「南方隨筆」底本正規表現版「紀州俗傳」パート 「五」
[やぶちゃん注:全十五章から成る(総てが『鄕土硏究』初出の寄せ集め。各末尾書誌参照)。各章毎に電子化注する。
底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(冒頭はここ)で視認して用いた。また、所持する平凡社「選集」や、熊楠の当たった諸原本を参考に一部の誤字を訂した。表記のおかしな箇所も勝手に訂した。それらは一々断らないので、底本と比較対照して読まれたい。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。
本篇の各章は短いので、原則、底本原文そのままに示し、後注で(但し、章内の「○」を頭にした条毎に(附説がある場合はその後に)、読みと注を附した。そのため、本篇は必要性を認めないので、PDF版を成形しないこととした。]
五、
○田邊の俚傳に、蟋蟀「きゝさせ、とゝさせ、子婦(よめ)惡い、惡いよ」と鳴くと云ふ。(鄕硏第一卷六號三七一頁參照)。
[やぶちゃん注:最後の見よ注は本篇の「四」の「○和歌山で蟋蟀の鳴聲、「鮓食て餅食て酒飮んで、……」を指す。
「惡い」「選集」に『悪(にく)い』と振る。]
〇婦女卵の殼踏ば、白血長血を病出すと云ふ。又云ふ、卵殼食へば屁多く放ると。炭酸石灰でなった物が、體内の酸に遇て瓦斯を遊離する事、沸騰酸と同理故、是は事實で有う。
[やぶちゃん注:最初の一文は「二」の「〇婦女卵の殼を踏まば、白血」(しらち)「長血」(ながち)「を煩ふと田邊で言ふ。」の本文と私の注を参照。
「放る」「ひる」。
「炭酸石灰」炭酸カルシウム。
「遇て」「あつて」。
「瓦斯」「ガス」。
「沸騰酸」「沸騰散」に同じ。重炭酸ナトリウムと酒石酸を水に溶かして飲むもの。呼称は発生する炭酸ガスがあたかも沸騰しているかのように見えることに由来する。嘗つては清涼剤・緩下剤として使用されたが、現在は胃のX線検査の際に発泡炭酸剤としてバリウムと併用される。
「有う」「あらう」。]
〇和歌山及び田邊の手毬唄「釣瓶の下の織姬樣は、遊びに行うとて門迄出たら、可愛殿御に抱締られて、オホ恥かしや小恥かしや、此子生だら何著しよに、天鵞絨を著しよか緞子を著しよか、天鵞絨嫌なら緞子を著せて、乳母に抱かして宮參り、宮へ參つてから何と云て參る、一生此子を息災に、オー息災に、コー息災に、十せ一廿せー、三十せー四十せー」(と算え進む)。
[やぶちゃん注:「オホ」「選集」では『オオ』とする。初出を見ることが出来ないので、私はしっくりくる底本のままとする。
「生だら」「うんだら」。
「何著しよに」。「なにきしよに」。現代仮名遣で「なに、きしょに」で、「何を着せてやったらいいかね?」の意。
「天鵞絨」「びろうど」。ビロード。
「緞子」「どんす」。織り方に変化をつけたり、組み合わせたりして紋様や模様を織り出す紋織物の一種。生糸の経(たて)糸・緯(よこ)糸に異色の練糸を用いた繻子(しゅす:絹を繻子織り――縦糸と横糸とが交差する部分が連続せず一般には縦糸だけが表に現れる織り方――にしたもの)の表裏の組織りを用いて文様を織り出した。「どんす」という読みは唐音で、本邦には室町時代に中国から輸入された織物技術とされる。
「オー息災に、コー息災に」この「オー」と「コー」は単なる調子を整えるための間(あい)の手であろう。]
〇又田邊の手毬唄、「藪の中から金女郞、誰と寢よとて鐵漿つけて、お稚兒と寢よとて鐵漿付て、お稚兒の土產に何貰た、油一升に胡麻一升、手拭にせう迚布八尋、八尋の布を一段紺屋へ遣か、二段紺屋へ遣ろか、三段紺屋へ遣たれば、ズプズプ淺黃に染て來て、一かんせう二かんせう、三がん所は、おぼつきこぼつき、誠おさいた、まこ二十さいた、まこ三十さいた」(と算え進む)。
[やぶちゃん注:「藪の中から金女郞」「金女郞」の読み不詳だが、後の「鐵漿」が「かね」(鉄漿(おはぐろ)のこと)であるから(「選集」で『かね』と振る)、「かねぢよらう」であろう。とすれば、「藪の中から」出て来る実体としての金女郎(かねじょろう)というのはジョロウグモとするのがしっくりくる。但し、この場合の「女郞」は蔑称というより「少女」の意か。
「何貰た」「なにもろた」。
「迚」「とて」。
「布八尋」「ぬの、やひろ」。
