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2022/07/06

ブログ・アクセス1,770,000アクセス突破記念 梅崎春生 拐帯者

  

[やぶちゃん注:本篇は昭和二八(一九五三)年四月号『小説新潮』に初出し、後の作品集『拐帯者』(昭和三四年四月光書房刊)に所収された。

 底本は「梅崎春生全集」第三巻(昭和五九(一九八四)年六月沖積舎刊)に拠った。文中に注を添えた。なお、題名は「かいたいしゃ」は、「人から預かった金や品物を持ち逃げする者」の意。

 なお、本テクストは2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが本日、つい先ほど、1,770,000アクセスを突破した記念として公開する。【藪野直史】] 

 

   拐 帯 者

 

 十字路は、混雑していた。

 富田商事会社の社長秘書穴山八郎は、しばらく立ち止って、道路の向うの交通信号燈を、いらだたしげに眺めていた。赤が出ている。赤の信号燈が、縦の人波をせき止めている。八郎はまたたきをした。信号燈の赤は、まだまだ赤いままで、なかなか青に変ろうとはしなかった。歳末大売出しの紅や黄ののぼりが揺れている。自動車の警笛。路面電車の車輪のきしり、広告塔から流れ出る濁った器械音。どんよりと垂れ下った雲の色。

(畜生め、俺を向うに渡さないつもりか)

 彼は舌打ちをした。そしても一度信号燈に眼をやり、憤然としたように背をむけ、今来た方向に足を踏み出した。その瞬間、信号燈の色が変ったらしく、彼を取巻く人波の空気がざわざわと揺れる。背をむけた以上、引返すのも業腹(ごうはら)であった。動く人波に逆らうようにして彼は歩いた。茶色の革鞄(かばん)を、両手で胸に抱きかかえたまま。その八郎の恰好(かっこう)は、ちょっと蟹(かに)に似ていた。

(お茶でも飲むか)

 さっきから咽喉(のど)が乾いていた。昼食に食べた中華そばの汁が、少々辛すぎたらしい。それなら汁だけ残せばよかったのだが、お腹もすいていたし、また心にむしゃくしゃすることもあって、意地汚なく、最後の一滴まで呑みほしてしまったのだ。実際あそこの汁は、いつも辛すぎる。もうこれから昼食に、あの中華そば屋に行くのはよそう。

 八郎は立ち止った。横丁を見た。二軒目の店に角燈がかかり、ガラス扉に金文字が『ロンドン』と浮き出ている。彼は革鞄をかかえ直し、つかつかとその方に歩いた。扉を押して、とっつきの卓に腰をおろし、あたりを見廻した。派手な服をつけた白茶けた顔の女が、奥からあらわれた。

「いらっしゃいませ」

 見廻した感じでは、ここは喫茶店でなく、酒場であるらしい。棚には洋酒瓶がずらずらと並び、卓上にメニューは出ていない。八郎は少し顔をあからめ、腰をもじもじさせた。しまったと思ったのだ。

「何になさいますか」

 と女が訊ねた。女の頰には職業的な微笑がぼんやりと浮んでいた。レモンティーが飲みたかったんだけれども、言い出せなくなってしまった。八郎はややまぶしげな眼付で女を見た。声はかすれてどもった。

「ビ、ビール」

 ビールが卓に運ばれて来るまで、彼は鞄を胸に抱き、眼をつむって、じっとしていた。まだ明るいので、店の客は彼一人だ。

(会社の連中、さぞかし俺の帰りを待ち詫びているだろう)

 胸に抱いた古鞄の中には百二十余万円の紙幣束が入っている。富田商事の社員に配るボーナスの全額なのだ。昼過ぎ、社長の命令で、穴山八郎が銀行に行くことになった。社長はその時、八郎の顔を見据(す)え、冗談めかした口調で言ったのだ。

「持ち逃げするんじゃないよ。な、穴山」

 八郎はちょっと困惑し、まごまごした。実を言うと、銀行に行けと言われた瞬間、彼も、その金を持ち逃げする自分の姿を、ちらと頭のすみで想像していたからだ。社長の声がかぶさった。

「もっとも君にはそんな度胸はないだろうがな。わはは」

 富田社長は、年は四十四五の戦後派社長で、内心は狡猾でケチで小心者のくせに、うわべは豪快をてらう型の男だ。その豪傑笑いを聞く度に、八郎は顔には出さないが、あまりいい気持はしない。豪傑笑いで人をごまかしておいて、かげではこそこそと狡(ずる)いことをやる。面白くない。ことに一週間前、タイピストの岡田澄子のことを聞いて以来、八郎の内心の不快はますますつのってきていた。あの富田社長が、岡田澄子をいつの間にか誘惑してモノにし、オフィスワイフに仕立てているという噂だ。八郎はその噂を、便所の中で聞いた。彼が入っている扉の外で、二人の男が用を足しながら、そんな話をしていたのだ。

「本当かい?」

「本当だとも。二人の姿が温泉マークに入って行くのを見た奴がいるんだ」

「へえ。オヤジもうまいことをやるんだな。それにしても澄公、手もなくいかれたもんだなあ」

「金だよ。金さえありゃあね。金へ金へと女はなびく――」

 八郎は息をつめ、耳をそばだてていた。それから急に声が低くなり、短い忍び笑いに変り、

「へえ。穴山がね。あの蟹(かに)公がねえ。そうだったのかい」

「そうだよ。まだ当人、知らないらしいが、知ったらさぞかしガッカリするだろ」

「知っても相手が社長だからな。泣寝入りの他ないよ。宮仕えの辛さか」

 八郎は顔を充血させ、全身を堅く凝(こ)らしていた。やがて二人の足音は、話声と笑声と共に、外の方に遠ざかって行った。怒りと屈辱のため、八郎はそのまま五分間ばかり、身動きも出来ないでいたのだが――

 ビールが来た。

 はっと我に返ったように、八郎は顔を上げた。白茶けた女の顔が、その八郎に、からかうようにほおえみかけた。

「ずいぶん深刻そうな表情ね。金でも落した人みたいだわ」

「うん。いや」

 八郎は口をもごもごさせて、コップを手に取った。鞄は両膝の間にしっかりはさんだままである。女は瓶を傾けて、とくとくとビールを注いだ。そして女は、卓の向うに腰をおろした。八郎は咽喉(のど)を鳴らしながら、一気にコップを飲み干した。

「失恋でもしたの?」

 ふたたびコップをみたしながら、女が訊ねた。八郎は口のまわりの泡を拭いた。妙に狼狽したような表情で女を見た。

「そうでしょ。そう顔に書いてあるわ」

「うん」

 八郎は二杯目のコップをとった。咽喉がからからに乾いていたので、ビールの冷たさがのどぼとけから食道に、ひりひりと沁み渡るようであった。コップを卓にがちゃんと戻しながら、八郎はやっと表情をゆるめて、椅子の背に軀(からだ)をもたせかけた。

「失恋もしたし、と」

「ボーナスも落したし、と」

 おうむ返しに女が口真似をした。

「ボーナス? そんなもの、落すもんか」

 すこし気持が軽くなって、八郎はそう答えながら、女の方をちらと見た。職業的な微笑とともに、女はまっすぐ八郎を眺めている。八郎はかすかな羞恥を感じた。

「僕は絶対に落さない。金を落したことは今までに一度もないよ」

「拾いはしてもね」

「そう」

 三杯目のコップに手を伸ばしながら、

「拾ったことは、たびたびだな。げんにここにも――」

 八郎は膝にはさんだ鞄をかるく叩いた。もちろん冗談のつもりだったが。――

「拾った金が入ってるのさ。誰か莫迦(ばか)なやつが、袋ぐるみボーナスを落しやがって」

 女の顔から急に微笑が消え、頸(くび)を伸ばして、膝の鞄をのぞき込むようにした。八郎は無意識裡に、軀をぎょっとうしろに引いた。

「ほんと?」

「ウソさ。冗談だよ」

「ああ、まるで本当みたいだったわ、あなたの言い方」

「そうかい」

 すこし顔がこわばるような感じで、視線を鞄に落した。はさんだ膝に、鞄の中の紙幣束の厚みが、ありありと感じられる。岡田澄子のことが、苦痛を伴って、ちらと頭のすみを走り抜けた。この一年来、八郎はひそかに彼女に思いをかけていて、まだ言い出せないでいた。今度ボーナスでも貰ったら、何か贈物をして、思いのたけを述べてみる心算(つもり)だったのだが。――そのボーナスが、この鞄の中に入っている。他人のボーナスと一緒に。

