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2022/07/23

南方熊楠・柳田國男往復書簡(明治四五(一九一二)年三月・三通)

 

[やぶちゃん注:以下は、先般、電子化注を始めた「續南方隨筆」の「十三人塚の事」の注に必要となったため、急遽、電子化した。従って、注はどうしても必要なものと判断したものに限った。

 底本は一九八五年平凡社刊の「南方熊楠選集」の「別巻 南方熊楠 柳田國男 往復書簡」の「245」ページから「250」ページまでをOCRで読み込んだ。南方二通と柳田一通である。三通目は最後の部分が必要と考え、添えた。なお、底本は新字新仮名で書き変えられており、気持ちが悪いが、仕方がない。]

 

  南方熊楠から柳田国男ヘ

          明治四十五年三月六日

 拝啓。貴著『石神問答』山中笑氏の状に、仏教に十三の数に関すること少々挙げたり。しかし、十三仏ということはなし。小生按ずるに、この十三は十二に一を合わせたるものならん。(十二月に一の太陽を合わせ、十二神将に一の薬師仏を加うるごとく)、なにかまた暦占学・天文学上より出でたることかと存じ候。さて今日まで一切経およそ十分の六、七通り見たが、日本にいう十三仏は無論ないが、十三仏名ということはあり。貴下に目下何の用もないことかも知れねど申し上げ候。宋の紹興年中に王日休が校輯せる『仏説大阿弥陀経』巻上に、十三仏号分第十三あり、弥陀仏の十三の名を挙げたり。無量寿仏、無量光仏、無辺光仏、無礙光仏、無対光仏、炎王光仏、清浄光仏、歓喜光仏、智慧光仏、不断光仏、難思光仏、難称光仏、超日月光仏の十三なり。貴下の「己が命の早使い」の条はすでにでき上がりたりや。小生これに類せる話一、二見出でたれど、すこぶる長く要を摘むに困る。貴下のその条全文見せ下され候わば、貴下の入用らしき相似の点のみ書き抜き添記申すべく候。

[やぶちゃん注:「貴著『石神問答』山中笑氏の状に、仏教に十三の数に関すること少々挙げたり」「石神問答」は明治四三(一九一〇)年刊で、翌年には序を付して再刊している。日本民俗学の先駆的著作として広く知られる。日本に散見される各種の石神(道祖神・赤口神・ミサキ・荒神・象頭神など)についての考察を、著者と日本メソジスト教会の最初の牧師の一人で民俗学者でもあったペン・ネーム山中共古(きょうこ)の名で知られる山中笑(えむ)・人類学者伊能嘉矩(かのり)・歴史学者白鳥庫吉(しらとりくらきち)・歴史学者喜田(きた)貞吉・「遠野物語」の原作者佐々木喜善(繁)らとの間に交わした書簡をもとに柳田國男が編集した、一風変わった構成の論考著作である。国立国会図書館デジタルコレクションで初版本が視認出来るが、ここで熊楠が言っているのは、「書簡一 柳田國男より駿河吉原なる山中笑氏へ」の四ページ目にある「十三」の条を指す。読まれたい。

「十三仏ということはなし」博覧強記の熊楠にして、ちょっと意外。私でさえも知っている。当該ウィキによれば、中国で偽経によって形成された地獄思想の『十王をもとにして、室町時代になってから日本で考えられた、冥界の審理に関わる』十三『の仏(正確には仏陀と菩薩)』、閻魔王を初めとする冥途の裁判官たる十王と、『その後の審理(七回忌・十三回忌・三十三回忌)を司る裁判官の本地』(ほんじ)『とされる』仏に関わる十王信仰、また、この十三仏は『十三回の追善供養(初七日〜三十三回忌)をそれぞれ司る仏様としても知られ、主に掛軸にした絵を、法要をはじめあらゆる仏事に飾る風習が伝えられ』ているとある。十三の冥王と本地仏は、リンク先で表になっているので、参照されたい。

「紹興年中」中国、南宋の高宗趙構の元号。一一三一年から一一六二年まで。

「王日休」(おうにっきゅう 一一〇五年~一一七三年)。「WEB版新纂浄土宗大辞典」の「王日休」によれば、『宋代の』処士で『浄土教者』。現在の安徽省舒城生まれ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。南宋の初代皇帝高宗の治世(一一二七年~一一六二年)に『国学進士に推挙された』。学識深く、「春秋」・「易経」や刑法及び地誌関係の著書として膨大な著作があるほか、「金剛経」注釈書「金剛経解」四十二巻があるなど、その著述は広汎且つ大部に及ぶ。交遊関係も広く、『官吏仲間や宰相ばかりでなく、看話禅』(かんなぜん:禅宗用語。一つの公案を目標として、それを理解し得た後、更に別の公案を目標に立てて、最終的に悟りに至ろうとする禅風。元は南宋の宏智正覚(わんししょうかく)が大慧宗杲(だいえそうごう)の禅風を評した語であった。臨済宗は、この看話禅の伝統を現在も受け継いでいる)『の大成者として知られる大慧宗杲や』、『その門人達との関係も深かった。しかし晩年の王は、官職を捨てて浄土教に帰し、その布教に尽力しつつ、困窮者などへの救済活動(賑済)も実践していた』。紹興三二(一一六二)年には、「無量寿経」の異訳四本を校合した「大阿弥陀経」(ここに出る「仏説大阿弥陀経」に同じ)『二巻を編集し、同年末頃、仏教の民衆化・活性化を旗印に、あらゆる階層に浄土教を浸透させるため、経論や諸伝記から』、『広く』、『浄土教の要文を集めて』「龍舒浄土文」(りゅうじょじょうどもん)十巻を『撰述し、その流布につとめた。その後乾道九年』、六十九歳で『廬陵』(現在の江西省吉安(きつあん)市)『において』、『阿弥陀仏の来迎引接を得て』、『往生を遂げた』とある。

