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2022/07/23

曲亭馬琴「兎園小説別集」下巻 天愚孔平傳

 

[やぶちゃん注:本来の底本である国立国会図書館デジタルコレクションの「新燕石十種」第四では本篇はここからだが、これは「曲亭雜記」巻第四・下のここから所収し、ルビも振られてあるので、それを基礎底本とし、先のものを参考にして本文を構成した。一部の読みを濁音化した。吉川弘文館随筆大成版を参考にしつつ、誤字と判断されるものや、句読点などを修正した。歴史的仮名遣の誤りはママ。] 

   ○天愚孔平傳       著作堂主人

萩野喜内(はぎのきない)、雲州候の臣、名は信敏、宇は求之(きうし)、鳩谷(きうこく)と號し、又天愚齋(てんぐさい)と號す。本姓は平氏也。孔子六十五代の子孫、明(みん)の世に孔胤椿(いんちゆん)といふ人あり。その妾(めかけ)胤椿が子を孕みたるに、胤椿死しければ、妾、流浪してありしを、日本の海賊、明の邊鄙(へんぴ)を侵(をか)したる時、その女を我國に連來(つれき)たる。平(たいら)の某(それ)といふもの、かの女の孔子の後裔を懷婚したると聞て、これを入れて妻とす。其生れし子を、則、養ふて子とし、孔子の孔と平とを合(あは)せ、孔平氏(くびらうじ)と名乘らす。その末葉(まつえふ)、氏を萩野と改む。喜内は古今に稀なる奇人なる事、世にかくれなけれども、其傳をしるしたるものなし。今喜内のみづから語れる所を、かたはらより書(かき)したること左の如し。

[やぶちゃん注:以上の一段落は底本では全体が一字下げ。

「天愚孔平」(てんぐこうへい 享保二(一七一七)年?~文化一四(一八一七)年)は江戸中・後期の儒者にして奇人の武家。本名は萩野信敏(はぎののぶとし)、通称を喜内、号は鳩谷(きゅうこく)。出雲松江藩江戸詰の三百石取りの武士であったが、異風奇行を好み、高慢なため、世人から「天狗」と異名され、自分も「天愚斎」と名のり、さらに「孔子の子孫」を自称し、名を「孔平」変えた。参拝者が寺社に貼る、所謂、「千社札」は彼の考案とされ、それを継竿(つぎざお)の先につけた刷毛(はけ)で天井などの高い所に貼り付ける風習も、彼の工夫とされている。墓は駒込の泰宗寺(たいそうじ)にある(リンクはグーグル・マップ・データ(以下同じ)。以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。また、松江歴史館学芸係主幹西島太郎氏の「第二回市史講座ミニレポート」(平成 三〇(二〇一八)年 五 月 十九 日開催)の「松江藩主松平宗衍・治郷二代の寵愛を受けた江戸詰藩士・萩野信敏―天愚孔平伝―」レジュメPDF)が年譜形式で非常に詳しいので、是非参照されたい。恐らくは現在入手し得る最も信頼出来る天愚孔平に関わる貴重な資料である。

「萩野喜内」早速だが、「曲亭雜記」では「荻野喜内(おきのきない)」とあるのだが、「新燕石十種」も吉川弘文館随筆大成版も「萩野」であり、諸資料を見ても「荻野」が正しいので、訂した。

「孔胤椿」(一五七一年~一六一九年)は清の衍聖公(えんせいこう:北宋から清にかけての封爵名で、孔子の嫡流の子孫が世襲した)の実子で山東省曲阜(孔子の出身地)の出身。事実、孔子の第六十五代嫡孫である。]