「おビール、召上る」

 八郎は時計を見た。四時半を指している。社長は待ちくたびれているだろう。そろそろ怒っているかも知れない。

(君にはそんな度胸はないだろうがな)社を出る時の社長のがらがら声が、突然八郎の耳によみがえってきた。何かに追っかけられるように、彼は口をひらいた。

「ビール。いや、ウィスキーを呉れ。ウィスキー」

 

 ちょっとした何でもないことが、人の心理や行動を、間間急角度に狂わせることがある。いや、この言い方は正確でない。かねて急角度に動きたがっている人間の心理が、たまたま何でもないことにぶっかって、いい機会とばかり、急旋回するだけの話だ。穴山八郎の場合も、ややそれに近かった。

 午後五時、穴山八郎はビールとウィスキーでいい気持になっていた。『ロンドン』を出ると、夕闇が街におちていた。その夕闇の色は、いくらか彼をギョッとさせた。

(もうこんな時刻か)

 彼は時計を見て、鞄をぐっと抱え直し、急ぎ足で歩き出す。夕風が熱した頰に、ひやりとつめたい。怒られるだろうなという予感と、俺にもビール飲むぐらいの度胸はあるんだぞという虚勢が、一歩一歩彼の胸に入り乱れる。歳末の夕方の大通りは、ますます人通りを増して、もうまっすぐに歩けない程だ。肩と肩とがぶっつかり、体と体がこすれ合う。八郎はやはり、鞄を胸に抱きしめるようにして、交叉点へ急いでいた。こんな人混みだから、どんな悪い奴が飛び出して、鞄を奪って逃げないとも限らない。こいつを奪われたら、天下の一大事だ。度胸どころの騒ぎではない。

「畜生!」

 八郎は口の中でつぶやいて立ち止った。交叉点まで来た瞬間、道路の向うの信号燈が、心急(せ)く彼をあざけるように、パッと赤に染ったのだ。勢い込んで来たところを、いきなり張り手を食わされたみたいで、腹が立つ。人混みに街路樹に身体を押しつけられながら、八郎は忌々(いまいま)しく背を伸ばした。電車や自動車や自転車が、あらゆる雑音を発して、八郎の視野を左右に流れてゆく。八郎は舌打ちをした。

「いよいよもってこの俺を渡さないつもりだな」

 この交叉点を渡らねば、富田商事には帰れないのである。それなのに、渡ろうとする度に、信号燈は意地悪く赤になる。百二十万円という大金を正直に持ち帰ろうとする俺の善意を、大きな何者かがせせら笑っているみたいだ。赤い信号燈を見詰めながら、八郎はそう考えた。隣りの男の肱がその瞬間八郎の鞄にふれた。八郎はぎくりとしたように体をよじり、その男をにらみつけた。にらまれたのも知らぬ気に、その男もいらいらと貧乏ゆすりをして背伸びしている。彼と同じ位の年配の善良で働きのなさそうなサラリーマンタイプの男であった。八郎は再び舌打ちをして視線を戻した。信号燈はまだ赤のままだ。

(あいつら、俺のことを蟹(かに)と言ったな!)

 一週間前の社の便所でのことを、八郎は思い出したのだ。あの男たちは、もちろん社員には違いないが、声だけでは誰とも判らなかった。しかしあいつらは、岡田澄子に対する俺の感情を、何故知っているのだろう。あいつらが知っているからには、他の者も知っているに違いない。でも、どうして判ったのだろう。今まで澄子に愛を告白したこともないし、そういう態度を示した覚えもない。向うは社でも有数の美人ではあるし、こちらは安月給の、しかもあまりぱっとしない風体だ。

(蟹!)だから今まで気おくれしていた訳だが、その俺から澄子への愛慕を、どうやって奴等は嗅ぎつけたのだろう。街路樹に背をこすりつけながら、突然八郎はうなり声を立てたくなるような烈しい屈辱と羞恥を感じた。この感情はあの時以来、一日に四五度は彼におそってきていたのだが、今はいささかの酔いといらだちのためか、直接になまなましく胸をつき上げて来た。八郎は思わず唇をかみしめ、眼をかたくつむった。巷の轟音のみが、耳にあふれてくる。

「岡田澄子――」

 眼を閉じた短い時間、八郎は澄子のことを思った。澄子は調査部付きのタイピストだ。昨年入社したばかりの、まだ少女の俤(おもかげ)を残したようなあどけない娘だ。背がすらりとしている。もしかすると、五尺三寸の八郎よりはすこし高いかも知れない。赤いセーターがよく似合う。肌は小麦色で、すべすべしている。昼休みになると、近所の小公園でバレーボールの練習をやる。学校時代に選手だったそうで、身のこなしも水際立っている。八郎はその姿を眺めるのが好きであった。彼女がボールを軽くトスする時、セーターの中で乳房が揺れ、形の良い脚が地を蹴って伸びる。スカートがひるがえって、可愛い膝頭や、もっと上の部分がちらとのぞけたりする。ボールにたわむれる彼女の顔は、かすかに汗ばんで紅潮している。あの身体は、筋肉がしまってすらりとしているが、十五貫はたっぷりあるに違いない。[やぶちゃん注:「五尺三寸」一メートル六十一センチ弱。「十五貫」五十六・二五キログラム。]

「澄子――」

 雑音の渦巻。眼をつむったまま、八郎は顔をしかめた。その清純な魅惑的な身体が、あの富田社長のでくでくした肉体によって、無慚(むざん)にもふみにじられてしまう。その情景が閉じた瞼のうらに、まざまざと浮んで来たからだ。温泉マークの一室。剛(こわ)い胸毛が密生した、山賊みたいな社長の肉体。小鳩のような澄子が逞(たくま)しい男の手で、衣服を一枚ずつ剝がれてゆく。もうすべてがあからさまな小麦色の肌。――その空想の刺戟に耐えられなくなって、八郎ははっと眼を開いた。あらゆる色彩の光が、どっと眼の中に流れ入って来た。彼は急いで視線を信号燈の方に動かした。――赤が出ている!

「よし!」

 声にならない声が、八郎の唇の端で消えた。彼は鞄を抱え直すと、肩や肱(ひじ)をそびやかすようにして、人混みをかきわけかきわけ遮二無二動いた。もちろん会社と逆の方向にである。あとで後侮するかも知れない。その思いはあった。しかしまだ踏切(ふんぎ)りがついたわけではない。そこらでお茶でも飲んで、それから会社に戻ろうと思えば戻れるのだ。

 軽い酔いが八郎の靴の爪先に、必要以上に力をこめさせていた。靴は薄暮の鋪道にかつかつと鳴った。

 

 扉のしまったビルディングの脇のうすくらがりに、易者が小さな店を出していた。白木の台に燈がともり、『手相人相運命判断』という文字を浮き出している。易者は若い女である。その女易者の眼と、八郎の眼が、ぴたりと合った。

 八郎の歩調はためらうようにゆるみ、そして吸いつかれるように台の方へ近づいて行った。この人はおどおどしている。とっさに女易者は職業的な観察眼をはたらかせた。

「見て呉れるかね、手相」

「どうぞ」

 八郎は鞄を持ち換えて、右の掌を差出した。女易者の掌がそれに触れた。

 易者の歳はまだ二十前後らしい。ルパシカみたいな灰色の上衣を着けている。無雑作な断髪なので、白いうなじが見える。八郎はぼんやりとそこを見おろしていた。視野一面の夜の色の中で、そこだけが白く生きている。[やぶちゃん注:「ルパシカ」(ロシア語:рубашка/ラテン文字転写:rubashka)ロシアの民族服・農民服の一つ。詰め襟・長袖・左前開きで腰丈の男性用上衣。襟や袖口や縁辺には刺繍が施されており、腰帯を締めて着用する。本来は厚地の白麻製で、ウエストを絞らず、緩やかにし、しかも暖かいのを特徴とする。音写は「ルバァーシカ」が原音に近い。]

