曲亭馬琴「兎園小説別集」下巻 加賀金澤出村屋紀事 オリジナル現代語訳附
[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの「新燕石十種」第四では本篇はここ。吉川弘文館随筆大成版で、誤字と判断されるものや、句読点(私が添えたものも含む)などを修正した。
標題は目録では最後に割注があって、「追錄越後船石。」とあるのであるが、これは例の紙数が余って入れた無関係なものなので、この後に分離独立させた。
なお、以下の全日本漢文のそれは、ずっと私の「兎園小説」シリーズに附き合って貰っている読者は、ちょっと読んだだけで、「前にこの話、読んだぞ!」と思われるはずである。その通りで、これは、既に電子化注した『曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 騙兒悔ㇾ非自新』と全く同じ話なのである。そちらは、「兎園小説」第十二集で正篇の最後に当たり、文政八乙酉(一八二五)年冬十二月に馬琴邸で催されたものの中の、馬琴の長子滝沢琴嶺舎興継の発表したものである(大概と同じく実際には馬琴が書いたもの)。そこで、メインの話を読み下した和文を示した後、終わりの方で以下のように述べている。私はそちらでは、底本のベタ文を書き変えて注を挟んでいるので、原形に戻した。
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折から、尾張の人の、篆刻をもて、遊歷したるが、「故鄕へ歸る。」と聞えしかば、「そが、『うまのはなむけ』に。」とて、件の趣を綴りたる漢文あり。この夏、聖堂の諸生石田氏【名は煥。】、江戶よりかへりて、舊故を訪ひし日、松任の驛なる友人木邨子鵠の宿所にて、中澤氏の紀事を閱して、感嘆、大かたならざれども、「惜むらくは、その文、侏𠌯なり。よりて、綴り、かへにき。」といふ。漢文、亦、一編あり。
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とあるところの、その「漢文」がこれなのである。まずは、新しい読者もそちらを読んで、以下を見て戴けば、訓点なしでも、さらさら読めましょうぞ。と言っても、そちらは注が五月蠅いばかりでしょうから、ここでは、さらっと新たに訓読して、続けましょうぞ(少し、シチュエーションの区切りで段落には、分けた)。但し、注はそちらで附してあるものを繰り返す気はない。その代わり、先行するものの注をブラッシュ・アップしておいた。また、今回は、特別に現代語訳も附したので、それが、既にして、注代わりとなろうかと存ずる。]
○加賀金澤出村屋紀事
金澤出村屋太左衞門、家在二枯木橋西一。爲二兌銀舖于淺野河橋東側一。文化癸酉除日、有ㇾ人來曰、我是卯辰山觀音院之使也。有二某事募緣一、因騙二銀百錢一而去。後文政甲申除夜、有ㇾ人卒然乘ㇾ忙、投二一袱于舖上一而去。主人怪追ㇾ之。時街上人物雜沓、不ㇾ可二復識一、乃還閱ㇾ袱、中有二銀錠若干一、幷書云、往年僕不ㇾ堪二貧困一百方無ㇾ術。乃就二貴鋪一、騙二銀百錢一。以自救、兇惡之罪、容ㇾ身無ㇾ地。伏願幸寬容。本銀百錢封貨十六文【國制吏裹ㇾ銀爲二一封一、押ㇾ印以行、輙取二錢十六文一。謂二之封賃一。蓋充二其紙費一云。】。謹還納、如二其利銀一則期二他日一。多罪々々。不ㇾ所ㇾ謝云【不ㇾ記二名氏一。】。中澤儉、紀事云。乙酉正月十一日。予過二卽願寺一、遇二太左衞門者一、語以及二是事一、及出二其書一。固鄙俚庸劣。蓋必小民所ㇾ爲矣。是一人之身、爲二非義一則愚ㇾ之猶惡ㇾ之。及二其悔ㇾ非改一ㇾ過。則君子亦稱ㇾ之。書所ㇾ謂、惟聖不ㇾ念作ㇾ狂。狂克念作ㇾ聖。一念之發、其可ㇾ不ㇾ愼哉。孔子曰、過勿ㇾ憚ㇾ改。孟子云、人能知ㇾ恥、則無ㇾ恥。信哉。夫人不ㇾ知ㇾ恥、則非義暴戾、無ㇾ所ㇾ不ㇾ爲。苟能知ㇾ恥、則立ㇾ身行ㇾ道。豈難ㇾ爲哉。於ㇾ是知。國家仁政之效、有下以使三民遷ㇾ善而不二自知一者上。孔子所ㇾ謂、有ㇾ恥且格者、可ㇾ徵哉。
文政乙酉季夏【興秋。】、自二江戶一歸、到二松任驛一、訪二舊友木邨子鵠一、與語二新故一、陳二情素一、子鵠出二中澤子所ㇾ撰紀事一條一、示ㇾ予曰、此雖二細事一、可三以槪二見國家治安一、不二亦美譚一乎。予讀ㇾ之不ㇾ堪二感歎一、反復數過、乃憾二其文之鄙而事實少差一、因竊更記以肆ㇾ業。非ㇾ謂二敢自善一也。 石田 煥 記
[やぶちゃん注:まず、私の訓読を示す。読み易くするために、段落や配置に手を加えた。
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○加賀金澤出村屋(でむらや)の紀事
