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2022/07/31

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 火齊珠に就て (その二・「追加」の1)

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。但し、例によって段落が少なく、ベタでダラダラ続くため、「選集」を参考に段落を成形し、注は各段落末に配した。彼の読点欠や読点連続には、流石にそろそろ生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、句読点を私が勝手に変更したり、入れたりする。ちょっと注に手がかかるので、四回(本篇を独立させ、後のやや長い「追加」を三つに分ける)に分割する。]

 

追 加 (大正二年十一月考古學雜誌四卷三號)

 考古學雜誌第三卷第二號、予の「火齊珠に就て」なる文に對し、同卷第六號に古谷君の答有り。予が見出だせる淵鑑類函三六四に引る續漢書と漢魏叢書中の秘辛の文は、俱に隋唐前火齊なる語が支那に存せしを證するに足ざる由を序べ、更に件の二書の外、隋唐前此語ある明證あらば擧げ見よと覓められしを以て、予は後漢の班孟堅の西都賦なる翡翠火齊、流耀含英、又、同朝の張平子の西京賦なる、翡翠火齊絡以美玉の二例(文選卷一と二に出づ)を見出だし、序でに、瑠璃、玻瓈、硝子の名目に關する拙考を編し、揭載を乞んと從事する中、眼を煩ひ、荏苒、今、九月初旬に及べり。其間だ、第三卷第七號に、古谷君は依然、類函と秘辛の文の徵するに足らざるを主張さると雖も、隋唐前、既に火齊なる語が支那に行はれしを認めらるゝに及べる由を示されたれば、眼病全癒の上、拙考中、君と見を同じうする分を除き、改稿の後本誌に寄せんと欲す。而して、當初、予の問中に引ける二書の中、秘辛が楊脩の僞作らしいことは、予もほぼ同意に向へるも、類函引く所の文字に就ては、古谷君の答へ其正を得ずと惟ふを以て、爰に重て疑を述て、君の再答を待つ事とすべし。

[やぶちゃん注:「覓め」「もとめ」。

「同朝の張平子の西京賦」「張平子」は少し前代に生きた班孟堅(班固)と同じ後漢の文人政治家にして科学者であった張衡(七八年~一三九年)。平子は字。安帝に召されて郎中となり、侍中から河間相となって治績を上げ、後に尚書に移るも、間もなく、没した。広く学問に通じ、若い頃から文名が高く、十年の歳月をかけて作った、さながら、長安と洛陽の風俗史を思わせる「西京賦」(せいけいふ)と「東京賦」、抒情的な「思玄賦」などが知られる。彼の「四愁詩」は作者の明らかな七言詩としては、最も早い作品である。再度に亙って天文の太史令を務め、天文・暦算にも詳しく、天文書「霊憲」を著わしたほか、渾天儀・候風地動儀(地震計)をさえ発明している天才である(主文を「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「翡翠火齊絡以美玉」は「翡翠の火齊(かせい)、絡(まと)ふに美玉を以つてす。」。「西京賦」は非常に長いものなので、例によって、紀頌之氏のブログ「漢文委員会」のこちらの分割版がよい。その「#7-2」に、

   《引用開始》

翡翠火齊,絡以美玉。

翡翠と火斉の玉は、美玉で幾重にもからまり、まとわりつく。

   《引用終了》

とある。

「玻瓈」「玻璃」に同じ。

「荏苒」「じんぜん」と読む。なすこともなく、次第に月日が経ってしまうさま、物事が捗らず、延び延びになるさまを言う。]

