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2022/07/09

「南方隨筆」底本正規表現版「紀州俗傳」パート 「七」

 

[やぶちゃん注:全十五章から成る(総てが『鄕土硏究』初出の寄せ集め。各末尾書誌参照)。各章毎に電子化注する。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(冒頭はここ)で視認して用いた。また、所持する平凡社「選集」や、熊楠の当たった諸原本を参考に一部の誤字を訂した。表記のおかしな箇所も勝手に訂した。それらは一々断らないので、底本と比較対照して読まれたい。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 本篇の各章は短いので、原則、底本原文そのままに示し、後注で(但し、章内の「○」を頭にした条毎に(附説がある場合はその後に)、読みと注を附した。そのため、本篇は必要性を認めないので、PDF版を成形しないこととした。] 

 

       七、

 〇田邊の古傳に鹽を濫用すると目潰れる、又葱を知て火に入れば命取られ、知ずに入れば目漬ると。

[やぶちゃん注:「鹽」の強毒性はよく知られる。塩のヒトのLD50値(摂取対象生物の体重1kg当たりの半数致死量(median lethal dose))は3000mgkgである。例えば、体重五十キログラムの人が一度に塩を百五十グラムを摂取すれば、五十人が死ぬ計算となる。従って一歳の乳児が小匙一杯分(五~六グラム)の食塩を摂取すると死に至る恐れがあることになる。因みに酸素も猛毒である。

「葱を知」(しり)「て火に入」(いる)「れば」ネギであることを分かっていて、焚火の中に投げ入れると。]

 〇又隔噎(かく)を病む者三毛犬(褐黑白三色の犬)を招き己が舌頭に砂糖を塗り、其犬に舐しめ其氣を吸込ば治ると。

[やぶちゃん注:「隔噎(かく)」二字への熊楠のルビ。但し、漢字表記は「膈噎」が正しく「かくいつ」と読み、それを略したもの。江戸時代、「膈」は食物が胸につかえて吐く症状や病気で、「噎」は食物が喉(のど)につかえて吐くそれを指した語。食堂狭窄症・食道癌・胃癌などが疑われる。

「褐」「選集」には『ちや』とルビする。]

 〇西牟婁郡上芳養村の俚傳に、蟹の甲に凹みし紋八一の二字如き有るは、昔し猴、柿を蟹に投付た痕だと。崎下孫七氏話す。

[やぶちゃん注:ヘイケガニ類が著しい人面模様の凹凸を生じることで知られるが、蟹類の甲のそれは内部にある内臓の位置や筋肉の付着部などで生じたものである。既出の、上芳養(かみはや)村の住人で情報提供者の若者崎下孫七が言うのであれば、河川のかなり上流まで遡上する(芳養地区は芳養川が貫流する)節足動物門甲殻上綱軟甲綱(エビ綱)真軟綱亜綱(エビ亜綱)エビ上目十脚目短尾下目モクズガニ科モクズガニ亜科モクズガニ属短尾(カニ)下目イワガニ科モクズガニEriocheir japonica のそれが、他の隆起が少なく、甲羅中央やや下に「八一の二字」(但し、「一」は「⌣」型)の凹みがあって、条件にマッチすると私は考える。]

 〇又曰く溪流又池にも腹赤き「はへ」有り、方言「あかぶと」と云ふ、昔し人有り此魚を取て炙り食はんとする所へ弘法大師來り、購ふて放つた、爾來腹焦たる跡赤いのだと。熊楠十五、六の時高野山御廟橋邊で背に串の跡如き斑點有る「はえ」を見た、傍の人言く、人が串に刺し燒く所を大師が救命し此水に放ちしより斯成たと、然し、其「はえ」は他所の溪水にも屢ば見る、上芳養村では「あかぶと」乃ち腹赤き「はえ」は雌に限ると云ふ由、畔田翠嶽の水族志に「あかもと」「あかむつ」など方言種々擧げて白ばへの雄也と有るは別物にや。日高郡上山路村殿原の谷口と云ふ字の田の中に晴明の社てふ小祠有り、此田に棲む蛭大さも形も尋常の蛭に異ならねど血を吸はず、醫療の爲捕へても益無し。莊子に、散木は斧伐を免ると云る類だ。祠側に晴明の井とて淸水有り此殿原の應行といふ所と隣大字丹生川間に晴明の淵有り、其上の道側に晴明轉してふ嶮崖有り、淵の彼方丹生川側に腰掛石有り、晴明熊野詣での砌、應行寺で駕籠に乘り丹生川の方へ行く途中、駕籠舁共其金を取んとて此崖より晴明を轉し落すに死せず、川を渡り件の石に腰掛け憩ふ、大に驚き詫入ると、晴明怒れる氣色無く望みの物を與ふべし迚金囊を與ふ、大に悅び持歸て開き見ると木の葉斗り入れ有りし由。其より晴明、笠塔山に上る、此山に馬の馬場とて長さ五六十間幅四五間の馬場如き平坦なる道有り、今に人修めざるに一切草木生ぜず、兩側に大木生並べり、誰も乘ざる白馬屢ば現じて馳行く。又鄕土硏究一卷六號三七二頁に言た通り木偶茶屋とて人偶々に露宿すれば、夜中忽ち小屋立ち人形芝居盛んに催され、晨に及び忽然消失る所有り、晴明此處に來り、笠を樹に掛け塔に擬し祈りてより其怪永く息だといふ。東牟婁郡七川村平井と云所の神林に晴明が手植えの異樹有り、誰も其名を知ず、枝を折て予に示すを見ると「おがたまのき」だつた。那智山にも晴明の遺跡色々傳ふ、古事談に晴明は俗乍那智千日の行人也、每日一時瀧に立て被打けり、先生も無止大峯行人云々と有るから廣く熊野地方を旅したかも知れぬ。

[やぶちゃん注:本条中の「はへ」「はえ」の混在はママ。漢字では一般には「鮠」を当て、歴史的仮名遣は「はえ」でよい。さて、この「はえ」であるが、広く複数の種を指す総称であり、一種に限定することは出来ない。これは、種々の電子化注でさんざん記してきたのだが、則ち、「ハヤ」類(「ハエ」「ハヨ」とも呼ぶ)で、狭義には、概ね、

コイ科ウグイ亜科ウグイ属ウグイ Pseudaspius hakonensis

ウグイ亜科アブラハヤ属アムールミノー亜種アブラハヤ Rhynchocypris logowskii steindachneri

アブラハヤ属チャイニーズミノー亜種タカハヤ Rhynchocypris oxycephalus jouyi

コイ科Oxygastrinae 亜科ハス属オイカワ Opsariichthys platypus

Oxygastrinae 亜科カワムツ属ヌマムツ Nipponocypris sieboldii

Oxygastrinae 亜科カワムツ属カワムツ Nipponocypris temminckii

の六種を指す総称と考えてよい。但し、川漁での俗称としては、もっと他の種も含むようである。漢字では他に「鯈」「芳養」等と書き、要は、

日本産のコイ科 Cyprinidae の淡水魚の中で、中型のもので細長いスマートな体型を有する種群の、釣り用語や各地での方言呼称として用いられる生物学上は曖昧な総称名

