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« 多滿寸太禮卷第四 弓劔明神罸邪神事 | トップページ | 「南方隨筆」底本正規表現版「紀州俗傳」パート 「十四」 »

2022/07/12

「南方隨筆」底本正規表現版「紀州俗傳」パート 「十三」

 

[やぶちゃん注:全十五章から成る(総てが『鄕土硏究』初出の寄せ集め。各末尾書誌参照)。各章毎に電子化注する。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(ここから)で視認して用いた。また、所持する平凡社「選集」や、熊楠の当たった諸原本を参考に一部の誤字を訂した。表記のおかしな箇所も勝手に訂した。それらは一々断らないので、底本と比較対照して読まれたい。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。なお、「嬉遊笑覽」の引用は二種の原本(二種はそれぞれ表記・表現が有意に異なる。後注参照)を参考に独自に変更を加えた。太字は底本では傍点「﹅」、太字下線は傍点「○」。また、一部、読み難いと判断した箇所に括弧記号を特異的に添えた。

 本篇の各章は短いので、原則、底本原文そのままに示し、後注で(但し、章内の「○」を頭にした条毎に(附説がある場合はその後に)、読みと注を附した。そのため、本篇は必要性を認めないので、PDF版を成形しないこととした。]

 

      十三、

 〇一極めの言葉(鄕硏三卷一號三七頁參照) 嬉遊笑覽卷六下に云く、古今夷曲集に、題不知、行安「小姬子の隱れごにさへ雜らぬは最早桂のは文字なるべし」。風流徒然草に、「其譯知れぬ事侍り、『隱れん坊に雜らぬ者はちつちや子持や桂の葉』とは子供の言ふ事也」と有り。行安の狂歌もこれを採れる也。(中略、注の中に、信田小太郞の淨瑠璃より、「隱れん坊に雜らぬ者は、楝(おふち)や辛夷(こぶし)や桂(かつら)の葉、草履隱し、肩車、足の冷たい、ちよこちよこ走り、」てふ詞を引く)。此戯れも一極(いちき)めとて鬼となる者を定むる事也[やぶちゃん注:以上の「一極め」のルビは底本では「いちき」の下方に判読不能な「け」の右が潰れたような字と踊り字「〱」のようなものが確認される(ここの左ページ後ろから三行目下方)。比較検討し、後文に徴して「選集」のルビの方を採った。「嬉遊笑覽」には読みは振られていない。]。其時言ふ言葉なるべし。[やぶちゃん注:以上の一文は底本では、「其時言ふ言は。」となっている。比較検討して「選集」の表現に代えた。「嬉遊笑覽」の記載を熊楠が弄って変えたものである。]江戶にては「かくれんぼうに土用浪のかさつくれん坊とわりやそつちへつんのきやれ」(又「づんづんづのめの」云々、「中切りて中切りてぢやむぢやが鬼よ」とも言えり)。出羽庄内にては、先づ幾人にても互に拳を握り出して、是を順に數へる如くにいふ、「隱れぼちだてやなあなめちくりちんとはじきしまたのおけたのけ」又、「にぎりしよたぎりたぎりおけたのけ」とも云り。又江戶にては「いちくたちく」と云事をもする也。篗絨輪に「寵愛の餘り猪口迄おいとしぼいちくたちくに毛だらけな腕」千雪。彼のちちや子持も、この一極めと云事をするに云りし諺なるべし云々(以上笑覽の說)。「いちくたちく」の詞は、中村君の報告中にも出づ。昔し既に一極(いちきめ歟)てふ語有た上は、中村君が新たに假設した選擇の言葉代りに、專ら一極めの詞とか文句とか云ひたい物だ。拙妻幼時每(いつ)も其祖母(二十五年前八十一歲で逝く)に聞いた。田邊で隱れん坊の鬼を極る詞、「隱れん坊しやく、しゝはしめ食(く)て、雀は稻食(いねく)て、チユツチユツチユツ、大勢の中でお一人をようのいた、お二人をようのいた、チヤンチヤンヌクヌクお上り成(なさ)れよ」。唯今そんな詞を識る者少なくジヤン拳のみ用ゐるが、近郊神子濱では、「ひにふにだあ、だらこまち、ちんがらこけこのとう」と算へる。守貞漫稿卷二十五にも、隱れん坊の鬼を定る詞、京坂「ひにふに達磨どんが夜も晝も赤い頭巾かづき通し申した」、江戶「ひにふに踏だる達磨が夜も晝も赤い頭巾かづき通した」と載す。又笑覽卷六下目隱しの戯の條に、「福富草子に、日無しどち軒の雀と云り云々。賑草に今頃は彌生の半也、軒の雀迚、外の鳥よりは人近きものに侍れども、人を怕(おそ)るゝ事少しも油斷せず、此頃は常の如く早くは逃去ず、家の内迄も入て餌を求む、子を養ひ侍る故也と有り、是れ軒の雀の義也」と見ゆ。中村君の記事の三に俵の鼠、右の田邊の舊詞にしゝ(熊野では今も鹿をしゝと呼ぶ處多し)や雀を擧げたのは、軒の雀と同例で、衆兒を是等の群棲禽獸と見立てたらしい。又田邊で「山(やーま)の山(やーま)の」と云ふ兒戯は一兒鬼と成て立つた周圍を子供多勢手を繼いで廻り行き、一齊に「山の山の庚申さん、お鍬を擔(かた)げて薯掘りに、燒てたべる迚薯掘りに、其跡に誰が有る」と唄ふ。

