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2022/07/24

杉田久女 安德帝の柳の御所跡にて (句集未収録句五句)

 

[やぶちゃん注:杉田久女の本随想は発表誌や未詳で(本文から雑誌発表作或いは投稿予定稿であることは判る。「仰せにより」とあって句を掲げていることから、誰か俳人の主宰する俳誌であった可能性は高いであろう)、その「柳の御所跡」を訪れた年月日も未詳である。一つ、私の「杉田久女句集 124 龍胆」で注を附したが、角川学芸出版二〇〇八年刊の坂本宮尾「杉田久女 美と格調の俳人」の七〇ページに、『龍胆も久女が好んだ花で、門司近くの大里(だいり)の野にこの花を摘みに行った』とあり、これは坂本氏の著作では「Ⅱ 昭和六年まで」のパートにあるもので、坂本氏が、もし時系列で正確に記載をなさっているとすれば、同書にある大里訪問は昭和四(一九二九)年(満二十九歳)の秋となる。この時は、『ホトトギス』に投句しており、同年三月には吉岡禅寺洞の『天の川』の雑詠婦人俳句欄選者となっている。但し、本篇もこの同じ時であるという保証はなく、当時の住まいも小倉で、ごく近く、それ以後の再訪である可能性もすこぶる高いから、一概には言えない。但し、句柄は久女のものとしては、初期の若さを感ずるものではある。しかし、やはり、判らぬ。

 底本は一九八九年立風書房刊「杉田久女全集第二巻」を用いたが、幸いにも本文は歴史的仮名遣が採用されていることから、恣意的に私の判断で多くの漢字を正字化した(「跡」は江戸時代以降、特に近現代では、こうした熟語では「蹟」としない表記が圧倒的に多いので、「跡」とした)。そうすることが、敗戦前までが俳人としての活動期であった彼女の本来の表現原形に近づくと考えるからである(久女は昭和二〇(一九四五)年十月末に大宰府の県立筑紫保養院に入院し、翌昭和二十一年一月二十一日に同院で腎臓病で逝去している。満五十五歳であった)。

 なお、最後のある五句は、孰れも、現在、知られている杉田久女の句集類には所収しない句である。句は上下を揃えて割付されているが、ブログ・ブラウザでは上手く配置できないので、各句とも詰めた。

 最後に注を附した。]

 

 安德帝の柳の御所跡にて

 

 初冬の一日私は門司市大里(ダイリ)に柳の御所跡をたづねました。都落された安德帝は平家の一門にようせられて、筑前遠賀郡山鹿(塢舸(をか)の水門(みと))から更らにこの、豐前柳が浦に移らせ給うたことが平家物語にも見えてゐる樣であります。小倉から浦づたひ戶上山麓にあたるこの宮は、今は新開の町中に挾まれてゐますが、碑の御製

  都なる九重のうち戀しくば柳の御所をたづねても見よ

を拜しますと、此邊一帶が大里の松原(萬葉の菊の高濱)につどいてゐたといふ漁村の昔、馴れぬ雲上人に朝夕の戶上颪、壇の浦の御沒落迄をこゝにこもらせられたおいたはしさ。大瀨戶から彥島へかけて平家の兵船がみちみちてゐたであらうなどと、私はひとり巨柳のかげに佇んで、榮枯盛衰の感にうたれました。

 然し又、再びめぐむ柳の春に思ひいたると、國破れて山河ありで、人間の興亡にかゝはらず大自然の悠久も一しほ思はれ、眼前にそばだつ戶上山の姿に、ぬかづきたい敬虔な心地も起るのでした。

 輝しい天地の春を待つ心持で、御一家にも御誌の上にも祝福あらん事をはるかにいのります。

 仰せにより習作ながら

     大里の宮にて

  この宮や柳ちりしく夕颪  久 女

  柳ちる御製の俳にぞ佇めり

  町の名にのこる内裏や柳ちる

  散り柳掃く宮守もなかりけり

  ちりいそぐ柳のかげにたもとほり

 

[やぶちゃん注:「安德帝の柳の御所跡」「門司市大里(ダイリ)」大里は現在の福岡県北九州市門司区の地名及び地域名で門司区の南西部に位置する。参照したウィキの「大里」 他によれば、『九州最北端の宿場町として古くから繁栄した』とあり、嘗つての地名表記は「内裏(だいり)」であったが、享保年間(一七一六年~一七三六年)、『この地に海賊が出没し、内裏の海に血を流すのは恐れ多いとして大里に変更された』。この旧地名は寿永二(一一八三) 年に、この地に安徳天皇の御所であった柳の御所があったことに由来し、現在の御所神社(グーグル・マップ・データ。以下指示のないリンクは同じ)のある門司区大里戸ノ上一丁目附近が、その柳の御所の比定地となっているとある。『享保の頃、 この地に海賊が出没し、内裏の海に血を流すのは恐れ多いとし て大里に変更された』とあり、明治三五(一九〇二)年の『明治天皇の九州行幸の』際には、『御所神社の社殿が明治天皇の休憩場所に使われた』が、これは『安徳天皇の慰霊が目的だったとされる』ともある。

「ようせられて」「擁せられて」。

「筑前遠賀郡山鹿(塢舸(をか)の水門(みと))」「塢舸の水門」「岡の水門」は「をかのみなと」とも読み、現在の福岡県の遠賀川河口附近の地の古称である。神武天皇東征の際、に皇子や舟師を率いて到着した所とされる。因みに、ここや遠賀川流域は久女がとても愛した場所であった。

「豐前柳が浦」現在の北九州市門司区の大里を含む海辺の古称。「御製」が天皇及び皇族の和歌にしか用いないことを知らなかったとすれば、やはり久女の若い頃の感じがしてくる。

「戶上山」(とのうえやま)と読む。柳の御所の南東後背(頂上までは直線で約一・七キロメートル)に当たる同じ門司区大里の戸ノ上山(グーグル・マップ・データ航空写真)。

「御製」ちょっと痛い久女のミス。これは、かの歌の名手平忠度の一首である。サイト「源平史蹟の手引き」の「柳の御所<福岡県北九州市>」のページが写真が豊富で、碑や解説板などもよく見えるのでお勧めである。ただ、この碑、見るからに新しい感じだ。

「萬葉の菊の高濱」巻十二の「別れを悲しびたる歌」の最後に配されている一首(三二二〇番)、

   *

 豐國(とよくに)の

     企救(きく)の

    高濱高高(たかだか)に

  君待つ夜(よ)らは

          さ夜ふけにけり

   *

この「企救」は豊前の古い郡名で、現在の北九州市門司区及び小倉区に亙る。現在も大里のある半島の名として「企救半島」の名が残る(国土地理院図)。「ら」は「等」で、名詞に付いて語調を整えるもの。

「戶上颪」「とのかみおろし」。「颪」は冬季に山などから吹き下ろす風のこと。

「大瀨戶」(おおせと)関門海峡のこの附近の広域呼称。

「彥島」(ひこしま)は関門海峡の対岸の山口県下関市の南端にある陸繋島。本州最南西端に当たり、嘗つては大瀬戸と小瀬戸(こせと)の間の島であったが、小瀬戸が一部埋立てられた昭和一二(一九三七)年以来、人工の陸繋島となっている(当該ウィキに拠った)。ここ(国土地理院図)。

「たもとほり」「徘徊り」(動詞・ラ行四段活用の連用形)で「 行ったり、来たり、歩き回って」の意。]

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