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2022/07/05

ブログ始動十六周年記念 梅崎春生 飢えの季節

 

[やぶちゃん注:本篇は昭和二三(一九四八)年一月号『文壇』に初出し、後の作品集『飢えの季節』(同年八月講談社刊)の収録された。

 底本は「梅崎春生全集」第二巻(昭和五九(一九八四)年六月沖積舎刊)に拠った。文中に注を添えた。

 本電子テクストは私のブログ「Blog鬼火~日々の迷走」(二〇〇六年七月六日始動。初回記事はこれ)]の十六周年記念として公開する。【二〇二二年七月五日五時三十一分 藪野直史】

 

   飢 え の 季 節

 

 その頃の私は、毎朝四時に眼がさめた。身体のふしぶしには眠りがまだ残っているのに、扉口から外へ押しだされるような具合で、意識だけが突然はっきり覚めてしまうのであった。覚めぎわの気分は、いつもひどく悪かった。蝉(せみ)のぬけがらみたいに、からからに乾いた感じであった。暗闇の沈みこんだ部屋の底で、私は布団のなかに平たく横たわり、そしてしらじらと覚めていた。寝覚めのときというものは、普通の男なら皆あらあらしく精気にみちている筈なのに、なぜ私だけがそんな眼覚めかたをするのだろう。それはなぜでもなかった。私の肉体が病んでいるわけでもなかった。精神が絶望しているわけでも更になかった。ただひとつ、私にそんな寝覚めを強要するただひとつは――つまり私の腹が極度に減っているからなのであった。ただそれだけであった。ただそれだけが、あの悪夢の果てのにがい寝覚めを私に持たせるのであった。

 季節は秋が終りかけて、そろそろ冬が近づいてくる頃だった。私は寝巻の袖から肌さむい腕をのばして電燈を点じ、そして枕許の時計をながめるのが常であった。それは必ず四時であった。印でも押したようにきまって四時を指していた。飢餓の季節にも自らなるリズムがあって、それが私の生理の日常を支配しているらしかった。それから私はふたたび布団のなかに平たくなって起き上るべき時間のくるのをじっと待っている。もはや眼覚めたそのときの私の想像に入ってくるものは、先ず白い御飯にあたたかい味噌汁をそえた朝食の幻想であった。この幻想はごく迅速に私の消化器に連結して、ある収縮感をともなった刺戟を私につたえて来るのであった。御飯はつぶつぶに真珠のように光っていた。味噌汁は――そのときの具合で、豆腐が入っていたり、若布(わかめ)が入っていたり、まれには茸(きのこ)や筍(たけのこ)が入っていたりした。それから私はしぜんに小皿を思い浮べる。豚肉の煮たものや秋刀魚(さんま)の焼きたて。また歯ごたえのある沢庵(たくあん)。烏賊(いか)のさしみ。アスパラガス。あたたかいシチウ。玉子焼。そんな具合に私の聯想(れんそう)がとらえたひとつひとつの食物を、私はじっくりと全身をもって舐(な)めまわしながら、また次ヘ移ってゆく。鰻(うなぎ)の蒲焼。肉の揚物。木の芽あえ。田楽。――それらはすべてなまなましく、そのくせ膜をいくつも隔てたようにはるかでもあった。それらは想像のなかで、匂いや舌ざわりすらも伴っていた。そして私がそれをはっきりとらえようとすると、内臓の不快な収縮感だけを私にのこして、それは急に感覚から遠のいてしまうのであった。そうすると乳首を唇から外した幼児のように、私はあわてて次の聯想の乳房にしやぶりつく。また新しい皿が湯気や匂いをたてながら、私の幻の食卓に置かれるというわけであった。そしてそのむなしい幻想をかさねてゆき、恣意(しい)の倦怠がしだいに胸におちてくると、ある名状しがたい苦痛と陶酔がまじり合いながら、私の身体を潮騒のように満たし始めてくる。その頃になって私は、この一夜の長い悪夢も、そんな食物の幻でいっぱいであったことに気がつくのであった。顎(あご)までふかぶかと布団をかぶせ、両脚をそろえて伸ばし、私はうとうとと半眼をひらいて、闇の中からしだいに光がためらうように淡くただよってくるのを、漠然たるある予感とともに待っている。起き上る時間までの数十分を毎朝こんな具合にして私はすごしてしまうのであった。それは私にとって独立したひとつの世界だった。そしてしんとした昧爽(まいそう)の大気をゆるがせて、遠くから南武線の始発電車のひびきが伝わってくる頃、確然と夢想を断ちきって、私はうす暗い部屋の底に上半身を起すのである。ひとつの世界から意識を脱出させる不快な抵抗をまざまざと感じながら。――[やぶちゃん注:「昧爽」「昧」は「ほの暗い」の、「爽」は「明らか」の意で、夜の明け方・曉・未明のこと。]

 飢えと憂いにみちた私の一日の行程が、こうして毎朝始められるわけだった。

 

 私が住んでいたのは、ちいさな農家の二階であった。そこから南武線の稲田堤の駅まで二十分位あった。身仕度をしてくらい階段を降り、まだ寝しずまっている階下を跫音(あしおと)しのばせて土間に降り、かけがねをそっと外してそとに出るのであった。土間には収穫した薩摩芋がごろごろと積まれてあった。それを横眼でみながら私はそっと戸を閉じる。庭を通りぬけ、私はわざと畠のなかの径をえらんで駅の方にあるいてゆく。[やぶちゃん注:「稲田堤」は神奈川県川崎市多摩区のJR東日本南武線稲田堤駅及び京王電鉄相模原線京王稲田堤駅周辺を指す地域名。町名としては南武線稲田堤駅が所在する菅稲田堤(すげいなだづつみ)が残る。この附近(グーグル・マップ・データ)。梅崎春生の随筆「日記のこと」にも登場する地名である。梅崎春生自身、敗戦の一ヶ月後の昭和二十年九月に上京した際、川崎の稲田登戸の友人の下宿に同居している(現在の神奈川県川崎市多摩区登戸。現在の小田急電鉄小田原線の「向ヶ丘遊園駅」は昭和三〇(一九五五)年四月に改称されるまでは「稲田登戸駅」であった。ここ(グーグル・マップ・データ)。南武線登戸駅は南武線稲田堤とは二駅しか離れていない)。そうして、かの名作「桜島」(リンク先は私の電子化注PDF版。分割の連載形式のブログ版はこちら)は、まさにこの稲田登戸で書かれたのである(春生の「八年振りに訪ねる――桜島――」を参照のされたい)。但し、以下で主人公が勤めている奇体な会社は不詳。作者自身が実際にそうした仕事をしていたかどうかという事実も不明である。]

 稲田堤から電車にのり、登戸で小田急にのりかえ、新宿できて中央線をつかまえる。そしてお茶の水まで、満員電車からはき出される頃には、日はすっかりのぼっていて、お茶の水駅の横のだらだら坂を、額に光をうけながら私はゆるゆる降りてゆく。家を出てから二時間あまりも経つわけだった。満員電車にもまれながら、私は同車の乗客たちの吐く息から、さまざまの臭いをかぎわけることができた。彼等はすべて私と同じ勤め人であった。ただ私とちがう点は、私が朝飯を食べていないのに反して、彼等はそれを済ましているということだった。その呼吸のにおいから私は、味噌汁の匂いや沢庵のにおい、また御飯や麵麭(パン)のにおいまで、ありありと感じわけるのであった。そしてそれらは一々、私の胃の腑(ふ)に鋲(びょう)をうちこむようにひびいてきた。同車の男たちのひとりひとりに私は内部に折れまがったような憎悪を感じながら、とげとげしく押したり押し返されたりした。それからやっとお茶の水でひょろひょろと電車から押し出されるというわけであった。

