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2022/07/26

曲亭馬琴「兎園小説別集」下巻 異年號辨

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの「新燕石十種」第四では本篇はここ。吉川弘文館随筆大成版で、誤字と判断されるものや、句読点(私が添えたものも含む)などを修正した。]

 

   ○異年號辨

西國三十三所巡社札【近江石山寺什物。京師角鹿氏の草本、耽奇漫錄中に載たり。】、

[やぶちゃん注:以下三行は囲み罫の内にある。]

  ――――――――――――――――――――

    甲州巨麻郡布施庄   小池圖書助

    西 國 三 十 三 所 巡 禮

    時彌勒二年丁卯吉日

  ――――――――――――――――――――

右石山寺巡社札は、已に穗積保の異年號考に載て云、文安四年の丁卯か、永祿十年の丁卯なるべし。圖書助といふ名、民間にはあるべからず。もしくは吉野の朝廷に仕奉りし人、流浪したるか。又足利の季世、天下大に亂れて、官家の人々諸國に緣をもとめて、流客となり給ひしこと多くありければ、京家の人の甲斐國に住したるならんか。永祿十年の丁卯ならば、武田家の侍の中に小池主計助【山縣衆。】、小池玄蕃など云人、甲陽軍鑑に見えたりといへり。美成按ずるに、此考、うけがたし。そのよしは彌勒二年丁卯は永正四年なり。その證を以ていはゞ、下總國小金本土寺過去帳に、日富彌勒元丙寅十一月十一日とあり。丙寅は永正三年なり。又甲斐國都留郡妙法寺舊記に、永正四年を彌勒二年としるしたり。此二書によりての案も、永祿にもあらざること分明なり。猶この外に、彌勒の年號記したるは、常陸國六段田村六地藏寺、惠繩諸草心車抄卷二の編首に、於田野不動院、玉幡之供養と題したる願文の末に、彌勒二年三月六日とありて、その次に、永正三年十一月の願文、同五年三月の諷誦文、同四年八月の願文等を載たれば、これも永正中の號なること知るべし。又享祿年中にも彌勒の號あり。陸奧國耶麻郡新宮の神器の銘に、會津新宮大勸進僧淨尊證一、地頭代左兵衞尉藤原知盛、小寺宮預り所代右兵衞少尉國村、彌勒元年辛卯二月二十二日とあり。これを會津舊事雜考に、承安元年辛卯とするは誤なり。享祿四年なり。さて此彌勒の號及この比なほ福德命祿等の號あり。これらみな關東にのみ行れて、關西にかつて記したるものあることを聞かず。その起る所を思ふに、當時兵革絕ずして、朝儀のあまねく行れざりし故にや。遠鄕僻地の法師などの所爲にて、かゝるよしなしごとを、みだりに作り設け、流傳せしものなるべし。

[やぶちゃん注:以下、最後まで、底本では全体が一字下げ。]

因に云、去年市行の假名世說といふ書は、もと蜀山翁の筆のすさみに記し置しを、門人文寶子の補ひて上梓せしなり。其書の予が序にも記しゝ如く、予が覺居たることも、くさぐさその料にとて記し贈れり。原本に此彌勒の年號のこといさゝかありければ、永正中にもさる號ありとて、予が僞年號の事、これかれ考しるし置たりしものを見せ侍りしに、やがて抄して補の料に充らるゝことに、未定の稿本といひ自記ならねば、思ひたらはぬことなきにあらねど、いかゞはせん。このひとくだりは、えうなき贅言なれど、已に上木の書なるをもてこゝにしるす。

[やぶちゃん注:「石山寺」(いしやまでら)は滋賀県大津市石山寺にある東寺真言宗大本山石光山(せっこうざん)石山寺(グーグル・マップ・データ。以下、指示なしは同じ)。西国三十三所第十三番札所。天平勝宝元(七四九)年に聖武天皇の勅願により、良弁(ろうべん)が開創。東大寺大仏の鋳造・荘厳(しょうごん)のため、諸国に黄金を求めた際、勅を受けた良弁が、この石山の地の岩の上に天皇御持仏であった如意輪観音像を安置して草庵を結んで祈願したところ、間も無く陸奥国からの黄金献上という奇瑞を得、この地に寺を開いたと伝える。