であって、

「ハヤ」という種は存在しない

のである。なお、以上の六種の内、ウグイ・オイカワ・ヌマムツ・アブラハヤの四種の画像はウィキの「ハヤ」で見ることが出来る。タカハヤカワムツはそれぞれのウィキ(リンク先)で見られたい。中には、「ここで熊楠が指示している『腹赤き「はへ」』から限定出来るのではないか?」と言われる御仁もあろうが、婚姻色を示さないタカハヤを除くことが出来るだけで、他の五種は、繁殖期のの腹部に桃色・赤色の婚姻色が出るからである。「しかし、『方言「あかぶと」』とあって、これが紀州の方言で「アカブト」と呼ぶことからは、そこから限定出来るのでないか?」と拘ってくる輩もあろう。さて、そこで私がよく紀州での魚類名の同定に使う宇井縫蔵氏の「紀州魚譜」(昭和四(一九二九)年淀屋書店刊)を見てみると、「方言」を「アカブト」として示すのは、「オイカワ」(御坊)と「カワムツ」(田辺附近・御坊)である(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの二種の記載部分。この前のページに「ウグイ」・「タカハヤ」・「アブラハヤ」があるのでこちらも読まれたい。後で必要となるからである)。しかし乍ら、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の「アカブト」の異名では、「ヌマムツ」が掲げられてあり、さらに、私自身が赤い婚姻色と言えば、一番に「桜うぐい」=「ウグイ」を想起することから、やはり、私には「アカブト」を限定することは出来ないのである。

「溪流」「選集」のルビに従えば、「たにがは」。

『昔し人有り此魚を取て炙り食はんとする所へ弘法大師來り、購」(あがな)「ふて放つた、爾來」(「選集」では『それから』とルビする)「腹焦」(こげ)「たる跡赤いのだと。熊楠十五、六の時高野山御廟橋」(「選集」に従えば、「みびやうのはし」。ここ(グーグル・マップ・データ))「邊で背に串の跡如き斑點有る「はえ」を見た、傍」(かたはら)「の人言く、人が串に刺し燒く所を大師が救命し此水に放ちしより斯成」(かくなつ)「たと』先に注意を促した「紀州魚譜」の「アブラハヤ」の補注を見られたいのだが、そこで『餘り古くよりの傳說ではないやうであるが』と断った上で、この弘法伝説を記されて、さらに、『之が高野山に一名物になつてゐる。その魚串の跡があるといふ魚は、卽ちアブラハヤであつて、生時水中を泳いでゐるとき。背鰭』が『淡黃色の斑點に見え、それが丁度魚串の跡のやうにも見えるのである。この魚は高野の玉川に限らず、普通とはいへぬが往々山間の溪流に見出される。併し土地によつてはタカハヤやカハムツを弘法大師の助けた魚といつてゐるが、これ等の背鰭も亦水中で淡黃色の斑點に見える。』と述べておられる。

「雌」(「選集」は『め』と振る)「に限る」雌にこうした婚姻色は出ないので雄の誤り。但し、誤植ではなく、恐らくは土地での誤認であろう。

『畔田翠嶽の水族志に「あかもと」「あかむつ」など方言種々擧げて白ばへの雄也と有るは別物にや』「畔田翠嶽」は「くろだすいがく」と読む。紀州藩藩医畔田翠山(寛政四(一七九二)年)~安政六(一八五九)年:本名は源伴存(みなもとともあり))で「水族志」は文政一〇(一八二七)年に翠山によって書かれた、恐らくは日本最初の総合的水産動物誌で、明治になって偶然発見され(後述)、当初の分類方法を尊重しつつ、全十巻十編に改訂された。掲載された水族(殆どが紀州で現認される魚類を対象とする)は本条二百五十七種、異種四百七十八種合わせて七百三十五種。異名を含めると、千三百十二種に及ぶ。但し、貝類は含まれない。詳しくは、私の『カテゴリ 畔田翠山「水族志」 創始 / (二四六) クラゲ』を参照されたい。国立国会図書館デジタルコレクションの明治一七(一八八四)年文会舎刊の活字本の「ハエ」の項(かなり長い)で、「アカモト」「アカムツ」は、ここの『㋩ヲイカハ』の条に出る。但し、「白ばへの雄也」と言っているのは畔田ではなく、小野蘭山の「本草綱目啓蒙」からの引用であって、熊楠の叙述はよろしくない。因みに、「シロバエ」はオイカワの異名である。

「日高郡上山路村殿原の谷口と云ふ字の田の中に晴明の社てふ小祠有り」現在の田辺市龍神村殿原(とのはら)のここに「安倍晴明社」が現存する(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。サイド・パネルの写真も見られたい。但し、これは後に移築されたものらしく、現在は道の山崖にある。ここから丹生ノ川(にゅうのがわ)を少し遡ったところに「安倍晴明所縁の地碑」があり、元はこの近くにあったものか。サイド・パネルの解説板を読まれたい。直近に「晴明淵」(グーグル・マップ・データ航空写真)もある。 

「此田に棲む蛭大さも形も尋常の蛭に異ならねど血を吸はず」水田などに棲息し、人を吸血するのは、環形動物門環帯(ヒル)綱ヒル亜綱顎(あご)ビル目ヒルド科チスイビル属チスイビル Hirudo nipponica であるが、吸血しないというからには、別種で、やはり水田などで見かけるヒル亜綱吻無蛭目チスイビル科セスジビル  Whitmania edentula であろう。セスジビルは淡水産の小型腹足類(巻貝)を捕食する。腔に顎を有するが、退化的で吸血能は持っていない

「莊子」(さうじ)「に、散木」(さんぼく)「は斧伐」(ふばつ)「を免ると云る」「荘子」の「内篇」の「人間世篇」(じんかんせい)に載る所謂、「無用の用」の一つの寓話に基づく。故事成句「樗櫟散木」(ちょれきさんぼく)として、役に立たない人物や物の喩えや自身の謙称としても用いる(「荘子」原文では「樗」は出ないが、「櫟」は出る)。この「樗」はゴンズイ(クロッソソマ目ミツバウツギ科ゴンズイ属ゴンズイ Euscaphis japonica当該ウィキに『材としての利用価値はない』とある)、「櫟」はクヌギ(ブナ目ブナ科コナラ属クヌギ Quercus acutissima 。現在は盛んに材木として使われるが、サイト「森人類の森king」の「(7)クヌギの木で家具づくりを」によれば、野生の『クヌギは材質が良くな』く、「木で無い」と『書いて「ブナ」と読んだほどだ。なぜならブナ材はすぐ腐るうえ』、『狂いやすく、材としては非常に使いにくかったのだ。だから伐採して針葉樹に植え替える拡大造林も行われた』とある)のことで、ともに材木として役に立たない木であり、そして「散木」はその「役に立たない木」の意である。原文は「中國哲學書電子化計劃」の影印本の「匠石」(しょうせき:「大工の棟梁の「石」という人物)で始まる箇所である。ちょっと原文では歯が立たないので、真野俊和氏の論文『「巨木」の話から「無用の用」まで』(『頸城野郷土資料室学術研究部研究紀要』二〇一六 年刊巻五号。「J-Stage」のこちらからPDFでダウン・ロード可能)を見られたい。「Ⅱ 櫟社の散木」(れきしゃのさんぼく)で、現代語訳に一部訓読も交えて読み易く載っている。

「祠側」「ほこらのそば」。

「晴明の井」現在は見当たらない。

「殿原の應行」(わうぎやう)「といふ所と隣」(となり(の))「大字」(おほあざ)「丹生川」(にふのがは)「間に晴明の淵有り」先に示した。なお、「應行」は「選集」では『応行寺(おうぎょうじ)』とある。しかし、確認にために戦前の地図を「ひなたGPS」で見たところ「應行」は熊楠の誤りで、「恩行司(オギヤウジ)」であることが判明した。「殿原」は、その東直近にあり、ずっと東のところに「丹生川」の地名も確認出来る。

「轉し」「選集」は『転(こか)し』とルビする。これはルビがないとちょっと読めないぞ! 熊楠先生!