 昌平橋のたもとにある外食食堂に私が登録していたというのも、勤め先の位置の関係からであった。稲田堤のちかくには、そんな風の食堂はなかった。あったとしても、私が出かける時間にはまだ開いている筈がなかった。だから余儀なく私はここに登録する他はなかったのだ。前にのめりそうになるのを辛抱しながら、私は一歩一歩だらだら坂を降りて行く。坂の横は高架となって、省線電車がひっきりなしに往来する。私の眼からそれらの電車を斜下から見あげることになるのであった。すすけた鉄色の入組んだ、袋のような形や棒の組み合わさった電車の下部構造が、あらわに私の眼に映じてくるとき、私はなにか醜悪な色情をそれに感じることがあった。そしてそれは私の空腹感とまじりあって、あるやりきれない気分として私の胸にひろがってくるのであった。

(先ず朝飯を! 先ず朝飯を!)

 呪文のようにそんなことを呟(つぶや)きながら、私はそれから視線を外(そ)らして、外套の背を丸くしたまま坂を降りてゆく。

 汚ない掘割に面したその食堂は、私が着くころは大ていがらんと空いていて、そろそろ片づけにかかっている日が多かった。私は入口で登録票と金を差出して、真鍮(しんちゅう)の食票をうけとる。たいていただの一食分。どんなに私は二食分たべたかっただろう。いや、二食分だけでなく、三食分も四食分も。実際私はこらえきれなくて、二食分を買って食べたこともしばしばあったのだ。しかしそうすれば、必ず昼か晩を抜かねば勘定があわぬ筈だった。それがどんなに辛いことであるか、私自身が一番よく知っていた。だから歯を食いしばっても一食分なのであった。このきびしい戒律を自分に課しているつもりでいても、私の登録票はいつも先の日まで食いこんでいたのである。月末になればどうすればいいのだろう。そのことは不快な予覚として常住私を脅やかしていた。それにもかかわらず、食票を買うとき私の心は、一食にしようか二食たべようかと、その度にはげしい格闘をするのであった。そしてやっとのことで欲望をねじふせて、私は一枚の食票をにぎりしめてがらんとした食堂の中に入ってゆく。

 外食食堂の一食分とは、なんと僅少な分量しかないのだろう。頰張って食えば、四口か五口で終ってしまうのだ。水のようにうすい味噌汁と三四片の沢庵(たくあん)。食べ終るのに二分間もかかりはしない。四時に眼がさめて、さまざまな食物を幻想した果てに、こんな貧寒な食事しかとれないということ、それはほとんど憤怒に近い感情をいつも私に起させるのであった。私はこめかみをぴくぴく動かしながら、またたく間にそれを食ってしまう。食ってしまっても、満足などある筈はなかった。なお空腹がはっきりしてくるに過ぎなかった。入口まで戻って、もう一食分買いたいという猛然たる欲望を握りつぶして、私は眼をつぶって食堂を出てゆくのである。

 入口の近くには、そんな朝っぱらから汚ない恰好の男が五六人、何時もなんとなく立っていて、こそこそ話しあったり日向ぼっこをしていたりした。この男たちのふところには旅行者外食券が何枚もしまわれてあって、一枚三円出せば分けて呉れることを私は知っていた。どんなに私はそれを買いたかっただろう。しかし買うわけには行かなかったのだ。復員のとき持って帰った靴や外套を、私はすでに食うために売りとばしていた。あとは今着ているやつだけであった。戦争がすんでまだ四箇月も経(た)たないというのに、私はあらかた持物を売りつくして、止むなく今の勤め先に入ったという訳であった。復員後ただちに上京してみると、私がつとめていた会社のあたりは焼野原になっていて、焼けのこったくさむらの中で蟋蟀(こおろぎ)がないているだけであった。社はどこに行ったのか判らなかった。こんな具合で私はうやむやの中に失業したのであった。そして二箇月ばかり売り食いしてあそんだ。だから金銭的な意味では、私は貪窮の底にいたのだ。

 今の勤め先というのも、私は新聞広告でみて履歴書を持って行った処であった。すぐ採用ときまったけれども、給料はいくらなのかまだ判らなかった。月末になってみないことには私には見当がつかなかった。しかし給料であるからには、食えるだけは呉れるだろうと、漠然たる期待を私は胸にあたためていたのである。その勤め先の事務所は、神田にあった。焼げビルをトタン板などで修理したきたない建物の二階だった。[やぶちゃん注:「昌平橋」グーグル・マップ・データのこちらで以上に出た地名はカバーされている。]

 

 凸凹になった階段をのぼってゆくと、雑然と机が並んでいて、仕事は八時半から始まった。会長というのは体格のいい壮年の男であった。八時半になると全員があつまって、鼠みたいな風貌の庶務課長の号令で、宮城追拝と会長どのへの敬礼をおこなった。戦争も終って世の中が大きく転換しようというのに。

「宮城にたいしたてまつり最敬礼!」

「会長どのにたいし敬礼!」

 こんな号令のもとで頭を下げねばならぬことは、まことにまことに不本意なことであったけれども、給料を貰って飯をくうためには仕方がないことだ、と私は自分に言いきかせるのであった。しかしそれでも頭を下げる瞬間は、屈辱のために顔の筋肉が硬(こわ)ばるのをどうしようもなかった。それから一席会長の愚劣な訓辞があって、ばらばらに分れて自分の席にもどり、やっと仕事が開始されるというわけであった。

 此の会社の事業というのは、町角などに立看板を何枚も立てて、それを通行人に見せるという仕組のものであった。戦争中は情報局と組んで、焼夷弾はどうやって消すかとか、家庭菜園のつくり方だとか、ヒマを何のために作るかとか、そんな風なテーマを立看板の二十枚位に書いて町角にならべることを仕事としていたらしかった。もちろんその頃の金は情報局から出ていた。ところが戦争がすんで情報局が消滅してしまうと、この恰幅のいい会長は、こんどは自力で事業を運営する決心をしたらしかった。新聞広告までして人員を募集したというのも、そんな事情によるわけであった。毎朝の社長の訓辞よりすれば、この度は文化国家の建設とデモクラシイの啓蒙運動に全力をそそぐというのであるらしかったが、それにしては宮城などを最敬礼させることは少々おかしなことに思われた。しかし誰もそれについては変に思っていないようだった。皆諾々(だくだく)と最敬礼し、そしてのろのろと仕事についた。

 私の仕事というのは、立看板の構成をやることであった。入社早々私に与えられたのは、「大東京の将来」というテーマなのであった。未来の大東京が如何にあり、如何にあるべきか、ということを、二十枚の看板で都民にみせるわけであった。朝礼がすむと、私は自分の席にすわって、昨日のつづきの構成を考えはじめる。私の前は窓になっていて、そこから一面の焦土が江東の方にのびているのが眺められるのであった。ところどころ残った焼けビル、道路のはしに焼けただれた自動車の残骸、焼けトタン板の散乱、立ち枯れた樹々、そこのあたりを十一月の風がそうそうと吹きぬけている。この焦土の上に、どのような大東京がたてられるのか。そんな未来の東京を夢想することが、ここでの私の仕事であった。私は疲れた頭にむちうって、そんな夢想を組立て始める。――

