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2022/07/07

「南方隨筆」底本正規表現版「紀州俗傳」パート 「六」

 

[やぶちゃん注:全十五章から成る(総てが『鄕土硏究』初出の寄せ集め。各末尾書誌参照)。各章毎に電子化注する。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(冒頭はここ)で視認して用いた。また、所持する平凡社「選集」や、熊楠の当たった諸原本を参考に一部の誤字を訂した。表記のおかしな箇所も勝手に訂した。それらは一々断らないので、底本と比較対照して読まれたい。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 本篇の各章は短いので、原則、底本原文そのままに示し、後注で(但し、章内の「○」を頭にした条毎に(附説がある場合はその後に)、読みと注を附した。そのため、本篇は必要性を認めないので、PDF版を成形しないこととした。

 なお、本章は石化する食物を扱った単独の一篇で、やや長いため、「選集」の段落を参考に段落分けを行った。私の注はそれぞれの段落後に挿入した。] 

 

       六、

 ○石芋(鄕硏一卷三號一八二頁參照) 寬延二年靑山某の葛飾記下に、西海神村の内、阿取坊(あすは)明神社の入口に石芋有り、弘法大師或家に宿を求めしに、嫗貸さず、大師怒て、傍に植設けたる芋を石に加持し、以後食う事能はず、皆此所え捨しより、今に四時共に腐らず、年々葉を生ず。同社の傍らの田中に、片葉の蘆有り、同く大師の加持と云ふと載せて居る。何故蘆を加持して片葉としたのか、書ては無いが、先は怒らずに氣慰めに遣た者と見える。大師は餘程腹黑い疳癖强い芋好きだつたと見えて、越後下總の外土佐の幡多郡にも食ず芋と云が有る。野生した根を村人拔來り橫切にして、四國順拜の輩に安値で賣る、其影を茶碗の水に映し、大師の名號を唱へて用れば、種々の病を治すと云ふ。植物書を見ると、食用の芋と別物で、本來食えぬ物だ。甲斐國團子山の石皆團子也、大師通りし時、一人の姥團子を作り居るを見て、乞しも與へず。怒て印を結び、團子を石に化したと、柳里恭の獨寢に見ゆ。紀州西牟婁郡朝來、新庄二村の界、新庄峠を朝來へ下る坂の側に弘法井戶有り、泉水常に滿乍ら溢れず、類稀な淸水だ。大師此所の貧家で水を乞ふと遠方え汲に行て吳た。其酬に祈出したんだ相な。此峠より富田坂に至る、數里の間は平原で、耕作に好いが、豌豆を作らぬ、之を植れば、必ず穴少しも無き莢の中に、自と蟲生ず、隣近諸村に絕えて其事無い、件の平原の住民ら、大師に豌豆乞れて一粒も與えなんだ罰と云ふ。

[やぶちゃん注:「選集」では冒頭の「石芋」をゴシック太字とする。さて。実は私は十六年も前に以上の一部を電子化して考証している。しかもそれは俳人村上鬼城の「鬼城句集」の全注釈をやった時の(一括縦書HTML版はこちら)、「鬼城句集 秋之部 芋」の冒頭の句、

 石芋としもなく芋の廣葉かな

の注でやらかしたものである。そこで私は「石芋」を真っ正直に捉え、俄然、石芋相当の種を迂遠に考証したのであった。詳しくはそちらを見られたいが、そこで、私は以下の四種の候補を挙げた。

   *

(1)単子葉植物綱オモダカ目サトイモ科サトイモ Colocasia esculenta の品種の中で半野生化し、先祖帰りして苦味やえぐ味(ある種のタンパク質が付着したシュウ酸カルシウムが針状結晶や細かい結晶砂として細胞内に集合した、大きく脆いその結晶体が原因とされている。但し、その味覚感はこのシュウ酸カルシウムの結晶が直接舌に刺さることによって生じるとも、その化学的刺激の結果であるともされ、またシュウ酸カルシウムとは異なる別個なタンパク質分解酵素による現象とする説があって明確ではない)が強くなって食用に適さなくなった個体群

(2)根茎のシュウ酸カルシウム含有量が高く、食用に適さないサトイモ科のある種を指す。例えば、サトイモ科ヒメカイウ Calla palustris など。ヒメカイウはミズザゼン・ミズイモとも呼称し、本邦では北海道や本州の中北部の低地から山地の湿地に自生し、小型のミズバショウといった形態を成しており、葉は卵心形・円心形で大きさ五~十五センチメートル、十~二十センチメートルの葉柄を持つ。白色の長さ四~六センチメートルの仏炎苞(ぶつえんほう)を持つ花を初夏に開く。果実は赤色のベリー状で、その中に数個の種子を産する。本邦では食用としないが、スカンディナヴィアでは本種の根を煮て擂り潰し、暫く置くことで毒抜きをしてから食用とすることがある。

(3)サトイモ科オランダカイウ(サンテデスキア)属 Zantedeschia のオランダカイウ類で、現在、園芸で英名から「カラー」(calla)又は「カラー・リリー」(calla lily)と名づける観葉植物。南アフリカ原産であるが、本邦には江戸時代に既に渡来してオランダ海芋(かいう)と呼称された。この属には仏炎苞や葉が美しい種や品種が多く含まれており、観賞用として盛んに栽培されている。地上部はサトイモに似ているが、オランダカイオウ類は全草が有毒である。

