曲亭馬琴「兎園小説別集」下巻 追記異聞淸國荒飢亂
[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの「新燕石十種」第四では本篇はここから。同書の「目錄」では、前の「墨水賞月詩歌」に割注で「追記淸國荒飢亂」としてセットになっているが、要は紙が余ったので、ここの挿入しただけで、何の関係もない。吉川弘文館随筆大成版で、誤字と判断されるものや、句読点(私が添えたものも含む)などを修正した。]
追記異聞淸國荒飢亂
去年來、唐國諸省洪水にて米穀不ㇾ熟、餓死の者多く、困窮に堪かね候處、去冬十一月比、河南の富家趙金龍と申者、米穀其外柴薪等迄、夫々施し救ひ、諸民安堵仕候處、知縣官所より、右可ㇾ施品々を官所ヘ指出し、官所より土民へ配當可ㇾ致、其義難ㇾ成候はゞ、官府へ相當の挨拶、賄賂を出し候樣との沙汰により、自身貯置候米穀を以、諸民を救ひ候儀にて、官府へ賄賂差出候わけ無ㇾ之趣相答候處、兩條共辭退いたし候者、疑しきよしにて入牢を申付候故、諸民、恨を生じ一揆を企、知縣を殺害し、牢屋を毀ち、金龍を救ひ出て騷動に及び、遂に河南の總兵幷に遊擊と申武官、軍勢を押出して征伐あり。此以前、趙金龍の妹趙金鳳を娶り候洞住居の猺人共、土民を救ひ、右之一揆に與し、官軍と戰ひ、河南の總兵幷に遊擊も、仙洞にて猺人の爲に討死し、官軍敗走に及び候。此山は四川廣東廣西河南の四省に通じ、猺人共居住仕候洞御座候。此節金龍の子は虜に成候由。又金龍の弟金虎が虜に成候と申噂、兩說に御座候。其後北京より英和と申大將、精兵十萬を領し、河南へ出陣有ㇾ之趣、當節出船の砌、專ら風聞仕候。
一、當節、江南省の内、上海と申所え、イギリス船一艘着船いたし、唐國通商相願候へ共、許容無ㇾ之。其以前、福建の沖へも繫り、商賣願いだし、夫より寧波えも船寄せ、願書差出し候へ共、何方にても許容無ㇾ之。此節は上海の沖手へ繫り居候故、海邊、武備嚴重にて、手當有ㇾ之。土民の經營は何の構も無ㇾ之。只、武官の備る而已に御座候。【此下ヰンギリス願出の譯文あり。略ㇾ之。】
右之通、此度御書上に成候に付差上候。私、唐人に出會候節、直に右の趣承り候處、當三月初旬、官軍大將、遊擊、謀に落入、敵地にて討死いたし、夫より四月、北京より大將十萬騎にて向ひ申候。いづれ、五月中、出立に相成申、北京より人數罷越候はゞ、程なく靜謐に相成可ㇾ申候よし申聞候。
一、北京より乍浦え、日本里數、六、七百里も有ㇾ之、あらまし、唐人に承り候。里數左の通り。
[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像よりトリミング補正した。キャプションは、時計回りに十二時位置から、
順天府
北京
北
↓
六↓
七
百↓
里
程↓
↓
東
⤵
乍浦
五 ↓
百 上海
里 ↙
程 寧波
↙
福建
↙
南
廣東郡
↓
廣↓百
東↓五
↓十
↓里
↓程
↓
(山洞)[やぶちゃん注:丸印内にあるのを、丸括弧とした。]
四川 西
↓
河↓二
南↓百
↓里
河↓程
北↓
↓
北[やぶちゃん注:最初の十二時位置に戻る。]
とある。本文にある通り、「里」は本邦の里程である。但し、この数字は信用出来ない。例えば、北京と乍浦間は直線で千百十三キロメートルあり、実測を凡そ倍換算としても二千キロ余りだが、六百里は二千三百六十六、七百里二千七百四十九キロメートルとなる。一方で、四川から北京は「二百里」で七百八十五キロメートルしかないが、直線距離でも現在の首都成都からは千五百キロメートル、四川省の東端から計測しても、千キロを有意に越える。]
