フォト

カテゴリー

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 20250201_082049
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の Pierre Bonnard に拠る全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

無料ブログはココログ

« 2022年7月 | トップページ | 2022年9月 »

2022/08/31

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 磬―鰐口―荼吉尼天 (その7)・附「追補」 / 磬―鰐口―荼吉尼天~了

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。注は各段落末に配した。彼の読点欠や読点連続には、流石にそろそろ生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、句読点を私が勝手に変更したり、入れたりする。今回は分割する。

 なお、本篇はこの「追加」で終わっているが、「選集」では更に「追補」(大正六(一九一七)年四月発行の『考古学雑誌』第七巻第八号所収)がある。呈補にはないので、最後に注で「選集」を底本として追加した。そのため、新字正仮名で、さらに表記表現に有意な手が加えられてある。「選集」の最後の編者注記に『『考古学雑誌』七巻ハ号に「荼吉尼天について追補」と題して掲載、冒頭に「本誌六ノ二ノ四七および六ノ五ノ二八〇の追補とす」と著者注記があるので、これを収載した。』とある。

 

追 加 (大正五年一月『考古學雜誌』六卷五號)

 J.Theodore Bentの ‘The Cyclades,1885, p.279 に曰く、「希臘のセマントラは妙な發音器也。寺每に、大抵、木製と鐵製の此物各一を備ふ。甲は平削りの木片、多くは「もみぢ」木にて作り、凡そ三呎長、二吋幅なるを、堂の外に懸け、木槌もて打ち鳴す。通例、曉に木の者のみを敲く。然し、「レント」等の式日は、乙、卽ち、鐵製の物を打つ。是は半圓形の箍[やぶちゃん注:「たが」。]樣にて、其音、ひゞ目入たる銅鐸の如し。聞く、土耳其[やぶちゃん注:「トルコ」。]人、此邊を制伏して基督敎徒に鐘擣く事を禁ぜしより、セマントラ行はるゝに及べり」と。前囘引たるべロンが十六世紀に目擊せる者と記載稍々[やぶちゃん注:「やや」。]異なれど、大槪同じく、其稍々異なるは十六世紀より十九世紀の間に多少の改良を經たるならん。

[やぶちゃん注:「J.Theodore Bentの ‘The Cyclades, 1885, p.279」イギリスの探検家・考古学者・作家ジェームス・セオドア・ベント(James Theodore Bent 一八五二年~一八九七年)の「キクラデス諸島又は島内のギリシャ人たちの生活」(The Cyclades; or, Life among the Insular Greeks)。「Internet archive」で調べると、当該ページはここ

「セマントラ」上記リンク先で綴りは‘ semadra ’。ネットで調べたが、画像は見当たらない。

「三呎長、二吋幅」底本は前者が「三尺」となっているが、「呎」(フィート)に変えた。長さ九十一・四四センチ、幅五・〇八センチ。

「レント」上記原本では、‘a great  Lenten’とある。これは四旬斎(しじゅんさい:Great Lent)で、キリスト教(正教会・非カルケドン派・カトリック教会・聖公会・プロテスタント)に於て、「復活祭を準備する期間」を言う。

「前囘引たるべロンが十六世紀に目擊せる者」「磬―鰐口―荼吉尼天 (その1)」の本文及び私の注を参照。]

 野干と狐と別獸なるは(同號四九頁末より三行目)、羅什譯妙法蓮華經二に、野干狐狼鵰鷲鴟梟と連ねたるにて知べし。野干(ジャッカル)は、その相貌、狼に近く、猾智、狐に類せり。

[やぶちゃん注:底本の「野干」のルビは「ジャ カル」であるが、不自然に字空けがあることから、「選集」で「ッ」を補った。

「野干と狐と別獸なるは(同號四九頁末より三行目)」は「磬―鰐口―荼吉尼天 (その4)」の「荼吉尼の事は、余、……」以下の段落を指すものと思う。

「羅什譯妙法蓮華經二に、野干、狐、狼、鵰、鷲、鴟梟と連ねたる」神奈川県横浜市保土ケ谷の「日蓮宗妙福寺」公式サイト内の「姚秦三蔵法師鳩摩羅什」「譯」「妙法蓮華經」とある電子データを見るに、「野干狐狗 鵰鷲鵄梟」とあった。「鵰鷲」は「てうしう(ちょうしゅう)」でワシタカ類の中で大型の種を総称する語。「鵄梟」は「しけう(しきょう)」で「鴟梟」「鴟鴞」などとも書き、フクロウ類の別名である。「鵰鷲鵄梟」獰猛な猛禽類を指す。一部の「法華経」の現代語訳では「鵰(わしたか)・鷲(わし)・鵄(とび)・梟(ふくろう)」とも分離する。]

 大正三年盂買[やぶちゃん注:「ボンベイ」。]板行 Jackson and Enthoven, ‘Gujarat Folk-lore Notes,’ ch.x 、妖巫術(ウヰチクラフト)の一章、全くダーカンのことのみを記す。前囘引いたるバルフォールの印度事彙其他、諸事、皆な、ダキニを妖巫と譯せるを參するに、ダーカンはダキニのグジャラチ名なるは、疑ひを容れず。其章の梗槪を抄せんに云く、ダーカンに二種有り、人類のと、鬼類のもの、是也。女子、特異の日に生まるゝ者、人類ダーカンたり。其夫、之が爲に死す。又、其邪視に中る[やぶちゃん注:「あたる」。]一切の人も物も、害を蒙らざる無し。產死、又、不慮の死、又、自殺で果たる婦女もダーカンと成る。或は、信ずらく、下等姓の女人、死してダーカンと成る、上等姓のダーカンは稀[やぶちゃん注:「まれなる」。]者也、と。是等の鬼類ダーカンは、美衣を著、其體を嚴飾す。然れども、背を被はず。其背、怖るべく、見る者、慄死せざるは無し。鬼類ダーカンは、止だ[やぶちゃん注:「ただ」。]、婦女のみを苦しめ、之に憑かれたる婦女は、痙攣を急發し、髮を亂して、譯も無く叫喚す。鬼類ダーカンは、男を夫とし、美食を齎し與ふれば、其男、漸次、枯瘁して、死するに、大抵、六月を出ず。又、犢[やぶちゃん注:「こうし」。]をして、乳、呑ず[やぶちゃん注:「のまず」。]、㹀[やぶちゃん注:「めうし」。]をして、乳汁を生ぜず、或は、乳の代りに血を出さしむ。ダーカンの食は人屍にして、能く天に登る。猫、水牛、山羊、其他、何獸の形にも成り、意に任せて其身を大小にす。其足は反踵也。好んで墓冢、廢池、鑛穴、荒蓼の所に居り、又、四辻に當たれる敗壚に出づ、と。此他、諸章にもダーカンの事、若干條、出たれど、今は抄せず。

[やぶちゃん注:「大正三年」一九一四年。

Jackson and Enthoven, ‘Gujarat Folk-lore Notes,’ ch.x」英国統治時代のインドのイギリス人公務員で、将校にして歴史家・インド学者でもあったアーサー・メイソン・ティペッツ・ジャクソン(一八六六 年~一九〇九年)と、同じインドの公務員でインド研究者であったレジナルド・エドワード・エントーベンReginald Edward Enthoven(一八六九年~一九五二年)の共著になるインド北西部に位置するグジャラート州(グーグル・マップ・データ)の民俗誌「グジャラートの民間伝承ノート」の第十章‘X. WITCHCRAFT.’。「Internet archive」のこちらから、当該原文が視認出来る。「ダーカン」は‘ Dākan ’と綴っている。

「枯瘁」「こすい」は痩せこけて憔悴すること。

「六月」「むつき」。

「犢」子牛。

「㹀」雌牛(めうし)。

「反踵」踵(かかと)が反り返っていること。或いは踵が逆さまについていること。

「墓冢」(ちようぼ(ちょうぼ))は墓場のこと。

「荒蓼」「選集」も同じだが、「荒寥」(くわれう(こうりょう))地の誤りだろう。]

 桃源遺事卷三に、「水戶御城下に心光寺と云寺有り。此寺は萬千代殿(信吉)の御菩提所なり。西山公、彼寺を久慈郡向山と云所へ御引せ成され、堂塔式の通りに仰せ付られ、法式等も御改正被成、且、鉦鼓は本式に非ず迚、鰐口を差し置かれ、鉦鼓の如く、撞木を以、打鳴し、念佛を可申由、是、空也上人の例也とぞ云々」と有る。例の上人が、鰐口を兩分して敲鉦[やぶちゃん注:「たたきがね」。]とせりてふ傳說に據られたるにや。(大正四年十二月二日)

[やぶちゃん注:「桃源遺事」かの徳川(水戸)家第二代水戸藩主徳川光圀に関する逸話などを集大成した書で、光圀の誕生に力を尽くした三木之次の孫三木之幹や、宮田清貞・牧野和高らによって元禄一四(一七〇一)年に編纂された。書名は「西山遺事」ともする。国立国会図書館デジタルコレクションの昭和一八(一九四三)年清水書房刊の稲垣国三郎註解「桃源遺事 水戸光圀正傳」のここで当該部が視認出来る。

「心光寺」同前のこのページの頭注に、『水戶備前町』(ここ)『にあつた、淨土州、常照山、淨鑑院と稱し寺内表六十間裏六十六間あつた。』とあるので、現存しない。

「萬千代殿(信吉)」徳川家康の五男武田(松平)信吉(のぶよし 天正一一(一五八三)年~慶長八(一六〇三)年)。母は甲斐武田氏家臣秋山虎泰の娘於都摩。幼名は福松丸・武田万千代丸。正しくは松平信吉であるが、同名の松平信吉(藤井松平家)と区別するため、武田信吉と呼ばれる。慶長七(一六〇二)年に武田(松平)家藩主として常陸国水戸二十五万石に封ぜられ、旧家臣を中心とする武田遺臣を付せられて武田氏を再興している。但し、生来、病弱であったらしく、わずか二十一歳で死去している。参照した当該ウィキによれば、彼には『子女もいなかったので』、『武田氏は再び断絶した』。『水戸藩は異母弟の頼将(のちの頼宣)が入り、頼将が駿府に移封の後は、同じく異母弟の頼房が入部し、水戸徳川家の祖とな』った。『信吉の家臣の多くは水戸家に仕えることにな』ったとある。

「西山公」徳川光圀の尊号の一つ。彼はガチガチの排仏派であった。

「久慈郡向山」(むかうやま)延宝五(一六七七)年に心光寺は光圀の命で那珂郡向山村(現在の茨城県那珂市向山。グーグル・マップ・データ)に移されている。但し、そこにも現存はしない。

 以下、前注通り、「選集」に載る「追補」を添える。

   *

【追補】

 ドイツ人 A. F. L. M.Freiher von Haxthausen の‘Transcaucasia,Sketches of the Nations and Races between the Blak Sea and the Caspian,trans. Taylor, London, 1854, p.192 にいわく、ウトミシュ・アルテテム山に三百六十六谷あり。これについてアルメニア人伝えていわく、この国の一窟にむかし吸血鬼(ベムパヤール)棲み、その名をダクハナヴァール Dakhanavar という。この吸血鬼、きわめて人々がこの山の谷の数を知ることを忌み、山に入る者あれば、必ず夜中その足裏より血を吸って死に至らしむ。黠智に富める者二人、谷を数えんとて山に入るあり。日暮に及び、相謀って互いに両足を頭下に敷いて臥す。夜半に鬼来たり探るに、人体の両端に頭あって全く足なし。よって独語すらく、予かつてこの山の三百六十六谷を巡り人の血を吸い殺せしこと無数なるも、二頭あって足なき人に遇うはこれが始めなり。と言い終わりて逃げ去り、爾来また見えず。これより人初めてこの山の谷の数を知れり、と。ダクハナヴァールなる名も、血を吸って人を殺すことも、荼吉尼を飲血者(アスラ・パス)と呼ぶに似たれば、このアルメニアの鬼譚はもとインドの荼吉尼(グジャラチ名ダーカン)談と同根に出ずるものか。件(くだん)のハクストハウセンの書は本邦で多く読まれぬものらしきゆえ、見出ずるまま書きつけて荼吉尼天のことを調ぶる人の参考に供す。(一月二十日)

  (大正六年四月『考臺学雑誌』七巻八号)

   *

A. F. L. M.Freiher von Haxthausen の‘Transcaucasia,Sketches of the Nations and Races between the Blak Sea and the Caspian, trans. Taylor, London, 1854, p.192」ドイツの農学者・弁護士で作家のアウグスト・フォン・ハクストハウゼン(August Franz Haxthausen 一七九二年~一八六六年)。彼は一八四三年に六ヶ月間に亙ってロシアを旅した。ノヴゴロド・カザン・コーカサス・キーウを経てモスクワに至っている。翌年の春にドイツに戻って、印象を書き留めており、その体験の一部が後にこれ(「トランスコーカシア、黒海とカスピ海の間の国々と人種のスケッチ。」)となったもののようである。「トランスカウカシア」は「ザカフカス」(カフカスの彼方)に同じで、大カフカス山脈の南側の地域を指す呼称。現在のアゼルバイジャン・アルメニア・ジョージアの三共和国に相当する。他に「外カフカス」「南カフカス」とも称する。「Internet archive」のこちらで英訳である当該原本がここで読める(左ページから続いている)。

「ウトミシュ・アルテテム山」前の原本に‘Ultmish Altötem’とある。アルメニアはここ(グーグル・マップ・データ)だが、この山は現認出来ない。

「吸血鬼(ベムパヤール)」原文‘vampyre’。

「黠智」既出既注。「かつち」で「悪知恵」の意。]

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 磬―鰐口―荼吉尼天 (その6)

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから(左の後ろから三行目下方から)。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。注は各段落末に配した。彼の読点欠や読点連続には、流石にそろそろ生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、句読点を私が勝手に変更したり、入れたりする。今回は分割する。

 太字は底本では傍点「○」。]

 

 序に言ふ。趙末、西天三藏法賢譯佛說瑜伽大敎王經卷五に、復次辟除法、持誦者用獯狐翅、上書眞言及所降人名、以淨行婆羅門髮纒之、卽誦眞言加持、密埋地中、復想二大明王於彼打之、次想吽字、化成微小金剛杵、入所降人身、變成羯磨杵、有大熾焔、打彼降人、身分肢節悉令乾枯、又想諸金剛拏枳儞、悉來唼所降人身血、如是作法、速得辟除、誦此眞言曰、唵嚩日囉二合枳儞阿目割寫囉訖多二合羯哩沙二合野吽發吒半音二、誦此眞言已、依法相應、彼降伏人、速得身分乾枯、乃至除滅。拏枳儞の荼吉尼に同じきは言を俟たず。囉訖多は其一名と見え、元魏婆羅門瞿曇菩提流志が譯せる正法念處經十六に多を吒に作る。言く、囉訖吒(魏にて血食を言ふ)餓鬼、本爲人時、愛樂貪嗜血肉之食、其心慳嫉、戲笑作惡、殺生血食、不施妻子、如是惡人云々、墮惡道中、貪嗜云々、人皆名之、以爲夜叉。供養奉事。以血塗泥、 而祭祀之。既噉血已、恐怖加之、數求禱祀、人皆說之、以爲靈神、如是次第、得自活命壽命長遠云々。上に引る眞言は、此血食鬼を役使して仇人の血を吸ひ、身體枯槁して死に至らしむる者なり。其作法中に獯狐翅を用ると有るは、惟ふに、訓狐と同字にて梟の異名なるべし(法賢が譯せる金剛薩埵說頻那夜迦天成就儀軌經三にも、童女をして他人を好まず自分をのみ愛敬せしむる法を修するに、獯狐と鳥肉を食ふ[やぶちゃん注:「くらふ」。]事有り)。翅を用ると有るにて其然るを知る。狐の字あるを見て、猝に[やぶちゃん注:「にわかに」。]荼吉尼に狐を係る[やぶちゃん注:「かくる」。関係付ける。]事、印度既に有りし、と斷ずべからず。(八月十七日)

[やぶちゃん注:以上の経典は「大蔵経データベース」で校合した。孰れも中略があり、前者はそれがひどいので、一部は復元した。「選集」の一部を参考に手を加えた(具体的には熊楠の割注『(魏にて血食を言ふ)』は底本では、ただ、『(血食)』である)。

「趙末」不審。「選集」もそのままだが、百七十五年続いた趙は紀元前二二八年に秦に滅ぼされており、未だ仏教は伝来しておらず、中国への伝来はずっと後の一世紀である。以下の「西天三藏法賢」(?~一〇〇〇年)の訳になる「佛說瑜伽大敎王經」の成立は北宋末期であるから、「宋末」の誤りである。北宋の王は趙氏であるから、それで誤ったものだろう。以下、「復次辟除法、……」以下を訓読する。

   *

復(ま)た次に、辟除の法は、持誦する者、獯狐(くんこ)の翅を用ふ。上に眞言及び降(くだ)す所の人名を書き、淨行婆羅門の髮を以つて之れを纏ひ、卽ち、眞言を誦して加持し、密かに地中に埋む。復た、想ふ、『二大明王、彼(かしこ)に於いて之れを打つ』と。次に想ふ、『「吽」(うん)の字、化して微小なる金剛杵(こんがうしよ)と成り、降す所の人身に入り、變じて羯磨杵(かつましよ)と成り、大いに熾(も)ゆる焔(ほのほ)有りて、彼(か)の降す人を打ち、身分・肢節を悉く乾(かは)き枯らしむ。』と。又、想ふ、『諸(もろもろ)の金剛の拏枳儞(だきに)、悉く來たりて、降す所の人の身血を唼(すす)る。』と。是(かく)のごとく、法を作(な)せば、速やかに辟除するを得。此の眞言を誦するに曰はく、「唵嚩日囉二合枳儞阿目割寫囉訖多二合羯哩沙二合野吽發吒半音二。」[やぶちゃん注:多分発音(「引」は長音、「二合」は繰り返すことか)を表わすのであろう傍注を除いて漢字だけの読みを試みると、「アン バジラ ヌ シニ アモクカツシヤラキツタ ア カツリサ ヤウン ハツタ」か。]と。此の眞言を誦し已(をは)れば、法に依つて相ひ應じ、彼(か)の降伏する人、速やかに身分の乾き枯れ、乃至(ないし)は除滅するに至る。

   *

「元魏婆羅門瞿曇菩提流志」(げんぎ ばらもん ぐどん ぼだいるし)で、北インド出身の訳経僧「菩提流支」(ぼだいるし)のことであろう。北魏の都であった洛陽で訳経に従事し、大乗経論を三十部余り翻訳している。漢訳名を「道希」とも称した。訓読する。熊楠の割注も推定で書き換えた。

   *

囉訖吒(らきつた)(魏にて「血を食らふこと」を言ふ)餓鬼、本(もと)、人たりし時、愛樂して、血肉の食を貪-嗜(むさぼ)れり。其の心、慳嫉(けんしつ)にして、戲笑(ぎしやう)しては惡を作(な)し、殺生して血を食らひ、妻子に施さず。是(かく)のごとき惡人は云々、惡道の中に墮ち、血を貪-嗜る云々、人、皆、之れを名づくるに、以つて「夜叉」と爲(な)し、供養奉事するに、血を以つて塗泥(でいと)し、 而して之を祭祀す。既に血を噉(くら)ひ已(をは)れば、恐怖を人の加へ、數(しばしば)、禱(いの)ろ祀(まつ)ることを求む。人、皆、之れを說(よろこ)び、以つて靈神(れいしん)と爲(な)す。是(かく)のごとくに次第して、自(みづか)ら活命することを得、壽命は長遠なり云々。

   *

「慳嫉」物惜しみをし、嫉妬深いこと。「塗泥」本来は「泥濘(ぬかるみ)」の意だが、その邪神の身体に塗りたくることであろう。

「訓狐」これは、「夜、キツネを訓育(調教)する者」の謂いで、鳥の名であり、狐ではない。現行では、フクロウ目フクロウ科コノハズク属コノハズク Otus scopsに比定されている。最後の熊楠の注意喚起はすこぶる正しい。「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鴞(ふくろふ) (フクロウ類)」の私の「訓狐」の注を参照されたい。

「金剛薩埵說頻那夜迦天成就儀軌經三にも、童女をして他人を好まず自分をのみ愛敬せしむる法を修するに、獯狐と鳥肉を食ふ事有り」「大蔵経データベース」で確認したところ、『食獯狐及烏肉已。稱童女名顧視十方心作觀想。從夜至旦法得成就。彼之童女不欲事於他人。』とあるのが確認出来た。

「八月十七日」大正四(一九一五)年。]

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 磬―鰐口―荼吉尼天 (その5)

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから(右の後ろから二行目中途から)。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。注は各段落末に配した。彼の読点欠や読点連続には、流石にそろそろ生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、句読点を私が勝手に変更したり、入れたりする。今回は分割する。]

 

 ダキニ(荼吉尼)は、バルフォールの印度事彙に、妖巫(ウヰツチ)、又、女魅(フイーメル・ゴブリン)、又、飮血者(ブラツド・ドリンカー)(アスラ・パス)と名く、女小鬼(フイーメル・イムプ)の一種、カリに侍し、人肉を噉ふと有り。カリはシヴア神の后にて、慈恩傳三に、玄奘三藏、阿踰陀國より阿耶穆國に往く途中、賊、出で來たり、玄奘を殺して、突伽天神に嘉福を祈らんとせしてふ突伽(ヅルガ)と同神異相なり。カリ、兇相、極めて怖るべく、死と破壞を司どり、隨て[やぶちゃん注:「したがつて」。]、墓所の女神たり。以前は、其祭日に男子を神廟に捧げしに、夜中、カリ、現はれて、其血を吸ひ、之を殺せりと云ふ。荼吉尼衆は、實にカリに隨從する女魅輩にて、人の血肉を飮食す。されば、密敎徒が尊奉する荼尼天は、荼吉尼衆の本主、元とカリ女神と同體異相の者なるべければ、野干と多少の類緣、無きに非じ。蓋し野干はヒエナと俱に、インドで最も普通に人屍を求め食ふ獸なればなり(印度事彙三板二卷三九四頁參看)。扨、本邦、此獸を產せず。經律所見の野干黠智に富める事、酷しく[やぶちゃん注:「はなはだしく」。]狐に似たれば、輙ち、狐を野干と混視して、荼吉尼天の使い物、又、荼吉尼衆と同體とせるならん。野干が荼吉尼衆と俱にカリ女神の使者たりてふ事、書き留めたる物、眼前に在り乍ら、其抄物、多册にて、一寸、見當て得ざるぞ、遺憾なる。

[やぶちゃん注:「バルフォールの印度事彙」スコットランドの外科医で東洋学者エドワード・グリーン・バルフォア(Edward Green Balfour 一八一三年~一八八九年:インドに於ける先駆的な環境保護論者で、マドラスとバンガロールに博物館を設立し、マドラスには動物園も創設し、インドの森林保護及び公衆衛生に寄与した)が書いたインドに関するCyclopaedia(百科全書)の幾つかの版は一八五七年以降に出版されている。「Internet archive」の“ The Cyclopaedia of India ” (一八八五年刊第一巻)の原本の「877」ページの右列の十五行に‘DAKINI’の当該項目が確認出来る。起こしておく。

   *

DAKINI.  HIND.  A  witch,  a  female  goblin.  In Hindu  mythology  also  called  Asra-pas,  or  blooddrinkers  ;  a  kind  of  female  imp,  attendant  on Kali,  and  feeding  on  human  flesh.

