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2022/07/28

曲亭馬琴「兎園小説別集」下巻 永錢考【小出問、山崎答。】・正八幡考【小出問、山崎答。】

曲亭馬琴「兎園小説別集」下巻 永錢考【小出問、山崎答。】・正八幡考【小出問、山崎答。】

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの「新燕石十種」第四では本篇はここから。吉川弘文館随筆大成版で、誤字と判断されるものや、句読点(私が添えたものも含む)などを修正した。

 標題の割注は目録のもの。「小出」は以下で自己紹介をしているが、これは後に古河(こが:現在の茨城県古河市。グーグル・マップ・データ。以下、指示のないものは同じ)の地誌「古河志」を著わした元古河藩士小出重固(しげかた 安永元(一七七二)年~嘉永五(一八五二)年)である。古河生まれで通称で三太夫。天明四(一七八四)年より出仕し、藩主土井利厚の老中時代(享和二(一八〇二)年就任で、文政五(一八二二)年六月に在職のまま没した)には江戸詰公用人(藩主が幕府の老中や側用人といった要職にある時、城使及び江戸留守居添役は、対幕府・諸藩等との外交専門の用人である公用人となった。御城使たる江戸留守居と添役は、藩主が幕府の役職にある時は将軍家の陪臣として、また、藩主の身内人として、公儀の御用に携わることになっており、そこから江戸後期から「公用人」の名が用いられるようになった)を勤めている。藩の役職としては家老に次ぐ公御用人にまでなったのだが、文化九(一八一二)年に引退して古河に戻り、文政三(一八二〇)年に隠居していた(本書簡は文政八(一八二五)年のものである)。「松斎」或いは「翠庵」と号し、和漢の学に通じていた。江戸詰の時には国学者清水浜臣(はまおみ 安永五(一七七六)年~文政七(一八二四)年)に和歌を学んでいる。特に歴史を好み、隠居後は古河藩領内の寺社・古文書・説話を調べ歩き、天保一二(一八四一)年に地誌「古河志」を著して、古河城主土井利位(としつら:三河刈谷藩主土井利徳の四男であったが、本家の古河藩主土井利厚の実子が早世していたため、文化一〇(一八一三)年にその養子に迎えられていた)に献上している才人である(以上は彼の墓がある古河市横山町の日蓮宗長久山妙光院本成寺(ほんじょうじ)のウィキに拠った)。「山崎」は、この年の直前の四月の『「けんどん」争い』で完全に絶交した山崎美成。馬琴って、それはそれとして、かく記載を漏らさないところは、まことに律儀である。

 本論考は、小出の問い、及び、山崎の応答からなるが、二件の関連性のない質問と応答がセットになった、二者の書簡のみから構成されてあるもので、内容を別々に分けて示すことが出来ない。

 

   ○永錢考、正八幡考

一、中古の文書に、永錢何貫文の田地と申儀御座候。右を考候。如何有ㇾ之べくや。何卒聢と[やぶちゃん注:「しかと」。]仕度奉ㇾ存候間、御透[やぶちゃん注:「おすき」。]の節御展覽の上、尊意の程、御存分御書入被ㇾ下候へば本懷の至、則、端紙二葉入御覽候。緩々[やぶちゃん注:「ゆるゆる」。]御留置、御考可ㇾ被ㇾ下候。

一、正八幡宮[やぶちゃん注:「しやうはちまんぐう」。]と申號、正の字、何故に御座候や。何にてか見申候。憶中に覺申候は、若宮八幡は大鷦命といふによりて、正は應神の帝を稱し奉ると書に御座候。乍ㇾ去落付不ㇾ申。印本に八幡宮本紀と申書御座候由、此書には定て相分り居可ㇾ申候得共、寒鄕、書に乏しく、いまだ穿鑿不ㇾ仕候。或は宇佐が本所正八幡なり。餘の男山等は若山と申す說も、昔、何方にて承り込候や、耳底に留り居申候。是も落付不ㇾ申。何れ御敎示を受申度、何分々々御序[やぶちゃん注:「ついで」。]の刻[やぶちゃん注:「きざみ」。]、御さとし可ㇾ被ㇾ下候。奉願上候。早々あらあら。

