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2022/07/10

「南方隨筆」底本正規表現版「紀州俗傳」パート 「八」

 

[やぶちゃん注:全十五章から成る(総てが『鄕土硏究』初出の寄せ集め。各末尾書誌参照)。各章毎に電子化注する。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(冒頭はここ)で視認して用いた。また、所持する平凡社「選集」を参考に一部の誤字を訂した。表記のおかしな箇所も勝手に訂した。それらは一々断らないので、底本と比較対照して読まれたい。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 本篇の各章は短いので、原則、底本原文そのままに示し、後注で(但し、章内の「○」を頭にした条毎に(附説がある場合はその後に)、読みと注を附した。そのため、本篇は必要性を認めないので、PDF版を成形しないこととした。]

 

       八、

 〇田邊の人戲れに小兒をこそぐる時「一石二石三石しりしり」と言ふ、先づ「一石二石三石」と徐々遠き處よりこそぐり行き「しりしり」と急に言て喉又脇の下を襲ふ。又古老の傳に「紺屋の鼠藍食て糊食て隅こへクチユクチユクチユ」。是もクチユクチユクチユと云時急に彼所をこそぐるのだ。

[やぶちゃん注:「石」「選集」に『こく』とルビする。米の単位だが、「こそぐる」の「こ」に掛けたか。或いはくすぐられて「倒れる」ことから、その意味の「こくる」(こける)を掛けたか。

「徐々」「選集」はひらがなで『そろそろ』とする。

「言て」「選集」は『言うて』。

「傳に」同前で『伝えに』。

「紺屋」「こうや」と読んでおく。

「食て」「選集」で『食(く)て』とルビする。「くふて」ではない

「隅こ」同前で『隅(すま)こ』とルビする。「すみつこ」ではない

「彼處」同前で『彼所(かしこ)』と表記してルビする。]

 〇西牟婁郡富里村大字大内川等で、野猪を威す法、良き竹筒の一端を削り尖し底有る他端に繩を卷き中央を繩で括り、小流れ落る下に竹の尖つた端の内側を上に向つて置き、中央括つた繩を橫に流し兩側の有合ふ者に結着け繩卷た端の下にブリキ鍋等を置く。然る時は、水其筒に滿る時筒の尖端落下る水に打れ下る故筒中の水出終り筒空に成り、他の端に卷た繩の重量で其方が跳下る時下の鍋を打つ、其音終夜止ぬので野猪怪しんで近處へ來ぬ。予幼時有田郡津木村の者戲れに庚枝(いたどり)の莖で此通りの機を作り遊び居るを見た。

[やぶちゃん注:以上は所謂、「鹿威し」の実用版の解説であるが、何故か異様なほど読み難いし、「庚枝(いたどり)」の漢字表記も不審である。そこで、特異的に、まず、「選集」を参考に正字で、句読点や読みもそちらのそれを参考に、さらに勝手に私が推定で句読点・歴史的仮名遣で振り、段落を成形し(冒頭の「○」は除去した)、全部を完全に書き直してみる。太字下線のは底本本文にない有意な異なる文字であることを示す。

   *

 西牟婁郡富里(とみさと)村大字(おほあざ)大内川(おおうちがは)等で、野猪(ゐのしし)[やぶちゃん注:「選集」のルビを参考にした。]を威(おど)す法。

 良き竹筒(たけづつ)の一端(いつたん)を削り尖(とが)らし、底有る他端(たたん)に繩を卷き、中央を繩で括(くく)り、小流れ、落つる下に、竹の尖つた端(はし)の内側を、上に向けて置き、中央、括つた繩を、橫に流し、兩側の有り合ふ者に、結(ゆ)ひ着け、繩、卷いた、端(はし)の下に、ブリキ鍋等を置く。

 然(しか)る時は、水、其の筒に滿つる時、筒の尖端、落ち下(くだ)る水に打たれ、下がる故(ゆゑ)、筒中(つつなか)の水、出終(いでをは)り、筒、空(くう)[やぶちゃん注:「選集」のルビ。]に成り、他の端に卷いた繩の重量で、其の方が跳(は)ね下がる時、下の鍋を打つ。

