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2022/07/27

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 火齊珠に就て (その一・正篇)

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。但し、例によって段落が少なく、ベタでダラダラ続くため、「選集」を参考に段落を成形し、注は各段落末に配した。ちょっと注に手がかかるので、四回(本篇が以下で、後のやや長い「追加」を三つに分ける)に分割する。]

 

     火齊珠に就て (大正元年十月『考古學雜誌』三卷二號)

        本文の「追加」が考古學雜誌に揭載
        されし後ち古谷氏の再答文有り。そ
        それに對して予は三たび答ふるの文
        を投ぜしが、揭載されざりし、此文
        は他日續々編に出すべし。(大正十
        五年九月十六日記)

 考古學雜誌第二卷第七號四〇七頁に古谷淸君は、「支那に於て、硝子なる者を表示するに瑠璃云々等の文字を用ひたり。此中硝子及び火齊珠の二つは、支那人の作出せる文字にして、Glass の意譯なるべく云々。玻璃、硝子及び火齊珠等の文字は、隋唐時代の書物に至て見る所にして、其れ以前の物に於ては、瑠璃若くは之に近き音を現はしたる文字を用ゐたり」と言はれたり。

[やぶちゃん注:「火齊珠」(くわせいしゆ)は複数の中文サイトの漢語辞典を見るに、最初に「宝玉の一種で、珠玉に似た石」(例を「南史」(二十五史の一つ。唐の李延寿撰。高宗(在位:六四九年~六八三年)の治世に成立した。南朝の宋・斉・梁・陳四国の正史を改修した通史)を引く)とし、二番目に「玻璃(ガラス)の別名」(例を「太平御覧」(北宋の類書。太祖の勅命によって李昉(りぼう)らが撰した。九八三年成立)から引く)とする。一方、源順(みなもとのしたごう)の「和名類聚鈔」(承平年間(九三一年~九三八年)の成立)を見ると(巻十一の「宝貨部第十七」・「玉類第百五十三」)、以下のように出る。ここで後のガラスの古名ともなる、青或いは青紫色のラピス・ラズリ(lapis lazuli)を指した「瑠璃」と、実は同じだと順が言う「雲母」と並んでいるので、三条、総てを示す(国立国会図書館デジタルコレクションの寛文七(一六六七)年版の当該部の訓点を参考にした)。

   *

瑠璃(ルリ) 『野王、按ずるに、「瑠璃」【「流」・「離」の二音。俗に「留利」と云ふ。】青色にして、玉のごとくなる者なり。』と。

雲母(キラヽ) 「本草」に云はく、『雲母【和名「岐良々」。】、五色、具はる、之れを「雲華」と謂ふ。赤、多き、之れを「雲珠」と謂ふ。青、多き、之れを「雲英」と謂ふ。白、多き、之れを「雲液」と謂ふ。黃なる多き、之れを「雲沙」と謂ふ。』と。

玫瑰(キウクワイ) 「唐韻」に云はく、『玫瑰【「枚」・「廻」の二音。今、案ずるに、和名、「雲母」と同じ。「文選」の「讀翡翠火齊」の處に見えたり。】、火齊珠なり。』と。

   *

とある(「雲母」の読みは前条に従った)。しかし、どうも、「玫瑰」『「文選」の「讀翡翠火齊」の處に見えたり』というのは、腑に落ちない。「翡翠火齊」の文字列は「文選」所収の後漢の歴史家・文学者班孟堅(班固 三二年~九二年)の、知られた長安を讃美した「西都賦」の一節にあるが、「讀翡翠火齊」というのはなく、不審だからである。ネット検索をしたところ、加藤良平氏のブログ・サイト「古事記・日本書紀・万葉集を読む」の『和名抄の「文選読」について 各論』のこちらで、和名抄の原文の「見于文選讀翡翠火齊處」の「于」について、『京本類と呼ばれる和名抄の諸本に、「于」は、「千」とも「干」ともとれる字体である』と指摘され、ここを加藤氏は、