「角鹿氏」旧角鹿国(越前国の南部)を支配した角鹿国造がいるので、読みは「つぬが」或いは「つのが」か。而して、その末裔(を名乗る者)か。

「摹本」(もほん)。「模本」に同じ。写本・写し。

「耽奇漫錄中に載」(のせ)「たり」「兎園小説」と並行して、山崎美成(本篇を書いている時には馬琴は既に絶交している。絶交する前後の彼の考証をちゃんと載せているのは、考証家として節を守って、まことに律儀ではある)・屋代弘賢が中心なって同時的(会員も多く重複する)に行っていた、好古好事の者の会合「耽奇会」を開催し、持ち寄った古書画や古器財などの図を考説したもので、美成序・跋本の二十巻本の他、馬琴序の五巻本がある。文政七(一八二四)年から翌年にかけて成立。国立国会図書館デジタルコレクションの二十巻本を調べたところ、第十四集(文政八年乙酉(一八二五年)五月十三日発会)の目次では、「弥勒年号巡禮札」とあ「青李菴」の発表とする。但し、当該パート(三品を挙げる)本文末には「平安 角鹿青李菴藏」(但し、角鹿の附記に彼の友人が現地にあるそれを写したものとする)とある後に「著作堂客品」とある(「著作堂」は馬琴の別号。本「兎園小説」シリーズでは本名の「解(とく)」以外では、これを使う)ので、馬琴が角鹿氏に代わって発表したもので(だから「客品」と表示している。正編の「兎園小説」でもしばしばあった)、この巡礼札の写し自体(角鹿が再模写したものであろう)も馬琴が所持していることが判る。幸い、我々は国立国会図書館デジタルコレクションでカラー画像の二十巻を視認することが出来る。ここと、ここが当該部(本図が写しが縦に長いため、原本自体が札の下半分が貼り付け・折り込みとなっているため、開閉写真で二コマを食っている)である。それぞれの画像をダウン・ロードして、トリミング合成して一ページ分にしたものを以下に示す。

 

Tankimanrokuzu

 

[やぶちゃん注:キャプションは、標題が(カタカナをひらがなに代え、句読点を加えた)、

西国三拾三所巡禮札【木の厚さ、六、七分。表黒塗、裏は木地なり。○ノ所はくり方あり、金入也。文字、金。】。

とある。○印の箇所は丸く刻み(刳り抜きではなく、浅く上を彫ったものであろう)が入っていて、そこに金箔を張り込んであるというのであろう。以下札の上から下方へ、

(左)此間七分。

(中央右寄り)此所、ほり、くぼめたり。

(中央右)此間七分。

(見開き下方)

 甲刕巨麻郡布施庄 小池啚書助

西国三拾三所順礼※

 旹弥勒二年丁卯六月吉日

この「※」は御覧の通りの異体字(「晋」の六画目を外して下に「王」を接合した字)で表示出来ない。思うに、「札」の同義の訓の「票」の変字であろうかと思われる。「旹」は「時」は異体字。ちょっとびっくりなのは、「国」「順礼」であることである。次の丁に解説がある。一部に濁点を附した。図形が入る部分は国立国会図書館デジタルコレクションの画像からトリミングした。

   *

四十餘年前、天明年中、江州石山寺、本堂修復普請の時、堂に棟より、出たるなり。弥勒の年号、いかゞ。諸君、定めて考あるべし。しらまほしくてぞ侍れ。

 曲亭、按ずるに、上の

Horikomi

 彫くぼめたる處は、観音の像をほりて、

 別に附したるなり。或は、画像を貼ぜし

 なるべきを、その仏像は、うせて、跡の

 み殘れるなるならし。

   *

「甲州巨麻郡布施庄」ウィキの「布施荘」によれば、甲斐国巨麻郡(現在の山梨県中央市布施)付近に位置した布施荘(ふせのしょう)は、十一世紀成立した摂関家領の荘園名。詳しくはリンク先を読まれたい。

