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2022/07/02

「南方隨筆」底本正規表現版「紀州俗傳」パート 「四」

 

[やぶちゃん注:全十五章から成る(総てが『鄕土硏究』初出の寄せ集め。各末尾書誌参照)。各章毎に電子化注する。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(冒頭はここ)で視認して用いた。また、所持する平凡社「選集」や、熊楠の当たった諸原本を参考に一部の誤字を訂した。表記のおかしな箇所も勝手に訂した。それらは一々断らないので、底本と比較対照して読まれたい。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 本篇の各章は短いので、原則、底本原文そのままに示し、後注で(但し、章内の「○」を頭にした条毎に(附説がある場合はその後に)、読みと注を附した。そのため、本篇は必要性を認めないので、PDF版を成形しないこととした。]

 

       四、

 〇前囘に述た師走狐に付き、西牟婁郡下芳養村の人言く、「師走狐は執捉て居ても鳴せ」てふ諺有り、極月に狐荐に鳴くは次年豐作の兆故斯言ふと。

[やぶちゃん注:「前囘に述た師走狐」は「二」であるが、それ自体が、「一」冒頭の続きであったので、そこに遡って戻って再読した方がよい。

「下芳養村」、「一」の採取が中芳養(なかはや)村、「二」が上芳養村、本条の下芳養村(「ひなたGPS」)と、これで旧芳養地区の三つが揃った。続いた全村のケースをまめに確認した熊楠は堅実である。

「言く」「いはく」。

「執捉て」「選集」はルビを振り、『つかまへて』と読んでいる。

「居ても」「をつても」と読みたいが、「選集」は漢字表記をやめて『いても』とする。

「鳴せ」「なかせ」。命令形。

「極月」「選集」を参考にすれば、『しはす』と読む。

「兆」同前で「きざし」。

「故斯言ふと」同前で「ゆゑ、かくいふ、と」。]

 〇同郡中芳養村「どろ本」の石地藏畑中に立つ、雨乞に此像を頸まで川水に浸す、萬呂村では旱すると下萬呂の天王の社の前の池端で一同酒飮み、「雨降れ溜れ蛙子、雫垂れ蠑螈(ゐもり)」と繰返し歌ふた。蛙や蠑螈までも雨を請ふの意か。近年は此事絕た、件の天王池頗る深く、古より樋を全く拔きし事無し、今日全く拔んと評定決して、斷行し懸ると必ず雨る。又秋津村の「さこ谷」の奧の大池も、樋を拔きに行くと、其人々が池に達せぬ内に、屹度沛然と降て來る。此池に頗る大きな鯉が主として棲むさうな。

[やぶちゃん注:『中芳養村「どろ本」』「選集」のルビによれば、「どろもと」。ネット上の三種の地図を見たが、この字名は見出せなかった。旧中芳養村はここ(「ひなたGPS」)。

「川水」この川は中芳養地区の南半分を南北に貫流する芳養川(グーグル・マップ・データ)と思われる。

「萬呂」(まろ)「村」「ひなたGPS」のここだが、地図上の表記では戦前の地図でも「万呂村」である。現在の和歌山県田辺市上万呂・中万呂・下万呂。この中央部に東から上中下の各地区が並ぶ(グーグル・マップ・データ)。

「旱」「ひでり」。

「下萬呂の天王の社」(やしろ)現在の和歌山県田辺市中万呂にある旧万呂村全体の鎮守(後の引用参照)である須佐神社(グーグル・マップ・データ)。現在も土地の人々からは「天王さん」と呼ばれる。なお、信頼出来る諸データを、複数、見たが、ここで熊楠はこの社の地名を下万呂とするのだが、あくまで昔も今も中万呂の地区内にあったと考えられる。但し、この祭神が鎮座する天王の森の前(南)には、水を満々と湛えた広い天王池があるが、ここは下万呂の地区内で、字の境界が、この神社と天王池との間にあるのである(グーグル・マップ・データ)。而して「下萬呂の天王の社の前の池端」で、雨乞いの儀式が行われるそこは、まさしく両地区の境界――水界と人間界との境界――異界へのアクセスを行う特別なハレの場所であることが判る。されば、思うに、この話を熊楠が採取した相手は下万呂か、上万呂(その場合は漠然と境界地だから、漠然とした「下万呂との方」の意で言ったとして不自然でない)の者だったのではないかと推定される。中万呂の者であれば、こうは絶対に言わないはずだからである。「和歌山県神社庁」の同神社の記載を見ると、『勧請の時代は詳ではないが、往昔より万呂』三『ヵ村の鎮守』で、『旧社名は牛頭天王社』であり、『社伝によれば、須佐之男命が曽志毛里(曾尸茂梨)より帰り着いた所で、岩舟山なる地名あり、神武天皇が即位された時に祭祀されたという』。『神代の昔、須佐神社鎮座地の辺りは海浜で、須佐之男命が曽志毛里より帰って来られた時に、この岩舟山に舟を着けられたと伝えられている古い歴史をもつ神社である』とある。天王池といい、嘗ては海浜に臨んでいたという神話伝承といい、水神との強い親和性が感じられ、雨乞いがしっくりくるのである

「雨降れ溜れ蛙子、雫垂れ蠑螈(ゐもり)」「あめ、ふれ、たまれ、がいるご」(「がいるご」は「選集」のルビ)、「しづく、たれ」(雨の雫を垂らしておくれ)、「ゐもり」。

「件」「くだん」。

「樋」「選集」は『ひ』と振る。

「今日」「こんにち」。今、現在。

「懸ると」「かかると」。し始めようとすると。

『秋津村の「さこ谷」の奧の大池』これは現在の和歌山県田辺市上秋津(かみあきづ)の字地名左向谷(さこうだに)である。国土地理院図のここにある。「大池」は確認出来ない。なお、この左向谷川の上には、国指定の「名勝 南方曼陀羅の風景地」の核心である龍神岳(同前)がある。また、「大池」を探すためにグーグル・マップを見ていて、不審を覚え、同データがとんでもない誤りを仕出かしている事実が判明したので一言言っておく。何かというと、左向谷川を北上して辿ると、山を越えて、芳養川の上流とも合流していて、おかしいのである。「川の名前を調べる地図」で「左向谷川」を調べてみると、その芳養川と合流する川は、無論、「左向谷川」ではなく、「宮ノ谷川」なのであった。グーグル・マップ・データを無批判に信頼していたが、ひどい誤りである。注意されたい。「国土地理院図」でも、二つの川の源流は非常に接近してはいるものの、ちゃんと尾根で分離しているのである

「屹度」「きつと」。

「沛然」「はいぜん」。

「降て」「ふつて」。

「主」「ぬし」。]

 〇日高郡矢田村邊の俚傳に、梟「ふるつくふるつく」と鳴けば翌日必ず晴る(降盡という洒落歟)。又「來い來い」と鳴ば必ず雨る、是は犬を呼んださうな。濡るなとの意か。本草啓蒙や倭漢三才圖會には、晴る前に糊磨置け、雨る前に糊取置けと鳴くと有る。予の亡父矢田村產れで、此通り每度予に話したが村に居る從弟に聞合すと、今は其樣事を言ぬさうだ、人二代の間に俚傳が亡びた一例だ。

[やぶちゃん注:「日高郡矢田」(やた)「村」現在の日高郡日高川町(ちょう)の内の旧村名。「ひなたGPS」の戦前の地図で確認出来る。国土地理院図で「矢田大池」の名を確認出来る(道成寺の東方二・五キロメートル)。

「晴る」「はるる」。

「降盡」「ふりつくす」。

「鳴ば」「なかば」。

「雨る」「あめふる」。

「是は犬を呼んださうな。濡」(ぬる)「るなとの意か」ここ、何故、そういう意味に採れるのか、私には不明。「雨が降るから、森にやってきて、雨宿りせよ、濡れるな。」という意味か?

