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2022/07/18

「南方隨筆」底本正規表現版 「鄕土硏究」の記者に與ふる書

 

[やぶちゃん注:底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(ここから)で視認して用いた。また、所持する平凡社「選集」(本篇は柳田國男宛書簡であり、それを同「全集」では「別巻」として「柳田国男 南方熊楠 往復書簡」として独立編集している。所持するものは一九八五年初版で、その大正三(一九一四)年一月から同年十一月までの往復書簡を収めるパート標題「出会いの後――編集方針の対立」三七二ページから載る)を参考に一部の誤字を訂した。表記のおかしな箇所も勝手に訂した。それらは一々断らないので、底本と比較対照して読まれたい。また、やや長い段落は、「選集」に従って改行した。

 しかしここで断っておくと、実は「南方熊楠全集」も同「選集」も、孰れも書簡部ではなく、雑誌論考部に収録されている。これは、以下は書簡であり乍ら、『郷土研究』誌上に南方の承諾を受けた上で『「鄕土硏究」の記者に與ふる書』という表記標題で公開された(三分割。同誌第二巻第五号・第六号・第七号(大正三年七・八・九月発行))、書簡と異なり、謂わば、公にされた南方熊楠の『郷土研究』の編集方針に対する投稿者としての疑義をぶち上げた批判論考だからである。

 但し、本書簡は、その第一番目の五月十四日午前三時をクレジットとする柳田國男宛私信であるが、他に、実は立て続けに、十五日(書簡には『十四日夜一時』とある)午前一時、さらに、十六日と長文に書簡を熊楠は投函している。而して、柳田との応酬ががあって、それが何んとか納まるのが、五月二十二日の柳田の南方宛書簡であった。柳田國男に対する民俗学手法に対する具体な、しかも深刻な見解対立(最後は一種の絶交に到った)の決定的な始まりであったと言ってよい(プレの南方の柳田への、そうした批判は既に明治四四(一九一一)年十月に始まっている)。

 さて。ついでだから、柳田が以下の本篇連載の最後の号の末尾に載せた「南方氏の書簡について」が、平凡社のその「南方熊楠選集 別巻」に収録されているので、それも、この次に電子化しようと考えている。

 なお、私は、因みに、柳田國男と折口信夫によって起動された本邦の民俗学には、ある種の強い疑惑を持っている。それは、かなり早い時期に、――柳田と折口の間には、性的な問題に関わる民俗慣習には、なるべく言及しないようにしようというような密約が出来ていたのではないか?――という疑いである。これは大学時代、クラスメートの友人の演習発表の中で語られていたのを記憶する。聴いている教授は制止しなかったが、にやりと笑って頭を傾げた。しかし、その表情に、ある曇りがあるのを私は見逃さなかった。おそらく、事実そうした不文律があったのではないか? という気持ちが、その瞬間、私の中に根づいたことを告白しておく。因みに、熊楠先生は、言わんいいところで、わざわざニヤリと鮮やかに笑って下ネタを仰せられる。だから、私は大学時代以来、南方熊楠のファンなのである。

 なお、今まで通り、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第三巻「雑誌論考Ⅰ」(一九七一年刊)で新字新仮名)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 本篇は、原則、底本原文そのままに示し、各段落の後注で読みと注を附した。そのため、本篇は必要性を認めないので、PDF版を成形しないこととした。]

 

    「鄕土硏究」の記者に與ふる書

 

 五月十二日の芳翰拜讀。「鄕土硏究」は地方經濟學の雜誌なることは、創立の際貴下より承りたること有之。然るにこの地方經濟學の分限、小生には分らず。地方成立の硏究と言はば之に伴ひて必ず地方政治學硏究の必要あり。かの神社合祀の利害又地方に萬づ利益事業を計畫する利害の如きは、尤も此雜誌にて論ずべきもの也。たゞ椎茸を多く出すとか、柿を五百本植ゑたりとかにては、雲煙過眼閑人の思の儘の日記同前紙潰れなり。必ず之に今後の利害論を指示せざるべからず。而して經濟と云ひ政治と云ひ、地圖と統計とを伴はずしては、地方々々の事精確に知れず。地圖のことは姑く措き、日本の地方統計といふもの、思ひ思ひ地方小吏が勝手に數を見計ひ、帳面と報告を合すものなることは御存じの通り。

