を総て読みたい方は、巻一のPDF版では、24コマ目からが、前記標題部の全部。単体画像で「雷獸」だけなら、ここ《「……此獸打-、而不ㇾ能升騰スルヲ……」》と、ここ《……按スルニ葢雷隕之處……》と、先の図の部分《画をもて、僕(やつがれ)と、友垣(ともがき)結(むす)ぶこと久しくなりぬ……》《……似たるもの、世にこれなしとすべからず……》と、ここ《……有ㇾ而無ㇾ形、故カリテ乾位戌亥……》で読める。但し、一部が破損しているので、「兎園小說」を電子化注している私にはちょっと放っておけないことなので、所持する吉川弘文館随筆大成版で、それぞれのリンクの後に欠損部前後を《 》でサービスで補っておいた。ついでだから、PDF画像として所持している博文館の昭和四(一九二九)年刊の「帝國文庫(第二十三篇) 名家漫筆集」所収の当該画像をスクリーン・ショットで撮り、トリミング補正したものを参考までに掲げておく。早稲田大学図書館「古典総合データベース」版より粗いものの、当該ウィキのそれよりは遙かにマシである。

 

Raijyu

 

「猪狀」「ゐのかたち」と読んでおく。「選集」では『猪(い)の状(かたち)』とあるからである。まあ、前図を見て戴くと、「猪」も判らなくはないが、やっぱ、狼でしょ。

「據」「よりどころ」。

「文部省の博物指敎圖」「博物圖」(掛図)のことであろう。「国立公文書館」の「デジタルアーカイブ」のこちらによれば、『「博物図」は、M.Willson & N.A.Kalkinsの「School and Family Charts」中の動植物図を参考にしてつくったものといわれ、動物5図、植物5図の計10図の構成で』『銅版で描いた輪郭線に、木版で色彩をのせ』、『幕府医官小野蘭山の玄孫』で、『文部省に勤め、博物館関係事業に従事した』『小野職愨』(もとよし 天保九(一八三八)年~明治二三(一八九〇)年)の『選』になり、明治六(一八七三)年『文部省の刊行』とある。同画像(「獸類一覽」)の上から二段目の左から二つ目(「第三 節操類ノ二 食肉部 他獸ヲ殺シテ食餌トナス者」の四種目。前に「アナグマ」「獾」の図がある)に、

   *

   貂鼠

ライジウ

 一名キテン

深山ニ棲ム至テ輕捷ナリ雷鳴ル時驚テ村里ニ出ルヿアリ人誤リ認テ雷獸ト呼ブ

   *

とある。

「キテン」「貂」(てん)「の類」食肉(ネコ)目イタチ科イタチ亜科テン属テン亜種ホンドテン Martes melampus melampus のこと。詳細は当該ウィキを見られたい。]

〇西牟婁郡湊村字磯間は、萬葉集に見えた磯間浦と云ふ事で、風景絕佳だが其住民は夙(しゆく)だ。猴神(さるがみ)の古社有つて今は日吉神社と號し、先年合祀さるゝ處を予輩烈しく抗議して免れた(鄕土硏究二卷五號三〇九頁中島君の報告に夙と犬神猿神と關係有りとする說參考すべし)。田邊近所には長野村と稻成村大字絲田と磯間の三所に各猴神社有つて、長野村が陰曆の十月、絲田が十一月、磯間が十二月の某の申日祭禮をしたが、絲田と長野村のは合祀せられ、磯間のも祭日を改めた。以前は舊師走の寒い夜中に神輿渡御有り。社の側に天然に橋の如く高く二つの岩山の間に掛つた岩の穹窿(アーチ)有り。昔此邊で人身御供を行ふたと言傳ふ。磯間と異り長野村や絲田の住民は夙で無い。磯間の女は昔より專ら京都へ奉公に出たので、言語應對頗る溫雅だ。漁業と農桑を兼營み、一體に富有である。以前は此猴神の祭へ日高郡等遠方から農民夥しく參詣した。「さるまさる」と言うて、猴を農家で蕃殖の獸として尊ぶのださうな。

[やぶちゃん注:本篇は、かく近代まであった被差別民を扱っており、現在もある地名まで出るので、興味本位を排し、批判的視線を十全に持って読まれたい。

「西牟婁郡湊村字磯間」「Geoshapeリポジトリ」の「歴史的行政区域データセットβ版」の「和歌山県西牟婁郡湊村」で旧村域が確認出来る。現在の田辺市中心街の、南・北・東の大半が含まれる。「磯間」は「いそま」と読む。「ひなたGIS」の戦前の地図で示す。

「萬葉集に見えた磯間浦」巻第十五の「船に乘りて海に入り路(みち)の上(ほとり)にて作れる歌」の一首(三五九九番)であるが、同巻の冒頭には「天平八年丙子(へいし)の夏六月、使(つかひ)を新羅國に遣はしし時に、使人(つかひひと)らの、各〻別(わかれ)を悲しびて贈答し、また海路(うみぢ)の上(ほとり)にして旅を慟(いた)み思ひを陳べて作る歌、幷(あは)せて、所に當りて誦詠(しようえい)せる古歌 一百四十五首」とある。

   *

 月讀(つくよみ)の

   光りを淸(きよ)み

      神島(かみしま)の

    磯𢌞(いそま)の浦ゆ

           船出す我は

   *

この歌の「神島」については、広島県福山市の旧神島(かしま)村と、岡山県笠岡市神島(こうのしま)、或いは、その南方海上直近にある高島とする三説がある(孰れも「ひなたGIS」の戦前の地図)。およそ新羅渡航で紀州田辺はないが、これ、平安以後、貴族間で熊野詣の習慣が広がると、田辺のこの「磯間の浦」と、その南方にある熊楠の守った「神島」が一致見るようになったことから、紀伊国の歌枕の定番となったのであった。

「夙(しゆく)」(しゅく)は、江戸時代、畿内に多く居住し、賤民視された被差別民の呼称。天皇の御陵番である「守戸(しゅこ)が訛ったものともされるが、未詳(以上は小学館「大辞泉」。以下は小学館「日本国語大辞典」)。江戸時代、中世非人の宿(しゅく)の者の後身を差別して呼んだもの。御陵が多い近畿地方に多く住み、寺社の掃除や葬送に従事したり、農業・酒造の他、歌舞・音曲・小芝居などをして生活する者もいた。別な被差別民であった穢多(えた:「かわた」(歴史的仮名遣「かはた」)とも呼ひ、近世前期では「ゑた」(歴史的仮名遣)よりもこちらの蔑称の方が一般的であった)の支配に服した者もいたが、大和の者は平民と余り差別が見られなかったという。「宿」「守公」「守宮」という漢字表記もした。ウィキの「夙」がかなり詳しいので読まれたいが、そこに『紀伊では』、『巫村・陰陽師村なども含めてシュクと呼称していた』とあり、また研究者の言として『大和の夙については』、『「彼等の中には巨万の富を擁して大地主となり、大商人となり、或は日夜孔孟の学を講じて地方の有識者となってゐた者も少くなかった」』とあり、また、『「彼等の社会的地位は徳川時代に於ては百姓と穢多との中間で、農業をしてゐる人もあれば、商業に従事している人もあった。」』ともある。

「猴神(さるがみ)の古社有つて今は日吉神社と號し、先年合祀さるゝ處を予輩烈しく抗議して免れた」ここに現存する。サイド・パネルの写真を見ると、参道階段の狛犬よりも奥に左右に向かい合った猿像が配置されてある。また、「和歌山県神社庁」公式サイト内の同神社の解説にも、『湊浦の日吉神社は、古来』、『猿神さんとあがめられ』、『遠近の信仰を集めている』とあり、現在の例祭(十月三日)の解説の中にも、『お猿と獅子と神輿が乱舞交錯、練り続き』翌日の午前三時過ぎ、『神輿は宮へ還幸す』ともある。

「中島君」「選集」の編者割注によれば、中島松三郎とある。事績不詳だが、『「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「琵琶法師恠に遭ふ話」』で既出既注なので、参考にされたい。『郷土研究』にかなりの投稿をしている研究者で、「日文研」の「怪異・妖怪伝承データベース」の「犬神」(いぬがみ)のページが、まさにその論考が元であることが判った。論考標題はズバり、「犬神猿神附夙」(「いぬがみ さるがみ つけたり しゆく」であろう)である。

「長野村」「Geoshapeリポジトリ」の「歴史的行政区域データセットβ版」の「和歌山県西牟婁郡長野村」で旧村域が確認出来る。

「稻成」(いなり)「村大字絲田」同前サイトのこちらで旧村域が確認出来、「ひなたGIS」の戦前の地図で「糸田」も確認出来る。さらに、グーグル・マップ・データに「糸田猿神社跡」を見出せる。実は、この神社の神域の森林伐採が、南方熊楠の神社合祀反対運動開始のきっかけだったからであろう。「LocalWiki」の「田辺」の「猿神社」に詳しい。

「社の側」(かたはら)「に天然に橋の如く高く二つの岩山の間に掛つた岩の穹窿(アーチ)有り」これ、或いは現在の「磯間岩陰(いわかげ)遺跡」のことではなかろうか?(グーグル・マップ・データ航空写真) ここは日吉神社の参道の東の傍らにあり、古墳時代の遺跡で、人骨も出ている。サイド・パネルの画像を見られたいが、「岩の穹窿(アーチ)」っぽいのである(説明板も読める)。

「異り」「選集」に倣うと「かはり」と読む。

「農桑」「のうさう」。農耕と養蚕。

「兼營み」「かねいとなみ」。

「富有」「ふいう」。裕福。

「蕃殖」「はんしよく」。「繁殖」に同じ。動植物の豊饒。]

 〇田邊近處稻成村の稻荷神社は、伏見の稻荷より由緖古く正しいものを、昔證文を伏見へ借取られて威勢其下に出るに及んだと云ふ。今も神林鬱蒼たる大社だが、この神甚だ馬を忌み、大正二年夏の大旱にも鳥居前で二三疋馬駈すると、翌日忽ち少雨ふり、其翌日より大いに降つたと云ふ。然るに老人に聞くと、以前は此鳥居前に馬場有つて例祭に馬駈したと云ふ。されば馬場が無くなつてから神が馬嫌ひに成つた者か。

[やぶちゃん注:「稻成村の稻荷神社」現在の田辺市稲荷町の稲荷神社(伊作田(いさいだ)稲荷神社)のことであろう(グーグル・マップ・データ)。この「稲荷神社の森」は田辺市指定文化財(天然記念物)となっている。サイド・パネルの解説板に南方熊楠の名も載っている。

「借取られて」「かりとられて」。

「出る」「いづる」。

「大正二年」一九一三年。

「大旱」「おほひでり」と訓じておく。

「馬駈」「うまかけ」。]

 〇「紀州豐年米食はず」と云ふ古諺有り。紀伊豐年ならば米多く產する他國皆豐年ならぬ意だ。紀州は米を外へ出す國で無かつたと云ふ。

[やぶちゃん注:「紀州豐年米食はず」は紀州が豊年の年は、諸国が凶作であるから、普段は他国に売らぬ米を、皆、醵出せねばならず、結果して紀州では米が食えなかったということであろう。]

 〇猫が蟻を食物に混じて食へば力强く成る。又犬の子糞を食ひ人の子味噌を食へば眼明かに成ると言ふ。

 〇西牟婁郡下芳養村の老人言く、昔は、犬、止(たゞ)三脚(みつあし)、五德(ごとく)(鑄鐵製の鍋を懸る器)は四脚有りし。弘法大師物書くに笑ふ云字を忘れ困却中、犬が簀を冒り步み來たので、犬が竹を冒れば笑の字と成ると悟り、大に悅んで五德の脚を三本に減じ、其一脚を犬に與へて四脚とした。其報恩に今も犬尿するに必ず一脚を揚ぐると。

[やぶちゃん注:「鑄鐵」「選集」は二字に『いもじ』と振る。

「懸る」「かくる」。

「笑ふ云字を忘れ困却中」「笑ふ」と「云(いふ)字を忘れ」、「困却」(こんきやく)の「なか」。

「簀」「す」。竹を粗く編んだ筵(むしろ)。

「冒り」「かぶり」。

「犬が竹を冒」(かぶ)「れば笑の字と成る」「笑」の字を分解すると、「竹」と「夭」だが、「夭」の字の異体字にはこれがあり(「グリフウィキ」)、「犬」の字に似ている。

「犬尿するに」「いぬ、いばりするに必ず一脚を揚ぐる」犬が何故小便をする際に片足を上げるかの起原伝承。]

 〇數ある竈の内一番大きなを田邊で「大くど」と呼ぶ。其灰の中へ茶碗一つ伏置くか、主人の下駄を金盥で覆置けば盜人入り得ず。盜人入らんと欲する家の盥で大便を覆せて家内を昏睡せしめんとしても、右の法を行はれては其效無しと。

[やぶちゃん注:「竃」「かまど」。

「大くど」「おほくど」。

「金盥」「かなだらひ」。

「覆置けば」「ふせおけば」。

「盜人」「ぬすつと」と読んでおく。

「盜人入らんと欲する家の盥で大便を覆せて家内を昏睡せしめんとし」こういう話は私は聴いたことがないが、ごく近代までの泥棒の風習で、盗みに入ったものの、何も窃(ぬす)むべきものがない貧乏な家であったり、或いは、何らかの都合で何も窃めなかった場合に、その家の部屋の真ん中に大便をするという奇体な習慣あったことは知っている(前者はずっと昔、児童向けの自伝的小説だったように確かに思うのだが、作者も題名も思い出せない。ご存知の方、お教え下さい)。或いは、そうすると決して捕まらないというジンクスもあったやにも聴いている。それが変形した特異ヴァージョンか?]

〇陰曆十月中に亥猪三つ有る年火災多しと。以前は一侍二百姓三商賣と順次異級の人が祝ふたが、大抵十月に亥猪二有るのみ三つ有るは稀だ。神子濱では三番目の亥猪を穢多亥猪と云ふ。

[やぶちゃん注:「陰曆十月中に亥猪三つ有る年」「亥猪」は「選集」に倣うと、二字で「ゐのこ」。これは陰暦十月に上・中・下旬に、干支の「亥」の日が三度ある月ということ。国立国会図書館の「レファレンス協同データベース」のこちらの『「亥の子」という習慣があ』り、十一『月の亥の日に、子供が藁を束ねたもので庭先で叩いてまわるというもの』であるが、十一月は『亥の日は』二、三『日あるが、どの日に行うのがよいか』? という質問への回答の諸資料からの引用に、『「一般には旧暦』十『月の亥の日に行な」い、「初亥・二番亥を収穫祭としている」』とあり、『また、「宮中では中世以降、上亥・中亥・下亥の日に』三『回の亥の子が催された」ことや、「(地方により異なるが)上亥を殿様とか武士の亥の子、中亥を百姓の亥の子、下亥を商人の亥の子とも区別する」ことが説明されている。亥の日祭、亥の神祭、亥の子節供などとも呼ばれる』とし、さらに、『「初亥の日になると小作人たちが餅をつきに来た」ことが記されている』とあり、『「旧暦十月の亥の日亥の刻に、餅を食べ無病を願う行事」とある。なお、「岡山県下の農村では、亥の日が二度あれば最初を、三度あれば中の亥の日を祝った」との記述がある』とある。『また、亥の子では「子供たちによる亥の子突きの行事が顕著に見られ」ており、「丸石に数本の縄を放射状に付け、縄を引いて石を引き上げ』、『落とし』、『地面を突くもの」と「藁を束ねた棒で地面を打つものの二種類がある」と記述されており、岡山県英田郡下で行なわれる際に子供たちが囃す言葉も』あるとあった。

「商賣」「選集」に『あきうど』とルビする。

「穢多亥猪」「選集」では『えったの亥猪』とする。これは二番目を士農工商の「農工商」の広義の町人に宛て、三番目を被差別民であった「穢多(ゑた)」に落としめた卑称であろう。]

〇毒蟲毒魚に螫された時、有合ふ地上の石を取て裏返し置けば、痛忽ち止むと云ふ。   (大正四年七月鄕硏第三卷第五號)

[やぶちゃん注:「螫された」「さされた」。

「有合ふ」「ありあふ」。その辺にある。

「取て」「選集」は『取って』とする。

「痛」「いたみ」。]

2022/07/12

「南方隨筆」底本正規表現版「紀州俗傳」パート 「十三」

 

[やぶちゃん注:全十五章から成る(総てが『鄕土硏究』初出の寄せ集め。各末尾書誌参照)。各章毎に電子化注する。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(ここから)で視認して用いた。また、所持する平凡社「選集」や、熊楠の当たった諸原本を参考に一部の誤字を訂した。表記のおかしな箇所も勝手に訂した。それらは一々断らないので、底本と比較対照して読まれたい。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。なお、「嬉遊笑覽」の引用は二種の原本(二種はそれぞれ表記・表現が有意に異なる。後注参照)を参考に独自に変更を加えた。太字は底本では傍点「﹅」、太字下線は傍点「○」。また、一部、読み難いと判断した箇所に括弧記号を特異的に添えた。

 本篇の各章は短いので、原則、底本原文そのままに示し、後注で(但し、章内の「○」を頭にした条毎に(附説がある場合はその後に)、読みと注を附した。そのため、本篇は必要性を認めないので、PDF版を成形しないこととした。]

 

      十三、

 〇一極めの言葉(鄕硏三卷一號三七頁參照) 嬉遊笑覽卷六下に云く、古今夷曲集に、題不知、行安「小姬子の隱れごにさへ雜らぬは最早桂のは文字なるべし」。風流徒然草に、「其譯知れぬ事侍り、『隱れん坊に雜らぬ者はちつちや子持や桂の葉』とは子供の言ふ事也」と有り。行安の狂歌もこれを採れる也。(中略、注の中に、信田小太郞の淨瑠璃より、「隱れん坊に雜らぬ者は、楝(おふち)や辛夷(こぶし)や桂(かつら)の葉、草履隱し、肩車、足の冷たい、ちよこちよこ走り、」てふ詞を引く)。此戯れも一極(いちき)めとて鬼となる者を定むる事也[やぶちゃん注:以上の「一極め」のルビは底本では「いちき」の下方に判読不能な「け」の右が潰れたような字と踊り字「〱」のようなものが確認される(ここの左ページ後ろから三行目下方)。比較検討し、後文に徴して「選集」のルビの方を採った。「嬉遊笑覽」には読みは振られていない。]。其時言ふ言葉なるべし。[やぶちゃん注:以上の一文は底本では、「其時言ふ言は。」となっている。比較検討して「選集」の表現に代えた。「嬉遊笑覽」の記載を熊楠が弄って変えたものである。]江戶にては「かくれんぼうに土用浪のかさつくれん坊とわりやそつちへつんのきやれ」(又「づんづんづのめの」云々、「中切りて中切りてぢやむぢやが鬼よ」とも言えり)。出羽庄内にては、先づ幾人にても互に拳を握り出して、是を順に數へる如くにいふ、「隱れぼちだてやなあなめちくりちんとはじきしまたのおけたのけ」又、「にぎりしよたぎりたぎりおけたのけ」とも云り。又江戶にては「いちくたちく」と云事をもする也。篗絨輪に「寵愛の餘り猪口迄おいとしぼいちくたちくに毛だらけな腕」千雪。彼のちちや子持も、この一極めと云事をするに云りし諺なるべし云々(以上笑覽の說)。「いちくたちく」の詞は、中村君の報告中にも出づ。昔し既に一極(いちきめ歟)てふ語有た上は、中村君が新たに假設した選擇の言葉代りに、專ら一極めの詞とか文句とか云ひたい物だ。拙妻幼時每(いつ)も其祖母(二十五年前八十一歲で逝く)に聞いた。田邊で隱れん坊の鬼を極る詞、「隱れん坊しやく、しゝはしめ食(く)て、雀は稻食(いねく)て、チユツチユツチユツ、大勢の中でお一人をようのいた、お二人をようのいた、チヤンチヤンヌクヌクお上り成(なさ)れよ」。唯今そんな詞を識る者少なくジヤン拳のみ用ゐるが、近郊神子濱では、「ひにふにだあ、だらこまち、ちんがらこけこのとう」と算へる。守貞漫稿卷二十五にも、隱れん坊の鬼を定る詞、京坂「ひにふに達磨どんが夜も晝も赤い頭巾かづき通し申した」、江戶「ひにふに踏だる達磨が夜も晝も赤い頭巾かづき通した」と載す。又笑覽卷六下目隱しの戯の條に、「福富草子に、日無しどち軒の雀と云り云々。賑草に今頃は彌生の半也、軒の雀迚、外の鳥よりは人近きものに侍れども、人を怕(おそ)るゝ事少しも油斷せず、此頃は常の如く早くは逃去ず、家の内迄も入て餌を求む、子を養ひ侍る故也と有り、是れ軒の雀の義也」と見ゆ。中村君の記事の三に俵の鼠、右の田邊の舊詞にしゝ(熊野では今も鹿をしゝと呼ぶ處多し)や雀を擧げたのは、軒の雀と同例で、衆兒を是等の群棲禽獸と見立てたらしい。又田邊で「山(やーま)の山(やーま)の」と云ふ兒戯は一兒鬼と成て立つた周圍を子供多勢手を繼いで廻り行き、一齊に「山の山の庚申さん、お鍬を擔(かた)げて薯掘りに、燒てたべる迚薯掘りに、其跡に誰が有る」と唄ふ。

[やぶちゃん注:「一極めの言葉」以上の本文で述べられている通り、遊戯の「かくれんぼ」=「鬼ごっこ」の鬼を決めるための言葉を指す。本文で考証したように「いちきめ」(=「いちぎめ」)と読んでおく。

「鄕硏三卷一號三七頁參照」「選集」に編者が割注して『中村成文「選択の言葉」』とある。中村成文氏は詳細事績は判らぬが、名は「せいぶん」と読み、八王子の民俗研究家と思われる(『郷土研究』等に投稿論文が多数ある)。彼は大正四(一九一五)年には文華堂から「高尾山写真帖」を出版しており、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで画像で視認出来る。

「嬉遊笑覽」は国学者喜多村信節(のぶよ 天明三(一七八三)年~安政三(一八五六)年)の代表作で、諸書から江戸の風俗習慣や歌舞音曲などを中心に社会全般の記事を集めて二十八項目に分類叙述した十二巻・付録一巻からなる随筆。文政一三(一八三〇)年成立。私は岩波文庫版で所持するが、異なった版の国立国会図書館デジタルコレクションの「嬉遊笑覧 下」(成光館出版部昭和七(一九三二)年刊行)のここの左ページ「隱れ遊」「かくれんぼ」「目かくし」「めなしどち」と頭書する項の一部からの引用である。次ページに続き、そちらには、さらに「いちくたちく」「捉迷藏」(現代中国語でも「かくれんぼ」を指す語。ネイティブの音写は「ヂゥオー・ミー・サン」)「芥かくし」(ごみかくし)「草履隱し」「鬼ごと」「子をとろ子とろ」と頭書する。なお、岩波版と比較してみると、どうも熊楠の所持するものは、この国立国会図書館デジタルコレクションのものの表記・表現と有意に一致することが判った。

「古今夷曲集」(こきんいきよくしふ)は江戸初期の狂歌集。全十巻。生白庵行風(せいはくあんこうふう)編。自序自跋。承応元(一六五二)年の成立で、寛文六(一六六六)年に京都安田十兵衛から板行されら。聖徳太子から親王・公卿、細川幽斎・松永貞徳など古今の貴人から一般人の作者二百四十一人、歌数千五十余首を春・夏・秋・冬・賀付(つけたり)神祇・離別付羇旅・恋・雑上付物名廻文(ぶつめいかいぶん)・雑下付哀傷釈教に分類編集し、終わりに目録を添えてある。狂歌史上初の本格的撰集であり、古今の書物三十四部から作品を採録、時間的階層的に極めて広範に作品を集大成してある。同一版木(部分的な補刻はある)ながら、書名(「古今狂歌集」と改題した時期がある)や冊数を変えつつ、幕末まで重版されている(主文は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「題不知」「だいしらず」。

行安「小姬子」(こひめご)「の隱れごにさへ雜」(まじ)「らぬは最早」(もはや)「桂のは文字なるべし」国立国会図書館デジタルコレクションの活字本「古今夷曲集 万載狂歌集 徳和歌後万載集」の「卷第九 雜下」のここで確認出来る。終りの「は文字」は「恥づかし」の後半を略し、「文字」を添えたもので「恥ずかしいこと」の意の女房詞。「おはもじ」とも言う。「桂」は当初は「小姬子」を霊木「桂」の生えているとされる「かくや姫」の月世界を想起したものの、意味がとれないのでリセットし、「桂男(かつらをとこ)」で美男子のことか。「小さな女の子が『かくれんぼ』にさえ混じって遊ばないのは、可愛い男子(とのご)と一緒になるのが恥ずかしいからであろう」の意で私はとったが、以下の記載と同じく、正直、意味不明である。

「風流徒然草」豐山人(詳細不詳)撰の随筆。成立年代も不詳。

「其譯知れぬ事侍り、隱れん坊に雜らぬ者はちつちや子持や桂の葉とは子供の言ふ事也」この文章自体が「其譯知れぬ事侍り」と言わざるを得んわい。「ちつちや子持」(こもち)とは「小さな子を背負って子守をしている子」だろうか。「桂の葉」はお手上げ。何だか、ただの思いつきの物尽くしのようなもので、意味はないのかも知れぬ。以下、訳の分からぬ唱え歌の注は附さない。

「信田小太郞の淨瑠璃」元は作者不明の浄瑠璃らしいが、ここで言うのは近松門左衛門のそれ。国立国会図書館デジタルコレクションの「近松全集」第五巻に載り、その「第三 」のここが当該部。頭注もあるので、見られたい。

「楝(おふち)」ムクロジ目センダン科センダン属センダン Melia azedarach 。「栴檀」とも書くが、香木のビャクダン目ビャクダン科ビャクダン属ビャクダン Santalum album とは全くの別種である。

「辛夷(こぶし)」モクレン目モクレン科モクレン属ハクモクレン節コブシ Magnolia kobus

「桂(かつら)」ユキノシタ目カツラ科カツラ属カツラ Cercidiphyllum japonicum

「出羽庄内」現在の山形県東田川郡庄内町(しょうないまち:グーグル・マップ・データ)。

「拳」「こぶし」。

「出して」「いだして」。

「篗絨輪」岩波版「嬉遊笑覧」には『わくかせわ』とルビする。ネット検索でも書誌不詳。

「寵愛の餘り猪口」(ちよく)「迄おいとしぼ」(岩波版はここに読点を打つ)「いちくたちくに毛だらけな腕」

「千雪」以上の狂歌の作者。読み・事績不詳。

「彼の」「かの」。岩波版ルビに従った。

「二十五年前八十一歲で逝く」本篇は大正四(一九一五)年四月初出であるから、明治二三(一八九〇)年頃で、生れは文化七(一八一〇)年頃となる。

「極る」「きめる」。

「お上り」「おあがり」。

「守貞漫稿卷二十五」江戸後期の風俗史家喜田川守貞(文化七(一八一〇)年~?:大坂生まれ。本姓は石原。江戸深川の砂糖商北川家を継いだ)が天保八(一八三七)年から嘉永六(一八五三)年にかけての、江戸風俗や民間雑事を筆録し、上方と比較して考証、「守貞漫稿」として纏めた。この書は明治四一(一九〇八)年になって「類聚近世風俗志」として刊行された。但し、以前にも本書引用で誤っているのであるが、またしても熊楠の巻数「二十五」は誤りで、「卷之二十八【遊戲】」である。その『京坂ニテ「目ンナイ千鳥」江戶ニテ「目隱シ」』の条の最後の方に出る。私は岩波文庫版を所持するが、ここは国立国会図書館デジタルコレクションの写本の当該部を示す(条標題は前のコマ)。それを見て戴くと判るが、本来は数え歌である。歌の右手に「京坂」版に「一」から「十二」まで、「江戶」版に「十一」までの数字が振られてある。

「定る」「選集」では『定める』となっている。

「又笑覽卷六下目隱しの戯の條」既注の国立国会図書館デジタルコレクションのここ(左ページ三行目から)。

「福富草子」(ふくとみのさうし)は室町時代の御伽草子及び絵巻。一名「福富長者物語」とも。作者・成立年未詳。放屁の名手福富織部の術を羨み、隣りの乏少(ぼくしょう)の藤太が妻の鬼姥(おにうば)に勧められて弟子入りするが、失敗する。物羨みを諌めた風刺滑稽談。「花咲爺」の原型の一つとされる。妙心寺春浦院にある絵巻は、詞書が殆んどなく、人名も違っているが、これが原作であろう、と「ブリタニカ国際大百科事典」にあった。

「賑草」(にぎはひぐさ)京の豪商で、六条三筋町(みすじまち)の遊女吉野を落籍したことで有名な佐野紹益(屋号灰屋)の随筆。天和二(一六八二)年刊。書名は「徒然草」を意識したもの。紹益の、本阿弥光悦・烏丸光広・八条宮智忠(としただ)親王・飛鳥井雅章など当代人との風流な交流や、茶道・歌論に関わる記述が多く、江戸初期の文化を窺う格好の資料で、文章も優れている(以上は国立国会図書館デジタルコレクションの同書の版本(草書で、とても読む気にはなれないので、当該部は探さない。悪しからず)の解題に拠った。

「逃去ず」「にげさらず」。

「入て」「いりて」。

「一兒」「選集」に『ひとりのこ』とルビする。

「周圍」同前で『ぐるり』とある。

「繼いで」同前で「つないで」と読んである。

「行き」同前で「あるき」。

「燒て」同前で「やいて」。

 以下の段落は、補説で、底本では全体が一字下げとなっている。但し、「選集」では、その処理をしていない。]

 十年斗り前迄、那智山邊で、他人の所有地に入る者鍬を擔げ往き、地主に尤(とが)められたら薯蕷を掘りに來たと云ひさへすれば其で濟んだ。本文の詞に關係無いらしいが、序に述べ置く。

[やぶちゃん注:「薯蕷」「選集」は『やまのいも』と振る。自然薯(じねんじょ)=山芋=単子葉植物綱ヤマノイモ目ヤマノイモ科ヤマノイモ属ヤマノイモ Dioscorea japonica 。]

 唄ひ畢ると同時に一同步を駐め環をしたまゝ踞ると、鬼丁度自分の後に踞つた者の名を察し言ふ。言中れば宜しく、遂に言中てざれば頭や尻迄も搜つて言ひ中てしむ。扨遂に言中てた後、鬼立つて周圍の子供の頭を指し數へ乍ら、「頭の皿は、幾皿六皿、七皿八皿、八皿むいてかぶらむいて、天に帆を懸け狐袋鯛袋、庚申さんの俎板、やぐらは鬼よ」(上出江戶の「じやむじやが鬼よ」參照)と唄ひ了る時、鬼の指に中つた兒が新しい鬼と成るんだ。是よりも頗珍(すこちん)な事は、古來紀州諸方で、滿座の中で屁を放(ひ)つた本人定かに知れぬ時、同じく一極めの法もて其砲手を露はす。其時唱ふる詞和歌山でも聞たが、忘れたから田邊のを陳べると斯うだ。「屁(へー)放(へ)りへないぼ(尻に出來る腫物甚だ痛む)、放つた方へちやつと向けよ、猴の尻ぎんがりこ(胼胝(キヤロシチー)の方言)、猫の尻灰塗れ、屁放つた子は、どの子で厶る、この子で厶る、誰に中つても怒り無し」。倩(つらつ)ら案ずるに、屁を放りながら默り隱す奴は、天罰を受て臀腫るか、猴の尻の樣に堅く成るか、猫の尻の如く灰に塗るべしと脅す意ぢやらう。笑覽又云く、「隱れん坊とは異り乍ら芥隱し又草履隱し有り。何れも同じ仕方にて、一人尋る者に中りたるに、隱せし物を求め出さしむ。尋ぬる者を鬼と云ふ」云々。「甲乙次第を定むるに草履を片々脫いで之を集め、空に向ひて一度に投げ馬か牛かと言問ひ其伏仰するを言ふ也。例へば象棋の金か步かと云ひ、碁の調か半かとてする事の如し」と。田邊では左樣にせず。鬼を定むるにやはり一極めの法有り。先づ幼兒多く圈を成し、一人中に立て兒共の履物を片々集め列べ、一端より手又棒で敲き算へ唱へる言に、「じようりきじようまん、にたん處はおさごいごいよ、剃刀買うて砥を買うて、子供の頭をぢよきぢよきぢよきつと剃つてやろ、なゝやのきはとんぼ」、(和歌山では「にたん處は」の代りに「おさゝにひつからげて」、「ぢよきぢよきぢよきつと」の代りに「ぞきぞきつと」、其他は全く同じ)。此詞畢る時敲れた履物を其持主取りて穿く。幾度も斯うして一人の履物片足のみ殘る時、其持主隅に向つて眼を覆し屈み居る間に、一同彼の片足を持ち去て隱し、還れば其主探しに往く。一同は「きーぶい、きぶい(殆(あやう)い)、そこらあたりは味噌臭い」と呼び噪ぐ。扨彼の主其片足を見付け履還れば、群兒の圈の中に立て新たに戯を始め得れど、遂に探し出し能はずば知らぬと聲立つる。然る時は一同往つて見出だし吳れるのだ。又紀州に「ずいずい車」ちう兒戲が有つた。和歌山での作法は忘れて了つたが、田邊近郊神子濱に殘存する者を聞書すると、先づ小兒數人火鉢を圍んで各々其兩手を握り差出す。一人片手で順に敲きつゝ、「ずいずい車の博多獨樂、からすめひつからげてあきぐるま、あき通ればドンドコドン」と唄ひ終る時、中つた子が鬼となる。さて諸兒兩手を袖や懷の内に隱し居るを、鬼探つて悉く兩手を摑み了れば勝とす。諸兒摑まるまじと隱しまはる。鬼よりも多力なる兒の手は鬼輙(たやす)く摑み得ざるを興ずるのぢや。

[やぶちゃん注:「步を駐め」「選集」のルビに従えば、「あしをとどめ」。

「踞る」「うづくまる」。

「後」「うしろ」。

「言中れば」「いひあつれば」。言い当てれば。

「頭や尻迄も搜」(さぐ)「つて言ひ中てしむ」要するに、鬼を真ん中にして輪をなした子供らは円の外側を向いてしゃがんでいるのである。

「へないぼ」が「尻に出來る腫物」の当地の方言であることを言っている。

「猴」「さる」。

「ぎんがりこ」が「胼胝(キヤロシチー)」「の方言」だというのである。「キヤロシチー」は「胼胝(たこ)」の英語“callositas”。但し、ネィティヴの音写は「キャロシタス」。

「灰塗れ」「選集」に従うなら、「はひまぶれ」。

「厶る」「ござる」。

「誰に」「選集」に『誰(だーれ)に』と振る。

「怒り」同前で「おこり」。

「臀」同前で『いさらい』と振ってあるが、歴史的仮名遣では「ゐさらひ」。「倭名類聚抄」に載る「尻」「臀部」を指す非常な古語である。

「腫る」「はるる」。

「塗るべし」「選集」に『まみ』と振る。「塗(まみ)れるであろう」の意。

「脅す」「おどす」。

『笑覽又云く、「隱れん坊とは異」(かは)「り乍ら」、「芥隱し」(ごみかくし)「又」、「草履隱し」(ざうりがくし)「有り。……」前の国立国会図書館デジタルコレクションのここの右ページの十行目以降。

「言問ひ」「いひとひ」。

「其伏仰する」「そのふくぎやうする」。この「伏仰」は岩波文庫版では「俯仰」(ふぎやう:俯(うつむ)き仰(あお)ぐ)で、その方が腑に落ちる。

「象棋」「しやうぎ」。将棋。

「圈」「選集」は『わ』とルビする。

「中に立て」「なかにたつて」。

「兒共」「こども」。

「片々」「へんぺん」。片方を総ての謂いであろう。

「一端」「選集」によれば、「かたはし」と読んでいるようである。

「砥」「と」。実は最初は「といし」と読んでいたのだが、本篇全部の注をし終わったところで、ネットのこちらで本篇初出の抜き張りPDF)を発見した。そこに「と」と振られていた。

「なゝやのきはとんぼ」ここは、判らぬだけに、気になる。

「畢る」「をはる」。

「敲れた」「たたかれた」。

「覆し」「選集」に『覆(かく)し』とルビする。

「屈み居る間に」「選集」を参考にすると、「かがみをるまに」。

「去て」「選集」に従うなら「さつて」。

「噪ぐ」「さわぐ」。

「彼の主」「選集」に倣うなら、「かのぬし」。

「履還れば」同前で「はきかへれば」。

「圈」同前で「わ」。

「立て」同前で「たつて」。

「博多獨樂」「はかたごま」。意味はないが、グーグル画像検索「博多独楽」をリンクさせておく。

「諸兒兩手を袖や懷の内に隱し居るを、鬼探つて悉く兩手を摑み了れば勝とす。諸兒摑まるまじと隱しまはる。鬼よりも多力なる兒の手は鬼輙(たやす)く摑み得ざるを興ずるのぢや」不思議に思う若い読者のために言っておく。和服だから、どこに隠しているか、甚だ判り難いのである。

 以下の段落は底本では全体が一字下げ。「選集」ではその仕儀はなされていない。]

 (附記)右書き了つて後、田邊の町外れで今も行ふずいずい車の一法を知得た。衆兒環り坐し、各々兩手を握つて拇指の側を天に、小指の側を地に向け差し出し居ると、其一人自分の右手もて自分の左手の天の側、次に地の側、其より順次に他の諸兒の手每の天の側ばかり打き廻り、自分の番に當る時のみ左手の南側を打きて其兩手に代ふ。初め自分の左手の天の側を打くと同時に唄ひ出す詞に、「ずいずい車の博多ごま、此手を合せて合すかポン」。ポンと云ふ同時に手を打かれた子は列を退く。打き手「ポン」と同時に自身の左手の一側を打けば其一側を除き、其後他の一側を打き中つれば自分を除く。斯くて幾度も唄ひ打き廻れば、衆兒退きて打き手の外一兒のみ殘る。其一兒が鬼となり、一同の手を片端から搜り捕ふること前述に同じ。

[やぶちゃん注:「環り」「選集」は『環(めぐ)り』とルビする。

「打き」同前で「たたき」。

「退く」同前で「のく」。

「中つれば」同前で「あつれば」。]

 是等と關係無いが、作法が似た事故、又予一向書籍で見ぬ故、何かに出で居るか質問を兼ねて記すのは、今は知らず三十年ばかり前迄、大阪和歌山等で宴席に行なわれた「法師樣(ほうしさん)」ちう戯だ。明治二十年頃予三島中洲先生の息桂氏と、米國ミシガン州立農學校の寄宿舍で、密にホイスキーを購うて彼邦生れの學生と此戯を催し、其より大事件を惹起して衆人の身代りに予一人雪を踏んで脫走したのが一生浪人暮しをする事の起りで、國元へ知れたら父母は嘸や歎かんと心配したが、幸ひに雙(ふたり)乍(なが)ら知らずに終られた。三菱創立の元勳故石川六左衞門氏の息で仙石貢君の夫人の弟保馬と云人のみ其狀を親しく睹(み)たのだが、非常に沈默な君子で、六年後龍動[やぶちゃん注:「ロンドン」。]で三、四十日同棲飮遊したが、遂に一言も此事に及ばなんだは今に感佩し居る。今も健在なら讀者中に知人も多かろうから情願(どうか)御禮を述べて欲い。と序言が長いが彼遊戯はさ左迄六かしからず。酒客多人環り坐り、其一人手拭で眼を縛り居ると、他の一人が環の眞中に居て、「法師樣え、法師樣え、どこえ盃さーしましよ」と唄ひ、扨こゝかこゝかと唱へ乍ら思ひ付次第に人々を指す。假の盲法師(めくらほうし)「まだまだ」と云へば、人を指更へ、「そこぢや」と云へば指れた人が飮まねばならぬ。飮み了つて手拭を受け新たに法師と成る事前の如し。拙妻言ふには、田邊に行はれた「べろべろの神樣」と云ふ戯、趣は同じくて作法稍差ふ。環の中の一人が扇抔長い物を兩手に挾み、鼗(ふりつゞみ)(方言べろべろ太皷)の如く捩轉(よぢりまは)して、「べろべろの神樣は正直な神樣でおさゝの方へ面向る、面向る」と唄ひ了ると、同時に環坐する一人を指し誰方と問ふ、環坐せる一人眼を覆せる者、指れた人の名を言中れば、中りし者一盃呑み代わりて眼を覆すと。此戯はもと何と名付られたか大方(みなさん)の敎を俟つ。(大正四年四月鄕硏第三卷第二號)

[やぶちゃん注:『「法師樣(ほうしさん)」ちう戯だ』「選集」では「戯」に『たわむれ』と振るので、「たはむれ」と当てておく。

「明治二十年」(一八八七年)「頃……」前年の十二月二十二日に横浜から渡米の途についた熊楠は、この年の一月七日にサンフランシスコに到着、パシフィック・ビジネス・カレッジに入学したが、八月にはミシガン州ランシングの州立農科大学に転学している。以下の事件や登場する人名などは、そちらに出るものは、私の「南方熊楠 履歴書(その2) ミシガン州立大学放校の顛末」の本文及び私の注を参照されたい。

「嘸や」「さぞや」。

「石川六左衞門」実業家石川七財(しちざい 文政一一(一八二八)年~明治一五(一八八二)年)の初名「七左衞門」の誤り。元土佐高知藩士。明治三(一八七〇)年、岩崎弥太郎監督下の「大坂商会」の内偵に赴くも、その人柄に魅せられて、同会の後身「九十九(つくも)商会に入った。名を七財と改め、川田小一郎とともに岩崎弥太郎の番頭として三菱会社の創業に尽くした。明治八年に管事となり、汽船事業を統括した。死因はコレラであった。以上は概ね辞書記載からだが、「三菱グループ」公式サイトの「三菱人物伝」の「石川七財」も見られたい。

「仙石貢」(みつぐ:安政四(一八五七)年~昭和六(一九三一)年)は土佐出身で工部大学校卒の官僚・政治家だが、これ、熊楠の大勘違いではないか? 石川七財の娘というのは、調べたところ、実業家で政治家にして「東京海上火災保険」取締役会長及び貴族院議員も勤めた末延道成(安政二(一八五五)年~昭和七(一九三二)年)の妻である。ウィキの「末延道成」によれば、『妻の辰(のち田鶴子と改称)は、岩崎弥太郎の番頭として三菱創業に尽した石川七財』『の娘』(長女)で、『子はなく、妻の弟・石川保馬(七財の三男)』(☜)『の娘の夫である平井三次を養嫡子とした』とあるからである。仙石貢の妻は誰か探し得なかった。

「保馬」石川保馬の事績は以上以外には確認出来なかった。熊楠宛書簡が「南方熊楠顕彰館」にあるようである。

「云人のみ」「いふひとのみ」。

「其狀」「そのさま」。

「感佩」「かんぱい」。心から感謝して忘れないこと。

「情願(どうか)」二字への当て訓。

「欲い」「ほしい」。

「序言」「選集」では『はしがき』とルビする。

「彼」「かの」。

「さ左迄六かしからず」「さまでむつかしからず」。

「環り」「めぐり」。

「指更へ」「さしかへ」。指し変え。

「指れた」「さされた」。

「べろべろの神樣」「選集」では「樣」に『さん』とルビする。

「稍差ふ」「ややちがふ」。

「環」「わ」。

「鼗(ふりつゞみ)(方言べろべろ太皷)」(べろべろだいこ)「鼗」は音「タウ(トウ)」で、本来は中国・朝鮮・日本の太鼓の一種。「鞉」「鞀」とも書き、中国では「鞉牢」とも記した。「礼記」・「論語」などに既に記されており、漢以後、近年まで本邦の雅楽に使用されてきた。日本では「鞀鼓」と記したこともあるが、「振鼓(ふりつづみ)」、もっと判りやすく言えば、「でんでん太鼓」のことである。

「面」「選集」では『おも』とルビする。

「向る」「選集」に従えば、「むける」。

「環坐」「くわんざ」と音読みしておく。

「誰方」「選集」では『どなた』とルビする。

「覆せる」「かくせる」。

「中れば」「いひあてれば」。]

 〇地藏菩薩と錫杖 吉田美風氏は地藏の錫杖は日本で附け添へた者と說かれたさうだが(鄕硏二卷五七五頁)、其は間違であらう。予往年歐米の諸博物館で多く支那や印度や西藏(チベツト)の佛像調査を擔當したが、地藏の相好は日本のと多く異ならず、錫杖を持つたのも有つたと記臆す。書いた物を證據に引くと、宋高僧傳卷十四、百濟國金山寺眞表の傳に此人發心して深山に入り、自ら截髮して七宵の後、「詰旦、見地藏菩薩、手搖金錫爲表策、發敎發戒緣、作受前方便云々と有る。金錫は金色の錫杖に外ならずと思ふ。   (大正四年四月『鄕土硏究』三卷二號)

[やぶちゃん注:「吉田美風」不詳。「選集」に割注して『「雑報および批評」欄』とあるのみ。

「相好」仏教では特に「さうがう」と読む。仏の身体に備わっている仏たる特徴。三十二の「相」と八十種の「好」の総称である。

「宋高僧傳卷十四、百濟國金山寺眞表の傳に……」「大蔵経データベース」で校合した。「截髮」は「さいはつ」、「七宵」は「ななしやう」(七日目の夜)。訓読する。

   *

詰旦(きつたん/あくるあさ)、地藏菩薩を見る。手に金錫(きんしやく)を搖(ゆ)り、表(おもて)に策(さく)を爲(な)し、發戒(ほつかい)の緣を發敎(ほつきやう)し、受前(じゆぜん)の方便(はうべん)を作(な)す。

   *

「選集」では「表策をなし」と読んでいるが、こんな熟語は聴いたことがない。私は「策」は座禅で用いる警策のような棒を指しているのではないかと考え、片手に錫杖を、片手にそれを持って顔の面に捧げていたととった。誤りとなら、御指摘頂きたい。]

2022/07/11

多滿寸太禮卷第四 弓劔明神罸邪神事

 

  弓劔明神罸邪神事(弓劔明神(ゆつるぎのみやうじん)、邪神(じやじん)を罸する事)

 

 越中の國となみ郡(こほり)、しほの鄕(さと)に、一人の隱士あり。藤原良遠(ふぢ《はら》のよしとを)といへり。

 往昔(そのかみ)、當國の守(かみ)、藤(とう)の仲遠(なかとを)在國の間に、ある冨家(ふか)の娘に契りて、もふけたる男子(なんし)也。

 當國の任、はてゝ、上洛の折から、都の聞えを憚り、かの男子に、家重代の、「雲分(くもわけ)」と云《いふ》劔(つるぎ)と「龍牙(りうげ)」といへる弓矢を殘し、

「此の子、成人の後は、いかにも器量あらば、父を尋ぬべし。」

とて、田畠(でんぱた)數ヶ所(すかしよ)、母につけて、上洛し給へり。

[やぶちゃん注:「越中の國となみ郡(こほり)、しほの鄕」「しほ」「鹽」(後で出る)に近い地名は、古い地図も調べたが、不詳。富山県富山市塩(グーグル・マップ・データ)があるが、ここは西の砺波郡域ではない。

「藤原良遠」不詳。

「藤の」(藤原)「仲遠」平安中期に同姓同名はいる。備中守。三十六歌仙の一人藤原仲文(延長元(九二三)年~正暦三(九九二)年)の兄である。

「雲分」という「劔」は不詳。

「龍牙」という「弓」は同じく不詳。]

 幼少の比より、自余(じよ)の者にかはりて、色白く、眼(まなこ)さかしまにきれ、勢高(せいたか)く、强力(ごうりき)勇猛にして、才智、又、世に勝(すぐ)れければ、弓馬(きうば)の道に達し、岩・巖石をおとし、水に入《いり》ては水牛の勇みをなし、弓矢を執つては、楊雄(やうゆう)をあざむき、弓勢(ゆんぜい)、人に越へ、あたる所、射通(いとを)さずと云ふ事、なし。其の振舞、あたかも人倫の及ぶ事、かたし。常に遊獵(ゆふれう)を好み、山野・河海を家《いへ》とし、廿余歲の春秋(はるあき)を送れり。

[やぶちゃん注:「自余の者」同世代の他の者。

「楊雄」「水滸伝」に登場する武芸者のそれか。但し、彼は弓ではなく棒術の達人である。]

「さる者の子なれば、都にものぼり、父に對面して、世にも出《いで》給へかし。」

 と、一族、母のいさめけれども、

「父に逢はむはさる事なれども、主(しう)につかへては。心、まかせず。世にあらむは、いかでか、たが、たのしみにも、おとらむや。」

とて、只(たゞ)、明暮、獵漁(すなどり)をわざとし、年月(としつき)を送るに、すべて不思議なる事ども、多かりける。

 或る日、例のごとく、馬(むま)に打ち乘り、鹽(しほ)の山づたひに、奧山深く入《いり》ける。或は、峨々たる翠氣にのぼり、森々たる洞庭に下る。山、又、ふかく、樹の間《あひだ》は、暮るゝに似たれども、日、いまだ、かたむかず。

 爰(こゝ)に、ある谷陰に、人の吟(よ)ぶ聲あり。

「かゝる人倫まれなる深山(みやま)に、人の來べきにしも、あらず。いかさまにも獸(けだもの)のたぐひならむ。」

と、馬をはせて見しに、ちかきあたりのちがやをむすびて、露もる便りとなし、やみふせる人、あり。

 臭さ、そのほとりの草木(さうもく)にうつり、鼻をふさぎて、近か付き、これをみるに、誠に不淨の女(をんな)の病人也。

「いかなる者ぞ。」

と尋ぬれば、

「『溪民瘡(けいみんさう)』と云ふ病ひを受けて、父母《ふぼ》一族も鼻をいとひて、生きながら捨てられて候。『いかなる獸のゑじきともなり、早く命を捨てばや。』と思へども、鳥・獸さへ、臭さをいとひ、あたりへ、よらず。かひなき命を生きて、苦痛をし侍る。哀れ、殿(との)の御慈悲に、命を召してたばせ給へ。」

と、泣きかなしめば、良遠、天性、じひふかく、仁心なるものなれば、何となく哀れに覺え、

「扨、いかなる物が藥ぞ(くすり)。食(しよく)したき事は、なしや。」

と、問ひければ、

「すべて、此の病ひにふしぎの藥侍れど、父母親類も、うとみて、あたへず。」

と云《いふ》。

「何ぞ」

と、とへば、

「人の舐(した)が第一の藥にて候へども、思ひ、絕《たえ》侍る。」

と、答ふ。

 良遠、心に思ひけるは、

『夫(そ)れ、「人としては、一生に一度は、かならず人を助くる者。」と、いへり。ましてや、人として救はずむば、人倫にあらず。』

「吾、汝をすくひ得させむ。」

と、思ひ切つて、彼(かれ)が五體をみるに、針(はり)斗りの所も損ぜざる所、なし。

 されども、目をふさぎ、鼻をおほひて、胸のほどより、ねぶりければ、臭さ絕《たえ》がたけれ共(ども)、深重(しんぢう)の慈悲を以《もつて》、漸々(やうやう)ねぶりけるに、病人、忽ちに、容顏美麗の形と變じ、みどりの髮は、楊柳の風になびき、容貌端正(ずいしやう)の身となり、着たるつゞれは錦となり、臭さ、却(かへ)つて靈香(れいかう)となれり。

 時に、女性(によしやう)、良遠に謂ひて云はく、

「我れは此の山の神、龍田姬(たつたひめ)と云ふ者也。君に前生(ぜんしやう)の緣あれば、慈心の程を、猶、こゝろみ、夫婦の語らひをなして、共に有情(うじやう)を度(ど)せんと思ふなり。」

とて、山上(さんじやう)をまねき給ふに、錦を以つてかざりたる、八葉《はちえふ》の車の大きなるが、牛もなく、をのれとゆるぎ下(くだ)りて、とゞまりぬ。

[やぶちゃん注:「溪民瘡」不詳だが、この病名、沙弥玄棟(げんとう)の編に成る室町中期(十五世紀前期)に成立した説話集「三国伝記」(インド・中国・日本の説話が順繰りに配されたもので全十二巻・計三百六十話を収める)の巻二の第二十三の「玄奘三藏渡天竺事」の一節に現われ、しかもシークエンス全体が酷似している国立国会図書館デジタルコレクションの写本のこちらを元に(二行目六字目から)、推定で訓読して電子化する。

   *

 千里の長途に趣く。終(つひ)に廣遠の野原に到るに、爰に死したる人、有り。此れ臰(くさ)し。其の邊の草木も、皆、枯れ、もえたり。鼻を塞ぎて、近付きて見れば、之れ、未だ死者ならざるなり。

「何(いか)なる物ぞ。」

と問へば、

「『溪民瘡と云ふ病ひを受けて、父母(ぶも)も、鼻を臰(くさ)くして、生き乍ら捨てられ候ふなり。』

と云々。

 玄奘、『哀れ』と思ひ、

「何か、藥なる。」

と問ひ玉ふに、

「易(やす)き藥はあれ共(ども)、親類・父母も与へず。」

と云ふ。

「何ぞ。」

と問ふに、

「人の砥(ねぶ)るが㐧一の藥にて有るなり。其の外には、藥、なし。」

と云ふ。

 三藏、之れを聞き、思はく、

『不浄は誰(たれ)か備(そな)はざらん。大慈悲心を以つて、ねぶらん。』

と思ひ給ひ、彼(かれ)が五躰身分(ごたいみぶん)、針の指す計りも、損ぜざる所、無し。然(しか)れども、目をふさぎて、胷(むね)[やぶちゃん注:「胸」の異体字。]の程よりねぶり給へば、臰さ、堪へ難けれ共、深重(しんちやう)の慈悲を以つて漸(やうや)くねぶり給ふに、病人、忽ちに、金色(こんじき)の觀世音と成りて起き居(ゐ)て、云はく、

「汝は真(まこと)の聖人なり。實(げ)には『汝が心を知らん』とて、我が、病人に變じたるなり。我れに、甚深(ぢんしん)の法を持てり。是れを傅へて、一切衆生を利益し給へ。」

とて、則ち、授け玉ふ。「般若心経」、是れなり。

   *

本著者は、これをここにインスパイアしたということは、最早、明白である。

「舐(した)」既にお判りの通り、患部を他者が舌で舐めてやることを指す。]

 

Yuturugi1

[やぶちゃん注:国書刊行会の「江戸文庫」版の木越治校訂「浮世草子怪談集」(一九九四年刊)の挿絵をトリミング補正して挿入した。後の一枚も同じ。]

 

 則ち、下簾(したすだれ)をかゝげて、ともなひ入《いり》、たがひに、爰にありて、淺からぬちぎりをこめ、靈酒・佳肴、内(うち)にみちて、天上のたのしみを、つくす。

 その夜(よ)は、爰にあかしぬ。

 やうやう、しのゝめ告げわたる比、女性(によしやう)云ふやうは、

「常にもまみえたく侍れど、心にまかせぬ天帝の命なれば、又、明年のけふは、この所へ來り給ふべし。その時、又、見參(げんざん)に入《いり》さふらふべし。」

とて、別れて、夢のごとく、馬にのりて、一町斗りあゆみて、後(うしろ)をかへりみれば、雲霧、とぢて、名殘(なごり)の松風、歸るさを送る。

[やぶちゃん注:「龍田姬」本邦の秋の女神。元は龍田山の神霊で風神である。]

 此の事を母にも語るに、『不思儀なる事』に思へり。

 かゝる程に、光陰、過ぎすく、契約の日にも成りしかば、則ち、馬(むま)に乘りて、かの所にいたりぬ。

 遙かの峯を、前(さき)の車、忽然と下りぬ。

 女性(によしやう)、簾をかゝげて、良遠が手をとりて、車に伴ひ、千夜(ちよ)を一夜(よ)にかたらひ、

「君(きみ)と、すくせのきゑん、あり。天帝のゆるしを蒙り、今、こゝに、二たび、あひみぬ。此の後(のち)、ながく、まみゆる事、有《ある》べからず。我れに微妙(みめう)の呪法あり。「瞿雀明王經(くじやくみやうおうきやう)」と名づく。これを深く信受(しんじゆ)すれば、神仙の妙を得て、一切の鬼種(きしゆ)を領す。此山の未申(ひつじさる)に當つて、一つの深洞(しんどう)あり。これ、古仙(こせん)の靈窟にして、此の洞(ほら)に入《いり》て、此《この》呪(じゆ)を修(しゆ)し、練行(れんぎやう)あるべし。内證、佛智に叶ひ、外(ほか)に、通力(つうりき)自在の術を得。急ぎ、彼(か)の地に行きて、おこなひ給ふべし。」

