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2022/07/20

「南方隨筆」底本正字化版 跋 中山太郞「私の知つてゐる南方熊楠氏」 附・柳田國男名義の注意書き差し込み

 

[やぶちゃん注:底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(ここから)で視認して用いた。

 本篇は特に「跋」とはしていないが、跋文相当として、記事名の標題の頭に「跋」と附しておいた。

 筆者中山太郎(明治九(一八七六)年~昭和二二(一九四七)年)は足利生まれの民俗学者。本名は太郎治。東京専門学校(現在の早稲田大学)卒業。新聞記者・編集者を生業とする傍ら、柳田国男に師事し、自らの学問を「歴史的民俗学」と称し、古文献による研究を行なった。読書から得られた膨大なカードをもとに、巫女・盲人・売笑・婚姻・若者といったテーマごとの通史を纏め、独力で「日本民俗学辞典」(昭和八(一九三三)年刊)を編纂した。口頭伝承に基礎を置く柳田との対立などによって、学説史上、長らく評価されなかったが,近年その功績が認められつつある(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

 一部で読み難いと判断した箇所に読点を補った(それは特に断っていない)。また明らかな誤字と判断したものは訂した(特に注記はしていない)。注は最小限に留めた。]

 

   私の知つてゐる南方熊楠氏 中 山 太 郞

 

     私の知つてゐる南方熊楠氏 

                  中山太郞 

 私は南方熊楠氏を、奇人だとか、變人だとか、又は單なる物識りだとか、そんな陳套な文句を以て品隲することは、氏に對する大なる冒瀆であると信じてゐる。私は斷言する、南方氏は奇人とか變人とか云ふそんな小さなケタは、生れながらに超越した偉人であり哲人であると云ふことを。而して南方氏こそ眞に生ける日本の國寶であることを。

[やぶちゃん注:「陳套」(ちんたう)は「古臭いこと」。「陳腐」に同じ。

「品隲」(ひんしつ)は「品定め」の意。]

 我が南方氏は日本に過つて生れた大學者である、言ひ換へれば日本が過つて生んだ大天才なのである。學者必ずしも天才ではなく、天才又必ずしも學者でないが、南方氏に在つては一身で此の二面を具へてゐるのである。寡聞ではあるが私の知れる限りでは、其の學殖に於て、其の精力に於て、然も識見に於いて、氣魄に於て、我が南方氏に比肩すべき者を我國の現代に於て、其現代に於て、否、我國の過去に於ても遂に發見することが出來ぬのである。彼の勤續四十年を以て歐洲の學界に有名なるキングスカレツジ敎授ダクラス氏が『南方は大偉人なり』と敬服し、更にロンドン大學總長ヂツキンス氏が『南方は、それ、異常の人か、東西の科學と文藝とに兼通せり』と激稱したのは、決して世辭でもなければ追從でもない、氏は不世出の大偉人、大異常人なのである。

[やぶちゃん注:「キングスカレツジ敎授ダクラス」ロバート・ケナウェイ・ダグラス(Robert Kennaway Douglas 一八三八年~一九一三年)はイギリスの中国学者で、ロンドンの国立大学キングス・カレッジ・ロンドン(King's College London)教授。サイト「南方熊楠のキャラメル箱」のちらの記載によれば、『中国領事館に勤務』後、『大英博物館へ』移り、『東洋書籍部の初代部長を務め』た。『大英博物館館長フランクス卿の後見を受けてやって来た』熊楠『と出会い、その知識に瞠目したダグラスは熊楠に東洋書籍部の仕事を手伝わせ』たが、『熊楠は大英博物館内で何度ももめ事を起こし、その度にダグラスが事態の収拾に当た』ったとある。

「ロンドン大學總長ヂツキンス氏」イギリスの日本文学研究者・翻訳家フレデリック・ヴィクター・ディキンズ(Frederick Victor Dickins 一八三八年~一九一五年)。イギリス海軍軍医、領事館弁護士として来日し、帰国後はキングス・カレッジ・ロンドンの事務局長(副学長)を務めた。初の本格的英訳とされる「百人一首」を始めとして、「竹取物語」・「忠臣蔵」・「方丈記」などを英訳し、日本文学の海外への紹介に先駆的な役割を果たした人物として知られる。ハリー・パークスやアーネスト・サトウとも交流があり、熊楠が翻訳の手助けをする代わりに、イギリス留学中の経済的支援をするなど、深い交流があった(当該ウィキに拠った)。]

        ○

 南方氏の學殖に就ては、苟くも本書を通讀せられたお方ならんには、其の該博と深遠とに必ず驚かるゝことゝ思ふので敢て說明せぬが、精力の絕倫に就ては、氏が大藏經を三度精讀したとか、内外古今の書籍を讀破したとか、そんな月並のことではなく、更に驚くべき事實が數々ある。然し此處に其の總てを盡すことは許されぬが、私が一番驚いてるることは氏の書信である。一度でも氏の書信に接したお方ならば、卷紙に毛筆の飯粒大の細字で通例三尺五尺、長いのは一丈二丈と云ふ、一通讀むにも三日はかゝると云ふほどの書信を、一氣呵成に書きあげる精力である。然もその書信たるや南方一流の引例考證の微に入り細を極めたもので、書き出しの時間と書き終りの時間(氏は如何なる書信にても此の事を附記する)から推して、引用書を參考する餘裕はないと信ずるので、あれだけのものを全くの暗記で認めるのかと思ふと、實際異常の人を叫はざるを得ないのである。然も斯かる長文の書信を、明治三十四年の歸朝後に於て先づ佛敎に就ては故土宜法龍師(仁和寺門跡、後に高野山座主)に、植物學に就ては理學博士白井光太郞氏に、民間傳承に就ては柳田國男先生に、神話及び童話に就ては故高木敏雄氏に更に粘菌學に就ては小畔四郞氏に、淡水藻に就ては上松蓊氏に、人類學及び粘菌に就ては平沼大三郞氏に、多きは數百通、少きも數十通を寄せてゐる。以上の中で私が披見したものは白井博士、柳田先生、小畔氏の三氏だけであるが、故高木氏の分は學友ネフスキー氏の談によれば、一部の書册をなしてゐたと云ふし、上松氏の分も、平沼氏の分も、又相當の量に達してゐることゝ思ふ。これだけの書信、それは營業としてゐる手紙書きでも遣󠄁れるものではない。然もそれを硏究の傍ら遣󠄁り通す氏の精力には誰か企て及ぶものか。

[やぶちゃん注:「土宜法龍」仏教学者で真言僧として高野山真言宗管長などを勤めた名僧土宜法龍(どきほうりゅう 嘉永七(一八五四)年~大正一二(一九二三)年)。

「白井光太郞」(みつたろう 文久三(一八六三)年~昭和七(一九三二)年)は植物学者・菌類学者。「南方熊楠 履歴書(その43) 催淫紫稍花追記」の私の注を参照。

「高木敏雄」(明治九(一八七六)年~大正一一(一九二二)年)はドイツ文学者で神話学者・民俗学者。大正二~三年には『郷土研究』を柳田国男とともに編集していた。欧米の、特にドイツに於ける方法に依った神話・伝説研究の体系化を試み、先駆的業績を残した。

「小畔四郞」(こあぜしろう 明治八(一八七五)年~昭和二六(一九五一)年:熊楠より八つ下)は熊楠が亡くなるまで有能な助手として彼を支えた人物。「南方熊楠 南方隨筆 始動 / 画像解説・編者序(中村太郞)・本邦に於ける動物崇拜(1:猿)」を参照。

「上松蓊」(うえまつしげる 明治八(一八七五)年~昭和三三(一九五八)年)は熊楠の粘菌研究の門弟の一人。「南方熊楠 履歴書(その24) 小畔四郎との邂逅」の私の注を参照。

「平沼大三郞」(明治三三(一九〇〇)年~昭和一七(一九四二)年)は小畔・上松とともに三羽烏として熊楠を支えた門人。]

 氏の識見と氣魄とに就ては、別項に就て記す考へであるから改めて此處には舉げぬ。更に氏の專攻である粘菌學に於て、如何なる位置を世界的に占めてるるかと云へば、これは左の數字が雄辯に證明してゐる。

 大正十五年迄の世界植物學界に報告されてゐる粘菌の總數は、本種變種の二つを併せて(以下同じ)二百九十七種であるが、此の中で南方氏が獨力で發見報告した數は實に百三十七種に達し、氏の指導を受けてゐる小畔氏が五十二種、同じ上松氏が五種、外には理學博士草野俊助氏が十七種を報告してゐるだけで、他は世界各國の諸學者の報告である。多くを言ふを要しない。纔に此の一事から見るも氏の貢獻の如何に重きをなしてゐるかゞ窺はれやう。氏が英國で發表した『燕石考』が、今や十二ケ國の國語に飜譯されてゐるとか、更に『神跡考』が内外學者の驚異となつてゐるとかと云ふことは、氏の名譽には相違ないが、然し氏にとつては全く餘技である。これを以て氏を測らうとするのは、未だ廬山の總てを盡くさぬ人の管見である。

 私も敢て氏の總てを知つてゐるとは言はぬが、如上の書信を通じ、更に氏を知る方々のお話を承り、それへ私が大正十一年五月から八月まで、前後九十日間親しく氏の口から聽いたことを綜合して、その輪廓だけでも明かにしたいと思ふ。聽き違へ覺え違ひも澤山あらうが、それは總て私の罪であることは言ふまでもない。