 本草綱目玉類、水精附錄火珠、時珍曰、說文謂之火齊珠、漢書謂之玫瑰、音枚回、唐書云、東南海中有羅刹國、出火齊珠、大者如雞卵、狀類水精、圓白照數尺、日中以艾承之則得火、用炙艾炷不傷人、今占城國有之、名朝霞大火珠、又續漢書云、哀牢夷出火精琉璃、則火齊乃火精之訛、正與水精對、次に瑠璃、一名火齊、時珍曰云々、火齊與火珠同名、扠、集解の項に、集韻、異物志等を引り。此等の諸文を按ずるに、唐書の火齊珠は水精を硏き圓めたる者、若くは「ガラス」珠もて日より火を取りし者なるべく、楊孚の異物志に(古谷君は南州異物志とせるも、綱目同項に二書を竝べ別ちたれば別書也)、火齊狀如雲母、色如紫金、重沓可開、折之則薄如蟬翼、積之乃如紗縠、亦琉璃雲母之類也と有るは、今日、金石學者の苦土雲母(ビオタイト)と稱するものに相當するにや。全く火取り玉にも、梵語に所謂、吠瑠璃(モニエル・ウヰリヤムス・ベンフェイ、諸氏の梵語字典、アイテルの支那佛敎語彙、皆なラピスラズリ、乃ち、漢名空靑、邦名こんぜう、とせり)にも異り、吳の朝の萬震の南州異物志に、琉璃は本質是石、以自然灰治之、可爲器、石不得此則不可釋と有る琉璃は、「ガラス」の原料たる珪石(クヲールツ)の一種たるべきも、火齊と同物と明記無れば、是のみでは、火齊が「ガラス」也とは言い得ず。時珍の推察通り、火齊と玫瑰が果たして一物ならんには、韓非子已に、賣其櫝邊珠、飾以玫瑰と有り、文選卷七、司馬長卿の子虛の賦に、其石則赤玉玫瑰(註に晉灼曰、玫瑰火齊珠也)と見えたるにて、其の秦漢の際既に世に行われし名なるを知るも、夢溪筆談(趙宋の沈括著)に、予在漢東、得一玉琥、美玉而微紅、溫潤明潔、或云卽玫瑰也と有れば、宋の頃、早や玫瑰の何物たるを詳らかにせざりし也。述異記に蛇珠千枚、不及一玫瑰と有れば、決して「ガラス」と同價の者に非ざるべし。本草啓蒙卷四に、寶石の事、天工開物に詳か也、其玫瑰と云は津輕舍利の事也、他書に玫瑰と云は赤き玉の事也、「はまなす」を玫瑰花と云も、實の色赤玉の如きを以て名くと有れば、秦漢の時、玫瑰と呼しは、何か赤き貴石なるべし。

[やぶちゃん注:「本草綱目玉類、水精附錄火珠、時珍曰、……」原文は「漢籍リポジトリ」の「本草綱目」巻八「金石之二」の「水精」(「水晶」に同じ)の終りの方にある「附錄火珠」の影印画像([028-58a])m及び、国立国会図書館デジタルコレクションの寛文九(一六六九)板本の当該部と校合した。後者の訓点を参考に訓読する。

   *

 時珍曰はく、「說文」に、之れを『火齊珠』と謂い、「漢書」に、之れを『玫瑰(ばいくわ/まいくわい)』(音は「枚」・「回」。)と謂ふ。「唐書」に云はく、東南海中に羅刹國(らせつこく)有り、『火齊珠』を出だす。大なる者は雞卵(けいらん)のごとく、狀(かたち)は水精(ししやう)に類(るゐ)す。圓(まる)く白くして、數尺を照らす。日中に艾(もぐさ)を以つて之れを承(う)くれば、則ち、火を得。艾炷(がいしゆ)を炙(や)くに用ふれば、人を傷(そこな)はず。今、占城國(チヤンパこく)に之れ有り、『朝霞大火珠』と名づく、と。又、「續漢書」に曰く、哀牢夷(あいらうい)は『火精琉璃』を出だす。則ち、『火齊』は『火精(くわしやう)』の訛(なま)りにして、正(まさ)に『水精』と對(つい)たり、と。