 易者の指は、細くつめたかった。その指は、八郎の掌のあちこちを押して見たり、親指の関節をくねくねと曲げて見たりする。関節の硬軟や反り具合をしらべるのらしかった。まだ何とも言い出さない。仔細に調べているだけである。

(岡田澄子に似てるな)

 掌を無抵抗に易者の指にあずけながら、八郎はちらと考えていた。どこか澄子に似ている。どこがどうとはっきり似ているのではないが、顔立ちの素直さやすらりとした襟首の感じなどが、何となく澄子のそれを聯想させる。さっき、ビルのかげにちらと一目見た時、先ずその感じが八郎に来たのだ。手相を見せるなんて今まで考えたこともないのに、ふらふらと台に近づいたのも、その感じからであった。易者はまだ何も口を開かない。入郎はすこし息苦しくなってきた。白いうなじから、ほのかに若い女性の匂いが立ちのぼってくるようであった。気のせいだったかも知れない。易者がふっと白い顔を上げて、八郎を見た。

「おいくつ?」

「え?」

「年齢(とし)のことよ」

「二、二十八」

 八郎はどもった。易者はまた掌に視線を戻し、筮竹(ぜいちく)を一本とり上げた。そしてはっきりした声で言った。

「あなたは惰性で生きていらっしゃる」

 八郎はぎくりとした。もやもやしたところを、うまく言い当てられたような気がしたからだ。易者は筮竹の尖端を、運命線に沿ってゆるゆると移動させた。

「このきれぎれの運命線は、性格の弱さ、精神力の薄弱などを示し、しばしば生活に窮し、依存的な生活におちいる傾向を示していますね」

 易者の声は、やや職業的な、中性的な、響きを持った。易者は筮竹をあちこち移動させながら、八郎の意志や決断心の弱さ、怠惰な傾向、度胸の欠乏など次々と指摘した。度胸がないと言われた時、八郎は思わず反問した。

「どこにその相が出てるんです?」

 易者は心情線を指した。そこにその相が出ているのらしい。それから筮竹は小指の下へ移動した。[やぶちゃん注:「心情線」環状線に同じ。小指のやや下部から出て、横に走り、通常は人差指及び中指方向へ上行する。]

「あなたはこの抵抗丘が、兆常に弱小でいらっしゃる。これは小心翼々(よくよく)として、臆病だという相です。それから――」[やぶちゃん注:「抵抗丘」調べてみると、手相の各線の間にある掌域を「丘」と呼び、特に感情線の上の小指との間を「水星丘」と呼ぶようである。そこを指すか。とある記載によれば、水星丘が膨れている人は饒舌で商売上手が多く、営業や接客業向きとし、自然と人とのコミュニケーションをとることが上手い、他者から好かれるタイプであるなどと書かれてあった。一方、感情線を挟んだ、その下方の最初の膨らみは「第二火星丘」と呼ばれ、大胆さ・抵抗力・忍耐力・正義感・闘争心・前進力を支配するともあった。以上の部分を指しているようだが、「抵抗丘」という固有名詞はざっと見では見当たらなかった。なお、私は占いの一切を信じない人間である。]

 易者はちらと上目を使って、八郎の顔を見た。

「今あなたは、女性のことで悩みを持ってらっしゃる」

 八郎は黙っていた。易者はつづける。

「愛情丘に島状紋が出ています。これは邪恋とか、異性との相剋、愛情のトラブルを示します。あまり良い相ではありませんね」[やぶちゃん注:「愛情丘」親指の付け根の縦の広範囲部分を「火星丘」と称し、そこは愛情属性を表わすのだそうである。]

 易者は笙竹を置いた。八郎の掌は宙に浮いた。持ち重りのする鞄を、左脇にたぐり上げながら、しばらくして八郎は沈んだ声を出した。

「ぼ、ぼくは今、思い切って、あることをやろうと思っている。そ、それで――」

「おやりになった方がいいでしょう」

 と易者は断定するように答えた。

「決断することであなたの運命は大きく転換する、相に出ています」

 八郎は何か言おうとして、口をもごもごさせた。しかしそれは声にはならず、歪んだような奇妙な笑いが、やがてぼんやりと彼の頰にのぼってきた。その笑いは、光線の暗さのためか、やや邪悪な翳(かげ)を含んでいるように見えた。低い押しつぶされたような声で、

「君が責任を持つかね?」

「え?」

「僕が今踏切ろうとすることに、君が責任持てるかと言うんだ」

 易者は首を傾けて、八郎を見上げた。そして白い頰をほころばせて、短い笑い声を立てた。冗談だと思ったのだろう。それに応じた調子になって、

「ええ。大丈夫。思い切ってやりなさいよ」

「思い切って、それで悪い結果になったら、どうして呉れるんだね?」

「あたしが全身で責任持って上げるわ」

「全身で?」

 易者はいたずらっぽくこっくりしながら、また声を立てて笑った。口紅をつけない唇の間から、濡れた舌の先がちらと見えた。八郎はその瞬間、この女易者に、強烈な接近を感じた。たとえば共犯者への信頼感か連帯感とでもいったようなものを。

「全身でって、大げさな言葉だね」

「だってこれでもあたし、身体を賭けて生きてるんですもの」

「君みたい若い娘さんが、どうしてこんな職業を選んだの。家庭の……」

「それは行き過ぎよ」

 易者はたちまち真顔に戻って、ぴたりとさえぎった。

「あたしは手相を見るだけ。あなたは手相を見られるだけ。それ以上立ち入ることは、おことわりよ」

「そうかい。それもそうだね」

 八郎は掌を引込めた。

「見料はいかほど?」

「百円いただきます」

 八郎はポケットを探ろうとした。そして思い直して、ガチャリと革鞄をあけた。手をさしこんで、そろそろと紙幣をまさぐる。その感触にはひやりとした戦慄があった。

(いよいよ使い込むぞ!)八郎の指が、束の中から一枚の紙幣を、するすると引っぱり出した。

「こ、これでおつりを」

「おつりなんかないわ」

 八郎は肩すかしを食わされたような、途惑(とまど)った表情になる。そしてその千円札を未練げにポケットにしまい、別の百円札を取出す。それを台の上にひらひらと落し、外套の襟を立てながら言った。

「有難う。思い切って、君が言う通りやってみるよ。さよなら」

 

 舞台では白い裸女が、音楽に合わせて踊っていた。

 赤や黄や緑のスポットライトが、めまぐるしく交錯し、トランベットが破れたような音をはり上げる。踊り子たちは皆、白い裸身に申し訳程度の布片をつけ、客席に流し目をおくりながら、手足や胴体を思わせぶりに屈伸させていた。その中の一人が今、大きく動作を変えながら、中央の張出舞台にしずしずと出で来る。ライトがそれを追って移動する。その照明は、ついでに、舞台の両翼の客席をあかあかと照らし出した。そこらの座席は、ぎっしりと満員だ。いきなり光をぶっつけられて、てれくさそうに顔をそむける客。観念したようにじっとしている客。それらの顔顔に交って、穴山八郎の顔が、しごく無感動な色をたたえて、ぼんやりと舞台の方に視線を放っていた。れいの革鞄は、しっかと八郎の胸に抱きしめられたままである。

(これで二百五十円は高いな)

 踊り子の無意味な動きを眺めながら、八郎はふとそんなことを考えていた。さっき易者の台を離れる時、厚氷を力まかせに踏み破るような切ない戦慄があったのだが、それも束の間で、ものの一町も歩かないうちに、糸の切れた奴凧(やっこだこ)みたいな不安定な感情が、彼の全身を領してきたのだ。(さて、何をしたらいいのだろう。ここに百二十万円あるのだが――)サンドイッチマンが立っていた。人形めいた扮装で、時々わざと手をぎくしゃく上げ、劇場の入口を指差している。それを見たとたん、何か命今された如く八郎は、ふらふらと劇場に入って切符を買い求めたのだが、裸女が無意味に踊り動く同じような場面ばかりで、これで二百五十円とは高過ぎる。百二十万円も持っていることをちょっと失念して、八郎はそんなことを思う。それに、裸女と言ったって、全くのヌードでは絶対にない。ストリップ小屋に入るのは、これが初めてだから、少々の期待はあったのだが、裸であるらしく見せかけて、大切なところはチャンとおおい隠してあるのだ。おおい隠してある癖に思わせぶりな恰好と動作で、お客の目を釣ろうとしている。彼は呟(つぶや)いた。

「ふん。莫迦(ばか)々々しいったらないや」

 すぐ傍に張出した花道の、八郎の眼と等高のところに、踊り子の肉体が身悶えするようにくねくねと動いている。ライトに染ったその肌の色が、むしろ俗悪でいやらしい。八郎は小さなあくびをした。思い切って百二十万円拐帯(かいたい)する気になったのに、こんな莫迦げた場所で貴重な時間を潰すなんて、まったくの本末顚倒(てんとう)ではないか。もう先刻の酔いもほとんど醒めていて、富田社長の怒った顔や同僚たちのあざけり顔が、押えようとしてもチラチラと頭に浮んでくるのだ。それらは逃げ廻る八郎の意識を、遠くから鈍く重くおびやかしてくる。(復讐だ!)