「一段」「いつたん」。一反。後の二つも同じ。
「紺屋」「こうや」。
「遣か」「やろか」。
「遣たれば」「やつたれば」。
「染て」「そめて」。
「かん」貨幣単位の「貫」か。
「せう」現代仮名遣「しょう」。「しよう」「しましょう」の意。
「おぼつきこぼつき、誠おさいた、まこ二十さいた、まこ三十さいた」この部分、私には意味が分からぬ。「おぼ」「こぼ」は毬の弾むオノマトペイアか。「つき」は「毬つき」のそれで、後半に「まこ」は間の手で、数字は前に徴すれば年齢だが、或いは今から「二十」「三十」までつき続けらえるように言上げしたものか?]
〇西牟婁郡栗栖川村富里村等で聞しは、昔し旅人霍亂に惱み死に掛つたが、藤天蓼(またゝび)を餌ひ全快、復旅に出立た故に斯く名くと。富里村大字大内川に、今も此植物の葉を乾し蓄へ、燒て鼠を驅除する家ある由。
[やぶちゃん注:「西牟婁郡栗栖川村」(くりすがはむら)「富里村」「(とみさとむら)Geoshapeリポジトリ」の「歴史的行政区域データセットβ版」の、まずこちらで旧西牟婁郡栗栖川村が判り、その東方に接して同サイトのこちらで同旧富里村があったことが判る。現在は孰れも田辺市中辺路町内で、前者は地名として残ってはいる。グーグル・マップ・データ航空写真では、この中央附近になるが、かなり山深い。なお、本篇で複数回注している地名は原則、再注しない。悪しからず。
「霍亂」(かくらん)は日射病、及び、夏場に発症し易い、激しい吐き気や下痢などを伴う急性消化器性疾患を指す。
「藤天蓼(またゝび)」ツバキ目マタタビ科マタタビ属マタタビ Actinidia polygama。当該ウィキによれば、『蕾にマタタビミタマバエまたはマタタビアブラムシが寄生して』形成された虫瘤(むしこぶ:虫癭(ちゅうえい))に『なったものは』「木天蓼」(モクテンリョウ)又は「木天蓼子」(モクテンリョウシ)という『生薬』とされ、『鎮痛、保温(冷え性)、強壮、神経痛、リウマチ、腰痛などに効果があるとされる』とある。
「餌ひ」「選集」に従うなら、「くらひ」。
「復旅に出立た」「また、たびに、いでたつた」で、本種の和名の語源説とする如何にもな安易なもの。当該ウィキに、『和名のマタタビの由来については、古くは』深根輔仁(ふかねのすけひと)撰になる日本現存最古の薬物辞典「本草和名」(延喜一八(九一八)年)に、既に『「和多々比」(わたたひ)』と出、「延喜式(延長五(九二七)年)に『「和太太備」(わたたび)の名で見える』とし、貝原益軒の「日本釈名」(元禄一二(一六九九)年)では、『果実に長いものと』、『平らなものができることから、「マタツミ」の義であろうという』とある。しかし、『アイヌ語の「マタタムブ」からきたというのが、現在最も有力な説のようである』とし、「牧野新日本植物図鑑」によると、『アイヌ語で「マタ」は「冬」、「タムブ」は「亀の甲」の意味で』、これは「虫癭」を『意味するとされる。一方で、深津正』の「植物和名の研究」『(八坂書房)や知里真志保』の「分類アイヌ語辞典」『(平凡社)によると「タムブ」は苞(つと、手土産)の意味であるとする』とある。そして、『一説に、「疲れた旅人がマタタビの実を食べたところ、再び旅を続けることが出来るようになった」ことから「復(また)旅」と名づけられたというが、マタタビがとりわけ旅人に好まれたという周知の事実がある』わけ『でもなく、また』、『「副詞+名詞」といった命名法は一般に例がない。むしろ「またたび」という字面から「復旅」を連想するのは容易であることから、典型的な民間語源あるいは単なる流言飛語の域を出るものではない』と退けられてあるのである。
「富里村大字大内川」(おおうちがは)「ひなたGPS」の戦前の地図でここ、現在の中辺路町大内川はここ。
「燒て鼠を驅除する家ある由」鼠がマタタビの成分を嫌うのではなく、それに強く吸引されるネコがそこへ集まるから、結果、駆除されるということであろう。なお、当該ウィキによれば、この成分は「ネペタラクトール」(Nepetalactol)で、『ネコがマタタビの匂いを体に擦りつけるための行動であることを突き止めた。また、ネペタラクトールに、蚊の忌避効果があることも突き止め、ネコはマタタビ反応でネペタラクトールを体に付着させ蚊を忌避していることを立証した』とある。蚊はお嫌いらしいぞ!]