 其の音、終夜、止まぬので、野猪(ゐのしし)、怪しんで、近處(きんじよ)へ來(こ)ぬ。

 予、幼時、有田郡津木(つぎ)村の者、戲れに虎杖(いたどり)[やぶちゃん注:漢字表記は「選集」のもの。]の莖で、此の通りの機(からくり)[やぶちゃん注:「選集」のルビ。]を作り、遊び居(を)るを見た。

   *

「富里村大字大内川」「ひなたGPS」の戦前の地図でここ、現在の中辺路町大内川はここ

「有田郡津木村」「Geoshapeリポジトリ」の「歴史的行政区域データセットβ版」にある「和歌山県有田郡津木村」で旧村域が確認出来る。現在の有田郡広川町(グーグル・マップ・データ航空写真)の東半分、広川の上流の山間部に相当する。

「庚枝(いたどり)」ナデシコ目タデ科ソバカズラ属イタドリ Fallopia japonicaだが、この漢字表記は見たことがない。「庚」と「虎」、「枝」と「杖」、見るからに、印刷所のトンデモ誤植ではなかろうか? 中文も調べたが、こんな漢字は書かない。因みに、イタドリは「スカンポ・スッカンポ」の異名がある。新芽の皮を剝いて食べ、酸っぱい味を楽しむ。私は幼時から、同じ別名を持つ、ナデシコ目タデ科スイバ属スイバ Rumex acetosa を専ら「スッカンポ」と呼び親しみ、よく齧ったものである。但し、孰れも有毒なシュウ酸由来の酸っぱさであるから、多量に摂取すると、中毒するので要注意。]

 〇西牟婁郡中芳養村の傳說に、柚實を全で味噌に漬置ば盜人入り來るを必ず知て「ゆうぞ」(言ぞ)と罵る、故に家ごとに用意すべき物と。又田邊一般に柚の鍼で腫物を刺し膿を去ば毒殘らぬと傳ふ。

[やぶちゃん注:人に組みする良い「味噌漬け柚妖怪」!

「中芳養」(なかはや)「村」旧村はここ(「ひなたGPS」)。現在は田辺市中芳養(グーグル・マップ・データ)。

「柚實」「選集」は『ゆのみ』と振る。柚(ゆず)の実。ムクロジ目ミカン科ミカン亜科ミカン連ミカン亜連 Citrinaeミカン属ユズ Citrus junos の果実。当該ウィキによれば、原産地は中国(揚子江上流)及び西域とされるが、中国から日本へは平安初期には既に伝わっていたとみられ、史書には、飛鳥時代・奈良時代に栽培していたという記載もある、とある。本邦では『古くから「柚」、「由」、「柚仔」といった表記や、「いず」、「ゆのす」といった呼び方があった』。源順(したごう)の「和名類聚鈔」(承平二(九三二)年頃)には巻十七の「菓蓏(くわら)部第二十六」(木の実・草の実類)の「菓類第二百二十一」にあり(ここは国立国会図書館デジタルコレクションの寛文七 (一六六七)年版の当該部を用い、独自に電子化した)、

   *

柚 「爾雅集注(しつちゆう)」に云はく、『柚【音「由(イウ)」。又、「以」・「臰」の反。】一名「樤」【音「條(デウ)」・和名「由(ゆ)」。】、橙(だいだい)に似て、酢(す)し。江南より出づ。「音義」に「柚」或いは「櫾(ユウ)」に作る。「山海經(せんがいきやう)」に、字、相ひ通(かよ)ふ。

   *

とある。『別名を、ユノス』『ともいう。酸っぱいことから、日本で「柚酸(ユズ)」と書かれ、「柚ノ酸」』(「ゆのす」)『の別名が生まれている』。さてそこで学名を今一度、見られたい。中国原産だが、その種小名『ジューノス(junos)は』まさしく『四国・九州地方で使われ』ている『「ゆのす」に由来する』のである。『中国植物名(漢名)は香橙(こうとう)という』。「柚子」の漢名自体は『中国での古い名だが、今の中国語で』は「柚」・「柚子」はザボン(朱欒。ブンタン(文旦)とも呼ぶ。ミカン属ザボン Citrus maxima)を指す言葉である、とある。

