多滿寸太禮卷第四 弓劔明神罸邪神事
弓劔明神罸邪神事(弓劔明神(ゆつるぎのみやうじん)、邪神(じやじん)を罸する事)
越中の國となみ郡(こほり)、しほの鄕(さと)に、一人の隱士あり。藤原良遠(ふぢ《はら》のよしとを)といへり。
往昔(そのかみ)、當國の守(かみ)、藤(とう)の仲遠(なかとを)在國の間に、ある冨家(ふか)の娘に契りて、もふけたる男子(なんし)也。
當國の任、はてゝ、上洛の折から、都の聞えを憚り、かの男子に、家重代の、「雲分(くもわけ)」と云《いふ》劔(つるぎ)と「龍牙(りうげ)」といへる弓矢を殘し、
「此の子、成人の後は、いかにも器量あらば、父を尋ぬべし。」
とて、田畠(でんぱた)數ヶ所(すかしよ)、母につけて、上洛し給へり。
[やぶちゃん注:「越中の國となみ郡(こほり)、しほの鄕」「しほ」「鹽」(後で出る)に近い地名は、古い地図も調べたが、不詳。富山県富山市塩(グーグル・マップ・データ)があるが、ここは西の砺波郡域ではない。
「藤原良遠」不詳。
「藤の」(藤原)「仲遠」平安中期に同姓同名はいる。備中守。三十六歌仙の一人藤原仲文(延長元(九二三)年~正暦三(九九二)年)の兄である。
「雲分」という「劔」は不詳。
「龍牙」という「弓」は同じく不詳。]
幼少の比より、自余(じよ)の者にかはりて、色白く、眼(まなこ)さかしまにきれ、勢高(せいたか)く、强力(ごうりき)勇猛にして、才智、又、世に勝(すぐ)れければ、弓馬(きうば)の道に達し、岩・巖石をおとし、水に入《いり》ては水牛の勇みをなし、弓矢を執つては、楊雄(やうゆう)をあざむき、弓勢(ゆんぜい)、人に越へ、あたる所、射通(いとを)さずと云ふ事、なし。其の振舞、あたかも人倫の及ぶ事、かたし。常に遊獵(ゆふれう)を好み、山野・河海を家《いへ》とし、廿余歲の春秋(はるあき)を送れり。
[やぶちゃん注:「自余の者」同世代の他の者。
「楊雄」「水滸伝」に登場する武芸者のそれか。但し、彼は弓ではなく棒術の達人である。]
「さる者の子なれば、都にものぼり、父に對面して、世にも出《いで》給へかし。」
と、一族、母のいさめけれども、
「父に逢はむはさる事なれども、主(しう)につかへては。心、まかせず。世にあらむは、いかでか、たが、たのしみにも、おとらむや。」
とて、只(たゞ)、明暮、獵漁(すなどり)をわざとし、年月(としつき)を送るに、すべて不思議なる事ども、多かりける。
或る日、例のごとく、馬(むま)に打ち乘り、鹽(しほ)の山づたひに、奧山深く入《いり》ける。或は、峨々たる翠氣にのぼり、森々たる洞庭に下る。山、又、ふかく、樹の間《あひだ》は、暮るゝに似たれども、日、いまだ、かたむかず。
爰(こゝ)に、ある谷陰に、人の吟(よ)ぶ聲あり。
「かゝる人倫まれなる深山(みやま)に、人の來べきにしも、あらず。いかさまにも獸(けだもの)のたぐひならむ。」
と、馬をはせて見しに、ちかきあたりのちがやをむすびて、露もる便りとなし、やみふせる人、あり。
臭さ、そのほとりの草木(さうもく)にうつり、鼻をふさぎて、近か付き、これをみるに、誠に不淨の女(をんな)の病人也。
「いかなる者ぞ。」
と尋ぬれば、
「『溪民瘡(けいみんさう)』と云ふ病ひを受けて、父母《ふぼ》一族も鼻をいとひて、生きながら捨てられて候。『いかなる獸のゑじきともなり、早く命を捨てばや。』と思へども、鳥・獸さへ、臭さをいとひ、あたりへ、よらず。かひなき命を生きて、苦痛をし侍る。哀れ、殿(との)の御慈悲に、命を召してたばせ給へ。」
