「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 始動 / 画像解説・編者小記(岡書院編集者)・鳥が人に生れし話
[やぶちゃん注:本電子化注は、既にブログ・カテゴリ「南方熊楠」他(サイト「鬼火」の「心朽窩旧館」PDF縦書一括版)で完遂した正規表現版オリジナル注附「南方隨筆」に続けて始動する。
「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。
底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。画像もそこからトリミングした(その都度、引用元を示す)。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした(但し、最後の「鷲石考」は同サイトの同全集の別な巻にある。それは当該論考の頭注で指示する)。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。
なお私は、本書に含まれる、
を古くに電子化しているが、以上の標題表記をご覧になれば判る通り、平凡社「選集」その他の新字新仮名版に拠っている。今回は正規表現版として零から始める。]
南 方 熊 楠 著
續南方隨筆
岡 書 院 版
[やぶちゃん注:扉。この「南方隨筆」の部分は、筆跡が先行する第一篇と全く同じである。而して第一篇の編者であった中山太郎氏の「編者序」の中で、『一、本書の題簽に就ては、岡書院主と額を鳩めて種々相談して見たが名案が浮ばぬので、是非なく弘法大師の筆蹟から蒐めて是れに充てた。これは南方氏が代々眞言宗の信徒であつて、且つ故高野山座主土宜法龍師とは倫敦以來の飮み仲間でもあり、それに氏の發見せる粘菌の多數は高野山で獲られたものと聞いてゐるので、それやこれやで斯う極めたのである。恐らく此の題簽だけは六つかしやの南方氏も岡氏と私の苦心を買つてくれることだらうと信じてゐる。更に裝幀に就ては全く岡書院主が南方式の氣分を出したいと瘦せるほど苦心をされたのである。これも南方氏が我が意を得たものとて悅んでくれる事だらう。』とあるので、この「隨」も空海の遺墨から選んだものと考えてよかろう。因みに、下に捺されてあるのは、「内務省交付本」であることを示す印である。国立国会図書館の「リサーチ・ナビ」のこちらによれば、明治八(一八七五)年に、『納本事務を文部省から内務省へ移管する旨の太政官布告が発布されて以来』、昭和二〇(一九四五)年の敗戦まで、『国内で出版された図書は内務省へ』納本する義務があった。その『内務省に納本された図書の一部は、帝国図書館に移管され、帝国図書館の蔵書となり』、『それらの図書を、内務省交付本』略して「内交本」と呼んだのである。『帝国図書館で押された受入登録印に、「内務省交付」略して「内交」の文字が見られるものがあ』るとある、それである。こちらのページの「横長の楕円印:1904(明治37)年ごろ~」というのが(写真有り)、ここに捺されたタイプのものである。]
此写真は明治三十五年春末五月頃トリシ者
和歌山市ニテ
南方熊楠
[やぶちゃん注:扉の次の次のページの、この後に掲げられる写真に対するキャプション。但し、疑義があるので、次の写真に附した私の注を参照されたい。]
