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2022/07/23

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 十三塚の事

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。]

 

     十三塚の事 (大正元年十二月考古學雜誌第三卷第四號)

 

 柳田國男氏の石神問答に、本邦諸國に多き十三塚の事散見するを見しに、大要は十三佛の信仰に基きて築きしと云ふ者の如し。其後柳田氏よりの書信に、鳥居龍藏氏蒙古で塚を十三づゝ相近接して立し者を屢々見たる由敎示されたるも、予は鳥居氏の原作を見ざる故委細を知らず。頃日讀書中、蒙古の十三塚の事一條見出たるに付き、多分は遼東の豕と察すれど念の爲め抄して此事を硏究する人に便にす。云く、李克用沙陀に王たりし時虐政甚しく、民爭ふて其歡心を得んとて爲さざる所ろ無し。其遺跡今も尙見るべき者の一例を擧んに、沙陀の諸部の道傍に大石塚恰も古「ゲーリック」國の古塚に似たる有り、必ず十三塚を一列に築き、中央の一は高さ一丈廣さ之に相應する大塚にて、他の十二は之より小さく、大さ皆相同じ。是れ往昔蒙古人が克用父子を悅ばしめんとて築きし所にて、十三は克用の十三子、中央の塚は其長子存勖に象る。今に至る迄之を十三大寳と名けて崇敬す。山地には石を用ひ、石無き地には木を用ひ、原野石も木も無き處には土にて作り、每年七月十五日に老若兒女喇嘛僧の相圖を見て騎馬して十三塚を走り廻る。又香と紙を焚て叩頭祈念し、其後羊肉を饗受す。此式を「アヲ・パヲ」と名く。拜王といふ義ならむと(John Hedley, ‘Tramps in Darkest Mongolia,’ 1910, pp.125-127 より抄出す)。

[やぶちゃん注:「柳田國男氏の石神問答」(いしがみもんだふ)は明治四三(一九一〇)年刊で、翌年には序を付して再刊している。日本民俗学の先駆的著作として広く知られる。日本に散見される各種の石神(道祖神・赤口神・ミサキ・荒神・象頭神など)についての考察を、著者と日本メソジスト教会の最初の牧師の一人で民俗学者でもあったペン・ネーム山中共古(きょうこ)の名で知られる山中笑(えむ)・人類学者伊能嘉矩(かのり)・歴史学者白鳥庫吉(しらとりくらきち)・歴史学者喜田(きた)貞吉・「遠野物語」の原作者佐々木喜善(繁)らとの間に交わした書簡をもとに柳田國男が編集した、一風変わった構成の論考著作である。国立国会図書館デジタルコレクションで初版本が視認出来るが、その「概要」目次のここに十三塚に関わる記載の本文ページのインデックスがあるので、それに従って、それぞれを読まれんことをお薦めする。私は所持する「ちくま文庫」版柳田國男全集で二十年程前に読み始めたが、書簡体という形式がまどろっこしくて堪えられず、途中でリタイアしたまま、放置して完読していない。

「十三塚」(じふさんづか)当該ウィキを引く。『日本列島各地に分布する、民間信仰による土木構造物で』、『一般には』十三『基の塚(マウンド)から構成される。また』、『地名となっているところもある。本来は十三仏に由来するとされているが、それぞれの塚の伝承では必ずしもそうなってはおらず、数も』十三『に限定されて』はいない。『典型的な例の場合、親塚』一『基とそれ以外の子塚』十二『基からなる。すべてが直径』十『メートル以下であることが多い。塚の上には板碑など』、『なんらかの石造物が置かれることがある。埋葬施設はなく、地下施設もない。築造時期は中世である。全国的に分布しており、岩手県から鹿児島県まで』三百『箇所以上』、『存在していたが』、『古墳などと異なり』、『文化財として残されることは少なく、一部例外を除けば』、『開発によって姿を消しつつある』。『村境や峠道に多くみられ』、『地方により十三坊塚、十三本塚、十三人塚、十三壇、十三森などと名付けられていることもある』。各地の伝承によれば、例えば、『戦死者、落武者ら』十三『人の供養塚』乃至は『墳墓として造られた』とするもの、『埋蔵金の隠し場所として造られた』とする説の他、昔話には十二匹の猫と、一匹の『大ネズミの墓とする』話譚がある。そのシノプシスは、『昔、その地にあった寺に』、『夜な夜な』、『正体不明の化け物が出るようになり、住職を恐れさせた。ある日』、十二『匹の猫を連れた旅人が寺に宿泊を求める。住職は化け物が出る事を話したが、近所に他の家もなく、旅人は猫たちと共に寺に宿を取った。その夜、現われた化け物に』十二『匹の猫が立ち向かい、一晩』、『死闘が続く。夜明けとともに静かになり、住職と旅人が様子を見ると、大犬ほどもあるネズミ』一匹と十二『匹の猫の死体があった。住職は』十二『匹の猫の塚を造って手厚く供養し、それに大ネズミの塚を加えて十三塚と呼ぶようになった』というものである。以下、「起源」の項。『学術的に本来の築造理由として考えられるものは』、『十三仏信仰』・『古墳時代の群集墳』・『経塚』若しくは『善根のための造塔行為として造られた』もの・『怨霊や無縁仏の供養塚』・『境界を鎮護するため』(結界塚)が挙げられてある。『史料に乏しく、発掘調査によっても埋納品が少ないことから(銭などの表面採集が多い)、まだ解明は進んでいない。また地元での呼称が十三塚でなくとも小塚が多数あって、実体は十三塚であるものもある(千葉県千葉市中央区の七天王塚や神奈川県横浜市旭区の六ツ塚など)』とあり、以下に「主な遺跡」として多くの場所・地域が挙げられてある。なお、『東京人類學會雜誌』の第十五巻第百六十九号(明治三三(一九〇〇)年四月発行)に載る坪井正五郎の論考『日本の「積み石塚」』も本篇と合わせて読むに、非常に価値がある。「J-Stage」のこちらからダウン・ロード可能であるので、是非、読まれたい。

