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2022/07/14

「南方隨筆」底本正規表現版「紀州俗傳」パート 「十五」 / 「紀州俗傳」~了

 

[やぶちゃん注:全十五章から成る(総てが『鄕土硏究』初出の寄せ集め。各末尾書誌参照)。各章毎に電子化注する。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像(ここから)で視認して用いた。また、所持する平凡社「選集」を参考に一部の誤字を訂した。表記のおかしな箇所も勝手に訂した。それらは一々断らないので、底本と比較対照して読まれたい。但し、加工データとしてサイト「私設万葉文庫」にある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊で新字新仮名)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。

 本篇の各章は短いので、原則、底本原文そのままに示し、後注で(但し、章内の「○」を頭にした条毎に(附説がある場合はその後に)、読みと注を附した。そのため、本篇は必要性を認めないので、PDF版を成形しないこととした。太字は底本では傍点「﹅」。

 なお、「紀州俗傳」は本「十五」章を以って終わって、「南方隨筆」の正規本文はこれで終わっている。但し、この後に「附錄」として『「鄕土硏究」の記者に與ふる書』(柳田國男宛南方熊楠書簡の雑誌転載)及び、跋文相当の中山太郎氏の「私の知れる南方熊楠氏」が続く。無論、これらも電子化する。

 

      十五、

 〇紀州の七人塚 紀州西牟婁郡長野村大字馬我野(ばがの)字鎌倉に七人塚と云ふ所がある。塚は今は無い。昔七人の山伏がこゝに住んで居た。ある日田邊沖を通る船に向つて祕術を以て之を止めると、船の中にもえらい者があつて沖より山伏どもを見付け、祕術を行ふて止(と)めたから七人の山伏皆動くこと能はず、遂に其處で死んだと云ふ。今も尙沖を通る船から此地を望むと、一點の靑い火が怪しく夜(よる)光ると云ふ。以上本年七月十一日の牟婁新報より抄出す。又森彥太郞氏通信に日高郡上山路(かみさんぢ)村大字西にも七人塚あり。鶴が城落ちた時戰死の七士を葬ると稱して塚の上に小祠(ほこら)がある。尙紀伊續風土記牟婁郡三里鄕(みさとがう)伏拜(ふしをがみ)村(今の東牟婁郡三里村大字伏拜)の條にも七人塚を記し、堀内左馬助(ほりのうちさまのすけ)鬼が城を攻めた時、三十七人手を負ひて死す。其七人を葬つた所で、碑石一基ありと見えて居るとのことである。(大正四年九月鄕硏第三卷第七號)

[やぶちゃん注:本篇本条のみの初出がこちらPDF)で確認出来る。以上ではそれに従い、ルビを、一部、増補した。

「西牟婁郡長野村大字馬我野字鎌倉」「Geoshapeリポジトリ」の「歴史的行政区域データセットβ版」の「和歌山県西牟婁郡長野村」で旧村域が確認出来る。「ひなたGPS」の戦前の地図に「馬我野」が見出せた。現在の地図と照合すると、グーグル・マップ・データ航空写真のこの中央附近に相当する。「鎌倉」確認出来ず。

「牟婁新報」「不二出版」公式サイト内の同新聞の復刻本の解説に、『本紙は』、明治三三(一九〇〇)年四月に『和歌山県田辺町(現在の田辺市)で創刊された。社長・主筆は毛利柴庵(さいあん 明治四(一八七一)年~昭和一三(一九三八)年)で、彼は和歌山県新宮市生まれ。明治一七(一八八四)年十三歳で『和歌山県田辺市の高山寺にて得度。僧名清雅』。『東京日々新聞の社員を経験し、高野山大学林を主席で卒業』、『高山寺住職となっ』た。後、明治三三(一九〇〇)年四月、『『牟婁新聞』の主筆兼主宰とな』り、そこでで『論陣を張る傍ら』、明治四十三年には『田辺町町議会議員、翌』『年には和歌山県県会議員に当選』した。大正一四(一九二五)年の『牟婁新報』休刊後は、和歌山市に移り住み』、『紀州毎日新聞社主となった』。『柴庵は進歩的仏教徒であり、仏教界の革新を目指した『新仏教』にも関与しており、その関係から初期の社会主義者たちとの交流も深かった』。『そのため』、この『牟婁新報』は、『単なる一地方紙にとどまらず、県内は大石誠之助・成石平四郎、県外からは幸徳秋水・堺利彦・管野すが・荒畑寒村など、社会主義者をはじめとする革新思想者が多く論陣を張り、平民社落城後は』、『ほとんど唯一の初期社会主義の砦とも言うべき存在であった』。『また一方、環境保全・自然保護の問題にいちはやく取り組んだメディアでもあ』り、明治三九(一九〇六)年からの『「神社合祀問題」を宗教の自由の問題として、そして環境破壊の問題としてとりあげたが、このとき柴庵とともに健筆を揮ったのが』『南方熊楠であった』とある。