   *

この内、‘goblin’(ゴブリン)は、醜い小人の姿をしたいたずら好きの精霊。森や洞窟に住み、ドイツでコボルト、フランスではゴブランと呼ぶ。嘗て、映画で有名になったグレムリン gremlin もゴブリンの一種である。

「カリ」「カーリー」はヒンドゥー教の女神。当該ウィキによれば、『その名は「黒き者」あるいは「時」の意(「時間、黒色」を意味するカーラの女性形)』。『血と殺戮を好む戦いの女神。シヴァの妻の一柱であり、カーリー・マー(黒い母)とも呼ばれる。仏典における漢字による音写は迦利、迦哩』。『シヴァの神妃デーヴィー(マハーデーヴィー)の狂暴な相のひとつとされる。同じくデーヴィーの狂暴な相であるドゥルガーや、反対に柔和な恵み深い相であるパールヴァティーの別名とされるが、これらの女神は元はそれぞれ別個の神格であったと考えられている』。『全身青みがかった黒色で』三『つの目と』四『本の腕を持ち』、四『本の腕の内』、『一本には刀剣型の武器を、一本には斬り取った生首を持っており』、『チャクラを開き、牙をむき出しにした口からは』、『長い舌を垂らし、髑髏』乃至『生首をつないだ首飾りをつけ、切り取った手足で腰を飾った姿で表される。絵画などでは』十『の顔と』六『本から』十『本の腕を持った姿で描かれることもある』。『シャークタ派で聖典とされる』「デーヴィーマーハートミャ」に『よると、女神ドゥルガーがシュムバ、ニシュムバという兄弟のアスラの軍と戦ったとき、怒りによって黒く染まった女神の額から出現し、アスラを殺戮したとされる。自分の流血から分身を作るアスラのラクタヴィージャとの戦いでは、流血のみならず』、『その血液すべてを吸い尽くして倒した』。『勝利に酔ったカーリーが踊り始めると、そのあまりの激しさに大地が粉々に砕けそうだったので、夫のシヴァ神がその足元に横たわり、衝撃を弱めなければならなかった。その際にシヴァの腹を踏みつけてしまい』、『ペロリと長い舌を出したカーリーの姿が、多くの絵や像で表現されている』。『殺戮と破壊の象徴であり、南インドを中心とする土着の神の性質を習合してきたものと解される。インド全体で信仰されているポピュラーな神だが、特にベンガル地方での信仰が篤』い。『インドの宗教家、神秘家ラーマクリシュナも熱心なカーリーの信奉者だった』。『インドにおいて』十九『世紀半ばまで存在していたとされているタギーとは、カーリーを信奉する秘密結社で、殺した人間をカーリーへの供物としていた』とある。なお、インド神話には長音のない「カリ」という悪魔が別にいるが、カーリーとは無関係なので注意が必要。

「慈恩傳三に、玄奘三藏、阿踰陀國より阿耶穆國に往く途中、賊、出で來たり、玄奘を殺して、突伽天神に嘉福を祈らんとせしてふ突伽(ヅルガ)と同神異相なり」「慈恩傳」は「大慈恩寺三藏法師傳」。三蔵法師として知られる唐の玄奘(六〇二年~六六四年)の伝記。全十巻。唐の慧立の編になる。「大蔵経データベース」で調べたところ、第三巻の以下のやや長い部分が当該部であると思われる。熊楠の訳と一致する箇所に下線(完全一致と思われ箇所は太字下線)にした。

   *

法師自阿踰陀國禮聖跡。順殑伽河。與八十餘人同船東下欲向阿耶穆。行可百餘里。其河兩岸皆是阿輸迦林非常深茂。於林中兩岸各有十餘。鼓棹迎流一時而出。船中驚擾投河者數人。賊遂擁船向岸。令諸人解脱衣服搜求珍寶。然彼群賊素事突伽天神。毎於秋中覓一人質状端美。殺取肉血用以祠之。以祈嘉福。見法師儀容偉麗體骨當之。相顧而喜曰。我等祭神時欲將過不能得人。今此沙門形貌淑美。殺用祠之豈非吉也。法師報。以奘穢陋之身得充祠祭。實非敢惜。但以遠來意者欲禮菩提樹像耆闍崛山。并請問經法。此心未遂。檀越殺之恐非吉也。船上諸人皆共同請。亦有願以身代。賊皆不許。於是賊帥遣人取水。於花林中除地設壇和泥塗掃。令兩人拔刀牽法師上壇欲即揮刃。法師顏無有懼。賊皆驚異。既知不免。語賊。願賜少時莫相逼惱。使我安心歡喜取滅。法師乃專心覩史多宮念慈氏菩薩。願得生彼。恭敬供養受瑜伽師地論。聽聞妙法成就通慧。還來下生教化此人。令修勝行捨諸惡業。及廣宣諸法利安一切。於是禮十方佛正念而坐。注心慈氏無復異縁。於心想中若似登蘇迷盧山。越一二三天見覩史多宮慈氏菩薩處妙寶臺天衆圍繞。此時身心歡喜。亦不知在壇不憶有賊。同伴諸人發聲號哭。須臾之間黒風四起折樹飛沙。河流涌浪船舫漂覆。賊徒大駭。問同伴曰。沙門從何處來。名字何等。報曰。從支那國來求法者此也。諸君若殺得無量罪。且觀風波之状。天神已瞋。宜急懺悔。賊懼相率懺謝稽首歸依。時亦不覺。賊以手觸。爾乃開目謂賊曰。時至耶。賊曰。不敢害師。願受懺悔。法師受其禮謝。爲説殺盜邪祠諸不善業。未來當受無間之苦。何爲電光朝露少時之身。作阿僧企耶長時苦種。賊等叩頭謝曰。某等妄想顛倒爲所不應爲事所不應事。若不逢師福徳感動冥祇。何以得聞啓誨。請從今日已去即斷此業。願師證明。於是遞相勸告。收諸劫具總投河流。所奪衣資各還本主。並受五戒。風波還靜。賊衆歡喜頂禮辭別。同伴敬歎轉異於常。遠近聞者莫不嗟怪。非求法殷重何以致茲。從此東行三百餘里。渡伽河。北至阿耶穆

   *

この「阿踰陀國」は「アユダこく」で、比定地としてインド・タイ・中国・日本などの説あるが、インドのアヨーディヤー(グーグル・マップ・データ)が最有力であると、ウィキの「首露王」にあった。インドの古都で、現在のウッタル・プラデーシュ州北部のファイザーバード県の内。「耶穆」佉「國」は「アヤムカこく」「アヨームカこく」「アヤボクキヤこく」で中インドの国らしい。「突伽(ヅルガ)」サンスクリット語「ドゥルガー」の漢音写。ヒンドゥー教の女神で、その名は「近づき難き者」の意。参照した当該ウィキによれば、『シヴァ神の神妃とされ』、『デーヴァ神族の要請によってアスラ神族と戦った』とし、『外見は優美で美しいが、実際は恐るべき戦いの女神で』、三『つの目を持っており、額の中央に』一『つの目がある』十『本あるいは』十八『本の腕に』、『それぞれ』、『神授の武器を持つ。虎もしくはライオンに乗る姿で描かれる』。『仏教においては准胝観音になったという説もあ』り、『突伽天女、突伽天神、塞天女とも呼ばれ』、『玄奘三蔵の伝記』「大慈恩寺三蔵法師伝(慈恩伝)」では『突伽という表記で登場する』。別名『チャームンダーを音写した遮文荼(しゃもんだ)という名前で七母天の一尊に数えられ』、『焔摩天の眷属にもなっている』とある。以上を見るに、玄奘はハンサムであったが故に、人身御供として狙われたが、その美男と仏徳故に、彼らを教化し、救われているのである。

「ヒエナ」英語‘hyena’で、哺乳綱食肉目ネコ亜目ハイエナ科 Hyaenidaeのハイエナ類。

「印度事彙三板二卷三九四頁」「Internet archive」の原本のここの「JACKAL」の項。左列の下から二行目に‘hyæna’の合成語表記でハイエナが出る。

「黠智」「かつち」で「悪知恵」の意。]

2022/08/30

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 磬―鰐口―荼吉尼天 (その4)

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから(左後ろから三行目末から。底本では、実は前の回の最後が、「風有りしより、」で以下と繋がっているが、「選集」は『風ありしなり。』と切れて、改行されている。それが正しい(断然、読み易い)と断じた)。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。注は各段落末に配した。彼の読点欠や読点連続には、流石にそろそろ生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、句読点を私が勝手に変更したり、入れたりする。今回は分割する。]

 

 荼吉尼の事は、余、其曼陀羅如き者を舊藏し、在英の間だ、種々調べたる書類有れど、只今、座右に存せず、又悉く忘却したれば、手近き典籍に採て管見を述んに、鹽尻帝國書院板、卷四六卷七四九頁に「陀祇尼天(乃ち荼吉尼天)は琰麼羅の屬にして、その種類一ならず云々、人の肝膽精氣を噉食す。然るに、地藏大士、慈悲を以て其相を鬼類に等しくし、之を招じて、人の爲に惱害を成さゞらしめ給ふを本主の陀祇尼天とす。正流の密家に祀る、是なり。其鬼類の實者外相を現ずるに、悉伽羅野干となる。季世、大方、此野干を祀りて陀祇尼と稱し、福を求め、幸を祈り、或は稻荷と呼んで、幣帛を捧ぐる族、多し」と有り。「大和本草」抔に言ふ如く、野干は狐と別物にて、英語ジャッカル、梵名スリガーラ(すなわち悉伽羅)、又、ジャムブカ、亜剌伯[やぶちゃん注:「アラビア」。]名シャガール、希伯ゞ拉[やぶちゃん注:「ヘブリウ」。ヘブライ語。]名シュアル、是等より射干、又、野干と轉譯せしなるべく、博物新編等には豪狗と作り、モレンドルフ說に、漢名豺は此獸を指すと云ふ。此物、狡譎甚しき由、多く印度、亜剌伯等の書に見え、聖書に狐の奸智深きを言るも、實は野干を指すならんといふ。隨つて支那、日本に行はるゝ狐の諸譚中、野干の傳說を混入せる事、多し(昨年、大正三年「太陽」、拙文「虎に關する史話と傳說、民俗」第五節一六〇――一六一頁を見よ)。

[やぶちゃん注:最後の丸括弧内は底本と「選集」の記載をカップリングした。

「鹽尻」江戸中期の国学者で尾張藩士天野信景(さだかげ)による十八世紀初頭に成立した大冊(一千冊とも言われる)膨大な考証随筆。当該活字本の当該箇所が国立国会図書館デジタルコレクションのここで視認できる。左下段中央にある。

「陀祇尼天」同じく「だきにてん」と読む。

「琰麼羅」「えんもら」と読んでおくが、ネット検索でも、「大蔵経データベース」でもこの文字列を見出せない。似たような発音では、「陰魔羅鬼(おんもらき)」がいるが、これは食人鬼ではないので違う。「太平百物語卷五 四十二 西の京陰魔羅鬼の事」の本文と私の注を参照されたい。食人鬼ということであれば、私の「小泉八雲 “JIKININKI” 原文 及び やぶちゃんによる原注の訳及びそれへの補注」(サイト版)で八雲の注の拙訳で示した、「羅叉娑(ラシャシャ)」、所謂、バラモン教やヒンズー教で、専ら「人を惑わし食らう魔物」として描かれることが多い羅刹(らせつ)の族を指すか。

「噉食す」「くらひしよくす」。

「正流の密家」正統な密教系寺院。

「實者外相」「じつしやげさう」。実際に人間の目に見える外観。

「悉伽羅野干」「しつがらやかん」。ウィキの「野干」に、『野干(やかん)とは漢訳仏典に登場する野獣。射干(じゃかん、しゃかん、やかん)豻(がん、かん)、野犴(やかん:犴は野生の犬のような類の動物、キツネやジャッカルなども宛てられる)とも。狡猾な獣として描かれる。中国では狐に似た正体不明の獣とされるが、日本では狐の異名として用いられることが多い』とし、唐の「本草拾遺」に『よると、「仏経に野干あり。これは悪獣にして、青黄色で狗(いぬ)に似て、人を食らい、よく木に登る。」といわれ、宋の』「翻訳名義集」では、『「狐に似て、より形は小さく、群行・夜鳴すること狼の如し。」とされ』、「正字通』には『「豻、胡犬なり。狐に似て』、『黒く、よく』、『虎豹を食らい、猟人これを恐れる。」とある』。『元は梵語の「シュリガーラ」』『を語源とし、インド仏典を漢訳する際に「野干」と音訳されたものである。他に、悉伽羅、射干、夜干とも音訳された。この動物は元々』は『インドにおいてジャッカル(この名称も元は梵語に由来する。特にユーラシアに分布しているのはキンイロジャッカル)』(食肉目イヌ型亜目イヌ下目イヌ科イヌ属キンイロジャッカルCanis aureus 『を指していたが、中国にはそれが生息していなかったため、狐や貂(てん)、豺(ドール)との混同がみられ、日本においては主に狐そのものを指すようにな』ったとし、『なお、インド在来の狐についてはベンガルギツネ』(イヌ科キツネ属ベンガルギツネ Vulpes bengalensis )『が存在し』、『食性や生息環境が競合する』。『インドでジャッカルは尸林』(注『遺体を火葬したり、遺棄した林。放置されたり、焼け残った遺体は鳥獣の餌となった』とある)『を徘徊して供物を盗んだり、屍肉を喰う不吉な獣として知られていたため、カーリーやチャームンダー』『など、尸林に居住する女神の象徴となった。また、インド仏教においても』、『野干は閻魔七母天の眷属とされた』とある。明治四三(一九一〇)年には、『南方熊楠が、漢訳仏典の野干は梵語「スルガーラ」(英語「ジャッカル」・アラビア語「シャガール」)の音写である旨を、『東京人類学雑誌』に発表した』と記し、挿絵に南方熊楠の「十二支考」の虎パートにある「ジャッカル(野干)」の画が示されてある。『日本では当初、主に仏教や陰陽道など知識階級の間で狐の異名として使われた。平安初期の』「日本霊異記」の上巻第二の「狐爲妻令生子緣」には、『狐が人間の女に化けて男の妻となり、子供もできたが、正体がばれた』際、『男から「来つ寝よ」(きつねよ)と言われ』、『「キツネ」という名が出来たとする説話が収録されているが、そこでも』、『狐のことを文中で「野干」と記す例が確認出来る』とし、さらに「拾芥抄」には『「野干鳴吉凶」』『として』、『狐の鳴き声によって吉凶を占うことがらについても記されている。鎌倉時代の』「吾妻鏡」には、野干(狐)によって名刀の行方が知れなくなったこと」(建仁元(一二〇一)年五月十四日の条)が記されて『いたりするほか、江戸時代以後には』、『一般的にも書籍などを通じて「狐の異名」として野干という語は使用されて来た。その他、各地の民話でも狐の別名として野干が登場する』。「大和本草」などの『本草学の書物などでは』、『漢籍の説を引いて、「形小さく、尾は大なり。よく木に登る。狐は形大なり。」と、狐と野干は大きさが違うとされているので別の生物であるという説を載せている』。『また、日本の密教においては、閻魔天の眷属の女鬼・荼枳尼(だきに)が野干の化身であると解釈され』(☜/☞)、『平安時代以後、野干=狐にまたがる姿の荼枳尼天となる。この日本独特の荼枳尼天の解釈は』、『やがて豊饒や福徳をもたらすという利益の面や狐(野干)に乗っているという点から』(☜/☞)、『稲荷神と習合したり、天狗信仰と結び付いて飯綱権現や秋葉権現、狗賓』(くひん:天狗の一種とされ、狼の姿で、犬の口を持つとされる。当該ウィキによれば、この異類は『山岳信仰の土俗的な神に近』く、『天狗としての地位は最下位だが、それだけに人間の生活にとって身近な存在であり、特に山仕事をする人々は、山で木を切ったりするために狗賓と密接に交流し、狗賓の信頼を受けることが最も重要とされていた』とある)『などが誕生した』。『能では狐の精をあらわした能面を「野干」と呼んでおり』、「殺生石」・「小鍛冶」など、『狐が登場する曲で使用されている』。「殺生石」に『登場する狐の役名も「野干の精」などと表記される』とある。

「季世」末期。著者の時制から中世末から近世初期。

「大和本草」貝原益軒の同書の巻之十六の「獸類」の「射干」。「狐」とは別立てで、間にヒト型異類「猩々」を中に挟んでいる。国立国会図書館デジタルコレクションの原本から訓読(読みは推定で歴史的仮名遣で附した。一部で送り仮名を仮に入れた)して起こす。なお、「㩆」の字は(へん)が「彳」であるが、「漢籍リポジトリ」のこちらの原本の、[048-36b]の影印画像で修正した。

   *

射干 陳藏器曰はく、『佛經に曰はく、「射干・貂㩆(てんしう)、此れは是れ、惡獸にて、靑黃犬(せいわうけん)に似て、人を食ふ。能くに緣る。」。』と。「詩經大全」、安成劉氏が曰はく、『犴、一つ、「豻」と作(な)す。胡地の犬なり。』と。「字彙」、『豻は野犬に同じ。狐に似て小く、胡地に出づ。』と。今、按ずるに、國俗、「狐」を「野干」とす。「本艸」に、狐の別名、此證無し。然れば、射干と、狐と、異なり。

   *

この冒頭の陳藏器の言は無効である。何故なら、李時珍の「本草綱目」のこの部分は、巻十七下の「草之六【毒草類三十種】」の一項である「射干」の集解中に紛れ込んであるものであるが、この「射干」は総標題の通り、毒草であって、動物ではないからである。序でに言っておくと、寺島良安の「和漢三才図会」の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 狐(きつね) (キツネ)」でも「野干」を別獣としている。そこで良安は和名に注して、

   *

「和名抄」に、『狐は木豆禰、射干なり。關中に呼ぶに、野干と爲すは語の訛りなり。』と。蓋し、「野干」は別獸なり。

   *

とはっきり断じている。

「博物新編」清代にイギリス人宣教師で医師のベンジャミン・ホブソン(Benjamin Hobson:中国名「合信」 一八一六年~一八七三年)が漢文で著した博物学書。本邦では明治時代に翻刻本や訳解本が出版されている。彼はロンドン大学で学んだ後、宣教師となり一八三九年にマカオの澳門教会医院で働き、広州西郊に恵愛医館を開設し、宣教医として働きながら、医学書を執筆した。中国に初めて西洋解剖学を伝えた「全体新論」が有名。一八五六年十月に「第二次アヘン戦争」が起こると、上海に避難し、仁済医館で働いた。二十年間、中国で働いた後、帰国し、ロンドンで没した。彼の著作は、幕末から明治初期にかけて日本に伝わり、日本の近代医学に影響を与えた(当該ウィキに拠った)。

「モレンドルフ」ドイツの言語学者で外交官であったパウル・ゲオルク・フォン・メレンドルフ(Paul Georg von Möllendorff 一八四七年~一九〇一年)のことであろう。十九世紀後半に朝鮮の国王高宗の顧問を務め、また、中国学への貢献でも知られ、満州語のローマ字表記を考案したことでも知られる。朝鮮政府での任を去った後、嘗ての上海で就いていた中国海関(税関)の仕事に復し、南の条約港寧波の関税局長官となり、そこで没した。

「豺」音「はサイ」。漢語では広く「野良犬・野犬」を指す。狼は含まない。

「狡譎」ずる賢いこと。

「虎に關する史話と傳說、民俗」第五節一六〇――一六一頁を見よ)」所謂、「十二支考」シリーズの「虎」の一部で、大正三(一九一四)年五月発行の『太陽』の「(五)佛敎譚」の第二部「二〇ノ五」がそれ。新字新仮名であるが、「青空文庫」のこちらで読める。]

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 磬―鰐口―荼吉尼天 (その3)

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから(右ページ最終行)。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。注は各段落末に配した。彼の読点欠や読点連続には、流石にそろそろ生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、句読点を私が勝手に変更したり、入れたりする。今回は分割する。]

 

 同號八八九頁に長井君、「日本に稻荷の崇拜の起たのは何時からかは私は測定することは出來ぬが云々」と前置して、弘法大師、南支部の五羊の傳說を齎らしたる、其羊何時しか狐に換り、又何時よりか稻荷を荼吉尼天と混同せるが、荼吉尼は毫も狐に關係無し、と言れたり。フレザーの大著ゴルズン・バウに、羊、狐、兎、狼等を諸方の民が穀精(コーン・スピリツト)と見做す例を夥しく擧げ、論說せり。吾邦に穀精の信有りしや否は、予、これを斷ずる能はざれど、印度人が田作に有害なる獸類を除くを以て虎を有難がり、古支那で十二月蜡の祭りに、平日、田鼠、田豕を食う功に報ひんとて猫と虎を饗し、吾邦にも玉置山抔、狼を神使とし、祀り迎へて、兎、鹿を誅鋤するを求むる諸例より推して、白井光太郞博士(四年前十一月一日「日本及日本人」神社合祀は國家の深憂)が、「狐を神獸とし蛇を神蟲として殺さざるは、古人が有益動物を保護して田圃の有害動物を驅除する自然の妙用を知り、之を世人に勵行せしむる手段とせし者」なりと說かれたるを、正しと思ふ。乃ち、耕作の業、起つてより、吾邦には古く、狐、狼、蛇等を神物とする風ありしなり。