〇田邊邊の俗傳に、四疊半の座敷の四隅に各一人居り、燈無しに室の眞中へ這行くと、眞中に必ず別に一人立ち居るを觸れ覺る。乃ち一人增して五人と成ると。
[やぶちゃん注:この話こそ私は現代の怪談好きなら誰でも知っている、私に言わせれば「なんだかなのオオボケ」モノの「雪山の山小屋の一夜」或いは「都市伝説」で「スクエア(square)」と呼ばれるものの正統なルーツであると考えている。当該ウィキを読まれたい。
「各」「おのおの」。
「居り」「選集」は『居(す)わり』とする。
「燈」同前で『あかし』。
「這行くと」「はひゆくと」。
「立ち居るを觸れ覺る」「たちをるをふれおぼえる」。
「乃ち」「すなはち」。]
○四月八日誕生佛に澆ぐ甘茶で墨を磨り、「昔より卯月八日は吉日よ、神さげ蟲を成敗ぞする」と書いた紙片を柱に逆まに貼れば、長蟲(蛇)家に入らぬとぞ。此夜より蚊帳を釣始む。件の歌を書いた紙片を其釣手に結付れば、惡蟲寢所に入らずと。海草郡の人言く、蛇のみならず、一切の惡蟲を避く、竈邊の壁にも貼ると。
[やぶちゃん注:「四月八日」釈迦生誕の日である灌仏会(かんぶつえ)。以下に記された呪符については、サイト「Web日本語」の棚橋正博氏の第八十六回「江戸の虫除けと油虫」がよい。ここにあるように、江戸では『台所や便所などに、「千早振(ちはやふ)る卯月八日は吉日(きちにち)よ、かみ下虫(さげむし)を成敗ぞする」と書いた紙を逆さにして貼り、ゴキブリやウジ虫などの虫除(むしよ)けの呪(まじな)いとしていた』とあり、『この歌が、どうして虫除けの呪い歌として詠まれたのか、今ひとつ理由は不明だが、旧暦の』この『頃には暖かくなって花の季節となり、ゴキブリなどが這(は)い回るので御用心、ということで詠(よ)み込まれたのかもしれない』とある。恐らくはそうした実利的なものに、釈迦生誕の強力なパワーを借りたものであろう。逆さまに張るのは、便槽や外から這い上がる彼らへの、逆の呪的圧力か。しかし、「かみさげ蟲」が今一つ判然としない。
「澆ぐ」「そそぐ」。
「長蟲(蛇)」本話では、専らヘビ除けであるところが、採集地らしい。私の家のある地域は、小学生頃までは「マムシとムカデの名所」と呼ばれていたが、流石にマムシは山崖や廃屋の庭に入るのを見たが、家の中に入ってきたことはなかった。ムカデは今でもよく入ってくるが。
「結付れば」「ゆひつくれば」。
「海草郡」旧海草郡は和歌山市の大部分と、海南市の大部分、及び、有田市の一部である。旧郡域は当該ウィキで確認されたい。注意すべきは、現在ある海草郡の郡域は全域が昭和二六(一九五一)年に那賀郡から編入した区域であって、本来の海草郡とは無縁であることである。
「一切の惡蟲を避く、竈邊の壁にも貼ると」ここではゴキブリへの効果も期待しているようである。]
〇田邊の俗傳に、產兒の胎衣を放置散佚せしむれば其子愚人と成る、故に丁寧に保存すべしと。
[やぶちゃん注:「胎衣」「えな」。「胞衣」とも書く。胎児を包んでいた膜や胎盤などで、後産(あとざん)として体外に排出されるものを指す。なお。平安以後、貴族に子が生まれた際に行われた儀式「胎衣祭(えなまつり)」があった。ウィキの「胎衣祭」によれば、『出生後』五『日または』七『日の間の吉日に胎衣』『を胎衣桶(胎衣壺とも)におさめ、引目(ひきめ)を射たひとに陰陽頭(おんようのかみ)をそえて吉方におさめる儀式である』。『胎衣桶は、高さ』八『寸ほど、径』一『尺ほど、外面は胡粉ぬりで松、竹、鶴、亀をうんもでえがき、蓋には』八『個のつまみをつけ、針でしめる』。『皇子誕生の胎衣を祭るには、典薬頭が胎衣を東方生気の方にあたる東山吉田社の下におさめ、八百万の神をいわい、生産神にしたまうこころで祭るという』とあった。]