   *

「干」に見ゆ。「文選」に『翡翠火齊』の處を讀む。

   *

という風に訓読され、『「干」は、琅玕を指す』とされており、これは甚だ腑に落ちた。「琅玕」(ろうかん)は暗緑色又は青碧色の半透明の硬玉を指す。則ち、ここで順は割注の頭で、『この「玫瑰(まいかい)」という鉱物は雲母と同じではあるが、琅玕のようにも見える。それは「文選」の『翡翠火齊』のところでそのように読める』と言っているように思えるからである。なお、「西都賦」はかなり長い。「維基文庫」のこちらで原文が見られるが、目がクラクラするばかりなので、紀頌之氏のブログ「漢文委員会」のこちらの分割版が良い。その「(24)#93」の頭に、

   《引用開始》

翡翠火齊,流耀含英。

弱翠の羽飾りのある火斉の天明りは、遠くまで照らし光を内に含んでいる。

   《引用終了》

とある。取り敢えず私は「翡翠の火齊、耀きを流し、英(ひかり)を含む。」と訓じておく。この「火斉」とは、グルグル巡って、再び、瑠璃(ラピス・ラズリ)を加工した燈明台となる。しかし、ここまでくると、私はガラスとの酷似・相同性を強く見出せるように感じられる。因みに、ウィキの「ガラス」の「ガラスの歴史」の「古代のガラス」には、『エジプトのアレクサンドリアで、宙吹きと呼ばれる製造法が紀元前』一『世紀の後半に発明された。この技法は現代においても使用されるガラス器製造の基本技法であり、これによって安価なガラスが大量に生産され、食器や保存器として用いられるようになった。この技法はローマ帝国全域に伝わり、ローマガラスと呼ばれるガラス器が大量に生産され、東アジアにまでその一部は達している』。『この時期には板状のガラスが鋳造されるようになり、ごく一部の窓にガラスが使用されるようになった』。『また、ヘレニズム的な豪華なガラスも引き続き』、『製造されていた。しかしローマ帝国の衰退とともにヨーロッパでの技法が停滞した。一方、東ローマ帝国の治める地中海東部やサーサーン朝ペルシャや中国の北魏や南朝では引き続き高水準のガラスが製造されている。日本では福岡県の須玖五反田遺跡などで古代のガラス工房があったことが確認されている』とあり、脇に、『古墳時代に日本に伝来した西アジア製のガラス碗』『ササン朝のカットグラス』で、『伝安閑陵古墳(大阪府羽曳野市)出土。国の重要文化財。東京国立博物館展示』とキャプションするガラス・グラスの写真が載る。則ち、ガラス工芸品は我々が思う以上に、中国でも日本でも、古くからよく知られていたことが判る。なお、「硝子」は日本語として漢字表現したもので、現代中国では「ガラス」は「玻璃」である(中文ウィキの「玻璃」の最後に『日語漢字以硝子代表』とあるのを見よ)。而して、「玻璃」の漢語自体は、古代インドや中国などで珍重された宝玉で、「七宝(しっぽう)」の一つで、無色の水晶を指したと辞書にはある。但し、中文ウィキの「玻璃」では最後には『玻璃在中國古代亦稱琉璃』とあるが、そこには出典要請がかけられており、「玻璃」という漢字表記が古代から一貫してガラスを指したわけではないようである。宮嶋純子氏の論文『漢訳仏典における翻訳語「頗梨」の成立』(『東アジア文化交渉研究』(二〇〇八年三月)収載。「関西大学学術リポジトリ」のこちらからダウン・ロード出来る)によれば、仏典が漢訳された中に最古形として出たのは「頗梨」であり、これは元来は、水晶、或いは、現在は限定出来ない宝石の類を現経典では指していたらしい。それが、『西域伝来の仏典の中で語られる透明で硬い鉱石のイメージと,西方産のガラスがどのように結びついたものか,「頗梨」は「玻璃」と字を変えて現代まで中国において受け継がれてきた』と述べておられる。さて、ここで古谷氏は、『玻璃、硝子及び火齊珠等の文字は、隋唐時代の書物に至て見る所にして、其れ以前の物に於ては、瑠璃若くは之に近き音を現はしたる文字を用ゐたり』と述べているのだが、まず、「硝子」は和製漢語だから誤りとなり、更に、紀元三世紀頃には中国でサンスクリット仏典の漢訳が開始されており、最も古い「頗梨」の一つとして、宮嶋氏は訳経僧鳩摩羅什(くまらじゅう 三四四年~四一三年/別説/三五〇年~四〇九年)訳の「仏説阿弥陀経」を例示されておられる。古谷氏は隋(五八一年~ 六一八年)よりも前にには「玻璃」は認められないというのは、単に原形の「頗梨」が「玻璃」に変化したに過ぎないことになる。さらに、「火齊珠」だが、「火齊」と書いた班固が生きたのは紀元後三二年から九二年であり、その「西都賦」のそれは「火齊珠」と同義ととって私はよいと考える。従って、古谷氏の以上の発生時期の遡上限界の見解部分は総て誤りと言ってよいと私は考える。