「十三佛」当該ウィキによれば、中国で偽経によって形成された地獄思想の『十王をもとにして、室町時代になってから日本で考えられた、冥界の審理に関わる』十三『の仏(正確には仏陀と菩薩)』、閻魔王を初めとする冥途の裁判官たる十王と、『その後の審理(七回忌・十三回忌・三十三回忌)を司る裁判官の本地』(ほんじ)『とされる』仏に関わる十王信仰を指し、また、この十三仏は『十三回の追善供養(初七日〜三十三回忌)をそれぞれ司る仏様としても知られ、主に掛軸にした絵を、法要をはじめあらゆる仏事に飾る風習が伝えられ』ているとある。十三の冥王と本地仏は、リンク先で表になっているので、参照されたい。

「其後柳田氏よりの書信に、鳥居龍藏氏蒙古で塚を十三づゝ相近接して立し者を屢々見たる由敎示されたる」先に「南方熊楠・柳田國男往復書簡(明治四五(一九一二)年三月・三通)」を電子化注しておいたので、そちらを参照されたい。一部、そちらで注したこととダブっているが、そもそも先にここで注している最中に必要にかられてやったことであり、本篇をのみ読まれる向きには、残しておいてよかろうと思い、ここの注には手を加えなかった。「鳥居龍蔵」(明治三(一八七〇)年~昭和二八(一九五三)年)は人類学者・考古学者・民族学者・民俗学者。小学校中退後、独学で学び、東京帝国大学の坪井正五郎に認められ,同大人類学教室の標本整理係となった。後、東大助教授・國學院大學教授・上智大学教授などを歴任、昭和一四(一九三九)年から敗戦後の昭和二六(一九五一)年には燕京大学(現北京大学)客員教授(ハーバード大学と燕京大学の共同設立による独立機関「ハーバード燕京研究所」の招聘であったが、昭和一六(一九四一)年の太平洋戦争勃発によってハーバード燕京研究所は閉鎖されてしまい、戦中の四年間は北京で不自由な状態に置かれた。日本敗戦により研究再開)として北京で研究を続けた。日本内地を始め、海外の諸民族を精力的に調査、周辺諸民族の実態調査の先駆者として、その足跡は台湾・北千島・樺太・蒙古・満州・東シベリア・朝鮮・中国西南部など、広範囲に及んだ。考古学的調査の他にも民族学的方面での観察も怠らず、民具の収集も行ない、北東アジア諸民族の本格的な物質文化研究の開拓者となった。また、それらの調査を背景に日本民族形成論を展開した。鳥居の学説の多くは、現在ではそのままの形では支持できないものが多いが、示唆や刺激に富むものが少なく、後世に大きな影響を与えた研究者である。なお、柳田國男は「一目小僧その他」(ブログ・カテゴリ「柳田國男」で全電子化注済み)では、各所で、彼の「無言貿易」の説を批判しており、アカデミストとして、鳥居の学歴を軽蔑している雰囲気が充満しており、甚だ不快である。例えば『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 隱れ里 一』を見られたい。

「遼東の豕」(りやうとうのゐのこ)は「本人がひどく得意でも、ほかからみれば、いっこうにつまらないこと」の喩えで、「世間知らずで一人よがりの慢心」を指す成句。遼東は遼寧省南部を指す。後漢の光武帝の時、幽州の牧朱孚(ぼくしゅふ)が、功を誇って反乱を企てた漁陽の大守彭寵(ほうちょう)に、「昔、遼東で豕(ぶた)が白い頭の子を生んだ。珍しいことなので献上しようと思い、河東へ行くと、そこの豕は、皆、白かったので、恥ずかしい思いをして帰った」との喩えを引いて、彭の功が宮廷の場では、なんの価値もないことを戒めた、と伝える「後漢書」の「朱孚伝」の故事によるもの。

「李克用」(りこくよう 八五六年~九〇八年)は五代後唐の事実上の始祖。諡は武皇帝。廟号は太祖。後唐第一代の皇帝荘宗の父。軍功によって、唐朝から李国昌の姓名を与えられた突厥人(とっけつじん:六世紀に中央ユーラシアにあったテュルク系遊牧国家の末裔)の朱邪赤心の第三子。幼時から騎射をよくし、また、片方の目が悪かったことから「独眼竜」とも称された。「黄巣の乱」の鎮定に武功第一として検校司空同中書門下平章事・河東節度使に任ぜられ、次いで、隴西郡王・晋王に進んだ。唐末の藩鎮割拠の中で、朱全忠(後梁の太祖)と対立し、唐朝を守った。子の李存勗(そんきょく:本文の「存勖」と同字)が後唐を建国し、克用を「太祖武皇帝」とした。

「沙陀」(さた/さだ)は山西省北部(グーグル・マップ・データ)。

『古「ゲーリック」國』旧石器時代の紀元前七五〇〇年頃にアイルランド島に定住したアイルランド人の祖先ゲール人(アイルランド語:Na Gaeil:ナ・ゲール)の古代国家。

「象る」「かたどる」。

「喇嘛僧」「ラマそう」。

「焚て」「たきて」。

John Hedley, ‘Tramps in Darkest Mongolia,’ 1910, pp.125-127」ジョン・ヘドリー(一八六九年~?:詳細事績不詳)の「最暗黒のモンゴルの漂流者」か。サイト「HathiTrust Digital Library」のこちらで原本の当該ページから視認出来る。]

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