「小池圖書助」不詳。「圖書助(づしよのすけ/ふみのすけ)」は正式には図書寮の次官で、正六位下相当官。

「彌勒」無論、こんな年号はない。こういうものを「私年号」(しねんごう)或いは「異年号」「偽年号」「僭年号」「窃年号」等と呼ぶ。当該ウィキによれば、『紀年法として元号を用いた東アジアにおいて、安定した統治能力を確立した王朝が定めた元号(公年号)以外の年号を指す』。『主として当時の王朝に対する反乱勢力や批判勢力によって使用されたものが多く、使用期間は概して短い。日本では、正史には記載されていないものの、天皇が定めたものとして後世の史書に記載があったり、考古資料に使用例が見られたりする古代の年号を逸年号』『と呼び、これに含める場合がある。なお、「私年号」を当時の王朝に対する対抗的性格の薄いものと定義し、明確な覇者的意志をもって建てられる「偽年号」「僭(窃)年号」などとは区別する場合もある』とあり、以下の「日本の私年号」の「中世後期」の項に、『室町幕府による分権体制への移行は地方の自立化を促したが、一部勢力の間では』、『反幕意識を表明するために私年号が使用されたこともあった。具体的には』、「禁闕の変」(嘉吉三(一四四三)年九月二十三日の夜に京で起こった後花園天皇の禁闕(皇居内裏)への襲撃事件。南朝復興を唱える勢力が御所に乱入、三種の神器のうち天叢雲剣と璽(じ:八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま))の二つを奪い、比叡山へ逃れたが、二十六日までに鎮圧された。幕府は宝剣の奪還には成功したが、神璽はそのまま奪い去られ、十五年後の長禄二(一四五八)年にやっと戻っている)の『後に近畿南部の南朝遺臣』『が使用したという「天靖」「明応」』、「永享の乱」(永享一〇(一四三八)年に坂東で発生した戦乱。鎌倉公方足利持氏と関東管領上杉憲実の対立に端を発し、室町幕府六代将軍足利義教が持氏討伐を命じた戦い)で『敗死した鎌倉公方足利持氏の子』『成氏』(しげうじ)『を支持する人々が使用した「享正」「延徳」などが』、『その例である。ところが』、十五『世紀末以降の戦国期に発生した私年号は、依然として戦国大名の抗争の中にありながら、従来の私年号とは性格を大きく異にしていることが指摘できる。すなわち、「福徳」「弥勒」』(☜)『「宝寿」「命禄」などは、弥勒や福神の信仰に頼って天災・飢饉などの災厄から逃れようとする願望の所産であって、単なる政治的な不満と反抗を理由に公年号の使用を拒否していた訳ではない。しかも、これらの私年号の多くは甲斐国(山梨県)から発生し』(☜)、『寺社巡礼の流行に乗じて中部地方・東北地方に伝播したとみられ、現在東国の広い地域に残る板碑・過去帳・巡礼札』(☜)『などの中にその実例を確認し得る。こうした事態の背景には、幕府と鎌倉公方との対立による改元伝達ルートの乱れや途絶があったに相違なく、その意味において、広範囲に通用した私年号は中世後期東国の歴史的所産と呼べるものであろう』とある。