「大正元年」一九一二年。

「揭載されざりし、此文は他日續々編に出すべし」とあるが、「続々南方随筆」は刊行されず、その準備稿が「選集」第五巻に総て載るが、それらしい論考は見当たらない。

「古谷淸」生没年未詳だが、『考古学雑誌』やその他の雑誌の論考掲載が確認出来る。また、彼は、明治四四(一九一二)年、熊本の江田船山古墳を卑弥呼の墓とする論考「江田の古墳と女王卑弥呼」(同年末の『東洋時報』掲載)を発表している。これは、稗田阿礼氏のサイト「神社と古事記」の『古谷清「江田村の古墳」― 1912年、卑弥呼の墓を主軸にした邪馬台国論、考古学参入先駆け』で知った。但し、そこに、『その後の研究で、この江田村古墳の年代が、卑弥呼との時代と大幅に』乖『離していることが明らかになり、この論文は忘れられる形になる』。『しかし、考古学の方面からほぼ初めて、邪馬台国や卑弥呼について論じた研究であり、考古学者の同問題参入を促した高橋健自に先んじること10年余り、古墳と邪馬台国という分野においては先駆け的存在となったと言える』と述べておられる。

「此中」「このうち」。]

 Glass の意譯とは、何の意なるを詳らかにせず。大英類典十二卷「グラス」の條には、此英語は「チウトニク」語根「グロ」又「グラ」、光るという意より出ずと有り、惟ふに淵鑑類函第三六四卷に續漢書曰、哀牢出火精瑠璃、又出水精、潜確類書曰、水精千年水也、抔見ゆれば、火精は水精に對する名にて、火を以て練成せるより移りて、火の精塊となしたるならん。同卷に須彌之山有吠瑠璃、火不能燒など云へり。齊と精と音異なれど、火齊も何だか火で練成せりてふ意に出し樣察せらる。

[やぶちゃん注:「大英類典」は熊楠御用達の「エンサイクロペディア・ブリタニカ」(Encyclopædia Britannica)のことで、恐らく熊楠の所持する十一版の第十二巻を「Internet archive」のこちらで当該箇所を見つけた。当該項の冒頭に以下のように記されてある。

   *

 GLASS (O.E. glas, cf. Ger. Glas, perhaps derived from an old Teutonic root gla-, a variant of glo-, having the general sense of shining, cf. " glare," " glow "),

   *

O.E.」は「Old English」(古英語)の略号。「Teutonic」元は古代のユトランド半島(北海とバルト海を分かつ半島で、現在は北側がデンマーク領、根元のある南側がドイツ領)に住んでいたゲルマン民族の一部族チュートン族(「テウトニ」「テウトネス」「テュートン」とも音写する)を指す。紀元前二世紀に、同じ地域にいたキンブリ人とともに南下し、ローマの将軍マリウスに撃滅された。現在はヨーロッパのドイツ人を初めとする「ゲルマン系諸民族」と「言語」の称として用いられる。

「淵鑑類函第三六四卷に……」「淵鑑類函」は清の康熙帝の勅により張英・王士禎らが完成した類書(百科事典)で、南方熊楠御用達の漢籍である。「漢籍リポジトリ」の当該巻当該部の「水精一」([369-45b])と「琥珀一」([369-48b])の二ヶ所の記述のカップリング。訓読する。