と、泣きかなしめば、良遠、天性、じひふかく、仁心なるものなれば、何となく哀れに覺え、
「扨、いかなる物が藥ぞ(くすり)。食(しよく)したき事は、なしや。」
と、問ひければ、
「すべて、此の病ひにふしぎの藥侍れど、父母親類も、うとみて、あたへず。」
と云《いふ》。
「何ぞ」
と、とへば、
「人の舐(した)が第一の藥にて候へども、思ひ、絕《たえ》侍る。」
と、答ふ。
良遠、心に思ひけるは、
『夫(そ)れ、「人としては、一生に一度は、かならず人を助くる者。」と、いへり。ましてや、人として救はずむば、人倫にあらず。』
「吾、汝をすくひ得させむ。」
と、思ひ切つて、彼(かれ)が五體をみるに、針(はり)斗りの所も損ぜざる所、なし。
されども、目をふさぎ、鼻をおほひて、胸のほどより、ねぶりければ、臭さ絕《たえ》がたけれ共(ども)、深重(しんぢう)の慈悲を以《もつて》、漸々(やうやう)ねぶりけるに、病人、忽ちに、容顏美麗の形と變じ、みどりの髮は、楊柳の風になびき、容貌端正(ずいしやう)の身となり、着たるつゞれは錦となり、臭さ、却(かへ)つて靈香(れいかう)となれり。
時に、女性(によしやう)、良遠に謂ひて云はく、
「我れは此の山の神、龍田姬(たつたひめ)と云ふ者也。君に前生(ぜんしやう)の緣あれば、慈心の程を、猶、こゝろみ、夫婦の語らひをなして、共に有情(うじやう)を度(ど)せんと思ふなり。」
とて、山上(さんじやう)をまねき給ふに、錦を以つてかざりたる、八葉《はちえふ》の車の大きなるが、牛もなく、をのれとゆるぎ下(くだ)りて、とゞまりぬ。
[やぶちゃん注:「溪民瘡」不詳だが、この病名、沙弥玄棟(げんとう)の編に成る室町中期(十五世紀前期)に成立した説話集「三国伝記」(インド・中国・日本の説話が順繰りに配されたもので全十二巻・計三百六十話を収める)の巻二の第二十三の「玄奘三藏渡天竺事」の一節に現われ、しかもシークエンス全体が酷似している。国立国会図書館デジタルコレクションの写本のこちらを元に(二行目六字目から)、推定で訓読して電子化する。
*
千里の長途に趣く。終(つひ)に廣遠の野原に到るに、爰に死したる人、有り。此れ臰(くさ)し。其の邊の草木も、皆、枯れ、もえたり。鼻を塞ぎて、近付きて見れば、之れ、未だ死者ならざるなり。
「何(いか)なる物ぞ。」
と問へば、
「『溪民瘡と云ふ病ひを受けて、父母(ぶも)も、鼻を臰(くさ)くして、生き乍ら捨てられ候ふなり。』
と云々。
玄奘、『哀れ』と思ひ、
「何か、藥なる。」
と問ひ玉ふに、
「易(やす)き藥はあれ共(ども)、親類・父母も与へず。」
と云ふ。
「何ぞ。」
と問ふに、
「人の砥(ねぶ)るが㐧一の藥にて有るなり。其の外には、藥、なし。」
と云ふ。
三藏、之れを聞き、思はく、
『不浄は誰(たれ)か備(そな)はざらん。大慈悲心を以つて、ねぶらん。』
と思ひ給ひ、彼(かれ)が五躰身分(ごたいみぶん)、針の指す計りも、損ぜざる所、無し。然(しか)れども、目をふさぎて、胷(むね)[やぶちゃん注:「胸」の異体字。]の程よりねぶり給へば、臰さ、堪へ難けれ共、深重(しんちやう)の慈悲を以つて漸(やうや)くねぶり給ふに、病人、忽ちに、金色(こんじき)の觀世音と成りて起き居(ゐ)て、云はく、
「汝は真(まこと)の聖人なり。實(げ)には『汝が心を知らん』とて、我が、病人に變じたるなり。我れに、甚深(ぢんしん)の法を持てり。是れを傅へて、一切衆生を利益し給へ。」