(4)サトイモ科クワズイモ Alocasia odora。大きな個体では傘にして人間も入れるほどの葉を持つ。素朴な味わいのある大きな葉を持つ観葉植物としても親しまれ、園芸ではアローカシアとも呼称する。以下、ウィキの「クワズイモ」によれば、『サトイモのような塊状ではなく、棒状に伸びる根茎があり、時に分枝しながら地表を少し這い、先端はやや立ち上がる。先端部から数枚の葉をつける。大きさにはかなりの個体差があって、草丈が人のひざほどのものから、背丈を越えるものまでいろいろ』で、葉の長さは六十センチメートルにも達し、『全体に楕円形で、波状の鋸歯がある。基部は心形に深く切れ込むが、葉柄はわずかに盾状に着く』。葉柄も六十センチメートル~一メートルを越え、『緑色で、先端へ』ゆくほど細くなる。『花は葉の陰に初夏から夏にでる。仏炎苞は基部は筒状で緑、先端は楕円形でそれよりやや大きく、楕円形でやや内に抱える形で立ち、緑から白を帯びる。花穂は筒部からでて黄色味を帯びた白。果実が熟すと仏炎苞は脱落し、果実が目立つようになる』。『中国南部、台湾からインドシナ、インドなどの熱帯・亜熱帯地域に、日本では四国南部から九州南部を経て琉球列島に、分布する。長崎県五島市の八幡神社のクワズイモは指定天然記念物にもなっている。一方、沖縄県では道路の側、家の庭先、生垣など、あちこちで普通に自生しているのが見られる。低地の森林では林床を埋めることもある』。『日本では、やや小型のシマクワズイモ(A. cucullata (Lour.) G.Don)が琉球列島と小笠原諸島に、より大型のヤエヤマクワズイモ (A. atropurpurea Engler)が西表島に産する』が、『よく見かけるのはむしろ観葉植物として栽培される国外産の種であろう。それらは往々にしてアローカシアと呼ばれる。インドが原産地のインドクワズイモ(A. macrorrhiza)、緑の葉と白い葉脈のコントラストが美しいアロカシア・アマゾニカ、ビロードの光沢を持つアロカシア・グリーンベルベットなどがよく知られる』。『クワズイモの名は「食わず芋」で、見た目はサトイモに似ているが、食べられないのでそう呼ばれている。シュウ酸カルシウムは皮膚の粘膜に対して刺激があり、食べるのはもちろん、切り口から出る汁にも手で触れないようにした方がいい。日本では、外見が似ているサトイモやハスイモの茎(芋茎)と間違えてクワズイモの茎を誤食し』、『中毒する事故がしばしば発生している』とある。

   *

さて。結果して、当時の私は、以上の段落中で熊楠が「食用の芋と別物で、本來食えぬ物だ」と言っているのは(4)のクワズイモと断定している。これは、今も変わりはない。

「(鄕硏一卷三號一八二頁參照)」この注記は底本では「鄕硏一八二頁」でこれでは判らんので「選集」で補った。而して「選集」では「頁」の後に割注して『中西利徳「石のかけら」』とする。中西利徳氏は事績不詳だが、ある論文の『郷土研究』創刊号のデータについての資料によると、投稿者『越後柏崎中西利德』で「岩の掛橋」という論考を寄稿していることが判った。

「寬延二年」一七四九年。

「靑山某の葛飾記」葛飾郡中の名所旧跡・神社仏閣の縁起などを解説した観光案内的地誌文献。国立国会図書館デジタルコレクションの明治四一(一九〇八)年国書刊行会刊の「燕石十種」第二のここから読める。

「西海神村」(にしわたつみむら)「の内、阿取坊(あすは)明神社」現在は千葉県船橋市海神(かいじん)に、龍神社(りゅうじんにゃ)として現存する(グーグル・マップ・データ。以下指示のないものは同じ)。旧村名の読みは「江戸名所図会」巻之七の「阿須波明神祠」の解説にある読みに従った。同書に「沙竭羅(しやから)龍王を祀るといふ。【故に此の地を海神とは稱せりといへり】。耕田と道路を隔てて海汀(かいて)に向ひて華表(とりゐ)を建つる。九月四日を祭祀の辰(しん)[やぶちゃん注:「時節」に同じ]とす。この日、芋(いも)を食すを舊例とす。ゆゑに土人、芋祭りと呼びならはせり」とあって、芋伝説の名残が祭事としてあることが記されてある。先のグーグル・マップのサイド・パネルの同神社のいわれを記した石碑の写真に、「氏子中」の署名で、

   *

龍神社は 西海神の鎮守で大綿津見命を祀る  仏名を娑竭(しやから)羅龍王という 阿須波の神ともいわれる 明治以前まで大覚院[やぶちゃん注:ここ。]が別当をしていたと伝えられ 同寺の山号を龍王山と称する

