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2022/07/17

曲亭馬琴「兎園小説別集」下巻 墨水賞月詩歌

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの「新燕石十種」第四では本篇はここから。吉川弘文館随筆大成版で、誤字と判断されるものや、句読点などを修正した。]

   ○汎ㇾ舟賞ㇾ月詩歌

    九月十三目夜卽事    屋 代 弘 賢

 ふねうけてめづるこゝろもすみだ川

      水のゆくへの長月の影

    九月十三日夜汎ㇾ舟賞月 山 崎 美 成

皎兮明水月。秋老繼華筵。玉墖橫芝海。金波湧墨川。雁行侵ㇾ夜遠。霜葉逐ㇾ流解。緬憶能登壘。兼懷大堰船。形猶一分缺。光勝滿輪圓。今夕無雙賞。仰ㇾ高延喜天。

[やぶちゃん注:以下の山崎の自註は、底本では全体が一字下げ。]

自註。眞俗交談記【建久二年九月十日の記。】云、九月十三夜名繼華會。○北越軍記云、天正二年八月能登陣なり。七尾の城を九月十一日に攻落。同月十三夜明月なれば、謙信の作、霜滿軍營秋氣淸。數行過雁月三更。越山併得能州景。任他家鄕念遠征。○散木奇歌集云、九月十三夜、大井河にまかりて、船にのりてきよ瀧河のわたりまでのぼりて、

 紅葉ちる淸瀧川に舟出して

     名にながれたる月をこそ見れ

躬恆集云、淸凉殿の南のつまに、みかは水めぐり出たり。延喜十九年九月十三夜、その宴をさせ給ヘり。○中右記云、九月十三夜、今宵雲淨月明。是寬平法皇。明月無雙の由被仰出云々。

   舟中賞月         關 克 明

一夜扁舟棹水月。白鷗相近轉縱橫。淸光最奸金波裏。酌酒高談物外情。

 影きよみ漕ゆく船にこゝろさへ

      すみだがはらの秋の夜の月

   九月十三日舟中同諸賢墨水賞ㇾ月

                關 思 亮

澄江數里遡ㇾ流時。水面躍金千月奇。話ㇾ古說ㇾ今蘆荻裏。一船淸味少人知

   九月十三夜卽事       谷 文 二【十四歲】

 すみだ川水さへきよく空さえて

      ふけゆくよはもなが月のつき

   乙酉季秋十三夜。與耽奇社友。倶潮墨水月光、舟中憶故人松蘿館。賦一絕

                 瀧 澤 解

九月十三泛墨水。晚潮來去任ㇾ船流。蟾精未ㇾ滿明先缺。遠岸松蘿奈舊遊

 苫舟のおなじながれにすみだ川

      こゝろ隈なき月の夜の友

   九月十三夜墨水賞ㇾ月    瀧 澤 興 繼

冰輪冷艷擅淸光。銀漢斜添雁一行。船倚枯葭櫻樹岸。人忘榮利宿鵝傍。斑姬哭ㇾ子狂何甚。在五思ㇾ京諷詠芳。月色今宵千古似。秋寒徹水覺風霜

   是夜舟中醉間即事狂題    曲 亭 陳 人

耽奇會了又將ㇾ遊。六友相攜月見舟。漕戾竪川今戶廻。逆登橫網藏前頭。夜深風冷雞膚立。樽竭腹空蟲齒浮。雖ㇾ爾棧橋無涉氣。金波如ㇾ睨照名樓。【今戶有酒肆號金波樓。】

[やぶちゃん注:これは、馬琴の漢詩前書他で、文政八年乙酉九月十三日(グレゴリオ暦一八二五年十月二十四日)に行われた耽奇会第八回会集の後の、会員たちで墨田川(隅田川)に舟遊びをして月見をした際の寄書であることが判る。この「兎園小説別集」の文章自体がいつ書かれたかは判然としないが、恐らくは文政八年末までには書かれたものであろう。何故かというと、おぞましき山崎美成と「けんどん」争い(文政八年四月)で絶交したずっと後に、この懐古記事を書くとは馬琴に性格から考えてあり得ないと思うことと、「兎園小説」の続きの単独記事として板行されている以上、だらだらと遅くては、逆に世間が「兎園小説」を忘れ、売れ行きが甚だ悪くなるからである。