[やぶちゃん注:南方熊楠の肖像写真。後の目次には「著者肖像」とある。但し、所持する中瀬喜陽・長谷川興蔵編「南方熊楠アルバム」(一九八〇年八坂書房刊)を調べてみると、これは同書の七十八ページに掲げられてある、明治三六(一九〇三)年に、熊楠が、姪や甥(孰れも少年少女で、亡き兄藤吉の長女楠枝・弟常楠の長女すみ・長男常太郎・姉の垣内くまの次女くら)四名を前に並べて一緒に撮影した(恐らくは写真館)ものから、熊楠の部分だけをトリミングし、映っている真ん前の二人の子を除去して補正したものと判明した。その結果として、全体に暗くなっており、原写真は遙かに明るい。而してこの「南方熊楠アルバム」のキャプションが正しいとすれば、以上の「三十五」は熊楠の勘違いとなる。当時、熊楠は数え三十七であった。]
編 者 小 記
今春南方隨筆を上梓して、江湖多年の翹望に副ふことを得ましたが、今又續篇として、貴重なる諸論稿を輯し終へて。再び大方の髙覽を仰ぐことになりました。正篇出版の際は、匇率、編輯上種々手違ひを生じ、遺憾の點が少くはありませんでしたが、本書に於ては、萬遺漏なきを期し、編輯方針、その他に就き、すべて南方先生の御指示に從つたのであります。特に記さなければなりませんのは、先生は御多忙中にも拘はらず、自ら舊稿を校訂し、且つその後の新材料及び新所見を加筆せられ、更に本邦にては未刊行の英文「燕石考」中より「鷲石考」を自身復譯せられるの勞をとられたことでありまして、編者の望外の歡とするところであります。先生の著作は本書に盡くるものでありません故、今後續々上梓して、集大成を期さうとして居る次第であります。
岡 書 院
大正十五年十月
編 者
[やぶちゃん注:岡書院の本書の編集者の附記。正篇の時は編者が柳田國男の弟子の中山太郎であったが、好き勝手に、あることないことを書いた跋文などで熊楠や柳田の怒りを買ったからであろう、外されている。
「翹望」(げうばう(ぎょうぼう)の「翹」は「挙げる」の意で、首を長く伸ばして待ち望むこと。その到来を強く望み待つこと。
「匇率」「そうそつ」と読んでおく。「概ね忙しさにかまけてしまった結果」の意か。
以下、「目次」となるが、それは本電子化が終わった後に添える。]
續 南 方 隨 筆
鳥が人に生れし話 (明治四十五年二月考古學雜誌第二卷第六號)
考古學雜誌第二卷第三號一一〇頁に今泉君明人の獪園六を引て
雉兄堵在半塘寺、傳、是晉朝生道人處邱說法、
野雉來聽、明日誕生、爲城東坊氏兒、雉肋下有
雉翼尙存、兒後出家半塘寺、化之日、寺僧造石
幢、葬之。因名雉兒塔焉。
按ずるに、之に似たる譚本邦にも有り。碧山日錄卷一、長祿三年二月二十四日、昨日、問同書記曰云々、又說前面池水之勝景、之次、同曰、(正覺)國師在濃之虎溪時、有鴛鴦、相馴久矣、國師後逸居西芳之時、一宵夢有紅衣小童、跪於前曰、吾是前身虎溪之鴛鳥也、久以隨師聽法故受人身、明日來可隨侍云、國師覺而記之、果有一童、著紅綃而來、見其手足、則有網羅之相(吾土之水爬。熊楠謂く、ニゥギニア土蕃に水爬有るもの有りと聞く)、師乃名之曰空念、俾爲行者、奉事之餘、常課維摩經、臨卒入定云、後生一子、是復網羅之手也、今有老行者常觀、其四世之孫也、行視猶如水鳧也、至今池中爲鴛鴦甚多、它鵁鶄鸂鶆之類不至云。實際かゝる遺傳の一族存せしより作り出たる譚なるべし。
[やぶちゃん注:「明治四十五年」一九一二年。
「今泉君」「選集」の割注から、美術教育家・鑑識家の今泉雄作(嘉永三(一八五〇)年~昭和六(一九三一)年)である。江戸生れ。明治一〇(一八七七)年フランスに留学し、パリの東洋美術博物館主ギメーに知られ、同館客員となった。明治十六年に帰国して文部省学務局に勤め、明治二十年には岡倉天心らとともに東京美術学校創立に尽力、開校後は教務監理となった。その後、京都美術工芸学校長・帝室博物館美術部長を経て、大正五(一九一六)年に大倉集古館館長となった。古社寺保存会委員も長く務めた。茶湯は石州流怡渓(いけい)派を学び、茶器にも詳しかった。