   *

後で熊楠も解説しているが、「玫瑰」は通常、本邦では音では「マイクワイ(マイカイ)」と読まれることの方が多いように思う。和訓して「はまなす」とすることが多いが、本来は古い中国語で南方に産する赤い玉石の名であり、それを花に比して、中国原産の落葉低木である、五~六月頃に芳香のある、白又は紫紅色の八重の花が咲くバラ目バラ科バラ属 Eurosa 亜属 Cinnamomeae 節ハマナス Rosa rugosa に当てる。現代中国語でもこれは同じで漢字表記も同じである。「羅刹國」は、玄奘の「大唐西域記」に言及されてある羅刹女(らせつにょ:仏教で悪鬼の一種とされる羅刹の女。人を食う鬼女だが、非常に美しい容貌を持つとされ、仏教に護持神として吸収された十羅刹女いる)のいる国。当該ウィキによれば、『後に近世以前の日本人は日本の南方(若しくは東方)に存在すると信じていた』。「大唐西域記」では第十一巻で、『僧伽羅国(シンガラ)においてセイロン島(現スリランカ)の建国伝説として記述され』てある。五百『人の羅刹女のいる国に難破して配下の』五百『人の商人とたどりついた僧伽羅は』、一人、『命からがら逃げ出すも』、『妻にした羅刹女が追ってきたので、羅刹国と羅刹女のことを国王に説明するも』、『信じてもらえず、国王の他多くの者が食べられてしまう。そこで僧伽羅は逆に羅刹国に攻めこみ』、『羅刹女をたおし、そこの王となり』、『国名にその名がついたという』とある。スリランカ(セイロン)はルビー・サファイアの産地として知られる。「日中に艾(もぐさ)を以つて之れを承(う)くれば、則ち、火を得」もうお分かりと思うが、オリンピアの儀式と同じで、これは「天火」で神聖なる天空の太陽から採った聖なる火である。この場合は、水晶のレンズ効果を用いて火種である艾(もぐさ)に空中から火を移すのである。それは清浄な太陽の火であるからして、「艾炷(がいしゆ)を炙(や)く炷(ひ)に用ふれば、人を傷(そこな)はず」とあるのである。則ち、その火で、艾炷(がいしゅ:艾を円錐状に成形したものを言う)で御灸を据えるれば、決して人体に火傷などの疵はつかないというのである。但し、注意されたいが、「本草綱目」は孰れも「用炙艾炷不傷人」で、「お灸」の「灸」(音「キウ(キュウ)/訓「やいと」」ではなく、「人口に膾炙する」の「焼く」の意味の「炙」で似て非なるの別字である。意味が同じでも違うの字であることは言を俟たない。しかも、南方熊楠ばかりか、「選集」も「炙」を「灸」と誤っている。こういうことは、誰かが言っておかないと、誤った認識が後代に感染して、それが正しいものとされてしまう。どうしてもここでそれを指摘しておきたいのである。「占城國(チヤンパこく)」チャンパ王国。現在のベトナム中部沿海地方(北中部及び南中部を合わせた地域)に存在した国家。主要住民の「古チャム人」はベトナム中部南端に住むチャム族の直接の祖先とされる。中国では唐代半ばまで「林邑」と呼び、その後、「環王」を称したが、唐末以降は「占城」と呼んだ。位置は参照したウィキの「占城」の地図を見られたい。「哀牢夷」「正篇」で既出既注の「哀牢」と同じ。「火精」が『「水精」と對(つい)たり』というのは、五行思想の「相剋」の「水剋火(すいこくか)」の謂いで、水晶が「水」でありながら、「火齊珠」の「火」を内包していて、天火を齎すということに神秘性や聖性を感じているものと私は思う。

「次に瑠璃、一名火齊、時珍曰云々、火齊與火珠同名」先の「本草綱目」の「水精」に続く「瑠璃」の条。「一に火齊と名づく」だが、これは南方の意訳漢文で、原本では、「釋名」の部分に「火齊」とあるだけである。その以下に割注で、「時珍曰く」で始まるのを、「云々」で一部をカットしたもの。原文は「時珍曰、漢書作流離、言其流光陸離也。火齊與火珠同名。」とある最後だけを出してある。「火齊と火珠とは、同じ名なり。」である。

「扠」「さて」。「扨」に同じ。

「集解の項に、集韻、異物志等を引」(ひけ)「り。此等の諸文を按ずるに、唐書の火齊珠は水精を硏き圓めたる者、若くは「ガラス」珠もて日より火を取りし者なるべく、楊孚の異物志に(古谷君は南州異物志とせるも、綱目同項に二書を竝べ別ちたれば別書也)、火齊狀如雲母、色如紫金、重沓可開、折之則薄如蟬翼、積之乃如紗縠、亦琉璃雲母之類也と有る」「琉璃」の「集解」は、