[やぶちゃん注:「有之」「これあり。」。

「神社合祀」『「南方隨筆」底本正規表現版「紀州俗傳」パート 「十一」』の「小野崎」の注を参照。

「雲煙過眼」雲や霞が、一旦、目の前を過ぎてしまえば、長く心に留まらないように、物事を、あまり、心に留めないことを言う。

「閑人」「ひまじん」と訓じておく。

「紙潰れ」「絵に描いた餅」と同義。もっともらしかったりするが、実際には何の役にも立たないものや、実現しない下劣な目論みの喩え。

「姑く措き」「しばらくおき」。

「見計ひ」「みはからひ」。

「合す」「あはす」。

 以下の段落は底本では全体は一字下げで補足の体(てい)を成している。「選集」ではそれは行われてはいない。]

 たとえば、當町(紀州田邊)の鬪鷄社に樟樹二本しかなきに、役所の帳面は二十五本、これは全くのうそにも非ざるべく、卽ち從來植付たのが前後二十五本あり、樟樹などは栽えたら一寸失せるものに非ざれば、二十五本ありと書付けたる也。然るに、近來神林で物を盜むは常の事にて、何の取締も行屆かず、神社で盜伐した木や柴をかつぎ、每日神社の前を通り過ぎるを咎めぬほどなれば、二十五本あるべきものが、全く失せて二本しか無き也。また蠶業の報告如きは丸でうそにて、蠶業は年により興廢夥しきものなれど、全く蠶業絕えたりと報告すると縣廳のうけ宜しからぬ故、蠶業無しと報告する村一つも無し。實際は蠶も見たことなき村でも、多少の蠶業ある如く書上る也。又地方の報知虛報多く粗陋多きは、實際朝來沼(あつそぬま)の耕地は二十四町ばかりなるに、縣廳では四十三町、東京の官廳では百四十三町となり居るにて知れる。當地の江川浦は縣下第一の大漁村なり。それすら年來縣廳へ書上げし通りの損益にては漁夫らたゞ働き、又年々食い込む外無し。斯くては此漁村今までつゞく筈無し。丸で勘定合はぬなり。然るにどうやらかうやら漁村續くのみならず、救濟會とか何とか小言いひ乍ら金を出し積み立て居る。實は縣廳へ年々の漁獲高十三萬圓と書くとすると、其實際は十七、八萬圓の漁獲ある也。色々の費用課稅夥しき故、加減して少なく書くなり。之に氣付かず、又氣を付くべきと言ふことすら氣付かず、斯くては年々損失ばかりで其漁村は全滅する筈と云ふことにも氣付かず。語を換へて言はゞ、漁利の外に何か内職あるべしと云ふ見解なり。かゝる除外例多き統計は、學問上あつても無くても何の益無き紙潰れの統計なり。

[やぶちゃん注:「鬪鷄社」既出既注なので、当該ウィキと、グーグル・マップ・データ(以下指示なきものは同じ。地図では旧南方熊楠邸・南方熊楠顕彰館を左中央に配した)をリンクさせるに留める。因みに再掲すると、南方熊楠は数え四十歳の明治三九(一九〇六)年七月、親友喜多福武三郎の紹介により、この闘鶏神社の宮司であった田村宗造(そうぞう:元紀州藩士で漢学者)の四女松枝さん(彼女は当時二十八歳)と結婚した。

「樟樹」「くすのき」。クスノキ目クスノキ科ニッケイ属クスノキ Cinnamomum camphora 当該ウィキによれば、『古くから寺や神社の境内にもよく植えられており』、『特に神社林ではしばしば』『巨木』『が見られ、ご神木として人々の信仰の対象とされるものもある』。『材から樟脳が採れる香木として知られ、飛鳥時代には仏像の材に使われた』とある。

「書上る」「かきあぐる」。

「朝來沼(あつそぬま)」」西牟婁郡上富田町(かみとんだちょう)朝来(あっそ)にあった沼。完全に干拓されてしまったらしく、現在の地図では痕跡が全くないが、古い記載と地形から考えるに、戦前の「ひなたGPS」の地図のこの中央附近にあったものと私は推定している。

「江川浦」会津川河口の右岸の漁師町である田辺市江川(えがわちょう)。江川漁港の港湾化で著しく原形と異なるので、同じく「ひなたGPS」の当該地も示しておく。

「小言」「こごと」。]