「十三仏号分第十三あり、弥陀仏の十三の名を挙げたり」「大蔵経データベース」で確認したが、誤りはない。

「無礙光仏」「むげこうぶつ」。

「無対光仏」「むたいこうぶつ」。]

 

  柳田国男から南方熊楠ヘ

         明治四十五年三月八日夕

 拝復。此方よりは御無沙汰のみ致しおり候に、御多忙にもかかわらずたびたび御報導を給わり御親切感佩仕り候。白井、高本の二氏とは折々相見るの折あり、間接にも御消息を知りおり候。小生は伝説の小篇あまり早く計画を人に漏らせしため、この夏ごろまでに公表せねば一分立たず、しかも材料はあとからもあとからも出て来るので幾度となく稿を改め、今なお長者栄華第七の辺にあり。それに本務がはなはだしく煩劇なるより、疲労と負懊悩とのために不眠症を起こし、これを医するために折々田舎を旅行する故、時間の不足はなはだしくついつい手紙をかくこと能わず候いき。申し上げたきことはなはだ多けれども一々思い出し得ず。さしあたりの分より追い追い申し上げ候。

[やぶちゃん注:「伝説の小篇」「選集」の注を参考にすると、柳田が「伝説十七種」と呼称していた考証物を指す。後にその内の部分が結実したのが、刊本「山島(さんとう)民譚集」(初版は大正三(一九一四)年七月に甲寅(こういん)叢書刊行会から「甲寅叢書」第三冊として甲寅叢書刊行所から発行された)である。この刊本は日本の民譚(民話)資料集で、特に、河童が馬を水中に引き込む話柄である「河童駒引(かっぱこまびき)」伝承と、馬の蹄(ひづめ)の跡があるとされる岩石に纏わる「馬蹄石(ばていせき)」伝承の二つを大きな柱としたものである。私はブログ・カテゴリ「柳田國男」で、同書の再版版(正字正仮名)の昭和一七(一九三二)年創元社刊(「日本文化名著選」第二輯第十五)を国立国会図書館デジタルコレクションの画像で起こして全八十九分割で電子化注を終えている。

「長者栄華第七」これは柳田没後、かなりたった昭和四四(一九六九)年に刊行された平凡社東洋文庫の「増訂 山島民譚集」に収録された生前未発表の「副本原稿」と呼ばれるものので、巻頭に「第七 長者栄華」と標題して出る。現在、「ちくま文庫」版の第五巻に東洋文庫底本で「山島民譚集㈢(副本原稿)」として収録されてある。なお、同巻の「山島民譚集㈡(初案草稿)」も加えて見ると、「十七」の内、「十四」までが載るが、「第八」は『欠』とあり、第十五から第十七までは稿自体がもともと存在しなかったようである。そのテーマは、まさに柳田國男の南方熊楠宛書簡の明治四十四年十月一日附に記されてあった。それを並べると(丸括弧の中の『 』は柳田の添え書き)、「川童駒引」・「神馬の蹄」(以上二種は刊本「山島民譚集」相当)・「ダイダ法師」「姥神」(『山姥のことなど』)・「榎の杖」(『杖をさして樹木生長することなど』)・「八百比丘尼」「長者栄花」・「長者没落」・「朝日夕日」「金の鶏」「隠れ里」「椀貸」「打出小槌」・「手紙の使」(『鬼より手紙を托せられたるに、その中に自分を殺せとかきてありし話など』)・「石誕生」・「石生長」・「硯の水」が挙げられている。この内、下線を附したものが、「山島民譚集㈡(初案草稿)」に載るもの、下線太字が「山島民譚集㈢(副本原稿)」]に載っている相同かごく相似の標題物である。「長者没落」は、「ちくま文庫」版が『欠』とする箇所と一致するが、しかし「朝日夕日」の冒頭は「長者塚」で、それとなく、「長者没落」の草稿が嘗つてはあったことを匂わせている。全く見当たらないのは最後の四つである。但し、柳田は南方が明治四十四年十月六日附の柳田宛の書簡で「手紙の使い」よりは「己が命の早使い」の方がよいのではないかと書いており、柳田はこの言を入れて、「己が命の早使ひ」と改めて、同年十二月発行の『新小説』で「己が命の早使ひ」として発表している(次の段落も参照)。当該論考、というよりはごく短い随筆は「万葉文庫」の「定本柳田國男集」の第四巻で読める。