[やぶちゃん注:「一極めの言葉」以上の本文で述べられている通り、遊戯の「かくれんぼ」=「鬼ごっこ」の鬼を決めるための言葉を指す。本文で考証したように「いちきめ」(=「いちぎめ」)と読んでおく。

「鄕硏三卷一號三七頁參照」「選集」に編者が割注して『中村成文「選択の言葉」』とある。中村成文氏は詳細事績は判らぬが、名は「せいぶん」と読み、八王子の民俗研究家と思われる(『郷土研究』等に投稿論文が多数ある)。彼は大正四(一九一五)年には文華堂から「高尾山写真帖」を出版しており、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで画像で視認出来る。

「嬉遊笑覽」は国学者喜多村信節(のぶよ 天明三(一七八三)年~安政三(一八五六)年)の代表作で、諸書から江戸の風俗習慣や歌舞音曲などを中心に社会全般の記事を集めて二十八項目に分類叙述した十二巻・付録一巻からなる随筆。文政一三(一八三〇)年成立。私は岩波文庫版で所持するが、異なった版の国立国会図書館デジタルコレクションの「嬉遊笑覧 下」(成光館出版部昭和七(一九三二)年刊行)のここの左ページ「隱れ遊」「かくれんぼ」「目かくし」「めなしどち」と頭書する項の一部からの引用である。次ページに続き、そちらには、さらに「いちくたちく」「捉迷藏」(現代中国語でも「かくれんぼ」を指す語。ネイティブの音写は「ヂゥオー・ミー・サン」)「芥かくし」(ごみかくし)「草履隱し」「鬼ごと」「子をとろ子とろ」と頭書する。なお、岩波版と比較してみると、どうも熊楠の所持するものは、この国立国会図書館デジタルコレクションのものの表記・表現と有意に一致することが判った。

「古今夷曲集」(こきんいきよくしふ)は江戸初期の狂歌集。全十巻。生白庵行風(せいはくあんこうふう)編。自序自跋。承応元(一六五二)年の成立で、寛文六(一六六六)年に京都安田十兵衛から板行されら。聖徳太子から親王・公卿、細川幽斎・松永貞徳など古今の貴人から一般人の作者二百四十一人、歌数千五十余首を春・夏・秋・冬・賀付(つけたり)神祇・離別付羇旅・恋・雑上付物名廻文(ぶつめいかいぶん)・雑下付哀傷釈教に分類編集し、終わりに目録を添えてある。狂歌史上初の本格的撰集であり、古今の書物三十四部から作品を採録、時間的階層的に極めて広範に作品を集大成してある。同一版木(部分的な補刻はある)ながら、書名(「古今狂歌集」と改題した時期がある)や冊数を変えつつ、幕末まで重版されている(主文は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「題不知」「だいしらず」。