 万葉集巻二十に

庭中の阿須波の神に小柴さし

 我(あ)れは斎(いわ)はむ帰り来(く)までに

の歌が伝えられている

 境内にある小さな池には弘法大師の石芋や片葉の蘆の伝説が残されている

   *

とある。

「嫗」「うば」。「選集」は『ばば』とするが、前掲「葛飾記」の記載に従った。

「傍「かたはら」。

「植設けたる」「うゑまうけたる」。

「此所」「このところ」と読んでおく。

「腐らず」原本は「腐れず」(くたれず)。以下の「片葉の蘆」の方は簡略に引いてある。原本では最後に片葉の蘆は「何方にも有よし」とドライに言い添えてある。ここのすぐ近くなら、弘法大師なんざ、お呼びでないぞ! 悲劇の美女「真間の手児奈」の伝説だ! 現在の手児奈霊神堂にある池は、真間の入江の名残と言われており、「手児奈」伝説に出る「片葉の葦」が見られる。前の龍神社と同じく、この辺りは海岸線がもっと陸側にあったのである。ただ「氣慰」(きなぐさ)「めに遣」(やつ)「た」加持なんぞで片葉にするなんて、芋を石芋にする以上に無粋どころか馬鹿の極みで、私は美しい水汲みの手児奈を傷つけまいと、葦が自然に、その通い道に葉を出さぬように片葉になったというが、万葉以来の風雅であろう。

「大師は餘程腹黑い疳癖强い芋好きだつたと見えて」熊楠! サイコー!!!

「越後」探し得なかった。

「土佐の幡多郡にも食ず芋と云が有る」反対側の室戸岬の例がサイト「四国お遍路」の『お大師様の「食わず芋伝説」』に載る。

「野生した根を村人拔來り橫切にして、四國順拜の輩に安値で賣る、其影を茶碗の水に映し、大師の名號を唱へて用れば、種々の病を治すと云ふ」これは「どっこい! 逆転」の発想で面白いぞ!

「甲斐國團子山の石皆團子也、大師通りし時、一人の姥團子を作り居るを見て、乞しも與へず。怒て印を結び、團子を石に化したと、柳里恭の獨寢に見ゆ」現在の甲斐市団子新居(だんごあらい)の字(あざ)団子石に伝承するらしい。サイト「YAMANASHI DESIGN ARCHIVE」の「団子石」に同話が載り、甲府勤番番士野田成方(しげかた)の「裏見寒話」(宝暦二(一七五二)年序)の同話の訳も載る。同原話は国立国会図書館デジタルコレクションの「甲斐史料集成」三のここで読める。この「柳里恭の獨寢」の「柳里恭」は江戸中期の画家で儒者にして日本文人画の先駆者で大和郡山柳沢藩家老の柳沢淇園(きえん 宝永元(一七〇四)年~宝暦八(一七五八)年:柳沢吉保の家老の家に生まれた。里恭(さととも)は元服後の本名)の随筆。但し、近世を通じて刊行されず、写本で以って行われた。成立は、序文によれば、主家柳沢家の甲府から大和郡山への移封があった享保九(一七二四)年二十一歳の時、城受取役の一人として先発した彼が、彼地にあって日々の無聊の慰めに筆を執ったことに始まるとする。内容は絵画・和歌・俳諧・琴・尺八・三味線など諸事芸能にわたるが、中でも遊女と遊びの道に多くを割いており、彼の多趣味、殊に拘らぬ風流人士振りが窺われる好編である。国立国会図書館デジタルコレクションの活字本で発見した。ここの「團子洗ひ」がそれ。最後の方にその石を自身が削り磨って絵具にしたという私にはとても素敵な話も載るので、是非、読まれたい。

「紀州西牟婁郡朝來」(あつそ)「、新庄二村の界、新庄峠を朝來へ下る坂」戦前の「ひなたGPS」のこの附近であろう。新庄村は現在は田辺市新庄町(しんじょうちょう)。が、ここの「弘法井戶」は確認出来なかったが、朝来のある西牟婁郡上富田町(かみとんだちょう)の「上富田町役場」公式サイト内の「上富田町文化財教室シリーズ」の「南方熊楠と上富田町 上富田の民俗書留め」というページがあり、そこにモノクロの弘法井戸の写真があるので、或いは、まだ残っているのかも知れない。

「滿乍ら」「みちながら」。井戸に満々と清水が溜まっているのに。

「類稀な」「たぐひまれな」。

「汲に行て吳た」「くみにいつてくれた」。

「其酬に」「そのれいに」。「れい」は「選集」のルビに拠った。

「祈出したんだ相」(当て字)「な」「のりいだしたんださうな」。

「富田坂」「とんだざか」。富田川を渡ったここに熊野古道大辺路の富田坂の一里松跡が残る。

「豌豆」「えんどう」。エンドウマメ。

「植れば」「ううれば」。

「莢」「さや」。

「自と蟲生ず」「おのづと、むし、しやうず」。

「乞れて」「こはれて」。

「罰」「選集」に『ばち』と振る。]