なお、この「伝説十七種」というのは、明治四三(一九一〇)年十二月『太陽』発表の「伝説の系統及の分類」に於ける十三種の分類を発展させたもので、そこでは「一 長者伝説」・「二 糠塚伝説」・「三 朝日夕日伝説」・「四 金雞伝説」・「五 隠里伝説」・「六 椀貸伝説」・「七 生石伝説」・「八 姥神伝説」・「九 八百比丘尼伝説」・「一〇 三女神伝説」・「一一 巨人伝説」・「一二 ダイダラ法師伝説」・「一三 神馬伝説」・「一四 池月磨墨伝説」・「一五 川童馬引伝説」を掲げている。同論考は「万葉文庫」の「定本柳田國男集」第五巻で読める。]

 十三仏のことにつきては、かの後きわめてわずか日本のことを調べ候のみに候ところ、宋代の『大阿弥陀経』に十三仏名ありときき便を得申し候。十三塚などの十三の数は一加[やぶちゃん注:「くわえ」。]十二なるべきこと、先に『石神問答』中に仮定せし後、追い追いにその証を得申し候。大学出板の『史料』第四編(源平時代)各巻に当時各種の修法壇のプラン出でおり候が、いずれの法にも必ず障礙[やぶちゃん注:「しょうがい」。障碍・障害に同じ。]調伏のためとおぼしく十二天壇と聖天壇とを相接して設け有之候。十三塚は必ずこれと因あるべく存ぜられ候。聖天塚または十二大塚と申す塚も有之候。益軒翁の十三仏説は十三度の忌日に地獄の十王または地蔵を配せし十三仏妙の説より思いつきし説ならんも、十三塚の中にて一塚が特に大なる理由はこの説にては解くこと能わず候。鳥居竜蔵君が実見せし外蒙古各地の十三塚にも必ず右の大将塚有之候よしに候。日本にても早くよりこれを十三仏に托して十三坊とも申し、あるいは十三仏塚と申す所も有之。あるいは班足王十三人の子を殺して十三塚というとの説も古くより有之。蒙古のもまた十三人の兄弟なりとも釈迦と十二弟子とも申す由に候。この問題だけは発見も小生、解決も小生引き受け、何とぞしてこの東方文明の聯鎖点を明白に致したく、しきりに材料をあつめおり候。近きうち『考古学会雑誌』に第三回目の報告をするつもりに候。先年横浜の外人、かの附近の十三塚を発掘せしことあり、一物も出土せざりし由に候。

[やぶちゃん注:「宋代の『大阿弥陀経』に十三仏名あり」近日公開の「續南方隨筆」の「十三人塚の事」に羅列される。

鳥居龍蔵」(明治三(一八七〇)年~昭和二八(一九五三)年)は人類学者・考古学者・民族学者・民俗学者。小学校中退後、独学で学び、東京帝国大学の坪井正五郎に認められ,同大人類学教室の標本整理係となった。後、東大助教授・國學院大學教授・上智大学教授などを歴任、昭和一四(一九三九)年から敗戦後の昭和二六(一九五一)年には燕京大学(現北京大学)客員教授(ハーバード大学と燕京大学の共同設立による独立機関「ハーバード燕京研究所」の招聘であったが、昭和一六(一九四一)年の太平洋戦争勃発によってハーバード燕京研究所は閉鎖されてしまい、戦中の四年間は北京で不自由な状態に置かれた。日本敗戦により研究再開)として北京で研究を続けた。日本内地を始め、海外の諸民族を精力的に調査、周辺諸民族の実態調査の先駆者として、その足跡は台湾・北千島・樺太・蒙古・満州・東シベリア・朝鮮・中国西南部など、広範囲に及んだ。考古学的調査の他にも民族学的方面での観察も怠らず、民具の収集も行ない、北東アジア諸民族の本格的な物質文化研究の開拓者となった。また、それらの調査を背景に日本民族形成論を展開した。鳥居の学説の多くは、現在ではそのままの形では支持できないものが多いが、示唆や刺激に富むものが少なく、後世に大きな影響を与えた研究者である。

「近きうち『考古学会雑誌』に第三回目の報告をするつもり」底本の編者注記に、『大正二年一月『考古学雑誌』三巻五号に、「十三塚の分布及其伝説」を発表している。』とある。「私設万葉文庫」の「定本柳田國男集」第十二巻で電子化されてある。(485)ページで検索されたい。]

「命の早使」は十七篇中最も材料の少なき部分に候。かの題名はせっかく頂戴したれども、いろいろ考え候えばかの点は要素にあらずと考え申し候。二カ所の神霊が通信をするに人間を使役せりという点が根本にて、命を取れと書き込みたりというは後年の附加らしく候が、御見込み如何にや。しかりとすれば、この章名は当たらず候。むしろ「橋姫」と題せんか「謡坂(うたうさか)」とせんかなど思いおり候。御見当りの箇条はやはり一切経中にあるにや。一切経は手近にいずれの板も有之候につき、単に経名巻数標目のみにてもぜひ御聞かせ下されたく候。もっとも今回の書物にはせっかく神足石などにつきて国外の類例たくさん御示し下され候えども、他の部門には一言も外国との比較のできぬものあり、本の趣旨も国内の所有伝説を蒐集するにある故、各章の権衡上これを列載する能わず候も、御話のごとくば系統の解説上必ず多少の便宜を得べく存じ申し候。