私儀、當年【文化九年壬申[やぶちゃん注:一八一二年。]。】百五つに相成候。寶永六年[やぶちゃん注:一七〇九年。]五月廿八日、麹町天神下にて生る。父は俗醫にて彥一郞と申。名は信龍(のぶたつ)、字は伯鱗(はくりん)、號を孔子の由緣(ゆかり)にて闕里(けつり)と申す。醫を以て始て雲州家に仕ふ。祖父は東溪と申て書を能(よ)くす。細井廣澤(ほそゐくわうたく)も東溪に書を學びたり。高祖父は春庵といふ。號を月笑と云て、徂徠の學問の師匠なり。放蕩不羈にて、女郞を二十七人まで受出(うけだ)し、芝居棧敷、每日なり。私は、父彥一郞、醫業をつがせまじとて、生れし事を旦那に屆けざること十二年、享保六年[やぶちゃん注:一七二一年。]に屆をしたるゆゑ、旦那前は當年九十四、五なるべし。漢の李少君(りしようくん)が故事にならひ、誰が年を問ても、七十々々といふ。故に世上にては、喜内が百五つといふは、虛言ならん。たかだか、七、八十ばかりに見ゆると取沙汰するよし、是と申も、容貌(かたち)の若く見ゆる故なり。長壽するには、いろいろ仕方あれども、先づ湯(ゆ)をつかはず、熱物(あつもの)をたべず、女をせぬが第一也。私儀、四十ばかりより、湯をつかひ不ㇾ申。冷飯(ひやめし)ばかりたべ、妻をも近付(ちかづけ)不ㇾ申。又爪をとる日を六と九とに定め、六の日には手の爪をとり、九の日には足の爪をとる。是も養生によろしき也。私儀、若年より一體(いつたい)性(せい)强く、妄想(まうざう)を十一歲より每夜々々見たり、十五、六のときには甚しく相成候。俗に妄想は、弱き人の見るものにて、宜しからぬ事なりと申せども、私のは强過(つよすぎ)て見る妄想と見えて、此年來まで在生仕る。當出羽守には曾祖母(ひいばゞ)にあたる、四代前出羽守の奧方、京都伏見殿より入輿(じゆよ)ありし、南海(なんかい)の養母にて後家になられ、天岳院と申されたる隱居の住居向(すまゐむき)、死後、明(あき)御殿となりてありしに、南海幼年の節、伽(とぎ)の子どもを連れ、每日遊びに行れし時、私も子供にて供(とも)したり。その明御殿にて、朋輩(はうばい)の子供、寄合(よりあ)ひ、私をとらまへ、手すさみをしてくれたり。其後、彼のひとり手すさみを、自分にて三度して見たる外、したる事なし。二十歲の時にはじめて女を仕る。是は内の女のよく寢入(ねいり)たるを伺ひて忍びより、既に合するまで、目をさまさず。その間に事果(ことはて)てかへれり。その女の名も忘れたり。養生には情(じやう)をうつさず、早く仕まふが、宜候。其後、丹羽左京大夫陶如入道の妾(めかけ)おきくの緣により、入道に懇(ねんごろ)に出入(でいり)したり。入道、私が偏屈なるをもつて、粹(すい)にせんとて吉原へ召連(めしつれ)られ、二の町といふ女郞を揚(あげ)て下されたり。一處(いつしよ)に床には寐たれども、妓女(ぎじよ)を犯す事は、孔氏の代々の遺戒なれば、發起(ぼつき)して仕方なきまゝ、かのひとり手すさみにて、帆柱を倒したり。入道のかよはれし、度々(たびたび)供いたし、その物入、三百兩ほどなり。入道の仰(おほせ)に、我等三百兩入れても、喜内を粹にせばやと思ひしに、終に粹にならず、と笑はれたり。又、南海、每度吉原へかよはれたれども、外(そと)の物をたべる事、きつう嫌ひなれば、屋敷より葵の紋(もん)付(つけ)たる膳(ぜん)だんすを用意し、その中に器物(うつはもの)を入れ、料理人にこしらへさせて、たべられ、私には、女郞屋より出したる吸物(すひもの)、硯蓋(すゞりぶた)等を、主人の名代にたべよ、とて、膝元ヘ、始終、おかれ、腹一ぱい、これをくひ候事、忝(かたじけなき)儀に存候。私儀、六候十三盜七妙一竒(ろくこうじうさんとうしちみやういつき)とて、世に珍らしき行ひあり。是は、いつぞ申べし。私妻は藤堂和泉守樣の醫者宮田良運娘にて、子九人あり。總領女、其次も、其次も女、五人目、男、六人目彥一。在二、今、近習頭見習(きんじゆがしらみならひ)を命ぜらる。その次、又、女、これは藩中の醫者加藤玄又(げんゆう)が妻となる。玄又は能書也。八人目、男、岩藏、藩中外山氏へ養子に遣り、當時、奧納戶取次をつとむ。九人目、女、早世す。下谷泰宗寺に葬る。知秋(しちう)と戒名をつけられたり。私、俸祿、本知三百石、家米五十石、是は一代切なり。先年、御客應對表向御出書向(おきやくおうたいおもてむきごしよむき)と申役儀を命ぜられし時、別に百五十石くれられしに、不首尾にて此百五十石は取上られ、本知三百石ばかり也【右、孔平傳、終。】。