       ○

 熊楠氏は本年六十だから、明治元年生れになる。家は代々紀州日高郡矢田村大字土生(はぶ)の庄屋を勤めて、同地方きつての大金持であつたと云ふことだ。何でも熊楠氏の幾代前かの當主の折に、大阪の豪商鴻ノ池で結婚式を學げる爲に、金屛風の借用方を同家へ申込で來たので、六曲一双を貸してやつたところ、鴻ノ池では一双では足りぬモウ二三双貸してくれとののことに、同家ではそんなに持合せが無いと斷りを言ふと、いや有る筈だ、貸し惜みするとは怪しからんと問答の末、當主が「金屛風とはドンナ物かね」と尋ねるので、使の者は「それは金箔を置いた屛風さ」て答へると「金箔の屛風か、私は金屛風と云ふから純金の屛風のことかと思ふて一双しか無いので斷つたのだが、それなれば幾らでもあるから持つて行くが宜い」と、五双貸したと云ふ逸話が殘されてゐる。此の一事から見るも南方家は素晴しい財產家であつたことが知られるが、熊楠氏の父は此家の次男として生れたのである。その頃は德川の世盛りが過ぎ、南方家も以前のやうな暮し向きでなく、且つ土生村は僅に三十戶ほどの山間の辟地、かゝる猫額大の土地の庄屋におさまつたところが致し方ないと見極めをつけたものか、十一歲の折に家を飛び出し諸方に年期奉公を勤めた上和歌山に赴き此處で鐵物屋を初めたのが、その時の資本は驚く勿れタツタ三圓五十錢だと云ふことである。

[やぶちゃん注:「明治元年生れ」一八六八年であるが、誤り。熊楠は(慶応三年四月十五日(一八六七年五月十八日)生まれである。

「日高郡矢田村大字土生」「ひなたGPS」の戦前の地図でここ。現在の日高郡日高川町土生(グーグル・マップ・データ。以下、特記のないものは同じ)。

「熊楠氏の父」南方弥兵衛(後に「弥右衛門」と改名)については、『「南方隨筆」底本正字化版「紀州俗傳」パート 「四」』の「予の亡父」の私の注を参照されたい。

「鐵物屋」「かなものや」。]

        ○

 氏は鐵物屋の次男として和歌山市に生れたのであるが、父なる人は非常なる勤儉力行家で、後に和歌山縣で五番目、和歌山市では第一番と云はれる資財を造りあげただけに、生活などは出來るだけ質素を極めたものである。熊楠氏が幼時の辛苦を訴へた書信の一節に

  (上略)家貧と云ふにぱ非ざれぎも、父母至て

  節儉なる人なりし故、金錢とては一文もくれず、

  因て家で賣る鍋釜に符牒つくる藍と紅がらにて、

  ブリキ板へ習字し、又鍋の包紙にと買ひ來りし

  内に訓蒙圖彙十册ありしを貰ひ、それを見て𤲿

  を學べり云々

とある程で碌々に學枝へも遣られなかつたのである。

[やぶちゃん注:「力行家」「りきかうか(りっこうか)」。非常な努力家。]

 然し氏の凡人でない閃きは靑鼻汁を垂してゐた時分から見えてゐた、それは十二歲の折であるが、同町内に古本屋があつて店頭に太平記五十册が飾られてあつた。氏は此の本が讀みたくて買ひたくて仕方がないが、代價はと訊くと大枚三圓だと云ふ。金三圓と云へば今日なら大食の者なら蕎麥食つても滿腹せぬほどの金であるが、當時の氏にとつては容易に手にすることの出來ぬ大金だ、さればとて本を貸してくれと賴んだところで、貸本屋ぢやないと云ふて斷わられるのは小供心にも豫測される。そこで氏は學校の往來每に店頭に立ち、件の太平記を偸み讀みして三枚五枚と暗記して歸宅し、半年餘りで全部五十册を立派に寫してしまつた。

 此の一事は全和歌山市の大評判となつた。それは人問業ではない、奇蹟だと云ふ聲が高くなり、流石に强情で學問嫌ひの父親も、「熊楠だけは別者だ、好きなら本を讀むがよい」と許すやうになつた。氏の學問はこれで幕が明き、爾來、六十年の今日に及んだのである。

        ○

 氏は十七歲にして上京し大學豫備門に籍を置いた。當時、同窓には芳賀矢一博士、故人となつた俳聖正岡子規、同海軍中將秋山眞之等がゐた。その頃の氏は遊學とは云ふものゝ決して世間並の書生のやうに、充分の學費を親から送つてもらつて、暢ん氣に本を讀むと云ふ境涯ではなかつたのである。半は苦學する有樣である上に、當時から大酒を好み、その飮代を尠からず要したのと、邊幅を飾らぬ天性とで蓬髮弊衣、所謂ボロ書生の模型たるを失はなかつた。同恣であつた本多光太郞博士が當時を回顧されて語るに

[やぶちゃん注:以下は「變つてゐた。」までが底本では全体が一字下げ。]

 南方君は變り者で通つてゐた。夏になつても熱いと言はず、冬になつても寒いと言はず、金があれば飮む、飮めば議論をしかける、相手がなければ寢ると云ふ有樣だつたが、此の寢るに就て珍談がある。それは南方氏は非常に猫を愛してゐた。素人下宿にクスぶつてゐたが猫だけは手放さず飼つてゐた。猫に食物を遣るのに肉でも飯でも、先づ氏が口中に入れて能く咀嚼し、營養の含まれてゐる汁は自分が嚥下し、殘りの滓だけを與へると云ふ方法で、一人前の食物で猫と二人分を間に合せると云ふ新工夫のものであつた。それで冬になると此の猫を抱いて寢るのだが、これさへあれば夜具などは要らぬと云ふて、煎餅蒲團一枚の外は、悉く酒に代へてしまつたやうである。これでは猫を可受がるのか利用するのか、一寸、その境目が分らぬが、兎に角に學生時分から變つてゐた。

南方氏が故原敬と交りを結び、故山座圓次郞と肝膽相照し、故福本日南を小石川武島町の寓居に訪ねて驚かしたのも此の頃であつた。

[やぶちゃん注:「暢ん氣」「のんき」。

「邊幅」「へんぷく」。見た目。外観。

「原敬」(はら たかし 安政三(一八五六)年~大正一〇(一九二一)年)大正七(一九一八)年に総理大臣に就任したが、三年後の十一月四日、山手線大塚駅職員で政権に不満を持っていた中岡艮一(こんにち)に東京駅頭で刺殺された。直前に発起された「南方植物研究所設立趣旨書」の発起人の一人として彼の名があるが(資金が思うように集まらず、この時の設立は成らなかった)、彼は明治三九(一九〇六)年に内務大臣として神社合祀の勅令を最初に出した張本人であるが、これまた面白い。

「山座圓次郞」山座円次郎(やまざ えんじろう 慶応二(一八六六)年~大正三(一九一四)年)は筑前出身の外交官。帝大卒。明治三四(一九〇一)年、外務省政務局長となり、外相小村寿太郎を補佐して「日英同盟」・「ポーツマス講和会議」などに関わった。特命全権公使として「辛亥革命」後の対中国外交に当たったが、北京で病死した。

「福本日南」(にちなん 安政四(一八五七)年~大正一〇(一九二一)年)はジャーナリスト・政治家・史論家。『「南方隨筆」版 南方熊楠「龍燈に就て」 「一」』の私の注を参照。

「小石川武島町」小石川小日向(こびなた)武島町。現在の文京区水道一丁目・二丁目。]

        ○

 南方氏は夙に軆操無用論を唱へてゐた。全體、體操なんてものは都人士の腹ツペらしにしか過ぎぬ。本當の學者には要らぬものであると稱へた。豫備門時代たゞの一度も此の學科に出たことがない。その時の體操敎師はフランスからのお雇數師であつたゞけに、氏の言分の通らう筈がなく立派に落第させられてしまつた。氏は憤慨やる方なく例の氣性で『ベラ棒め、己れほどの大學者を落第させるなんて、そんな日本には居てやらねえぞ』と大見得を切り、それこそ着のみ着たまゝで瓢然としてアメリカヘ渡航した。それは明治十九年の春で、帝都は墨陀や東臺の花に曉を覺えぬ行樂のときであつた。

[やぶちゃん注:「墨陀」「すみだ」と読み、隅田川のこと。

「東臺」「とうたい」或いは「とうだい」。「関東の台嶺」の意で東叡山寛永寺、及び、同寺のある上野の山の異称。]

        ○

 アメリカヘ渡つた氏は、ランシング大學の農科へ入學する考へで勉强してゐたが、此處でも例の體操無用論が祟り、それに敎室へ出るよりは圖書館へ行く方が多いので、こゝでも美事に落第させられたので癇癪玉を破裂させ『ベラ棒め、己れほどの大學者を落第させるなんて、そんなアメリカなら學校などには入つてやらねえぞ』と啖呵を切り、或るレストランの皿洗ひとなつて獨學をやり始めた。

[やぶちゃん注:「ランシング大學」ミシガン州ランシング市にあったミシガン州農業大学(現在のミシガン州立大学)。]

 當時、熊楠氏は學問の趨勢に就て深く考へた。その結果、將來の學問は哲學と生物學とが、その中心にならなければならぬ。而して生物學の鍵を握るものは植物學の粘菌でなければならぬ。從つて自分は粘菌の硏究に生涯を沒頭しやうと、斯う所存の臍を極めたのである。が、皿洗ひの身分では參考書も買へぬので、世界の大學者の卵を以て任じてゐる氏も、大に弱つてゐるところへ、氏にとつて一大福音が天の一方から落ちて來た。それは曲馬團(サーカス)の書記に雇はれると云ふことであつた。

        ○

 南方氏が歐米の事情に通じ、英、佛、獨、露、伊、蘭、支那、サンスクリツト等の各國語に通達する基調を作つたのは、實は此の曲馬團の書記となつた賜物である。偶然と云ふことが人間の運命を支配すをことの甚大なる、誠に思はざるべけんやである。