「本草啓蒙」小野蘭山述「本草綱目啓蒙」。立項は「鴞」(音「ヨウ・キヨウ」:訓「ふくろふ」)でここ(国立国会図書館デジタルコレクション)。当該箇所は次のコマの右丁の後ろから二行目にある。

「倭漢三才圖會」私の「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鴞(ふくろふ) (フクロウ類)」を参照。

「糊磨置け」「のり、すりおけ」。雨が降らぬ前に「早く糊を磨っておけ」。

「糊取置け」「のり、とりおけ」。「外に出しておくな、雨が降るぞ。」の意であろう。糊の水分を幾分か取り除くために日に乾かしたか。

「予の亡父」南方熊楠の父は南方弥兵衛(後に「弥右衛門」と改名)で、熊楠の誕生時(慶応三年四月十五日(一八六七年五月十八日))は三十九歳、和歌山城下の橋丁(はしちょう:現在地。グーグル・マップ・データ)で金物商「雑賀屋(さいかや)」を営んでいた(入り婿で、南方家の娘(熊楠の母とは別人)と結婚した。西南戦争の好況で巨利を得、和歌山県で五番目とされた資産家となったが、妻に先立たれ、熊楠らの母となる西村すみと再婚し、長男に家督を譲った後に「弥右衛門」を名乗った。母は「スミ(住)」で三十歳)。父弥右衛門は明治一七(一八八四)年九月(熊楠は十八歳。上京して東京大学予備門に入っていた)に「南方酒造」(後の「世界一統」。現在もある。熊楠の実弟常楠が継いだ)を創業していた。彼は熊楠(二十六歳)の外遊中(父死亡時はイギリス滞在中)の、明治二五(一八九二)年八月八日に死去している。因みに、母スミは同じくロンドン滞在中の明治二九(一八九六)年二月二十七日に亡くなった(以上は所持する「新文芸読本 南方熊楠」(一九九三年河出書房新社刊)の年譜(長谷川興蔵編)及びウィキの「南方熊楠」とその記載内のリンク先等を参考にした。一部の不審箇所は概ね前者を元にした)。

「矢田村產れ」父は文政一二(一八二九二)年生まれで、矢田村入野(にゅうの)(「ひなたGPS」:現在の日高郡日高川町入野。先に示した「矢田大池」の南東直近)の向畑庄兵衛の次男として生まれている。

「人二代の間に俚傳が亡びた一例だ」こうしたアップ・トゥ・デイトな検証は貴重である。]

 〇矢田村等で小兒螢狩の呼聲は、田邊のと些違ふ、「ホータル來いタロ蟲來い、其方の水辛い、此方の水甘い、行燈の光で飛で來い」と呼んだ。

[やぶちゃん注:「三」の「〇鄕硏一卷一一九頁なる、遠州橫須賀地方の螢狩の呼聲と少しく違ふのが、紀州田邊邊で行はれる、……」の条を、まず、参照されたい。

「呼聲」「よびごゑ」。

「些」「ちと」。

「タロ蟲」「タロムシ」。矢田地区のホタルの異名らしい。

「其方」「そつち」。

「此方」「こつち」。

「行燈」「選集」では『あんど』と振る。]

 〇田邊近傍で木菟を鰹鳥と呼び、此鳥鳴くと鰹の漁獲有るとて、漁夫此鳥を害するを忌む。

[やぶちゃん注:「木菟を鰹鳥と呼び、此鳥鳴くと鰹の漁獲有るとて、漁夫此鳥を害するを忌む。

「木菟」「みみづく」。「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鴟鵂(みみづく) (フクロウ科の「みみづく」類)」を参照されたいが、

「鰹鳥」「かつをどり」。鳴き声との連関性は不詳。

「漁獲」「選集」では『りよう』(りょう)とある。歴史的仮名遣は「れふ」。]

 〇田邊の老人傳ふ、宵の蜘蛛は親に似て居ても殺せ、朝の蜘蛛は鬼に似て居ても殺すな。是は夜の蜘蛛を不吉とするので、「吾せこが來べき宵也」と、蜘蛛を夜見て喜んだ古風と反對だ。淵鑑類函四四九に論衡を引いて、蜘蛛網を用ふる計、人に優れる由言て、亦掃其網、置衣領中、令人知ㇾ巧辟ㇾ忘、智慧有る者故、物忘れせぬ靈符の代りに、蜘網を用ひたのだ。採蘭雜志曰、昔有母子離別、母見蠨蛸垂絲著ㇾ衣、則曰、子必至也、果然、故名曰喜子、子思其母、亦然、故號曰喜母均ㇾ之一物也。之と等しく、蜘蛛は物忘れせぬ物として、衣通姬が宵の蜘蛛は帝が昏時に成ると自分を忘れず訪玉ふべき徵と悅んだのだらう。支那でも夜の蜘蛛を忌ぬは、開元天寶遺事曰、帝與貴妃、每至七月七日夜、在華淸宮遊宴、時宮女軰、各捉蜘蛛於小合中、至ㇾ曉開視、蛛網稀密、以爲得ㇾ巧之候、密者言巧多、稀者言巧少、民間亦效ㇾ之。然るに田邊の俗傳に、朝の蜘蛛を愛し、宵の蜘蛛を嫌ふのは、蜘蛛は夜中跋扈活動し朝に至て潛匿靜居する者故、家内の治安上から割出したんだろ。廣五行記には、蜘蛛集於軍中及人家喜事、之に反し、古歐州では、蜘蛛の網が軍旗や神像に着くを不吉とした。佛國では蜘蛛走り又絲繰るのを見ると金儲けすると云ひ、或は朝ならば金儲け、夕なら吉報を得と云ふ。然し一說には、朝の蜘蛛は少しく立腹、日中のは少しく儲け、夕の蜘蛛は少しく有望を知すのぢやと云ふ。「サルグ」評して、蜘蛛が富の兆なら、貧民が一番富ねば成ぬと嘲たのは面白い(一八四五年第五板、「コラン、ド、プランチー」妖怪事彙三九頁)。

[やぶちゃん注:このジンクスは、今もよく耳にする。ネット上でも、かなり多くの起原説の記載があるが、恐らく最も纏まっていて優れているのは、サイト「縁起物百科事典」の「夜の蜘蛛は縁起が良い悪いどっち?夜に現れる蜘蛛の縁起について解説します!」であろう。「夜の蜘蛛は縁起が悪い」という理由について、そこでは、『泥棒が入る前触れ』説(『蜘蛛はわずかな隙間からでも家の中に入って』くるので『そんなわずかな隙間を見つけて』『気配を消して』『家の中に入り込んでくるという』『習性』『が、泥棒を連想させる』という説)、『地獄からの使者という考え方』説(『地獄には蜘蛛の姿をした鬼がいると言われ』(主に西日本で語られる妖怪「牛鬼」(うしおに・ぎゅうき)は確かにそんな形態をしている。当該ウィキを参照されたい)、『そんな蜘蛛の姿をした鬼は太陽の光が苦手な為、夜に活発に活動』するとされ、『日が沈んだ夜に人間が住む現世に現れ、人間を地獄へ引きずり込んでしまうという考えがあ』って、『そのままにしておくと地獄へ引きずり込まれてしまうと考えられてい』ることから、『地獄へ引きずり込まれる前に処分してしまおうという』説。但し、私はこういった説明を民俗学的に立証している文章や語りを聴いたことはない)、そして、『不運を引き寄せる』説である。但し、熊楠も述べているように、地方によっては、夜の蜘蛛を幸運の兆しとらえて殺さないという風俗も現存することが、以上の後に書かれている。リンク先でのこちらの根拠説は、私はあまり肯ずることが出来ないが、熊楠の言う妻問婚由来というのは、望むべき「夜の訪問者」の予兆として、非常に腑には落ちる。なお、他のネット上での記載に、「朝の蜘蛛は殺すな」という禁忌について、蜘蛛が早朝に巣を張る時は必ず晴れるという習性から説明しているものがあり、これは農事の実利性から考えると、納得出来るものではあった。

『「吾せこが來べき宵也」と、蜘蛛を夜見て喜んだ古風と反對だ』「ほととんぼ」氏のブログ「古典・詩歌鑑賞」の「わがせこが来べきよひなりさゝがにの蜘蛛のふるまひかねてしるしも(衣通姫)」が出典に詳しく、蜘蛛ジンクスの起原の解説も堅実である。そちらを参考にして示すと、この歌は、「日本書紀」と「古今和歌集」に殆んど同じ形で載る。詠み手の衣通姫は歴史的仮名遣では「そとほりひめ」「そとほしひめ」で、他に「古事記」にも登場するが、設定が異なる(その辺りは、ウィキの「衣通姫」及び「衣通姫伝説」を読まれたい)。さて、まず「日本書紀」のそれは、巻第十三の允恭天皇の一節で(概ね、国立国会図書館デジタルコレクションの岩波文庫版の当該箇所の黑板勝美氏の当該部の読みを参考にした)、