〇同地に近き下芳養と西谷の間、牛鼻邊に搖岩とて大なる岩、海水中に有り、潮退ば步して往き登り釣を垂れ得。此岩每月二囘潮の增減に隨ひ所を變へ、或は陸に近く或は陸に遠かると云ふ。
[やぶちゃん注:「同地」(田辺)「に近き下芳養」(しもはや)「と西谷」(にしのたに)「の間、牛鼻」(うしのはな)「邊に搖岩」(ゆるぎいは)「とて大なる岩、海水中に有り]流石は国土地理院図! ここに「牛の鼻」が確認出来る。さて、そこで「+」のマークを配した中央、何となくおかしな岩礁のようなものがある。ここをグーグル・マップ・データ航空写真で見てみると、あるある! そうして、決定打は「ひなたGPS」の戦前の地図だ! これは確かに奇体に大きな岩礁指示だ! 動くというのは、まずい(大海嘯が襲ったら、陸に上がっちまう)が、これらを見てると、何となく不思議な怪しい感じがある岩礁やなかい!
「潮退ば」「しほひかば」。
「步して」「ほして」。
「遠かる」「とほざかる」。]
〇果蓏生りたる數を算ふると多く落る由、田邊で言傳ふ。
[やぶちゃん注:「果蓏」「くだもの・うり」。「蓏」は広義の瓜(うり)類。
「生りたる」「なりたる」。
「落る」「おつる」。]
〇小兒同じことを執念く言ふに對し、何度も言うたら鬠黑なると言ふ。
[やぶちゃん注:「執念」「しふねく」。
「鬠黑なる」「鬠」「もとゆひ」。「元結」。髪の髻(もとどり)を結び束ねる紐 ・糸・紙縒りの類。古くは組紐又は麻糸を用いたが、近世には糊 で固く捻った紙縒りで製したものを用いた。当然、白い。「黑なる」「選集」の送りに従うと、「くろうなる」。]
〇和歌山でも田邊でも、小兒群戯して興盡き散ぜんとする時、モー疝氣腹痛と呼で別れ去る。是ら古き洒落詞の殘ると見ゆ。
[やぶちゃん注:「モー疝氣腹痛」熊楠の前振りから見ると、充分遊んで「もう」、「せんき」(する気。遊びを続ける気)は「のうなった」という意のようである。それに「疝気」(一般的には漢方で腰よりも下方の鼠径部附近の痛みを指す、男性に多い)を当て字し、それに類症の「腹痛」と続けたものだろう。
「呼で」「よんで」。]
〇芳養村の人、崎下孫七氏言ふ、濱麥一名筆草、弘法筆を抛たのが此草の根と成つた。此根で瘡腫の上に南無大師遍照金剛と書く似すれば平癒すと。
又蓼の葉に黑斑二條有るを筆拭草と呼ぶ、弘法この葉で筆を拭いた跡也と。
氏又言く、其村及び何地の金比羅も、神體は太き纜を蛇の如く卷重ねた物也、但し鎌首を起ずと。
[やぶちゃん注:「崎下孫七」不詳。「選集」は姓に「さきした」と振る。次項で上芳養村の人で若いことが判る。なお、真っ先に以下の草を挙げて解説しているところから、「この人は、私は旧下芳養村の住人であろう。」と早合点した。何故なら、私が次の注で同定する崎下氏が挙げる同種は、海浜でしか見られないもので、芳養村上中下の内で海岸に面しているのは、下芳養村だけだからである(「Geoshapeリポジトリ」の「歴史的行政区域データセットβ版」の「和歌山県西牟婁郡下芳養村」を参照)。しかし、次項を見ると、崎下氏は「他人の使し步くに、每夜犬に吠えられ頗る困る」とあったことから、彼はその頼まれ仕事で、上芳養村から中も下芳養村も、よく行き来していたと思われることから、頗る腑に落ちた。