 窓からつめたい風がはいってくるので、私たちは一日中外套を着たままであった。私の席の右隣は佐藤という男で、おそろしくよくしゃべるくせに、内容は何もないような感じの男であった。服の上から徴用工じみたカアキ色の上衣をかさねているので、小さな体軀(たいく)がなおのこと貧寒に見えた。左隣は長山アキ子という女で、これは私のもっとも厭な型の女だった。へんに高慢ちきなしゃべり方をする女で、彼女がもっているテーマは「アメリカ人の生活」という題目なので、ライフ誌とかそんな種類の米国雑誌を机の上に山とつんで、一日中それを眺めたり人の仕事にうるさく口出ししたり、実のところは仕事は何もしていないくせに、一番忙しそうな感じのする女であった。その他にも二三人いて、それがこの社の編輯(へんしゅう)部ということになっていた。その他に、庶務や会計や、ペンキ屋や図案部などがあることになっていた。

 仕事にかかり始めて一時間も経つと、ふたたび私は猛烈な空腹を意識し出すのだ。朝たべた飯などまたたく間に消化されつくして、胃(い)の腑(ふ)はすっかりからっぽになっているらしかった。時計の動きが何とおそく感じられることだろう。一時間も経ったかと思うのに、まだ十分しか動いていないのだ。こうなると、大東京の幻影もいちどきに消え果ててしまうのである。私は椅子の上で身体をもぞもぞ動かして貪乏ゆるぎをしながら、感覚をごまかそうと試みている。長山アキ子のふくらんだ頰ぺたが麵麭(パン)みたいに見えてきたりするのはそんなときなのだ。

 十一時半頃になると私は辛抱がしきれなくなって、そっと立ち上り、便所にゆくようなふりを装って部屋を出、凸凹の階段を一気にかけ降りる。昼飯の想像だけで腹がぐうぐう鳴っているのだ。汚ないアスファルト道を膝をがくがくさせながら私は急ぎ足であるいてゆく。今日のおかずは何だろう。そして二食分くえたらどんなにいいだろう。そんなことを熱心に考えつづけながら。――

 しかし大ていの場合、やはり私は一食で我慢する他はなかったのだ。そして他のお客たちが二食分を食べているのを眺めながら、私だけは一食で辛抱している。あんなに二食いっぺんで食べるのは、朝飯を抜いたからなのだろうか。それとも食券を買ったためだろうか、などと余計なことを考えながら、私は横目でチラチラとそれらをぬすみ見ているのだ。そんなときの私の眼付は、きっと飢えたけものの眼付をしているにちがいなかった。あるとき私がそんな風にして眺めていたとき、中年のよごれた服装の女だったが、ぎょっとしたように私の眼から膳を自分の方にひきよせたことがある。そのとき私はどんな顔つきをしていたのだろう。鏡がなかったから、自分の顔を見るよしもなかったが、そのときのことを思い出すたびに私の頭に浮んでくるあるひとつの情景がある。

 それは私が軍隊にいたときで、食卓番になって烹炊所(ほうすいじょ)に待っていると、烹炊所の片すみに残飯がごちゃごちゃ捨てられていた。その当時も私たちは極度に腹をすかしていた。ふと顔をあげて横に並んでまっているひとりの兵隊の顔をみたとき、私はある衝動が突然胸をつきあげてくるのをかんじた。それはやはり四十歳位の老兵で、無精ひげを伸ばした瘦せこけた兵隊だった。その瞳孔の開ききったような眼は、からからに乾いて、その残飯の山に吸いつけられているのであった。それは人間の眼ではなかった。ひとつの欲望だけがぎらぎらと露呈した眼であった。やせた頰の肉が反芻(はんすう)でもしているようにけいれんしていて、意識が全部それにうばわれていることは一眼であきらかだった。

短い時間ののち、ふと我にかえったように身ぶるいしながら顔を動かして、この老兵の眼が私とあったのだ。私の視線に気付くと老兵は照れたような弱々しい笑いを頰にうかベた。それはもう普通の人間の眼だった。しかし私はそのとき、何故ともなく顔をそむけたのを覚えている。

 あのような眼付を、食堂の中で俺はしているのではないか。そう思うと歯ぎしりしたくなるような焦噪が私をかり立ててくるのだった。歩いているときなどにそんなことが頭に浮ぶと、私は舌打ちしたり唾はきちらしたりしてそれから意識をのがれようとする。そのくせまた食堂に入ると、あたりを見廻す私の眼はおのずと険しい光を帯びてくるらしかった。それは自分でも判っていて、どうしようもないことであった。私の人間的なたしなみを破ってくるのもヽそのような切迫した生理であることを思うと、私は対象のないかなしい憤激を、核のように心に包んでしまうのであった。

 

 勤めは四時に終った。ところが夕食時間は五時からだから、私はその一時間をやはり自分の席にとどまっていた。ただ椅子にかけてぼんやりしているのである。

 皆が帰ってしまうと、小使がほうきをぶらさげて部屋の中をひとわたり掃除してあるく。私は腕組みをしたままじっとしている。一日のその頃になると変に疲れていて、身体を動かすのも大儀な位だった。階段の登り降りがもっとも身体にこたえた。掃除がすむと小使部屋の方から、物を煮る匂いや芋を焼く匂いがただよってきたりする。私は鼻をぴくぴく動かしながら、黙然(もくねん)としてすわっている。そのうちに五時が近づいてくるのである。

 五時五分前になると私は、やはりさまざまな食物の妄想を打ちきって、ゆっくりと立ち上る。外にはすでに夕闇がほのぼのと拡がりかかっているのだ。薄暗くなった階段を踏み外さないように一歩一歩、片手を壁に這わせて降りてゆく。そして焼けビルに一日の別れをつげる。

 夕暮の昌平橋食堂ほどわびしい風景は、あまりないだろうと思う。高い天井から裸電燈がいくつか下っていて、その底で人々は黙って手早く食事を済ますのだ。魚や大根を煮る匂いが河岸の方まで流れている。だから昌平橋を渡るときに、すでにおかずの種類の見当がつくほどであった。そして私は夜も一食だけを買うのだ。これを食べてしまえば、明日まで何も食えないと考えると、佗しさはひとしお深まるのであった。その佗しさの底にうずくまって、私は小量の食事をむさぼり食べる。

 食堂を出てから駅へ急ぐ途中にも、ふかし芋などをならべた露店が出ていて、見まいとしてもどうしても眼に入ってしまうのであった。眼に入っても、眺めるだけで私にはそれが買えないのである。月給日までの食費がやっと残っているだけなので、もしそんなものを買うためには、私は今着ている外套をでも売らねばならないのだった。だから露店のふかし芋などは、私にとっては単に食慾を刺戟するためにだけ存在するようなものだった。私の期待はただひとつ、今月末にもらえる月給の額にかかっていると言ってよかった。もしたくさん貰えれば、来月分の食費だけを取りのぞいて、残りで露店の食物を腹いっぱい食べてやろうと、私は本気で空想していた。そんなとき私の空想の対象となるものは、ふかし芋だとか黒麺鮑(くろパン)だとか、もっぱら安くて腹一杯になるものだけに限られていた。実現の可能性があるからこそ、空想の対象も現実的なものになるらしかった。朝の寝覚めの折のように、鰻(うなぎ)の蒲焼や天ぷらのイメージは、ここでは浮んではこなかった。