 又此邊で傳ふ、油桃は何處とは知らず、大師桃を乞ふた時、是は山茶の實ぢや、食う可らずと詐つて與えず、大師之を呪ふて、桃が毛を失ひ、山茶の實の樣に成つたので、山茶桃と呼ぶと。倭漢三才圖會に、此物和名都波木桃俗云豆波以桃と出づ。十訓抄に德大寺左大臣藏人高近して、大なる「つばいもゝ」の木を内侍所に參らせたる事有り。大英類典二十一に、尋常の桃が今日も油桃を生じ、甚きは一つの桃實一部は凡桃(つねのもゝ)、一部は油桃に生ることも有るから、油桃は桃の變成たる事疑ひ無しと出づ。大師の一件は法螺談だが、桃が油桃に成たちう俗傳は、事實に違は無い。四國の食はず蛤は、蛤類の化石で、其にも同樣の傳說が有る。芋や蛤が石に成ては人が困るが、桃が油桃に成ても一向構はぬ。又四國札所五十二番とかの大師堂の後の山に、苞毬に刺なき栗を生ず、大師此山の栗を食ふとて、刺多きを惡み、咒ふたんださうな。又四國にも、紀州日高郡龍神村、西牟婁郡近野村等にも、三度栗有り、何れも大師が甞(こゝろ)みて、素的に旨かつたので、年に三度生れと命じた由。紀伊續風土記七七に、西牟婁郡西栗垣内村三度栗多し、持山年に一度宛燒く、燒し株より出る新芽に實る也、八月の彼岸より十月末頃迄に、本中末と三度に熟すと有る。然らば名前程珍しうも無い。

[やぶちゃん注:「油桃」「つばいもも」。バラ目バラ科サクラ亜科モモ属モモ変種ズバイモモAmygdalus persica var. nectarina のこと。別名で「ツバキモモ」(椿桃)・「ヒカリモモ」(光桃)・「アブラモモ」(油桃)などがあるが、今は英名の「ネクタリン」(Nectarine)でないと通じないか。中国原産。日本で食用に品種化されたネクタリンが日本に導入されたのは明治時代で、その普及はごく近年であるが、それよりもずっと古くに中国から小さくて酸っぱい「無毛桃」というものが伝わっていたとされる。

「何處」「どこ」。

「山茶」「つばき」。

「詐つて」「いつはつて」。

「呪ふて」「まじなふて」。

「倭漢三才圖會に、和名都波木桃俗云豆波以桃と出づ」所持する原本で訓読するが(読みは推定で附した)、ツバイモモが立項されているわけではなく、巻第八十六の「果部」の「桃」の標題下の和名部分に過ぎず、本文記載はないのである。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の原本画像で示すと、ここである。「此物」「このもの」は熊楠が勝手に附したもののようである。

   *

李(づばい)桃

 和名「都波木桃(つばきもも)」。俗に云ふ、「豆波以桃(づばいもも)」。

   *

『十訓抄に德大寺左大臣藏人高近して、大なる「つばいもゝ」の木を内侍所に參らせたる事有り』「十訓抄」は私は「じつきんせう(じっきんしょう)」と読むことにしている。鎌倉前・中期に成立した教訓説話集。写本の一つである妙覚寺本奥書によって、六波羅二﨟(ろくはらにろう)左衛門入道とするのが通説で、これは鎌倉幕府御家人湯浅宗業(むねなり 建久六(一一九五)年~?:紀伊保田荘の地頭で、在京して六波羅探題に仕えた。弘長二(一二六二)年に出家し、かの明恵に帰依し、智眼と号した)の通称ともされるが、一方で公卿菅原為長(保元三(一一五八)年~寛元四(一二四六)年:鎌倉初期の学者。文章博士・参議兼勘解由長官で有職故実に通じた)とする説もある。建長四(一二五二)年の序がある。国立国会図書館デジタルコレクションの石橋尚宝著「十訓抄詳解」(大正一二(一九二三)年明治書院刊)で示す。第一巻の「四〇」である。注もそちらに譲る。因みに、所持する岩波文庫版の永積安明校訂(東京帝大文学研究室蔵三巻本底本)では、「づばいもも」ではなく、ただの「大きなる木ありけり」で話にならない。

「大英類典」熊楠御用達の「エンサイクロペディア・ブリタニカ」(Encyclopædia Britannica)のこと。

「違は無い」「たがはない」。

「四國の食はず蛤」(はまぐり)「は、蛤類の化石で、其にも同樣の傳說が有る」これは私の「諸國里人談卷之五 石蛤」(いしはまぐり)を参照されたい。この手の弘法大師のネガティヴな方の伝説は、私は頗る嫌いである。

「四國札所五十二番とかの大師堂の後の山に、苞毬」(いが)「に刺」(はり)「なき栗を生ず、大師此山の栗を食ふとて、刺多きを惡」(にく)「み、咒」(まじな)「ふたんださうな」四国八十八箇所霊場の第五十二番札所は愛媛県松山市にある真言宗智山派瀧雲山護持院太山寺(たいさんじ)でここ。栗がらみの效法大師の変種伝承は熊楠が直後に挙げる「三度栗」(当該ウィキ。後注も参照)を始めとして、かなりあるが、こりゃ、難しいね。棘のない栗はないでショウ?……