   *

八年春二月、藤原に幸し、密(ひそか)に衣通郞姬の消息を察(み)たまふ、是の夕(ゆふべ)、衣通郞姬、天皇(すめらみこと)を戀ひたてまつりて、獨り居(はべ)り。其の天皇の臨(いで)ませるを知らずして、歌よみて曰く、

 我が兄子(せこ)が來べき宵なり笹蟹(ささがに)の

   蛛(くも)の行ひ今宵驗(しる)しも

天皇、是の歌を聆(きこ)しめして、則ち、感情(めでたまふこころ)、有(おはし)まして、歌よみて曰く、

 細紋形(ささらがた)錦の紐を解き開(さ)けて

   數多(あまた)は寢ずに唯(ただ)一夜(ひとよ)のみ

明旦(あくるあした)、天皇、井の傍の櫻の華を見て歌よみて曰く、

 花細(はなぐは)し櫻の愛(め)でこと愛でば

   早くは愛でず我が愛づる子等(こら)

皇后、聞きて、且(ま)た、大(おほい)に恨みたまふ。

   *

「笹蟹(ささがに)」蜘蛛及び蜘蛛の巣の古名。「細紋形(ささらがた)」細かい文様や、そうした織物を指す。ここは「蜘蛛の巣」を匂わせたものであろう。「花細(はなぐは)し」枕詞で、元は「花が美しい」意から「櫻」に掛かる。一方、「古今和歌集」では、巻第十四にありながら、墨消しされた一首で(一一一〇番)、

   *

    衣通姬のひとりゐて

    帝をこひたてまつりて

 わが背子が來べきよひなりささがにの

   蜘蛛のふるまひかねてしるしも

   *

なお、「ほととんぼ」氏は、夜でも蜘蛛ジンクスについて、夜でも吉兆とする点について、『もともと中国に、クモが人の衣に着くと』、『親しい人の来客があるという言い伝えがあり、縁起のよい俗信として日本に伝わった』とされ、朝のそれについては、私が先に述べた通り、『クモは、おおむね好天になる前の夕方(湿度の変化を感じるらしい)に巣をかけて、夜に獲物を狙う。なので、朝グモの現れるのは晴天で、人間も晴れの日を好む』とされ、前者については、以上の衣通姫の『歌が、まさにそのことを言っています。衣通姫は、おそらく自分の衣服にクモがついているのを見つけて、「あら、これは縁起がいい。帝が来られるわ」と思ったに違いありません。歌では「来べき宵なり」となっているので、朝グモではなく疑問とされますが、かつては、クモの出現そのものが縁起のよいことだったのではないでしょうか』とされ、さらに後者の説について、『科学的裏付けのようなものを感じます。特に朝グモに縁起を担ぐようになった原因として真実味があります(ただ、ホントに晴れの日が多いのか、真偽のほどは明らかではありません)』と微妙な留保をなさっておられる。私もクモ類には詳しくはないので、識者の御教授を乞うものである。

「淵鑑類函四四九に論衡を引いて、蜘蛛網を用ふる計」(はかりごと)「、人に優れる由」(よし)「言」(いひ)「て、亦掃其網、置衣領中、令人知ㇾ巧辟ㇾ忘」「淵鑑類函」は清の康熙帝の勅により張英・王士禎らが完成した類書(百科事典)で、南方熊楠御用達の漢籍である。「漢籍リポジトリ」のこちらで、「欽定四庫全書」所収のものが電子化されており、影印本も見られる。当該巻は「蟲豸部五」で、その冒頭に「蜘蛛一」の[454-1b]の六行目から八行目に現われる。訓読する。

   *

「亦(また)、其の網を掃(は)きて、衣の領(えり)の中に置き、人をして、巧(かう)を知り、忘るるを辟(さ)けしむ。

   *

「智慧有る者故、物忘れせぬ靈符」(まもり:「選集」のルビ)「の代りに、蜘網を用ひたのだ」これは、かなり腑に落ちる。ギリシア神話の蜘蛛に変えさせられたアラクネーの悲劇や(当該ウィキ参照)、知恵者として尊崇されるミネルヴァの梟などが想起される。

「採蘭雜志曰、昔有母子離別、母見蠨蛸垂絲著ㇾ衣、則曰、子必至也、果然、故名曰喜子、子思其母、亦然、故號曰喜母均ㇾ之一物也。」例の陶宗儀の「説郛」にも載るが、作者や成立年代は不詳だが、随筆か小説集のようである。原文を探すのに苦労したが、「維基文庫」の「古今圖書集成」(十八世紀の清の類書。現存する類書としては中国史上最大。全巻数一万巻。正式名称は「欽定古今圖書集成」である)の、こちらの「家範典」「第三十八卷」の「母子部雜錄」に電子化されたものを発見した(影印画像附き)。訓読する。

   *

「採蘭雜志」に曰はく、『昔、母子有りて、離別す。母、蠨蛸(あしながぐも)の絲を垂らして衣を著(き)るを見れば、則ち、曰はく、「子、必ず、至らん。」と。果して、然り。故に名づけて「喜子」と曰(い)ふ。子の、其の母を思ふも、亦、然り。故に名づけて「喜母」と曰ふ。均しく一物なり。』と。

   *

「蠨蛸(あしながぐも)」珍しい熊楠のルビだが、これは実はあまりよくない。この漢語は現在の節足動物門鋏角亜門蛛形(ちゅうけい)(クモ)綱クモ目アシダカグモ科アシダカグモ属アシダカグモ Heteropoda venatoria を指す古い漢語だからである。但し、足高蜘蛛は、大きくて各脚が非常に長いクモだから、私などは想定内ではあった。私の家には、まっこと、よく棲みついており、若い頃には、グローブ大のそ奴が、寝ている顔の上を歩き、まさにその脚の先の八ヶ所の触感を感知して、思わず、起き、叩き潰したおぞましい思い出があるほどなのである。

「開元天寶遺事曰、帝與貴妃、每至七月七日夜、在華淸宮遊宴、時宮女軰、各捉蜘蛛於小合中、至ㇾ曉開視、蛛網稀密、以爲得ㇾ巧之候、密者言巧多、稀者言巧少、民間亦效ㇾ之。」「開元天寶遺事」は盛唐の栄華を物語る遺聞を集めた書。五代の翰林学士などを歴任した王仁裕(じんゆう 八八〇年~九五六年)が、後唐の荘宗の時、秦州節度判官となり、長安に至って民間に伝わる話を博捜蒐集し、百五十九条を得て、本書に纏めたとされる。但し、南宋の洪邁は本書を王仁裕の名に仮託した偽書と述べている。ここに出る玄宗・楊貴妃の逸話を初め、盛唐時代への憧憬が生んだ風聞・説話として味わうべき記事が多い(小学館「日本大百科全書」を主文とした)。熊楠の引いたのは、第二巻の末尾から二つ目の「蛛絲卜巧」であるが、中間部がカットされている「漢籍リポジトリ」のこちら[002-10b]を見られたい。熊楠のカットされた引用で訓読する。

   *

「開元天寶遺事」に曰はく、『帝、貴妃と、七月七日の夜に至る每(ごと)に、華淸宮に在りて遊宴す。時に宮女の輩(はい)、各(おのおの)、小さき合(はこ)の中(うち)に蜘蛛を捉へ、曉に至りて、開き視て、蛛の網の、稀(まばら)と密とにより、以つて巧(かう)を得るの候(しるし)と爲(な)す。密なれば、「巧、多し。」と言ひ、稀なれば、「巧、少なし。」と言ふ。民間も亦、之れに效(なら)ふ』と。