とて、則ち、授け玉ふ。「般若心経」、是れなり。
*
本著者は、これをここにインスパイアしたということは、最早、明白である。
「舐(した)」既にお判りの通り、患部を他者が舌で舐めてやることを指す。]
[やぶちゃん注:国書刊行会の「江戸文庫」版の木越治校訂「浮世草子怪談集」(一九九四年刊)の挿絵をトリミング補正して挿入した。後の一枚も同じ。]
則ち、下簾(したすだれ)をかゝげて、ともなひ入《いり》、たがひに、爰にありて、淺からぬちぎりをこめ、靈酒・佳肴、内(うち)にみちて、天上のたのしみを、つくす。
その夜(よ)は、爰にあかしぬ。
やうやう、しのゝめ告げわたる比、女性(によしやう)云ふやうは、
「常にもまみえたく侍れど、心にまかせぬ天帝の命なれば、又、明年のけふは、この所へ來り給ふべし。その時、又、見參(げんざん)に入《いり》さふらふべし。」
とて、別れて、夢のごとく、馬にのりて、一町斗りあゆみて、後(うしろ)をかへりみれば、雲霧、とぢて、名殘(なごり)の松風、歸るさを送る。
[やぶちゃん注:「龍田姬」本邦の秋の女神。元は龍田山の神霊で風神である。]
此の事を母にも語るに、『不思儀なる事』に思へり。
かゝる程に、光陰、過ぎすく、契約の日にも成りしかば、則ち、馬(むま)に乘りて、かの所にいたりぬ。
遙かの峯を、前(さき)の車、忽然と下りぬ。
女性(によしやう)、簾をかゝげて、良遠が手をとりて、車に伴ひ、千夜(ちよ)を一夜(よ)にかたらひ、
「君(きみ)と、すくせのきゑん、あり。天帝のゆるしを蒙り、今、こゝに、二たび、あひみぬ。此の後(のち)、ながく、まみゆる事、有《ある》べからず。我れに微妙(みめう)の呪法あり。「瞿雀明王經(くじやくみやうおうきやう)」と名づく。これを深く信受(しんじゆ)すれば、神仙の妙を得て、一切の鬼種(きしゆ)を領す。此山の未申(ひつじさる)に當つて、一つの深洞(しんどう)あり。これ、古仙(こせん)の靈窟にして、此の洞(ほら)に入《いり》て、此《この》呪(じゆ)を修(しゆ)し、練行(れんぎやう)あるべし。内證、佛智に叶ひ、外(ほか)に、通力(つうりき)自在の術を得。急ぎ、彼(か)の地に行きて、おこなひ給ふべし。」
と、念比(ねんごろ)につたへて、夜(よ)も明けぬれば、前(まへ)のごとくわかれて、忽然として消《きえ》うせぬ。
良遠、女の敎へにまかせ、すぐに、かの洞(ほら)に入て、二度(ふたたび)人家に歸らず、ながく塵あいを隔てて、密呪(みつじゆ)を修(しゆ)し、松葉(まつのは)をぶくし、練行せしに、いつとなく飛行(ひぎやう)自在の通(つう)を得て、洞中(ほらのうち)は五色(ごしき)の苔を生(しやう)じ、門戶床下(もんこしやうか)、苔、をのづから色(いろ)をまじへ、則ち、五色の苔を衣服とし、鳥獸(とりけだもの)、菓蓏(くわくわ)を供(けう)し、二人の山神(さんしん)をかつて、隨從(ずいじう)給仕をなす。
[やぶちゃん注:「瞿雀明王經」毒蛇を食うクジャクを神格化した孔雀明王は、祈れば、一切の害毒・災厄を除くとされ、金色の孔雀に乗る四臂の菩薩形で、手にクジャクの羽・蓮の花・具縁果・吉祥果を持つ姿に描かれる。この経は孔雀明王を本尊とする修法。
「菓蓏」木の実と草の実。]
爰に、智海(ちかい)・融性(ゆうしやう)とて、諸國斗敎(とけう)の僧ありけり。
立山禪定して、越後へおもむくに、道を失ひ、計らずも、かの洞(ほら)に至れり。
