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2022/07/13

「南方隨筆」底本正規表現版「紀州俗傳」パート 「十四」

 

[やぶちゃん注:全十五章から成る(総てが『鄕土硏究』初出の寄せ集め。各末尾書誌参照)。各章毎に電子化注する。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(ここから)で視認して用いた。また、所持する平凡社「選集」を参考に一部の誤字を訂した。表記のおかしな箇所も勝手に訂した。それらは一々断らないので、底本と比較対照して読まれたい。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。本篇冒頭の話、折角の童話が、句読点の不備で甚だ読み難くなっている。この条に限り、特異的に私が勝手に句読点や記号を増やし、改行もした。

 本篇の各章は短いので、原則、底本原文そのままに示し、後注で(但し、章内の「○」を頭にした条毎に(附説がある場合はその後に)、読みと注を附した。そのため、本篇は必要性を認めないので、PDF版を成形しないこととした。]

 

      十四、

 〇打出小槌の童話 紀州に傳はる打出小槌の童話、小生、久しく忘れ、氣付かず居りしに、昨夜、四歲になる小生の女兒に聞き(童話は、なるべく子供の語る所、眞に近し)、さて妻に聞きたる上、左に申し上げ候。多分、紀州のみに限らぬ話と存候。グリンムの獨逸童話其他伊太利葡萄牙等にも大略同じ話多きも、槌の事は無之候。

「むかし、繼母、繼女を憎むこと甚しく、林中へ柯子(しひ)を拾ひに遣るに、吾が生んだ女には尋常の籃を渡し、繼女には底拔けた籃を與ふ。

 林に入り、柯子を拾ふに、繼女、如何に勉めて拾ふも、籃の底を漏れ落ちて、滿たず。

 實の女は、繼女の籃より漏るを拾ひ、容易に滿籃して去る。

 繼女、籃、充たずして、林中に、日、晚る。

 泣き居ると、遠方に幽かな燈影あり。

 因つて、尋ね往けば、老媼、一人あり。

 入りて譯を語るに、媼、之を愍み、

「如何なる事あるも物言ふべからず。」

と敎へ、牀の下に潜ましむ。

 夜に入り、家主の鬼、歸り、

「人臭い、人臭い。」

と言ふ。媼、言く、

「誰も人は宿めず。」

と。

 鬼、安心して眠る。

 媼、握り飯を牀の下に落し、かの少女に食はす。

 鬼、寤めて、

「何をする。」

と言ふに、媼、

「今夜は簀子(牀のこと)の祭なり。」

と言ふ。

 然るに、少女、耐へず、喉を咳る。

 鬼、

「さては、人あるに極まつたり。」

とて、牀をまくり、少女を見つけて、啖はんとす。

 老媼、遮り止めて、その繼母に苛遇せらるゝ狀を說く。

 鬼は、諺の鬼の眼にも淚を出し、

「不愍のことなれば、われ、よく難を解くべし。」

とて、槌一つ與へ、

「汝、家に歸り、これを母に呈せよ。」

と敎ふ。

 女、家に歸るに、繼母、

「何故おくれたるか。」

と怒る。

 女、かの槌を母に獻じ、

「罪を赦せ。」

と乞ふ。

 母、大いに怒り、

「こんな物、いらぬ。」

とて、槌を抛り付けると、夥しく、錢、出づ。

 是れ、貸を打出す槌と知り、貴寶を得たるを悅び、それより、此繼女を實子同然に愛した、ということ也。」

 右の「簀子の祭」とは何の事か。御承知の讀者は敎示せられん事を望む。(大正四年五月鄕硏第三卷第三號)

[やぶちゃん注:「打出小槌」ウィキの「うちでのこづち」をリンクさせておく。しかし、以上の話、これ、展開はどうも西洋版の「継子いじめ譚」の影響を甚だ強く受けたもののように感じられてしょうがないのだが?