金澤の出村屋太左衞門(でむらやたざゑもん)、家は枯木橋(かれきばし)の西に在り。兌銀舖(りやうがへや)を淺野河(あさのがは)の橋の東側にて爲(な)す。
文化癸酉(みづのととり)の除日(おほつごもり)、人、有りて、來りて曰はく、
「我れは、是れ、卯辰山(うたつやま)の觀音院の使ひなり。某(なにがし)の事の募緣(ぼえん)のこと有り。」
と。
因りて、銀百錢を騙(かたりと)りて、去れり。
後(のち)、文政甲申(きのえさる)の除夜(おほつごもり)、人、有りて、卒然、忙しげに乘(のりこ)み、一つの袱(ふくさ)を舖(みせ)の上(うへ)へ投げて、去れり。
主人、怪しくて、之れを追ふも、時、街(まち)の上(うへ)、人と物と、雜沓し、復(ま)た識(し)るべからず。
乃(すなは)ち、還(かへ)りて、袱を閱(けみ)するに、中に銀錠(ぎんぢやう)若干(じやくかん)有り、幷びに書(ふみ)に云はく、
「往年(わうねん) 僕(ぼく) 貧困に堪へずして 百方(ひやくはう) 術(すべ)無し
乃ち 貴鋪(きほ)に就きて 銀百錢を騙(かたりと)れり
以つて自(おのづか)ら救はれしも 兇惡の罪 身を容(い)るるに 地 無し
伏して願ふ 幸ひなる寬容を
本(もと)の銀百錢と封貨(ふうか)十六文 謹んで還納し 其の利銀(りぎん)のごときは 則ち 他日を期したり【國制の吏は、銀を裹(つつ)みて一封と爲(な)すに、印(しるし)を押して以つて行(もちゆ)きて、輙(すなは)ち、錢十六文を取れり。之れを「封賃(ふうちん)」と謂ふ。蓋し、其の紙の費(あたひ)に充(あ)てて云へり。】
多罪多罪 謝れる所にあらず」【名や氏は記さず。】
と云へり。
中澤儉(なかざはけん)、紀事に云はく、
「乙酉(きのえとり)正月十一日、予、卽願寺を過(よ)ぐるに、太左衞門といふ者に遇ひ、語るに、以つて、是の事に及びて、及び、其の書(ふみ)をも出だせり。固(もと)より鄙俚(ひり)にして庸劣(ようれつ)たり。蓋し、必ずや、小民の爲す所ならん。是れ、一人の身、非義を爲(な)さば、則ち、之れを愚(ぐ)として、猶ほ、之れを惡(わる)くするがごとし。其れ、非を悔ひて、過(あやま)ちを改むるに及びて、則ち、君子も亦も、之れを稱す。「書」、謂ふ所は、『聖と惟(いへど)も、念(おも)はざれば、狂(きやう)と作(な)り、狂といへども克(よ)く念へば、聖と作(な)る。』と。一念の發(ほつ)、其れ、愼まざるべからざるや。孔子曰はく、『過(あやま)ちは、改むること、憚かる勿かれ。』と。孟子云はく、『人は、能(よ)く恥を知る。則ち、恥、無し。』と。信(しん)なるかな、夫(そ)れ、人、恥を知らざれば、則ち、非義・暴戾(ばうれい)、爲(な)さざる所、無し。苟(いや)しくも能く恥を知れば、則ち、身、立ち、道を行く。豈に爲すに難きや。是に於いて、知れり。國家の仁政の效は、以つて民をして善に遷(うつ)さしめ、自(おのづか)ら知らざる者たるに有り。孔子の謂ふ所は、『恥、有りて、且つ、格者たる。』なり。徵(ちやう)すべきかな。」
と。
文政乙酉(きのととり)季夏(きか)【興秋(きようしう)。】、江戶より歸り、松任(まつたふ)の驛に到り、舊友木邨子鵠(きとんしこく)を訪ね、與(とも)に新故(しんこ)を語り、情素(じやうそ)を陳(の)ぶるに、子鵠、中澤子の撰する所の紀事の一條を出だし、予に示して曰はく、
「此れ、細事(さいじ)と雖も、以つて國家の治安を槪見(がいけん)すべく、亦た、美譚ならざるか。」
と。
予、之れを讀み、感歎に堪へず、反復すること數過(すうくわ)、乃(すなは)ち、其の文の鄙にして事實に少し差(ちが)ひあるを憾(うら)み、因つて、竊(ひそか)に更に、記を以つて、業(わざ)を肆(ほしいまま)にす。敢へて自(おのづか)ら善(ぜん)たりと謂ふには非ざるなり。 石田 煥 記
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以下、私の現代語訳(敷衍訳)を示す。手紙文はもっと野卑なものであろうが、敢えてその心持ちを汲んで、普通に訳した。
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○加賀の金沢出村屋に纏わるある事実の経過について
金沢の出村屋太左衛門、家は枯木橋の西にある。両替商を浅野川の東橋詰めで営んでいる。
文化癸酉(みずのととり)の大晦日のことであった。
とある人がおり、来って言うことには、
「我れらは、これ、卯辰山の観音院の使いにて御座る。これこれの事について、募縁(ぼえん)のことをお願い申します。」
と。[やぶちゃん注:「募縁」とは社寺、或いは、公共の橋梁や道路の建設・修復のために寄付を募ること。「勧進」に同じ。]