有髮(うはつ)の僧形(そうぎやう)、默然として、あり。
二人、希有の思ひをなし、恭敬禮拜(くぎやうらいはい)して、暫くやどりをなす。
傍《かたはら》に、二人の美麗の女性をみて、思はずも、染心(せんじん)の念をはつす。二女(《に》ぢよ)は、仙に申て云《いはく》、
「是れ、破戒無慙(はかいむざん)の人なり。僞りて淨境(じやうかい)に至る。吾れら、まさに身命(しんみやう)をくらはむ。」
仙の云《いはく》、
「此事を、なす事、なかれ。二人を加護して、人間《じんかん》に送るべし。」
とあれば、二人の美女、俄かに本形(ほんぎやう)を顯はし、恐ろしき鬼神(きじん)と成《なり》て、二人を引つさげ、空(そら)をしのぎて、飛びかけり、しゆゆの間《かん》に人里に至り、則ち、投げ捨てて去りぬ。
二人は心も消へ、氣を失ひ、良(やゝ)久しくして、よみがへり、里人に逢ふて此事を語り、みづから、ざんげ・後悔しける。
「さるにても、此山に、かゝる事、ありや。」
と尋ねとへば、
「二百年斗《ばかり》以前、藤の良遠とて、ふしぎの人、有《あり》つるが、深山(しんざん)に入《いり》て、神女に契り、二たび、出《いで》ず。遙かに、とし經て、傳へ給ひし太刀と弓とを、年比、住《すみ》給ひし屋形《やかた》の棟(むね)に、空(そら)より、立てあり。劔(つるぎ)は、常に、雲を、うづまき、弓矢は二龍(じりう)と成《なり》、屋上に、みゆる。則《すなはち》、その旧跡を改めて、新たに社檀[やぶちゃん注:ママ。]を造營し、二色(にしき)の神寶をこめて、「弓劔の宮」とて、靈驗不双(ふさう)にまします也。」
と語れば、二人の僧、信心、肝にめいじ、則《すなはち》、明神に參詣し、法施(ほつせ)を奉りて、おこたり申ける。
[やぶちゃん注:「智海・融性」ありがちな僧名であるが、仮想であろう
「斗敎」「抖擻・斗藪」(とそう) の誤字。衣食住に対する欲望を、一切、払い除けて、身心を清浄にする修行を指す。]
其後、應長の比、都七條邊に、常眞院法印周達とかや云ひし先達(せんだち)の山伏、北國の靈場を順禮しける。
加賀・越中を廻りて、となみちかき麓を過ぎけるに、日は已にかたむき、人倫遠き山道なれば、いとゞ心ぼそきに、とある森陰より、俄かに黑雲(こくうん)たな引《びき》て、すさまじく、身の毛、しきりに、よだち、異形(いぎやう)のもの、木《こ》のまにみえて、
「其《その》法師、とりて、肴《さかな》にせよ。」
と、呼ばはる聲しければ、足をばかりに逃げけるが、あまりの恐ろしさに、跡をかへりみれば、頭《かしら》は龍のごとく、眼(まなこ)ひかり、あかき髮、そらざまに生ひ上がり、兩手をひろげて、追《おひ》かけたり。
周達、心に「般若」を呪し、逸足(いちあし)を出して、漸々(やうやう)と、此社まで、かゝへりつき、遙かに跡をみれば、空(そら)はれ、月も、東の山のはに出ければ、やゝ人ごゝろのつきて、あたりをみれば、人家も立《たち》つらねたり。
則ち、社檀[やぶちゃん注:ママ。]の片隅にうづくまり、夜もすがら、「心經(しんぎやう)」を誦し、法樂とし、
「かゝる邪鬼を、まぢかく住ませ給ふ事、神威、うすきに似たり。」
と、且つはうらみ、且は祈りけるが、あまりに草臥(くたびれ)ければ、拜殿に、ふしぬ。
[やぶちゃん注:「應長」ここで初めて、後半の時制が明らかとなる。一三一一年から一三一二年までで。鎌倉幕府将軍は第九代守邦親王で、執権は北条師時(時宗の猶子)・北条宗宣(おさらぎむねのぶ:大仏宣時の子。大仏家の総領)。孰れも非得宗で高時の中継ぎ。而して、前半の話の時制は平安中・後期ということになる。
