杉田久女 日本新名勝俳句入選句 (久女には珍しい名句「谺して山ほととぎすほしいまま」の自句自解)
[やぶちゃん注:久女には極めて珍しい自句自解である。しかも、リアリズムに富み、この手の俳人の自解にありがちな、言いわけめいた誇大表現もなく、非常にさわやかなものとなっていて、まことに好ましい。発表は昭和六(一九三一)年だが、底本(後述)では、掲載誌の記載がない。この久女を代表する名句は、この年の四月に、『東京日日新聞』・『大阪毎日新聞』主催の「新名勝俳句」に入選句である。底本年譜によれば、『山岳の部英彦山』(ひこさん)『で帝国風景院賞句二十句中の金賞』で、他に、
橡(とち)の實のつぶて颪(おろし)や豐前坊(ぶえんばう)
の句が銀賞となり、トップを独占した形となったのであった。当時、久女は満四十歳であった。或いは、受賞した際に主催者から感想を求められて書かれたもののようにも見える。因みに、以上の二句を含む「英彦山」での六句については、「杉田久女句集 255 花衣 ⅩⅩⅢ 谺して山ほととぎすほしいまゝ 以下、英彦山 六句」でオリジナル注を附してあるので参照されたい。
底本は一九八九年立風書房刊「杉田久女全集第二巻」を用いたが、幸いにも本文は歴史的仮名遣が採用されていることから、恣意的に私の判断で多くの漢字を正字化した。そうすることが、敗戦前までが俳人としての活動期であった彼女の本来の表現原形に近づくと考えるからである。冒頭の句の前後を一行空けた。
最後に注を附した。]
日本新名勝俳句入選句
英彥山
谺して山ほととぎすほしいまま 久 女
昨夏英彥山に滯在中の事でした。
宿の子供達がお山へお詣りするといふので私もついてまゐりました。行者堂の淸水をくんで、絕頂近く杉の木立をたどる時、とつぜんに何ともいへぬ美しいひゞきをもつた大きな聲が、木立のむかうの谷まからきこえて來ました。それは單なる聲といふよりも、英彥山そのものゝ山の精の聲でした。短いながら妙なる抑揚をもつて切々と私の魂を深く强くうちゆるがして、いく度もいく度も谺しつゝ聲は次第に遠ざかつて、ぱつたり絕えてしまひました。
時鳥! 時鳥! かう子供らは口々に申します。
私の魂は何ともいへぬ興奮に、耳は今の聲にみち、もう一度ぜひその雄大なしかも幽玄な聲をきゝたいといふねがひでいつぱいでした。けれども下山の時にも時鳥は二度ときく事が出來ないで、その妙音ばかりが久しい間私の耳にこびりついてゐました。私はその印象のまゝを手帳にかきつけておきました。
其後、九月の末頃再登攀の時でした。いつもの樣にたつたひとりで山頂に佇んで、四方の山容を見渡してゐますと、七人ばかりのお若い男の方ばかりが上つてきて私の床几の橫にこしをかけて、あれが雲仙だ、阿蘇だとしきりに眺めてゐられます。きいて見るとその人々は日田の方達で、その中に俳人もあり、私が小倉のものだと申すと、「では久女さんではありませんか」と云はれました。そんな話をし乍ら六助餠をたべてゐます折から、再び足下の谷でいつかの聞きおぼえある雄大な時鳥の聲がさかんにきこえはじめました。
靑葉につゝまれた三山の谷の深い傾斜を私はじつと見下ろして、あの特色のある音律に心ゆく迄耳をかたむけつゝ、いつか句帳にしるしてあつたほととぎすの句を、も一度心の中にくりかへし考へて見ました。ほととぎすはをしみなく、ほしいまゝに、谷から谷へとないてゐます。じつに自由に。高らかにこだまして。
その聲は從來歌や詩によまれた樣な悲しみとか、血をはくとかいふ女性的な線のほそいめめしい感傷的な聲ではなく、北嶽の嶮にこだましてじつになだらかに。じつに悠々と又、切々と、自由に――。
英彥山の絕頂に佇んで全九州の名山をことごとく一望にをさめうる喜びと共に、あの足下のほととぎすの音は、いつ迄も私の耳朶にのこつてゐます。
[やぶちゃん注:「谺」「こだま」。
「ほととぎす」「時鳥」カッコウ目カッコウ科カッコウ属ホトトギス Cuculus poliocephalus 。博物誌は私の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 杜鵑(ほととぎす)」を参照されたい。
「英彥山」福岡県田川郡添田町と大分県中津市山国町に跨る山で標高は一一九九メートル。日本三大修験山の一つに数えられ、また、耶馬(やば)日田(ひた)英彦山国定公園の一部を成す。ここ(グーグル・マップ・データ。以下、支持なしのリンクのみは同じ)。詳しくは、「杉田久女句集 255 花衣 ⅩⅩⅢ 谺して山ほととぎすほしいまゝ 以下、英彦山 六句」の私の注を参照されたい。彼女は英彦山が好きで何度も登頂している。しかも和装でである。
「昨夏」昭和五(一九三〇)年夏。
「床几」「しやうぎ」。
「日田」当時は日田町(ひたちょう:現在の大分県北西端にある日田市(英彦山は北端の直近に当たる)の中心市街)を中心とした日田地区。この時には既に旧日田郡は廃止されていた。
「六助餠」(「餠」の字は江戸時代より近現代まで「餅」の字が優勢であるが、敢えてここはこの字体を用いた。個人的に「餅」よりは「餠」の方が好きだからである。正直、「并」という字は生理的に好きになれないのである)は不詳。但し、同じ英彦山での句に、
六助のさび鐵砲や秋の宮
があり、「杉田久女句集 255 花衣 ⅩⅩⅢ 谺して山ほととぎすほしいまゝ 以下、英彦山 六句」の注で私が記したように、戦国期の毛谷村(現在の大分県中津市山国町(やまのくにまち)槻木(つきのき)。「毛谷村神社」と神社名に旧村名が残っているのが判る。英彦山の大分県側である)出身の怪力無双の義人毛谷村六助(木田孫兵衛)にあやかった力餅の名物餅か。調べてみたが、現在は売られていない模様である。
「三山」英彦山には北岳・中岳・南岳の三つの峰がある(グーグル・マップ・データ航空写真)。
「嶮」「けん」と音読みしておく。嶮しくそそり立った巌(いわお)。]
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