   *

「續漢書」に曰はく、『哀牢は火精瑠璃を出だす』と。又、『水精を出だす』と。「潜確類書」に曰く、『水精は千年の水なり』と。

   *

「續漢書」は西晋の官吏で歴史家の司馬彪(ひょう ?~三〇六年)が、後漢の光武帝から献帝までの「本紀」・「列伝」・「志」(礼・楽・暦・天文・五行・食貨・刑法・地理・職官などの重要史料事項群)を備えた史書八十篇を著し、かく書名を附したもの。但し、「志」を除くものは散佚して纏まって残っていない。しかし、この「続漢書」の「志」(三十巻)だけは、二十四史の一つに数えられる、南朝宋の政治家にして文学者・歴史家であった范曄(はんよう 三九八年~四四五年)によって書かれた歴史書「後漢書」(本紀十巻・列伝八十巻)に欠けていた「志」を補うものとして、「後漢書」に合刻され、現在も残っている。「哀牢」(あいらう)は漢代に雲南省南西部地方に建国した西南夷の国。その種族についてはタイ語系諸族説とチベット・ビルマ語系諸族説に分かれている。始祖伝説によれば、牢山の婦人沙壱が魚を獲っている最中、龍の化身である沈木に触れて産んだ男子十人の内、龍に舐められた末子の九隆が、選ばれて、初代の王となったとする。当初は中国とは交渉を持たなかったが、四七年に後漢と戦って敗れて内属し、その地には永昌郡が置かれた(平凡社「世界大百科事典」に拠った)。「潜確類書」は「潛確居類書」とも。明代の学者陳仁錫(ちんじんしゃく 一五八一年~一六三六年)が編纂した類書。

「須彌之山有吠瑠璃、火不能燒」前掲引用元の「瑠璃一」の[369-38b] で原文が見られる。

   *

須彌(しゆみ)の山に吠瑠璃(べいるり)あり、火も燒く能はず。

   *

「須彌の山」須弥山(しゅみせん)は古代インドや仏教の宇宙観で中心に聳える伝説の山。サンスクリット語「メール山」「スメール山」の漢音写。「吠瑠璃」小学館「日本国語大辞典」では、『(vaiḍūrya の音訳)仏語。七宝の一つ。青い色の宝石。瑠璃。毘瑠璃とも』とするが、ウィキの「七宝(仏教)」を見ると、『瑠璃は、サンスクリット語ではvaiḍūrya(バイドゥーリヤ、漢音写:吠瑠璃)、パーリ語ではveḷuriya(ヴェルーリヤ)、青色の宝玉で、アフガニスタン産』ラピス・ラズリ『と推定されている。後に、青色系のガラスもさすようになった』とある。]

 扨、謝在杭の五雜俎卷八に、敍女寵者至漢事秘辛極矣、敍男寵者至陳子高傳極矣。秘辛所謂、拊不留手を、火齊欲吐等語、當流丹浹藉競爽、而文采過之云々、此の陳子高傳と云ふ者、先年大英博物館に在し日、陳書の子高の傳を指す事と思ひ調べしも、一向在杭が褒めし程の文無し。別に陳子高傳と云ふ物有るにや、在杭は其傳の吳孟子鐵纏矟の句を特に稱美せり。同性卽ち男と男との交り、男色の趣を述べたる句と察せらる。全體、予、漢學は一向修めざりし故、在杭の件の文、何の事か全く分らず、因て松岡香翠と云る紀州田邊の詩人に問合せしに、此人亦十分に解せぬ乍ら、略ぼ答て書れしは、「佩文韻府、楊愼書、漢雜事祕辛後漢雜事一卷、載桓帝懿獻梁皇后被選、及六禮册立事。又海國千房、火齊珠(詩句)、不如服取長流丹(詩句)等の語有り。又、王勃滕王閣之序、飛閣流丹下臨無地の語有り、此流丹は朱閣を形容せる者、前きの流丹は仙丹の如きならんか。(熊楠按ずるに、女陰を朱門と呼ぶ事、唐の釋法琳の辨正論卷七に、佛經の譯人譯語の本名を存する事を言て、非如朱門玉柱之讖陽父陰母之謠、註に、黃書云、開命門、抱眞人、嬰廻龍彪、載三五七九、天羅地網、開朱門進玉柱、陽思陰、母白加玉、陰思陽、父手摩捉也。朱門と、朱閣と、又それから流丹と關係ある事かとも思へど、丸で不案内の予の事故、ほんの宛て推量也。なほ昔し日本でも女陰を朱門といひしは、狩谷掖齋の箋注倭名類聚抄卷二、玉門の條に見えたり)浹藉の熟字は、何れの書にも見當り申さず、流丹浹藉は美文の勢を形容せしには非るか。火齊は珠の名なるべし。火齊欲吐は或は女陰の形容位ゐ云々、高見遠からざる事と存じ候」となり。