「嶮崖」「けんがい」。急な嶮(けわ)しい崖(がけ)。ストリートビューで見ると、「安倍晴明所縁の地碑」の道を隔てた山側は、古くに人工的に固めたものではあるが、高い崖となっている。

「腰掛石」確認出来ない。但し、ここから南東に十一キロメートル離れた中辺路町野中地区の「とがの木茶屋」近くに、「晴明止め岩(腰かけ石)」なるものが現存することが「わかやま新報StaffBlog」のこちらの記事で判明した。そこに、『とがの木茶屋の名物おばさん(自称山婆)も、「晴明の足跡はここだけでなくもっと他にもあるはず。ちゃんと調べてもう少し力を入れて整備すべきではないか」と話しておられた』とあり、まさにその通りなわけだ!

「轉し落す」「こかしおとす」。

「詫入る」「わびいれる」。

「迚」「とて」。

「金囊」「かねぶくろ」。

「木の葉斗り入れ有りし」安倍晴明は狐の子ともされるから、いかにも有り得る話だ。

「晴明、笠塔山」(かさたふやま)「に上る、此山に馬の馬場とて長さ五六十間」(九十一~百九メートル)「幅四五間」(七メートル強から九メートル)「の馬場如き平坦なる道有り、今に人修めざるに一切草木生ぜず、兩側に大木生」(おひ)「並べり、誰も乘」(のら)「ざる白馬屢ば現じて馳行」(はせゆ)「く。又鄕土硏究一卷六號三七二頁に言」(いふ)「た通り木偶茶屋」(でこぢやや)「とて人偶々」(たまたま)「に露宿」(「選集」は『のじゆく』と振る)「すれば、夜中忽ち小屋立ち人形芝居盛んに催され、晨」(「選集」は『あけ』と振る)「に及び忽然消失」(きえうせ)「る所有り、晴明此處に來り、笠を樹に掛け塔に擬」(ぎ)「し祈りてより其怪永く息」(やん)「だといふ」「笠塔山」はここ(グーグル・マップ・データ航空写真)。安倍晴明社の南東二・五キロほど。拡大してみると、山頂に電波中継基地があって細長く禿げているのだが、ここらが何だかいかにも、ここに言う馬場みたいに見えるのは不思議じゃないか!?! ある山行サイトの記事には、塔山登山口に晴明由来の小さな祠が祀られているともあった。「鄕土硏究一卷六號三七二頁に言た通り木偶茶屋とて……」は「四」の『〇其近所に笠塔といふ高山が有る。實に無人の境だ。其山に木偶茶屋と云ふ處有り、夜分狩人抔偶ま野宿すると、賑はしく人形芝居が現ずる由。』を指す。「笠を樹に掛け塔に擬し祈りてより」「笠を一本の木の頂きに被せて、神聖な塔(ストゥーパと言いたいところだが、彼は陰陽師なのでかく言った)に擬えて祈った」という笠塔山命名伝承というわけである。「わかやま新報StaffBlog」の「晴明笠塔山伝説」の記事も参照されたい。

「東牟婁郡七川」(しちかは)「村平井」「七川」は現在の東牟婁郡古座川町(こざがわちょう)の七川(しちかわ)地区(グーグル・マップ・データ。以下同じ)だが、「平井」はそこに接する別地域となっている。ここ

「神林」前記の現在の平井地区に「井ノ谷神社」があり、なにげにサイド・パネルの写真を見たら、「井ノ谷神林 矢倉神社」とペイント書きした木の写真があって、びっくらこいた(神社らしい建物はないので、矢倉神社は現在の管理社と思われる)。

「晴明が手植えの異樹有り」不詳。現存しない模様。

「おがたまのき」モクレン目モクレン科モクレン属オガタマノキ節オガタマノキ Magnolia compressa当該ウィキによれば、『本州の関東中南部以西(千葉県以西)の太平洋岸と四国、九州、南西諸島から台湾に分布』し、『丘陵帯から山地帯下部の林地に生育する』とある。特に稀な樹木ではない。『和名の「オガタマノキ」は、神道思想の「招霊」(おぎたま)から転化したものといわれ』、『神社に植えられたり、神前に供えられたりする』。『日本神話においては、天照大神が天岩戸に隠れてしまった際に、天鈿女命』(あめのうづめのみこと)『がオガタマノキの枝を手にして天岩戸の前で舞ったとされる』。『神社によく植栽され、神木とされたり』、『玉串として使われた』とある。

「那智山にも晴明の遺跡色々傳ふ」「旧史跡 晴明橋の石材」が残る(グーグル・マップ・データ)。サイド・パネルの解説板を見られたい。

「古事談」は源顕兼の編になる鎌倉初期の説話集。全六巻。建暦二(一二一二)年から建保三(一二一五)年の間に成立した。「王道・后宮」・「臣節」・「僧行」・「勇士」・「神社」・「仏寺」・「亭宅・諸道」の六篇に分類された上代から中古の四百六十一話を収める。文体は和製の漢文体・仮名交り文など、多様で、どの説話も短文であり、資料からの抄出が多い。「続日本紀」・「往生伝」・「扶桑略記」・「江談抄」・「中外抄」などの記録や談話録に取材している。「佛教大学図書館デジタルコレクション」のこちらの嘉永六(一八五三)年の版本の24コマ目を見られたい。これ、少しく読み難いので、カタカナをひらがなに代え、岩波の「新日本古典文学大系」版を参考に読み下し(カタカナはひらがなに代えた)、異体字漢字を書き変え、読みなど添えて、書き換えた。後に続く話は那智とは無関係だが、私の非常に好きな晴明説話(上手いこと言いおるわいと憎くなる面白い話)なので、電子化する。

   *

 晴明は、俗(ぞく)乍(ながら)、那智千日[やぶちゃん注:那智千日籠(せんいちろう)の山籠(やまごもり)の行(ぎょう)のこと。それ以外に「瀧籠」もある。]の行人(ぎやうにん)なり。毎日、一時(いつとき)、滝に立ちて打たれけり。前生(せんじやう)[やぶちゃん注:熊楠は「先生」とするが、そう書かれた別本もある。岩波版がまさにそれである。]も止(や)むごと無き大峰(おほみね)の行人、と