と、念比(ねんごろ)につたへて、夜(よ)も明けぬれば、前(まへ)のごとくわかれて、忽然として消《きえ》うせぬ。

 良遠、女の敎へにまかせ、すぐに、かの洞(ほら)に入て、二度(ふたたび)人家に歸らず、ながく塵あいを隔てて、密呪(みつじゆ)を修(しゆ)し、松葉(まつのは)をぶくし、練行せしに、いつとなく飛行(ひぎやう)自在の通(つう)を得て、洞中(ほらのうち)は五色(ごしき)の苔を生(しやう)じ、門戶床下(もんこしやうか)、苔、をのづから色(いろ)をまじへ、則ち、五色の苔を衣服とし、鳥獸(とりけだもの)、菓蓏(くわくわ)を供(けう)し、二人の山神(さんしん)をかつて、隨從(ずいじう)給仕をなす。

[やぶちゃん注:「瞿雀明王經」毒蛇を食うクジャクを神格化した孔雀明王は、祈れば、一切の害毒・災厄を除くとされ、金色の孔雀に乗る四臂の菩薩形で、手にクジャクの羽・蓮の花・具縁果・吉祥果を持つ姿に描かれる。この経は孔雀明王を本尊とする修法。

「菓蓏」木の実と草の実。]

 爰に、智海(ちかい)・融性(ゆうしやう)とて、諸國斗敎(とけう)の僧ありけり。

 立山禪定して、越後へおもむくに、道を失ひ、計らずも、かの洞(ほら)に至れり。

 有髮(うはつ)の僧形(そうぎやう)、默然として、あり。

 二人、希有の思ひをなし、恭敬禮拜(くぎやうらいはい)して、暫くやどりをなす。

 傍《かたはら》に、二人の美麗の女性をみて、思はずも、染心(せんじん)の念をはつす。二女(《に》ぢよ)は、仙に申て云《いはく》、

「是れ、破戒無慙(はかいむざん)の人なり。僞りて淨境(じやうかい)に至る。吾れら、まさに身命(しんみやう)をくらはむ。」

 仙の云《いはく》、

「此事を、なす事、なかれ。二人を加護して、人間《じんかん》に送るべし。」

とあれば、二人の美女、俄かに本形(ほんぎやう)を顯はし、恐ろしき鬼神(きじん)と成《なり》て、二人を引つさげ、空(そら)をしのぎて、飛びかけり、しゆゆの間《かん》に人里に至り、則ち、投げ捨てて去りぬ。

 二人は心も消へ、氣を失ひ、良(やゝ)久しくして、よみがへり、里人に逢ふて此事を語り、みづから、ざんげ・後悔しける。

「さるにても、此山に、かゝる事、ありや。」

と尋ねとへば、

「二百年斗《ばかり》以前、藤の良遠とて、ふしぎの人、有《あり》つるが、深山(しんざん)に入《いり》て、神女に契り、二たび、出《いで》ず。遙かに、とし經て、傳へ給ひし太刀と弓とを、年比、住《すみ》給ひし屋形《やかた》の棟(むね)に、空(そら)より、立てあり。劔(つるぎ)は、常に、雲を、うづまき、弓矢は二龍(じりう)と成《なり》、屋上に、みゆる。則《すなはち》、その旧跡を改めて、新たに社檀[やぶちゃん注:ママ。]を造營し、二色(にしき)の神寶をこめて、「弓劔の宮」とて、靈驗不双(ふさう)にまします也。」

と語れば、二人の僧、信心、肝にめいじ、則《すなはち》、明神に參詣し、法施(ほつせ)を奉りて、おこたり申ける。

[やぶちゃん注:「智海・融性」ありがちな僧名であるが、仮想であろう

「斗敎」「抖擻・斗藪」(とそう) の誤字。衣食住に対する欲望を、一切、払い除けて、身心を清浄にする修行を指す。

 其後、應長の比、都七條邊に、常眞院法印周達とかや云ひし先達(せんだち)の山伏、北國の靈場を順禮しける。

 加賀・越中を廻りて、となみちかき麓を過ぎけるに、日は已にかたむき、人倫遠き山道なれば、いとゞ心ぼそきに、とある森陰より、俄かに黑雲(こくうん)たな引《びき》て、すさまじく、身の毛、しきりに、よだち、異形(いぎやう)のもの、木《こ》のまにみえて、

「其《その》法師、とりて、肴《さかな》にせよ。」

と、呼ばはる聲しければ、足をばかりに逃げけるが、あまりの恐ろしさに、跡をかへりみれば、頭《かしら》は龍のごとく、眼(まなこ)ひかり、あかき髮、そらざまに生ひ上がり、兩手をひろげて、追《おひ》かけたり。

 周達、心に「般若」を呪し、逸足(いちあし)を出して、漸々(やうやう)と、此社まで、かゝへりつき、遙かに跡をみれば、空(そら)はれ、月も、東の山のはに出ければ、やゝ人ごゝろのつきて、あたりをみれば、人家も立《たち》つらねたり。

 則ち、社檀[やぶちゃん注:ママ。]の片隅にうづくまり、夜もすがら、「心經(しんぎやう)」を誦し、法樂とし、

「かゝる邪鬼を、まぢかく住ませ給ふ事、神威、うすきに似たり。」

と、且つはうらみ、且は祈りけるが、あまりに草臥(くたびれ)ければ、拜殿に、ふしぬ。

[やぶちゃん注:「應長」ここで初めて、後半の時制が明らかとなる。一三一一年から一三一二年までで。鎌倉幕府将軍は第九代守邦親王で、執権は北条師時(時宗の猶子)・北条宗宣(おさらぎむねのぶ:大仏宣時の子。大仏家の総領)。孰れも非得宗で高時の中継ぎ。而して、前半の話の時制は平安中・後期ということになる。

「常眞院法印周達」不詳。山伏は御大層な名を名乗ることが多い。

「かゝへりつき」意味不詳。誤字か訛りか。

「法樂」誦経(ずきょう)によって神仏を慰めたと感ずること。]

 

Yuturugi2

 

  夜も、漸々(やうや)丑三(うしみつ)ころに、神殿の御戶《おんと》、

「はつ」

と、開く。

 周達、夢心ちに、

『不思儀さよ。』

と思ひ、守りいたるに、燈明あきらかに、一人の神女、御階(みはし)のもとに下り立ち、末社を、めす。

 立烏帽子に、布衣(ほい)きて、下に腹卷・太刀はいたる神人(じんにん)、四、五人、聲に應じて、庭上(ていしやう)にかしこまる。神女、

「こよひの客僧、風の森の邪鬼に追はれて、神殿に訴ふ。是のみならず、折々、人を損害す。とく、罸せられるべき所に、深く歎き申《まをす》により、宥(ゆう)めんある所に、放逸(はういつ)をふるまふ。汝等、急ぎ彼(か)の地に赴き、神罸をくはへ、誅し可(べ)き申《まをす》のむね、神勅なり。則《すなはち》、「雲分(くもわけ)」の御劔(ぎよけん)を、しばらく預け下さる。」

と、錦の袋に入《いれ》たる御劔を給はりければ、各《おのおの》御請《ぎよせい》を申《まをし》、

「つらつら」

と立《たつ》かとすれば、俄かに、雷電、へきれきして、稻妻ひらめき、風すさまじく、森のかたに、遙かに神火(しんくわ)ちらめき、戰ふ躰(てい)に見へけるが、暫くありて、五人の神人(じんにん)、鬼(おに)共《とも》、人ともしれざる、一かいあまりの頸(くび)、眼(まなこ)は、月のごとくかゝやき、血にまみれたるを、御劔につらぬき、持來《もちきた》れり。

 則《すなはち》、神女、立出て、かの首を實檢し、

「急ぎ道路に捨て置き、諸人(しよ《じん》)にみせしむべし。御劔を淸め、をのをの休息あるべし。あけなば、此客僧、送り遣はすべし。」

とて、神女は内殿に入給ふ、と、みて、夢、さめぬ。

 不思儀に有がたく、感淚をながし、禮拜(らいはい)、多羅尼(だらに)を法施(ほつせ)し奉り、社中(しやちう)をみれば、末社あまたある中に、所々、戶、ひらけたり。

 いよいよ尊(たつと)く、一社一社に奉幣し、人家に至り、里人をあつめ、ありし次第、靈夢を語れば、里人、

「あはれ、風の森の化け物、罸せられたり。」

と、悅びける。

 鄕人(さと《びと》)、あまた、かたらひて、彼《かの》森に至りてみるに、夢に見しに違(たが)はず、五體・兩手・兩足、鬼のごとくにて、身に、

「ひし」

と、毛、おひ出(いで)、熊のごとし。

 傳へきく、「狒狒(ひひ)」といへる獸(けだもの)ならむ。

 其の邊(ほとり)は、草・木・枝、さけ、土石をかへし、荒れ果てけり。

 貴賤、神威を感じ、近里遠鄕、貴敬(きけい)し奉りけり。

 周達も、修行を止め、此社内に居《きよ》をしめ、禮典・祭禮の規式(きしき)を興(おこ)し、別當と成《なり》て、神靈を崇(あが)め奉る。

 此後、ながく、わざはひ、絕《たえ》て、海道、ひらけ、諸人(しよにん)、安堵をなしけるとかや。

[やぶちゃん注:本篇は、前の話と後の話の時制が離れ過ぎていて、ちょっと構成が連関した話としては微妙に上手くないように私には感じられる。

「狒狒」大きな猿に似た幻獣。老猿が変じた妖怪ともされる。]

「南方隨筆」底本正規表現版「紀州俗傳」パート 「十二」

 

[やぶちゃん注:全十五章から成る(総てが『鄕土硏究』初出の寄せ集め。各末尾書誌参照)。各章毎に電子化注する。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(ここから。但し、標題章番号のみ。本文は次のページ)で視認して用いた。また、所持する平凡社「選集」や、熊楠の当たった諸原を参考に一部の誤字を訂した。表記のおかしな箇所も勝手に訂した。それらは一々断らないので、底本と比較対照して読まれたい。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 本篇の各章は短いので、原則、底本原文そのままに示し、後注で(但し、章内の「○」を頭にした条毎に(附説がある場合はその後に)、読みと注を附した。そのため、本篇は必要性を認めないので、PDF版を成形しないこととした。]

 

       十二、

 ○東牟婁郡色川村邊で、家に飼ふ蜜蜂に蟾蜍が附くと其害は絕えぬ。其時は蟾蜍を捉へ急流の溪水の彼岸へ投げ、「一昨日(おととひ)來い」と言うて歸れば彼物再び戾つて來ぬと云ふ。田邊ではコガネムシなど燈火を慕ひうるさく飛込み來り仕事の邪魔をする時、亦「をとゝひ來い」と云ひながら之を放ちやる。

[やぶちゃん注:「東牟婁郡色川村」「Geoshapeリポジトリ」の「歴史的行政区域データセットβ版」の「和歌山県東牟婁郡色川村」で旧村域が確認出来る。現在の那智勝浦町の北西部(グーグル・マップ・データ)。

「蟾蜍」「選集」では『ひき』とルビする。両生綱無尾目ナミガエル亜目ヒキガエル科ヒキガエルニホンヒキガエル Bufo japonicus 。ヒキガエルは動物食で昆虫全般も摂餌対象である。

「溪水」「選集」に倣うなら、『たにみづ』。

「彼岸」「ひがん」。仏教のそれを懸けるか。]

 〇田邊の古傳に、雀兩足を揃へて躍りあるかずして一足一足交互してあるく者を食ふと癩病になると云ふ。

[やぶちゃん注:「癩病」「らいびやう」。ハンセン病の旧称。差別性が強い語であるので今は使用すべきではない。因みに、にも拘らず、ハンセン病の病原体を「らい菌」と、コ公私を問わず、れっきとした文書の中で多く記載するのは甚だおかしい。「ハンセン菌」と呼称すべきである。]

 〇閏年は蠶豆一方にのみ花咲く故收穫少無しと云ふ。また云ふ、閏年には槌の子を跨げても子を產むと。閏年に人多く殖えると云ふ意だ。

[やぶちゃん注:「閏年」「うるうどし」。

「蠶豆」「そらまめ」。

「槌の子」福を授ける小槌の意かとも思ったが、幻しの怪蛇「槌の子」(野槌蛇)のことであろう。紀伊にも古く伝承がある。

「跨げても」「またげても」。]

 ○***郡**村字**の住民は舊**也。他大字[やぶちゃん注:「ほかおほあざ」。]の者**の婦女と通ずるに、女の身内火の如く熱き故、闇中にも彼字[やぶちゃん注:「かのあざ」。]と女と判ると云ふ。

[やぶちゃん注:本条は「選集」ではまるまる一条が載っていない。全体、酷く厭な差別記載であるから「全集」自体で既にカットされたものと推定される。内容が内容で、甚だ問題があるから、例外として当該地方名・地名・字名及び差別民呼称を伏字とし、これ以上の注は附さない(実際には学術資料や戦前の地図で地名の読みや場所も判ったが、注さない)。批判的視点を以って底本のここの四項目目で原文を確認されたい。

〇海草郡淸水と云ふ漁村では、漁家醵金して傀儡芝居を傭ひ興行させること每度だ。其都度木偶の首一つ失せる。之を盜むと漁利ありと信じての所爲ぢや。

[やぶちゃん注:「海草郡淸水」不詳。旧海草郡内で漁村でそれらしい地名は和歌山県海南市冷水(しみず)がある(漁港あり)ので、ここであろう(グーグル・マップ・データ)。

「醵金」「きよきん」。金を出し合って。

「傀儡芝居」「選集」ルビに倣うと、「でこしばゐ」。

「傭ひ」「やとひ」。

「木偶」同前で「でこ」。

「所爲」同前で「しわざ」。]

〇明治十三、四年頃海部郡(今の海草郡)湊村の西瓜畠を通ると、太い杭を立てた道傍に制札を設けて、「野荒し致し候者は此杭に縛り付け小便相掛くべき者也 村中」と書いてあつた。此處に限らず田畠の成り物を盜む奴を捕ふれば斯樣の杭に縛り晒し、村民大勢打寄つて、犯人の頭と云はず面と云はず、時ならぬ雨を灑ぎ掛けた風が、紀州の諸村に有つた。   (大正四年三月鄕硏第三卷第一號)

[やぶちゃん注:「明治十三、四年頃」一八八〇年から一八八一年頃。

「海部」(あま)「郡」(今の海草郡)湊村」現在の和歌山市湊で紀ノ川河口近くであるが、昔と著しく地形が異なるので、「ひなたGPS」の戦前の地図で示す。

「西瓜畠」「にしうりばたけ」。西の瓜畑という一般名詞かと思ったが、上記の地図を見ると。紀ノ川河口左岸に「藥種畑」という地名を見出せるので、これは当地で通用した固有地名であった可能性があるようにも思われる。

「道傍」「みちばた」。

「面」「つら」と読んでおく。

「灑ぎ」「そそぎ」。]

「南方隨筆」底本正規表現版「紀州俗傳」パート 「十一」

 

[やぶちゃん注:全十五章から成る(総てが『鄕土硏究』初出の寄せ集め。各末尾書誌参照)。各章毎に電子化注する。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(ここ)で視認して用いた。また、所持する平凡社「選集」を参考に一部の誤字を訂した。表記のおかしな箇所も勝手に訂した。それらは一々断らないので、底本と比較対照して読まれたい。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 本篇の各章は短いので、原則、底本原文そのままに示し、後注で(但し、章内の「○」を頭にした条毎に(附説がある場合はその後に)、読みと注を附した。そのため、本篇は必要性を認めないので、PDF版を成形しないこととした。]

  

       十一、

 ○雷の臍(鄕硏二卷一號五八頁參照) 紀州西牟婁郡西ノ谷村の小野崎稻荷祠は、數年前合祀せられてしまつた。此處に二十年ばかり前まで雷の臍と云ふ物が時々土中より出た。陶器質で其形も大さも鯔魚の心臟(俗に臼と云ふ物)ほどである。小兒等之を集めて娛樂とした。或は謂ふ、昔時此處で短い足の附いた土鍋を作つた。其足ばかり作り置き鍋に附けぬまゝ事業廢止となつて棄て埋められたのだらうと。解說は其通りとして、何故之を雷の臍と謂つたかは分らぬ。此邊で鰹の心臟を臍と云ふ。それに似て居るからの名かと愚考する。又俗話に、雷が鳴りに出行く留守を賴まれ、引出し一具を大切に片附けあるを見出だし、雷が歸りたるにより一見を望むと、一番上の引出しは人の眼、次は鼻、次は口と、臍を入れた引出しまで見せて吳れたので、今一つ殘つたのを示せと望むと、臍の下は見せられぬ。   (大正三年十月鄕硏第二卷第八號)

[やぶちゃん注:「選集」では標題「雷の臍」はゴシック太字となっている。また、「鄕硏二卷一號五八頁參照」」(この「一號」は「選集」で補った)の「參照」の前には「選集」の編者によって、割注が入り、『へいし「秋篠寺の雷の臍」』とある。『郷土研究』はバック・ナンバーが見られないので「へいし」氏は不詳で、内容も判らぬ。

「紀州西牟婁郡西ノ谷村」(にしのたにむら)「Geoshapeリポジトリ」の「歴史的行政区域データセットβ版」の「和歌山県西牟婁郡西ノ谷村」で旧村域が確認できる。現在は田辺市内。近代の地割は複雑な沿革を持っており、それはウィキの「元町(田辺市)」を見られたいが、「西ノ谷村」は本来は田辺市中心部の北西部の、紀勢本線芳養駅の東方一帯に相当し、当時は『北で芳養町、東で稲成町、南で上の山、西で明洋・芳養松原』等に接するか、そこを含むか、一部を含んだ、南の半島部も総て村域であった広域な村であった。『以前は』現在の『住居表示実施地区の上の山・目良・天神崎および古尾・明洋の各一部などを』広く『含んだが、現在は山間部のみ』に「元町」だけが『残っている』状態である。

「小野崎」(おのざき:「選集」のルビ)「稻荷祠は、數年前合祀せられてしまつた」痕跡無く、位置不明。明治政府の神社合祀政策は熊楠が、官憲に拘留までされても、その反対運動に心血を注いだもので、「神仏分離令」とともに本来の各地の伝統的信仰の崩壊と鎮守の森の致命的破壊に繋がった劣悪な政策であった。明治三九(一九〇六)年の第一次西園寺内閣に於いて内務大臣原敬によって出された勅令によって開始され、全国で大正三(一九一四)年までに実に約二十万社あった社祠の七万社が取り壊されている。政策自体は当該ウィキを参照されたいが、その問題点を的確に指摘し、熊楠についても触れておられる「講談社」公式サイト内の真鍋厚氏の記事『「八百万の神」を潰そうとした明治政府に立ち向かった男 神社が神社を弾圧した歴史があった』(全三回)がよい。また、熊楠の「神社合祀に関する意見」の原稿が「青空文庫」のこちらにある(新字新仮名)。「南方熊楠顕彰館」公式サイト内の「神社合祀反対運動」も読まれたい。

「鯔魚」(ぼら)「の心臟(俗に臼」(うす)「と云ふ物)」「心臟」は「胃」(の一部)の誤り。胃の出口に相当する幽門部が厚く著しく発達して、捌いた腹部から特異な独楽のような形をしていることから、「ボラの臍」或いは「算盤玉」と呼ばれる。或いは、後で出る「鰹の心臟を臍と云ふ」に引かれて、つい誤ったものかも知れず、また、熊楠の誤りではなく、田辺で「鯔の心臓」(こちらは正しい。ウィキの「カツオ」によれば、『鹿児島県枕崎市では、カツオの心臓は「珍子」(ちんこ)と呼ばれ、から揚げや煮付けで食べられる。静岡県焼津市ではカツオの心臓を「へそ」と呼び、おでんの具とすることもある』とある)と誤認通称したものかも知れぬ。因みに、なかなかお目にかかれないが、孰れも私の好物である。

「小兒等」「こどもら」。

「昔時」「せきじ」。

「出行く」「いでゆく」。以下、最後は熊楠好みの下ネタの落とし話。]

2022/07/10

「南方隨筆」底本正規表現版「紀州俗傳」パート 「十」

 

[やぶちゃん注:全十五章から成る(総てが『鄕土硏究』初出の寄せ集め。各末尾書誌参照)。各章毎に電子化注する。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(ここから)で視認して用いた。また、所持する平凡社「選集」や、熊楠の当たった諸原本を参考に一部の誤字を訂した。表記のおかしな箇所も勝手に訂した。それらは一々断らないので、底本と比較対照して読まれたい。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 本篇の各章は短いので、原則、底本原文そのままに示し、後注で(但し、章内の「○」を頭にした条毎に(附説がある場合はその後に)、読みと注を附した。そのため、本篇は必要性を認めないので、PDF版を成形しないこととした。]

 

       十、

 〇田邊等の俗傳に、弘法大師唐土へ麥を求めに行き、犢鼻褌の中へ隱持來る。故に今に麥に犢鼻褌有り。犢鼻褌とは麥の一面に縱の凹條あるを指す。又三月二十一日大師の命日に雨降れば、其年麥凶作と。然れども大師が麥を傳へたと云ふ事其傳記に見えず。大師前吾邦に麥有たは保食神死して腹中に稻、陰に麥と大小豆生り(書紀一)と有るで判る。范蠡作ると云ふ范子計然(淵鑑類函三九五に引く)に、東方多麥、南方多稷、西方多麻、北方多菽、中央多禾、五土之所宜也と有るから、早く日本へ渡つた物だらう。法顯傳に、竭叉國(今のラダツクとユール言へり)、其地、山寒不生餘穀、唯熟麥耳、衆僧受歲已、其晨輒霜、故其王每請衆僧令麥熟、然後受歳、又陳朝に天竺三藏眞諦が譯した立世阿毘曇論に、高流、倶臘婆、毘提訶、摩訶毘提訶、欝多羅曼陀、捨喜摩羅耶の六國の人、善持十善法、自不殺生、不敎他殺云々、其地生麥、不須耕墾、是麥成粒、無有糠糩、是其國人磨蒸爲飯、而是麥飯氣味甘美、如細蜂蜜と有りて、昔し仙人が男女二小兒を此地に伴來り、麥を示し食ふ法を敎へ、二小兒成長して夫婦と成り、子孫成長して六國を分立した事を述居るが、餘り長いから爰に全文を引得ぬ。兎に角斯迄麥を重んじたり貴んだりする國が海外に在るを聞傳へ、弘法大師のお蔭で麥を食得ると、坊主抔が大師の功德を大くせん迚言出した事かと惟ふ。

[やぶちゃん注:最初に言っておくと、以上の漢籍引用には、孰れも不具合(脱字・誤字)或いは熊楠による勝手な省略・縮約が散見された。「淵鑑類函」は「漢籍リポジトリ」の当該巻当該部([400-27a])で、二種の仏典については、「大蔵経データベース」で校合した。

「麥」コムギ・オオムギ・ライムギ・エンバクなど、外見の類似するイネ科 Poaceaeの穀物やその子実の総称であるが、単に「麦」と言った場合は、イネ科イチゴツナギ亜科コムギ連コムギ属 Triticum 或いはパンコムギ Triticum aestivum 、イネ科オオムギ属オオムギ Hordeum vulgare を指す。

「犢鼻褌」「ふんどし」。

「隱持來る」「かくしもちきたる」。

「凹條」「選集」に倣うと、「みぞすぢ」。

「大師前」「だいし、まへ」。「大師より以前に」の意。

「有たは」「あつたは」。

「保食神」「うけもちのかみ」。「古事記」には載らず、「日本書紀」の「神産み」の段の第十一の一書にのみ登場する。食物起原伝説の女神。詳しくは当該ウィキを読まれたいが、彼女の遺体の『頭から牛馬、額から粟、眉から蚕、目から稗、腹から稲、陰部から麦・大豆・小豆が生まれ』、『その種は』その年の『秋に実り、この「秋」は』「日本書紀」に『記された最初の季節である』とある。

「陰」「ほと」。外陰部。

「大小豆」「選集」のルビでは『まめあずき』。「大」が「大豆」で「まめ」(=だいづ:双子葉植物綱マメ目マメ科マメ亜科ダイズ属ダイズ Glycine max )で、「小豆」が「あづき」(マメ亜科ササゲ属アズキ Vigna angularis )。

「生り」「なれり」。

「范蠡作ると云ふ范子計然」春秋時代の越王勾践(こうせん ?~紀元前四六五年)の名軍師范蠡(はんれい 生没年不詳)が書いたとされる、彼の師ともされる同じく句践に仕えた計然と三者の問答集「范子問計然」。訓読する。

   *

「東方に、麥(むぎ)、多く、南方に稷(しよく)多く、西方に麻(あさ)多く、北方に菽(しゆく)多く、中央に禾(くわ)多し。五土の宜(かな)ふ所なり。

   *

「稷」は単子葉植物綱イネ目イネ科キビ属キビ Panicum miliaceum を、「菽」はダイズを、「禾」は現代仮名遣「か」でイネ科エノコログサ属アワ Setaria italica を指す。「五土」は「五つの地方の土壌」という実際的な適合よりも、陰陽五行説のそれらのエレメントに対応してそれぞれの食用植物が対応されてあるということを意味していよう。

「法顯傳」(ほつけんでん)はシルクロードを経由してインドに渡り、中国に仏典を持ち帰った、東晋の僧で現在の山西省臨汾市出身の法顕(ほっけん 三三七年~四二二年:)の、その求法の旅の旅行記「仏国記」(全一巻)の仏典類での別名の一つ。

「竭叉國」(かつしやこく)「(今のラダツクとユール言へり)其地、山寒不生餘穀、唯熟麥耳、衆僧受歲已、其晨輒霜、故其王每請衆僧令麥熟、然後受歳」「ラダツク」ラダック。インド北部にある地方の呼称。詳しくは当該ウィキを参照。「ユール」当てずっぽだが、イギリスの軍人で東洋学者であったヘンリー・ユール(Henry Yule 一八二〇年~一八八九年)か? 当該ウィキを見ると、一八四〇年から『インドのベンガルで軍隊に勤務し、インドの各地を旅行した』とあり、一八七五年から『亡くなるまでインド協議会(Council of India)の会員であ』ったし、中央アジアを流れるオクサス川流域の歴史地理書や、『インドにおける日常言語、歴史、地理に関する研究』書(共著)があるからである。以下、訓読する。

   *

其の地、山、寒くして、餘(ほか)の穀(こく)を生(しやう)ぜず、唯(ただ)、麥、熟(みの)るのみ。衆僧、歲(とりいれ)を受け已(をは)れば、その晨(あした)、輒(すなは)ち、霜(しもふ)る。故に、其の王、每(つね)に、衆僧をして麥を熟(みの)らしめんことを請(しやう)じ、然(しか)る後(のち)に歲(とりいれ)を受く。

   *

「陳朝に天竺三藏眞諦」(しんだい)「が譯した立世阿毘曇論」(りつせあびどんろん)「に、高流、倶臘婆、毘提訶、摩訶毘提訶、欝多羅曼陀、捨喜摩羅耶の六國の人、善持十善法、自不殺生、不敎他殺云々、其地生麥、不須耕墾、是麥成粒、無有糠糩、是其國人磨蒸爲飯、而是麥飯氣味甘美、如細蜂蜜」「立世阿毘曇論」は、西インド生まれで中国に渡来した訳経僧真諦三蔵(サンスクリット語名「パラマールタ」 四九九年~五六九年)が、古代インド仏教瑜伽行唯識学派の僧ヴァスバンドゥ(漢名「世親」 三〇〇年~四〇〇年頃)作として、四世紀から五世紀頃にかけてインドで成立したとされる部派仏教の教義体系を整理・発展させた論書「アビダルマ・コーシャ・バーシャ」を漢訳したもの。訓読する。これは原本の省略が甚だ多い。但し、記述自体はポイントを押さえてはいる。

   *

「高流、倶臘婆(くらうば)、毘提訶(びだいか)、摩訶毘提訶(まかびだいか)、鬱多羅曼陀(うつたらまんだ)、捨喜摩羅耶(しやきまらや)の六國の人、善く十善の法を持(ぢ)し、自(みづか)ら殺生せず、他をして殺さしめず」と云々。「其の地、麥を生ず。耕墾(かうこん)を須(もち)ひず。是の麥は、粒を成して、糠-糩(ふすま)の有ること無し。是の國の人は磨(ひ)き蒸して飯(いひ)と成す。而(しか)して、是の麥の飯は氣味、甘美にして、細(よ)き蜂蜜のごとし。

   *

「伴來り」「つれきたり」。

「分立」「ぶんりふ」。

「述居るが」「のべをるが」。

「引得ぬ」「ひきえぬ」。

「斯迄」「かくまで」。

「聞傳へ」「ききづたへ」。

「食得ると」「くひうると」。

「大く」「おほきく」。

「迚言出した」「とて、いひだした」。

「惟ふ」「おもふ」。]

 〇田邊の料理店抔、以前客人少なき夜、人に知れぬ樣杓子を懷中して四辻に趣き、四方を杓子で招き歸れば客人來る、但し人に知れては效無しと云た。

[やぶちゃん注:「杓子」「しやくし」。柄杓(ひしゃく)。を

「四辻に趣き」(「赴(おもむ)き」と同義)「四辻」は「辻占」で判る通り、民俗社会に於いて、あらゆる四方の気が流入する、異界へコンタクトする装置であったから、この魂振り染みた咒(まじな)いも腑に落ちる。

「來る」「きたる」。

「效無し」「選集」に『効(きき)めなし』とある

「云た」「いふた」。]

 〇燈花立た時、「丁子丁子宵丁子明日は寶の(又黃金の)入り丁子」と云て、注意して油皿の中へ落し込む(或は云く紙に裹み置く)。然る時は物多く獲と。宵の燈花を尤も貴ぶ。料理屋博徒其他の家にても吉兆とす。

[やぶちゃん注:「燈花」「選集」に倣うなら、「ちやうじ」。これは「丁子頭(ちやうじがしら(ちょうじがしら))」のこと。灯心の燃えさしの頭にできる、チョウジの実のような丸い塊りを指す語で、俗に、これを油の中に入れると貨財を得ると言われたのである。

「黃金」「こがね」であろう。

「裹み」「つつみ」。

「獲」「う」。得られる。]

 〇料理屋で煙管を指で舞すを甚だ嫌い、窃かに鹽撒いて淨む。又客の長座するを最早還さんとならば、箒を逆に立て手拭を冐せ、其で去らぬ時は茶を供ふ。又障子の下より三番目のさんに烟管を掛ける。

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「﹅」。「煙管」「烟管」(孰れも「きせる」)の混在はママ。「逆さぼうき」はよく知られるが、箒を逆さに立てて白い手拭いを被せたさまが、神主が持っている御幣(ごへい)に似ているからという由来説を読んだことがある。神頼みの撃退法というわけらしい。本当にそうかどうかは、知らない。しかし、昔から何故、手拭いを掛けるのかが不審だったので、腑には落ちた。

「舞す」「まはす」。

「淨む」「きよむ」。

「長座」「ながゐ」。

「逆に」「選集」に『逆さまに』とある。

「冐せ」「かぶせ」。「冐」は「冒」の異体字。

さん」「棧」。]

 〇瞳の色褐なる人眼を病まず、但し眼を病まば長く掛かると。

[やぶちゃん注:「褐」「選集」には『ちや』と振る。]

 〇字書いた紙で小兒の不淨を拭けば其兒字書く事拙しと。

[やぶちゃん注:「拙し」「つたなし」と訓じておく。]

 〇小兒鳶や烏見る時、「とんびとんとんとをたゝき、からすかんかんかねたゝき」と唱ふ。

 〇田邊附近神子濱の手毬唄、鄕土硏究一卷八號四九五頁に載せた田邊の者と少し差ふ。「籔の中のお金女郞、誰と寢よ迚鐵漿附けて、叔父御と寢よとて鐵漿附けて、叔父御の土產に何貰た。赤い手拭三尺と、白い手拭三尺と、奧の奧へ取置て、何時も來る長吉が、一寸持つて走つた。どこ迄走つた。京迄走つた(是より以下手毬續け樣に疾く突く。)。京ん京ん京橋々詰の、紅屋のおかさん染物は、扨も見事に好染まる。雀の小枕獨樂車、行燈車に水車、水は無い迚お宿迄、お宿長崎腰懸けて、申し申し小供衆樣、爰はナーンと云ふ處、爰は信濃の善光寺、善光寺樣へ願籠めて、梅と櫻と上げたれば、梅は酸とて惡まれて、櫻は可とて讃められた。」

[やぶちゃん注:「鄕土硏究一卷八號四九五頁に載せた田邊の者」先行する「五」章の以下。例によってアブない内容だなぁ……。

   *

「藪の中から金女郞、誰と寢よとて鐵漿つけて、お稚兒と寢よとて鐵漿付て、お稚兒の土產に何貰た、油一升に胡麻一升、手拭にせう迚布八尋、八尋の布を一段紺屋へ遣か、二段紺屋へ遣ろか、三段紺屋へ遣たれば、ズプズプ淺黃に染て來て、一かんせう二かんせう、三がん所は、おぼつきこぼつき、誠おさいた、まこ二十さいた、まこ三十さいた」(と算え進む)。

   *

「差ふ」「ちがふ」。

「鐵漿」「かね」。

「叔父御」「おぢご」。

「何貰た」「なにもろた」。「選集」を参考した。

「取置て」とりおきて」。

「何時も」「いつも」

「疾く」「はやく」。

「京ん京ん京橋々詰の」「選集」では頭の「京ん」に「京(きよ)ん」と振るので、これは「きよんきよんきよんばしはしづめの(きょんきょんきょんばしはしづめの)」と読むか。

「扨も」「選集」は『扨(さつて)も』と振る。

「好染まる」「選集」に従うなら、「ようそまる」。

「獨樂車」「こまぐるま」。

「行燈車」「選集」に従うなら、「あんどぐるま」。走馬燈のことか。

「水車」「みづぐるま」。

「小供衆樣」「選集」に従うなら、「こどもしゆさん」。

「願籠めて」「ぐわんこめて」。

「酸とて」「選集」では『酸(すい)とて』とルビする。

「惡まれて」「にくまれて」。

「可とて」同前で『可(よい)とて』。]

 〇田邊では此の次に引續け、「爺よ餅搗け、嬶よ飯たけ、鮓をせう迚、うるめを買て來たら、棚へ置いといたら、猫に引かれて、猫を追ふ迚、滑つて顚けて、鼻打つてぴしやいで、其鼻何處へ往た。夕べの風でプツプツと飛で往た。トンと云たら、お稻荷山から御水が出て來て、お萬こー袖なーがれた。まだも流そと、水と氷と、搔て流せばスツトントン」と突き唄ふ。

[やぶちゃん注:「引續け」「ひきつづけ」(て)。

「爺」「選集」は『とと』と振る。

「嬶」同前で『かか』。

「鮓」「すし」。以下でウルメイワシが出るところからは、「熟(な)れ鮓」か。

「せう迚」現代仮名遣では「しょうとて」。

「顚けて」「選集」は『顚(こ)けて』とある。

「何處へ往た」「選集」は『どこへ往(い)た』。

「プツプツ」「選集は『プップッ』と表記する。

「飛で往た」前に徴すれば、「とんでいた」。

「云たら」「いふたら」。

「お萬こー袖なーがれた。まだも流そと、水と氷と、搔て流せば」意味、全く不明。]

 〇神子濱では、「好え大根の煮いたのを、お千代樣に一切盛てやれ盛てやれ」と唱へ乍ら突き續け、最後に强く突き、疾く身を一廻り舞し、落來る毬を手の甲に受けて又突き初める。

[やぶちゃん注:「好え」「ええ」。以下唄の読みは総て「選集」を参考にした。

「煮いた」「たいた」。

「お千代樣」「おちよさん」。

「一切」「ひときれ」

「盛てやれ」「もつてやれ」。

「疾く」「はやく」。

「舞し」「まはし」。

「落來る」「おちくる」。]

 〇和歌山、田邊共に、手毬突いて上り來るを摑み手の甲に上せずに其儘突き下し、斯して突續ける時の唄、「摑も、もーも、を喰ずにお辛氣、お手で突いて、お膝で突いて、スツポンボン、一廻り」と唄ひ了ると同時に一つ舞ふ。また「摑も、もーも、を喰ずに死で、お寺で鐘撞く法事鐘、一廻り」てふ作り替も有る。

[やぶちゃん注:「上せずに」「選集」では『上(のぼ)せずに』と振る。

「突き下し」同前で『下(くだ)し』。

「斯して」「かくして」。

「突續ける」「つきつづける」。

「摑も」「つかむも」。

「喰ず」「選集」は『喰わず』。

「お辛氣」「おからけ」か。「選集」ではルビなし。

「死で」「しんで」。「選集」に従う。

「替」「選集」では『替え』。]

 〇田邊では人死すれば病中と稱へ魚類食ふ事常の如し。湯灌した後は食はず。新宮では湯灌後も食ひ、葬送出れば七日又三日魚を食はず。葬送の刹那殘る所は悉く乞食に施す。

[やぶちゃん注:「湯灌」「ゆくわん」。]

 〇鍋の尻の鍋墨に火付き赤く點じ乍ら移り步くを、富里村等で荒神樣畑を燒くと稱ふ。雨の兆だ相な。   (大正三年九月鄕硏第二卷七號)

[やぶちゃん注:「富里村」「Geoshapeリポジトリ」の「歴史的行政区域データセットβ版」の「和歌山県西牟婁郡富里村」を参照されたい。現在の田辺市のこの附近

「兆だ相な」「きざしださうな」。]

「南方隨筆」底本正規表現版「紀州俗傳」パート 「九」

 

[やぶちゃん注:全十五章から成る(総てが『鄕土硏究』初出の寄せ集め。各末尾書誌参照)。各章毎に電子化注する。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(ここ)で視認して用いた。また、所持する平凡社「選集」を参考に一部の誤字を訂した。表記のおかしな箇所も勝手に訂した。それらは一々断らないので、底本と比較対照して読まれたい。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 本篇の各章は短いので、原則、底本原文そのままに示し、後注で(但し、章内の「○」を頭にした条毎に(附説がある場合はその後に)、読みと注を附した。そのため、本篇は必要性を認めないので、PDF版を成形しないこととした。]

 

       九、

 〇長柄の橋柱(鄕硏一卷二號六四二頁參照)に其儘な話が紀州に在る。西牟婁郡岩田村に、富田川に沿ひて彥五郞堤と云ふ有り。土臺(方言シキ)の幅二十五間、頂上の幅は十間ばかり、此上にて祭の競馬をしたことがある。昔此堤度々の出水で破潰し、隣村迄も被害頻なりし故、奉行來り土地の人を集め、人柱を入れんと議決せしも、進んで當る者無し。通行の人の衣服に橫繼あらば其者を人柱とする事に定め、一々檢査せしに、彥と五郞とかくの如くなりし故人柱とせられたり。此大堤明治二十二年の洪水にて悉く潰れ了りしを近年囘復せり。水害の後搜せしも人柱の跡らしき者更に無かりしと云ふ。或は云ふ。件の二人斯る事を言ひ出して、偶自分等の衣に橫繼ありし故不得已人柱と成れりと、此邊夜通りて變死する者間々あり。近村は勿論二三里隔てたる田邊町にても、男子の衣服に橫繼を忌む。案ずるに斯る話古希臘にも有り。埃及王ブーシーリスの世に九年の大旱あり。キプルス人フラシウス年每に外國生れの者一人をゼウス神に牲せよと勸めしに、其外國生れたるを以て王先づフラシウスを牲せりと也。

    (大正三年八月鄕硏第二卷六號)

[やぶちゃん注:「選集」では標題「長柄の橋柱」はゴシック太字となっている。この一篇、本底本の各篇の中でも、特異的に、句点がしっかりと打たれているのに驚いた。熊楠は、読点で話を続けることが、甚だ多いのである。

「長柄」(ながら)「の橋柱」「選集」では編者が割注して、その論考を『川村杳樹「筬を持てる女」』とする。はいはい、川村杳樹(はるき)は柳田國男のペン・ネームの一つだ。「筬(をさ)を持てる女」は後の「巫女考」に一節として収録されている。「ちくま文庫」版全集は持っているが、新字新仮名であり、「巫女考」自体を電子化する気持ちはない。幸い、電子化されたものが、サイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は「定本柳田國男集」第九卷(新装版)一九六九年筑摩書房刊)で読めるので、そちらを参照されたい。以上の内容からお判りの通り、人柱伝説である。個人サイトらしい「大阪再発見」に「長柄の人柱」がコンパクトに纏められていて、柳田の迂遠なだらだら論考を読むよりも、手っ取り早いので、お勧めである。なお、人柱についての南方熊楠の言及論考は、私の古いサイト版電子化で大正一四(一九二五)年九月『変態心理』第十六巻三号発表の「人柱の話」(全六章。但し、「選集」底本の新字新仮名版)があり、また、その初出稿である『「人柱の話」(上)・(下) 南方熊楠(平凡社版全集未収録作品)』(こちらは、Unicode以前であるため、不全乍らも、正字正仮名版である)もあるので、そちらも未読の方は読まれたい。

「西牟婁郡岩田」(いわだ)「村」現在の西牟婁郡上富田町岩田と、その北に接する同町岡が旧村域である(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「富田川」「とんだがは」。

「彥五郞堤」現在、「彦五郎公園」として残る。サイド・パネルの「彦五郎堤防」の解説板写真を見られたい。古い写真も添えられてある。

「土臺(方言シキ)」「敷」か。

「二十五間」四十五・四五メートル。

「十間」十八・一八メートル。

「出水」「でみづ」と訓じておく。

「橫繼」「よこつぎ」。

「明治二十二年」一八八九年。

「後」「のち」。

「件」「くだん」。

「偶」「たまたま」。

「不得已」「やむをえず」。

「此邊」「このあたり」。

「埃及王ブーシーリスの世」ブーシーリスはギリシア神話上の人物。当該ウィキによれば、『エジプト王エパポスの娘リューシアナッサ』、『あるいはナイル川の河神ネイロスの娘アニッペーとポセイドーンの子』とされる。『ブーシーリスは残虐なエジプト王で、異国人をゼウスの生贄にしたが、ヘーラクレースに退治されたとされる』。『エジプト』で『長い間』、『作物が実らなかったとき』、キプロス『から予言者プラシオス』(本篇の「フラシオス」に同じ)『がやって来て、毎年ゼウスに異国人を生贄にすれば』、『作物は実ると告げた。そこでブーシーリスは』早速、『その予言者を殺して生贄とし、毎年異国人を殺してゼウスに捧げた。ヘーラクレースはヘスペリスの黄金の林檎を取りに行く冒険のときにエジプトにやって来て、ブーシーリスに捕らえられた。しかし』、『縄を引きちぎって自由となり、ブーシーリス』『を殺した』。ラテン語の著作家『ヒュギーヌス』(紀元前六四年頃~紀元後一七年)『によれば』、『予言をしたのはピュグマリオーンの兄弟の子トラシオスで、トラシオスは予言を証明するために自ら犠牲になった』。『またブーシーリスは異国人を殺し続け、それを知ったヘーラクレースはわざと捕らわれて、ブーシーリスと神官たちを殺したという』。また、紀元前一世紀に生きたシチリア島生まれの古代ギリシアの歴史家『ディオドーロスによれば、ブーシーリスはアトラースの娘たちヘスペリティスを手に入れようとし、海賊たちにさらわせた』が、『ブーシーリスは異国人を生贄にしていたため』、『ヘーラクレースに殺され』、『ヘスペリティスをさらった海賊たちもヘーラクレースに退治されたという』とある。

「大旱」「おほひでり」と訓じておく。

「牲」「選集」に倣うと、「にへ」。]

「南方隨筆」底本正規表現版「紀州俗傳」パート 「八」

 

[やぶちゃん注:全十五章から成る(総てが『鄕土硏究』初出の寄せ集め。各末尾書誌参照)。各章毎に電子化注する。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(冒頭はここ)で視認して用いた。また、所持する平凡社「選集」を参考に一部の誤字を訂した。表記のおかしな箇所も勝手に訂した。それらは一々断らないので、底本と比較対照して読まれたい。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 本篇の各章は短いので、原則、底本原文そのままに示し、後注で(但し、章内の「○」を頭にした条毎に(附説がある場合はその後に)、読みと注を附した。そのため、本篇は必要性を認めないので、PDF版を成形しないこととした。]

 

       八、

 〇田邊の人戲れに小兒をこそぐる時「一石二石三石しりしり」と言ふ、先づ「一石二石三石」と徐々遠き處よりこそぐり行き「しりしり」と急に言て喉又脇の下を襲ふ。又古老の傳に「紺屋の鼠藍食て糊食て隅こへクチユクチユクチユ」。是もクチユクチユクチユと云時急に彼所をこそぐるのだ。

[やぶちゃん注:「石」「選集」に『こく』とルビする。米の単位だが、「こそぐる」の「こ」に掛けたか。或いはくすぐられて「倒れる」ことから、その意味の「こくる」(こける)を掛けたか。

「徐々」「選集」はひらがなで『そろそろ』とする。

「言て」「選集」は『言うて』。

「傳に」同前で『伝えに』。

「紺屋」「こうや」と読んでおく。

「食て」「選集」で『食(く)て』とルビする。「くふて」ではない

「隅こ」同前で『隅(すま)こ』とルビする。「すみつこ」ではない

「彼處」同前で『彼所(かしこ)』と表記してルビする。]

 〇西牟婁郡富里村大字大内川等で、野猪を威す法、良き竹筒の一端を削り尖し底有る他端に繩を卷き中央を繩で括り、小流れ落る下に竹の尖つた端の内側を上に向つて置き、中央括つた繩を橫に流し兩側の有合ふ者に結着け繩卷た端の下にブリキ鍋等を置く。然る時は、水其筒に滿る時筒の尖端落下る水に打れ下る故筒中の水出終り筒空に成り、他の端に卷た繩の重量で其方が跳下る時下の鍋を打つ、其音終夜止ぬので野猪怪しんで近處へ來ぬ。予幼時有田郡津木村の者戲れに庚枝(いたどり)の莖で此通りの機を作り遊び居るを見た。

[やぶちゃん注:以上は所謂、「鹿威し」の実用版の解説であるが、何故か異様なほど読み難いし、「庚枝(いたどり)」の漢字表記も不審である。そこで、特異的に、まず、「選集」を参考に正字で、句読点や読みもそちらのそれを参考に、さらに勝手に私が推定で句読点・歴史的仮名遣で振り、段落を成形し(冒頭の「○」は除去した)、全部を完全に書き直してみる。太字下線のは底本本文にない有意な異なる文字であることを示す。

   *

 西牟婁郡富里(とみさと)村大字(おほあざ)大内川(おおうちがは)等で、野猪(ゐのしし)[やぶちゃん注:「選集」のルビを参考にした。]を威(おど)す法。

 良き竹筒(たけづつ)の一端(いつたん)を削り尖(とが)らし、底有る他端(たたん)に繩を卷き、中央を繩で括(くく)り、小流れ、落つる下に、竹の尖つた端(はし)の内側を、上に向けて置き、中央、括つた繩を、橫に流し、兩側の有り合ふ者に、結(ゆ)ひ着け、繩、卷いた、端(はし)の下に、ブリキ鍋等を置く。

 然(しか)る時は、水、其の筒に滿つる時、筒の尖端、落ち下(くだ)る水に打たれ、下がる故(ゆゑ)、筒中(つつなか)の水、出終(いでをは)り、筒、空(くう)[やぶちゃん注:「選集」のルビ。]に成り、他の端に卷いた繩の重量で、其の方が跳(は)ね下がる時、下の鍋を打つ。

 其の音、終夜、止まぬので、野猪(ゐのしし)、怪しんで、近處(きんじよ)へ來(こ)ぬ。

 予、幼時、有田郡津木(つぎ)村の者、戲れに虎杖(いたどり)[やぶちゃん注:漢字表記は「選集」のもの。]の莖で、此の通りの機(からくり)[やぶちゃん注:「選集」のルビ。]を作り、遊び居(を)るを見た。

   *

「富里村大字大内川」「ひなたGPS」の戦前の地図でここ、現在の中辺路町大内川はここ

「有田郡津木村」「Geoshapeリポジトリ」の「歴史的行政区域データセットβ版」にある「和歌山県有田郡津木村」で旧村域が確認出来る。現在の有田郡広川町(グーグル・マップ・データ航空写真)の東半分、広川の上流の山間部に相当する。

「庚枝(いたどり)」ナデシコ目タデ科ソバカズラ属イタドリ Fallopia japonicaだが、この漢字表記は見たことがない。「庚」と「虎」、「枝」と「杖」、見るからに、印刷所のトンデモ誤植ではなかろうか? 中文も調べたが、こんな漢字は書かない。因みに、イタドリは「スカンポ・スッカンポ」の異名がある。新芽の皮を剝いて食べ、酸っぱい味を楽しむ。私は幼時から、同じ別名を持つ、ナデシコ目タデ科スイバ属スイバ Rumex acetosa を専ら「スッカンポ」と呼び親しみ、よく齧ったものである。但し、孰れも有毒なシュウ酸由来の酸っぱさであるから、多量に摂取すると、中毒するので要注意。]

 〇西牟婁郡中芳養村の傳說に、柚實を全で味噌に漬置ば盜人入り來るを必ず知て「ゆうぞ」(言ぞ)と罵る、故に家ごとに用意すべき物と。又田邊一般に柚の鍼で腫物を刺し膿を去ば毒殘らぬと傳ふ。

[やぶちゃん注:人に組みする良い「味噌漬け柚妖怪」!

「中芳養」(なかはや)「村」旧村はここ(「ひなたGPS」)。現在は田辺市中芳養(グーグル・マップ・データ)。

「柚實」「選集」は『ゆのみ』と振る。柚(ゆず)の実。ムクロジ目ミカン科ミカン亜科ミカン連ミカン亜連 Citrinaeミカン属ユズ Citrus junos の果実。当該ウィキによれば、原産地は中国(揚子江上流)及び西域とされるが、中国から日本へは平安初期には既に伝わっていたとみられ、史書には、飛鳥時代・奈良時代に栽培していたという記載もある、とある。本邦では『古くから「柚」、「由」、「柚仔」といった表記や、「いず」、「ゆのす」といった呼び方があった』。源順(したごう)の「和名類聚鈔」(承平二(九三二)年頃)には巻十七の「菓蓏(くわら)部第二十六」(木の実・草の実類)の「菓類第二百二十一」にあり(ここは国立国会図書館デジタルコレクションの寛文七 (一六六七)年版の当該部を用い、独自に電子化した)、

   *

柚 「爾雅集注(しつちゆう)」に云はく、『柚【音「由(イウ)」。又、「以」・「臰」の反。】一名「樤」【音「條(デウ)」・和名「由(ゆ)」。】、橙(だいだい)に似て、酢(す)し。江南より出づ。「音義」に「柚」或いは「櫾(ユウ)」に作る。「山海經(せんがいきやう)」に、字、相ひ通(かよ)ふ。

   *

とある。『別名を、ユノス』『ともいう。酸っぱいことから、日本で「柚酸(ユズ)」と書かれ、「柚ノ酸」』(「ゆのす」)『の別名が生まれている』。さてそこで学名を今一度、見られたい。中国原産だが、その種小名『ジューノス(junos)は』まさしく『四国・九州地方で使われ』ている『「ゆのす」に由来する』のである。『中国植物名(漢名)は香橙(こうとう)という』。「柚子」の漢名自体は『中国での古い名だが、今の中国語で』は「柚」・「柚子」はザボン(朱欒。ブンタン(文旦)とも呼ぶ。ミカン属ザボン Citrus maxima)を指す言葉である、とある。

「全で」「選集」に『全(まる)で』と振る。

「漬置ば」「つけおけば」。

「入り來る」「いりきたる」。

「知て」「しりて」。

『「ゆうぞ」(言ぞ)』「柚」の音の歴史的仮名遣「イウ」(現代仮名遣「ユウ」)の洒落になっているのが面白い。

「罵る」「ののしる」。

「田邊一般に」「選集」では『田辺辺一般に』となっている。

「鍼」「選集」に『はり』とルビする。ユズの木の鋭い棘(とげ)のこと。

「腫物」「はれもの」。

「去ば」「さらば」。この最後の話、遠い昔、誰かかから、聴いた覚えが確かにある。亡き母か。]

 〇田邊で葬式行列に加り行く者過つて顚ると死人と共に葬らると言て甚だ凶とす。又嫁入道具を他家の葬式と共に遣るを大吉とす、行て還らぬと云ふ意だらう。去年十二月二十一日予の知人の子の葬式行列の中を突貫して以前田邊町長だつた人の娘の道具を運び笑ひ乍ら人足等往た。誠に人情外れた仕方と惟ふ。

[やぶちゃん注:「加り」「くははり」。

「過つて」「あやまつて」。

「顚る」「ひつくりかへる」。

「言て」「いふて」。「選集」は『言って』。

「行て還らぬ」「ゆきてかへらぬ」。

「人足等往た」「にんそくら、いつた」。

「誠に人情外れた仕方と惟」(おも)「ふ」確かに。甚だ不快極まりない!]