 十二月廿三日        小出三太夫

    山崎兵衞樣

何卒尊名幷御號等御座候はゞ、御序に承知仕置度奉ㇾ存候。僕名重固、字子威、號竹齋、別號每居、致仕後號烟霞樵者、讀書の所を烟霞樵屋と云。漢字の方にては藤原の草を斷て滕固と云。

[やぶちゃん注:「永錢」永楽通宝のこと。当該ウィキによれば、明の第三代皇帝永楽帝の永楽九(一四一一)年より『鋳造され始めた銅製銭貨。日本では室町時代に日明貿易や倭寇によって大量に輸入され、江戸時代初頭まで流通。永楽銭・永銭などと呼ばれた』。『貨幣価値は』一『文として通用したが、日本では天正年間以降』、『永楽通宝』一『枚が鐚銭』(びたせん)四『文分と等価とされた』。慶長一三(一六〇八)年には『通用禁止令が』出され、『やがて寛永通宝等の国産の銭に取って代わられた』が、『その後も』「永」という『仮想通貨単位』、則ち、『永一貫文=金一両であり』、一両の千分の一『両を表す』「永勘定(えいかんじょう)」が『年貢の取り立てに引き続き用いられるなど、長く影響を残した』(永一文は四文前後)とある。

「大鷦命」「おほさざきのみこと」と読む。応神天皇の第四皇子である仁徳天皇の諱(いみな)。

「八幡宮本紀」江戸前期の筑前国の儒学者・国学者貝原好古(かいばらよしふる/かいはらこうこ 寛文四(一六六四)年~元禄一三(一七〇〇)年:号は恥軒。本草学者貝原楽軒の長男)の著わした神祇書。元禄二(一六八九)年自序。

「宇佐が本所正八幡なり」現在の大分県宇佐市南宇佐にある宇佐神宮。全国に約四万四千社ある八幡宮の総本社で、石清水八幡宮(次注参照)・福岡県福岡市東区箱崎にある筥崎宮(又は鎌倉の鶴岡八幡宮)とともに日本三大八幡宮の一つ。この当時は宇佐八幡宮弥勒寺と称していた。祭神その他は当該ウィキを参照されたいが、その注1に『宇佐神宮を筆頭とする全国の八幡宮の場合は』、『そもそも八幡神自体が同時に八幡大菩薩という仏でもあったため、八幡宮と神宮寺は一体のものであり、「八幡宮」=「八幡大菩薩を本尊とする寺院」であった。宇佐神宮の場合は、その寺としての名称が弥勒寺であったのである。例えば、京都の石清水八幡宮の場合は神仏分離以前の正式には「石清水八幡宮護国寺」と称していた。このような事情から、神社のなかでも八幡宮はもっとも早くから神仏習合が進んだ神社であった』とある。なお、八幡大菩薩は、しばしば、ここで問題として挙げている「正八幡大菩薩」の呼称でも呼ばれる。

「餘の」「よの」。他の。

「男山等は若山と申す說」京都府八幡市八幡高坊にある石清水八幡宮。旧称は男山八幡宮。全国の八幡社で「若山」を名乗ったり、それを通称とする神社が実際にかなりある。その中には、無論、この石清水を分祀したものもある。

 以下が、最初の「一」にある、「端紙二葉」(はしがみにえふ)の封入の小出の考証。]

永金納と云事、畠より出す年貢は、夏、納るなり。依て、夏成り上納、或は、永金納などいふ。是、畑の年貢金なり。何百何貫文と云て、一貫文は小判一兩なり。百文はそれを十に割たる一つにて、餘は押てしるべし。扨、此永といふ名目は、もと唐山の永樂錢より出たるといふ。皆人のいふ所なり。されど古河領中田宿光了寺緣起の末に、永何貫文の地云々とあり。これを考るに、唐山の永樂の年號以前の事と覺ゆ。此緣起は後より取付たるものと見ゆれども、さすが傳來なき事を書べきにもあらず。不審の事なり。水府小宮山楓軒翁の考を左に記す。