   *

「衣通姬」「選集」では、『そとおりひめ』と振るので、「そとほりひめ」である。

「昏時」「たそがれ」。

「訪玉ふべき徵」「おとなひたまふべきしるし」。

「田邊の俗傳に、朝の蜘蛛を愛し、宵の蜘蛛を嫌ふのは、蜘蛛は夜中跋扈活動し朝に至て潛匿靜居する者故、家内の治安上から割出したんだろ」これ、私の先の顔に脚高蜘蛛の恐怖を考えれば、お判り戴けるであろう。なお、私は咬まれたことはないが、大型の個体は人に咬みつくことがあると以前に読んだことがある(無毒)。

 

「廣五行記には、蜘蛛集於軍中及人家喜事」明の李時珍の博物書「本草綱目」にも引用されるが、佚書。「太平御覧」の巻第九百四十八の「蟲豸部五」の「蜘蛛」(「漢籍リポジトリ」のこちら[948-3b]を参照)に「廣五行記」を出典としてこの文字列が出る。訓読する。

   *

蜘蛛、軍中及び人家に集まれば、喜事あり。

   *

中国人の「蜘蛛好き」「蜘蛛吉祥説」がよく判る。

「佛國」「フランス」。

「繰る」「くる」。

「知す」「しらす」。

『「サルグ」評して、蜘蛛が富の兆』(きざし)『なら、貧民が一番富ねば成』(なら)『ぬと嘲』(あざけつ)『たのは面白い(一八四五年第五板、「コラン、ド、プランチー」妖怪事彙三九頁)』コラン・ド・プランシー(J. Collin de Plancy 一七九四年或いは一七九三年~一八八一年或いは一八八七年)はフランスの文筆家。詳しくは当該ウィキを見られたい。書誌データはフランス語の当該ウィキが詳しい。さても、何となく、「Internet archive」の一八四四年版の、彼の最も知られた怪書である‘Dictionnaire infernal, ou Recherches et anecdotes sur les demons ’(「地獄の辞書、又は悪魔に関する研究と逸話」)を見てみたところ、ページ数は違うが(44ページ)、そこの“Araignée”(アレニェ:フランス語で「蜘蛛」)があり、まさに以上の内容が書かれてあるのを見出した。「サルグ」なる人物もそこに出ており、“M. Salgues”(“M”は“Monsieur”(ムッシュ:氏)の略であろう) で、注記があって、‘ Des  Erreurs  et  des  préjugés ’(「誤解と偏見」)からの引用であることも判った。この人はフランスの哲学者・歴史家のジャック・バルテルミー・サルグ(Jacques Barthélemy Salgues 一七六〇年~一八三〇 年)で一八一〇年の作品である。]

 〇田邊の古傳に、他人の足の底を搔けば、搔るる人の身に持た病を、搔く人の身に引受ると。同地に近き神子濱では、人の足の底搔く者早く死すと言ふ。

[やぶちゃん注:「他人」「選集」では二字で『ひと』とルビする。

「神子濱」「みこはま」。既出既注だが、再掲する。現在の田辺市神子浜。]

 〇右の兩地とも傳ふ。狐は硫黃を忌む、依て附木又「マツチ」を袂に入れば魅されずと。

[やぶちゃん注:「附木」(つけぎ)は杉や檜などを薄く剝いだ木片の一端或いは両端に硫黄を塗りつけたもので、火を移し点ずる際に用いる。「ゆおうぎ」とも言う。グーグル画像検索「付け木 硫黄」をリンクさせておく。幅広の経木様のものから、大きく長い附箋のようなものまで、各種ある。

「魅されずと」「選集」では『魅(ばか)されず、と』とする。]

 〇田邊邊でも和歌山市でも、小兒の慰みに、「高野の弘法大師、子を抱て粉を挽ひて、此子の眼へ、粉が入つて困った、今度から、此子を抱て粉を挽くまい」と早口に繰返し、滯り無きを勝ちとす。卅年前、予日向の人より聞たのは次の通り。「ちきちきおんぼう、それおんぼう、そえたか入道、播磨の別當、燒山彌次郞、ちやかもかちやあぶるせんずり觀音、久太郞別太郞、むこにやすつぽろぽん。」英國にも舌捩り(タング、ツイスター)とて、同じ樣な辭を疾口に言ふ戲れが有る。

[やぶちゃん注:「ちきちき」で思い出すのは直翅(バッタ)目雑弁(バッタ)亜目バッタ下目バッタ上科バッタ科ショウリョウバッタ亜科Acridini          ショウリョウバッタ属ショウリョウバッタ Acrida cinerea (精霊蝗虫)の異名で「キチキチバッタ」を私は「チキチキバッタ」と昔から、かく呼んでいた。♂が飛ぶ際に羽根を打ち合わせて出す「キチキチキチ……」のオノマトペイアである。

「おんぼう」当初、私は「隱亡」かと思った。日本史上、当該ウィキによれば、『火葬場で死者の遺体を荼毘に付し、墓地を守ることを業とした者を指』した語。『「隠坊」「御坊」「煙亡」とも表記し、地域により「オンボ」と呼ぶこともある』。『「薗坊」とも』。『もとは、下級僧侶の役目であり』、『「御坊」が転じたものと考えられている』とあり、『江戸時代には賤民身分扱いされていたことや』、『軽蔑的な意味合いを帯びたことも多く、現在は差別用語とされて用いられなくなっている』とあるそれである。而して「ちきちき」との接合に意味はなく、早口言葉であるから、通常、連続しない特別な単語の接続をすることが、早い発声を難しくすることからの仕儀であるように私には見うけられ、この日向のそれは、主に仏教的な語句を一つのコンセプトとして、「寿限無」のような、長大な名前の一部のような早口言葉のようには見えた。しかし、「駒澤大学総合教育研究部日本文化部門」の「情報言語学研究室」のサイト内の「言葉の泉」の「(5)早言(早口)」に、『【純粋の第一の例】人名】』に、冒頭に『34』として『寿限無寿限無五光の摺り切れず、海砂利水魚水魚末、雲来末風来末、食寝る処に住む所、やぶら小路、藪小路、ぱいぽぱいぽぱいぽのシューリンガン、シューリンガンのグーリンダイ、グーリンダイのポンポコピー、ポンポコピーの長久命の長助。』を挙げた後に、『35』として、『アリステ三平郎、テキテキ屋テキスリゴンボー、走心坊、宗高入道、播磨が別当、茶碗茶ブスの式井のコツケ。茶ぶ助、引井幸助。オン坊、草林坊、背高入道、播磨の別当、茶碗茶臼にひきんのへこ助様、井戸に落ちました。』とあることから、この「おんぼう」は単なるフラットな「御坊」ととるべきであろうと自分の中では結論した。

「そえたか入道」一応、調べた結果、「日本姓氏語源辞典」「添高」(そえたか)があり、宮崎県宮崎市で「添った高い土地」の意味を持ち、宮崎県宮崎市郡司分(ぐんじぶん:グーグル・マップ・データ。以下同じ)乙に分布する姓とあった。話者は日向だから、これは注しておいてよかろう。但し、以下は特に原義・由来などは調べないこととする。

「燒山彌次郞」「選集」では姓に『やけやま』と振る。「選集」では姓に『やけやま』と振る。青森県上北郡六ヶ所村泊焼山(とまりやけやま)に「弥次郎穴」というのがあるが、偶然か。

「ちやかもかちやあぶるせんずり觀音」「選集」では『ちゃかもがちゃあぶるせんずり観音』と記す。「茶を煎ず」に自慰行為の「せんずり」をきかせたのは、子供向けにはちょっと劣悪。

「久太郞」「きうたらう(きゅうたろう)」。

「別太郞」「わけたらう」或いは「わきたらう」か。

「むこにやすつぽろぽん」「選集」では『むこにゃすっぽろん』。

「舌捩り」「したもぢり」。

「タング、ツイスター」Tongue twister。早口言葉。

「辭」「ことば」。

「疾口」「はやくち」。]

 〇西牟婁郡二川村五村《ごむら》等で、狩人の山詞に、狼を御客樣、又山の神、兎を神子供と云ふ。狼罠に捕はるゝと、殺す所でなく扶けて去しむ。一七〇頁に高木君が書た、安堵峰の猿退治の話にも、兎の巫女を呼で祈らせたと有る(鬼は兎の誤植)。狼形に山神を描いた物語の事、一昨年二月の人類學會雜誌へ出した。