「獪園」は明の銭希言撰の志怪小説。「獪園志異」とも。蒲松齢の「聊齋志異」に大きな影響を与えている作品である。「中國哲學書電子化計劃」の「獪園志異」の影印本の画像の当該部で校合したが、引用は全文ではなく、大事な箇所が抜けているので追加し、読点がおかしいと思われる箇所を修正した。訓読する。
*
雉兒塔(ちごたふ)は半塘寺(はんたうじ)に在り。傳ふ、是れ、晉朝の生道人(しやうだうじん)、虎邱(こきう)にて說法するに、野雉、來たりて聽く。明くる日、誕生して城東の某子の兒と爲(な)る。肋(あばら)の下に、雉の翼、尙ほ、存せり。兒、後に半塘寺にて出家す。化(し)せし日、寺僧、石幢(せきとう)を作りて、之れを葬むる。因りて「雉兒塔」と名づく。
*
この「半塘寺」は現存しないようであるが、検索した結果、維基文庫の穆彰阿の「嘉慶重修一統志」(清代に政府の事業として編集された地誌「大清一統志」の別称。全領土の自然地理・人文地理を行政区画別に記述し、最後に朝貢各国として殆んど全世界のことを付説する。三度、作成され、第一版は一七四三年に完成し、第二版は一七六四年から二十年をかけて作成されて刊行、第三は一八四二年に完成したが、内容は嘉慶二〇(一八二〇)年(同年号の最終年)で終わっていることから「嘉慶重修一統志」と呼ばれる)のこちらに(影印画像有り)、「夀聖寺」として、『呉郡志。在長洲縣西北七里綵雲橋半塘。寺有雉兒塔。晉道生法師有誦法華經童子死葬此。義熙十一年。商人謝本。夜泊此岸。聞誦經聲。旦見墳上生青蓮花。事聞。詔建是塔。號法華院。宋治平間賜今額。』とあることから、現在の蘇州市の西にあった。清代の一里は五百七十六メートルであるから、二キロ強だが、旧長洲縣(蘇州市街に「長洲路」(グーグル・マップ・データ。以下同じ)の名が残る)は現在の蘇州市の四分の一を占める広域であったから、この寺は、まず、知られた太湖にごく近いところにあったことは確かである。なお、「雉」はこの場合は大陸産のキジ目キジ科キジ属コウライキジ Phasianus colchicus となる。本邦の固有種であるキジ目キジ科キジ属キジ Phasianus versicolor (亜種で四種)とは異なる(同種とする説もあるが、採らない)。詳しくは「和漢三才圖會第四十二 原禽類 野鷄(きじ きぎす)」私の注を参照されたい。
「誕生」「選集」は「誕生」を『ひとにうまれ』と訓じているが(「選集」は漢文は総て編者によって訓読されてある)、漢籍の訓読としては、頗る鼻白む落語の御隠居訓読で従えない。そのまま読んでも転生したことは馬鹿でも判る。
「碧山日錄」(へきざんにちろく)は室町中期の東福寺の禅僧太極(応永二八(一四二一)年~?)の日記。長禄三年正月から応仁二年十二月(一四五九年~一四六八年)が現存する。「応仁の乱」前後の社会と寺院の様子を窺える貴重な史料。「国立公文書館デジタルアーカイブ」のこちらで原本に当って脱字等を補った(20コマ目の四行目末から。頭書に「寅渓鴛鴦」と朱書がある。因みに、「選集」も一部は誤字のままに訓読している。例えば頭の「問」は一見不審なのに「間」のままである。頭の部分は前の19コマ目の左丁二行目)。原本は異体字が多いが、それは熊楠の表字で示した。訓読する。後の方の熊楠の割注は五月蠅いのでカットした。
*