[やぶちゃん注:「謝在杭の五雜俎卷八に、敍女寵者至漢事秘辛極矣、……」「五雜組」とも表記する。明の文人官人謝肇淛(しゃちょうせい 一五六七年~一六二四年:在杭は字(あざな))が撰した歴史考証を含む随筆。全十六巻(天部二巻・地部二巻・人部四巻・物部四巻・事部四巻)。書名は元は古い楽府(がふ)題で、それに「各種の彩(いろどり)を以って布を織る」という自在な対象と考証の比喩の意を掛けた。主たる部分は筆者の読書の心得であるが、国事や歴史の考証も多く含む。一六一六年に刻本されたが、本文で、遼東の女真が、後日、明の災いになるであろう、という見解を記していたため、清代になって中国では閲覧が禁じられてしまい、中華民国になってやっと復刻されて一般に読まれるようになるという数奇な経緯を持つ。以上の熊楠の引用については、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の寛政七(一七九五)年京都板行版の訓点附きのこちらで、当該部と校合し、それを参考にしながら、オリジナルに訓読した。

   *

女寵(ぢよちよう)を敍する者は漢の「秘辛」を事とするに至りて極まれり。男寵を敍する者は「陳子高傳(ちんしこうでん)」に至りて極れり。「秘辛」の所謂、『拊(なづ)りて[やぶちゃん注:撫でて。]、手を留(とど)めず』、『火齊、吐かんと欲する』等の語は、當(まさ)に流丹・浹藉(きやうせき)と爽(さう)を競ひ、而して、文采(ぶんさい)は之れに過ぐ云々。

   *

『漢の「秘辛」』小説「雑事秘辛」(ざつじひしん)。当該ウィキによれば、『漢の桓帝が大将軍乗高の娘』の瑩(えい/よう)を『冊立して、后とした次第を叙したもの。漢代の作ともいい、明代の楊慎』(一四八八年~一五五九年:学者・文学者。一五一一年に進士に登第し、翰林修撰となった。後、世宗嘉靖帝が即位した際、その亡父の処遇について帝に反対したため、激怒を買い、平民として雲南に流され、約 三十五年を配所で過し、そのまま没した。博学で、雲南にあって奔放な生活をおくりながら、多くの著述を残した。その研究は詩曲・小説を含め、多方面に亙る)『の作である』『ともいう。作中、朝廷の使者である呉姁』(ごく/ごぐ)『が、勅を奉じて、梁商の第にのぞみ、皇后の燕処で身体検査をおこなうくだりは、後人の最も歎賞するところであり、文辞もまた』、『すこぶる奇艶をきわめているが、一方で、はなはだ』猥褻『の嫌があるともされ、性愛文学作品としても読まれる』とある。「流丹・浹藉」小説「飛燕外伝」に出るが、意味が全く判らない。前者は「丹」と後の松岡氏の記載から、薬物(房事用)名かとも思い、後者は「浹」は「広い」の意があり、「藉」は敷物の謂いであるから、閨房の褥(しとね)の意かなどと考えたが、どうも松岡氏の返事の最後のそれが、当たりかも知れぬ。文章の気が、鮮やかな艶麗な赤い流れのようであること、見渡す限り、端が見えないほどに薄絹の褥を敷いたような完璧さという意味ではなかろうか? どなたか教えて戴けると甚だ助かる。「中國哲學書電子化計劃」のこちらの影印本の最終行に出る。「飛燕外伝」は当該ウィキによれば、『漢代の伶玄の撰と伝わるが、内容的に六朝時代の成立であろうという』。『漢の成帝の皇后である趙飛燕の別伝の形式をとる。趙后飛燕が』、『その妹である昭儀と互いに寵愛をきそいあらそったことを叙する。「その閨幃媟褻』(けいゐせつせつ:「閨のとばりの内を描いて、穢(けが)し、猥褻、これ、極まりないこと」の意でとっておく)『の状は目を蔽はしめるものがある」(金築新蔵)といい、性愛文学作品としても読まれる。その内容はすこぶるおもしろく、詩文の典故となったものが多』く、『また、日本文学への影響もかならずしも小さくなく、平安時代の女流文学者に愛読され、種々の物語の粉本ともなり』、「源氏物語」の『作中人物が寵をあらそうのは、本書の趣向のならったものであるという』とある。