 八郎は身体をずらして、そっと立ち上った。鞄を抱きしめ、数百の客席の視線に逆らうように、出口の方に歩く。空いた八郎の座席をねらって、二三の影がすばやく移動する。音楽は鳴りわたっている。

(復讐だ!)

 扉を押して廊下に出る。階段を一歩一歩降りる。何に対して俺は復讐しようというのか。彼はハンカチを出して、つめたい額の汗を拭う。もうこの世のものでない豪華な、目くるめくような烈しい快楽。そんなものを、彼の心は切に欲し始めている。その癖、遠くのどこかで何ものかが、冷やかすような嘲けるような声音で、彼に不断に話しかけてくる。

(まだ間に合うんだぜ。今からその金を、会社に持って帰ればさ。どうだい。え?)

 

 スタンドに肱(ひじ)をついて、酒を飲んでいた。穴倉みたいに暗い、雑然とした大衆的な酒場である。炭火の上で、焼鳥がじわじわと焼け焦げ、煙とにおいが部屋に充満している。酒は熱かった。善良そうな顔つきの女が、スタンドの向うから八郎に話しかけてきた。

「鞄、お預りしましょうか」

「いや。いいんだ」

 八郎はあわてて鞄を抱きしめるようにする。そしてその自分の動作をごまかすためにわざと調子のいい声を出した。

「うまいね。ここの焼鳥」

「自慢ですもの」

「うめえなあ、こりゃ」

 会話を引き取ったのは、先刻から八郎の隣りに腰掛けてしきりにコップを乾(ほ)している男であった。相当酔っているらしく、呂律(ろれつ)も怪しい声で、さっきから誰彼となく話しかけてばかりいる。年は八郎より少し上らしいが、やはり古鞄をぶら下げた、月給取りらしい風体だ。すり切れた外套の肱からしても、おそらく会社でも下っ端なのであろう。下っ端の気楽さと忿懣(ふんまん)が、その酔い方に典型的にあらわれている。

「なあ、オヤジ、この焼鳥は、何だい。表の提燈(ちょうちん)には、鷭(ばん)などと書いてあるが」

「ええ。鷭と申しますのは――」

 団扇をバ尺ハタさせていた年若い主人が、愛想のいい顔をこちらにふりむける。

「――鷭目秧鶏(おうけい)科のちゃぼ大の鳥で、全身灰黒色、翼は橄欖(かんらん)褐色、嘴(くちばし)は黄色で、大鷭小鷭とありまして、冬の肉がしまって、一等おいしいようで――」

「なに。オオバンコバンだと。そりゃ全く花咲爺みたいだな」

 と酔漢はからむ。

「その割にこの肉、一向にしまってないな」

「はあ。今日のは鶏の肉でございます。今度いらっしゃる時は、鷭を用意して置きます」[やぶちゃん注:「鷭」鳥綱ツル目クイナ科Gallinula属バン Gallinula chloropus 。詳しくは私の『和漢三才圖會第四十一 水禽類 鷭 (バン) 附 志賀直哉「鷭」梗概』を参照されたいが、「小鷭」はこのバンで(戦前は、以下の「オオバン」と区別するために野鳥図鑑などでは「コバン」の異名を用いた)、異種のバンに似た大型のクイナ科オオバン属オオバン Fulica atra を指す。但し、オオバンは根元が有意に赤い嘴のバンとは異なり、嘴が白く、上嘴から額にかけても、白い肉質(額板)で覆われており、一目でバンとは、全然、異なっていることが判る(リンク先はそれぞれの当該ウィキ)。]

 女たちが笑い出す。酔漢の眼は、今度は壁に貼られた短冊(たんざく)の方にうつる。

「え。なになに。乙女白息ルパシカの肩の髪ゆたか、だと。べらぼうに下手糞な川柳だな。わけ判らんじゃないか」

「あれは俳句でございます。富田直路という新進の俳人の句で」[やぶちゃん注:「富田直路」実在する俳人。富田直治(とみたなおはる 大正一一(一九二二)年~?:愛知県出身。『風』・『林苑』・『春耕』同人)の初期の俳号らしい。月刊俳句誌『獐noRoWEB版の発行人であられる方のブログ「風胡山房」の結城音彦氏の「風狂 西口界隈第二部 酒場『ボルガ』のこと」に、『富田直路(現在は直治)は当時』『小説公園』『の編集者で、ボルガに「俳人で一番初めに来たのは富田直治」(「麦」五〇〇号記念対談・俳句と人生・~現代俳句の過去と未来~と題する、「獐」主宰高島 茂と「麦」会長田沼文雄の対談から高島 茂の談話より引用)であり、石川桂郎をボルガに連れてきたのも富田直治だということである《当時の「馬酔木」に連載の『続・俳人素描(8)高島 茂』(石川桂郎著)より》』とあり、調べると、この酒場「ボルガ」は新宿の焼鳥屋で、俳人がよく出入りしていたらしい(ここの検索結果)から、或いは、このシークエンスの焼鳥屋も、その店名と掲げられた句(句自体は発見出来なかった。「白息」は「しらいき」か)からも「ボルガ」がモデルなのかも知れない。]

 主人は落着きはらってそう答える。笑声。八郎は、寝入りばなを起された子供のようにぎくりとする。富田という名前から、社長のことをはっと思い出したからだ。八郎の視線は、不安気にそこらあたりに動く。その視線がたまたま、スタンドの端の黒い電話機に、ぴたりと止る。燈の色を吸って、黒々としずもっているその受話器。八郎の眼はしばらくそこに釘づけとなっている。酔いのせいか、その眼はやや赤く血走っている。

(あの受話器を外して、ダイヤルさえ廻しさえすれば)

 その誘感に抗し切れないように、八郎は身ぶるいをする。

(今日の宿直は、誰だったかな。山田――鈴木?)

「おい。元気出せよ」

 隣りの酔漢の掌が、力まかせに八郎の肩をたたく。八郎はぎくりとふり返る。

「元気、出せよ。飲みにきてまで、クヨクヨするなよ。なあ、我が同志」

「クヨクヨなんか」

 酔漢の眼は、言葉の荒っぽさに似ず、案外しょぼしょぼとして、見るからに善良さにあふれている。言わば救いを求めるような、弱々しい眼だ。(ああ俺の眼と同じだ)瞬間に八郎は思う。

「電話掛けようかと思ったんだ」

「掛けなよ。迷うこたあない」

「じゃ、掛けようかな」

 八郎は腰を浮かした。しかし会社に掛けて何を聞こうというのか。何を確かめるのか。女が気を利(き)かせて、電話機を八郎の前に持ってくる。

「さあ、どうぞ」

 八郎は受話器をにらみつける。そしていきなりわしづかみして、ダイヤルを廻す。ペルの音がして、やがて相手が出てくる。八郎はつくり声を出す。

「もしもし。富田商事ですか?」

「そうです」

 宿直の鈴木の声だ。その声の彼方に、小さく固いものを、がらがらとかき廻す音がする。麻雀をやってるな。八郎は鹿爪らしい声で訊ねた。

「社長さんおいででしょうか。おいででしたら一寸お電話口まで」

「社長。社長はもう帰りましたよ」

 そして、ガチャンと向うから電話を切ってしまう。八郎は妙な顔をして、しぶしぶと受話器を戻す。(バカ野郎奴!)八郎はコップヘ手を伸ばす。(ボーナス持ち逃げされたってのに、呑気(のんき)に麻雀などやってやがる?)コップの残りを、ぐいと飲み乾す。(社長が出て来たら、あやまって、これから会社に戻ろうと思っていたのに)