「常眞院法印周達」不詳。山伏は御大層な名を名乗ることが多い。
「かゝへりつき」意味不詳。誤字か訛りか。
「法樂」誦経(ずきょう)によって神仏を慰めたと感ずること。]
夜も、漸々(やうや)丑三(うしみつ)ころに、神殿の御戶《おんと》、
「はつ」
と、開く。
周達、夢心ちに、
『不思儀さよ。』
と思ひ、守りいたるに、燈明あきらかに、一人の神女、御階(みはし)のもとに下り立ち、末社を、めす。
立烏帽子に、布衣(ほい)きて、下に腹卷・太刀はいたる神人(じんにん)、四、五人、聲に應じて、庭上(ていしやう)にかしこまる。神女、
「こよひの客僧、風の森の邪鬼に追はれて、神殿に訴ふ。是のみならず、折々、人を損害す。とく、罸せられるべき所に、深く歎き申《まをす》により、宥(ゆう)めんある所に、放逸(はういつ)をふるまふ。汝等、急ぎ彼(か)の地に赴き、神罸をくはへ、誅し可(べ)き申《まをす》のむね、神勅なり。則《すなはち》、「雲分(くもわけ)」の御劔(ぎよけん)を、しばらく預け下さる。」
と、錦の袋に入《いれ》たる御劔を給はりければ、各《おのおの》御請《ぎよせい》を申《まをし》、
「つらつら」
と立《たつ》かとすれば、俄かに、雷電、へきれきして、稻妻ひらめき、風すさまじく、森のかたに、遙かに神火(しんくわ)ちらめき、戰ふ躰(てい)に見へけるが、暫くありて、五人の神人(じんにん)、鬼(おに)共《とも》、人ともしれざる、一かいあまりの頸(くび)、眼(まなこ)は、月のごとくかゝやき、血にまみれたるを、御劔につらぬき、持來《もちきた》れり。
則《すなはち》、神女、立出て、かの首を實檢し、
「急ぎ道路に捨て置き、諸人(しよ《じん》)にみせしむべし。御劔を淸め、をのをの休息あるべし。あけなば、此客僧、送り遣はすべし。」
とて、神女は内殿に入給ふ、と、みて、夢、さめぬ。
不思儀に有がたく、感淚をながし、禮拜(らいはい)、多羅尼(だらに)を法施(ほつせ)し奉り、社中(しやちう)をみれば、末社あまたある中に、所々、戶、ひらけたり。
いよいよ尊(たつと)く、一社一社に奉幣し、人家に至り、里人をあつめ、ありし次第、靈夢を語れば、里人、
「あはれ、風の森の化け物、罸せられたり。」
と、悅びける。
鄕人(さと《びと》)、あまた、かたらひて、彼《かの》森に至りてみるに、夢に見しに違(たが)はず、五體・兩手・兩足、鬼のごとくにて、身に、
「ひし」
と、毛、おひ出(いで)、熊のごとし。
傳へきく、「狒狒(ひひ)」といへる獸(けだもの)ならむ。
其の邊(ほとり)は、草・木・枝、さけ、土石をかへし、荒れ果てけり。
貴賤、神威を感じ、近里遠鄕、貴敬(きけい)し奉りけり。
周達も、修行を止め、此社内に居《きよ》をしめ、禮典・祭禮の規式(きしき)を興(おこ)し、別當と成《なり》て、神靈を崇(あが)め奉る。
此後、ながく、わざはひ、絕《たえ》て、海道、ひらけ、諸人(しよにん)、安堵をなしけるとかや。
[やぶちゃん注:本篇は、前の話と後の話の時制が離れ過ぎていて、ちょっと構成が連関した話としては微妙に上手くないように私には感じられる。
「狒狒」大きな猿に似た幻獣。老猿が変じた妖怪ともされる。]
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