 〇小兒蠶豆の葉を息で膨し戯れとす。葉無き時小兒を欺く迚豆の葉遣ろかと言ひ欲いと答へると順次眉目喉齒を指し其所々の頭字に因んで「まめのは」と唱ふ。和歌山田邊其他でする戯だ。又田邊で小兒に敎る戯れに先づ眼二つ次第に指し「めつけん(妙見)樣へ參つて」次に鼻孔二つ次第に指し「花一つ取て」兩頰と兩耳を指して「方々へ聞へて[やぶちゃん注:「へ」はママ。]」胸と口を指し「無念に口惜し」腹と尻を指して「腹切つて尻の穴」(死んでしまうの義)。

[やぶちゃん注:「小兒」「こども」。

「蠶豆」「そらまめ」。

「膨し」「ふくらし」。

「欺く迚」「あざむくとて」。

「欲い」「ほしい」。

「敎る」「をしふる」。

「めつけん(妙見)樣」「樣」には「選集」では『さん』と振る。

「腹切つて尻の穴」「選集」では「尻」に『しん』とルビする。このルビは、ないと伝承として、頗る、まずい。]

 〇田邊近い神子濱の老人花咲叟の異態らしきを譚す、言く、昔し老翁疲れて石に腰掛て息む、猿共之を地藏の像と想ひ柹一つ宛持來り捧げたので夥く柿を得て歸る。隣りの欲深翁吾も然せんとて往て石上に腰掛る、群猿來て地藏樣尊ければ山に祀るべしとて運んで川を渡る間、「私等陰囊沾ても構はぬけれど、地藏樣の陰囊沾さぬ樣に」と繰し唱ふ、老翁可笑に堪ず笑出すと、猿共此像笑ふた笑はぬと言爭ひ、又試に唱ふると又笑ふ、依て地藏像でないと了り大に其詐を憤り山に運び行き全身を搔傷け老翁大に困んだ。

[やぶちゃん注:「選集」はかなり表記が違う。

「神子濱」何度も既出既注だが、時には再掲しよう。田辺市神子浜(みこはま:グーグル・マップ・データ)。

「花咲叟」「選集」を参考にすると、『はなさかぢぢ』。

「譚す」「はなす」。

「老翁」「選集」を参考にすると、『おやぢ』。

「腰掛て息む」「こしかけてやすむ」。

「猿」「選集」では本条は以下総てが「猴」(さる)の表字である。

「共」「ども」。

「柹」「柿」の正字。

「宛」「づつ」。

「夥く」「おびただしく」。「選集」ではひらがな。

「柿」混用はママ。

「欲深翁」「選集」を参考にすると、「よくぶかぢぢ」。

「然せん」「しかせん」。

「往て」「ゆきて」。

「石上」「いしのうへ」と訓じておく。

「私等」「選集」は『私(わし)ら』とする。

「陰囊」「ふぐり」と読んでおく。

「沾ても」「ぬれても」。

「繰し」「くりかへし」。「選集」は『繰り返し』。

「老翁」先に徴して「おやぢ」と読んでおく。

「可笑に堪ず」「選集」を参考にすると、『をかしさに堪へず』。

「笑出す」「わらひだす」。

「言爭ひ」「いひあらそひ」。

「試に」「選集」に倣うなら、「こころみに」。

「依て」「よつて」。

「了り」「選集」はひらがなで『さとり』。

「大に」「おほいに」。

「其詐」「そのいつはり」。

「搔傷け」「かききづつけ」。

「困んだ」「くるしんだ」。]

 〇又神子濱で强く風吹く時小兒等「山の天狗樣些些風お吳れ」「山の天狗樣些些風要ぬ」と唱へて走り廻る。其故を問ふと不知といふ。

[やぶちゃん注:「些些」「選集」によれば、「ちとちと」。

「要ぬ」「いらぬ」。

「其故を問ふと不知」(しらず)「といふ」前者の言上げは不審だから、熊楠はその呪文の意味を子供らに問うたのだ。しかし、「知らん」とそっけなかったのだ。実景が見えてくる、いい叙述だ。]

 ○西牟婁郡二川村大字兵生に木地屋の段と云所有り、十四五年前木地屋五六家來り此所を開き棲り、其後去て無し。阿波より出しと云特種の民で山を家とし山で生れ山で果る。言語他と異なり、木地とは灰の木、榊、水木抔割れ易き木で盆椀等に作る、又特に木地と云は

Kijisinoutuwa

[やぶちゃん注:本文中のここに図が挟まっている(「四〇一」ページの後ろから四行目下方)。底本の画像をトリミング補正した。高坏(たかつき)のような形の器である。]

此圖の如き器に餅抔を盛て神に供ふる物だ、此族神の器を作る故威高く常人木地屋と交れば威に負る迚結婚せず、其婦女美人多し、食物常人と異なり、飯を練り幣の形にし串に貫き兩面に味噌を塗り燒き御幣餅と稱へ食ふ、香味異にして旨し、此族に他人が貸た物は取れず倒し切り也。兵生を去て下川へ行り、昔は此族來れば所の者苦情言ふ事成ず、其邊の木地木を勝手に伐り木地に作りし、今は其樣事も成ず、林木を買て切り働く、此族の女常人の妻と成りたるも現に在りと兵生の西面欽一郞氏話さる。   (大正三年六月鄕硏第二卷第四號)

[やぶちゃん注:「西牟婁郡二川」(ふたかは)「村大字兵生」(ひやうぜい)何度も出ているが、再掲すると、現在の田辺市中辺路町兵生(グーグル・マップ・データ)。幾つかのネット記載は黄読みを「ひょうぜ」とするが、正しくはやはり「ひょうぜい」である。「ひなたGPS」のこちらの戦前地図も参照されたい。

「木地屋の段と云所」確認出来ない。

「十四五年前」初出年から計算すると、明治三三(一九〇〇)年か前年。

「木地屋」平凡社「百科事典マイペディア」から引く(コンマは読点に代えた)。『山中の木を切り、漆その他の塗料を加飾しない木地のままの器類を作ることを生業とした職人。木地師・木地挽』(きじひき・きじびき)『ともよばれ、ろくろを用いることから轆轤師ともいう。近江国小椋谷(おぐらだに)の蛭谷(ひるたに)・君ヶ畑(きみがはた)』(ここ。北部分が後者。グーグル・マップ・データ。以下同じ)『を本貫地とし、惟喬親王を祖神とするという伝説をもつ』(同地に「惟喬親王御陵」や、その東に同廟もある)。『良材を求めて諸国の山から山へと漂泊を続け、江戸時代にも蛭谷の筒井公文所(筒井八幡宮)』(ここ)、『君ヶ畑の金竜(きんりゅう)寺高松御所(大皇(おおきみ)大明神)』(現在の正式名称は「大皇器地祖神社(おおきみきぢそじんじゃ)」)『が発行する偽作綸旨(りんじ)の写しや武家棟梁の免状の写しを権威とし、伐採や通行の自由を主張した。しかし』、次第に『山間に土着して村生活を営むようになり、明治維新後、伝統的な木地屋社会は消滅していった。筒井公文所・高松御所は全国に散在する木地屋を』、『おのおの』、『筒井八幡宮・大皇大明神の氏子として組織し』、『綸旨や免状を発行する代りに氏子狩(氏子駆)と称して』、『なにがしかの奉加料・初穂料そのほかの儀式料を集めて各地を回った。これを記載したものを』「氏子狩帳」・「氏子駆帳」『といい、筒井八幡宮に正保(しょうほう)』四(一六四七)年から明治二六(一八九三)年に至る三十五冊、金竜寺に元禄七(一六九四)年『から明治にかけての』五十三『冊が伝わる』とある。因みに、作家澁澤龍彥の遺稿メモで、彼は、この木地師をテーマに作品を書こうとしていたことが知られる。面白い作品になったろうに、実に残念である。なお、近代まで被差別民とされてきた「サンカ」と彼らは別個な存在なので、注意されたい。

「此所」「ここ」。

「棲り」「すめり」。

「去て」「さりて」。

「阿波より出し」熊楠の勘違いであろう。或いは、そのように兵生では誤って伝わっていたものか。

「灰の木」カキノキ目ハイノキ科ハイノキ属クロバイ Symplocos prunifolia の異名。「黒い灰の木」の意で、黒は樹皮の色を指し、本種の枝葉を焼いて灰を取り灰汁(あく)を作ったことに由来する。同属ハイノキ Symplocos myrtacea もあるが、牧野富太郎は灰汁を採るクロバイをこそ「ハイノキ」と呼ぶべきであると主張している。

「榊」ツツジ目モッコク科サカキ属サカキCleyera japonica

「水木」ミズキ目ミズキ科ミズキ属ミズキ Cornus controversa var. controversa

「婦女」「選集」に拠ると読みは「をんな」。

「貸た」「かした」。

「倒し切り」借り倒して返さないこと。

「下川」(しもかは)

「行り」「ゆけり」。

「成ず」「ならず」。

「西面欽一郞氏」(にしおきんいちろう 明治七(一八七四)年~昭和三(一九二八)年)は所持する「南方熊楠を知る事典」(一九九四年講談社刊)によれば、兵生の『富豪』で、熊楠を招かれて、『四十日余り厄介にな』ったとあり、また、「南方熊楠顕彰会のスタッフブログ」の二〇一四年二月八日の記事「本日より開催!! 西面欽一郎・賢輔兄弟展」によれば、『二川村兵生(現田辺市中辺路町)の製材所を南方が植物採集のため訪れてから』(明治四三(一九一〇)年十一月か~十二月頃)『親交が深まり』、欽一郞の『弟の賢輔』ともに、『植物・民俗資料の採集、神社合祀反対運動及び復社運動(上山路村丹生ノ川の丹生神社、龍神村三ツ又の星神社)』(ここが星神社(グーグル・マップ・データ)。そこから南西三キロ弱離れた丹生ノ川(にゅうのがわ)川畔に「丹生神社」が確認出来る)『を通じて南方と文通した』。『欽一郎は、大正年間』には『上山路村長を』十三『年間務め』たとあり、兄弟ともに『日高郡上山路村大字丹生ノ川(現田辺市龍神村)に生まれ』であるとある。]

2022/07/09

「南方隨筆」底本正規表現版「紀州俗傳」パート 「七」

 

[やぶちゃん注:全十五章から成る(総てが『鄕土硏究』初出の寄せ集め。各末尾書誌参照)。各章毎に電子化注する。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(冒頭はここ)で視認して用いた。また、所持する平凡社「選集」や、熊楠の当たった諸原本を参考に一部の誤字を訂した。表記のおかしな箇所も勝手に訂した。それらは一々断らないので、底本と比較対照して読まれたい。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 本篇の各章は短いので、原則、底本原文そのままに示し、後注で(但し、章内の「○」を頭にした条毎に(附説がある場合はその後に)、読みと注を附した。そのため、本篇は必要性を認めないので、PDF版を成形しないこととした。] 

 

       七、

 〇田邊の古傳に鹽を濫用すると目潰れる、又葱を知て火に入れば命取られ、知ずに入れば目漬ると。

[やぶちゃん注:「鹽」の強毒性はよく知られる。塩のヒトのLD50値(摂取対象生物の体重1kg当たりの半数致死量(median lethal dose))は3000mgkgである。例えば、体重五十キログラムの人が一度に塩を百五十グラムを摂取すれば、五十人が死ぬ計算となる。従って一歳の乳児が小匙一杯分(五~六グラム)の食塩を摂取すると死に至る恐れがあることになる。因みに酸素も猛毒である。

「葱を知」(しり)「て火に入」(いる)「れば」ネギであることを分かっていて、焚火の中に投げ入れると。]

 〇又隔噎(かく)を病む者三毛犬(褐黑白三色の犬)を招き己が舌頭に砂糖を塗り、其犬に舐しめ其氣を吸込ば治ると。

[やぶちゃん注:「隔噎(かく)」二字への熊楠のルビ。但し、漢字表記は「膈噎」が正しく「かくいつ」と読み、それを略したもの。江戸時代、「膈」は食物が胸につかえて吐く症状や病気で、「噎」は食物が喉(のど)につかえて吐くそれを指した語。食堂狭窄症・食道癌・胃癌などが疑われる。

「褐」「選集」には『ちや』とルビする。]

 〇西牟婁郡上芳養村の俚傳に、蟹の甲に凹みし紋八一の二字如き有るは、昔し猴、柿を蟹に投付た痕だと。崎下孫七氏話す。

[やぶちゃん注:ヘイケガニ類が著しい人面模様の凹凸を生じることで知られるが、蟹類の甲のそれは内部にある内臓の位置や筋肉の付着部などで生じたものである。既出の、上芳養(かみはや)村の住人で情報提供者の若者崎下孫七が言うのであれば、河川のかなり上流まで遡上する(芳養地区は芳養川が貫流する)節足動物門甲殻上綱軟甲綱(エビ綱)真軟綱亜綱(エビ亜綱)エビ上目十脚目短尾下目モクズガニ科モクズガニ亜科モクズガニ属短尾(カニ)下目イワガニ科モクズガニEriocheir japonica のそれが、他の隆起が少なく、甲羅中央やや下に「八一の二字」(但し、「一」は「⌣」型)の凹みがあって、条件にマッチすると私は考える。]

 〇又曰く溪流又池にも腹赤き「はへ」有り、方言「あかぶと」と云ふ、昔し人有り此魚を取て炙り食はんとする所へ弘法大師來り、購ふて放つた、爾來腹焦たる跡赤いのだと。熊楠十五、六の時高野山御廟橋邊で背に串の跡如き斑點有る「はえ」を見た、傍の人言く、人が串に刺し燒く所を大師が救命し此水に放ちしより斯成たと、然し、其「はえ」は他所の溪水にも屢ば見る、上芳養村では「あかぶと」乃ち腹赤き「はえ」は雌に限ると云ふ由、畔田翠嶽の水族志に「あかもと」「あかむつ」など方言種々擧げて白ばへの雄也と有るは別物にや。日高郡上山路村殿原の谷口と云ふ字の田の中に晴明の社てふ小祠有り、此田に棲む蛭大さも形も尋常の蛭に異ならねど血を吸はず、醫療の爲捕へても益無し。莊子に、散木は斧伐を免ると云る類だ。祠側に晴明の井とて淸水有り此殿原の應行といふ所と隣大字丹生川間に晴明の淵有り、其上の道側に晴明轉してふ嶮崖有り、淵の彼方丹生川側に腰掛石有り、晴明熊野詣での砌、應行寺で駕籠に乘り丹生川の方へ行く途中、駕籠舁共其金を取んとて此崖より晴明を轉し落すに死せず、川を渡り件の石に腰掛け憩ふ、大に驚き詫入ると、晴明怒れる氣色無く望みの物を與ふべし迚金囊を與ふ、大に悅び持歸て開き見ると木の葉斗り入れ有りし由。其より晴明、笠塔山に上る、此山に馬の馬場とて長さ五六十間幅四五間の馬場如き平坦なる道有り、今に人修めざるに一切草木生ぜず、兩側に大木生並べり、誰も乘ざる白馬屢ば現じて馳行く。又鄕土硏究一卷六號三七二頁に言た通り木偶茶屋とて人偶々に露宿すれば、夜中忽ち小屋立ち人形芝居盛んに催され、晨に及び忽然消失る所有り、晴明此處に來り、笠を樹に掛け塔に擬し祈りてより其怪永く息だといふ。東牟婁郡七川村平井と云所の神林に晴明が手植えの異樹有り、誰も其名を知ず、枝を折て予に示すを見ると「おがたまのき」だつた。那智山にも晴明の遺跡色々傳ふ、古事談に晴明は俗乍那智千日の行人也、每日一時瀧に立て被打けり、先生も無止大峯行人云々と有るから廣く熊野地方を旅したかも知れぬ。

[やぶちゃん注:本条中の「はへ」「はえ」の混在はママ。漢字では一般には「鮠」を当て、歴史的仮名遣は「はえ」でよい。さて、この「はえ」であるが、広く複数の種を指す総称であり、一種に限定することは出来ない。これは、種々の電子化注でさんざん記してきたのだが、則ち、「ハヤ」類(「ハエ」「ハヨ」とも呼ぶ)で、狭義には、概ね、

コイ科ウグイ亜科ウグイ属ウグイ Pseudaspius hakonensis

ウグイ亜科アブラハヤ属アムールミノー亜種アブラハヤ Rhynchocypris logowskii steindachneri

アブラハヤ属チャイニーズミノー亜種タカハヤ Rhynchocypris oxycephalus jouyi

コイ科Oxygastrinae 亜科ハス属オイカワ Opsariichthys platypus

Oxygastrinae 亜科カワムツ属ヌマムツ Nipponocypris sieboldii

Oxygastrinae 亜科カワムツ属カワムツ Nipponocypris temminckii

の六種を指す総称と考えてよい。但し、川漁での俗称としては、もっと他の種も含むようである。漢字では他に「鯈」「芳養」等と書き、要は、

日本産のコイ科 Cyprinidae の淡水魚の中で、中型のもので細長いスマートな体型を有する種群の、釣り用語や各地での方言呼称として用いられる生物学上は曖昧な総称名

であって、

「ハヤ」という種は存在しない

のである。なお、以上の六種の内、ウグイ・オイカワ・ヌマムツ・アブラハヤの四種の画像はウィキの「ハヤ」で見ることが出来る。タカハヤカワムツはそれぞれのウィキ(リンク先)で見られたい。中には、「ここで熊楠が指示している『腹赤き「はへ」』から限定出来るのではないか?」と言われる御仁もあろうが、婚姻色を示さないタカハヤを除くことが出来るだけで、他の五種は、繁殖期のの腹部に桃色・赤色の婚姻色が出るからである。「しかし、『方言「あかぶと」』とあって、これが紀州の方言で「アカブト」と呼ぶことからは、そこから限定出来るのでないか?」と拘ってくる輩もあろう。さて、そこで私がよく紀州での魚類名の同定に使う宇井縫蔵氏の「紀州魚譜」(昭和四(一九二九)年淀屋書店刊)を見てみると、「方言」を「アカブト」として示すのは、「オイカワ」(御坊)と「カワムツ」(田辺附近・御坊)である(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの二種の記載部分。この前のページに「ウグイ」・「タカハヤ」・「アブラハヤ」があるのでこちらも読まれたい。後で必要となるからである)。しかし乍ら、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の「アカブト」の異名では、「ヌマムツ」が掲げられてあり、さらに、私自身が赤い婚姻色と言えば、一番に「桜うぐい」=「ウグイ」を想起することから、やはり、私には「アカブト」を限定することは出来ないのである。

「溪流」「選集」のルビに従えば、「たにがは」。

『昔し人有り此魚を取て炙り食はんとする所へ弘法大師來り、購」(あがな)「ふて放つた、爾來」(「選集」では『それから』とルビする)「腹焦」(こげ)「たる跡赤いのだと。熊楠十五、六の時高野山御廟橋」(「選集」に従えば、「みびやうのはし」。ここ(グーグル・マップ・データ))「邊で背に串の跡如き斑點有る「はえ」を見た、傍」(かたはら)「の人言く、人が串に刺し燒く所を大師が救命し此水に放ちしより斯成」(かくなつ)「たと』先に注意を促した「紀州魚譜」の「アブラハヤ」の補注を見られたいのだが、そこで『餘り古くよりの傳說ではないやうであるが』と断った上で、この弘法伝説を記されて、さらに、『之が高野山に一名物になつてゐる。その魚串の跡があるといふ魚は、卽ちアブラハヤであつて、生時水中を泳いでゐるとき。背鰭』が『淡黃色の斑點に見え、それが丁度魚串の跡のやうにも見えるのである。この魚は高野の玉川に限らず、普通とはいへぬが往々山間の溪流に見出される。併し土地によつてはタカハヤやカハムツを弘法大師の助けた魚といつてゐるが、これ等の背鰭も亦水中で淡黃色の斑點に見える。』と述べておられる。

「雌」(「選集」は『め』と振る)「に限る」雌にこうした婚姻色は出ないので雄の誤り。但し、誤植ではなく、恐らくは土地での誤認であろう。

『畔田翠嶽の水族志に「あかもと」「あかむつ」など方言種々擧げて白ばへの雄也と有るは別物にや』「畔田翠嶽」は「くろだすいがく」と読む。紀州藩藩医畔田翠山(寛政四(一七九二)年)~安政六(一八五九)年:本名は源伴存(みなもとともあり))で「水族志」は文政一〇(一八二七)年に翠山によって書かれた、恐らくは日本最初の総合的水産動物誌で、明治になって偶然発見され(後述)、当初の分類方法を尊重しつつ、全十巻十編に改訂された。掲載された水族(殆どが紀州で現認される魚類を対象とする)は本条二百五十七種、異種四百七十八種合わせて七百三十五種。異名を含めると、千三百十二種に及ぶ。但し、貝類は含まれない。詳しくは、私の『カテゴリ 畔田翠山「水族志」 創始 / (二四六) クラゲ』を参照されたい。国立国会図書館デジタルコレクションの明治一七(一八八四)年文会舎刊の活字本の「ハエ」の項(かなり長い)で、「アカモト」「アカムツ」は、ここの『㋩ヲイカハ』の条に出る。但し、「白ばへの雄也」と言っているのは畔田ではなく、小野蘭山の「本草綱目啓蒙」からの引用であって、熊楠の叙述はよろしくない。因みに、「シロバエ」はオイカワの異名である。

「日高郡上山路村殿原の谷口と云ふ字の田の中に晴明の社てふ小祠有り」現在の田辺市龍神村殿原(とのはら)のここに「安倍晴明社」が現存する(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。サイド・パネルの写真も見られたい。但し、これは後に移築されたものらしく、現在は道の山崖にある。ここから丹生ノ川(にゅうのがわ)を少し遡ったところに「安倍晴明所縁の地碑」があり、元はこの近くにあったものか。サイド・パネルの解説板を読まれたい。直近に「晴明淵」(グーグル・マップ・データ航空写真)もある。 

「此田に棲む蛭大さも形も尋常の蛭に異ならねど血を吸はず」水田などに棲息し、人を吸血するのは、環形動物門環帯(ヒル)綱ヒル亜綱顎(あご)ビル目ヒルド科チスイビル属チスイビル Hirudo nipponica であるが、吸血しないというからには、別種で、やはり水田などで見かけるヒル亜綱吻無蛭目チスイビル科セスジビル  Whitmania edentula であろう。セスジビルは淡水産の小型腹足類(巻貝)を捕食する。腔に顎を有するが、退化的で吸血能は持っていない

「莊子」(さうじ)「に、散木」(さんぼく)「は斧伐」(ふばつ)「を免ると云る」「荘子」の「内篇」の「人間世篇」(じんかんせい)に載る所謂、「無用の用」の一つの寓話に基づく。故事成句「樗櫟散木」(ちょれきさんぼく)として、役に立たない人物や物の喩えや自身の謙称としても用いる(「荘子」原文では「樗」は出ないが、「櫟」は出る)。この「樗」はゴンズイ(クロッソソマ目ミツバウツギ科ゴンズイ属ゴンズイ Euscaphis japonica当該ウィキに『材としての利用価値はない』とある)、「櫟」はクヌギ(ブナ目ブナ科コナラ属クヌギ Quercus acutissima 。現在は盛んに材木として使われるが、サイト「森人類の森king」の「(7)クヌギの木で家具づくりを」によれば、野生の『クヌギは材質が良くな』く、「木で無い」と『書いて「ブナ」と読んだほどだ。なぜならブナ材はすぐ腐るうえ』、『狂いやすく、材としては非常に使いにくかったのだ。だから伐採して針葉樹に植え替える拡大造林も行われた』とある)のことで、ともに材木として役に立たない木であり、そして「散木」はその「役に立たない木」の意である。原文は「中國哲學書電子化計劃」の影印本の「匠石」(しょうせき:「大工の棟梁の「石」という人物)で始まる箇所である。ちょっと原文では歯が立たないので、真野俊和氏の論文『「巨木」の話から「無用の用」まで』(『頸城野郷土資料室学術研究部研究紀要』二〇一六 年刊巻五号。「J-Stage」のこちらからPDFでダウン・ロード可能)を見られたい。「Ⅱ 櫟社の散木」(れきしゃのさんぼく)で、現代語訳に一部訓読も交えて読み易く載っている。

「祠側」「ほこらのそば」。

「晴明の井」現在は見当たらない。

「殿原の應行」(わうぎやう)「といふ所と隣」(となり(の))「大字」(おほあざ)「丹生川」(にふのがは)「間に晴明の淵有り」先に示した。なお、「應行」は「選集」では『応行寺(おうぎょうじ)』とある。しかし、確認にために戦前の地図を「ひなたGPS」で見たところ「應行」は熊楠の誤りで、「恩行司(オギヤウジ)」であることが判明した。「殿原」は、その東直近にあり、ずっと東のところに「丹生川」の地名も確認出来る。

「轉し」「選集」は『転(こか)し』とルビする。これはルビがないとちょっと読めないぞ! 熊楠先生!

「嶮崖」「けんがい」。急な嶮(けわ)しい崖(がけ)。ストリートビューで見ると、「安倍晴明所縁の地碑」の道を隔てた山側は、古くに人工的に固めたものではあるが、高い崖となっている。

「腰掛石」確認出来ない。但し、ここから南東に十一キロメートル離れた中辺路町野中地区の「とがの木茶屋」近くに、「晴明止め岩(腰かけ石)」なるものが現存することが「わかやま新報StaffBlog」のこちらの記事で判明した。そこに、『とがの木茶屋の名物おばさん(自称山婆)も、「晴明の足跡はここだけでなくもっと他にもあるはず。ちゃんと調べてもう少し力を入れて整備すべきではないか」と話しておられた』とあり、まさにその通りなわけだ!

「轉し落す」「こかしおとす」。

「詫入る」「わびいれる」。

「迚」「とて」。

「金囊」「かねぶくろ」。

「木の葉斗り入れ有りし」安倍晴明は狐の子ともされるから、いかにも有り得る話だ。

「晴明、笠塔山」(かさたふやま)「に上る、此山に馬の馬場とて長さ五六十間」(九十一~百九メートル)「幅四五間」(七メートル強から九メートル)「の馬場如き平坦なる道有り、今に人修めざるに一切草木生ぜず、兩側に大木生」(おひ)「並べり、誰も乘」(のら)「ざる白馬屢ば現じて馳行」(はせゆ)「く。又鄕土硏究一卷六號三七二頁に言」(いふ)「た通り木偶茶屋」(でこぢやや)「とて人偶々」(たまたま)「に露宿」(「選集」は『のじゆく』と振る)「すれば、夜中忽ち小屋立ち人形芝居盛んに催され、晨」(「選集」は『あけ』と振る)「に及び忽然消失」(きえうせ)「る所有り、晴明此處に來り、笠を樹に掛け塔に擬」(ぎ)「し祈りてより其怪永く息」(やん)「だといふ」「笠塔山」はここ(グーグル・マップ・データ航空写真)。安倍晴明社の南東二・五キロほど。拡大してみると、山頂に電波中継基地があって細長く禿げているのだが、ここらが何だかいかにも、ここに言う馬場みたいに見えるのは不思議じゃないか!?! ある山行サイトの記事には、塔山登山口に晴明由来の小さな祠が祀られているともあった。「鄕土硏究一卷六號三七二頁に言た通り木偶茶屋とて……」は「四」の『〇其近所に笠塔といふ高山が有る。實に無人の境だ。其山に木偶茶屋と云ふ處有り、夜分狩人抔偶ま野宿すると、賑はしく人形芝居が現ずる由。』を指す。「笠を樹に掛け塔に擬し祈りてより」「笠を一本の木の頂きに被せて、神聖な塔(ストゥーパと言いたいところだが、彼は陰陽師なのでかく言った)に擬えて祈った」という笠塔山命名伝承というわけである。「わかやま新報StaffBlog」の「晴明笠塔山伝説」の記事も参照されたい。

「東牟婁郡七川」(しちかは)「村平井」「七川」は現在の東牟婁郡古座川町(こざがわちょう)の七川(しちかわ)地区(グーグル・マップ・データ。以下同じ)だが、「平井」はそこに接する別地域となっている。ここ

「神林」前記の現在の平井地区に「井ノ谷神社」があり、なにげにサイド・パネルの写真を見たら、「井ノ谷神林 矢倉神社」とペイント書きした木の写真があって、びっくらこいた(神社らしい建物はないので、矢倉神社は現在の管理社と思われる)。

「晴明が手植えの異樹有り」不詳。現存しない模様。

「おがたまのき」モクレン目モクレン科モクレン属オガタマノキ節オガタマノキ Magnolia compressa当該ウィキによれば、『本州の関東中南部以西(千葉県以西)の太平洋岸と四国、九州、南西諸島から台湾に分布』し、『丘陵帯から山地帯下部の林地に生育する』とある。特に稀な樹木ではない。『和名の「オガタマノキ」は、神道思想の「招霊」(おぎたま)から転化したものといわれ』、『神社に植えられたり、神前に供えられたりする』。『日本神話においては、天照大神が天岩戸に隠れてしまった際に、天鈿女命』(あめのうづめのみこと)『がオガタマノキの枝を手にして天岩戸の前で舞ったとされる』。『神社によく植栽され、神木とされたり』、『玉串として使われた』とある。

「那智山にも晴明の遺跡色々傳ふ」「旧史跡 晴明橋の石材」が残る(グーグル・マップ・データ)。サイド・パネルの解説板を見られたい。

「古事談」は源顕兼の編になる鎌倉初期の説話集。全六巻。建暦二(一二一二)年から建保三(一二一五)年の間に成立した。「王道・后宮」・「臣節」・「僧行」・「勇士」・「神社」・「仏寺」・「亭宅・諸道」の六篇に分類された上代から中古の四百六十一話を収める。文体は和製の漢文体・仮名交り文など、多様で、どの説話も短文であり、資料からの抄出が多い。「続日本紀」・「往生伝」・「扶桑略記」・「江談抄」・「中外抄」などの記録や談話録に取材している。「佛教大学図書館デジタルコレクション」のこちらの嘉永六(一八五三)年の版本の24コマ目を見られたい。これ、少しく読み難いので、カタカナをひらがなに代え、岩波の「新日本古典文学大系」版を参考に読み下し(カタカナはひらがなに代えた)、異体字漢字を書き変え、読みなど添えて、書き換えた。後に続く話は那智とは無関係だが、私の非常に好きな晴明説話(上手いこと言いおるわいと憎くなる面白い話)なので、電子化する。

   *

 晴明は、俗(ぞく)乍(ながら)、那智千日[やぶちゃん注:那智千日籠(せんいちろう)の山籠(やまごもり)の行(ぎょう)のこと。それ以外に「瀧籠」もある。]の行人(ぎやうにん)なり。毎日、一時(いつとき)、滝に立ちて打たれけり。前生(せんじやう)[やぶちゃん注:熊楠は「先生」とするが、そう書かれた別本もある。岩波版がまさにそれである。]も止(や)むごと無き大峰(おほみね)の行人、と

 花山院在位の御時(おほんとき)、頭風(づふう)[やぶちゃん注:頭痛。変人で色情狂でもあった花山院は大の頭痛持ちとして知られていた。]を病(や)ましめ給ふ。雨気(うき)の有る時は、殊に発動して、為(せ)む方(かた)を知り給はず、種々の井醫療、更に驗し無しと。爰(ここ)に晴明朝臣(あそん)、申(まを)して云はく、

「前生(せんじやう)は止むごと無き行者(ぎやうじや)にて御坐(おはしま)しけり。大峰の某宿(ぼうしゆく)にて入滅す。前生の行德(ぎやうとく)に答へて、天子の身に生まると雖(いへど)も、前生の髑髏(どくろ)、巖(いは)の介(はざま)に落ち、はさまりて候ふが、雨気には巖ふとる物にて、つめ候ふ間(あひだ)、今生、此くのごとく、痛ましめ給ふなり。仍(よ)りて御療治に於いては叶(かな)ふべからず。御首を取り出だして廣き所に置かるれば、不定(ふぢやう)に[やぶちゃん注:恐らくは。多分。]平癒せしめ給ふか。」

とて、

「しかじかの谷底。」

と、をしへて、人を遣はして見せらるゝ処(ところ)、申状(まをしでう)、相違無し。首を取り出だされて後(のち)、御頭風、永く平癒し給ふ、と

   *

ちゃんと古い髑髏を事前にその岩の亀裂に投げ込んでおく用意周到と、それを信じ込ませてプラシーボ効果で一時的にでも花山院の頭痛を止めたという心理戦が、これ、憎いのである。]

 〇鄕土硏究へ間(まゝ)寄書する田本仁七氏の母の話しに、五十年程前、當郡三栖村の或家へ道者來宿し、立去に臨み宿の主婦の懇待に酬るとて、大峯四所權現あびらうんけん娑訶と呪を敎へてくれた。主婦之を大麥四升五合油うんけん娑訶と誤り覺えて行ふに諸病悉く治る、信徒麕至して三年斗り大流行だつた。其後道者復來り主婦が咒を誦するを聽き正誤す、正誤通り誦し始めてより一向效驗無く患者來訪せぬ事と成たと、語つた人の名迄擧たが閑田耕筆にもあびらうにけん娑訶[やぶちゃん注:「うにけん」はママ。「選集」も同じ。]を油桶と誤り誦して效驗灼然かつたが正誤して後は一向利かなんだと有たと記憶する。

[やぶちゃん注:「田本仁七」不詳。但し、「日文研」の「怪異・妖怪伝承データベース」の田本氏の話は採集地を田辺とすること、熊楠が彼の母から採取した話も、その舞台の三栖村(みすむら)は旧西牟婁郡のこの三栖地区(グーグル・マップ・データ。現在は上・中・下に分かれる)であるから、その周辺の出身であろう。

「立去に」「たちさるに」。

「酬る」「むくいる」。

「大峯四所權現あびらうんけん娑訶」「おほみねししよごんげんあびらうんけんそわか」。「大峯四所權現」は奈良県吉野郡天川村にある修験道の寺院大峯山寺(おおみねさんじ)で本尊は金剛蔵王権現だが、「四所」という「四」の名数は不明。同寺を管理する「護持院」は五寺である。「あびらうんけん」は小学館「日本大百科全書」に拠れば、真言密教に於ける胎蔵界大日如来の真言。サンスクリット語「ア・ビ・ラ・フーム・カン」の音写。漢字表記は「阿毘羅吽欠」で「あびらうんきゃん」とも読む。五字からなるので「五字明」(ごじみょう)、「五字呪」(ごじじゅ)とも呼ぶ。真言密教では大日如来を宇宙の本体そのものとし、大日如来を胎蔵法ではこの真言で示し、これは宇宙の本体を構成する五要素の象徴である地水火風空の五大を総合的に纏めたものであり、この真言を誦し続けることにより、宇宙の本体たる大日如来と一体となることができるとする、とある。「娑訶」もともとは「娑婆」と同義。原語はサンスクリット語の「サハー」とされ、「索訶」(さくか)とも訳される。「サハー」は、本来は「大地」を意味するが、釈尊がこの大地の上に生まれたことから「釈尊の世界」「この世」の意味になったと考えられている(平凡社「世界大百科事典」の「娑婆」の解説に拠った)。

「大麥四升五合油うんけん娑訶」「おほむぎししやうごんごうあぶらうんけんそわか」。

「麕至」「きんし」。悉くある状態に至ること。ここは病気平癒。「麕」は原義は鹿の一種であるノロを指すが、その習性からか、「集まる・群がる」の意となり、ここはそれ。

「復來り」「またきたり」。

「名迄擧たが」当該婦人の「名まで、あげたが」。

「閑田耕筆」伴蒿蹊(ばんこうけい)著で享和元(一八〇一)年刊。見聞記や感想を「天地」・「人」・「物」・「事」の全四部に分けて収載する。しかし、所持する吉川弘文館随筆大成版で二度縦覧したが、「あびらうにけん娑訶を油桶と誤り誦して效驗灼」「然かつたが正誤して後は一向利かなんだ」という話は見当たらなかった。発見したら、追記する。]

 〇海上で波高く至る時、オイオイオイオイと呼ぶと鎭まる、風烈しき時も然りとて大聲で喚くを去年も自ら聞た、呼ぶと鎭まるで無く、鎭まる迄呼ぶのだ。

[やぶちゃん注:底本は「オイ」ではなく、「クオ」で踊り字「〱」が三つ続く。「選集」の方をとった。一つは「クオ」では発音し難いからである。]

 ○四十年前餘五六歲の時遊びに出て一寸怪我し歸ると今は亡き父母が親の唾親の唾と呪して唾を其所に塗た、又打傷有ばチンコの呪ひチンコの呪ひと誦して其所を揉だ。

[やぶちゃん注:「親の唾親の唾」は「選集」に拠った。底本では「親の唾々」でとても読めないからである。

「揉だ」「もんだ」。]

 〇巨蜂に螫れて水飮めば死すといふ。

[やぶちゃん注:「巨蜂」「おほばち」。スズメバチの類であろう。

「螫れて」「さされて」。]

 〇西牟婁郡富里村大字大内川の小兒螳蜋見れば、「拜み拜まにや此道通さぬ」と云ふ。莊子に、螳蜋怒臂以拒車轍、不ㇾ知不ㇾ勝ㇾ任也。韓詩外傳に齊の莊公出獵せしを螳螳蜋足を擧て其輪を搏んとす、御者其力を量らず輕々しく敵に就くを笑ひしに、公此天下の勇虫たりとて、車を回し之を避しかば天下の勇士公に歸したと有る。大内川の傳は之と反對で、螳蜋が人を拜まにや人が螳蜋の進行を止むると云のだ。此虫ほど廣く俗傳迷信の所據と成る虫恐く無るべく古希臘で之をマンチス(占者)と呼び今も佛蘭西のラングドク地方の小民、之を拜神者《プレカ・デオリ》と名づけて神物とし、土耳其人アラビヤ人は其常に聖地メツカに向ひ拜む由を信ず、ヌジア人亦之を尊び、ホツテントツト人は此虫人の衣に留るは其人神惠を得大幸有る徵也と傳ふ(大英類典十一板十七卷六〇六頁、バルフオール印度事彙、三板二卷八五四頁)。本草に此虫に食せて疣を療する事を載せ、和名鈔に螳蜋和名イボムシリ本草啓蒙にイボムシ、イボサシ、イボジリ、イボクヒ、カマキリテウライ等の方言を擧ぐ、埤雅に此虫葉を執て身を翳し蟬を捕へ食ふ、其葉を得た人は自分の形を隱し得とある。田邊に近き神子濱では之を「かまんど」(鎌人の意か)と稱へ煎じ若くは燒て服すれば脚氣を治すと云ふ、此他に本邦で螳蜋に關する俗傳有るを知ず、若し有ば敎示を乞ふ。和歌山市でも此虫を「拜めとうろう」と呼ぶ人有るも、たゞ其姿勢の形容迄にて歐州の如く神を拜む等の說無き者の如し。

[やぶちゃん注:「西牟婁郡富里村大字大内川」(おおうちがは)既出既注だが、再掲しておくと、「ひなたGPS」の戦前の地図でここ、現在の中辺路町大内川はここ(グーグル・マップ・データ)。

「螳蜋」「かまきり」。

「莊子」(さうじ)「に、螳蜋怒臂以拒車轍、不ㇾ知不ㇾ勝ㇾ任也。」「荘子」の「内篇」の「人間世篇」(じんかんせい)に載るお馴染みの「蟷螂の斧」の喩えの一節。但し、「拒」は「當」(当たる)が正しい。「螳蜋(たうらう)、臂(ひぢ)を怒らし、以つて車轍(しやてつ)を拒む。任に勝(た)へざるを知らざるなり。」。

「韓詩外傳」前漢(紀元前二〇二年~紀元後二二〇年)の韓嬰(かんえい 生没年未詳)による書物である。さまざまな事柄や故事を記し、関連する「詩経」の文句を引いて説明したもので、説話集に近い。現行本は全十巻。

「齊の莊公」春秋時代の斉の第二十五代君主荘公光(在位:紀元前五五三年~紀元前五四八年)。当該ウィキに彼を押し上げた宰相の妻と、彼が密通し、殺害されたしょぼい臭い死と、この「蟷螂の斧」の話、及び、彼の死に際し、それで忠誠を誓った多くの勇士が戦って死んだことが一緒に記されてある。

「搏んとす」「うたんとす」。

「此天下の勇虫たり」「これ、てんかのゆうちうたり」。

「回し」「めぐらし」。

「避しかば」「さけしかば」。

「止むる」「とむる」。

「所據」「よりどころ」。

「恐く無るべく」「おそらくなかるべく」。

「佛蘭西のラングドク地方」フランス南部の地方名ラングドック(Languedoc)。位置は当該ウィキの地図を見られたい。

「拜神者」「選集」では『プレカ・デオリ』と振る。引用元「大英類典十一板十七卷六〇六頁」は熊楠御用達の「エンサイクロペディア・ブリタニカ」(Encyclopædia Britannica)のことで、「Internet archive」のこちらで同版を見つけたので、確認したところ、ここで、そこに“Prega-Dieuprie-Dieu)”とあるのが、その綴りである。前者は地方語のようで、括弧内の「prie」は「祈る」、「Dieu」は「神」の意である。音写すると「プゥリー・ジュゥ」となる。熊楠はフランス語が苦手であったか、「Dieu」の音写がおかしい。

「土耳其人」「トルコじん」。

「ヌジア人」上記原本に“Nubia”とある。“Nubian”。ナイル川の第一急流から上流のハルツームに到る、古来、「ヌビア」と呼ばれてきた地域の住民(グーグル・マップ・データ)。

「ホツテントツト人」(Hottentot)現在でも私より上の人々はかく呼んでいるが、差別用語であるので、厳に慎むべきである。現在は「コイコイ人」と呼ばれる。南アフリカ共和国からナミビアの海岸線から高原地帯及びカラハリ砂漠などに居住している民族。詳しくは当該ウィキを参照されたい。

「留る」「とまる」。

「神惠」「しんけい」。神の恵み。

「徵」「しるし」。

「バルフオール印度事彙、三板二卷八五四頁」スコットランドの外科医で、インドの先駆的な環境保護主義者であったエドワード・グリーン・バルフォア(Edward Green Balfour 一八一三年~一八八九年)が一八五七年に刊行した‘The Cyclopaedia of India and of Eastern and Southern Asia’ (インドと東アジア及び南アジアの百科事典)のこと。原本の当該部は「Internet archive」のここ

「本草」本邦の本草学のバイブルである明の李時珍の「本草綱目」。当該部は「和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 螳蜋」が引いているので、参照されたい。

「食せて」「くはせて」。

「和名鈔に螳蜋和名イボムシリ」「和名類聚鈔」の巻十九の「虫豸部第三十一」「虫豸類第二百四十」のここ(国立国会図書館デジタルコレクションの版本)。

   *

螳蜋(いぼむしり)【螵蛸(をゝちかふくり)。附(つけたり)。】「兼名苑」に云はく、『螳蜋【「堂」・「郎」の二音。】。一名は「蟷蠰」【「當」・「餉(シヤウ)」の二音。和名「以保無之利」。】。螵蛸【「飄」・「宵」の二音。】一名「䗚蟭」【「愽」・「焦」の二音。和名「於保知加不久里」。】螳蜋の子なり。』と。

   *

この附録の「螵蛸(をゝちかふくり)」というのは、「おほぢがふぐり」で、「老人の陰嚢(ふぐり)」の意、則ち、カマキリ類の 卵鞘(らんしょう)を指す。謂い得て妙!

「本草啓蒙にイボムシ、イボサシ、イボジリ、イボクヒ、カマキリテウライ等の方言を擧ぐ」「重訂本草綱目啓蒙 」の四十八巻「蟲之一」のここ

「埤雅」(ひが)は北宋の陸佃(りくでん)によって編集された辞典。全二十巻。主に動植物について説明してある。

「執て」「とつて」

「翳し」「かくし」。

「知ず」「しらず」。]

 〇上芳養村で梟家に近く鳴ば家内に病人生ずと言ふ。

[やぶちゃん注:「鳴ば」「なかば」。]

 〇田邊邊で桑木で瓢の形作り小兒に佩しめると麻疹傳染ずといふ。

[やぶちゃん注:「瓢」「ひさご」。瓢箪(ひょうたん)。

「佩しめる」「おびしめる」

「麻疹」「はしか」、

「傳染ず」「うつらず」。]

 〇日高郡由良村邊にて、家のあたりに柚を樹るを忌む。又柚で擂木製れば化ると言ふ。昔し野猪番する翁小屋に居守ると每夜其老妻來り野猪來たかと問て止ず、家に歸て呵ると昨夜外出せずと答ふ、翁業腹を煮し、次記回に來ば射殺すべしと言ふに嫗可しと答ふ。扨又の夜復來つたから射留めて視れば自分の家の柚木製の擂木だつた。

[やぶちゃん注:「日高郡由良村」現在の日高郡由良町(ゆらちょう)。

「柚」ムクロジ目ミカン科ミカン属ユズ Citrus junos

「樹る」「ううる」。

「擂木」「すりこぎ」。

「製れば」「つくれば」。

「化る」「ばける」。

「野猪」「選集」は二字に『しし』とルビする。

「翁」「選集」に従うなら、「おやぢ」。

「居守る」「ゐまもる」。

「野猪」「選集は『しし』と振る。

「止ず」「やまず」。

「呵る」「しかる」。

「煮し」「にやし」。

「次回」「選集」は二字に『つぎ』とルビする。

「嫗」「あふな」或いは「ばば」。

「可し」「よし」。]

 〇由良村邊で栗鼠は强き者で犬も困ると云ふ。其樣子を聞くに尋常の小き栗鼠に非ず、大なる種「をかつき」の事だ。西牟婁郡二川村大字兵生で聞たは、栗鼠は魔物で一疋殺さば殺した邊り栗鼠だらけに現はる、斯く魔術心得た物故同地方で聞た猴退治の話(鄕硏一卷三號一七〇頁)にも栗鼠を山伏とし居るのだと云ふ。予深山で栗鼠に遇し事何度と云を知ぬが、餘り人を畏るゝ體見えず、追へば樹を繞りて登り忽ち枝上に坐して手を合せ祈念するの狀を爲す、是より斯る迷信を生じたゞろ。加之に尾を負て頭に戴く狀亦山伏が笈を負ひ巾を冒くに似たり。松屋筆記九五に高忠聞書上に射まじき鳥の事鶯鵄梟木菟鶺鴒庭鳥木鼠鼯鼠鷹の事は不及申此鳥共をば射まじき也。木鼠を射ぬ故は聖武天皇鐵城を破り開たる其謂れにて射まじきに被定置たる也云々。此故事詳かに知れぬが兎に角昔より殺すを憚つた動物の中に木鼠乃ち栗鼠が有たのだ、栗鼠齒勁くして鐵の如し、故に鐵網を用ひずば樊を嚙破て去ると倭漢三才圖會三九に見える、從つて何かの法で鐵籠を破て去ると云ふ話も有たのだらう。龍樹大士の大智度論第卅三に、菩薩作一鳥、身在林中住。見一人於深水、非人行處、爲水神所ㇾ羂、水神羂法、著不ㇾ可ㇾ解、鳥知解法、至香山中、取一藥草、著其羂上、繩卽爛壞、人得脫去。猶太の古傳にナツガーツラ鳥麥粒大の小蟲シヤミルもて山を剖く事有り(ベーリング、グールド、中世談奇一八八四年板、三九二頁)。ノルマンデーと非列賓島及び古羅馬の傳に啄木鳥靈草を以て硬木及鐵を破ると言り(プリニウス博物志卷十章十八。ボスケー女史諾曼提稗史及奇談一八四五年板、二一八頁。一六六八年マドリド板コリン傳道經營譚一卷七八頁)。文政六年種彥跋ある江戶塵拾五に、田村元雄藏伽藍石とて唐の伽藍鳥子生置たる巢を水晶板で蓋へば此の石を採將來て其板を碎く。石大さ茶碗の如く色黑く能く鐵銅磐石を碎く由載居る。吾邦にも、昔し栗鼠が何物かの力で鐵城を破つた話が有るらしい。米國の黑奴栗鼠の顎骨を守りに用る事一八九三年板オウエンのオールド、ラビット、ゼ、ヴーヅー一七四頁に出づ。

[やぶちゃん注:「由良村」現在の日高郡由良町の内、由良港を中心とした一帯だが、内陸は由良川の有意な上流域まで含まれる。戦前の「ひなたGPS」のこちらと、「Geoshapeリポジトリ」の「歴史的行政区域データセットβ版」の「和歌山県日高郡由良村」の旧村域地図を参照されたい。

「栗鼠」リス。齧歯(ネズミ)目リス亜目リス科 Sciuridae。本邦には樹上性リス二属三種四亜種(内、二亜種は外来種)、滑空性リス(モモンガ属ニホンモモンガ Pteromys momonga・ムササビ属リス亜科Pteromyini 族ムササビ属 Petaurista )の二属三種五亜種(すべて在来種)、地上性リス(リス科 Xerinae 亜科Marmotini族シマリス属 Tamias )一属一種二亜種(内、一亜種は外来種)の計五属七種十一亜種が挙げられ、移入種を除けば、四属六種八亜種が棲息するが、ここは分布から、リス科 Sciurinae 亜科Sciurini族リス属 Sciurus亜属ニホンリス Sciurus lis としてよいであろう。

『大なる種「をかつき」』前記ニホンリスの大型個体(最大二十二センチメートル)ととっておく。「をかつき」の呼称は不詳。「岡(陸)附き」か?

「西牟婁郡二川村大字兵生」(ひやうぜい)は何度も既注であるが、再掲しておくと、現在の田辺市中辺路町兵生(グーグル・マップ・データ)。幾つかのネット記載は読みを「ひょうぜ」とするが、正しくはやはり「ひょうぜい」である。「ひなたGPS」のこちらを参照。

「猴」(さる)「退治の話(鄕硏一卷三號一七〇頁)にも栗鼠を山伏とし居るのだと云ふ」「四」で既出既注であるが、郷土研究社から大正二年八月に刊行された、高木敏雄著「日本傳說集 附・分類目次解說索引」の「義犬塚一名猿神退治傳說第十七」の「(ニ)猿神退治」として載っている。

「栗鼠に遇し事何度と云を知ぬが」「りすにあひしこと、なんどといふをしらぬが」。

「繞りて」「めぐりて」。

「狀」「選集」は『さま』と振る。

「加之に」「しかのみならずに」か。但し、「選集」ではひらがなで『おまけに』とある。助詞「に」は、「しかのみらず」との相性が悪いから、「選集」の読みでとっておく。

「負て」「おひて」。

「狀」これも前に倣って「さま」と読んでおく。

「巾」「きん」。山伏が額に被る兜巾(ときん)のこと。

「冒く」「選集」は『冒(いただ)く』と振る。

「松屋筆記九五に高忠聞書上に射まじき鳥の事」、「鶯」・「鵄」(とび)・「梟」・「木菟」(みみづく)・「鶺鴒」(「せきれい」だが、「選集」では『いしくなぎ』と振る。後に示す原文にそうある個人ブログ「ちいさなさえずり」の「野鳥方言名 セキレイ類」に、『“いしくなぎ”が持つ本来の意味は、尾を上下に動かして石にふれることであり、室町時代からの古名です』。『川原に棲むこの鳥の行動に石投げに通ずるものを見て、門出集落で“いしこなげ”になったと考えれば、“いしなげ”は石投げになります。しかしながら、“いしこなぎ”という使われ方もあり、これは原形である“いしくなぎ”の』三『文字目が“く”から“こ”に変形したものです。“いしくなぎ”が“いしこなぎ”になり、さらに“いしこなげ”やいしなげ”になったと考えていいのでは思っています』とあった。「くなぐ」は「婚ぐ」で「交合する・男女が交わる」の意で用いられた古語で、鎌倉時代の文献などに用例が見いだされる)・「庭鳥」(にはとり)・「木鼠」(りす)・「鼯鼠」(むささび)・「鷹の事は不及申」(まをすにおよばず)「此鳥共をば射まじき也。木鼠を射ぬ故は聖武天皇鐵城を破り開」(あけ)「たる其謂」(そのいは)「れにて射まじきに被定置」(さだめおかれ)「たる也」「松屋筆記」は国学者小山田与清(ともきよ 天明三(一七八三)年~弘化四(一八四七)年)著になる膨大な考証随筆。文化の末年(一八一八年)頃から弘化二(一八四五)年頃までの約三十年間に、和漢古今の書から問題となる章節を抜き書きし、考証評論を加えたもの。元は百二十巻あったが、現在、知られているものは八十四巻。松屋は号。当該箇所は、国立国会図書館デジタルコレクションの活字本画像ではここ(百卅二)にある。「高忠聞書」は寛正五(一四六四)年に多賀高忠(応永三二(一四二五)年~文明一八(一四八六)年:室町後期から戦国前期の武将で京極高数(たかかず)の子。多賀氏の一派である多賀豊後守家当主で近江京極氏の重臣。二度に亙って室町幕府京都侍所所司代を務め、名所司代として知られ、武家故実に明るく、小笠原持長に弓術を学んだ)によって書かれた弓術書にして、その弓の師あった小笠原流多賀高長の伝記でもある。

「勁くして」「つよくして」。

「鐵網」「てつまう」。鉄で出来た網。

「樊」「選集」に『かご』と振る。

「嚙破て」「かみやぶつて」。

「倭漢三才圖會三九に見える」私の「和漢三才図会巻第三十九 鼠類 鼫鼠(りす) (リス類)」を参照されたい。但しそこ良安は、『齒、勁(つよ)くして、鐵のごとし。故に䥫綱(てつかう)[やぶちゃん注:鉄製の籠の意。「䥫」は「鐡」の古字。]を用ひざれば、則ち、齒にて破(やぶ)りて脫け去る』と記している。

「鐵籠」「てつらう」。鉄製の覆い籠(かご)。

「破て」「やぶつて」。

「龍樹大士の大智度論第卅三に、菩薩作一鳥、身在林中住。見一人於深水、非人行處、爲水神所ㇾ羂、水神羂法、著不ㇾ可ㇾ解、鳥知解法、至香山中、取一藥草、著其羂上、繩卽爛壞、人得脫去。」以上の本文は「大蔵経データベース」で校合した。「龍樹大士」大乗仏教中観派の祖とされる二世紀に生まれたインド仏教の僧龍樹。サンスクリット語の「ナーガールジュナ」の漢訳名。「大智度論」「摩訶般若波羅蜜経」(大品般若経)に対して注釈を加えた書。百巻に及ぶ。初期の仏教からインド中期仏教までの術語を詳説する形式になっているので、仏教百科事典的に扱われることが多い。漢訳は鳩摩羅什による(四〇二年~四〇五年成立)。訓読する。

   *

昔、菩薩、一(いつ)の鳥身(てうしん)と作(な)り、林中に在りて住む。一人有り、深水に入るを見る。人の行く處に非ざれば、水神の羂(わな)する所と爲(な)る。水神の羂の法、著(つ)いて、解くべからず。鳥、解く法を知れり。香山(かうざん)の中(うち)に至り、一藥草を取りて、其の羂の上に著(お)く。繩、卽ち、爛壞(らんくわい)し、人、脫(のが)るる法を得たり。

   *

「著(つ)いて」「身に纏い附いて」の意であろう。「香山」不詳。

「猶太」(ユダヤ)「の古傳にナツガーツラ鳥麥粒大の小蟲シヤミルもて山を剖」(さ)「く事有り(ベーリング、グールド、中世談奇一八八四年板、三九二頁)」「中世談奇」には「選集」では『キユリアス・ミス・オヴ・ゼ・ミドル・エイジス』と振る。イングランド国教会の牧師にして、考古学者・民俗学者。聖書学者であったセイバイン・ベアリング=グールド(Sabine Baring-Gould 一八三四年~一九二四年)が一八六六年に刊行した‘Curious Myths of the Middle Ages’ (「中世の奇妙な神話譚」)。一八七七年版を「Internet archive」で見たところ、同ページにあった。「ナツガーツラ鳥」は“Naggar Tura”「小蟲シヤミル」は“schmir”と綴られてある。

「ノルマンデーと非列賓」(フイリツピン)「島及び古羅馬の傳に啄木鳥」(きつつき)「靈草を以て硬木及鐵を破ると言り(プリニウス博物志卷十章十八。ボスケー女史諾曼提稗史及奇談一八四五年板、二一八頁。一六六八年マドリド板コリン傳道經營譚一卷七八頁)」「諾曼提稗史及奇談」には「選集」では『ラ・ノルマンジー・ロマネスク・エー・マーヴエヨーズ』と、「傳道經營譚」には『ラボル・エヴアンヘリカ』と振る。「プリニウス博物志卷十章十八」これは「十八」ではなく、「二十」の誤りと思われる。所持する平成元(一九八九)年雄山閣刊の中野定雄他訳になる第三版「プリニウスの博物誌Ⅰ」から引く。巻十は「鳥の性質」が標題で、その「二十」(底本では『二〇』)は「マルス神のキツツキ」である。

   《引用開始》

 二〇 また小さな鳥で鉤爪をもっているのがある。たとえばいろいろの種類のキツツキがそうだが、これはマルスの鳥(注1)と呼ばれ、占いをするに大事な鳥だ。この種類には、木に穴を穿けるキツツキで、ネコのようにほとんど垂直に木登りするものがあり、また逆さまにとりついていて、木の皮をつっつくときの音でその下に餌がいることを知るのもある。キツツキは雛を穴の中で育てる唯一の鳥である。彼らの穴に、羊飼いが樹を打ち込むようなことがあると、この鳥は一種の草をあてがってそれを滑り出さしてしまうということが一般に信じられている。トレビウスは、キツツキが巣をつくっている木に力いっぱい釘を打ち込んでも、この鳥がそれにとまるとたちまちそれが、木のきしみ声とともに脱けてしまうと述べている。キツツキそのものは、自分の名をこの鳥に与えた国王(注2)の時以来、ラティウムではいろいろの前兆の中で最も重要なものであった。彼らの前兆のうちのひとつをわたしは見逃し得ない。市の法務官アエリウス・トゥペロが広場で席について裁判を行なっていたとき、一羽のキツツキが少しの恐れ気もなく彼の頭にとまったので、彼は手でそれを捕えることができた。問いに答えて占者は、もし鳥を放すなら皇帝に、殺すなら法務官に災難が起る前兆だと断言した。トゥペロは即座にその鳥を引き裂いた。そして間もなく彼は前兆のとおりになった。

   注1 頭が赤い黒キツツキ、マルスは軍神。

   注2 ラティヌスの父ピクスは、その愛を

      彼が軽視したキルケによってキツツ

      キに変えられた。

   《引用終了》

「ボスケー女史諾曼提稗史及奇談一八四五年板、二一八頁」はフランスの作家アメリー・ボスクェ(Amelie Bosquet 一八一五年~一九〇四年)が一八四五年に刊行したノルマンディー地方の伝統習俗・伝説・迷信などの民俗誌‘ La Normandie Romanesque Et Merveilleuse ’ (「ロマンチックで素敵なノルマンディー」)。「Internet archive」のこちらで当該部が読める。二行目に出る“pivert”(ピーヴェー)がフランス語でキツツキである。