 書記となつた氏は一行と共に中米、南米、メキシコ、西印度、キユーパ等の各地の津々浦々まで約五年に及んで興行して廻り、親しく民情を究め文物を學んだ。そして氏の本職云ふのは書記に椙違ないが、實はラプレターの代書專門であつた。と云ふのは、何處も同じく女ならでは夜の明けぬが人情、曲馬團の到るところ一團の女藝人に對し浮かれ男の甲乙から花が贈られる戀文が來る、今晚は一緖に食事がしたいとか、明日は馬車で遊びに行きたいとか、何の彼のと甘ツたるい限りを盡し、駄辭迷句を聯ねたレターが舞込む、それに對して一々客の氣に障らぬやう、さればと言ふて曲馬團の面自を傷けぬやうな、柳に風的の返書を認めねばならぬ。之が熊楠氏の役目なのだから下情にも通ずる筈だし、辭書にも無いやうな通言粹句を覺えた譯である。然も此の間に在つて所期の粘菌學の標本採集と讀書とは一日も廢することなく、折を見たり隙を窺つたりして硏究を續けてゐた。

        ○

 曲馬團がキユバーに到着した時であつた、同地の革命軍が西斑牙の統治から脫がれやうと宣戰し、物情騷然たる有樣であつたが、熊楠氏は革命軍の祖國を愛する意氣に共鳴し、空拳を揮つて軍に加り各地に轉戰した。その折に敵軍から狙擊され左胸部に盲管銃創を受け病院に送られた。然るに此の從軍中、鄕里和歌山で氏の實父は永眠されたのである。後年、當時を追想した氏の書信の一節に

[やぶちゃん注:以下の引用は、底本では全体が一字下げ。]

 父は六十四歲にて死するに臨み、眞言宗の信徒なりし故高野山へ人を登せ、土砂加持と云ふことをなさしめたり、士砂を皿に盛り加持し、その砂の躍るる樣を見て病の吉凶を占ふなり。その時に加持僧の言はく、此病人は不治なりと、其者婦りて旨を父に告げしに少しも動ぜず、これ天命なりとて恰も借りた物を返すが如く從容として死にゆかれたり、其時小生キユバー島に在り、父死する六年前に出立、儀同三司の歌に「その時に着せましものを藤衣、ながき別れとなりにける哉」その如くにて在外十五年中に父母共に死なし、出立のとき別れしが生別となれ云々。

 回天の事業は志と違ひ、蕃地に創を痛んで故國慈父の訃音に接す。熊楠氏ほどの偉丈夫でも九腸寸斷の感を禁ずることが出來なかつたであらう。

[やぶちゃん注:【2022年7月21日改稿】当初、底本では「創を痛んで」(きずをいたんで」の「を」が印刷の擦れで(底本のここの右ページの七行目)読めなかったため「■」としていたが、早速、いつもお世話になるT氏から、国立国会図書館デジタルコレクションに、もう一冊、標題コマに『大正 15.6 7 内交』の印がある検閲副本があり、それでは当該部が「を」と読める、と御指摘を戴いた。「を」と確認し、修正した。T氏に御礼申し上げる。

「熊楠氏は革命軍の祖國を愛する意氣に共鳴し、空拳を揮つて軍に加り各地に轉戰した。その折に敵軍から狙擊され左胸部に盲管銃創を受け病院に送られた」これが事実なら、如何にも熊楠らしい強烈なエピソードで、映画にしたいぐらいスリリングだが、「南方熊楠記念館」の「熊楠の生涯」の「アメリカ時代」のページには、『この旅行中はキューバ独立戦争の最中で、革命軍に身を投じて負傷したというようなことが伝えられたが、そうした事実はなかった』とあった。具体な記述としては、中西裕(ゆたか)氏の論文「南方熊楠の大英博物館勤務および目録編纂説」(昭和女子大学紀要『學苑』七百八十五巻所収・こちらからPDFでダウン・ロード可能)が熊楠の言説と事実の齟齬を剔抉して頗る面白い。そこで、その「二」で、熊楠の長女である文枝さんの証言として、『聞いたことはございません。あれはウソではございませんか。何かお酒に酔ってホラを吹いたのではないですか。中山太郎さんのご本には「敵兵に狙撃されて、左胸部に盲管銃創を受け、野戦病院に護後送された」とありますけど、胸はきれいでしたし……。孫文を枚い出したというのも怪しいですね。』(論文ではここに中略指示がある)『わりに人を騙してケラケラひとりで笑っているということがございました』とあり、さらに別な証言として、『没後雑賀貞次郎は「先生の遺体納棺のために身を清めた際、銃創の跡は全くなく、きれいであった」とし、こうした荒唐無稽な伝説を否定している』(孰れも引用元は記載書誌が長いので、当該論文の後注を見られたい)ともあるので、間違いない。しかも、映画さながらの、この凄い話に関しては、熊楠自身の完全なデッチアゲであったことが、この二件の証言から明白なのである。

『儀同三司の歌に「その時に着せましものを藤衣、ながき別れとなりにける哉」』この歌、儀同三司藤原伊周や儀同三司の母のものなどを調べたが、行き当たらなかった。識者の御教授を乞う。]

        ○

 創が癒えると氏は英國に渡つた。そしてロンドン學曾で募つた天文學の懸賞諭文に多年の蘊蓄を傾けて應じ第一位を占め、學名一時に揚がり直ちに大英博物館の東洋調査部員に拔擢され日本及び東洋の爲に虹の如き氣を吐いてゐた。一八九八年大英科學奬勵會に論文を朗讀して大名をなし、一九〇三年ロンドン大學總長ヂツキンス氏を助けて、日本古文篇を大成してケンブリツチ大學から出版させ、更に同總長と鴨長明の方丈記を英譯し、皇立アヂヤ敎會から出版させるなど、氏の學名は歐洲人の耳に迅雷の如く響き渡つた。

 殊に氏が力を盡したのは、大英博物館の東洋部書籍目錄の編纂であつた。それこそ汗牛充棟も啻ならざる圖書に對して、一々解題を附し著者及び年代を明めるなど、氏の學殖と精力とでなければ、倒底、成す能はざる大事業である。今に同目錄が學者の間に珍重せられるのは全く氏の賜物と言ふべきである。

[やぶちゃん注:「ロンドン學曾で募つた天文學の懸賞諭文に多年の蘊蓄を傾けて應じ第一位を占め」渡英した翌年の一八九三年(明治二十六年)、科学雑誌『ネイチャー』(十月五日号)に載った熊楠の処女論文「極東の星座」(The Constellations of the Far East:過去、一般には一貫して「東洋の星座」と訳されている)を指すが、中山の謂いには誤りがある。これは「ロンドン學曾で募つた天文學の懸賞諭文」ではなく、同誌の「読者投稿欄」に載った自発的な投稿論文である。但し、これが多くの碩学の高い評価を受け、大英博物館への出入りを許可された点で、彼の公的な学者としての、エポック・メイキングな論文であることに変わりはない。

「一八九八年大英科學奬勵會に論文を朗讀して大名をなし」底本では「一九八九年」とあるが、どう考えても誤りとして訂した。しかし、この論文は不詳で、しかも不審がある。それは、私が調べた限りでは、ここに書かれた事実自体を所持する諸資料や、ネット記事の中に見出せないからである。もし御存知の方があれば、お教え願いたい。因みに、熊楠は一八九七年十一月八日に大英博物館で日本人としての人種差別を受け、暴力事件を起こし、出入り禁止として入館証を取り上げられている。但し、同年十二月には大英博物館から入館証返却を受け、再び読書を再開している。しかし、この一八九八年十二月夕刻、大英博物館の閲覧室で女性の高声を制し、監督官との口論の末、追い出され、同月十四日には、大英博物館から追放の通知を受けている。なお、先の中西裕氏の論文には、こういう事実は記されていない。

「啻ならざる」「ただならざる」。]

        ○

 當時、ロンドンに往つた者で、恐らく南方熊楠の學名の餘りに高きに驚かぬ者はなかつたであらう、然も此の名ある熊楠氏が素人下宿の陋室に起臥し、二十貫餘の巨軀を裹むにカラーもネクタイもない、醬油で煮染めたやうな上衣と、葱の枯ツ葉の如きよれよれの洋袴とを以てし、朝から晚まで大酒に食ひ醉つて熟柿のやうな曖氣(おくび)を吐いてゐなのを見ては、更に驚き山の峠を飛び越えて、たゞ呆れに呆れぬ者はなかつたであらう。當時、福本日南が氏の下宿の模樣を記して『彼(南方氏)が下宿の一室は、亦中々の見ものであつたと云ふことは、その穢ないことゝ云つたら、無類飛切である。凹んだ寢臺に、破れたる椅子、便器の傍らには食器が陣取り、掃除なんか何れの世紀に試みられたか分らぬと云ふ光景であるが、感心であつたのは、書籍と植物の標本とは幾んと一室を塡めてゐた』云々。眞況、見るが如しである。

[やぶちゃん注:「二十貫餘」七十五キロ超。

「飛切」「とびきり」或いは「とびつきり」。

「幾んと」「と」は「ど」の誤植であろう。「ほとんど」。]

 氏は大酒の僻ある外に、更に一つの厄介な僻がある。それは體力の旺盛なる爲か、野人の生活に馴れてゐる爲か、常に好んで素ツ裸で暮らすことである。然も氏の素ツ裸は全く文字通りの赤裸で、腰間にすら布片だに纒はぬと云ふのである。此の僻はゼントルマン氣質を國風とするロンドンに在つては誰彼なしに鼻摘みであつた。氏が轉々として居を移した原因は、腰間の一物をブラリとさせて屋内を步くことが、常に下宿屋の物議の種となつて追放されるのである。そのクセ女は大嫌ひで四十歲まで淨く高く童貞を捧げて來たのである。