 またはるばる二時間も電車にゆられて、稲田堤に戻って行く途中私は、三食で済ました日は割当だけで辛抱したというかどで、ある満足を感じることもあった。しかしその満足には虚脱したような苦痛がかならず伴っていた。一日に三食分だけで我慢することを、毎日かさねて行けばどういうことになるのか。この暫(しばら)くの間で私の肉は胸から腕からごっそりと落ちていた。足首ですら指でにぎって余る位だった。だから満足というのも、翌日分に食いこむことから来る心痛がないというだけのものであった。

 そして七時半頃になって私はやっと稲田堤の駅に降り立つ。その頃は日はとっぷりと暮れていて、道をはさんでうす暗い燈のいろがあちこちに揺れているのだ。私は外套の中で身体をすくめながら、とぼとぼと家の方に戻って行く。私が家につくころは、この家のあるじたちは既に野良仕事を終えて、たいてい夕餉(ゆうげ)の最中であることが多かった。階段をのぼる前にちらと茶の間に視線を走らせると、必ず大きなおひつの中の真白な御飯がいきなり眼にとびこんでくるのであった。農家というのはいずれもそうであるらしいが、おかずは味噌汁かなにか極く簡単なもので、そのかわり鬼の牙のように真白な飯を、大きな茶碗に何杯も何杯も詰めこむらしかった。想像するだに重量感のある話であった。私はぎしぎしと階段をきしらせて二階にのぼってゆく。そして敷き放した寝床に外套のままころがりこむ。眼をぼんやり見開いて、今日一日のことを考えている。起き上って何事をもする気持が起らないのである。

 たまに、極(ご)くたまにではあったが、そんな私に階下からお茶をよびに来ることがあった。私は眼をかがやかして、そんな時とびおきて階下に降りて行く。茶の間の火鉢のそばには頑丈なあるじがすわっていて、卓の上にはふかし芋が山とつまれていたりするのだ。私ははやり立つ気持をおさえながら、先ずゆっくりと熱い茶をすする。芋の方を横目でにらみながら、ゆっくりお茶をすする。それは小便したいのをわざとこらえているような、嗜虐(しぎゃく)的な快感すらあるのだ。そしておもむろに、目星をつけておいた一番大きな芋を何気なく、ほんとに何気なくつまみあげる。しかしそれを唇のところまで持って行ったら、もう駄目なのだ。またたく間にむさぼり食べてしまう。そしてまた次のに手を伸ばしてしまうのだ。

 あるじというのは色の黒い武骨な男であった。そして大へん話好きであったことは、私のために好都合であるのかも知れなかった。というのは、彼の話を聞いてやることで、私の芋を食う時間を伸ばすことが出来たのだから。彼の話を長くさせるために、私は出来るだけ細心に、相槌打つべきところは抜目なく打ち、ときには適切な質問をはさんだりするのであった。あるじは徹底的な保守家で、自由党や進歩党の信奉者で、彼がもっとも嫌悪するのは共産主義であるらしかった。だから話はしばしば共産党の攻撃に走ったが、その場合でも私は抜目なく相槌を打つことを怠りはしなかった。あるじの言説に反対することで、私はお茶の招待を失うことが最もつらかったのである。いわば私はひとかけらの芋のために、思想をすら売りわたしたと言ってもよかった。また保守反動の輩であるこのあるじは、同時にもっとも現実家のひとりであって、彼がさげすむのはもっぱら生活力に乏しい男にかぎられていた。近所の連中の噂などをするときに、その傾向ははっきりあらわれた。このあるじの二階、つまり私がいる部屋には、以前小説家のT・I氏が下宿していたということだった。私はまだその頃T・I氏に面識はなかったが、あるじの話によればおそろしく生活力の乏しい人間であるらしかった。とにかく夏冬を通じてよれよれの国民服一着しか持たず、ちょこちょことそこらを歩き廻り、話すことといったら訳の判らないことや間の抜けた話ばかりだということだった。あるじがT・I氏のことを話すときは必ず憫笑(びんしょう)の口調を帯びていて、T・I氏をもっとも役に立たぬ人間だときめていることはまことに明かであった。

 「あんなのが芸術家だというんかね。あれで小説書けるというのがふしぎだね。読んだことはないけんど、どうせろくな小説じゃあんめえよ」

 私は、天文学のかけらが散らばったようなT・I氏の幻想にみちた小説を思いうかべながら、あわてて相槌をうって、そのついでにまた手を芋の方に伸ばす。ときにはあるじと一緒になってT・I氏を憫笑したりするのであった。やはりひとかけらの芋のために、私は芸術家のたましいも売りわたしてしまったものらしかった。[やぶちゃん注:「T・I氏」この段落の主人公の評した小説の印象から、怪作家稲垣足穂(明治三三(一九〇〇)年~昭和五二(一九七七)年)と考えてよい。私は若い頃に代表作数冊を読んだが、正直、好きな作家ではない。従って、後にも言及されるが、注をする気はない。]

 いい加減食べ終ると、まだ食べたい気持をねじ伏せ、(あんまり食べるとこの次からお茶によばれなくなるかも知れないので)私はあいさつして二階にのぼってゆく。頭の片すみに鈍い悔いと後味のわるい満足感をおぼえながら、つめたい寝床にもぐりこむ。

 しかしこんなことはほんとにまれであった。大ていの夜はそのままぐったりと寝床に入って、じっと空腹に耐えていることが多いのだ。こんなに腹が減るものなら、夕食をもう一人前余計に食べてくればよかったと思っても、もうおそいのである。食べに行こうと思っても往復四時間もかかるし、だいいちそんな時間に食堂が開いている筈がないのだ。私は電燈を消して、しらじらと寝床の中に平たくなっている。腹が減っていて、なかなか寝つけないのだ。土間に積んである芋を便所のかえりにそっと盗んできてやろうかなどと考えたり、寝覚のときのように食物の幻想のオナニーに意識的に入って行ったりする。そのうちにうとうとと、睡眠の予覚として感官の息ぐるしい錯乱が始まってくるのだ。私の幻想はそのまま夢の中に引きつがれて、私は夢の中でも食物と格闘している。そして長い夜がすぎて、水の中からいきなり引っぱり上げられるような具合に眼がさめる。晩方のひえびえした空気の中で、枕許の時計が必ず四時を指しているのである。

 

 日曜日というと私のもっとも苦心する日であった。

 先にも書いたように、私の命の綱の食堂は昌平橋にあったから、もし食事しようと思うならそこに出かけてゆく他はなかった。ところが往復に四時間かかるとすれば、朝昼晩にそれぞれ四時間を費して昌平橋に通うとしても、合計十二時間というものが食べるための往復に必要なわけであった。いくら空腹であるとしても、それではあまりにむなしい話であった。だから私は日曜日だけは苦心さんたんして自分の家で食べる工夫をこらした。うちで一日食べるということは、翌日に六食分たべられるということにもなる訳(わけ)だった。しかし実際は前からの食い込みを補充するだけにとどまっていたけれども。

 私は乏しい銭の中から十五円をさいて、あるじから芋か一貫目求めておいた。あるじはそれを私に売るときに、特別に安くしておこう、と十五円にしたのだけれども、十五円というのはその頃の相場であって、決して安いわけではなかった。私はそれを風呂敷にくるんで床の間にかざって置いた。十五円は相場で、決して安いわけでもないのだけれども、結局安いものについた。というのは、私はときどき人目をぬすんで土間からひとつふたつと芋をちょろまかして、私の凧呂敷に補充したからであった。そんな行為をなすことにおいて、私は胸がいたまなかったわけではない。しかし直接私に来るものは、良心の苛責(かしゃく)というような正統派のものではなくて、おそろしく惨めな敗北感であった。人気のないのを見すまして乾いた泥のついたままの芋をふところに押しこんで、何食わぬかおをして二階に上ってくる。そして四周(まわり)を見廻してそっと風呂敷の中にそれを押しこむ。それから部屋の真中にすわっていると、言いようもなくかなしい気持になってきて、私は掌で頭をかかえたまま、どうぞどうぞ、とか、さてさて、などと意味のないことをしばらく呟きつづけている。ふところに残った乾いた泥が、腹の肌に入りこんでじゃりじゃりと厭な感触ですベりおちるのだ。この行為が衝動的なものでなく、計画的であることが、私の嫌悪をもっともそそるのであった。