「一六六八年マドリド板コリン傳道經營譚」幾つかのフレーズで調べたが、不詳。

「文政六年」(一八二三年)「種彥跋ある江戶塵拾」(えどちりひろひ)「五に、田村元雄藏伽藍石」(がらんせき)「とて唐」(「もろこし」と訓じておく)「の伽藍鳥」(がらんてう)「子生置」(こ、うみおき)「たる巢を水晶板で蓋へば此の石を採將來」(とりもちき)「て其板を碎く。石大さ茶碗の如く色黑く能く鐵銅磐石」(ばんじやく)「を碎く由載居」(のせを)「る」「偐紫田舎源氏」で知られる戯作者柳亭種彦(天明三(一七八三)年~天保一三(一八四二)年)が跋を記した作者不詳の江戸で蒐集された怪奇談集。国立国会図書館デジタルコレクションの国書刊行会刊の「燕石十種」第三のここ(標題「伽藍石」)で読める。なお、普通に「伽藍石」というと、社寺の柱の古い礎石を「沓脱(くつぬ)ぎ石」や「飛び石」などに転用したものを指すが、ここでは全く違うので注意されたい。

「吾邦にも、昔し栗鼠が何物かの力で鐵城を破つた話が有るらしい」不詳。

「一八九三年板オウエンのオールド、ラビット、ゼ、ヴーヅー一七四頁」ミズーリ州の伝説とブードゥー教の民間伝承を収集した女性の民俗学者マリー・アリシア・オーウェン(Mary Alicia Owen 一八五〇年?~一九三五年)の‘Old Rabbit, the Voodoo, and Other Sorcerers’ (「年老いた兎、ブードゥー教、その他の魔術師」)。「Internet archive」のこちらで原本の当該部が読める。その呪具の並ぶ十一行目に“the jaw of a squirrel”と出る。「リスの顎の骨」である。]

 〇今年十一月日高郡上山路村の老婆に聞く、昔しは其邊に鹽鰹のみ田邊より來る、鹽酷くて鰹で饗されて口腫れ塞るを、三日腫れ、五日腫抔云て悅んだ。今は道路開け生鰹を食ひ得て、三日旨い、五日旨いと言つて樂むと。

[やぶちゃん注:「今年十一月」本記事は大正三(一九一四)年二月のものであるから、前年のことか。

「日高郡上山路」(かみさんぢ)「村」「Geoshapeリポジトリ」の「歴史的行政区域データセットβ版」の「和歌山県日高郡上山路村」の地図で旧村域が判る。「ひなたGPS」の戦前の地図で確認出来る。グーグル・マップ・データ航空写真の相当地区も示しておく。現在は田辺市龍神村柳瀬(やなせ)の内である。前の「安倍晴明社」の西方で、かなり山深い。

「鹽鰹」「しほがつを」。塩漬けのカツオ。私が丸一尾欲しくてたまらないものである。

「酷くて」「きつくて」。

「饗されて」「きやうされて」。ご馳走されると。

「腫れ塞る」「はれふさがる」。

「生鰹」「なまがつを」。私は「鰹のたたき」を丸一尾買って捌いて焼くのが趣味なのだが、最近やってないな……]

 〇十七八年前中山路村の松本といふ富豪始て馬を其村へ伴行き蓄し。當時六七十歲の老人馬を始めて見たる者多かつた。牛のみ通ふて馬は通はなんだとの事。

[やぶちゃん注:中山路村がいかに山深かったかが判る驚きのエピソードである。

「十七八年」一八九六年か一八九五年で、明治二十八か二十九年頃。

「伴行き蓄し」「つれゆき、かひし」。]

 〇明治十九年夏予現時林學博士たる川瀨善太郞氏と高野山に詣で心願の人に賴まれ川瀨氏立入の荒神へ詣るに予俱に行つた。小堂の壁に夥く鎌を納め掛け有り、川瀨氏も人に賴まれた鎌を掛て歸た。其近傍「わたらえ」と云所は田邊より高野へ參る道中頗る僻地だ。其地に人を葬り了つて上に火を焚き、鎌一本柄を下にして、上に立て、竹を周圍に刺す、魔物を禦ぐ爲と聞た。

[やぶちゃん注:「明治十九年夏」一八八六年。熊楠満十九歳(彼は四月十五日生まれ)。

「川瀨善太郞」(文久二(一八六二)年~昭和七(一九三二)年)は紀州藩士の長男として江戸藩邸で生まれた。明治二三(一八九〇)年、東京農林学校を卒業後、農商務省に入り、二年後に文部省留学生として林政学研究のため、ドイツに留学した。明治二八(一八九五)年に帰国し、帝国大学教授となり、林政学・森林法律学を講義する一方、翌年には農商務技師・山林局森林監査官を兼任し、国の林政にも参与した。大正二(一九一三)年、欧米へ出張、大正九年には東京帝国大学農学部長となった。大正十三年、定年により退官。なお、明治二十五年から「大日本山林会」役員となり、大正九年に会長に就任、木材と木炭規格統一に関する事業・山林所得税是正・記念植樹・演習林・農林高等学校の普及などに尽力した。著書に「林政要論」などがある。後年、熊楠とは特に親しかったわけではないようである。

「立入の荒神」「たていりのかうじん」と読むか。恐らくは、奈良県吉野郡野迫川(のせがわ)村にある立里荒神社(たてりこうじんしゃ)のことかと思う。空海が高野山を開創する際に祀ったと伝わる荒神社である。ここ(グーグル・マップ・データ)。当該ウィキによれば、『正確な年代は不明であるが、西暦』八〇〇『年』(延暦十九年)『頃の創建であるとされている』。『誉田別命と火産霊神を祀っていることから、商売繁盛の神としてや火の神、かまどの神として崇められており、また、日本三荒神のひとつとしても知られていることや』、『高野山の奥社などとされていることから、火に関わる職業の人や高野山参詣の人々を中心に』、『全国各地より』、『信仰心の厚い人々が訪れるという』とある。但し、サイド・パネルの画像を見ても、今は鎌を奉納している感じではないし、そうしたネット上の記事も見当たらない。鎌が多量にぶら下がっているというのは、ちょっとキョわいもんな。

「詣る」「まうでる」。

「俱に」「ともに」。

「わたらえ」かなり惹かれる火葬地なのだが、「ひなたGPS」の戦前の地図で荒神社の周辺を探してみたが、見当たらない。

「周圍」「選集」では『ぐるり』と振る。]

 〇西牟婁郡の諺に雨栗日柿、是は栗の實は雨多き程益々大きく、旱り續く程柿の實大なるを言ふのだ。(大正三年二月鄕硏究第一卷十二號)

[やぶちゃん注:最後の附記には底本では月が記されていないが、本文との絡みがあるので、「選集」で挿入した。

「旱り」「ひでり」。]

2022/07/07

「南方隨筆」底本正規表現版「紀州俗傳」パート 「六」

 

[やぶちゃん注:全十五章から成る(総てが『鄕土硏究』初出の寄せ集め。各末尾書誌参照)。各章毎に電子化注する。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(冒頭はここ)で視認して用いた。また、所持する平凡社「選集」や、熊楠の当たった諸原本を参考に一部の誤字を訂した。表記のおかしな箇所も勝手に訂した。それらは一々断らないので、底本と比較対照して読まれたい。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 本篇の各章は短いので、原則、底本原文そのままに示し、後注で(但し、章内の「○」を頭にした条毎に(附説がある場合はその後に)、読みと注を附した。そのため、本篇は必要性を認めないので、PDF版を成形しないこととした。

 なお、本章は石化する食物を扱った単独の一篇で、やや長いため、「選集」の段落を参考に段落分けを行った。私の注はそれぞれの段落後に挿入した。] 

 

       六、

 ○石芋(鄕硏一卷三號一八二頁參照) 寬延二年靑山某の葛飾記下に、西海神村の内、阿取坊(あすは)明神社の入口に石芋有り、弘法大師或家に宿を求めしに、嫗貸さず、大師怒て、傍に植設けたる芋を石に加持し、以後食う事能はず、皆此所え捨しより、今に四時共に腐らず、年々葉を生ず。同社の傍らの田中に、片葉の蘆有り、同く大師の加持と云ふと載せて居る。何故蘆を加持して片葉としたのか、書ては無いが、先は怒らずに氣慰めに遣た者と見える。大師は餘程腹黑い疳癖强い芋好きだつたと見えて、越後下總の外土佐の幡多郡にも食ず芋と云が有る。野生した根を村人拔來り橫切にして、四國順拜の輩に安値で賣る、其影を茶碗の水に映し、大師の名號を唱へて用れば、種々の病を治すと云ふ。植物書を見ると、食用の芋と別物で、本來食えぬ物だ。甲斐國團子山の石皆團子也、大師通りし時、一人の姥團子を作り居るを見て、乞しも與へず。怒て印を結び、團子を石に化したと、柳里恭の獨寢に見ゆ。紀州西牟婁郡朝來、新庄二村の界、新庄峠を朝來へ下る坂の側に弘法井戶有り、泉水常に滿乍ら溢れず、類稀な淸水だ。大師此所の貧家で水を乞ふと遠方え汲に行て吳た。其酬に祈出したんだ相な。此峠より富田坂に至る、數里の間は平原で、耕作に好いが、豌豆を作らぬ、之を植れば、必ず穴少しも無き莢の中に、自と蟲生ず、隣近諸村に絕えて其事無い、件の平原の住民ら、大師に豌豆乞れて一粒も與えなんだ罰と云ふ。

[やぶちゃん注:「選集」では冒頭の「石芋」をゴシック太字とする。さて。実は私は十六年も前に以上の一部を電子化して考証している。しかもそれは俳人村上鬼城の「鬼城句集」の全注釈をやった時の(一括縦書HTML版はこちら)、「鬼城句集 秋之部 芋」の冒頭の句、

 石芋としもなく芋の廣葉かな

の注でやらかしたものである。そこで私は「石芋」を真っ正直に捉え、俄然、石芋相当の種を迂遠に考証したのであった。詳しくはそちらを見られたいが、そこで、私は以下の四種の候補を挙げた。

   *

(1)単子葉植物綱オモダカ亜綱オモダカ目サトイモ科サトイモ Colocasia esculenta の品種の中で半野生化し、先祖帰りして苦味やえぐ味(ある種のタンパク質が付着したシュウ酸カルシウムが針状結晶や細かい結晶砂として細胞内に集合した、大きく脆いその結晶体が原因とされている。但し、その味覚感はこのシュウ酸カルシウムの結晶が直接舌に刺さることによって生じるとも、その化学的刺激の結果であるともされ、またシュウ酸カルシウムとは異なる別個なタンパク質分解酵素による現象とする説があって明確ではない)が強くなって食用に適さなくなった個体群

(2)根茎のシュウ酸カルシウム含有量が高く、食用に適さないサトイモ科のある種を指す。例えば、サトイモ科ヒメカイウ Calla palustris など。ヒメカイウはミズザゼン・ミズイモとも呼称し、本邦では北海道や本州の中北部の低地から山地の湿地に自生し、小型のミズバショウといった形態を成しており、葉は卵心形・円心形で大きさ五~十五センチメートル、十~二十センチメートルの葉柄を持つ。白色の長さ四~六センチメートルの仏炎苞(ぶつえんほう)を持つ花を初夏に開く。果実は赤色のベリー状で、その中に数個の種子を産する。本邦では食用としないが、スカンディナヴィアでは本種の根を煮て擂り潰し、暫く置くことで毒抜きをしてから食用とすることがある。

(3)サトイモ科オランダカイウ(サンテデスキア)属 Zantedeschia のオランダカイウ類で、現在、園芸で英名から「カラー」(calla)又は「カラー・リリー」(calla lily)と名づける観葉植物。南アフリカ原産であるが、本邦には江戸時代に既に渡来してオランダ海芋(かいう)と呼称された。この属には仏炎苞や葉が美しい種や品種が多く含まれており、観賞用として盛んに栽培されている。地上部はサトイモに似ているが、オランダカイオウ類は全草が有毒である。

(4)サトイモ科クワズイモ Alocasia odora。大きな個体では傘にして人間も入れるほどの葉を持つ。素朴な味わいのある大きな葉を持つ観葉植物としても親しまれ、園芸ではアローカシアとも呼称する。以下、ウィキの「クワズイモ」によれば、『サトイモのような塊状ではなく、棒状に伸びる根茎があり、時に分枝しながら地表を少し這い、先端はやや立ち上がる。先端部から数枚の葉をつける。大きさにはかなりの個体差があって、草丈が人のひざほどのものから、背丈を越えるものまでいろいろ』で、葉の長さは六十センチメートルにも達し、『全体に楕円形で、波状の鋸歯がある。基部は心形に深く切れ込むが、葉柄はわずかに盾状に着く』。葉柄も六十センチメートル~一メートルを越え、『緑色で、先端へ』ゆくほど細くなる。『花は葉の陰に初夏から夏にでる。仏炎苞は基部は筒状で緑、先端は楕円形でそれよりやや大きく、楕円形でやや内に抱える形で立ち、緑から白を帯びる。花穂は筒部からでて黄色味を帯びた白。果実が熟すと仏炎苞は脱落し、果実が目立つようになる』。『中国南部、台湾からインドシナ、インドなどの熱帯・亜熱帯地域に、日本では四国南部から九州南部を経て琉球列島に、分布する。長崎県五島市の八幡神社のクワズイモは指定天然記念物にもなっている。一方、沖縄県では道路の側、家の庭先、生垣など、あちこちで普通に自生しているのが見られる。低地の森林では林床を埋めることもある』。『日本では、やや小型のシマクワズイモ(A. cucullata (Lour.) G.Don)が琉球列島と小笠原諸島に、より大型のヤエヤマクワズイモ (A. atropurpurea Engler)が西表島に産する』が、『よく見かけるのはむしろ観葉植物として栽培される国外産の種であろう。それらは往々にしてアローカシアと呼ばれる。インドが原産地のインドクワズイモ(A. macrorrhiza)、緑の葉と白い葉脈のコントラストが美しいアロカシア・アマゾニカ、ビロードの光沢を持つアロカシア・グリーンベルベットなどがよく知られる』。『クワズイモの名は「食わず芋」で、見た目はサトイモに似ているが、食べられないのでそう呼ばれている。シュウ酸カルシウムは皮膚の粘膜に対して刺激があり、食べるのはもちろん、切り口から出る汁にも手で触れないようにした方がいい。日本では、外見が似ているサトイモやハスイモの茎(芋茎)と間違えてクワズイモの茎を誤食し』、『中毒する事故がしばしば発生している』とある。

   *

さて。結果して、当時の私は、以上の段落中で熊楠が「食用の芋と別物で、本來食えぬ物だ」と言っているのは(4)のクワズイモと断定している。これは、今も変わりはない。

「(鄕硏一卷三號一八二頁參照)」この注記は底本では「鄕硏一八二頁」でこれでは判らんので「選集」で補った。而して「選集」では「頁」の後に割注して『中西利徳「石のかけら」』とする。中西利徳氏は事績不詳だが、ある論文の『郷土研究』創刊号のデータについての資料によると、投稿者『越後柏崎中西利德』で「岩の掛橋」という論考を寄稿していることが判った。

「寬延二年」一七四九年。

「靑山某の葛飾記」葛飾郡中の名所旧跡・神社仏閣の縁起などを解説した観光案内的地誌文献。国立国会図書館デジタルコレクションの明治四一(一九〇八)年国書刊行会刊の「燕石十種」第二のここから読める。

「西海神村」(にしわたつみむら)「の内、阿取坊(あすは)明神社」現在は千葉県船橋市海神(かいじん)に、龍神社(りゅうじんにゃ)として現存する(グーグル・マップ・データ。以下指示のないものは同じ)。旧村名の読みは「江戸名所図会」巻之七の「阿須波明神祠」の解説にある読みに従った。同書に「沙竭羅(しやから)龍王を祀るといふ。【故に此の地を海神とは稱せりといへり】。耕田と道路を隔てて海汀(かいて)に向ひて華表(とりゐ)を建つる。九月四日を祭祀の辰(しん)[やぶちゃん注:「時節」に同じ]とす。この日、芋(いも)を食すを舊例とす。ゆゑに土人、芋祭りと呼びならはせり」とあって、芋伝説の名残が祭事としてあることが記されてある。先のグーグル・マップのサイド・パネルの同神社のいわれを記した石碑の写真に、「氏子中」の署名で、

   *

龍神社は 西海神の鎮守で大綿津見命を祀る  仏名を娑竭(しやから)羅龍王という 阿須波の神ともいわれる 明治以前まで大覚院[やぶちゃん注:ここ。]が別当をしていたと伝えられ 同寺の山号を龍王山と称する

 万葉集巻二十に

庭中の阿須波の神に小柴さし

 我(あ)れは斎(いわ)はむ帰り来(く)までに

の歌が伝えられている

 境内にある小さな池には弘法大師の石芋や片葉の蘆の伝説が残されている

   *

とある。

「嫗」「うば」。「選集」は『ばば』とするが、前掲「葛飾記」の記載に従った。

「傍「かたはら」。

「植設けたる」「うゑまうけたる」。

「此所」「このところ」と読んでおく。

「腐らず」原本は「腐れず」(くたれず)。以下の「片葉の蘆」の方は簡略に引いてある。原本では最後に片葉の蘆は「何方にも有よし」とドライに言い添えてある。ここのすぐ近くなら、弘法大師なんざ、お呼びでないぞ! 悲劇の美女「真間の手児奈」の伝説だ! 現在の手児奈霊神堂にある池は、真間の入江の名残と言われており、「手児奈」伝説に出る「片葉の葦」が見られる。前の龍神社と同じく、この辺りは海岸線がもっと陸側にあったのである。ただ「氣慰」(きなぐさ)「めに遣」(やつ)「た」加持なんぞで片葉にするなんて、芋を石芋にする以上に無粋どころか馬鹿の極みで、私は美しい水汲みの手児奈を傷つけまいと、葦が自然に、その通い道に葉を出さぬように片葉になったというが、万葉以来の風雅であろう。

「大師は餘程腹黑い疳癖强い芋好きだつたと見えて」熊楠! サイコー!!!

「越後」探し得なかった。

「土佐の幡多郡にも食ず芋と云が有る」反対側の室戸岬の例がサイト「四国お遍路」の『お大師様の「食わず芋伝説」』に載る。

「野生した根を村人拔來り橫切にして、四國順拜の輩に安値で賣る、其影を茶碗の水に映し、大師の名號を唱へて用れば、種々の病を治すと云ふ」これは「どっこい! 逆転」の発想で面白いぞ!

「甲斐國團子山の石皆團子也、大師通りし時、一人の姥團子を作り居るを見て、乞しも與へず。怒て印を結び、團子を石に化したと、柳里恭の獨寢に見ゆ」現在の甲斐市団子新居(だんごあらい)の字(あざ)団子石に伝承するらしい。サイト「YAMANASHI DESIGN ARCHIVE」の「団子石」に同話が載り、甲府勤番番士野田成方(しげかた)の「裏見寒話」(宝暦二(一七五二)年序)の同話の訳も載る。同原話は国立国会図書館デジタルコレクションの「甲斐史料集成」三のここで読める。この「柳里恭の獨寢」の「柳里恭」は江戸中期の画家で儒者にして日本文人画の先駆者で大和郡山柳沢藩家老の柳沢淇園(きえん 宝永元(一七〇四)年~宝暦八(一七五八)年:柳沢吉保の家老の家に生まれた。里恭(さととも)は元服後の本名)の随筆。但し、近世を通じて刊行されず、写本で以って行われた。成立は、序文によれば、主家柳沢家の甲府から大和郡山への移封があった享保九(一七二四)年二十一歳の時、城受取役の一人として先発した彼が、彼地にあって日々の無聊の慰めに筆を執ったことに始まるとする。内容は絵画・和歌・俳諧・琴・尺八・三味線など諸事芸能にわたるが、中でも遊女と遊びの道に多くを割いており、彼の多趣味、殊に拘らぬ風流人士振りが窺われる好編である。国立国会図書館デジタルコレクションの活字本で発見した。ここの「團子洗ひ」がそれ。最後の方にその石を自身が削り磨って絵具にしたという私にはとても素敵な話も載るので、是非、読まれたい。

「紀州西牟婁郡朝來」(あつそ)「、新庄二村の界、新庄峠を朝來へ下る坂」戦前の「ひなたGPS」のこの附近であろう。新庄村は現在は田辺市新庄町(しんじょうちょう)。が、ここの「弘法井戶」は確認出来なかったが、朝来のある西牟婁郡上富田町(かみとんだちょう)の「上富田町役場」公式サイト内の「上富田町文化財教室シリーズ」の「南方熊楠と上富田町 上富田の民俗書留め」というページがあり、そこにモノクロの弘法井戸の写真があるので、或いは、まだ残っているのかも知れない。

「滿乍ら」「みちながら」。井戸に満々と清水が溜まっているのに。

「類稀な」「たぐひまれな」。

「汲に行て吳た」「くみにいつてくれた」。

「其酬に」「そのれいに」。「れい」は「選集」のルビに拠った。

「祈出したんだ相」(当て字)「な」「のりいだしたんださうな」。

「富田坂」「とんだざか」。富田川を渡ったここに熊野古道大辺路の富田坂の一里松跡が残る。

「豌豆」「えんどう」。エンドウマメ。

「植れば」「ううれば」。

「莢」「さや」。

「自と蟲生ず」「おのづと、むし、しやうず」。

「乞れて」「こはれて」。

「罰」「選集」に『ばち』と振る。]

 又此邊で傳ふ、油桃は何處とは知らず、大師桃を乞ふた時、是は山茶の實ぢや、食う可らずと詐つて與えず、大師之を呪ふて、桃が毛を失ひ、山茶の實の樣に成つたので、山茶桃と呼ぶと。倭漢三才圖會に、此物和名都波木桃俗云豆波以桃と出づ。十訓抄に德大寺左大臣藏人高近して、大なる「つばいもゝ」の木を内侍所に參らせたる事有り。大英類典二十一に、尋常の桃が今日も油桃を生じ、甚きは一つの桃實一部は凡桃(つねのもゝ)、一部は油桃に生ることも有るから、油桃は桃の變成たる事疑ひ無しと出づ。大師の一件は法螺談だが、桃が油桃に成たちう俗傳は、事實に違は無い。四國の食はず蛤は、蛤類の化石で、其にも同樣の傳說が有る。芋や蛤が石に成ては人が困るが、桃が油桃に成ても一向構はぬ。又四國札所五十二番とかの大師堂の後の山に、苞毬に刺なき栗を生ず、大師此山の栗を食ふとて、刺多きを惡み、咒ふたんださうな。又四國にも、紀州日高郡龍神村、西牟婁郡近野村等にも、三度栗有り、何れも大師が甞(こゝろ)みて、素的に旨かつたので、年に三度生れと命じた由。紀伊續風土記七七に、西牟婁郡西栗垣内村三度栗多し、持山年に一度宛燒く、燒し株より出る新芽に實る也、八月の彼岸より十月末頃迄に、本中末と三度に熟すと有る。然らば名前程珍しうも無い。

[やぶちゃん注:「油桃」「つばいもも」。バラ目バラ科サクラ亜科モモ属モモ変種ズバイモモAmygdalus persica var. nectarina のこと。別名で「ツバキモモ」(椿桃)・「ヒカリモモ」(光桃)・「アブラモモ」(油桃)などがあるが、今は英名の「ネクタリン」(Nectarine)でないと通じないか。中国原産。日本で食用に品種化されたネクタリンが日本に導入されたのは明治時代で、その普及はごく近年であるが、それよりもずっと古くに中国から小さくて酸っぱい「無毛桃」というものが伝わっていたとされる。

「何處」「どこ」。

「山茶」「つばき」。

「詐つて」「いつはつて」。

「呪ふて」「まじなふて」。

「倭漢三才圖會に、和名都波木桃俗云豆波以桃と出づ」所持する原本で訓読するが(読みは推定で附した)、ツバイモモが立項されているわけではなく、巻第八十六の「果部」の「桃」の標題下の和名部分に過ぎず、本文記載はないのである。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の原本画像で示すと、ここである。「此物」「このもの」は熊楠が勝手に附したもののようである。

   *

李(づばい)桃

 和名「都波木桃(つばきもも)」。俗に云ふ、「豆波以桃(づばいもも)」。

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『十訓抄に德大寺左大臣藏人高近して、大なる「つばいもゝ」の木を内侍所に參らせたる事有り』「十訓抄」は私は「じつきんせう(じっきんしょう)」と読むことにしている。鎌倉前・中期に成立した教訓説話集。写本の一つである妙覚寺本奥書によって、六波羅二﨟(ろくはらにろう)左衛門入道とするのが通説で、これは鎌倉幕府御家人湯浅宗業(むねなり 建久六(一一九五)年~?:紀伊保田荘の地頭で、在京して六波羅探題に仕えた。弘長二(一二六二)年に出家し、かの明恵に帰依し、智眼と号した)の通称ともされるが、一方で公卿菅原為長(保元三(一一五八)年~寛元四(一二四六)年:鎌倉初期の学者。文章博士・参議兼勘解由長官で有職故実に通じた)とする説もある。建長四(一二五二)年の序がある。国立国会図書館デジタルコレクションの石橋尚宝著「十訓抄詳解」(大正一二(一九二三)年明治書院刊)で示す。第一巻の「四〇」である。注もそちらに譲る。因みに、所持する岩波文庫版の永積安明校訂(東京帝大文学研究室蔵三巻本底本)では、「づばいもも」ではなく、ただの「大きなる木ありけり」で話にならない。

「大英類典」熊楠御用達の「エンサイクロペディア・ブリタニカ」(Encyclopædia Britannica)のこと。

「違は無い」「たがはない」。

「四國の食はず蛤」(はまぐり)「は、蛤類の化石で、其にも同樣の傳說が有る」これは私の「諸國里人談卷之五 石蛤」(いしはまぐり)を参照されたい。この手の弘法大師のネガティヴな方の伝説は、私は頗る嫌いである。

「四國札所五十二番とかの大師堂の後の山に、苞毬」(いが)「に刺」(はり)「なき栗を生ず、大師此山の栗を食ふとて、刺多きを惡」(にく)「み、咒」(まじな)「ふたんださうな」四国八十八箇所霊場の第五十二番札所は愛媛県松山市にある真言宗智山派瀧雲山護持院太山寺(たいさんじ)でここ。栗がらみの效法大師の変種伝承は熊楠が直後に挙げる「三度栗」(当該ウィキ。後注も参照)を始めとして、かなりあるが、こりゃ、難しいね。棘のない栗はないでショウ?……

「紀州日高郡龍神村」既出既注

「西牟婁郡近野村」「ひなたGPS」の戦前の地図のここ

「三度栗」中国原産のブナ目ブナ科クリ属シナグリ Castanea mollissima の品種(cv.)の一種。我々の馴染みの本邦の「栗」は別種でクリ属クリCastanea crenata である。 サイト「樹木好き! I Love Trees」のyazawa-nursery氏の「三度栗(サンドグリ)」の記載が信頼出来る。そこに『一年に三回実を着けるという意味に取られがちですが、実際は夏から秋まで花が咲き続けて、連続して実が着きます』とはっきり記されあり、確かにこれなら、熊楠の言うように、「然らば名前程珍しうも無い」と呟きたくなる。しかも、以上の記事にも、『ただ、詳細な来歴は分からず、学名も記載されているものを見たことがありません』。『最近では、特に実付きのよい品種(サレヤロマン、秋彩など)や、鮮やかな紅色のイガの品種(紅珠)なども出てきているようです。(私はまだ実物を見たことがありませんし、作出の経緯も情報未入手です)』。『いずれにしろ、秋の季節感を演出してくれる魅力的な樹木の一つです』とあって、記事では食した事実が書かれておらず、この本邦に移入した当該品種に実、実際に国内で食用として汎用・流通しているかどうかも「実」は怪しいのである。なお、以上の記事で記者が見たことがないと言っておられる『鮮やかな紅色のイガの品種』であるが、「Yahoo!ショッピング」のこちらに「珍しい栗。三度栗 紅茜 (ベニアカネ)ポット苗」として画像附きで出るが、その解説たるや、『果実は食べることも可能ですが、味はわかりません』と無責任も甚だしいもんだ。

「紀伊續風土記七七に、西牟婁郡西栗垣内村三度栗多し、持山年に一度宛燒く、燒し株より出る新芽に實る也、八月の彼岸より十月末頃迄に、本中末と三度に熟すと有る」同書は紀州藩が文化三(一八〇六)年に、藩士の儒学者仁井田好古(にいだこうこ)を総裁として編纂させた紀伊国地誌。編纂開始から三十三年後の天保一〇(一八三九)年)完成した。原本の当該箇所は国立国会図書館デジタルコレクションの明治四四(一九一一)年帝国地方行政会出版部刊の活字本のここで確認出来る。]

 基督も弘法流の胸狹い意地惡だった者か、「ベツレヘム」あたりに雛豆の形した石が多い野有り、土人言く、基督曾て爰を通り、豆を蒔く男に何を蒔くかと問ふと、石を蒔くのだと對えた、基督言く、汝は石を收穫すべしと、果たして石の豆斗り生たと(バートン夫人の西里亞巴列斯丁及聖地内情一八七五年板卷二、一七八頁)。ピエロツチの巴列斯丁風俗口碑記(一八六四)七九頁には、基督で無く、聖母が豆を石に變じたと有る、又「カルメル」山の「エリアス」の甜瓜畑の口碑を記し云く、此予言者此地を通り喉乾きければ、瓜畑の番人に一つ乞しに、彼者是は石也とて與えず、「エリアス」彼に向ひ石と云た果は石に成るぞと云て去る、其より瓜が石と成ると云へど、實は石灰質で、甜瓜の狀したる中空な饅頭石だと。又死海近所に「アブラハム」池有り、其底に石灰質の結晶滿布す、傳て言く、「アブラハム」一日「ヘブロン」より此所に來り、鹽を求しに、住民鹽無しと詐る。アブラハム瞋《いか》つて、此後此地より「ヘブロン」への道無く、鹽も無く成るべしと言ふに果たして然りと。

[やぶちゃん注: 「胸狹い」私は「こころせまい」と読んでおく。

「雛豆」「チツクピース」と「選集」には振る。この段落は「選集」では、多数のカタカナ・ルビが附されてある。マメ目マメ科マメ亜科ヒヨコマメ属ヒヨコマメ Cicer arietinum 。但し、英名は“Chickpea”で、単数形の発音は「チックピイーン」に近く、複数形“Chickpeas”は「チックピイーズ」である。

「生た」「なつた」。

「バートン夫人の西里亞巴列斯丁及聖地の内情一八七五年板卷二、一七八頁」書名部は「選集」では「西里亞巴列斯丁および聖地内情」として、全体に「ゼ・インナ・ライフ・オヴ・サイリア・パレスタイン・エンド・ゼ・ホリー・ランド」と振る。「西里亞」が「サイリア」で現在のシリア(ラテン文字転写:Syria)のことで、「巴列斯丁」がパレスチナ。イギリスの作家・探検家・冒険家であったイザベル・バートン(Isabel Burton 一八三一年~一八九六年:同じく作家・探検家・冒険家のリチャード・フランシス・バートン(Richard Francis Burton 一八二一年~一八九〇年)の夫人であった)の著に成る ‘The Inner Life of Syria, Palestine and the Holy Land’(一八七五年刊)である。「Internet archive」のこちらで原本の当該部が視認出来る。

「ピエロツチの巴列斯丁風俗口碑記(一八六四)七九頁」「選集」は書名に『カストムス・エンド・トラジシヨンス・オヴ・パレスタイン』と振る。イタリアのトスカーナ州ルーカ生まれのエンジニアで建築家・数学者でもあったエルメット・ピエロティ(Ermete Pierotti 一八二〇年~一八八〇年或いは一八八八年)が一八六四年に刊行した‘Customs and Traditions of Palestine: Illustrating the Manners of the Ancient Hebrews.’ (「古代ヘブライ人のマナーを説明するパレスチナの習慣と伝統」)。「Internet archive」のここで原本の当該部が視認出来る。

『「カルメル」山の「エリアス」の甜瓜畑の口碑を記し云く、此予言者此地を通り喉乾きければ、瓜畑の番人に一つ乞しに、彼者是は石也とて與えず、「エリアス」彼に向ひ石と云た果は石に成るぞと云て去る、其より瓜が石と成る』「甜瓜」「選集」は『まくわ』と振る。前注のリンク先のページの九行目以下に次のようにある。

   *

For example, on Mount Carmel is shewn the garden or melon-field of Elias, to which the following legend belongs: — The prophet was passing by that spot, and saw a man watching a field of melons. Wishing to quench his thirst, he requested the keeper to give him a fruit, but the churl refused, saying that they were only stones. Elias replied, Stones thou hast called these fruits, and stones shall they become ! and so it happened.These melon-shaped stones, of a calcareous rock, are hollow in the middle, and lined with crystals.

   *

而して、最後の“crystals”に注があり、“Geodes, called commonly in England potato-stones.”とあった。この“Geodes”が熊楠に言う、「實は石灰質で、甜瓜の狀」(さま:「選集」のルビ)「したる中空な饅頭石」(「選集」に『ジオード』と振る)「だと」のそれである。“Geode”はこ汚い岩石の塊りの中に美しい結晶が入っているあれで、日本語では「晶洞(しょうどう)」と称する。当該ウィキによれば、『堆積岩や、火成岩玄武岩内部に形成された空洞の事で、鉱山などでは俗称で〈がま〉ともいわれる』。『ギリシア語で「大地に似た」を意味する』語『に由来する』英語の「ジオード」という『呼称が国内外で一般的である』。『内部には熱水や地下水のミネラル分によって、自形結晶が形成される』とある。

「死海」「選集」は『デツドシー』と振る。以下の伝承の出典は未詳。]

 大師が己れに情厚かつた者に、相應以上の返禮をした例は、上述弘法井の外に、東牟婁郡四村大字大瀨近所に寺有り、其邊に不蒔の蕎麥とて名高いのが有る、昔し大師此所の家に食を乞ふと、何も無つたが、亭主憐み深くて、畠に播んと貯置た蕎麥を有限施したんで、大師例の石に成れの咒も成らず、亭主に向ひ、此蕎麥の殼を蒔けと命ず、其通りすると、殼より蕎麥生え大いに殖え、以來歲々蒔ずに生茂るとは有難い。予其邊を每度通るが、未だ寺近く徃ぬから、實物を見ぬ。然し大瀨から二里斗り步いて、西牟婁郡野中に掛る小廣峠から西、數町の間は、畑地道傍所撰ばず、蕎麥に恰好で、人手を借ずに續生し行くと見ゆ。「コラン、ド、プランチー」の遺寶靈像評彙(一八二一―二年)卷二、二〇二頁に、「メートル」尊者は、四世紀に宗旨に殉じて殺されたが、葡萄を守護すと信ぜらる、生時一土民の許可無しに、其葡萄を食ひ、咎められて初て氣がつき、辨償の爲め、矢鱈に其土民の葡萄を殖し遣たからだと載居る。

[やぶちゃん注:「東牟婁郡四村」(よむら)「大字大瀨近所に寺有り」「大瀨」は現在の和歌山県田辺市本宮町(ほんぐうちょう)大瀬(おおぜ)。「ひなたGPS」の戦前の地図の「大瀨」附近には「馬頭観音」に「卍」の記号があり、近くに集落はある。グーグル・マップ・データ航空写真で見たところ、今も馬頭観音自体はあり、北東山麓に幾たりかの集落を現認出来る。この附近だろう。かなり山深い地区である。

「不蒔の蕎麥」「まかずのそば」。

「播ん」「まかん」。

「貯置た」「たくはへおいた」。

「有限」「選集」に『ありきり』と振る。

「咒」「まじなひ」。

「蒔ずに生茂る」「まかずにおひしげる」。

「徃ぬ」「ゆかぬ」。

「西牟婁郡野中に掛る小廣峠」現在の田辺市中辺路町(なかへちちょう)野中。そこの熊野古道中辺路の途中に「小広王子跡」がある。この附近である(グーグル・マップ・データ航空写真)。サイド・パネルの同跡の解説版に『小広峠の上に祀った小祠』とある。そこから西の方をストリートビューで見たが、今は山間で、凡そ蕎麦の自生らしき感じは、ない。

「畑地道傍所撰ばず、蕎麥に恰好で、人手を借ず」(底本では「す」だが訂した)「に續生し行くと見ゆ。」この部分、「選集」と本文が有意に異なる。「選集」では、

   *

畑地道傍所撰ばず、蕎麦が野生しおる。土質気候が蕎麦に恰好で、人手を借りずに続け生じ行くと見ゆ。

   *

この内容が初出なのであろう。]

 支那で食物が石と成た例は、本草綱目に、會稽山に禹餘粮多し、昔し夏の禹王此所に會稽してその餘食を江中に捨たのが、此石に成たと見ゆ。又太一餘粮有り、一名天師食と云ふ、前者は「いしなだんご」、後者は「すゞいし」抔云ひ、本邦にもあり(重訂本草啓蒙卷六)。前出、甲州の團子石も此類ならん。明の陸應陽の廣輿記十七、四川の諸葛洞は、「亮征九溪蠻宿ㇾ此、設一榻、懸粟一握、以秣ㇾ馬、後遂化爲石榻石粟」と見ゆ。此樣に食物が石に成た例は有るが、食物を咒して石とした例は、只今見當たらず、又臆出さぬ。但し偉人が乞食して、弘法大師同樣施主に厚酬したり、吝嗇漢に苛く報いた話は、古來支那の俗間に行れた物か、波斯に行はるゝ支那傳說なりとて、英譯「ハクストハウセン」の「トランスカウカシア」篇(一八五四年)三七八頁に載たは、伏羲流寓て、或村の富だ婦人に宿を求めると、卑蔑の語を放て門前拂にされた、次に貧婦の小舍を敲くと、歡び納れて有丈の飮食を施し、藁の牀に臥せ、又伏羲が襦袢に事缺くを愍と、終夜眠らず、働いて仕立上げ、翌朝着せて食事せしめ、送て村を出ると、別れしなに伏羲彼貧婦に、汝が朝一番に懸つた仕事は哺迄續くべしと祝ふて去た。貧婦宅に歸て、先づ布を尺度始ると、夕まで布盡きず、跡から跡から出て來たので大富と成た。隣家の富だ女、乃ち夜前伏羲を門前拂ひした奴、之を聞て大に羨で居ると、數月經て伏羲復た村え來た。彼女往て、强て自宅へ伴ひ還り、食を供し、夜中自分の居間に蠟燭を燃やし通し仕事する樣に見せ掛け、翌朝豫て拵え置た襦袢を與え、食を供して送り出すと、伏羲復た前の如く祝した。宅え歸る途中、布を尺度事斗り念じて、丁度宅へ入ると同時に、自分の飼牛が吼る、是は水を欲い相な、儘よ布を量る前に、速く水を遣うと思ふて、水を汲で、桶から槽に移すと、幾時移しても桶一つの水が盡ず、家も畑も水の下に成り牛畜溺死し、隣人大いに憤り、彼女纔に身を以て免れたと云ふ。此話の主意は、蘇民將來の話に似て居るが、子細は甚だ違ふ。(大正三年一月鄕硏第一卷十一號)

[やぶちゃん注:「本草綱目に、會稽山に禹餘粮」(うよりやらう:底本も「選集」も「粮」を「糧」とするが、以下のデータで訂した。但し、別な中文の電子化物を見ると、「糧」ともある。以下の「太一餘粮」に合わせたかったのが私の仕儀の意図である)「多し、昔し夏の禹王此所」(ここ)「に會稽」(くわいけい)「してその餘食」(くひのこし:「選集」を参考にした)「を江中に捨たのが、此石に成たと見ゆ。又太一餘粮」(たいいつよらう)「有り、一名天師食」(てんししよく「と云ふ」「本草綱目」は巻十「金石四」の「禹餘粮」の「釋名」と「集解」の一部を勝手に縮約したものである。「漢籍リポジトリ」のここの、[032-10a]の影印画像から引くと(句読点は「維基文庫」版の当該項の電子版に拠って打った)、

   *

禹餘粮【「本經」上品。】

釋名【白餘粮。時珍曰、石中有細粉如麵、故曰餘粮、俗呼為太一禹餘粮。見太一下。承曰、會稽山中出者甚多。彼人云、昔太禹會稽于此、餘粮者、本為此耳。】

集解【「别錄」曰、禹餘粮生東海池澤、及山島中或池澤中。弘景曰、今多出東陽、形如鵝鴨卵、外有殻重叠、中有黄細末如蒲黄、無沙者佳。近年、茅山鑿地大得之、極精好、狀如牛黄、重重甲錯。其佳處乃紫色靡靡如麫、嚼之無復嘇、「仙經」服食用之。南人又呼平澤中一種藤、葉如菝葜、根作塊有節、似菝、葜而色赤、味似薯蕷、謂為禹餘粮、此與生池澤者復有髣髴。或疑今石即是太一也。頌曰、今惟澤州、潞州有之。舊説形如鵝鴨卵、外有殻。今圖上者全是山石之形、都不作卵狀、與舊説小異。采無時、張華「博物志」言、扶海洲上有蒒草、其實食之如大麥、名自然穀、亦名禹餘粮、世傳禹治水棄其所餘食于江中而為藥。則蒒草與此異物同名、抑與生池澤者同種乎。時珍曰、禹餘粮乃石中黄粉、生于池澤、其生山谷者、為太一餘粮。本文明白。陶引藤生禹餘粮、蘓引草生禹餘粮、雖名同而實不同、殊為迂遠。詳太一餘粮下。】

   *

熊楠の訓読の「此所に會稽して」という部分はちょっと頭を傾げるが、この場合の「會稽」は確かに動詞として機能しており、されば、山名の「會稽」に引っ掛けて、「此(ここ)にて集まり(「會」)留まって(「稽」)休息したという謂いであろうと私はとった。なお、「本草綱目」には同名異物らしい「禹餘粮」が夥しく出現しているので注意が必要である(概ね、時珍はこの変成石に同定しているようではある)。また、小学館「日本国語大辞典」によれば、「禹餘粮」は『日本や中国に見られる岩石の一種。小さい石が酸化鉄と結合したもの。中に空所があって粘土を含む。ハッタイ石、岩壺など多くの呼び名がある。』とし、二番目に『藤の根でつくった食物。飢饉のときの食糧にした。』とあった。

『前者は「いしなだんご」、後者は「すゞいし」抔云ひ、本邦にもあり(重訂本草啓蒙卷六)』国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像のここから並べて記されてある。「禹餘粮」の冒頭に「イシダンゴ【讃州】」とあり、次項の「太一餘粮」の次のページの一行目に、和名羅列の最後に「スヾイシ一名」(下線は原本は囲み字)「祈闍石【「雲林石譜」。】 天師食【「石藥爾雅」。】 山中盈脂【同上。】」とある。

『明の陸應陽の廣輿記十七、四川の諸葛洞は、「亮征九溪蠻宿ㇾ此、設一榻、懸粟一握、以秣ㇾ馬、後遂化爲石榻石粟」と見ゆ』明の陸應陽の廣輿記訓読する。

   *

四川の諸葛洞は、亮(りやう)、九溪蠻(くけいばん)を征して、此(ここ)に宿る。一つの榻(とう)[やぶちゃん注:腰掛。長椅子。]を設け、粟(あは)一握りを懸けて、以つて馬に秣(かいば)す。後、遂に化して「石榻」・「石粟(せきぞく)」と爲(な)れり。

   *

「諸葛洞」洞窟の名らしい。

「亮」後漢末期から三国時代の蜀漢の武将・政治家として知られた諸葛亮孔明(一八一年~二三四年)。

「九溪蠻」異民族の名らしいが、不詳。「五溪蠻」ならば、古代の湖南の山間部を拠点としたヤオ族のことだが。

「臆出さぬ」「おもひださぬ」。

「厚酬」「選集」では『あつくれい』と当て訓してある。

「吝嗇漢」同前で『しわんぼう』(歴史的仮名遣なら「しわんばう」)と振る。

「苛く」「ひどく」。

「波斯」「ペルシア」。

『英譯「ハクストハウセン」の「トランスカウカシア」篇(一八五四年)三七八頁』「トランスカウカシア」(Transcaucasia)は「南コーカサス」の英語。この附近(グーグル・マップ・データ)。「ハクストハウセン」はドイツの経済学者アウグスト・フランツ・ルーディング・マリア・フォン・ハクストハウゼン(August Franz Ludwig Maria von Haxthausen 一七九二年~一八六六年)。ロシア農学に関する研究者で、特に農奴制に関する深い実態分析を行い、農業及びプロシアとロシアの社会関係に関する著書を多く著わした。また、グリム兄弟とともにドイツの伝説、特に民謡を初めて収集した人物としても知られる(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。‘Transkaukasia: Reiseerinnerungen’(「トランスカウカシア――旅の思い出」)。「Internet archive」の英訳本は‘Transcaucasia, Sketches of the Nations and Races between the Black Sea and the Caspian’ (「トランスカウカシア、黒海とカスピ海の間の国家と人種のスケッチ」)。英訳原本当該箇所はここ

「載たは」「のせたは」。

「伏羲」(ふつき(ふっき))は中国古代伝説上の帝王。初めて八卦を作り、婚姻の制度を整え、民に漁や牧畜を教えたとされる。女神女媧(じょか)の兄或いは夫とされ、三皇の一人。ここに出る伏羲のエピソードは漢籍では何に載るのか、ちょっと調べてみたが、よく判らない。識者の御教授を乞うものである。

「流寓て」「選集」に倣うと「さすらへて」。

「富だ」「とんだ」。

「放て」「はなちて」。

「小舍」「こや」。

「有丈」「あるだけ」。

「牀」「とこ」。床。

「臥せ」「ねかせ」と訓じておく。

「愍と」「あはれむと」。

「送て」「おくりて」。

「出る」「いづる」。

「哺」「くれ」。「晡時」(ほじ)は申(さる)の刻で現在の午後四時頃を指す。日暮れ時。

「祝ふて去た」「いはふてさつた」。言祝いで去った。

「歸て」「かへりて」。

「尺度」「選集」は二字で『さし』とルビする。「刺す」で「縫う」の意。

「大富」「たいふ」。

「乃ち」「すなはち」。

「聞て」「ききて」。

「大に羨で居ると」「おほいにうらやんでをると」。

「往て」「ゆきて」

「强て」「しひて」。

「豫て」「かねて」。

「吼る」「ほえる」。

「欲い相な」「ほしいさうな」。

「儘よ」「ままよ」。

「遣う」「やらう」。

「汲で」「くんで」。

「槽」「ふね」。

「幾時」「いくら」。

「盡ず」「つきず」。

「蘇民將來の話」小学館「日本大百科全書」から引く。『説話の主人公の名、転じて護符の一種』の名でもある。「備後国風土記」『逸文によると、須佐雄神(すさのおのかみ)が一夜の宿を借りようとして、裕福な弟の巨旦(こたん)将来に断られ、貧しい兄の蘇民将来には迎えられて粟飯(あわめし)などを御馳走』『になった。そこでそのお礼にと、「蘇民将来之(の)子孫」といって茅(ち)の輪(わ)を腰に着けていれば』、『厄病を免れることができると告げた。はたして、まもなくみんな死んでしまったが、その教えのとおりにした蘇民将来の娘は命を助かったという。民俗では』、『この神は祇園牛頭(ぎおんごず)天王とも習合しており、八角柱の木片に「蘇民将来之子孫也(なり)」などと書いた護符の類を』「蘇民将来」』『といっている。伊勢』『地方などでは家の門口に「蘇民将来之子孫」などと書いた注連(しめ)をかけて災厄除』『けとしている例も多く、また』、『岩手県奥州(おうしゅう)市水沢(みずさわ)区の黒石寺で旧正月』七『日に』、『人々が裸で蘇民袋を奪い合う蘇民祭などもよく知られている』とある。]

2022/07/06

ブログ・アクセス1,770,000アクセス突破記念 梅崎春生 拐帯者

  

[やぶちゃん注:本篇は昭和二八(一九五三)年四月号『小説新潮』に初出し、後の作品集『拐帯者』(昭和三四年四月光書房刊)に所収された。

 底本は「梅崎春生全集」第三巻(昭和五九(一九八四)年六月沖積舎刊)に拠った。文中に注を添えた。なお、題名は「かいたいしゃ」は、「人から預かった金や品物を持ち逃げする者」の意。

 なお、本テクストは2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが本日、つい先ほど、1,770,000アクセスを突破した記念として公開する。【藪野直史】] 

 

   拐 帯 者

 

 十字路は、混雑していた。

 富田商事会社の社長秘書穴山八郎は、しばらく立ち止って、道路の向うの交通信号燈を、いらだたしげに眺めていた。赤が出ている。赤の信号燈が、縦の人波をせき止めている。八郎はまたたきをした。信号燈の赤は、まだまだ赤いままで、なかなか青に変ろうとはしなかった。歳末大売出しの紅や黄ののぼりが揺れている。自動車の警笛。路面電車の車輪のきしり、広告塔から流れ出る濁った器械音。どんよりと垂れ下った雲の色。

(畜生め、俺を向うに渡さないつもりか)

 彼は舌打ちをした。そしても一度信号燈に眼をやり、憤然としたように背をむけ、今来た方向に足を踏み出した。その瞬間、信号燈の色が変ったらしく、彼を取巻く人波の空気がざわざわと揺れる。背をむけた以上、引返すのも業腹(ごうはら)であった。動く人波に逆らうようにして彼は歩いた。茶色の革鞄(かばん)を、両手で胸に抱きかかえたまま。その八郎の恰好(かっこう)は、ちょっと蟹(かに)に似ていた。

(お茶でも飲むか)

 さっきから咽喉(のど)が乾いていた。昼食に食べた中華そばの汁が、少々辛すぎたらしい。それなら汁だけ残せばよかったのだが、お腹もすいていたし、また心にむしゃくしゃすることもあって、意地汚なく、最後の一滴まで呑みほしてしまったのだ。実際あそこの汁は、いつも辛すぎる。もうこれから昼食に、あの中華そば屋に行くのはよそう。

 八郎は立ち止った。横丁を見た。二軒目の店に角燈がかかり、ガラス扉に金文字が『ロンドン』と浮き出ている。彼は革鞄をかかえ直し、つかつかとその方に歩いた。扉を押して、とっつきの卓に腰をおろし、あたりを見廻した。派手な服をつけた白茶けた顔の女が、奥からあらわれた。

「いらっしゃいませ」

 見廻した感じでは、ここは喫茶店でなく、酒場であるらしい。棚には洋酒瓶がずらずらと並び、卓上にメニューは出ていない。八郎は少し顔をあからめ、腰をもじもじさせた。しまったと思ったのだ。

「何になさいますか」

 と女が訊ねた。女の頰には職業的な微笑がぼんやりと浮んでいた。レモンティーが飲みたかったんだけれども、言い出せなくなってしまった。八郎はややまぶしげな眼付で女を見た。声はかすれてどもった。

「ビ、ビール」

 ビールが卓に運ばれて来るまで、彼は鞄を胸に抱き、眼をつむって、じっとしていた。まだ明るいので、店の客は彼一人だ。

(会社の連中、さぞかし俺の帰りを待ち詫びているだろう)

 胸に抱いた古鞄の中には百二十余万円の紙幣束が入っている。富田商事の社員に配るボーナスの全額なのだ。昼過ぎ、社長の命令で、穴山八郎が銀行に行くことになった。社長はその時、八郎の顔を見据(す)え、冗談めかした口調で言ったのだ。

「持ち逃げするんじゃないよ。な、穴山」

 八郎はちょっと困惑し、まごまごした。実を言うと、銀行に行けと言われた瞬間、彼も、その金を持ち逃げする自分の姿を、ちらと頭のすみで想像していたからだ。社長の声がかぶさった。

「もっとも君にはそんな度胸はないだろうがな。わはは」

 富田社長は、年は四十四五の戦後派社長で、内心は狡猾でケチで小心者のくせに、うわべは豪快をてらう型の男だ。その豪傑笑いを聞く度に、八郎は顔には出さないが、あまりいい気持はしない。豪傑笑いで人をごまかしておいて、かげではこそこそと狡(ずる)いことをやる。面白くない。ことに一週間前、タイピストの岡田澄子のことを聞いて以来、八郎の内心の不快はますますつのってきていた。あの富田社長が、岡田澄子をいつの間にか誘惑してモノにし、オフィスワイフに仕立てているという噂だ。八郎はその噂を、便所の中で聞いた。彼が入っている扉の外で、二人の男が用を足しながら、そんな話をしていたのだ。

「本当かい?」

「本当だとも。二人の姿が温泉マークに入って行くのを見た奴がいるんだ」

「へえ。オヤジもうまいことをやるんだな。それにしても澄公、手もなくいかれたもんだなあ」

「金だよ。金さえありゃあね。金へ金へと女はなびく――」

 八郎は息をつめ、耳をそばだてていた。それから急に声が低くなり、短い忍び笑いに変り、

「へえ。穴山がね。あの蟹(かに)公がねえ。そうだったのかい」

「そうだよ。まだ当人、知らないらしいが、知ったらさぞかしガッカリするだろ」

「知っても相手が社長だからな。泣寝入りの他ないよ。宮仕えの辛さか」

 八郎は顔を充血させ、全身を堅く凝(こ)らしていた。やがて二人の足音は、話声と笑声と共に、外の方に遠ざかって行った。怒りと屈辱のため、八郎はそのまま五分間ばかり、身動きも出来ないでいたのだが――

 ビールが来た。

 はっと我に返ったように、八郎は顔を上げた。白茶けた女の顔が、その八郎に、からかうようにほおえみかけた。

「ずいぶん深刻そうな表情ね。金でも落した人みたいだわ」

「うん。いや」

 八郎は口をもごもごさせて、コップを手に取った。鞄は両膝の間にしっかりはさんだままである。女は瓶を傾けて、とくとくとビールを注いだ。そして女は、卓の向うに腰をおろした。八郎は咽喉(のど)を鳴らしながら、一気にコップを飲み干した。

「失恋でもしたの?」

 ふたたびコップをみたしながら、女が訊ねた。八郎は口のまわりの泡を拭いた。妙に狼狽したような表情で女を見た。

「そうでしょ。そう顔に書いてあるわ」

「うん」

 八郎は二杯目のコップをとった。咽喉がからからに乾いていたので、ビールの冷たさがのどぼとけから食道に、ひりひりと沁み渡るようであった。コップを卓にがちゃんと戻しながら、八郎はやっと表情をゆるめて、椅子の背に軀(からだ)をもたせかけた。

「失恋もしたし、と」

「ボーナスも落したし、と」

 おうむ返しに女が口真似をした。

「ボーナス? そんなもの、落すもんか」

 すこし気持が軽くなって、八郎はそう答えながら、女の方をちらと見た。職業的な微笑とともに、女はまっすぐ八郎を眺めている。八郎はかすかな羞恥を感じた。

「僕は絶対に落さない。金を落したことは今までに一度もないよ」

「拾いはしてもね」

「そう」

 三杯目のコップに手を伸ばしながら、

「拾ったことは、たびたびだな。げんにここにも――」

 八郎は膝にはさんだ鞄をかるく叩いた。もちろん冗談のつもりだったが。――

「拾った金が入ってるのさ。誰か莫迦(ばか)なやつが、袋ぐるみボーナスを落しやがって」

 女の顔から急に微笑が消え、頸(くび)を伸ばして、膝の鞄をのぞき込むようにした。八郎は無意識裡に、軀をぎょっとうしろに引いた。

「ほんと?」

「ウソさ。冗談だよ」

「ああ、まるで本当みたいだったわ、あなたの言い方」

「そうかい」

 すこし顔がこわばるような感じで、視線を鞄に落した。はさんだ膝に、鞄の中の紙幣束の厚みが、ありありと感じられる。岡田澄子のことが、苦痛を伴って、ちらと頭のすみを走り抜けた。この一年来、八郎はひそかに彼女に思いをかけていて、まだ言い出せないでいた。今度ボーナスでも貰ったら、何か贈物をして、思いのたけを述べてみる心算(つもり)だったのだが。――そのボーナスが、この鞄の中に入っている。他人のボーナスと一緒に。

「おビール、召上る」

 八郎は時計を見た。四時半を指している。社長は待ちくたびれているだろう。そろそろ怒っているかも知れない。

(君にはそんな度胸はないだろうがな)社を出る時の社長のがらがら声が、突然八郎の耳によみがえってきた。何かに追っかけられるように、彼は口をひらいた。

「ビール。いや、ウィスキーを呉れ。ウィスキー」

 

 ちょっとした何でもないことが、人の心理や行動を、間間急角度に狂わせることがある。いや、この言い方は正確でない。かねて急角度に動きたがっている人間の心理が、たまたま何でもないことにぶっかって、いい機会とばかり、急旋回するだけの話だ。穴山八郎の場合も、ややそれに近かった。

 午後五時、穴山八郎はビールとウィスキーでいい気持になっていた。『ロンドン』を出ると、夕闇が街におちていた。その夕闇の色は、いくらか彼をギョッとさせた。

(もうこんな時刻か)

 彼は時計を見て、鞄をぐっと抱え直し、急ぎ足で歩き出す。夕風が熱した頰に、ひやりとつめたい。怒られるだろうなという予感と、俺にもビール飲むぐらいの度胸はあるんだぞという虚勢が、一歩一歩彼の胸に入り乱れる。歳末の夕方の大通りは、ますます人通りを増して、もうまっすぐに歩けない程だ。肩と肩とがぶっつかり、体と体がこすれ合う。八郎はやはり、鞄を胸に抱きしめるようにして、交叉点へ急いでいた。こんな人混みだから、どんな悪い奴が飛び出して、鞄を奪って逃げないとも限らない。こいつを奪われたら、天下の一大事だ。度胸どころの騒ぎではない。

「畜生!」

 八郎は口の中でつぶやいて立ち止った。交叉点まで来た瞬間、道路の向うの信号燈が、心急(せ)く彼をあざけるように、パッと赤に染ったのだ。勢い込んで来たところを、いきなり張り手を食わされたみたいで、腹が立つ。人混みに街路樹に身体を押しつけられながら、八郎は忌々(いまいま)しく背を伸ばした。電車や自動車や自転車が、あらゆる雑音を発して、八郎の視野を左右に流れてゆく。八郎は舌打ちをした。

「いよいよもってこの俺を渡さないつもりだな」

 この交叉点を渡らねば、富田商事には帰れないのである。それなのに、渡ろうとする度に、信号燈は意地悪く赤になる。百二十万円という大金を正直に持ち帰ろうとする俺の善意を、大きな何者かがせせら笑っているみたいだ。赤い信号燈を見詰めながら、八郎はそう考えた。隣りの男の肱がその瞬間八郎の鞄にふれた。八郎はぎくりとしたように体をよじり、その男をにらみつけた。にらまれたのも知らぬ気に、その男もいらいらと貧乏ゆすりをして背伸びしている。彼と同じ位の年配の善良で働きのなさそうなサラリーマンタイプの男であった。八郎は再び舌打ちをして視線を戻した。信号燈はまだ赤のままだ。

(あいつら、俺のことを蟹(かに)と言ったな!)