山洞と申所は、日本にて申さば、肥後國五ケ村米良とも可ㇾ申處に御座候。官府に貢物も差出不ㇾ申、洞に一箇の王のごとく、日本にて、凡、九州程も廣く領し居候。趙金龍は其大將方に緣組致し候と覺申候故、殊之外の大勢にて候よし、其上、河南省の一揆を合せ、何れ只事不ㇾ成候。
知縣官所と申は、所の代官の事なり。山洞は所の名也。四川省、廣東省、廣西省、河南省と申は、唐國は十八省と申て、唐を十八に割て、一つを一省と申、其省の内に、國郡城奉行所有ㇾ之候。【天和三壬辰八朔、宇都宮藤河合生、この(マヽ)外を懷にし來て、こは同僚何がしが見させたるを借謄したり。本文に歲月を記さゞれば、何の時ともわきまへがたし。鑑定を願ふ、といへり。予は云、こは本朝天明荒餓の比の事なるべし。當時唐山も荒飢にて、一揆起りし事は予も傳聞たり。大かたその折の事にて、昨今の事にはあらじと答たりき。則、この處に餘紙あるを以て、錄して後考に備ふ。追考、この兵亂は、去年淸の道光辛卯年の事也。長崎奉行より風聞言上の進達書の趣は、かくまで大造なる事にてはあらずといへり。未詳。なほたづぬべし。】
[やぶちゃん注:これは、そのままでもかなり読み易く、面白い。しかもこれは、清の行った少数民族弾圧史の中でも少数民族ヤオ族の起こした反乱「瑤民(ようみん)の乱」の記載である。瑤民(ヤオ族)は中国の南西部に住むミヤオ (苗) 族の一支族で、中華人民共和国成立以前では「瑤族」とも記される。清朝の改土帰流政策(中国の西南地方に住む諸少数民族に対する元代から始まった中国化政策。「改土帰流」とは土司・土官を改めて流官(中央政府任命の地方官)にするという意)にも山岳地帯に住む瑤民は従わず、漢人は瑤民の無知をよいことに、彼らを欺き、官吏も瑤民の訴えを無視した。そのため、道光朝の初め、巫鬼で衆望を集めていた湖南省永州の趙金龍と、常寧の趙福才が、道光十一年 (一八三一年。本邦では文政十三年年末から天保二年年末に相当する)に反乱を起し、彼らを虐待していた天地会の会党や地方官を襲撃、これに呼応して広西省賀県で盤均華が,広東省北西辺で趙仔青の軍も反乱した。清朝は総督の盧坤,提督羅思挙らに命じて同十二年四月にこれを討伐、残存勢力も同年中に平定された。清朝は瑤民に対して懐柔政策を続けたが、この後も小規模な反乱はしばしば繰返された(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)、とある。さて、最後に馬琴は「道光辛卯年」と言っているのが、まさに道光十一年(一八三一)年なのである。そして、なかなかよく判らなかった、この「兎園小説別集」の成立時期が、この最後の「この兵亂は、去年」(☜)「淸の道光辛卯年の事也」の一節から、私が漠然と想像していた文政最後の文政十三年よりも前ではなく、その後と推定出来ることになるからである。何故なら、一八三一年は文政十三年では陰暦十一月十八日から十二月九日までの僅か二十二日で、天保元年は陰暦十二月十日から天保二年十一月二十九日までが一八三一年で、有意に長いからである。則ち、本「別集」の成立は天保元年或いは同二年と推定できることになるのである。【2022年7月29日追記】後の本「別集」の最後から二つ目の「船山の船石」の最後に「壬辰」のクレジットがあった。これは天保三(一八三二)年であった。
「去冬」「いんぬるふゆ」。
「河南」河南省(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。
「無ㇾ之趣」「これなきのおもむき」。
「候者」「さふらえば」。
「恨」「うらみ」。
「企」「くはだて」。
「毀ち」「こぼち」。
「出て」「いだして」。