 傍から酔漢が話しかける。

「もう、電話、済んだのかよ」

「済んだよ」

 もう一杯酒を庄文しながら、八郎はさばさばと答える。もうどうにでもなれといった気持だ。

「もう何もかも済んだ。今日は今から飲むぞ。大酒飲んで大遊びするぞ」

 

 酔漢は名刺を出した。しょぼしょぼした下っ端のくせに『大河原帯刀(たてわき)』などという堂々たる名前を持っている。人なつこいたちだと見え、別れようとすると八郎の袖をつかみ、なかなか離さなかった。

「今晩は俺とつき合えよう。袖触れ合うも他生の縁じゃないか。金はまだ、ボーナスが少しばかり残ってるぞ」

 大河原の善良さにも引かれる気持はあったし、気楽な飲み相手だったし、強いて別れたって、自分一人ではどうして遊んだらいいか判らながったし、八郎はずるずると大河原につき合った。焼鳥屋を出、(その勘定は大河原が無理に払った)それからまた二軒ばかり廻った。その一軒は、小さなキャバレーみたいなところで、派手な女たちがそばに坐り、バンドが鳴り響き、フロアでは人影がなめらかに動き、火薬を詰めた小さな紙筒が、あちこちで景気よくパンパンと破裂した。女たちが運んでくるのは、もっぱらビールである。バンドがかきならす曲目は、『ホワイトクリスマス』『ジングルペル』。八郎の酔眼には、そこらあたりは、ごちゃごちゃに引っかき廻した切紙細工に見えた。

「ねえ。クリスマスの券、買ってよう」

 傍に坐った半裸の女が、鼻を鳴らした。

「ねえ、一枚たった二千円なのよ。よう。買ってよう。社長さん」

「僕は社長じゃないよ」

 鞄を相変らず抱きしめたまま、八郎はやや呂律も怪しく答える。その会話を聞きとがめたように、大河原がそばから口を出す。

「いや、えらい。よくぞ見抜いた。この人は、我が社の社長だよ」

「よせよ」

「ねえ。社長さん、買ってよ」

 女が八郎にしなだれかかる。露出した肩の筋肉が分厚い。よく脂肪がのって、五寸位の厚みはありそうだ。強い香料が八郎の嗅覚をくすぐる。八郎は身体を引くようにして、その女の裸の肩を見る。その肌の色は逸楽的ではあるが、八郎が今夜望んでいる快楽とは、どこか異っている。彼は突然、強い退屈を感じる。(どうにかしなくては!)大河原は向うの女と、何か冗談を言い合いながら、ケラケラと笑っている。

 その次の一軒は、天ぷら屋の二階であった。二階と言っても、すすけたようなこの一部屋だけである。大河原は顔馴染(なじみ)らしく、酒や天ぷらを運んできた少女に、心易げな冗談口を利いたり、手を握ったりした。少女は丁度、色気がつき始めたという年頃で、

「いけすかないわ」

「いけすかないったら、ありゃしない。この大河原さんったら」

 口癖みたいに、ちょっと訛(なま)りのある声で発音した。田舎田舎とした顔立ちだが、もう眉黛(まゆずみ)を引いたり、口紅を濃くつけたりしている。爪も赤く染めているのだが、水仕事でふくらんだその手には、極めて不似合だ。大河原の悪ふざけを口ほどには厭がっている風でもなかった。

 少女が階下に降りてゆくと、大河原は大げさに慨嘆するように言った。

「もうあの娘も、生娘(きむすめ)じゃないんだぜ」

「どうして判るんだ?」

「そりゃ判るさ。態度や恰好でね」

 二人は天ぷらを食べた。あまり旨(うま)くなかった。大河原はここでは酒を飲まず、すこしずつ酔いが醒めてきた風である。何だかすこしずつ元気がなくなってくる様子で、口数も少くなってきた。八郎は銚子をつきつけた。

「さあ。も少し飲めよ」

「いや、もう」

 眼をしょぼしょぼさせて、海老(えび)の尻尾などをはき出している。やがて力なく坐り直すと、内ポケットから紙袋をとり出した。年末賞与と書いてある。大河原はそれを逆さに振った。百円紙幣が六七枚、ぱらぱらと畳に落ちた。大河原は八郎の顔を見て、哀しそうな声を出した。

「もうこれだけになっちゃった。どうしよう?」

「どうしようって、使えばなくなるさ」

「そりゃそうだけど、このボーナスを待っている女房子供の身にもなってみると――」

 大河原は手巾(ハンカチ)を引っぱり出して、眼尻を押えた。涙が出ているわけではないから、ちょっと恰好(かっこう)をつけてみたのらしい。

「僕は泣きたくなって来るよ」

「じゃ、使わなきゃ良かったじゃないか」

 八郎はすこし呆れて、つけつけと言った。大河原は叱られた幼児みたいな表情になって、上目使いをした。

「でも――」

「でも?」

「でも、使わずには居れなかったんだよ。あんまり癪(しゃく)にさわって」

「何が癪に障ったんだい?」

「だって、予想じゃ、最低一月半は出るというんだろう。それがさ、今日貰って封を切ってみたら、たった半月分じゃないか。こんなハシタ金、家へ持って帰れるかい」

「半月分でも、出ただけでもいいよ」

 と八郎は詰間するような口調で言った。

「ボーナスをそっくり持ち逃げされて、とうとう一文も社員に渡らないという会社もあるんだよ」

「ねえ。頼む!」

 大河原はいきなり大声を出して、坐り直した。

「今晩、俺の家に来て呉れないか」

「僕が何故?」

「さっきキャバレーで思い付いたんだが」

 と大河原はきらきらする眼で、八郎をにらみつけるようにした。

「君は女どもから、社長に間違えられたな。あのでんで、僕の会社の社長になって、僕の家に来て貰いたいんだ」

「君の家に行って、どうするんだい?」

「うちの女房に会ってさ、今期は社の事業不振で、ボーナスは出せなくて済みませんと、あやまって貰いたいんだ」

「そんなバカな」

 八郎は呆れ果てて嘆息した。

「身なりや恰好見れば判るだろ。こんな平家蟹みたいな社長があるかい」

「平家蟹?」

 大河原は瞳を定めて、しげしげと八郎の顔を見た。

「なるほどね。そう言えば君は、全く平家蟹にそっくりだ。でも、大丈夫だ。僕んちの女房は、身なりや恰好で人を判断する女じゃないんだから。頼む。大河原帯刀、一生の願いだ」

「そういうわけには行かないんだよ。僕は今から遊ばなくては。もう夜も短い」

「なに!」

 大河原はそろそろと腰を浮かせて、卓越しにつかみかかろうとする気勢を示した。

「自分の遊びと、他人の生涯の浮沈と、どちらが大切だ。そんなことを言うと、俺はほんとに怒るぞ」

 そして大河原の手がいきなり伸びたと思うと、八郎の傍の革鞄(かばん)をぱっと摑(つか)んだ。あっと言う間もなかった。革鞄は宙を飛ぶようにして、大河原の胸に抱きしめられていた。八郎は飛び上った。

「あ、それは――」

「どうだ」

 大河原は呼吸(いき)をはずませながら、勝ち誇ったように言った。

「ついて来なけりゃ、この鞄は戻さない。無理に取戻そうとするなら、窓から外に捨てちゃう。どうだ。ついて来るか」

「おともするよ」

 八郎はへたへたと坐り込みながら、観念して答えた。鞄を窓からほうり出されては、たまったものではない。もう大河原の言うなりになる他はないようであった。

 