 地方經濟學は、地方に道が出來た、犬に車を牽かす所と牽かさぬ所あり、昔紙を作つたが今は布を作る。賣淫女が片手に魚を乾す等のことを序列した計りでは、日本中の一村一小字何れも日々生業無き所なければ、人別に骨相を記する如く、事煩しくして何の益無し。もし之を學說らしきものとせんとならば、利害の因る所を攻究せざるべからず。產業の變改、地境の分劃、市村の設置、水利道路の改全、衞生事業又殊には地方有利の天然物を論ぜざるべからず。然るに小生氣が付かぬ故か、地方經濟云々を主眼とする「鄕土硏究」に、從來何たる地方經濟らしき論文の出しを見ず。たゞ俳人の紀行にして俳句を拔去りたるが如きもの二三を見しのみ。

[やぶちゃん注:「犬に車を牽かす所と牽かさぬ所あり」ちょっと吃驚する記載である。

「人別」「にんべつ」。江戸時代の人別帳。]

 是は無理なことに非ず。地方經濟地方法制と云ふこと、材料繁冗にして何の興味無きによる。之に加ふるに吾邦の官廳上下虛僞を事とし、肝心骨髓たるべき統計が右の如く全く間に合わせ、公儀を繕ふ爲ばかりのものたるに因る。何の學問でも數字を離れては學問にならず。殊に地方經濟如きは然り。然るに此數字上信賴すべき材料が一つも無き也。又一つには地方經濟のこと、吾邦では何たる興味を感ぜぬほど材料が薄弱且つ乏しき也。御承知の通り礦物は岩石の(?)基にて、地球を成すものは岩石地層それがみな礦物より成らざるは無く、又一方には動植物人間迄ももとは無機體卽ち礦物元素より成り居る。生物何れも礦物より進化せし者たるは疑を容れず。然るに此礦物の學と云ふもの、專門家はあり乍ら何れの國に往きても礦物學會も無ければ礦物學專門の出版物も永く續かず。英國などには絕無なり。是は礦物を多く集めて一々觀察すれば相應に面白いものながら、堅度とか電力とか實物に就ての外、書物で見たり書いたりしては一向それ相應の感念を生ぜず。言はば面白味無き故のことと存じ候。地方經濟の學の如きも先づはこんな事にて、實際地方經濟に身を處する人にはそれ相應の興味もあり、又利害は頗る嚴しく感觸せらるゝものながら、其事項一々煩瑣にして規則立ちては筆に序述し盡し難き上、一地方一地方に限ることは他地方の人が讀んで何とも思わぬ故と存じ候。故に地方經濟の端緖としては、地方制度位から論を始められ度事なり。然るに此迄「鄕土硏究」を見るに、地方制度に關する論文又甚だ少なく、小生などは何かあつた位の記臆に止まり何が論ぜられありしやを記臆せず。

[やぶちゃん注:「堅度」「けんど」。「硬度」。

「始められ度事なり」「はじめられたきことなり」。

 以下の一段落は底本では全体が一字下げで、附記である。「選集」はその仕儀がない。]

 地方制度にも亦記錄を楯としては一向見出し得ぬ大要件多し。當地方の漁人が海上に魚(たとえば鰹)を見出した時、一番船二番船など云ひて、鰹を釣るに船の順序と制限あり。又勝浦邊では入港の際一つの株に二つ以上の船の繩を結付るに、一番二番三番を爭ふ。其事甚だ六つかしく、古老をわざわざ招き來り即決に裁判させしを小生親ら見しことあり。筏流しが木を出す舊慣其他、かゝること六かしき古傳多し。全く記錄には少しも無く老人に聞置くの外なし。其老人何れも正しき先例を知悉せるに非ざれば、老人同士異說も多くあり。日本紀に一書曰、戰國策や史記にどちらが正しくどちらが勝つたか分らぬやうに、魏の國の條と秦の國の條に記事の全反對異同ある如く、此等は雙方とも一說とし控へ置くの外無し。乃ち雙方とも個々に正しと見たる說なり。

[やぶちゃん注:「親ら」「みづから」。

「日本紀に一書曰」「とある如く」で、本邦の神話や古史書に異説が多いことを指示する謂い。

「乃ち」「すなはち」。]

 凡て古代の事や田舍の事は一說を正一說を否とすべきに非ず。同じ神にて一地方の傳に長生なりと云ひ、他地方では蛇に殺されたと云ふ類多し。此は同名の異神一は長生し一は殺されたか又一神長生し一神殺されしを、後世同名と知りて同神と見たりする外無し。又他の神の傳を訛り傳へたるもあるべし。さればとて其傳全く虛僞と云ふべからず。乃ち其の神長生したる外に他の神が蛇に殺されたる也。