「汎ㇾ舟賞ㇾ月詩歌」「舟を汎(うか)べ、月を賞(しやうす)の詩歌」。「汎」には「浮ぶ・漂う」の意がある。

「うけて」「浮(う)けて」。浮かべて。

「皎兮明水月。秋老繼華筵。玉墖橫芝海。金波湧墨川。雁行侵ㇾ夜遠。霜葉逐ㇾ流解。緬億能登壘。兼懷大堰船。形猶一分缺。光勝滿輪圓。今夕無雙賞。仰ㇾ高延喜天。」この時既に始まっていた『「けんどん」爭ひ』で馬琴が絶交することになる山崎好問堂美成(よししげ)の作(同論争は私のこの「兎園小説」で『曲亭馬琴「兎園小説別集」中巻 「けんどん」爭ひ』を全四回で分割して電子化注している)。但し、この論争の発端は同年三月十三日に、この時、初めて耽奇会会員になった文宝堂(亀屋久右衛門)が「大名けんどん」を出品したのが発端で、加藤好夫氏のサイト「浮世絵文献資料館」の『耽奇漫録』のデータによれば、馬琴の入会は第八回(前年文政七年十一月十四日)からであり、この月見の後、第十四回までは馬琴は出席しているものの、この辺りで馬琴が完全にキレて、第十五回(同六月十三日)には馬琴の息子琴嶺舎(瀧澤興継(おきつぐ))が加入して馬琴の代わりとなり、第十九回集(同年十月十三日)まで興継しか出席していない。そうして、この二ヶ月後の同年十一月十三日に行われた第二十回耽奇会(馬琴・美とも出席で、興継は欠席。なお、この耽奇会を主導(今一人は第二回加入で馬琴とも親しいこの前の歌を詠じた屋代弘賢(ひろかた:号は輪池(りんち))で、本会の集成である「耽奇漫録」も屋代が刊行した。その「けんどん」図は『曲亭馬琴「兎園小説別集」中巻 「けんどん」爭ひ 始動 (その1)「けんどん」名義・瀧澤氏批考・山崎「けんどん」批考問辨』の冒頭注で国立国会図書館デジタルコレクションをリンクさせてある)した美成は全二十回総てに出席している)を以って同会は自然消滅している。自然流で訓読してみる。

   *

皎(かう)たり 明水(めいすい)の月

秋老(ふけ)て 繼華(けいくわ)の筵(えん)

玉墖(ぎよくたふ) 芝(しば)の海に橫たふ

金波(きんぱ) 墨川(ぼくせん)に湧き

雁行(がんかう) 夜(よ)を侵(おか)して 遠し

霜葉(さうえふ) 流れを逐(お)ひて 解け

緬憶(めんおく) 能く登壘(とうるい)す

兼ねて 懷(いだ)く 大堰(たいせき)の船(ふね)

形 猶ほ 一分(いちぶ)に 缺く

光 勝(まさ)りたり 滿輪の圓(ゑん)

今夕(こんせき) 無雙(むさう)の賞(しやう)

高く仰ぐ 延喜(えんぎ)の天

   *

「皎」は月の光が白く見えるさま。「玉墖」「墖」は「塔」の異体字。ここは月光が波に反射して伸び、白玉で出来た塔のように見えることを言ったものであろう。「緬憶」回想すること。「登壘」「壘」は高く築いた城で、「天の城の遙か高みに登る思いがする」という意であろう。「大堰の船」よく判らぬが、大いなる「知」の大海を開鑿することを言うか。美成らしい。「延喜」は平安前期の醍醐天皇の時の年号で、九〇一年から九二三年。醍醐天皇は摂関を置かず、「延喜格式」が編纂されるなど、後世の人々から、天皇親政による理想の政治が行われた治世と評価されて「延喜の治」と呼ばれたから、古き昔の理想の世界を指すか。