「小生の女兒」長女の文枝さん。明治四四(一九一一)年生まれ。後に日本大学経済学部教授となる岡本清造氏(四十二歳)と三十四歳の昭和二一(一九四六)年に結婚(清造氏は昭和五四(一九七九)年没)。文枝さんは平成一二(二〇〇〇) 年に亡くなった。

「存候」「ぞんじさふらふ」。

「グリンム」グリム。

「大略」「ほぼ」と当て訓しておく。

「無之候」「これなくさふらふ」。

「繼母」「ままはは」。

「繼女」「ままむすめ」(「選集」ルビ)。

「柯子(しひ)」ブナ目ブナ科シイ属 Castanopsis の椎の実。本邦ではツブラジイ Castanopsis cuspidata (関東以西に分布。果実は球形に近く、以下のスダジイに比べ、小さい)とスダジイCastanopsis sieboldii (シイ属は主にアジアに約百種が分布するが、本邦はシイ属の分布北限で、最も北に進出した種。福島県・新潟県佐渡島まで)が植生する。

「女」「むすめ」。

「籃」「かご」。

「實の女」「じつむすめ」と読んでおく。

「滿籃」「まんらん」。

「晚る」「くる」。

「老媼」「らうわう(ろうおう)」或いは当て読みで「らうば」。

「媼」「をうな」と訓じておく。

「愍み」「あはれみ」。

「牀」「ゆか」。

「落し」「おとし」。

「寤めて」「さめて」。

「簀子」「すのこ」。「簀子の祭」は不詳。

「喉を咳る」「のどをたぐる」。「たぐる」は「選集」のルビに従った。「たぐる」は上代以来の古語「吐(たぐ)る」で「へどをはく・もどす」或いは「咳(せき)をする」の意。ここは後者。

「啖はん」「くらはん」。

「苛遇」「かぐう」。

「狀」「さま」。

「不愍」「ふびん」。

「抛り付ける」「はふりつける(ほうりつける)」。

「錢」「ぜに」。

「貸」「選集」に『たから』とルビする。]

 〇田邊で小兒蟻群を見れば「蟻呼で來い、ども呼んで來い」、又「蟻の婆よー、蟻の婆よー、引きにごんせよー、引きにごんせよー」、和歌山では「蟻どん來い、どもやろか、おまえの力であくものか」。どもとは大きな武勇な蟻魁(ありのかしら)を云ふ。和歌山で以前行なわれた蟻の道という兒戯のことは、民俗第一年第二報へ出し置いた。

[やぶちゃん注:「婆」「選集」のルビに倣うと、「をば」。

「蟻の道という兒戯のことは、民俗第一年第二報へ出し置いた」後の「續南方隨筆」に「蟻の道」として所収する。大正二年九月発行の『民俗』初出。国立国会図書館デジタルコレクションの同書のここで視認出来る(次ページに図有り)。本書の電子化後にそちらを続ける予定なれば、フライング電子化はしない。]

〇獾(あなぐま)が女に化けること、鄕土硏究一卷六號三六九頁すでに述べたが、其後西牟婁郡上秋津村の人に聞いたは、獾は誠に旨く美裝した處女に化けるが、畜生の哀しさ行儀を辨へず、木に捷く昇つたり枝に懸下(ぶらんこ)したり、處女に有るまじし事斗りするから、化の皮が直顯はれると。予幼時雷獸と云ふ物を紀州で屢ば見世物で見たが、悉く獾だった。馬琴の何かの小說に附けた雷獸考の中に、猪狀で爪銳き雷獸を畫き有つたが、獾は支那で猪獾(ちよくわん)と呼ぶ程猪に似た者だから、之を雷獸とするは少々據有りそうだ。文部省の博物指敎圖に畫いた雷獸一名キテンは貂の類らしい。

[やぶちゃん注:「獾(あなぐま)」。「四」で既出既注(「鄕土硏究一卷六號三六九頁すでに述べた」がそれ)だが、再掲しておく。本邦固有種である食肉目イヌ型亜目クマ下目イタチ小目イタチ上科イタチ科アナグマ属ニホンアナグマ Meles anakuma 。私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 貉(むじな) (アナグマ)」を参照されたいが、面倒なことに、寺島良安は「本草綱目」に従ったために、「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 貒(み) (同じくアナグマ)」及び「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 獾(くわん) (同じくアナグマ)」も別に立項してしまっている。

「西牟婁郡上秋津」(かみあきづ)「村」「Geoshapeリポジトリ」の「歴史的行政区域データセットβ版」の「和歌山県西牟婁郡上秋津村」で旧村域が確認出来る。現在は田辺市上秋津(グーグル・マップ・データ)。だいたい一致はする。

「旨く」「うまく」。上手く。「四」で、『安堵峰で予』アナグマの『肉を味噌で煑て食ふと甚だ甘かつた』というのに、つい、惹かれましたな、熊楠先生!