 油断を見すまして鞄を取返す。そのチャンスをねらったのだけれども、大河原はなかなか用心深く、胸にしっかと抱きしめて離さない。代りに大河原の鞄を持たせられて、八郎は郊外電車に乗せられ、八つ目の駅でおろされた。駅員もろくに居ないような、ひっそりとした寒駅である。八郎はホームでくしゃんとくしゃめをした。そろそろ心細くなってきた。

「ここからまた歩くのかい?」

「うん。なに大したことはない。十五分ばかりだよ」

 半欠け月が空に出ていて、黒々とした樹々の梢を、夜風が音を立ててわたっている。大河原が先に立った。しらじらと伸びる畠中道である。道は泥の凸凹のまま、固く凍りついて、歩き辛い。肥料のにおいが夜気にただよっている。まことに田舎々々とした夜景の中で、大河原がふり返った。

「君は女房子供はあるのかい」

「なに、独身住いのアパート暮しだ」

「そりゃ好都合だったな。じゃ今晩は僕の家に泊って行け。酒ぐらいならごちそうするよ」

 むっとした顔つきになり、八郎は返事をしなかった。ボーナスを使い果たしたのに、まだ飲む気でいるらしい。

 やがて畠の彼方から、点々と人家の燈が見えて来た。ヘんなところに人家の聚落(しゅうらく)があると思ったら、大河原の説明によると、都営住宅だという。同じ大きさの同じ恰好の家が、お互いによりそうようにして、二三十軒ずらずらと並んでいる。

 大河原の家は、その一番端にあった。

 玄関をあける前に、大河原は八郎が持っている鞄をも取戻した。つまり八郎は手ぶらになり、大河原は鞄を二つ抱きかかえた形となる。足でがらりと玄関の扉をあけた。

「帰ったぞ」

 奥から先ず飛んで来たのは、二人の男の児である。そしてそのあとから、奥さんが悠然と姿をあらわした。瘦せて世帯やつれをしたような奥さんを想像していたのに、小型戦車を思わせるような、堂々たる体格の細君であった。八郎はあいまいに頭を下げた。

「お客さまをお連れしたよ」

 大河原の声は、少々元気がなくなってきたようである。八郎の方を指しながら、

「うちの社の、社長さん、の甥御(おいご)さんで、穴山さんとおっしゃる」

 社長として紹介するのは、さすがに気が引けたのであろう。八郎は社長からたちまち甥御に下落した。

「さようでございますか。さあ、どうぞ、どうぞ」

 細君は愛想のいい声を出した。男の児は二人とも、大河原の手にすがって、てんでにお土産を請求し始めた。それをあしらいながら、大河原は細君に知られないように八郎の方をふり返り、ちょっと片目をつぶって見せた。八郎はそのおかえしに、章魚(たこ)のように口をとがらせて見せた。

 座敷に通されて見ると、チャブ台の上に、刺身だの酢の物だの吸物だのが、主を待ち顔に並んでいる。ボーナス日だと思って、とくに細君が料理の腕をふるったらしい。あわててそれを片づけようとする細君に、大河原は声をかけた。

「そのまま、そのまま。それよりも酒をあっためろ。この穴山部長は社内でも有数の酒好きだ」

 

 鞄の中の百二十万円から、その一パーセントをさいて、大河原帯刀にボーナスとして与えよう。その考えが八郎の脳裡に浮んだのは、細君の酌でまた大いに酔いが戻り、便所に立ち、便所の窓から白い片割れ月を眺めた時であった。月は無心に照り、その光はあまねく万物におちている。感傷的な感動が、八郎の胸に瞬間にあった。

(どうせ俺の金じゃないんだ。一パーセント位で、一家の幸福が買えれば、これに越したことはないだろう)

 そういう思い付きが八郎の頭に宿ったのは、大河原一家の家庭の雰囲気のせいもあった。肥った細君は大河原を信頼しているらしく、酒のかんも程良かったし、手作りの料理もなかなか旨(うま)かった。夜遅い父親を待ちかねていた子供らも、お土産がないと判ってもすねることなく、母親の言い付け通り寝巻に着換え、それぞれ素直に寝床に入った。そういう雰囲気は、あたたかく八郎の全身をも包んだ。その家庭の中心であるべき大河原帯刀の態度が何かうしろめたく元気がないのも、ボーナスを使い果たしたせいなのであろう。八郎は月を見上げながら呟(つぶや)いた。

「どうせかっぱらった金だ」

 もし一パーセントの一万二千円を、大河原に与えてしまえば、もう完全な使い込みである。後で悔いても取返しはつかない。その気持をねじふせるようにして、八郎は座敷に戻ってきた。

 心痛をごまかすためか、大河原は盃(さかづき)をぐいぐいあおり、八郎にも、しきりに盃を強いる。細君は、八郎が部長であることを微塵(みじん)も疑わないらしく、しきりに話題を会社のことや、景気のことに持ってゆく。あやふやに受け答えしながら、八郎はそっと自分の鞄を引寄せた。ガチャリとあけて、紙幣束を手探る。一枚、二枚と、十二枚数えて引っぱり出す。すべてチャブ台の下の操作だから、大河原夫妻の眼にもふれないが、なかなかの苦労だ。その十二枚をそろえて、も一度数え直してみる。

「おい。さっきの賞与袋をよこせ」

 細君が台所に立って行った時、八郎は低声で大河原に催促した。大河原はきょとんとした顔で彼を見た。

「早くよこせったら。僕がボーナスを出してやる」

 賞与袋をひったくるように受取ると、十二枚を押し込み、大河原に押しつけた。

「これはやるんじゃないよ、貸してやるんだよ。いいか」

「済まん」

 何か訳も判らないまま、とにかく賞与袋がふくらんだのを見て、大河原は手を合わせて拝むまねをした。細君が酒徳利をぶら下げて、台所から出てきた。拝んだ恰好をごまかすために、大河原はその手をひょいと踊りの恰好に変えた。

「まあ、何ですか」

 細君は坐り込みながら、きまり悪げに八郎の方をちらりと見た。

「いつも宅は酔っぱらうと、ひょうきんな真似ばかり致しまして――」

「バカ言うな。早く酒を注げ」

 と大河原は、急にはつらつと元気が出て来たようである。

「平家蟹部長にも、早く酒を注いでさし上げろ」

「まあ、悪いわ。部長さんのことを、平家蟹だなんて」

 細君は掌を口にあてて、押え切れないように笑い出した。幸福に満ちあふれた笑い声である。手にした徳利から、笑いと共に、酒がたぶたぶこぼれる。八郎はかすかな嫉妬と羨望を感じて眼を伏せた。(この一家はこれで幸福になったが、この俺はとうとう拐帯者(かいたいしゃ)となってしまった)八郎はまた盃に手を仲ばした。成行きに任せるより仕方がない。居直るような気分である。

 

 朝食を済ませ、細君に見送られて、二人は外に出た。赤土を持ち上げたおびただしい霜柱である。二人の靴の下で、それらはサクサクと、鋭い刃になって砕けた。

 うまく応対したものだから、最後まで部長の化の皮は、見破られなかった。しかしそれにしても、何か憂鬱な重い気分である。酔いは醒めたし、寝不足で瞼はふくらんでいるし、昨夜のことが莫迦々々しくて仕方がない。貴重な一夜をムダに過してしまった。全くそんな感じである。風邪を引いたと見えて、鼻の奥が刺すように痛かった。

「昨夜はどうも迷惑をかけたな」

 家が見えなくなるまで歩いてきた時、大河原はにやにやと八郎をかえり見た。

「おかげで女房にも面目が立ったよ」

「まったく大迷惑だよ」

 八郎は笑いもせずに答えた。

「君は面目が立っていいようなものの、僕は予定が大狂いだ」

「あっそうだ。君に借用証書を書いとこう。ほんとに大助かりだったよ」

 駅について、電車が来るのを待つ間に、大河原はペンと紙を出して、急いで借用証書を作成した。見ると返済方法は、向う十二箇月間の月賦となっている。月に千円ずつ返済してゆくつもりらしい。別段異存もなく、八郎はそれを受取った。酔いが醒めた今となっては、一万二千円が惜しいというより、それを与える気になった自分の未熟な感傷の方が恥かしかった。