[やぶちゃん注:「今回の書物」先に注した「伝説十七種」の仮構想の本を指す。

「権衡」(けんこう)は「均衡」に同じ。]

 このついでに伺いたきこと三条あり、御存じならば御示教下されたく候。

 その一は二又(ふたまた)の木または竹をもって霊異とすることに候。諸寺の什宝に二又竹多し。杖化成木伝説にも二又の木のことあり。絵巻などに見ゆる昔の人の杖は

Hutamata1

かかるもの多く、単に滑らぬ用心と思われず候。昨年下野茂木町辺にて岐路頭に立てたる犬頭観世音の塔婆、すなわち犬の死にたるを供養する木標のこと、前にも申し上げしが、

Hutamata2

かかる形に有之。奥羽山中に漂泊する一種の山民にてマタギ、又木、权とも書くもの有之。この者とは関係なきかと想像いたし候。

[やぶちゃん注:画像は底本から画像で取り込み、トリミング補正した。

「杖化成木伝説」「じょうかせいぼくでんせつ」。地面に突き刺した人工的に木材を加工した杖に、根が生え、一本の成樹となったとする類型伝説譚を指す。

「下野茂木町」(しもつけもてぎまち)現在の栃木県芳賀(はが)郡茂木町(もてぎまち)茂木

「岐路頭」読みが不明だが、「きのろとう」(分岐路の路頭)と読んでおく。

「犬頭観世音」(「いぬがしらかんぜおん」或いは「けんとうかんぜおん」)「の塔婆、すなわち犬の死にたるを供養する木標」最後は「もくひょう」或いは「きしるべ」。これ、甚だ興味があるのだが、現存しないようだ。残念!]

 第二には卍のことに候。この象を万の義とするは何に始まり候や、御承知にや。仏教には限らざるよう存じ申し候。これをマンジというは万字なりとの説あれど疑わしく候。小生はもしや蠱などのマジと関係あるにあらずやと考え候が御説奈何。

[やぶちゃん注:「卍」仏の胸や手足などに表される徳の象徴。「万字」とも書く。左万字(「卍」)右万字(「卍」の右に旋回した反転形)とがあるが、現今の本邦では左万字が圧倒的に多く用いられているが、インドの彫刻の古いものには右万字のものが多く、寧ろ、その方が元来は正しかったと言うべきかも知れないが、中国や本邦ではその区別はない。サンスクリット語でスバスティカ或いはシュリーバッツアといい、「吉祥喜旋」(きちじょうきせん)「吉祥海雲」とも訳す。インドの神ビシュヌの胸にある旋毛が起源ともされるが、実際は、もっと古く、偉大な人物の特徴を示すものだったらしく、瑞兆或いは吉祥を示す徳の集まりを意味するように変化したものである。本邦では地図を始め、仏教や寺院を示す記号・紋章・標識として一般に用いられている。なお、右万字は十字架の一種として、世界各地で古代から用いられたが、その起源に関しては異説が多い(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「象」「かたち」。

「蠱」音で「コ」であるが、ここは「まじ」「まじもの」「まじくり」と訓じているかも知れない。元は道教系の呪術(黒魔術)を指すが、ここは広義の咒(まじな)いの意。]

 第三には鍬をもって舞踏する風は、シャマンに限られたることに候や。たとえばアイノの鍬先のごときも、かの辺に根原をもつものなるべくや。近代の鍬神のことは『石神問答』にも書き候が『備中話』という書に、吉備郡(旧下道郡)上原村に上原相人(そうにん)という巫覡の一部落住す。近村の民家に頼まれて狐憑きを落とす祈禱をなす。二、三人打ちより、弓弦をならし鼓を打ち主人の悪事を歌にうたい罵る故、ザンゲ祈禱という。舞終わりての後鍬先を火にやきて赤くし、その上に抹香を載せて薫じ病室をふすべあるく行事有之。一異聞に候。アイノの鍬先は図を見るに、甲[やぶちゃん注:「かぶと」。]の鍬形のごとく流蘇を附すべき穴多くあり、手に持ちて振りまわすために造れるものなり。アイヌの中に山丹産の什器多きことは申すまでもなく候わんも、この物彼より輸せりということを聞かず候。

[やぶちゃん注:「シャマン」シャーマン。呪術師。

「アイノの鍬先」「アイノ」は「アイヌ」に同じ。「鍬先」は「くわさき」だが、鍬の先の意ではなく、昔の兜(かぶと)の頂に当人の標識として附けた鍬形に似た宝具の一種。The Sumitomo Foundationのページのこちらに写真がある。そこに『金属製品で、アイヌ社会では上位に位置づけられる宝物である。新井白石の「蝦夷志」や蛎崎波響の画像にも描かれている』。『土中に保管されることが多かったと考えられ、現在までに二十余例の発見が認められているものの、その多くは現状を留めていない』とある。