 去年當地近傍鮎川村にて、夜這禁制のため壯丁夜出に必ず提燈を點し行かしむる法を設け、色色と六つかしき制規を定めたり。まことに都會の人が聞かば笑ふべきの甚だしき也。併し、そは笑ふ者の過にて、實は今日も地方に夜這と云ふ事の一夜も行はれぬ所無く、之を鄕土存立の大要件として村方に行はれ居るなり。夜這と云へばとて、彌次郞兵衞北八の徒の行ひし如き事に非ず。昔の物語に貴紳が歷々の娘に忍び通ひし如く、中古歐州の記に多き serenade(妻戀ひ歌樂)又米國創立の頃の bundling(衣裳解かずに村の男女共臥すこと、衣裳解かぬに子の作甚だ豐年とはをかしと云ふやうな妙文ワシントン、アービングの作にあり)、又言はゞ今日歐州の男女年頃になれば必ず相伴ひ遊ぶ如きことにて、田舍は田舍だけに其事やゝ露骨なるのみなり。娘をば甚だしく附けあるき一度嫁すれば一向知らぬ風する村あり。又娘をば頗る忌み、已嫁の婦のみ覘ふ風の處あり。(眞臘風土記に眞臘人は妻を人が附けまはるほど夫之を自慢すとあり。チヽスベオとて伊太利などに人の妻のみ專門の男多く、以前は夫が自分の妻他人と遊びあるくを一向構はぬを自慢の美風とせり。今日佛國邊の gallantry 全く之に同じ。)

[やぶちゃん注:「點し」「ともし」。

「過」「あやまち」。

bundling」バンドリング。原義は「複数の対象を真ん中で括って束にしたもの」を指すが、「重ね着」などの用法もある。但し、ここに書かれたアメリカの性習俗は調べ得なかった。

「ワシントン、アービング」アメリカの作家ワシントン・アーヴィング(Washington Irving 一七八三年~一八五九年)。小学館「日本大百科全書」より引く。『富裕な商人の子としてニューヨーク市に生まれた。病弱のため正規の教育を受けず、独学で弁護士の資格をとった。その間、文学に興味をもち』、『文筆活動に入』った。一八〇四年、『ヨーロッパを訪れ』、二『年余り滞在』、『帰国後、兄とともに、イギリスの『スペクテーター』誌を模した『サルマガンディ』誌を刊行したり、ニッカーボッカーの筆名で風刺とユーモアを交えた「ニューヨーク史」(一八〇九年)を『出版したりして、文名を得た。その後、婚約者の死が原因で、しばらく不振な生活を送った』が、一八一五『年、兄の事業を助けるために渡英し』、十七『年間、海外に滞在』したが、『彼の歴史に対する関心、懐古趣味もこの時代に形成された。渡英後』三『年にして兄の事業が破産し、文筆に頼らざるをえなくなり』三十四『編の物語、随筆を収録した』「スケッチ・ブック」(一八二〇年)を『ジェフリー・クレヨンの筆名で出版して、アメリカ最初の国際的作家としての名声を確立した』。『続いて』、「ブレースブリッジ・ホール』(一八二二年)・「一旅行者の物語集」(一八二四年)を発表し、一八二六年から三年間は、『スペインのアメリカ公使館に勤務しながら』、「コロンブス伝」・「グラナダ征服」・「アルハンブラ物語」を出版している。一八三二年に『帰国後、西部開拓にまつわる』「大草原の旅」(一八三二年)や、「アストリア」(一八三六年)、及び、『かねてから私淑していた』イギリスの詩人で作家のオリバー・ゴールドスミス(Oliver Goldsmith  一七三〇年?~一七七四年)の伝記(一八四〇年)『などを発表』、一八四二年から約四年間は、再び、スペイン公使として『スペインに赴き、帰国後、かねて計画していた「ジョージ・ワシントン伝」(一八五五年~一八五九年)を『刊行した。彼の懐古趣味は、新しい創造を求めたアメリカ文学のなかでは古ぼけたものにみえるが、アメリカ最初の短編小説作家としての地位はいまも揺るぐことはない』とある。