[やぶちゃん注:「古河領中田宿光了寺」茨城県古河市中田にある浄土真宗大谷派光了寺。小出が、着々と「古河志」の準備に入っていることが窺われる。

「水府」常陸水戸藩の藩庁のある水戸。

「小宮山楓軒」(ふうけん 明和元(一七六四)年~天保一一(一八四〇)年)は水戸藩士で儒者。彰考館館員で儒者の小宮山東湖の長男。 立原翠軒(たちはらすいけん)に学び、彰考館で「大日本史」の編修に従事した。寛政一一(一七九九)年、郡(こおり)奉行となると、植林を進めるなど、窮乏する農村の救済に尽くし、後に町奉行から側用人を務めた。名は昌秀。編著に「農政座右」「水府志料」などがある。]

えい錢といふ名は、永樂錢渡來以前よりありしならん。既に太平記靑砥左衞門の事を記せし所にも、えいせんといふ事見えたり。此えい錢、何時比よりありし物か。猶又其前よりありし名目と見えたり。思ふに穎穀穎錢などいふ事あるを、音によりて永樂とかき來れるにもあるべくや。穎の字の義は、詩經大雅に、實穎實粟とある義にて、穎錢といふか云々。

[やぶちゃん注:「太平記靑砥左衞門の事を記せし所にも、えいせんといふ事見えたり」「巻第三十五」の「北野通夜物語(きたのつやものがたりの)事附(つけたり)靑砥左衞門(あをとのさゑもんが)事」。国立国会図書館デジタルコレクションの「太平記 下」(永井一孝校訂・昭和二(一九二七)年有朋堂書店刊)のここからで、「附けたり」のそれは、知られた、鎌倉時代の執権北条時頼の信頼厚かった青砥藤綱(モデルはあったかも知れぬが、理想的御家人として造形された架空の武士)の、知られた鎌倉滑川に落とした十文の銭を五十文で松明を買って探したという話で、ここの左ページ六行目からであるが、小宮山の言う「えいせん」に相当する文字はない(複数の所持する「太平記」で確認した。『永く失ひぬべし』や『永不ㇾ可ㇾ失』の「永」の字はある)。ところが、この前段の、右ページ後ろから五行目に、彼が「飢たる乞食(こつじき)、疲(つかれ)たる訴訟人などを見ては、分(うん)に随ひ品に依(よつ)て、米錢(べいせん)絹布(けんぷ)の類(るゐ)を與(あたへ)ければ、佛菩薩の悲願に均(ひとし)き慈悲にてぞ有ける」という一節があるのに目が止まった。

「米」と「永」の崩し字は書き手が悪筆だと似てくる

のである。或いは、

小宮山は、ひらがな書きの「太平記」を読んだのではないか? だから、「えいせん」と表記したのではないか?

という仮定が浮かんだ。さて、そこで仮に、

その小宮山の見た版本が杜撰で、誤って「べいせん」を「えいせん」と誤刻していたか

或いは

小宮山が、悪筆の草書崩し字で書かれた「へいせん」(濁点は落ちて普通)を「えいせん」と読み違えた

という可能性を私は考えてみた。大方の御叱正を俟つものである。なお、私は後の山崎の答えを無批判に受け入れずに、独自に確認し、考えたものであることを断っておく。

「穎穀穎錢」(えいこくえいせん)穀類の代わりに税として納めた銭で、これを「永銭」と呼んだ。但し、これは江戸後末期の謂いのようである(辞書の引用書から推定)。「穎」は音「エイ」で、訓は「のぎ」、稲の穂先についている尖ったそれを指す。

「音によりて永樂とかき來れるにもあるべくや」これはちょっと無理があると思うな。

 以下は小出の論考に戻るものと判断する。]

中古武家の知行に、何百貫文と云事見ゆ。區々にて今はしれぬ事なりしに、ある書に、

永一貫を高五石に積り、高に結ぶなり。又云、往古は高百石と申事無ㇾ之、永何百貫文と云。其後、高何百石と、永を高に積り候。古來、永を高に積り候には、一貫文を拾石にも積り候事有ㇾ之、聢と定り候事は慥に知れ不ㇾ申候。關東御入國以後者、一貫を高五石に極候積りの由。