   *

藏器曰、集韻云、琉璃火齊珠也。南州異物志云、琉璃、本質是石、以自然灰治之、可爲器石。不得此則不可釋。佛經、所謂七寳者、琉璃・車渠・馬腦・玻璃・眞珠是也。時珍曰、按魏畧云、大秦國、出金銀琉璃。有赤・白・黃・黑・靑・緑・縹・紺・紅・紫十種。此乃自然之物、澤潤光采踰於衆玉。今俗、所用皆銷冶石汁、以衆藥灌而爲之。虗脆不貞。格古論云、石琉璃出高麗。刀刮不動、色白厚半寸許。可㸃燈眀於牛角者。異物志云。南天竺諸國出火齊。狀如雲母、色如紫金。重沓可開。折之則薄如蟬翼。積之、乃如紗縠。亦琉璃雲母之類也。按此石今人以作燈球。眀瑩而堅耐久。蘇頌言、亦可入藥。未見用者。

   *

である。引いた箇所は、やや合成で、

   *

火齊、狀(かたち)雲母のごとく、色、紫金のごとし。重-沓(かさな)りて開くべし。之れを折(さ)くときは、則ち、薄くして蟬(せみ)の翼のごとし。之れを積むときは、乃(すなは)ち、紗(しや)の縠(ちぢみ)のごとし。亦、琉璃・雲母の類(るゐ)なり。

   *

となる。

「苦土雲母(ビオタイト)」これは現在の黒雲母(biotite)のこと。ケイ酸塩鉱物の一種で、金雲母と鉄雲母との中間組成の固溶体で、現在では独立した鉱物種とはされていない。当該ウィキによれば、『その名の』通り、『黒い。他の雲母と同じように』劈開(へきかい:結晶や岩石の割れ方がある特定方向へ割れやすいという性質)が『一方向であるため、紙の束のように薄く一方向にのみ』、『はがれる。一枚ずつ剥がすことが出来る。また、六角形である』。『火成岩のうちの酸性岩に普通に含まれる。火成岩の黒い斑点を形成するのはほとんどが黒雲母または角閃石である』。『Biotite(英名)の語源は、フランスの物理学者・鉱物学者』ジャン・バティスト・ビオ(Jean-Baptiste Biot 一七七四年~一八六二)の名に因んで、一八四七年に『されたたもの。ビオが、この鉱物の光学性(偏光)を研究したことを記念したもの』である。また、『Biotiteを黒雲母とも苦土雲母とも訳したのは』、鉱物学者『和田維四郎』(つなしろう 安政三(一八五六)年~大正九(一九二〇)年)で、明治一一(一八七八)年のことであったとある。和田はお雇い外国人で、「フォッサマグナ」の発見やナウマンゾウに名を残していることで知られるドイツの地質学者で、日本における近代地質学の基礎を築くとともに、日本初の本格的な地質図を作成した、かのハインリヒ・エドムント・ナウマン(Heinrich Edmund Naumann 一八五四年~ 一九二七年)の弟子であった。

「火取り玉」「ひとるたま」とも。古代、太陽の光線を集めて、火を取った玉。水晶の類。「和名類聚鈔」にも既に載っている。

「吠瑠璃」「べいるり」と読む。サンスクリット語の「バイドゥーリヤ」の漢音訳。仏教用語。「七宝」の一つで、青い色の宝石。「瑠璃」「毘瑠璃」(びるり)とも呼ぶ。

「モニエル・ウヰリヤムス・ベンフェイ」イギリスの東洋学者・インド学者でオックスフォード大学の第二代サンスクリット教授であったモニエル・モニエル=ウィリアムズ(Monier Monier-Williams 一八一九年~一八九九年)。「サンスクリット語辞典」(A Sanskrit-English Dictionary・一八七二年刊)を完成した業績は大きく、この辞典は今日に至るまで版を重ね、標準的梵英辞典となっている。古代インド文学の紹介にも貢献した。

「アイテルの支那佛敎語彙」エルンスト・ヨハン・エイテル(Ernst Johann EitelErnest John Eitel 一八三八 年~一九〇八年)。ドイツのヴュルテンベルク生まれのドイツ人で、元々は「ヴュルテンベルク福音教会」の牧師であったが、「バーゼル伝道会」に入って、広東省に福音を広めるために渡った。一八六二年からは、香港で布教活動に従事するとともに、香港政庁下での教育行政官としても活躍した。後には「ロンドン伝道協会」に入会するとともに、イギリス国籍を取得している。中英辞典・広東語発音本・広東語辞典など。多くの言語学の著書を編纂している。「支那佛敎語彙」が彼のどの著作を指しているかは判らぬ。