 一週間前の社の便所でのことを、八郎は思い出したのだ。あの男たちは、もちろん社員には違いないが、声だけでは誰とも判らなかった。しかしあいつらは、岡田澄子に対する俺の感情を、何故知っているのだろう。あいつらが知っているからには、他の者も知っているに違いない。でも、どうして判ったのだろう。今まで澄子に愛を告白したこともないし、そういう態度を示した覚えもない。向うは社でも有数の美人ではあるし、こちらは安月給の、しかもあまりぱっとしない風体だ。

(蟹!)だから今まで気おくれしていた訳だが、その俺から澄子への愛慕を、どうやって奴等は嗅ぎつけたのだろう。街路樹に背をこすりつけながら、突然八郎はうなり声を立てたくなるような烈しい屈辱と羞恥を感じた。この感情はあの時以来、一日に四五度は彼におそってきていたのだが、今はいささかの酔いといらだちのためか、直接になまなましく胸をつき上げて来た。八郎は思わず唇をかみしめ、眼をかたくつむった。巷の轟音のみが、耳にあふれてくる。

「岡田澄子――」

 眼を閉じた短い時間、八郎は澄子のことを思った。澄子は調査部付きのタイピストだ。昨年入社したばかりの、まだ少女の俤(おもかげ)を残したようなあどけない娘だ。背がすらりとしている。もしかすると、五尺三寸の八郎よりはすこし高いかも知れない。赤いセーターがよく似合う。肌は小麦色で、すべすべしている。昼休みになると、近所の小公園でバレーボールの練習をやる。学校時代に選手だったそうで、身のこなしも水際立っている。八郎はその姿を眺めるのが好きであった。彼女がボールを軽くトスする時、セーターの中で乳房が揺れ、形の良い脚が地を蹴って伸びる。スカートがひるがえって、可愛い膝頭や、もっと上の部分がちらとのぞけたりする。ボールにたわむれる彼女の顔は、かすかに汗ばんで紅潮している。あの身体は、筋肉がしまってすらりとしているが、十五貫はたっぷりあるに違いない。[やぶちゃん注:「五尺三寸」一メートル六十一センチ弱。「十五貫」五十六・二五キログラム。]

「澄子――」

 雑音の渦巻。眼をつむったまま、八郎は顔をしかめた。その清純な魅惑的な身体が、あの富田社長のでくでくした肉体によって、無慚(むざん)にもふみにじられてしまう。その情景が閉じた瞼のうらに、まざまざと浮んで来たからだ。温泉マークの一室。剛(こわ)い胸毛が密生した、山賊みたいな社長の肉体。小鳩のような澄子が逞(たくま)しい男の手で、衣服を一枚ずつ剝がれてゆく。もうすべてがあからさまな小麦色の肌。――その空想の刺戟に耐えられなくなって、八郎ははっと眼を開いた。あらゆる色彩の光が、どっと眼の中に流れ入って来た。彼は急いで視線を信号燈の方に動かした。――赤が出ている!

「よし!」

 声にならない声が、八郎の唇の端で消えた。彼は鞄を抱え直すと、肩や肱(ひじ)をそびやかすようにして、人混みをかきわけかきわけ遮二無二動いた。もちろん会社と逆の方向にである。あとで後侮するかも知れない。その思いはあった。しかしまだ踏切(ふんぎ)りがついたわけではない。そこらでお茶でも飲んで、それから会社に戻ろうと思えば戻れるのだ。

 軽い酔いが八郎の靴の爪先に、必要以上に力をこめさせていた。靴は薄暮の鋪道にかつかつと鳴った。

 

 扉のしまったビルディングの脇のうすくらがりに、易者が小さな店を出していた。白木の台に燈がともり、『手相人相運命判断』という文字を浮き出している。易者は若い女である。その女易者の眼と、八郎の眼が、ぴたりと合った。

 八郎の歩調はためらうようにゆるみ、そして吸いつかれるように台の方へ近づいて行った。この人はおどおどしている。とっさに女易者は職業的な観察眼をはたらかせた。

「見て呉れるかね、手相」

「どうぞ」

 八郎は鞄を持ち換えて、右の掌を差出した。女易者の掌がそれに触れた。

 易者の歳はまだ二十前後らしい。ルパシカみたいな灰色の上衣を着けている。無雑作な断髪なので、白いうなじが見える。八郎はぼんやりとそこを見おろしていた。視野一面の夜の色の中で、そこだけが白く生きている。[やぶちゃん注:「ルパシカ」(ロシア語:рубашка/ラテン文字転写:rubashka)ロシアの民族服・農民服の一つ。詰め襟・長袖・左前開きで腰丈の男性用上衣。襟や袖口や縁辺には刺繍が施されており、腰帯を締めて着用する。本来は厚地の白麻製で、ウエストを絞らず、緩やかにし、しかも暖かいのを特徴とする。音写は「ルバァーシカ」が原音に近い。]

 易者の指は、細くつめたかった。その指は、八郎の掌のあちこちを押して見たり、親指の関節をくねくねと曲げて見たりする。関節の硬軟や反り具合をしらべるのらしかった。まだ何とも言い出さない。仔細に調べているだけである。

(岡田澄子に似てるな)

 掌を無抵抗に易者の指にあずけながら、八郎はちらと考えていた。どこか澄子に似ている。どこがどうとはっきり似ているのではないが、顔立ちの素直さやすらりとした襟首の感じなどが、何となく澄子のそれを聯想させる。さっき、ビルのかげにちらと一目見た時、先ずその感じが八郎に来たのだ。手相を見せるなんて今まで考えたこともないのに、ふらふらと台に近づいたのも、その感じからであった。易者はまだ何も口を開かない。入郎はすこし息苦しくなってきた。白いうなじから、ほのかに若い女性の匂いが立ちのぼってくるようであった。気のせいだったかも知れない。易者がふっと白い顔を上げて、八郎を見た。

「おいくつ?」

「え?」

「年齢(とし)のことよ」

「二、二十八」

 八郎はどもった。易者はまた掌に視線を戻し、筮竹(ぜいちく)を一本とり上げた。そしてはっきりした声で言った。

「あなたは惰性で生きていらっしゃる」

 八郎はぎくりとした。もやもやしたところを、うまく言い当てられたような気がしたからだ。易者は筮竹の尖端を、運命線に沿ってゆるゆると移動させた。

「このきれぎれの運命線は、性格の弱さ、精神力の薄弱などを示し、しばしば生活に窮し、依存的な生活におちいる傾向を示していますね」

 易者の声は、やや職業的な、中性的な、響きを持った。易者は筮竹をあちこち移動させながら、八郎の意志や決断心の弱さ、怠惰な傾向、度胸の欠乏など次々と指摘した。度胸がないと言われた時、八郎は思わず反問した。

「どこにその相が出てるんです?」

 易者は心情線を指した。そこにその相が出ているのらしい。それから筮竹は小指の下へ移動した。[やぶちゃん注:「心情線」環状線に同じ。小指のやや下部から出て、横に走り、通常は人差指及び中指方向へ上行する。]

「あなたはこの抵抗丘が、兆常に弱小でいらっしゃる。これは小心翼々(よくよく)として、臆病だという相です。それから――」[やぶちゃん注:「抵抗丘」調べてみると、手相の各線の間にある掌域を「丘」と呼び、特に感情線の上の小指との間を「水星丘」と呼ぶようである。そこを指すか。とある記載によれば、水星丘が膨れている人は饒舌で商売上手が多く、営業や接客業向きとし、自然と人とのコミュニケーションをとることが上手い、他者から好かれるタイプであるなどと書かれてあった。一方、感情線を挟んだ、その下方の最初の膨らみは「第二火星丘」と呼ばれ、大胆さ・抵抗力・忍耐力・正義感・闘争心・前進力を支配するともあった。以上の部分を指しているようだが、「抵抗丘」という固有名詞はざっと見では見当たらなかった。なお、私は占いの一切を信じない人間である。]

 易者はちらと上目を使って、八郎の顔を見た。

「今あなたは、女性のことで悩みを持ってらっしゃる」

 八郎は黙っていた。易者はつづける。

「愛情丘に島状紋が出ています。これは邪恋とか、異性との相剋、愛情のトラブルを示します。あまり良い相ではありませんね」[やぶちゃん注:「愛情丘」親指の付け根の縦の広範囲部分を「火星丘」と称し、そこは愛情属性を表わすのだそうである。]

 易者は笙竹を置いた。八郎の掌は宙に浮いた。持ち重りのする鞄を、左脇にたぐり上げながら、しばらくして八郎は沈んだ声を出した。

「ぼ、ぼくは今、思い切って、あることをやろうと思っている。そ、それで――」

「おやりになった方がいいでしょう」

 と易者は断定するように答えた。

「決断することであなたの運命は大きく転換する、相に出ています」

 八郎は何か言おうとして、口をもごもごさせた。しかしそれは声にはならず、歪んだような奇妙な笑いが、やがてぼんやりと彼の頰にのぼってきた。その笑いは、光線の暗さのためか、やや邪悪な翳(かげ)を含んでいるように見えた。低い押しつぶされたような声で、

「君が責任を持つかね?」

「え?」

「僕が今踏切ろうとすることに、君が責任持てるかと言うんだ」

 易者は首を傾けて、八郎を見上げた。そして白い頰をほころばせて、短い笑い声を立てた。冗談だと思ったのだろう。それに応じた調子になって、

「ええ。大丈夫。思い切ってやりなさいよ」

「思い切って、それで悪い結果になったら、どうして呉れるんだね?」

「あたしが全身で責任持って上げるわ」

「全身で?」

 易者はいたずらっぽくこっくりしながら、また声を立てて笑った。口紅をつけない唇の間から、濡れた舌の先がちらと見えた。八郎はその瞬間、この女易者に、強烈な接近を感じた。たとえば共犯者への信頼感か連帯感とでもいったようなものを。

「全身でって、大げさな言葉だね」

「だってこれでもあたし、身体を賭けて生きてるんですもの」

「君みたい若い娘さんが、どうしてこんな職業を選んだの。家庭の……」

「それは行き過ぎよ」

 易者はたちまち真顔に戻って、ぴたりとさえぎった。

「あたしは手相を見るだけ。あなたは手相を見られるだけ。それ以上立ち入ることは、おことわりよ」

「そうかい。それもそうだね」

 八郎は掌を引込めた。

「見料はいかほど?」

「百円いただきます」

 八郎はポケットを探ろうとした。そして思い直して、ガチャリと革鞄をあけた。手をさしこんで、そろそろと紙幣をまさぐる。その感触にはひやりとした戦慄があった。

(いよいよ使い込むぞ!)八郎の指が、束の中から一枚の紙幣を、するすると引っぱり出した。

「こ、これでおつりを」

「おつりなんかないわ」

 八郎は肩すかしを食わされたような、途惑(とまど)った表情になる。そしてその千円札を未練げにポケットにしまい、別の百円札を取出す。それを台の上にひらひらと落し、外套の襟を立てながら言った。

「有難う。思い切って、君が言う通りやってみるよ。さよなら」

 

 舞台では白い裸女が、音楽に合わせて踊っていた。

 赤や黄や緑のスポットライトが、めまぐるしく交錯し、トランベットが破れたような音をはり上げる。踊り子たちは皆、白い裸身に申し訳程度の布片をつけ、客席に流し目をおくりながら、手足や胴体を思わせぶりに屈伸させていた。その中の一人が今、大きく動作を変えながら、中央の張出舞台にしずしずと出で来る。ライトがそれを追って移動する。その照明は、ついでに、舞台の両翼の客席をあかあかと照らし出した。そこらの座席は、ぎっしりと満員だ。いきなり光をぶっつけられて、てれくさそうに顔をそむける客。観念したようにじっとしている客。それらの顔顔に交って、穴山八郎の顔が、しごく無感動な色をたたえて、ぼんやりと舞台の方に視線を放っていた。れいの革鞄は、しっかと八郎の胸に抱きしめられたままである。

(これで二百五十円は高いな)

 踊り子の無意味な動きを眺めながら、八郎はふとそんなことを考えていた。さっき易者の台を離れる時、厚氷を力まかせに踏み破るような切ない戦慄があったのだが、それも束の間で、ものの一町も歩かないうちに、糸の切れた奴凧(やっこだこ)みたいな不安定な感情が、彼の全身を領してきたのだ。(さて、何をしたらいいのだろう。ここに百二十万円あるのだが――)サンドイッチマンが立っていた。人形めいた扮装で、時々わざと手をぎくしゃく上げ、劇場の入口を指差している。それを見たとたん、何か命今された如く八郎は、ふらふらと劇場に入って切符を買い求めたのだが、裸女が無意味に踊り動く同じような場面ばかりで、これで二百五十円とは高過ぎる。百二十万円も持っていることをちょっと失念して、八郎はそんなことを思う。それに、裸女と言ったって、全くのヌードでは絶対にない。ストリップ小屋に入るのは、これが初めてだから、少々の期待はあったのだが、裸であるらしく見せかけて、大切なところはチャンとおおい隠してあるのだ。おおい隠してある癖に思わせぶりな恰好と動作で、お客の目を釣ろうとしている。彼は呟(つぶや)いた。

「ふん。莫迦(ばか)々々しいったらないや」

 すぐ傍に張出した花道の、八郎の眼と等高のところに、踊り子の肉体が身悶えするようにくねくねと動いている。ライトに染ったその肌の色が、むしろ俗悪でいやらしい。八郎は小さなあくびをした。思い切って百二十万円拐帯(かいたい)する気になったのに、こんな莫迦げた場所で貴重な時間を潰すなんて、まったくの本末顚倒(てんとう)ではないか。もう先刻の酔いもほとんど醒めていて、富田社長の怒った顔や同僚たちのあざけり顔が、押えようとしてもチラチラと頭に浮んでくるのだ。それらは逃げ廻る八郎の意識を、遠くから鈍く重くおびやかしてくる。(復讐だ!)

 八郎は身体をずらして、そっと立ち上った。鞄を抱きしめ、数百の客席の視線に逆らうように、出口の方に歩く。空いた八郎の座席をねらって、二三の影がすばやく移動する。音楽は鳴りわたっている。

(復讐だ!)

 扉を押して廊下に出る。階段を一歩一歩降りる。何に対して俺は復讐しようというのか。彼はハンカチを出して、つめたい額の汗を拭う。もうこの世のものでない豪華な、目くるめくような烈しい快楽。そんなものを、彼の心は切に欲し始めている。その癖、遠くのどこかで何ものかが、冷やかすような嘲けるような声音で、彼に不断に話しかけてくる。

(まだ間に合うんだぜ。今からその金を、会社に持って帰ればさ。どうだい。え?)

 

 スタンドに肱(ひじ)をついて、酒を飲んでいた。穴倉みたいに暗い、雑然とした大衆的な酒場である。炭火の上で、焼鳥がじわじわと焼け焦げ、煙とにおいが部屋に充満している。酒は熱かった。善良そうな顔つきの女が、スタンドの向うから八郎に話しかけてきた。

「鞄、お預りしましょうか」

「いや。いいんだ」

 八郎はあわてて鞄を抱きしめるようにする。そしてその自分の動作をごまかすためにわざと調子のいい声を出した。

「うまいね。ここの焼鳥」

「自慢ですもの」

「うめえなあ、こりゃ」

 会話を引き取ったのは、先刻から八郎の隣りに腰掛けてしきりにコップを乾(ほ)している男であった。相当酔っているらしく、呂律(ろれつ)も怪しい声で、さっきから誰彼となく話しかけてばかりいる。年は八郎より少し上らしいが、やはり古鞄をぶら下げた、月給取りらしい風体だ。すり切れた外套の肱からしても、おそらく会社でも下っ端なのであろう。下っ端の気楽さと忿懣(ふんまん)が、その酔い方に典型的にあらわれている。

「なあ、オヤジ、この焼鳥は、何だい。表の提燈(ちょうちん)には、鷭(ばん)などと書いてあるが」

「ええ。鷭と申しますのは――」

 団扇をバ尺ハタさせていた年若い主人が、愛想のいい顔をこちらにふりむける。

「――鷭目秧鶏(おうけい)科のちゃぼ大の鳥で、全身灰黒色、翼は橄欖(かんらん)褐色、嘴(くちばし)は黄色で、大鷭小鷭とありまして、冬の肉がしまって、一等おいしいようで――」

「なに。オオバンコバンだと。そりゃ全く花咲爺みたいだな」

 と酔漢はからむ。

「その割にこの肉、一向にしまってないな」

「はあ。今日のは鶏の肉でございます。今度いらっしゃる時は、鷭を用意して置きます」[やぶちゃん注:「鷭」鳥綱ツル目クイナ科Gallinula属バン Gallinula chloropus 。詳しくは私の『和漢三才圖會第四十一 水禽類 鷭 (バン) 附 志賀直哉「鷭」梗概』を参照されたいが、「小鷭」はこのバンで(戦前は、以下の「オオバン」と区別するために野鳥図鑑などでは「コバン」の異名を用いた)、異種のバンに似た大型のクイナ科オオバン属オオバン Fulica atra を指す。但し、オオバンは根元が有意に赤い嘴のバンとは異なり、嘴が白く、上嘴から額にかけても、白い肉質(額板)で覆われており、一目でバンとは、全然、異なっていることが判る(リンク先はそれぞれの当該ウィキ)。]

 女たちが笑い出す。酔漢の眼は、今度は壁に貼られた短冊(たんざく)の方にうつる。

「え。なになに。乙女白息ルパシカの肩の髪ゆたか、だと。べらぼうに下手糞な川柳だな。わけ判らんじゃないか」

「あれは俳句でございます。富田直路という新進の俳人の句で」[やぶちゃん注:「富田直路」実在する俳人。富田直治(とみたなおはる 大正一一(一九二二)年~?:愛知県出身。『風』・『林苑』・『春耕』同人)の初期の俳号らしい。月刊俳句誌『獐noRoWEB版の発行人であられる方のブログ「風胡山房」の結城音彦氏の「風狂 西口界隈第二部 酒場『ボルガ』のこと」に、『富田直路(現在は直治)は当時』『小説公園』『の編集者で、ボルガに「俳人で一番初めに来たのは富田直治」(「麦」五〇〇号記念対談・俳句と人生・~現代俳句の過去と未来~と題する、「獐」主宰高島 茂と「麦」会長田沼文雄の対談から高島 茂の談話より引用)であり、石川桂郎をボルガに連れてきたのも富田直治だということである《当時の「馬酔木」に連載の『続・俳人素描(8)高島 茂』(石川桂郎著)より》』とあり、調べると、この酒場「ボルガ」は新宿の焼鳥屋で、俳人がよく出入りしていたらしい(ここの検索結果)から、或いは、このシークエンスの焼鳥屋も、その店名と掲げられた句(句自体は発見出来なかった。「白息」は「しらいき」か)からも「ボルガ」がモデルなのかも知れない。]

 主人は落着きはらってそう答える。笑声。八郎は、寝入りばなを起された子供のようにぎくりとする。富田という名前から、社長のことをはっと思い出したからだ。八郎の視線は、不安気にそこらあたりに動く。その視線がたまたま、スタンドの端の黒い電話機に、ぴたりと止る。燈の色を吸って、黒々としずもっているその受話器。八郎の眼はしばらくそこに釘づけとなっている。酔いのせいか、その眼はやや赤く血走っている。

(あの受話器を外して、ダイヤルさえ廻しさえすれば)

 その誘感に抗し切れないように、八郎は身ぶるいをする。

(今日の宿直は、誰だったかな。山田――鈴木?)

「おい。元気出せよ」

 隣りの酔漢の掌が、力まかせに八郎の肩をたたく。八郎はぎくりとふり返る。

「元気、出せよ。飲みにきてまで、クヨクヨするなよ。なあ、我が同志」

「クヨクヨなんか」

 酔漢の眼は、言葉の荒っぽさに似ず、案外しょぼしょぼとして、見るからに善良さにあふれている。言わば救いを求めるような、弱々しい眼だ。(ああ俺の眼と同じだ)瞬間に八郎は思う。

「電話掛けようかと思ったんだ」

「掛けなよ。迷うこたあない」

「じゃ、掛けようかな」

 八郎は腰を浮かした。しかし会社に掛けて何を聞こうというのか。何を確かめるのか。女が気を利(き)かせて、電話機を八郎の前に持ってくる。

「さあ、どうぞ」

 八郎は受話器をにらみつける。そしていきなりわしづかみして、ダイヤルを廻す。ペルの音がして、やがて相手が出てくる。八郎はつくり声を出す。

「もしもし。富田商事ですか?」

「そうです」

 宿直の鈴木の声だ。その声の彼方に、小さく固いものを、がらがらとかき廻す音がする。麻雀をやってるな。八郎は鹿爪らしい声で訊ねた。

「社長さんおいででしょうか。おいででしたら一寸お電話口まで」

「社長。社長はもう帰りましたよ」

 そして、ガチャンと向うから電話を切ってしまう。八郎は妙な顔をして、しぶしぶと受話器を戻す。(バカ野郎奴!)八郎はコップヘ手を伸ばす。(ボーナス持ち逃げされたってのに、呑気(のんき)に麻雀などやってやがる?)コップの残りを、ぐいと飲み乾す。(社長が出て来たら、あやまって、これから会社に戻ろうと思っていたのに)

 傍から酔漢が話しかける。

「もう、電話、済んだのかよ」

「済んだよ」

 もう一杯酒を庄文しながら、八郎はさばさばと答える。もうどうにでもなれといった気持だ。

「もう何もかも済んだ。今日は今から飲むぞ。大酒飲んで大遊びするぞ」

 

 酔漢は名刺を出した。しょぼしょぼした下っ端のくせに『大河原帯刀(たてわき)』などという堂々たる名前を持っている。人なつこいたちだと見え、別れようとすると八郎の袖をつかみ、なかなか離さなかった。

「今晩は俺とつき合えよう。袖触れ合うも他生の縁じゃないか。金はまだ、ボーナスが少しばかり残ってるぞ」

 大河原の善良さにも引かれる気持はあったし、気楽な飲み相手だったし、強いて別れたって、自分一人ではどうして遊んだらいいか判らながったし、八郎はずるずると大河原につき合った。焼鳥屋を出、(その勘定は大河原が無理に払った)それからまた二軒ばかり廻った。その一軒は、小さなキャバレーみたいなところで、派手な女たちがそばに坐り、バンドが鳴り響き、フロアでは人影がなめらかに動き、火薬を詰めた小さな紙筒が、あちこちで景気よくパンパンと破裂した。女たちが運んでくるのは、もっぱらビールである。バンドがかきならす曲目は、『ホワイトクリスマス』『ジングルペル』。八郎の酔眼には、そこらあたりは、ごちゃごちゃに引っかき廻した切紙細工に見えた。

「ねえ。クリスマスの券、買ってよう」

 傍に坐った半裸の女が、鼻を鳴らした。

「ねえ、一枚たった二千円なのよ。よう。買ってよう。社長さん」

「僕は社長じゃないよ」

 鞄を相変らず抱きしめたまま、八郎はやや呂律も怪しく答える。その会話を聞きとがめたように、大河原がそばから口を出す。

「いや、えらい。よくぞ見抜いた。この人は、我が社の社長だよ」

「よせよ」

「ねえ。社長さん、買ってよ」

 女が八郎にしなだれかかる。露出した肩の筋肉が分厚い。よく脂肪がのって、五寸位の厚みはありそうだ。強い香料が八郎の嗅覚をくすぐる。八郎は身体を引くようにして、その女の裸の肩を見る。その肌の色は逸楽的ではあるが、八郎が今夜望んでいる快楽とは、どこか異っている。彼は突然、強い退屈を感じる。(どうにかしなくては!)大河原は向うの女と、何か冗談を言い合いながら、ケラケラと笑っている。

 その次の一軒は、天ぷら屋の二階であった。二階と言っても、すすけたようなこの一部屋だけである。大河原は顔馴染(なじみ)らしく、酒や天ぷらを運んできた少女に、心易げな冗談口を利いたり、手を握ったりした。少女は丁度、色気がつき始めたという年頃で、

「いけすかないわ」

「いけすかないったら、ありゃしない。この大河原さんったら」

 口癖みたいに、ちょっと訛(なま)りのある声で発音した。田舎田舎とした顔立ちだが、もう眉黛(まゆずみ)を引いたり、口紅を濃くつけたりしている。爪も赤く染めているのだが、水仕事でふくらんだその手には、極めて不似合だ。大河原の悪ふざけを口ほどには厭がっている風でもなかった。

 少女が階下に降りてゆくと、大河原は大げさに慨嘆するように言った。

「もうあの娘も、生娘(きむすめ)じゃないんだぜ」

「どうして判るんだ?」

「そりゃ判るさ。態度や恰好でね」

 二人は天ぷらを食べた。あまり旨(うま)くなかった。大河原はここでは酒を飲まず、すこしずつ酔いが醒めてきた風である。何だかすこしずつ元気がなくなってくる様子で、口数も少くなってきた。八郎は銚子をつきつけた。

「さあ。も少し飲めよ」

「いや、もう」

 眼をしょぼしょぼさせて、海老(えび)の尻尾などをはき出している。やがて力なく坐り直すと、内ポケットから紙袋をとり出した。年末賞与と書いてある。大河原はそれを逆さに振った。百円紙幣が六七枚、ぱらぱらと畳に落ちた。大河原は八郎の顔を見て、哀しそうな声を出した。

「もうこれだけになっちゃった。どうしよう?」

「どうしようって、使えばなくなるさ」

「そりゃそうだけど、このボーナスを待っている女房子供の身にもなってみると――」

 大河原は手巾(ハンカチ)を引っぱり出して、眼尻を押えた。涙が出ているわけではないから、ちょっと恰好(かっこう)をつけてみたのらしい。

「僕は泣きたくなって来るよ」

「じゃ、使わなきゃ良かったじゃないか」

 八郎はすこし呆れて、つけつけと言った。大河原は叱られた幼児みたいな表情になって、上目使いをした。

「でも――」

「でも?」

「でも、使わずには居れなかったんだよ。あんまり癪(しゃく)にさわって」

「何が癪に障ったんだい?」

「だって、予想じゃ、最低一月半は出るというんだろう。それがさ、今日貰って封を切ってみたら、たった半月分じゃないか。こんなハシタ金、家へ持って帰れるかい」

「半月分でも、出ただけでもいいよ」

 と八郎は詰間するような口調で言った。

「ボーナスをそっくり持ち逃げされて、とうとう一文も社員に渡らないという会社もあるんだよ」

「ねえ。頼む!」

 大河原はいきなり大声を出して、坐り直した。

「今晩、俺の家に来て呉れないか」

「僕が何故?」

「さっきキャバレーで思い付いたんだが」

 と大河原はきらきらする眼で、八郎をにらみつけるようにした。

「君は女どもから、社長に間違えられたな。あのでんで、僕の会社の社長になって、僕の家に来て貰いたいんだ」

「君の家に行って、どうするんだい?」

「うちの女房に会ってさ、今期は社の事業不振で、ボーナスは出せなくて済みませんと、あやまって貰いたいんだ」

「そんなバカな」

 八郎は呆れ果てて嘆息した。

「身なりや恰好見れば判るだろ。こんな平家蟹みたいな社長があるかい」

「平家蟹?」

 大河原は瞳を定めて、しげしげと八郎の顔を見た。

「なるほどね。そう言えば君は、全く平家蟹にそっくりだ。でも、大丈夫だ。僕んちの女房は、身なりや恰好で人を判断する女じゃないんだから。頼む。大河原帯刀、一生の願いだ」

「そういうわけには行かないんだよ。僕は今から遊ばなくては。もう夜も短い」

「なに!」

 大河原はそろそろと腰を浮かせて、卓越しにつかみかかろうとする気勢を示した。

「自分の遊びと、他人の生涯の浮沈と、どちらが大切だ。そんなことを言うと、俺はほんとに怒るぞ」

 そして大河原の手がいきなり伸びたと思うと、八郎の傍の革鞄(かばん)をぱっと摑(つか)んだ。あっと言う間もなかった。革鞄は宙を飛ぶようにして、大河原の胸に抱きしめられていた。八郎は飛び上った。

「あ、それは――」

「どうだ」

 大河原は呼吸(いき)をはずませながら、勝ち誇ったように言った。

「ついて来なけりゃ、この鞄は戻さない。無理に取戻そうとするなら、窓から外に捨てちゃう。どうだ。ついて来るか」

「おともするよ」

 八郎はへたへたと坐り込みながら、観念して答えた。鞄を窓からほうり出されては、たまったものではない。もう大河原の言うなりになる他はないようであった。

 

 油断を見すまして鞄を取返す。そのチャンスをねらったのだけれども、大河原はなかなか用心深く、胸にしっかと抱きしめて離さない。代りに大河原の鞄を持たせられて、八郎は郊外電車に乗せられ、八つ目の駅でおろされた。駅員もろくに居ないような、ひっそりとした寒駅である。八郎はホームでくしゃんとくしゃめをした。そろそろ心細くなってきた。

「ここからまた歩くのかい?」

「うん。なに大したことはない。十五分ばかりだよ」

 半欠け月が空に出ていて、黒々とした樹々の梢を、夜風が音を立ててわたっている。大河原が先に立った。しらじらと伸びる畠中道である。道は泥の凸凹のまま、固く凍りついて、歩き辛い。肥料のにおいが夜気にただよっている。まことに田舎々々とした夜景の中で、大河原がふり返った。

「君は女房子供はあるのかい」

「なに、独身住いのアパート暮しだ」

「そりゃ好都合だったな。じゃ今晩は僕の家に泊って行け。酒ぐらいならごちそうするよ」

 むっとした顔つきになり、八郎は返事をしなかった。ボーナスを使い果たしたのに、まだ飲む気でいるらしい。

 やがて畠の彼方から、点々と人家の燈が見えて来た。ヘんなところに人家の聚落(しゅうらく)があると思ったら、大河原の説明によると、都営住宅だという。同じ大きさの同じ恰好の家が、お互いによりそうようにして、二三十軒ずらずらと並んでいる。

 大河原の家は、その一番端にあった。

 玄関をあける前に、大河原は八郎が持っている鞄をも取戻した。つまり八郎は手ぶらになり、大河原は鞄を二つ抱きかかえた形となる。足でがらりと玄関の扉をあけた。

「帰ったぞ」

 奥から先ず飛んで来たのは、二人の男の児である。そしてそのあとから、奥さんが悠然と姿をあらわした。瘦せて世帯やつれをしたような奥さんを想像していたのに、小型戦車を思わせるような、堂々たる体格の細君であった。八郎はあいまいに頭を下げた。

「お客さまをお連れしたよ」

 大河原の声は、少々元気がなくなってきたようである。八郎の方を指しながら、

「うちの社の、社長さん、の甥御(おいご)さんで、穴山さんとおっしゃる」

 社長として紹介するのは、さすがに気が引けたのであろう。八郎は社長からたちまち甥御に下落した。

「さようでございますか。さあ、どうぞ、どうぞ」

 細君は愛想のいい声を出した。男の児は二人とも、大河原の手にすがって、てんでにお土産を請求し始めた。それをあしらいながら、大河原は細君に知られないように八郎の方をふり返り、ちょっと片目をつぶって見せた。八郎はそのおかえしに、章魚(たこ)のように口をとがらせて見せた。

 座敷に通されて見ると、チャブ台の上に、刺身だの酢の物だの吸物だのが、主を待ち顔に並んでいる。ボーナス日だと思って、とくに細君が料理の腕をふるったらしい。あわててそれを片づけようとする細君に、大河原は声をかけた。

「そのまま、そのまま。それよりも酒をあっためろ。この穴山部長は社内でも有数の酒好きだ」

 

 鞄の中の百二十万円から、その一パーセントをさいて、大河原帯刀にボーナスとして与えよう。その考えが八郎の脳裡に浮んだのは、細君の酌でまた大いに酔いが戻り、便所に立ち、便所の窓から白い片割れ月を眺めた時であった。月は無心に照り、その光はあまねく万物におちている。感傷的な感動が、八郎の胸に瞬間にあった。

(どうせ俺の金じゃないんだ。一パーセント位で、一家の幸福が買えれば、これに越したことはないだろう)

 そういう思い付きが八郎の頭に宿ったのは、大河原一家の家庭の雰囲気のせいもあった。肥った細君は大河原を信頼しているらしく、酒のかんも程良かったし、手作りの料理もなかなか旨(うま)かった。夜遅い父親を待ちかねていた子供らも、お土産がないと判ってもすねることなく、母親の言い付け通り寝巻に着換え、それぞれ素直に寝床に入った。そういう雰囲気は、あたたかく八郎の全身をも包んだ。その家庭の中心であるべき大河原帯刀の態度が何かうしろめたく元気がないのも、ボーナスを使い果たしたせいなのであろう。八郎は月を見上げながら呟(つぶや)いた。

「どうせかっぱらった金だ」

 もし一パーセントの一万二千円を、大河原に与えてしまえば、もう完全な使い込みである。後で悔いても取返しはつかない。その気持をねじふせるようにして、八郎は座敷に戻ってきた。

 心痛をごまかすためか、大河原は盃(さかづき)をぐいぐいあおり、八郎にも、しきりに盃を強いる。細君は、八郎が部長であることを微塵(みじん)も疑わないらしく、しきりに話題を会社のことや、景気のことに持ってゆく。あやふやに受け答えしながら、八郎はそっと自分の鞄を引寄せた。ガチャリとあけて、紙幣束を手探る。一枚、二枚と、十二枚数えて引っぱり出す。すべてチャブ台の下の操作だから、大河原夫妻の眼にもふれないが、なかなかの苦労だ。その十二枚をそろえて、も一度数え直してみる。

「おい。さっきの賞与袋をよこせ」

 細君が台所に立って行った時、八郎は低声で大河原に催促した。大河原はきょとんとした顔で彼を見た。

「早くよこせったら。僕がボーナスを出してやる」

 賞与袋をひったくるように受取ると、十二枚を押し込み、大河原に押しつけた。

「これはやるんじゃないよ、貸してやるんだよ。いいか」

「済まん」

 何か訳も判らないまま、とにかく賞与袋がふくらんだのを見て、大河原は手を合わせて拝むまねをした。細君が酒徳利をぶら下げて、台所から出てきた。拝んだ恰好をごまかすために、大河原はその手をひょいと踊りの恰好に変えた。

「まあ、何ですか」

 細君は坐り込みながら、きまり悪げに八郎の方をちらりと見た。

「いつも宅は酔っぱらうと、ひょうきんな真似ばかり致しまして――」

「バカ言うな。早く酒を注げ」

 と大河原は、急にはつらつと元気が出て来たようである。

「平家蟹部長にも、早く酒を注いでさし上げろ」

「まあ、悪いわ。部長さんのことを、平家蟹だなんて」

 細君は掌を口にあてて、押え切れないように笑い出した。幸福に満ちあふれた笑い声である。手にした徳利から、笑いと共に、酒がたぶたぶこぼれる。八郎はかすかな嫉妬と羨望を感じて眼を伏せた。(この一家はこれで幸福になったが、この俺はとうとう拐帯者(かいたいしゃ)となってしまった)八郎はまた盃に手を仲ばした。成行きに任せるより仕方がない。居直るような気分である。

 

 朝食を済ませ、細君に見送られて、二人は外に出た。赤土を持ち上げたおびただしい霜柱である。二人の靴の下で、それらはサクサクと、鋭い刃になって砕けた。

 うまく応対したものだから、最後まで部長の化の皮は、見破られなかった。しかしそれにしても、何か憂鬱な重い気分である。酔いは醒めたし、寝不足で瞼はふくらんでいるし、昨夜のことが莫迦々々しくて仕方がない。貴重な一夜をムダに過してしまった。全くそんな感じである。風邪を引いたと見えて、鼻の奥が刺すように痛かった。

「昨夜はどうも迷惑をかけたな」

 家が見えなくなるまで歩いてきた時、大河原はにやにやと八郎をかえり見た。

「おかげで女房にも面目が立ったよ」

「まったく大迷惑だよ」

 八郎は笑いもせずに答えた。

「君は面目が立っていいようなものの、僕は予定が大狂いだ」

「あっそうだ。君に借用証書を書いとこう。ほんとに大助かりだったよ」

 駅について、電車が来るのを待つ間に、大河原はペンと紙を出して、急いで借用証書を作成した。見ると返済方法は、向う十二箇月間の月賦となっている。月に千円ずつ返済してゆくつもりらしい。別段異存もなく、八郎はそれを受取った。酔いが醒めた今となっては、一万二千円が惜しいというより、それを与える気になった自分の未熟な感傷の方が恥かしかった。

 郊外電車から国鉄への乗換駅は、ものすごく混んでいた。みんな鞄をぶら下げた出勤者ばかりである。その中でもまれながら、この数百数千の群集の中で、自分一人だけがどこにも行くあてがないと思い当った時、八郎は突然強い寂寥(せきりょう)と焦燥を感じた。大河原は鞄をかかえこんで、歩廊への階段を降りてゆく。八郎は人混みにまぎれるふりをしながら、そっと大河原から離れた。大河原も会社に出勤するに違いないし、いつまでもついて歩くわけには行かないのである。

 八郎はそのままふらふらと、あてもなく改札口の方に歩いた。とにかく駅を出なくては。こんなに多くの群集の中には富田商事の人間が一人や二人混っていないとも限らない。見とがめられると大変だ。

 改札を出ると、八郎は得体の知れない不安に恐怖を覚えた。誰かが遠くから、じっとこちらを監視しているような感じがする。そいつがいきなり手をあげて「拐帯者!」と叫び出しそうな気がする。八郎は外套(がいとう)の襟を立て背を丸めるようにして、あてもなく急ぎ足であるいた。人通りの多い街を外れ、人気(ひおけ)のない淋しい区画の方へ、自ら足が動いてゆく。ぶら下げた鞄は、犯した罪の重みのように、しっとりと手に重かった。

(さて今日は、どうやって時間を消すか?)

 

 ごみごみした小住宅街の、とある横丁に何気なく曲り込んだ時、八郎の耳は清らかな斉唱の声をふととらえた。幼い子供たちの合唱である。歌は讃美歌であった。

 

  もろびとこぞりて

  むかへまつれ

  ひさしくまちにし

  主はきませり

 

 八郎は立ち止って、あたりを見廻した。柵に囲まれた空地と見えたのは、幼稚園の庭らしく、声はその傍の緑色の建物から流れてくるようであった。八郎はかすかに胸がつまった。子供の頃通っていた日曜学校のことを、思い出したからだ。

(そうだ。今日はクリスマスだ)

 八郎は庭に足を踏み入れ、建物の入口をそっとのぞいて見た。靴棚には子供たちの靴が、三和土(たたき)には大人の靴や草履(ぞうり)が、足の踏み場もないほどに並んでいる。

「クリスマスをやってるんだな」

 どういう気持か判らないが、ふっと八郎はそこに入ってみる気になった。幼児の父兄みたいな顔で入れば、見とがめられることもないだろう。

 八郎はそっと靴を脱いだ。廊下に上ると、壁に大鏡がはめこまれていて、それが彼の全身をうつし出した。八郎はその自分の姿を見た。蟹(かに)そっくりの自分が、革鞄を大切そうにかかえている。八郎は眼を外らした。

 クリスマスの部屋は、廊下を曲って、突き当りの部屋であった。扉が半開きになり、母親たちらしい人影があふれている。その手前が、いろいろ準備をする控えの間らしかった。その控えの間に立っている二人の中年の女が一斉に頭を動かして、八郎を見た。その一人が、いらだたしげな手付きで、八郎を手まねきした。

 八郎は意志をなくしたように、ふらふらとその女の方に近づいて行った。手まねきした女は、縁無し眼鏡をかけていて、いかにも世話役らしいきびきびした顔をしていた。

「ずいぶん遅かったわね。はらはらしたわよ」

 と女は八郎に、つけつけした口調できめつけた。

「早く着換えなさいよ。子供たちは先刻から待ちかねているのよ」

 八郎はキョトンとしていた。何か間違えられていることは判ったが、どんな間違いなのかそれはよく判らなかった。女の右手がいらいらと卓の上を指した。

「早く、早く」

 八郎は卓上を見た。そこには赤い衣服や帽子や、大きな袋が載っている。サンタクロースの扮装である。

「僕が、この衣服を?」

「そうよ、きまってるじゃないの」

 女は八郎の外套に手をかけて、脱がせようとした。八郎はそれにあらがおうとして、すぐに力を抜いた。外套は無雑作に剝ぎ取られた。も一人の女は赤い服を持って、八郎の背後に立っている。否も応もなかった。五分後、白い綿を鼻下や頰ぺたにくっつけてサンタクロースがすっかり出来上った。二人の女は大きな袋を、八郎の背中に押しつけた。袋の中には玩具やそんなものが沢山入っているらしく、ガチャガチャと鳴った。

「バカね。この人」

 眼鏡の女が八郎の手から、鞄をひったくった。

「鞄をぶら下げたサンタクロースが、どこにありますか!」

 隣りの部屋から、可愛い合唱が流れてきた。足踏みの音も聞えてくる。

 

  あかい帽子をかぶってる

  サンタ爺さんまだ来ない

  遠い雪道寒いだろう

  静かにすると聞えてくるよ

  リンリンそりの鈴の音が

 

 眼鏡の女がリンリンと鈴を鳴らしながら、廊下に出ていった。鞄に心残りはしたが、八郎ももう騎虎(きこ)の勢いで、女のあとにつづいた。ガニマタで猫背の俺だから、サンタ爺にはうってつけだな。そんなことを考えながら、鬚の中で八郎は苦笑した。鈴の音にみちびかれて部屋に入ると、歌はしずかに止み、小さな掌を打ち合わせる拍手が、四方からまき起った。突然一粒の熱い涙が、八郎の瞼を焼いて頰に流れ出た。彼は手を上げ、鬚の先でそれを拭きながら、強いて朗かな声を出そうとした。

「皆さん。私は今日遠い国から、ソリにのってはるばるやって参りました」

 咽喉がかすれて、快活な声にならなかった。たくさんの幼い眼の注視の中で、八郎はぎくしゃくと袋を床におろした。

「さあ、ここに皆さんへのクリスマスプレゼントが……」

 

 午後十時。女易者は店を片づけ始めていた。燈をふき消し、木の台を折りたたむ。白いうなじに寒い夜風があたる。易者はちょっと身ぶるいして顔を上げた。昨夜の男がそこに立っていた。今夜もいくらか酔っているらしく、呂律(ろれつ)がはっきりしない風であった。

「もう店仕舞かね?」

「ええ。師走だから、お客が寄りつかないんですもの」

「も一度手相を見て貰いたいんだ」

「もう駄目よ。燈も消したし」

「じゃ、そこらでお茶でも飲みながら――」

 女易者はいきなり腕を摑(つか)まれた。真剣な握力である。易者は一度はそれをふりはなそうとしたが、思い直したようにその動きを止めた。

「じゃ、ちょっと待っててね」

 易者が仕事道具を片づけて、近所の店に預けてくる間、穴山八郎はビル横のうすくらがりにぼんやり佇(たたず)み、遠く近くの盛り場の燈の列を眺めていた。今宵はクリスマスイヴである。明るい燈のもとを、酔客の群がはしゃぎながら歩いてゆく。八郎の眼は、やや兇暴な光を帯びて、それを見た。易者は小走りで戻ってきた。

「お待遠さま」

 八郎は先に立ってあるき出した。易者もそれにつづいた。酔いの意識の底で、八郎はいつかタイピストの岡田澄子とつれ立って歩いているような錯覚におちている。いたわるような遠慮がちの声で、

「お茶でものむ?」

「何かあたたかい、食べものの方がいいわ」

 八郎は易者の顔を見た。易者はわるびれない視線で、八郎を見返した。

 十分後、二人は中華そば屋にいた。五目そばを食べていた。もっとも食べているのは易者の方で、八郎は二箸三箸つついてみただけである。食事は終った。待ちかねたように八郎は口を切った。

「君が言う通りにやってみたけれど、やっぱり面白くなかったよ」

「何のこと?」

「決断して踏切れってことさ。そら、昨夜そう言ったじゃないか」

 易者は手巾(ハンカチ)を出して、口のまわりを拭った。無表情な、能面にも似た静かさである。

「決断して何をしたの」

「会社の金を持って逃げたんだ」

 易者は短く笑った。しかし八郎の真面目な表情を見て、笑い止めた。食べ終った箸(はし)をポキポキ折りながら、

「面白くなかったら、戻せばいいんじゃないの。カンタンなことよ」

「カンタンにゆくものか」

「でも、持ち逃げしたって、あれから一昼夜でしょ。どうにでも言い訳はつくわ」

「どう言い訳するんだね」

 易者は黙った。沈黙が来た。少し経って、八郎は押しつぶされたような声を出した。

「君は責任を持つと言ったね、昨夜。全身的な責任を」

 易者はぎくりとしたように顔を上げた。ぎらぎらした八郎の眼がそこにあった。食い入るように見詰めている。

 やがて易者は肩を動かして、ほっと息をついた。そして視線を八郎の鞄にうつしながら低い切迫した声でたずねた。

「金は、その鞄に入ってるの」

 八郎はうなずいた。

「いくらぐらい?」

「百二十万円」

「どうしてそれを持ち逃げする気になったの?」

 八郎の顔に、ちらと困惑の色があらわれた。今度は易者の視線が、まっすぐに八郎を突き刺している。八郎はどもった。

「交叉点の信号が、赤だったんだ。だから僕は……」

 

 ちょっと電話をかけてくるから、もし厭だったら、その間に姿を消してしまいなさい。八郎が女易者にそう言う気になったのは、かりそめの遠慮心からだっただろうか。聞えたのか聞えなかったのか、易者は眉も動かさず、しずかに煙草をくゆらしていた。何か考え込んでいるふうにも見えたし、ふてくされた態度にも見えた。八郎は鞄を小脇にかかえ、奥へ歩いた。

 電話は調理場のそばにあった。肥ったコックが大きなフライパンで、しきりに料理をつくっていた。ラードやニンニクのにおいがむっとただよう。

 八郎は手帳を取出し、眉を吊上げて、しばらくその一頁をにらんでいた。記してあるのは、富田社長の自宅の電話番号である。も一度電話する気になったのも、易者のすすめからであった。もちろん受話器をとり上げるのには、密度の違う世界に入ってゆくような、烈しく不快な抵抗があった。電話口の向うに、やがて社長の声が出て来た。

「ああ、穴山君か」

 いつもの声とちがって、おどおどしたような猫撫で声である。

「どうしたんだね。心配してるよ。今どこにいるんだね?」

 八郎は黙っていた。

「ねえ、穴山君。一刻も早く帰っておいで。君のことは、まだ誰にも話してない。誰も君の行為は知らないんだ。僕の胸ひとつにたたんである。大手をふって帰っておいで。今からでも遅くはない」

 社長の狼狽ぶりと心痛ぶりが、その猫撫で声から、ありありと読み取れるようであった。八郎はしかしその口調に、かすかな反撥を感じた。

「無条件で僕を入れますか。それがうかがいたいんです」

「もちろんだよ、君」

 社長の声は日頃の豪快さを失って、いよいよ弱々しくなるようであった。

「少しぐらい使い込んであっても、僕は何とも言わない。な、戻って来てくれ。頼む。その金が戻らないと、僕は社員や株主に顔向けができんのだ。な、教えてくれ。今どこにいるんだね?」

「都内の某所に潜伏中です」

「そ、そんな意地悪なことは、いわないでくれ。君の条件は、何でも入れる。決して自暴自棄にならないで、な、人生は真面目に渡った方が、結局は得なんだ。君だって子供じゃないんだから、判るだろう」

 受話器を耳にあてたまま、八郎はコックの焼飯のつくり方を眺めていた。なるほど、あそこで塩を入れ、それからコショウを入れるんだな、そして調子よく、フライパンの中の飯をひっくりかえす。

「ねえ。どうしてそんな出来心を起す気になったんだい。え。何か僕に不満でもあったのか。不満があったら、逃げたりしないで、僕に直接言えばいいじゃないか。え?」

「よく考えてみます」

 八郎は受話器を耳から離した。何か叫ぶ社長の声が、耳から弱まった。八郎はガチャリと電話を切った。あまり愉快ではない。ひややかな笑いが、泡のように八郎の口辺にのぼってきた。(奴さん。金を持ち逃げされて、大あわてしてるらしいな)電話をかけるまでは、こんな情況は想像だにしなかった。むしろ、怒鳴りつけられる自分をすら想像していたのだ。案に反して、今のところ、こちらが絶対優位に立っている。その自覚は、突然彼の気持を兇暴にした。(矢でも鉄砲でも持って来い!)彼は肩肱をいからせて、つかつかと店に戻って来た。

 易者は煙草をくゆらせながら、じっと卓に待っていた。その白いうなじの色に、八郎はいらだたしいほどの情欲を感じた。

「帰らなかったんだね」

 うなじに断髪がゆらいで、女はかすかにうなずいた。

「なぜ帰らなかったんだね?」

 易者はやや蒼ざめた顔を上げた。片頰にはこわばったようなつくり笑いが浮んでいる。はっきりした声でいった。

「あなたが可哀そうだったからよ」

「僕を憐れむのか?」

 八郎の眉間に、暗い光が走った。

「そう。それから――」

 易者は視線を宙に浮かせながら、早口で、

「その鞄の中の金のことが、気になったからよ」

「何故気になるんだね?」

「だってあたしも、貧乏だもの」

 易者は灰色の上衣の襟をかき合わせるようにした。八郎の掌は、その肩をつかんだ。掌の下で、やわらかい肩の筋肉は、びくりと慄えた。八郎はその耳にささやいた。

「今晩、僕と一緒に行くか?」

「どこへ?」

「どこへでも」

 易者は煙草を灰皿におしつけた。火はジュウと消えた。蒼白い顔を上げた。

「行ってもいい。その代り、あたしに上衣を買ってくれるなら」

 媚びが女の全身ににじみ出た。自然のものというより、無理にしぼり出したような、苦しげな身のこなしであった。八郎は掌を肩から離した。(この俺にではない。百二十万円に媚びているのだ)しかし、それならばそれでもいい筈であった。今の八郎に、どんな異存があるというのだろう。

 

 自動車の中で、八郎は易者によりかかるようにして、幼稚園のクリスマスの話をしていた。声は上機嫌で、むしろ軽薄な響きを立てたが、八郎の心は暗く沈んでいた。沈んだ心をかき立てるために、彼の口調はますます軽燥な色を帯びた。

「誰かと間違えられたらしいんだ。――よく判らない。――それでとにかくサンタクロースになってしまった。サンタクロースの服はにかわのにおいがしたな。部屋に入ってゆくと、子供たちは皆拍手をした。――僕はどぎまぎした」

「なぜ、どぎまぎしたの?」

 易者は気のないような相槌(あいづち)を打った。

「判らない。サンタでもないのにサンタのような恰好をしてたからだろう。拐帯者のくせに、慈善者のなりをしたりしてさ」

 八郎の右手は、易者の肩にかかっていた。肩をおおっているものは、先刻店で買い求めたグレイのハーフコートである。ふわふわしたあたたかい感触であったが、それはまた血の気の通わない、不毛のあたたかさでもあった。先程の兇暴な情欲は、もう八郎の心の中で死んでいた。あるのは、義務とか責任に似た、重苦しい思いだけである。(この女も勿論同じ思いに違いない)八郎は自分の情欲をふたたびかき立てるように、しきりに女の肩をまさぐっていた。衣服が厚くないので、貝殼骨のありかが、ありあり指に感じられた。女はくすぐったそうに、肩をすくめた。八郎は低声でいった。

「こんなことするの、初めてかい?」

「そんなこと聞いても仕方ないでしょ。何故あなたはあたしと遊ぶ? 初めてだろうと二度目だろうと、関係ないじゃないの」

 女の掌が、肩の八郎の掌を押えていた。女の指は長くつめたかった。そのままの姿勢で八郎は窓の外を眺めていた。自動車は暗い夜の街を疾駆していた。窓ガラスをちらちらと白いものがかすめた。雪のようである。

「明日から――」

 明日のことを考えるのは、物憂かった。しかし明日になれば、俺は臆病になり心を萎縮させて、あれこれ惑った後、結局は鞄をぶら下げて、富田商事に戻って行くだろう。その予感が、不快なしこりのように、先刻から八郎の胸をおしつけていた。二日間の茶番。その茶番も今夜でピリオドを打つのだ。八郎はも一度力をこめて、女のほっそりした体をだきすくめるようにした。自動車は大きくカーブを切った。女の体は物体の法則にしたがって、彼の胸になだれこんで来た。女の体は生き物のにおいがした。

 

「南方隨筆」底本正規表現版「紀州俗傳」パート 「五」

 

[やぶちゃん注:全十五章から成る(総てが『鄕土硏究』初出の寄せ集め。各末尾書誌参照)。各章毎に電子化注する。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(冒頭はここ)で視認して用いた。また、所持する平凡社「選集」や、熊楠の当たった諸原本を参考に一部の誤字を訂した。表記のおかしな箇所も勝手に訂した。それらは一々断らないので、底本と比較対照して読まれたい。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 本篇の各章は短いので、原則、底本原文そのままに示し、後注で(但し、章内の「○」を頭にした条毎に(附説がある場合はその後に)、読みと注を附した。そのため、本篇は必要性を認めないので、PDF版を成形しないこととした。]

 

       五、

 ○田邊の俚傳に、蟋蟀「きゝさせ、とゝさせ、子婦(よめ)惡い、惡いよ」と鳴くと云ふ。(鄕硏第一卷六號三七一頁參照)。

[やぶちゃん注:最後の見よ注は本篇の「四」の「○和歌山で蟋蟀の鳴聲、「鮓食て餅食て酒飮んで、……」を指す。

「惡い」「選集」に『悪(にく)い』と振る。]

 〇婦女卵の殼踏ば、白血長血を病出すと云ふ。又云ふ、卵殼食へば屁多く放ると。炭酸石灰でなった物が、體内の酸に遇て瓦斯を遊離する事、沸騰酸と同理故、是は事實で有う。

[やぶちゃん注:最初の一文は「二」の「〇婦女卵の殼を踏まば、白血」(しらち)「長血」(ながち)「を煩ふと田邊で言ふ。」の本文と私の注を参照。

「放る」「ひる」。

「炭酸石灰」炭酸カルシウム。

「遇て」「あつて」。

「瓦斯」「ガス」。

「沸騰酸」「沸騰散」に同じ。重炭酸ナトリウムと酒石酸を水に溶かして飲むもの。呼称は発生する炭酸ガスがあたかも沸騰しているかのように見えることに由来する。嘗つては清涼剤・緩下剤として使用されたが、現在は胃のX線検査の際に発泡炭酸剤としてバリウムと併用される。

「有う」「あらう」。]

 〇和歌山及び田邊の手毬唄「釣瓶の下の織姬樣は、遊びに行うとて門迄出たら、可愛殿御に抱締られて、オホ恥かしや小恥かしや、此子生だら何著しよに、天鵞絨を著しよか緞子を著しよか、天鵞絨嫌なら緞子を著せて、乳母に抱かして宮參り、宮へ參つてから何と云て參る、一生此子を息災に、オー息災に、コー息災に、十せ一廿せー、三十せー四十せー」(と算え進む)。

[やぶちゃん注:「オホ」「選集」では『オオ』とする。初出を見ることが出来ないので、私はしっくりくる底本のままとする。

「生だら」「うんだら」。

「何著しよに」。「なにきしよに」。現代仮名遣で「なに、きしょに」で、「何を着せてやったらいいかね?」の意。

「天鵞絨」「びろうど」。ビロード。

「緞子」「どんす」。織り方に変化をつけたり、組み合わせたりして紋様や模様を織り出す紋織物の一種。生糸の経(たて)糸・緯(よこ)糸に異色の練糸を用いた繻子(しゅす:絹を繻子織り――縦糸と横糸とが交差する部分が連続せず一般には縦糸だけが表に現れる織り方――にしたもの)の表裏の組織りを用いて文様を織り出した。「どんす」という読みは唐音で、本邦には室町時代に中国から輸入された織物技術とされる。

「オー息災に、コー息災に」この「オー」と「コー」は単なる調子を整えるための間(あい)の手であろう。]

 〇又田邊の手毬唄、「藪の中から金女郞、誰と寢よとて鐵漿つけて、お稚兒と寢よとて鐵漿付て、お稚兒の土產に何貰た、油一升に胡麻一升、手拭にせう迚布八尋、八尋の布を一段紺屋へ遣か、二段紺屋へ遣ろか、三段紺屋へ遣たれば、ズプズプ淺黃に染て來て、一かんせう二かんせう、三がん所は、おぼつきこぼつき、誠おさいた、まこ二十さいた、まこ三十さいた」(と算え進む)。

[やぶちゃん注:「藪の中から金女郞」「金女郞」の読み不詳だが、後の「鐵漿」が「かね」(鉄漿(おはぐろ)のこと)であるから(「選集」で『かね』と振る)、「かねぢよらう」であろう。とすれば、「藪の中から」出て来る実体としての金女郎(かねじょろう)というのはジョロウグモとするのがしっくりくる。但し、この場合の「女郞」は蔑称というより「少女」の意か。

「何貰た」「なにもろた」。

「迚」「とて」。

「布八尋」「ぬの、やひろ」。

「一段」「いつたん」。一反。後の二つも同じ。

「紺屋」「こうや」。

「遣か」「やろか」。

「遣たれば」「やつたれば」。

「染て」「そめて」。

「かん」貨幣単位の「貫」か。

「せう」現代仮名遣「しょう」。「しよう」「しましょう」の意。

「おぼつきこぼつき、誠おさいた、まこ二十さいた、まこ三十さいた」この部分、私には意味が分からぬ。「おぼ」「こぼ」は毬の弾むオノマトペイアか。「つき」は「毬つき」のそれで、後半に「まこ」は間の手で、数字は前に徴すれば年齢だが、或いは今から「二十」「三十」までつき続けらえるように言上げしたものか?]