行安「小姬子」(こひめご)「の隱れごにさへ雜」(まじ)「らぬは最早」(もはや)「桂のは文字なるべし」国立国会図書館デジタルコレクションの活字本「古今夷曲集 万載狂歌集 徳和歌後万載集」の「卷第九 雜下」のここで確認出来る。終りの「は文字」は「恥づかし」の後半を略し、「文字」を添えたもので「恥ずかしいこと」の意の女房詞。「おはもじ」とも言う。「桂」は当初は「小姬子」を霊木「桂」の生えているとされる「かくや姫」の月世界を想起したものの、意味がとれないのでリセットし、「桂男(かつらをとこ)」で美男子のことか。「小さな女の子が『かくれんぼ』にさえ混じって遊ばないのは、可愛い男子(とのご)と一緒になるのが恥ずかしいからであろう」の意で私はとったが、以下の記載と同じく、正直、意味不明である。

「風流徒然草」豐山人(詳細不詳)撰の随筆。成立年代も不詳。

「其譯知れぬ事侍り、隱れん坊に雜らぬ者はちつちや子持や桂の葉とは子供の言ふ事也」この文章自体が「其譯知れぬ事侍り」と言わざるを得んわい。「ちつちや子持」(こもち)とは「小さな子を背負って子守をしている子」だろうか。「桂の葉」はお手上げ。何だか、ただの思いつきの物尽くしのようなもので、意味はないのかも知れぬ。以下、訳の分からぬ唱え歌の注は附さない。

「信田小太郞の淨瑠璃」元は作者不明の浄瑠璃らしいが、ここで言うのは近松門左衛門のそれ。国立国会図書館デジタルコレクションの「近松全集」第五巻に載り、その「第三 」のここが当該部。頭注もあるので、見られたい。

「楝(おふち)」ムクロジ目センダン科センダン属センダン Melia azedarach 。「栴檀」とも書くが、香木のビャクダン目ビャクダン科ビャクダン属ビャクダン Santalum album とは全くの別種である。