「ラピスラズリ」既出既注。

「漢名空靑」確かに、深い海の色や、真っ青な空の青を連想させる綺麗なブルーをしており、そもそもが、ラピスラズリのラピス(Lapis)はラテン語の「石」、ラズリ(Lazuli)は「青」や「空」を意味するペルシャ語の「lazward」が語源であるから、腑には落ちる。但し、中文ウィキでは「青金岩」である。

「邦名こんぜう」「紺青」であろう。

「吳の朝の萬震の南州異物志」三国時代(二二〇年~二八〇年)の呉の太守であった万震の撰になる南方地方の珍しい物産を記したもの。散佚したが、「太平御覧」などに佚文が載る。但し、熊楠のこれは後で明らかにしている通り、既に掲げた「本草綱目」の「琉璃」の「集解」に拠ったもの。

「琉璃は本質是石、以自然灰治之、可爲器、石不得此則不可釋」「琉璃は、本質、是れ、石にして、自然の灰を以つて、之れを治め、器と爲すべし。石、此れを得ざれば、則ち、釋(とか)すべからず。」。

「珪石(クヲールツ)」ガラス・陶磁器・セメント・煉瓦などの原料となる珪酸質の岩石。silica stone。石英(ドイツ語:Quarz:クォーツ)を主体としたものをかくも呼ぶ。

「韓非子已に、賣其櫝邊珠、飾以玫瑰と有り」「韓非子」(戦国時代末の法家の思想家韓非(?~紀元前二三四年?)が書いたとされる論集だが不確か。秦の始皇帝が感銘を受けたと伝えられ,峻厳な法治主義を特色とする。君主と人民の利害は相反することから、人民を法で厳格に規制すべきこと、臣下を賞罰を以って自在に操縦すべきこと,法の権威を保つべく一切の批判(とりわけ先王の法を以ってする批判)を封ずるべきことなどが説かれている。巻十一に当該部は出る。「中國哲學書電子化計劃」のこちらの影印本で確認出来るが(一行目)、ちょっと違う。他の中部サイトを見ても、以下が正しい。例の中国人の好きな喩えで、「本当の値打ちが判らず、外面の飾りや、見かけの美しさにのみ、心を惹かれてしまい、本来の重要なものの値打ちが判らずにしまうこと、方法を誤って目的を失うことを諌めるもので、爽やかな弁舌にすっかり騙されてはならないことを言う。話は、「昔、楚の人が木蘭(モクレン)の木で箱を作り、その外側を美しい珠玉で飾ったが、鄭(てい)の人が、その箱の美しさにばかり惹かれ、中に収めてあった宝珠の値打ちが判らず、箱だけ買って珠を返したという話の一節である。

   *

「爲木蘭之櫃、薰以桂椒之櫝、綴以珠玉、飾以玫瑰」

(木蘭の櫃を爲(つく)り、桂・椒を以つて櫝(はこ)薰(くん)じ、珠玉を以つて綴(つづ)り、玫瑰(まいくわい)を以つて飾れり。)

   *

「桂」「椒」は孰れも香木。

「文選卷七、司馬長卿の子虛の賦に、其石則赤玉玫瑰(註に晉灼曰、玫瑰火齊珠也)」「司馬長卿」は前漢の文人司馬相如(しょうじょ 紀元前一七九年~紀元前一一七年)の字。成都出身。若いころより読書を好み、撃剣を学んで景帝に仕え、武騎常侍となったが、職を辞して梁に遊んだ。文学を愛する梁の孝王のもとで、漢代に盛んとなった賦の創作に努め、この「子虚賦」(しきょふ)をつくった。孝王の死後、故郷に帰ったが、職もなく、困窮の最中、富豪卓王孫の娘、文君と駆け落ちして酒屋を開いた話は名高い。「子虚賦」が武帝の賞賛を受け、召されて郎となり、宮廷文人として活躍した。武帝の西南征伐に際し、中郎将となり、功績をあげ、のちに孝文園令となった。代表作の「子虚賦」及び続編である「上林賦」は、子虚・烏有(うゆう)先生・亡是公(ぶぜこう)の三人の架空の人物の問答形式を採ったもので、宮殿や庭園の壮麗さ、狩猟の盛大さを叙述した長編である。その最後に武帝の政治に対する諷諫がみられるが、これは付け足しであり、「百を勧めて一を諷す」などと評される。二賦ともに全編に美辞麗句を連ねた美文で、漢賦の代表的作品とされ、戦国末期の「楚辞」の伝統を引く賦形式文学の代表として六朝の文人や後世の文学者に大きな影響を与えた(小学館「日本大百科全書」に拠った)。「子虛賦」の全文は「維基文庫」のここにあるが、何時もの通り、紀頌之氏のブログ「漢文委員会」のこちらの分割版が良い。そこに、