「丁卯」「ていばう(ていぼう)」或いは「ひのとう」。

「穗積保の異年號考」穗積保(ほづみたもつ 延享元(一七四四)年~文化九(一八一二)年)は江戸中・後期の越後高田藩士で国学者であった鈴木一保(かずやす)の筆名。有職故実・本草学などに精通し、後に江戸詰家老となり、かの蘭学者大槻玄沢らと交わった。「頸城郡古物図考」のほか、「熊胆真偽弁」等を著した。彼の「異年號考」は文化元(一八〇四)年の序に、同五年の跋を持つ。「日文研」の「古事類苑データベース」の「歳時部四」の「年號下」の「逸年號」(第 一 巻三百六十九頁)のこちらの電子化にある。「逸年號考」というのは「増補逸号年表」(藤貞幹纂・中山信名補)で後代にこうした私年号を集成したもの(早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこれ)。後に続く「僞年號考」(前と同じもの)とともに以下に引く。正字不全があるので、原本画像を見て修正した。記号も一部を訂した。

   *

〔逸年號考〕

彌勒二年丁卯〈下總國野田里土中所堀出尼妙心墓碑銘、近江國石山寺順禮版、甲斐妙法寺記、〉順禮版に、甲州巨摩郡布施庄小池圖書助、西國卅三所順禮聖山旨、彌勒二年丁卯六月吉日〈此札は銅の板に彫付たるものにして、石山密藏院僧正摹搨して所ㇾ賜なり、此外に明應天文年中の札若干枚ありとぞ、〉とあり、穗積保云、前條に記せる彌勒元年辛卯と、此二年丁卯と支干相違したれば、同時にてはあるべからず、文安四年の丁卯か、永祿十年の丁卯なるべし、圖書助と云名民間にはあるべからず、もしくは吉野の朝廷に仕奉し人の流浪なしたるか、又は足利の季世は天下大に亂れて、官家の人々諸國に緣を求め流客となり玉ひし事多くありければ、若くは京家の人の甲斐國に住したるならんか、永祿十年の丁卯ならば、武田家の侍の中に小池主計助〈山縣衆〉小池玄蕃など云人あり、〈甲陽軍鑑にみえたり〉此氏族の中にて隱遁したる人にもあらんか、或人云、關東邊の古刹過去帳に、彌勒の年號ありと云ふ、寺號詳ならず、追て尋糺すべし、參河萬歲の詞に、彌勒十年酉の年と云事を歌ふと聞り、これらも何ぞ據あるべし、後考を俟と云り、

 

〔僞年號考〕

常陸國六段田村六地藏寺惠範諸草心車鈔卷二の篇、是に於田野不動院玉幡之供卷と題せる願文の末に、彌勒○○二年二月六日とあり、永正三年十一月の願文、同五年三月の諷誦文、同四年八月の願文等を載たり、因て永正中にこの號ありしをしれり、さて永正の何年にこの號ありしと考るに、本土寺過去帳に、日富彌勒元丙寅十一月とあり、丙寅は永正三年也、さらば是年始めてこの號ありて、四年丁卯まで彌勒の號ありしと見へたり、一說に、丁卯元年に作るものあり、本土寺過去帳に、妙春彌勒元丁卯十一月とあり、自相齟齬せり、恐らくは是にあらず、こヽの元丁卯は二丁卯の誤と見えたり、鹿島の社家禰宜が家にも、彌勒の號を用ひたる神符ありし由なれど、近年燒失せしと言へり、又今の世に萬歲丸が、美祿十年辰の歲と言へる事をうたへるは、陰陽者流の說に出たる物にて、こヽの彌勒と音同じけれども、其義は同じからず、會津舊事雜考に、耶麻郡新宮の神符の銘二ッを載す、其一に、會津新宮大勸進僧淨尊證一、地頭代左兵衞少尉荻原知成、〈◯成、本書作ㇾ盛、〉小寺宮預所代右兵衞少尉平國村、彌勒元辛卯二月二十二日とあり、其二に、大勸進僧淨尊、橫三郞、壬生廣末、會津新宮、彌勒元辛卯二月廿二日とありて、辛卯は享祿四年也、永正中彌勒の號ありしを、こゝに至りて更にその號を用ひしものと見ゆれど、この度は廣く行はれざりしにや、他書に於て見る所なし、

             