[やぶちゃん注:「麹町天神下」現在の東京都千代田区平河町の平川天満宮附近。

「闕里」孔子が弟子を教え、没したとされる地名。山東省曲阜県にある。

「彥一郞」「信龍」「島根大学標本資料類データベース」のこちらに「出雲天隆公壽藏記」(松江市の月照寺にある石碑について書かれたもの)なる書が現存し、その作者は彼の父萩野信龍と、「萩野鳩谷」名義の彼の名が記されてある。

「東溪」不詳。

「細井廣澤(ほそゐくわうたく)」(万治元(一六五八)年~享保二〇(一七三六)年)は江戸中期の儒学者・書家・篆刻家。名は知慎(ともちか)。第十代松江藩藩主松平治郷不昧の幼少期からの書道の師である。彼の書道の師に「東溪」の名は見えない。

「高祖父は春庵といふ。號を月笑と云て、徂徠の學問の師匠なり」先の西島氏の年譜に、二代目『荻野春庵(珉(みん)・復堂(ふくどう))』として出る人物の先代の春庵であろう。しかし、この徂徠の師というのは、どうだろう、名前が挙がってこないが。

「李少君(りしようくん)が故事」(生没年未詳)前漢の第七代皇帝武帝(紀元前一五六年~紀元前八七年)に不老不死を説き、絶大なる信頼を得た道士。羽化登仙したとされ、また、彼は公的に神仙術・煉丹術の存在をアピールした始祖とされているようである。草野巧氏のサイト「フランボワイヤン・ワールド 中国神話伝説ミニ事典/神様仙人編」の「李少君」に、『丹薬の製造法を世界で始めて語り、煉丹術の始祖とされる漢代の神仙。伝説によると、斉の生まれで、海岸地帯を旅行していたとき』、『安期生に会い、煉丹術を授けられたという』『漢の武帝』『に仕えて大いに寵愛されたが、そのころこんなことがあった。ある宴会の席で』、九十『歳を超える老人に会った李少君は、「わたしはあなたの祖父と遊んだことがある」といい、老人の記憶どおりのことを詳しく語った。また、武帝が持っていた古い銅器を見て、「これは斉の桓公のものです」といったが、後に刻銘を調べると本当にそうだった。このため、人々は』、『李少君は生き神で数百歳だ』、『と考えたという』という話が、ここと親和性がある。