「辛夷(こぶし)」モクレン目モクレン科モクレン属ハクモクレン節コブシ Magnolia kobus

「桂(かつら)」ユキノシタ目カツラ科カツラ属カツラ Cercidiphyllum japonicum

「出羽庄内」現在の山形県東田川郡庄内町(しょうないまち:グーグル・マップ・データ)。

「拳」「こぶし」。

「出して」「いだして」。

「篗絨輪」岩波版「嬉遊笑覧」には『わくかせわ』とルビする。ネット検索でも書誌不詳。

「寵愛の餘り猪口」(ちよく)「迄おいとしぼ」(岩波版はここに読点を打つ)「いちくたちくに毛だらけな腕」

「千雪」以上の狂歌の作者。読み・事績不詳。

「彼の」「かの」。岩波版ルビに従った。

「二十五年前八十一歲で逝く」本篇は大正四(一九一五)年四月初出であるから、明治二三(一八九〇)年頃で、生れは文化七(一八一〇)年頃となる。

「極る」「きめる」。

「お上り」「おあがり」。

「守貞漫稿卷二十五」江戸後期の風俗史家喜田川守貞(文化七(一八一〇)年~?:大坂生まれ。本姓は石原。江戸深川の砂糖商北川家を継いだ)が天保八(一八三七)年から嘉永六(一八五三)年にかけての、江戸風俗や民間雑事を筆録し、上方と比較して考証、「守貞漫稿」として纏めた。この書は明治四一(一九〇八)年になって「類聚近世風俗志」として刊行された。但し、以前にも本書引用で誤っているのであるが、またしても熊楠の巻数「二十五」は誤りで、「卷之二十八【遊戲】」である。その『京坂ニテ「目ンナイ千鳥」江戶ニテ「目隱シ」』の条の最後の方に出る。私は岩波文庫版を所持するが、ここは国立国会図書館デジタルコレクションの写本の当該部を示す(条標題は前のコマ)。それを見て戴くと判るが、本来は数え歌である。歌の右手に「京坂」版に「一」から「十二」まで、「江戶」版に「十一」までの数字が振られてある。

「定る」「選集」では『定める』となっている。

「又笑覽卷六下目隱しの戯の條」既注の国立国会図書館デジタルコレクションのここ(左ページ三行目から)。

「福富草子」(ふくとみのさうし)は室町時代の御伽草子及び絵巻。一名「福富長者物語」とも。作者・成立年未詳。放屁の名手福富織部の術を羨み、隣りの乏少(ぼくしょう)の藤太が妻の鬼姥(おにうば)に勧められて弟子入りするが、失敗する。物羨みを諌めた風刺滑稽談。「花咲爺」の原型の一つとされる。妙心寺春浦院にある絵巻は、詞書が殆んどなく、人名も違っているが、これが原作であろう、と「ブリタニカ国際大百科事典」にあった。

「賑草」(にぎはひぐさ)京の豪商で、六条三筋町(みすじまち)の遊女吉野を落籍したことで有名な佐野紹益(屋号灰屋)の随筆。天和二(一六八二)年刊。書名は「徒然草」を意識したもの。紹益の、本阿弥光悦・烏丸光広・八条宮智忠(としただ)親王・飛鳥井雅章など当代人との風流な交流や、茶道・歌論に関わる記述が多く、江戸初期の文化を窺う格好の資料で、文章も優れている(以上は国立国会図書館デジタルコレクションの同書の版本(草書で、とても読む気にはなれないので、当該部は探さない。悪しからず)の解題に拠った。

「逃去ず」「にげさらず」。

「入て」「いりて」。

「一兒」「選集」に『ひとりのこ』とルビする。

「周圍」同前で『ぐるり』とある。

「繼いで」同前で「つないで」と読んである。

「行き」同前で「あるき」。

「燒て」同前で「やいて」。

 以下の段落は、補説で、底本では全体が一字下げとなっている。但し、「選集」では、その処理をしていない。]

 十年斗り前迄、那智山邊で、他人の所有地に入る者鍬を擔げ往き、地主に尤(とが)められたら薯蕷を掘りに來たと云ひさへすれば其で濟んだ。本文の詞に關係無いらしいが、序に述べ置く。

[やぶちゃん注:「薯蕷」「選集」は『やまのいも』と振る。自然薯(じねんじょ)=山芋=単子葉植物綱ヤマノイモ目ヤマノイモ科ヤマノイモ属ヤマノイモ Dioscorea japonica 。]