長祿三年二月二十四日、昨日、同書記に問ふて曰はく云々、又、前面なる池水の勝景を說く。次いで、同曰はく、(正覺)[やぶちゃん注:熊楠の割注。]國師、濃(のう)の虎溪に在りし時、鴛鴦(をしどり)有り、相ひ馴るること久し。國師、後(のち)、西芳(さいはう)に逸居の時、一宵(いつしやう)、夢(ゆめ)むらく、紅衣の小童有り、前に跪(ひざまづ)きて曰はく、「吾は、是れ、前身、虎溪の鴛鳥(をしどり)なり。久しく師に隨ひて、法を聽きし故を以つて、人身(じんしん)を受けり。明日、來たりて隨ひ侍るべし」云(うんぬん)と。國師、覺(めざ)めて、之れを記(おぼ)ゆ。果たして、一童有り、紅綃(こうせう)[やぶちゃん注:紅色の艶出しをしていない絹衣。]を著けて來たる。其の手足を見るに、則ち、網羅(あみ)[やぶちゃん注:蹼(みずかき)。]の相(かたち)有り【吾が土(くに)、之を水爬(みづかき)と謂ふ。】。師、乃(すなは)ち之れに名づけて「空念」と曰へり。行者と爲(な)らしめ、奉事の餘に「維摩經」を課(くわ)せり。卒するに臨んで入定す云(うんぬん)。後(のち)、一子の生まるるも、是れ復た、網羅(あみ)の手なり。今、老行者の「常觀」有り、其の四世の孫なり。行きて視れば、猶ほ水鳧(かも)のごとし。今に至るも、池中に、鴛鴦、甚だ多し。它(ほか)の鵁鶄(こうせい)・鸂鶆(けいちよく)の類は至らず云(うんぬん)。
*
「書記」は同日記に先行記載する「的書記」という人物のことか。事績不詳。「正覺」「國師」は臨済僧で作庭家・漢詩人・歌人としても知られる夢窓疎石(建治元(一二七五)年~正平六/観応二(一三五一)年)。彼は鎌倉末期の正和三(一三一三)年に、美濃国に古谿庵、翌年に同地に観音堂(虎渓山永保寺(こけいざんえいほうじ))を開いており、また、延元四/暦応二(一三三九)年に足利幕府の重臣(評定衆)であった摂津親秀(中原親秀・藤原親秀とも称した)に請われ、「苔寺」の俗称で知られる京の西芳寺の中興開山(この時に同寺は浄土宗(開創時は真言宗)から臨済宗に改宗している)となっている。同寺の名庭園は彼の造園になるものである。「鴛鴦」カモ目カモ科オシドリ属オシドリ Aix galericulata 。私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鴛鴦(をしどり)」を参照されたい。「鵁鶄」ペリカン目サギ科サギ亜科ゴイサギ属ゴイサギ Nycticorax nycticorax 。同じく「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鵁鶄(ごいさぎ)」をどうぞ。「鸂鶆」「選集」では「鸂鷘」とするが、同義で、オシドリに似て紫色の強い鳥を指すと中文サイトにはあった。現在の種では不詳だが、一説にカモ科カモ亜科アイサ(秋沙)族 Mergini(アイサ亜科 Merginae とされることもあり)アイサ(ウミアイサ)属カワアイサ Mergus merganser 、或いはカモ科ハジロ属キンクロハジロ Aythya fuligula ともされる。前者は「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鸍(こがも/たかべ)〔コガモ〕」が、後者は「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鳧(かも)〔カモ類〕」がそれぞれ参考になろう。なお、「ニゥギニア土蕃」(どばん:未開地の先住民を指す蔑称)「に水爬有るもの有りと聞く」と熊楠は言うが、これは往年の少年雑誌の怪しい巻頭特集や、レベルの低い都市伝説の類である。]
追 加 (明治四十五年五月考古學雜誌第二卷第九號)
唐の釋道宣の續高僧傳卷三十五に、次の條有るを見出せり。
釋道安、齊文宣時、在王屋山、聚徒二十許人、
講涅槃、始發題、有雌雉、來座側伏聽、僧若食
時、出外飮啄、日晩上講、依時赴集、三卷未了、
遂絕不至、衆咸怪之、安曰、雉今生人道、不須
怪也、武平四年、安領徒至越州、行頭陀、忽云、
往年雌雉應生在此、徑至一家、遙喚雌雉、一女
走出、如舊相識、禮拜歡喜、女父母異之、引入