[やぶちゃん注:「永一貫を高五石に積り、高に結ぶ」この中古にあったという「永」は換算値の仮単位で、永楽銭とは、無論、無関係で、謂わば、縁起を担いで、意味のめでたい「永」の字を用いたに過ぎないだろう。]

 此書、公儀御勘定の祕書にて、辻氏鶴翁といふ老人の集錄なりといふ。

[やぶちゃん注:「辻氏鶴翁」「辻(つぢ)」氏姓の「鶴翁(かくをう)」。幕臣辻六郎左衛門(承応二(一六五三)年~元文三(一七三八)年)。諱は守参(もりみつ)。隠居後に鶴翁と号した。初め、館林藩の家臣であったが、藩主徳川綱吉が第五代将軍になったため、幕臣となった。元禄元(一六八八)年に勘定組頭、元禄十二年には美濃郡代に出世し、蔵米五百俵の支給だったのを改められて、知行地五百石を与えられた。さらに享保三(一七一八)年には勘定吟味役となり、老齢で隠退する享保一七(一七二七)年まで同役を勤めた。地方巧者(じかたこうしゃ:江戸時代に地方の支配実務に精通した農政官僚(享保以降は民間登用が多くなる)のこと)として名声が高かったことから、享保年間(一七一六年~一七三六年)には、幕府から直々に地方支配についての諮問を受け、「上書」(「辻六郎左衛門上書」。「辻氏献可録」とも称する)を提出した。体験に基づいて田制の由来・慣例などを記しており、幕府の地方支配の実体を知るうえで貴重な史料とされる(以上は主文を小学館「日本大百科全書」に拠った。]

先[やぶちゃん注:「まづ」。]、大抵これにてわかりしを、後に水府の人高倉逸齋といふ老人の、田政考といふ書の内に、此貫代と云は、何が故に錢に積りたると思ふに、さしてかはる義なし。反別[やぶちゃん注:「たんべつ」。]を基本として、一段[やぶちゃん注:「たん」。]に付、錢三百文、或は二百八十文などゝ、土地の厚薄に隨て、段每に數を定め、收穫したるなり。舊書を考るに、常陸は大抵段の地より、三百文を限りに出せし樣なり。尤、所に甲乙有て、一定しがたし云々。

[やぶちゃん注:「高倉逸齋」水戸藩士高倉胤明(たねあき 寛保四・延享元(一七四四)年~天保二(一八三一)年)。「水府地理温故録」や、ここに関係ある「田制考証」(文化一〇(一八一三)年成立。国立国会図書館デジタルコレクションの「近世地方経済史料」第八巻のこちらで読める)等の著作がある。]

同國小宮氏按ずるに、此儀、國々には差別あり。今の石高に取りの高下もあると同意と見ゆ。大抵武家私の定めにて、今の入作直段などいふ物の如く、國々所々にて思ひ思ひの直段にて、一定に無ㇾ之とおもはる。然るに古文書一二を見し者など、押あてゝ國々同樣と思ふは、未だ考の足らぬ故か云々。

[やぶちゃん注:「入作」は「いれさく」「いりさく」と読み、江戸時代、他村の者が来て耕作することを指す。

「直段」「ねだん」。値段に同じ。

 以下、山崎美成の応答書簡となる。]

 右甲申季冬、小出氏問書、乙酉五月、答ること、左のごとし。

[やぶちゃん注:「甲申季冬」文政七(一八七四)年十二月。

「乙酉」翌文政八年。]