        ○

 氏は在英中に母國の名士と交りを訂した。その中で故加藤高明、山本達雄、故德川賴倫(氏の舊藩主)、鎌田榮吉、故土宜法龍、故福本日南氏等と誼が厚かつた。

 氏が大英博物飽に在職中、氏の雷名を更に轟かすべき事件が突發した。それは氏が在米中から懇親を結でゐた支那の革命兒孫逸仙が、支那公使館に監禁されたことである。支那政府としては孫氏が火の如き革命思想を皷吹することは、打ち棄て置けぬ事ではあらうが、友人たる氏としては此の監禁を抽手傍觀するには餘りに血の氣が多すぎた。そこで氏は支那公使館に怒鳴り込む、文書で不都合を攻擊するなど、百方、手を盡して見たが、倒底そんな事で釋放さるべき筈がないので、遂に博浪一擊の故智を學び、夜陰身を挺して公使館に忍び込み、漸くにして孫氏を救ひ出したのである。學者としてよりは寧ろ國士としての氣慨に富める氏としては、これ位のことは朝飯前の仕事に過ぎぬが、これが爲に氏の學名は侠名に壓せられるほどであつた。

[やぶちゃん注:「加藤高明」(安政七(一八六〇)年~大正一五(一九二六)年)は外交官・政治家・内閣総理大臣(第二十四代)。尾張出身で東大法学部卒。

「山本達雄」(安政三(一八五六)年~昭和二二(一九四七)年)は銀行家・政治家。第五代日本銀行総裁。後に政界に転じて貴族院議員・日本勧業銀行総裁・大蔵大臣・農商務大臣・内務大臣・立憲民政党の最高顧問を歴任した政界の長老的存在である。豊後国臼杵出身で、三菱財閥が経営していた明治義塾(三菱商業学校)卒。

「德川賴倫(氏の舊藩主)」(よりみち 明治五(一八七二)年~大正一四(一九二五)年)は政治家・実業家。紀州徳川家第十五代当主。田安徳川家第八代当主徳川慶頼の六男として東京府下の田安邸で生まれたが、明治一三(一八八〇)年に紀州徳川家第十四代当主徳川茂承(もちつぐ)の養子となった。明治二九(一八九六)年、イギリスのケンブリッジ大学に留学して政治学を専攻した。留学中に南方熊楠と邂逅し、彼を介してここに出た「支那の革命兒孫逸仙」、則ち、孫文(一八六六年~一九二五年:「文」は本名。「逸仙」は号)とも面会している。但し、「氏の舊藩主」は彼は藩主になっていない(という生年を見れば判る通り、なりようがなかった)ので、「舊藩主主家の当主」でないと正しくない

「鎌田榮吉」(安政四(一八五七)年~昭和九(一九三四)年)は教育者で政治家(最後は枢密顧問官)にして慶応義塾塾長となった人物で、熊楠と同じく和歌山県生まれ。和歌山藩校・同白修学校を経て、明治七(一八七四)年に慶応義塾に入り、卒業後、母校教諭となったが、その後に帰郷し、白修学校校長を経て、再び慶応教諭となった。明治十四年に鹿児島造士館教頭を経て、再び母校に戻った。明治十九年、内務省御用掛となり、大分中学校長や同師範学校長などを経て、明治二七(一八九四)年に和歌山から衆院議員に当選、明治三十年に欧米巡遊、二年後に帰国して慶応義塾長となった。後も高等教育会議議員や教育調査会委員を務め、明治三十九年には勅選貴院議員となった。大正八(一九一九)年の「ワシントン第一回国際労働会議」では政府代表となり、大正十一年には加藤友三郎内閣で文相を務めた。

「博浪一擊の故智」後に劉邦の名軍師となる張良による始皇帝暗殺未遂事件。張良の家柄は、代々、韓の宰相であったが、韓が秦に滅ぼされると、その仇を報じようと、巡幸中の始皇帝を博浪沙(はくろうさ:河南省新郷市原陽県の南)で襲撃するも失敗した。張良は秦の追捕を逃れて下邳(かひ:遙か東の江蘇省のうち)に隠れた。

「夜陰身を挺して公使館に忍び込み、漸くにして孫氏を救ひ出した」これもまた、ジェームス・ボンド顔負けのスパイ・アクションみたようだが、これが事実なら、実際に熊楠に好意を抱いていた孫文が、後にこの件について謝意を送るなり、覚え書として書き残すであろうに、そんなものは、これ、聴いたことがない。先に示した中西氏の論文「南方熊楠の大英博物館勤務および目録編纂説」の引用でも、娘の文枝さんはキューバ革命の戦闘負傷と同じく『怪しい』と否定的である。中西氏は、この事件についても、同じ「二」で言及されており、まさに以上の「支那政府としては」から「漸くにして孫氏を救ひ出したのである。」を引かれた上で、

   《引用開始》

 孫文幽囚事件における真実を熊楠自身が明確に認識していたことは次の書簡に見ることができる。

 

  御尋問の孫逸仙のことは古きことゆえ小生

 記臆たしかならず。氏が支那公使館に囚われ

 しときい ろいろ骨折り救出せし人は、マッ

 カートニー MacCartney [略]、たしか孫氏の

 旧師たりし医師か伝道師と記臆致し候。ロン

 ドンにありしときもっとも親交ありしは、小

 生とマルカーンというアイリシュ人なりし。

[やぶちゃん注:最後に注記番号があり、後注に、『上松蓊宛大正十四年九月二十一日書簡、『南方熊楠全集』別巻一 一九七四年三月一二日 一一五頁。』とある。]

 

 熊楠は事態を正確に記憶している。ところが、中山太郎の書いたものでは虚の部分がほとんどを占めるまでに変形されている。しかし、これは中山が想像にまかせて作文をしたのではなく、フィクションの出所は熊楠自身だろうと推測される。それを思わせる記述が熊楠の日記の中にある。

 

  [一八九七年]十月三目 日 快晴[略]

 六時過に至り北入口にて分れ、予は歩して中

 島氏方に之。輸船会社の吉井氏(伯者人)も

 あり、共に加藤元四郎氏方に之、余得意の

 「竜動(ロンドン)水滸伝」を演ず。それよ

 り酒店に之、又飲酒。十時過分れ、トラム及

 バスにて帰り来る。

[やぶちゃん注:最後に注記番号があり、後注に、『熊楠「ロンドン日記」、『南方熊楠全集』別巻二 平凡社 一九七五年八月三〇日 一〇〇頁。』とある。]

 

 ここで語られた「水滸伝」がすなわち孫文救出事件だという確証は何もないが、熊楠にまつわる虚構の誕生した場所がどこであったかの一端を想像させるものである。

   《引用終了》

とあるのである。但し、中西氏の注『30』(以上の引用前の私が言った本篇からの引用注記)に引用元書誌を記された後に、『孫文にかかわる記述のためかどうかは不明ながら、熊楠はこの文章を中山が載せたことに立腹した。柳田國男宛大正一五年五月二六日書簡に、関連する記述が見られる。そこでは熊楠が「中山君新聞記者の癖抜けず、人の話の忘れたところは勝手に作為するは毎々なれども、今度はあまりはなはだしく小生の言八割以上は作りごとに候。[略]二版にはもちろん取り去らしめ申すべく候。」と書いている(『柳田国男南方熊楠往復書簡集』平凡社 昭和五一年三月二六日 四四七頁)。なお、中山のこの文章は熊楠没後の昭和十八年二月十五日に『南方随筆』が再刊された際には削除された。』(以下略)とあった。ともかくも、やはり限りなく怪しい。]

 在英中の奇行逸話を記せば、それこそ僕を代えるも猶ほ足らぬと云ふ有樣である。現存の名士であるからワザと姓名は秘して置くが、某貴公子が「ナニを南方か」位で輕く視た爲に天窓から嘔吐を吐きかけられ(氏の嘔吐は實に不思議で、吐きたいと思ふて何時でも吐ける、同人間では牛と同じ反芻作用を有してゐるのだらうと言はれてゐる。氏は此の奧の手を以て、幾度が氣に喰はぬヤツを擊退してゐる)て失敗した話は有名である。更にロシヤの植物學者オツサンサツケン伯と學會の席上で議論し、亂醉の結果とは言ひへ伯の鼻ツ柱を嚙つたので、遂に大英博物館を免職になつた。これが日本人同士なら、咋日は酒の上で鼻ハダ失禮した位で濟んだか知れぬが、此の洒落は毛唐人には通用せぬのでクビになつてしまつたことや、更に氏がロンドン中の居酒屋(レストラン)(居酒屋は殆んど言ひ合したやうに街の角にある)を飮み廻り、自ら酪李白を以て許し、天子召せごも船に上らずを極め込んでゐるので、福木日南から『角屋(カドヤ)先生』のニツクネームを奉られ、それでも「我輩は食ふ物は食はなくとも飮む物だけは飮んで勉强した」と矜語したことや、更に德川賴倫侯を大英博物館の秘密室に案内し、印度から到來したる田を荒した女を牛が犯してゐる等身大の石像を見せて眼を廻させたことや、數へて來ると殆んど際限なく存してゐる。然しかゝる事は決して氏の大を加へるものでないから割愛するが、猶ほ最後に特筆すべき一事がある。