 花山院在位の御時(おほんとき)、頭風(づふう)[やぶちゃん注:頭痛。変人で色情狂でもあった花山院は大の頭痛持ちとして知られていた。]を病(や)ましめ給ふ。雨気(うき)の有る時は、殊に発動して、為(せ)む方(かた)を知り給はず、種々の井醫療、更に驗し無しと。爰(ここ)に晴明朝臣(あそん)、申(まを)して云はく、

「前生(せんじやう)は止むごと無き行者(ぎやうじや)にて御坐(おはしま)しけり。大峰の某宿(ぼうしゆく)にて入滅す。前生の行德(ぎやうとく)に答へて、天子の身に生まると雖(いへど)も、前生の髑髏(どくろ)、巖(いは)の介(はざま)に落ち、はさまりて候ふが、雨気には巖ふとる物にて、つめ候ふ間(あひだ)、今生、此くのごとく、痛ましめ給ふなり。仍(よ)りて御療治に於いては叶(かな)ふべからず。御首を取り出だして廣き所に置かるれば、不定(ふぢやう)に[やぶちゃん注:恐らくは。多分。]平癒せしめ給ふか。」

とて、

「しかじかの谷底。」

と、をしへて、人を遣はして見せらるゝ処(ところ)、申状(まをしでう)、相違無し。首を取り出だされて後(のち)、御頭風、永く平癒し給ふ、と

   *

ちゃんと古い髑髏を事前にその岩の亀裂に投げ込んでおく用意周到と、それを信じ込ませてプラシーボ効果で一時的にでも花山院の頭痛を止めたという心理戦が、これ、憎いのである。]

 〇鄕土硏究へ間(まゝ)寄書する田本仁七氏の母の話しに、五十年程前、當郡三栖村の或家へ道者來宿し、立去に臨み宿の主婦の懇待に酬るとて、大峯四所權現あびらうんけん娑訶と呪を敎へてくれた。主婦之を大麥四升五合油うんけん娑訶と誤り覺えて行ふに諸病悉く治る、信徒麕至して三年斗り大流行だつた。其後道者復來り主婦が咒を誦するを聽き正誤す、正誤通り誦し始めてより一向效驗無く患者來訪せぬ事と成たと、語つた人の名迄擧たが閑田耕筆にもあびらうにけん娑訶[やぶちゃん注:「うにけん」はママ。「選集」も同じ。]を油桶と誤り誦して效驗灼然かつたが正誤して後は一向利かなんだと有たと記憶する。

[やぶちゃん注:「田本仁七」不詳。但し、「日文研」の「怪異・妖怪伝承データベース」の田本氏の話は採集地を田辺とすること、熊楠が彼の母から採取した話も、その舞台の三栖村(みすむら)は旧西牟婁郡のこの三栖地区(グーグル・マップ・データ。現在は上・中・下に分かれる)であるから、その周辺の出身であろう。

「立去に」「たちさるに」。

「酬る」「むくいる」。

「大峯四所權現あびらうんけん娑訶」「おほみねししよごんげんあびらうんけんそわか」。「大峯四所權現」は奈良県吉野郡天川村にある修験道の寺院大峯山寺(おおみねさんじ)で本尊は金剛蔵王権現だが、「四所」という「四」の名数は不明。同寺を管理する「護持院」は五寺である。「あびらうんけん」は小学館「日本大百科全書」に拠れば、真言密教に於ける胎蔵界大日如来の真言。サンスクリット語「ア・ビ・ラ・フーム・カン」の音写。漢字表記は「阿毘羅吽欠」で「あびらうんきゃん」とも読む。五字からなるので「五字明」(ごじみょう)、「五字呪」(ごじじゅ)とも呼ぶ。真言密教では大日如来を宇宙の本体そのものとし、大日如来を胎蔵法ではこの真言で示し、これは宇宙の本体を構成する五要素の象徴である地水火風空の五大を総合的に纏めたものであり、この真言を誦し続けることにより、宇宙の本体たる大日如来と一体となることができるとする、とある。「娑訶」もともとは「娑婆」と同義。原語はサンスクリット語の「サハー」とされ、「索訶」(さくか)とも訳される。「サハー」は、本来は「大地」を意味するが、釈尊がこの大地の上に生まれたことから「釈尊の世界」「この世」の意味になったと考えられている(平凡社「世界大百科事典」の「娑婆」の解説に拠った)。

「大麥四升五合油うんけん娑訶」「おほむぎししやうごんごうあぶらうんけんそわか」。

「麕至」「きんし」。悉くある状態に至ること。ここは病気平癒。「麕」は原義は鹿の一種であるノロを指すが、その習性からか、「集まる・群がる」の意となり、ここはそれ。

「復來り」「またきたり」。

「名迄擧たが」当該婦人の「名まで、あげたが」。

「閑田耕筆」伴蒿蹊(ばんこうけい)著で享和元(一八〇一)年刊。見聞記や感想を「天地」・「人」・「物」・「事」の全四部に分けて収載する。しかし、所持する吉川弘文館随筆大成版で二度縦覧したが、「あびらうにけん娑訶を油桶と誤り誦して效驗灼」「然かつたが正誤して後は一向利かなんだ」という話は見当たらなかった。発見したら、追記する。]

 〇海上で波高く至る時、オイオイオイオイと呼ぶと鎭まる、風烈しき時も然りとて大聲で喚くを去年も自ら聞た、呼ぶと鎭まるで無く、鎭まる迄呼ぶのだ。

[やぶちゃん注:底本は「オイ」ではなく、「クオ」で踊り字「〱」が三つ続く。「選集」の方をとった。一つは「クオ」では発音し難いからである。]

 ○四十年前餘五六歲の時遊びに出て一寸怪我し歸ると今は亡き父母が親の唾親の唾と呪して唾を其所に塗た、又打傷有ばチンコの呪ひチンコの呪ひと誦して其所を揉だ。

[やぶちゃん注:「親の唾親の唾」は「選集」に拠った。底本では「親の唾々」でとても読めないからである。

「揉だ」「もんだ」。]

 〇巨蜂に螫れて水飮めば死すといふ。

[やぶちゃん注:「巨蜂」「おほばち」。スズメバチの類であろう。

「螫れて」「さされて」。]

 〇西牟婁郡富里村大字大内川の小兒螳蜋見れば、「拜み拜まにや此道通さぬ」と云ふ。莊子に、螳蜋怒臂以拒車轍、不ㇾ知不ㇾ勝ㇾ任也。韓詩外傳に齊の莊公出獵せしを螳螳蜋足を擧て其輪を搏んとす、御者其力を量らず輕々しく敵に就くを笑ひしに、公此天下の勇虫たりとて、車を回し之を避しかば天下の勇士公に歸したと有る。大内川の傳は之と反對で、螳蜋が人を拜まにや人が螳蜋の進行を止むると云のだ。此虫ほど廣く俗傳迷信の所據と成る虫恐く無るべく古希臘で之をマンチス(占者)と呼び今も佛蘭西のラングドク地方の小民、之を拜神者《プレカ・デオリ》と名づけて神物とし、土耳其人アラビヤ人は其常に聖地メツカに向ひ拜む由を信ず、ヌジア人亦之を尊び、ホツテントツト人は此虫人の衣に留るは其人神惠を得大幸有る徵也と傳ふ(大英類典十一板十七卷六〇六頁、バルフオール印度事彙、三板二卷八五四頁)。本草に此虫に食せて疣を療する事を載せ、和名鈔に螳蜋和名イボムシリ本草啓蒙にイボムシ、イボサシ、イボジリ、イボクヒ、カマキリテウライ等の方言を擧ぐ、埤雅に此虫葉を執て身を翳し蟬を捕へ食ふ、其葉を得た人は自分の形を隱し得とある。田邊に近き神子濱では之を「かまんど」(鎌人の意か)と稱へ煎じ若くは燒て服すれば脚氣を治すと云ふ、此他に本邦で螳蜋に關する俗傳有るを知ず、若し有ば敎示を乞ふ。和歌山市でも此虫を「拜めとうろう」と呼ぶ人有るも、たゞ其姿勢の形容迄にて歐州の如く神を拜む等の說無き者の如し。