永錢の說、御示の御筆記、熟讀侍りしに、水府の楓軒翁と申人の說、予が兼て聞る說と符合して、いとおもしろくしかるべく思ひ侍りぬ。永といふ名目は、もと唐山の永樂錢より出たりといふ事、御申のごとく普通の說なれど、誤なるべし。そのよしは永樂錢のみならず、異國の錢を鑄形として、鑄しものさへ多かり【古今泉貨鑑、和漠錢彙に委し。】。永樂錢はことに多く、關東にては此錢のみ用來りしなり。慶長年中に御停止ありしなり。さて、古河領中田宿光了寺緣起に、永錢のこと見えて、此緣起、永樂年前のものゝよし、予が嘗[やぶちゃん注:「かつて」。]聞るは、相模鎌倉鶴岡の神職に、大伴平翁といふ人あり。はやくより地理の學に志ふかゝりければ、本國の地志撰ん[やぶちゃん注:「えらまん」。]ことを企たりしが、半に及ばで身まかりけるとぞ。いとをしき事になん。その稿中に田租部といふありて、永錢の說に及び、鎌倉將軍の頃の古文書に、永錢とあるを引用し、且その說に云、永は頴にて、永とかけるは、穎の省文にて、禾とかけるなり。その體[やぶちゃん注:「てい」。]、永字に似たれば、永字をもかよはして書たるなりといへるよし、いとおもしろく覺ゆ【按ずるに、八幡宮本紀に、鶴岡の社に賴朝卿直判の書にも、社領のことあり。今猶永樂錢四十貫文ありしとかや。かくしるしたるをおもふに、かの文書に、永錢何程と記したりしや。その文書には社領の事のみにて、永錢云々は、その計算をいヘるものにや。ことのさま似たれば、こゝにしるすのみ。】。しかはあれど、その稿だに見ざれば、いかにとも辨じがたし。されど光了寺緣起を倂せ考るに、いづれにも明の永樂年前、已に此稱あること、いちじるし。また云、我邦、省字を用ゆること、いとふるし。古事記に、弦を玄に作り、村を寸に作る。後世にも多し。おもふに兵革の間、民間、多くは文筆に拙く、つとめて簡便に從ふのみ。再按ずるに、穎は和訓カヒとよみたり。延喜式の祝詞【祈年祭。】初穗【乎波。】千穎八百穎(ちはいやかはひ)奉置氏とあり、江家次第に、本穎芥本謂之稻、切穗訓之穎、これなり。しかれば穎錢としもいへるは、穀穎にかへて納る錢といふ意なるべし。唐土にいふ税錢祖錢のことにて、我邦俗の年貢金というふものなりとしられたり。

[やぶちゃん注:「穎は和訓カヒとよみたり」調べてみると、「穎割れ」で「かいわれ」の読みがあった。その場合、しかし、「カヒ」ではなく、「カキ・カイ」であり、当て訓に過ぎない気がする。

「初穗【乎波。】千穎八百穎(ちはいやかはひ)奉置氏」割注は助詞を補ったもの。「初穗をば千穎八百穎に奉り置きて」。「祈年祭」の全文はサイト「神話の森」の「日本の神話」の「延喜式祝詞」を参照されたい。最初にある。

「江家次第」(がうけしんだい)「に、本穎芥本謂之稻、切穗訓之穎」「江家次第」は平安後期の有職故実書。大江匡房著。大嘗会や四方拝に関する記述を含め、この時代の朝儀の集大成として評価が高い。正確な編纂の開始時期は不明。作者の没した天永二(一一一一)年まで書き続けられたものと推定されている(後代に加筆・増補あり)。私には訓読出来ない。悪しからず。

 以下の一段落は底本では全体が一字下げ。]

楓軒翁の說に、太平記靑砥左衞門が條に、永銭の事有りといへど、予、嘗よみたりしに、さることありともおもほえねど、さらに試に一わたいよみたりしが、其こと見え侍らず、こは何ぞのおぼえたがひにてもあるべし。又武家知行の積り石高の高下あることなどは、地方の事考しるしたる書に、くさぐさ見ゆれど、予その事も委しからずといへども、いさゝか思ひよれるふしなきにあらねど、さして定說もあらざるをもて、姑く[やぶちゃん注:「しばらく」。]疑しきを闕き[やぶちゃん注:「のぞき」。]、强てこれが說をなさず。猶思ひえたることあらば、追て記しまゐらすべし。

[やぶちゃん注:以上で第一の質問への答えは終わって、以下、「正八幡宮」の答えとある。]

