曲亭馬琴「兎園小説別集」下巻 問目三條【鳩有三枝之禮、鹿獨、肝煎、著作堂問、馬答なし。追記雀戰】~(2)鹿獨
[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの「新燕石十種」第四では本篇はここから。吉川弘文館随筆大成版で、誤字と判断されるものや、句読点などを修正した。三ヶ条は直に連関しないので、分割する。標題の割注にある通り、馬琴の質問への答えは、ない。]
顏氏家訓【上卷。】に、鹿獨戎馬之間、轉死溝壑之際、といふこと見えたり。鹿獨の義、いまだ詳ならず。本のまゝに見れば、獨も亦獸の名にて、形猨に似たり、正字通【己集下。】獨。杜谷切。音讀。似ㇾ猨而大。猨性群。獨性特云云。といへるこれなり。又獨を蜀字の誤と見ても、鹿蜀も亦獸の名なり。山海經【南山經。】に、杻陽之山云々。有ㇾ獸焉。其狀如ㇾ馬而白首。其文如ㇾ鹿而赤尾。其音如ㇾ謠。其名曰二鹿蜀一。佩ㇾ之宜二子孫一といふもの是のみ。しかれども顏氏が所ㇾ云鹿獨は、これらの義なるべくもあらず。又獨を觸字に誤と見れば、鹿の角をもて、その害を觸防ぐがごとく、鬪戰防禦進退の義、鹿觸といふにやと思へど、猶心もとなし。再按ずるに、鹿々と錄々と陸々と通ずるよし、正字通、鹿字の註に見えたり。鹿と獨とは聲相近し。かゝれば鹿獨は當時南朝の方言にて、猶碌々といふがごとしといはゞ、その義はじめて聞え易し。しかれども、こは愚が推量の辨にして、この他の古書に管見なし。鹿獨といふよしは、まさしき本據あることなりや。聞まほし。解問、
[やぶちゃん注:「顏氏家訓」北斉(最後に亡命した)の学者顔之推が著した家訓。五八九年以降の成立。「中國哲學書電子化計劃」の影印本数種を見たが、孰れも「孤獨」と始まりながら、電子化で起こしたものには「孤」に「・」とされており、「孤」は錯字とみなされているようである。一つだけリンクさせておく。七行目に現われる。中文サイト「三度漢語網」の「轉死溝壑」の同書の引用では、確かに「鹿獨」とする。
「鹿獨戎馬之間、轉死溝壑之際」よく判らぬが、「鹿獨(ろくどく)、戎馬(じゆうば)の間にありて、溝壑(こうえい)の際(きは)に轉死せり。」か。「鹿独も軍馬の中にあっては、野垂れ死にするだけである。」の意か。馬琴と同じく、「鹿獨」が如何なる獣(哺乳類であろう)であるか、不明である。
「獨も亦獸の名にて、形猨に似たり」寺島良安の「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」には、「本草綱目」を全面的に引いた「猨(ゑんこう)」(私はそこで、その記載から、サル目真猿亜狭鼻下目ヒト上科テナガザル科テナガザル属Hylobatesに同定した)の項に、一種として、別条で、同じく「本草綱目」から、
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獨【音、瀆。】
「本綱」に、『獨は猨に似て大なり。猿の性は群れる、獨の性は特(ひとり)なり。猿は鳴くこと、三たび、獨は鳴くこと、一たびにして、止む。能く猨猴を食ふ【或は云ふ、獨は乃(すなは)ち黃腰獸なり。虎の類に見とむ。】。』と。
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と引いている。そこで(同巻の他でも「獨」は出る)私は、以上に注して(上の引用も含め古い電子化注なので、一部に手を加えた)、
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「獨」「廣漢和辭典」には、さるくいざる。猿の一種。猿に似て大きく、猿を捕らえて食う。常に独居し、叫び声も一声であることから独と名付ける、とある。
「能く猨猴を食ふ」サル類の共食いについては、現在、マカク属 Macaca には本邦固有種のマカク属ニホンザル Macaca fuscata・マカク属カニクイザルMacaca fascicularis・オナガザル科コロブス亜科Semnopithecus 属ハヌマンラングールSemnopithecus entellus・真猿亜目狭鼻下目ヒト上科ヒト科チンパンジー亜科チンパンジー Pan troglodytes及びヒト科ヒト Homo sapiens 等の異常行動として報告されている。
「或は云ふ、獨は乃ち黃腰獸なり。虎の類に見とむ。」とは、「ある説によれば、独は黄腰獣という名の獣である。その学説の分類では、この独を虎の仲間と見做している。」の意。トラなら「能く猨猴を食ふ」は納得である。
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とした。「虎の一種説」である。
「正字通」明の張自烈撰の字書。清の廖(りょう)文英が序文(一六八〇)を付して自著として刊行している。
「杜谷切。音讀」『「杜」と「谷」の切。音「讀(どく)」。』で前は反切法で音を示したもの。
「似ㇾ猨而大。猨性群。獨性特」「猨(ゑん)に似て、大なり。猨の性(しやう)は、群るることなり。「獨」の性は特(ひとり)たることなり。」とでも訓じておくか。
「獨を蜀字の誤」(あやまり)「と見ても、鹿蜀も亦」(また)」「獸の名なり。山海經【南山經。】に、杻陽之山云々。有ㇾ獸焉。其狀如ㇾ馬而白首。其文如ㇾ鹿百赤尾。其音如ㇾ謠。其名曰二鹿蜀一。佩ㇾ之宜二子孫一といふもの是のみ」「山海経」(せんがいきょう)のそれを訓読しておく。
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『杻陽(ちゆうやう)の山に』云々、『獸、有り。其の狀(かたち)、馬のごとくして、白き首(かしら)、其の文(もん)、鹿(しか)のごとくして赤き尾、其の音(こゑ)謠(うた)ふがごとし。其の名、「鹿蜀(ろくしよく)」と曰ふ。之れを佩(お)ぶれば、宜(よろ)しく子孫あるべし。』。最後は「この獣の何かを体に佩びておれば、よく子宝を授かるであろう。」という謂いである。原文影印本を「中國哲學書電子化計劃」でリンクさせておく(後ろから四行目)が、その郭璞(かくはく)の割注では、佩びる対象は、その「皮」や「尾」とある。「珍獣ららむ~」氏のサイト「山海経動物記」の「鹿蜀」がよく考証されていて、よい。そこでは馬と虎が合成された想像上の産物とされる。支持する。
「所ㇾ云鹿獨」「云ふ所(ところ)の鹿獨(ろくどく)」。
「誤」「あやまれる」。
「觸防ぐ」「さはりをふせぐ」「ふるるをふせぐ」と仮に読んでおく。
「鬪戰防禦進退の義、鹿觸といふにや」危急の際に鹿の角を以って災厄除けの呪具として「鹿觸」というのだろうか、と勝手に解釈しておく。
「再」「ふたたび」。
「鹿々と錄々と陸々と通ずる」「錄々」は「碌々」と同じで「平凡無為のさま」(「史記」にあり)で、「陸々」も同義である。
「鹿と獨とは聲相近し」この「聲」は「セイ」で音のことであろう。則ち、馬琴は「ロク」と「ドク」は音が近いというのである。しかし、現代中国語では「鹿」は「lù」(ルゥー:第四声)、「獨」は「dú」(ドゥー:第四声)で似て非なるものである。]
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