[やぶちゃん注:「長井君」「選集」割注によれば、東洋史学者長井金風(きんぷう 慶応四(一八六八)年~大正一五(一九二六)年)。秋田県大館生まれ。本名長井行(あきら)。金風は号。法制史から経学に進み、比較言語の学を修め、考証学によって支那学を専攻した。『秋田魁(さきがけ)新報』主筆発行人、『二六新』報主筆、秋田県史編纂主任などを務めた。東洋各地を歴遊し、教育者で評論家の巌本善治や、佐々木信綱・森鷗外らと交遊があった。著書に「江氏四種」「周易物語」、歌書「万葉評釈」、私家版歌集「枯葉集」「拓葉和歌集」などがある(日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠った)。

「南支部」(華南のこと)「の五羊の傳說」五羊(ウーヤン)伝説。当該ウィキによれば、『古代中国の広州市を発祥とする』、五『頭のヤギが稲作を伝えたとする伝説』。『「五羊」という表記は最古のものだと唐代の詩で確認されており、関連する伝説は晋にまで遡る。同伝説には幾つかの異聞があったが、明代以降に統一された。一般的なウーヤン伝説は、中原の祖先達によって開拓された嶺南の歴史を反映したものである』とし、『言い伝えでは、古代の広州に旱魃が長年続いた時期があった。食物が極度に不足し、人々は飢えをしのぐことにも窮していた。ある日』、『突然、空で聖なる音楽が奏でられ』、五『色の雲が南シナ海の空から漂ってきた。続いて異なる』五『色の服を着た』五『人の仙人が、異なる』五『色のヤギに乗って』、『その雲と一緒に現れ、それぞれが稲穂』六『本の束を持っていた。仙人達は稲穂を民衆に与え』、『頭のヤギを残して雲で飛び去っ』『ていった。人々がその稲を地面に撒くと、それ以降は広州に風と雨が定期的にやってきて豊作をもたらしてくれた。すると仙人の残したヤギ』五『頭は、丘の上に登るや』、『石になってしまった。これが広州市の愛称の由来となった話である』。『この伝説の叙述記録は晋王朝まで遡ることができ、裴淵』(はいえん)『の随筆』「広州記」に『見られる。北宋の太平興国』八(九八三)年の「太平御覧」もまた、「広州記」の『引用から「広州庁舎にはヤギ」五『頭の絵がある。これは高固』(後の威王(在位:紀元前三三九年~紀元前三二九年)『が楚の大臣だった頃に』五『頭のヤギが穀物を携えてやって来たことから、広大な平野を持つ広州にとっての縁起物として、人々がそのヤギを描いたものだ」と言及している。また唐代の』「郡国志」にも『「三国時代後期の広州に仙人』五『人が』五『色のヤギに乗ってやって来たので、幸運を呼ぶとして今では人々がその絵を描いている」との言及がある』北宋の九八四『年に書かれた』「太平寰宇記」(たいへいかんうき)は、唐代の「続南越志」記述に続いて』、「仙人五人が五色のヤギと稲六粒を』『携えてやって来たとの古い言い伝えがある」と言及している』。『着目すべきは、最も古い晋代の話では仙人たちが出てこない点である。彼らが後世の話で登場して』五『頭のヤギに代わって(民衆に稲を渡す)英雄になった理由は、南北朝時代に道教が盛んになったためだと考えられている』。『唐代以降に「五羊」「羊城」が徐々に古代広州市の愛称となったことからも、同伝説が現地の人々に与えた影響の大きさが見て取れる。唐代の奇譚じみた伝説によると、その当時人々は広州にあった城隍廟でヤギ』五『頭を生贄に捧げていた』というが、『最も古い同様の慣習が南漢にあり、当時の人々が仙人達を祀るために「五仙観」という施設(道観)を建てた。北宋の経略使の張励は』「広州重修五仙祠記」に『ウーヤン伝説をくまなく記録し、五仙観建造の目的が仙人』五『人が到着した場所を記憶に残すためだと説明した。この記録書で、張励は』「南越嶺表遊記」や「図経」を『引用しつつ、以下のように物語を詳細に創作した。「初めから仙人は』五『人おり、それぞれが茎』六『本の稲穂を持ち』、五『頭のヤギに乗って到着した。彼らの服とヤギはどれも違う色で、全部合わせて』五『色だった。人々に稲穂を渡した後、仙人達は飛び去り、ヤギは石像になった。そこで、広州の人達は仙人達が到着した場所に寺院を建てたのである」』と。『伝説の具体的年代に関しては、書物によって様々で』、「太平御覧」では二つの『説を挙げており、楚の時代および三国時代に呉の滕脩が広州の役人に就いた時とされる』。「重修五仙祀記」では三つの』説があり、漢代の趙佗』(在位:紀元前二〇三年~紀元前一三七年)時代と、三国時代の呉の滕脩』(とうしゅう ?~二八八年)の『時代』と、『晋代の郭璞』(二七六年~三二四年:西晋・東晋の文学者・博物学者にして卜占者)『が城を移した時代』が挙げられている。『ところが』、明末清初に『屈大均が著した』「広東新語」は、この物語が周の夷王』(在位:紀元前八八五年~紀元前八七八年)『の時代に起きたと語っている。同書籍にある「五羊石」という話では「周の夷王の時代、南方の海に』五『人の仙人がおり、それぞれが色の異なる服を着て、彼らのヤギもまた服に応じた色である。それぞれ彼らは』六『本の茎を束ねた稲穂を持って現れ、人々にそれを預けて「この地に二度と飢餓が起こらないように」と祈願した。これを言い終えると』、『彼らは飛び去り、ヤギは石へと変わった」と書かれている』。『この話は現代のものと非常に似ており、伝説の重要な要素が全て含まれている』。二十『世紀以降に、「ウーヤン伝説」の神話学研究が行われるようになった。歴史家の岑仲勉は』、一九四八『年、関連する伝説上の話が先史の植民神話にあるという説を提示した。なぜなら、当時のヤギは中原の北西部にいる家畜で、広州がそこの北部だからである。また、仙人達が持っている稲穂は中原でのコメの収穫を表』わ『すものだった。そのため、ウーヤン伝説の歴史的起源は歴史的な出来事が由来とされている。西周の末期、姫姓の一族は楚の人々の抑圧に耐えきれず、彼らは家畜(ヤギ)と穀物(稲穂)を携えて、湘江沿いに嶺南まで南に移動し、その翌年に中国南部でこの』二『つを普及させた。つまりこれは、粤』(えつ:「越」とも書く。中国南部、現在の浙江省以南からベトナム北部にかけて居住しいた南方系民族及びその国を指す)『の人々が中原の先進文化を受け入れて文明の第一歩を踏み出した話の抜粋および改作だという』。『現代研究では、ウーヤン伝説には一般的に多くの史実が含まれていると考えられている。その一つが、楚の人々が生産していた米を嶺南に持ち込んだ点である。楚王朝の祖先一族の姓である「羋(Mi)」には、ヤギの鳴き声を表す擬声語「咩(Mie)」と同じ意味あいがある。二つ目は、西周の末期に楚の抑圧が原因で、姫姓一族がヤギと穀物を携えて』、『広州や珠江デルタに移住した点である。三つ目は』「広州記」の『一節「高固が威王だった頃」に由来するもので、戦国時代には高固とその一族が米と穀物を広州や珠江デルタに持ち込んだと人々は考えていた。高固の子孫の姓は「姜(Jiang)」で、これは漢字の「羊(中国語でヤギ)」と「女」で成り立っていたため、人々は高固一族の事を表すのに「羊」の文字を使っていた』ことなどが、『これらの歴史背景があるという』。但し、『楚の方言だと』、『「羊(Yang)」は実際には「犬(Quan)」を意味するため、ウーヤン伝説は実際のところ』、『チワン族やトン族ならびに南越国の少数民族で共有されていた「犬取稲種」という農耕神話の故事が由来だと考える学者もいる。この嶺南地方の故事が楚に持ち込まれた後、それが中原の知識人によって収集および改訂され、再び嶺南に持ち込まれた。だから「五色羊」というヤギは、実際には』、『色の毛を持つ伝説の犬「槃瓠」の事だとする説がある』とある。以下「関連した事物」の項があるが、省略する。

「フレザーの大著ゴルズン・バウ」ギリスの社会人類学者ジェームズ・ジョージ・フレイザー(James George Frazer 一八五四年~一九四一年)が一八九〇年から一九三六年の四十年以上、まさに半生を費やした全十三巻から成る大著で、原始宗教や儀礼・神話・習慣などを比較研究した「金枝篇」( The Golden Bough )。私の愛読書の一つである。当該部は「第四十八章 動物としての穀物霊」の「一 穀物の動物化身」以下(一九六七年改版岩波文庫刊「金枝篇」(三)永橋卓介訳の二四〇ページ以下に拠った)。

「十二月蜡の祭り」「蜡」は「蠟」の異体字で、旧暦十二月は「蠟月」と呼ぶが、調べてみると、「蜡」とは、中国古代にあっては、「求め集めること」を意味し、ここでは、毎年十二月に万物の霊を呼び集めて饗応する祭儀を指すようである。

「田鼠」モグラ。

「田豕」ここでは猪(イノシシ)の意。

「玉置山」(たまきさん)現在の奈良県吉野郡十津川村にある、大峰山系の霊山の一つである玉置山の山頂直下の九合目にある玉置神社(グーグル・マップ・データ)、或いは、習合していた修験道の進行対象としての玉置山そのもの。この周辺には狼信仰があったことが、oinuwolf氏のブログ「狼や犬の、お姿を見たり聞いたり探したりの訪問記―主においぬ様信仰―」で判る。

「誅鋤」(ちゆうじよ)は「有害対象物や悪人などを殺して絶滅すること」の意。

「白井光太郞」(みつたろう 文久三(一八六三)年~昭和七(一九三二)年)は植物学者・菌類学者。「南方熊楠 履歴書(その43) 催淫紫稍花追記」の私の注を参照。熊楠は神社合祀の反対運動のために彼に協力を求め、白井はそれに応じていた。]

記事更新再開

読書終了、水道工事の目途がついたので、更新を再開する。

2022/08/29

記事無記載延長

父の家の家屋内の水道線断裂により記事無記載を延長する。再開は不明。

2022/08/27

読書のため更新を一時中断する

久々に、じっくりと読みたい本があるので、記事更新を、一時、中断する。

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 磬―鰐口―荼吉尼天 (その2)

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから(右ページ四行目)。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。注は各段落末に配した。彼の読点欠や読点連続には、流石にそろそろ生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、句読点を私が勝手に変更したり、入れたりする。今回は分割する。]

 

 考古學雜誌五卷十二號八五五頁に、沼田君、和漢三才圖會に鰐口の名の起りを、裂口形似鰐首故名之乎と云るは、慥に當を得て居ると思ふと述らる。山口素絢の狂畫苑卷下に、土佐大藏少輔藤原行秀筆百鬼夜行の圖を出せる其第七葉表に、鰐口を首とし兩脚龍腹魚體魚尾を具えたる怪物有り。鰐口の眞中に一眼有り、兩耳を耳とし、裂口より舌長く出して這行く態なり。藤貞幹の好古小錄上に、百鬼夜行圖一卷畫光重とあるは此圖と同物にや。予一向不案内の事乍ら、百鬼夜行の圖は足利氏の代に成りし由、骨董集等に載せ有りしと記憶す。狂畫苑に寫し出す所ろ、其眞筆に違はずば、彼圖は、足利氏の世、既に此種の鉦鼓を鰐口と通稱せるを證し、兼て和漢三才圖會に先つて、裂口形似鰐首故名之と其義を辯ぜる者と謂べし。

[やぶちゃん注:「沼田君」「選集」によれば、沼田頼輔(よりすけ/らいすけ 慶応三(一八六七)年~昭和九(一九三四)年)で、歴史学者・紋章学者。相模国愛甲郡宮ヶ瀬村(現在の神奈川県愛甲郡清川村)生まれで元の姓は山本。理科大学簡易科第二部を修了し、教師・校長を歴任、明治四四(一九一一)年には旧土佐藩山内家史編纂所主任となった。考古学会副会長・人類学会と集古会の幹事を務めた。より詳しい事績は参照した当該ウィキを見られたい。

「和漢三才圖會に鰐口の名の起りを、裂口形似鰐首故名之乎と云る」事前に『「和漢三才圖會」卷第十九「神祭」の内の「鰐口」』を電子化注しておいたので参照されたい。

「山口素絢の狂畫苑卷下」「山口素絢」(そけん 宝暦九(一七五九)年~文政元(一八一八)年)は円山(まるやま)派の絵師で円山応挙の直弟子であるが、これは恐ら熊楠の誤りで、酷似した号「素絢斎」を用いた絵師鈴木鄰松(りんしょう 享保一七(一七三二)年~享和三(一八〇三)年)である。に木挽町家狩野派六代目絵師の狩野典信(みちのぶ)の門人。江戸の人で与力であったとされる。「狂畫苑」は明和七(一七七〇)年刊の絵本で、狩野探幽らの粉本を集成したもの。全三巻。「ARC古典籍ポータルデータベース」のこちらの図が熊楠が言う当該図。以下に示す「⽴命館⼤学アート・リサーチセンター」の所蔵画像である(許可有り)。

 

Ebi1003_08

 

「土佐大藏少輔」(とさのおほくらせういう)「藤原行秀」(生没年不詳)は室町前期の土佐派の絵師。土佐家系図には土佐行広の兄弟ともされるが、未詳。京洛の丸太町通り春日に居住したため、「春日行秀」とも称した。修理亮に任官し、宮廷の絵所預(えどころあずかり)を務めた。記録では、後崇光院の命による「牛板絵」(応永三一(一四二四)年)があり、現存作には醍醐寺蔵の称光帝御世始三壇法の本尊「普賢延命像」(応永二〇(一四一三)頃か)・清凉寺「融通念仏縁起絵巻」(応永二四(一四一七)年頃)の一部がある。鎌倉期の謹直な「やまと絵」手法の上に、南北朝期の奇矯な形態表現などを加え、室町期の「やまと絵」特徴的なの明度の高い色調の穏雅な作風を持っている。事績・作品ともに少ないが、土佐行広と並び、室町期「やまと絵」様式の確立と、土佐派の画壇における覇権確立に重要な役割を担ったと人物と推定されている(「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。彼の「百鬼夜行」(ひやくきやぎやう)「の圖」は、東大所蔵の土佐行秀の原画を蔭山広迢が摸写した彩色画の当該箇所が、「国文学研究資料館」の「電子資料館」のこちらで見られる。但し、先の模写も、こちらの彩色模写も鰐口の中央にあるのは「一眼」ではなく、金属製の蓮の葉様の飾り花である。以下に示す(パブリック・ドメインで許可有り)。絵巻全部を見、画像のダウン・ロードをしたい場合は、こちらで可能である。

 

Waniguiti

 

「這行く」「選集」は『這い行(ある)く』とするが、私は「はひありく」と読みたい。

「藤貞幹の好古小錄」藤貞幹(とう ていかん 享保一七(一七三二)年~寛政九(一七九七)年)は考証学者。京の僧家の出身。十八歳で還俗した。儒学・国学・有職故実に精通し、特に各地の金石文・古文書などを実地に研究。「衝口発」(しょうこうはつ)・「古瓦譜」(こがふ)」などを著わした。本姓は藤原。号は無仏斎・好古。「好古小錄」は考古書で寛政六(一七九四)年の序があり、京で板行されたもの。国立国会図書館デジタルコレクションの同板本のここに、『五十七百鬼夜行圖【一巻𤲿光重】』とあるのを指す。「光重」は土佐光重 (生没年未詳)は南北朝時代の画家。土佐行光の子。明徳元/元中七(一三九〇)年に絵所預となる。「畠山記」によると、その前年、父とともに、河内守護畠山基国の求めにより、八尾・飯盛・竜泉の城を描いている。正五位下・越前守(講談社デジタル版「日本人名大辞典+Plus」に拠った)。国立国会図書館デジタルコレクションのここで原本の写本(彩色)があり、構図は概ね同一である。以下に最大画像で示す(パブリック・ドメイン)。

 

Waniguiti3

 

「骨董集等に載せ有りし」「骨董集」は岩瀬醒(さむる:戯作者山東京伝の本名)の随筆。大田南畝序。全三巻四冊。文化一一(一八一四)年から翌年にかけて刊行された考証物。江戸の風俗・服飾・器具・飲食等の起源や沿革を考証したもので、図解が多い。寛政改革の出版取締令による手鎖五〇日の刑に処せられて以後、京伝は洒落本の筆を断ち、考証随筆に精力を注いだ。「近世奇跡考」に次ぐものが本書であるが、著者の逝去により、上編のみで未完である(平凡社「百科事典マイペディア」に拠った)。【二〇二二年八月二十九日改稿・追記】所持する吉川弘文館随筆大成版で発見した。本文ばかり読んでいて、図を見なかった。「上之巻」の「竹馬」の項の図と、そのキャプションが相当する(吉川弘文館随筆大成版では画像のみ)。国立国会図書館デジタルコレクションでは、「竹馬」の項はここからで、当該図はここにある。国立国会図書館デジタルコレクションの画像は補正しても、地が焼けていて不満足なので、吉川弘文館随筆大成版のそれをトリミング補正して、以下に示し、電子化する。太字は原本では囲み字。句読点を打った。

 

Takeumahyakki

 

   * 

狂畫苑【安永四年印本。】に百鬼夜行(ひやくきやぎやう)の古画(こぐわ)を縮(しゆく)し、出(いだ)せり。其うちに此(この)啚(づ)あり。戯画(けぐわ)なれども、當時(そのとき)の竹馬(たけうま)のさまをみる便(たより)にはすべし。好古小録本朝畫史を合考(あはせかんがふ)るに、今、こゝに、文化十年より、およそ四百二十餘年(よねん)の昔(むかし)なり。駒(こま)の頭(かしら)の形につくる竹馬もふるくありし物(もの)なるべし。 

百鬼夜行(ひやくきやぎやう)は、すべて、戯画(けぐわ)の怪物(かいぶつ)、多ければ、竹馬に足をかきたるなどは、そらごとなるべし。唯(たゞ)、そのおほむねを、みんのみ。

    *

絵図のそれは鰐口の付喪神(つくもがみ)というより、俵のそれのように私には見える。「狂畫苑【安永四年印本。】」尾張藩士で喜多川歌麿に師事した絵師でもあった牧(月光亭)墨僊(安永四(一七七五)年~文政七(一八二四)年)の作品。「ARC古典籍ポータルデータベース」のこちらで、原画像を視認出来る。先と同じく、無許可で使用が可能であることが判ったので、以下に示す。「⽴命館⼤学アート・リサーチセンター」の所蔵画像である。

 

Ld44444_14

 

「本朝畫史」狩野派の江戸前期の絵師狩野永納(えいのう)によって延宝六(一六七九)年に開板された日本画人伝。日本絵画史の基礎資料の一つとされる。「文化十年」一八一三年。「およそ四百二十餘年(よねん)の昔」単純に文化十年から「四百二十」年前としても、明徳四(一三九三)年で、室町時代の足利義満の治世である。

「違はずば」「たがはずば」。

「彼圖」「かのづ」。]

2022/08/26

「和漢三才圖會」卷第十九「神祭」の内の「鰐口」

 

[やぶちゃん注:〔→○○〕は、表字・訓読が不完全で私がより良いと思う表字・訓読、或いは送り仮名が全くないのを補填したものを指す。]

 

Waniguti

わにくち  俗云和尒久和

鰐口

△按鰐口以鐵鑄之形圓扁而半裂如鰐吻懸之社頭従

 上垂下布繩【長六七尺】俗名鉦緒而參詣人必先取繩敲其

 鐵靣未知其㨿恐是好事者本於鉦鼓而欲令異其音

 裂口形偶似鰐首故名之乎

   *

わにくち  俗に云ふ、「和尒久和〔→知〕(わにくち)」。

鰐口

△按ずるに、鰐口は鐵を以つて之れを鑄る。形、圓(まどか)にして、扁(ひらた)く、半(なかば)は、裂けて、鰐〔の〕吻(くち)のごとし。之れを社頭に懸けて、上より垂(たら)し、布繩を下(おろ)し【長さ、六、七尺。】、俗に「鉦の緒(を)」と名づく。而〔して〕、參詣人、必ず、先(ま)づ、繩を取りて、其の鐵靣(てつめん)を敲(たた)く。未だ其の㨿(よるところ)を知らず。恐らくは、是れ、好事(こうず〔→かうず〕)の者、鉦鼓(しやうこ)に本(もとづき)て、其の音を異ならしめんと欲し、口を裂く形、偶(たまたま)、鰐の首(かしら)に似たり故に、之れを名づくか。

 

[やぶちゃん注:当該ウィキによれば、『鰐口(わにぐち)とは仏堂の正面軒先に吊り下げられた仏具の一種で』、『神社の社殿で使われることもある。金口』・『金鼓とも呼ばれ』、『「鰐口」の初見は』正応六(一二九三)年の銘を持つ『宮城県柴田郡大河原町にある大高山神社のもの(東京国立博物館所蔵)』。『金属製梵音具の一種で、鋳銅や鋳鉄製のものが多い。鐘鼓を』二つ『合わせた形状で、鈴(すず)を扁平にしたような形をしている。上部に上から吊るすための耳状の取手が』二つ『あり、下側半分の縁に沿って細い開口部がある。金の緒と呼ばれる布施があり、これで鼓面を打』って、『誓願成就を祈念した。鼓面中央は撞座と呼ばれ』、『圏線によって内側から撞座区、内区、外区に区分される』。『現存する最古のものは、長野県松本市宮渕出土の』長保三(一〇〇一)年の銘の『もの』とある(最古のそれは東京国立博物館蔵で画像がある)。]