   《引用開始》

交錯糾紛,上干青雲。

罷池陂陁,下屬江河。

其土則丹青赭堊,雌黃白坿,錫碧金銀。

眾色炫燿,照爛龍鱗。

其石則赤玉玫瑰,琳瑉琨珸,

瑊玏玄厲,礝石武夫。

   《引用終了》

と原文があって、書き下し文が、

   《引用開始》

交錯【こうさく】糾紛して,上 青雲を干【おか】す。

罷池【ひち】陂陁【はだ】として,下 江河に屬す。

其の土は則ち丹青【たんせい】赭堊【しゃあく】,雌黃【しこう】白坿【はくふ】,錫碧【せきへき】金銀あり。

眾色【しゅうしょく】炫燿【げんよう】として,照爛【しょうらん】として龍の鱗のごとし。

其の石は則ち赤玉【せきぎょく】玫瑰【ばいかい】,琳瑉【りんびん】琨珸【こんご】,

瑊玏【かんろく】玄厲【げんれい】,礝石【ぜんせき】武夫【ぶふ】あり。

   《引用終了》

とあった後に、「現代語訳」として、

   《引用開始》

もつれあった山々は、青空に触れんばかりである。

その斜面は、池に向かってなだらかに下っていって、大河のほとりへ続いていく。

この土地からは、丹砂・空靑・赤玉・白土・雌黄・白坿・錫・碧玉・金・鎚が掘り出される。

さまざまな色彩が輝いて、龍の鱗がきらめくようだ。

さらに、石としては、赤玉・攻塊・琳瑉・琨珸・瑊玏・玄厲・礝石・武夫などが採れる。

   《引用終了》

とある。並んでいる後の石は判らんが、流石に、注する気にはならない。悪しからず。

「夢溪筆談(趙宋の沈括著)」北宋中期の政治家・学者の沈括(しんかつ 一〇三一年~一〇九五年)の随筆。特に科学技術関連の記事が多いことで知られる。「中國哲學書電子化計劃」のこちらで、当該部(巻二十五の「雜志二」)の影印本で確認した。

「予在漢東、得一玉琥、美玉而微紅、溫潤明潔、或云卽玫瑰也」「予、漢東に在りて、一玉琥(ぎよくこ)を得たり。美玉にして微(わづか)に紅(あか)く、溫潤にして明潔たり。或いは云はく、『卽ち、玫瑰(まいくわい)なり。』と。」。

「述異記に蛇珠千枚、不及一玫瑰」南斉の祖沖之(四二九年~五〇〇年)が撰したとされる志怪小説集。「維基文庫」の「述異記(四庫全書本)/卷上」で文字列を確認した(そちらの「虵」は「蛇」の異体字)。「蛇珠(じやしゆ)の千枚は、一(いつ)の玫瑰(まいくわい)に及ばず。」。「蛇珠」は聖獣である龍が持つとされる赤い宝珠を指す。「如意宝珠」「摩尼宝珠」とも。

『本草啓蒙卷四に、寶石の事、天工開物に詳か也、其玫瑰と云は津輕舍利の事也、他書に玫瑰と云は赤き玉の事也、「はまなす」を玫瑰花』(まいくわいくわ)「と云も、實の色赤玉の如きを以て名く』国立国会図書館デジタルコレクション「重訂本草綱目啓蒙」の「寶石」の項。ここから読める。「津輕舍利」古くから青森県東津軽郡今別町(グーグル・マップ・データ)の海岸は瑪瑙の産地として知られる。【2022年8月2日追記】サイト・カテゴリ「和漢三才図会抄」で『「和漢三才圖會」卷第六十「玉石類伊」の内の「寶石(つがるいし)」』を電子化しておいたので参照されたい。]

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