 唄ひ畢ると同時に一同步を駐め環をしたまゝ踞ると、鬼丁度自分の後に踞つた者の名を察し言ふ。言中れば宜しく、遂に言中てざれば頭や尻迄も搜つて言ひ中てしむ。扨遂に言中てた後、鬼立つて周圍の子供の頭を指し數へ乍ら、「頭の皿は、幾皿六皿、七皿八皿、八皿むいてかぶらむいて、天に帆を懸け狐袋鯛袋、庚申さんの俎板、やぐらは鬼よ」(上出江戶の「じやむじやが鬼よ」參照)と唄ひ了る時、鬼の指に中つた兒が新しい鬼と成るんだ。是よりも頗珍(すこちん)な事は、古來紀州諸方で、滿座の中で屁を放(ひ)つた本人定かに知れぬ時、同じく一極めの法もて其砲手を露はす。其時唱ふる詞和歌山でも聞たが、忘れたから田邊のを陳べると斯うだ。「屁(へー)放(へ)りへないぼ(尻に出來る腫物甚だ痛む)、放つた方へちやつと向けよ、猴の尻ぎんがりこ(胼胝(キヤロシチー)の方言)、猫の尻灰塗れ、屁放つた子は、どの子で厶る、この子で厶る、誰に中つても怒り無し」。倩(つらつ)ら案ずるに、屁を放りながら默り隱す奴は、天罰を受て臀腫るか、猴の尻の樣に堅く成るか、猫の尻の如く灰に塗るべしと脅す意ぢやらう。笑覽又云く、「隱れん坊とは異り乍ら芥隱し又草履隱し有り。何れも同じ仕方にて、一人尋る者に中りたるに、隱せし物を求め出さしむ。尋ぬる者を鬼と云ふ」云々。「甲乙次第を定むるに草履を片々脫いで之を集め、空に向ひて一度に投げ馬か牛かと言問ひ其伏仰するを言ふ也。例へば象棋の金か步かと云ひ、碁の調か半かとてする事の如し」と。田邊では左樣にせず。鬼を定むるにやはり一極めの法有り。先づ幼兒多く圈を成し、一人中に立て兒共の履物を片々集め列べ、一端より手又棒で敲き算へ唱へる言に、「じようりきじようまん、にたん處はおさごいごいよ、剃刀買うて砥を買うて、子供の頭をぢよきぢよきぢよきつと剃つてやろ、なゝやのきはとんぼ」、(和歌山では「にたん處は」の代りに「おさゝにひつからげて」、「ぢよきぢよきぢよきつと」の代りに「ぞきぞきつと」、其他は全く同じ)。此詞畢る時敲れた履物を其持主取りて穿く。幾度も斯うして一人の履物片足のみ殘る時、其持主隅に向つて眼を覆し屈み居る間に、一同彼の片足を持ち去て隱し、還れば其主探しに往く。一同は「きーぶい、きぶい(殆(あやう)い)、そこらあたりは味噌臭い」と呼び噪ぐ。扨彼の主其片足を見付け履還れば、群兒の圈の中に立て新たに戯を始め得れど、遂に探し出し能はずば知らぬと聲立つる。然る時は一同往つて見出だし吳れるのだ。又紀州に「ずいずい車」ちう兒戲が有つた。和歌山での作法は忘れて了つたが、田邊近郊神子濱に殘存する者を聞書すると、先づ小兒數人火鉢を圍んで各々其兩手を握り差出す。一人片手で順に敲きつゝ、「ずいずい車の博多獨樂、からすめひつからげてあきぐるま、あき通ればドンドコドン」と唄ひ終る時、中つた子が鬼となる。さて諸兒兩手を袖や懷の内に隱し居るを、鬼探つて悉く兩手を摑み了れば勝とす。諸兒摑まるまじと隱しまはる。鬼よりも多力なる兒の手は鬼輙(たやす)く摑み得ざるを興ずるのぢや。

[やぶちゃん注:「步を駐め」「選集」のルビに従えば、「あしをとどめ」。

「踞る」「うづくまる」。

「後」「うしろ」。

「言中れば」「いひあつれば」。言い当てれば。

「頭や尻迄も搜」(さぐ)「つて言ひ中てしむ」要するに、鬼を真ん中にして輪をなした子供らは円の外側を向いてしゃがんでいるのである。

「へないぼ」が「尻に出來る腫物」の当地の方言であることを言っている。

「猴」「さる」。

「ぎんがりこ」が「胼胝(キヤロシチー)」「の方言」だというのである。「キヤロシチー」は「胼胝(たこ)」の英語“callositas”。但し、ネィティヴの音写は「キャロシタス」。