「眞俗交談記【建久二年九月十日の記。】」平安後期から鎌倉初期にかけての皇族(以仁王の同母兄)で僧の守覚法親王(久安六(一一五〇)年~建仁二(一二〇二)年)が、建久二(一一九一)年の重陽の宴の後宴として、真衆(真言宗の正規な僧衆の意か)と俗士が、仁和寺御所で世俗の故実と真言の秘事口伝について、学術の交換を行った言談の記録という体裁をとるが、仮託作とされる(以上は「J-Stage」の山崎誠氏の論文「秘説の興宴 : 真俗交談記・真俗擲金記」の抄録に拠った)。

「九月十三夜名繼華會」「九月十三夜を『繼華會(けいくわゑ)』と名づく」か。美成の詩句は船中に敷いた花を綴ったような豪華な莚(むしろ)の意のように受け取れるが、この場合の前記の山崎氏の論文PDF)を管見するに、「華」は「法華経」の意が原義のようであり、その教えの真義を「継」ぐ法「会」のことのようにも読める。

「北越軍記」「北越太平記」兵学者宇佐美定祐著で寛永二〇(一六四三)年自序。上杉謙信・景勝二代の軍記を纏めたもので、武田氏との川中島合戦について詳細に記しており、後の軍記物が多く参考にされていると言われるが、地名・人名及び事実関係の誤りが多いと指摘されている(以上は寄居町の広報『よりい』のこちら(部分記事・PDF)を参照した)。

「天正二」(一五七四)「年八月能登陣なり。……」上杉謙信の能登平定の攻略戦であるが、時制がおかしい。実際の侵攻は天正四(一六七八)年十一月で、七尾城の落城は翌天正五年の九月十五日で「九月十一日」ではないウィキの「上杉謙信」の「越中・能登平定」の条を参考にした)。とすれば、以下の漢詩は七尾城を攻め落とす直前に確信の詠と読め、その方がより迫力を持つように思われる。

「霜滿軍營秋氣淸。數行過雁月三更。越山併得能州景。任他家鄕念二遠征。」訓読する。

   *

霜 軍營に滿ちて 秋氣 淸(きよ)し

數行(すかう)の過雁(くわがん) 月(つき) 三更(さんかう)

越山(えつざん)併(あは)せ得たり 能州(のうしう)の景

遮莫(さもあらばあ)れ 家鄕(かきやう)の 遠征を思ふを

   *

「三更」午後零時前後。「越山」自身の領地越後国と越中国の山々。「能州」能登国。「遮莫」「どうあろうとも、ままよ!」の意。

「散木奇歌集」平安末期の名歌人として知られる源俊頼生誕(天喜三(一〇五五)年~大治四(一一二九)年)の自撰私家集。全十巻。大治三(一一二八)年頃に成立した。単に「散木集」とも呼ぶ。

「大井河」淀川水系の桂川上流部の別名。

「きよ瀧河」桂川上流の、南北に流れて京都市右京区嵯峨清滝地区を貫流する清滝川(グーグル・マップ・データ)。

「紅葉ちる淸瀧川に舟出して名にながれたる月をこそ見れ」「日文研」の「和歌データベース」で確認した。

「躬恆集」(みつねしふ)は、かの凡河内躬恒(貞観元(八五九)年?~延長三(九二五)年?)の家集。原型は平安後期の成立とされる。

「淸凉殿の南のつまに、みかは水めぐり出たり」「みかは水」は「御溝水(みかはみづ)」で、一般名詞では、内裏の殿舎や塀に沿って設けられた溝(みぞ)を流れる水を指すが、特に、清涼殿の北と東(前庭の殿脇)と南を流れるものが風流のそれとして名高く、ここもそれを指す。

「延喜十九年」九一八年。

「中右記」(ちういうき)は平安末期の公卿中御門右大臣藤原宗忠(康平五(一〇六二)年~永治元(一一四一)年)の日記。家号と官名の一字をとった名で、寛治元(一〇八七)年から保延四(一一三八)年までの記事を含み、有職故実に詳しく、院政期の政治情勢を克明に記録している。

「九月十三夜、今宵雲淨月明。是寬平法皇。明月無雙の由被仰出云々」「九月十三夜、今宵、雲、淨(きよ)く、月、明かなり。是れ、寬平法皇(くわんぴやうほふわう)、『明月、無雙。』の由、仰せ出だされ云々」。「寬平法皇」は宇多天皇(貞観九(八六七)年~承平元(九三一)年:在位/仁和三(八八七)年~寛平九(八九七)年)の出家後の称で、彼は初めての法皇号を名乗った。彼が法皇となったのは昌泰二(八九九)年十月二十四日であるから、これは同日記のどこかで、過去史料記事を引用して記したものらしい。