「陳子高傳」「陳子高」南朝の陳の文帝陳蒨(ちんせん)の武将韓子高(五三八年~五六七年)。当該ウィキによれば、『もとの名は蛮子』で、「侯景の乱」が『起こったとき、蛮子は建康に寓居していた。侯景の乱が平定され、陳蒨が呉興郡太守として出向したとき、』十六『歳の蛮子は総角』(あげまき)『で容貌が美しく、姿は婦人のようであったことから、陳蒨の目にとまった。陳蒨に仕官を求められ』、『受諾し、蛮子の名を子高と改めた。子高は陳蒨の側近で護衛と燗酒を届ける役をつとめ、性急な陳蒨に意を合わせることができた。成長すると、騎射を学ん』だ。『決断力があり、将帥となる志望を抱いた』。『陳蒨は子高を寵愛して、そばから離さなかった』とあって同性愛が仄めかされるだけなのだが、ところが、中文ウィキを見ると、最後に、『後世一些創作將陳蒨與韓子高的關係描繪為同性愛,例如明代李詡(或作李翊)在《陳子高傳》(收入《綠窗女史》卷五緣偶部,王世贞《豔異編》,馮夢龍《情史》)』『中寫陳蒨甚至曾打算登基後立他為皇后。王驥德的雜劇《裙釵壻》(男王后)是改編自《陳子高傳》的藝文作品』とあって、史伝ではない、男性の同性愛に焦点をおいた性愛小説版の「陳子高傳」であることが判る。そこには「陳蒨が王位に就いた後、彼を女王にすることさえ計画した」という驚きの記載(自動翻訳を参考にした)がある。熊楠が読んだのは「陳書」とあるので、そちら最後の「參考」に並んだ姚思廉の「陳書」四種の内の孰れか、中でも「卷八」の「列傳第二」或いは「卷二十」の「列傳第十四」の消毒されたそれだったのであろう。

「在杭は其傳の吳孟子鐵纏矟の句を特に稱美せり。同性卽ち男と男との交り、男色の趣を述べたる句と察せらる」原文に当たれない。「選集」の訓読を参考にすると、「吳孟子(ごまうし)は、鐵(てつ)、矟(ほこ)に纏(まと)ふ。」。「矟」は、この魏晋南北朝時代(一八四年~五八九年)になって鉄製になった槍の呼称で、白兵戦ではなく、馬上で盛んに使用された。恐らくは、この「矟」には隆々たる男根のイメージが匂わせてあるのであろう。なお、謝肇淛の中文ウィキに、彼は知られた詩人袁宏道から、かの性愛小説「金瓶梅」を借りたが、永い間、それを袁に返却しなかったと、わざわざ書いてあるから、その手の話が大好きだったことが有名らしい。

「松岡香翠」熊楠とは親しい関係にあったらしい。「南方熊楠顕彰館」の「自筆史料」で検索したところ、一件、「家父華甲不老萬年之図画賛」がヒットし、「作者」の欄に『梧堂画 南方熊楠、松岡香翠、喜多幅淡所賛』とあった。

「佩文韻府、楊愼書佩文韻府、楊愼の書『漢雜事祕辛・後漢雜事』一卷は、……」この書簡部分は、漢文と通常文が混雑していて読み難いので、一回、まず、「選集」を参考に、訓読してしまうことにする(熊楠の挿入部はカットして、注は後の回す)。