「已嫁」(いか)「の婦」既に嫁となった夫人。

「覘ふ」「ねらふ」。

「眞臘風土記」(カンボジアふどき」)は元の成宗(テムル)の代の中国人外交官周達觀(一二七〇年頃~?)の著。一二九六年、元の正式な使節団をカンボジアにあったクメール朝に送った際の一員となり(但し、元の公式記録には彼の名は載らない)、その当時のクメール王朝の習慣について書き記したもの。また、その滞在の際にアンコールの寺院群を訪問したことでも知られる。詳しくは参照したウィキの「周達観」を見られたい。「維基文庫」に原文が載るが、幾つかの性風俗が記されているものの、熊楠が言うような記載らしいものは、ざっと見では、見出し得なかった。

「チヽスベオ」「Amazon」の書籍広告にロベルト・ビッツォッキ著・宮坂真紀訳の「チチスベオ:イタリアにおける私的モラルと国家のアイデンティティ(叢書・ウニベルシタス 1091)」(二〇一六年刊)が載り、その解説に『「チチスベオ」は、18世紀のイタリアで、夫の同意のもと既婚貴婦人に付き従い、助ける任務を負った「付き添いの騎士」のこと。正式な夫妻の生活に割り込む特異な存在だが、その役割は組織化された三角関係の中で公然と承認されたものだった。しかし、複数の国に分かれていたイタリアが「統一国家」へと劇的に変貌する過程で彼らはその姿を消した』とあった。

gallantry」この英語は古フランス語「galant」(陽気な)が語原で、古語で「プレイボーイ・女たらし」の意。]

 一寸かく書くを讀むのみにては、一向卑猥淫奔のみのこゝと思ふべけれど、實際は大に然らず。都會の紳士が仲居を相手にする程の不義にも非ず。婚嫁の成立大家に非ざる限は皆この夜這に由りて定まることで、色色試驗した後に確定する夫婦故、却つて反目離緣等の禍も少なく、古印度や今の歐米で男女自ら撰んで相定約する如く、村里安全繁盛持續の爲の一大要件なり。四角八面の道義家など之を不埒な事の如く論ずるも、歐州の若き夫婦が老父母にパンのかけを食せて己等が蜜を啜り肉を食ふて口を相拭ふ如く、實は其老父母亦若き時は彼等の老父母の前で斯くしたる也。今の老人亦古は夜這に由つて緣を組み今の若者を生みたるなれば、梁武の所謂吾より之を得て吾より之を失ふ又何ぞ恨みんと云ふ奴なり。封建壓迫時代の舊慣を襲ふて、折角生んだ子女を顯官富商の側室慰み物にして、御手が掛つたなど悅ぶ者より遙にましな了簡なり。此夜這の規條不成文法如きも實は大に硏究を要することにて、何とか今のうちに書き置きたき事なり。それを忽諸に付し又例の卑猥々々と看過して、さて媒灼がどうするの下媒人に何人を賴むの、進物は何を使ふのと、事の末にして順序の最後にあることをのみ書留むるは迂も甚し。田舍にては煤灼はほんの式だけのもの、夜這に通ふ内の通はせ文、約束の條々等が婚姻の最要件であるなり。

[やぶちゃん注:「梁武の所謂吾より之を得て吾より之を失ふ又何ぞ恨みんと云ふ奴」「梁武」は南朝梁の初代皇帝蕭衍(しょうえん 四六四年~五四九年)。諡号を「武皇帝」とする。当該ウィキの惨めな彼の最期を記す「侯景の乱」の項を読まれたい。熊楠の引用の原典は不詳。

「忽諸」「なほざり」。

「下媒人」「したなかうど」。阪井裕一郎「仲人の近代 見合い結婚の歴史社会学」(二〇二一年青弓社刊・「グーグルブックス」で当該部を確認)によれば、『配偶者の紹介と縁組の下ごしらえだけに関与する仲人を「下媒人」』と呼ぶとあった。

「何人」「なんぴと」。

「迂も甚し」「うもはなはだし」。

 以下、二つの段落は底本では二字下げで、孰れも頭の字下げがないはママ。]

熊野に、十年ばかり前まで松葉と小礫とを餽つてマツニコイシなど表示し、又其媒に由り生れし少女を小石と名くる等の風、小生も目擊せり。

兵生に四年前ありし時、十四歲ばかりの少女風呂場に來り、十七八の木挽の少年に附けまわり、種臼きってくだんせと荐に言ふ。解說は聞かなんだが、斯る年頃の者の破素せられぬを大耻辱とするらしく、乃ち種臼切るとは破素のことなり。