「處女」「おとめ」。

「捷く」「すばやく」。

「直」「すぐ」。

「雷獸」落雷とともに現れるとされた、本邦の、特に江戸時代には、かなりメジャーな妖怪。当該ウィキを見られたい。ここで熊楠が言っている曲亭馬琴の考証随筆「玄同放言」(三巻六冊。滝沢瑣吉名義で出版。息子の琴嶺と、その友人であったかの渡辺崋山が画を担当している。一集は文政元(一八一八)年、二集は同三年刊。主として天地・人物・動植物に関し、博引傍証して著者の主張を述べたもの。「玄同」は「無差別」の意)の「卷一上 天部」の「第四 雷魚雷鷄雷鳥【並異形雷獸圖】」からとして、狼に似て、前脚が二本、後脚が四本で計六脚、尻尾が三股に分かれているはずの雷獣図の絵が添えられてあるが、これは恐ろしく下手な写図で、見るに足らぬ(だいたい、尾が二股にしかなっていないぞ!?!)。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の同原版本のこれを見よ! ひでえもんだ! 当該解説を総て読みたい方は、巻一のPDF版では、24コマ目からが、前記標題部の全部。単体画像で「雷獸」だけなら、ここ《「……此獸打-、而不ㇾ能升騰スルヲ……」》と、ここ《……按スルニ葢雷隕之處……》と、先の図の部分《画をもて、僕(やつがれ)と、友垣(ともがき)結(むす)ぶこと久しくなりぬ……》《……似たるもの、世にこれなしとすべからず……》と、ここ《……有ㇾ而無ㇾ形、故カリテ乾位戌亥……》で読める。但し、一部が破損しているので、「兎園小說」を電子化注している私にはちょっと放っておけないことなので、所持する吉川弘文館随筆大成版で、それぞれのリンクの後に欠損部前後を《 》でサービスで補っておいた。ついでだから、PDF画像として所持している博文館の昭和四(一九二九)年刊の「帝國文庫(第二十三篇) 名家漫筆集」所収の当該画像をスクリーン・ショットで撮り、トリミング補正したものを参考までに掲げておく。早稲田大学図書館「古典総合データベース」版より粗いものの、当該ウィキのそれよりは遙かにマシである。

 

Raijyu

 

「猪狀」「ゐのかたち」と読んでおく。「選集」では『猪(い)の状(かたち)』とあるからである。まあ、前図を見て戴くと、「猪」も判らなくはないが、やっぱ、狼でしょ。

「據」「よりどころ」。

「文部省の博物指敎圖」「博物圖」(掛図)のことであろう。「国立公文書館」の「デジタルアーカイブ」のこちらによれば、『「博物図」は、M.Willson & N.A.Kalkinsの「School and Family Charts」中の動植物図を参考にしてつくったものといわれ、動物5図、植物5図の計10図の構成で』『銅版で描いた輪郭線に、木版で色彩をのせ』、『幕府医官小野蘭山の玄孫』で、『文部省に勤め、博物館関係事業に従事した』『小野職愨』(もとよし 天保九(一八三八)年~明治二三(一八九〇)年)の『選』になり、明治六(一八七三)年『文部省の刊行』とある。同画像(「獸類一覽」)の上から二段目の左から二つ目(「第三 節操類ノ二 食肉部 他獸ヲ殺シテ食餌トナス者」の四種目。前に「アナグマ」「獾」の図がある)に、

   *

   貂鼠

ライジウ

 一名キテン

深山ニ棲ム至テ輕捷ナリ雷鳴ル時驚テ村里ニ出ルヿアリ人誤リ認テ雷獸ト呼ブ

   *

とある。

「キテン」「貂」(てん)「の類」食肉(ネコ)目イタチ科イタチ亜科テン属テン亜種ホンドテン Martes melampus melampus のこと。詳細は当該ウィキを見られたい。]

〇西牟婁郡湊村字磯間は、萬葉集に見えた磯間浦と云ふ事で、風景絕佳だが其住民は夙(しゆく)だ。猴神(さるがみ)の古社有つて今は日吉神社と號し、先年合祀さるゝ處を予輩烈しく抗議して免れた(鄕土硏究二卷五號三〇九頁中島君の報告に夙と犬神猿神と關係有りとする說參考すべし)。田邊近所には長野村と稻成村大字絲田と磯間の三所に各猴神社有つて、長野村が陰曆の十月、絲田が十一月、磯間が十二月の某の申日祭禮をしたが、絲田と長野村のは合祀せられ、磯間のも祭日を改めた。以前は舊師走の寒い夜中に神輿渡御有り。社の側に天然に橋の如く高く二つの岩山の間に掛つた岩の穹窿(アーチ)有り。昔此邊で人身御供を行ふたと言傳ふ。磯間と異り長野村や絲田の住民は夙で無い。磯間の女は昔より專ら京都へ奉公に出たので、言語應對頗る溫雅だ。漁業と農桑を兼營み、一體に富有である。以前は此猴神の祭へ日高郡等遠方から農民夥しく參詣した。「さるまさる」と言うて、猴を農家で蕃殖の獸として尊ぶのださうな。