「森彥太郞」(明治二一(一八八八)年~昭和二二(一九四七)年)は郷土研究家として紀州ではかなり著名な人物のようである。ネット上で複数の彼自身の論考が読める。例えば、個人サイト「百姓生活と素人の郷土史」の「日高地方の郷土史関係資料(清水長一郎文庫)」に「森彦太郎遺文集」(全三巻・PDF)他があり、こちらには、電子化された彼の「羽山大学の彗星夢雑誌(すいえいゆめぞうし)」という文章がある。

「日高郡上山路(かみさんぢ)村大字西」「Geoshapeリポジトリ」の「歴史的行政区域データセットβ版」の「和歌山県日高郡上山路村」で旧村域が確認出来る。「ひなたGPS」の戦前の地図に大字「西」が見出せた。ここは現在のグーグル・マップ・データ航空写真でこの附近。北に「鶴ヶ城跡」を配した。

「鶴が城」「龍神観光協会」公式サイト内の「龍神村の観光情報」の「鶴ヶ城祉」のページに、『日高川本流とその支流丹生ノ川の合流地点の山頂に玉置直虎(下野守直虎)の城塞として』、鎌倉幕府滅亡の年である元弘三(一三三三)年に『構築された』。後の天正一三(一五八五)年、『玉置氏第』十一『代当主、玉置惣左衛門太夫の頃、秀吉軍に攻撃され』、『落城』したとある。

「紀伊續風土記牟婁郡三里鄕(みさとがう)伏拜(ふしをがみ)村(今の東牟婁郡三里村大字伏拜)の條にも七人塚を記し」同書は紀州藩が文化三(一八〇六)年に、藩士の儒学者仁井田好古(にいだこうこ)を総裁として編纂させた紀伊国地誌。編纂開始から三十三年後の天保一〇(一八三九)年に完成した。原本の当該箇所は国立国会図書館デジタルコレクションの明治四四(一九一一)年帝国地方行政会出版部刊の活字本のここで確認出来る。「東牟婁郡三里村」は「Geoshapeリポジトリ」の「歴史的行政区域データセットβ版」のこちらで旧村域が確認出来る。現在の田辺市本宮町大居(ほんぐうちょうおおい)附近。

「堀内左馬助」ウィキの「鬼ヶ城」(次注参照)によれば、『室町時代』(一五二三年頃)『に有馬忠親が隠居城として山頂に築城した日本の城。有馬氏はのちに堀内氏によって滅ぼされる。堀内氏は豊臣秀吉に仕え、関ヶ原の戦いまで当地を治めた』とある滅ぼした堀内氏の一人であろうか。

「鬼が城」「選集」は「鬼ヶ島」とするが、底本及び「紀伊續風土記」に従う。前の大居に近い「鬼が城」とすると、三重県熊野市の「鬼ヶ城」しかない。前の大居の地図の右端に配した。しかし、この間は直線でも四十キロメートル弱離れる。山中に逃げ落ち延びた者をここで捕えて討ったものか? にしては、ちょっとおかしい感じがしなくもない。よく判らぬ。]

 〇血を吸わぬ蛭 鄕土硏究一卷十二號に、紀州日高郡上山路村殿原の谷口と云ふ小字の田中に晴明の社てふ小祠あり、此田に棲む蛭、大きさも形も尋常の蛭に異ならねど、血を吸はず醫療の爲捕へても益無しと書いたが(鄕硏一卷一二號七五二頁)、そればかりでは面白くない。昨年五月彼所から知人が來たので篤と尋ねると、晴明此處の蛭に血を吸はれ、怒つて其口を捻ぢた。それから一向血を吸はなくなつた。川一つ渡つてナガソウと云ふ小字には蛭頗る多く、至つて血を吸ふ力が强い故、醫用として多く捕らるゝと云ふ。又西牟婁郡旦來村の不動坂の邊に地藏菴あり。その地藏を念ずれば產安く、又村人祈願して蛭を調伏す。故に此邊の蛭人を螫さずと聞く。(大正五年二月鄕硏第三卷第十一號)

[やぶちゃん注:「鄕土硏究一卷十二號に、紀州日高郡上山路村殿原の谷口と云ふ小字の田中に晴明の社てふ小祠あり、此田に棲む蛭、大きさも形も尋常の蛭に異ならねど、血を吸はず醫療の爲捕へても益無しと書いた」先行する「七」の「〇又曰く溪流又池にも腹赤き「はへ」有り、……」の条の「日高郡上山路村殿原の谷口と云ふ字の田の中に晴明の社てふ小祠有り、此田に棲む蛭大さも形も尋常の蛭に異ならねど血を吸はず、醫療の爲捕へても益無し。莊子に、散木は斧伐を免ると云る類だ」とあるのを指す。