曲亭馬琴「兎園小説余禄」 筑後稻荷(とうか)山の石炭

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。句読点は現在の読者に判り易いように、底本には従わず、自由に打った。鍵括弧や「・」も私が挿入して読みやすくした。一部を読み易くするために《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。]

 

   ○筑後稻荷(とうか)山の石炭

西原老人與關生書中云《にしはららうじん、せきせいにあたふるしよちゆうに、いはく》、『黑崎よりの道は、深浦・深谷・手鎌・橫洲・大ぬた・すは・かなう・早米、磯にて御座候。此出先は「四ツ山」に御座候。是より、大ぬた迄、歸り、三池に入《いり》、「とうか(稻荷)山」と申《まをす》所より、石炭を出し申候。燒かへ申[やぶちゃん注:底本にはママ注記がある。]燒たて候間、近きつもりにて、登りかゝり候處、甚《はなはだ》遠く御座候。行なやみ候へ共、馬の足跡をしるべに登り申候處、石炭をほり候穴を「まぶ」と申候。今日は朔日故、休みにて、穴の内、暗く、入《いり》がたく候よしに付、番人をたのみ、松明《たいまつ》にて二十間ほど入り申候。去《さる》冬も、三人、石にうたれ死候由、危き事に御座候。穴の内は、外と、ちがひ、甚、冷氣にて、汗を入申候。其石を掘り候もの、每日百人餘づゝ穴に入申候。二、三間に燈火をてらし申候。鍬と鶴の觜《はし》にて、外《ほか》におもしろき道具は無ㇾ之。燈火も、かわらけにて御座候。山間に、二、三間四方程に、かりに屋根を拵へ、一尺ほど、生石《しやうせき》を敷並《しきなら》べ、火を入候て、其《それ》、宜《よく》燒《やき》候時、灰をかけ候へば、かたまり候よし、勘解由《かげゆ》の領分、草野と中山よりも出候』云々【解、云、「石炭は余るも、二、三種、藏弃《ざうきよ》す。その圖、「耽奇漫錄」にあり。合せ見るべし。】

[やぶちゃん注:「西原老人」「關生」柳河藩藩士西原好和と書家関其寧(きねい)。先のこちらの注を参照。

「黑崎」現在の福岡県北九州市八幡西区黒崎(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。北九州市の副都心に位置付けられており、江戸時代は長崎街道の宿場町として栄えた。

「深浦」「深谷」孰れも不詳。「今昔マップ」で戦前の地図を見ると、福岡県北九州市八幡西区野面附近に「深田」「山浦」の地名が見出せる。

「手鎌」福岡県大牟田市手鎌

「橫洲」不詳。

「大ぬた」福岡県大牟田市があるが、ここでは柳川を通り越してしまう。

「すは」福岡県久留米市諏訪野町(すわのまち)なら、ある。

「かなう」福岡県福岡市西区今宿上ノ原に叶嶽(かのうだけ)がある。

「早米」福岡県大牟田市早米来町(ぞうめきまち)なら、あるが、ここも柳川の先である。但し、古くはここは「磯」であったと推定される。一言言っておくと、西原はずっと江戸住まいで、実際には九州の地名には弱いのではないかと思われ、或いは、以上の幾つかの表記も怪しい気がしている。

「四ツ山」熊本県荒尾市四ツ山町(よつやままち)は前の早米来町の直近であり、ここは東北直近に「三池炭鉱宮原坑」の跡があるから、どうも、西原は素直に蟄居を受け入れて、おとなしく帰藩していないのではないかと思われ始めた。蟄居する前に存分に周辺を遊山したくなる気持ちは判る。しかし、藩では、相当、ヤキモキしていただろうな。

「とうか(稻荷)山」サイト「大牟田・荒尾の歴史遺産」の「江戸時代の三池炭鉱 1.三池炭山の発見」に、『三池で初めて石炭が発見されたのは、文明元』(一四六九)年一月十五日の『こととされている。伝承によると、三池郡稲荷村(とうかむら)の農夫である伝治左衛門』『夫婦が、薪を拾いに出かけた稲荷山(とうかやま)において、焚き火をしている折に石炭を発見したという。この伝承が正しければ、国内で最も早く石炭が発見されたのは三池の地ということになる』。但し、『この話が採録された最も古い文献でも安政』六(一八五九)『年のものにすぎ』ず、『そのため』、『この伝治左衛門による石炭発見の伝承がどの程度』、『事実を伝えているものなのか分からない』とあった。以下、この「稲荷山(とうかやま)」の考証が行われているが、一筋縄ではいかない問題のようである。ともかくも、その最終的な推定では、大牟田市のこの辺りの広域が旧稲荷山(グーグル・マップ・データ航空写真)であったらしい

『石炭をほり候穴を「まぶ」と申候』小学館「大辞泉」に出、漢字表記は「間府・間分・間歩」とし、『鉱山で、鉱石を取るために掘った穴。坑道』とあった。石炭に限らず、金属の鉱山の坑を言うようである。因みに、今に「マブダチ」(本当の親友)の意の語があるが、これは実は、この坑道の意から出たものだ、という説がサイト「雑学ネタ帳」の『「マブダチ」の語源・由来』に載っていた。それによれば、『「間歩」というのは「鉱山の坑道」(トンネル)を表す言葉だった。なぜ「トンネル」が「本物」という意味に変わったのか』というと、『盗賊たちの間では「金脈に通じる」ことから、「本物である」「良いものである」という意味に変化していった。江戸時代の盗賊にとって鉱山のトンネルは本物の金や銀が』ウマウマと『盗める場所だった』。そこから、『「本物」という意味だけが残り、現在の「マブ」になったと考えられている』『そして「マブ」に「友達」を意味する「ダチ」が付けられ、「マブダチ」という言葉が生まれた』とある一方、『一説によると「マブ」は、祭りや縁日などに露店を営む的屋が使っていた隠語だったという情報もある』とある。私は微妙に留保したい気がしている。

「今日は朔日故、休みにて」流石に重労働で過酷にして危険であったから、月の一日には全休となっていたらしい。

「二十間」三十六・三六メートル。

「汗を入」「汗がひく」の謂いであろう。

「二、三間」三・七~五・四五メートル。

「鶴の觜」鶴嘴(つるはし)。

「生石」掘り出した原石の石炭。

「勘解由」江戸幕府の勘定方の異称。

「草野」旧常磐炭田の福島県いわき市内の草野地区か。

「中山」山形県新庄市鳥越にあった中山炭鉱。

「藏弃」整理しないで、所蔵していること。

『「耽奇漫錄」にあり。合せ見るべし』国立国会図書館デジタルコレクションのこの「花炭」か。『豊後國臼杵の産』とある。]

曲亭馬琴「兎園小説余禄」 樂翁老侯案山子の賛

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。

 標題を含め、底本ではただ三行(吉川弘文館随筆大成版では二行)で「兎園小説」中、最も短い記事である。初行の読点は除去して、最初のそれは空欄とした。

 「樂翁」は「寛政の改革」を断行した老中松平定信(宝暦八(一七五九)年~文政一二(一八二九)年)の号。]

 

   ○樂翁老侯案山子の賛

 矢引たるは勇なり はなさゞるは仁なり

  智のひとつかけてをかしきかゞしかな

 

曲亭馬琴「兎園小説余禄」 熱田宮裁讃橋(「裁讃橋」は「裁斷橋」の誤り)

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。

 標題中の「裁讃橋」は吉川弘文館随筆大成版でも同じであるが、これは「裁斷橋」の誤りである。但し、この橋は現存しない。ここにあった(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「裁断橋」によれば、この『橋は宮宿の東の外れを流れていた精進川に架けられていた橋だが、擬宝珠に彫られていた銘文でその名を知られていた』。永正六(一五〇九)年の「熱田講式」には『既にその名が見られるという』とあり、『擬宝珠の銘文には、天正』一八(一五九〇)年の『小田原征伐で死去した堀尾金助という』十八『歳の男性の菩提を弔うべく、その母親が』三十三『回忌に息子を最後に見送った橋の架け替えを行ない、その供養としたことが記されている』。『伝承によっては、母親は橋を』二度、『かけ直しているとするものもある。息子の』三十三『回忌の橋の架け替えは』二『度目のことであったが、それを見ること無く亡くなったため、その養子堀尾類右衛門』が元和八(一六二二)年に『架け替えたとされ、この際に「息子(金助)の供養のためにこの書き付けを見る人は念仏を唱えてほしい」との母の願いが擬宝珠に刻まれたとされる』。『しかし、擬宝珠以外にこれらの伝承を裏付ける同時代史料が存在しないことから、擬宝珠に刻まれている内容以上のことは後世の創作とする見方もある』。ともかくも、『この銘文は日本女性三名文』(後の二つは「成尋阿闍梨母(じょうじんあじゃりのはは)の集」(成尋阿闍梨母(永延二(九八八)年?~?)は平安中期の女流歌人。陸奥守藤原実方の子貞叙に嫁し、僧成尋・成尊(せいそん)の二子を生んだ。夫とは早くして死別した。家集「成尋阿闍梨母集」は宋へ渡る子の成尋を思う母親の心情を詠んだものとして、古来、有名。この歌集は日記的なもので、延久五(一〇七三)年五月で終わっていることから、これ以降に没した推定される)と「ジャガタラ文(ぶみ)のお春の消息」(「お春」(寛永二(一六二五)年~一六九七(元禄一〇)年)は江戸初期に長崎に在住し、後にバタヴィア(ジャカルタ)へ追放されたイタリア人男性と日本人女性の混血女性。ジャカルタから日本へと宛てたとされる手紙が「ジャガタラ文」)と注にある)『のひとつにかぞえられている』とあり、本篇に出る銘文も載っている。また、ウィキの「堀尾金助」によれば、『安土桃山時代の武士』で、天正元(一五七三)年出生で、『堀尾吉晴』(後で注する)『の子、若しくは堀尾方泰の子とされるが』、『続柄には異説がある』。天正十八年の『豊臣秀吉の小田原征伐に吉晴と共に参戦したが』、六月十二日に『陣中で死去した。享年』十八で、『死因については病死説と戦死説があり、前者が有力とされるが、信頼に足る記録はなく未詳。弟の忠氏が吉晴の継嗣となった』。『吉晴が菩提を弔うため』、『妙心寺塔頭に俊巖院を建立する。寺名は金助の戒名「逸岩世俊禅定門」による』。『金助については、熱田の裁断橋を架け替えた際に付けられた金助実母の文である擬宝珠銘文にその名が見える』としつつ、以下、「出自と死因」の項では、『諸書の記述によって』、『吉晴との続柄が違う。どの説も決定的なものは無く、金助母の続柄も変わる』として、五つもの説が示されてある。馬琴は結果して、堀尾吉晴の実子説を採用している。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。句読点は現在の読者に判り易いように、底本には従わず、自由に打った。鍵括弧や「・」も私が挿入して読みやすくした。踊り字「〱」「〲」は正字化した。一部を読み易くするために《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。

 銘文二種は底本では、孰れも上・下段に分離してしまっているが、トリミングして合成し、補正を加えて掲げた。

 

   ○熱田宮裁讃橋

文政乙酉の首夏《しゆか》、西原梭江《ひこう》、筑後柳川へ移住の後、通家[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版にはここにママ注記があるが、これは「つうけ」と読み、ここは「昔から親しく交わってきた家」の意で問題ない。]關《せき》氏へ消息の文中に、熱田の宮「裁讃橋」の銘を寫しておこしたりしを、その婿《むこ》關思亮《しりやう》に借《かり》、抄す。

[やぶちゃん注:「文政乙酉」文政八(一八二五)年。

「首夏」初夏、或いは、陰暦四月の異称。

「西原梭江」「兎園会」会員の一人であった松蘿館こと柳河藩藩士西原好和、或いは、一甫(いっぽ 宝暦一〇(一七六〇)年~天保一五(一八四四)年)。幼少より、江戸で生活し、定府藩士として留守居や小姓頭格用人などを勤めたが、江戸に馴れ過ぎたせいか、幕府から「風聞宜しからず」として、国元筑紫への蟄居の譴責を受け、この文政八年四月に江戸を退去させられている。「兎園小説」冒頭の大槻氏の序の解説を参照。その「都落ち」での一コマということになるのである。恐らくは、彼の「兎園会」、引いては馴染んだ江戸への惜別の贈り物のつもりででもあったのであろうと思われる。

「關氏」書家關其寧(きねい)。

「關思亮」(しりょう 寛政八(一七九六)年~文政一三(一八三〇)年)の前の「婿」は「孫」の誤り。「兎園会」会員で海棠庵で頻出。三代に亙る書家。其寧の孫で、克明(こくめい)の子。常陸土浦藩士。父に学び、藩の右筆手伝などを務めた。書法や金石学などに通じ、父の「行書類纂」の編集を助けた。]

梭江云、『四月廿四日』云々、『宮宿《みやのしゆく》に投宿仕候。宮の宿の入口に橋御座候。この橋の擬寶珠《ぎぼし/ぎぼうしゆ》に何か銘御座候間、すり申度《まをしたく》、駕《かご》より下り申候。文字も、よくわかり申候。誰朽[やぶちゃん注:底本・吉川弘文館随筆大成版孰れもママ注記がある。「擬寳珠」の誤記か。]珠、四所に御座候。東南の柱に「裁讃橋」[やぶちゃん注:くどいが、「裁斷橋」の誤り。以下総て同じ。]とあり。その外は「裁談橋」[やぶちゃん注:これは事実。]とあり。西北の柱には六月十八日とあり。其外は六月十二日とあり。西南の柱ばかり、假名なり。銘、左の如し。

[やぶちゃん注:「宮宿」、東海道五十三次四十一番目の宿場町。東海道でも最大の宿場で、愛知県名古屋市熱田区の熱田神宮の南表の、この附近に当たる。

 以下は底本では御覧の通り、全体が罫線で囲まれてある。電子化では、本文と関好和の附記はそれぞれ繋げた。]

 

Saidanbasi1

 

熱田宮裁讃橋

右檀那意趣者、堀尾金助公、去天正十八年六月十二日、於相州小田原陣中逝去。其法號「逸岩世俊禪定門」也。慈母哀憐餘修造也。此橋以充卅三年忌、普同供養之儀矣。

 好和、按《あんずる》に、天正十八年より三十三年は、元和八戌年に當るか。

[やぶちゃん注:訓読する。

   *

右(みぎ)檀那の意趣は、堀尾金助《ほりをきんすけ》公、去《いんぬ》る天正十八年六月十二日、相州小田原陣中に於て逝去す。其の法號は「逸岩世俊禪定門(いつぐわんせいしゆんぜんぢやうもん)」なり。慈母、哀憐の餘り、修造せり。此の橋、以つて、三十三年忌に充てて、普(あまね)く供養の儀を同じうせり。

   *]

 

Saidanbasi1_20220826142701

 

てんしやう十八ねん二月、十八日に、をだはらの御ぢん、「ほりをきん助」と申《まをす》十八になりたる子を、たゝせてより、又、ふためとも見ざるかなしさのあまりに、いま、このはしをかける事、はゝの身には、ゑんるいともなり、そくしんじやうぶつ、し給へ。いつがんせいしゆんと、後のよの、又、のちまで、此かきつけを見る人は、念佛申《まをし》給へや。卅三のくやう也。

[やぶちゃん注:「ゑんるい」「緣類」(仏縁の類(たぐ)い)か。それだと、歴史的仮名遣は「えんるゐ」である。或いは「緣累」(仏縁を累(かさね)ること)ならば、「えんるい」でよい。

「いつがんせいしゆん」意味不明。或いは「一願成就」の読みの誤りか?

「くやう」「供養」。]

 

解《とく》、按《あんずる》に、堀尾帶刀《たてはき》先生吉晴、天正十八年の秋、遠江州濱松の城を賜ふて居ㇾ之《これにをり》。かくて、慶長五年の春二月、豐臣家の仰《おほせ》として、越前の府の城に移り、關ケ原の役《えき》、果て、出雲・隱岐二州を下されて、廿三萬五千石餘を領したりしに、吉晴の孫山城守忠晴、寬永十九年九月廿日、三十五歲にて卒《そつ》しぬ。子なければ、家、絕《たえ》たり。吉晴の内室、領分にもあらぬ尾州宮驛《みやのえき》の橋をかけ給ひしは、故《ゆゑ》あらん。なほ、考ふべし。

解、云《いはく》、この「裁讃橋の銘」は、「東海道名所記」をはじめとして、近ごろの印本「東海道名所圖繪」にも漏《もら》したれば、人の知ること、稀なりしを、抑りべ人、とー來、好事《かうず》の甲斐ありて、よくも見いだしぬるものかな。錄しもて、好古の人に示すのみ。

[やぶちゃん注:「堀尾帶刀先生吉晴」(天文一二(一五四三)年~慶長一六(一六一一)年)は安土桃山・江戸前期の武将。尾張丹羽郡の土豪堀尾泰晴(吉久)の長男。初め、織田信長に仕えたが、早くに主を豊臣秀吉に変え、天正元(一五七三)年、近江長浜の内に百万石を与えられ、同十三年には近江佐和山城主四万石となった。同十五年の「九州攻め」の後、従五位下・帯刀先生に任ぜられ、同十八年の「小田原攻め」の後、遠江浜松城(十二万石)に移った。秀吉の信任厚く、所謂、「三中老」の一人に任ぜられたが、秀吉死後の慶長四(一五九九)年、越前府中で五万石を与えられた際に、家督を子忠氏に譲り、越前府中に隠居することになった。翌五年七月に新領地へ赴く途中、三河の池鯉鮒(ちりふ:現在の知立市)で、同じ秀吉の家臣加賀井重望(しげもち:「秀望」とも称した)に切られて傷つき、九月の「関ケ原の戦い」には参戦できなかった。戦後、子の忠氏が出雲に転封されたのに従った。忠氏の早世後は孫忠晴(慶長四(一五九九)年~寛永一〇(一六三三)年:享年三十五。彼は亡くなる直前に末期養子を幕府に申し立てたが、その嘆願は認められず、無嗣・断絶、改易となり、大名家としての堀尾家は消滅してしまう)を補佐し、松江城を築いている(主文は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「東海道名所記」私の好きな浅井了意の著になる仮名草子。六巻六冊。万治二(一六五九)年の成立。諸国を遍歴してきた青道心楽阿弥(らくあみ)が、まずは江戸の名所を見物し、その後、連れの男とともに東海道の名所を見物、気楽な旅を続けながら、京に上るという構成で、名所名物の紹介・道中案内・楽阿弥らの狂歌や発句・滑稽談などを交えて、東海道の旅の実情を紹介したムック本のはしり。

「東海道名所圖繪」は六巻六冊。寛政九(一七九七)年刊行。京都三条大橋から江戸日本橋までの東海道沿いの名所旧跡・宿場記事・特産物などに加え、歴史や伝説などを描いたもので、一部には東海道を離れて、三河国の鳳来寺や遠江国の秋葉権現社なども含まれている。著者は京の俳人秋里籬島(あきさとりとう 生没年未詳)。絵師は円山応挙・土佐光貞・竹原春泉斎・北尾政美・栗杖亭鬼卵など錚々たる絵師約三十名が二百点を越える挿絵を担当している(当該ウィキ他に拠った)。]

曲亭馬琴「兎園小説余禄」 小泉兄弟四人幷一媳褒賞之記 / 「兎園小説余禄」巻二~開始

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。

 標題中の「媳」は「よめ」(嫁)。また、二男の「小泉大内藏」の名は「おほくら」。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。句読点は現在の読者に判り易いように、底本には従わず、自由に打った。鍵括弧や「・」も私が挿入して読みやすくした。一部を読み易くするために《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。]

 

兎園小說餘錄第二

 

   〇小泉兄弟四人一媳褒賞之記

          【品川新宿牛頭天王神主

             小泉上總介忰】

        總領  小泉出雲守【酉三十三歲。】

        二男  小泉大内藏【酉三十歲。】

        三男  小泉覺次 【酉二十六歲。】

        四男  小泉淸之助【酉十八歲。】

        出雲守妻  か よ【酉二十七歲。】

右上總儀は、去る文化八年の頃より、中風にて、今、以《もつて》、打臥罷在《うちふしまかりあり》、幷に同人妻儀も、十餘年以前より、持病の血暈《けつうん》、度々差發《さしおこり》致難儀候由、然處《しかるところ》、右之子供四人、幷《ならびに》、出雲、妻かよ、其孝行にて、晝夜無油斷看病介抱いたし、猶、亦、大内藏儀は、芝神明社家、相務罷在候に付、社務の暇、有ㇾ之候へば、早朝より、父母の方に罷越、看病いたし、兄弟四人・かよ共に、孝行、大かたならず、凡、十三、四年の間、異體一心に志を盡し候趣、相聞え、請取《うけとり》、しらべに相成《あひなる》。今玆《こんじ》、文政八年乙酉春三月日、右之者共、寺社御奉行所へ被召出、御褒美として、小泉出雲ヘ御銀《おぎん》十枚、外四人へ、御銀五枚づゝ、被ㇾ下ㇾ之候由。同年三月下旬、右之趣を印行《いんぎやう》して賣步行《うりあるき》候間、卽、使買取《かひとらしめ》、尙、亦、外も聞合《ききあはせ》候處、相違無ㇾ之事の由に付、しるしおく。かく、一家うち揃ひての孝行は、世に有がたし。尤《もつとも》美談たるべきもの也【乙酉四月廿三日。】。

[やぶちゃん注:「品川新宿牛頭天王」「品川区」公式サイト内の「東海道品川宿のはなし 第10回」によれば、『品川宿の6月の行事は貴布禰社』(きふねしゃ)『(今の荏原神社)と北品川稲荷社(今の品川神社)の牛頭天王祭から始ま』るとある。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「文化八年」一八一一年。

「血暈」産後に「血の道」で、眩暈(めまい)がしたり、体が震えたりする病気。「血振(ちぶるい)」とも呼ぶ。

「芝神明社家」現在の東京都港区芝大門一丁目に鎮座する芝大神宮。一時期には准勅祭社とされた東京十社の一社であった。

「文政八年乙酉」一八二五年。

「印行して」瓦版にして。]