「紀州日高郡龍神村」既出既注

「西牟婁郡近野村」「ひなたGPS」の戦前の地図のここ

「三度栗」中国原産のブナ目ブナ科クリ属シナグリ Castanea mollissima の品種(cv.)の一種。我々の馴染みの本邦の「栗」は別種でクリ属クリCastanea crenata である。 サイト「樹木好き! I Love Trees」のyazawa-nursery氏の「三度栗(サンドグリ)」の記載が信頼出来る。そこに『一年に三回実を着けるという意味に取られがちですが、実際は夏から秋まで花が咲き続けて、連続して実が着きます』とはっきり記されあり、確かにこれなら、熊楠の言うように、「然らば名前程珍しうも無い」と呟きたくなる。しかも、以上の記事にも、『ただ、詳細な来歴は分からず、学名も記載されているものを見たことがありません』。『最近では、特に実付きのよい品種(サレヤロマン、秋彩など)や、鮮やかな紅色のイガの品種(紅珠)なども出てきているようです。(私はまだ実物を見たことがありませんし、作出の経緯も情報未入手です)』。『いずれにしろ、秋の季節感を演出してくれる魅力的な樹木の一つです』とあって、記事では食した事実が書かれておらず、この本邦に移入した当該品種に実、実際に国内で食用として汎用・流通しているかどうかも「実」は怪しいのである。なお、以上の記事で記者が見たことがないと言っておられる『鮮やかな紅色のイガの品種』であるが、「Yahoo!ショッピング」のこちらに「珍しい栗。三度栗 紅茜 (ベニアカネ)ポット苗」として画像附きで出るが、その解説たるや、『果実は食べることも可能ですが、味はわかりません』と無責任も甚だしいもんだ。

「紀伊續風土記七七に、西牟婁郡西栗垣内村三度栗多し、持山年に一度宛燒く、燒し株より出る新芽に實る也、八月の彼岸より十月末頃迄に、本中末と三度に熟すと有る」同書は紀州藩が文化三(一八〇六)年に、藩士の儒学者仁井田好古(にいだこうこ)を総裁として編纂させた紀伊国地誌。編纂開始から三十三年後の天保一〇(一八三九)年)完成した。原本の当該箇所は国立国会図書館デジタルコレクションの明治四四(一九一一)年帝国地方行政会出版部刊の活字本のここで確認出来る。]

 基督も弘法流の胸狹い意地惡だった者か、「ベツレヘム」あたりに雛豆の形した石が多い野有り、土人言く、基督曾て爰を通り、豆を蒔く男に何を蒔くかと問ふと、石を蒔くのだと對えた、基督言く、汝は石を收穫すべしと、果たして石の豆斗り生たと(バートン夫人の西里亞巴列斯丁及聖地内情一八七五年板卷二、一七八頁)。ピエロツチの巴列斯丁風俗口碑記(一八六四)七九頁には、基督で無く、聖母が豆を石に變じたと有る、又「カルメル」山の「エリアス」の甜瓜畑の口碑を記し云く、此予言者此地を通り喉乾きければ、瓜畑の番人に一つ乞しに、彼者是は石也とて與えず、「エリアス」彼に向ひ石と云た果は石に成るぞと云て去る、其より瓜が石と成ると云へど、實は石灰質で、甜瓜の狀したる中空な饅頭石だと。又死海近所に「アブラハム」池有り、其底に石灰質の結晶滿布す、傳て言く、「アブラハム」一日「ヘブロン」より此所に來り、鹽を求しに、住民鹽無しと詐る。アブラハム瞋《いか》つて、此後此地より「ヘブロン」への道無く、鹽も無く成るべしと言ふに果たして然りと。

[やぶちゃん注: 「胸狹い」私は「こころせまい」と読んでおく。

「雛豆」「チツクピース」と「選集」には振る。この段落は「選集」では、多数のカタカナ・ルビが附されてある。マメ目マメ科マメ亜科ヒヨコマメ属ヒヨコマメ Cicer arietinum 。但し、英名は“Chickpea”で、単数形の発音は「チックピイーン」に近く、複数形“Chickpeas”は「チックピイーズ」である。

「生た」「なつた」。

「バートン夫人の西里亞巴列斯丁及聖地の内情一八七五年板卷二、一七八頁」書名部は「選集」では「西里亞巴列斯丁および聖地内情」として、全体に「ゼ・インナ・ライフ・オヴ・サイリア・パレスタイン・エンド・ゼ・ホリー・ランド」と振る。「西里亞」が「サイリア」で現在のシリア(ラテン文字転写:Syria)のことで、「巴列斯丁」がパレスチナ。イギリスの作家・探検家・冒険家であったイザベル・バートン(Isabel Burton 一八三一年~一八九六年:同じく作家・探検家・冒険家のリチャード・フランシス・バートン(Richard Francis Burton 一八二一年~一八九〇年)の夫人であった)の著に成る ‘The Inner Life of Syria, Palestine and the Holy Land’(一八七五年刊)である。「Internet archive」のこちらで原本の当該部が視認出来る。

「ピエロツチの巴列斯丁風俗口碑記(一八六四)七九頁」「選集」は書名に『カストムス・エンド・トラジシヨンス・オヴ・パレスタイン』と振る。イタリアのトスカーナ州ルーカ生まれのエンジニアで建築家・数学者でもあったエルメット・ピエロティ(Ermete Pierotti 一八二〇年~一八八〇年或いは一八八八年)が一八六四年に刊行した‘Customs and Traditions of Palestine: Illustrating the Manners of the Ancient Hebrews.’ (「古代ヘブライ人のマナーを説明するパレスチナの習慣と伝統」)。「Internet archive」のここで原本の当該部が視認出来る。

『「カルメル」山の「エリアス」の甜瓜畑の口碑を記し云く、此予言者此地を通り喉乾きければ、瓜畑の番人に一つ乞しに、彼者是は石也とて與えず、「エリアス」彼に向ひ石と云た果は石に成るぞと云て去る、其より瓜が石と成る』「甜瓜」「選集」は『まくわ』と振る。前注のリンク先のページの九行目以下に次のようにある。

   *

For example, on Mount Carmel is shewn the garden or melon-field of Elias, to which the following legend belongs: — The prophet was passing by that spot, and saw a man watching a field of melons. Wishing to quench his thirst, he requested the keeper to give him a fruit, but the churl refused, saying that they were only stones. Elias replied, Stones thou hast called these fruits, and stones shall they become ! and so it happened.These melon-shaped stones, of a calcareous rock, are hollow in the middle, and lined with crystals.