[やぶちゃん注:本篇は、かく近代まであった被差別民を扱っており、現在もある地名まで出るので、興味本位を排し、批判的視線を十全に持って読まれたい。

「西牟婁郡湊村字磯間」「Geoshapeリポジトリ」の「歴史的行政区域データセットβ版」の「和歌山県西牟婁郡湊村」で旧村域が確認出来る。現在の田辺市中心街の、南・北・東の大半が含まれる。「磯間」は「いそま」と読む。「ひなたGPS」の戦前の地図で示す。

「萬葉集に見えた磯間浦」巻第十五の「船に乘りて海に入り路(みち)の上(ほとり)にて作れる歌」の一首(三五九九番)であるが、同巻の冒頭には「天平八年丙子(へいし)の夏六月、使(つかひ)を新羅國に遣はしし時に、使人(つかひひと)らの、各〻別(わかれ)を悲しびて贈答し、また海路(うみぢ)の上(ほとり)にして旅を慟(いた)み思ひを陳べて作る歌、幷(あは)せて、所に當りて誦詠(しようえい)せる古歌 一百四十五首」とある。

   *

 月讀(つくよみ)の

   光りを淸(きよ)み

      神島(かみしま)の

    磯𢌞(いそま)の浦ゆ

           船出す我は

   *

この歌の「神島」については、広島県福山市の旧神島(かしま)村と、岡山県笠岡市神島(こうのしま)、或いは、その南方海上直近にある高島とする三説がある(孰れも「ひなたGPS」の戦前の地図)。およそ新羅渡航で紀州田辺はないが、これ、平安以後、貴族間で熊野詣の習慣が広がると、田辺のこの「磯間の浦」と、その南方にある熊楠の守った「神島」が一致見るようになったことから、紀伊国の歌枕の定番となったのであった。

「夙(しゆく)」(しゅく)は、江戸時代、畿内に多く居住し、賤民視された被差別民の呼称。天皇の御陵番である「守戸(しゅこ)が訛ったものともされるが、未詳(以上は小学館「大辞泉」。以下は小学館「日本国語大辞典」)。江戸時代、中世非人の宿(しゅく)の者の後身を差別して呼んだもの。御陵が多い近畿地方に多く住み、寺社の掃除や葬送に従事したり、農業・酒造の他、歌舞・音曲・小芝居などをして生活する者もいた。別な被差別民であった穢多(えた:「かわた」(歴史的仮名遣「かはた」)とも呼ひ、近世前期では「ゑた」(歴史的仮名遣)よりもこちらの蔑称の方が一般的であった)の支配に服した者もいたが、大和の者は平民と余り差別が見られなかったという。「宿」「守公」「守宮」という漢字表記もした。ウィキの「夙」がかなり詳しいので読まれたいが、そこに『紀伊では』、『巫村・陰陽師村なども含めてシュクと呼称していた』とあり、また研究者の言として『大和の夙については』、『「彼等の中には巨万の富を擁して大地主となり、大商人となり、或は日夜孔孟の学を講じて地方の有識者となってゐた者も少くなかった」』とあり、また、『「彼等の社会的地位は徳川時代に於ては百姓と穢多との中間で、農業をしてゐる人もあれば、商業に従事している人もあった。」』ともある。

「猴神(さるがみ)の古社有つて今は日吉神社と號し、先年合祀さるゝ處を予輩烈しく抗議して免れた」ここに現存する。サイド・パネルの写真を見ると、参道階段の狛犬よりも奥に左右に向かい合った猿像が配置されてある。また、「和歌山県神社庁」公式サイト内の同神社の解説にも、『湊浦の日吉神社は、古来』、『猿神さんとあがめられ』、『遠近の信仰を集めている』とあり、現在の例祭(十月三日)の解説の中にも、『お猿と獅子と神輿が乱舞交錯、練り続き』翌日の午前三時過ぎ、『神輿は宮へ還幸す』ともある。