「備中話」全十三冊の備中の未完の地誌。著者は江戸後期の備中松山藩の漢学者・漢詩人のであった奥田楽山(安永六(一七七七)年~万延元(一八六〇)年)。彼は藩校有終館の学頭を務め、火災で廃校の危機にあった有終館を再建・復興させ、晩年は自宅の「莫過詩屋」に「五愛楼」と称する書斎を新築し、風流をもって自ら楽しんだという。

「吉備郡(旧下道郡)上原村」下道郡は「しもつみちのこおり」或いは「かとうぐん」と読んだ古代からあった旧郡。現在の総社(そうじゃ)市富原(とんばら)。

「上原相人」(そうにん)というのは、古くは人相見を指す語であるか、ここでは広く民間祈禱を行う呪術集団を指している。「大谷大学学術情報リポジトリ」のこちらからダウン・ロード出来る豊島修氏の同大学の学会研究発表会要旨「民間陰陽師の宗教活動」(『大谷学会大谷學報』第六十巻第四号・一九八一年一月発行)に、『備中地方(現・岡山県)には「平川ヤンブシ(山伏)・湯野タユウ(太夫)」という伝承があるように、古くから修験山伏や陰陽師太夫等の民間宗教者の活動が盛んであった。すでに『備中町誌』(民俗編)には、このような民間宗教者として巫女、サオ(社男)、法者、コンガラ、カンバラ、山伏等をあげ、かれらの多くが激しく祟りやすい一面をもつ荒神・ミサキを管理する一方、病気の祈禱や憑きもの落し、家相等の祈禱活動をおこなっていたことを指摘している。とりわけ備中南部、備前を中心に瀬戸内沿岸を信仰圈とするカンバラ太夫と称呼された陰陽師博士の宗教活動には注目すべきことが多い。この陰陽師博士は近世から近代にかけて、下道郡上原村枝富原(現・総社市富原)を根拠として、主に病気の旧悪を懺悔する祈禱をおこない、それをカンバラ祈禱と別称されて、この地方庶民の精神生活や社会生活に影響をあたえてきたのである』とあり、以下、この『総社市富原の陰陽師について』のより細かな解説が続く。そこに『近世には富原が備中地方の一大陰陽師村であったこと、それは土御門家配下の一派で、祈禱または狐付け落しを専業としていたことが知られる。また『吉備之志多道』(下道郡之部)にも「下原村の北に上原村と云あり。此所陰陽師一邑をなす。土人上原相人と称す。(中略)俗に云ふ妖巫の類なり。(中略)病気の旧悪を懺悔する事也。」云々とあるように、「上眠相人」と称する妖巫の類で、祈禱すなわち病気の旧悪を懺悔する「懺悔祈禱」をおこなっていたことがわかる。したがって富原の陰陽師を別称カンバラ相人(太夫)といわれたのは、一つに上原村に居住する相人という地名から呼称されたと考えられるが』、『この陰陽師太夫の祈禱作法によって「神祓い」をおこなう呪法から』こうした呼称がなされたのであろうと述べられ、さらには、『確証はないが』と断りをお入れになった上で、かの安倍晴明との血脈が、この地に伝えられたとする伝承も記されてある。

「山丹」「さんたん」と読む。ウィキの「山丹交易」に、『江戸時代に来航した山丹人(山旦・山靼とも書く。主にウリチ族や大陸ニヴフなど』の『黒竜江(露名:アムール川)下流の民族)からの中国本土や清朝の産品が、主として蝦夷地の樺太(露名:サハリン)や宗谷のアイヌを仲介し松前藩にもたらされた交易をさす。広義には黒竜江下流域に清朝が設けた役所と山丹人を含む周辺民族との朝貢交易から、松前藩と樺太北東部のウィルタなどのオロッコ交易も含む』とある。]

 秈[やぶちゃん注:「うるち」。]すなわち赤米、大唐米[やぶちゃん注:「だいとうまい」。]をトウボシということ、前にも申し上げ候が、関東の地名にトウボシ田という地名多く候。この物薄地(やせち)に生じ易く農民もこれを賤しみて、この辺には食する者を知らず。何故にこの名ありや不審に堪えざりしには一解を得申し候。上総茂原在の上永吉という地に行き候時その旧記を見るに、村開発の当時慶長前後にや三河辺より土坊師と称する一種の人民、土方体[やぶちゃん注:「どかたてい」。]の賤しき者三百人ほど一団体をなしてこの村に来たり、村居より丘一つ北なる谷に住む。この者山側を穿ちて窟居し、畑を作るとて遺址多く存せり。この土坊師はトウボシにて、流作場などの人の棄てて顧みぬ地に右の赤米を作りて生活せし故に、かの米をトウボシと申せしにはあらず候か。もちろん数多の旁証を得ざれば断定は下さず候も試みに申し上げ置き候。何かこれに関係あること御聞きなされ候わば御報下さるべく候。上総の東海浜には別にエンゾッホなどいう一種の居所不定の部落あり。この地方普通の崖地などに小屋をつくり、乞食はせず、冬も赤裸にて水に入り魚など取り候よしに候。