[やぶちゃん注:「小礫」「こつぶて」。

「餽つて」「おくつて」。

「媒」「なかだち」。

「兵生」「ひやうぜい」。複数回既出既注。ここ

「木挽」「こびき」。

「種臼」「たねうす」。

「荐に」「しきりに」。

「破素」「はそ」と読んでおくが、見慣れぬ。「破瓜(はくわ(はか))」のことで、「性交によって処女膜が破れること」を指す。]

 兎に角隗より始めよで、地方經濟地方制度の事を主とする雜誌ならば、貴下自ら先づ巫女考などを中止し、若しくは他の地方經濟地方制度專門で風俗學不得手の人に、然るべく堂々たる模範的のしかとしたる論文を、隔月ぐらゐに册の初部に出させられ度こと也。

[やぶちゃん注:「巫女考」(ふぢよかう)後に同題で単行本化される柳田國男の論考。初出は『郷土研究』大正二(一九一三)年三月より翌年二月まで連載。]

 最初高木氏より鄕土硏究の初號に載せるとて、小生に民俗學の要領を求められし。又高木氏自ら一卷一號に書かれし「鄕土硏究の本領」には、地方經濟地方制度比較法律俚團(Village Community)硏究等のことは少しもなく(民族生活の硏究と云ふことはありしも、それでは Ethnology または Ethnography 卽ち人種學又は記載人種學の事となる)、主として民俗學又說話學の事を述べられし。此外にも誰も地方經濟等の要領の論說ありしを見ず。隨つて讀者一汎に鄕土硏究とは民俗學のことゝ思ひ居るは、資料報告の九分九厘は皆民俗學に關し、殊には珍話奇譚の居多なるにて知るべし。若し鄕土會の人々之を面白く思はぬなら、自ら進んで地方經濟地方制度の論文を出すか、せめては之に關する質問だけでも多く出さるるを要す。今日の處では雜誌の半分以上を占むべき地方經濟制度の事が其一小部分に減縮し、他の一部分を占むべかりし民俗學が甚しく膨大し、且つ民俗學に多少緣ありながら地方經濟に何の必要なき說話學が別に又著しく贅附をなし居るなり。

[やぶちゃん注:「高木氏」既出既注。ドイツ文学者で神話学者・民俗学者でもあった高木敏雄(明治九(一八七六)年~大正一一(一九二二)年)。大正二~三年には、この『郷土研究』を柳田国男とともに編集していた。欧米の、特にドイツに於ける方法に依った神話・伝説研究の体系化を試み、先駆的業績を残した。

「居多」「きよた(きょた)」。大部分。

「贅附」「ぜいふ」。

 以下の一段落は底本では全体に二字下げ。頭の字下げがないのはママ。]

小生の今昔物語硏究又堀氏の窮鳥入懷談、高木氏の早太郞童話考桃太郞の考、志田氏の國文學の杉等何れも本誌の要領に何の益も關係も無く除外せらるべきもの也。

「小生の今昔物語硏究」先行する『「南方隨筆」版 南方熊楠「今昔物語の硏究」』(「一」あ大正二(一九一三)年八月、「二」が同年十一月、「三」が同年、最後の「四」が翌大正三年五月発行の『郷土研究』初出)。一括PDF縦書版はこちら、ブログではカテゴリ「南方熊楠」で十四回分割。

「堀氏の窮鳥入懷談、高木氏の早太郞童話考桃太郞の考、志田氏の國文學の杉」同誌に当たれないので以上には「早太郎」を除き、注を附さない。「早太郎」は人身御供譚に出る霊犬の名。長野県駒ヶ根市にある天台宗宝積山(ほうしゃくざん)光前寺公式サイト内の「霊犬 早太郎伝説」を読まれたい。高木敏雄氏には「人身御供論」がある。]

 斯の如きは最初創刊の際鄕土硏究の何たるを說明するに地方經濟地方制度を主眼とする由を明示せざりしに由り、殊にその解釋なかりしに由る。今囘の御狀の如くば一ツタタラ山姥山男等は一向本誌に揭ぐべきものに非ず。此際鄕土會の人々奮發してなるべく一人一論づゝ、又はせめて質問だけにても多く出さるべきなり。但し從來かゝる論文質問風俗學に比して少なかりしにて、實際地方經濟制度の學に留意する人の甚だ少なきを知る。