[やぶちゃん注:「西牟婁郡二川村」(ふたかはむら)は「Geoshapeリポジトリ」の「歴史的行政区域データセットβ版」のこちらで旧村域が確認出来る。現在は田辺市中辺路町(なかへちちょう)の中部。

「五村」(ごむら)は西牟婁郡にはなく、二川村から、かなり北西に離れた有田郡の旧五村のことであろう。「Geoshapeリポジトリ」の「歴史的行政区域データセットβ版」のこちらで旧村域が確認出来る。「ひなたGPS」の戦前の地図に名が記されてあり、「国土地理院図」ではここが同じ場所である。

「山詞」「やまことば」。

「狼を御客樣、又山の神」狼のことを「お客さま」と呼び、また、「山の神」と呼ぶ、という意。

「神子供」「みこども」。

「殺す所でなく」「ころすどころでなく」。

「扶けて去しむ」「たすけてさらしむ」。

「一七〇頁」「選集」では『『郷土研究』一巻三号一七〇頁』とする。

「高木君が書た、安堵峰の猿退治の話」ドイツ文学者で神話学者・民俗学者でもあった高木敏雄(明治九(一八七六)年~大正一一(一九二二)年)。大正二~三年には、本篇の初出する『鄕土硏究』を柳田国男とともに編集している。欧米の、特にドイツに於ける方法に依った神話・伝説研究の体系化を試み、先駆的業績を残した。『鄕土硏究』は全く原本を見ることは出来ないのだが、ふと思って、高木氏の単行著作を国立国会図書館デジタルコレクションで調べたところ、ここで言う論考と酷似したものが、本篇「四」の発表と奇しくも同時に郷土研究社から刊行された(大正二年八月)、高木敏雄著「日本傳說集 附・分類目次解說索引」の「義犬塚一名猿神退治傳說第十七」の「(ニ)猿神退治」として載っているのを発見した。そちらを読んで貰えば判るが、「兎の巫女」(みこ)「を呼」(よん)「で祈らせた」のは猿が化けた宿の主人である(この短い話は、なかなかぶっ飛びのモンストロムで、「牛鬼の醫者」まで出演している)。まず、読まれたい。最後に実はこの話、南方熊楠が提供した話であったのである。則ち、ここでは高木の論考を称揚するように書いているものの、リンク先の文章自体、明らかに熊楠の癖がでているもので、何のことはない、熊楠は自分の報告した文章を自慢したのだ。

「狼形に山神を描いた物語の事、一昨年二月の人類學會雜誌へ出した」『「南方隨筆」版 南方熊楠「俗傳」パート/山神「オコゼ」魚を好むと云ふ事』の最後。]

 〇獾を西牟婁郡で「めだぬき」、「つちかい」(土搔きの義)、また「のーぼー」といふ、安堵峰で予其肉を味噌で煑て食ふと甚だ甘かつたが、共に煑るべき野菜絕無で困つた。此物熊同樣足に掌有り、人の如く立ち得る、好んで女に化ると云ふ。富里村の人(現存)春日蕨採りに山へゆくと、若き處女簪笄已下具足し、頗る艷なるが立て居た。依て前み近くと、忽ち見えず、立て居た處に穴有り、家に還り犬を伴行き、穴を搜して獾を獲た。又秋津村產れで予の知れる老人、若き時村女と密會を約せし場所へ往て俟つと、此獸其女に化け來り、忽ち消失せ抔して每度困らされた、其邊で「せい」と呼ぶ由。

[やぶちゃん注:「獾」「あなぐま」。本邦固有種である食肉目イヌ型亜目クマ下目イタチ小目イタチ上科イタチ科アナグマ属ニホンアナグマ Meles anakuma 。私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 貉(むじな) (アナグマ)」を参照されたいが、面倒なことに、寺島良安は「本草綱目」に従ったために、「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 貒(み) (同じくアナグマ)」及び「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 獾(くわん) (同じくアナグマ)」も別に立項してしまっている。

「のーぼー」冬眠から覚めた直後などに山裾や野で「ぼー」としているようにいるからか。何となく腑に落ちる。ブログ「あにまるカメラ」の「ニホンアナグマ」に上野動物園の本種の画像が出るが、「ぬぼぉー。。。」というキャプションの写真がまさにそれだ。「アナグマの爪」と言う解説板の写真で掌部の写真も見られる。

「甘かつた」「選集」に『甘(うま)かった』とルビする。

「掌」同前で『たなごころ』とルビする。

「富里村」「Geoshapeリポジトリ」の「歴史的行政区域データセットβ版」の「和歌山県西牟婁郡富里村」を参照されたい。

「春日」「しゆんじつ」。

「處女」「をとめ」。

「簪笄」「かんざし・かうがい」。

「前み」「すすみ」。

「近く」「ちかづく」。

「伴行き」「つれゆき」。

「秋津村」

「往て」「ゆきて」。

「消失せ抔して」「きえうせなどして」。

「せい」この異名、意味不明。]

 〇熊野に遊んだ人は熟知るが、潮見峠より東では、古來山茶の葉で烟草を捲吸ふ、木板を頭に載せ、山路を通ふ婦女事に然り。手づから捲て火を點る手際、他處の人倣し難い。齒無き老婆など、件の葉捲を無患子の孔に管所たるに揷て吸ひ步く、其山茶葉に好惡有て、撰擇に念入れ、路傍の一文店で列て賣る。古い狂歌に「熊野路は煙管無くても須磨の浦、靑葉くはへて口は敦盛」。

[やぶちゃん注:「熟」「よく」。

「潮見峠」ここ。田辺市中辺路町西谷と中辺路町栗栖川を越える山道で、熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)への参詣道熊野古道中辺路の派生ルートの一つで、ここは特に難所の一つとされた。

「山茶」「つばき」。椿の漢名。

「捲吸ふ」「まきすふ」。

「木板」「選集」では二字で『いた』と振る。

「點る」「つける」。

「倣」「まね」。

「老婆」「選集」では二字で『ばば』と振る。

「無患子」「むくろじ」。ムクロジ目ムクロジ科ムクロジ属ムクロジ Sapindus mukorossi であるが、ここはその硬い実(羽根つきの羽根の錘に用いられる)に穴を開けて、それに椿の葉に煙草を巻いたものを挿して吸ったのであろう。「南方熊楠記念館」公式ブログ の「青葉くわえて口は敦盛」でも、そう解釈されてある。実際に椿の葉で煙草を捲いて吸った実験結果も写真入りで書かれてある。

「管所たるに」「選集」では二字で『管(くだ)所(つけ)たるに』と振る。

「揷て」「さして」。

「好惡」「よしあし」。

「一文店」「いちもんみせ」。

「列て」「ならべて」。底本では「列で」であるが、「選集」の「て」を選んだ。

「熊野路は煙管」(きせる)「無くても須磨の浦、靑葉くはへて口は敦盛」「須磨」に「濟む」の意をかけ、「靑葉」は椿の青葉に敦盛の遺愛の笛の名「青葉」を掛け、「敦盛」に「熱(あつ)」を掛けた。]

 〇舊傳に、「文蛤は十萬石以下の領地には生ぜず」と。

[やぶちゃん注:「文蛤」「はまぐり」。無論、そんな分布の偏りはない。]

 〇高野山御廟橋の傍の井に莅んで影映らぬ人は近い内に死ぬさうで、前年田邊新町の或隱居試て見ると映らず、歸て程無く死んだので、新町の人一同今に登山しても彼井を覗かぬ。

[やぶちゃん注:「高野山御廟橋」「選集」を参考にするなら、「ごべうのはし」。「御廟橋」はここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。「御廟」は弘法大師の霊廟である「奥之院燈籠堂」を指す。しかし、ここで熊楠は、その井戸は「傍」(そば・かたはら)と言っているのだが、実際には、参道のずっと下方のここで、傍らではない。

「莅んで」「のぞんで」。

「近い内に死ぬさうで」上記リンクのサイド・パネルの説明版では、『三年以内に亡くなってしまうと言』『伝えがあ』るとある。

「田邊新町」現町名では北と南がある

「彼」「かの」。]