「彼所」「選集」に従うと、「そこ」。

「篤と」「とくと」。

「捻ぢた」「ねじた」。刎部を捩じったということのようである。「七」の「此田に棲む蛭大さも形も尋常の蛭に異ならねど血を吸はず」の注を見られたい。腑に落ちる謂いである。

「ナガソウ」「長澤」で「ながそう」と読む。「国土地理院図」で確認出来る。直近の東の丹生ノ川を渡った対岸の谷口の地名文字の直下に「安倍晴明社」がある。

「西牟婁郡旦來」(あつそ)「村」サイト「KEY SPOT」の「紀伊続風土記」の「牟婁郡」の「岩田郷」の「朝来村:紀伊続風土記(現代語訳)」に、「朝来村 あっそ」とあり、『田辺荘の新庄村からは戌の方』一里五『町の距離。熊野大辺路街道である。朝来は旦来と同じく古くはアサコと正しく唱えたのであろう』とある。国立国会図書館デジタルコレクションの先に示した活字原本のここである。則ち、ここは現在の西牟婁郡上富田町(かみとんだちょう)朝来(あっそ)である(グーグル・マップ・データ)。

「不動坂の邊に地藏菴あり」確認出来ない。]

 〇肉吸ひと云ふ鬼 紀州田邊町住前田安右衞門今年六十七歲、以前久しく十津川邊で郵便脚夫を勤めた。此人話しに、昔し東牟婁郡燒尾の源藏てふ高名の狩人が果無山を行くと狼來つて其袖を咬み引き留る。其時十八九の美しき娘ホーホー笑ひ乍ら來り近付き、源藏火を貸せといふ。必定妖恠と思ひ、止を得ずんば南無阿彌陀佛の彈丸で擊べしと思ふ内、何事も無く去る。然る時狼又其袖を咬み行べしと勸むる樣子に源藏安心して步み出した。其後又二丈程高き怪物に遇ひ、南無阿彌陀佛と彫付た丸で擊つと、大きな音して僵れたのを行て見れば白骨のみ殘り在たと。又廿五年前、前田氏、北山の葛川郵便局に勤め居た時、或脚夫木の本の附近寺垣内より笠捨てふ峠迄四里のウネ(東山の背)を夜行し來るに、後より十八九の若い美女ホーホー笑ひ乍ら來り近づく、脚夫は提燈と火繩持ち有た、其火繩を振つて打付ると女は後ろへ引返した。脚夫葛川の局へ來り、恐ろしければ此職永く罷むべしと云ふ故、給料を增し六角(六發の訛稱、拳銃の事)を携帶せしめて依然其職を勤め彼山を夜行したが一向異事無つた由。是は肉吸と云ふ妖恠で人に觸れば忽ち悉く其肉を吸取るとの事。熊楠曾て二十年前出たウヱルスか誰かの小說に、火星世界の住人此地球へ來り亂暴する體を述て、其人支體に章魚の吸盤如き器を具し、地上の人畜に觸て忽ち其體の要分を吸ひ奪ひ、何とも手に合ぬ筈の處ろ、彼世界に絕て無くて此世界に有餘つたバクテリアが、彼の妖人を犯して苦も無く仆し了ると有たと記臆するが、其外に類似の噺を聞た事無く、肉吸ひてふ名も例の吸血鬼抔と異り頗る奇拔な者と惟ふ。

   (大正七年二月人類第三十三卷二號)

[やぶちゃん注:実は以上の一条は私の偏奇趣味から、二〇一三年六月十一日に「選集」を底本に「肉吸いという鬼 南方熊楠」として電子化注してある。従ってまずはそちらを読んで戴くことにして、ここではそで注さなかった部分のみを追加して示すこととする。