「中島君」「選集」の編者割注によれば、中島松三郎とある。事績不詳だが、『「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「琵琶法師恠に遭ふ話」』で既出既注なので、参考にされたい。『郷土研究』にかなりの投稿をしている研究者で、「日文研」の「怪異・妖怪伝承データベース」の「犬神」(いぬがみ)のページが、まさにその論考が元であることが判った。論考標題はズバり、「犬神猿神附夙」(「いぬがみ さるがみ つけたり しゆく」であろう)である。

「長野村」「Geoshapeリポジトリ」の「歴史的行政区域データセットβ版」の「和歌山県西牟婁郡長野村」で旧村域が確認出来る。

「稻成」(いなり)「村大字絲田」同前サイトのこちらで旧村域が確認出来、「ひなたGPS」の戦前の地図で「糸田」も確認出来る。さらに、グーグル・マップ・データに「糸田猿神社跡」を見出せる。実は、この神社の神域の森林伐採が、南方熊楠の神社合祀反対運動開始のきっかけだったからであろう。「LocalWiki」の「田辺」の「猿神社」に詳しい。

「社の側」(かたはら)「に天然に橋の如く高く二つの岩山の間に掛つた岩の穹窿(アーチ)有り」これ、或いは現在の「磯間岩陰(いわかげ)遺跡」のことではなかろうか?(グーグル・マップ・データ航空写真) ここは日吉神社の参道の東の傍らにあり、古墳時代の遺跡で、人骨も出ている。サイド・パネルの画像を見られたいが、「岩の穹窿(アーチ)」っぽいのである(説明板も読める)。

「異り」「選集」に倣うと「かはり」と読む。

「農桑」「のうさう」。農耕と養蚕。

「兼營み」「かねいとなみ」。

「富有」「ふいう」。裕福。

「蕃殖」「はんしよく」。「繁殖」に同じ。動植物の豊饒。]

 〇田邊近處稻成村の稻荷神社は、伏見の稻荷より由緖古く正しいものを、昔證文を伏見へ借取られて威勢其下に出るに及んだと云ふ。今も神林鬱蒼たる大社だが、この神甚だ馬を忌み、大正二年夏の大旱にも鳥居前で二三疋馬駈すると、翌日忽ち少雨ふり、其翌日より大いに降つたと云ふ。然るに老人に聞くと、以前は此鳥居前に馬場有つて例祭に馬駈したと云ふ。されば馬場が無くなつてから神が馬嫌ひに成つた者か。

[やぶちゃん注:「稻成村の稻荷神社」現在の田辺市稲荷町の稲荷神社(伊作田(いさいだ)稲荷神社)のことであろう(グーグル・マップ・データ)。この「稲荷神社の森」は田辺市指定文化財(天然記念物)となっている。サイド・パネルの解説板に南方熊楠の名も載っている。

「借取られて」「かりとられて」。

「出る」「いづる」。

「大正二年」一九一三年。

「大旱」「おほひでり」と訓じておく。

「馬駈」「うまかけ」。]

 〇「紀州豐年米食はず」と云ふ古諺有り。紀伊豐年ならば米多く產する他國皆豐年ならぬ意だ。紀州は米を外へ出す國で無かつたと云ふ。

[やぶちゃん注:「紀州豐年米食はず」は紀州が豊年の年は、諸国が凶作であるから、普段は他国に売らぬ米を、皆、醵出せねばならず、結果して紀州では米が食えなかったということであろう。]

 〇猫が蟻を食物に混じて食へば力强く成る。又犬の子糞を食ひ人の子味噌を食へば眼明かに成ると言ふ。

 〇西牟婁郡下芳養村の老人言く、昔は、犬、止(たゞ)三脚(みつあし)、五德(ごとく)(鑄鐵製の鍋を懸る器)は四脚有りし。弘法大師物書くに笑ふ云字を忘れ困却中、犬が簀を冒り步み來たので、犬が竹を冒れば笑の字と成ると悟り、大に悅んで五德の脚を三本に減じ、其一脚を犬に與へて四脚とした。其報恩に今も犬尿するに必ず一脚を揚ぐると。