「全で」「選集」に『全(まる)で』と振る。

「漬置ば」「つけおけば」。

「入り來る」「いりきたる」。

「知て」「しりて」。

『「ゆうぞ」(言ぞ)』「柚」の音の歴史的仮名遣「イウ」(現代仮名遣「ユウ」)の洒落になっているのが面白い。

「罵る」「ののしる」。

「田邊一般に」「選集」では『田辺辺一般に』となっている。

「鍼」「選集」に『はり』とルビする。ユズの木の鋭い棘(とげ)のこと。

「腫物」「はれもの」。

「去ば」「さらば」。この最後の話、遠い昔、誰かかから、聴いた覚えが確かにある。亡き母か。]

 〇田邊で葬式行列に加り行く者過つて顚ると死人と共に葬らると言て甚だ凶とす。又嫁入道具を他家の葬式と共に遣るを大吉とす、行て還らぬと云ふ意だらう。去年十二月二十一日予の知人の子の葬式行列の中を突貫して以前田邊町長だつた人の娘の道具を運び笑ひ乍ら人足等往た。誠に人情外れた仕方と惟ふ。

[やぶちゃん注:「加り」「くははり」。

「過つて」「あやまつて」。

「顚る」「ひつくりかへる」。

「言て」「いふて」。「選集」は『言って』。

「行て還らぬ」「ゆきてかへらぬ」。

「人足等往た」「にんそくら、いつた」。

「誠に人情外れた仕方と惟」(おも)「ふ」確かに。甚だ不快極まりない!]

 〇小兒蠶豆の葉を息で膨し戯れとす。葉無き時小兒を欺く迚豆の葉遣ろかと言ひ欲いと答へると順次眉目喉齒を指し其所々の頭字に因んで「まめのは」と唱ふ。和歌山田邊其他でする戯だ。又田邊で小兒に敎る戯れに先づ眼二つ次第に指し「めつけん(妙見)樣へ參つて」次に鼻孔二つ次第に指し「花一つ取て」兩頰と兩耳を指して「方々へ聞へて[やぶちゃん注:「へ」はママ。]」胸と口を指し「無念に口惜し」腹と尻を指して「腹切つて尻の穴」(死んでしまうの義)。

[やぶちゃん注:「小兒」「こども」。

「蠶豆」「そらまめ」。

「膨し」「ふくらし」。

「欺く迚」「あざむくとて」。

「欲い」「ほしい」。

「敎る」「をしふる」。

「めつけん(妙見)樣」「樣」には「選集」では『さん』と振る。

「腹切つて尻の穴」「選集」では「尻」に『しん』とルビする。このルビは、ないと伝承として、頗る、まずい。]

 〇田邊近い神子濱の老人花咲叟の異態らしきを譚す、言く、昔し老翁疲れて石に腰掛て息む、猿共之を地藏の像と想ひ柹一つ宛持來り捧げたので夥く柿を得て歸る。隣りの欲深翁吾も然せんとて往て石上に腰掛る、群猿來て地藏樣尊ければ山に祀るべしとて運んで川を渡る間、「私等陰囊沾ても構はぬけれど、地藏樣の陰囊沾さぬ樣に」と繰し唱ふ、老翁可笑に堪ず笑出すと、猿共此像笑ふた笑はぬと言爭ひ、又試に唱ふると又笑ふ、依て地藏像でないと了り大に其詐を憤り山に運び行き全身を搔傷け老翁大に困んだ。