[やぶちゃん注:「西牟婁郡富里村大字大内川」(おおうちがは)既出既注だが、再掲しておくと、「ひなたGPS」の戦前の地図でここ、現在の中辺路町大内川はここ(グーグル・マップ・データ)。

「螳蜋」「かまきり」。

「莊子」(さうじ)「に、螳蜋怒臂以拒車轍、不ㇾ知不ㇾ勝ㇾ任也。」「荘子」の「内篇」の「人間世篇」(じんかんせい)に載るお馴染みの「蟷螂の斧」の喩えの一節。但し、「拒」は「當」(当たる)が正しい。「螳蜋(たうらう)、臂(ひぢ)を怒らし、以つて車轍(しやてつ)を拒む。任に勝(た)へざるを知らざるなり。」。

「韓詩外傳」前漢(紀元前二〇二年~紀元後二二〇年)の韓嬰(かんえい 生没年未詳)による書物である。さまざまな事柄や故事を記し、関連する「詩経」の文句を引いて説明したもので、説話集に近い。現行本は全十巻。

「齊の莊公」春秋時代の斉の第二十五代君主荘公光(在位:紀元前五五三年~紀元前五四八年)。当該ウィキに彼を押し上げた宰相の妻と、彼が密通し、殺害されたしょぼい臭い死と、この「蟷螂の斧」の話、及び、彼の死に際し、それで忠誠を誓った多くの勇士が戦って死んだことが一緒に記されてある。

「搏んとす」「うたんとす」。

「此天下の勇虫たり」「これ、てんかのゆうちうたり」。

「回し」「めぐらし」。

「避しかば」「さけしかば」。

「止むる」「とむる」。

「所據」「よりどころ」。

「恐く無るべく」「おそらくなかるべく」。

「佛蘭西のラングドク地方」フランス南部の地方名ラングドック(Languedoc)。位置は当該ウィキの地図を見られたい。

「拜神者」「選集」では『プレカ・デオリ』と振る。引用元「大英類典十一板十七卷六〇六頁」は熊楠御用達の「エンサイクロペディア・ブリタニカ」(Encyclopædia Britannica)のことで、「Internet archive」のこちらで同版を見つけたので、確認したところ、ここで、そこに“Prega-Dieuprie-Dieu)”とあるのが、その綴りである。前者は地方語のようで、括弧内の「prie」は「祈る」、「Dieu」は「神」の意である。音写すると「プゥリー・ジュゥ」となる。熊楠はフランス語が苦手であったか、「Dieu」の音写がおかしい。

「土耳其人」「トルコじん」。

「ヌジア人」上記原本に“Nubia”とある。“Nubian”。ナイル川の第一急流から上流のハルツームに到る、古来、「ヌビア」と呼ばれてきた地域の住民(グーグル・マップ・データ)。

「ホツテントツト人」(Hottentot)現在でも私より上の人々はかく呼んでいるが、差別用語であるので、厳に慎むべきである。現在は「コイコイ人」と呼ばれる。南アフリカ共和国からナミビアの海岸線から高原地帯及びカラハリ砂漠などに居住している民族。詳しくは当該ウィキを参照されたい。

「留る」「とまる」。

「神惠」「しんけい」。神の恵み。

「徵」「しるし」。

「バルフオール印度事彙、三板二卷八五四頁」スコットランドの外科医で、インドの先駆的な環境保護主義者であったエドワード・グリーン・バルフォア(Edward Green Balfour 一八一三年~一八八九年)が一八五七年に刊行した‘The Cyclopaedia of India and of Eastern and Southern Asia’ (インドと東アジア及び南アジアの百科事典)のこと。原本の当該部は「Internet archive」のここ

「本草」本邦の本草学のバイブルである明の李時珍の「本草綱目」。当該部は「和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 螳蜋」が引いているので、参照されたい。

「食せて」「くはせて」。

「和名鈔に螳蜋和名イボムシリ」「和名類聚鈔」の巻十九の「虫豸部第三十一」「虫豸類第二百四十」のここ(国立国会図書館デジタルコレクションの版本)。

   *

螳蜋(いぼむしり)【螵蛸(をゝちかふくり)。附(つけたり)。】「兼名苑」に云はく、『螳蜋【「堂」・「郎」の二音。】。一名は「蟷蠰」【「當」・「餉(シヤウ)」の二音。和名「以保無之利」。】。螵蛸【「飄」・「宵」の二音。】一名「䗚蟭」【「愽」・「焦」の二音。和名「於保知加不久里」。】螳蜋の子なり。』と。

   *

この附録の「螵蛸(をゝちかふくり)」というのは、「おほぢがふぐり」で、「老人の陰嚢(ふぐり)」の意、則ち、カマキリ類の 卵鞘(らんしょう)を指す。謂い得て妙!

「本草啓蒙にイボムシ、イボサシ、イボジリ、イボクヒ、カマキリテウライ等の方言を擧ぐ」「重訂本草綱目啓蒙 」の四十八巻「蟲之一」のここ

「埤雅」(ひが)は北宋の陸佃(りくでん)によって編集された辞典。全二十巻。主に動植物について説明してある。

「執て」「とつて」

「翳し」「かくし」。

「知ず」「しらず」。]

 〇上芳養村で梟家に近く鳴ば家内に病人生ずと言ふ。

[やぶちゃん注:「鳴ば」「なかば」。]

 〇田邊邊で桑木で瓢の形作り小兒に佩しめると麻疹傳染ずといふ。

[やぶちゃん注:「瓢」「ひさご」。瓢箪(ひょうたん)。

「佩しめる」「おびしめる」

「麻疹」「はしか」、

「傳染ず」「うつらず」。]

 〇日高郡由良村邊にて、家のあたりに柚を樹るを忌む。又柚で擂木製れば化ると言ふ。昔し野猪番する翁小屋に居守ると每夜其老妻來り野猪來たかと問て止ず、家に歸て呵ると昨夜外出せずと答ふ、翁業腹を煮し、次記回に來ば射殺すべしと言ふに嫗可しと答ふ。扨又の夜復來つたから射留めて視れば自分の家の柚木製の擂木だつた。