ブログ・アクセス1,800,000アクセス突破記念 梅崎春生 ある青春

 

[やぶちゃん注:昭和二七(一九五二)年六月号『群像』に発表された。既刊本には収録されていない。

 底本は「梅崎春生全集」第五巻(昭和五九(一九八四)年十二月沖積舎刊)に拠った。

 太字は底本では傍点「﹅」。文中に注を添えた。

 本篇の話柄内時制は冒頭部の「二十歳」という記載から、熊本五高時代の、数えなら、昭和九(一九三四)年、満年齢なら、その翌年に当たる。昭和九年ならば、怠け癖によって三年生を落第した年に当たる。この頃は、校友会雑誌『龍南』の編集委員を担当するとともに、同誌に詩を発表していた(ブログ・カテゴリ「梅崎春生」に各個に電子化注してあるほか、サイトで藪野直史編「梅崎春生全詩集」(ワード縦書一括版)を公開してある)。主人公も落第しているが、或いは、本作の「N」という落第生には、実は梅崎春生自身の影が込められているのかも知れない。先に言っておくと、本篇は途中で尻切れている感がある

 なお、本テクストは2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが本日午前中に1,800,000アクセスを突破した記念として公開する。【藪野直史】]

 

   あ る 青 春

 

 Nがある時、こんなことを言った。食事時だ。

「おれは子供のとき、おあずけをやらせられてたんだぜ」

「おあずけって、なんだね」と私は聞いた。

「おあずけって、おあずけさ。そら、犬なんかに命令するだろう。おあずけ。あれだよ」

 よく判らなかった。きっとNはその言葉を、隠喩(いんゆ)のつもりで言っているのだろう、と私は思った。私は黙っていた。するとNは箸を止めて、顔を上げた。うすいあばたのある大きな顔だが、その時はいつもよりも、一廻り大きく見えた。

「親爺が晩酌をやっているだろう。そしておれが食卓につくんだ。箸をとろうとすると、親爺が大きな声で、おあずけ、と号令する。おれは箸を置いて、親爺の晩酌がすむまで、じっと待っている。二時間でも三時間でも、待っているんだ」

「それはたいへんだな」と私は同情した。しかしその時、そんなNの子供のときの顔を、私はうまく想像できなかった。Nは私より二つ年長で、歳の割にはたいそう大人びた顔をしていたし、眼つきにもどこか暗いところがあった。つまり子供時分を類推させない顔だったのだ。

「辛かったよ。いつからそんなしきたりになっていたのか、おれにも記憶がないんだ。たぶん、物心もつかない頃から、犬を訓練するように、親爺はおれにおあずけを仕込んだんだろうな。きっとそうだよ」

 どういうことから、こんな話になったのか、私はよく覚えていない。しかしその時下宿の茶の間で、むかい合って食事をしていたことだけは覚えている。その古ぼげた素人下宿は、私たちが通っていた高等学校の裏手の、桑畑にかこまれた一郭にあった。賄(まかない)付きで月に十六円という、当時の田舎町にしても、破格に安い下宿屋だった。そのせいか待遇も安直で、三度々々油揚げが形をかえて出でくるような賄方だった。で、その時も、油揚げの煮付けか何かで、昼食をとっていたのだと思う。

「――食いたい食いたいと思って、一心に食卓をにらみつけている。おあずけは解けない。そのうちに眼の前の食べ物が、だんだん妙な具合に見えてくるんだな。腹はグウグウ鳴るしさ。まっ白い飯の色。味噌汁や煮付けの匂い。そいつらが内臓のどこかを、痛烈にぐいぐいとつき上げてくる。それと同時に、だな。眼の前の食べ物が、ただ膳の上に並べられているだけで、全然おれと関係のない物体のように、それも大昔からそうと決まっていたもののように、子供のおれには思われてくるんだ。そういうおれを、親爺は横目で見ながら、ゆっくりと盃をかたむけている」

「君の親爺さんは――」と私は訊(たず)ねた。「なにかね。ほんとの親爺さんだったかな?」

 Nはそれには返事をしなかった。大きな顔をかすかに振り振り、御飯を口にはこびながら、やがてはき出すように言った。

「親爺は大酒飲みで、しかも酒乱なんだ。いずれ中風でヨイヨイになるだろう。前の夏休みに帰ったとき、おれが勧(すす)めて、血圧を計らせたんだ。二百にちかかった」

 私たちは勤勉な学生ではなかった。私は二十歳。Nは二十二歳。ことにNは前年度に落第して、それで私と同級になったわけだ。今度つづけて落第すると、規定にしたがって、学校を出なくてはならない。それだのに、一学期も二学期も、彼は成績が悪かった。学期々々の成績は、校舎の一隅におおっぴらに貼り出される仕組みなので、貼り出された自分の成績に、大きな顔を悲廣にゆがめて眺め入っているNの顔を、私は思い出すことができる。それは反撥と嫌悪で腹の中がまっくろになったような顔だった。

 しかしそれもその時だけで、あとは彼は忘れてしまう。三学期になっても、身を入れて勉強するそぶりは全然なかった。しょっちゅう課業を怠けて、下宿に寝ころんで小説類を耽読したり、下手な謡曲をうなったり、夜は夜でマントをかぶって、街に酒を飲みに行ったりしていた。Nは年齢の割には酒はつよかった。どんな酒でも飲んだ。銘柄や味を吟味する方の口ではなかった。

 そしてNは金使いも荒かった。彼の実家は田舎の小地主で、それで私などにくらべて、潤沢な学資を送られていたんだと思う。しかしその金をNは、私から見るとほとんど無目的な浪費の仕方で、使い果たしてしまう。ふだんはゴールデンバットしか喫わないのに高価なパイプを買い求めたり、近くの温泉地にぜいたくな小旅行を試みたりするのだ。それは年若の私にも、すこし感傷的なやり方にさえ思われた。そしてしょっちゅうあちこちに借金をつくって、ピイピイしていた。

 その下宿は、拘橘(からたち)の垣根にかこまれたうす暗い家で、その離れの二部屋を借りて、私とNとはそれぞれ棲(す)んでいた。朽ちかけた竹の濡れ縁のついた、古ぼけたつくりの部屋だ。その主は年寄りの能楽師で、時折母屋の方から、鼓をうつ音や、歯の抜けたような謡い声が聞えてきたりする。そこらあたりに湿った土の匂いや、漠方薬を煎(せん)じる匂いが、いつもうすうすとただよっている。廂(ひさし)のひくい、だだっぴろい構えの家だった。下宿人は私とNの二人だけであった。こんな下宿をとくに好んだのではなく、下宿料が安いという取柄だけで、私はここに入っていたのだが、Nも同じ気持であったかどうかは判らない。おそらく同じではなかっただろう。学資の点からしても、経費を節減する必要は彼にはなかったのだから。そんなことは彼にはどうでもよかったのかも知れない。部屋は棲むに足ればよかったし、食事は油揚げであろうとなかろうと、腹を充たせばそれでいい。彼の日常からして、そう考えているようにも、私には見えた。それは育ちの違いというものを、私にときどき感じさせた。私は貧しい官吏の伜であったし、したがって貧しさということに対して、極めて敏感に気を使っていたし、自分の生活をストイックなものに思いなす意識が、常々私を離れたことがなかったから。そういう点で、私は彼の生態を、実感としては理解できなかった。ただ規則立った学業が嫌いだという点において、私は彼と共通していた。私も学校をさぼって絵を描いたり、母屋の老人について仕舞の型をならったり、Nにくっついて酒を飲みに行ったり、毎日そんなことばかりをしていた。その日その日がのんびりと過ぎればいい。そんな気持だった。だから私も極めて成績は悪かった。学年末が迫ってくるにつれて、しだいに私は憂鬱になっていた。試験の前の莫大な努力をかんがえるだけでも、私の気持は重くなった。努力とか力行とかいうことを、私は昔から好きな方ではなかったのだ。

 私たちがよく酒を飲みに行ったのは、田島屋といううどん屋兼居酒屋の店だった。学校は町からすこし離れたところにあって、私たちは下宿を出ると、学校の横手のさびしい畠道をぬけ、馬糞のにおいのする街道に出る。街道をしばらく歩くと、町の屋並みがやがて見えてくる。田島屋はその屋並みのいちばん入口のところにあった。なぜこの店に行くかといえば、ここが多分下宿からもっとも近い居酒屋だったからだ。(他にもひとつ理由がある。)もちろんこんな店には、私たちをのぞけば、高等学校の生徒などは出入りをしやしない。皆あかるい街に出て、ビヤホールや契茶店に入ったりするのである。田島屋の客は、おおむね近所の百姓や馬方や、そんな種類の人々が多かった。土間があって卓が四つ五つおいてある。奥には畳敷きの部屋がひとつある。土間の隅を格子(こうし)で仕切って、そこが調理場になり、何時もそこに一人の小娘がいて、うどんを茹(ゆ)でたり、徳利をあたためたりしていた。十六、七の色の白い、影の淡い感じの小女(こおんな)だった。その女をいつからNが好きになるようになったのか、私はよく知らない。学年末がそろそろ迫ってくる頃ではなかったかとも思う。

「あのギンコという女を、お前どう思うね?」

 Nは私にそんなことを聞いた。ギンコという名前であることを、私はその時初めて知った。

「どう思うって――」と私は口ごもった。どんな意味の質問なのか、よく判らなかったからだ。「あれはどこか身体が、弱いんじゃないかな。眉毛が妙にうすいじゃないか。病気なのかも知れないな」

 その病気の名を私は不謹慎に口にした。Nはやや暗い眼をまっすぐ私にむけ、考え考えしながら口を開いた。

「あのこは孤児なんだぜ。生れつきのひとりっ児なんだ。身寄りがないもんだから、あそこに引取られているんだ」

「だから影がうすい感じなんだな。しかし君はそんなことを、よく知っているんだね」

「おれはギンコが、好きなんだ」

 Nははっきりした口調で、そう言った。私は気押されたように口をつぐんでしまった。めらめらと燃え上るようなものが、Nのその言葉に感じられたからだ。それは同時にある理由から、いちまつの危惧みたいなものを、するどく私に感じさせた。一年近く隣同士に生活していて、Nの性格や日常をかなり知っていたので、いまNが女を好きになったことは、それだけである破局を私に漠然と予想させた。少し経って、私はさり気なく言った。

「好きになるのもいいけれど、今度は及第する算段をした方がいいと思うな。僕もそうするつもりだし――」

「そうすりゃいいだろう」

 そっけない口調でそうさえぎると、Nは盃(さかずき)を口に持って行った。その時私たちは、田島屋の奥座敷で、向い合って飲んでいたのだ。ここではよく芋焼酎をのませたが、その夜も確かそうだと思う。隙間風が肌にひりひりするような寒い夜だった。底冷えがして、酒でも飲まなければやり切れないような気侯だった。

「おれは近頃何だか、ばかばかしくなっているんだ」しばらくして袖口で唇を拭きながら、Nが言った。「ここで踏んばって勉強して、どうにか進級したとしてもさ、また同じような生活がえんえんと続くだけだろう。そりゃあまあ、続いてもいいけれどもさ、それを続けるために、寒い中をこつこつと勉強するなんて、とにかく何だか、やり切れない感じがしないかい」

「しないね」と私は答えた。「落第する方がよっぽどやり切れないよ。君だって、実際学校を追い出されるのは、困るんだろう」

「うん。それはすこしは、困るんだ」

 言葉ではそう言ったけれども、そのNの顔には、なんだか自分の内部のものを持ち扱いかねているような、奇妙な焦噪の色があらわれていた。私はまぶしくそれを見た。

「学校を追い出されたら、家に帰らなくてはいけないしな。家での生活は、おれはあまり面白くないんだ。酒もろくには飲めないし」

「それでギンコを好きになったとは、どういうことだね」

 と私は声をひそめて訊ねてみた。座敷の障子の破れから調理場が見え、ただよう湯気のあわいにギンコの姿がちらちらと動いていたからだ。Nのうす赤く血走った眼が、なにかいどむような光をたたえて、私を見詰めた。私はたじろいだ。

「好きということは、好きということさ。他に言い方があるかい」

 Nは女色には潔癖であったし、その頃彼はまだ、童貞であっただろう。潔癖というよりは、一部の高校生に特有な、無関心という感じに近かったと思う。だからNの言い方は、おそらく本音であったに違いない。しかしそのNの言葉を聞いた時、私はなにか当惑に似たものが、ひしひしと胸にのぼってくるのを感じていた。それは顔色に出さず、私はも一度探るように、Nに確かめていた。

「あのこがみなし児だから、なんだか不幸な感じがするから、君はあれを好きになったんじゃないだろうな」

 Nは不興気(げ)にだまった。その話はそこでとぎれた。だからよくは判らないけれども、私の質間はある程度、的(まと)を射ていたのではないかと思う。Nの日常から見て、不幸への傾倒とでも言ったようなものを、いつか私は彼の内部にうすうすと嗅ぎ当てていたから。つまり、この世の約束をはみ出て揺れ動くようなもの、尖鋭な光を放ち、かぐろい翳(かげ)を隈(くま)どるようなもの、そんなものを彼は無意識裡に切に求めているらしかった。そしてそれはその底に、平板な現実にたいする不信を、根強くひそめているようだった。おあずけをくった犬みたいな眼で、彼は自分の毎日を眺めている、それが彼の性格に、あるイリタブルな調子と狷介な傾向を、しだいにつけ加えてきている。これはもちろん私の観察にすぎないし、彼自身にもはっきりした自覚はなかったのだろう。彼のギンコヘの関心の仕方も、そういう焦点のむけ方なのだろうと、その時の私には思えたのだが。そしてそれ以上、ギンコについて言及するのを、私ははばかった。[やぶちゃん注:「イリタブル」irritable。「怒りっぽい・腹を立てやすい・激しやすい・短気な」の意。]

 その時まで私は、その女がギンコという名前であることも、みなし児であるということも、ほとんど知らなかった。しかし実は私は、ギンコの身体をすでに知っていた。ギンコは田島屋の雇い女でもあったけれども、同時に半分は春婦でもあったらしいからだ。田島屋の主人がギンコに、そんなことを強制していたのかどうかも、私は未だ知らない。ある夜偶然に、私は彼女の一夜の客となったに過ぎない。それもずいぶん前のことだった。まだ夏服を着ていた頃だったから、初夏か秋口のことだったに違いない。

 ある夜遅く私はひとりで街から帰ってきた。ずいぶん夜も更(ふ)けていて、街道にも人影はなかった。そして田島屋の店の表の提燈(ちょうちん)のかげから、突然そのギンコは私を呼び止めたのだ。

「ねえ。学生さん」

 私は立ち止った。私はすこしは酔っていた。提燈の乏しい光の中に、ギンコの顔が白い花のように、ぽっかり浮んでいた。それは妙に非現実的な感じだった。その顔が言った。

「ねえ。遊んでゆかない?」

 どんな気持であったかよく覚えていない。しかしその声にすぐ応じる気持になったのは、私の酔いの気紛れだったのだろうとも思う。私は平常身を持するに臆病であったし、冒険(?)は私の性には全然合わなかった。あるいは、提燈の光に照らされたギンコの、眉のうすい混血児めいた印象に、ふと強くひかされたのかも知れない。ごくありふれた顔でも、これが春婦だと意識した瞬間に、はげしくひきつけられたりすることが、時たま男にはあるものだ。私はまだ二十歳ではあったけれども、男であることは一応男だったのだから。

「そうだな。遊んでもいいな」

 私はいっぱしの男のような口を利(き)いた。女身にたいする畏怖や警戒を、私は出来るだけかくそうと努めていた。また一面には、こんなにスムーズに機会がやって来たことを、ひそかに喜ぶ気持もあったのだ。そのことは私に既知の経験ではなかった。しかしそれを眼の前の女身に知られるのは、私の自尊心が許さなかった。今思うと、あの頃の私は現在の私より、ずっとひねくれていたようだ。

 そして女の手が私に触れた。ギンコは花模様のワンピースを着ていた。腕をからむようにして、私を田島屋の店のなかに引き入れた。その動作はやわらかで、ひどく手慣れたやり方のように感じられた。私はほとんど無抵抗にそれに応じた。燈が消され、女が服を脱ぐ衣(きぬ)ずれの音が、闇の底でかすかに鳴った。出来るだけ無恥に! なにかをいらいらと待ちながら、私は自分にそう命令したりしていた。やはり緊張に耐えられなかったからだ。時間が過ぎた。

 やがて田島屋を出て下宿の方に戻りながら、私はいくらか虎脱した気持で、女身の記憶をしきりに反芻(はんすう)していた。ちりちりした髪の感触、肌の匂い、双の肩胛骨(けんこうこつ)のぐりぐりした動きなど。それらは断(き)れ断れな印象として、私の皮膚に残っていた。女なんて貧しいものじゃないかと、月を仰ぎながら、私はふと考えたりした。それが自分の生理の貧しさとは、私は考えなかったし、また気がつきもしなかった。自分を泥土につき落したつもりでいて、そのことで私はむしろ昂然(こうぜん)としていた。

 その夜のことは、私は誰にもしゃべらなかったし、Nにも秘密にしていた。しゃべったって始まらないじゃないか。それが若い私の自分への言い訳だった。しかしやはり私はそのことを、恥じたりこだわったりしていたのだろう。

 ギンコとの身体の交渉は、それまでにはそれ一度だけだった。その夜から一箇月ほどして、私はNをつれて田島屋ののれんをくぐった。酒を飲むためだ。しかしも一度あの女の顔を見たいという気持は、私には確かにあった。ギンコは格子(こうし)のなかで、せっせと注文のうどんを茄(ゆ)でていた。私の顔を見ても、空気を見るようで、べつだん表情を動かす風(ふう)もなかった。私はやや失望したし、また軽侮されたような気にもなった。Nは始めてのこの店を、なかなかいい店じゃないかと、大きな顔を左右にむけて、吟味するように眺め廻したりした。こんな店をNはそれまであまり知らなかったので、手軽で実質的なところがひどく気に入ったようだった。それから私たちは、しばしばこの店に通うようになった。ことに寒くなってくると、遠い街まで出かけるのは億劫(おっくう)なので、自然と田島屋に通う度数もふえてきていた。もうその頃はギンコの存在も、かすかな痛みの一点として胸に残るだけで、大体酒の運び手以上にはみ出た感じは、私からはすでに消え去っていた。強いて私は自分の心の一部分を、切り捨てていたのかも知れない。そんなことで心を労するのは無益だと、いつか私は心の底で計算していたのだろうから。

 しかしNがギンコを好きだと宣言したあの時、そのギンコとのいきさつを私が告白するのをはばかったのも、たんに羞恥やこだわりのせいではなかった。私の内部にある核のようなものを、Nの言葉がなにかするどく刺戟してきたからだ。私はNの網膜を通して、ふいに新しく生き返ってきたようなギンコの姿を、その時ありありと感知していた。イリタブルな情緒が私の心をゆすぶった。はげしい当惑に似た感じも、同時に胸にきた。

『学校がうまく行きそうにないもんだから、それでヤケになって、女に惚れやがる』

 毒々しく言えば、そんな気持にもなりながら、私はNに相対していたと言ってもいい。しかしヤケになっているのは、私の方かも知れなかった。試験のことも自信はなかったし、その準備の重さを考えるだけでも、少からずいらいらしていたのだから。

 そして私は実のところ、Nを嫉妬していたのかも知れない。平板な現実への不信から、強烈な夢をよそに結び得る彼の性格、それを許す彼の育ちや境遇。それらを瞬間に私は羨望し嫉視していたと、言えば言えるだろう。つまり私はNにたいして、この一年間単なる観察者であったことに、突然やり切れなくなっていたのだ。私のような経歴や性格にとって、無感動ということが、この世に身を処するもっとも有利な方法であることを、当時の私はもううすうすと感じ始めていたが、それを裏切ったのは、やはり私の『若さ』であった。『若さ』が持つ盲目的な衝動であった。

曲亭馬琴「兎園小説余禄」 僞男子 / 「兎園小説余禄」巻一~了

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。句読点は現在の読者に判り易いように、底本には従わず、自由に打った。鍵括弧や「・」も私が挿入して読みやすくした。踊り字「〱」「〲」は正字化した。一部を読み易くするために《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附し、改行を施した。標題は「にせなんし」と読んでおく。

 

   ○僞男子

麹町十三丁目なる蕎麥屋の下男に【「かつぎ男」といふものなり。】吉五郞といふものあり。

此もの實は女子也。人、久しく、これを知らず。

年、廿七、八許《ばかり》、月代《さかやき》を剃り、常に、腹掛を、かたくかけて、乳を顯さず。

背中に、大きなる、ほり物あり。俗に「金太郞小僧」といふものゝかたちを刺《ほ》りたり。この餘《ほか》、手足の甲までも、ほり物をせぬところ、なし。そのほり物に、ところどころ、朱をさしたれば、靑・紅、まじはりて、すさまじ。

丸顏、ふとり肉《じし》にて、大がら也。

そのはたらき、男に異なること、なし。

はじめは、四谷新宿なる引手茶屋にあり。そのゝち、件の蕎麥屋に來て、つとめたりとぞ。

[やぶちゃん注:「引手茶屋」遊廓で遊女屋へ客を案内する茶屋。江戸中期に揚屋(あげや)が衰滅した江戸吉原で、特に発達した。引手茶屋では、遊女屋へ案内する前に、芸者らを招いて酒食を供するなど、揚屋遊興の一部を代行した形であった。そこへ、指名の遊女が迎えにきて、遊女屋へ同道した。引手茶屋の利用は上級の妓女の場合に限られたから、遊廓文化の中心的意義を持った(小学館「日本大百科全書」に拠った)。]

誰いふとなく、

「渠《かれ》は、『僞男子』也。」

といふ風聞ありければや、四谷大宗寺橫町なる博突うち、これと通じて、男子を、うませけり。是により、里の評判、甚しかりしかば、蕎麥屋の主人、吉五郞には、身のいとまをとらせ、出生の男子は、主人、引とりて、養育す。

[やぶちゃん注:「四谷大宗寺橫町」(よつやだいそうじよこちやう)は現在の新宿区新宿一・二丁目相当。]