正八幡の事、正八幡宮と申ことの、先づふるく見えたるは、二十二社註式曰、大隅國正八幡宮【桑原郡。】、正宮者始在大隅國、兩八幡後至豐後國、坐宇佐郡、大隅宮大御前【大比留女、兼右按ㇾ之神功か。】、南面【應神。】、若宮【仁德。】、西向【武内。】、家記云、人皇三十代欽明天皇五年【甲子。】顯座。また帝王編年記曰、後深草院建長五年三月十二日、大隅國正八幡宮、神殿舍屋已下燒亡のよしも見えたり。按ずるに、註式の說による時は、宇佐、石淸水の御宮よりも、はやく鎭座ましましけるなり。さて延喜式神名帳に、大隅國桑原郡一座庶兒島神社と記す者、卽この御宮のことなり。そもそも此御宮の外に、古にも今にも、正しく正八幡宮と稱し奉るはあらず。しかるに諸社一覽に、鹿兒島神社、桑原郡に在り。正八幡と號す。祭神二說、彥火々出見尊、一說、○大隅國正八幡火々出見尊也、與宇佐八幡不ㇾ同【神書抄。】、大隅宮神功皇后乎、大御前豐玉姬、南面應神帝、若宮仁德帝、西向武内臣也【兼右說。】、また八幡宮本紀にも兼右のいはく、神功皇后也、予をもてこれをみれば、先づ火々出見尊とすること、古書の所見なし。此尊を八幡宮と稱し奉るも、そのよし、かなはず。又神功皇后といへるは、註式に、大比留女、兼右按ㇾ之神功歟といへるを、謬り解したるものなるべし。これは大比留女とあるが、八幡宮には似つかはしからねば、同女神なるを配して、神功歟といヘるならんとおもはれたり。さて正八幡の正字のよしは、安齋隨筆武藏鐙卷に、古き軍談の册子等に、武士の誓詞に、正八幡宮も照覽あれと云語あり。八幡の本地阿彌陀也とて、八幡大菩薩と號するに依て、神と佛と入交り紛らはしきゆゑ、本地を除去[やぶちゃん注:「のぞきさり」。]、正眞の八幡大神宮と云意なるべし。觀音は三十三身に變化すると云に依て、變化せざる時の正體を、正觀音と號するに同じといへり。かゝれば宇佐、石淸水などには、大菩薩の號もあり。放生會も行はれて、その緣起、託宣集などいへるものにも、佛語多く用ひたりければ、此大隅に齋き祭れる御社こそ、さる故もなく、いちはやく鎭座ましませしかば、やがて正八幡とたゝへ奉りしなるべし。

[やぶちゃん注:「二十二社註式」これには同名異本で二種ある。一つは吉田家の神社考究書の一つで、畿内に散在する二十二の神社誌(「群書類従」所収)。今一つは林羅山著の「本朝神社考」から、伊勢・北野・春日・三輪・賀茂等の記事を抄出したもの。前者であろうが、調べ得ない。