「當出羽守」出雲松江藩第八代藩主松平出羽守斉恒(なりつね 寛政三(一七九一)年~文政五(一八二二)年)。

「四代前出羽守の奧方、京都伏見殿より入輿(じゆよ)ありし、南海(なんかい)の養母にて後家になられ、天岳院と申されたる」出雲松江藩第五代藩主松平出羽守宣維(のぶずみ 元禄一一(一六九八)年~享保一六(一七三一)年)の継室(正室順姫は十九で逝去)邦永親王王女岩宮(元禄一二(一六九九)年~元文二(一七三七)年)の院号が天岳院。この「南海」は出雲松江藩第六代藩主松平出羽守宗衍(むねのぶ 享保一四(一七二九)年~天明二(一七八二)年)の法号。しかし、ここで甚だしい不審が起こる。孔平が自身で言った通り、彼の生年が「寶永六」(一七〇九)年だとしたら、宗衍が生まれた時には既に二十歳である。「私も子供にて供(とも)したり」というのは、これ、おかしだろ! 天愚! 享保七(一七二一)年でも、八つも上で、これもちょっとクエスチョンでねえかい? 寧ろ、先の西島氏の冒頭にリストしてある近年に生年説の、享保一六(一七三一)年・享保十七年・享保一八(一七三三)年が一番しっくりくるぜよ!

「手すさみ」自慰行為。

「内の女」(むすめ)下女。

「仕まふが」「しまふが」。

「宜候」「よろしくさふらふ」。

「丹羽左京大夫陶如入道」底本では「闊如(けつじよ)」とあるが、やはり前掲二種で、かくした。しかし、人物、誰だか、判らぬ。西島氏に年譜にも出てこない(実は妻子のことは嫡子彦一郎と次男の藩への出仕ぐらいしか載らない)。官位と金遣いの荒さからどこかの藩主っぽいが。

「二の町」「にのまち」と読んでおく。

「發起(ぼつき)」底本ではルビは「ほつき」。私の確信犯。

「硯蓋(すゞりぶた)」本当の硯箱(古くは花・果物・菓子などを載せるのに用いた)に似た方形の盆状の器(うつわ)。祝儀の席などで「口取り肴(くちとりざかな)」を盛るのに用いた。また、その料理をも指す。

「六候十三盜七妙一竒(ろくこうじうさんとうしちみやういつき)」不詳。

「藤堂和泉守」伊勢国津藩第九代藩主藤堂和泉守高嶷(たかさと/たかさど       延享三(一七四六)年~文化三(一八〇六)年)か。

「宮田良運」不詳。

「藩中外山氏」松江藩には家臣団に外山氏がいる。

「本知」本知行分。

「家米」一代限りで与えられた特別手当の扶持米か。

「御客應對表向御書向(おきやくおうたいおもてむきごしよむき)」判ったような判らぬ職だな。

 以下、底本では最後まで全体が一字下げ。]

解云、或人の話に、喜内が妹(いもと)は【或は娘ともいふ。】南海公の妾なりければ、喜内も用人格にまで進みたり。これにより、門外へ出る日は、衣裳も美々しく、若黨、草履取等の供人(ともびと)をめし連れねばならず、しかれども門外他行(たぎやう)の時、僅(わづか)に三、四町ゆくと、若黨等をかへし、ふるき衣裳を著かへ、上には古き合羽(かつぱ)を著て、草履をはき、草履取只の一人を俱して、江戶中をあるきしかば、世の人、天狗孔平と異名(いみやう)して、しらざる者なし。すべての事に高慢なれば、みづから天愚齋と號し、世の人も、天狗とは、いひしなり。年久しく浴(ゆあみ)みせざる故に、人、これと應對すれば、臭氣、鼻を穿(うが)てり。女子(をなご)どもは、いやがりて、立(たち)たる跡をば、はやく掃出(はきいだ)せしとなり。この他、この人の事に就ては、種々(くさぐさ)のおかしき物がたり、あり。予が總角(あげまき)の比、見かへり醫者、龜の甲(こふ)醫者、天狗孔平とて、三絕のやうに、人、いひけり。見かへり醫者は、總髮の老醫なりき。杖をつきながら、四、五間ゆく每に、跡を見かへる癖あり。龜の甲醫者は、龜の形につくりし笠をかぶりて、これも江戶中をあるきし賣藥の老醫なりき。孔平は晴天に破合羽(やぶれがつぱ)草鞋(わらじ)がけにて、江戶中をあるきし也。孔平が沒せし年は文化の末なり。月日は詳ならず。猶たづぬべし【千社參りの札を張ることは、この孔平がはじめたりといふ。孔平と印板せし紙札、今は稀にあり。】。

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