「濱麥一名筆草、弘法」、「筆を抛」(なげ)「たのが此草の根と成つた」単子葉植物綱イネ目カヤツリグサ科スゲ属コウボウムギ Carex kobomugi 。当該ウィキによれば、『砂浜に群生する海浜植物』で、『砂の中に長く匍匐茎を延ばし、各所から地上へ出る茎を伸ばす。砂の上から見れば、やや間を開けて砂の表面に葉を出した群落になる。葉は根出状に出て、黄緑色でつやがあり、厚みがあって硬く、先端へと細まって巻く。葉の縁にはざらつきがある』。『花茎は春に出る。スゲ属では数少ない雌雄異株で、まれに同株や一つの穂に両方の花が出ることがあるという。花茎は高さ』二十センチメートル『位になり、硬くて直立し、先端に太い淡い黄緑色の穂を一つつける。実際には短く詰まった多数の小穂が集まったものである。雄花の穂はこん棒状で、全面から葯が出る。雌花序もこん棒状。一面に果胞がつく』。『果胞は長さ』一センチメートル『ほどと』、『かなり大きく、楕円形で偏平、先端は』、『はっきりした長い嘴になり、その縁に鋸歯が見られる』。『名前の弘法麦の由来は、かつて茎の基部の分解した葉鞘の繊維が筆を作るのに使われた事から、筆ならば』、『弘法大師(空海)様だ、というようなこと』に基づくもので『あるらしい。別名としてフデクサというのもある』。なお、『果実が食用にされた例もある』という。『砂浜に生育する、代表的な海浜植物である。比較的よく発達した砂浜でしか見かけることが少ない。そのため、海岸線の改修工事などによって砂浜が削られて消失することがあり、生育地は減少している』。『分布は北海道西岸から琉球列島にかけて、また、朝鮮から台湾、中国東北部・北部、ウスリーにわたる』とある。因みに、私は「弘法麥」というと、芥川龍之介の痛切なる逸品「彼」のワン・シーンを思い出すのを常としている。第「五」章の終りである。
「瘡腫」「選集」は二字に対して『でもの』と振る。「かさ」と「はれもの」。
「似」「選集」に『まね』と振る。
「蓼」通常、普通に「タデ」と呼ぶものは、ナデシコ目タデ科Polygonoideae亜科Persicarieae 連Persicariinae亜連イヌタデ属サナエタデ節 Persicaria に含まれ、「蓼食う虫も好きずき」の諺など、単に「蓼」と言った場合、通常は同属のヤナギタデ Persicaria hydropiper を指す。しかし、ここでは、「葉に黑斑二條有る」とあり、これはタデの近縁種として言っていることが明白であるから、同様の斑紋が葉に出る、同属のイヌタデ属ミズヒキ Persicaria filiformis である。同種は表面にしばしば黒い斑点が出ることが知られている。グーグル学名画像検索でご覧あれ。半端ないグレイ型宇宙人みたような大きな斑点である。本種の葉なら、筆も十分拭(ぬぐ)えます。
「筆拭草」「ふでふきさう」。下方の「拭いた」に従った。
「何地」「選集」に倣うと、「いづく」である。
「金毘羅」金毘羅は古代インドの神「クンビーラ」の漢音写で、元はガンジス川に棲むワニを神格化した水神であるが、本邦では通常、どこでもヘビ型とされる。クンビーラはガンジス川を司る女神ガンガーの乗り物でもあることから、本邦では中世以降、金毘羅権現が海上交通の守り神として広く信仰されてきた。