 〇田邊で蝸牛を囃す詞「でんでん蟲々、出にや尻搯(つめ)ろ」。近所の神子濱では、「でんでん蟲々、角出せ槍出せ」。嬉遊笑覽卷一二上に、「日次記事云、蝸牛見ㇾ人、則蝟縮、兒童相聚謂出々蟲々不ㇾ出則行打破釜言ㇾ爾、此蟲貝俗謂ㇾ釜」と有り、今又江戶の小兒、角出せ棒出せまひまひつぶり、裏に喧嘩が有ると云へるは、益々滑稽也、と云へり。和歌山の岡山は砂丘で春夏砂挼子(ありじごく)多し。方言「けんけんけそゝ」又「けんけんむし」、兒童砂を披いて之を求むるに、「けんけんけそゝ、叔母處燒る」と唱ふ。廿二年前、予「フロリダ」州「ジヤクソンヴヰル」で、八百屋營業の支那人の店に、晝は店番、夜は昆蟲や下等植物を鏡檢した、每度店前の砂地へ、黑人の子供集り、砂挼子を探る詞に、「ヅロ、ヅロ、ハウス、オン、ゼ、フアイヤー」。矢張り「砂挼子の家火事だ」と言て驚かすのだ、類緣なき遠隔の地で、同一の趣向が偶合して案出されたのだ。

[やぶちゃん注:「蝸牛」「かたつむり」。

「尻搯(つめ)ろ」「搯」の漢字は「手や用具を突っ込んで中のものを外へ取り出す」の意であるから、ここは「尻、搯(つめ)たろか!」で、「尻から全部抜き取ったるで!」という脅しである。

「神子濱」既出既注。

『嬉遊笑覽卷一二上に、「日次記事云、蝸牛見ㇾ人、則蝟縮、兒童相聚謂出々蟲々不ㇾ出則行打破釜言ㇾ爾、此蟲貝俗謂ㇾ釜」と有り、今又江戶の小兒、角出せ棒出せまひまひつぶり、裏に喧嘩が有ると云へるは、益々滑稽也、と云へり」後半部分は著者に割注による感想である。「嬉遊笑覽」は国学者喜多村信節(のぶよ 天明三(一七八三)年~安政三(一八五六)年)の代表作で、諸書から江戸の風俗習慣や歌舞音曲などを中心に社会全般の記事を集めて二十八項目に分類叙述した十二巻・付録一巻からなる随筆。文政一三(一八三〇)年成立。国立国会図書館デジタルコレクションの「嬉遊笑覧 下」(成光館出版部昭和七(一九三二)年刊行)のここの左ページの頭書「蝸牛角出せ」の終りの三行(次のページ)。少し表記が異なるが、これは版本の違いである。所持する岩波文庫を参考に訓読する。熊楠の返り点は一部がおかしい。「兒童相聚謂出々蟲々不ㇾ出則行打破釜」は「兒童相聚謂出々蟲々、不ㇾ出則行打破釜」でなくては読めない。

   *

「日次(ひなみ)記事」に云はく、『蝸牛、人を見れば、則ち、蝟縮(いしゆく)す。兒童、相ひ聚(あつま)りて謂ふ、「出々蟲々(でんでんむしむし)、出でずば、則ち、行きて、釜を打ち破らん。」と、爾(し)か言ふ。此の蟲の貝を、俗に「釜」と謂ふ。

   *

引用元の「日次記事」は「日次紀事」が正式表記。但し、「嬉遊笑覧」自体が誤っているので、熊楠の誤りではない。江戸前期の京都を中心とする朝野・公私の年中行事解説書。黒川道祐編。延宝四(一六七六)年の林鵞峰の序がある。中国明朝の「月令(がつりょう)広義」に倣って編集されているが、特に民間の習俗行事を積極的に採録したのを特徴とする。正月から各月毎に、毎朔日から月末まで日を追って節序・神事・公事・人事・忌日・法会・開帳の項を立て、それぞれ行事の由来や現況を解説している。しかし、神事や儀式には非公開を建前とするものもあったことから、出版後間も無く、絶板の処分を受けたため、後に一部を変更して再刊されている。

「和歌山の岡山」和歌山城の東直近から南方向にかけては(このグーグル・マップ・データの正中線部分)、元は広大な砂丘で、海岸線はすぐ西にあった近世及び近代の開発で殆んど砂丘の名残は現存しない。そこに「岡山の根上り松群」をポイントしたが、それが数少ない面影で、「和歌山市文化振興課」公式サイト内の「和歌山市の文化財・遺跡」「岡山の根上り松群」の解説に、この附近の広域旧呼称である『岡山は、古来より吹上の浜の汀線に平行して発達した砂丘です。江戸時代、和歌山城の城下町建設のときに、三年坂の切り通しや、堀止の埋め立て、外堀の掘削などにより著しく改変され、また明治以降の変革もあり、いまではほとんど砂丘の旧態をとどめません』。『吹上一丁目の和歌山大学教育学部附属小中学校内には、比較的よく砂丘の原形が残され、それとともに旧海岸林も一部が現存しています。根上がり松群はほとんどが枯死してしまいましたが、グランドの北にあるものは、根からの高さ』三・五メートル、『幹周り』三メートルで、『いまなお威容を残しています』とある。

「砂挼子(ありじごく)」蟻地獄は内翅上目アミメカゲロウ目ウスバカゲロウ上科ウスバカゲロウ科 Myrmeleontidae に属する一部の種の幼生名を指す。なお、ウスバカゲロウ類の総てがアリジゴク幼生を経る訳ではないので注意されたい。また、似て全く非なるところの旧翅下綱 Ephemeropteroidea 上目蜉蝣(カゲロウ)目 Ephemeroptera のカゲロウ類の幼虫は水棲であって、アリジゴクとは関係ない。詳しく知りたい方は「生物學講話 丘淺次郎 第十九章 個體の死(4) 三 壽 命」の私の『「かげろふ」の幼蟲は二年もかかつて水中で生長する』の注を参照されたい。私の博物学的な意味での「蜉蝣類」の解説の決定版である。但し、かなり長いので、ご覚悟あれ)。

『方言「けんけんけそゝ」又「けんけんむし」』柳田國男は「蟻地獄と子供――特に疎開の少年の爲に――」(昭和二一(一九四六)年一月~八月の『虫界速報』及び同年十一月から翌年五月の『虫・自然』で連載)の中で、全国に蟻地獄の異名を採集し、その語原を検証しているが、その「一〇 次郎と太郎」の中で、この異名に触れている。「私設万葉文庫」の「定本柳田國男集」第十九巻(新装版・一九六九年筑摩書房刊)から引く。踊り字は正字化し、記号の一部を変え、漢字の一部を正字化した。「ちくま文庫」(新字新仮名)版で校合した。

   *

 變つた名稱の一つとしては、和歌山の市などでは、この蟲をケンケンソソソ、又同じ縣の南海岸で、ケンケンとも謂つて居る。是は疑ひも無く蹴るといふ動詞から出た名で、今日の相撲道では禁じられて居るが、なほ力士たちは此語を知つて居るのみならず、古くは又當麻蹴速(たいまのけはや)といふやうな名人も居た。子供の遊戯では片足飛びがケンケンであつて、之に基いて、

   けんけんばたばたなぜ鳴くね

   親が無いか子が無いか

   親も有るが子も有るが

   鷹じよに取られてけふ七日

   七日と思たら十五日……

などゝいふやうな、雉子の鳥を歌つた遊び唄も出來て居る。子供は足ケンケンといふ名を、あの飛び方が頭に響く感じから來たと思つて居るが、もとは片一方の休ませて居る足を使つて、相手を蹴り倒すのがケンケンであつた。蟻地獄が巧みに跳ねて砂を彈いて、その上に居る敵を墮すから、見て居てさう謂ひたくなるのも當り前であり、ソソソといふのは多分それそれといふ激勵の語であつたと思ふ。

   *

「披いて」「ひらいて」。

「叔母處燒る」「選集」を参考にすると、「叔母處(おばとこ)燒(やけ)る」である。

『「フロリダ」州「ジヤクソンヴヰル」』ここ

「八百屋營業の支那人の店に、晝は店番」したという話は既に注した。

「ヅロ、ヅロ、」この語、元の英語の綴りと意味が判らない。識者の御教授を乞う。確かに、この相同性は驚嘆に値する!]