「文安四年の丁卯」一四四七年。天皇は後花園天皇、室町幕府将軍は空位。

「永祿十年の丁卯」一五六七年。天皇は正親町天皇、室町幕府将軍は足利義昭。

「流客」「りゆうかく」と読んでおく。志し半ばにして流浪の身となった人。

「山縣衆」山縣昌景(やまがたまさかげ 永正一二(一五一五)年又は享禄二(一五二九)年~天正三(一五七五)年:戦国から安土桃山にかけての甲斐武田氏の家臣で、譜代家老衆。後代には「武田四天王」の一人に数えられる)を始祖とする家臣団。

「小池玄蕃」詳細事績不詳。

「甲陽軍鑑」江戸初期に集成された軍学書。全二十巻。甲斐の武田晴信・勝頼二代の事績によって、甲州流軍法や武士道を説いたもの。異本が多く、作者は諸説あるが、武田家の老臣高坂弾正昌信の遺記を元に、春日惣二郎・小幡下野(おばたしもつけ)が書き継ぎ、小幡景憲が集大成したと見られている。現存する最古の板本は明暦二(一六五六)年のもの。

「永正四年」一五〇七年。天皇は後柏原天皇、室町幕府将軍は足利義澄。

「下總國小金本土寺」千葉県松戸市平賀にある日蓮宗長谷山(ちょうこくざん)本土寺(ほんどじ)。

「日富」「ひとみ」で姓か。

「丙寅」「ひのえとら」或いは「へいいん」。

「甲斐國都留郡妙法寺舊記」「妙法寺」は現在の山梨県南都留郡富士河口湖町(ふじかわぐちこまち)小立(こだち)にある法華宗本門流蓮華山妙法寺にあるの寺院。戦国時代の記録である「妙法寺記」(別名「勝山記」(かつやまき)。甲斐国の河口湖地方を中心とした富士山北麓地域の年代記。詳しくは当該ウィキを参照されたい)で知られ、これもそれと考えてよい。

「案」「あん」と読むしかない。考えること。

「常陸國六段田村六地藏寺」現在の茨城県水戸市六反田町(ろくたんだよう)にある真言宗豊山派倶胝密山聖寶院六地蔵寺(ぐていみつざんしょうほういんろくじぞうじ)。 古くから安産・子育ての霊場として知られ、「水戸大師」とも呼ばれる古刹。

「惠範」「諸草心車抄」同寺の公式サイト内のこちらに、室町後期の六地蔵寺第三世『恵範上人が西国の諸大寺へ遊学し、経典の収集・書写に努めた事により、本寺は檀林となり、多くの著名な学僧・修行僧を輩出』したとあり、「J-Stage」のこちらにある中野達慧氏の論文「江都督願文集と惠範大徳の學系に就て」(『密教研究』一九三〇年第三七号)に、彼は明応六年三十六歳の時に「倶舎論頌疏心車抄」十七巻(此内五巻だけは万治三(一六六〇)年九月に板行している。第四代将軍徳川家綱の治世)を、天文元(一七三六)年(吉宗の治世)七十一歳で同「心車再記」五巻を著わしたほか、「論名目心車」・「倶舎六十四轉劫」等が現存しているとあるので、これは、「倶舎論」の論考書であることが判る。

「於田野不動院、玉幡之供養」「田野の不動院に於いて、玉幡の供養す。」。この「不動院」現在の水戸市田野町(たのちょう)本郷屋敷にある真言宗豊山派の不動院。但し、現在は不動尊堂があるだけで、共同墓地のようである。「玉幡」は「ぎよくばん」で、宝玉で装飾した幡(はた:旗)。

「諷誦文」「ふじゅもん」或いは「ふうじゅもん」で、死者の追善供養のために「三宝衆僧に布施する」の意や、「施物のことや、その趣旨などを記して捧げる文章。施主の代わりに僧が代わって読むもので、法会の導師が読むのを例とした。平安時代以来の風習。

