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2022/07/11

「南方隨筆」底本正規表現版「紀州俗傳」パート 「十一」

 

[やぶちゃん注:全十五章から成る(総てが『鄕土硏究』初出の寄せ集め。各末尾書誌参照)。各章毎に電子化注する。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(ここ)で視認して用いた。また、所持する平凡社「選集」を参考に一部の誤字を訂した。表記のおかしな箇所も勝手に訂した。それらは一々断らないので、底本と比較対照して読まれたい。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 本篇の各章は短いので、原則、底本原文そのままに示し、後注で(但し、章内の「○」を頭にした条毎に(附説がある場合はその後に)、読みと注を附した。そのため、本篇は必要性を認めないので、PDF版を成形しないこととした。]

  

       十一、

 ○雷の臍(鄕硏二卷一號五八頁參照) 紀州西牟婁郡西ノ谷村の小野崎稻荷祠は、數年前合祀せられてしまつた。此處に二十年ばかり前まで雷の臍と云ふ物が時々土中より出た。陶器質で其形も大さも鯔魚の心臟(俗に臼と云ふ物)ほどである。小兒等之を集めて娛樂とした。或は謂ふ、昔時此處で短い足の附いた土鍋を作つた。其足ばかり作り置き鍋に附けぬまゝ事業廢止となつて棄て埋められたのだらうと。解說は其通りとして、何故之を雷の臍と謂つたかは分らぬ。此邊で鰹の心臟を臍と云ふ。それに似て居るからの名かと愚考する。又俗話に、雷が鳴りに出行く留守を賴まれ、引出し一具を大切に片附けあるを見出だし、雷が歸りたるにより一見を望むと、一番上の引出しは人の眼、次は鼻、次は口と、臍を入れた引出しまで見せて吳れたので、今一つ殘つたのを示せと望むと、臍の下は見せられぬ。   (大正三年十月鄕硏第二卷第八號)

[やぶちゃん注:「選集」では標題「雷の臍」はゴシック太字となっている。また、「鄕硏二卷一號五八頁參照」」(この「一號」は「選集」で補った)の「參照」の前には「選集」の編者によって、割注が入り、『へいし「秋篠寺の雷の臍」』とある。『郷土研究』はバック・ナンバーが見られないので「へいし」氏は不詳で、内容も判らぬ。

「紀州西牟婁郡西ノ谷村」(にしのたにむら)「Geoshapeリポジトリ」の「歴史的行政区域データセットβ版」の「和歌山県西牟婁郡西ノ谷村」で旧村域が確認できる。現在は田辺市内。近代の地割は複雑な沿革を持っており、それはウィキの「元町(田辺市)」を見られたいが、「西ノ谷村」は本来は田辺市中心部の北西部の、紀勢本線芳養駅の東方一帯に相当し、当時は『北で芳養町、東で稲成町、南で上の山、西で明洋・芳養松原』等に接するか、そこを含むか、一部を含んだ、南の半島部も総て村域であった広域な村であった。『以前は』現在の『住居表示実施地区の上の山・目良・天神崎および古尾・明洋の各一部などを』広く『含んだが、現在は山間部のみ』に「元町」だけが『残っている』状態である。

「小野崎」(おのざき:「選集」のルビ)「稻荷祠は、數年前合祀せられてしまつた」痕跡無く、位置不明。明治政府の神社合祀政策は熊楠が、官憲に拘留までされても、その反対運動に心血を注いだもので、「神仏分離令」とともに本来の各地の伝統的信仰の崩壊と鎮守の森の致命的破壊に繋がった劣悪な政策であった。明治三九(一九〇六)年の第一次西園寺内閣に於いて内務大臣原敬によって出された勅令によって開始され、全国で大正三(一九一四)年までに実に約二十万社あった社祠の七万社が取り壊されている。政策自体は当該ウィキを参照されたいが、その問題点を的確に指摘し、熊楠についても触れておられる「講談社」公式サイト内の真鍋厚氏の記事『「八百万の神」を潰そうとした明治政府に立ち向かった男 神社が神社を弾圧した歴史があった』(全三回)がよい。また、熊楠の「神社合祀に関する意見」の原稿が「青空文庫」のこちらにある(新字新仮名)。「南方熊楠顕彰館」公式サイト内の「神社合祀反対運動」も読まれたい。

「鯔魚」(ぼら)「の心臟(俗に臼」(うす)「と云ふ物)」「心臟」は「胃」(の一部)の誤り。胃の出口に相当する幽門部が厚く著しく発達して、捌いた腹部から特異な独楽のような形をしていることから、「ボラの臍」或いは「算盤玉」と呼ばれる。或いは、後で出る「鰹の心臟を臍と云ふ」に引かれて、つい誤ったものかも知れず、また、熊楠の誤りではなく、田辺で「鯔の心臓」(こちらは正しい。ウィキの「カツオ」によれば、『鹿児島県枕崎市では、カツオの心臓は「珍子」(ちんこ)と呼ばれ、から揚げや煮付けで食べられる。静岡県焼津市ではカツオの心臓を「へそ」と呼び、おでんの具とすることもある』とある)と誤認通称したものかも知れぬ。因みに、なかなかお目にかかれないが、孰れも私の好物である。

「小兒等」「こどもら」。

「昔時」「せきじ」。

「出行く」「いでゆく」。以下、最後は熊楠好みの下ネタの落とし話。]

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