[やぶちゃん注:「日高郡由良村」現在の日高郡由良町(ゆらちょう)。

「柚」ムクロジ目ミカン科ミカン属ユズ Citrus junos

「樹る」「ううる」。

「擂木」「すりこぎ」。

「製れば」「つくれば」。

「化る」「ばける」。

「野猪」「選集」は二字に『しし』とルビする。

「翁」「選集」に従うなら、「おやぢ」。

「居守る」「ゐまもる」。

「野猪」「選集は『しし』と振る。

「止ず」「やまず」。

「呵る」「しかる」。

「煮し」「にやし」。

「次回」「選集」は二字に『つぎ』とルビする。

「嫗」「あふな」或いは「ばば」。

「可し」「よし」。]

 〇由良村邊で栗鼠は强き者で犬も困ると云ふ。其樣子を聞くに尋常の小き栗鼠に非ず、大なる種「をかつき」の事だ。西牟婁郡二川村大字兵生で聞たは、栗鼠は魔物で一疋殺さば殺した邊り栗鼠だらけに現はる、斯く魔術心得た物故同地方で聞た猴退治の話(鄕硏一卷三號一七〇頁)にも栗鼠を山伏とし居るのだと云ふ。予深山で栗鼠に遇し事何度と云を知ぬが、餘り人を畏るゝ體見えず、追へば樹を繞りて登り忽ち枝上に坐して手を合せ祈念するの狀を爲す、是より斯る迷信を生じたゞろ。加之に尾を負て頭に戴く狀亦山伏が笈を負ひ巾を冒くに似たり。松屋筆記九五に高忠聞書上に射まじき鳥の事鶯鵄梟木菟鶺鴒庭鳥木鼠鼯鼠鷹の事は不及申此鳥共をば射まじき也。木鼠を射ぬ故は聖武天皇鐵城を破り開たる其謂れにて射まじきに被定置たる也云々。此故事詳かに知れぬが兎に角昔より殺すを憚つた動物の中に木鼠乃ち栗鼠が有たのだ、栗鼠齒勁くして鐵の如し、故に鐵網を用ひずば樊を嚙破て去ると倭漢三才圖會三九に見える、從つて何かの法で鐵籠を破て去ると云ふ話も有たのだらう。龍樹大士の大智度論第卅三に、菩薩作一鳥、身在林中住。見一人於深水、非人行處、爲水神所ㇾ羂、水神羂法、著不ㇾ可ㇾ解、鳥知解法、至香山中、取一藥草、著其羂上、繩卽爛壞、人得脫去。猶太の古傳にナツガーツラ鳥麥粒大の小蟲シヤミルもて山を剖く事有り(ベーリング、グールド、中世談奇一八八四年板、三九二頁)。ノルマンデーと非列賓島及び古羅馬の傳に啄木鳥靈草を以て硬木及鐵を破ると言り(プリニウス博物志卷十章十八。ボスケー女史諾曼提稗史及奇談一八四五年板、二一八頁。一六六八年マドリド板コリン傳道經營譚一卷七八頁)。文政六年種彥跋ある江戶塵拾五に、田村元雄藏伽藍石とて唐の伽藍鳥子生置たる巢を水晶板で蓋へば此の石を採將來て其板を碎く。石大さ茶碗の如く色黑く能く鐵銅磐石を碎く由載居る。吾邦にも、昔し栗鼠が何物かの力で鐵城を破つた話が有るらしい。米國の黑奴栗鼠の顎骨を守りに用る事一八九三年板オウエンのオールド、ラビット、ゼ、ヴーヅー一七四頁に出づ。

[やぶちゃん注:「由良村」現在の日高郡由良町の内、由良港を中心とした一帯だが、内陸は由良川の有意な上流域まで含まれる。戦前の「ひなたGPS」のこちらと、「Geoshapeリポジトリ」の「歴史的行政区域データセットβ版」の「和歌山県日高郡由良村」の旧村域地図を参照されたい。

「栗鼠」リス。齧歯(ネズミ)目リス亜目リス科 Sciuridae。本邦には樹上性リス二属三種四亜種(内、二亜種は外来種)、滑空性リス(モモンガ属ニホンモモンガ Pteromys momonga・ムササビ属リス亜科Pteromyini 族ムササビ属 Petaurista )の二属三種五亜種(すべて在来種)、地上性リス(リス科 Xerinae 亜科Marmotini族シマリス属 Tamias )一属一種二亜種(内、一亜種は外来種)の計五属七種十一亜種が挙げられ、移入種を除けば、四属六種八亜種が棲息するが、ここは分布から、リス科 Sciurinae 亜科Sciurini族リス属 Sciurus亜属ニホンリス Sciurus lis としてよいであろう。

『大なる種「をかつき」』前記ニホンリスの大型個体(最大二十二センチメートル)ととっておく。「をかつき」の呼称は不詳。「岡(陸)附き」か?

「西牟婁郡二川村大字兵生」(ひやうぜい)は何度も既注であるが、再掲しておくと、現在の田辺市中辺路町兵生(グーグル・マップ・データ)。幾つかのネット記載は読みを「ひょうぜ」とするが、正しくはやはり「ひょうぜい」である。「ひなたGPS」のこちらを参照。

「猴」(さる)「退治の話(鄕硏一卷三號一七〇頁)にも栗鼠を山伏とし居るのだと云ふ」「四」で既出既注であるが、郷土研究社から大正二年八月に刊行された、高木敏雄著「日本傳說集 附・分類目次解說索引」の「義犬塚一名猿神退治傳說第十七」の「(ニ)猿神退治」として載っている。