[やぶちゃん注:「一ツタタラ」「一本だたら」。熊野地方の山中などに棲み、一つ目で、一本足の姿の妖怪。詳しくは当該ウィキを読まれたい。]

 又貴狀の如くば、廣告如きも今度の「民俗」に出せる如く地方經濟に關する條項は少なく民俗學に關すること居多なるはいよいよ不適當ならずや。例へば、商賣物貨交換入質に關する在來法の如きは尤も重要なる一目なれど、全然廣告には見當らず、社寺に關する口碑はあれど之に關する習慣法も目錄に無し。地方制度より見れば此事最も重大にして、口碑などはほんの小事なり。

[やぶちゃん注:「民俗」雑誌名であろうが、不詳。

 以下の段落は底本では全体が一字下げ。ところが、「選集」では前の段落に繋がって改行されていない。]

 例へば熊野にては、寺を改築するに、從來三四年住職を止め無住にし節儉して儲蓄寄付し(住職自ら俸給を棄捐する意となる)、さて新築せし也。此事に氣付かず、書上に無住とある寺を、何の差別もなくむちやくちやに合併したり小寺に入れた故に、由緖正しき大寺にして亡びて田畑となり、何の益も無きこと多し。又此邊に禪宗昔大にはやり、熊野地方は多く禪宗坊主が開きし。今も地方の俗謠に禪語のみのもの多く、一寸聞きては何の事か分らず。此禪坊主が地方を開きし方法の如きは大に硏究を要す。諺に「天臺公家眞言武家淨土町人禪百姓」と云ひて、禪宗は百姓の敎化を專ら力めし也。又禪宗の尼は多く越前美濃より來る。良家の女も多く中には絕世の美女あり。蒙古人が子を多く喇嘛僧にする如く、不知不識の間に人口增殖を防ぐ一具ともなりたることらし。彼邊にて一家每に一人僧尼になりし所ありときく。其割合など調べたき事也。

[やぶちゃん注:「儲蓄」「ちよちく」。「貯蓄」に同じ。

「敎化」「けうげ・けうげ(きょうげ・きょうけ)」。

「力めし」「つとめし」。

「喇嘛僧」「ラマそう」。ラマ教はチベット仏教のこと。

「不知不識」「しらずしらず」。]

 要するに貴狀垂示の如くならば、貴下先づ巫女考を中止し、制度經濟の論文を卷頭に隔月位に必ず一つづゝ出され度こと也。然らざれば、到底目的の奇談珍傳、又論文とても鄕土に關係少なき古語考や傳說編のみで滿たさるることとなるべし。

 但し高木氏編輯中は其人に出る偏重も多かりしは、地方郡縣誌などに古語學、民俗學の材料多きときは口を極めて之を譽め、又經濟制度を主とする書や報告の批評少なかりし。

[やぶちゃん注:「出る」「いづる」。]

 實業の日本、實業の何々と題して、實業の事は少しも無く、放恣なる英雄的の人傳放言のみ書き連ねあると等しく、制度經濟を主とする「鄕土硏究」に制度經濟に關する論文少なく、資料報告に至つては、全く民俗古傳說のことのみなるは甚だ名義に背く。故に貴狀の意の如くならば、何とぞ半分又は三分一だけは必ず制度等に關する事を述べられ度こと也。

 次に論文又は報告中には虛文のみで紙數限ある雜誌に何の益なき事無きに非ず。堀氏の窮鳥入懷譚の如きは短く書かば如何やうにも書得ること也。

[やぶちゃん注:「限」「かぎり」。

 以下の一段落は、底本では全体が一字下げ。「選集」では、前の段に続いてしまっている。]

 かゝるもの鄕土硏究に出せしは心得られず。窮鳥入懷とは三國の時劉政の故事にて、佛說に關することに非ず。若し關することなりとせば、此の古諺と佛說との聯絡を述べざるべからざるに、一言も其事無し。川口孫治郞氏の捕魚の話、又蜜蜂を徙す話等に、土地の風景や春色の序述で夥しく紙面を埋めたる所多し。此等は文章見る雜誌に非ざる以上は編輯人全く刪除して可なりと思ふ。乃景色形容等の文は一行以上長きものは勝手に刪除することとせば、投書家終に自警することゝ思ふ。

「窮鳥入懷とは三國の時劉政の故事」河野長生氏のブログ「中国通史で辿る名言・故事探訪(窮鳥入懐)」を読まれたい。]