 〇田邊の俗傳ふ、家の主人が自ら壁の腰張り、乃ち壁の下の方、疊に近い部分に紙を貼付ると必ず近い内に家に故障起り、一家立退ざる可らずと。

[やぶちゃん注:「壁の腰張り」「腰」とは壁の中間部分から下を指し、壁の下の部分に上とは異なった仕上げ材を張ることを「腰張り」と呼ぶ。

「乃ち」「すなはち」。

「立退ざる可らず」「たちのかざるべからず」。]

 〇又曰く、蜈蚣に嚙れて痛烈しき人は、蝮蛇には左程痛まず。蝮蛇に嚙まれて痛烈しき人が、蜈蚣に於るも又然りと。拙妻二人の子に驗するに、蚊と蚤においても同樣なりと。

[やぶちゃん注:「蜈蚣」「むかで」。

「痛」「いたみ」。

「蝮蛇」「まむし」。

「驗するに」「けみするに」。]

 〇又傳ふ、足痺れて起つ能はざる時、「痺れ京へ登れ藁の袴買て着しよ」と三たび唱へ、疊の破れ目等から、藁一片拔き、唾で額へ貼ば卽ち痺れ止むと。

[やぶちゃん注:これは汎世界的に頻繁に見られる対象現象を擬人化して慫慂懐柔する類感呪術である。

「買て」「こうて」。]

 〇熊野詣りの手毬唄、田邊より纔か七八町隔つた神子濱で唄ふのは、末段が田邊のと違ふ(『鄕土硏究』一卷二號一二一頁參看)。「燈心で括つて、京の町へ賣りに往て、叔母樣に逢て、隱れ所無つて雪隱へ隱れて、ビチ糞で滑つて、堅糞で肩打た。」この唄の意何とも知れ難いが、一二一頁に載たのは、熊野詣りの處女、途中の佛堂へ拉行き强辱さるゝ次第を序し、今爰に記すのは、誘拐して京都の花街抔へ賣れ、其處で故鄕より登つた親族に邂逅して羞匿る事を叙たのかと推せらる。

[やぶちゃん注:「手毬唄」の先行言及は数多あり、こうした若い女の悲劇を読んだものが多いが、まさに、こんな忌まわしい唄で手毬をしている少女を実際に目の前にしたら、白昼でも慄っとしただろうな。

「『鄕土硏究』一卷二號一二一頁」「一」の「田邊邊の子供が傳ふ熊野詣の手毬唄、……」を指す。

「括つて」「くくつて」。

「往て」「選集」は『往(い)て』とルビする。

「逢て」手毬唄だから「おうて」と口語で読んでおく。

「隱れ所」「かくれどこ」。「どこ」は「選集」に従った。

「無つて」「なかつて」。

「雪隱」「選集」に『せつち』と振る。従う。

「ビチ糞」「びちくそ」。

「堅糞」「かちくそ」。

「肩打た」「かたうつた」。

「處女」「むすめ」。「選集」に拠った。

「拉行き」「つれゆき」。

「花街」「くるわ」。「選集」に拠った。

「賣れ」「うられ」。

「羞匿る事」「はぢかくるること」

「叙た」「のべた」。]

 〇四十年程前迄、和歌山市で川端抔へ獨遊びに出る子供を、母が誡むるに、日向の人買船に拉行れ炭を燒せらると言た。其頃其樣事有るべきに非ねど、ずつと昔し、日向から遠國へ人買が出て、拉去た人を炭燒に苦使した時の戒飭が遺つたらしい。謠曲「隱岐院」に、「人買人、今日は東寺邊、作道の邊りにて人を買ばやと思ひ候。中略、聲を立てば叶ふまじと、髮を取て引伏て、綿轡をむずとはめ、畜生道に落行くかと、泣聲だにも出ざれば云々」。帝國書院刊行鹽尻五四卷に、「人を捕へて、勾引して賣し者、猿轡とて、物言はんとすれば舌切る物を含ませしとぞ、近世も、出羽國南鄕等には、盜賊有て人を欺き、猿轡を含ませしとかや」。猿轡綿轡同物か。人買とは人身賣買の義なれど、實は人を勾引す者を呼んだ名らしい。

[やぶちゃん注:「日向」(ひうが)「日向から遠國へ人買が出て、拉去」(つれゆかれ)「た人を炭燒に苦使した」これは噂などではなく、江戸時代、実際に人買い船が日向からやってきて、伊勢神宮への「抜け参り」の子供などが多数拉致された事実があるのである。しかもそれは市井の悪党や女衒(ぜげん)などの仕業ではなく、列記とした日向の飫肥(おび)藩が行っていたのだから愕然とせざるを得ない。具体には、まず、宮崎のポータルサイト「miten」の「みやざき風土記」の宮崎県民俗学会副会長の前田博仁氏の「子どもを拉致した飫肥藩」を読まれたい。この多数の人買い拉致事件の発覚は文政一三(一八三〇)年のことである。この事件については、この藩ぐるみの拉致工作を早くに記事とし、このおぞましい江戸時代の犯罪を広く知らせた、イラストレーターでライターの松本こーせい氏のサイトの「好奇心散歩考古学」の『宇江佐真理の小説「薄氷」の「日向某藩の人買い船」とは?男女児童をさらって生涯奴隷に!』をも読まれんことを強くお薦めする。因みに事件が発覚した場所は、宮崎県日向市細島である。当時、ここは天領で富高代官所が統治していた。飫肥藩領はずっと南の現在の宮崎県南部の宮崎県宮崎市中南部と宮崎県日南市全域に相当する。

「拉行れ」「つれゆかれ」。

「戒飭」「いましめ」。「選集」の読みに従った。音は「カイチヨク(カイチョク)」で「飭」も「いましめる」の意。「人に注意を与え慎ませること・気をつけて慎むこと」の意。

「遺つた」「のこつた」。

『謠曲「隱岐院」』別名「隱岐物狂(おきものぐるひ)」。廃曲。作者不詳。妻に死別して出家した父親が、隠岐島で、人商人(ひとあきびと)に誘われて発狂した娘に逢うという筋立て。国立国会図書館デジタルコレクションの大和田建樹著「謠曲評釋」第五輯(明治四(一九〇四)年博文館刊)ここから読める(ここには「世阿彌作」とある)が、冒頭、「人買人」(ひとかひびと)は「かやうに候ふ者は、隱岐の國より出でたる人商人(ひとあきびと)」であり、「今日は東寺邊」(へん)「、作道」(つくりみち)「の邊りにて人を買」(かは)「ばやと思ひ候」と続く。「作道」は「鳥羽作道(とばのつくりみち)」で平安京の羅城門から真南に走る道で、鳥羽を経て、淀に至る道筋(「徒然草」によれば、十世紀以前から存在していた)。「中略」以下は、左ページの四行目からの引用で、「聲を立てば叶」(かな)「ふまじと、髮を取」つ「て引」き「伏て、綿轡」(わたぐつわ)「をむずとはめ、畜生道」(ちくしやうだう)「に落」ち「行くかと、泣」く「聲だにも出ざれば、心に人間はありそ海の。隱岐の國へと志し。山陰道に急ぎけり。急ぎけり。」で中入となる。

『帝國書院刊行鹽尻五四卷に、「人を捕へて、勾引して賣し者、猿轡とて、物言はんとすれば舌切る物を含ませしとぞ、近世も、出羽國南鄕等には、盜賊有て人を欺き、猿轡を含ませしとかや」』「鹽尻」は既出既注。江戸中期の国学者で尾張藩士天野信景(さだかげ)による十八世紀初頭に成立した大冊(一千冊とも言われる)膨大な考証随筆。当該活字本の当該箇所が国立国会図書館デジタルコレクションのここで視認できる。左下段中央やや左寄りにある。

「猿轡」と「綿轡」は「同物か」と言っているが、どうも違う気がする。「物言はんとすれば舌切る物を含ませしとぞ」という部分がそれで、例えば、口に噛ませるのに、ささくれ立った木片を咬ませるか、真綿に茨などを包んだものを含ませているのではないかと疑わせる。「綿轡」は十全に口腔内に真綿をぎゅうぎゅうにしっかり詰めれば、それを吐き出すことは出来ず、声も発することも実は出来ないのである。

「勾引す」「かどわかす」と読む。]