[やぶちゃん注:太字は底本では、傍点「﹅」。

「秈」(とうぼし)「赤米」「大唐米」「トウボシ」これは「占城稲」(せんじょうとう/チャンパとう)とも呼ぶ。ウィキの「占城稲」によれば、『チャンパ王国』(一九二年から一八三二年まで。現在のベトナムの南中部にあった。元は漢帝国の南端(日南(にちなん)郡象林(しょうりん)県)であったが、現地官吏の子の区連(くれん/おうれん)によって独立を果たした)『を原産地とする収穫量の多い早稲』(わせ)『で、小粒で細長だが』、『虫害や日照りに強く、痩せた土地や』、『あまり耕起していない水田でも良く育つ品種の稲である。「占城(チャンパ)米」の呼称で知られ、宋代の中国で盛んに栽培された』。『中国における「占城稲」』は、「唐会要」(「会要」中国の史書群「二十四史」の「志」や「表」の不足を補うもので、一つの王朝の国家制度・歴史地理・風俗民情を収録した補助歴史書の一種。中国史上で最初に編纂されたが、後周・北宋の官僚王溥(おうふ 九二二年~九八二年)が編纂した本書(九六一年完成)が最古のもの)『に「以二月為歳首。稻歳再熟」とあり、唐代にはチャンパに早稲があることは知られていた。北宋時代には既に現在の福建省でわずかながら栽培されていた』。一〇一二年には『当時の真宗の命により江南地方へ移植され、後に現地種との交配も進められた。長雨に弱い反面』、『旱害に強く、手間があまり掛からずに短期間で収穫可能な占城稲の普及は、江南以南の地域における二毛作や二期作が進展する一助となり、農業生産を増加させた。この種が普及したため、長江下流の江浙地方が米作の中心地となった』。『日本では、大唐米(だいとうまい)』(☜)・『太米(たいまい)・秈(とうぼし)』(☜)『などとも呼ばれている。遅くても鎌倉時代までには日本に伝えられた。収穫量は多く』、『落穂しやすく脱穀が楽な反面、強風や長雨で傷みやすく、粘り気も少なく』、『味も淡白であった』。『それでも室町時代には降水量の少ない瀬戸内海沿岸をはじめとして西国を中心に広まり、農家の生活水準の上昇につながった。その一方で、領主や消費者である都市民には評価は高くなく、領主の中には大唐米による納付の場合の納税額を他の納付方法よりも引き上げたりすることもあった。江戸時代には「赤米」』(☜)『と呼ばれて下等品扱いされ、小野蘭山』述の「重修本草綱目啓蒙」では『「最下品ニシテ賎民ノ食ナリ」と評された』。最後の部分は、国立国会図書館デジタルコレクションの「重修本草綱目啓蒙」(同書の第三版で梯南洋(生没年未詳)の校訂・出版で、南洋による増補が各所にあり、中には有用な記事も少なくないが、蘭山の孫で後継者であった小野職孝(もとたか)に無断で出版したものであった。以上はサイド・パネルの「解題/抄録」にある磯野直秀先生のそれに拠った)三十五巻本の巻之十七のこちらで視認出来る。他の二版を見たところ、当該記述はなかったので、この部分はまさに南洋の追記したものと思われる。

「関東の地名にトウボシ田という地名多く候」後の大正三(一九一四)年七月発行の『郷土研究』に柳田國男が発表した短い記事「大唐田又は唐干田と云ふ地名」(前者は「だいたうだ(だいとうだ)」、後者は「たふぼしだ(とうぼしだ)」)があり、その例を列挙するが、冒頭から、関東が四つ出る。以下である。【 】の数字は私が打った。

常陸眞壁郡太田村大字野殿唐米(たうぼし)【1】

下總千葉郡千城村大字小倉唐籾(たうぼし)【2】

上總市原郡五井町大字平田當干田(たうぼした)【3】

安房安房郡曾呂村大字上野唐穗種田(たうぼしゆだ)【4】

 

【1】は現在の茨城県筑西市野殿(のどの)、【2】は現在の千葉市若葉区小倉町(おぐらちょう)附近、【3】は現在の千葉県市原市平田附近、【4】は現在の千葉県鴨川市西のこの附近。「曾呂」は「そろ」と読む。総て「今昔マップ」で最も古い地図を確認したが、孰れも字名のそれは確認出来なかった。なお、柳田の記事全体は「私設万葉文庫」のこちらの「定本柳田國男集」第二十巻で正字正仮名版が読める。ページ・ナンバー(217)で検索されたい。

「上総茂原在の上永吉という地」現在の千葉県茂原(もばら)市上永吉(かみながよし)。

「慶長前後」慶長は一五九六年から一六一五年まで。言わずもがなであるが、安土桃山時代と江戸時代を跨いでいる。

土坊師」「トウボシ」ネット検索では、掛かってこないので、如何なる集団か不詳。

「村居より丘一つ北なる谷に住む」上永吉のグーグル・マップ・データ航空写真を見るに、この北の丘陵の谷らしいが、柳田の言う「遺址多く存せり」は現存しない模様である。

「流作場」「ながれさくば」或いは「りゅうさくば」で、江戸時代の田の種類の一つ。河川又は湖沼の氾濫により、水害を受けやすい場所にある田地。石盛(こくもり)は下田(げでん:地味の痩せた下級の田地)より低いのを通例とした。