 〇西牟婁郡栗栖川村富里村等で聞しは、昔し旅人霍亂に惱み死に掛つたが、藤天蓼(またゝび)を餌ひ全快、復旅に出立た故に斯く名くと。富里村大字大内川に、今も此植物の葉を乾し蓄へ、燒て鼠を驅除する家ある由。

[やぶちゃん注:「西牟婁郡栗栖川村」(くりすがはむら)「富里村」「(とみさとむら)Geoshapeリポジトリ」の「歴史的行政区域データセットβ版」の、まずこちらで旧西牟婁郡栗栖川村が判り、その東方に接して同サイトのこちらで同旧富里村があったことが判る。現在は孰れも田辺市中辺路町内で、前者は地名として残ってはいる。グーグル・マップ・データ航空写真では、この中央附近になるが、かなり山深い。なお、本篇で複数回注している地名は原則、再注しない。悪しからず。

「霍亂」(かくらん)は日射病、及び、夏場に発症し易い、激しい吐き気や下痢などを伴う急性消化器性疾患を指す。

「藤天蓼(またゝび)」ツバキ目マタタビ科マタタビ属マタタビ Actinidia polygama当該ウィキによれば、『蕾にマタタビミタマバエまたはマタタビアブラムシが寄生して』形成された虫瘤(むしこぶ:虫癭(ちゅうえい))に『なったものは』「木天蓼」(モクテンリョウ)又は「木天蓼子」(モクテンリョウシ)という『生薬』とされ、『鎮痛、保温(冷え性)、強壮、神経痛、リウマチ、腰痛などに効果があるとされる』とある。

「餌ひ」「選集」に従うなら、「くらひ」。

「復旅に出立た」「またたびに、いでたつた」で、本種の和名の語源説とする如何にもな安易なもの。当該ウィキに、『和名のマタタビの由来については、古くは』深根輔仁(ふかねのすけひと)撰になる日本現存最古の薬物辞典「本草和名」(延喜一八(九一八)年)に、既に『「和多々比」(わたたひ)』と出、「延喜式(延長五(九二七)年)に『「和太太備」(わたたび)の名で見える』とし、貝原益軒の「日本釈名」(元禄一二(一六九九)年)では、『果実に長いものと』、『平らなものができることから、「マタツミ」の義であろうという』とある。しかし、『アイヌ語の「マタタムブ」からきたというのが、現在最も有力な説のようである』とし、「牧野新日本植物図鑑」によると、『アイヌ語で「マタ」は「冬」、「タムブ」は「亀の甲」の意味で』、これは「虫癭」を『意味するとされる。一方で、深津正』の「植物和名の研究」『(八坂書房)や知里真志保』の「分類アイヌ語辞典」『(平凡社)によると「タムブ」は苞(つと、手土産)の意味であるとする』とある。そして、『一説に、「疲れた旅人がマタタビの実を食べたところ、再び旅を続けることが出来るようになった」ことから「復(また)旅」と名づけられたというが、マタタビがとりわけ旅人に好まれたという周知の事実がある』わけ『でもなく、また』、『「副詞+名詞」といった命名法は一般に例がない。むしろ「またたび」という字面から「復旅」を連想するのは容易であることから、典型的な民間語源あるいは単なる流言飛語の域を出るものではない』と退けられてあるのである。

「富里村大字大内川」(おおうちがは)「ひなたGPS」の戦前の地図でここ、現在の中辺路町大内川はここ

「燒て鼠を驅除する家ある由」鼠がマタタビの成分を嫌うのではなく、それに強く吸引されるネコがそこへ集まるから、結果、駆除されるということであろう。なお、当該ウィキによれば、この成分は「ネペタラクトール」(Nepetalactol)で、『ネコがマタタビの匂いを体に擦りつけるための行動であることを突き止めた。また、ネペタラクトールに、蚊の忌避効果があることも突き止め、ネコはマタタビ反応でネペタラクトールを体に付着させ蚊を忌避していることを立証した』とある。蚊はお嫌いらしいぞ!]

 〇田邊邊の俗傳に、四疊半の座敷の四隅に各一人居り、燈無しに室の眞中へ這行くと、眞中に必ず別に一人立ち居るを觸れ覺る。乃ち一人增して五人と成ると。

[やぶちゃん注:この話こそ私は現代の怪談好きなら誰でも知っている、私に言わせれば「なんだかなのオオボケ」モノの「雪山の山小屋の一夜」或いは「都市伝説」で「スクエア(square)」と呼ばれるものの正統なルーツであると考えている。当該ウィキを読まれたい。

「各」「おのおの」。

「居り」「選集」は『居(す)わり』とする。

「燈」同前で『あかし』。

「這行くと」「はひゆくと」。

「立ち居るを觸れ覺る」「たちをるをふれおぼえる」。

「乃ち」「すなはち」。]

 ○四月八日誕生佛に澆ぐ甘茶で墨を磨り、「昔より卯月八日は吉日よ、神さげ蟲を成敗ぞする」と書いた紙片を柱に逆まに貼れば、長蟲(蛇)家に入らぬとぞ。此夜より蚊帳を釣始む。件の歌を書いた紙片を其釣手に結付れば、惡蟲寢所に入らずと。海草郡の人言く、蛇のみならず、一切の惡蟲を避く、竈邊の壁にも貼ると。

[やぶちゃん注:「四月八日」釈迦生誕の日である灌仏会(かんぶつえ)。以下に記された呪符については、サイト「Web日本語」の棚橋正博氏の第八十六回「江戸の虫除けと油虫」がよい。ここにあるように、江戸では『台所や便所などに、「千早振(ちはやふ)る卯月八日は吉日(きちにち)よ、かみ下虫(さげむし)を成敗ぞする」と書いた紙を逆さにして貼り、ゴキブリやウジ虫などの虫除(むしよ)けの呪(まじな)いとしていた』とあり、『この歌が、どうして虫除けの呪い歌として詠まれたのか、今ひとつ理由は不明だが、旧暦の』この『頃には暖かくなって花の季節となり、ゴキブリなどが這(は)い回るので御用心、ということで詠(よ)み込まれたのかもしれない』とある。恐らくはそうした実利的なものに、釈迦生誕の強力なパワーを借りたものであろう。逆さまに張るのは、便槽や外から這い上がる彼らへの、逆の呪的圧力か。しかし、「かみさげ蟲」が今一つ判然としない。

「澆ぐ」「そそぐ」。

「長蟲(蛇)」本話では、専らヘビ除けであるところが、採集地らしい。私の家のある地域は、小学生頃までは「マムシとムカデの名所」と呼ばれていたが、流石にマムシは山崖や廃屋の庭に入るのを見たが、家の中に入ってきたことはなかった。ムカデは今でもよく入ってくるが。

「結付れば」「ゆひつくれば」。

「海草郡」旧海草郡は和歌山市の大部分と、海南市の大部分、及び、有田市の一部である。旧郡域は当該ウィキで確認されたい。注意すべきは、現在ある海草郡の郡域は全域が昭和二六(一九五一)年に那賀郡から編入した区域であって、本来の海草郡とは無縁であることである。

「一切の惡蟲を避く、竈邊の壁にも貼ると」ここではゴキブリへの効果も期待しているようである。]

 〇田邊の俗傳に、產兒の胎衣を放置散佚せしむれば其子愚人と成る、故に丁寧に保存すべしと。

[やぶちゃん注:「胎衣」「えな」。「胞衣」とも書く。胎児を包んでいた膜や胎盤などで、後産(あとざん)として体外に排出されるものを指す。なお。平安以後、貴族に子が生まれた際に行われた儀式「胎衣祭(えなまつり)」があった。ウィキの「胎衣祭」によれば、『出生後』五『日または』七『日の間の吉日に胎衣』『を胎衣桶(胎衣壺とも)におさめ、引目(ひきめ)を射たひとに陰陽頭(おんようのかみ)をそえて吉方におさめる儀式である』。『胎衣桶は、高さ』八『寸ほど、径』一『尺ほど、外面は胡粉ぬりで松、竹、鶴、亀をうんもでえがき、蓋には』八『個のつまみをつけ、針でしめる』。『皇子誕生の胎衣を祭るには、典薬頭が胎衣を東方生気の方にあたる東山吉田社の下におさめ、八百万の神をいわい、生産神にしたまうこころで祭るという』とあった。]

 〇同地に近き下芳養と西谷の間、牛鼻邊に搖岩とて大なる岩、海水中に有り、潮退ば步して往き登り釣を垂れ得。此岩每月二囘潮の增減に隨ひ所を變へ、或は陸に近く或は陸に遠かると云ふ。

[やぶちゃん注:「同地」(田辺)「に近き下芳養」(しもはや)「と西谷」(にしのたに)「の間、牛鼻」(うしのはな)「邊に搖岩」(ゆるぎいは)「とて大なる岩、海水中に有り]流石は国土地理院図! ここに「牛の鼻」が確認出来る。さて、そこで「+」のマークを配した中央、何となくおかしな岩礁のようなものがある。ここをグーグル・マップ・データ航空写真で見てみると、あるある! そうして、決定打は「ひなたGPS」の戦前の地図だ! これは確かに奇体に大きな岩礁指示だ! 動くというのは、まずい(大海嘯が襲ったら、陸に上がっちまう)が、これらを見てると、何となく不思議な怪しい感じがある岩礁やなかい!

「潮退ば」「しほひかば」。

「步して」「ほして」。

「遠かる」「とほざかる」。]

 〇果蓏生りたる數を算ふると多く落る由、田邊で言傳ふ。

[やぶちゃん注:「果蓏」「くだもの・うり」。「蓏」は広義の瓜(うり)類。

「生りたる」「なりたる」。

「落る」「おつる」。]

 〇小兒同じことを執念く言ふに對し、何度も言うたら鬠黑なると言ふ。

[やぶちゃん注:「執念」「しふねく」。

「鬠黑なる」「鬠」「もとゆひ」。「元結」。髪の髻(もとどり)を結び束ねる紐・糸・紙縒りの類。古くは組紐又は麻糸を用いたが、近世には糊で固く捻った紙縒りで製したものを用いた。当然、白い。「黑なる」「選集」の送りに従うと、「くろうなる」。]

 〇和歌山でも田邊でも、小兒群戯して興盡き散ぜんとする時、モー疝氣腹痛と呼で別れ去る。是ら古き洒落詞の殘ると見ゆ。

[やぶちゃん注:「モー疝氣腹痛」熊楠の前振りから見ると、充分遊んで「もう」、「せんき」(する気。遊びを続ける気)は「のうなった」という意のようである。それに「疝気」(一般的には漢方で腰よりも下方の鼠径部附近の痛みを指す、男性に多い)を当て字し、それに類症の「腹痛」と続けたものだろう。

「呼で」「よんで」。]

 〇芳養村の人、崎下孫七氏言ふ、濱麥一名筆草、弘法筆を抛たのが此草の根と成つた。此根で瘡腫の上に南無大師遍照金剛と書く似すれば平癒すと。

 又蓼の葉に黑斑二條有るを筆拭草と呼ぶ、弘法この葉で筆を拭いた跡也と。

 氏又言く、其村及び何地の金比羅も、神體は太き纜を蛇の如く卷重ねた物也、但し鎌首を起ずと。

[やぶちゃん注:「崎下孫七」不詳。「選集」は姓に「さきした」と振る。次項で上芳養村の人で若いことが判る。なお、真っ先に以下の草を挙げて解説しているところから、「この人は、私は旧下芳養村の住人であろう。」と早合点した。何故なら、私が次の注で同定する崎下氏が挙げる同種は、海浜でしか見られないもので、芳養村上中下の内で海岸に面しているのは、下芳養村だけだからである(「Geoshapeリポジトリ」の「歴史的行政区域データセットβ版」の「和歌山県西牟婁郡下芳養村」を参照)。しかし、次項を見ると、崎下氏は「他人の使し步くに、每夜犬に吠えられ頗る困る」とあったことから、彼はその頼まれ仕事で、上芳養村から中も下芳養村も、よく行き来していたと思われることから、頗る腑に落ちた。

「濱麥一名筆草、弘法」、「筆を抛」(なげ)「たのが此草の根と成つた」単子葉植物綱イネ目カヤツリグサ科スゲ属コウボウムギ Carex kobomugi 。当該ウィキによれば、『砂浜に群生する海浜植物』で、『砂の中に長く匍匐茎を延ばし、各所から地上へ出る茎を伸ばす。砂の上から見れば、やや間を開けて砂の表面に葉を出した群落になる。葉は根出状に出て、黄緑色でつやがあり、厚みがあって硬く、先端へと細まって巻く。葉の縁にはざらつきがある』。『花茎は春に出る。スゲ属では数少ない雌雄異株で、まれに同株や一つの穂に両方の花が出ることがあるという。花茎は高さ』二十センチメートル『位になり、硬くて直立し、先端に太い淡い黄緑色の穂を一つつける。実際には短く詰まった多数の小穂が集まったものである。雄花の穂はこん棒状で、全面から葯が出る。雌花序もこん棒状。一面に果胞がつく』。『果胞は長さ』一センチメートル『ほどと』、『かなり大きく、楕円形で偏平、先端は』、『はっきりした長い嘴になり、その縁に鋸歯が見られる』。『名前の弘法麦の由来は、かつて茎の基部の分解した葉鞘の繊維が筆を作るのに使われた事から、筆ならば』、『弘法大師(空海)様だ、というようなこと』に基づくもので『あるらしい。別名としてフデクサというのもある』。なお、『果実が食用にされた例もある』という。『砂浜に生育する、代表的な海浜植物である。比較的よく発達した砂浜でしか見かけることが少ない。そのため、海岸線の改修工事などによって砂浜が削られて消失することがあり、生育地は減少している』。『分布は北海道西岸から琉球列島にかけて、また、朝鮮から台湾、中国東北部・北部、ウスリーにわたる』とある。因みに、私は「弘法麥」というと、芥川龍之介の痛切なる逸品「彼」のワン・シーンを思い出すのを常としている。第「五」章の終りである。

「瘡腫」「選集」は二字に対して『でもの』と振る。「かさ」と「はれもの」。

「似」「選集」に『まね』と振る。

「蓼」通常、普通に「タデ」と呼ぶものは、ナデシコ目タデ科Polygonoideae亜科Persicarieae Persicariinae亜連イヌタデ属サナエタデ節  Persicaria に含まれ、「蓼食う虫も好きずき」の諺など、単に「蓼」と言った場合、通常は同属のヤナギタデ Persicaria hydropiper を指す。しかし、ここでは、「葉に黑斑二條有る」とあり、これはタデの近縁種として言っていることが明白であるから、同様の斑紋が葉に出る、同属のイヌタデ属ミズヒキ Persicaria filiformis である。同種は表面にしばしば黒い斑点が出ることが知られている。グーグル学名画像検索でご覧あれ。半端ないグレイ型宇宙人みたような大きな斑点である。本種の葉なら、筆も十分拭(ぬぐ)えます。

「筆拭草」「ふでふきさう」。下方の「拭いた」に従った。

「何地」「選集」に倣うと、「いづく」である。

「金毘羅」金毘羅は古代インドの神「クンビーラ」の漢音写で、元はガンジス川に棲むワニを神格化した水神であるが、本邦では通常、どこでもヘビ型とされる。クンビーラはガンジス川を司る女神ガンガーの乗り物でもあることから、本邦では中世以降、金毘羅権現が海上交通の守り神として広く信仰されてきた。

「纜」「選集」では『つな』と振る。

「起ず」「おこさず」。何故、鎌首を起さないのかを私なりに考えてみると、本邦で同じく中世に弁財天信仰の中で創出されたと推定される、鎌首を上げた形状で示されることが圧倒的に多い蛇型の豊饒神「宇賀神」と差別化するためかとも私は思ったりした。]

 〇崎下氏今廿七歲。十五の時、故鄕上芳養村で他人の使し步くに、每夜犬に吠えられ頗る困る。この前和尙たりしが還俗した人、犬を伏せる法を敎へ吳れた。犬に向ひ、戌亥申酉より丑子まで十二支を逆に三度唱れば決して吠ずと。因に一夜寢ずに熟練して、犬に向ひ試みたが、寸效無かつた。或人に語つて別に一法を授かる。戌亥子丑寅と、五支の名を唱へつゝ五指を折り固むるのだ。是も其驗を見なんだと。

 又言く、山野で草刈るに、人の身長程の小木に七里蜂の巢有り、動もすれば蜂飛出で迷惑甚し、上芳養の村人時々蜂伏せの呪を行ふに甚だ效有り、其法樹葉一枚を採り、「シツポウケウソワカ」(七寳篋娑訶?)と三度誦へ、竹稈の尖を割て其葉を挾み、蜂巢に寄せ懸れば蜂飛出ず、縱ひ出るも螫さず、但し何の祕咒も、無闇に人に話すと利ぬ物と。

[やぶちゃん注:「唱れば」「となふれば」。

「因に」「ちなみに」。

「寸效」「すんかう」。

「七里蜂」この異名、本邦種では不詳(紀州方言としても生き残っていないようである)。漢籍では、清の劉於義著の「陝西通志」に『獨蜂俗名七里蜂曰窠大如鵞卵只一蜂大如小石燕子許人馬被螫立亡也』とあり、また熊楠御用達の清の張英の類書「淵鑑類函」には『獨蜂俗名七里蜂毒最猛人馬被螫皆亡』、「本草綱目」では『獨蜂俗名七里蜂者是矣其毒最猛』とある。荒俣宏氏は「世界大博物図鑑」では、この「本草綱目」のそれを、ベッコウバチの一種とされるとあるのだが、膜翅目細腰(ハチ)亜目ベッコウバチ科 Pompilidaeのハチは、『刺されると非常に痛いが、長く痛むことはない』とありこと、さらに彼らの『巣は石垣のすきまや神社の石段の隅、またはノネズミの古い坑道に沿って地中深く潜り込んだ所から自分の巣坑を短く掘り、腹部腹面に一卵を産み付けて埋める』(以上二ヶ所の引用は小学館「日本大百科全書」より)とあるように、木に巣は作らない。されば、これは細腰亜目スズメバチ上科スズメバチ科アシナガバチ亜科 Polistinaeのアシナガバチ類、或いは、スズメバチ科スズメバチ亜科 Vespinaeのスズメバチの類と私は判断する。後者は刺されると半端ないから、ここは前者かとも思う。

「竹稈」「選集」に『たけのぼう』と振る。

「懸れば」「かくれば」。

「飛出ず」「とびいでず」。

「縱ひ」「たとひ」。

「出る」「いづる」。

「利ぬ」「きかぬ」。]

 〇拙妻の祖母八十一で二十三年前歿した。この人雷聲を聞く每に、「神鳴桑原竹の根、落たらどん腹突貫ぞ」と續けて誦し雷止む迄止なんだ。

[やぶちゃん注:「拙妻の祖母」事績不詳。本記事は大正二(一九一三)年の発表であるから、一八九〇年或いは一八九一年で、後者なら、明治二十四年で熊楠は数え二十五、フロリダのジャクソンビルに移った年(同年五月)である。

「神鳴桑原竹の根、落たらどん腹突貫ぞ」「選集」に倣うと(「竹」「貫」の部分)、「かみなりくはばら、たーけのね、おちたら、どんばらつきぬくぞ」。

「止なんだ」「やめなんだ」。]

 〇此邊で寒蟬、「熟柿欲し」と鳴く、此蟲出て柿熟すと云ふ。

[やぶちゃん注:「寒蟬」(かんぜみ/かんせん)は立秋に鳴くセミ類を指し、半翅(カメムシ)目同翅(ヨコバイ)亜目セミ上科セミ科セミ亜科ホソヒグラシ族ヒグラシ属ヒグラシ  Tanna japonensis も含まれるが、ここは以下のオノマトペイアから、セミ亜科ツクツクボウシ族ツクツクボウシ属ツクツクボウシ Meimuna opalifera である。博物誌は私の「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 蟪蛄(つくつくはうし)」を参照されたい。因みにツクツクホウシと言えば、私は直ちに梅崎春生の「桜島」(私のPDF版注釈附)の見張りの男の死のシークエンスを直ちに想起する。]

 〇俗に秋の日に燒たら穢多の嫁にも貰ひ吳ぬと言ふ、秋日に黝むと一寸復り難いからだ。

[やぶちゃん注:「燒たら」「やけたら」。

「穢多」「えた」。近世まで差別された被差別民。

「吳ぬ」「くれぬ」。

「黝む」「くろずむ」。

「復り難い」「かほりにくい」。]

 〇今は屢見ぬが、以前田邊の小兒嫁娶の眞似して月夜の遊戯とした。二人手を組み傾けて人力車の如くし、一女兒に諸兒の最も好き帶、紐、簪等を假し裝はせ、嫁として乘せ、多くの兒輩隨ひ、手を組だる二兒嫁を搖り乍ら、「嫁樣、長持何時來るよ、明日の朝の今頃よ(有り得ぬ事を云ふ也)、月夜に提燈何事よ、闇夜に提燈最もぢや、ギコサとギコサでほーいほい」と繰返し唱へ行く。前方には兒輩、地上に家の間割を畫き、臺所、玄關、座敷以下全備す、嫁到れば戶を開く眞似し、挨拶して迎へ入れ、附添し者、嫁を奧の間に伴行き踞らせ、自分等臺所に之き盛饌食ふ擬似する也。

[やぶちゃん注:「屢」(しばしば)「見ぬが」副詞が後で否定されて「殆んど見かけなくなったが」の意。

「小兒」「こども」。

「嫁娶」「よめとり」。

「簪」「かんざし」。

「假し」「かし」。貸し。

「組だる」「くんだる」。

「搖り」「ゆすり」。

「嫁樣」「選集」に倣うなら、「よめさん」。

「何時」「いつ」。

「明日の朝の今頃よ(有り得ぬ事を云ふ也)」「明日の朝の今頃よ」の部分が、有り得ない時や内容を言う別の謂いがあることを指す注であろう。

「ギコサ」人力車の音のオノマトペイアか。或いは花嫁行列全体の音を形容するそれか。

「附添し者」「つきそひしもの」。媒酌人役であろう。

「伴行き踞らせ」「つれゆき、つくばらせ」。

「之き」「ゆき」。

「盛饌」「選集」は二字に『ちそう』と振る。

「擬似」「まね」。]

 〇料理屋主人以下猿の名を忌み、必ず言はず、止むを得ぬ時は野猿と呼ぶ。博徒亦然り、縛らるゝを忌む故と聞く。土方人足も同樣で猿の咄聞ても其日休業する由。

[やぶちゃん注:「猿の名を忌み」「さる」は「客が去る」、「運が去る」(博徒は運の切れ目で「捕縛される」とジンクスする)、「土方」や「人足」も「仕事や運が去る」(広義の「何かとゲン(験)が悪い」というである)とするのである。特に遊廓での「猿」の忌み言葉としての「野猿」は有名。次注参照。

「野猿」「やえん」と音読みして、「さる」を避けるのである。

「咄」「はなし」。

「聞ても」「きいても」。]

 〇上に述べた崎下氏言く、護摩燒くに必ず勝軍木を用ゆ。爆聲を發し黑煙を生じ、凛じき物也。又火渡りを行ふに必ず大豆の箕を焚附とすと。

 同氏話に、今夏旱魃で西牟婁郡富田の諸村水乏く河童夥しく上陸す。藤兵衞と云ふ老人田働きするに、遠方よりホーイホーイと呼ぶ事頻り也。河童何を言ふぞ、騙さるゝ者かと嘲り居たるに、忽ち耳の邊で異樣の大聲で阿房と呼れ、其儘聾となり打臥し居ると八月一日咄された。

[やぶちゃん注:「勝軍木」「選集」に『ぬるで』と振る。ムクロジ目ウルシ科ヌルデ属ヌルデ変種ヌルデ Rhus javanica var. chinensis 。漢字表記は「白膠木」。「カチノキ」(「勝ち木」)の異名がある。当該ウィキによれば、『ヌルデの名は、かつて幹を傷つけて白い汁を採り塗料として使ったことに由来するとされる』。カチノキは、『聖徳太子が蘇我馬子と物部守屋の戦いに際し、ヌルデの木で仏像を作り、馬子の戦勝を祈願したとの伝承から』とある。調べてみると、パチパチという有意に大きな燃焼音がするので、薪には向かない、とあった。ただ、「爆聲を發し」、「黑煙を生じ、凛」(すさま)「じき物」であるかどうかは、私は知らない。

「火渡り」火をつけて燃やした薪炭の上を裸足で歩く法事・修行としての「火渡り祭」。修験者だけでなく一般人も参加するものが今も残る。

「箕」「選集」は『から』と振る。

「焚附」「たきつけ」。

「西牟婁郡富田」(とんだ)現在の西牟婁郡白浜町(しらはまちょう)富田(グーグル・マップ・データ)。

「乏く」「とぼしく」。

「河童」姿が全く記されていないので、目にははっきりは見えない実態不詳のものらしい。面白い河童である。

「居たるに」「選集」に従うなら、「をつたるに」。

「阿房」「あほう」或いは「あほ」。「阿呆」に同じ。

「呼れ」「よばれ」。

「其儘」「そのまま」。

「聾」「つんぼ」。

「打臥し居る」「うちふしをる」。

「八月一日咄された」藤兵衛老人は話を聴き取りした時点でも未だに臥せっているというのである。脳卒中などが想起される。]

 〇拙妻其亡父より傳へしは、蜈蚣を殺すと跡より復出來る。之を停んとなら、殺された奴の出來りしと思ふ方に向ひ、輪違形を三度空中に畫くべし。

 又蜂に螫れた處に八の字、其上に九の字を畫く似すれば頓に痛止むと。

[やぶちゃん注:「拙妻其亡父」既注だが再掲しておくと、熊楠の夫人は当時の田辺の鬪鷄神社(グーグル・マップ・データ)の宮司田村宗造の四女松枝さんである。

「復出來る」「またいでくる」。

「停ん」「とめん」。

「輪違形」「選集」では本文を『輪違(わちが)いの形(かた)』とする。三つの輪が互い違いに絡んだような符。家紋として知られる。サイト「家紋いろは」のこちらに図がある。

「螫れた」「さされた」。

「八の字、其上に九の字を畫く似」(まね)「すれば頓」(とみ)「に痛」(いたみ)「止むと」「蜂」から五行の縁起の陰数「八」を合わせて関連させて、そこに徐ろに最大の有力な陽数「九」を打って封じるということであろう。]

 〇拙妻又言く、俗信に味噌桶を戶每に出し洗へば雨降ると。實は何の家も味噌作る時節大同なれば、用ゐ盡して桶を洗ふも粗同時で、其頃雨屢ば降る故なり。又俗に居常外出せぬ人偶ま外出するを見て、味噌桶が出たから今日は雨ふると嗤ふと。(大正二年十月鄕硏第一卷八號)

[やぶちゃん注:「粗」「ほぼ」。

「居常」「選集」に二字に『ふだん』とルビする。

「偶ま」「たまたま」。

「嗤ふ」「わらふ」。]

2022/07/05

曲亭馬琴「兎園小説別集」下巻 問目三條【鳩有三枝之禮、鹿獨、肝煎、著作堂問、馬答なし。追記雀戰】~追記 雀戰 / 問目三條 他~了

曲亭馬琴「兎園小説別集」下巻 問目三條【鳩有三枝之禮、鹿獨、肝煎、著作堂問、馬答なし。追記雀戰】~追記 雀戰

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの「新燕石十種」第四では本篇はここから。吉川弘文館随筆大成版で、誤字と判断されるものや、句読点などを修正した。三ヶ条とは無縁で、最後に馬琴が述べいるように、稿に余白が生じたので、珍事記事として書き入れたものである。]

 

雀記、雀戰、

天保三年壬辰秋八月六日より、同月十日比まで、湯島麟祥院【號天澤山。】の隣寺【寺號をわする。なほたづぬべし。】の森にて、雀數千隻宿せしが、雀戰起りしより、處々の雀集り來て數萬に及び、くひあふ事夥し。その聲、遠く本鄕御弓町、水道橋邊までも、くつわ蟲の遙に群鳴く如く聞えしとなり。吾友木默老々人の家人國越某、同月六日の夕つかた、はからずその寺の頭りをよぎりて、目擊せしよし。その翌七日、老人より消息のついでに告られにき。又一友人鈴木有稔の近隣某も目擊せしに、雀は森の中に在り、外の方よりうち見たれば、くひあふ處、定かには見えざりしが、そこらの樹の下にくひ殺されし雀、木の葉の散たるやうに見えたりとぞ【風聞には死したる雀、米苞に三五俵有しといへり。追考餘錄第二卷にしるす。合し見るべし。】ある人、このことを板にゑらせんとて、有稔子に畫を誂へしが、彫工いまだ成を告げずといへり。世にめづらしき事なるに、こゝに半張の餘紙ありければ、追て錄す。昔もかゝる事有けるか、和漢の先蹤なほ考ふべし。

[やぶちゃん注:「雀記、雀戰」「すずめのき、すずめいくさ」と訓じておく。スズメ目スズメ科スズメ属スズメ Passer montanus(本邦のそれは亜種スズメ Passer montanus saturatus )の博物誌は私の「和漢三才圖會第四十二 原禽類 雀 (スズメ・ニュウナイスズメ)」を参照されたい。

「天保三年壬辰」(みづのえたつ)「秋八月六日より、同月十日比」(ごろ)「まで」一八三八年八月三十一日から九月四日頃。

「湯島麟祥院【號天澤山。】の隣寺【寺號をわする。なほたづぬべし。】「湯島麟祥院【號天澤山。】」は東京都文京区湯島にある臨済宗妙心寺派天沢山麟祥院。徳川家光の乳母として知られる春日局の菩提寺で、春日局の隠棲所として寛永元(一六二四)年に創建された。ここ(グーグル・マップ・データ)。「隣寺」これを文字通りに――隣りの寺――とするなら、江戸切絵図(「江戸マップβ版」。左中央を拡大されたい)では、東に接する「冷智院」(現存しない)がそれとなろう。「江戸名所図会」の「天澤山麟祥院」の絵図(国立国会図書館デジタルコレクションの天保五~七年版)を見ると、本文には記されていないが、切絵図の位置に「塔中」(「塔頭」に同じ)とあり、ここには町屋が迫っているものの、町屋とのあいだに林が確認出来る(現在は明治になって移転してきた麟祥院の塔頭霊樹院がある辺りが相当する)。当時、少し離れた位置に、春日の局の発願で猶子栄誉法印が建立した真言真義宗の根生院(切絵図の表記。「江戸名所図会」では「金剛寶山根生(こんしやう)密院」とする)があるが(現在は豊島区高田に移転している)、ここは「隣寺」と称するにはちょっと離れており、しかも湯島天神の路を隔てた真後ろ直近にあるから、ここなら、わざわざ麟祥院を出さずに、そっちで指示するだろうから、私は冷智院ととる。

「雀數千隻宿せしが」「すずめ、すせんせき、やどりせしが」。

「集り來て」「あつまりきたり(きたつ)て」。

「數萬」「すまん」。

「くひあふ事」私は雀が成体個体同士が共食いをするという事実は聴いたことがない。極度の餌不足が起これば、雑食性動物ならば、共食いはするだろうが、江戸市中で、飢饉でもない状況下、爆発的にスズメが大発生して、自滅的共食いをするというのは、考え難い。実際に共食いをしている場面を観察したようでもないから、これは何らかのスズメの感染症(ダニなどの寄生虫の多量発生を含む)によるものではあるまいか? ダニにやられて力尽きて落ち、息絶えたスズメを私の知人は目撃している。毛がぼわぼわになって、そこからダニが群がって這い出していたというから、この「くひ殺されし雀、木の葉の散たるやうに見えたり」というのも私にはそれなら腑に落ちるのである。但し、非常に狭い地域で、周辺域が棲息に適さない何らかの理由が存在し、そこで局地的爆発的にスズメの子が多数生まれ、それが個体間距離を著しく侵害するに至れば、攻撃性が高まり、突発的なパニックに陥ることはあり得るであろう。

「本鄕御弓町」(おゆみちやう)現在の文京区本郷一丁目・二丁目(グーグル・マップ・データ)。

「水道橋」上記地区の南東直近。

「くつわ蟲の遙に群鳴く如く」直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目キリギリス上科キリギリス科 Mecopoda 属クツワムシ Mecopoda nipponensis。YouTube の花キノコ虫やまのべ」氏の「日本一うるさい昆虫、クツワムシの鳴き声/Noisy Katydidをリンクさせておく。

「木默老々人」不詳。

「頭り」「あたり」と当て訓しておく。

「消息」書簡。

「鈴木有稔」不詳。「ありとし」と読むか。

「米苞」「こめづと」。米俵。

「追考餘錄第二卷にしるす」次の「兎園小說餘錄」のここにある「雀戰再考」

「有稔子」不詳。絵師の雅号であろうから、「いうねんし」と音読みしておく。

「成」「なる」。

「半張」「はんちやう」。

「追て」「おつて」。]

曲亭馬琴「兎園小説別集」下巻 問目三條【鳩有三枝之禮、鹿獨、肝煎、著作堂問、馬答なし。追記雀戰】~(3)肝煎

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの「新燕石十種」第四では本篇はここから。吉川弘文館随筆大成版で、誤字と判断されるものや、句読点などを修正した。三ヶ条は直に連関しないので、分割する。標題の割注にある通り、馬琴の質問への答えは、ない。]

 

今の世、一職の中にて、抽て進退を掌るものを、キモイリといふ。文字には肝炙【炙一作ㇾ煎。】と書たり。所謂寄合肝炙、肝炙名主是なり。肝煎の字は室町殿日記に見えたれば、凡三百年來の俗稱なるべし。しかれども、その義を定かにいふものを見ず。こは據あることなりや。聞まほし。解問、

[やぶちゃん注:「抽て」「ぬきんでて」。

「肝炙」「肝煎」「肝入」とも書く。小学館「日本国語大辞典」には、『肝を煎る」すなわち「心づかいをする」の意から』と語源を記し、①として『あれこれ世話をすること。斡旋(あっせん)すること。また、その人。とりもち。世話役』として例に文明本「節用集」(室町中期)を挙げ、②として『町や村の長。名主(なぬし)、庄屋などをいう』として、江戸初期の資料を法度の例を挙げる。次に③として、『江戸幕府職制の一つ。同職の中で、頭だって職務を取り扱う者。「古事類苑」には、官職名として親王家肝煎、高家肝煎、普請方同心肝煎、餌差肝煎、寄合肝煎等の名が見えている』とある。「炙」は「やく」の意であるから、意味上は通じる。

「炙一作ㇾ煎」『「炙」、一(いつ)に「煎」と作る。』。

「寄合肝炙」「よりあひきもいり」。

「室町殿日記」安土桃山から江戸前期にかけて成立した楢村長教(ならむらながのり)によって書かれた虚実入り混じった軍記物で実録日記ではない。「室町殿物語」とも。

「據」「よんどころ」。]

曲亭馬琴「兎園小説別集」下巻 問目三條【鳩有三枝之禮、鹿獨、肝煎、著作堂問、馬答なし。追記雀戰】~(2)鹿獨

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの「新燕石十種」第四では本篇はここから。吉川弘文館随筆大成版で、誤字と判断されるものや、句読点などを修正した。三ヶ条は直に連関しないので、分割する。標題の割注にある通り、馬琴の質問への答えは、ない。]

 

顏氏家訓【上卷。】に、鹿獨戎馬之間、轉死溝壑之際、といふこと見えたり。鹿獨の義、いまだ詳ならず。本のまゝに見れば、獨も亦獸の名にて、形猨に似たり、正字通【己集下。】獨。杜谷切。音讀。似ㇾ猨而大。猨性群。獨性特云云。といへるこれなり。又獨を蜀字の誤と見ても、鹿蜀も亦獸の名なり。山海經【南山經。】に、杻陽之山云々。有ㇾ獸焉。其狀如ㇾ馬而白首。其文如ㇾ鹿而赤尾。其音如ㇾ謠。其名曰鹿蜀。佩ㇾ之宜子孫といふもの是のみ。しかれども顏氏が所ㇾ云鹿獨は、これらの義なるべくもあらず。又獨を觸字に誤と見れば、鹿の角をもて、その害を觸防ぐがごとく、鬪戰防禦進退の義、鹿觸といふにやと思へど、猶心もとなし。再按ずるに、鹿々と錄々と陸々と通ずるよし、正字通、鹿字の註に見えたり。鹿と獨とは聲相近し。かゝれば鹿獨は當時南朝の方言にて、猶碌々といふがごとしといはゞ、その義はじめて聞え易し。しかれども、こは愚が推量の辨にして、この他の古書に管見なし。鹿獨といふよしは、まさしき本據あることなりや。聞まほし。解問、

[やぶちゃん注:「顏氏家訓」北斉(最後に亡命した)の学者顔之推が著した家訓。五八九年以降の成立。「中國哲學書電子化計劃」の影印本数種を見たが、孰れも「孤獨」と始まりながら、電子化で起こしたものには「孤」に「・」とされており、「孤」は錯字とみなされているようである。一つだけリンクさせておく。七行目に現われる。中文サイト「三度漢語網」の「轉死溝壑」の同書の引用では、確かに「鹿獨」とする。

「鹿獨戎馬之間、轉死溝壑之際」よく判らぬが、「鹿獨(ろくどく)、戎馬(じゆうば)の間にありて、溝壑(こうえい)の際(きは)に轉死せり。」か。「鹿独も軍馬の中にあっては、野垂れ死にするだけである。」の意か。馬琴と同じく、「鹿獨」が如何なる獣(哺乳類であろう)であるか、不明である。

「獨も亦獸の名にて、形猨に似たり」寺島良安の「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」には、「本草綱目」を全面的に引いた「猨(ゑんこう)」(私はそこで、その記載から、サル目真猿亜狭鼻下目ヒト上科テナガザル科テナガザル属Hylobatesに同定した)の項に、一種として、別条で、同じく「本草綱目」から、

   *

獨【音、瀆。】

「本綱」に、『獨は猨に似て大なり。猿の性は群れる、獨の性は特(ひとり)なり。猿は鳴くこと、三たび、獨は鳴くこと、一たびにして、止む。能く猨猴を食ふ【或は云ふ、獨は乃(すなは)ち黃腰獸なり。虎の類に見とむ。】。』と。

   *                                                                                                       

と引いている。そこで(同巻の他でも「獨」は出る)私は、以上に注して(上の引用も含め古い電子化注なので、一部に手を加えた)、

   *

「獨」「廣漢和辭典」には、さるくいざる。猿の一種。猿に似て大きく、猿を捕らえて食う。常に独居し、叫び声も一声であることから独と名付ける、とある。

「能く猨猴を食ふ」サル類の共食いについては、現在、マカク属 Macaca には本邦固有種のマカク属ニホンザル Macaca fuscata・マカク属カニクイザルMacaca fascicularis・オナガザル科コロブス亜科Semnopithecus 属ハヌマンラングールSemnopithecus entellus・真猿亜目狭鼻下目ヒト上科ヒト科チンパンジー亜科チンパンジー Pan troglodytes及びヒト科ヒト Homo sapiens 等の異常行動として報告されている。

「或は云ふ、獨は乃ち黃腰獸なり。虎の類に見とむ。」とは、「ある説によれば、独は黄腰獣という名の獣である。その学説の分類では、この独を虎の仲間と見做している。」の意。トラなら「能く猨猴を食ふ」は納得である。

   *

とした。「虎の一種説」である。

「正字通」明の張自烈撰の字書。清の廖(りょう)文英が序文(一六八〇)を付して自著として刊行している。

「杜谷切。音讀」『「杜」と「谷」の切。音「讀(どく)」。』で前は反切法で音を示したもの。

「似ㇾ猨而大。猨性群。獨性特」「猨(ゑん)に似て、大なり。猨の性(しやう)は、群るることなり。「獨」の性は特(ひとり)たることなり。」とでも訓じておくか。

「獨を蜀字の誤」(あやまり)「と見ても、鹿蜀も亦」(また)」「獸の名なり。山海經【南山經。】に、杻陽之山云々。有ㇾ獸焉。其狀如ㇾ馬而白首。其文如ㇾ鹿百赤尾。其音如ㇾ謠。其名曰鹿蜀。佩ㇾ之宜子孫といふもの是のみ」「山海経」(せんがいきょう)のそれを訓読しておく。

   *

『杻陽(ちゆうやう)の山に』云々、『獸、有り。其の狀(かたち)、馬のごとくして、白き首(かしら)、其の文(もん)、鹿(しか)のごとくして赤き尾、其の音(こゑ)謠(うた)ふがごとし。其の名、「鹿蜀(ろくしよく)」と曰ふ。之れを佩(お)ぶれば、宜(よろ)しく子孫あるべし。』。最後は「この獣の何かを体に佩びておれば、よく子宝を授かるであろう。」という謂いである。原文影印本を「中國哲學書電子化計劃」でリンクさせておく(後ろから四行目)が、その郭璞(かくはく)の割注では、佩びる対象は、その「皮」や「尾」とある。「珍獣ららむ~」氏のサイト「山海経動物記」の「鹿蜀」がよく考証されていて、よい。そこでは馬と虎が合成された想像上の産物とされる。支持する。

「所ㇾ云鹿獨」「云ふ所(ところ)の鹿獨(ろくどく)」。

「誤」「あやまれる」。

「觸防ぐ」「さはりをふせぐ」「ふるるをふせぐ」と仮に読んでおく。

「鬪戰防禦進退の義、鹿觸といふにや」危急の際に鹿の角を以って災厄除けの呪具として「鹿觸」というのだろうか、と勝手に解釈しておく。

「再」「ふたたび」。

「鹿々と錄々と陸々と通ずる」「錄々」は「碌々」と同じで「平凡無為のさま」(「史記」にあり)で、「陸々」も同義である。

「鹿と獨とは聲相近し」この「聲」は「セイ」で音のことであろう。則ち、馬琴は「ロク」と「ドク」は音が近いというのである。しかし、現代中国語では「鹿」は「」(ルゥー:第四声)、「獨」は「」(ドゥー:第四声)で似て非なるものである。]

ブログ始動十六周年記念 梅崎春生 飢えの季節

 

[やぶちゃん注:本篇は昭和二三(一九四八)年一月号『文壇』に初出し、後の作品集『飢えの季節』(同年八月講談社刊)の収録された。

 底本は「梅崎春生全集」第二巻(昭和五九(一九八四)年六月沖積舎刊)に拠った。文中に注を添えた。

 本電子テクストは私のブログ「Blog鬼火~日々の迷走」(二〇〇六年七月六日始動。初回記事はこれ)]の十六周年記念として公開する。【二〇二二年七月五日五時三十一分 藪野直史】

 

   飢 え の 季 節

 

 その頃の私は、毎朝四時に眼がさめた。身体のふしぶしには眠りがまだ残っているのに、扉口から外へ押しだされるような具合で、意識だけが突然はっきり覚めてしまうのであった。覚めぎわの気分は、いつもひどく悪かった。蝉(せみ)のぬけがらみたいに、からからに乾いた感じであった。暗闇の沈みこんだ部屋の底で、私は布団のなかに平たく横たわり、そしてしらじらと覚めていた。寝覚めのときというものは、普通の男なら皆あらあらしく精気にみちている筈なのに、なぜ私だけがそんな眼覚めかたをするのだろう。それはなぜでもなかった。私の肉体が病んでいるわけでもなかった。精神が絶望しているわけでも更になかった。ただひとつ、私にそんな寝覚めを強要するただひとつは――つまり私の腹が極度に減っているからなのであった。ただそれだけであった。ただそれだけが、あの悪夢の果てのにがい寝覚めを私に持たせるのであった。

 季節は秋が終りかけて、そろそろ冬が近づいてくる頃だった。私は寝巻の袖から肌さむい腕をのばして電燈を点じ、そして枕許の時計をながめるのが常であった。それは必ず四時であった。印でも押したようにきまって四時を指していた。飢餓の季節にも自らなるリズムがあって、それが私の生理の日常を支配しているらしかった。それから私はふたたび布団のなかに平たくなって起き上るべき時間のくるのをじっと待っている。もはや眼覚めたそのときの私の想像に入ってくるものは、先ず白い御飯にあたたかい味噌汁をそえた朝食の幻想であった。この幻想はごく迅速に私の消化器に連結して、ある収縮感をともなった刺戟を私につたえて来るのであった。御飯はつぶつぶに真珠のように光っていた。味噌汁は――そのときの具合で、豆腐が入っていたり、若布(わかめ)が入っていたり、まれには茸(きのこ)や筍(たけのこ)が入っていたりした。それから私はしぜんに小皿を思い浮べる。豚肉の煮たものや秋刀魚(さんま)の焼きたて。また歯ごたえのある沢庵(たくあん)。烏賊(いか)のさしみ。アスパラガス。あたたかいシチウ。玉子焼。そんな具合に私の聯想(れんそう)がとらえたひとつひとつの食物を、私はじっくりと全身をもって舐(な)めまわしながら、また次ヘ移ってゆく。鰻(うなぎ)の蒲焼。肉の揚物。木の芽あえ。田楽。――それらはすべてなまなましく、そのくせ膜をいくつも隔てたようにはるかでもあった。それらは想像のなかで、匂いや舌ざわりすらも伴っていた。そして私がそれをはっきりとらえようとすると、内臓の不快な収縮感だけを私にのこして、それは急に感覚から遠のいてしまうのであった。そうすると乳首を唇から外した幼児のように、私はあわてて次の聯想の乳房にしやぶりつく。また新しい皿が湯気や匂いをたてながら、私の幻の食卓に置かれるというわけであった。そしてそのむなしい幻想をかさねてゆき、恣意(しい)の倦怠がしだいに胸におちてくると、ある名状しがたい苦痛と陶酔がまじり合いながら、私の身体を潮騒のように満たし始めてくる。その頃になって私は、この一夜の長い悪夢も、そんな食物の幻でいっぱいであったことに気がつくのであった。顎(あご)までふかぶかと布団をかぶせ、両脚をそろえて伸ばし、私はうとうとと半眼をひらいて、闇の中からしだいに光がためらうように淡くただよってくるのを、漠然たるある予感とともに待っている。起き上る時間までの数十分を毎朝こんな具合にして私はすごしてしまうのであった。それは私にとって独立したひとつの世界だった。そしてしんとした昧爽(まいそう)の大気をゆるがせて、遠くから南武線の始発電車のひびきが伝わってくる頃、確然と夢想を断ちきって、私はうす暗い部屋の底に上半身を起すのである。ひとつの世界から意識を脱出させる不快な抵抗をまざまざと感じながら。――[やぶちゃん注:「昧爽」「昧」は「ほの暗い」の、「爽」は「明らか」の意で、夜の明け方・曉・未明のこと。]

 飢えと憂いにみちた私の一日の行程が、こうして毎朝始められるわけだった。

 

 私が住んでいたのは、ちいさな農家の二階であった。そこから南武線の稲田堤の駅まで二十分位あった。身仕度をしてくらい階段を降り、まだ寝しずまっている階下を跫音(あしおと)しのばせて土間に降り、かけがねをそっと外してそとに出るのであった。土間には収穫した薩摩芋がごろごろと積まれてあった。それを横眼でみながら私はそっと戸を閉じる。庭を通りぬけ、私はわざと畠のなかの径をえらんで駅の方にあるいてゆく。[やぶちゃん注:「稲田堤」は神奈川県川崎市多摩区のJR東日本南武線稲田堤駅及び京王電鉄相模原線京王稲田堤駅周辺を指す地域名。町名としては南武線稲田堤駅が所在する菅稲田堤(すげいなだづつみ)が残る。この附近(グーグル・マップ・データ)。梅崎春生の随筆「日記のこと」にも登場する地名である。梅崎春生自身、敗戦の一ヶ月後の昭和二十年九月に上京した際、川崎の稲田登戸の友人の下宿に同居している(現在の神奈川県川崎市多摩区登戸。現在の小田急電鉄小田原線の「向ヶ丘遊園駅」は昭和三〇(一九五五)年四月に改称されるまでは「稲田登戸駅」であった。ここ(グーグル・マップ・データ)。南武線登戸駅は南武線稲田堤とは二駅しか離れていない)。そうして、かの名作「桜島」(リンク先は私の電子化注PDF版。分割の連載形式のブログ版はこちら)は、まさにこの稲田登戸で書かれたのである(春生の「八年振りに訪ねる――桜島――」を参照のされたい)。但し、以下で主人公が勤めている奇体な会社は不詳。作者自身が実際にそうした仕事をしていたかどうかという事実も不明である。]

 稲田堤から電車にのり、登戸で小田急にのりかえ、新宿できて中央線をつかまえる。そしてお茶の水まで、満員電車からはき出される頃には、日はすっかりのぼっていて、お茶の水駅の横のだらだら坂を、額に光をうけながら私はゆるゆる降りてゆく。家を出てから二時間あまりも経つわけだった。満員電車にもまれながら、私は同車の乗客たちの吐く息から、さまざまの臭いをかぎわけることができた。彼等はすべて私と同じ勤め人であった。ただ私とちがう点は、私が朝飯を食べていないのに反して、彼等はそれを済ましているということだった。その呼吸のにおいから私は、味噌汁の匂いや沢庵のにおい、また御飯や麵麭(パン)のにおいまで、ありありと感じわけるのであった。そしてそれらは一々、私の胃の腑(ふ)に鋲(びょう)をうちこむようにひびいてきた。同車の男たちのひとりひとりに私は内部に折れまがったような憎悪を感じながら、とげとげしく押したり押し返されたりした。それからやっとお茶の水でひょろひょろと電車から押し出されるというわけであった。

 昌平橋のたもとにある外食食堂に私が登録していたというのも、勤め先の位置の関係からであった。稲田堤のちかくには、そんな風の食堂はなかった。あったとしても、私が出かける時間にはまだ開いている筈がなかった。だから余儀なく私はここに登録する他はなかったのだ。前にのめりそうになるのを辛抱しながら、私は一歩一歩だらだら坂を降りて行く。坂の横は高架となって、省線電車がひっきりなしに往来する。私の眼からそれらの電車を斜下から見あげることになるのであった。すすけた鉄色の入組んだ、袋のような形や棒の組み合わさった電車の下部構造が、あらわに私の眼に映じてくるとき、私はなにか醜悪な色情をそれに感じることがあった。そしてそれは私の空腹感とまじりあって、あるやりきれない気分として私の胸にひろがってくるのであった。

(先ず朝飯を! 先ず朝飯を!)