「纜」「選集」では『つな』と振る。
「起ず」「おこさず」。何故、鎌首を起さないのかを私なりに考えてみると、本邦で同じく中世に弁財天信仰の中で創出されたと推定される、鎌首を上げた形状で示されることが圧倒的に多い蛇型の豊饒神「宇賀神」と差別化するためかとも私は思ったりした。]
〇崎下氏今廿七歲。十五の時、故鄕上芳養村で他人の使し步くに、每夜犬に吠えられ頗る困る。この前和尙たりしが還俗した人、犬を伏せる法を敎へ吳れた。犬に向ひ、戌亥申酉より丑子まで十二支を逆に三度唱れば決して吠ずと。因に一夜寢ずに熟練して、犬に向ひ試みたが、寸效無かつた。或人に語つて別に一法を授かる。戌亥子丑寅と、五支の名を唱へつゝ五指を折り固むるのだ。是も其驗を見なんだと。
又言く、山野で草刈るに、人の身長程の小木に七里蜂の巢有り、動もすれば蜂飛出で迷惑甚し、上芳養の村人時々蜂伏せの呪を行ふに甚だ效有り、其法樹葉一枚を採り、「シツポウケウソワカ」(七寳篋娑訶?)と三度誦へ、竹稈の尖を割て其葉を挾み、蜂巢に寄せ懸れば蜂飛出ず、縱ひ出るも螫さず、但し何の祕咒も、無闇に人に話すと利ぬ物と。
[やぶちゃん注:「唱れば」「となふれば」。
「因に」「ちなみに」。
「寸效」「すんかう」。
「七里蜂」この異名、本邦種では不詳(紀州方言としても生き残っていないようである)。漢籍では、清の劉於義著の「陝西通志」に『獨蜂俗名七里蜂斆曰窠大如鵞卵只一蜂大如小石燕子許人馬被螫立亡也』とあり、また熊楠御用達の清の張英の類書「淵鑑類函」には『獨蜂俗名七里蜂毒最猛人馬被螫皆亡』、「本草綱目」では『獨蜂俗名七里蜂者是矣其毒最猛』とある。荒俣宏氏は「世界大博物図鑑」では、この「本草綱目」のそれを、ベッコウバチの一種とされるとあるのだが、膜翅目細腰(ハチ)亜目ベッコウバチ科 Pompilidaeのハチは、『刺されると非常に痛いが、長く痛むことはない』とありこと、さらに彼らの『巣は石垣のすきまや神社の石段の隅、またはノネズミの古い坑道に沿って地中深く潜り込んだ所から自分の巣坑を短く掘り、腹部腹面に一卵を産み付けて埋める』(以上二ヶ所の引用は小学館「日本大百科全書」より)とあるように、木に巣は作らない。されば、これは細腰亜目スズメバチ上科スズメバチ科アシナガバチ亜科 Polistinaeのアシナガバチ類、或いは、スズメバチ科スズメバチ亜科 Vespinaeのスズメバチの類と私は判断する。後者は刺されると半端ないから、ここは前者かとも思う。
「竹稈」「選集」に『たけのぼう』と振る。
「懸れば」「かくれば」。
「飛出ず」「とびいでず」。
「縱ひ」「たとひ」。
「出る」「いづる」。
「利ぬ」「きかぬ」。]
〇拙妻の祖母八十一で二十三年前歿した。この人雷聲を聞く每に、「神鳴桑原竹の根、落たらどん腹突貫ぞ」と續けて誦し雷止む迄止なんだ。
[やぶちゃん注:「拙妻の祖母」事績不詳。本記事は大正二(一九一三)年の発表であるから、一八九〇年或いは一八九一年で、後者なら、明治二十四年で熊楠は数え二十五、フロリダのジャクソンビルに移った年(同年五月)である。
「神鳴桑原竹の根、落たらどん腹突貫ぞ」「選集」に倣うと(「竹」「貫」の部分)、「かみなりくはばら、たーけのね、おちたら、どんばらつきぬくぞ」。
「止なんだ」「やめなんだ」。]