「栗鼠に遇し事何度と云を知ぬが」「りすにあひしこと、なんどといふをしらぬが」。

「繞りて」「めぐりて」。

「狀」「選集」は『さま』と振る。

「加之に」「しかのみならずに」か。但し、「選集」ではひらがなで『おまけに』とある。助詞「に」は、「しかのみらず」との相性が悪いから、「選集」の読みでとっておく。

「負て」「おひて」。

「狀」これも前に倣って「さま」と読んでおく。

「巾」「きん」。山伏が額に被る兜巾(ときん)のこと。

「冒く」「選集」は『冒(いただ)く』と振る。

「松屋筆記九五に高忠聞書上に射まじき鳥の事」、「鶯」・「鵄」(とび)・「梟」・「木菟」(みみづく)・「鶺鴒」(「せきれい」だが、「選集」では『いしくなぎ』と振る。後に示す原文にそうある個人ブログ「ちいさなさえずり」の「野鳥方言名 セキレイ類」に、『“いしくなぎ”が持つ本来の意味は、尾を上下に動かして石にふれることであり、室町時代からの古名です』。『川原に棲むこの鳥の行動に石投げに通ずるものを見て、門出集落で“いしこなげ”になったと考えれば、“いしなげ”は石投げになります。しかしながら、“いしこなぎ”という使われ方もあり、これは原形である“いしくなぎ”の』三『文字目が“く”から“こ”に変形したものです。“いしくなぎ”が“いしこなぎ”になり、さらに“いしこなげ”やいしなげ”になったと考えていいのでは思っています』とあった。「くなぐ」は「婚ぐ」で「交合する・男女が交わる」の意で用いられた古語で、鎌倉時代の文献などに用例が見いだされる)・「庭鳥」(にはとり)・「木鼠」(りす)・「鼯鼠」(むささび)・「鷹の事は不及申」(まをすにおよばず)「此鳥共をば射まじき也。木鼠を射ぬ故は聖武天皇鐵城を破り開」(あけ)「たる其謂」(そのいは)「れにて射まじきに被定置」(さだめおかれ)「たる也」「松屋筆記」は国学者小山田与清(ともきよ 天明三(一七八三)年~弘化四(一八四七)年)著になる膨大な考証随筆。文化の末年(一八一八年)頃から弘化二(一八四五)年頃までの約三十年間に、和漢古今の書から問題となる章節を抜き書きし、考証評論を加えたもの。元は百二十巻あったが、現在、知られているものは八十四巻。松屋は号。当該箇所は、国立国会図書館デジタルコレクションの活字本画像ではここ(百卅二)にある。「高忠聞書」は寛正五(一四六四)年に多賀高忠(応永三二(一四二五)年~文明一八(一四八六)年:室町後期から戦国前期の武将で京極高数(たかかず)の子。多賀氏の一派である多賀豊後守家当主で近江京極氏の重臣。二度に亙って室町幕府京都侍所所司代を務め、名所司代として知られ、武家故実に明るく、小笠原持長に弓術を学んだ)によって書かれた弓術書にして、その弓の師あった小笠原流多賀高長の伝記でもある。

「勁くして」「つよくして」。

「鐵網」「てつまう」。鉄で出来た網。

「樊」「選集」に『かご』と振る。

「嚙破て」「かみやぶつて」。

「倭漢三才圖會三九に見える」私の「和漢三才図会巻第三十九 鼠類 鼫鼠(りす) (リス類)」を参照されたい。但しそこ良安は、『齒、勁(つよ)くして、鐵のごとし。故に䥫綱(てつかう)[やぶちゃん注:鉄製の籠の意。「䥫」は「鐡」の古字。]を用ひざれば、則ち、齒にて破(やぶ)りて脫け去る』と記している。

「鐵籠」「てつらう」。鉄製の覆い籠(かご)。

「破て」「やぶつて」。

「龍樹大士の大智度論第卅三に、菩薩作一鳥、身在林中住。見一人於深水、非人行處、爲水神所ㇾ羂、水神羂法、著不ㇾ可ㇾ解、鳥知解法、至香山中、取一藥草、著其羂上、繩卽爛壞、人得脫去。」以上の本文は「大蔵経データベース」で校合した。「龍樹大士」大乗仏教中観派の祖とされる二世紀に生まれたインド仏教の僧龍樹。サンスクリット語の「ナーガールジュナ」の漢訳名。「大智度論」「摩訶般若波羅蜜経」(大品般若経)に対して注釈を加えた書。百巻に及ぶ。初期の仏教からインド中期仏教までの術語を詳説する形式になっているので、仏教百科事典的に扱われることが多い。漢訳は鳩摩羅什による(四〇二年~四〇五年成立)。訓読する。

   *

昔、菩薩、一(いつ)の鳥身(てうしん)と作(な)り、林中に在りて住む。一人有り、深水に入るを見る。人の行く處に非ざれば、水神の羂(わな)する所と爲(な)る。水神の羂の法、著(つ)いて、解くべからず。鳥、解く法を知れり。香山(かうざん)の中(うち)に至り、一藥草を取りて、其の羂の上に著(お)く。繩、卽ち、爛壞(らんくわい)し、人、脫(のが)るる法を得たり。

   *

「著(つ)いて」「身に纏い附いて」の意であろう。「香山」不詳。

「猶太」(ユダヤ)「の古傳にナツガーツラ鳥麥粒大の小蟲シヤミルもて山を剖」(さ)「く事有り(ベーリング、グールド、中世談奇一八八四年板、三九二頁)」「中世談奇」には「選集」では『キユリアス・ミス・オヴ・ゼ・ミドル・エイジス』と振る。イングランド国教会の牧師にして、考古学者・民俗学者。聖書学者であったセイバイン・ベアリング=グールド(Sabine Baring-Gould 一八三四年~一九二四年)が一八六六年に刊行した‘Curious Myths of the Middle Ages’ (「中世の奇妙な神話譚」)。一八七七年版を「Internet archive」で見たところ、同ページにあった。「ナツガーツラ鳥」は“Naggar Tura”「小蟲シヤミル」は“schmir”と綴られてある。

「ノルマンデーと非列賓」(フイリツピン)「島及び古羅馬の傳に啄木鳥」(きつつき)「靈草を以て硬木及鐵を破ると言り(プリニウス博物志卷十章十八。ボスケー女史諾曼提稗史及奇談一八四五年板、二一八頁。一六六八年マドリド板コリン傳道經營譚一卷七八頁)」「諾曼提稗史及奇談」には「選集」では『ラ・ノルマンジー・ロマネスク・エー・マーヴエヨーズ』と、「傳道經營譚」には『ラボル・エヴアンヘリカ』と振る。「プリニウス博物志卷十章十八」これは「十八」ではなく、「二十」の誤りと思われる。所持する平成元(一九八九)年雄山閣刊の中野定雄他訳になる第三版「プリニウスの博物誌Ⅰ」から引く。巻十は「鳥の性質」が標題で、その「二十」(底本では『二〇』)は「マルス神のキツツキ」である。

   《引用開始》

 二〇 また小さな鳥で鉤爪をもっているのがある。たとえばいろいろの種類のキツツキがそうだが、これはマルスの鳥(注1)と呼ばれ、占いをするに大事な鳥だ。この種類には、木に穴を穿けるキツツキで、ネコのようにほとんど垂直に木登りするものがあり、また逆さまにとりついていて、木の皮をつっつくときの音でその下に餌がいることを知るのもある。キツツキは雛を穴の中で育てる唯一の鳥である。彼らの穴に、羊飼いが樹を打ち込むようなことがあると、この鳥は一種の草をあてがってそれを滑り出さしてしまうということが一般に信じられている。トレビウスは、キツツキが巣をつくっている木に力いっぱい釘を打ち込んでも、この鳥がそれにとまるとたちまちそれが、木のきしみ声とともに脱けてしまうと述べている。キツツキそのものは、自分の名をこの鳥に与えた国王(注2)の時以来、ラティウムではいろいろの前兆の中で最も重要なものであった。彼らの前兆のうちのひとつをわたしは見逃し得ない。市の法務官アエリウス・トゥペロが広場で席について裁判を行なっていたとき、一羽のキツツキが少しの恐れ気もなく彼の頭にとまったので、彼は手でそれを捕えることができた。問いに答えて占者は、もし鳥を放すなら皇帝に、殺すなら法務官に災難が起る前兆だと断言した。トゥペロは即座にその鳥を引き裂いた。そして間もなく彼は前兆のとおりになった。

   注1 頭が赤い黒キツツキ、マルスは軍神。

   注2 ラティヌスの父ピクスは、その愛を

      彼が軽視したキルケによってキツツ

      キに変えられた。

   《引用終了》

「ボスケー女史諾曼提稗史及奇談一八四五年板、二一八頁」はフランスの作家アメリー・ボスクェ(Amelie Bosquet 一八一五年~一九〇四年)が一八四五年に刊行したノルマンディー地方の伝統習俗・伝説・迷信などの民俗誌‘ La Normandie Romanesque Et Merveilleuse ’ (「ロマンチックで素敵なノルマンディー」)。「Internet archive」のこちらで当該部が読める。二行目に出る“pivert”(ピーヴェー)がフランス語でキツツキである。