かくして、銀百銭を騙(かた)り盗(と)って去った。
後(のち)、文政甲申(きのえさる)の同じ大晦日のこと、ある人が来るや、急に、忙しげに店内に乗り込むや、一つの袱紗(ふくさ)を店(みせ)の内へ投げ入れて、去った。
主人は怪しく思い、これを追いかけたが、時も時なれば、街(まち)の通りは、人と物とで混雑しており、その人の行方(ゆくえ)は、これまた、判らずじまいであった。
そこで、仕方なく店へ戻り、袱紗を開き見たところが、中には、丁銀(ちょうぎん)が僅かに入っており、一緒に文(ふみ)があった。その書信には、
――往年、某(それがし)、貧困に堪えずして、万法(まんぽう)手を尽くしましたが、術(すべ)なく、されば、貴顕のお店に参り、銀百銭を騙り取りました。それを以って、我らは救われましたものの、凶悪の罪は決して忘れられず、内心、身をおくべき場所もないという思いが致しておりました。どうか、伏してお願い申し上げます。どうぞ、お願い出来る限りの寛容を下さいまし! 元(もと)の銀百銭と、封を致しました銀貨十六文、謹んでお返し納めて、なお、かの間の利子分は、必ずや、他日にお支払い申しまする![石田注:江戸幕府の官吏は、公的な支払いの際、銀を包んで一封(いっぷう)とするが、その折り、封印を押して、以って持ち行き、渡す時、銭十六文を、その相手から取るものである。これを「封賃(ふうちん)」と称する。さすれば、その封印の紙の値に相当するものとして添えた、という意味である。]
多罪! 多罪! 謝って済むものでは御座いませぬが――[石田注:名や姓は記していなかった。]
と書かれてあった。
中沢倹(なかざわけん)が、この事実経過を以下のように記している。
『文政八年乙酉(きのえとり)正月十一日、私が即願寺の前を通り過ぎたところ、知れるところの太左衛門という者に逢い、立ち話をしたが、その中で、この奇体な事実に話が及んで、それに従って、その手紙をも出して見せた。その文章は、もとより、いかにも、田舎染みたもので、凡庸にして劣悪なものであった。まず、必ずや、その辺の民草(たみぐさ)の書いたものと見える。しかし、これ、一人の人間が、義に悖(もと)る行為をなしたならば、則ち、それを何でもないことと考え、なおさら、行いを悪(わる)くするのが常道であろう。だが、そうではなく、非を悔いて、過(あやま)ちを改めるに及んでこそ、君子もまた、これを讃えるものである。「書経」に述べるところによれば、「聖人と雖も、あるべき思慮をなさざれば、狂人となり、狂人と雖も、よく思慮せば、聖人となる。」とある。一念発起は、これ、心から気を入れて成さずにいられないようなものだろうか? いや、余程の決心に他ならぬ! 孔子は仰せられて、「過(あやま)ちは、これ、正すことを憚かってはならない。』とする。孟子は仰せられて、「あるべき人は、よく『恥』という真の意味を知っているものである。そうであれば、『恥』という劣等な感情様態に、その人が落ち込むことはない。』とする。これは、まさしく信(まこと)であるぞ! それ、人間が真の『恥』を知らなかったならば、それこそ、義に悖る非道に満ちた行いや、荒々しく、道理に反する残酷で非道なことをなさないことは、これ、なくなってしまう。苟(いや)しくもよく、まことの『恥』を知っておれば、必ず、自(おのずか)ら一身も正しく保たれ、自然、正道を行くものである。さても。これをなすことは、そんなに難しいことであろうか? いや、そうではない! 思い至れば、容易なことだ! ここに於いて、知ることが出来る。国家の仁政の効果は、以って、民をして善道に移らせ、それは、自(おのずか)らそうなってゆくことを自覚しないでいる状態にあることにこそあるのである。孔子の仰せられたところは、『真の「恥」を保持していることこそ、同時に人格者なのである。』ということなのだ。これこそ我ら人間が追い求めるべきものであるなあ!」
と。
文政七年乙酉(きのととり)の夏の終り[石田注:秋の初め。]、江戸から帰って、松任(まっとう)の宿駅に到って、旧友の木邨子鵠(きとんしこく)を訪ね、ともに最近のことや、旧知のことについて語り合い、自身の平素の感じたことを述べ合ったが、その折り、子鵠が、中沢氏の書かれたところの事実経過を記した、一条を持ち出し、私に示して言うに、
「これは、一見、日常の些細なことように見えるかも知れぬが、いや、以って、国家の治安を正しく概ね見渡すに足り、また、美談ではあるまいか?」
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