「大隅國正八幡宮【桑原郡。】」現在の鹿児島県霧島市隼人町内(はやとちょううち)にある鹿児島神宮。嘗つては「大隅正八幡宮」「国分八幡宮」などとも称されていた。当該ウィキによれば、『創始は社伝によると遠く神代とも、あるいは「神武天皇の御代に天津日高彦穗穗出見尊の宮殿であった高千穂宮を神社としたもの」とされる。和銅元年』(七〇八年)『に現在地に遷座され、旧社地には現在摂社石体宮(石體神社)が鎮座している。当社の北西』十三キロメートルの『地点には、穗穗出見尊の御陵とされる高屋山陵がある』。欽明天皇五(五四四)年に『八幡神が垂迹したのもこの旧社地とされる。当社を正八幡と呼ぶのは』、「八幡愚童訓」(鎌倉後期に成立した石清水八幡宮の霊験記。作者未詳。本地垂迹説に従って書かれており、内容が大きく異なる多種の異本が現存する)『「震旦国(インドから見た中国)の大王の娘の大比留女』(おおひるめ)は『七歳の時』、『朝日の光が胸を突き、懐妊して王子を生んだ。王臣達はこれを怪しんで空船』(うつろぶね)『に乗せて、船のついた所を所領としたまうようにと』、『大海に浮かべた。船はやがて日本国鎮西大隅の磯に着き、その太子を八幡と名付けたという。継体天皇の代のことであるという。」との記載がある。なお、白井宗因が記した』「神社啓蒙」では、『登場人物が「陳大王」と記されており、娘の名前が八幡であるとされている』。『八幡神は大隅国に現れ、次に宇佐に遷り、ついに石清水に跡を垂れたと』「今昔物語集」『にも記載されている』(巻第十二の「於石淸水行放生會語第十(石淸水(いはしみづ)にして放生會(はうじやうゑ)を行ふ語(こと)第十(じふ))。「やたがらすナビ」のこちらで読める。新字体)。『大隅正八幡の正の字が示すように、鹿児島神宮は八幡宮の根本社だともいわれている。伝承では』、『かつて国分八幡』國分八幡宮(こくぶはちまんぐう:香川県高松市国分寺町(こくぶんじちょう)国分(こくぶ)にある。古代の祭祀跡とされる磐座(いわくら)があることで知られる)『と宇佐八幡との間に、どちらが正統な八幡かを巡って争いが起き、宇佐八幡は密かに』十五人(十四人とも)の『の使者を遣わして国分八幡を焼かせたという。その際、燃え上がる社から立ち上る黒煙の中に「正八幡」の字が現れ、それを見て驚き怖れた使者達は溝辺』(みぞべ:鹿児島県霧島市溝辺町(みぞべちょう))『の地まで逃れてきたが、神罰を受けたのか』、『次々と倒れてその数は』十三『人に及んだ。その後』、『土地の人々は異境に死んだ者たちを憐れみ、それぞれが倒れた場所に塚を盛り霊を慰めたが、その数が』十三『であったことから、そこを十三塚原と名付けたといわれている。この十三塚原は鹿児島県の国分平野北方にあり、その北東部には鹿児島空港やこの伝承に基づく十三塚原史跡公園がある』(ここは、最近、私がものした『「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 十三塚の事』も参考になろう)。『この宇佐八幡の使者に関する伝承には、上記と内容の異なる伝承が他にもいくつかある』。『信頼できる史料での初出は、醍醐天皇』(在位:寛平九(八九七)年~延長八(九三〇)年)『の時に編纂された』「延喜式神名帳」に『「大隅国桑原郡 鹿児嶋神社」とあるもので大社に列しており、日向、大隅、薩摩のいわゆる南九州では最も格の高い唯一の式内大社である。その高い社格から桑幡氏、税所氏などの有力国人をその神職より輩出した』。『平安時代に宇佐八幡が九州五所の八幡別宮を勧請したのに伴い、当社に八幡神が合祀されたともされている。それ以降、正八幡宮・大隅正八幡宮・国分八幡宮などとも称される』ようになったとある。

「正宮者始在大隅國、兩八幡後至豐後國、坐宇佐郡、大隅宮大御前【大比留女、兼右按ㇾ之神功か。】、南面【應神。】、若宮【仁德。】、西向【武内。】、家記云、人皇三十代欽明天皇五年【甲子。】、顯座」手前勝手流で訓読する。

   *

正宮(しやうぐう)は、始め、大隅國(おほすみのくに)に在り、兩(ふたつなが)らに、八幡は、後(のち)、豐後國に至り、宇佐郡にも坐(ましま)す。大隅宮は、大御前(おほきおまへ)【大比留女(おほひるめ)、兼右(かねみぎ)、之れを按ずるに、神功(じんぐう)か。】、南面【應神。】、若宮【仁德。】、西向【武内。】、「家記(けき)」に云はく、『人皇三十代欽明天皇五年【甲子。】、顯座(あきらめてましま)す。』と。

   *

「兼右」吉田兼右(永正一三(一五一六)年~元亀四(一五七三)年)は戦国・織豊時代の神道家。本姓は卜部(うらべ)。元は清原宣賢(のぶかた)の次男であったが、従兄吉田兼満の養子となり、従二位・神祇大副(じんぎのたいふ)に進み、大内義隆ら戦国大名に招かれ、神道伝授を行い、また、全国の神社との結び付きを諮るなど、吉田家の勢力拡大に努めたことで知られる。「欽明天皇五年」機械的換算で五四四年。「武内」武内宿禰。