[やぶちゃん注:「訂した」「ていした」。「結んだ」の意。

「僕を代えるも猶ほ足らぬ」私が馬鹿なのか、これ、意味不明である。「墨」ならなんとなく判るけど。

「天窓」(あたま)「から嘔吐を吐きかけられ……」これは熊楠の奇体な特技としてよく知られたものである。

「オツサンサツケン伯」カール・ロバート・オステン=サッケン(Роберт Романович Остен-СакенCarl Robert Osten-Sacken 一八二八年~一九〇六年:彼は「伯爵」ではなく男爵である。)はペテルスブルグ生まれのロシア人。一八五六年から一八七七年まで、外交官としてアメリカ滞在した。幼少より昆虫好きで、アメリカ勤務後、欧州へ戻ると、ドイツのハイデルルグに居住し、膜翅類(膜翅(ハチ)目 Hymenoptera:ハチやアブの類)の研究者で同類についての目録の作成に勤しんだ。彼は晩年、膜翅類の研究をフォークロアのレベルまで掘り下げたが、その中で、聖書に出る蜂の伝説に関して、一八九三年十二月二十八日号の『ネイチャー』の読者投稿欄に資料提供を掲げた。それに対して熊楠は、一八四五年五月十日号の同誌で、‘ Some Oriental Beliefs about Bees and Wasps ’(所持する「南方熊楠英文論考[ネイチャー]誌篇」(二〇〇五年集英社刊)では「蜂に関する東洋の俗信」と訳されてある)を書いた(続論考もある)。一九八四年八月二十一日には、サッケン自身がロンドン滞在中に熊楠を訪問している(但し、二十分足らずの訪問であった。彼の部屋と、借りてきたティー・カップの汚さに閉口した結果とされる)。サッケンは同年に‘ Oxen-Born Bees of the Ancients (Bugonia) and Their Relation to Eristalis Tenax, a Two-Winged Insect ’(の訳(抄訳)では『牛から生まれた蜂の古説(ブーゴニア)とハナアブの関係』)を書き、そこで熊楠の提供した資料を披露している。但し、以下の、サッケン「と學會の席上で議論し、亂醉の結果とは言ひへ伯の鼻ツ柱を嚙」(かじ)「つたので、遂に大英博物館を免職になつた」というの全く事実とは異なる。これは、先の中西氏の注の記載から考えるに、熊楠の噓ではなく、中山の調子に乗り過ぎた、ひどい誤認と、迂闊な表現であると思われる。「鼻ツ柱を嚙つた」は換喩で、徹底的に論駁して封じ込んだの謂いであろう。とすれば、「落斯馬(ロスマ)論争」で熊楠が、書簡のやり取りで完膚なきまでにぼこぼこにした、オランダの東洋学者・博物学者でライデン大学中国語中国文学講座の初代教授でもあったグスタフ・シュレーゲル(Gustave Schlegel 一八四〇年~一九〇三年)を勘違いしているように思われる(同論争については、書き出すと長くなるので、サイト『南方熊楠を知る事典』の「松居竜五(まつい りゅうご)」氏のページの「シュレーゲル Schlegel」の項を読まれたい)。そもそも、彼の大英博物館の永久立入禁止(中西氏の論文でも考証されているが、熊楠は職員として採用されたのではなく、出入・参観許可が認められたというに過ぎないようである)の措置の原因は、一八九八年十二月のある夕刻、大英博物館の閲覧室で女性が高声で私語したことに彼が怒って、それを制し、間に入った監督官との口論の末に追い出されたという一件が元である(以上は英文、及び、露文のサッケンのウィキの他、所持する一九九三年講談社「南方熊楠を知る事典」及び前掲の「南方熊楠英文論考[ネイチャー]誌篇」や中西氏の論文等に寄った)。]

        ○

 それは氏が二度目に酒で大英博物館をシクジリ、それこそ大好物の角屋先生も廢業してゐると、突如として故ヴイクトリヤ女王からの敕命で、一日一ギネーで當分植物學を硏究せよとの御沙汰を被つたことである。當時の氏は「彌次喜多が富籤の札を拾ふた如き元氣と感激」とを覺えたのであるが、これは英國の帝室が貧乏な學者や技術家や、その他有能な著作等に取掛り居て硏究員に窮せる者があると、その事の獸怨により或は半年、或は一年と其の者の薪水の助にとて日々若干額の内帑を下されたものである。氏も此の露の惠みに俗したのである。勿論、これはロンドン大學總長ジツキンス氏の奏請によつたのであらうが、窮するも又た名譽なりと言ふべきである。

 かくて明治三十三年の秋に、在外十五年の硏究を終つて歸朝の途に就いたのである。

[やぶちゃん注:ここも何だか大風呂敷を広げている感じがする。河出書房新社「新文芸読本 南方熊楠」の年譜によれば、大英博物館退去追放された直後の一八九九年一月に先に注した大英博物館東洋図書部長ダグラスの尽力で、彼の『官房内に机を置く条件で復帰を許さるが、謝絶して大英博物館を去』り、『以後』、大英博物館の組織の一部である自然史博物館や南『ケンジントン美術館に通う』とある。更に、ウィキの「南方熊楠」によれば、この一月の三十一日には、実弟『常楠よりの手紙を読み』、『「此夜不眠」』と日記に記した『仕送りを当年限りで打ち切るという内容の前年』十二月二十一日『付の常楠書簡が残されており、このことかと思われる』とあって、結局、熊楠は、一九〇〇年(明治三十三年)九月にリヴァプールを出港して、十月十五日に実に十四年振りに日本に帰国することとなったのであった。

「内帑」「ないど」と読む。ここは「皇室・君主の所有する財貨」の意。]

        ○

 明治三十四年の正月、氏から福本一南に寄せた一書は、氏の當時を知るべきものがあるので左に要點だけ抄錄する。

[やぶちゃん注:以下、「御座候(下略)」までは、底本では全体が一字下げ。]

新年の嘉儀茅出度申納候、咋年は中山氏(孫逸仙)の居處敎へ下され罷有御禮申上候、早速、書狀差出し候處返辭これあり、今春は小生方へ來る由に御座候、一體、同氏の一擧などは多少水滸傳がかりたる事にて、霹靂火日南、華和尙熊楠などの人物を多く集め、白馬でも斬てスキ燒に致し、大■皷、大吹角、和尙こゝに於て滿々と酌み、一連に飮み乾しければと、高井蘭山流にやらねば合戰は出來るものにこれ無く、又敗軍ともならんには、和尙一人蹈止り例の嘔吐にて敵を破ること何の雜作もなき事に候に、惜い哉彼れ年少氣銳にして兵法を講ぜざりしことよ、魯人勾踐が荆鄕を惜みしが如く嘆息致し居り候(中略)。

但し今回小生ロンドンを去るに臨み、角屋の亭主・酌女ども別れを惜み、椅子に居据つたまゝ動かぬより、領布振山(ひれふるやま)の昔を思ひ、石にでもなりはせぬかと問ひ合せしに、每度ながら餘り尻が永いので、各々歸宅の道の遠きを案じ、容易に動かれぬとの苦情、それではとヤオラ戶外に出づれば、每屋半弔旗を揭げ候、扨は南方先生の去るを悲む古意かて思ひきや、女王の伜が死んだのとイタリー王の銀砲疵のお弔ひの爲と聞き、

   飮む人も飮まるゝ酒も諸共に

         如露如小便應作如是觀

歸朝の船中四十五日、小生胸に一物あれば下等に乘り、押出した剩餘金を學げて飮代に充て日々甲板に驅上り知らぬ連中を相手に珍談を講じ、それより大酒宴を催し候爲に、新嘉波に達する前三日、船中用意の麥酒大罎の方全く盡き、香港以後は小罎にて制限を加ふることゝ相成り候、是に由りて倩(つらつ)ら考ふるに、一船も亦一社會なり、一社會に氣運とか風潮とか申す事これあり候へど、それよりも必死となりて働く烈士はより必要にて、それが大精力を發揮すれば、氣運や風潮は手に麾くべくと存じ候、飮代自分八十圓、他人より亂戰の御馳走約五十圓、神戶に上れば五圓しか囊中にこれなく候、歸國後は每日平均日本酒二升と麥酒八本づゝ飮み候に兄弟呆れ果て候故、酒屋(中山曰、氏の令弟は南方常楠氏とて和歌山縣隨一の酒造家、故大隈侯から命名された名酒一統の釀造元である)が酒を悲む理由如何と問ひ候へば如何にも酒屋は酒徒の多きを喜び候へど家兄の如く無賤多飮の客はあらずもがなと遣り込められ、返答出來ず、こゝ少々閉口の體に御座候(下略)。

全幅、酒香に濤ちてゐるが、その中に氏の面目の躍如たるものがある。

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「﹅」。「■」一字は印刷の擦れで判読不能字。この書簡、「私設万葉文庫」で筑摩書房版「南方熊楠全集」の書簡を調べたが、見当たらない。

「茅出度申納候」「めでたくまをしをさめさふらふ」。

「中山氏(孫逸仙)」孫文の号は「中山」(ちゅうざん)の他に、日本名「中山樵」(なかやま きこり)・「中山二郎」(なかやま にろう)があり、中国や台湾では「孫中山」(スン・ヂョンシャン)として呼ばれることが多い。

「居處」「きよしよ」或いは「をるところ」。

「罷有」「まかりあり」。ここは丁寧表現。

「今春は小生方へ來る由」明治三四(一九〇一)年二月、来日していた孫文が和歌山に来訪し、再会している。

「霹靂火」(へきれきくわ)「日南」「霹靂火」は「水滸伝」の梁山泊第七位の秦明(しんめい)の渾名。彼の、非常に短気で剛直な性分と、異様に大きな怒鳴り声から、稲妻に喩えたもので、それを手紙の相手で、元勤王家にしてジャーナリスト・政治運動家で、孫文の中国革命運動の支援もしていた福本日南に擬したもの。