 郊外電車から国鉄への乗換駅は、ものすごく混んでいた。みんな鞄をぶら下げた出勤者ばかりである。その中でもまれながら、この数百数千の群集の中で、自分一人だけがどこにも行くあてがないと思い当った時、八郎は突然強い寂寥(せきりょう)と焦燥を感じた。大河原は鞄をかかえこんで、歩廊への階段を降りてゆく。八郎は人混みにまぎれるふりをしながら、そっと大河原から離れた。大河原も会社に出勤するに違いないし、いつまでもついて歩くわけには行かないのである。

 八郎はそのままふらふらと、あてもなく改札口の方に歩いた。とにかく駅を出なくては。こんなに多くの群集の中には富田商事の人間が一人や二人混っていないとも限らない。見とがめられると大変だ。

 改札を出ると、八郎は得体の知れない不安に恐怖を覚えた。誰かが遠くから、じっとこちらを監視しているような感じがする。そいつがいきなり手をあげて「拐帯者!」と叫び出しそうな気がする。八郎は外套(がいとう)の襟を立て背を丸めるようにして、あてもなく急ぎ足であるいた。人通りの多い街を外れ、人気(ひおけ)のない淋しい区画の方へ、自ら足が動いてゆく。ぶら下げた鞄は、犯した罪の重みのように、しっとりと手に重かった。

(さて今日は、どうやって時間を消すか?)

 

 ごみごみした小住宅街の、とある横丁に何気なく曲り込んだ時、八郎の耳は清らかな斉唱の声をふととらえた。幼い子供たちの合唱である。歌は讃美歌であった。

 

  もろびとこぞりて

  むかへまつれ

  ひさしくまちにし

  主はきませり

 

 八郎は立ち止って、あたりを見廻した。柵に囲まれた空地と見えたのは、幼稚園の庭らしく、声はその傍の緑色の建物から流れてくるようであった。八郎はかすかに胸がつまった。子供の頃通っていた日曜学校のことを、思い出したからだ。

(そうだ。今日はクリスマスだ)

 八郎は庭に足を踏み入れ、建物の入口をそっとのぞいて見た。靴棚には子供たちの靴が、三和土(たたき)には大人の靴や草履(ぞうり)が、足の踏み場もないほどに並んでいる。

「クリスマスをやってるんだな」

 どういう気持か判らないが、ふっと八郎はそこに入ってみる気になった。幼児の父兄みたいな顔で入れば、見とがめられることもないだろう。

 八郎はそっと靴を脱いだ。廊下に上ると、壁に大鏡がはめこまれていて、それが彼の全身をうつし出した。八郎はその自分の姿を見た。蟹(かに)そっくりの自分が、革鞄を大切そうにかかえている。八郎は眼を外らした。

 クリスマスの部屋は、廊下を曲って、突き当りの部屋であった。扉が半開きになり、母親たちらしい人影があふれている。その手前が、いろいろ準備をする控えの間らしかった。その控えの間に立っている二人の中年の女が一斉に頭を動かして、八郎を見た。その一人が、いらだたしげな手付きで、八郎を手まねきした。

 八郎は意志をなくしたように、ふらふらとその女の方に近づいて行った。手まねきした女は、縁無し眼鏡をかけていて、いかにも世話役らしいきびきびした顔をしていた。

「ずいぶん遅かったわね。はらはらしたわよ」

 と女は八郎に、つけつけした口調できめつけた。

「早く着換えなさいよ。子供たちは先刻から待ちかねているのよ」

 八郎はキョトンとしていた。何か間違えられていることは判ったが、どんな間違いなのかそれはよく判らなかった。女の右手がいらいらと卓の上を指した。

「早く、早く」

 八郎は卓上を見た。そこには赤い衣服や帽子や、大きな袋が載っている。サンタクロースの扮装である。

「僕が、この衣服を?」

「そうよ、きまってるじゃないの」

 女は八郎の外套に手をかけて、脱がせようとした。八郎はそれにあらがおうとして、すぐに力を抜いた。外套は無雑作に剝ぎ取られた。も一人の女は赤い服を持って、八郎の背後に立っている。否も応もなかった。五分後、白い綿を鼻下や頰ぺたにくっつけてサンタクロースがすっかり出来上った。二人の女は大きな袋を、八郎の背中に押しつけた。袋の中には玩具やそんなものが沢山入っているらしく、ガチャガチャと鳴った。

「バカね。この人」

 眼鏡の女が八郎の手から、鞄をひったくった。

「鞄をぶら下げたサンタクロースが、どこにありますか!」

 隣りの部屋から、可愛い合唱が流れてきた。足踏みの音も聞えてくる。

 

  あかい帽子をかぶってる

  サンタ爺さんまだ来ない

  遠い雪道寒いだろう

  静かにすると聞えてくるよ

  リンリンそりの鈴の音が

 

 眼鏡の女がリンリンと鈴を鳴らしながら、廊下に出ていった。鞄に心残りはしたが、八郎ももう騎虎(きこ)の勢いで、女のあとにつづいた。ガニマタで猫背の俺だから、サンタ爺にはうってつけだな。そんなことを考えながら、鬚の中で八郎は苦笑した。鈴の音にみちびかれて部屋に入ると、歌はしずかに止み、小さな掌を打ち合わせる拍手が、四方からまき起った。突然一粒の熱い涙が、八郎の瞼を焼いて頰に流れ出た。彼は手を上げ、鬚の先でそれを拭きながら、強いて朗かな声を出そうとした。

「皆さん。私は今日遠い国から、ソリにのってはるばるやって参りました」

 咽喉がかすれて、快活な声にならなかった。たくさんの幼い眼の注視の中で、八郎はぎくしゃくと袋を床におろした。

「さあ、ここに皆さんへのクリスマスプレゼントが……」

 

 午後十時。女易者は店を片づけ始めていた。燈をふき消し、木の台を折りたたむ。白いうなじに寒い夜風があたる。易者はちょっと身ぶるいして顔を上げた。昨夜の男がそこに立っていた。今夜もいくらか酔っているらしく、呂律(ろれつ)がはっきりしない風であった。

「もう店仕舞かね?」

「ええ。師走だから、お客が寄りつかないんですもの」

「も一度手相を見て貰いたいんだ」

「もう駄目よ。燈も消したし」

「じゃ、そこらでお茶でも飲みながら――」

 女易者はいきなり腕を摑(つか)まれた。真剣な握力である。易者は一度はそれをふりはなそうとしたが、思い直したようにその動きを止めた。

「じゃ、ちょっと待っててね」

 易者が仕事道具を片づけて、近所の店に預けてくる間、穴山八郎はビル横のうすくらがりにぼんやり佇(たたず)み、遠く近くの盛り場の燈の列を眺めていた。今宵はクリスマスイヴである。明るい燈のもとを、酔客の群がはしゃぎながら歩いてゆく。八郎の眼は、やや兇暴な光を帯びて、それを見た。易者は小走りで戻ってきた。

「お待遠さま」

 八郎は先に立ってあるき出した。易者もそれにつづいた。酔いの意識の底で、八郎はいつかタイピストの岡田澄子とつれ立って歩いているような錯覚におちている。いたわるような遠慮がちの声で、

「お茶でものむ?」

「何かあたたかい、食べものの方がいいわ」

 八郎は易者の顔を見た。易者はわるびれない視線で、八郎を見返した。

 十分後、二人は中華そば屋にいた。五目そばを食べていた。もっとも食べているのは易者の方で、八郎は二箸三箸つついてみただけである。食事は終った。待ちかねたように八郎は口を切った。