 若し又全誌の半分又は三分一以上も地方經濟制度に關する論文材料報告質問で埋め得ずとならば、是れ地方制度經濟の學は今日日本で成立せざるを示すもの也。公然綱領を改め民俗・傳說學を主として經濟制度を從とする事を望む。

[やぶちゃん注:以下の一段落は、底本では全体が一字下げ。「選集」では字下げはない。]

 貴書に「記事の少なくも三分一位は貴下の注文外のもの有之次第」とあれど、實は每號三分一位どころか五分一六分一も小生注文外のもの無きこと多し。又皆無に近きこと屢々あり。是れ地方制度經濟の學は本邦で「らしきこと」を喋々し氣取る人士は多少あるも、進んで自ら之を論じ得る人甚だ乏しきを證す。卽ち其學が成立し居らず、發展の見込も無き也。一卷一號の「鄕土硏究の本領」には、地方制度經濟學に關する指示少しも明ならず。只日本民族の來由硏究に關する指示あるのみ。それならば人種學 Ethnology なり。又此「本領」を筆せし高木氏自分は、一文も制度や經濟に關することを書き居らず。從つて地方の者は何れも鄕土硏究とは民俗學のことゝ思ひ居れり。人類學雜誌昨年末再活の折の批評にも、「馬鹿に鄕土硏究じみた論文が多い」とありし。卽ち批評家(高木氏と思ふ)自身も民俗學を鄕土硏究の異名と心得居りたる也。何となれば人類學雜誌の十二月號は出口前田等諸氏の民俗に關する文のみ多く、經濟制度に關する文は無論一つも無かりし也。

[やぶちゃん注:「有之」「これある」。

「人類學雜誌昨年末再活」ここで最後に述べているように、大正二年十二月号『人類学雑誌』には、民俗学的論考の投稿が久しぶりに多かったことを言うのであろう。但し、この時期、嘗ては常連の読者であり、投稿者であった南方熊楠も柳田國男も孰れも、『人類学雑誌』とは距離を置いていた。]

 當地、今年雨多く菌類夥しく生ず。八歲になる男兒に十八歲になる阿房の下女添へ日々遊びに遣るに、必ず珍奇の新種二三は採り來る。之を畫くうち此長の日も暮れる。夜分は例の眼惡く何も出來ず。故に論文はいつ出來るやら分からず。從來の如き短きもの、又長くとも他人の論文や記事に附隨して書出すものは時々出來得べきも、右の如きわけならば何卒まず小生の民俗傳說のみに關する文は急がず、半年ばかりも主として地方經濟制度に關する文を出されたき事なり。論文が集まらずば此等に關する質問だけにても、多く出されたき事なり。小生はもと記臆よかりし故、今も多分こんな事があつた位のことは多々知り居る故に、時として書き始むれば底止する所を知らぬこと多し。因つて成るべく短く書かんと、はがき一枚を限り書き始むるも、猶不知不識はがき二枚三枚續くこと多し。要するに質問の答文や資料報告、又論文と云ふ程のものならぬ(他人の論文や記事に附隨する批評半分の)追加文如きものは、いくらでも書き得又いつでも出來得る也。地方經濟制度等に關して民俗傳說に於ける小生如き人無きは遺憾なり。

[やぶちゃん注:「阿房」「あはう」。阿呆。]

 本當に日本の地方制度經濟を硏究して外國のと比較論斷する人あらんには、是れ國家の慶事なり、又頗る大必要のこと也。それにはそれの準備なかるべからず。小生外國の書目だけ控へ置くが今一寸見えず。見出でたら寫し可申上候。風俗學や傳說學は一地方一地方の材料を集めたもの多く、總論と云ふべきもの甚だ少なし。之に反し、比較制度經濟の學論は歷然たるもの甚だ多く、殊に獨逸に多し。

 貴下試みに地方の制度經濟の學に關する綱領を作り見られんことを望む。水論の處置、野を苅るに何れの村を先にし、何れを後にするか、他村領に入りて取りて構はぬもの等、夥しく事項はあることゝ存候。只之を網目にして前書申上たる民俗學の分類ほどに作り上げたるものあるを見ず。綱領を示さゞれは衆人は地方制度とは何の事か一向解し得ず。早々以上。

 大正三年五月十四日午前三時出す

    (大正三年鄕硏第二卷第五乃至七號所載)

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