かくて、吉五郞は、木挽町のほとりに赴きてありし程、今茲、天保三年壬辰秋九月、町奉行所へ召捕られて入牢したり。これが吟味の爲、奉行所へ召呼るゝとて、牢屋敷より引出さるゝ折は、小傳馬町邊、群集して、觀るもの、堵《かき》の如くなりしとぞ【こは、十一月の事なり。】。

[やぶちゃん注:「天保三年壬辰」一八三二年。]

或は、いふ。

「此ものは、他鄕にて、良人を殺害《せつがい》して、迯《にげ》て、江戶に來つ。よりて、『僞男子』になりぬ。世をしのぶ爲也。」

など聞えしかども、虛實、定かならず。

四谷の里人に、此事をたづねしに、何の故に男子になりたるか、その故は詳《つまびらか》ならず。

四谷には、渠に似たる異形《いぎやう》の人、あり。

四谷大番町なる大番與力某甲の弟子《おとうとご》に、「おかつ」といふものあり。幼少のときより、その身の好みにやありけん、よろづ、女子《によし》のごとくにてありしが、成長しても、その形貌を更めず、髮も髱《たぼ》を出し、丸髷にして櫛・笄《こうがい》をさしたり。

[やぶちゃん注:女性の結髪の後部に張り出した髪を、撓めて作った、襟首に下がる部分の名称。日本髪の美しさのポイントとなる部分である。]

衣裳は勿論、女のごとくに廣き帶をしたれば、うち見る所、誰も男ならんとは思はねど、心をつけて見れば、あるきざま、女子のごとくならず。

今茲は【天保三年。】四十許歲《しじゆうばかりのとし》なるべし。妻もあり、子供も幾人かあり。

針醫を業とす。四谷にては、是を「をんな男」と唱へて、しらざるもの、なし。年來《としごろ》、かゝる異形の人なれども、惡事は聞えず、且、與力の弟なればや、頭より、咎《とがめ》もあらであるなれば、彼《かの》「僞男」吉五郞は、此「おかつ男」をうらやましく思ひて、男の姿になりたるか。いまだ知るべからず、といへり。

とまれかくまれ。珍說なれば、後の話柄になりもやせん、遺忘に備《そなへ》ん爲にして、そゞろに記しおくもの也。

 

兎園小說餘錄第一 

曲亭馬琴「兎園小説余禄」 鼠小僧次郞吉略記

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。句読点は現在の読者に判り易いように、底本には従わず、自由に打った。鍵括弧や「・」も私が挿入して読みやすくした。踊り字「〱」「〲」は正字化した。祭り番付など、一部を読み易くするために改行を施した。

 ご存知、義賊として知られる「鼠小僧次郎吉」(寛政九(一七九七)年?~天保三年八月十九日(一八三二年九月十三日)の記事。彼については、当該ウィキが詳しいので参照されたい。]

 

   ○鼠小僧次郞吉略記

此もの、元來、木挽町の船宿某甲が子なりとぞ。いとはやくより、放蕩無賴なりけるにや。家を逐れて武家の足輕奉公など、しけり。文化中、箱館奉行より町奉行に轉役して、程なく死去せられし荒尾但馬守の供押を勤め、其後、荒尾家を退きて、處々の武家に渡り奉公したり。依ㇾ之、武家の案内に熟したるかといふ一說あり。寔に[やぶちゃん注:「まことに」。]稀有の夜盜にて、この十五ケ年の間、大名屋敷へのみしのび入て、或は長局、或は納戶金をぬすみたりしといふ。その夜盜に入りける大名屋敷、凡、七十六軒、しのび入て、得ぬすまざりける大名屋敷十二軒、ぬすみとりし金子、都合三千百八十三兩二分餘、【軒別・金別は「聞まゝの記」にあり。】是、「白狀の趣なり。」とぞ聞えける。

[やぶちゃん注:「木挽町の船宿某甲が子なりとぞ」当該ウィキでは、『歌舞伎小屋』『中村座の便利屋稼業を勤める貞次郎(定吉・定七とも)の息子として元吉原(現在の日本橋人形町)に生まれる』(注に『愛知県蒲郡市という説もあるが、日本橋説の方が有力である』とある)としており、以下の荒尾但馬守以下と合わせて、もう、この頃には、あることないことの「鼠小僧伝説」が始まっているようである。

「文化中」一八〇四年から一八一八年まで。徳川家斉の治世。

「荒尾但馬守」荒尾但馬守成章。詳細事績不詳。町奉行は文政三(一八二〇)年から文政四(一八二一)年一月まで務めてはいる。芥川龍之介「戯作三昧」(リンク先は私の古い電子化。も別ページである)の「七」で、鼠小僧に言及した馬琴の話相手の本屋和泉屋市兵衛の台詞の中にも、この話が出るが、これは、現在、研究家によって「戯作三昧」 の典拠の一つとされる饗庭篁村の「馬琴日記紗」の「鼠小僧の事」がソースとされているので、ループしてしまっているので、原拠は不明である。

「供押」「ともおし」か(同前の「戯作三昧」の「七」で、市兵衛は『御供押し』と出る。中間(ちゅうげん)、或いは、その下の位か。

「長局」(ながつぼね)は、長く一棟に造って、幾つにも仕切った女房の住居。宮中・江戸城・諸藩の城中などに設けられていたとあるので、謂いとしては、相応しくない。]

かくて今茲[やぶちゃん注:「こんじ」。]【天保三壬辰年。】五月[やぶちゃん注:ここに底本では囲み字で『原本脫字』とある。]の夜、濱町なる松平宮内少輔屋敷へしのび入り、納戶金をぬすみとらんとて、主候の臥戶の襖戶をあけし折、宮内殿、目を覺して、頻に宿直の近習を呼覺して、「云々の事あり。そこらをよく見よ。」といはれしにより、みな、承りて見つるに、戶を引あけたる處、あり。「さては、盜人の入りたらん。」とて、是より、家中迄、さわぎ立て、殘す隈なく、あさりしかば、鼠小僧、庭に走出、屛[やぶちゃん注:塀(へい)。]を乘て、屋敷外へ「摚」[やぶちゃん注:「だう」。「支える・拒む・遮る」の意であるが、ここは、「ドン!」というオノマトペイアである。]と飛をりし折、町方定廻り役【榊原組同心大谷木七兵衞。】夜廻りの爲、はからずも、その處へ通りかゝりけり。深夜に武家の屛を乘て、飛おりたるものなれば、子細を問ふに及ばず、立地(たちどころ)[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版では漢字は『立処』。]に搦捕たり。扨、宮内殿屋敷へしのび入りしよし、白狀に及びしかば、留守居に屆けて掛合に及びしに、「途中捕りの趣に取計くれ候樣」賴[やぶちゃん注:「たのむ」。宮内殿の留守居が主語。]に付、右の趣に執行ひて[やぶちゃん注:「とりおこなひて」。]、向寄の町役人に預け、明朝、町奉行所へ聞えあげて、入牢せられ、度々、吟味の上、八月十九日、引廻しの上、鈴森に於て梟首せられけり。

このもの、惡黨ながら、人の難儀を救ひし事、しばしば也ければ、恩をうけたる惡黨、おのおの、牢見舞を遣したるも、いく度といふことを知らず。刑せらるゝ日は、紺の越後縮の帷子を着て、下には白練[やぶちゃん注:「しろねり」。]のひとへをかさね、襟に長總の珠數をかけたり。年は三十六、丸顏にて、小ぶとり也。馬にのせらるゝときも、役人中へ丁寧に時宜をして、惡びれざりしと、見つるものゝ話也。この日、見物の群集、堵[やぶちゃん注:「かき」。垣。]の如し。傳馬町より日本橋、京橋邊は、爪もたゝざりし程也しとぞ。鼠小僧の妹は、三絃の指南して、中橋邊にをり、召捕られし折まで、妹と同居也しといふ。虛實はしらねど、風聞のまゝを記すのみ。

[やぶちゃん注:「越後縮」(えちごちぢみ)は麻織物の一種。新潟県魚沼地方を主産とする。カラムシ(双子葉植物綱イラクサ目イラクサ科カラムシ属ナンバンカラムシ変種カラムシ Boehmeria nivea var. nipononivea )を用い、地の縦糸に強い撚りをかけて織り上げることで、ちじみしぼ(皺)をつけた主に夏用の織物のことを言う。

「帷子」「かたびら」。裏地を付けない一重のこと。

「白練のひとへ」「ひとへ」は「單衣」で、生糸で織った練られていない真っ白な絹で作った小袖(袖口の小さく縫いすぼまっている着流し風の上着)を言うかと思う。

「長總」「ながふさ」で、「小さなものが集まって垂れ下がっているもの」を言う。

「中橋」この附近(グーグル・マップ・データ)。]

曲亭馬琴「兎園小説余禄」 西丸御書院番衆騷動略記

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。句読点は現在の読者に判り易いように、底本には従わず、自由に打った。鍵括弧や「・」も私が挿入して読みやすくした。踊り字「〱」「〲」は正字化した。祭り番付など、一部を読み易くするために改行を施した。

 なお、本篇は「千代田の刃傷(にんじょう)」と呼ばれた、文政六(一八二三)年四月二十二日に松平忠寛(ただひろ:寛政三(一七九一)年生まれ。旗本。通称は外記(げき)。彼はその場で切腹した。享年三十三)が引き起こした殿中での刃傷事件(死者四名(一名は深手により翌日死亡)・外傷一名)「松平外記刃傷」の略記である。本事件については、より詳細な松浦静山の「フライング単発 甲子夜話卷之四十二 21 西城御書院番、刃傷一件」を先に電子化注しておいたので、そちらをまずは読まれたい。静山は立場上、より詳しい一次資料文書を記しているからである。

 

   ○西丸御書院番衆騷動略記

西丸御書院番松平外記、其相番に遺恨有ㇾ之。文政六年癸未四月廿二日申の時、於西丸御書院番部屋、及刄傷者如ㇾ左。

          西丸御書院番

            酒井山城守組

          高八百石 卽死  本 多 伊 織

                    年五十八歲

          高八百石 卽死  沼 間 左 京

                    年二十一歲

           式部卿殿用人

             戸田可十郞忰

          高三百石 卽死  戶田 彥之丞

                   年三十二歲

          高三百石 手負  間部 源十郞

                   年五十八歲

          高千五百石 手負 神尾 五郞三郞

                     年三十歲

           西丸御小納戶

             松平賴母伜 

          高三百石 自害  松 平 外 記

                   年三十三歲

一、右相手五人の内、三人者、卽死す。二人は、手負也。此内、一人は、翌日、死す。御書院番部屋二階にての事也。迯去者も有ㇾ之。後及御吟味云。

        其節の外科 天 野 良 節(養イ)

[やぶちゃん注:「養イ」は別な一本では「良養」とするの意。]

一、松平外記者、即時に自害せし也。右遺恨の趣は、御番所新加入の時、故老のともがら、慮外非法[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版は『非道』。そちらの方が躓かない。]擧動有ㇾ之。依ㇾ之、外記、度々、恥辱に及びしかば、堪忍なりがたく、今日、擊果せし也。懷中に書置有ㇾ之。

一、外記の目ざす相手は、本多伊織と外に一人あり。その人、この日、當番ならざりければ、必死を免れしといふ風聞あり。姓名、憚あれば、略ㇾ之。

當日、番頭酒井山城守と、御目附新庄鹿之助と、内談して、「この儀、内濟にせん。」と執計ひしに、上より御沙汰有ㇾ之。依ㇾ之、内證にて不相濟御詮議の上、酒井山城守、御目附加番新庄鹿之助、本番阿部四郞次郞は御役被召放訖。この日、相番の御番所も、小普請入被仰付、しもの、多く、有ㇾ之【阿部は本番なれども、この日、「いたはることあり」とて、新庄をたのみて、登城せず。翌日、出仕して、新庄とともに御咎を蒙りしとなり。】

[やぶちゃん注:「内濟」(ないさい)は、表沙汰にしないで(この場合は殿中刃傷であるから、当然、正式な幕閣に於てするべき評定を指す)をせずに、内々で事を済ませること。]

一、當日相番の何がし、うろたへて自分の屋敷まで迯かへりしを、所親、諫めて推戾したりなどいふ風聞もありけり。彼故老の輩、非法多かりし中に、外記の着たる肩衣の紋を、墨にてぬり消したること、しばしばなり。その肩衣は御紋つきもありしを、憚らで、ぬり消したりとぞ。外記殿の叔母は、御本丸の老女なりければ、その前日に件のぬりけされたる、御紋服の肩衣の御紋を、いくつか切ぬきて、ふみ箱に收め、叔母御へ委細を消息して、「かゝる事も候へば、堪忍なりがたく、覺悟仕りたり。」など聞えしかば、その叔母御より、ひそかに上へも聞えあげられしにや。上には、はやく知食て[やぶちゃん注:「しろしめされて」。]、廿二日の騷動の折、西丸へ御たづねの旨、あらせられしにより、西廳にも驚せ給ひて、御沙汰ありしかば、頭のはからひ、いたづら事となりて、御咎をかうむりたり、なんど、いふ。これらは下の風聞なれば、虛實はしらねど、さもあらんかと、ある人、いひけり。

一、松平外記、實は二十七歲也。居屋敷は築地小田原町にあり。父松平賴母は御納戶御膳番にて、年來、奉公の人也。外記自害の上は、父に、咎め、なし。相替らず勤めらるゝと言。部屋住たるによりて也。

[やぶちゃん注:かく書かれているが、アップ・トゥ・デイトな松浦静山の「フライング単発 甲子夜話卷之四十二 21 西城御書院番、刃傷一件」、及び、ウィキの「千代田の刃傷」及び「松平忠寛」によれば、父松平忠順は御役御免となっているが(心情から、とても続けてはいられぬであろう)、改易はされていないし、忠寛の子が家督も継いでいる。]

一、外記殿、この日、登城の折、用人某、「明日、おん迎は例刻に可指上哉。」と問[やぶちゃん注:「とひ」。]まうせしに、「否、迎は入らず。大かた、駕にて退出するならん。」といはれしを、こゝろ得がたく思ひしに、果して、この凶事ありしとぞ。

一、この年、本多伊織の門松のほとりへ、正月元目の朝、かひ犬が、人の首を啣來て[やぶちゃん注:「くはへきて」。]、捨置たり。未曾有の事なれば、驚きあやしまざるものもなく、主も家來も、いまいましがりて、はやくとり隱せしが、四月に至りて、かゝる珍事あり。「その身は、枉死したりける前兆なりしを、後に知る。」といふ。ある人の話也。

この頃、例の落頌落首、いくらともなく、いでたり。抑、「この騷動ありしより、御番所の風儀、改りて、新加入の人、動[やぶちゃん注:「やや」。]易くなりぬ。この外記の恩澤也。」など、いひけり。

[やぶちゃん注:「枉死」(わうし)は、災害に遭遇したり、殺害されたりして、非業の死を遂げることを言う。なお、他に「冤罪で死ぬこと」の意にも使う。]

按ずるに、寬永五年十一月六日の夜、西丸御番所奈良村孫九郞、その相番鈴木久右衞門、木造三郞左衞門に遣恨ありて擊果したり[やぶちゃん注:「うちはたしたり」。]。是、則、大猷院樣御代にて、今を距[やぶちゃん注:「へだた」。]ること百九十六年、前後、兩度、かゝる珍事あり。奈良村氏の事は、「寬永年錄」に見えたるを、左に抄錄す。

[やぶちゃん注:「寬永五年十一月六日」一六二八年十二月一日。馬琴の言うように、「年錄」(江戸幕府の諸役所で公務について記した日記を類を指す。現在はその中の幾つかが、写本編纂されて、いくつかの伝本が伝えられてある。国立国会図書館デジタルコレクションを調べたところ、この写本の、確かに、寛永五年十一月六日のここからで確認できた)に載っている。但し、この事件、殿中刃傷事件(死者は結果して一名)であるにも拘わらず、ネット上の記載が、何故か、頗る少ない。しかも、

その事件発生時制をネット上の数少ない記事では、圧倒的に「寛永四年」としている

のである(出典不詳)。而して、

もし、この寛永四年が正しいとするなら、実は、この事件が――殿中刃傷の最初――ということになる

のである。雑学専門サイト「草の実堂」のrapports氏の『江戸城での最初の刃傷事件 「豊島明重事件」』(こう標題しているものの、以下に見る通り、本事件が事実としての最初の刃傷とされている)で、「実は」の標題で、

   《引用開始》

実は「豊島重明事件」が起きる前の寛永4年(1627年)116日に、小姓組・楢村孫九郎が木造三左衛門と鈴木宗右衛門を襲った事件が起きた。

江戸城名で一緒に勤めていたものの喧嘩が原因で楢村孫九郎が抜刀したが、木造三左衛門と鈴木宗右衛門は逃げて無事だった。しかし止めに入った別の2人が大怪我を負い、その内の1人が落命している。

襲った楢村孫九郎は切腹となったが、逃げた木造三左衛門と鈴木宗右衛門は「卑怯」として家名断絶となっている。

武闘派で知られる小姓組内で起きた出来事だったが「逃げた」という点で余り表には出ることもなく、「豊島重明事件」が殿中での最初の事件だとされている。

   《引用終了》

とあるのである。ネット上では、何故か、少ない記載であるにも拘わらず、皆、一様に、刃傷犯人の名を「奈良村」ではなく、「楢村」としているから、彼らの引用ソースは国立国会図書館デジタルコレクションのそれではないことは明白である。なお、「wikiwand」の「曾我近祐」(そがちかすけ)に(太字は私が附した)、『江戸時代前期の幕臣』で、後に『大坂町奉行』となったとし、寛永三(一六二六)年に二百俵で出仕し、『寛永4年(1627年)116日夜、西の丸小姓組の同僚楢村孫九郎が木造三郎右衛門・鈴木久右衛門に刃傷に及ぶ事件が発生する。居合わせた近祐は倉橋忠尭とともに傷を受けながらも』、『即座に孫九郎を取り押さえた。この功により』、『下総国小金領400石を与えられ、後に1020石に加増さ』れた、とある。ここでも寛永四年である。なお、この刃傷の原因は、「年錄」でも、『遺恨』とのみあって、具体的な内容は判らない。

一、十一月大、云々、同月【寬永五戊辰年。】六日夜戊刻、西之丸にて御番所察良村孫九郞と申人、相番鈴木久右衞門、木造三郞左衞門兩人に、意趣にて切かゝり申候。兩人手負、全、敗北。介橋惣三郞と申者、相手には無ㇾ之候へ共、中へ入、深手を負、當座に相果申候。曾我又左衞門孫九郞を組留申候。夜中、燈をふみけし、殊の外、殿中諍動[やぶちゃん注:「じやうどう」。]、諸人、多く、馳參候。

一、鈴木、木造、日來、奈良村をあなどり、堪忍難ㇾ成候得共、相手二人に御座候間、一處に打果し可ㇾ申と存、相待候處、今夕、すでに御夜詰、過申候時、又慮外の儀候間、孫九郞、是をとゞめ、切かゝり申候。此節、相番所、皆、以、小脇指相口[やぶちゃん注:「あひくち」。匕首(歴史的仮名遣:あいくち)鍔のない短刀。懐剣の類。]にて、突留可ㇾ申外無ㇾ之候。孫九郞は、心がけ、日暮時分より、大脇ざしを、つゞらより出し、指替罷在候間、何も[やぶちゃん注:「いづれも」。]刀は手遠に置、小脇指計[やぶちゃん注:「ばかり」。]にて、むかひ、夜中の事なれば、大脇指にて、切たてられ、難儀不及是非。其後、火をたて、幸、鎭り[やぶちゃん注:「しづまり」。]、則、孫九卽は永井信濃守へ御預け被ㇾ成。十一月十三日に、於信濃守所切腹被仰付候。廿四歲。信濃守家來鈴木長作介錯之。孫九郞辭世、

    はたちあまり四ふゆの空の飛鳥川誰わが跡のなきをとはまし

一、其頃、歌人の聞えありし、信濃守内、佐賀和田喜六が、奈良村を追善に詠歌【詞書あり。今、略ㇾ之。喜六は、奈良村と竹馬の友なりしよし、詞書に見えたり。】、

 南  夏さびしわが身ならずば大かたの

       世のことわりに聞ましものを

 無  むら雨のさだめなき世のならひをも

       しらずがほにてぬるゝ袖かな

 阿  あはれてふことのみわびて世の人の

       わればかりなるなげきせましや

 彌  みづくきのあとをとゞむる袖の上は

       かはくときなきものにぞ有ける

 陀  たれか世にあはれをかけぬ人やあると

       とへばこたへずためしなの身や

 佛  ふたつなくみつなき法のちからにて

       にしにうまれん人をしぞおもふ

  寬永五年霜月十六日     高  昌 俊

[やぶちゃん注:「永井信濃守」当時、老中であった永井尚政(なおまさ 天正一五(一五八七)年~寛文八(一六六八)年)。上総国潤井戸藩主・下総国古河藩二代藩主・山城国淀藩初代藩主。当該ウィキによれば、『東京都新宿区の「信濃町」の名は、信濃守となった当時の下屋敷があったことに由来する』とある。

「佐賀和田喜六」不詳。

「高昌俊」不詳。]

 今の御番所は、かゝる事ありとだに聞もしらぬが

 多かるか。さればにや、前車の誡に、うとくして、

 家をほろぼし、身をうしなふに至れり。怕るべし、

 つゝしむべし。

[やぶちゃん注:「前車」(ぜんしや)「の誡」(いましめ)は「前車の覆(くつがへ)るは後車の戒め」は「誰かの失敗は後に続く者の戒めとなること」の喩え。中国で古くから使われている諺。例えば、「漢書」の「賈誼(かぎ)伝」に、紀元前二世紀の文人賈誼の文章に、「短期間しか続かなかった秦王朝の失敗からも学ぶことがある」ということを述べるために、「前車の覆るは、後車の誡」(前を走る車が転覆することは、後から行く車にとって戒めとなる)と引用されており、同様の表現は、「大戴礼記」の「保傅」(ほふ)や、「呉越春秋」の「勾践(こうせん)帰国外伝」などにも見られる(円満字二郎編「故事成語を知る辞典」に拠った)。]