「上総の東海浜」この海浜辺り

「エンゾッホなどいう一種の居所不定の部落あり」不詳。]

 このごろ英国より Sayce と申す老人来遊しあり、バビロニヤ、アッシリヤのことを専門とせる学者のよし。御聞き及びなされ候人物にや。古き辞書などにも名前見えおる人ゆえ、無下につまらぬ人にもあるまじく存じ、近日中佐伯好郎氏(ネストリヤン・モニュメント・オブ・シンガンを研究し著書を公けにせし人なり)の通訳にて会見するつもりに候。チゴイネル原住地につき何か研究せしことありやを聞き、兼ねて日本の漂泊人種のことを話すつもりに候。

[やぶちゃん注:「Sayce」イギリスの東洋学者、言語学者アーチボルド・ヘンリー・セイス(Archibald Henry Sayce 一八四五年~一九三三年)。アッシリア学の代表的な研究者として知られ、またアナトリア象形文字解読の草分けであった。詳しくは参照した当該ウィキを見られたい。なお、この書簡当時で六十七歳。

「佐伯好郎氏(ネストリヤン・モニュメント・オブ・シンガンを研究し著書を公けにせし人なり)」言語学者・英語学者・西洋古典学者・ローマ法学者・東洋学者・東洋宗教史家の佐伯好郎(よしろう 明治四(一八七一)年~昭和四〇(一九六五)年。広島生まれ。当該ウィキによれば、キリスト者で英名をPeter Saeki と称し、『言語学・法学・歴史学など複数分野にまたがる西洋古典学の研究・教育で大きな業績を残したが、特に』中国の『ネストリウス派キリスト教(景教)の東伝史に関する研究で国際的に有名になり』、『「景教博士」と称された。また日本人とユダヤ人が同祖であるとする』例の「日ユ同祖論」の『最初期の論者としても知られ、独自の歴史観を唱えた。戦後は故郷』の『廿日市の町長を務めるなど、戦災や原爆で荒廃した広島県の再建に尽くした』とある。「ネストリヤン・モニュメント・オブ・シンガン」は“Nestorian monument of Singan”か。“Singan”「中国中部の都市」を意味する。]

「狂言記」は徳川初世より新しきなきものなかるべしといえども、因幡堂の鬼瓦はこれによりて近世までも人のよく知れることなれば、その記事あるをもって屛風の古き証拠になす能わずと存じ候。

[やぶちゃん注:以上は先行する明治四十五年二月十一日午後二時発信の南方熊楠書簡に対する見解。これはその前の明治四十五年二月九日附の柳田書簡で、南方が、かの「オコゼ屛風」に『因幡堂鬼瓦の文句があるをもって同文を足利末ころという推測』をしたことに対して反論したもので、柳田が狂言「鬼瓦」は徳川氏の世に成ったもので、それ以前に遡れないと言ったことへの明証を求めたことへの再反論である。

「狂言記」は江戸時代に刊行された能狂言の台本集。万治三(一六六〇)年刊の「狂言記」、元祿一三(一七〇〇)年刊の「続狂言記」「狂言記外五十番」、享保一五(一七三〇)年刊の「狂言記拾遺」(いずれも初版)を総称したもの。絵入りで各集五冊五十番から成る。種々の異版が刊行され、読本として流布した。群小諸派の台本を集めたものらしく、内容も一様でない(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。

「因幡堂の鬼瓦」京都市下京区因幡堂町(いなばどうちょう)にある真言宗福聚山平等寺(びょうどうじ)。「因幡堂」「因幡薬師」の名で親しまれている。ここ。狂言「鬼瓦」の舞台としても知られる。但し、同寺の鬼瓦は鬼形(きぎょう)の形象は全くないらしい。Tappy氏のブログ「自社巡礼.com」の「【因幡薬師】日本三如来に数えられる、がん封じのお薬師さま(因幡堂)」の、本堂前に置かれた鬼瓦の写真とその画像の中の解説を見られたい。これは『「南方隨筆」版 南方熊楠「俗傳」パート/山神「オコゼ」魚を好むと云ふ事』でも言及している。]

 

  南方熊楠から柳田国男ヘ

       明治四十五年三月十一日夜九時

 御状拝見。因幡堂は土宜法竜師より寺僧に聞きくれしに、書上(かきあげ)を寺僧よりよこす。火事のため今は瓦なく、また瓦ありし伝もなしとのこと。小山源治氏もみずから寺に就いて聞きくれしに、その通りの返事なり。因幡堂に大なる鬼瓦ありしという記録、記事が徳川氏の世にできし書に有之(これあり)候や、御尋ね申し上げ候。狂言はいつのものか知れず、しかし、その内に大坂とか江戸とか駿府とかいうこと少しもなきより見れば、多くは徳川氏前のものと存ぜられ候。狼を山の神とするらしきことは他にも少々聞くことあり。そのうち人類学会へ出すべし。山の神オコゼを好むことも、小生は徳川氏前に記したるものあるを見ず候。土俗上必要のことにして、徳川氏前の書に一向見えぬことはこの外に多し。マルコ・ポロの支那記行に、文那人が豕(ぶた)を食うことを少しもいわぬごとく、われわれ西洋に久しくおったが、かの土でありふれたことは直(じき)に珍しくなくなり、日記に付けぬごとし。