「華和尙」(くわをしやう)「熊楠」のそれは同じく梁山泊第十三位の魯智深の渾名に自身を擬したもの。「華」(花)は刺青(いれずみ)を指し、魯智深には全身に刺青があったことに由来する。

「斬て」「きりて」。

「大■皷」判読不能字の(つくり)は「畾」。(へん)が判らない。ありそうなのは「櫑」か? この字は「酒樽」を意味し、これは「皷」=「鼓」と親和性はある。而して後の「大吹角」の「吹角」は「角笛を吹き鳴らす」ことだから、対句っぽくもなる。「■皷(鼓)」及び「吹角」は「水滸伝」に出る熟語かとも思ったが、後者は当たり前に頻繁に出るが、どうもセットにした検索では掛かってこない。

「高井蘭山」(宝暦一二(一七六二)年~天保九(一八三九)年)は読本作者。名は伴寛。江戸生れの幕府与力であったが、寛政(一七八九~一八〇一)頃から、「和漢朗詠国字抄」という俗解本を執筆し、読本としての処女作は享和三(一八〇三)年刊の「絵本三国妖婦伝」(初編)という『絵本物』であるが、本書は同題材を扱った「絵本玉藻譚」の上方での出版計画を察知した江戸の書肆が、急ぎ作らせたものと言われる。他に「星月夜顕晦録」のように、鎌倉時代の史実をもとにした実録風の作品が多い。また、馬琴の後を承けて「新編水滸画伝」二十九編の訳を担当し、前代の儒者にして本格的な唐音学者・中国学者であった岡島冠山(延宝二(一六七四)年~享保一三(一七二八)年)の訳した「通俗忠義水滸伝」を利用して手軽に訳している。「高井蘭山流」という意味が今一つよく判らぬが、前で日南と自身を登場人物に擬えた「水滸伝」の、その訳の以上のお手軽なやり口を指して洒落たものか。よく判らぬ。

「彼れ」孫文を指すとしか読めぬ。しかし、「年少」とあるが、孫文は一八六六年生まれであるから、三十五で、熊楠(慶応三(一八六七)年)より一つ上である。革命家としては若過ぎるという年齢ではない。

「魯人勾踐が荆鄕を惜みし」「荆鄕」は「荆卿」の誤字か、誤植。始皇帝の暗殺未遂で知られる荊軻(けいか ?~紀元前二二七年)の異名が「荆卿」(けいけい)(燕の人が呼んだ呼称)。「勾踐」(こうせん)は侠客の名で、「会稽の恥を雪ぐ」で知られる春秋時代の越王勾践(?~紀元前四六五年)とは全く関係ない同名異人。これは「史記」の「刺客列伝」の「荊軻」の末の一節。冒頭の方で、若き日の荊軻が「軻游於邯鄲、魯勾踐與荊軻博、爭道、魯勾踐怒而叱之。荊軻嘿而逃去、遂不復會。」(軻、邯鄲(かんたん)に游び、魯(ろ)の勾踐(こうせん)、荊軻と博(はく:古代のボード・ゲーム)すに、道(みち)を爭ひ[やぶちゃん注:ゲームの進行について言い争いとなり。]、魯の勾踐、怒りて之れを叱(しつ)す。荊軻、嘿(もく)して[やぶちゃん注:黙って。]逃げ去り、遂に復た會はず。)とあり、最後の箇所で、荊軻が暗殺に失敗して殺されたことを聴き、『魯勾踐、已聞荊軻之刺秦王、私曰、「嗟乎、惜哉其不講於刺劍之術也。甚矣吾不知人也。曩者吾叱之、彼乃以我爲非人也。」。』(魯の勾踐、已に、荊軻の秦王を刺さんとせしを聞くや、私(ひそか)に曰はく、「嗟乎(ああ)、惜しいかな。其れ、刺劍の術を講(なら)はざるなり。甚だ、吾、人を知らざるなり。曩(さき)には、吾、之れを叱せしが、彼、乃(すなは)ち、我れを以つて、人[やぶちゃん注:武術や戦略を習うべき人物。]に非ずと爲せしなり。」と。)と惜しんだことを指す。荊軻は献上する巻物(地図)の芯に仕込んだ短剣を抜いて目前で始皇帝を刺殺しようとしたのだが、荊軻は短剣を投げて相手を倒す撃剣の達人であったが、彼が失敗したのは、接近戦の刺剣術を会得していなかったからで、あの時、逃げるのをとめて、ちゃんと教えてやるべきだったと魯人(ろひと)の勾踐は甚だ悔いているのである。

「領布振山(ひれふるやま)の昔を思ひ、石にでもなりはせぬか」これは各地に散在する〈袖振る女〉伝承の本家たる「松浦佐用姫(まつらさよひめ)」のこと。現在の佐賀県北部、日本海側の唐津市厳木町の豪族の娘とされる。単に佐用姫(さよひめ)とも呼ばれ、弁財天のモデルともされる。「宗祇諸國物語 附やぶちゃん注 無足の蛇 七手の蛸」の私の「松原姫(まつらひめ)」の注を参照されたい。]

「女王の伜が死んだ」イギリス・ハノーヴァー朝第六代女王ヴィクトリアの次男でエディンバラ公にしてザクセン=コーブルク=ゴータ公であったアルフレート(Alfred 一八四四年~ 一九〇〇年七月三十日)。

「イタリー王の銀砲疵」イタリア王国の第二代国王ウンベルトⅠ世(Umberto I 一八四四年~一九〇〇年七月二十九日)。アナーキストによりパレード中、四発の銃弾を受け、暗殺された。

「如露如小便應作如是觀」「によろやくによしやうべんおうさくによぜくわん」と読んでおく。「金剛経」出る語句で、「如露亦如電応作如是観」をパロったもの。元の語も普通、総て音読みする。敢えて訓読するなら、「露(つゆ)の如く、亦、電(かみなり)のごとし。應(まさ)に是(かく)の如き観(くわん)を作(な)すべし。」であるが、どうも気持ちが悪く、訓読には馴染まない。意味は「現世のものは仮象のものであって、総てはこれ、露、或いは、雷電のように、儚いものである。故に、かく、あらゆる存在をそのようなものとして常に観想せねばならない。」の意。

「下等」船の最下にある最下級の客室。

「新嘉波」シンガポール。当時はイギリスの植民地。

「方」「はう」。

「麾く」「さしまねく」が普通の読みだが、ここは私は「たなびく」と読んでいるように思われる。

「亂戰」カード・ゲーム博奕をしたのであろう。

「中山」これは本跋文の筆者中山太郎自身。割注。

「故大隈侯から命名された名酒一統の釀造元」底本は「名酒統一」とあるが、誤字・誤植と断じて訂したウィキの「世界一統」によれば、『社名は主力銘柄「世界一統」にちなむ。この酒名は二代目、南方常楠の時代に名づけられた。常楠は早稲田大学の出身で、明治の元勲大隈重信侯爵に師事した関係から、大隈が紀州高野山に参詣した際に酒名の選定を依頼した。気宇壮大な大隈は「世界を統一」する「酒界の一統」たれ、といった意味から』明治四〇(一九〇七)年に『「世界一統」と命名した』とある。現在も和歌山県和歌山市湊紺屋町のここに本社がある。]

        ○

 氏が海外に十五年の星霜を送るうちに、故家の實情も一變してしまつた。それは氏の兩親が亡くなると共に、氏の令兄の豪奢なる生活と且つ無謀なる山カン事業のために、僅かに五年間で全く家產を蕩盡してしまつた事である。生家は斯くして亡び次に令兄も死なれたので、當然、氏が家名を相續すべきであつたが、學問に忠なる氏とて令弟常楠氏に一切を讓り、その代り月月百五十圓の硏究費を生涯送らるゝ約束で氏は分家し、間もなく現住所の田邊町に居を移した。

 氏が田邊に永住の決心をしたのは、同所は熊野連峰に近き爲である。熊野は神代の大昔からの淨境、開闢以來、斧鉞を知らぬ處女林があるので、氏の粘菌採集及び硏究には實に理想境なのである。

 歸朝後直ちに大和大臺ケ原に赴き、酷烈なる寒氣を冐して約一ケ月に亙り露營した爲に、惡質なるリヤウマチスを惹き起し、右足の自由を半ば以上失つた氏にとつては、居ながらにして採集の便ある田邊町は、全く天が氏の爲に殘して置いた場所とも言へるのである。

 氏は此處に永住の地を覔め、幾くもなくして妻女を迎へた。妻女は源平盛衰記で有名な鬪鷄神社の社司の女、女今川をそのまゝ人間にしたやうな貞淑柔順の美點を備へた方だと聞いてゐる。然して氏は四十歲、妻女は二十八歲、共に初婚であつて然も共に童貞を保つてゐたのである。明治三十五年の正月七日に、初めて那智の一ノ瀧の下で面曾した小畔四郞氏に語つた氏の話の中に『我輩は美少年の事は知つてゐるが、女と名のつく者は嬶より外は知らぬ』との一句があつたと云ふ、更にy氏に宛てた書信の一節に

 小生四十歲まで女を知らず、然るに妻を迎へしに

 一發にして姙む、男子を擧ぐ、幼名を蟇(ひき)

 六と名く、これ便々たる腹をツキ出して這ひ廻

 る有樣の蟇に似たるを以てなり云々(中山曰、

 長男熊彌氏のことなり、後に長女を擧ぐ雪枝子

 と申さるゝ由、外に子なし)