「遊擊と申武官」「『いうげき』とまをす『ぶかん』」。この「遊擊」というのは、清国の正規の軍隊ではなく、清国が、古くに武将の一族であった者や、民間人に与えた、非正規軍属(傭兵)の集団・部隊を指すようである。ウィキの「明清交替」の中に、清朝の前身である『後金が新たに支配した地域は漢人の社会であり、ヌルハチは漢人の武臣や商人に遊撃』(☜)『と都司の職を与えて行政を任せた』とあることからも、そう推定出来る。
「洞住居の猺人」中文ウィキのヤオ族のページ「瑶族」を見ると、漢字表記に「猺族」があるので、同一であることが判った。そしてヤオ族はもともと山地に住むことから、或いは、古くは一部は山の洞窟などに集団で居住していた可能性は高いから(そうした洞窟に住居を構える中国の少数民族は現在も存在する)、この「洞住居」も腑に落ちるのである。
「與し」「くみし」。
「仙洞」不詳。以下に「此山は四川廣東廣西河南の四省に通じ」とあるからには、中国の長江中流域に近い山でないとおかしいが、判らぬ。或いは、後に出る「山洞」と同じではないか? と勘繰りたくなる(「山洞」も広域地方名ながら、判らぬのだが、そもそもが、この「四川」・「廣東」・「廣西」・「河南」とあるのは、現在の省名と比しても、全部が中抜け状態で、よう判らんのじゃて!
「精兵」「せいびやう」。
「砌」「みぎり」。
「繫り」「かかり」。錨を下ろして停泊し。
「商賣願いだし」「しやうばいねがひ、いだし」。
「何方」「いづかた」。
「備る」「そなふる」。
「而已」「のみ」。
「直に」「ぢきに」。
「謀」「はかりごと」
「落入」「おちいり」。
「出立」「しゆつたつ」。
「乍浦」(さほ)は現在の浙江省嘉興市平湖市乍浦鎮。当該ウィキによれば、『杭州湾北岸の、水深の深い波止場として唐代から知られていた』。『明代には、倭寇の襲撃を受けたことがしばしば記録されており、港湾として一定の重要性をもっていたことが示唆されている』。『清代には、広範囲に運河網が整備されて杭州とも運河で結ばれ、この地域の重要な港湾となった』。『清代の海禁政策によって、当地の商人たちは、李氏朝鮮や江戸時代の日本との貿易を独占していた』とある。
「山洞」不詳。図では頭に「四川」とある。現在の四川省内にあると考えてよい。
「肥後國五ケ村米良」宮崎県児湯(こゆ)郡西米良村(にしめらそん)や、その東の熊本県内の山間部などをも含む古い広域地名。
「何れ只事不ㇾ成候」「いづれ、ただごとならざるさふらふ」。
「唐國」(からくに/たうこく)「は十八省と申」(まをし)「て、唐」(もろこし)「を十八に割」(わかち)「て」清代に配置された行政地域区画としての「十八省」はウィキの「中国本土」を見られたい。清末には五省が追加されている。
「國郡城奉行所」「こく・ぐん・じやう」の「ぶぎやしよ」。
「天和三壬辰八朔」天和三年は一六八三年だが、干支が誤っている。「癸亥」である。徳川綱吉の治世で、えらく前の話で、おかしい。文書も底本にママ注記がある通り、変であるし、干支を間違えている記事は資料価値が甚だ低い。
「宇都宮藤河合生」「宇都宮」と「藤河」という「合生」(「二人の書生」)の意か。或いは「合生」は姓で「あひおひ」か。
「借謄」「しやくとう」。原本を元に写すこと。
「何の」「いつの」。
「天明荒餓の比」「天明の大飢饉」は広義には、天明二(一七八二)年から天明八(一七八八)年を本格的な発生と終息を含む最終期とする。無論、この最初の馬琴の推定は大外れである。
「傳聞たり」「つたへききたり」。
「言上」「ごんじやう」。
「大造」「たいさう」。]
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