〇此邊で寒蟬、「熟柿欲し」と鳴く、此蟲出て柿熟すと云ふ。
[やぶちゃん注:「寒蟬」(かんぜみ/かんせん)は立秋に鳴くセミ類を指し、半翅(カメムシ)目同翅(ヨコバイ)亜目セミ上科セミ科セミ亜科ホソヒグラシ族ヒグラシ属ヒグラシ Tanna japonensis も含まれるが、ここは以下のオノマトペイアから、セミ亜科ツクツクボウシ族ツクツクボウシ属ツクツクボウシ Meimuna opalifera である。博物誌は私の「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 蟪蛄(つくつくはうし)」を参照されたい。因みにツクツクホウシと言えば、私は直ちに梅崎春生の「桜島」(私のPDF版注釈附)の見張りの男の死のシークエンスを直ちに想起する。]
〇俗に秋の日に燒たら穢多の嫁にも貰ひ吳ぬと言ふ、秋日に黝むと一寸復り難いからだ。
[やぶちゃん注:「燒たら」「やけたら」。
「穢多」「えた」。近世まで差別された被差別民。
「吳ぬ」「くれぬ」。
「黝む」「くろずむ」。
「復り難い」「かほりにくい」。]
〇今は屢見ぬが、以前田邊の小兒嫁娶の眞似して月夜の遊戯とした。二人手を組み傾けて人力車の如くし、一女兒に諸兒の最も好き帶、紐、簪等を假し裝はせ、嫁として乘せ、多くの兒輩隨ひ、手を組だる二兒嫁を搖り乍ら、「嫁樣、長持何時來るよ、明日の朝の今頃よ(有り得ぬ事を云ふ也)、月夜に提燈何事よ、闇夜に提燈最もぢや、ギコサとギコサでほーいほい」と繰返し唱へ行く。前方には兒輩、地上に家の間割を畫き、臺所、玄關、座敷以下全備す、嫁到れば戶を開く眞似し、挨拶して迎へ入れ、附添し者、嫁を奧の間に伴行き踞らせ、自分等臺所に之き盛饌食ふ擬似する也。
[やぶちゃん注:「屢」(しばしば)「見ぬが」副詞が後で否定されて「殆んど見かけなくなったが」の意。
「小兒」「こども」。
「嫁娶」「よめとり」。
「簪」「かんざし」。
「假し」「かし」。貸し。
「組だる」「くんだる」。
「搖り」「ゆすり」。
「嫁樣」「選集」に倣うなら、「よめさん」。
「何時」「いつ」。
「明日の朝の今頃よ(有り得ぬ事を云ふ也)」「明日の朝の今頃よ」の部分が、有り得ない時や内容を言う別の謂いがあることを指す注であろう。
「ギコサ」人力車の音のオノマトペイアか。或いは花嫁行列全体の音を形容するそれか。
「附添し者」「つきそひしもの」。媒酌人役であろう。
「伴行き踞らせ」「つれゆき、つくばらせ」。
「之き」「ゆき」。
「盛饌」「選集」は二字に『ちそう』と振る。
「擬似」「まね」。]
〇料理屋主人以下猿の名を忌み、必ず言はず、止むを得ぬ時は野猿と呼ぶ。博徒亦然り、縛らるゝを忌む故と聞く。土方人足も同樣で猿の咄聞ても其日休業する由。
[やぶちゃん注:「猿の名を忌み」「さる」は「客が去る」、「運が去る」(博徒は運の切れ目で「捕縛される」とジンクスする)、「土方」や「人足」も「仕事や運が去る」(広義の「何かとゲン(験)が悪い」というである)とするのである。特に遊廓での「猿」の忌み言葉としての「野猿」は有名。次注参照。
「野猿」「やえん」と音読みして、「さる」を避けるのである。
「咄」「はなし」。
「聞ても」「きいても」。]
〇上に述べた崎下氏言く、護摩燒くに必ず勝軍木を用ゆ。爆聲を發し黑煙を生じ、凛じき物也。又火渡りを行ふに必ず大豆の箕を焚附とすと。