「灰塗れ」「選集」に従うなら、「はひまぶれ」。

「厶る」「ござる」。

「誰に」「選集」に『誰(だーれ)に』と振る。

「怒り」同前で「おこり」。

「臀」同前で『いさらい』と振ってあるが、歴史的仮名遣では「ゐさらひ」。「倭名類聚抄」に載る「尻」「臀部」を指す非常な古語である。

「腫る」「はるる」。

「塗るべし」「選集」に『まみ』と振る。「塗(まみ)れるであろう」の意。

「脅す」「おどす」。

『笑覽又云く、「隱れん坊とは異」(かは)「り乍ら」、「芥隱し」(ごみかくし)「又」、「草履隱し」(ざうりがくし)「有り。……」前の国立国会図書館デジタルコレクションのここの右ページの十行目以降。

「言問ひ」「いひとひ」。

「其伏仰する」「そのふくぎやうする」。この「伏仰」は岩波文庫版では「俯仰」(ふぎやう:俯(うつむ)き仰(あお)ぐ)で、その方が腑に落ちる。

「象棋」「しやうぎ」。将棋。

「圈」「選集」は『わ』とルビする。

「中に立て」「なかにたつて」。

「兒共」「こども」。

「片々」「へんぺん」。片方を総ての謂いであろう。

「一端」「選集」によれば、「かたはし」と読んでいるようである。

「砥」「と」。実は最初は「といし」と読んでいたのだが、本篇全部の注をし終わったところで、ネットのこちらで本篇初出の抜き張りPDF)を発見した。そこに「と」と振られていた。

「なゝやのきはとんぼ」ここは、判らぬだけに、気になる。

「畢る」「をはる」。

「敲れた」「たたかれた」。

「覆し」「選集」に『覆(かく)し』とルビする。

「屈み居る間に」「選集」を参考にすると、「かがみをるまに」。

「去て」「選集」に従うなら「さつて」。

「噪ぐ」「さわぐ」。

「彼の主」「選集」に倣うなら、「かのぬし」。

「履還れば」同前で「はきかへれば」。

「圈」同前で「わ」。

「立て」同前で「たつて」。

「博多獨樂」「はかたごま」。意味はないが、グーグル画像検索「博多独楽」をリンクさせておく。

「諸兒兩手を袖や懷の内に隱し居るを、鬼探つて悉く兩手を摑み了れば勝とす。諸兒摑まるまじと隱しまはる。鬼よりも多力なる兒の手は鬼輙(たやす)く摑み得ざるを興ずるのぢや」不思議に思う若い読者のために言っておく。和服だから、どこに隠しているか、甚だ判り難いのである。

 以下の段落は底本では全体が一字下げ。「選集」ではその仕儀はなされていない。]

 (附記)右書き了つて後、田邊の町外れで今も行ふずいずい車の一法を知得た。衆兒環り坐し、各々兩手を握つて拇指の側を天に、小指の側を地に向け差し出し居ると、其一人自分の右手もて自分の左手の天の側、次に地の側、其より順次に他の諸兒の手每の天の側ばかり打き廻り、自分の番に當る時のみ左手の南側を打きて其兩手に代ふ。初め自分の左手の天の側を打くと同時に唄ひ出す詞に、「ずいずい車の博多ごま、此手を合せて合すかポン」。ポンと云ふ同時に手を打かれた子は列を退く。打き手「ポン」と同時に自身の左手の一側を打けば其一側を除き、其後他の一側を打き中つれば自分を除く。斯くて幾度も唄ひ打き廻れば、衆兒退きて打き手の外一兒のみ殘る。其一兒が鬼となり、一同の手を片端から搜り捕ふること前述に同じ。

[やぶちゃん注:「環り」「選集」は『環(めぐ)り』とルビする。

「打き」同前で「たたき」。

「退く」同前で「のく」。

「中つれば」同前で「あつれば」。]