[やぶちゃん注:「鑄鐵」「選集」は二字に『いもじ』と振る。

「懸る」「かくる」。

「笑ふ云字を忘れ困却中」「笑ふ」と「云(いふ)字を忘れ」、「困却」(こんきやく)の「なか」。

「簀」「す」。竹を粗く編んだ筵(むしろ)。

「冒り」「かぶり」。

「犬が竹を冒」(かぶ)「れば笑の字と成る」「笑」の字を分解すると、「竹」と「夭」だが、「夭」の字の異体字にはこれがあり(「グリフウィキ」)、「犬」の字に似ている。

「犬尿するに」「いぬ、いばりするに必ず一脚を揚ぐる」犬が何故小便をする際に片足を上げるかの起原伝承。]

 〇數ある竈の内一番大きなを田邊で「大くど」と呼ぶ。其灰の中へ茶碗一つ伏置くか、主人の下駄を金盥で覆置けば盜人入り得ず。盜人入らんと欲する家の盥で大便を覆せて家内を昏睡せしめんとしても、右の法を行はれては其效無しと。

[やぶちゃん注:「竃」「かまど」。

「大くど」「おほくど」。

「金盥」「かなだらひ」。

「覆置けば」「ふせおけば」。

「盜人」「ぬすつと」と読んでおく。

「盜人入らんと欲する家の盥で大便を覆せて家内を昏睡せしめんとし」こういう話は私は聴いたことがないが、ごく近代までの泥棒の風習で、盗みに入ったものの、何も窃(ぬす)むべきものがない貧乏な家であったり、或いは、何らかの都合で何も窃めなかった場合に、その家の部屋の真ん中に大便をするという奇体な習慣あったことは知っている(前者はずっと昔、児童向けの自伝的小説だったように確かに思うのだが、作者も題名も思い出せない。ご存知の方、お教え下さい)。或いは、そうすると決して捕まらないというジンクスもあったやにも聴いている。それが変形した特異ヴァージョンか?]

〇陰曆十月中に亥猪三つ有る年火災多しと。以前は一侍二百姓三商賣と順次異級の人が祝ふたが、大抵十月に亥猪二有るのみ三つ有るは稀だ。神子濱では三番目の亥猪を穢多亥猪と云ふ。

[やぶちゃん注:「陰曆十月中に亥猪三つ有る年」「亥猪」は「選集」に倣うと、二字で「ゐのこ」。これは陰暦十月に上・中・下旬に、干支の「亥」の日が三度ある月ということ。国立国会図書館の「レファレンス協同データベース」のこちらの『「亥の子」という習慣があ』り、十一『月の亥の日に、子供が藁を束ねたもので庭先で叩いてまわるというもの』であるが、十一月は『亥の日は』二、三『日あるが、どの日に行うのがよいか』? という質問への回答の諸資料からの引用に、『「一般には旧暦』十『月の亥の日に行な」い、「初亥・二番亥を収穫祭としている」』とあり、『また、「宮中では中世以降、上亥・中亥・下亥の日に』三『回の亥の子が催された」ことや、「(地方により異なるが)上亥を殿様とか武士の亥の子、中亥を百姓の亥の子、下亥を商人の亥の子とも区別する」ことが説明されている。亥の日祭、亥の神祭、亥の子節供などとも呼ばれる』とし、さらに、『「初亥の日になると小作人たちが餅をつきに来た」ことが記されている』とあり、『「旧暦十月の亥の日亥の刻に、餅を食べ無病を願う行事」とある。なお、「岡山県下の農村では、亥の日が二度あれば最初を、三度あれば中の亥の日を祝った」との記述がある』とある。『また、亥の子では「子供たちによる亥の子突きの行事が顕著に見られ」ており、「丸石に数本の縄を放射状に付け、縄を引いて石を引き上げ』、『落とし』、『地面を突くもの」と「藁を束ねた棒で地面を打つものの二種類がある」と記述されており、岡山県英田郡下で行なわれる際に子供たちが囃す言葉も』あるとあった。

「商賣」「選集」に『あきうど』とルビする。

「穢多亥猪」「選集」では『えったの亥猪』とする。これは二番目を士農工商の「農工商」の広義の町人に宛て、三番目を被差別民であった「穢多(ゑた)」に落としめた卑称であろう。]

〇毒蟲毒魚に螫された時、有合ふ地上の石を取て裏返し置けば、痛忽ち止むと云ふ。   (大正四年七月鄕硏第三卷第五號)

[やぶちゃん注:「螫された」「さされた」。

「有合ふ」「ありあふ」。その辺にある。

「取て」「選集」は『取って』とする。

「痛」「いたみ」。]

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