 日曜日という日は、出来るだけ長い間寝床に私は止っている。動くことによる体力の消耗(しょうもう)をさけるためであった。そしていよいよ我慢が出来なくなると、ごそごそと起き出して風呂敷包みをたずさえ、家を出てゆく。小川が流れていたり柿の実が赤く点じていたり、そんな田舎道をぶらぶらあるいて、適当な地形までくると、私は木片や枯葉をあつめてきて焚火を始める。芋をその中に埋めておくのだ。私が適当な地形というのは、人里はなれてどちら向いても人影が見えないような地形なので、私はこの貧しい饗宴(きょうえん)を人の眼からはなれた場所でやりたいのであった。何故という理由はない。ただただそんな気持だった。いつも何か食ベるときは、誰か人間が近くにいて、私はなにか対立するもののようにものを食べているのだ。それが厭だったのかも知れない。とにかく私は人気のないところで、心ゆくまで芋を食べたかった。他人を意識しないで、傷つけもせず傷つけられもしないまどかな状態で、私はゆっくり私の食事をとりたかったのだ。それは犬が食物をくわえて、遠くの方に行って自分ひとりで食べたがるのにも似ていた。

 芋が焼けてくると、私は待ち切れずに掘りおこして、手に持ちかえ持ちかえしてそれに食いつく。歯の根がじんと疼(うず)くほど熱い。ひとつ食べ終ると次を、また次を、私は長いことかかって食べ終える。ある充足感と空白感がするどくからみ合って私の胸にひろがってくる。そのときでも、この芋の中に盗んだ芋が入っているということが私にはかなしくなってくるのだ。しかしぎりぎりに切りつめた予算では、毎日曜をこんなに芋で食い伸ばすには、そのような方法を私はとらないわけには行かなかった。あんなに沢山土に積んであるのだから、と私は弱々しく心をなだめにかかる。供出の方はどうなっているかは知らなれけれども、買出し客にここのあるじが闇値でさばいているのは、私が何度も見たところであった。しかし私のやり方が計画的な盗みであることは、動かしがたい事実であるので、やり切れない感じはすべてそこから発しているらしかった。

 盗みという点では、私のやったことはそれだけではなかったのだ。まだ他にもあった。それもやはり食物であった。家から稲田堤の駅にゆく途はいろいろあって、私がわざといつもえらぶ途(みち)は、裏の方から畠のなかを通りぬける途であった。そこには柿の木が何本も生えていて、もちろんこれは自然に生えたものではなく、果樹として栽培されているものだが、それが赤い大きな実をいくつもぶら下げているのであった。朝の寝床の中の妄想のあとで、消耗した視神経にも、その艶やかないろどりは充実した生命のように圧倒的であった。並木になっていて、最初の四五本は見ぬふりして通りすぎるが、あとずらずらと並んでいるのが見ると、私は眼がすこしくらんできて、気がつくときはもうふらふらと手が柿の梢にかかっている。ぽきんと枝が折れるにぶい音がして、重くつめたい柿の果実は、もはや私のポケットに入っているのだ。私はそして顔中から汗を吹き出しながら、足早にそこを通りぬけて行くのである。

 しかしこれすらも必ずしも衝動的なぬすみとは言えないのだ。なぜというと、わざわざその途(みち)をえらばずとも、他にも駅へ行く途はあるのだから。その途をえらぶことについて、私はあらかじめ自分の自制力の弱さを計算に入れているのかも知れなかったのだから。

 畠を出外(はず)れてからおもむろに私は柿をとり出す。そしてそれを噛りながら、駅の方にあるいてゆく。駅につくまでには、種だけをのこしてあとは全部私の腹の中に入っている。食べた片端から吸収されて、私の栄養となって行くのではないかと思われるほど、それは美味で、すぐに元気がでた。その元気もわずかの間だけで、やがてもとの空腹の虚脱感がもどって来るのであったけれども。

 その柿の木は、裏の百姓の吉田さんの所有物であった。ある日曜日私が吉田さんの家にあそびに行ったとぎ、話が果樹のことなどに落ちて、吉田さんはふと思いだしたように言った。

「ちかごろ、俺んちの柿をかっぱらうやつがあるらしいんだ。枝が折れてるし、葉が散っているしさ。なに、ひとつやふたつ大したことじゃねえけどよ。かっぱらわれるとなればしゃくに障(さわ)るからな。つかまえたら足腰立たぬほどぶちのめしてやるから」

 そう言いながら、吉田さんの眼は探るように私を見たようでもあったし、それは私の気のせいであったような気もする。

「あんたもな、そんな奴めっけたら、遠慮なくしょょぴいて呉んろよな」[やぶちゃん注:「しょょぴいて」は底本のママ。「しょっぴいて」の誤植であろう。]

 私はだまってうなずいた。うなずくより手がないではないか。私はそのとき、お猿みたいにまっかな顔をしていたに違いないのだ。

 

 未来の大東京の構想は、なかなかはかどらなかった。此のテーマを最初にあたえられたときは、仲々やり甲斐のあるような気もしていたが、さて引受けてみると、さっぱり興味が湧いてこないのはふしぎな程であった。私は一日中椅子にかけてうつらうつら食うことの妄想ばかりしていて、焦土にどんな都市を建設するかということには、ほとんど心をむけていないと言ってもよかった。しかし何も構想を立てていないということは、やはり都合がよくないので、あれこれ心覚えだけをノートしたりしているのだが、しかしこの惨めに飢えた私にとって、この大東京にどんな道路をつくり、どんな集団住宅をたて、どんな交通機関を設置するか、ということがどんな関連があるというのだろう。私の頭に先ず浮んでくる理想の大東京とは、実際のところを白状すれば、おでん屋や鰻(うなぎ)屋やそば屋がずらずらとならんだ、そして安いお金でどんなにでも飲み食い出来る都市なので、それ以外には何もないのだ。緑地帯も集団住宅も何も必要ではない。東京全都が食物屋だらけになればよいのである。これが私の大東京の構想の本音であった。しかしこんな構想を提出したら、皆から笑殺されるだろうということは、私といえども充分に承知している。だんだん日限がせまってくるので、私も少しあわて出し、都の建設局などに日参して資料をあつめたりし始めた。

 新参者の私がどんな風に仕事をすすめているのか、それが気がかりなのか、又は単なるおせっかいなのか、隣席の佐藤や長山アキ子はうるさく私の進行を探りにくる。私はそっとして貰いたいのに、二人とも色々鎌をかけたりした揚句、私にむかって未来の大東京はかくあらねばならぬ、というようなことを講義までして聞かせるのだ。長山アキ子の方はことに烈しかった。三十二三歳の老嬢で、顔はむくんだようにふくれていて、一昨日の麺鮑(パン)のような趣きを呈していた。おそろしく口が達者である。彼女の意見にたいして私が異をはさもうものなら、躍気(やっき)となって言いつのって来るのだ。英語のある単語の綴りのことで私と彼女と意見を異にしたことが一度あって、そのときは物別れになったが、翌日彼女はわざわざ目宅から物すごく大きな英和大辞典をかかえてきて、自説の正しさを主張した。もちろん私の方が誤りであった。私があやまると、長山アキ子は高慢そうに鼻翼をぴくぴくうごかして、私に言った。