   *

而して、最後の“crystals”に注があり、“Geodes, called commonly in England potato-stones.”とあった。この“Geodes”が熊楠に言う、「實は石灰質で、甜瓜の狀」(さま:「選集」のルビ)「したる中空な饅頭石」(「選集」に『ジオード』と振る)「だと」のそれである。“Geode”はこ汚い岩石の塊りの中に美しい結晶が入っているあれで、日本語では「晶洞(しょうどう)」と称する。当該ウィキによれば、『堆積岩や、火成岩玄武岩内部に形成された空洞の事で、鉱山などでは俗称で〈がま〉ともいわれる』。『ギリシア語で「大地に似た」を意味する』語『に由来する』英語の「ジオード」という『呼称が国内外で一般的である』。『内部には熱水や地下水のミネラル分によって、自形結晶が形成される』とある。

「死海」「選集」は『デツドシー』と振る。以下の伝承の出典は未詳。]

 大師が己れに情厚かつた者に、相應以上の返禮をした例は、上述弘法井の外に、東牟婁郡四村大字大瀨近所に寺有り、其邊に不蒔の蕎麥とて名高いのが有る、昔し大師此所の家に食を乞ふと、何も無つたが、亭主憐み深くて、畠に播んと貯置た蕎麥を有限施したんで、大師例の石に成れの咒も成らず、亭主に向ひ、此蕎麥の殼を蒔けと命ず、其通りすると、殼より蕎麥生え大いに殖え、以來歲々蒔ずに生茂るとは有難い。予其邊を每度通るが、未だ寺近く徃ぬから、實物を見ぬ。然し大瀨から二里斗り步いて、西牟婁郡野中に掛る小廣峠から西、數町の間は、畑地道傍所撰ばず、蕎麥に恰好で、人手を借ずに續生し行くと見ゆ。「コラン、ド、プランチー」の遺寶靈像評彙(一八二一―二年)卷二、二〇二頁に、「メートル」尊者は、四世紀に宗旨に殉じて殺されたが、葡萄を守護すと信ぜらる、生時一土民の許可無しに、其葡萄を食ひ、咎められて初て氣がつき、辨償の爲め、矢鱈に其土民の葡萄を殖し遣たからだと載居る。

[やぶちゃん注:「東牟婁郡四村」(よむら)「大字大瀨近所に寺有り」「大瀨」は現在の和歌山県田辺市本宮町(ほんぐうちょう)大瀬(おおぜ)。「ひなたGPS」の戦前の地図の「大瀨」附近には「馬頭観音」に「卍」の記号があり、近くに集落はある。グーグル・マップ・データ航空写真で見たところ、今も馬頭観音自体はあり、北東山麓に幾たりかの集落を現認出来る。この附近だろう。かなり山深い地区である。

「不蒔の蕎麥」「まかずのそば」。

「播ん」「まかん」。

「貯置た」「たくはへおいた」。

「有限」「選集」に『ありきり』と振る。

「咒」「まじなひ」。

「蒔ずに生茂る」「まかずにおひしげる」。

「徃ぬ」「ゆかぬ」。

「西牟婁郡野中に掛る小廣峠」現在の田辺市中辺路町(なかへちちょう)野中。そこの熊野古道中辺路の途中に「小広王子跡」がある。この附近である(グーグル・マップ・データ航空写真)。サイド・パネルの同跡の解説版に『小広峠の上に祀った小祠』とある。そこから西の方をストリートビューで見たが、今は山間で、凡そ蕎麦の自生らしき感じは、ない。

「畑地道傍所撰ばず、蕎麥に恰好で、人手を借ず」(底本では「す」だが訂した)「に續生し行くと見ゆ。」この部分、「選集」と本文が有意に異なる。「選集」では、

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畑地道傍所撰ばず、蕎麦が野生しおる。土質気候が蕎麦に恰好で、人手を借りずに続け生じ行くと見ゆ。

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この内容が初出なのであろう。]