「關克明」後に並ぶ「兎園小説」でお馴染みの関思亮海棠庵の父親で書家・儒者であった関克明(こくめい 明和五(一七六八)年~天保六(一八三五)年)。

「一夜扁舟棹水月。白鷗相近轉縱橫。淸光最奸金波裏。酌酒高談物外情。」訓読を試みる。

   *

一夜(ひとよ) 扁舟(へんしう)にて 水月に棹(さをさ)す

白鷗(はくおう) 相ひ近くして 轉(まろぶ)こと 縱橫(じゆうわう)

淸光(くわう) 最も奸(おか)す 金波の裏(うち)

酌酒(しやくしゆ)高談(かうだん) 物外(ぶつぐわい)の情(じやう)

   *

「九月十三日舟中同諸賢墨水賞ㇾ月」「九月十三日、舟中、諸賢と同じうして、墨水に月を賞す。」。

「澄江數里遡ㇾ流時。水面躍金千月奇。話ㇾ古說ㇾ今蘆荻裏。一船淸味少人知。」

   *

澄江(ちようこう) 數里 流れを遡(さかのぼ)る時

水面(みなも) 躍金の千月 奇なり

古(いにし)へを話(わ)して 今を說(の)ぶ 蘆荻(ろてき)の裏(うち)

一船(いつせん)の淸味(せいみ) 少(わづ)かに 二人のみ知る

   *

「二人」は父と自分で、ここは他の乗客を「ないもの」としての私的な感懐したもので、特に自分らを特別に示したものではなかろう。

「谷文二【十四歲】」(たに ぶんじ 文化九(一八一二)年~嘉永三(一八五〇)年)は画家。当該ウィキによれば、父『谷文晁の後継者として将来を嘱望されたが』、『若くして歿した』。『谷文晁の長男』で、『後妻』の『阿佐子との間に生まれ』た。『画は文晁に受け』、『才能は義兄』『文一に劣ったものの』、『文晁の秘蔵っ子として寵愛を受け』た。『そのためか』、我が儘『に育ち』、『直情的な性質だった。遊女と役者を極端に嫌い、得意客であっても』、『棍棒を投げて追い返したほどだった。 享年』三十九で、『浅草清島町源空寺に葬られ』た。『子に文中(文晁の孫)がいる』とある。

「乙酉季秋十三夜。與耽奇社友。倶潮墨水月光、舟中憶故人松蘿館。賦一絕。」「乙酉(おついう)季秋、十三夜、耽奇社(たんきしや)の友と、倶(とも)に墨水に潮(てう)して、月光を賞す。舟中に故人松蘿館を憶ひ、一絕を賦す。」。「潮す」はあまり聞かないが、「舟に棹さす」の意であろう。「故人」はこの場合、「古馴染み」「旧知」の意なので注意。「松蘿館」は「耽奇会」・「兎園会」の両会員であった西原好和。柳河藩留守居であったが、「驕奢遊蕩を競って風聞宜しからず」によって、幕府から国元蟄居の譴責を受け、この十年前の文化一二(一八一五)年四月に江戸を退去されられていた。天保(一八三〇年~一八四四年)の初めに没したと伝えられる。

「九月十三泛墨水。晚潮來去任ㇾ船流。蟾精未ㇾ滿明先缺。遠岸松蘿奈舊遊、」

   *

九月十三(じふさん) 墨水に泛(うか)ぶ

晚潮(ばんてう) 來たり去つて 船を任せて 流る

蟾精(せんせい) 未だ滿たず 明先(めいせん) 缺(か)く

遠岸の松蘿(しようら) 舊遊(きふいふ) 奈(いかん)ぞ

   *

「蟾精」月の異名。中国で古来より月には霊的な蟾(ひきがえる:蟾蜍(せんじょ))が住むとされたことによる。「明先」明るい部分。「松蘿」は「松の木に絡まる蔓」(因みにこの語は「男女の契りの固いこと」の喩えとしてよく用いられた)で、それを遠い岸辺の実景としつつ(実際には夜で見えるはずはないから仮託)、失意のうちに江戸を追い出された「舊遊」(旧友)松蘿館西原好和を沈痛に「どうしているだろう!?」と偲んでいるのである。