「あまり自信のないことは、強く主張なさらない方がいいことですのよ」

 英和大辞典をあの満員電車にもまれながら抱えて来たというのも、ただ私をやっつけるためだけなので、仕事の方で必要だという訳でない証拠には、その夕方直ぐそれをかかえて帰ったことからでも判る。

 こんなことがあったし、また色々なこともあって、私は佐藤や長山アキ子をあまり好んでいないことも、私の感情としては自然であった。しかしただ一点において、私は此の二人に親近感をかんじていたのである。それはどの一点かというと、二人の昼食の弁当がきわめて小量で貧しいということだった。私の席からぬすみ見るところによれば、弁当箱に入っているのは、小さな芋のきれはしだけであるとか、得体の知れない色をした手製の麵麭であるとか、それらが弁当箱のかたすみにちょっぴり入っているだけであった。外食食堂の食事よりもっと貪弱であった。佐藤は貧寒な顱頂(ろちょう)を弁当箱にかぶせるようにして食べていたし、長山アキ子は箱のふたを屛風(びょうぶ)のように立てて、内容をかくしながら食べた。この瞬間にだけ、佐藤も長山アキ子も対立の距離か一足とびに越えて、私と身体を接して立っていると言ってもよかった。彼女が日中いそがしそうに動き廻っているのも、あるいは私と同じく食物の妄想を払いのけようともがいているのかも知れなかった。長山アキ子のふくらんだ頰も、営養不足のためむくんでいるのかも判らなかった。佐藤にいたっては、階段をのぼるとき足ががくがくすると言って、ふしぎそうにズボンをまくり上げてじっと膝頭を眺めていたりするのだ。膝頭は蒼白くぴょこんと飛出していた。私の膝頭と同じ形で同じ色だった。私は胸があつくなるような気持で、それを眺めるのだった。なぜみんな、へんにむくんだり蒼白く瘦せたりするのだろう。この会社でいちばん血色がよく肥っているのは会長であった。ぐっと反身(そりみ)になるとチョッキがはち切れそうだった。金鎖がそこの辺にからんでいて、反身のまま会長はがらがらした声でおろかな訓辞をするのであった。体格はあまり良くなかったが、次に血色のいいのは、あの鼠みたいな感じのする庶務課長であった。それから順々に青白くやせたりむくんだりしてきて、一番どんじりの辺に私や佐藤や長山アキ子がいるという訳だった。総じて編輯部にいる連中は、顔色があまりよくないと言ってよかった。このことは、私の親近感をそこでつなぐと同時に、私にある一つの危惧をあたえることにもなっていた。それは、あのような貧しい弁当しか持参できないとすれば、編輯部の給料が極く少いのではないかという危惧であった。私が今の状態を脱して、人並みな生活を出来るかどうかという期待は、月末にもらう私の給料にかかっているわけだから、私としても彼等の生活ぶりに多大の関心を持たざるを得ない訳であった。ことに私は新参のものだから、佐藤や長山より給料が少いにきまっていた。それを思うと、さむざむとしたものが私の心の中にゆるゆる、と拡がってくるのであった。

 

 昌平橋の食堂に出入するのは、おおむね汚ない恰好のものばかりだった。ちゃんとした洋服を着ているのは、数えるほどしかいなかった。

 外食食堂にも自らなる格式があるらしく、身なりの良いのは神田でも外の店に行ってしまうようであった。ここだけは落葉の吹きだまりみたいに、なにか脱落した風貌の連中が集ってくるらしかった。しかし身なりだけは、ふところ具合と別だった。れいの表に屯(たむろ)している男たちの中でも、うすよごれた鞄の中に煙草や紙幣束や外食券などたくさん詰めこんでいるのがいて、時間になると日だまりの中で取引が盛んに行われた。寒い日は食堂の内が取引の場所になった。

 ここに出入するものの中には女もいて、女の方がかえってたくさん金を持っているように見えた。しょっちゅう見かける顔のひとりに二十歳位の若い女がひとりいて、いつも二食分ずつ食事をしていた。そのことだけでこの女は私の羨望の対象だった。二食分たべるということを除けば、この女はすべて貧しい身なりであった。いつも青いもんぺを穿いていたが、どういう訳かそれが少し破れていて、下着をつけていないのか裸の尻の一部分がむき出しにのぞかれた。いつまで経っても縫う気配もなかった。上衣もだぶだぶで、ずいぶんよごれていた。この女も品物をどこからか持ってきて、取引を上手にやるらしかった。私も一度この女から時計を買わないかとすすめられたことがある。私のように一食しかくえないものが、何時も二食たべる此の女から、どうして時計など買うことが出来るだろう。私がどぎまぎして断ると、女はさげすむような笑いをのこして、もうそれからは私のところには寄ってこなかった。斜視ぎみの、ちょっと整った顔の女であった。[やぶちゃん注:この女性とかなり酷似した女性をメインに据え、時期もロケーションも概ねそっくりな設定の短編を、梅崎春生は、後の昭和三一(一九五六)年三月号『新女苑』に発表された「ある少女」(電子化注済)で描いている。彼の敗戦直後の作品で盛んに描かれるこの外食券食堂についても、冒頭で、私の「猫の話」の授業案のそれを参考にして注してあるので読まれたい。]

 なかには一どきに三食も、ごくまれには四食分も一人で取って食べる男もいた。そういうのが前にすわると、私は自分の一食の膳がやりきれなくなるほど少く見えて来るのであった。食堂ではやはり、身なりや人格ではなくて、余計に食える力があるということが絶対であった。たとえば碁会所においては、身分の上下は間題でなく、碁が強ければ皆から畏敬されるのと同じことだった。その意味においては、私は比の食堂においては、もっとも侮蔑される階級に属しているわけであった。しかし私のように、一食宛(ずつ)しか原則として食わないのも、他にも多数いたのである。それはおおむね顔が蒼白く、弱々しい身体つきの男たちであった。私もはたから見れば、そんな風貌に見えるにちがいなかった。彼等はあるくときも、膝から力を抜いたような歩き方をした。膝頭が私もがくがくする処から見ると、私もそんな歩き方をしているものらしかった。

 肉体の不調は膝頭だけではなかった。あらゆる部分に微妙にひびいてくるものらしかった。五官の倒錯すらときには起った。あんなに腹をすかせて食堂にかけつけても、さて食べる段になると、消ゴムを噛むように味がなく、咽喉(のど)になかなか通らないこともあった。いつもは塩辛い味噌汁が、へんにあまく感じられることもあった。朝の四時にぴたっと眼がさめるというのも、なにかそれと関係があるらしかった。

 稲田堤のあるじとの交渉で、私は食事付を希望したのだけれども、あるじはどうしても首をたてに振らなかった。理由は、気を使うのがいやだということだった。しかし考えて見れば、私に食わせる米を(それも僅かな下宿料で)横に流した方がはるかに利益が多いにきまっていた。T・I氏は食事付で入っていたということだった。そのことについても、あるじは憫笑(びんしょう)的な口調で慨嘆(がいたん)した。

「あの人はね、飯食うのが早すぎるよ。チョコチョコチョコと三杯も四杯もたべて、そしてぷいと立って行くんだよ。飯というものはね、やはりゆっくり食べてこそ味が出るもんだね」

 T・I氏がなぜこの農家を出たのか、それについてはあるじは口をつぐんで語らなかったが、しかし彼の話の感じからいえば、円満退宿という訳ではなさそうな気ぶりが感じられた。T・I氏は今はD自動車会社の独身寮にいるということだった。しかし戦争が終って、もはや徴用という悪法も撤廃されたわけだから、氏もすでにその会社とは縁が切れている筈であった。しかもなおその寮に止まっているのも、家がないからに違いなかった。その点は私も同じであった。都心から二時間以上もかかるこんな草深い田舎に、誰が好んで住みたがるだろう。部屋さえあれば、そして部屋代さえ適当であれば、外食するとしても都内の方がずっと良いにきまっていた。しかし部屋を探す暇さえ私にはなかったのだ。食うことを妄想することで、私の一日は終ってしまうのであった。

(俺ならチョコチョコチョコと飯を食わないで、ゆっくりと食って見せるんだがなあ!)