同氏話に、今夏旱魃で西牟婁郡富田の諸村水乏く河童夥しく上陸す。藤兵衞と云ふ老人田働きするに、遠方よりホーイホーイと呼ぶ事頻り也。河童何を言ふぞ、騙さるゝ者かと嘲り居たるに、忽ち耳の邊で異樣の大聲で阿房と呼れ、其儘聾となり打臥し居ると八月一日咄された。
[やぶちゃん注:「勝軍木」「選集」に『ぬるで』と振る。ムクロジ目ウルシ科ヌルデ属ヌルデ変種ヌルデ Rhus javanica var. chinensis 。漢字表記は「白膠木」。「カチノキ」(「勝ち木」)の異名がある。当該ウィキによれば、『ヌルデの名は、かつて幹を傷つけて白い汁を採り塗料として使ったことに由来するとされる』。カチノキは、『聖徳太子が蘇我馬子と物部守屋の戦いに際し、ヌルデの木で仏像を作り、馬子の戦勝を祈願したとの伝承から』とある。調べてみると、パチパチという有意に大きな燃焼音がするので、薪には向かない、とあった。ただ、「爆聲を發し」、「黑煙を生じ、凛」(すさま)「じき物」であるかどうかは、私は知らない。
「火渡り」火をつけて燃やした薪炭の上を裸足で歩く法事・修行としての「火渡り祭」。修験者だけでなく一般人も参加するものが今も残る。
「箕」「選集」は『から』と振る。
「焚附」「たきつけ」。
「西牟婁郡富田」(とんだ)現在の西牟婁郡白浜町(しらはまちょう)富田(グーグル・マップ・データ)。
「乏く」「とぼしく」。
「河童」姿が全く記されていないので、目にははっきりは見えない実態不詳のものらしい。面白い河童である。
「居たるに」「選集」に従うなら、「をつたるに」。
「阿房」「あほう」或いは「あほ」。「阿呆」に同じ。
「呼れ」「よばれ」。
「其儘」「そのまま」。
「聾」「つんぼ」。
「打臥し居る」「うちふしをる」。
「八月一日咄された」藤兵衛老人は話を聴き取りした時点でも未だに臥せっているというのである。脳卒中などが想起される。]
〇拙妻其亡父より傳へしは、蜈蚣を殺すと跡より復出來る。之を停んとなら、殺された奴の出來りしと思ふ方に向ひ、輪違形を三度空中に畫くべし。
又蜂に螫れた處に八の字、其上に九の字を畫く似すれば頓に痛止むと。
[やぶちゃん注:「拙妻其亡父」既注だが再掲しておくと、熊楠の夫人は当時の田辺の鬪鷄神社(グーグル・マップ・データ)の宮司田村宗造の四女松枝さんである。
「復出來る」「またいでくる」。
「停ん」「とめん」。
「輪違形」「選集」では本文を『輪違(わちが)いの形(かた)』とする。三つの輪が互い違いに絡んだような符。家紋として知られる。サイト「家紋いろは」のこちらに図がある。
「螫れた」「さされた」。
「八の字、其上に九の字を畫く似」(まね)「すれば頓」(とみ)「に痛」(いたみ)「止むと」「蜂」から五行の縁起の陰数「八」を合わせて関連させて、そこに徐ろに最大の有力な陽数「九」を打って封じるということであろう。]
〇拙妻又言く、俗信に味噌桶を戶每に出し洗へば雨降ると。實は何の家も味噌作る時節大同なれば、用ゐ盡して桶を洗ふも粗同時で、其頃雨屢ば降る故なり。又俗に居常外出せぬ人偶ま外出するを見て、味噌桶が出たから今日は雨ふると嗤ふと。(大正二年十月鄕硏第一卷八號)
[やぶちゃん注:「粗」「ほぼ」。
「居常」「選集」に二字に『ふだん』とルビする。
「偶ま」「たまたま」。
「嗤ふ」「わらふ」。]
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