2022/08/25

フライング単発 甲子夜話卷之四十二 21 西城御書院番、刃傷一件

 

[やぶちゃん注:以下、現在、電子化注作業中の滝沢馬琴「兎園小説余録」に必要となったため、急遽、電子化する。今回は特異的に注は必要と思われるものを文中・文末に入れ、読点と記号を追加し、やや読み難いと思われる語句については、推定で《 》により歴史的仮名遣で読みを附した。一部でブラウザの不具合を考え、底本の文字列の位置・配置を変えた。ポイント落ちは必ずしも全部は再現していない。文書等の切れ目は一行空けた。

 本篇は「千代田の刃傷(にんじょう)」と呼ばれた、文政六(一八二三)年四月二十二日に松平忠寛(ただひろ:寛政三(一七九一)年生まれ。旗本。通称は外記(げき)。彼はその場で切腹した。享年三十三)が引き起こした殿中での刃傷事件(死者四名(一名は深手により翌日死亡)・外傷一名)「松平外記刃傷」の略記である。当該ウィキによれば、この日、『西の丸の御書院番の新参・松平忠寛(松平外記)は、古参の度重なる侮罵と専横とに、ついに』、『鬱憤』、『これを抑えることができず、本多伊織、戸田彦之進および沼間左京の』三『人を殿中において斬り殺し、間部源十郎および神尾五郎三郎の』二『人には傷を負わせ(間部は深手により翌日』(翌々日とも)『に死亡)』(但し、間部源十郎については、以下の資料や、彼のウィキの「間部詮芳」(あきふさ。本名)を見るに、ずっと以前に死んでいるという説や、事件後、生きていることになっていたり、甚だ不審がある)、『自らは自刃し果てた』。『事件発生後に直接の上司である酒井山城守を交えて、事件を隠蔽する工作が行われ』、『目付は正式な見分書には死者が出た事を記載せず、後の保身のために真実を記した文書を封印文書として作成した。本丸から来た侍医は』、『死亡者を危篤状態と偽るために外科的工作と虚偽報告するように頼まれ、一旦は拒んだものの』、『これに従った。血で染まった』二十『畳の畳は深夜のうちに取り替えられた。加藤曳尾庵の』「我衣」に『よれば、外記が大奥に務める伯母に鬱憤を吐露した遺言ともいえる書き置きを渡していたため、大奥を通じて事件が露見したという』。『時の老中』『水野忠成が厳重詮議を行い、殺害された』三『人の所領は没収され、神尾は改易を申し渡された。なお、松平家は忠寛の子栄太郎が相続を許された』。処分者は殺害された三名、及び、外記の父、また、隠蔽工作をした上役連中を含め、実に十三人に及んだ(引用元にリストと処分内容有り。実際には以下を読むと、その隠蔽に関わった(医師などは、無理矢理、関わされた感が強い)者や、刃傷沙汰を知りながら、それを制止・捕縛をしなかったとされた不作為犯も含めると、恐らくはその倍以上の者が何らかの処分を受けていることが判る)。『事件の詮議は』「西丸御書院番酒井山城守組松平外記及刃傷致自害神尾五郞三郞外二拾壱人御詮議吟味一件」に『まとめられている。この史料によれば、松平外記は普段は几帳面で神経質、普段は穏やかだが』、『癇性が強く、人付き合いが下手な人物だったと証言されている』。『また、西丸書院番の酒井山城守組は、古株による新参者へのいじめで有名な職場だった。着任早々に外記の父松平頼母の後押しによって、追鳥狩で勢子の指揮を執る拍子木役に抜擢されるが、慣習を無視したこの人事によって』、『古株の反感を一身に浴びることとなった』。『追鳥狩の予行演習に遅刻した外記は重大な落ち度として責められ、拍子木役を辞退し』、『病気療養として自宅に引き籠もった。追鳥狩の翌日から職場復帰したが、古株からの嫌がらせや面罵は収まらず』、遂にこの仕儀に至ったのであった。『事件の顛末は瓦版で報じられ、落書も数多く作られた。市井の人々は』、『外記を取り押さえる事も出来ず、凶刃から逃げ惑った旗本の不甲斐なさを物笑いの種とした』。『この事件は曲亭馬琴』の「兎園小說餘錄」にも以下の通り、『収められ、歌舞伎狂言にもなった。大正時代には須藤南翠が小説化している』。『宮崎成身の雑録』「視聽草」に『よれば、事件から』七『か月後』、『昌平坂学問所で外記の模倣犯ともいえる事件が発生して』おり、『乱心し』て、三『人を殺傷した狩野軍兵衛は日頃から松平忠寛の仕業を賛美し、事件発生時も千代田の刃傷事件の書き付けを懐に所持していたという』とある。

 また、やや重複するが、ウィキの「松平忠寛」も引いておくと、『桜井松平家の庶流』(第七代忠頼の次男忠直が旗本となって、彼の次男忠治が分家し、さらにその忠治の次男忠輝が分家したできた家)である『松平頼母』(たのも)『忠順』(「ただまさ」か)『の子として』生まれた。『始めは内記と称し、後に外記と改め』た。第十一代将軍『徳川家斉に仕え』、文化八(一八一一)年に『書院番士、蔵米三百俵』となった。『弓術、馬術に長じ、廉直にして剛毅であることから』、『同輩に忌み妬まれた』。『当時、旗本の風紀は大いに乱れ、番士のなかでも新人』と『古参の区別は厳しく、新参者は奴隷のように酷使虐待されていた。その中で忠寛は、常に己が正義と信じるところを主張し、いささかも屈することがないので、ますます憎まれた』。文政六(一八二三)年四月、『駒場野の鳥狩にあたって非常な侮辱を被り』、それからほどなく、『同僚の本多伊織忠重、間部源十郎詮芳、沼間左京、戸田彦之進、神尾五郎三郎を殺傷し、切腹した』。『池田吉十郎、小尾友之進など』、『その場に居合わせた者は周章狼狽し、逃げ隠れ、殿中は大騒動であった。忠寛が部屋住であったため、父』『忠順は職を免じられたが』、『改易されず、忠寛の子の栄太郎が家を相続した。被害者』や関係責任者『らは免職、改易などされ、家禄は削減、あるいは没収など処罰を受けた。その後、番士の風紀は引き締まった。この事件は世間に喧伝され、文学、演劇などの素材となった』。『戒名は歸元院隨譽即證不退』とある。

 以下に見る通り、凄絶な「イジめ」が齎した最悪の事件であった。この「甲子夜話」の記録は、当該事件の原資料に当たっていて、馬琴の記事よりも遙かに細部が示されているばかりか、刃傷に及んだ松平外記の直接の上司が、前代未聞の殿中刃傷事件(結果的には三名が死亡し、一名が外傷を負い、外記は殿中のその場で自害した)を内輪で胡麻化そうとして、幕医らまで巻き込んで、死者を生きていたという噓の上申をした過程さえも、はっきりと暴露されているのが、これ、モノ凄い(逆にそのために同内容の文書が続くという、ややかったるい箇所もあるにはある)。それにしても、――上司から文書を改竄を強要させられ、良心に恥じて自殺された善人を出していながら、墨塗りし、平気の平左で官僚の事件を誤魔化す、どこかの国の、クソ汚ねえ官僚の嘘つき金魚の糞連中より――遙かに正統に捜査し、正当にして極めて厳しい処断をしているぜよ!

 

43―21 西城御書院番、刃傷一件

今年四月廿二日、西城にて、御書院番の松平外記と云《いへ》るが、部屋にて、相番《あひばん》三人を斬殺《きりころ》し、二人に、深手、負はせ、己《おのれ》は自殺してける。是に由《よつ》て、世上、種々の風說なれど、孰《いずれ》か實《まこと》なる、知《しる》べからず。因《よつて》、始に雜聞を擧《あげ》て、終に御裁許の條々を錄す。

[やぶちゃん注:「今年四月廿二日」文政六年癸未。グレゴリオ暦一八二三年六月一日。]

 

外記は西方御小納戶賴母《たのも》、總領、年廿一なり。切られしは、本田伊織、年五十八。戶田彥之進、淸水御用人嘉十郞、總領、年三十二。沼間右京、廿一。この三人は卽死せしとぞ。深手は間部源七郞、年五十八。神尾五郞三郞、年三十。外記が脇指は「村正」にて有《あり》しと。世傳ふ。この鍛冶《かぢ》は御當家に不吉なりと。然るに又、かゝることの生ぜしも不思議なり。外記、自刄せしの狀は、二階を下り、庭に出《いで》、腹、一文字に切り、鋒《きつさき》を口に含み、うつ伏になりて死せりと云。一《いつ》は、柱に倚《より》かかりて、自ら咽を剌《さし》て絕せりと云ふ。孰れか是なるや。又、本田伊織が切られしは、部屋の二階に何か書《かき》て居たるに、外記、立寄《たちより》て、刀を振上ると見へしが、はや、首は向《むかふ》に落《おち》たりとなり。五郞三郞は逃去《にげさり》て逐《お》はれ、臀《しり》を切られたりとぞ。又、この刄傷《にんじやう》の起りは、御場《おば》の騎馬に、外記、年、若けれども、撰ばれしを、年かさなる者、猜《そね》みて、御場演習のとき、不都合なること有しかば、其ときは、病と稱して御場を勤めざりしことを含みしと云。又、外記が、腹、切《きり》たる一說に、腹、切て、咽をかゝんと爲《せ》しが、血、柄《つか》につき、手、滑《ぬめ》なりしかば、立《たち》あがり、衣のすそを割取《さきとり》て、柄にまとひ、咽を刺たりと云。又、この番衆の部屋は、坊主衆の部屋の向《むかひ》にて、隔《へだて》に板塀あり。某と云《いふ》小坊主、見ゐたるに、何か騷動の音なりしが、やがて、外記、血刀を提《さげ》て、椽《えん》に出で、手水鉢の水を吞《のみ》たり。小坊主は、懼《おそろ》しく覺たれば、かの塀の戶口を〆《しめ》たり。其後は知らず、と。諺に「惡事千里」と。この一件、都下一般のとり沙汰《ざた》なれど、理外なるは、廿三日の晝前、朝川鼎《あさかはかなへ》が宅に、杉戶宿より、田夫、來り、玄關に腰をかけ居《をり》、何か話すを聞けば、この騷ぎのことなり。鼎、思ふには、『前日、哺時後《ひぐれどきあと》のことなるに、九里餘、行程ある杉戶の者、翌晝前に、かく話すこと、不審なり。』と、立出て、その田夫に「何《いか》かに。」と問《とひ》たれば、「其ときの書付など、持《もち》ゐたり。」となり。又、御小姓組なる某の示せしもの、有り。「他組のこと成《な》れど、實記にや。」と、左に寫す。

[やぶちゃん注:「御場」冒頭で引用した中の『駒場野の追鳥狩』で、駒場野は現在の東京都目黒区駒場で、江戸時代の将軍の鷹狩場。広さは約十六万坪もあった。この附近(グーグル・マップ・データ。以下注なしは同じ)。戦前の「今昔マップ」も添えておく。「御場」は「御拳場」(おこぶしば)或いは「御留場」(おとめば)の略で、前者は、将軍が、自ら、拳に鷹をすえて狩りをする猟場の意であり、後者は一般人の立ち入りを止めていたのの意か、厳重な禁猟区で鳥を嚇すことさえも禁止されていた。

「朝川鼎」は儒学者朝川善庵(天明元(一七八一)年~嘉永二(一八四九)年)。鼎は本名。字は五鼎(ごけい)。当該ウィキによれば、本篇の著者『平戸藩主』『松浦氏を初めとして津藩主・藤堂氏や大村藩主』『大村氏などの大名が門人となり』、江戸本所の小泉町』(現在の墨田区両国二~四丁目相当。「人文学オープンデータ共同利用センター」の「江戸マップβ版 尾張屋版 本所絵図 本所絵図(位置合わせ地図)」をリンクさせておく)『に私塾を開いていた』とある。

「杉戶宿」(すぎとじゅく)は江戸日本橋から五番目の奥州街道・日光街道の宿場町。現在の埼玉県北葛飾郡杉戸町にあった。]

 

    四月廿二日夕七時前

手負 高千五百五拾石【西丸御書院番、酒井山城守組。】

          間部《まなべ》源十郞

      宿赤坂三河臺   未四十八

  ひよめき、はすに三寸程、深さ壱寸

  五分程の疵、一ケ所。右の手首、竪

  (たて)に四寸程、深さ弐、三分程

  之疵、一ケ所。同所、大指の脇、弐

  寸程之そぎ疵、一ケ所。

[やぶちゃん注:「夕七時」(ゆふななつどき)不定時法で午後四時半過ぎ頃か。

「宿」「しゆく」と音読みしておく。屋敷。

「未四十八」「未」は本年(干支)のことで、数え年。

「ひよめき」本来は「乳児の頭の前頂部の骨と骨との間の隙間」を指す。

「三寸」約九センチメートル。

「壱寸五分程」約四センチ五ミリ。

「四寸程」約十二センチ。

「弐、三分程」約六~九ミリ。

「大指」「おやゆび」。

「弐寸」六センチ。]

手負 高千五百石 同   神尾五郞三郞

      宿椛町貳丁目谷  未三十

  尻こぶた、橫に三寸程、深さ五、六

  分程之疵、一ケ所。

[やぶちゃん注:「尻こぶた」「尻臀」。尻の左右に分かれた肉付きの豊かな部分。

「五、六分程」約一・五~一・八センチ。]

卽死 高三百俵 同 【式部御用人、可十郞、總領】

              戶田彥之進

      宿小日向冷水番所   未三十二

  かたより、ゑりへかけ、はすに一尺

  三、四寸、深さ二寸程の疵、一ケ所。

  尻こぶた、二寸程の淺疵、一ケ所。

[やぶちゃん注:「一尺三、四寸」約三十九~四十二センチ。]

卽死 高八百石   同    沼間右京

      宿新道壹番町     未三十二

  右の頰の下、咽《のど》え、かけ、

  五寸程、深さ、七、八分程の疵、一

  ケ所。右の手、ひぢの下、竪に三寸

  程の淺疵、一ケ所。

[やぶちゃん注:「五寸程」約十五センチ。

「七、八分程」約二・一~二・四センチ。]

卽死 高八百石   同    本多伊織

      宿北本所津輕西門前南角 未五十八

  耳のわきより、あばら迄、はすに一

  尺二、三寸程の深疵、一ケ所。

[やぶちゃん注:「一尺二、三寸」約三十六~三十九センチ。]

自殺 高三百俵   同 【西丸御小納戶、賴母總領。】

      宿築地小田原町  松平外記

  咽に、突疵、一ケ所。腹に、突疵、一ケ所。

或曰。この外記が自盡せしときは、腹に突《つき》たてし刀、あまり深くして引𢌞すこと、能はず。乃《すなはち》、ぬきて、咽に突たてたれど、死せず。因て、刀をぬきて、席《たた》みに置《おき》たるとき、卽ち、死せり、となり。又、外記の脇指は「村正」に非ずして、關打《せきうちの》平造《ひらづくり》の者にして、一尺三寸なりし、と云。又、一人、厠に居《をり》しを、外記、戶を開き見て、「其《そこ》もとには、遺恨なし。」迚《とて》、そのまゝ立去りながら、「掛金を外よりかけて行たれば、内より出ること能はず、こまりたり。」となり。

[やぶちゃん注:「築地小田原町」厳密には「築地南小田原町(つきぢみなみおだはらちやう)」が正しい。現在の中央区築地六丁目・七丁目(グーグル・マップ・データ)。築地本願寺の裏手にして聖路加国際病院の南西並びで、今の勝鬨橋附近の隅田川右岸に当たる。

「一尺三寸」約三十九センチ。]

 

 十月九日於堀田攝津守殿御宅仰渡候之寫

    申渡之覺

          西丸御書院番頭 酒井山城守

                  名代 高木右京

當四月廿二日當番之節、松平外記刄傷之始末、追々被ㇾ遂御詮議候處、夕七つ時過之變事に而《て》、本多伊織、沼間右京、戶田彥之進者《は》、卽死、間部源十郞者、深手に而《て》倒れ、其餘、部屋内之者共、手負候、神尾五郞三郞迄、御番所え、走出、御襖を立候内、外記、自殺候由之處、池田吉十郞儀、刻限其外、諸事、品《しな》能取繕《よくとりつくろひ》、僞《いつはり》之儀、申候旨、御番衆一同申ㇾ之。其方儀、爲ㇾ泊《とまりのため》罷出、大久保六郞右衞門より承り候はゞ、早速、遂見分、御目付、申談取斗可ㇾ申《とりはからひまをすべき》處、大病人之由、相違《さうい》之儀、宜《よろしく》、新庄鹿之助え、申、鹿之助より及催促候而も、有躰《ありてい》之儀、不申達、常躰《つねのてい》病人に可旨、數原《すはら》玄忠え、打合候儀は無ㇾ之由申聞候得共、度々、容躰書《ようだいがき》も爲引替候由、玄忠者、申立、終夜、疵人《きずびと》之療養も不ㇾ加、其分に打過在候者、右程之變事を内分に取斗度《とりはからひたき》心底と相聞、至翌朝手負自殺と申達候而も、屆書御目付見分之節、卽死之者を存命之趣に取斗、其外、諸事、吉十郞、取繕候相違之儀共、其儘に申立候段、彼是、如何之次第《いかがのしだい》、不束《ふつつか》之事候。依ㇾ之、御役御免、差扣《さしつかへ》被仰付者也。

[やぶちゃん注「堀田攝津守」は当時の若年寄(堅田藩藩主)堀田正敦(まさあつ)。

「差扣」江戸時代の刑罰の一つ。公家・武士の職務上の過失、又、その家来や親族に不祥事があった際、出仕を禁じ、自邸に謹慎させることを言う。無論、これは最終的な処罰ではなく、審議途中の臨時刑に過ぎない。

 以下、殆んど同一内容の文書が、二通、示されるが、これは別な複数の人物によって内容が厳重に再検証されているのであり、逆にその精度が資料として、いや高まる。]

 

          同組頭 大久保六郞右衞門

              名代 本多鍵太郞

當四月廿二日當番之節、松平外記刄傷之始末、追々被ㇾ遂御詮議候處、夕七つ時過之變事に而、本多伊織、川間右京、戸田彥之助は卽死、問部源十郞者、深手に而倒れ、其餘、部屋内之者共、手負候神尾五郞三郞迄、御番所え、走、御襖を立候内、外記、自殺候由之處、池田吉十郞儀、刻限其外、諸事、品能取繕、申候旨、御番衆一同申ㇾ之。其方儀、中之口部屋に罷候事に候得共、最初より樣子も及ㇾ承ㇾ申處、手負人之容躰、數原玄忠え、爲ㇾ見《みせ》ながら、最初より不ㇾ殘、病人之由、或者、壱人、自殺、外者、病氣之旨、御目付え、申達、容躰書も、度々、玄忠より爲引替、終夜、疵人之療養も不ㇾ加、其分に打過候者、右程之變事を内分に取斗度心底と相聞、至翌朝手負自殺と申達候而も、屆書御目付見分之節、卽死之者を存命之趣に取斗、其外、諸事、吉十郞、取繕候相違之儀共、其儘に申立罷在候段、彼是、如何之次第、不束之事に候。依ㇾ之、御役御免、差扣被仰付者也。

 

           西丸御目付 新庄鹿之助

                 名代 春田四郞五郞

其方儀、當四月廿二日當番之節、酒井山城守組御書院番及刄傷候儀、組頭大久保六郞右衞門より、最初は、五、六人病人之由申聞、自殺壱人、病人、四、五人と申ㇾ之、又、山城守より者、六人共、病人之由に而、駕籠斷《ことわり》差出候得共、風聞も承り候事故、駕籠に而、差出候取斗、難ㇾ致、勘辨之上、可申聞旨、及挨拶候處、其後、度々致催促候而も、段々、及延引、至翌朝、自殺・手負之旨、申聞候に付、御本丸當番之外料《ぐわいれう》呼上之儀、申遣候由候得共、殿中不容易變事に而、風聞も承り候儀と申、殊に番顯・組頭申聞候趣も、彼是、致相違、數原玄忠、差出候容躰書も、度々、引替候上者、疑敷《うたがはしき》儀に付、不取敢、遂穿鑿見分取斗可ㇾ申處、翌朝に至迄、等閑《なほざり》に打過罷在候段、内談之趣をも致承知、其筋々之存意に令同意候之儀故と相聞、勤柄《つとめがら》に不似合始末、不束之事に候。依ㇾ之、御役御免、差扣被仰付者也。

[やぶちゃん注:「外料」(現代仮名遣「げりょう」)は、底本では後文再出でも編者によるママ注記があるのだが、これは江戸時代、外科医を表わす語として普通に資料に出(「外科」の誤字ではない)、辞書にも載るので、この注記は甚だ不審である。

 

          同    阿部四郞五郞

               名代 阿部忠四郞

其方儀、當四月廿二日加泊之節、酒井山城守組御書院番及刄傷候儀、當番新庄鹿之助え、組頭大久保六郞右皆門より、五、六人急病人有ㇾ之由申聞、其後、山城守より者、大病人と而已《のみ[やぶちゃん注:二字の読み。]》申立候段及ㇾ承、鹿之助、取斗、可任置《まかせおくべく》、翌朝、自殺手負之旨、申聞候迄、等閑に打過罷在、殿中不容易變事之處、强而《しひて》病人と申張《まをしはり》候は、山城守、存寄《ぞんじより》可ㇾ有ㇾ之事に存候迚、段々、及延引候儀之旨申聞候段、如何之次第、不束之事候。依ㇾ之、御役御免被ㇾ成候。

[やぶちゃん注:「加泊」「かはく」と読んでおく。「泊りの当直をする(仕事に「加」わる)」という意味であろう。]

 

                 松 平 賴 母

                  名代 三枝傳五郞

 西丸御小納戶役、御免被ㇾ成候。

右、於堀田攝津守宅、若年寄・中・西丸共、出坐、同人申

[やぶちゃん注:刃傷に及んだ松平寛の父である。]

 