 是等と關係無いが、作法が似た事故、又予一向書籍で見ぬ故、何かに出で居るか質問を兼ねて記すのは、今は知らず三十年ばかり前迄、大阪和歌山等で宴席に行なわれた「法師樣(ほうしさん)」ちう戯だ。明治二十年頃予三島中洲先生の息桂氏と、米國ミシガン州立農學校の寄宿舍で、密にホイスキーを購うて彼邦生れの學生と此戯を催し、其より大事件を惹起して衆人の身代りに予一人雪を踏んで脫走したのが一生浪人暮しをする事の起りで、國元へ知れたら父母は嘸や歎かんと心配したが、幸ひに雙(ふたり)乍(なが)ら知らずに終られた。三菱創立の元勳故石川六左衞門氏の息で仙石貢君の夫人の弟保馬と云人のみ其狀を親しく睹(み)たのだが、非常に沈默な君子で、六年後龍動[やぶちゃん注:「ロンドン」。]で三、四十日同棲飮遊したが、遂に一言も此事に及ばなんだは今に感佩し居る。今も健在なら讀者中に知人も多かろうから情願(どうか)御禮を述べて欲い。と序言が長いが彼遊戯はさ左迄六かしからず。酒客多人環り坐り、其一人手拭で眼を縛り居ると、他の一人が環の眞中に居て、「法師樣え、法師樣え、どこえ盃さーしましよ」と唄ひ、扨こゝかこゝかと唱へ乍ら思ひ付次第に人々を指す。假の盲法師(めくらほうし)「まだまだ」と云へば、人を指更へ、「そこぢや」と云へば指れた人が飮まねばならぬ。飮み了つて手拭を受け新たに法師と成る事前の如し。拙妻言ふには、田邊に行はれた「べろべろの神樣」と云ふ戯、趣は同じくて作法稍差ふ。環の中の一人が扇抔長い物を兩手に挾み、鼗(ふりつゞみ)(方言べろべろ太皷)の如く捩轉(よぢりまは)して、「べろべろの神樣は正直な神樣でおさゝの方へ面向る、面向る」と唄ひ了ると、同時に環坐する一人を指し誰方と問ふ、環坐せる一人眼を覆せる者、指れた人の名を言中れば、中りし者一盃呑み代わりて眼を覆すと。此戯はもと何と名付られたか大方(みなさん)の敎を俟つ。(大正四年四月鄕硏第三卷第二號)

[やぶちゃん注:『「法師樣(ほうしさん)」ちう戯だ』「選集」では「戯」に『たわむれ』と振るので、「たはむれ」と当てておく。

「明治二十年」(一八八七年)「頃……」前年の十二月二十二日に横浜から渡米の途についた熊楠は、この年の一月七日にサンフランシスコに到着、パシフィック・ビジネス・カレッジに入学したが、八月にはミシガン州ランシングの州立農科大学に転学している。以下の事件や登場する人名などは、そちらに出るものは、私の「南方熊楠 履歴書(その2) ミシガン州立大学放校の顛末」の本文及び私の注を参照されたい。

「嘸や」「さぞや」。

「石川六左衞門」実業家石川七財(しちざい 文政一一(一八二八)年~明治一五(一八八二)年)の初名「七左衞門」の誤り。元土佐高知藩士。明治三(一八七〇)年、岩崎弥太郎監督下の「大坂商会」の内偵に赴くも、その人柄に魅せられて、同会の後身「九十九(つくも)商会に入った。名を七財と改め、川田小一郎とともに岩崎弥太郎の番頭として三菱会社の創業に尽くした。明治八年に管事となり、汽船事業を統括した。死因はコレラであった。以上は概ね辞書記載からだが、「三菱グループ」公式サイトの「三菱人物伝」の「石川七財」も見られたい。