   *

「佩文韻府(はいぶんいんぷ)」に、『楊愼の書、漢の「雜事秘辛・後漢雜事」一卷は、桓帝のとき、懿獻梁(いけんりやう)、皇后に選ばれしこと、及び、六禮册立(りくれいさくりつ)の事を載せり。』と。又、『海國の千房、火齊の珠(しゆ)』(詩句)、『長流丹(ちやうりうたん)を服取(ふくしゆ)するに如(し)かず』(詩句)等の語、有り。又、王勃(わうぼつ)が「滕王閣(とうわうかく)の序」に『飛閣、流丹、下(しも)は無地に臨む。』の語、有り。此の「流丹」は朱閣を形容せる者、前(さ)きの流丹は仙丹のごときならんか。「浹藉」の熟字は、何れの書にも見當り申さず、「流丹浹藉」は美文の勢を形容せしには非ざるか。「火齊」は「珠」の名なるべし。「火齊、吐(は)かんと欲す。」は、或いは、「女陰(ぢよいん)」の形容位(ぐら)ゐ云々、高見(かうけん)遠からざる事と存じ候ふ。

   *

「佩文韻府」は清代の蔡升元らが康熙帝の勅を奉じて編纂した韻書。補遺である汪灝(おうこう)らの撰になる「韻府拾遺」と一緒に用いられる。前者が一七一一年、後者が一七二〇年の成立。「懿獻梁皇后」は先に注した梁女瑩(りょう じょえい 一四七年~一五九年)の諡(おくりな)。当該ウィキによれば、一四七年に『女瑩は』桓帝によって『皇后に立てられた』。『当初、女瑩は桓帝の寵愛を一身に受けた。しかし女瑩は尊貴をたのんで驕慢であり、奢侈濫費を重ねた上』、実兄『梁冀』(りょうき)『の専横が続いたため、桓帝は女瑩をも恐れはばかることになった』。先帝順帝の皇后であり、義理の姑である『梁太后(順烈皇后)が崩御した後、桓帝は他の妃嬪』(ひひん:女官)を『寵愛するようにな』り、『女瑩は嫉妬し、妊娠した妃嬪を』、皆、『死に追いやった』が、『結局、女瑩は桓帝の信頼も寵愛も失』い、『憂憤のうちに崩じた』とある。「六禮册立」「六禮」は結婚に際しての六種の礼。納采・問名・納吉・納徴・請期・親迎の称で、「册立」は勅命によって皇后・皇太子などを立てることを言う語。「海國の千房」意味不明。「海を渡った彼方の異国の一千室もある閨房」か? 「王勃」(六四七年~六七四年)は初唐の詩人。山西龍門の出身。六六六年に幽素科に及第、朝散郎を授けられ、沛王の府修撰(史書編纂官か)となったが、戯れに書いた文章が高宗の怒りに触れ、出府を止められ、四川の成都に流客となった。一度は虢(かく)州(河南省)の参軍となったものの、後に奴隷を殺した罪でで官吏の資格を奪われ、同じ事件に連座して交趾(こうし:現在のベトナム北部)の令に左遷された。父を訪問する途中、海に落ちて溺死した。才気に溢れた華麗な詩で当時の詩壇を圧倒し、楊烱(ようけい)らとともに「初唐の四傑」と称された。私も好きな詩人である。特にここに記された「滕王閣序」は有名で、正しくは「秋日登洪府滕王閣餞別序」(秋日、洪府滕王閣に登り、餞別するの序)である。全文は中文ウィキのこちらにある(なお、二〇〇九年十二月十七日附の『Record China』によると、「日本版」という七〇七年に書写されたものが、今まで知られていたものの疑義をクリアーしており、正しいとする記事があった)。個人サイト「古代文化研究所」の「王勃:滕王閣序・解②」で書き下し文と訳が読める。かなり難解なものらしく、当該箇所は、『滕王閣の上層へ登り、紅漆の回廊に立って』、『直下を見ようとするのだけれ』ど『も、大きな軒が広がり、見ることは出来ない。』と訳しておられる。『「火齊、吐(は)かんと欲す。」は、或いは、「女陰(ぢよいん)」の形容位(ぐら)ゐ』赤い宝玉を女性の「ほと」に擬えたということか。