 支那で食物が石と成た例は、本草綱目に、會稽山に禹餘粮多し、昔し夏の禹王此所に會稽してその餘食を江中に捨たのが、此石に成たと見ゆ。又太一餘粮有り、一名天師食と云ふ、前者は「いしなだんご」、後者は「すゞいし」抔云ひ、本邦にもあり(重訂本草啓蒙卷六)。前出、甲州の團子石も此類ならん。明の陸應陽の廣輿記十七、四川の諸葛洞は、「亮征九溪蠻宿ㇾ此、設一榻、懸粟一握、以秣ㇾ馬、後遂化爲石榻石粟」と見ゆ。此樣に食物が石に成た例は有るが、食物を咒して石とした例は、只今見當たらず、又臆出さぬ。但し偉人が乞食して、弘法大師同樣施主に厚酬したり、吝嗇漢に苛く報いた話は、古來支那の俗間に行れた物か、波斯に行はるゝ支那傳說なりとて、英譯「ハクストハウセン」の「トランスカウカシア」篇(一八五四年)三七八頁に載たは、伏羲流寓て、或村の富だ婦人に宿を求めると、卑蔑の語を放て門前拂にされた、次に貧婦の小舍を敲くと、歡び納れて有丈の飮食を施し、藁の牀に臥せ、又伏羲が襦袢に事缺くを愍と、終夜眠らず、働いて仕立上げ、翌朝着せて食事せしめ、送て村を出ると、別れしなに伏羲彼貧婦に、汝が朝一番に懸つた仕事は哺迄續くべしと祝ふて去た。貧婦宅に歸て、先づ布を尺度始ると、夕まで布盡きず、跡から跡から出て來たので大富と成た。隣家の富だ女、乃ち夜前伏羲を門前拂ひした奴、之を聞て大に羨で居ると、數月經て伏羲復た村え來た。彼女往て、强て自宅へ伴ひ還り、食を供し、夜中自分の居間に蠟燭を燃やし通し仕事する樣に見せ掛け、翌朝豫て拵え置た襦袢を與え、食を供して送り出すと、伏羲復た前の如く祝した。宅え歸る途中、布を尺度事斗り念じて、丁度宅へ入ると同時に、自分の飼牛が吼る、是は水を欲い相な、儘よ布を量る前に、速く水を遣うと思ふて、水を汲で、桶から槽に移すと、幾時移しても桶一つの水が盡ず、家も畑も水の下に成り牛畜溺死し、隣人大いに憤り、彼女纔に身を以て免れたと云ふ。此話の主意は、蘇民將來の話に似て居るが、子細は甚だ違ふ。(大正三年一月鄕硏第一卷十一號)

[やぶちゃん注:「本草綱目に、會稽山に禹餘粮」(うよりやらう:底本も「選集」も「粮」を「糧」とするが、以下のデータで訂した。但し、別な中文の電子化物を見ると、「糧」ともある。以下の「太一餘粮」に合わせたかったのが私の仕儀の意図である)「多し、昔し夏の禹王此所」(ここ)「に會稽」(くわいけい)「してその餘食」(くひのこし:「選集」を参考にした)「を江中に捨たのが、此石に成たと見ゆ。又太一餘粮」(たいいつよらう)「有り、一名天師食」(てんししよく「と云ふ」「本草綱目」は巻十「金石四」の「禹餘粮」の「釋名」と「集解」の一部を勝手に縮約したものである。「漢籍リポジトリ」のここの、[032-10a]の影印画像から引くと(句読点は「維基文庫」版の当該項の電子版に拠って打った)、

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禹餘粮【「本經」上品。】

釋名【白餘粮。時珍曰、石中有細粉如麵、故曰餘粮、俗呼為太一禹餘粮。見太一下。承曰、會稽山中出者甚多。彼人云、昔太禹會稽于此、餘粮者、本為此耳。】

集解【「别錄」曰、禹餘粮生東海池澤、及山島中或池澤中。弘景曰、今多出東陽、形如鵝鴨卵、外有殻重叠、中有黄細末如蒲黄、無沙者佳。近年、茅山鑿地大得之、極精好、狀如牛黄、重重甲錯。其佳處乃紫色靡靡如麫、嚼之無復嘇、「仙經」服食用之。南人又呼平澤中一種藤、葉如菝葜、根作塊有節、似菝、葜而色赤、味似薯蕷、謂為禹餘粮、此與生池澤者復有髣髴。或疑今石即是太一也。頌曰、今惟澤州、潞州有之。舊説形如鵝鴨卵、外有殻。今圖上者全是山石之形、都不作卵狀、與舊説小異。采無時、張華「博物志」言、扶海洲上有蒒草、其實食之如大麥、名自然穀、亦名禹餘粮、世傳禹治水棄其所餘食于江中而為藥。則蒒草與此異物同名、抑與生池澤者同種乎。時珍曰、禹餘粮乃石中黄粉、生于池澤、其生山谷者、為太一餘粮。本文明白。陶引藤生禹餘粮、蘓引草生禹餘粮、雖名同而實不同、殊為迂遠。詳太一餘粮下。】

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熊楠の訓読の「此所に會稽して」という部分はちょっと頭を傾げるが、この場合の「會稽」は確かに動詞として機能しており、されば、山名の「會稽」に引っ掛けて、「此(ここ)にて集まり(「會」)留まって(「稽」)休息したという謂いであろうと私はとった。なお、「本草綱目」には同名異物らしい「禹餘粮」が夥しく出現しているので注意が必要である(概ね、時珍はこの変成石に同定しているようではある)。また、小学館「日本国語大辞典」によれば、「禹餘粮」は『日本や中国に見られる岩石の一種。小さい石が酸化鉄と結合したもの。中に空所があって粘土を含む。ハッタイ石、岩壺など多くの呼び名がある。』とし、二番目に『藤の根でつくった食物。飢饉のときの食糧にした。』とあった。

『前者は「いしなだんご」、後者は「すゞいし」抔云ひ、本邦にもあり(重訂本草啓蒙卷六)』国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像のここから並べて記されてある。「禹餘粮」の冒頭に「イシダンゴ【讃州】」とあり、次項の「太一餘粮」の次のページの一行目に、和名羅列の最後に「スヾイシ一名」(下線は原本は囲み字)「祈闍石【「雲林石譜」。】 天師食【「石藥爾雅」。】 山中盈脂【同上。】」とある。