 会社から疲れ果てて戻ってきて、寝床に虚脱したように横たわりながら、私はいつもそう考えた。階下からはそんなとき、常に食事の匂いや音が流れてくるのであった。眼を閉じてじっとしていると、階下の茶の間の情景が眼に見るよりはっきり感じられた。あるじの厚い唇に吸いこまれる味噌汁や、おかみさんの色褪(あ)せた唇に運ばれる真白い御飯や、おじいさんにぱりぱりと噛まれる沢庵(たくあん)のいろが、おどろく程の現実感をもって私の想像の中の座を占めて来るのだった。

 生唾をのみこみながら、現代にはふたつの階級しかない、というようなことを私は苦しまぎれに考えたりするのだ。それは充分食べている階級と、充分食べていない階級とであった。そしてそれは外見や身分からでは絶対に判らないのだ。しゃんとした恰好をしていて飢えている人もいるし、あの青モンペの女のように身なりは汚なくても充分食べている人種もいるわけだった。私にいたっては名実ともに食えない方に属していて、それははたから見てもすぐに判るものと思われた。とにかく軍隊の一年半の生活から戻ってきて、いきなりこんな世界にとびこんだわけであった。そんな風(ふう)に狂った世界には、必ずどこか抜道があるとは承知していたが、さてそれが何処にあるのか、未だ私は見当がつきかねていた。だから一番愚直な生き方をしようとして、その揚句芋や柿を盗む破目に陥り、自分を責めることでますます傷だらけになって行くらしかった。私は毎日を追いつめられた姿勢で生きていた。私の胸を寒くしてくるのは、このような日々を重ねてゆくことで、どんな風に私がなって行くのだろうという予感めいたものであった。もはや私を支えるものは何もなかった。ひとかけらの芋のために全世界を売ってもいいというような価値の転倒が、未来のある瞬間に私の胸の中に結実するかも知れなかった。佐藤や長山アキ子に対する私の親近感も、ただ貧弱な弁当というせまい一筋でつながっていることを思えば、私は人間への愛情をもはや欲望の仮託とすりかえているのかも知れなかったのだ。

 

 それでもやっとのことで、私は「大東京の将来」に関する構想をまとめ上げることができた。

 私が無理矢理に拵え上げた構想のなかでは、都民のひとりひとりが楽しく胸をはって生きてゆけるような、そんな風の都市をつくりあげていた。私がもっとも念願する理想の食物都市とはいささか形はちがっていたが、その精神も少からずこの構想には加味されていた。たとえば緑地帯には柿の並木がつらなり、夕昏(ゆうぐれ)散歩する都民たちがそれをもいで食べてもいいような仕組になっていた。私の考えでは、そんな雰囲気のなかでこそ、都民のひとりひとりが胸を張って生きてゆける筈であった。絵柄や文章を指定したこの二十枚の下書きの中に、私のさまざまな夢がこめられていると言ってよかった。このような私の夢が飢えたる都市の人々の共感を得ない筈はなかった。町角に私の作品が並べられれば、道行く人々は皆立ちどまって、微笑みながら眺めて呉れるにちがいない。そう私は信じた。だから之を提出するにあたっても、私はすこしは晴れがましい気持でもあったのである。

 会長も臨席した編輯(へんしゅう)会議の席上で、しかし私の下書きは散々の悪評であった。悪評であるというより、てんで問題にされなかったのである。

「これは一体どういうつもりなのかね」

 私の下書きを一枚一枚見ながら、会長はがらがらした声で私に言った。

「こんなものを街頭展に出して、一体何のためになると思うんだね」

「そ、それはです」と私はあわてて説明した。「只今は食糧事情がわるくて、皆意気が衰え、夢を失っていると思うんです。だからせめてたのしい夢を見せてやりたい、とこう考えたものですから――」

 会長は不機嫌な顔をして、私の苦心の下書きを重ねて卓の上にほうりだした。

「――大東京の将来というテーマをつかんだら」しばらくして会長ははき出すように口をきった。「現在何が不足しているか。理想の東京をつくるためにはどんなものが必要か。そんなことを考えるんだ。たとえば家を建てるための材木だ」

 会長は赤らんだ掌をくにゃくにゃ動かして材木の形をしてみせた。

「材木はどこにあるか。どの位のストックがあるか。そしてそれは何々材木会社に頼めば直ぐ手に入る、とこういう具合にやるんだ」

 会長は再び私の下書きを手にとった。

「明るい都市? 明るくするには、電燈だ。電燈の生産はどうなっているか。マツダランプの工場では、どんな数量を生産し、将来どんな具合に生産が増加するか、それを書くんだ。電燈ならマツダランプという具合だ。そしてマツダランプから金を貰うんだ」[やぶちゃん注:「マツダランプ」実在する電球の商標名。「MAZDA」で、一九〇九年にアメリカで創設された白熱電球などのブランドが元である。その電球は実際に「マツダランプ」(MAZDA Lamp) と呼ばれた。当該ウィキによれば、『ブランド名はゾロアスター教の最高神アフラ・マズダー (Ahura Mazdā) に由来』し、『日本では、東芝グループの照明器具メーカー東芝ライテックが標準電球を製造販売している。かつては東芝から一般電球・真空管などが販売されていた』とあり、『日本では東芝の母体の』一『つである東京電気がライセンスを受け』、明治四四(一九一一)年に『にタングステン電球「マツダランプ」を発売』、『「丸に縦書きでマツダ」のロゴで、電球のほか』、『真空管、真空管ラジオなどが製造販売された』とある。「日本郵船歴史博物館」公式サイトの「マツダランプ」にも解説と当該商品画像がある。]

 ははあ、とやっと胸におちるものが私にあった。会長は顔をしかめた。

「緑地帯に柿の木を植えるって? そんな馬鹿な。土地会社だ。東京都市計両で緑地帯の候補地がこれこれになっているから、そこの住民たちは今のうちに他に土地を買って、移転する準備したらよい、という具合だ。そのとき土地を買うなら何々土地会社へ、だ。そしてまた金を貰う」