硏究に秋夜を惜み、酒盃に春霄を愛した氏にとつては、實際、女などにかまけて居られなかつたのであらう。

[やぶちゃん注:「氏の令兄」熊楠に実兄熊楠藤吉(安政六(一八五九)年~大正一三(一九二四)年)。熊楠の実兄。元の名は藤吉。河出書房新社の「南方熊楠コレクション」の注によれば、明治二〇(一八八七)年七月十五日、父弥兵衛が『家督を長男藤吉に譲り』、『弥右衛門を名乗り、藤吉が弥兵衛を襲名した』とある。しかし、放蕩止まず、晩年には家を出、数え六十六で呉市西城町で没している。サイト「南方熊楠資料研究会」の「南方熊楠を知る事典」内のこちらのページの中瀬喜陽氏の彼の解説によれば、藤吉と妻の愛の間に生まれた『長女くすゑ』(明治二一(一八八八)年生)『は、熊楠から目をかけられた一人であ』り、また、『熊楠の戸籍は、昭和三年六月の分家届まで藤吉とその長男弥太郎を戸主とする、和歌山市十三番庁七番地にあった』とある。

「大和大臺ケ原」奈良県と三重県の県境にある標高千六百九十五・一メートルの大台ヶ原山(おおだいがはらやま)。

「冐して」「おかして」。「冒」の異体字。

「惡質なるリヤウマチスを惹き起し、右足の自由を半ば以上失つた」この出典不詳。熊楠からの聴き取りにしても、熊楠の右足が半ば不随であったというのは、ちょっと私は知らない。

「覔め」「もとめ」。「覓」(「求」と同義)の異体字。

「鬪鷄神社」複数回既出既注。当該ウィキをリンクさせるに留める。

「社司の女」(むすめ)闘鶏神社宮司田村宗造の四女松枝さん。

「女今川」室町前期の武将で室町幕府の九州探題や多くの守護に任ぜられ、歌人としても知られた今川了俊(りょうしゅん:法名。本名は貞世(さだよ))が養子の仲秋に書き残したとされる著名な「今川状」に擬えて、女性が日常に守るべき事柄が禁止条項の形で列挙されている教訓書群を指す。

「嬶」「かかあ」。

「y氏」柳田國男であろう。彼宛の明治四四(一九一一)年六月二十五日附書簡(「選集」の別巻(柳田國男との往復書簡集)で確認)に、『女は全く縁なく(四十の年に始めて今の妻を迎え一交すなわち孕むで男子あり、蟇六と名づく)』とある。但し、幼名のそれの命名由来に就いては書かれていない。不審。

「便々たる」「べんべんたる」太って腹が出ているさま。太鼓腹であるさま。

「春霄」「しゆんしやう」。春の空。]

        ○

 硏究に淫してゐた氏の日常生活は、新妻の身にとつては可なり厄介なものであつたらしい。熊楠一流の殆んど二六時中素ツ裸で、朝から晚まで顯微鏡ばかり覗つてゐられるのでは、家庭の和樂も夫婦の情味もあつたものではない。硏究の半ばに晝飯を出したと云ふては膳部を投げ飛す、思索の最中に世事を話しかけたと云ふては鐵瓶が宙に舞ふのでは、如何に女今川を其のまゝ人間にしたやうな妻女でも堪えられるものではない、三度に一度は賣り言葉に買ひ言葉、投げ交す言葉に花が咲いて實家へ逃げ歸へる。すると氏は其後を趁ふて鬪鷄社の拜殿に素ツ裸のまゝ大胡座をかき、結婚以來、微に入り細に至るまで、夫婦間の情事を漏さず書き記した日記を聲高らかに讀み上げる。安宅關の辨慶糞を喰へ、一茶の七番日記でも跣足で駈け出すほどの珍妙な日記だ。これを聽かされては妻女は顏から火を出さぬばかり、眞赤になつて便所に隱れて耳を塞ぐ、舅も姑も開いた口が塞がらず、何事が起つたかと駈けつける町内の甲乙も、腹をかゝへるやら顏の紐を解くやら大騷ぎ、兩親は娘を呼び出し「親が兩手を合せて賴むからどうぞ歸つてくれ」と宥(なだ)めたり偏(すか)したりして戻すのが常であつた。氏の戰法は斯かる事にも、奇想天外から落つるものがあつた。

[やぶちゃん注:「覗つて」普通なら「うかがつて」でだが、しっくりこない。「みいつて」と当て訓しておく。

「趁ふて」「おふて」。

「糞を喰へ」対句性から「くそをくはへ」と訓じておく。

「一茶の七番日記」小林一茶の「七番日記」は四十八歳から五十六歳までの九年間(文化七(一八一〇)年から文政元(一八一八)年)に亙る句日記で、知られた乱交交尾の蛙合戦で弾き出された雄蛙を詠んだ「瘦蛙負けるな一茶是(これ)に有(あり)」などの代表句が多く含まれているが、同時に妻(初婚相手である「菊」。結婚時で一茶五十二、菊二十八で、二十七も離れていた)との性交記録が丹念に記されていることでも知られる珍日記である。因みに、近代では徳富蘆花が女中との性交を記し(妻が読むことを意識した確信犯)、志賀直哉が日記に妻との性交をした日に「肉」と記していることがよく知られる。

「顏の紐を解く」意味不明。喋らせないようにすること、或いはばりばりに拘った語りの「紐を解」いて他の話をしようとさせることか。よく判らぬ。]

 更にこれにも增して愉快なのは、一年に一度、氏が和歌山の令弟常楠氏方へ、生活費を受取に往くときの有樣である。その日になると、氏は家に有るだけの紙幣を悉く銀銅貸に兩替させ、それを双の袂に入れ、多勢の人々に送られて家を出て、波止場まで赴く途中その銀銅貨を撒きながら步むのである。それは恰もお葬式の行列に花錢を撒くのと全く同じである。豫め此の事あるを知つてゐる町内の車夫馬丁、裏店小店の山ノ神連、腕白小僧など、幾百人と云ふ群衆が道の兩側に堵列し、その錢を拾はんとて押し合ひヘシ合ひ雜閙筆舌に絕えたる間を、二十貫餘の巨身を悠々と運びつゝ羅漢面の眼尻を四十五度位に下げ莞爾しながら乘船するのである。『我輩の爲に水火を辭せざる者四百名あり、これを起さば天下を取るべし』とは氏の口僻であるが、是等は悉く此の撒き錢で手なづけた連中である。從つて田邊町に於ける氏の威望と信用とは實に絕大なものであつて、單に『先生』と言へば氏のことだと、町民悉く承知してゐる。道德講話に來た縣廳のお役人に對し『女のみさほとは、どんな棹ですか』と奇問を發してお役人の眼の玉を白黑させた熊野浦でも『南方先生』と云へば泣く兒もだまると云ふ勢ひだと聞いてゐる。

 氏はかくして心靜に硏究を續けてゐたのである。

[やぶちゃん注:「花錢」読みは「くわせん」か「はなぜに」は不詳。三十五年程前、北関東出身の友人が、親族の葬儀で野辺の送りの際、籠に入れた百円玉を撒いたと言っていた。

「堵列」(とれつ)は、人が垣根(「堵」はその意)のように並び立つこと。

「雜閙」(ざつたう)は「雜踏」に同じ。]

        ○

 此の成望と信用とを双肩に荷ふてゐる我が熊楠氏が、監獄へ打ち込まれたと云ふのだから、田邊町は勿論のこと熊野浦まで鼎が沸くやうな大騷動となつたのは當然である。何で氏は投獄されたか、その事件の眞相はかうなのである。

 明治四十三年、原内相の方針として神社の併合を奬勵した。然るに和歌山縣では政商と利權屋がグルになり、由緖正しき神社であらうが、上下の尊信淺からぬ廟祠であらうが、苟くも其の境内なり神林なりに、大金になる樹木のある限り、神主を欺き宮守を詐して併合の許可を得て伐木採樹させた。此の暴狀を目堵耳聞した熊楠氏、天然物保存の上からも、崇神尊祖の風紀の上からも、看過すべからざる大問題となし、奮然渾身の勇を揮ひ縣當局者と政商利權屋を向ふに廻して戰ひを挑んだ。その結果、氏は新聞に演說に、將た文書の頒行に、三面六臂の大童となつて輿論の喚起を絕叫した。

[やぶちゃん注:「詐して」「だまして」。

「目堵耳聞」「もくとじぶん」であろうが、あんまり聴かない熟語である。「目を堵(さへぎ)ったもの」で「目に入ったもの」及び「耳に聞いたこと」の意ではあろう。

「將た」「また」。]

 氏の攻擊は相手方の急所を突いたので、縣屬田村某と云ふ者から、詳細は拜芝の上貴意を得るから、一時、攻擊の手を緩めてくれと言ふて來たので、その意に任せ宣傳を控へてゐると、その田村某が神社の供進使として田邊町へ來たにも拘らず、氏の許を訪づれぬどころか知らぬ顏の半ちやんを極めたので、氏の滿身の血は逆流し、直ちに和歌山に赴きしに田村某は講習曾のため中學校に居るとのことに、同所へ往き面會を求めしに、會へ會はぬの爭ひから椅子を投げたとか投げぬとかで騷ぎが大きくなり、取り靜めに出て來た和歌山縣察署長を、氏が蹴倒したので更に事件が面倒となり、遂に十八日間を監獄に送ることゝなつた。

[やぶちゃん注:「縣屬田村某」和歌山県県吏田村和夫。

「拜芝」(はいし)「芝眉(しび)を拝する」の意で、「面会すること」を、その相手を敬っていう謙譲語。

「供進使」(きやうしんし)は正確には幣帛供進使(へいはくっしょうしんし)と呼ぶ。官国幣社及び府県社等の新年祭・新嘗祭・例祭に幣帛を捧げる使い。明治六(一八七三)年の太政官布告による「奉幣使」を同四十四年に改めたもの。]