「一六六八年マドリド板コリン傳道經營譚」幾つかのフレーズで調べたが、不詳。

「文政六年」(一八二三年)「種彥跋ある江戶塵拾」(えどちりひろひ)「五に、田村元雄藏伽藍石」(がらんせき)「とて唐」(「もろこし」と訓じておく)「の伽藍鳥」(がらんてう)「子生置」(こ、うみおき)「たる巢を水晶板で蓋へば此の石を採將來」(とりもちき)「て其板を碎く。石大さ茶碗の如く色黑く能く鐵銅磐石」(ばんじやく)「を碎く由載居」(のせを)「る」「偐紫田舎源氏」で知られる戯作者柳亭種彦(天明三(一七八三)年~天保一三(一八四二)年)が跋を記した作者不詳の江戸で蒐集された怪奇談集。国立国会図書館デジタルコレクションの国書刊行会刊の「燕石十種」第三のここ(標題「伽藍石」)で読める。なお、普通に「伽藍石」というと、社寺の柱の古い礎石を「沓脱(くつぬ)ぎ石」や「飛び石」などに転用したものを指すが、ここでは全く違うので注意されたい。

「吾邦にも、昔し栗鼠が何物かの力で鐵城を破つた話が有るらしい」不詳。

「一八九三年板オウエンのオールド、ラビット、ゼ、ヴーヅー一七四頁」ミズーリ州の伝説とブードゥー教の民間伝承を収集した女性の民俗学者マリー・アリシア・オーウェン(Mary Alicia Owen 一八五〇年?~一九三五年)の‘Old Rabbit, the Voodoo, and Other Sorcerers’ (「年老いた兎、ブードゥー教、その他の魔術師」)。「Internet archive」のこちらで原本の当該部が読める。その呪具の並ぶ十一行目に“the jaw of a squirrel”と出る。「リスの顎の骨」である。]

 〇今年十一月日高郡上山路村の老婆に聞く、昔しは其邊に鹽鰹のみ田邊より來る、鹽酷くて鰹で饗されて口腫れ塞るを、三日腫れ、五日腫抔云て悅んだ。今は道路開け生鰹を食ひ得て、三日旨い、五日旨いと言つて樂むと。

[やぶちゃん注:「今年十一月」本記事は大正三(一九一四)年二月のものであるから、前年のことか。

「日高郡上山路」(かみさんぢ)「村」「Geoshapeリポジトリ」の「歴史的行政区域データセットβ版」の「和歌山県日高郡上山路村」の地図で旧村域が判る。「ひなたGPS」の戦前の地図で確認出来る。グーグル・マップ・データ航空写真の相当地区も示しておく。現在は田辺市龍神村柳瀬(やなせ)の内である。前の「安倍晴明社」の西方で、かなり山深い。

「鹽鰹」「しほがつを」。塩漬けのカツオ。私が丸一尾欲しくてたまらないものである。

「酷くて」「きつくて」。

「饗されて」「きやうされて」。ご馳走されると。

「腫れ塞る」「はれふさがる」。

「生鰹」「なまがつを」。私は「鰹のたたき」を丸一尾買って捌いて焼くのが趣味なのだが、最近やってないな……]

 〇十七八年前中山路村の松本といふ富豪始て馬を其村へ伴行き蓄し。當時六七十歲の老人馬を始めて見たる者多かつた。牛のみ通ふて馬は通はなんだとの事。

[やぶちゃん注:中山路村がいかに山深かったかが判る驚きのエピソードである。

「十七八年」一八九六年か一八九五年で、明治二十八か二十九年頃。

「伴行き蓄し」「つれゆき、かひし」。]

 〇明治十九年夏予現時林學博士たる川瀨善太郞氏と高野山に詣で心願の人に賴まれ川瀨氏立入の荒神へ詣るに予俱に行つた。小堂の壁に夥く鎌を納め掛け有り、川瀨氏も人に賴まれた鎌を掛て歸た。其近傍「わたらえ」と云所は田邊より高野へ參る道中頗る僻地だ。其地に人を葬り了つて上に火を焚き、鎌一本柄を下にして、上に立て、竹を周圍に刺す、魔物を禦ぐ爲と聞た。

[やぶちゃん注:「明治十九年夏」一八八六年。熊楠満十九歳(彼は四月十五日生まれ)。

「川瀨善太郞」(文久二(一八六二)年~昭和七(一九三二)年)は紀州藩士の長男として江戸藩邸で生まれた。明治二三(一八九〇)年、東京農林学校を卒業後、農商務省に入り、二年後に文部省留学生として林政学研究のため、ドイツに留学した。明治二八(一八九五)年に帰国し、帝国大学教授となり、林政学・森林法律学を講義する一方、翌年には農商務技師・山林局森林監査官を兼任し、国の林政にも参与した。大正二(一九一三)年、欧米へ出張、大正九年には東京帝国大学農学部長となった。大正十三年、定年により退官。なお、明治二十五年から「大日本山林会」役員となり、大正九年に会長に就任、木材と木炭規格統一に関する事業・山林所得税是正・記念植樹・演習林・農林高等学校の普及などに尽力した。著書に「林政要論」などがある。後年、熊楠とは特に親しかったわけではないようである。

「立入の荒神」「たていりのかうじん」と読むか。恐らくは、奈良県吉野郡野迫川(のせがわ)村にある立里荒神社(たてりこうじんしゃ)のことかと思う。空海が高野山を開創する際に祀ったと伝わる荒神社である。ここ(グーグル・マップ・データ)。当該ウィキによれば、『正確な年代は不明であるが、西暦』八〇〇『年』(延暦十九年)『頃の創建であるとされている』。『誉田別命と火産霊神を祀っていることから、商売繁盛の神としてや火の神、かまどの神として崇められており、また、日本三荒神のひとつとしても知られていることや』、『高野山の奥社などとされていることから、火に関わる職業の人や高野山参詣の人々を中心に』、『全国各地より』、『信仰心の厚い人々が訪れるという』とある。但し、サイド・パネルの画像を見ても、今は鎌を奉納している感じではないし、そうしたネット上の記事も見当たらない。鎌が多量にぶら下がっているというのは、ちょっとキョわいもんな。

「詣る」「まうでる」。

「俱に」「ともに」。

「わたらえ」かなり惹かれる火葬地なのだが、「ひなたGPS」の戦前の地図で荒神社の周辺を探してみたが、見当たらない。

「周圍」「選集」では『ぐるり』と振る。]

 〇西牟婁郡の諺に雨栗日柿、是は栗の實は雨多き程益々大きく、旱り續く程柿の實大なるを言ふのだ。(大正三年二月鄕硏究第一卷十二號)

[やぶちゃん注:最後の附記には底本では月が記されていないが、本文との絡みがあるので、「選集」で挿入した。

「旱り」「ひでり」。]

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