「十津川」和歌山県と西と南で接する奈良県吉野郡十津川村(グーグル・マップ・データ)。

「東牟婁郡燒尾」(やけを)読みは「選集」を参考にした。戦前の地図をかなり念入りに調べたが、発見出来なかった。

「果無山」(はてなしやま)古い記事で注したが、「ひなたGPS」の旧地図で確認出来る

「引き留る」「選集」では『引き留める』。

「必定」「ひつぢやう」。

「妖恠」「妖怪」に同じ。

「擊べし」「うつべし」。

「行べし」「ゆくべし」。

「彫付た」「ゑりつけた」。

「丸」「たま」。

「僵れた」「たふれた」。

「行て」「選集」に倣うと、「いつて」。

「在た」「あつた」。

「廿五年前」本篇初出から機械換算すると、明治六(一八九三)年頃となる。

「北山の葛川郵便局」十津川村のこの附近に旧地名として散在する(グーグル・マップ・データ)。「ひなたGPS」の戦前の地図ではここに「上葛川」「下葛川」を確認出来る

「居た」「をつた」。

「木の本」(きのもと:地名と思われるが、確認出来ない)「の附近寺垣内」(てらかいと)「より笠捨」(かさすて)「てふ峠迄四里のウネ(東山の背)を夜行」(やこう)「し來るに」「ひなたGPS」で、上葛川の東北直近に「笠捨山」が、その右上のところの「寺垣内(カイト)」を確認出来た。「東山の背」は「東の山並みの背の尾根」の意か。笠捨山はそこに標高千三百五十二メートルとあるから、郵便配達といっても、これは殆んど登山と変わらぬ大変な仕事だ。

「有た」「あつた」。

「打付ると」「選集」に倣うなら、「うちつけると」。

「六角(六發の訛稱、拳銃の事)を携帶せしめて」実は永く郵便配達員には銃の所持が法的に許可されていたことは、今はあまり知られていない。ウィキの「郵便物保護銃規則」によれば、同『規則は、郵便物保護の為に郵便配達員に銃砲所持を認めたもの(日本)である』。明治六(一八七三)年に『「短銃取扱規則」により既に郵便配達員は拳銃』(六連発銃)『の携帯を許されていたが、多額の現金書留の需要が増えたため』、明治二〇(一八八七)年四月二十七日に制定されている。『法形式としては一般に公布する法令ではなく』、『逓信管理局長から各郵便局長への通達である。もちろん官報に掲載はなく、国立公文書館の保存文書も逓信省の関係ではなく』、『内務省へたまたまやりとりがあり』、『保存されていたものである』。『郵便物(現金書留など)に危害がある場合、正当防衛をするために郵便配達員に拳銃(郵便物保護銃)の所持が許されていた』。『明治政府は』明治四(一八七一)年から『新しい郵便制度を発足させたが、強盗被害が多かったことから』、二年後の明治六年に『「短銃取扱規則」で郵便配達員に銃を一丁だけ所持が認められた』。『さらに』、明治二十年には、『現金書留郵便の配達が増えたため、郵便物保護の』ための『銃の所持が認められた』。これは、第二次世界大戦後の昭和二四(一九四九)年六月一日、『逓信省が郵政省へ改変する際に廃止された』とある。

「彼山」「かのやま」。

「觸れば」「ふるれば」。

「二十年前出たウヱルスか誰かの小說に、火星世界の住人此地球へ來り亂暴する體」(てい)「を述」(のべ)「て、其人」(火星人を指す)「支體」(したい:体を支える脚部)「に章魚」(たこ)「の吸盤如き器」(き)「を具し、地上の人畜に觸」(ふれ)「て忽ち其體の要分を吸ひ奪ひ、何とも手に合」(あは)「ぬ筈の處」(とこ)「ろ、彼」(かの)「世界に絕」(たえ)「て無くて此世界に有餘」(ありあま)「つたバクテリアが、彼」(か)「の妖人」(ようじん)「を犯して苦も無く仆」(たふ)「し了」(をは)「ると有」(あつ)「たと記臆する」言わずもがな、イギリスの作家ハーバート・ジョージ・ウェルズ(Herbert George Wells 一八六六年~一九四六年)一八九八年(明治三十一年)に発表した火星人の襲来を描いたSF小説「宇宙戦争」(The War of the Worlds :「世界同士の戦争」)のこと。ウィキの「火星人」によれば、本作に『登場したタコのような火星人のイメージが世間に』定番的異星人像として『定着した。異常に発達した頭脳に対して四肢は退化しており、消化器官も退化していて動物の血液を直接摂取して栄養を得る。これらの特徴は、一応は火星の環境を考慮している。すなわち、重力が地球より小さいから体を支える構造が軟弱で、空気が薄いから空気を吸い込む部分が大きい。「トライポッド」』(「三本脚」の意)『と呼ばれる巨大戦闘機械によって地球上を蹂躙するが、地球の病原体に対して抵抗力を持たなかったために全滅する』とある。なお、「バクテリア」(bacteria)は一般には「細菌類」と訳されるが、元来は「微小なもの」の意であり、生物学的には「原核生物」を意味し、その場合、藍藻類(原核植物。比較的知られているものでは、アオコの類、例えば、クロレラ属 Chlorella など)も含まれる。このため、細菌類は「バクテリア」ではあるが、「バクテリア」は細菌類とは限らないので注意が必要である。

「吸血鬼」「選集」では『ヴアムパヤー』と振る。

「異り」「ことなり」。

「惟ふ」「おもふ」。]

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