 和歌山顛の神社併合に不正事があること、それに對して氏が孤軍奮鬪してゐることは、在束京の友人達にも夙くから知れてゐたので、何事か起りはせぬかと、内々配慮してゐるところヘ『南方下獄』の飛電は、少からぬ驚愕と不安とを友人達に與へた。勿論、打ち棄てゝ置けぬ問題なので、相談の結果、當時、貴族院書記官長の柳田國男氏が友人總代として紀州へ急行して釋放に盡力することになつた。

 柳田氏は曾て當時を回想して左の如き意味のことを語られた。

[やぶちゃん注:以下、「話してゐた云々。」まで、底本では全体が一字下げ。]

南方が監獄へ入れられたと云ふので、我輩が往くことになつたが、その時に生れて始めて肩書のある名剌を刷らせた。そして和歌山へ着き令弟にも面會して釋放のことを相談したが、元々、たいした罪とか科とか云ふものがあるのではなし、それに同縣下の新聞が筆を揃へて當局の非常識を攻擊する、同じく辯護士會が其筋の無理解を詰問すると云ふ有樣なので間もなく放免された。その日、南方は欣喜雀躍の大元氣、ソレ酒だと云ふて飮み出し、十八日分を一度に飮んでしまつた。何でも七升位飮んだと云ふことだ。それで我輩が往くと、折角、束京から來てくれた、然も初對而の我輩に、此の醉顏をお眼にかけるのは失禮だと云ふて、夜具を天窓からすつぽり引き被り、夜具の袖から聲を出して挨拶すると云ふ有樣さ、それでも二人は夜明け近くまで話してゐた云々。

此の事件の經過に就ては、續南方隨筆に熊楠氏の「神社併合に關する意見書」が收錄されることになつてゐるから參照されたい。

[やぶちゃん注:『續南方隨筆に熊楠氏の「神社併合に關する意見書」が收錄されることになつてゐる』「續南方隨筆」は本書の電子化注終了後に続いて電子化する予定だが、実は載らない。しかも平凡社「選集」にも載らない。実はこれは同「全集」では第七巻「書簡Ⅰ」の明治四五(一九一二)年二月九日白井光太郎宛書簡に「神社合祀に関する意見(原稿)」として記されているものが原形である。また、所持する河出文庫版「南方熊楠コレクションⅤ 森の思想」によれば、同年、雑誌『日本及日本人』に四回に亙って「神社合併反對意見」として連載されたものがあるが、『これは未完で、内容も』その『原稿と重複するところが多い』とある。その書簡総ては、幸いにして、サイト「私設万葉文庫」の、こちらの同巻の電子化で読める(開始ページ数の「529」で検索されたい)。「青空文庫」で河出版底本で電子化されているが(ここ)、河出本は「附錄」部分をカットしており、不全であるのでお薦めしない。

 さて。この柳田國男の回想談話の部分には、初版刊行時に差し込みとして入れられたと思しい柳田國男の名義の事実齟齬を列挙して記した紙が、底本の国立国会図書館デジタルコレクションに添付されてあるここである。差し込みは本文に準ずるものであるからして、以下に前後一行空けで「*」で以って挟んで電子化する。

    *

中山君の小生が言といふもの僅十行内外の中に左の諸點は事實に反し居り候

            柳 田 國 男

一 南方氏が短期の入獄は小生が田邊行より二年餘り前なり。從つて救解の必要なかりし也

二 南方君令弟は今日迄一面識無し從つて和談の致しやうなし

三 小生は俗吏にていつも官名の名刺を所持をれり、又田邊旅行は貴族院の役人となるより一年程前なり

四 蒲團を被つた南方氏と深夜に話せし覺えなし多分暇乞の朝二日醉にて寢て居られしことを意味するならん七舛云々だけは少なくとも南方氏の言なりしこと事實なり

 

   *

[やぶちゃん注:以上から、この中山氏の柳田國男からの聴き取りというのは、ほぼ完全にデッチアゲであることが判る。これはひどい。ひどすぎる。前の注で示した中西裕氏の論文注にあるように、流石にこれでは、熊楠の事実の歪曲を差し引いても、この跋文を再刊版で削除したのは、全く以って、当然のことである。

        ○

 南方氏は睡眠四時間主義の實行者である。夏でも冬でも四時間以上は決して眠らぬ。そして極端な粗食主義である。衣服は嚴寒の頃には袷に半擘を重ねるだけで、他は裸體で押し通すのだから世話はない。それでは禮に嫻はぬ人かと云へば、隣人の慶弔とか町内の會合とか云ふ場合には、紋付羽織に仙臺平の袴と、時處に應じた嗜みは忘れぬ。たゞ夏でも冬でも水ツ涕を垂らしてゐるのが玉に瑕だ。これに就て珍談がある。

[やぶちゃん注:「半擘」意味不明。「半纏」の誤記か?

「嫻はぬ」「ならはぬ」。「嫻」には「みやびやか」の意があるので、「礼を以って飾る意識が全く欠落している」の意か。

「仙臺平」(せんだいひら)は、当該ウィキによれば、『宮城県仙台市で作られる絹織物で』、江戸から明治に『かけて袴地の最高級品として知られたが、袴の需要減少とともに生産量が少なくなり、現在』、製造しているのは一社のみとある。その当該会社「仙台平」公式サイトのこちらで袴の写真が見られる。

「水ツ涕」「みづつぱな」。]

 或年、高野に登山し、土宜管長を捉へて猥談(氏の猥談こそ天下一品であるが、詳細の記述が許されぬのは殘念だ)を始め、管長は澁面つくりながら相手をしてゐると、例の水ツ涕が二本、南方氏の阿呍の息につれて出たり入つたりする。見るに見兼て管長が「ソレ蜂の子が出た」と言ふと、氏は馬が行燈を啣えたやうな長い顏を突き出して、鼻汁をかんでくれと頤をしやくつて眼で知らせた。管長も擬ろなく鼻紙出しでかんでやつやが、その部屋が恰も閱白秀次が自刄した次の間であつたので氏の駄句に曰く

 鼻かます次は關白自害の間

 高野山の座主に鼻汁をかませたのは、天上天下僕一人だと鼻うごめかしたものだが。氏に初めて面曾する人は夢にも氏の水つ涕を氣にして「鼻汁が」など言ふてはならぬ。下手をすると、土宜管長の二の舞をやらされるからである。

        ○

 大正十一年四月、「己れは東京は嫌ひだ」と言ふてゐた氏が三十六年ぶりで上京した。それは『南方硏究所』を建設せん爲の資金募集の要務があつたからである。私は此の折に始めて京橋の三十間堀の高田屋旅館で氏に面曾したのである。然して氏が日光へ採集に行かれるまで、殆んど隔日位に推參して謦咳に接した。滯在中の珍談奇行も尠くないが、これは餘りに新しいので、他人に迷惑を及ぼす虞れがあるので姑らく預るとる。

[やぶちゃん注:「謦咳(けいがい)に接した」尊敬する人に直接話を聞いた、或いはお目にかかったの意。「謦咳」自体は「せきばらい・しわぶき・人が笑ったり話したりすること」の意。

「京橋の三十間堀」は現在の中央区銀座四丁目から七丁目相当。

「姑らく」「しばらく」。]

 硏究所の資金募集は、氏としては先づ好成績の方であつた。氏は之を銀行に預金し此の利子で近く菌類圖譜を發行すると云ふて居られる。

 氏に關しては未だ書きたいことが澤山ある。殊に氏の近狀に就て澤山ゐるが、餘りに長くなるので省略するより外に致し方がない。氏のパトロンであつて然も氏の高門である小畔氏の語るところによると、令息熊彌氏が昨年からの大病で非常に心身を疲らせ、それに永年顯微鏡ばかり覗いてゐたので視力を餘程損じたやうであろ。本年の正月に小畔氏が氏に會ふたときにも、持前の「六十四になれば己れは死ぬ」を繰り返して居られたと云ふことであつた。これは父が六十四歲で死んだから、己もその年には死ぬと云ふ氏の哲學ださうな。

 然し都々一の製作(南方氏は和歌も狂歌も狂句も作るが、都々一が最も手に入つてゐる)と酒量は少しも劣へず、今でも每日のやうに日本酒二升(冷酒が好物)て麥酒三四本を平げて平氣だと云ふから、此の分なら十年位は大丈夫と思はれる。切に自重を望んで止まぬ。

 

  大正十五年四月

        本鄕千駄木の寓居に執筆

 

[やぶちゃん注:「近く菌類圖譜を發行すると云ふて居られる」研究所も幻しとなり、この「菌類圖譜」の刊行も夢と終わった。先年、抜粋の刊本が出、旅先の京都の本屋で見たが、どうも抜粋が気に入らず、それっきりだったが、今は国立博物館の「南方熊楠アーカイブ」(リンクは同サイトの「第四章 菌類図譜 〜整然〜」)の中で現物画像の幾つかが画像で見られる。

「熊彌氏」熊楠の後半生に落ちる暗い陰の核には、この長男南方熊弥(くまや 明治四〇(一九〇七)年~昭和三五(一九六〇)年)の精神状態の悪化があった。詳しくは、「南方熊楠 履歴書(その23) 田辺定住と結婚」の私の「十八になる男子」の注を参照されたい。父熊楠は彼のことを気にかけながら、昭和一六(一九四一)年十二月二十九日、自宅で萎縮腎のため、永眠した。満七十四歳であった。

「都々一」「都々逸(どどいつ)」に同じ。

「手に入つてゐる」その道に熟練している。

「本鄕千駄木」東京都文京区千駄木。東大の北直近。

 以下、奥付であるが、底本のリンクに代える。なお、本電子化注の冒頭で、「目次」は最後に示すとして、略した。次回にそれを添えて終わりとする。]

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