 〇田邊で兒女酸漿の瓤(なかご)出すに唱ふる詞「酸漿ねえづき破れんな、(瓤が其心根に付た儘皮を破らずに出よと云ふ事)破れた方へ灸すよ」。

[やぶちゃん注:「兒女」「こども」。

「酸漿」「ほほづき」。

「瓤(なかご)」音は「ショウ・ ニョウ・ドウ・ノウ」(現代仮名遣)。瓜(うり)等の内部の種子部分を包んでいる綿状の箇所、所謂、「子房」を指す。

「出す」「いだす」。

「其心根に付た儘」「その、しん、ねについたまま」で果実の外を包む「皮を破らずに出」(いで)よ」。

「灸」「選集」は『やいと』とルビする。]

 〇玄猪の神に飯供ふる時、飯匙で十三度に扱ひ取る。此飯を若き男女食ふと、緣付き遲い故に、既婚の人のみ食ふ。

[やぶちゃん注:「玄猪」「選集」を参考にするなら、二字で「ゐのこ」。

「飯」「めし」。

「飯匙」「選集」を参考にするなら、「おだいかひ」。通常は「いがひ」で杓文字のこと。この「おだいという読みは「飯」の当て訓で、本来は「御臺」で、元は「御臺盤」(飯・菜などを盛った器をのせる長方形の台)であるが、そこから、近世に女性語として「飯」(めし)を指す語となった。

「扱ひ」「選集を参考に「よそひ」と訓じておく。

「此飯を若き男女食ふと、緣付き遲い故に、既婚の人のみ食ふ」こういう伝承の根源は遂に探れないのが悔しい。]

 〇茶釜の湯沸て蓋を持上ぐれば、家の福分隣家へ移るとて、速く水を注込む。

[やぶちゃん注:「沸て」「わきて」。

「持上ぐれば」底本は「持上けば」であるが、「選集」で訂した。「上げれば」ではどうもしっくりこない。

「隣家」「選集」は『となり』と振る。

「速く」「はやく」ではなく、「すばやく」と訓じておく。]

 〇和歌山で蟋蟀の鳴聲、「鮓食て餅食て酒飮んで、綴れ刺せ夜具刺せ」と云て暑い時遊んで居た人、秋に成れば冬の備へをせにや成ぬと警むるのぢやと、幼年の頃予每々聞た、倭漢三才圖會五三にも、古今注云、蟋蟀秋初生、得ㇾ寒則鳴、俚語有ㇾ言、趨織鳴嬾婦驚と出たり。

[やぶちゃん注:「蟋蟀」「こほろぎ」。

「鮓食」(すしくふ)「て餅食て酒飮んで、綴」(つづ)「れ刺せ夜具刺せ」。

「成ぬ」「ならぬ」。

「警むる」「いましむる」。

「倭漢三才圖會五三にも、古今注云、蟋蟀秋初生、得ㇾ寒則鳴、俚語有ㇾ言、趨織鳴嬾婦驚」私の「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 蟋蟀(こほろぎ)」を参照されたい。]

 〇和歌山で蜻蛉の雌を維いで雄を釣るを「かえす」と云ふ。之をなす小兒「ヒヨー、ヒヨー、やんま、ひよつちんひよー」と唱ふ、下芳養で蜻蛉かえすに、ホーヒーホーと唱ふ、鉛山では、「ホーヒーホー、かしややんまでかえらんせ」といふ。花車乃ち仲居が嫖客を引く如く囮の雌蜻蛉に引かれ來れとの意か、田邊では單に「やんまほー」と唱ふ、神子濱では「やんま、こーちーこーの、猫に怯てこーかいの」と呼ぶ、交尾ながら飛ぶを見て、「ぢよつかじよーじよーお坐り成れ」と云へば止ると云ふ、蜻蛉飛ぶを手網で奄んとする時、「とんぼとーまれ、お寺のお脊戶で、蠅を取つて食はそ」と云へば止るといふ、田邊、和歌山等では、唯「とんぼとーまれ、蠅を食はそ」といふ。

[やぶちゃん注:以下、読みは概ね「選集」を参考にした。

「雌」「め」。

「維いで」「つないで」。

「雄」「を」。

「小兒」「こども」。

「下芳養」「しもはや」。既出既注。

「鉛山」「かなやま」。和歌山県の旧西牟婁郡瀬戸鉛山村。「Geoshapeリポジトリ」の「歴史的行政区域データセットβ版」こちらで旧村域が確認出来る。西牟婁郡白浜町の鉛山湾のある半島部に当たる(国土地理院図)。

「花車」「くわしや(かしゃ)」。花車方(かしゃがた)とも呼ぶ。茶屋などで働く年配の仲居のこと。

「嫖客」「へうきやく(ひょうきゃく)」。花柳界に遊ぶ男の客。

「囮」「おとり」。

「雌蜻蛉」「めやんま」。

「怯て」「おぢて」。

「交尾ながら」「つるみながら」。

「成れ」「なされ」。

「手網」「たも」。

「奄ん」「ふせん」。

「蠅」「はい」。]

 〇西牟婁郡二川村大字兵生邊で、「そばまきとんぼ」と云ふ蜻蛉が、丁度鍬の柄の高さに飛ぶ時を待て蕎麥を蒔く。曆が行渡らぬ時は、色々の事を勘へて農耕をした、其時の遺風と見える。

[やぶちゃん注:「西牟婁郡二川村大字兵生」(ひやうぜい)は現在の田辺市中辺路町兵生(グーグル・マップ・データ)。幾つかのネット記載は読みを「ひょうぜ」とするが、正しくはやはり「ひょうぜい」である。「ひなたGPS」のこちらを参照。

「そばまきとんぼ」個人サイト「大阪・上方の蕎麦」の中の「暮らしと蕎麦」の「その3」の「ソバマキトンボ -----赤とんぼ-----」で素晴らしい考証がなされており、結論としては、蜻蛉(トンボ)目Epiprocta 亜目Anisoptera下目トンボ上科トンボ科ハネビロトンボ亜科ハネビロトンボ族ウスバキトンボ属ウスバキトンボ Pantala flavescens ではないかと推定されておられる。当該ウィキによれば、『全世界の熱帯・温帯地域に広く分布する汎存種の一つで』、『日本のほとんどの地域では、毎年春から秋にかけて個体数を大きく増加させるが、冬には姿を消す』。『お盆の頃に成虫がたくさん発生することから、「精霊とんぼ」「盆とんぼ」などとも呼ばれる。「ご先祖様の使い」として、捕獲しないよう言い伝える地方もある。分類上ではいわゆる「赤とんぼ」ではないが、混称で「赤とんぼ」と呼ぶ人もいる』とあった。『成虫の体長は』五センチメートル『ほど、翅の長さは』四センチメートル『ほどの中型のトンボで』、『和名のとおり、翅は薄く透明で、体のわりに大きい。全身が淡黄褐色で、腹部の背中側に黒い縦線があり、それを横切って細い横しまが多数走る。また、成熟したオス成虫は背中側にやや赤みがかるものもいる』とあった。]

 〇其近所に笠塔といふ高山が有る。實に無人の境だ。其山に木偶茶屋と云ふ處有り、夜分狩人抔偶ま野宿すると、賑はしく人形芝居が現ずる由。

[やぶちゃん注:「笠塔」(かさたふ)「といふ高山」田辺市のここ(国土地理院図)。標高千四十九メートル。平安時代の陰陽師安倍晴明が魔物を笠の下に封じ込めたという伝説が残る山である。

「木偶茶屋」「でくちやや」。位置不詳。

「偶ま」「たまたま」。

「賑はしく人形芝居が現ずる由」ヒエーッツ! 泉鏡花の世界じゃて!!!]

〇「七つ七里、小便擔桶にも憎まれる」此諺紀州到る處で言ふ。小兒七歲に成れば、行作荒々しく、自村のみか近傍七ケ村から憎まれるとの意だ。

[やぶちゃん注:「七里」「ななさと」。

「小便擔桶」「しやうべんたご」。

「行作」「選集」を参考にすると、二字で「おこなひ」。]

 〇熊野(一說伊勢)の神油蟲を忌む、三疋殺した者、參詣せずとも、其丈の神助有りと云ふ。

       (大正二年八月鄕硏第一卷第六號)

[やぶちゃん注:「油蟲」言わずもがな、ゴキブリであろう。]

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