「仙石貢」(みつぐ:安政四(一八五七)年~昭和六(一九三一)年)は土佐出身で工部大学校卒の官僚・政治家だが、これ、熊楠の大勘違いではないか? 石川七財の娘というのは、調べたところ、実業家で政治家にして「東京海上火災保険」取締役会長及び貴族院議員も勤めた末延道成(安政二(一八五五)年~昭和七(一九三二)年)の妻である。ウィキの「末延道成」によれば、『妻の辰(のち田鶴子と改称)は、岩崎弥太郎の番頭として三菱創業に尽した石川七財』『の娘』(長女)で、『子はなく、妻の弟・石川保馬(七財の三男)』(☜)『の娘の夫である平井三次を養嫡子とした』とあるからである。仙石貢の妻は誰か探し得なかった。

「保馬」石川保馬の事績は以上以外には確認出来なかった。熊楠宛書簡が「南方熊楠顕彰館」にあるようである。

「云人のみ」「いふひとのみ」。

「其狀」「そのさま」。

「感佩」「かんぱい」。心から感謝して忘れないこと。

「情願(どうか)」二字への当て訓。

「欲い」「ほしい」。

「序言」「選集」では『はしがき』とルビする。

「彼」「かの」。

「さ左迄六かしからず」「さまでむつかしからず」。

「環り」「めぐり」。

「指更へ」「さしかへ」。指し変え。

「指れた」「さされた」。

「べろべろの神樣」「選集」では「樣」に『さん』とルビする。

「稍差ふ」「ややちがふ」。

「環」「わ」。

「鼗(ふりつゞみ)(方言べろべろ太皷)」(べろべろだいこ)「鼗」は音「タウ(トウ)」で、本来は中国・朝鮮・日本の太鼓の一種。「鞉」「鞀」とも書き、中国では「鞉牢」とも記した。「礼記」・「論語」などに既に記されており、漢以後、近年まで本邦の雅楽に使用されてきた。日本では「鞀鼓」と記したこともあるが、「振鼓(ふりつづみ)」、もっと判りやすく言えば、「でんでん太鼓」のことである。

「面」「選集」では『おも』とルビする。

「向る」「選集」に従えば、「むける」。

「環坐」「くわんざ」と音読みしておく。

「誰方」「選集」では『どなた』とルビする。

「覆せる」「かくせる」。

「中れば」「いひあてれば」。]

 〇地藏菩薩と錫杖 吉田美風氏は地藏の錫杖は日本で附け添へた者と說かれたさうだが(鄕硏二卷五七五頁)、其は間違であらう。予往年歐米の諸博物館で多く支那や印度や西藏(チベツト)の佛像調査を擔當したが、地藏の相好は日本のと多く異ならず、錫杖を持つたのも有つたと記臆す。書いた物を證據に引くと、宋高僧傳卷十四、百濟國金山寺眞表の傳に此人發心して深山に入り、自ら截髮して七宵の後、「詰旦、見地藏菩薩、手搖金錫爲表策、發敎發戒緣、作受前方便云々と有る。金錫は金色の錫杖に外ならずと思ふ。   (大正四年四月『鄕土硏究』三卷二號)

[やぶちゃん注:「吉田美風」不詳。「選集」に割注して『「雑報および批評」欄』とあるのみ。

「相好」仏教では特に「さうがう」と読む。仏の身体に備わっている仏たる特徴。三十二の「相」と八十種の「好」の総称である。

「宋高僧傳卷十四、百濟國金山寺眞表の傳に……」「大蔵経データベース」で校合した。「截髮」は「さいはつ」、「七宵」は「ななしやう」(七日目の夜)。訓読する。

   *

詰旦(きつたん/あくるあさ)、地藏菩薩を見る。手に金錫(きんしやく)を搖(ゆ)り、表(おもて)に策(さく)を爲(な)し、發戒(ほつかい)の緣を發敎(ほつきやう)し、受前(じゆぜん)の方便(はうべん)を作(な)す。

   *

「選集」では「表策をなし」と読んでいるが、こんな熟語は聴いたことがない。私は「策」は座禅で用いる警策のような棒を指しているのではないかと考え、片手に錫杖を、片手にそれを持って顔の面に捧げていたととった。誤りとなら、御指摘頂きたい。]

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