 呪文のようにそんなことを呟(つぶや)きながら、私はそれから視線を外(そ)らして、外套の背を丸くしたまま坂を降りてゆく。

 汚ない掘割に面したその食堂は、私が着くころは大ていがらんと空いていて、そろそろ片づけにかかっている日が多かった。私は入口で登録票と金を差出して、真鍮(しんちゅう)の食票をうけとる。たいていただの一食分。どんなに私は二食分たべたかっただろう。いや、二食分だけでなく、三食分も四食分も。実際私はこらえきれなくて、二食分を買って食べたこともしばしばあったのだ。しかしそうすれば、必ず昼か晩を抜かねば勘定があわぬ筈だった。それがどんなに辛いことであるか、私自身が一番よく知っていた。だから歯を食いしばっても一食分なのであった。このきびしい戒律を自分に課しているつもりでいても、私の登録票はいつも先の日まで食いこんでいたのである。月末になればどうすればいいのだろう。そのことは不快な予覚として常住私を脅やかしていた。それにもかかわらず、食票を買うとき私の心は、一食にしようか二食たべようかと、その度にはげしい格闘をするのであった。そしてやっとのことで欲望をねじふせて、私は一枚の食票をにぎりしめてがらんとした食堂の中に入ってゆく。

 外食食堂の一食分とは、なんと僅少な分量しかないのだろう。頰張って食えば、四口か五口で終ってしまうのだ。水のようにうすい味噌汁と三四片の沢庵(たくあん)。食べ終るのに二分間もかかりはしない。四時に眼がさめて、さまざまな食物を幻想した果てに、こんな貧寒な食事しかとれないということ、それはほとんど憤怒に近い感情をいつも私に起させるのであった。私はこめかみをぴくぴく動かしながら、またたく間にそれを食ってしまう。食ってしまっても、満足などある筈はなかった。なお空腹がはっきりしてくるに過ぎなかった。入口まで戻って、もう一食分買いたいという猛然たる欲望を握りつぶして、私は眼をつぶって食堂を出てゆくのである。

 入口の近くには、そんな朝っぱらから汚ない恰好の男が五六人、何時もなんとなく立っていて、こそこそ話しあったり日向ぼっこをしていたりした。この男たちのふところには旅行者外食券が何枚もしまわれてあって、一枚三円出せば分けて呉れることを私は知っていた。どんなに私はそれを買いたかっただろう。しかし買うわけには行かなかったのだ。復員のとき持って帰った靴や外套を、私はすでに食うために売りとばしていた。あとは今着ているやつだけであった。戦争がすんでまだ四箇月も経(た)たないというのに、私はあらかた持物を売りつくして、止むなく今の勤め先に入ったという訳であった。復員後ただちに上京してみると、私がつとめていた会社のあたりは焼野原になっていて、焼けのこったくさむらの中で蟋蟀(こおろぎ)がないているだけであった。社はどこに行ったのか判らなかった。こんな具合で私はうやむやの中に失業したのであった。そして二箇月ばかり売り食いしてあそんだ。だから金銭的な意味では、私は貪窮の底にいたのだ。

 今の勤め先というのも、私は新聞広告でみて履歴書を持って行った処であった。すぐ採用ときまったけれども、給料はいくらなのかまだ判らなかった。月末になってみないことには私には見当がつかなかった。しかし給料であるからには、食えるだけは呉れるだろうと、漠然たる期待を私は胸にあたためていたのである。その勤め先の事務所は、神田にあった。焼げビルをトタン板などで修理したきたない建物の二階だった。[やぶちゃん注:「昌平橋」グーグル・マップ・データのこちらで以上に出た地名はカバーされている。]

 

 凸凹になった階段をのぼってゆくと、雑然と机が並んでいて、仕事は八時半から始まった。会長というのは体格のいい壮年の男であった。八時半になると全員があつまって、鼠みたいな風貌の庶務課長の号令で、宮城追拝と会長どのへの敬礼をおこなった。戦争も終って世の中が大きく転換しようというのに。

「宮城にたいしたてまつり最敬礼!」

「会長どのにたいし敬礼!」

 こんな号令のもとで頭を下げねばならぬことは、まことにまことに不本意なことであったけれども、給料を貰って飯をくうためには仕方がないことだ、と私は自分に言いきかせるのであった。しかしそれでも頭を下げる瞬間は、屈辱のために顔の筋肉が硬(こわ)ばるのをどうしようもなかった。それから一席会長の愚劣な訓辞があって、ばらばらに分れて自分の席にもどり、やっと仕事が開始されるというわけであった。

 此の会社の事業というのは、町角などに立看板を何枚も立てて、それを通行人に見せるという仕組のものであった。戦争中は情報局と組んで、焼夷弾はどうやって消すかとか、家庭菜園のつくり方だとか、ヒマを何のために作るかとか、そんな風なテーマを立看板の二十枚位に書いて町角にならべることを仕事としていたらしかった。もちろんその頃の金は情報局から出ていた。ところが戦争がすんで情報局が消滅してしまうと、この恰幅のいい会長は、こんどは自力で事業を運営する決心をしたらしかった。新聞広告までして人員を募集したというのも、そんな事情によるわけであった。毎朝の社長の訓辞よりすれば、この度は文化国家の建設とデモクラシイの啓蒙運動に全力をそそぐというのであるらしかったが、それにしては宮城などを最敬礼させることは少々おかしなことに思われた。しかし誰もそれについては変に思っていないようだった。皆諾々(だくだく)と最敬礼し、そしてのろのろと仕事についた。

 私の仕事というのは、立看板の構成をやることであった。入社早々私に与えられたのは、「大東京の将来」というテーマなのであった。未来の大東京が如何にあり、如何にあるべきか、ということを、二十枚の看板で都民にみせるわけであった。朝礼がすむと、私は自分の席にすわって、昨日のつづきの構成を考えはじめる。私の前は窓になっていて、そこから一面の焦土が江東の方にのびているのが眺められるのであった。ところどころ残った焼けビル、道路のはしに焼けただれた自動車の残骸、焼けトタン板の散乱、立ち枯れた樹々、そこのあたりを十一月の風がそうそうと吹きぬけている。この焦土の上に、どのような大東京がたてられるのか。そんな未来の東京を夢想することが、ここでの私の仕事であった。私は疲れた頭にむちうって、そんな夢想を組立て始める。――

 窓からつめたい風がはいってくるので、私たちは一日中外套を着たままであった。私の席の右隣は佐藤という男で、おそろしくよくしゃべるくせに、内容は何もないような感じの男であった。服の上から徴用工じみたカアキ色の上衣をかさねているので、小さな体軀(たいく)がなおのこと貧寒に見えた。左隣は長山アキ子という女で、これは私のもっとも厭な型の女だった。へんに高慢ちきなしゃべり方をする女で、彼女がもっているテーマは「アメリカ人の生活」という題目なので、ライフ誌とかそんな種類の米国雑誌を机の上に山とつんで、一日中それを眺めたり人の仕事にうるさく口出ししたり、実のところは仕事は何もしていないくせに、一番忙しそうな感じのする女であった。その他にも二三人いて、それがこの社の編輯(へんしゅう)部ということになっていた。その他に、庶務や会計や、ペンキ屋や図案部などがあることになっていた。

 仕事にかかり始めて一時間も経つと、ふたたび私は猛烈な空腹を意識し出すのだ。朝たべた飯などまたたく間に消化されつくして、胃(い)の腑(ふ)はすっかりからっぽになっているらしかった。時計の動きが何とおそく感じられることだろう。一時間も経ったかと思うのに、まだ十分しか動いていないのだ。こうなると、大東京の幻影もいちどきに消え果ててしまうのである。私は椅子の上で身体をもぞもぞ動かして貪乏ゆるぎをしながら、感覚をごまかそうと試みている。長山アキ子のふくらんだ頰ぺたが麵麭(パン)みたいに見えてきたりするのはそんなときなのだ。

 十一時半頃になると私は辛抱がしきれなくなって、そっと立ち上り、便所にゆくようなふりを装って部屋を出、凸凹の階段を一気にかけ降りる。昼飯の想像だけで腹がぐうぐう鳴っているのだ。汚ないアスファルト道を膝をがくがくさせながら私は急ぎ足であるいてゆく。今日のおかずは何だろう。そして二食分くえたらどんなにいいだろう。そんなことを熱心に考えつづけながら。――

 しかし大ていの場合、やはり私は一食で我慢する他はなかったのだ。そして他のお客たちが二食分を食べているのを眺めながら、私だけは一食で辛抱している。あんなに二食いっぺんで食べるのは、朝飯を抜いたからなのだろうか。それとも食券を買ったためだろうか、などと余計なことを考えながら、私は横目でチラチラとそれらをぬすみ見ているのだ。そんなときの私の眼付は、きっと飢えたけものの眼付をしているにちがいなかった。あるとき私がそんな風にして眺めていたとき、中年のよごれた服装の女だったが、ぎょっとしたように私の眼から膳を自分の方にひきよせたことがある。そのとき私はどんな顔つきをしていたのだろう。鏡がなかったから、自分の顔を見るよしもなかったが、そのときのことを思い出すたびに私の頭に浮んでくるあるひとつの情景がある。

 それは私が軍隊にいたときで、食卓番になって烹炊所(ほうすいじょ)に待っていると、烹炊所の片すみに残飯がごちゃごちゃ捨てられていた。その当時も私たちは極度に腹をすかしていた。ふと顔をあげて横に並んでまっているひとりの兵隊の顔をみたとき、私はある衝動が突然胸をつきあげてくるのをかんじた。それはやはり四十歳位の老兵で、無精ひげを伸ばした瘦せこけた兵隊だった。その瞳孔の開ききったような眼は、からからに乾いて、その残飯の山に吸いつけられているのであった。それは人間の眼ではなかった。ひとつの欲望だけがぎらぎらと露呈した眼であった。やせた頰の肉が反芻(はんすう)でもしているようにけいれんしていて、意識が全部それにうばわれていることは一眼であきらかだった。

短い時間ののち、ふと我にかえったように身ぶるいしながら顔を動かして、この老兵の眼が私とあったのだ。私の視線に気付くと老兵は照れたような弱々しい笑いを頰にうかベた。それはもう普通の人間の眼だった。しかし私はそのとき、何故ともなく顔をそむけたのを覚えている。

 あのような眼付を、食堂の中で俺はしているのではないか。そう思うと歯ぎしりしたくなるような焦噪が私をかり立ててくるのだった。歩いているときなどにそんなことが頭に浮ぶと、私は舌打ちしたり唾はきちらしたりしてそれから意識をのがれようとする。そのくせまた食堂に入ると、あたりを見廻す私の眼はおのずと険しい光を帯びてくるらしかった。それは自分でも判っていて、どうしようもないことであった。私の人間的なたしなみを破ってくるのもヽそのような切迫した生理であることを思うと、私は対象のないかなしい憤激を、核のように心に包んでしまうのであった。

 

 勤めは四時に終った。ところが夕食時間は五時からだから、私はその一時間をやはり自分の席にとどまっていた。ただ椅子にかけてぼんやりしているのである。

 皆が帰ってしまうと、小使がほうきをぶらさげて部屋の中をひとわたり掃除してあるく。私は腕組みをしたままじっとしている。一日のその頃になると変に疲れていて、身体を動かすのも大儀な位だった。階段の登り降りがもっとも身体にこたえた。掃除がすむと小使部屋の方から、物を煮る匂いや芋を焼く匂いがただよってきたりする。私は鼻をぴくぴく動かしながら、黙然(もくねん)としてすわっている。そのうちに五時が近づいてくるのである。

 五時五分前になると私は、やはりさまざまな食物の妄想を打ちきって、ゆっくりと立ち上る。外にはすでに夕闇がほのぼのと拡がりかかっているのだ。薄暗くなった階段を踏み外さないように一歩一歩、片手を壁に這わせて降りてゆく。そして焼けビルに一日の別れをつげる。

 夕暮の昌平橋食堂ほどわびしい風景は、あまりないだろうと思う。高い天井から裸電燈がいくつか下っていて、その底で人々は黙って手早く食事を済ますのだ。魚や大根を煮る匂いが河岸の方まで流れている。だから昌平橋を渡るときに、すでにおかずの種類の見当がつくほどであった。そして私は夜も一食だけを買うのだ。これを食べてしまえば、明日まで何も食えないと考えると、佗しさはひとしお深まるのであった。その佗しさの底にうずくまって、私は小量の食事をむさぼり食べる。

 食堂を出てから駅へ急ぐ途中にも、ふかし芋などをならべた露店が出ていて、見まいとしてもどうしても眼に入ってしまうのであった。眼に入っても、眺めるだけで私にはそれが買えないのである。月給日までの食費がやっと残っているだけなので、もしそんなものを買うためには、私は今着ている外套をでも売らねばならないのだった。だから露店のふかし芋などは、私にとっては単に食慾を刺戟するためにだけ存在するようなものだった。私の期待はただひとつ、今月末にもらえる月給の額にかかっていると言ってよかった。もしたくさん貰えれば、来月分の食費だけを取りのぞいて、残りで露店の食物を腹いっぱい食べてやろうと、私は本気で空想していた。そんなとき私の空想の対象となるものは、ふかし芋だとか黒麺鮑(くろパン)だとか、もっぱら安くて腹一杯になるものだけに限られていた。実現の可能性があるからこそ、空想の対象も現実的なものになるらしかった。朝の寝覚めの折のように、鰻(うなぎ)の蒲焼や天ぷらのイメージは、ここでは浮んではこなかった。

 またはるばる二時間も電車にゆられて、稲田堤に戻って行く途中私は、三食で済ました日は割当だけで辛抱したというかどで、ある満足を感じることもあった。しかしその満足には虚脱したような苦痛がかならず伴っていた。一日に三食分だけで我慢することを、毎日かさねて行けばどういうことになるのか。この暫(しばら)くの間で私の肉は胸から腕からごっそりと落ちていた。足首ですら指でにぎって余る位だった。だから満足というのも、翌日分に食いこむことから来る心痛がないというだけのものであった。

 そして七時半頃になって私はやっと稲田堤の駅に降り立つ。その頃は日はとっぷりと暮れていて、道をはさんでうす暗い燈のいろがあちこちに揺れているのだ。私は外套の中で身体をすくめながら、とぼとぼと家の方に戻って行く。私が家につくころは、この家のあるじたちは既に野良仕事を終えて、たいてい夕餉(ゆうげ)の最中であることが多かった。階段をのぼる前にちらと茶の間に視線を走らせると、必ず大きなおひつの中の真白な御飯がいきなり眼にとびこんでくるのであった。農家というのはいずれもそうであるらしいが、おかずは味噌汁かなにか極く簡単なもので、そのかわり鬼の牙のように真白な飯を、大きな茶碗に何杯も何杯も詰めこむらしかった。想像するだに重量感のある話であった。私はぎしぎしと階段をきしらせて二階にのぼってゆく。そして敷き放した寝床に外套のままころがりこむ。眼をぼんやり見開いて、今日一日のことを考えている。起き上って何事をもする気持が起らないのである。

 たまに、極(ご)くたまにではあったが、そんな私に階下からお茶をよびに来ることがあった。私は眼をかがやかして、そんな時とびおきて階下に降りて行く。茶の間の火鉢のそばには頑丈なあるじがすわっていて、卓の上にはふかし芋が山とつまれていたりするのだ。私ははやり立つ気持をおさえながら、先ずゆっくりと熱い茶をすする。芋の方を横目でにらみながら、ゆっくりお茶をすする。それは小便したいのをわざとこらえているような、嗜虐(しぎゃく)的な快感すらあるのだ。そしておもむろに、目星をつけておいた一番大きな芋を何気なく、ほんとに何気なくつまみあげる。しかしそれを唇のところまで持って行ったら、もう駄目なのだ。またたく間にむさぼり食べてしまう。そしてまた次のに手を伸ばしてしまうのだ。

 あるじというのは色の黒い武骨な男であった。そして大へん話好きであったことは、私のために好都合であるのかも知れなかった。というのは、彼の話を聞いてやることで、私の芋を食う時間を伸ばすことが出来たのだから。彼の話を長くさせるために、私は出来るだけ細心に、相槌打つべきところは抜目なく打ち、ときには適切な質問をはさんだりするのであった。あるじは徹底的な保守家で、自由党や進歩党の信奉者で、彼がもっとも嫌悪するのは共産主義であるらしかった。だから話はしばしば共産党の攻撃に走ったが、その場合でも私は抜目なく相槌を打つことを怠りはしなかった。あるじの言説に反対することで、私はお茶の招待を失うことが最もつらかったのである。いわば私はひとかけらの芋のために、思想をすら売りわたしたと言ってもよかった。また保守反動の輩であるこのあるじは、同時にもっとも現実家のひとりであって、彼がさげすむのはもっぱら生活力に乏しい男にかぎられていた。近所の連中の噂などをするときに、その傾向ははっきりあらわれた。このあるじの二階、つまり私がいる部屋には、以前小説家のT・I氏が下宿していたということだった。私はまだその頃T・I氏に面識はなかったが、あるじの話によればおそろしく生活力の乏しい人間であるらしかった。とにかく夏冬を通じてよれよれの国民服一着しか持たず、ちょこちょことそこらを歩き廻り、話すことといったら訳の判らないことや間の抜けた話ばかりだということだった。あるじがT・I氏のことを話すときは必ず憫笑(びんしょう)の口調を帯びていて、T・I氏をもっとも役に立たぬ人間だときめていることはまことに明かであった。

 「あんなのが芸術家だというんかね。あれで小説書けるというのがふしぎだね。読んだことはないけんど、どうせろくな小説じゃあんめえよ」

 私は、天文学のかけらが散らばったようなT・I氏の幻想にみちた小説を思いうかべながら、あわてて相槌をうって、そのついでにまた手を芋の方に伸ばす。ときにはあるじと一緒になってT・I氏を憫笑したりするのであった。やはりひとかけらの芋のために、私は芸術家のたましいも売りわたしてしまったものらしかった。[やぶちゃん注:「T・I氏」この段落の主人公の評した小説の印象から、怪作家稲垣足穂(明治三三(一九〇〇)年~昭和五二(一九七七)年)と考えてよい。私は若い頃に代表作数冊を読んだが、正直、好きな作家ではない。従って、後にも言及されるが、注をする気はない。]

 いい加減食べ終ると、まだ食べたい気持をねじ伏せ、(あんまり食べるとこの次からお茶によばれなくなるかも知れないので)私はあいさつして二階にのぼってゆく。頭の片すみに鈍い悔いと後味のわるい満足感をおぼえながら、つめたい寝床にもぐりこむ。

 しかしこんなことはほんとにまれであった。大ていの夜はそのままぐったりと寝床に入って、じっと空腹に耐えていることが多いのだ。こんなに腹が減るものなら、夕食をもう一人前余計に食べてくればよかったと思っても、もうおそいのである。食べに行こうと思っても往復四時間もかかるし、だいいちそんな時間に食堂が開いている筈がないのだ。私は電燈を消して、しらじらと寝床の中に平たくなっている。腹が減っていて、なかなか寝つけないのだ。土間に積んである芋を便所のかえりにそっと盗んできてやろうかなどと考えたり、寝覚のときのように食物の幻想のオナニーに意識的に入って行ったりする。そのうちにうとうとと、睡眠の予覚として感官の息ぐるしい錯乱が始まってくるのだ。私の幻想はそのまま夢の中に引きつがれて、私は夢の中でも食物と格闘している。そして長い夜がすぎて、水の中からいきなり引っぱり上げられるような具合に眼がさめる。晩方のひえびえした空気の中で、枕許の時計が必ず四時を指しているのである。

 

 日曜日というと私のもっとも苦心する日であった。

 先にも書いたように、私の命の綱の食堂は昌平橋にあったから、もし食事しようと思うならそこに出かけてゆく他はなかった。ところが往復に四時間かかるとすれば、朝昼晩にそれぞれ四時間を費して昌平橋に通うとしても、合計十二時間というものが食べるための往復に必要なわけであった。いくら空腹であるとしても、それではあまりにむなしい話であった。だから私は日曜日だけは苦心さんたんして自分の家で食べる工夫をこらした。うちで一日食べるということは、翌日に六食分たべられるということにもなる訳(わけ)だった。しかし実際は前からの食い込みを補充するだけにとどまっていたけれども。

 私は乏しい銭の中から十五円をさいて、あるじから芋か一貫目求めておいた。あるじはそれを私に売るときに、特別に安くしておこう、と十五円にしたのだけれども、十五円というのはその頃の相場であって、決して安いわけではなかった。私はそれを風呂敷にくるんで床の間にかざって置いた。十五円は相場で、決して安いわけでもないのだけれども、結局安いものについた。というのは、私はときどき人目をぬすんで土間からひとつふたつと芋をちょろまかして、私の凧呂敷に補充したからであった。そんな行為をなすことにおいて、私は胸がいたまなかったわけではない。しかし直接私に来るものは、良心の苛責(かしゃく)というような正統派のものではなくて、おそろしく惨めな敗北感であった。人気のないのを見すまして乾いた泥のついたままの芋をふところに押しこんで、何食わぬかおをして二階に上ってくる。そして四周(まわり)を見廻してそっと風呂敷の中にそれを押しこむ。それから部屋の真中にすわっていると、言いようもなくかなしい気持になってきて、私は掌で頭をかかえたまま、どうぞどうぞ、とか、さてさて、などと意味のないことをしばらく呟きつづけている。ふところに残った乾いた泥が、腹の肌に入りこんでじゃりじゃりと厭な感触ですベりおちるのだ。この行為が衝動的なものでなく、計画的であることが、私の嫌悪をもっともそそるのであった。

 日曜日という日は、出来るだけ長い間寝床に私は止っている。動くことによる体力の消耗(しょうもう)をさけるためであった。そしていよいよ我慢が出来なくなると、ごそごそと起き出して風呂敷包みをたずさえ、家を出てゆく。小川が流れていたり柿の実が赤く点じていたり、そんな田舎道をぶらぶらあるいて、適当な地形までくると、私は木片や枯葉をあつめてきて焚火を始める。芋をその中に埋めておくのだ。私が適当な地形というのは、人里はなれてどちら向いても人影が見えないような地形なので、私はこの貧しい饗宴(きょうえん)を人の眼からはなれた場所でやりたいのであった。何故という理由はない。ただただそんな気持だった。いつも何か食ベるときは、誰か人間が近くにいて、私はなにか対立するもののようにものを食べているのだ。それが厭だったのかも知れない。とにかく私は人気のないところで、心ゆくまで芋を食べたかった。他人を意識しないで、傷つけもせず傷つけられもしないまどかな状態で、私はゆっくり私の食事をとりたかったのだ。それは犬が食物をくわえて、遠くの方に行って自分ひとりで食べたがるのにも似ていた。

 芋が焼けてくると、私は待ち切れずに掘りおこして、手に持ちかえ持ちかえしてそれに食いつく。歯の根がじんと疼(うず)くほど熱い。ひとつ食べ終ると次を、また次を、私は長いことかかって食べ終える。ある充足感と空白感がするどくからみ合って私の胸にひろがってくる。そのときでも、この芋の中に盗んだ芋が入っているということが私にはかなしくなってくるのだ。しかしぎりぎりに切りつめた予算では、毎日曜をこんなに芋で食い伸ばすには、そのような方法を私はとらないわけには行かなかった。あんなに沢山土に積んであるのだから、と私は弱々しく心をなだめにかかる。供出の方はどうなっているかは知らなれけれども、買出し客にここのあるじが闇値でさばいているのは、私が何度も見たところであった。しかし私のやり方が計画的な盗みであることは、動かしがたい事実であるので、やり切れない感じはすべてそこから発しているらしかった。

 盗みという点では、私のやったことはそれだけではなかったのだ。まだ他にもあった。それもやはり食物であった。家から稲田堤の駅にゆく途はいろいろあって、私がわざといつもえらぶ途(みち)は、裏の方から畠のなかを通りぬける途であった。そこには柿の木が何本も生えていて、もちろんこれは自然に生えたものではなく、果樹として栽培されているものだが、それが赤い大きな実をいくつもぶら下げているのであった。朝の寝床の中の妄想のあとで、消耗した視神経にも、その艶やかないろどりは充実した生命のように圧倒的であった。並木になっていて、最初の四五本は見ぬふりして通りすぎるが、あとずらずらと並んでいるのが見ると、私は眼がすこしくらんできて、気がつくときはもうふらふらと手が柿の梢にかかっている。ぽきんと枝が折れるにぶい音がして、重くつめたい柿の果実は、もはや私のポケットに入っているのだ。私はそして顔中から汗を吹き出しながら、足早にそこを通りぬけて行くのである。

 しかしこれすらも必ずしも衝動的なぬすみとは言えないのだ。なぜというと、わざわざその途(みち)をえらばずとも、他にも駅へ行く途はあるのだから。その途をえらぶことについて、私はあらかじめ自分の自制力の弱さを計算に入れているのかも知れなかったのだから。

 畠を出外(はず)れてからおもむろに私は柿をとり出す。そしてそれを噛りながら、駅の方にあるいてゆく。駅につくまでには、種だけをのこしてあとは全部私の腹の中に入っている。食べた片端から吸収されて、私の栄養となって行くのではないかと思われるほど、それは美味で、すぐに元気がでた。その元気もわずかの間だけで、やがてもとの空腹の虚脱感がもどって来るのであったけれども。

 その柿の木は、裏の百姓の吉田さんの所有物であった。ある日曜日私が吉田さんの家にあそびに行ったとぎ、話が果樹のことなどに落ちて、吉田さんはふと思いだしたように言った。

「ちかごろ、俺んちの柿をかっぱらうやつがあるらしいんだ。枝が折れてるし、葉が散っているしさ。なに、ひとつやふたつ大したことじゃねえけどよ。かっぱらわれるとなればしゃくに障(さわ)るからな。つかまえたら足腰立たぬほどぶちのめしてやるから」

 そう言いながら、吉田さんの眼は探るように私を見たようでもあったし、それは私の気のせいであったような気もする。

「あんたもな、そんな奴めっけたら、遠慮なくしょょぴいて呉んろよな」[やぶちゃん注:「しょょぴいて」は底本のママ。「しょっぴいて」の誤植であろう。]

 私はだまってうなずいた。うなずくより手がないではないか。私はそのとき、お猿みたいにまっかな顔をしていたに違いないのだ。

 

 未来の大東京の構想は、なかなかはかどらなかった。此のテーマを最初にあたえられたときは、仲々やり甲斐のあるような気もしていたが、さて引受けてみると、さっぱり興味が湧いてこないのはふしぎな程であった。私は一日中椅子にかけてうつらうつら食うことの妄想ばかりしていて、焦土にどんな都市を建設するかということには、ほとんど心をむけていないと言ってもよかった。しかし何も構想を立てていないということは、やはり都合がよくないので、あれこれ心覚えだけをノートしたりしているのだが、しかしこの惨めに飢えた私にとって、この大東京にどんな道路をつくり、どんな集団住宅をたて、どんな交通機関を設置するか、ということがどんな関連があるというのだろう。私の頭に先ず浮んでくる理想の大東京とは、実際のところを白状すれば、おでん屋や鰻(うなぎ)屋やそば屋がずらずらとならんだ、そして安いお金でどんなにでも飲み食い出来る都市なので、それ以外には何もないのだ。緑地帯も集団住宅も何も必要ではない。東京全都が食物屋だらけになればよいのである。これが私の大東京の構想の本音であった。しかしこんな構想を提出したら、皆から笑殺されるだろうということは、私といえども充分に承知している。だんだん日限がせまってくるので、私も少しあわて出し、都の建設局などに日参して資料をあつめたりし始めた。

 新参者の私がどんな風に仕事をすすめているのか、それが気がかりなのか、又は単なるおせっかいなのか、隣席の佐藤や長山アキ子はうるさく私の進行を探りにくる。私はそっとして貰いたいのに、二人とも色々鎌をかけたりした揚句、私にむかって未来の大東京はかくあらねばならぬ、というようなことを講義までして聞かせるのだ。長山アキ子の方はことに烈しかった。三十二三歳の老嬢で、顔はむくんだようにふくれていて、一昨日の麺鮑(パン)のような趣きを呈していた。おそろしく口が達者である。彼女の意見にたいして私が異をはさもうものなら、躍気(やっき)となって言いつのって来るのだ。英語のある単語の綴りのことで私と彼女と意見を異にしたことが一度あって、そのときは物別れになったが、翌日彼女はわざわざ目宅から物すごく大きな英和大辞典をかかえてきて、自説の正しさを主張した。もちろん私の方が誤りであった。私があやまると、長山アキ子は高慢そうに鼻翼をぴくぴくうごかして、私に言った。

「あまり自信のないことは、強く主張なさらない方がいいことですのよ」

 英和大辞典をあの満員電車にもまれながら抱えて来たというのも、ただ私をやっつけるためだけなので、仕事の方で必要だという訳でない証拠には、その夕方直ぐそれをかかえて帰ったことからでも判る。

 こんなことがあったし、また色々なこともあって、私は佐藤や長山アキ子をあまり好んでいないことも、私の感情としては自然であった。しかしただ一点において、私は此の二人に親近感をかんじていたのである。それはどの一点かというと、二人の昼食の弁当がきわめて小量で貧しいということだった。私の席からぬすみ見るところによれば、弁当箱に入っているのは、小さな芋のきれはしだけであるとか、得体の知れない色をした手製の麵麭であるとか、それらが弁当箱のかたすみにちょっぴり入っているだけであった。外食食堂の食事よりもっと貪弱であった。佐藤は貧寒な顱頂(ろちょう)を弁当箱にかぶせるようにして食べていたし、長山アキ子は箱のふたを屛風(びょうぶ)のように立てて、内容をかくしながら食べた。この瞬間にだけ、佐藤も長山アキ子も対立の距離か一足とびに越えて、私と身体を接して立っていると言ってもよかった。彼女が日中いそがしそうに動き廻っているのも、あるいは私と同じく食物の妄想を払いのけようともがいているのかも知れなかった。長山アキ子のふくらんだ頰も、営養不足のためむくんでいるのかも判らなかった。佐藤にいたっては、階段をのぼるとき足ががくがくすると言って、ふしぎそうにズボンをまくり上げてじっと膝頭を眺めていたりするのだ。膝頭は蒼白くぴょこんと飛出していた。私の膝頭と同じ形で同じ色だった。私は胸があつくなるような気持で、それを眺めるのだった。なぜみんな、へんにむくんだり蒼白く瘦せたりするのだろう。この会社でいちばん血色がよく肥っているのは会長であった。ぐっと反身(そりみ)になるとチョッキがはち切れそうだった。金鎖がそこの辺にからんでいて、反身のまま会長はがらがらした声でおろかな訓辞をするのであった。体格はあまり良くなかったが、次に血色のいいのは、あの鼠みたいな感じのする庶務課長であった。それから順々に青白くやせたりむくんだりしてきて、一番どんじりの辺に私や佐藤や長山アキ子がいるという訳だった。総じて編輯部にいる連中は、顔色があまりよくないと言ってよかった。このことは、私の親近感をそこでつなぐと同時に、私にある一つの危惧をあたえることにもなっていた。それは、あのような貧しい弁当しか持参できないとすれば、編輯部の給料が極く少いのではないかという危惧であった。私が今の状態を脱して、人並みな生活を出来るかどうかという期待は、月末にもらう私の給料にかかっているわけだから、私としても彼等の生活ぶりに多大の関心を持たざるを得ない訳であった。ことに私は新参のものだから、佐藤や長山より給料が少いにきまっていた。それを思うと、さむざむとしたものが私の心の中にゆるゆる、と拡がってくるのであった。

 

 昌平橋の食堂に出入するのは、おおむね汚ない恰好のものばかりだった。ちゃんとした洋服を着ているのは、数えるほどしかいなかった。

 外食食堂にも自らなる格式があるらしく、身なりの良いのは神田でも外の店に行ってしまうようであった。ここだけは落葉の吹きだまりみたいに、なにか脱落した風貌の連中が集ってくるらしかった。しかし身なりだけは、ふところ具合と別だった。れいの表に屯(たむろ)している男たちの中でも、うすよごれた鞄の中に煙草や紙幣束や外食券などたくさん詰めこんでいるのがいて、時間になると日だまりの中で取引が盛んに行われた。寒い日は食堂の内が取引の場所になった。

 ここに出入するものの中には女もいて、女の方がかえってたくさん金を持っているように見えた。しょっちゅう見かける顔のひとりに二十歳位の若い女がひとりいて、いつも二食分ずつ食事をしていた。そのことだけでこの女は私の羨望の対象だった。二食分たべるということを除けば、この女はすべて貧しい身なりであった。いつも青いもんぺを穿いていたが、どういう訳かそれが少し破れていて、下着をつけていないのか裸の尻の一部分がむき出しにのぞかれた。いつまで経っても縫う気配もなかった。上衣もだぶだぶで、ずいぶんよごれていた。この女も品物をどこからか持ってきて、取引を上手にやるらしかった。私も一度この女から時計を買わないかとすすめられたことがある。私のように一食しかくえないものが、何時も二食たべる此の女から、どうして時計など買うことが出来るだろう。私がどぎまぎして断ると、女はさげすむような笑いをのこして、もうそれからは私のところには寄ってこなかった。斜視ぎみの、ちょっと整った顔の女であった。[やぶちゃん注:この女性とかなり酷似した女性をメインに据え、時期もロケーションも概ねそっくりな設定の短編を、梅崎春生は、後の昭和三一(一九五六)年三月号『新女苑』に発表された「ある少女」(電子化注済)で描いている。彼の敗戦直後の作品で盛んに描かれるこの外食券食堂についても、冒頭で、私の「猫の話」の授業案のそれを参考にして注してあるので読まれたい。]

 なかには一どきに三食も、ごくまれには四食分も一人で取って食べる男もいた。そういうのが前にすわると、私は自分の一食の膳がやりきれなくなるほど少く見えて来るのであった。食堂ではやはり、身なりや人格ではなくて、余計に食える力があるということが絶対であった。たとえば碁会所においては、身分の上下は間題でなく、碁が強ければ皆から畏敬されるのと同じことだった。その意味においては、私は比の食堂においては、もっとも侮蔑される階級に属しているわけであった。しかし私のように、一食宛(ずつ)しか原則として食わないのも、他にも多数いたのである。それはおおむね顔が蒼白く、弱々しい身体つきの男たちであった。私もはたから見れば、そんな風貌に見えるにちがいなかった。彼等はあるくときも、膝から力を抜いたような歩き方をした。膝頭が私もがくがくする処から見ると、私もそんな歩き方をしているものらしかった。

 肉体の不調は膝頭だけではなかった。あらゆる部分に微妙にひびいてくるものらしかった。五官の倒錯すらときには起った。あんなに腹をすかせて食堂にかけつけても、さて食べる段になると、消ゴムを噛むように味がなく、咽喉(のど)になかなか通らないこともあった。いつもは塩辛い味噌汁が、へんにあまく感じられることもあった。朝の四時にぴたっと眼がさめるというのも、なにかそれと関係があるらしかった。

 稲田堤のあるじとの交渉で、私は食事付を希望したのだけれども、あるじはどうしても首をたてに振らなかった。理由は、気を使うのがいやだということだった。しかし考えて見れば、私に食わせる米を(それも僅かな下宿料で)横に流した方がはるかに利益が多いにきまっていた。T・I氏は食事付で入っていたということだった。そのことについても、あるじは憫笑(びんしょう)的な口調で慨嘆(がいたん)した。

「あの人はね、飯食うのが早すぎるよ。チョコチョコチョコと三杯も四杯もたべて、そしてぷいと立って行くんだよ。飯というものはね、やはりゆっくり食べてこそ味が出るもんだね」

 T・I氏がなぜこの農家を出たのか、それについてはあるじは口をつぐんで語らなかったが、しかし彼の話の感じからいえば、円満退宿という訳ではなさそうな気ぶりが感じられた。T・I氏は今はD自動車会社の独身寮にいるということだった。しかし戦争が終って、もはや徴用という悪法も撤廃されたわけだから、氏もすでにその会社とは縁が切れている筈であった。しかもなおその寮に止まっているのも、家がないからに違いなかった。その点は私も同じであった。都心から二時間以上もかかるこんな草深い田舎に、誰が好んで住みたがるだろう。部屋さえあれば、そして部屋代さえ適当であれば、外食するとしても都内の方がずっと良いにきまっていた。しかし部屋を探す暇さえ私にはなかったのだ。食うことを妄想することで、私の一日は終ってしまうのであった。

(俺ならチョコチョコチョコと飯を食わないで、ゆっくりと食って見せるんだがなあ!)

 会社から疲れ果てて戻ってきて、寝床に虚脱したように横たわりながら、私はいつもそう考えた。階下からはそんなとき、常に食事の匂いや音が流れてくるのであった。眼を閉じてじっとしていると、階下の茶の間の情景が眼に見るよりはっきり感じられた。あるじの厚い唇に吸いこまれる味噌汁や、おかみさんの色褪(あ)せた唇に運ばれる真白い御飯や、おじいさんにぱりぱりと噛まれる沢庵(たくあん)のいろが、おどろく程の現実感をもって私の想像の中の座を占めて来るのだった。

 生唾をのみこみながら、現代にはふたつの階級しかない、というようなことを私は苦しまぎれに考えたりするのだ。それは充分食べている階級と、充分食べていない階級とであった。そしてそれは外見や身分からでは絶対に判らないのだ。しゃんとした恰好をしていて飢えている人もいるし、あの青モンペの女のように身なりは汚なくても充分食べている人種もいるわけだった。私にいたっては名実ともに食えない方に属していて、それははたから見てもすぐに判るものと思われた。とにかく軍隊の一年半の生活から戻ってきて、いきなりこんな世界にとびこんだわけであった。そんな風(ふう)に狂った世界には、必ずどこか抜道があるとは承知していたが、さてそれが何処にあるのか、未だ私は見当がつきかねていた。だから一番愚直な生き方をしようとして、その揚句芋や柿を盗む破目に陥り、自分を責めることでますます傷だらけになって行くらしかった。私は毎日を追いつめられた姿勢で生きていた。私の胸を寒くしてくるのは、このような日々を重ねてゆくことで、どんな風に私がなって行くのだろうという予感めいたものであった。もはや私を支えるものは何もなかった。ひとかけらの芋のために全世界を売ってもいいというような価値の転倒が、未来のある瞬間に私の胸の中に結実するかも知れなかった。佐藤や長山アキ子に対する私の親近感も、ただ貧弱な弁当というせまい一筋でつながっていることを思えば、私は人間への愛情をもはや欲望の仮託とすりかえているのかも知れなかったのだ。

 

 それでもやっとのことで、私は「大東京の将来」に関する構想をまとめ上げることができた。

 私が無理矢理に拵え上げた構想のなかでは、都民のひとりひとりが楽しく胸をはって生きてゆけるような、そんな風の都市をつくりあげていた。私がもっとも念願する理想の食物都市とはいささか形はちがっていたが、その精神も少からずこの構想には加味されていた。たとえば緑地帯には柿の並木がつらなり、夕昏(ゆうぐれ)散歩する都民たちがそれをもいで食べてもいいような仕組になっていた。私の考えでは、そんな雰囲気のなかでこそ、都民のひとりひとりが胸を張って生きてゆける筈であった。絵柄や文章を指定したこの二十枚の下書きの中に、私のさまざまな夢がこめられていると言ってよかった。このような私の夢が飢えたる都市の人々の共感を得ない筈はなかった。町角に私の作品が並べられれば、道行く人々は皆立ちどまって、微笑みながら眺めて呉れるにちがいない。そう私は信じた。だから之を提出するにあたっても、私はすこしは晴れがましい気持でもあったのである。

 会長も臨席した編輯(へんしゅう)会議の席上で、しかし私の下書きは散々の悪評であった。悪評であるというより、てんで問題にされなかったのである。

「これは一体どういうつもりなのかね」

 私の下書きを一枚一枚見ながら、会長はがらがらした声で私に言った。

「こんなものを街頭展に出して、一体何のためになると思うんだね」

「そ、それはです」と私はあわてて説明した。「只今は食糧事情がわるくて、皆意気が衰え、夢を失っていると思うんです。だからせめてたのしい夢を見せてやりたい、とこう考えたものですから――」

 会長は不機嫌な顔をして、私の苦心の下書きを重ねて卓の上にほうりだした。

「――大東京の将来というテーマをつかんだら」しばらくして会長ははき出すように口をきった。「現在何が不足しているか。理想の東京をつくるためにはどんなものが必要か。そんなことを考えるんだ。たとえば家を建てるための材木だ」

 会長は赤らんだ掌をくにゃくにゃ動かして材木の形をしてみせた。

「材木はどこにあるか。どの位のストックがあるか。そしてそれは何々材木会社に頼めば直ぐ手に入る、とこういう具合にやるんだ」

 会長は再び私の下書きを手にとった。

「明るい都市? 明るくするには、電燈だ。電燈の生産はどうなっているか。マツダランプの工場では、どんな数量を生産し、将来どんな具合に生産が増加するか、それを書くんだ。電燈ならマツダランプという具合だ。そしてマツダランプから金を貰うんだ」[やぶちゃん注:「マツダランプ」実在する電球の商標名。「MAZDA」で、一九〇九年にアメリカで創設された白熱電球などのブランドが元である。その電球は実際に「マツダランプ」(MAZDA Lamp) と呼ばれた。当該ウィキによれば、『ブランド名はゾロアスター教の最高神アフラ・マズダー (Ahura Mazdā) に由来』し、『日本では、東芝グループの照明器具メーカー東芝ライテックが標準電球を製造販売している。かつては東芝から一般電球・真空管などが販売されていた』とあり、『日本では東芝の母体の』一『つである東京電気がライセンスを受け』、明治四四(一九一一)年に『にタングステン電球「マツダランプ」を発売』、『「丸に縦書きでマツダ」のロゴで、電球のほか』、『真空管、真空管ラジオなどが製造販売された』とある。「日本郵船歴史博物館」公式サイトの「マツダランプ」にも解説と当該商品画像がある。]

 ははあ、とやっと胸におちるものが私にあった。会長は顔をしかめた。

「緑地帯に柿の木を植えるって? そんな馬鹿な。土地会社だ。東京都市計両で緑地帯の候補地がこれこれになっているから、そこの住民たちは今のうちに他に土地を買って、移転する準備したらよい、という具合だ。そのとき土地を買うなら何々土地会社へ、だ。そしてまた金を貰う」

 佐藤や長山アキ子や他の編輯員たちの、冷笑するような視線を額にかんじながら、私はあかくなってうつむいていた。飛んでもない誤解をしていたことが、段々判ってきたのである。思えば戦争中情報局と手を組んでこんな仕事をやっていたというのも、憂国の至情にあふれてからの所業ではなくて、たんなる儲け仕事にすぎなかったことは、少し考えれば判る筈であった。そして戦争が終って情報局と手が切れて、掌をかえしたように文化国家の建設の啓蒙をやろうというのも、私費を投じた慈善事業である筈がなかった。会長の声を受けとめながら、椅子に身体を硬くして、頭をたれたまま、私はだんだん腹が立ってきたのである。私の夢が侮蔑されたのが口惜しいのではない。この会社のそのような営利精神を憎むのでもない。佐藤や長山の冷笑的な視線が辛かったのでもない。ただただ私は自分の間抜けさ加減に腹を立てていたのであった。

 その夕方、私は憂欝な顔をして焼けビルを出、うすぐらい街を昌平橋の方にあるいて行った。あれから私は構想のたてなおしを命ぜられて、それを引受けたのであった。しかしそれならそれでよかった。給料さえ貰えれば始めから私は何でもやるつもりでいたのだから。憂欝な顔をしているというのも、ただ腹がへっているからであった。膝をがくがくさせながら昌平橋のたもとまで来たとき、私は変な老人から呼びとめられた。共同便所の横のうすくらがりにいるせいか、その老人は人間というより一枚の影に似ていた。

「旦那」声をぜいぜいふるわせながら老人は手を出した。「昨日から、何も食っていないんです。ほんとに何も食っていないんです。たった一食でもよろしいから、めぐんでやって下さいな。旦那、おねがいです」

 老人は外套も着ていなかった。顔はくろくよごれていて、上衣の袖から出た手は、ぎょっとするほど細かった。身体が小刻みに動いていて、立っていることも精いっぱいであるらしかった。老人の骨ばった指が私の外套の袖にからんだ。私はある苦痛をしのびながらそれを振りはらった。

「ないんだよ。僕も一食ずつしか食べていないんだ。ぎりぎり計算して食っているんだ。とても分けてあげられないんだよ」

「そうでしょうが、旦那、あたしは昨日からなにも食っていないんです。何なら、この上衣を抵当に入れてもよござんす。一食だけ。ね。一食だけでいいんです」

 老人の眼は暗がりの中ででもぎらぎら光っていて、まるで眼球が瞼のそとにとびだしているような具合であった。頰はげっそりしなびていて、そこから咽喉(のど)にかけてざらざらに鳥肌が立っていた。

「ねえ。旦那。お願い。お願いです」

 頭をふらふらと下げる老爺よりもどんなに私の方が頭を下げて願いたかったことだろう。あたりに人眼がなければ私はひざまずいて、これ以上自分を苦しめて呉れるなと、老爺にむかって頭をさげていたかも知れないのだ。しかし私は、自分でもおどろくほど邪険な口調で、老爺にこたえていた。

「駄目だよ。無いといったら無いよ。誰か他の人にでも頼みな」

 暫(しばら)くの後私は食堂のかたい椅子にかけて、変な臭いのする魚の煮付と芋まじりの小量の飯をぼそぼそと噛んでいた。しきりに胸を熱くして来るものがあって、食物の味もわからない位だった。私をとりまくさまざまの構図が、ひっきりなしに心を去来した。毎日白い御飯を腹いっぱいに詰め、鶏にまで白米をやる下宿のあるじ、闇売りでずいぶん儲けたくせに柿のひとつやふたつで怒っている裏の吉田さん。高価な莨(たばこ)をひっきりなしに吸って血色のいい会長。鼠のような庶務課長。膝頭が蒼白く飛出た佐藤。長山アキ子の腐った芋の弁当。国民服一着しかもたないT・I氏。お尻の破れた青いモンペの女。電車の中で私を押して来る勤め人たち。ただ一食の物乞いに上衣を脱ごうとした老爺。それらのたくさんの構図にかこまれて、朝起きたときから食物のことばかり妄想し、こそ泥のように芋や柿をかすめている私自身の姿がそこにあるわけであった。こんな日常が連続してゆくことで、一体どんなおそろしい結末が待っているのか。それを考えるだけで私は身ぶるいした。

 食べている私の外套の背に、もはや寒さがもたれて来る。もう月末が近づいているのであった。かぞえてみるとこの会社につとめ出してから、もう二十日以上も経っているわけであった。

 

 私の給料が月給でなく日給であること、そしてそれも一日三円の割であることを知ったときの私の衝動はどんなであっただろう。それを私は月末の給料日に、鼠のような風貌の庶務課長から言いわたされたのであった。庶務課長のキンキンした声の内容によると、私は(私と一緒に入社した者も)しばらくの間は見習社員というわけで、実力次第ではこれからどんなにでも昇給させるから、力を落さずにしっかりやるように、という話であった。そして声をひそめて、

「君は朝も定刻前にちゃんとやってくるし、毎日自発的に一時間ほど残業をやっていることは、僕もよく知っている。会長も知っておられると思う。だから一所懸命にやって呉れたまえ。君にはほんとに期待しているのだ」

 私はその声をききながら、私の一日の給料が一枚の外食券の闇価と同じだ、などということをぼんやり考えていたのである。日給三円だと聞かされたときの衝動は、すぐ胸の奥で消えてしまって、その代りに私の手足のさきまで今ゆるゆると拡がってきたのは、水のように静かな怒りであった。私はそのときすでに、此処を辞める決心をかためていたのである。課長の言葉がとぎれるのを待って、私は低い声でいった。

「私はここを辞めさせて頂きたいとおもいます」

 なぜ、と課長は鼠のようにずるい視線をあげた。

「一日三円では食えないのです。食えないことは、やはり良くないことだと思うんです」

 そう言いながらも、ここを辞めたらどうなるか、という危惧(きぐ)がかすめるのを私は意識した。しかしそんな危惧があるとしても、それはどうにもならないことであった。私は私の道を自分で切りひらいてゆく他はなかった。ふつうのつとめをしていては満足に食べて行けないなら、私は他に新しい生き方を求めるよりなかった。そして私はあの食堂でみる人々のことを思いうかべていた。鞄の中にいろんな物を詰めこんで、それを売ったり買ったりしている事実を。そこにも生きる途(みち)がひとつはある筈であった。そしてまた、あの惨めな老爺にならって、外套を抵当にして食を乞う方法も残っているに相違なかった。

「君にはほんとに期待していたのだがなあ」

 ほんとに期待していたのは、庶務課長よりもむしろ私なのであった。ほんとに私はどんなに人並みな暮しの出来る給料を期待していただろう。盗みもする必要がない、静かな生活を、私はどんなに希求していたことだろう。しかしそれが絶望であることがはっきり判ったこの瞬間、私はむしろある勇気がほのぼのと胸にのぼってくるのを感じていたのである。

 その日私は会計の係から働いた分だけの給料を受取り、永久にこの焼けビルに別れをつげた。電車みちまで出てふりかえると、曇り空の下で灰色のこの焼けビルは、私の飢えの季節の象徴のようにかなしくそそり立っていたのである。

 

 飢餓の季節はこれで終ったわけではない。それから二年経った今でも私の飢えはつづいている。あの稲田堤の農家から、まもなく私も引越した。それから流転の生活が私に始まった。

 あの会社も、その後どうなったのかよく知らぬ。私がやめて二箇月程して、新聞紙上でその会社に待遇改善の争議が起ったことをよんだ。そのリーダーとして、あの佐藤と長山アキ子の名前が記されていたのである。そしてそのことで会長が激怒して、即日二人をクビにしたといったような記事であった。私はその記事を、飢餓と貧窮のどん底で読んだ。

 ほんとに私は何と長い間おなかを空かせてきたのだろう!

 

2022/07/02

「南方隨筆」底本正規表現版「紀州俗傳」パート 「四」

 

[やぶちゃん注:全十五章から成る(総てが『鄕土硏究』初出の寄せ集め。各末尾書誌参照)。各章毎に電子化注する。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(冒頭はここ)で視認して用いた。また、所持する平凡社「選集」や、熊楠の当たった諸原本を参考に一部の誤字を訂した。表記のおかしな箇所も勝手に訂した。それらは一々断らないので、底本と比較対照して読まれたい。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 本篇の各章は短いので、原則、底本原文そのままに示し、後注で(但し、章内の「○」を頭にした条毎に(附説がある場合はその後に)、読みと注を附した。そのため、本篇は必要性を認めないので、PDF版を成形しないこととした。]

 

       四、

 〇前囘に述た師走狐に付き、西牟婁郡下芳養村の人言く、「師走狐は執捉て居ても鳴せ」てふ諺有り、極月に狐荐に鳴くは次年豐作の兆故斯言ふと。

[やぶちゃん注:「前囘に述た師走狐」は「二」であるが、それ自体が、「一」冒頭の続きであったので、そこに遡って戻って再読した方がよい。

「下芳養村」、「一」の採取が中芳養(なかはや)村、「二」が上芳養村、本条の下芳養村(「ひなたGPS」)と、これで旧芳養地区の三つが揃った。続いた全村のケースをまめに確認した熊楠は堅実である。

「言く」「いはく」。

「執捉て」「選集」はルビを振り、『つかまへて』と読んでいる。

「居ても」「をつても」と読みたいが、「選集」は漢字表記をやめて『いても』とする。

「鳴せ」「なかせ」。命令形。

「極月」「選集」を参考にすれば、『しはす』と読む。

「兆」同前で「きざし」。

「故斯言ふと」同前で「ゆゑ、かくいふ、と」。]

 〇同郡中芳養村「どろ本」の石地藏畑中に立つ、雨乞に此像を頸まで川水に浸す、萬呂村では旱すると下萬呂の天王の社の前の池端で一同酒飮み、「雨降れ溜れ蛙子、雫垂れ蠑螈(ゐもり)」と繰返し歌ふた。蛙や蠑螈までも雨を請ふの意か。近年は此事絕た、件の天王池頗る深く、古より樋を全く拔きし事無し、今日全く拔んと評定決して、斷行し懸ると必ず雨る。又秋津村の「さこ谷」の奧の大池も、樋を拔きに行くと、其人々が池に達せぬ内に、屹度沛然と降て來る。此池に頗る大きな鯉が主として棲むさうな。

[やぶちゃん注:『中芳養村「どろ本」』「選集」のルビによれば、「どろもと」。ネット上の三種の地図を見たが、この字名は見出せなかった。旧中芳養村はここ(「ひなたGPS」)。

「川水」この川は中芳養地区の南半分を南北に貫流する芳養川(グーグル・マップ・データ)と思われる。

「萬呂」(まろ)「村」「ひなたGPS」のここだが、地図上の表記では戦前の地図でも「万呂村」である。現在の和歌山県田辺市上万呂・中万呂・下万呂。この中央部に東から上中下の各地区が並ぶ(グーグル・マップ・データ)。

「旱」「ひでり」。

「下萬呂の天王の社」(やしろ)現在の和歌山県田辺市中万呂にある旧万呂村全体の鎮守(後の引用参照)である須佐神社(グーグル・マップ・データ)。現在も土地の人々からは「天王さん」と呼ばれる。なお、信頼出来る諸データを、複数、見たが、ここで熊楠はこの社の地名を下万呂とするのだが、あくまで昔も今も中万呂の地区内にあったと考えられる。但し、この祭神が鎮座する天王の森の前(南)には、水を満々と湛えた広い天王池があるが、ここは下万呂の地区内で、字の境界が、この神社と天王池との間にあるのである(グーグル・マップ・データ)。而して「下萬呂の天王の社の前の池端」で、雨乞いの儀式が行われるそこは、まさしく両地区の境界――水界と人間界との境界――異界へのアクセスを行う特別なハレの場所であることが判る。されば、思うに、この話を熊楠が採取した相手は下万呂か、上万呂(その場合は漠然と境界地だから、漠然とした「下万呂との方」の意で言ったとして不自然でない)の者だったのではないかと推定される。中万呂の者であれば、こうは絶対に言わないはずだからである。「和歌山県神社庁」の同神社の記載を見ると、『勧請の時代は詳ではないが、往昔より万呂』三『ヵ村の鎮守』で、『旧社名は牛頭天王社』であり、『社伝によれば、須佐之男命が曽志毛里(曾尸茂梨)より帰り着いた所で、岩舟山なる地名あり、神武天皇が即位された時に祭祀されたという』。『神代の昔、須佐神社鎮座地の辺りは海浜で、須佐之男命が曽志毛里より帰って来られた時に、この岩舟山に舟を着けられたと伝えられている古い歴史をもつ神社である』とある。天王池といい、嘗ては海浜に臨んでいたという神話伝承といい、水神との強い親和性が感じられ、雨乞いがしっくりくるのである

「雨降れ溜れ蛙子、雫垂れ蠑螈(ゐもり)」「あめ、ふれ、たまれ、がいるご」(「がいるご」は「選集」のルビ)、「しづく、たれ」(雨の雫を垂らしておくれ)、「ゐもり」。

「件」「くだん」。

「樋」「選集」は『ひ』と振る。

「今日」「こんにち」。今、現在。

「懸ると」「かかると」。し始めようとすると。

『秋津村の「さこ谷」の奧の大池』これは現在の和歌山県田辺市上秋津(かみあきづ)の字地名左向谷(さこうだに)である。国土地理院図のここにある。「大池」は確認出来ない。なお、この左向谷川の上には、国指定の「名勝 南方曼陀羅の風景地」の核心である龍神岳(同前)がある。また、「大池」を探すためにグーグル・マップを見ていて、不審を覚え、同データがとんでもない誤りを仕出かしている事実が判明したので一言言っておく。何かというと、左向谷川を北上して辿ると、山を越えて、芳養川の上流とも合流していて、おかしいのである。「川の名前を調べる地図」で「左向谷川」を調べてみると、その芳養川と合流する川は、無論、「左向谷川」ではなく、「宮ノ谷川」なのであった。グーグル・マップ・データを無批判に信頼していたが、ひどい誤りである。注意されたい。「国土地理院図」でも、二つの川の源流は非常に接近してはいるものの、ちゃんと尾根で分離しているのである

「屹度」「きつと」。

「沛然」「はいぜん」。

「降て」「ふつて」。

「主」「ぬし」。]

 〇日高郡矢田村邊の俚傳に、梟「ふるつくふるつく」と鳴けば翌日必ず晴る(降盡という洒落歟)。又「來い來い」と鳴ば必ず雨る、是は犬を呼んださうな。濡るなとの意か。本草啓蒙や倭漢三才圖會には、晴る前に糊磨置け、雨る前に糊取置けと鳴くと有る。予の亡父矢田村產れで、此通り每度予に話したが村に居る從弟に聞合すと、今は其樣事を言ぬさうだ、人二代の間に俚傳が亡びた一例だ。

[やぶちゃん注:「日高郡矢田」(やた)「村」現在の日高郡日高川町(ちょう)の内の旧村名。「ひなたGPS」の戦前の地図で確認出来る。国土地理院図で「矢田大池」の名を確認出来る(道成寺の東方二・五キロメートル)。

「晴る」「はるる」。

「降盡」「ふりつくす」。

「鳴ば」「なかば」。

「雨る」「あめふる」。

「是は犬を呼んださうな。濡」(ぬる)「るなとの意か」ここ、何故、そういう意味に採れるのか、私には不明。「雨が降るから、森にやってきて、雨宿りせよ、濡れるな。」という意味か?