「帝王編年記」神代から後伏見天皇(在位:一二九八年~一三〇一年)までの歴史を漢文編年体で記した記録。全二十七巻。撰者は鎌倉末の僧永祐と伝えられるものの、確証はない。インド・中国の史実も広範囲に採録しており、本書の特徴の一つをなす。また、本書のみに述べられている事柄もかなりの数にのぼるが、こうした記事については十分な史料批判が必要とされる(平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「後深草院建長五年」一二五三年。天皇は後深草天皇。鎌倉幕府執権は北条時頼。

「諸社一覽」京の国学者坂内直頼(さかうち(ばんない)なおより 正保元(しょうほ)元(一六四四)年頃~正徳元(一七一一)年頃)著になる、諸国の神社の縁起などを問答形式で列挙した「本朝諸社一覧」(貞享二 (一六八五) 年刊)。

「彥火々出見尊」(ひこほほでみのみこと)は瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)と木花開耶姫(このはなさくやひめ)の子で、初代天皇神武天皇の祖父。

「與宇佐八幡不ㇾ同【神書抄。】」「宇佐八幡とは同じからず」。「神書抄」不詳。「神書口决抄」 (しんしょくけつしょう)のことかと思い、「新日本古典籍総合データベース」で写本の「八幡御傳」を見たが、違う。

「豐玉姬」(とよたまひめ)は海神(わたつみ)の娘で、神武天皇の父方の祖母にして、母方の伯母。

「安齋隨筆武藏鐙卷」江戸中期の故実家伊勢貞丈(さだたけ 享保二(一七一七)年~天明四(一七八四)年)著になる、公家・武家の有職故実や、事物起源、字訓の正誤などを広く随録したもの。安斎は彼の号。「新日本古典籍総合データベース」で写本を調べたが、動作が悪く、上手く見つからないので諦めた。

「八幡の本地阿彌陀也とて、八幡大菩薩と號する」ウィキの「八幡神」の「神仏習合」によれば、『東大寺の大仏を建造中の天平勝宝元年』(七四九年)、『宇佐八幡の禰宜尼、大神朝臣杜女(おおがのあそんもりめ)らが、上京して八幡神が大仏建造に協力しようと託宣したと伝えたと記録にあり、早くから仏教と習合していたことがわかる』。『天応元年』(七八一年)『朝廷は宇佐八幡に鎮護国家・仏教守護の神として八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)の神号を贈った。これにより、全国の寺の鎮守神として八幡神が勧請されるようになり、八幡神が全国に広まることとなった。後に、本地垂迹においては阿弥陀如来が八幡神の本地仏とされた』。『一方、日蓮は阿弥陀如来説を否定し』、『八幡大菩薩の本地を釈迦牟尼仏としている』。『平安時代以降、清和源氏、桓武平氏等の武士の尊崇をあつめて全国に八幡神社が勧請されたが、本地垂迹思想が広まると、僧形で表されるようになり、これを「僧形八幡神(そうぎょうはちまんしん)」という』とあった。

「神と佛と入交り紛らはしきゆゑ、本地を除去、正眞の八幡大神宮と云意なるべし。觀音は三十三身に變化すると云に依て、變化せざる時の正體を、正觀音と號するに同じといへり」この見解、結構、指示したい気がする。

 以下、最後まで底本では全体が一字下げ。]

御狀に御申こしの八幡宮本紀もよみもしつ。且藏弆なしたりけるを、再びよく見候へど、正八幡宮と申名は、右に引用のことゝ見ゆれど、正の字のよしなど曾てあらず。且その外の御說共も、予が管見には、未だ何の書にも見あたり侍らず。

 文政乙酉五月十九日    山崎美成識

[やぶちゃん注:「藏弆」本シリーズではしばしば出る熟語だが、一般的ではないので、たまには注しておくと、「弃」は「棄てる」の意で、ここは「整理もせずに放置しておいた蔵書」或いはそうした様態を指す語である。]

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