「苫舟」「とまぶね」。苫を被せた卑賤な者の小舟。

「隈」「くま」。「すみ」の読みがあるから、それを前の「すみだ川」に縁語として示したもの。

「冰輪冷艷擅淸光。銀漢斜添雁一行。船倚枯葭櫻樹岸。人忘榮利宿狛傍。斑姬哭ㇾ子狂何甚。在五思ㇾ京諷詠芳。月色今宵千古似。秋寒徹水覺風霜。」

   *

冰輪(ひようりん) 冷たく艷として 淸光(せいくわう)を擅(ほしいまま)にす

銀漢 斜めに添ふ 雁 一行(いつかう)

船は倚る 枯葭櫻樹(こかわうじゆ)の岸(きし)

人は忘る 榮利宿鵝(えいりしゆくが)の傍(かたはら)

斑姬(はんぴ) 子に哭(な)きて 狂ふこと 何ぞ甚し

在五(ざいご) 京(きやう)を思ひて 諷詠すること 芳(かんば)し

月色(げつしよく) 今宵(こんしやう) 千古の似(じ)

秋 寒く 徹して 水 風霜を覺ゆ

   *

「冰輪」氷のように冷たく輝いている月。冷たく冴えた月。「船倚」は当初、「倚掛(よりかか)り」のこと(和船の外艫(そとども:船尾の戸立(とだて:船尾を固める主要構成材で、船の後部に構成される艫回りの総称)の上枻(うわだな:和船の上部の舷側板)を延長した部分。高く反り上がっているところからいう。参照した「精選版 日本国語大辞典」の同語の図を参照)と考えたが、次の句と対句にならぬのでかく読んだ。「榮利宿鵝」意味不明。「斑姬」ハト目ハト科チョウショウバト属チョウショウバトGeopelia striata のことらしい。本邦の漢字表記は「長嘯鳩」だが、同種の中文の当該ウィキでは、中文名を「斑姬地鳩」とするからである。本邦には棲息しない。詳しくは日本語の当該ウィキを読まれたいが、そこに『鳴き声は柔らかく連続して、断続的にクークーという調子で鳴く。タイやインドネシアにおいては、その鳴き声のためにペットとして人気があり、鳴き合わせ競争が最も良い声をもつ個体を見つけるために開催されている』とある。東南アジアに分布し、中国にはいないが、どうもこの一句は漢籍の中のずっと南方の同種類に関する記載が元のようには感じられる。最終句は全く判りません。悪しからず。

「是夜舟中醉間即事狂題」「是れ、夜舟(やしう)の中(うち)、醉へる間(あひだ)、即事にして、狂題(きやうだい)す」。

「陳人」馬琴の号の一つ。「古ぼけた人」の意。

「耽奇會了又將ㇾ遊。六友相攜月見舟。漕戾竪川今戶廻。逆登橫網藏前頭。夜深風冷雞膚立。樽竭腹空蟲齒浮。雖ㇾ爾棧橋無涉氣。金波如ㇾ睨照名樓。」

   *

耽奇の會(くわい) 了(をは)りて 又 將に遊ばんとす

六友(りくいう) 相ひ攜へて 月見の舟

漕ぎ戾るに 竪川(たてかは)今戶 を廻(めぐ)り

逆登(さかのぼ)るに 橫網(よこあみ)の藏前(くらまえ)の頭(さき)

夜(よ) 深くして 風 冷たく 雞膚(とりはだ)立ち

樽(たる) 竭(つ)きて 腹(はら)空(す)きて 蟲齒(むしば)浮(う)けり

爾(しか)ると雖も 棧橋(さんばし) 涉(わた)る氣(き) 無し

金波(きんぱ) 睨むがごとく 名樓(めいらう)を照らす

   *

かなり面白い狂詩である。

「今戶有酒肆號金波樓。」「今戶、酒肆(しゆし)にして、『金波樓』と號せる者、有り。」。]

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