設食、安曰、此女何故名雌雉耶、答曰、見其初
生髮如雉毛、既是女、故名雌雉也、安大笑、爲
述本緣、女聞涕泣、苦求出家、二親欣然許之、
爲講涅槃、聞便領解、一無遺漏、至後三卷、茫
然不解、于時始年十四、便就講說、遠近咸聽歎
其宿習、因斯躬勸、從學者衆矣、
必ずしも同源より出しに非ざるべきも獪園より千年許り前の書に載たるを見て古く斯る話の支那に行はれたるを知るべし。
[やぶちゃん注:「唐の釋道宣の續高僧傳」梁の慧皎(えこう)の「高僧伝」に続けて撰せられた中国の高僧の伝記集。盛唐の南山律宗の開祖道宣(五九六年~六六七年)撰で、全三十巻。六四五年の成立である。以上の本文は「大蔵経データベース」で校訂した。訓読する。
*
釋道安、齊(せい)の文宣の時、王屋山(わうをくざん)に在り。徒二十人許りの人を聚め、「涅槃」を講ず。始め、發題するや、雌(めす)の雉(きじ)有り、來たりて、座の側(かたはら)に伏して聽く。僧、若(も)し食す時は、外に出でて、飮み、啄(ついば)む。日、晚(く)れて、講を上(はじ)むるや、時に依(したが)ひて、赴き集(きた)る。三卷、未だ了(をは)らざるに、終(つひ)に絕えて至らず。衆、皆、之れを怪しむ。安曰はく、
「雉は、今、人道(じんだう)に生まれり。怪しむべからず。」
と。
武平四年、安、徒を領(ひき)いて越州に至り、頭陀(づだ)を行(ぎやう)ず。忽(には)かに曰く、
「往年の雌雉(しち)、應(まさ)に生まれて此(ここ)に在るべし。」
と。
徑(ただ)ちに一(いつ)の家に至り、遙かに、
「雌雉。」
と喚(よ)ぶ。
一の女(むすめ)、走り出でて、舊(ふる)くより相ひ識れるがごとく、禮拜(らいはい)して歡喜す。
女の父母、之れを異とし、引き入れ、食を設(まう)く。
安曰はく、
「此の女は、何故に雌雉と名づけしや。」
と。
答へて曰はく、
「其れ、初めて生まるるを見るに、髮、雉の毛のごとし。既に、是れ、女(をんな)なれば、故に『雌雉』と名づけたり。」
と。
安、大いに笑ひ、爲(ため)に本緣を述(の)ぶ。
女(むすめ)、聞きて涕泣し、苦(ねんごろ)に出家せんことを求む。
二親、欣然として之れを許す。
爲(ため)に、「涅槃」を講じ、聞かば、便(すなは)ち領解(りやうげ)し、一も遺漏無し。
後の三卷に至りて、茫然として解(かい)せず。
時に、始めて年十四、便ち、就いて、講說せり。
遠近(をちこち)、咸(みな)、聽きて、其の宿習(しゆくしふ)を歎(たん)ず。
斯(これ)に因りて、躬(みづか)ら勸め、從ひて學ぶ者、衆(おほ)し。
*
「釋道安」同名で中国仏教の基礎を築いた五胡十六国時代の僧がいるが、彼は三一四年生まれで、三八五年没であるから、以下の時制に合わない。しかし、彼は確かに王屋山にいたことがある(中文の彼のウィキの「漂泊修學」の項を参照されたい)ので、作者自身の何らかの誤解があるようである。
「齊の文宣の時」北斉の初代皇帝。在位は五五〇年から五五九年。
「王屋山」現在の河南省の北西端の済源(さいげん)市の北西約四十五キロの位置にある山。ここ。
「涅槃」「涅槃経」。
「人道」六道の「人間道」。
「武平四年」、南北朝時代の北斉において、後主の治世に使用された元号。五七三年。
「越州」二つある。現在の広西チワン族自治区と広東省に跨る地域に設置されたものと、浙江省紹興市一帯に設置されたもの。ウィキの「越州」の解説のそれぞれのリンクのところにカーソルを置けば、孰れも位置が判る。
「頭陀」托鉢行(たくはつぎょう)。
「遠近」「遠くに住む人と、近くに住む人」。どこの人も。
「宿習」前世からの習慣や習性。因縁。]
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