「享祿年中」一五二八年から一五三二年まで。天皇は後奈良天皇、室町幕府将軍は足利義晴。

「陸奧國耶麻郡新宮」地名。現在の福島県喜多方市慶徳町(けいとくまち)新宮(しんぐう)。会津盆地の北西部に位置し、南北朝から室町にかけて耶麻(やま)郡新宮荘を支配した新宮氏の城館跡。会津領有を命じられた佐原十郎義連の孫で、新宮六郎左衛門時連が築いたとされる。ここには新宮熊野神社があり、この神社は天喜三(一〇五五)年に陸奥守であった源頼義が勧請したとされる、平安末期に建てられた寝殿造で、その長床(ながどこ:拝殿の固有名)は国重要文化財に指定されている。

「淨尊證一」不詳だが、先の引用した「僞年號考」に以下が出る。以下の二人も不詳。

「會津舊事雜考」会津藩初代藩主で徳川家康の孫である保科正之の命で、漢学者・歴史家で、保科家陪臣の向井吉重(寛永三(一六二六)年~元禄七(一六九四)年編した会津史料。寛文一二(一六七三)年六月に成立(この年の十二月に正之は没している)。

「承安」(じやうあん)「元年辛卯」一一七一年。天皇は高倉天皇だが、この年に平清盛の娘徳子が後白河法皇の猶子となって入内しており、実質的に清盛の全盛期である。

 

「享祿四年」一五三一年。

「この比」「このころ」。

「福德」室町時代に関東を中心とする東日本で主に使用された私年号。一四九〇年を元年とする史料が多いが、一四八九年・一四九一年・一四九二年を元年とする史料も存在している(当該ウィキに拠った)。

「命祿」平凡社「世界大百科事典」の「異年号」には「命禄」に西暦一五四〇年を当てている。天文九年で、天皇は後奈良天皇。室町幕府将軍は足利義晴。

「去年市行の假名世說」(かなせせつ)は馬琴の言うように、大田蜀山人南畝(文政六(一八二三)年没)の随筆。文政八年に次に注した文宝亭文宝が補輯して板行した。従って、この最後の馬琴の記事は文政九(一八二六)年に記されていることが判る。

「門人文寶子」(ぶんぽうし)は狂歌師文宝亭文宝(ぶんぽうていぶんぽう 明和五(一七六八)年~文政一二(一八二九)年)。江戸飯田町の茶商。大田南畝に書と狂歌を学び、二代目蜀山人を名乗った。「兎園会」会員の常連で、馬琴とも親しかった。

「原本に此彌勒の年號のこといさゝかあり」「日本古典籍ビューア」のここで原本の当該部が読める(頭書の右丁の方の「言語補」の条)。以下に起こす。句読点は所持する吉川弘文館随筆大成版を参考にした。

   *

永正中に、弥勒の号あり。凡て、二年を經たり。常陸國六段田村六地藏寺惠範が、諸草心車抄卷二の篇首に於田野不動院玉幡之供養と題せる願文の末に、彌勒二年三月六日とあり。其次に永正三年十一月の願文、同五年三月の願文の諷誦文、同四年八月の願文等を載たり。よつて永正中に此号有しをしれり。さて、永正の何年にて号ありしと考るに、本土寺過去帳に、日冨弥勒元丙寅十一月十一日とあり。丙寅は永正三年なり。さらば、このとし、始て此号ありて、四年丁卯まで、弥勒の号ありしと見えたり。自相[やぶちゃん注:「おのづからあひ」。]齟齬せり。恐らくは是にあらず。こゝの丁卯は、二丁卯の誤とみえたり。鹿嶋の社家、枝家、禰宜が家にも、弥勒の号を用ひたる神符ありし由なれど、近年燒失せしといへり。又今の世に、万歳が美祿十年辰の年といへることをうたへるも、これらの事を考れば、其出所なきにしもあらず。されども、万歳のうたへるは、陰陽家の說より出たるものなるべし。

   *

「思ひたらはぬことなきにあらねど」満足出来ない部分がないわけではないが。]

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