「高見(かうけん)遠からざる事と存じ候ふ」「貴殿が高見なさるには、あまりに遠く隔たった愚見で御座ろうかとお恥ずかしく思います。」の意。

「熊楠按ずるに、女陰を朱門と呼ぶ事、唐の釋法琳の辨正論卷七に、佛經の譯人譯語の本名」(ほんみやう)「を存する事を言」(いひ)「て、非如朱門玉柱之讖陽父陰母之淫、註に、黃書云、開命門、抱眞人、嬰廻龍彪、載三五七九、天羅地網、開朱門進玉柱、陽思陰、母白加玉、陰思陽、父手摩捉也。朱門と、朱閣と、又それから流丹と關係ある事かとも思へど、丸で不案内の予の事故、ほんの宛て推量也。なほ昔し日本でも女陰を朱門といひしは、狩谷掖齋の箋注倭名類聚抄卷二、玉門の條に見えたり」「大蔵経データベース」で校合した。「釋法琳」(しやくほふりん)「の辨正論」(べんしやうろん)「辨正論」は唐の法琳(ほうりん 五七二年~六四〇年:唐代の僧。道教の排仏論に対抗し、仏教の護法に努めた。晩年は道士の讒言により四川省に配流された)の著。 高祖の武徳九(六二六)年年の撰。 外教(主として道教)の「邪」に対して、仏教の「正」なることを弁じた書。 親鸞は 「教行信証」の「化身土巻」に、その「十喩篇」・「九箴(くしん)篇」・「気為道本篇」・「出道偽謬篇」・「帰心有地篇」を引用している。以下、漢文部を訓読する。

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朱門・玉柱の讖(しん)、陽父・陰母の謠(うた)のごときに非(あら)ず。

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「黃書」に言はく、『命門(めいもん)を開き、眞人を抱く。龍彪(りうひやう)を嬰廻(えいくわい)し、三五七九(さんごしちく)を載せ、天羅地網にす。朱門を開き、玉柱を進む。陽は陰を思ひ、母白(ぼはく)は玉(ぎよく)を加へ、陰は陽を思ひ、父手(ほしゆ)は摩捉(まそく)す。』と。

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前者の「朱門・玉柱」は男女性器を指す。「讖」は未来の吉凶・運不運などを占い説くことで、ここは在来の陰陽五行説や「易経」による詠唱的解釈を否定している。後者の「黃書」は「仏典」のこと。紙魚(しみ)の害を防ぐため、黄膚(きわだ)を漉き入れた紙が仏典に多く用いられたことによる。「命門」中医学で男女の精力の源を指す。「眞人」老荘思想・道教に於いて人間の理想像とされる存在を指すが、それを方便として仏教に転用したもの。「龍彪」ここは「龍虎」に同じで、最強の獣。「嬰廻」周囲に巡らす。龍虎を以ってさえ守護させることであろう。「三五七九」最も力を持つ陽数。それを「載せ」る=「身に附帯させる」で、やはり陰陽説の方便転用であろう。「天羅地網にす」四柱推命などで言われるのは、「鋭い直観力や霊感的な資質を備えている状態にある」ことを言うが、要は、「如来の大慈悲によって一切の漏れがない完全な救いの状態」に転用したものであろう。「母白」不詳。女性性器か。「玉を加へ」女性性器の生き生きと運動することか。「父手」不詳。男性性器か。「摩捉」エレクトを言うか。]

 松岡氏の此答へを得ても、予には上に抄せる謝氏の文意一向分らず。因て知らざるを知らざるとして讀者諸君の敎へを乞う所也。然し此答書にて、漢事秘辛とは後漢の懿獻梁皇后被選及び六禮册立の事を述たる書物の名と云ふ事丈けは分れり。此書果して後漢の世、若くは其時を去る事遠からぬ世に成りし物にて、火齊は取りも直さず火齊珠の事ならんには、瑠璃を火齊と呼ぶは、隋唐以前既に有りし事と思はる。因て錄して大方の敎を俟つ。

[やぶちゃん注:どうだろうか? 前の引用のように、遙かに後の明の楊慎の作ともされるのは、明より前の書物に「漢事秘辛」のことが、いっかな、抜粋も引用もされていないことを意味するからだろう(幾ら猥褻描写があるとしても、誰も引用しないなどというこことは、かの中国では百二十%考えられない)から、強力な証明にはちょっとならないな、南方先生。]

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