[やぶちゃん注:「選集」はかなり表記が違う。

「神子濱」何度も既出既注だが、時には再掲しよう。田辺市神子浜(みこはま:グーグル・マップ・データ)。

「花咲叟」「選集」を参考にすると、『はなさかぢぢ』。

「譚す」「はなす」。

「老翁」「選集」を参考にすると、『おやぢ』。

「腰掛て息む」「こしかけてやすむ」。

「猿」「選集」では本条は以下総てが「猴」(さる)の表字である。

「共」「ども」。

「柹」「柿」の正字。

「宛」「づつ」。

「夥く」「おびただしく」。「選集」ではひらがな。

「柿」混用はママ。

「欲深翁」「選集」を参考にすると、「よくぶかぢぢ」。

「然せん」「しかせん」。

「往て」「ゆきて」。

「石上」「いしのうへ」と訓じておく。

「私等」「選集」は『私(わし)ら』とする。

「陰囊」「ふぐり」と読んでおく。

「沾ても」「ぬれても」。

「繰し」「くりかへし」。「選集」は『繰り返し』。

「老翁」先に徴して「おやぢ」と読んでおく。

「可笑に堪ず」「選集」を参考にすると、『をかしさに堪へず』。

「笑出す」「わらひだす」。

「言爭ひ」「いひあらそひ」。

「試に」「選集」に倣うなら、「こころみに」。

「依て」「よつて」。

「了り」「選集」はひらがなで『さとり』。

「大に」「おほいに」。

「其詐」「そのいつはり」。

「搔傷け」「かききづつけ」。

「困んだ」「くるしんだ」。]

 〇又神子濱で强く風吹く時小兒等「山の天狗樣些些風お吳れ」「山の天狗樣些些風要ぬ」と唱へて走り廻る。其故を問ふと不知といふ。

[やぶちゃん注:「些些」「選集」によれば、「ちとちと」。

「要ぬ」「いらぬ」。

「其故を問ふと不知」(しらず)「といふ」前者の言上げは不審だから、熊楠はその呪文の意味を子供らに問うたのだ。しかし、「知らん」とそっけなかったのだ。実景が見えてくる、いい叙述だ。]

 ○西牟婁郡二川村大字兵生に木地屋の段と云所有り、十四五年前木地屋五六家來り此所を開き棲り、其後去て無し。阿波より出しと云特種の民で山を家とし山で生れ山で果る。言語他と異なり、木地とは灰の木、榊、水木抔割れ易き木で盆椀等に作る、又特に木地と云は

Kijisinoutuwa

[やぶちゃん注:本文中のここに図が挟まっている(「四〇一」ページの後ろから四行目下方)。底本の画像をトリミング補正した。高坏(たかつき)のような形の器である。]

此圖の如き器に餅抔を盛て神に供ふる物だ、此族神の器を作る故威高く常人木地屋と交れば威に負る迚結婚せず、其婦女美人多し、食物常人と異なり、飯を練り幣の形にし串に貫き兩面に味噌を塗り燒き御幣餅と稱へ食ふ、香味異にして旨し、此族に他人が貸た物は取れず倒し切り也。兵生を去て下川へ行り、昔は此族來れば所の者苦情言ふ事成ず、其邊の木地木を勝手に伐り木地に作りし、今は其樣事も成ず、林木を買て切り働く、此族の女常人の妻と成りたるも現に在りと兵生の西面欽一郞氏話さる。   (大正三年六月鄕硏第二卷第四號)

[やぶちゃん注:「西牟婁郡二川」(ふたかは)「村大字兵生」(ひやうぜい)何度も出ているが、再掲すると、現在の田辺市中辺路町兵生(グーグル・マップ・データ)。幾つかのネット記載は黄読みを「ひょうぜ」とするが、正しくはやはり「ひょうぜい」である。「ひなたGPS」のこちらの戦前地図も参照されたい。

