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2022/07/18

南方熊楠の『「鄕土硏究」の記者に與ふる書』に対する柳田國男の「南方氏の書簡について」

 

[やぶちゃん注:以下は先に電子化注した南方熊楠の『「鄕土硏究」の記者に與ふる書』(『郷土研究』誌上に南方の承諾を受けた上で『「鄕土硏究」の記者に與ふる書』という表記標題で公開された五月十四日午前三時をクレジットとする柳田國男宛私信(三分割。同誌第二巻第五号・第六号・第七号(大正三年七・八・九月発行))に対して柳田が、その最後の第七号の末尾に載せた「南方氏の書簡について」である。

 底本は平凡社「選集」の「別巻」として「柳田国男 南方熊楠 往復書簡」として独立編集されたもの(一九八五年初版)の『「鄕土硏究」の記者に與ふる書』の後に配されているそれを用いた。これは筑摩書房版「定本柳田國男集」に収録されておらず、所持する「ちくま文庫」の「柳田國男全集」にも所収せず、歴史的仮名遣正字表記のものを入手出来なかったので、南方の正規表現とのバランスが悪いが、新字新仮名のままで電子化する。

 

  南方氏の書簡について   柳田国男

 記者申す。右私信を南方氏承諾の上雑誌へ掲げたのは、もちろん記事に興味が多いからですが、ついでにその議論の廉(かど)をも見て置いて下さい。けだし南方氏の主張が全部もっともであるか、はたまたいずれの点までが無理であるかは、人に由って判断も区々でありましょう。記者が承服し兼ねた点は少なくも三つありました。それを御参考までに附記して置きます。この手紙で見ると、いわゆる「貴状」はよほど愚痴な「貴状」であったようにありますが、実ははなはだ簡単なもので、一には南方一流の記事ばかりたくさんは載せ得ぬことを申しました。今一つはこの手紙と縁がないから言いません。右の手紙はその返報であります。

 まず読者に説明せねばならぬ一事は、「地方経済学」という語のことです。記者の状にはそうは書かなかったはずで、慥(たし)かにルーラル・エコノミーと申して遣(や)りました。こんな英語は用いたくはないのですが、適当に表わす邦語がないからで、これを地方経済または地方制度などと南方氏は訳せられた。今日右の二語には一種特別の意味があります故に、私はそう訳されることを望みませぬ。もし強いて和訳するならば農村生活誌とでもして貰いたかった。何となれば記者が志は政策方針や事業適否の論から立ち離れて、単に状況の記述闡明のみをもってこの雑誌の任務としたいからです。この語が結局議論の元ですからくどく言います。エコノミイだから経済と訳したと言えばそれまでですが、経済にも記述の方面があるにかかわらず、今の地方経済という用語は例の改良論の方をのみ言うようで誤解の種です。あるいはルーラル・エコノミーでも狭きに失したのかも知れぬ。新渡戸博士のようにルリオロジーとかルリオダラフィーとでも言った方がよかったかも知れませぬ。さて記者の不承知であった三つの点というのは。

 一つは、雑誌の目的を単純にせよ、輪廓を明瞭にせよとの注文であります。これは雑誌であるからできませぬ。ことにこの雑誌が荒野の開拓者であるからできませぬ。適当なる引受人に一部を割譲し得るまでの間は、いわゆる郷土の研究はその全体をこの雑誌が遣らねばなりませぬ。もとより紙面の過半は読者の領分ではありますが、記者の趣味が狭ければどうしてもその方へ偏重し易いことは、南方氏のような人までが尻馬にならのろうと仰せられるのを見ても分かります。したがって、むしろなるだけ自分等の傾向より遠いものから、材料を採るように勉強したいと思います。こうして五年と七年と続くうちには、自然に仕事の幅が定まり、かつ各方面の研究者を網羅し得ることでしょう。広告もせぬ小雑詰の一年余の経験に由って、日本の学界の機運を卜するような大胆は、記者の断じて与(くみ)せざるところであります。

 二には、郷土会の諸君がもっと経済生活の問題に筆を執れということ、これも記者の力には及びませぬ。郷土会は名は似ていても『郷土研究』の身内ではありませぬ。雑誌に取っては南方氏同様の賓客であります。否同氏以上の珍客であります。たまたま記者がその講演を筆記する以外には、とんと原稿も下されませぬ。この会の諸君が南方氏ほど本誌の成長に熱心であったら、きっと満足すべき雑誌が今少し早くできたでしょう。何となればこの会に属する人人は皆趣味の深い田舎の生活を知り抜いている人ですから。しかし、冷淡はかの学者たちの自由でして、雑誌の責任を分担してもらうわけには参りませぬ。

 三には、「巫女考」を中止せよとの注文も大きな無理です。「巫女考」は本年の二月に完結しております。川村生は曾呂利(そろり)を口寄に掛けたような饒舌家でありまして、まだまだ長く論じようとしたのを、ちと無遠慮だろうと忠告して一年で止めさせました。今は時々隅の方で地蔵のことか何かを話しているばかりです。しかし、あの「巫女考」などはずいぶん農村生活誌の真只中であると思いますが如何ですか。これまで一向人の顧みなかったこと、また今日の田舎の生活に大きな影響を及ぼしていること、また最狭義の経済問題にも触れていることを考えますと、なお大いに奨励して見たいとも思いますが如何ですか。記者はここにおいてか地方制度経済という飛入りの文字が煩いをなしたかと感じます。政治の善悪を批判するのは別に著述が多くあります。地方の事功を録するものは『斯民』その他府県の報告があり過ぎます。ただ「平民はいかに生活するか」または「いかに生活し来たったか」を記述して世論の前提を確実にするものがこれまではなかった。それを『郷土研究』が遣るのです。たとい何々学の定義には合わずとも、たぶん後代これを定義にする新しい学問がこの日本に起こることになりましょう。最初の宣言に虚誕(うそ)は申してないが、足らぬ点があれば追い追いに附け足して行くまでです。この趣旨に由って見ますと、記者は少なくも従前の記事に無用のものがあったとは信じませぬ。

 最後に一言します。南方氏は口は悪いが善い人です。しかのみならず、われわれ編輯側の意見は代表しておられませぬ。読者はあまり気に御掛けなさらぬように願います。右の手紙は話として興味が多いから掲げました。

   (大正三年九月『郷土研究』二巻七号)

[やぶちゃん注:『斯民』(しみん)は明治三九(一九〇六)年四月から昭和二一(一九四六)年12月までに発行された(全四十編四百七十一号)地方改良運動・農村更生運動等に多大な影響を与えた「中央報徳会」の機関誌。]

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