「君が言う通りにやってみたけれど、やっぱり面白くなかったよ」

「何のこと?」

「決断して踏切れってことさ。そら、昨夜そう言ったじゃないか」

 易者は手巾(ハンカチ)を出して、口のまわりを拭った。無表情な、能面にも似た静かさである。

「決断して何をしたの」

「会社の金を持って逃げたんだ」

 易者は短く笑った。しかし八郎の真面目な表情を見て、笑い止めた。食べ終った箸(はし)をポキポキ折りながら、

「面白くなかったら、戻せばいいんじゃないの。カンタンなことよ」

「カンタンにゆくものか」

「でも、持ち逃げしたって、あれから一昼夜でしょ。どうにでも言い訳はつくわ」

「どう言い訳するんだね」

 易者は黙った。沈黙が来た。少し経って、八郎は押しつぶされたような声を出した。

「君は責任を持つと言ったね、昨夜。全身的な責任を」

 易者はぎくりとしたように顔を上げた。ぎらぎらした八郎の眼がそこにあった。食い入るように見詰めている。

 やがて易者は肩を動かして、ほっと息をついた。そして視線を八郎の鞄にうつしながら低い切迫した声でたずねた。

「金は、その鞄に入ってるの」

 八郎はうなずいた。

「いくらぐらい?」

「百二十万円」

「どうしてそれを持ち逃げする気になったの?」

 八郎の顔に、ちらと困惑の色があらわれた。今度は易者の視線が、まっすぐに八郎を突き刺している。八郎はどもった。

「交叉点の信号が、赤だったんだ。だから僕は……」

 

 ちょっと電話をかけてくるから、もし厭だったら、その間に姿を消してしまいなさい。八郎が女易者にそう言う気になったのは、かりそめの遠慮心からだっただろうか。聞えたのか聞えなかったのか、易者は眉も動かさず、しずかに煙草をくゆらしていた。何か考え込んでいるふうにも見えたし、ふてくされた態度にも見えた。八郎は鞄を小脇にかかえ、奥へ歩いた。

 電話は調理場のそばにあった。肥ったコックが大きなフライパンで、しきりに料理をつくっていた。ラードやニンニクのにおいがむっとただよう。

 八郎は手帳を取出し、眉を吊上げて、しばらくその一頁をにらんでいた。記してあるのは、富田社長の自宅の電話番号である。も一度電話する気になったのも、易者のすすめからであった。もちろん受話器をとり上げるのには、密度の違う世界に入ってゆくような、烈しく不快な抵抗があった。電話口の向うに、やがて社長の声が出て来た。

「ああ、穴山君か」

 いつもの声とちがって、おどおどしたような猫撫で声である。

「どうしたんだね。心配してるよ。今どこにいるんだね?」

 八郎は黙っていた。

「ねえ、穴山君。一刻も早く帰っておいで。君のことは、まだ誰にも話してない。誰も君の行為は知らないんだ。僕の胸ひとつにたたんである。大手をふって帰っておいで。今からでも遅くはない」

 社長の狼狽ぶりと心痛ぶりが、その猫撫で声から、ありありと読み取れるようであった。八郎はしかしその口調に、かすかな反撥を感じた。

「無条件で僕を入れますか。それがうかがいたいんです」

「もちろんだよ、君」

 社長の声は日頃の豪快さを失って、いよいよ弱々しくなるようであった。

「少しぐらい使い込んであっても、僕は何とも言わない。な、戻って来てくれ。頼む。その金が戻らないと、僕は社員や株主に顔向けができんのだ。な、教えてくれ。今どこにいるんだね?」

「都内の某所に潜伏中です」

「そ、そんな意地悪なことは、いわないでくれ。君の条件は、何でも入れる。決して自暴自棄にならないで、な、人生は真面目に渡った方が、結局は得なんだ。君だって子供じゃないんだから、判るだろう」

 受話器を耳にあてたまま、八郎はコックの焼飯のつくり方を眺めていた。なるほど、あそこで塩を入れ、それからコショウを入れるんだな、そして調子よく、フライパンの中の飯をひっくりかえす。

「ねえ。どうしてそんな出来心を起す気になったんだい。え。何か僕に不満でもあったのか。不満があったら、逃げたりしないで、僕に直接言えばいいじゃないか。え?」

「よく考えてみます」

 八郎は受話器を耳から離した。何か叫ぶ社長の声が、耳から弱まった。八郎はガチャリと電話を切った。あまり愉快ではない。ひややかな笑いが、泡のように八郎の口辺にのぼってきた。(奴さん。金を持ち逃げされて、大あわてしてるらしいな)電話をかけるまでは、こんな情況は想像だにしなかった。むしろ、怒鳴りつけられる自分をすら想像していたのだ。案に反して、今のところ、こちらが絶対優位に立っている。その自覚は、突然彼の気持を兇暴にした。(矢でも鉄砲でも持って来い!)彼は肩肱をいからせて、つかつかと店に戻って来た。

 易者は煙草をくゆらせながら、じっと卓に待っていた。その白いうなじの色に、八郎はいらだたしいほどの情欲を感じた。

「帰らなかったんだね」

 うなじに断髪がゆらいで、女はかすかにうなずいた。

「なぜ帰らなかったんだね?」

 易者はやや蒼ざめた顔を上げた。片頰にはこわばったようなつくり笑いが浮んでいる。はっきりした声でいった。

「あなたが可哀そうだったからよ」

「僕を憐れむのか?」

 八郎の眉間に、暗い光が走った。

「そう。それから――」

 易者は視線を宙に浮かせながら、早口で、

「その鞄の中の金のことが、気になったからよ」

「何故気になるんだね?」

「だってあたしも、貧乏だもの」

 易者は灰色の上衣の襟をかき合わせるようにした。八郎の掌は、その肩をつかんだ。掌の下で、やわらかい肩の筋肉は、びくりと慄えた。八郎はその耳にささやいた。

「今晩、僕と一緒に行くか?」

「どこへ?」

「どこへでも」

 易者は煙草を灰皿におしつけた。火はジュウと消えた。蒼白い顔を上げた。

「行ってもいい。その代り、あたしに上衣を買ってくれるなら」

 媚びが女の全身ににじみ出た。自然のものというより、無理にしぼり出したような、苦しげな身のこなしであった。八郎は掌を肩から離した。(この俺にではない。百二十万円に媚びているのだ)しかし、それならばそれでもいい筈であった。今の八郎に、どんな異存があるというのだろう。

 

 自動車の中で、八郎は易者によりかかるようにして、幼稚園のクリスマスの話をしていた。声は上機嫌で、むしろ軽薄な響きを立てたが、八郎の心は暗く沈んでいた。沈んだ心をかき立てるために、彼の口調はますます軽燥な色を帯びた。

「誰かと間違えられたらしいんだ。――よく判らない。――それでとにかくサンタクロースになってしまった。サンタクロースの服はにかわのにおいがしたな。部屋に入ってゆくと、子供たちは皆拍手をした。――僕はどぎまぎした」

「なぜ、どぎまぎしたの?」

 易者は気のないような相槌(あいづち)を打った。

「判らない。サンタでもないのにサンタのような恰好をしてたからだろう。拐帯者のくせに、慈善者のなりをしたりしてさ」

 八郎の右手は、易者の肩にかかっていた。肩をおおっているものは、先刻店で買い求めたグレイのハーフコートである。ふわふわしたあたたかい感触であったが、それはまた血の気の通わない、不毛のあたたかさでもあった。先程の兇暴な情欲は、もう八郎の心の中で死んでいた。あるのは、義務とか責任に似た、重苦しい思いだけである。(この女も勿論同じ思いに違いない)八郎は自分の情欲をふたたびかき立てるように、しきりに女の肩をまさぐっていた。衣服が厚くないので、貝殼骨のありかが、ありあり指に感じられた。女はくすぐったそうに、肩をすくめた。八郎は低声でいった。

「こんなことするの、初めてかい?」

「そんなこと聞いても仕方ないでしょ。何故あなたはあたしと遊ぶ? 初めてだろうと二度目だろうと、関係ないじゃないの」

 女の掌が、肩の八郎の掌を押えていた。女の指は長くつめたかった。そのままの姿勢で八郎は窓の外を眺めていた。自動車は暗い夜の街を疾駆していた。窓ガラスをちらちらと白いものがかすめた。雪のようである。

「明日から――」

 明日のことを考えるのは、物憂かった。しかし明日になれば、俺は臆病になり心を萎縮させて、あれこれ惑った後、結局は鞄をぶら下げて、富田商事に戻って行くだろう。その予感が、不快なしこりのように、先刻から八郎の胸をおしつけていた。二日間の茶番。その茶番も今夜でピリオドを打つのだ。八郎はも一度力をこめて、女のほっそりした体をだきすくめるようにした。自動車は大きくカーブを切った。女の体は物体の法則にしたがって、彼の胸になだれこんで来た。女の体は生き物のにおいがした。

 

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