「木地屋の段と云所」確認出来ない。

「十四五年前」初出年から計算すると、明治三三(一九〇〇)年か前年。

「木地屋」平凡社「百科事典マイペディア」から引く(コンマは読点に代えた)。『山中の木を切り、漆その他の塗料を加飾しない木地のままの器類を作ることを生業とした職人。木地師・木地挽』(きじひき・きじびき)『ともよばれ、ろくろを用いることから轆轤師ともいう。近江国小椋谷(おぐらだに)の蛭谷(ひるたに)・君ヶ畑(きみがはた)』(ここ。北部分が後者。グーグル・マップ・データ。以下同じ)『を本貫地とし、惟喬親王を祖神とするという伝説をもつ』(同地に「惟喬親王御陵」や、その東に同廟もある)。『良材を求めて諸国の山から山へと漂泊を続け、江戸時代にも蛭谷の筒井公文所(筒井八幡宮)』(ここ)、『君ヶ畑の金竜(きんりゅう)寺高松御所(大皇(おおきみ)大明神)』(現在の正式名称は「大皇器地祖神社(おおきみきぢそじんじゃ)」)『が発行する偽作綸旨(りんじ)の写しや武家棟梁の免状の写しを権威とし、伐採や通行の自由を主張した。しかし』、次第に『山間に土着して村生活を営むようになり、明治維新後、伝統的な木地屋社会は消滅していった。筒井公文所・高松御所は全国に散在する木地屋を』、『おのおの』、『筒井八幡宮・大皇大明神の氏子として組織し』、『綸旨や免状を発行する代りに氏子狩(氏子駆)と称して』、『なにがしかの奉加料・初穂料そのほかの儀式料を集めて各地を回った。これを記載したものを』「氏子狩帳」・「氏子駆帳」『といい、筒井八幡宮に正保(しょうほう)』四(一六四七)年から明治二六(一八九三)年に至る三十五冊、金竜寺に元禄七(一六九四)年『から明治にかけての』五十三『冊が伝わる』とある。因みに、作家澁澤龍彥の遺稿メモで、彼は、この木地師をテーマに作品を書こうとしていたことが知られる。面白い作品になったろうに、実に残念である。なお、近代まで被差別民とされてきた「サンカ」と彼らは別個な存在なので、注意されたい。

「此所」「ここ」。

「棲り」「すめり」。

「去て」「さりて」。

「阿波より出し」熊楠の勘違いであろう。或いは、そのように兵生では誤って伝わっていたものか。

「灰の木」カキノキ目ハイノキ科ハイノキ属クロバイ Symplocos prunifolia の異名。「黒い灰の木」の意で、黒は樹皮の色を指し、本種の枝葉を焼いて灰を取り灰汁(あく)を作ったことに由来する。同属ハイノキ Symplocos myrtacea もあるが、牧野富太郎は灰汁を採るクロバイをこそ「ハイノキ」と呼ぶべきであると主張している。

「榊」ツツジ目モッコク科サカキ属サカキCleyera japonica

「水木」ミズキ目ミズキ科ミズキ属ミズキ Cornus controversa var. controversa

「婦女」「選集」に拠ると読みは「をんな」。

「貸た」「かした」。

「倒し切り」借り倒して返さないこと。

「下川」(しもかは)

「行り」「ゆけり」。

「成ず」「ならず」。

「西面欽一郞氏」(にしおきんいちろう 明治七(一八七四)年~昭和三(一九二八)年)は所持する「南方熊楠を知る事典」(一九九四年講談社刊)によれば、兵生の『富豪』で、熊楠を招かれて、『四十日余り厄介にな』ったとあり、また、「南方熊楠顕彰会のスタッフブログ」の二〇一四年二月八日の記事「本日より開催!! 西面欽一郎・賢輔兄弟展」によれば、『二川村兵生(現田辺市中辺路町)の製材所を南方が植物採集のため訪れてから』(明治四三(一九一〇)年十一月か~十二月頃)『親交が深まり』、欽一郞の『弟の賢輔』ともに、『植物・民俗資料の採集、神社合祀反対運動及び復社運動(上山路村丹生ノ川の丹生神社、龍神村三ツ又の星神社)』(ここが星神社(グーグル・マップ・データ)。そこから南西三キロ弱離れた丹生ノ川(にゅうのがわ)川畔に「丹生神社」が確認出来る)『を通じて南方と文通した』。『欽一郎は、大正年間』には『上山路村長を』十三『年間務め』たとあり、兄弟ともに『日高郡上山路村大字丹生ノ川(現田辺市龍神村)に生まれ』であるとある。]

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