 佐藤や長山アキ子や他の編輯員たちの、冷笑するような視線を額にかんじながら、私はあかくなってうつむいていた。飛んでもない誤解をしていたことが、段々判ってきたのである。思えば戦争中情報局と手を組んでこんな仕事をやっていたというのも、憂国の至情にあふれてからの所業ではなくて、たんなる儲け仕事にすぎなかったことは、少し考えれば判る筈であった。そして戦争が終って情報局と手が切れて、掌をかえしたように文化国家の建設の啓蒙をやろうというのも、私費を投じた慈善事業である筈がなかった。会長の声を受けとめながら、椅子に身体を硬くして、頭をたれたまま、私はだんだん腹が立ってきたのである。私の夢が侮蔑されたのが口惜しいのではない。この会社のそのような営利精神を憎むのでもない。佐藤や長山の冷笑的な視線が辛かったのでもない。ただただ私は自分の間抜けさ加減に腹を立てていたのであった。

 その夕方、私は憂欝な顔をして焼けビルを出、うすぐらい街を昌平橋の方にあるいて行った。あれから私は構想のたてなおしを命ぜられて、それを引受けたのであった。しかしそれならそれでよかった。給料さえ貰えれば始めから私は何でもやるつもりでいたのだから。憂欝な顔をしているというのも、ただ腹がへっているからであった。膝をがくがくさせながら昌平橋のたもとまで来たとき、私は変な老人から呼びとめられた。共同便所の横のうすくらがりにいるせいか、その老人は人間というより一枚の影に似ていた。

「旦那」声をぜいぜいふるわせながら老人は手を出した。「昨日から、何も食っていないんです。ほんとに何も食っていないんです。たった一食でもよろしいから、めぐんでやって下さいな。旦那、おねがいです」

 老人は外套も着ていなかった。顔はくろくよごれていて、上衣の袖から出た手は、ぎょっとするほど細かった。身体が小刻みに動いていて、立っていることも精いっぱいであるらしかった。老人の骨ばった指が私の外套の袖にからんだ。私はある苦痛をしのびながらそれを振りはらった。

「ないんだよ。僕も一食ずつしか食べていないんだ。ぎりぎり計算して食っているんだ。とても分けてあげられないんだよ」

「そうでしょうが、旦那、あたしは昨日からなにも食っていないんです。何なら、この上衣を抵当に入れてもよござんす。一食だけ。ね。一食だけでいいんです」

 老人の眼は暗がりの中ででもぎらぎら光っていて、まるで眼球が瞼のそとにとびだしているような具合であった。頰はげっそりしなびていて、そこから咽喉(のど)にかけてざらざらに鳥肌が立っていた。

「ねえ。旦那。お願い。お願いです」

 頭をふらふらと下げる老爺よりもどんなに私の方が頭を下げて願いたかったことだろう。あたりに人眼がなければ私はひざまずいて、これ以上自分を苦しめて呉れるなと、老爺にむかって頭をさげていたかも知れないのだ。しかし私は、自分でもおどろくほど邪険な口調で、老爺にこたえていた。

「駄目だよ。無いといったら無いよ。誰か他の人にでも頼みな」

 暫(しばら)くの後私は食堂のかたい椅子にかけて、変な臭いのする魚の煮付と芋まじりの小量の飯をぼそぼそと噛んでいた。しきりに胸を熱くして来るものがあって、食物の味もわからない位だった。私をとりまくさまざまの構図が、ひっきりなしに心を去来した。毎日白い御飯を腹いっぱいに詰め、鶏にまで白米をやる下宿のあるじ、闇売りでずいぶん儲けたくせに柿のひとつやふたつで怒っている裏の吉田さん。高価な莨(たばこ)をひっきりなしに吸って血色のいい会長。鼠のような庶務課長。膝頭が蒼白く飛出た佐藤。長山アキ子の腐った芋の弁当。国民服一着しかもたないT・I氏。お尻の破れた青いモンペの女。電車の中で私を押して来る勤め人たち。ただ一食の物乞いに上衣を脱ごうとした老爺。それらのたくさんの構図にかこまれて、朝起きたときから食物のことばかり妄想し、こそ泥のように芋や柿をかすめている私自身の姿がそこにあるわけであった。こんな日常が連続してゆくことで、一体どんなおそろしい結末が待っているのか。それを考えるだけで私は身ぶるいした。

 食べている私の外套の背に、もはや寒さがもたれて来る。もう月末が近づいているのであった。かぞえてみるとこの会社につとめ出してから、もう二十日以上も経っているわけであった。

 

 私の給料が月給でなく日給であること、そしてそれも一日三円の割であることを知ったときの私の衝動はどんなであっただろう。それを私は月末の給料日に、鼠のような風貌の庶務課長から言いわたされたのであった。庶務課長のキンキンした声の内容によると、私は(私と一緒に入社した者も)しばらくの間は見習社員というわけで、実力次第ではこれからどんなにでも昇給させるから、力を落さずにしっかりやるように、という話であった。そして声をひそめて、

「君は朝も定刻前にちゃんとやってくるし、毎日自発的に一時間ほど残業をやっていることは、僕もよく知っている。会長も知っておられると思う。だから一所懸命にやって呉れたまえ。君にはほんとに期待しているのだ」

 私はその声をききながら、私の一日の給料が一枚の外食券の闇価と同じだ、などということをぼんやり考えていたのである。日給三円だと聞かされたときの衝動は、すぐ胸の奥で消えてしまって、その代りに私の手足のさきまで今ゆるゆると拡がってきたのは、水のように静かな怒りであった。私はそのときすでに、此処を辞める決心をかためていたのである。課長の言葉がとぎれるのを待って、私は低い声でいった。

「私はここを辞めさせて頂きたいとおもいます」

 なぜ、と課長は鼠のようにずるい視線をあげた。

「一日三円では食えないのです。食えないことは、やはり良くないことだと思うんです」

 そう言いながらも、ここを辞めたらどうなるか、という危惧(きぐ)がかすめるのを私は意識した。しかしそんな危惧があるとしても、それはどうにもならないことであった。私は私の道を自分で切りひらいてゆく他はなかった。ふつうのつとめをしていては満足に食べて行けないなら、私は他に新しい生き方を求めるよりなかった。そして私はあの食堂でみる人々のことを思いうかべていた。鞄の中にいろんな物を詰めこんで、それを売ったり買ったりしている事実を。そこにも生きる途(みち)がひとつはある筈であった。そしてまた、あの惨めな老爺にならって、外套を抵当にして食を乞う方法も残っているに相違なかった。

「君にはほんとに期待していたのだがなあ」

 ほんとに期待していたのは、庶務課長よりもむしろ私なのであった。ほんとに私はどんなに人並みな暮しの出来る給料を期待していただろう。盗みもする必要がない、静かな生活を、私はどんなに希求していたことだろう。しかしそれが絶望であることがはっきり判ったこの瞬間、私はむしろある勇気がほのぼのと胸にのぼってくるのを感じていたのである。

 その日私は会計の係から働いた分だけの給料を受取り、永久にこの焼けビルに別れをつげた。電車みちまで出てふりかえると、曇り空の下で灰色のこの焼けビルは、私の飢えの季節の象徴のようにかなしくそそり立っていたのである。

 

 飢餓の季節はこれで終ったわけではない。それから二年経った今でも私の飢えはつづいている。あの稲田堤の農家から、まもなく私も引越した。それから流転の生活が私に始まった。

 あの会社も、その後どうなったのかよく知らぬ。私がやめて二箇月程して、新聞紙上でその会社に待遇改善の争議が起ったことをよんだ。そのリーダーとして、あの佐藤と長山アキ子の名前が記されていたのである。そしてそのことで会長が激怒して、即日二人をクビにしたといったような記事であった。私はその記事を、飢餓と貧窮のどん底で読んだ。

 ほんとに私は何と長い間おなかを空かせてきたのだろう!

 

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