[やぶちゃん注:「小山源治」不詳。同姓同名で、京都博物会会員で、新種の蝶を発見した人物がいるが、その人かどうかは判らない。]

 御尋問のトウボシは、小生は唐のホシイイということと存じ候。軍旅盛んなりし世にはホシイイ大切なりしゆえ多く用い、したがってかかる名もできしと存じ候。禾本科の牧草(雑草grass)にはトボシガラ、またそれに準じて大(おお)トボシガラという草も有之候(松村氏『改正増補植物名葉』一二四頁)。

[やぶちゃん注:「トボシガラ」単子葉植物綱イネ科ウシノケグサ属トボシガラ Festuca parvigluma当該ウィキによれば、『イネ科の軟弱な植物。長い芒のある小穂を長い柄の先にぶら下げ』、『全体にひょろりとした多年草。穂がないときは全く目につかない』とあり、『細い根茎があって地下を這い、茎は束になって生じる。花穂を含めて高さ』は三十~六十センチメートルで、『葉は根元から茎の途中の節につき、長さ』十~二十五センチメートル、『ざらつかず、深い緑色で光沢がある。葉鞘も葉の表と同じような質感』である。『花は』五~六『月に、茎の先端から出て、円錐花序をなす。花序の主軸は』八~十五センチメートルで、『数個の節があって、それぞれの節からは花序の枝が』一『本ずつ出るが、これが花序全体と同じくらいに長い。花序の主軸と枝は先が細くなって、そこにまばらに小穂をつける。小穂はその枝に寄り添う。花序全体としては、枝はやや主軸に沿うようにして、全体として先端が垂れるが、開花期には枝はやや広がる』。『小穂は緑色で』三つから五つの『花を含む。包穎はごく小さく、護穎は』五~六ミリメートル『あって、これがほぼ小穂の大きさにあたる。その先端からは』六~九ミリメートルの『細い芒が伸びる。内穎は護穎とほぼ同じ長さ』。『名前の由来は唐帽子殻で、古い時代の米の品種である唐帽子(とぼし)に似ていたためと』いう説と、『点灯茎』或いは『点火茎の意』とする説がある、とあって、『牧野は後者を採用しているが、その名の意味やその発祥については不明と述べている』と記す。

「大(おお)トボシガラ」ウシノケグサ属オオトボシガラ  Festuca extremiorientalis 。山地の林に植生し、葉は幅が五~十二ミリメートルで扁平、花序は長さ二十~三十センチメートル。トボシガラとともに食用にはならないようである。]

 鬼の手紙のうちのインシデント、己が命の早使いに似たことは、デンマルク語にて長き物語なり。小生走りがきに扣(ひか)えおけるが、デンマルク語はわずかに植物の記載を読み得るまでにて十分に読み得ず、字書を和歌山におきたるゆえなり。かつ貴著に用事少なき標子ゆえ、他日字書を取り寄せ悉皆読み訳し見ん。ちょっと摘要というわけに行かぬ、こみ入った長話なり。

[やぶちゃん注:「己が命の早使いに似たことは、デンマルク語にて長き物語」不詳。後の書簡にもない模様。]

 十三仏は、五仏、七菩薩、一明王の混淆なり。これを仏と称すること、いかにも俗人より出しことと存じ候。田舎には、今も紀州で、仏、菩薩、明王、諸天をカンカハン(神様(かみさま))などいうに同じ。なお障礙神法しらべ申し上ぐべく候。

  他のことはそのうちまた申し上ぐべく候。
  卍を万とよむは、インドにてこの印をマ
  ンとよむと覚え候。決して日本のことに
  あらず。賛斯の諸仏みな紋あり、これは
  釈迦仏の紋章に候。鍬形のこと、所考あ
  り、次回に申し上ぐべく候。

[やぶちゃん注:「五仏」真言密教の両部曼陀羅の法身大日如来と、如来から生じた、これを取り巻く四仏。金剛界と胎蔵界の五仏があるが、実は同体とする。金剛界では、大日(中央)・阿閦(あしゅく)(東)・宝生(南)・阿彌陀(西)・不空成就(北)をいい、胎蔵界では大日(中央)・宝幢(ほうどう)(東)・開敷華王(かいふげおう)(南)・阿彌陀(西)・天鼓雷音(北)を指す。なお、他に、阿彌陀仏を中心に観音・勢至・地蔵・龍樹の四菩薩を配した五尊のこともかく称する。

「七菩薩」七観音のことであろう。衆生を救済するために、姿を七種に変える観音。則ち、千手・馬頭・十一面・聖(しょう)・如意輪・準胝(じゅんてい(でい))・不空羂索(ふくうけんさく(じゃく))の各観音を指す。

「一明王」どの明王(みょうおう)を指すか不明。まあ、メジャーなのは不動明王だが、判らぬ。当該ウィキに主な明王に一覧がある。

「障礙神法」災厄防止の祈禱・咒(まじな)いの類。

「賛斯の」「賛斯」の読み不明。こんな熟語は見たことがない。音なら「サンシ」。「かく、さんするところ」の謂いか。]

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