「本草啓蒙」小野蘭山述「本草綱目啓蒙」。立項は「鴞」(音「ヨウ・キヨウ」:訓「ふくろふ」)でここ(国立国会図書館デジタルコレクション)。当該箇所は次のコマの右丁の後ろから二行目にある。

「倭漢三才圖會」私の「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鴞(ふくろふ) (フクロウ類)」を参照。

「糊磨置け」「のり、すりおけ」。雨が降らぬ前に「早く糊を磨っておけ」。

「糊取置け」「のり、とりおけ」。「外に出しておくな、雨が降るぞ。」の意であろう。糊の水分を幾分か取り除くために日に乾かしたか。

「予の亡父」南方熊楠の父は南方弥兵衛(後に「弥右衛門」と改名)で、熊楠の誕生時(慶応三年四月十五日(一八六七年五月十八日))は三十九歳、和歌山城下の橋丁(はしちょう:現在地。グーグル・マップ・データ)で金物商「雑賀屋(さいかや)」を営んでいた(入り婿で、南方家の娘(熊楠の母とは別人)と結婚した。西南戦争の好況で巨利を得、和歌山県で五番目とされた資産家となったが、妻に先立たれ、熊楠らの母となる西村すみと再婚し、長男に家督を譲った後に「弥右衛門」を名乗った。母は「スミ(住)」で三十歳)。父弥右衛門は明治一七(一八八四)年九月(熊楠は十八歳。上京して東京大学予備門に入っていた)に「南方酒造」(後の「世界一統」。現在もある。熊楠の実弟常楠が継いだ)を創業していた。彼は熊楠(二十六歳)の外遊中(父死亡時はイギリス滞在中)の、明治二五(一八九二)年八月八日に死去している。因みに、母スミは同じくロンドン滞在中の明治二九(一八九六)年二月二十七日に亡くなった(以上は所持する「新文芸読本 南方熊楠」(一九九三年河出書房新社刊)の年譜(長谷川興蔵編)及びウィキの「南方熊楠」とその記載内のリンク先等を参考にした。一部の不審箇所は概ね前者を元にした)。

「矢田村產れ」父は文政一二(一八二九二)年生まれで、矢田村入野(にゅうの)(「ひなたGPS」:現在の日高郡日高川町入野。先に示した「矢田大池」の南東直近)の向畑庄兵衛の次男として生まれている。

「人二代の間に俚傳が亡びた一例だ」こうしたアップ・トゥ・デイトな検証は貴重である。]

 〇矢田村等で小兒螢狩の呼聲は、田邊のと些違ふ、「ホータル來いタロ蟲來い、其方の水辛い、此方の水甘い、行燈の光で飛で來い」と呼んだ。

[やぶちゃん注:「三」の「〇鄕硏一卷一一九頁なる、遠州橫須賀地方の螢狩の呼聲と少しく違ふのが、紀州田邊邊で行はれる、……」の条を、まず、参照されたい。

「呼聲」「よびごゑ」。

「些」「ちと」。

「タロ蟲」「タロムシ」。矢田地区のホタルの異名らしい。

「其方」「そつち」。

「此方」「こつち」。

「行燈」「選集」では『あんど』と振る。]

 〇田邊近傍で木菟を鰹鳥と呼び、此鳥鳴くと鰹の漁獲有るとて、漁夫此鳥を害するを忌む。

[やぶちゃん注:「木菟を鰹鳥と呼び、此鳥鳴くと鰹の漁獲有るとて、漁夫此鳥を害するを忌む。

「木菟」「みみづく」。「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鴟鵂(みみづく) (フクロウ科の「みみづく」類)」を参照されたいが、

「鰹鳥」「かつをどり」。鳴き声との連関性は不詳。

「漁獲」「選集」では『りよう』(りょう)とある。歴史的仮名遣は「れふ」。]

 〇田邊の老人傳ふ、宵の蜘蛛は親に似て居ても殺せ、朝の蜘蛛は鬼に似て居ても殺すな。是は夜の蜘蛛を不吉とするので、「吾せこが來べき宵也」と、蜘蛛を夜見て喜んだ古風と反對だ。淵鑑類函四四九に論衡を引いて、蜘蛛網を用ふる計、人に優れる由言て、亦掃其網、置衣領中、令人知ㇾ巧辟ㇾ忘、智慧有る者故、物忘れせぬ靈符の代りに、蜘網を用ひたのだ。採蘭雜志曰、昔有母子離別、母見蠨蛸垂絲著ㇾ衣、則曰、子必至也、果然、故名曰喜子、子思其母、亦然、故號曰喜母均ㇾ之一物也。之と等しく、蜘蛛は物忘れせぬ物として、衣通姬が宵の蜘蛛は帝が昏時に成ると自分を忘れず訪玉ふべき徵と悅んだのだらう。支那でも夜の蜘蛛を忌ぬは、開元天寶遺事曰、帝與貴妃、每至七月七日夜、在華淸宮遊宴、時宮女軰、各捉蜘蛛於小合中、至ㇾ曉開視、蛛網稀密、以爲得ㇾ巧之候、密者言巧多、稀者言巧少、民間亦效ㇾ之。然るに田邊の俗傳に、朝の蜘蛛を愛し、宵の蜘蛛を嫌ふのは、蜘蛛は夜中跋扈活動し朝に至て潛匿靜居する者故、家内の治安上から割出したんだろ。廣五行記には、蜘蛛集於軍中及人家喜事、之に反し、古歐州では、蜘蛛の網が軍旗や神像に着くを不吉とした。佛國では蜘蛛走り又絲繰るのを見ると金儲けすると云ひ、或は朝ならば金儲け、夕なら吉報を得と云ふ。然し一說には、朝の蜘蛛は少しく立腹、日中のは少しく儲け、夕の蜘蛛は少しく有望を知すのぢやと云ふ。「サルグ」評して、蜘蛛が富の兆なら、貧民が一番富ねば成ぬと嘲たのは面白い(一八四五年第五板、「コラン、ド、プランチー」妖怪事彙三九頁)。

[やぶちゃん注:このジンクスは、今もよく耳にする。ネット上でも、かなり多くの起原説の記載があるが、恐らく最も纏まっていて優れているのは、サイト「縁起物百科事典」の「夜の蜘蛛は縁起が良い悪いどっち?夜に現れる蜘蛛の縁起について解説します!」であろう。「夜の蜘蛛は縁起が悪い」という理由について、そこでは、『泥棒が入る前触れ』説(『蜘蛛はわずかな隙間からでも家の中に入って』くるので『そんなわずかな隙間を見つけて』『気配を消して』『家の中に入り込んでくるという』『習性』『が、泥棒を連想させる』という説)、『地獄からの使者という考え方』説(『地獄には蜘蛛の姿をした鬼がいると言われ』(主に西日本で語られる妖怪「牛鬼」(うしおに・ぎゅうき)は確かにそんな形態をしている。当該ウィキを参照されたい)、『そんな蜘蛛の姿をした鬼は太陽の光が苦手な為、夜に活発に活動』するとされ、『日が沈んだ夜に人間が住む現世に現れ、人間を地獄へ引きずり込んでしまうという考えがあ』って、『そのままにしておくと地獄へ引きずり込まれてしまうと考えられてい』ることから、『地獄へ引きずり込まれる前に処分してしまおうという』説。但し、私はこういった説明を民俗学的に立証している文章や語りを聴いたことはない)、そして、『不運を引き寄せる』説である。但し、熊楠も述べているように、地方によっては、夜の蜘蛛を幸運の兆しとらえて殺さないという風俗も現存することが、以上の後に書かれている。リンク先でのこちらの根拠説は、私はあまり肯ずることが出来ないが、熊楠の言う妻問婚由来というのは、望むべき「夜の訪問者」の予兆として、非常に腑には落ちる。なお、他のネット上での記載に、「朝の蜘蛛は殺すな」という禁忌について、蜘蛛が早朝に巣を張る時は必ず晴れるという習性から説明しているものがあり、これは農事の実利性から考えると、納得出来るものではあった。

『「吾せこが來べき宵也」と、蜘蛛を夜見て喜んだ古風と反對だ』「ほととんぼ」氏のブログ「古典・詩歌鑑賞」の「わがせこが来べきよひなりさゝがにの蜘蛛のふるまひかねてしるしも(衣通姫)」が出典に詳しく、蜘蛛ジンクスの起原の解説も堅実である。そちらを参考にして示すと、この歌は、「日本書紀」と「古今和歌集」に殆んど同じ形で載る。詠み手の衣通姫は歴史的仮名遣では「そとほりひめ」「そとほしひめ」で、他に「古事記」にも登場するが、設定が異なる(その辺りは、ウィキの「衣通姫」及び「衣通姫伝説」を読まれたい)。さて、まず「日本書紀」のそれは、巻第十三の允恭天皇の一節で(概ね、国立国会図書館デジタルコレクションの岩波文庫版の当該箇所の黑板勝美氏の当該部の読みを参考にした)、

   *

八年春二月、藤原に幸し、密(ひそか)に衣通郞姬の消息を察(み)たまふ、是の夕(ゆふべ)、衣通郞姬、天皇(すめらみこと)を戀ひたてまつりて、獨り居(はべ)り。其の天皇の臨(いで)ませるを知らずして、歌よみて曰く、

 我が兄子(せこ)が來べき宵なり笹蟹(ささがに)の

   蛛(くも)の行ひ今宵驗(しる)しも

天皇、是の歌を聆(きこ)しめして、則ち、感情(めでたまふこころ)、有(おはし)まして、歌よみて曰く、

 細紋形(ささらがた)錦の紐を解き開(さ)けて

   數多(あまた)は寢ずに唯(ただ)一夜(ひとよ)のみ

明旦(あくるあした)、天皇、井の傍の櫻の華を見て歌よみて曰く、

 花細(はなぐは)し櫻の愛(め)でこと愛でば

   早くは愛でず我が愛づる子等(こら)

皇后、聞きて、且(ま)た、大(おほい)に恨みたまふ。

   *

「笹蟹(ささがに)」蜘蛛及び蜘蛛の巣の古名。「細紋形(ささらがた)」細かい文様や、そうした織物を指す。ここは「蜘蛛の巣」を匂わせたものであろう。「花細(はなぐは)し」枕詞で、元は「花が美しい」意から「櫻」に掛かる。一方、「古今和歌集」では、巻第十四にありながら、墨消しされた一首で(一一一〇番)、

   *

    衣通姬のひとりゐて

    帝をこひたてまつりて

 わが背子が來べきよひなりささがにの

   蜘蛛のふるまひかねてしるしも

   *

なお、「ほととんぼ」氏は、夜でも蜘蛛ジンクスについて、夜でも吉兆とする点について、『もともと中国に、クモが人の衣に着くと』、『親しい人の来客があるという言い伝えがあり、縁起のよい俗信として日本に伝わった』とされ、朝のそれについては、私が先に述べた通り、『クモは、おおむね好天になる前の夕方(湿度の変化を感じるらしい)に巣をかけて、夜に獲物を狙う。なので、朝グモの現れるのは晴天で、人間も晴れの日を好む』とされ、前者については、以上の衣通姫の『歌が、まさにそのことを言っています。衣通姫は、おそらく自分の衣服にクモがついているのを見つけて、「あら、これは縁起がいい。帝が来られるわ」と思ったに違いありません。歌では「来べき宵なり」となっているので、朝グモではなく疑問とされますが、かつては、クモの出現そのものが縁起のよいことだったのではないでしょうか』とされ、さらに後者の説について、『科学的裏付けのようなものを感じます。特に朝グモに縁起を担ぐようになった原因として真実味があります(ただ、ホントに晴れの日が多いのか、真偽のほどは明らかではありません)』と微妙な留保をなさっておられる。私もクモ類には詳しくはないので、識者の御教授を乞うものである。

「淵鑑類函四四九に論衡を引いて、蜘蛛網を用ふる計」(はかりごと)「、人に優れる由」(よし)「言」(いひ)「て、亦掃其網、置衣領中、令人知ㇾ巧辟ㇾ忘」「淵鑑類函」は清の康熙帝の勅により張英・王士禎らが完成した類書(百科事典)で、南方熊楠御用達の漢籍である。「漢籍リポジトリ」のこちらで、「欽定四庫全書」所収のものが電子化されており、影印本も見られる。当該巻は「蟲豸部五」で、その冒頭に「蜘蛛一」の[454-1b]の六行目から八行目に現われる。訓読する。

   *

「亦(また)、其の網を掃(は)きて、衣の領(えり)の中に置き、人をして、巧(かう)を知り、忘るるを辟(さ)けしむ。

   *

「智慧有る者故、物忘れせぬ靈符」(まもり:「選集」のルビ)「の代りに、蜘網を用ひたのだ」これは、かなり腑に落ちる。ギリシア神話の蜘蛛に変えさせられたアラクネーの悲劇や(当該ウィキ参照)、知恵者として尊崇されるミネルヴァの梟などが想起される。

「採蘭雜志曰、昔有母子離別、母見蠨蛸垂絲著ㇾ衣、則曰、子必至也、果然、故名曰喜子、子思其母、亦然、故號曰喜母均ㇾ之一物也。」例の陶宗儀の「説郛」にも載るが、作者や成立年代は不詳だが、随筆か小説集のようである。原文を探すのに苦労したが、「維基文庫」の「古今圖書集成」(十八世紀の清の類書。現存する類書としては中国史上最大。全巻数一万巻。正式名称は「欽定古今圖書集成」である)の、こちらの「家範典」「第三十八卷」の「母子部雜錄」に電子化されたものを発見した(影印画像附き)。訓読する。

   *

「採蘭雜志」に曰はく、『昔、母子有りて、離別す。母、蠨蛸(あしながぐも)の絲を垂らして衣を著(き)るを見れば、則ち、曰はく、「子、必ず、至らん。」と。果して、然り。故に名づけて「喜子」と曰(い)ふ。子の、其の母を思ふも、亦、然り。故に名づけて「喜母」と曰ふ。均しく一物なり。』と。

   *

「蠨蛸(あしながぐも)」珍しい熊楠のルビだが、これは実はあまりよくない。この漢語は現在の節足動物門鋏角亜門蛛形(ちゅうけい)(クモ)綱クモ目アシダカグモ科アシダカグモ属アシダカグモ Heteropoda venatoria を指す古い漢語だからである。但し、足高蜘蛛は、大きくて各脚が非常に長いクモだから、私などは想定内ではあった。私の家には、まっこと、よく棲みついており、若い頃には、グローブ大のそ奴が、寝ている顔の上を歩き、まさにその脚の先の八ヶ所の触感を感知して、思わず、起き、叩き潰したおぞましい思い出があるほどなのである。

「開元天寶遺事曰、帝與貴妃、每至七月七日夜、在華淸宮遊宴、時宮女軰、各捉蜘蛛於小合中、至ㇾ曉開視、蛛網稀密、以爲得ㇾ巧之候、密者言巧多、稀者言巧少、民間亦效ㇾ之。」「開元天寶遺事」は盛唐の栄華を物語る遺聞を集めた書。五代の翰林学士などを歴任した王仁裕(じんゆう 八八〇年~九五六年)が、後唐の荘宗の時、秦州節度判官となり、長安に至って民間に伝わる話を博捜蒐集し、百五十九条を得て、本書に纏めたとされる。但し、南宋の洪邁は本書を王仁裕の名に仮託した偽書と述べている。ここに出る玄宗・楊貴妃の逸話を初め、盛唐時代への憧憬が生んだ風聞・説話として味わうべき記事が多い(小学館「日本大百科全書」を主文とした)。熊楠の引いたのは、第二巻の末尾から二つ目の「蛛絲卜巧」であるが、中間部がカットされている「漢籍リポジトリ」のこちら[002-10b]を見られたい。熊楠のカットされた引用で訓読する。

   *

「開元天寶遺事」に曰はく、『帝、貴妃と、七月七日の夜に至る每(ごと)に、華淸宮に在りて遊宴す。時に宮女の輩(はい)、各(おのおの)、小さき合(はこ)の中(うち)に蜘蛛を捉へ、曉に至りて、開き視て、蛛の網の、稀(まばら)と密とにより、以つて巧(かう)を得るの候(しるし)と爲(な)す。密なれば、「巧、多し。」と言ひ、稀なれば、「巧、少なし。」と言ふ。民間も亦、之れに效(なら)ふ』と。

   *

「衣通姬」「選集」では、『そとおりひめ』と振るので、「そとほりひめ」である。

「昏時」「たそがれ」。

「訪玉ふべき徵」「おとなひたまふべきしるし」。

「田邊の俗傳に、朝の蜘蛛を愛し、宵の蜘蛛を嫌ふのは、蜘蛛は夜中跋扈活動し朝に至て潛匿靜居する者故、家内の治安上から割出したんだろ」これ、私の先の顔に脚高蜘蛛の恐怖を考えれば、お判り戴けるであろう。なお、私は咬まれたことはないが、大型の個体は人に咬みつくことがあると以前に読んだことがある(無毒)。

 

「廣五行記には、蜘蛛集於軍中及人家喜事」明の李時珍の博物書「本草綱目」にも引用されるが、佚書。「太平御覧」の巻第九百四十八の「蟲豸部五」の「蜘蛛」(「漢籍リポジトリ」のこちら[948-3b]を参照)に「廣五行記」を出典としてこの文字列が出る。訓読する。

   *

蜘蛛、軍中及び人家に集まれば、喜事あり。

   *

中国人の「蜘蛛好き」「蜘蛛吉祥説」がよく判る。

「佛國」「フランス」。

「繰る」「くる」。

「知す」「しらす」。

『「サルグ」評して、蜘蛛が富の兆』(きざし)『なら、貧民が一番富ねば成』(なら)『ぬと嘲』(あざけつ)『たのは面白い(一八四五年第五板、「コラン、ド、プランチー」妖怪事彙三九頁)』コラン・ド・プランシー(J. Collin de Plancy 一七九四年或いは一七九三年~一八八一年或いは一八八七年)はフランスの文筆家。詳しくは当該ウィキを見られたい。書誌データはフランス語の当該ウィキが詳しい。さても、何となく、「Internet archive」の一八四四年版の、彼の最も知られた怪書である‘Dictionnaire infernal, ou Recherches et anecdotes sur les demons ’(「地獄の辞書、又は悪魔に関する研究と逸話」)を見てみたところ、ページ数は違うが(44ページ)、そこの“Araignée”(アレニェ:フランス語で「蜘蛛」)があり、まさに以上の内容が書かれてあるのを見出した。「サルグ」なる人物もそこに出ており、“M. Salgues”(“M”は“Monsieur”(ムッシュ:氏)の略であろう) で、注記があって、‘ Des  Erreurs  et  des  préjugés ’(「誤解と偏見」)からの引用であることも判った。この人はフランスの哲学者・歴史家のジャック・バルテルミー・サルグ(Jacques Barthélemy Salgues 一七六〇年~一八三〇 年)で一八一〇年の作品である。]

 〇田邊の古傳に、他人の足の底を搔けば、搔るる人の身に持た病を、搔く人の身に引受ると。同地に近き神子濱では、人の足の底搔く者早く死すと言ふ。

[やぶちゃん注:「他人」「選集」では二字で『ひと』とルビする。

「神子濱」「みこはま」。既出既注だが、再掲する。現在の田辺市神子浜。]

 〇右の兩地とも傳ふ。狐は硫黃を忌む、依て附木又「マツチ」を袂に入れば魅されずと。

[やぶちゃん注:「附木」(つけぎ)は杉や檜などを薄く剝いだ木片の一端或いは両端に硫黄を塗りつけたもので、火を移し点ずる際に用いる。「ゆおうぎ」とも言う。グーグル画像検索「付け木 硫黄」をリンクさせておく。幅広の経木様のものから、大きく長い附箋のようなものまで、各種ある。

「魅されずと」「選集」では『魅(ばか)されず、と』とする。]

 〇田邊邊でも和歌山市でも、小兒の慰みに、「高野の弘法大師、子を抱て粉を挽ひて、此子の眼へ、粉が入つて困った、今度から、此子を抱て粉を挽くまい」と早口に繰返し、滯り無きを勝ちとす。卅年前、予日向の人より聞たのは次の通り。「ちきちきおんぼう、それおんぼう、そえたか入道、播磨の別當、燒山彌次郞、ちやかもかちやあぶるせんずり觀音、久太郞別太郞、むこにやすつぽろぽん。」英國にも舌捩り(タング、ツイスター)とて、同じ樣な辭を疾口に言ふ戲れが有る。

[やぶちゃん注:「ちきちき」で思い出すのは直翅(バッタ)目雑弁(バッタ)亜目バッタ下目バッタ上科バッタ科ショウリョウバッタ亜科Acridini          ショウリョウバッタ属ショウリョウバッタ Acrida cinerea (精霊蝗虫)の異名で「キチキチバッタ」を私は「チキチキバッタ」と昔から、かく呼んでいた。♂が飛ぶ際に羽根を打ち合わせて出す「キチキチキチ……」のオノマトペイアである。

「おんぼう」当初、私は「隱亡」かと思った。日本史上、当該ウィキによれば、『火葬場で死者の遺体を荼毘に付し、墓地を守ることを業とした者を指』した語。『「隠坊」「御坊」「煙亡」とも表記し、地域により「オンボ」と呼ぶこともある』。『「薗坊」とも』。『もとは、下級僧侶の役目であり』、『「御坊」が転じたものと考えられている』とあり、『江戸時代には賤民身分扱いされていたことや』、『軽蔑的な意味合いを帯びたことも多く、現在は差別用語とされて用いられなくなっている』とあるそれである。而して「ちきちき」との接合に意味はなく、早口言葉であるから、通常、連続しない特別な単語の接続をすることが、早い発声を難しくすることからの仕儀であるように私には見うけられ、この日向のそれは、主に仏教的な語句を一つのコンセプトとして、「寿限無」のような、長大な名前の一部のような早口言葉のようには見えた。しかし、「駒澤大学総合教育研究部日本文化部門」の「情報言語学研究室」のサイト内の「言葉の泉」の「(5)早言(早口)」に、『【純粋の第一の例】人名】』に、冒頭に『34』として『寿限無寿限無五光の摺り切れず、海砂利水魚水魚末、雲来末風来末、食寝る処に住む所、やぶら小路、藪小路、ぱいぽぱいぽぱいぽのシューリンガン、シューリンガンのグーリンダイ、グーリンダイのポンポコピー、ポンポコピーの長久命の長助。』を挙げた後に、『35』として、『アリステ三平郎、テキテキ屋テキスリゴンボー、走心坊、宗高入道、播磨が別当、茶碗茶ブスの式井のコツケ。茶ぶ助、引井幸助。オン坊、草林坊、背高入道、播磨の別当、茶碗茶臼にひきんのへこ助様、井戸に落ちました。』とあることから、この「おんぼう」は単なるフラットな「御坊」ととるべきであろうと自分の中では結論した。

「そえたか入道」一応、調べた結果、「日本姓氏語源辞典」「添高」(そえたか)があり、宮崎県宮崎市で「添った高い土地」の意味を持ち、宮崎県宮崎市郡司分(ぐんじぶん:グーグル・マップ・データ。以下同じ)乙に分布する姓とあった。話者は日向だから、これは注しておいてよかろう。但し、以下は特に原義・由来などは調べないこととする。

「燒山彌次郞」「選集」では姓に『やけやま』と振る。「選集」では姓に『やけやま』と振る。青森県上北郡六ヶ所村泊焼山(とまりやけやま)に「弥次郎穴」というのがあるが、偶然か。

「ちやかもかちやあぶるせんずり觀音」「選集」では『ちゃかもがちゃあぶるせんずり観音』と記す。「茶を煎ず」に自慰行為の「せんずり」をきかせたのは、子供向けにはちょっと劣悪。

「久太郞」「きうたらう(きゅうたろう)」。

「別太郞」「わけたらう」或いは「わきたらう」か。

「むこにやすつぽろぽん」「選集」では『むこにゃすっぽろん』。

「舌捩り」「したもぢり」。

「タング、ツイスター」Tongue twister。早口言葉。

「辭」「ことば」。

「疾口」「はやくち」。]

 〇西牟婁郡二川村五村《ごむら》等で、狩人の山詞に、狼を御客樣、又山の神、兎を神子供と云ふ。狼罠に捕はるゝと、殺す所でなく扶けて去しむ。一七〇頁に高木君が書た、安堵峰の猿退治の話にも、兎の巫女を呼で祈らせたと有る(鬼は兎の誤植)。狼形に山神を描いた物語の事、一昨年二月の人類學會雜誌へ出した。

[やぶちゃん注:「西牟婁郡二川村」(ふたかはむら)は「Geoshapeリポジトリ」の「歴史的行政区域データセットβ版」のこちらで旧村域が確認出来る。現在は田辺市中辺路町(なかへちちょう)の中部。

「五村」(ごむら)は西牟婁郡にはなく、二川村から、かなり北西に離れた有田郡の旧五村のことであろう。「Geoshapeリポジトリ」の「歴史的行政区域データセットβ版」のこちらで旧村域が確認出来る。「ひなたGPS」の戦前の地図に名が記されてあり、「国土地理院図」ではここが同じ場所である。

「山詞」「やまことば」。

「狼を御客樣、又山の神」狼のことを「お客さま」と呼び、また、「山の神」と呼ぶ、という意。

「神子供」「みこども」。

「殺す所でなく」「ころすどころでなく」。

「扶けて去しむ」「たすけてさらしむ」。

「一七〇頁」「選集」では『『郷土研究』一巻三号一七〇頁』とする。

「高木君が書た、安堵峰の猿退治の話」ドイツ文学者で神話学者・民俗学者でもあった高木敏雄(明治九(一八七六)年~大正一一(一九二二)年)。大正二~三年には、本篇の初出する『鄕土硏究』を柳田国男とともに編集している。欧米の、特にドイツに於ける方法に依った神話・伝説研究の体系化を試み、先駆的業績を残した。『鄕土硏究』は全く原本を見ることは出来ないのだが、ふと思って、高木氏の単行著作を国立国会図書館デジタルコレクションで調べたところ、ここで言う論考と酷似したものが、本篇「四」の発表と奇しくも同時に郷土研究社から刊行された(大正二年八月)、高木敏雄著「日本傳說集 附・分類目次解說索引」の「義犬塚一名猿神退治傳說第十七」の「(ニ)猿神退治」として載っているのを発見した。そちらを読んで貰えば判るが、「兎の巫女」(みこ)「を呼」(よん)「で祈らせた」のは猿が化けた宿の主人である(この短い話は、なかなかぶっ飛びのモンストロムで、「牛鬼の醫者」まで出演している)。まず、読まれたい。最後に実はこの話、南方熊楠が提供した話であったのである。則ち、ここでは高木の論考を称揚するように書いているものの、リンク先の文章自体、明らかに熊楠の癖がでているもので、何のことはない、熊楠は自分の報告した文章を自慢したのだ。

「狼形に山神を描いた物語の事、一昨年二月の人類學會雜誌へ出した」『「南方隨筆」版 南方熊楠「俗傳」パート/山神「オコゼ」魚を好むと云ふ事』の最後。]

 〇獾を西牟婁郡で「めだぬき」、「つちかい」(土搔きの義)、また「のーぼー」といふ、安堵峰で予其肉を味噌で煑て食ふと甚だ甘かつたが、共に煑るべき野菜絕無で困つた。此物熊同樣足に掌有り、人の如く立ち得る、好んで女に化ると云ふ。富里村の人(現存)春日蕨採りに山へゆくと、若き處女簪笄已下具足し、頗る艷なるが立て居た。依て前み近くと、忽ち見えず、立て居た處に穴有り、家に還り犬を伴行き、穴を搜して獾を獲た。又秋津村產れで予の知れる老人、若き時村女と密會を約せし場所へ往て俟つと、此獸其女に化け來り、忽ち消失せ抔して每度困らされた、其邊で「せい」と呼ぶ由。

[やぶちゃん注:「獾」「あなぐま」。本邦固有種である食肉目イヌ型亜目クマ下目イタチ小目イタチ上科イタチ科アナグマ属ニホンアナグマ Meles anakuma 。私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 貉(むじな) (アナグマ)」を参照されたいが、面倒なことに、寺島良安は「本草綱目」に従ったために、「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 貒(み) (同じくアナグマ)」及び「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 獾(くわん) (同じくアナグマ)」も別に立項してしまっている。

「のーぼー」冬眠から覚めた直後などに山裾や野で「ぼー」としているようにいるからか。何となく腑に落ちる。ブログ「あにまるカメラ」の「ニホンアナグマ」に上野動物園の本種の画像が出るが、「ぬぼぉー。。。」というキャプションの写真がまさにそれだ。「アナグマの爪」と言う解説板の写真で掌部の写真も見られる。

「甘かつた」「選集」に『甘(うま)かった』とルビする。

「掌」同前で『たなごころ』とルビする。

「富里村」「Geoshapeリポジトリ」の「歴史的行政区域データセットβ版」の「和歌山県西牟婁郡富里村」を参照されたい。

「春日」「しゆんじつ」。

「處女」「をとめ」。

「簪笄」「かんざし・かうがい」。

「前み」「すすみ」。

「近く」「ちかづく」。

「伴行き」「つれゆき」。

「秋津村」

「往て」「ゆきて」。

「消失せ抔して」「きえうせなどして」。

「せい」この異名、意味不明。]

 〇熊野に遊んだ人は熟知るが、潮見峠より東では、古來山茶の葉で烟草を捲吸ふ、木板を頭に載せ、山路を通ふ婦女事に然り。手づから捲て火を點る手際、他處の人倣し難い。齒無き老婆など、件の葉捲を無患子の孔に管所たるに揷て吸ひ步く、其山茶葉に好惡有て、撰擇に念入れ、路傍の一文店で列て賣る。古い狂歌に「熊野路は煙管無くても須磨の浦、靑葉くはへて口は敦盛」。

[やぶちゃん注:「熟」「よく」。

「潮見峠」ここ。田辺市中辺路町西谷と中辺路町栗栖川を越える山道で、熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)への参詣道熊野古道中辺路の派生ルートの一つで、ここは特に難所の一つとされた。

「山茶」「つばき」。椿の漢名。

「捲吸ふ」「まきすふ」。

「木板」「選集」では二字で『いた』と振る。

「點る」「つける」。

「倣」「まね」。

「老婆」「選集」では二字で『ばば』と振る。

「無患子」「むくろじ」。ムクロジ目ムクロジ科ムクロジ属ムクロジ Sapindus mukorossi であるが、ここはその硬い実(羽根つきの羽根の錘に用いられる)に穴を開けて、それに椿の葉に煙草を巻いたものを挿して吸ったのであろう。「南方熊楠記念館」公式ブログ の「青葉くわえて口は敦盛」でも、そう解釈されてある。実際に椿の葉で煙草を捲いて吸った実験結果も写真入りで書かれてある。

「管所たるに」「選集」では二字で『管(くだ)所(つけ)たるに』と振る。

「揷て」「さして」。

「好惡」「よしあし」。

「一文店」「いちもんみせ」。

「列て」「ならべて」。底本では「列で」であるが、「選集」の「て」を選んだ。

「熊野路は煙管」(きせる)「無くても須磨の浦、靑葉くはへて口は敦盛」「須磨」に「濟む」の意をかけ、「靑葉」は椿の青葉に敦盛の遺愛の笛の名「青葉」を掛け、「敦盛」に「熱(あつ)」を掛けた。]

 〇舊傳に、「文蛤は十萬石以下の領地には生ぜず」と。

[やぶちゃん注:「文蛤」「はまぐり」。無論、そんな分布の偏りはない。]

 〇高野山御廟橋の傍の井に莅んで影映らぬ人は近い内に死ぬさうで、前年田邊新町の或隱居試て見ると映らず、歸て程無く死んだので、新町の人一同今に登山しても彼井を覗かぬ。

[やぶちゃん注:「高野山御廟橋」「選集」を参考にするなら、「ごべうのはし」。「御廟橋」はここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。「御廟」は弘法大師の霊廟である「奥之院燈籠堂」を指す。しかし、ここで熊楠は、その井戸は「傍」(そば・かたはら)と言っているのだが、実際には、参道のずっと下方のここで、傍らではない。

「莅んで」「のぞんで」。

「近い内に死ぬさうで」上記リンクのサイド・パネルの説明版では、『三年以内に亡くなってしまうと言』『伝えがあ』るとある。

「田邊新町」現町名では北と南がある

「彼」「かの」。]

 〇田邊で蝸牛を囃す詞「でんでん蟲々、出にや尻搯(つめ)ろ」。近所の神子濱では、「でんでん蟲々、角出せ槍出せ」。嬉遊笑覽卷一二上に、「日次記事云、蝸牛見ㇾ人、則蝟縮、兒童相聚謂出々蟲々不ㇾ出則行打破釜言ㇾ爾、此蟲貝俗謂ㇾ釜」と有り、今又江戶の小兒、角出せ棒出せまひまひつぶり、裏に喧嘩が有ると云へるは、益々滑稽也、と云へり。和歌山の岡山は砂丘で春夏砂挼子(ありじごく)多し。方言「けんけんけそゝ」又「けんけんむし」、兒童砂を披いて之を求むるに、「けんけんけそゝ、叔母處燒る」と唱ふ。廿二年前、予「フロリダ」州「ジヤクソンヴヰル」で、八百屋營業の支那人の店に、晝は店番、夜は昆蟲や下等植物を鏡檢した、每度店前の砂地へ、黑人の子供集り、砂挼子を探る詞に、「ヅロ、ヅロ、ハウス、オン、ゼ、フアイヤー」。矢張り「砂挼子の家火事だ」と言て驚かすのだ、類緣なき遠隔の地で、同一の趣向が偶合して案出されたのだ。

[やぶちゃん注:「蝸牛」「かたつむり」。

「尻搯(つめ)ろ」「搯」の漢字は「手や用具を突っ込んで中のものを外へ取り出す」の意であるから、ここは「尻、搯(つめ)たろか!」で、「尻から全部抜き取ったるで!」という脅しである。

「神子濱」既出既注。

『嬉遊笑覽卷一二上に、「日次記事云、蝸牛見ㇾ人、則蝟縮、兒童相聚謂出々蟲々不ㇾ出則行打破釜言ㇾ爾、此蟲貝俗謂ㇾ釜」と有り、今又江戶の小兒、角出せ棒出せまひまひつぶり、裏に喧嘩が有ると云へるは、益々滑稽也、と云へり」後半部分は著者に割注による感想である。「嬉遊笑覽」は国学者喜多村信節(のぶよ 天明三(一七八三)年~安政三(一八五六)年)の代表作で、諸書から江戸の風俗習慣や歌舞音曲などを中心に社会全般の記事を集めて二十八項目に分類叙述した十二巻・付録一巻からなる随筆。文政一三(一八三〇)年成立。国立国会図書館デジタルコレクションの「嬉遊笑覧 下」(成光館出版部昭和七(一九三二)年刊行)のここの左ページの頭書「蝸牛角出せ」の終りの三行(次のページ)。少し表記が異なるが、これは版本の違いである。所持する岩波文庫を参考に訓読する。熊楠の返り点は一部がおかしい。「兒童相聚謂出々蟲々不ㇾ出則行打破釜」は「兒童相聚謂出々蟲々、不ㇾ出則行打破釜」でなくては読めない。

   *

「日次(ひなみ)記事」に云はく、『蝸牛、人を見れば、則ち、蝟縮(いしゆく)す。兒童、相ひ聚(あつま)りて謂ふ、「出々蟲々(でんでんむしむし)、出でずば、則ち、行きて、釜を打ち破らん。」と、爾(し)か言ふ。此の蟲の貝を、俗に「釜」と謂ふ。

   *

引用元の「日次記事」は「日次紀事」が正式表記。但し、「嬉遊笑覧」自体が誤っているので、熊楠の誤りではない。江戸前期の京都を中心とする朝野・公私の年中行事解説書。黒川道祐編。延宝四(一六七六)年の林鵞峰の序がある。中国明朝の「月令(がつりょう)広義」に倣って編集されているが、特に民間の習俗行事を積極的に採録したのを特徴とする。正月から各月毎に、毎朔日から月末まで日を追って節序・神事・公事・人事・忌日・法会・開帳の項を立て、それぞれ行事の由来や現況を解説している。しかし、神事や儀式には非公開を建前とするものもあったことから、出版後間も無く、絶板の処分を受けたため、後に一部を変更して再刊されている。

「和歌山の岡山」和歌山城の東直近から南方向にかけては(このグーグル・マップ・データの正中線部分)、元は広大な砂丘で、海岸線はすぐ西にあった近世及び近代の開発で殆んど砂丘の名残は現存しない。そこに「岡山の根上り松群」をポイントしたが、それが数少ない面影で、「和歌山市文化振興課」公式サイト内の「和歌山市の文化財・遺跡」「岡山の根上り松群」の解説に、この附近の広域旧呼称である『岡山は、古来より吹上の浜の汀線に平行して発達した砂丘です。江戸時代、和歌山城の城下町建設のときに、三年坂の切り通しや、堀止の埋め立て、外堀の掘削などにより著しく改変され、また明治以降の変革もあり、いまではほとんど砂丘の旧態をとどめません』。『吹上一丁目の和歌山大学教育学部附属小中学校内には、比較的よく砂丘の原形が残され、それとともに旧海岸林も一部が現存しています。根上がり松群はほとんどが枯死してしまいましたが、グランドの北にあるものは、根からの高さ』三・五メートル、『幹周り』三メートルで、『いまなお威容を残しています』とある。

「砂挼子(ありじごく)」蟻地獄は内翅上目アミメカゲロウ目ウスバカゲロウ上科ウスバカゲロウ科 Myrmeleontidae に属する一部の種の幼生名を指す。なお、ウスバカゲロウ類の総てがアリジゴク幼生を経る訳ではないので注意されたい。また、似て全く非なるところの旧翅下綱 Ephemeropteroidea 上目蜉蝣(カゲロウ)目 Ephemeroptera のカゲロウ類の幼虫は水棲であって、アリジゴクとは関係ない。詳しく知りたい方は「生物學講話 丘淺次郎 第十九章 個體の死(4) 三 壽 命」の私の『「かげろふ」の幼蟲は二年もかかつて水中で生長する』の注を参照されたい。私の博物学的な意味での「蜉蝣類」の解説の決定版である。但し、かなり長いので、ご覚悟あれ)。

『方言「けんけんけそゝ」又「けんけんむし」』柳田國男は「蟻地獄と子供――特に疎開の少年の爲に――」(昭和二一(一九四六)年一月~八月の『虫界速報』及び同年十一月から翌年五月の『虫・自然』で連載)の中で、全国に蟻地獄の異名を採集し、その語原を検証しているが、その「一〇 次郎と太郎」の中で、この異名に触れている。「私設万葉文庫」の「定本柳田國男集」第十九巻(新装版・一九六九年筑摩書房刊)から引く。踊り字は正字化し、記号の一部を変え、漢字の一部を正字化した。「ちくま文庫」(新字新仮名)版で校合した。

   *

 變つた名稱の一つとしては、和歌山の市などでは、この蟲をケンケンソソソ、又同じ縣の南海岸で、ケンケンとも謂つて居る。是は疑ひも無く蹴るといふ動詞から出た名で、今日の相撲道では禁じられて居るが、なほ力士たちは此語を知つて居るのみならず、古くは又當麻蹴速(たいまのけはや)といふやうな名人も居た。子供の遊戯では片足飛びがケンケンであつて、之に基いて、

   けんけんばたばたなぜ鳴くね

   親が無いか子が無いか

   親も有るが子も有るが

   鷹じよに取られてけふ七日

   七日と思たら十五日……

などゝいふやうな、雉子の鳥を歌つた遊び唄も出來て居る。子供は足ケンケンといふ名を、あの飛び方が頭に響く感じから來たと思つて居るが、もとは片一方の休ませて居る足を使つて、相手を蹴り倒すのがケンケンであつた。蟻地獄が巧みに跳ねて砂を彈いて、その上に居る敵を墮すから、見て居てさう謂ひたくなるのも當り前であり、ソソソといふのは多分それそれといふ激勵の語であつたと思ふ。

   *

「披いて」「ひらいて」。

「叔母處燒る」「選集」を参考にすると、「叔母處(おばとこ)燒(やけ)る」である。

『「フロリダ」州「ジヤクソンヴヰル」』ここ

「八百屋營業の支那人の店に、晝は店番」したという話は既に注した。

「ヅロ、ヅロ、」この語、元の英語の綴りと意味が判らない。識者の御教授を乞う。確かに、この相同性は驚嘆に値する!]

 〇田邊の俗傳ふ、家の主人が自ら壁の腰張り、乃ち壁の下の方、疊に近い部分に紙を貼付ると必ず近い内に家に故障起り、一家立退ざる可らずと。

[やぶちゃん注:「壁の腰張り」「腰」とは壁の中間部分から下を指し、壁の下の部分に上とは異なった仕上げ材を張ることを「腰張り」と呼ぶ。

「乃ち」「すなはち」。

「立退ざる可らず」「たちのかざるべからず」。]

 〇又曰く、蜈蚣に嚙れて痛烈しき人は、蝮蛇には左程痛まず。蝮蛇に嚙まれて痛烈しき人が、蜈蚣に於るも又然りと。拙妻二人の子に驗するに、蚊と蚤においても同樣なりと。

[やぶちゃん注:「蜈蚣」「むかで」。

「痛」「いたみ」。

「蝮蛇」「まむし」。

「驗するに」「けみするに」。]

 〇又傳ふ、足痺れて起つ能はざる時、「痺れ京へ登れ藁の袴買て着しよ」と三たび唱へ、疊の破れ目等から、藁一片拔き、唾で額へ貼ば卽ち痺れ止むと。

[やぶちゃん注:これは汎世界的に頻繁に見られる対象現象を擬人化して慫慂懐柔する類感呪術である。

「買て」「こうて」。]

 〇熊野詣りの手毬唄、田邊より纔か七八町隔つた神子濱で唄ふのは、末段が田邊のと違ふ(『鄕土硏究』一卷二號一二一頁參看)。「燈心で括つて、京の町へ賣りに往て、叔母樣に逢て、隱れ所無つて雪隱へ隱れて、ビチ糞で滑つて、堅糞で肩打た。」この唄の意何とも知れ難いが、一二一頁に載たのは、熊野詣りの處女、途中の佛堂へ拉行き强辱さるゝ次第を序し、今爰に記すのは、誘拐して京都の花街抔へ賣れ、其處で故鄕より登つた親族に邂逅して羞匿る事を叙たのかと推せらる。

[やぶちゃん注:「手毬唄」の先行言及は数多あり、こうした若い女の悲劇を読んだものが多いが、まさに、こんな忌まわしい唄で手毬をしている少女を実際に目の前にしたら、白昼でも慄っとしただろうな。

「『鄕土硏究』一卷二號一二一頁」「一」の「田邊邊の子供が傳ふ熊野詣の手毬唄、……」を指す。

「括つて」「くくつて」。

「往て」「選集」は『往(い)て』とルビする。

「逢て」手毬唄だから「おうて」と口語で読んでおく。

「隱れ所」「かくれどこ」。「どこ」は「選集」に従った。

「無つて」「なかつて」。

「雪隱」「選集」に『せつち』と振る。従う。

「ビチ糞」「びちくそ」。

「堅糞」「かちくそ」。

「肩打た」「かたうつた」。

「處女」「むすめ」。「選集」に拠った。

「拉行き」「つれゆき」。

「花街」「くるわ」。「選集」に拠った。

「賣れ」「うられ」。

「羞匿る事」「はぢかくるること」

「叙た」「のべた」。]

 〇四十年程前迄、和歌山市で川端抔へ獨遊びに出る子供を、母が誡むるに、日向の人買船に拉行れ炭を燒せらると言た。其頃其樣事有るべきに非ねど、ずつと昔し、日向から遠國へ人買が出て、拉去た人を炭燒に苦使した時の戒飭が遺つたらしい。謠曲「隱岐院」に、「人買人、今日は東寺邊、作道の邊りにて人を買ばやと思ひ候。中略、聲を立てば叶ふまじと、髮を取て引伏て、綿轡をむずとはめ、畜生道に落行くかと、泣聲だにも出ざれば云々」。帝國書院刊行鹽尻五四卷に、「人を捕へて、勾引して賣し者、猿轡とて、物言はんとすれば舌切る物を含ませしとぞ、近世も、出羽國南鄕等には、盜賊有て人を欺き、猿轡を含ませしとかや」。猿轡綿轡同物か。人買とは人身賣買の義なれど、實は人を勾引す者を呼んだ名らしい。

[やぶちゃん注:「日向」(ひうが)「日向から遠國へ人買が出て、拉去」(つれゆかれ)「た人を炭燒に苦使した」これは噂などではなく、江戸時代、実際に人買い船が日向からやってきて、伊勢神宮への「抜け参り」の子供などが多数拉致された事実があるのである。しかもそれは市井の悪党や女衒(ぜげん)などの仕業ではなく、列記とした日向の飫肥(おび)藩が行っていたのだから愕然とせざるを得ない。具体には、まず、宮崎のポータルサイト「miten」の「みやざき風土記」の宮崎県民俗学会副会長の前田博仁氏の「子どもを拉致した飫肥藩」を読まれたい。この多数の人買い拉致事件の発覚は文政一三(一八三〇)年のことである。この事件については、この藩ぐるみの拉致工作を早くに記事とし、このおぞましい江戸時代の犯罪を広く知らせた、イラストレーターでライターの松本こーせい氏のサイトの「好奇心散歩考古学」の『宇江佐真理の小説「薄氷」の「日向某藩の人買い船」とは?男女児童をさらって生涯奴隷に!』をも読まれんことを強くお薦めする。因みに事件が発覚した場所は、宮崎県日向市細島である。当時、ここは天領で富高代官所が統治していた。飫肥藩領はずっと南の現在の宮崎県南部の宮崎県宮崎市中南部と宮崎県日南市全域に相当する。

「拉行れ」「つれゆかれ」。

「戒飭」「いましめ」。「選集」の読みに従った。音は「カイチヨク(カイチョク)」で「飭」も「いましめる」の意。「人に注意を与え慎ませること・気をつけて慎むこと」の意。

「遺つた」「のこつた」。

『謠曲「隱岐院」』別名「隱岐物狂(おきものぐるひ)」。廃曲。作者不詳。妻に死別して出家した父親が、隠岐島で、人商人(ひとあきびと)に誘われて発狂した娘に逢うという筋立て。国立国会図書館デジタルコレクションの大和田建樹著「謠曲評釋」第五輯(明治四(一九〇四)年博文館刊)ここから読める(ここには「世阿彌作」とある)が、冒頭、「人買人」(ひとかひびと)は「かやうに候ふ者は、隱岐の國より出でたる人商人(ひとあきびと)」であり、「今日は東寺邊」(へん)「、作道」(つくりみち)「の邊りにて人を買」(かは)「ばやと思ひ候」と続く。「作道」は「鳥羽作道(とばのつくりみち)」で平安京の羅城門から真南に走る道で、鳥羽を経て、淀に至る道筋(「徒然草」によれば、十世紀以前から存在していた)。「中略」以下は、左ページの四行目からの引用で、「聲を立てば叶」(かな)「ふまじと、髮を取」つ「て引」き「伏て、綿轡」(わたぐつわ)「をむずとはめ、畜生道」(ちくしやうだう)「に落」ち「行くかと、泣」く「聲だにも出ざれば、心に人間はありそ海の。隱岐の國へと志し。山陰道に急ぎけり。急ぎけり。」で中入となる。

『帝國書院刊行鹽尻五四卷に、「人を捕へて、勾引して賣し者、猿轡とて、物言はんとすれば舌切る物を含ませしとぞ、近世も、出羽國南鄕等には、盜賊有て人を欺き、猿轡を含ませしとかや」』「鹽尻」は既出既注。江戸中期の国学者で尾張藩士天野信景(さだかげ)による十八世紀初頭に成立した大冊(一千冊とも言われる)膨大な考証随筆。当該活字本の当該箇所が国立国会図書館デジタルコレクションのここで視認できる。左下段中央やや左寄りにある。

「猿轡」と「綿轡」は「同物か」と言っているが、どうも違う気がする。「物言はんとすれば舌切る物を含ませしとぞ」という部分がそれで、例えば、口に噛ませるのに、ささくれ立った木片を咬ませるか、真綿に茨などを包んだものを含ませているのではないかと疑わせる。「綿轡」は十全に口腔内に真綿をぎゅうぎゅうにしっかり詰めれば、それを吐き出すことは出来ず、声も発することも実は出来ないのである。

「勾引す」「かどわかす」と読む。]

 〇田邊で兒女酸漿の瓤(なかご)出すに唱ふる詞「酸漿ねえづき破れんな、(瓤が其心根に付た儘皮を破らずに出よと云ふ事)破れた方へ灸すよ」。

[やぶちゃん注:「兒女」「こども」。

「酸漿」「ほほづき」。

「瓤(なかご)」音は「ショウ・ ニョウ・ドウ・ノウ」(現代仮名遣)。瓜(うり)等の内部の種子部分を包んでいる綿状の箇所、所謂、「子房」を指す。

「出す」「いだす」。

「其心根に付た儘」「その、しん、ねについたまま」で果実の外を包む「皮を破らずに出」(いで)よ」。

「灸」「選集」は『やいと』とルビする。]

 〇玄猪の神に飯供ふる時、飯匙で十三度に扱ひ取る。此飯を若き男女食ふと、緣付き遲い故に、既婚の人のみ食ふ。

[やぶちゃん注:「玄猪」「選集」を参考にするなら、二字で「ゐのこ」。

「飯」「めし」。

「飯匙」「選集」を参考にするなら、「おだいかひ」。通常は「いがひ」で杓文字のこと。この「おだいという読みは「飯」の当て訓で、本来は「御臺」で、元は「御臺盤」(飯・菜などを盛った器をのせる長方形の台)であるが、そこから、近世に女性語として「飯」(めし)を指す語となった。

「扱ひ」「選集を参考に「よそひ」と訓じておく。

「此飯を若き男女食ふと、緣付き遲い故に、既婚の人のみ食ふ」こういう伝承の根源は遂に探れないのが悔しい。]

 〇茶釜の湯沸て蓋を持上ぐれば、家の福分隣家へ移るとて、速く水を注込む。

[やぶちゃん注:「沸て」「わきて」。

「持上ぐれば」底本は「持上けば」であるが、「選集」で訂した。「上げれば」ではどうもしっくりこない。

「隣家」「選集」は『となり』と振る。

「速く」「はやく」ではなく、「すばやく」と訓じておく。]

 〇和歌山で蟋蟀の鳴聲、「鮓食て餅食て酒飮んで、綴れ刺せ夜具刺せ」と云て暑い時遊んで居た人、秋に成れば冬の備へをせにや成ぬと警むるのぢやと、幼年の頃予每々聞た、倭漢三才圖會五三にも、古今注云、蟋蟀秋初生、得ㇾ寒則鳴、俚語有ㇾ言、趨織鳴嬾婦驚と出たり。

[やぶちゃん注:「蟋蟀」「こほろぎ」。

「鮓食」(すしくふ)「て餅食て酒飮んで、綴」(つづ)「れ刺せ夜具刺せ」。

「成ぬ」「ならぬ」。

「警むる」「いましむる」。

「倭漢三才圖會五三にも、古今注云、蟋蟀秋初生、得ㇾ寒則鳴、俚語有ㇾ言、趨織鳴嬾婦驚」私の「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 蟋蟀(こほろぎ)」を参照されたい。]

 〇和歌山で蜻蛉の雌を維いで雄を釣るを「かえす」と云ふ。之をなす小兒「ヒヨー、ヒヨー、やんま、ひよつちんひよー」と唱ふ、下芳養で蜻蛉かえすに、ホーヒーホーと唱ふ、鉛山では、「ホーヒーホー、かしややんまでかえらんせ」といふ。花車乃ち仲居が嫖客を引く如く囮の雌蜻蛉に引かれ來れとの意か、田邊では單に「やんまほー」と唱ふ、神子濱では「やんま、こーちーこーの、猫に怯てこーかいの」と呼ぶ、交尾ながら飛ぶを見て、「ぢよつかじよーじよーお坐り成れ」と云へば止ると云ふ、蜻蛉飛ぶを手網で奄んとする時、「とんぼとーまれ、お寺のお脊戶で、蠅を取つて食はそ」と云へば止るといふ、田邊、和歌山等では、唯「とんぼとーまれ、蠅を食はそ」といふ。

[やぶちゃん注:以下、読みは概ね「選集」を参考にした。

「雌」「め」。

「維いで」「つないで」。

「雄」「を」。

「小兒」「こども」。

「下芳養」「しもはや」。既出既注。

「鉛山」「かなやま」。和歌山県の旧西牟婁郡瀬戸鉛山村。「Geoshapeリポジトリ」の「歴史的行政区域データセットβ版」こちらで旧村域が確認出来る。西牟婁郡白浜町の鉛山湾のある半島部に当たる(国土地理院図)。

「花車」「くわしや(かしゃ)」。花車方(かしゃがた)とも呼ぶ。茶屋などで働く年配の仲居のこと。

「嫖客」「へうきやく(ひょうきゃく)」。花柳界に遊ぶ男の客。

「囮」「おとり」。

「雌蜻蛉」「めやんま」。

「怯て」「おぢて」。

「交尾ながら」「つるみながら」。

「成れ」「なされ」。

「手網」「たも」。

「奄ん」「ふせん」。

「蠅」「はい」。]

 〇西牟婁郡二川村大字兵生邊で、「そばまきとんぼ」と云ふ蜻蛉が、丁度鍬の柄の高さに飛ぶ時を待て蕎麥を蒔く。曆が行渡らぬ時は、色々の事を勘へて農耕をした、其時の遺風と見える。

[やぶちゃん注:「西牟婁郡二川村大字兵生」(ひやうぜい)は現在の田辺市中辺路町兵生(グーグル・マップ・データ)。幾つかのネット記載は読みを「ひょうぜ」とするが、正しくはやはり「ひょうぜい」である。「ひなたGPS」のこちらを参照。

「そばまきとんぼ」個人サイト「大阪・上方の蕎麦」の中の「暮らしと蕎麦」の「その3」の「ソバマキトンボ -----赤とんぼ-----」で素晴らしい考証がなされており、結論としては、蜻蛉(トンボ)目Epiprocta 亜目Anisoptera下目トンボ上科トンボ科ハネビロトンボ亜科ハネビロトンボ族ウスバキトンボ属ウスバキトンボ Pantala flavescens ではないかと推定されておられる。当該ウィキによれば、『全世界の熱帯・温帯地域に広く分布する汎存種の一つで』、『日本のほとんどの地域では、毎年春から秋にかけて個体数を大きく増加させるが、冬には姿を消す』。『お盆の頃に成虫がたくさん発生することから、「精霊とんぼ」「盆とんぼ」などとも呼ばれる。「ご先祖様の使い」として、捕獲しないよう言い伝える地方もある。分類上ではいわゆる「赤とんぼ」ではないが、混称で「赤とんぼ」と呼ぶ人もいる』とあった。『成虫の体長は』五センチメートル『ほど、翅の長さは』四センチメートル『ほどの中型のトンボで』、『和名のとおり、翅は薄く透明で、体のわりに大きい。全身が淡黄褐色で、腹部の背中側に黒い縦線があり、それを横切って細い横しまが多数走る。また、成熟したオス成虫は背中側にやや赤みがかるものもいる』とあった。]

 〇其近所に笠塔といふ高山が有る。實に無人の境だ。其山に木偶茶屋と云ふ處有り、夜分狩人抔偶ま野宿すると、賑はしく人形芝居が現ずる由。

[やぶちゃん注:「笠塔」(かさたふ)「といふ高山」田辺市のここ(国土地理院図)。標高千四十九メートル。平安時代の陰陽師安倍晴明が魔物を笠の下に封じ込めたという伝説が残る山である。

「木偶茶屋」「でくちやや」。位置不詳。

「偶ま」「たまたま」。

「賑はしく人形芝居が現ずる由」ヒエーッツ! 泉鏡花の世界じゃて!!!]

〇「七つ七里、小便擔桶にも憎まれる」此諺紀州到る處で言ふ。小兒七歲に成れば、行作荒々しく、自村のみか近傍七ケ村から憎まれるとの意だ。

[やぶちゃん注:「七里」「ななさと」。

「小便擔桶」「しやうべんたご」。

「行作」「選集」を参考にすると、二字で「おこなひ」。]

 〇熊野(一說伊勢)の神油蟲を忌む、三疋殺した者、參詣せずとも、其丈の神助有りと云ふ。

       (大正二年八月鄕硏第一卷第六號)

[やぶちゃん注:「油蟲」言わずもがな、ゴキブリであろう。]

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