『明の陸應陽の廣輿記十七、四川の諸葛洞は、「亮征九溪蠻宿ㇾ此、設一榻、懸粟一握、以秣ㇾ馬、後遂化爲石榻石粟」と見ゆ』明の陸應陽の廣輿記訓読する。

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四川の諸葛洞は、亮(りやう)、九溪蠻(くけいばん)を征して、此(ここ)に宿る。一つの榻(とう)[やぶちゃん注:腰掛。長椅子。]を設け、粟(あは)一握りを懸けて、以つて馬に秣(かいば)す。後、遂に化して「石榻」・「石粟(せきぞく)」と爲(な)れり。

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「諸葛洞」洞窟の名らしい。

「亮」後漢末期から三国時代の蜀漢の武将・政治家として知られた諸葛亮孔明(一八一年~二三四年)。

「九溪蠻」異民族の名らしいが、不詳。「五溪蠻」ならば、古代の湖南の山間部を拠点としたヤオ族のことだが。

「臆出さぬ」「おもひださぬ」。

「厚酬」「選集」では『あつくれい』と当て訓してある。

「吝嗇漢」同前で『しわんぼう』(歴史的仮名遣なら「しわんばう」)と振る。

「苛く」「ひどく」。

「波斯」「ペルシア」。

『英譯「ハクストハウセン」の「トランスカウカシア」篇(一八五四年)三七八頁』「トランスカウカシア」(Transcaucasia)は「南コーカサス」の英語。この附近(グーグル・マップ・データ)。「ハクストハウセン」はドイツの経済学者アウグスト・フランツ・ルーディング・マリア・フォン・ハクストハウゼン(August Franz Ludwig Maria von Haxthausen 一七九二年~一八六六年)。ロシア農学に関する研究者で、特に農奴制に関する深い実態分析を行い、農業及びプロシアとロシアの社会関係に関する著書を多く著わした。また、グリム兄弟とともにドイツの伝説、特に民謡を初めて収集した人物としても知られる(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。‘Transkaukasia: Reiseerinnerungen’(「トランスカウカシア――旅の思い出」)。「Internet archive」の英訳本は‘Transcaucasia, Sketches of the Nations and Races between the Black Sea and the Caspian’ (「トランスカウカシア、黒海とカスピ海の間の国家と人種のスケッチ」)。英訳原本当該箇所はここ

「載たは」「のせたは」。

「伏羲」(ふつき(ふっき))は中国古代伝説上の帝王。初めて八卦を作り、婚姻の制度を整え、民に漁や牧畜を教えたとされる。女神女媧(じょか)の兄或いは夫とされ、三皇の一人。ここに出る伏羲のエピソードは漢籍では何に載るのか、ちょっと調べてみたが、よく判らない。識者の御教授を乞うものである。

「流寓て」「選集」に倣うと「さすらへて」。

「富だ」「とんだ」。

「放て」「はなちて」。

「小舍」「こや」。

「有丈」「あるだけ」。

「牀」「とこ」。床。

「臥せ」「ねかせ」と訓じておく。

「愍と」「あはれむと」。

「送て」「おくりて」。

「出る」「いづる」。

「哺」「くれ」。「晡時」(ほじ)は申(さる)の刻で現在の午後四時頃を指す。日暮れ時。

「祝ふて去た」「いはふてさつた」。言祝いで去った。

「歸て」「かへりて」。

「尺度」「選集」は二字で『さし』とルビする。「刺す」で「縫う」の意。

「大富」「たいふ」。

「乃ち」「すなはち」。

「聞て」「ききて」。

「大に羨で居ると」「おほいにうらやんでをると」。

「往て」「ゆきて」

「强て」「しひて」。

「豫て」「かねて」。

「吼る」「ほえる」。

「欲い相な」「ほしいさうな」。

「儘よ」「ままよ」。

「遣う」「やらう」。

「汲で」「くんで」。

「槽」「ふね」。

「幾時」「いくら」。

「盡ず」「つきず」。

「蘇民將來の話」小学館「日本大百科全書」から引く。『説話の主人公の名、転じて護符の一種』の名でもある。「備後国風土記」『逸文によると、須佐雄神(すさのおのかみ)が一夜の宿を借りようとして、裕福な弟の巨旦(こたん)将来に断られ、貧しい兄の蘇民将来には迎えられて粟飯(あわめし)などを御馳走』『になった。そこでそのお礼にと、「蘇民将来之(の)子孫」といって茅(ち)の輪(わ)を腰に着けていれば』、『厄病を免れることができると告げた。はたして、まもなくみんな死んでしまったが、その教えのとおりにした蘇民将来の娘は命を助かったという。民俗では』、『この神は祇園牛頭(ぎおんごず)天王とも習合しており、八角柱の木片に「蘇民将来之子孫也(なり)」などと書いた護符の類を』「蘇民将来」』『といっている。伊勢』『地方などでは家の門口に「蘇民将来之子孫」などと書いた注連(しめ)をかけて災厄除』『けとしている例も多く、また』、『岩手県奥州(おうしゅう)市水沢(みずさわ)区の黒石寺で旧正月』七『日に』、『人々が裸で蘇民袋を奪い合う蘇民祭などもよく知られている』とある。]

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