            御番醫師 數 原 玄 忠

其方儀、當四月廿二日、西丸當詐番に罷在、酒井山城守組御書院番、及刄傷候節、疵所之樣子、乍見請《みうけながら》、其筋筋之意存、離れ候儀、難申立迚、手負人之趣に、御目付え、容躰書、差出し、其後も任内談、色々、容躰書、引替、翌朝、手負・自殺之書面に相直候而も、疵人、何《いづれ》も存命之由、相違之儀、申立、御目付見分之節も同樣之書面、差出候段、不束之事候。

[やぶちゃん注:「其筋筋之意存、離れ候儀」その上司らの言い分と、事実が全く「相違」していることを。]

 

                 竹 内 英 仙

                 名代 田中俊哲

            同外料  曾 谷 伯 安

                 名代 岡本東明

                 河 島 周 庵

                 名代 古田瑞琢

                 天 野 良 運

                 名代 坂本養景

其方共儀、當四月廿二日於西丸酒井山城守組御書院番手負人之容躰見請候節、五人共、疵之淺深者、有ㇾ之候得共、存命之趣、見《これ、けんぶんし》、御目付え、申達書之内、三人は相果候儀候處、相違之儀、申聞候段、其筋筋之存意に相泥《あひなづみ》候事と相聞、不束之事に候。

右於テ同人宅同人申渡之、御目付御手洗五郞兵衞・柴田三左衞門、相越。

[やぶちゃん注:「其筋筋之存意に相泥《あひなづみ》候事」その上司連中の隠蔽工作の仕儀に積極的に添うように振る舞ったこと。]

 

 十月九日 西九御書院番一件落着被仰渡之控

    申渡之覺

[やぶちゃん注:ここに底本(一九七七年平凡社刊中村・中野氏校訂「東洋文庫」版)には『(〈 〉内小字は朱書――校訂者)』とある。太字に代えて差別化した。]

 

   【西九御書院番酒井山城守組】神尾五郞三郞

                     三十

其方儀、當四月廿二日請取當番之節、部屋二階に致轉寢《うたたね》罷在候處、夕七つ時過、物音に而目覺、松平外記、相番共を及二刄傷一候を乍見受捕押《とりおさへ》も不ㇾ仕、上り口之方え、披《ひら》き、後ろ疵を請《うけ》、二階より落《おち》、白衣、無刀之儘、御番所え缺出《かけいだし》、「蘇鐵之間《そてつのま》」迄、參り候段、卑怯之次第候。剩《あまつさへ》、有躰《ありてい》申立存、遁出《にげだし》候儀を押隱《おしかくし》罷在候段、旁《かたがた》不埓之至に候。依ㇾ之、改易被仰付者也。

[やぶちゃん注:只管、逃げまくった、本事件の最も武士としてあるまじき不面目の男の処分。確かに生きている関係者では、最も重い「改易」お家断絶である。

 

                 池田吉十郞

                    五十二

其方儀、當四月廿二日請取當番之節、部屋二階より下り、藪庄七郞と談居《だんじをり》候處、夕七つ時過、致物音、松平外記及刄傷候由に而、二階之相番共、駈下り候に付、驚《おどろき》、白衣・無刀之儘、外《ほか》相番共一同、御番所え、駈出、外記を捕候心付も無ㇾ之、御襖を建、剩《あまつさへ》、井上政之助、着用之、上下・脇差、押而借請《おして、かりうけ》、漸《やうやう》、部屋裏之方より𢌞り、見屆候仕合《しあはせ》故、最早、外記、自殺に及候始末に至り候段、臆候次第に候。其上、有躰申立候而者《ては》、難相濟存じ、刻限は暮六つ時過に而、相番共六人者《は》、張番、六人者、膝代りに出、此者近藤小膳者、組顯部屋え、可シ二相越ス一と、「蘇鐵之間」迄參り候節、變事之由、卽死之者も存命之旨、相違之儀とも此者取繕申張罷在候段、御後《おんうし》ろ闇《ぐらき》致し方、殊に重立《かさねだて》、乍取扱、疵人之手當其外、不行屆取斗方、彼是、不埒之至候。依ㇾ之、御番、被召放。隱居被仰付候。愼可罷在者也。

[やぶちゃん注:「御後《おんうし》ろ闇《ぐらき》致し方」の「御」は将軍に対してのニュアンスであろう。]

 

                 間部源十郞

                    五十八

其方儀、當四月廿二日請取當番之節、部屋二階に居眠罷在候處、松平外記、此者、頭上切付疊懸《きりつけ、たたみか》け、右之手首えも、疵、請《うけ》、眼中え、血、流れ入、其儘、倒れ罷候段、不意之儀と者《は》乍ㇾ申、油斷之次第、不心懸《ふこころがけ》之至《いたりに》候。依ㇾ之、御番被召放、隱居被仰付。愼可罷在者也。

[やぶちゃん注:これは実際には、深手を負い、事件の翌日(或いは翌々日とも)に死亡したはずの間部隼人源十郎に対する処分。しかし、以上の通り、源十郎は死んでいないことになっている。不審。]

 

                 藪庄 七郞

                    五十一

                  近藤 小膳

                    五十一

其方共儀、當四月廿二日泊番之節、部屋に罷在候處、夕七つ時過、致物音、松平外記及刄傷候由に而、二階之相番共、駈下り候に付、驚、相番共、一同、御番所え、駈出、外記を取押候心付も無ㇾ之、池田吉十郞、部屋内を見屆候迄、御襖を建候段、臆候次第候。剩、有躰難ク申立テ存、取候樣、吉十郞え、相任、相違之儀ども、但々、申張罷在候始末、古くも乍ㇾ勤、別而《べつして》、不埒之至に候。依ㇾ之、御番被召放、小普請入《こぶしんいり》、逼塞《ひつそく》被仰付者也。

[やぶちゃん注:「逼塞」現代仮名遣「ひっそく」。武士や僧侶に行われた謹慎刑。門を閉じ、昼間の出入りを禁じたもの。「閉門」(門・窓を完全に閉ざして出入りを堅く禁じる重謹慎刑)より軽く、「遠慮」(処罰形式は「逼塞」と同内容であるが、それよりも事実上は自由度の高い軽謹慎刑。夜間に潜り戸からの目立たない出入りは許された)より重い。

                 長野勝次郞

                    三十三

其方儀、當四月廿二日、當番之節、爲使用部屋二階より下り候處、夕七つ時過、致物音、松平外記、及刄傷候由に而、二階之相番ども、駈下り候に付、驚、白衣・無刀之儘、相番一同、御番所え、駈出、御襖を建、吉十郞、部屋内之祿子、見屆候迄、押へ罷在候段、臆候次第、剩、事濟候後も、痔疾、差發《さしおこり》候迚、夜五時《よるいつつどき》頃迄、便所に罷在、殊に有躰申立、吉十郞、取候相違之儀を、同樣、申候段、旁《かたがた》、不埒之至に候。依ㇾ之、御番被召放、小普請入、逼塞被仰付者也。

[やぶちゃん注:「夜五時頃」不定時法で午後八時半頃。]

 

                 川村淸次郞

                    五十二

其方儀、當四月廿二日請取當番之節、部屋二階に致休息候處、夕七つ時過、松平外記、不意に脇指を拔、本多伊織、戸田彥之進え、切付候に付、驚、外記を捕押候心付も無ㇾ之、白衣・無刀之儘、駈下り、外相番共、御番所、駈出候節、出後《でおく》れ、左之手を御襖建付え、被ㇾ挾候事、難儀、葛籠重《つづらがさ》ね、有ㇾ之、側之《そばの》屛風を引寄せ、事濟候迄、其間に隱れ居候段、臆候次第候。剩、有躰申立、吉十郞、取候相違之儀を、同樣、申候段、旁、不埓之至に候。依ㇾ之、御番被召放。小普請入、逼塞被仰付者也。

[やぶちゃん注:「請取當番」先に当番であった者が、後の者に交代することであろう。

「葛籠重ね」竹を使って網代に縦横に組み合わせて編んだ四角い衣装箱の積み重ねたもの。]

 

                  伊丹七之助

                    四十七

                  小尾友之進

                    三十六

其方共儀、當四月廿二日請取當番之節、部屋二階に休息致し罷候處、夕七つ時過、松平外記、腰物、拵《こしらへ》之咄《はなし》抔致、不意に脇差を拔、本多伊織、戶田彥之進え、切付候付、驚、外記を捕押候心付も無ㇾ之、白衣・無刀之儘、缺下《かけお》り、外《ほか》相番共一同、御番所え、駈出し、池田吉十郞、部屋内を見屆候迄、御襖を建候段、臆候次第候。剩、有躰申立、吉十郞、取候相違之儀、同樣、申候段、旁、不埒之至に候。依ㇾ之、御番被召放、小普請入、逼塞被仰付者也。

 

                 井上政之助

                    三十二

其方儀、當四月廿二日泊番之節、御番所張罷候處、夕七つ時過、松平外記、及刄傷候由に而、部屋内之者共、疵請《うけ》候五郞三郞迄、御番所え、駈候に付、席《たたみ》を立、狼狽罷候段、勤番之詮《なすすべ》も無ㇾ之、剩、吉十郞、任ㇾ申、上下・脇差迄、貸遣《かしやり》、近藤小膳、着替之上下を着し、事濟候後も、部屋内に、疵人、爲心付罷在候儀、迷惑に存じ、夜五時頃迄、裏、濡椽《ぬれえん》え、出候段、彼是、臆候次第候。殊に有躰申立存じ、吉十郞、取繕候相違之儀を、同樣候段、旁、不埒之至に候。依ㇾ之、御番被召放、小普請入、逼塞被仰付者也。

 

                 飯塚甲之助

                    四十八

                  堀長左衞門

                    四十二

                  橫山重三郞

                    三十六

其方共儀、當四月廿二日泊番之節、部屋に罷處、夕七つ時過、松平外記及刄傷候由に而、二階之相番共、駈下り候に付、外、相番一同、御番所え、駈出、外記を捕押候心付も無ㇾ之、吉十郞、部屋内を見屆候迄、御襖を建候段、臆候次第候。剩、有躰難申立存、吉十郞、取候相違之儀を、同樣、申候段、不埒之至候。依ㇾ之、御番御免、小普請入、差扣被仰付者也。

                 内藤 政五郞

                    四十二

                  荒川三郞兵衞

                    三十六

                  日 向 政 吉

                    三十一

其方共儀、當四月廿二日泊番之節、御番所張罷候處、夕七つ時過、松平外記及刄傷候由に而、部屋内之者共、疵、請候五郞三郞迄、御番所え、駈出候に付、席を立、狼狽罷候段、勤番之詮も無ㇾ之、殊に有躰難申立存じ、吉十郞、取候相違之儀を、同樣候段、旁、不埒之至候。依ㇾ之、御番御免、小普請入、被仰付者也。

 

                 曲淵大學

                   三十六

其方儀、駒場野追鳥狩《おひとりがり》に付、席下之松平外記、拍子木役に相成候を不心能存じ《こころよからずぞんじ》、宅え、外記、吹聽に參り候節、申《まをしあざわらひ》、同人宅え、寄合之節、半之助、任ㇾ申、致不參、外記、心に留候樣子に而、「病氣」を申立、拍子木役を相斷、當四月廿二日、相番共を、及刄傷候次第に至候段、差迫、致亂心候儀と相聞候。外記、氣狹成生質《きせばなるたち》と存候はば、其心得も可ㇾ有ㇾ之處、嘲哢ケ間敷申成《てうろうがましくまをしなし》候段、不埒之事に候。依ㇾ之、御番御免、小普請入、被仰付者也。

[やぶちゃん注:ここ以降の複数の人物が、最後に松平外記忠寛に加えられた精神的な意味での「イジめ」の致命的一撃の張本連中であった。特に、この曲淵(まがりぶち)大学と、次の安西伊賀之助の実行犯二人によるそれこそ、外記をして刃傷に走らせたスプリング・ボードであった。外記が実は本当に殺したかった最悪の連中に、この二人は必ず含まれる。曲淵大学は、旗本で二千五十石、ここにある通り、小普請入りとなり、御役御免の上、屋敷も移転させられている。命が助かっただけでも、恩の字と思え!

 

                 安西伊賀之助

                    四十一

其方儀、駒場野追鳥狩に付、席下之外記、拍子木役に相成候を不心能存じ、同人宅寄合之節、遲刻致し、於席上、外記、心に障り候儀、申ㇾ之、鼠山《ねづみやま》稽古之節も、彼是、申嘲《まをしあざわらひ》、廉立《かどだち》候及挨拶、同人、心に留り候樣子に而、「病氣」を申立、拍子木役を相斷、當四月廿二日、相番共え、及刄傷候次第に至り候段、差迫、致亂心候儀と相聞候。外記、氣狹成生質と存候上は、其心得も可ㇾ有ㇾ之處、嘲哢ケ間敷儀申成候段、不埒之事に候。依ㇾ之、御番御免、小普請入、被仰付者也。

[やぶちゃん注:「安西伊賀之助」は旗本で八百五十石。同前で、小普請入り、御役御免、屋敷も移転させられた。

「鼠山」個人ブログ『Chichiko Papalog 「気になる下落合」オルタネイト・テイク』の『江戸期の絵図でたどる「鼠山」』で古地図を用いて細かな考証がなされている。恐らくは、下落合の丘陵地帯で、この「御留山」辺りに近いか。]

 

                 岡部半之助

                    四十三

其方儀、外記を、伊賀之助・大學、嘲哢致し候儀、及見聞、外記儀、「席上之者を越、拍子木役に成、心配。」之旨申聞候儀も有ㇾ之、此者、相拍子木役之儀にも候得者、心付方も可ㇾ有ㇾ之處、其儘に打過候段、不束之事に候。

[やぶちゃん注:この岡部半之助は、外記がはっきりと心配を漏らしていることから、それなりに外記が信頼していた人物と思われる。彼は「イジめ」の不作為犯ということになる。

 

                 内田伊三郞

                    四十

                  細井吉太郞

                    二十一

                  松平九郞右衞門

                    三十

其方共儀、外記を伊賀之助・大學、致嘲哢候儀及見聞候はゞ、心付方も可ㇾ有ㇾ之處、其儘に打過候段、不行屆《ふゆきとどきの》事に候。

[やぶちゃん注:彼ら三人も「イジめ」の助勢罪の不作為犯である。]

 

           吉十郞、總領 池田市之丞

           病氣に付、名代

                御書院版八木丹波組   三島六郞

父吉十郞儀、御番被召放、隱居被仰付、知行高之内、被ㇾ減五百石。此者え、被ㇾ下、小普請入、被仰付者也。

[やぶちゃん注:これは盛んに出た、現場にいて、事態収拾を小賢しい悪知恵を以って虚偽に塗り固めようとした張本人池田吉十郎の処分である。病気というのも怪しいものだが、親父さん九百石から四百石を召し上げの処分を食らった。幕閣を騙そうとしたのだから、正直、ここまでの記載を見る限り、本人を重い逼塞以上にすべきであろうと思うのだが、ウィキの「千代田の刃傷」によれば、彼は養子で三島政春(九百石)の実子とあるから、或いは、この実父が幕閣にパイプを持っていたのかも知れない。]

 

           源十郞、總領 間部隼人

                   三十一

父源十郞、御番被召放、隱居被仰付候。此者儀、家替、無相違被ㇾ下、小普請入、被仰付者也。

[やぶちゃん注:これは実際には、深手を負い、事件の翌日(或いは翌々日とも)に死亡した間部隼人源十郎の子に対する処分。しかし、やはり、父源十郎は死んでいないことになっている。]

 

右之通、未十月九日於評定所大目付岩瀨伊豫守、町奉行筒井伊賀守、御目付金森甚四郞、立合ヒ、落着被候申渡書之寫。

   西丸御書院番頭え、相渡候御書取寫。

   手負、相果候に付、知行、上《あげ》り候。

           酒井山城守組 本多 伊織

   同斷に付、知行・屋敷・家作、上り候。

                  沼間 右京

   同斷に付、御切米、上り候。

                  戶田彥之進

   自殺に付、御切米、上り候。

                  松平 外記

右之通候間、可ㇾ被ㇾ得其意候。尤御勘定奉行、御普請奉行、小普請奉行え可ㇾ被ㇾ談候。

[やぶちゃん注:以上の「上り」というのは、幕府が取り上げてしまうことを指す。例えば、本多伊織(膳所藩本多家一門の本多忠豪養子)は子の右膳が事件後に家督相続をしてはいるが、米三百俵支給に減ぜられており、沼間右京は改易・絶家、戸田は、職禄米の召し上げを受け、結果的には絶家となっている。]

 

  西丸御小性組番頭え、相渡候御書取寫。

   西丸御書院番酒井山城守組

    伊織養子 大久保豐後守組 本 多 右 膳

右養父伊織、相果候に付、知行上り候。尤、右膳儀、御構《おかまひ》無ㇾ之、取米三百俵幷屋敷家作共、其儘被ㇾ下候間、其段可ㇾ被申渡候。

  未十月十日森川内膳正殿、西丸御徒士頭永田與左衞門え、御渡御書取寫。

 

       西丸御徒士頭 佐 山 左 門

當四月廿二日、松平外記、及刄傷候節、其方組當番に而、組頭鈴木伴次郞取扱方、行屆、組之者共、心懸け宜《よろしき》趣、相聞候。此段、無急度沙汰候事。

[やぶちゃん注:「無急度」「きつとなく」。緩み怠ることなく厳重に(今の状態を維持せよ)。]

 

       西丸表六尺  源  太郞

其方儀、西丸御書院松平外記儀、於御場所柄刄傷候上、致自殺候一件に付相尋候處、不埒之筋も無ㇾ之間、無ㇾ構。

右、於評定所、岩瀨伊豫守・筒井伊賀守・金森甚四郞、立合、伊豫守・伊賀守、申二渡之

 

   十月九日

  彼一件後、諸向《しよむき》へ被仰達書付

西丸御書院番松平外記、相番共を及刄傷候始末、被ㇾ掛御詮議之處、相番共、常々、嘲哢ケ間敷仕成《てうろうがましきしなり》も有ㇾ之に付、差迫亂心候樣子に相聞、變事之期《へんじのご》に至候而《いたりさふらふて》も、相番共、立候者も無ㇾ之段、不覺悟之事共に候。出勤之作法、組中も申合等は、前々度々、被仰出候趣も有ㇾ之處、兎角、心懸、等閑《なほざり》に相成、古番《こばん》之者は權高《けんだか》に我意《がい》を立《たて》、新規之者を爲ㇾ致迷惑之儀《めいわくいたさすのぎ》、組え、風儀之樣に成行候而は《なりゆきさふらうては》、如何之次第に候。向後《かうご》、御番方は不ㇾ及申に、何《いづ》れ、之《これ》、向々に而も《むきぬきにても》、非常之事有ㇾ之節、勤方、相立候樣、申合、一同、相互に致和熟、御奉公相勤ムル事、專一に心懸ㇾ申候。

右之通、向々《むきむき》え、可ㇾ被相達候。

   十月

2022/08/24

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 磬―鰐口―荼吉尼天 (その1)

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。注は各段落末に配した。彼の読点欠や読点連続には、流石にそろそろ生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、句読点を私が勝手に変更したり、入れたりする。今回は分割する。]

 

     磬―鰐口―荼吉尼天 (大正四年十月考古學雜誌第六卷第二號)

 

 津田君の磬の硏究の參考まで申し上ぐるは、Pierre Beron du Mans, Les observations de plusieurs singularités et choses mémorables, trouvées en Grèce, Asie, Judée, Egypte, Arabie, et autres pays etranges, à Paris, 1554, fol.38, a.  に云く、「ヴェネチア人に服從せる希臘人は、土耳古人の奴隸たる希臘人よりも多く自由を享く。彼輩兩つながら寺の門上に釘もて一鐵片を懸く。その厚さ三指、長さ一臂、やや弧狀に曲れり。之を打てば、淸音、鐘に似たるを出す。アトス山寺に全く鐘無く、此鐵片のみを用ひ、勤行の都度、之を敲いて僧衆を招集す」と。是れ、東南歐、ギリシア敎の高野山とも云べきアトス大寺に鐵磬類似の物を鐘に代用したるなり。今日も然りやを知らず。序でに言ふ、石を樂器に使ふ例、和漢石磬の外に、鈴石とて石中の穴巢に小石を孕めるを、振り鳴らして兒戲とする事有り。雲根志等に其記載有りしと記憶す。西大陸發見前より印甸人[やぶちゃん注:「選集」はカタカナで『インジアン』とする。]瓢に小石を入れ、柄を付け、振り鳴して樂器とせり。古祕魯人[やぶちゃん注:「古ペルー人」。]は長凡そ一呎、幅一吋半の綠響石の扁片、脊、曲り、厚さ四分の一吋、其れより、漸次、兩尖端に向て薄く成る事、小刀の刄の如きを、樂器とす。脊の中央に小孔有り、絲を通して、之を懸け、堅き物もて、打つ時、奇異の樂音を發すと。是れ、西大陸にも古く石磬有りしなり(Carl Engel, Musical Instruments, South Kensington Museum Art Handbook, 1875, pp.74, 76)。フムボルトが南米オリノコ邊で得たる天河石は、以前、土人、之を極て薄き板とし、中央に孔を穿ち、絲を通し、懸下して、堅き物もて打てば、金屬を打つ如き音を出せり。フ氏、歐州に還つて之をブロンニヤールに示せしに、ブ氏、支那の石磬を以て之に比せりと云ふ(Humboldt, Personal Narratives of Travels to the Equinoctical Regions of America,”  Bohn`s Library, vol.ii, p.397)。

[やぶちゃん注:「磬」(けい)は中国古代の体鳴楽器(弦や膜などを用いることなく、弾性体によって作られた本体が振動して音を出す楽器)で、「ヘ」の字形をした石、又は玉・銅製の板を吊り下げて、「ばち」で叩いて音を出す。一枚だけからなる「特磬」と、複数の磬を並べて旋律を鳴らすことができるようにした「編磬」があるが、後者が一般的である(以上は当該ウィキ他に拠った。リンク先に画像有り)。

「鰐口」(わにぐち)は当該ウィキによれば、『仏堂の正面軒先に吊り下げられた仏具の一種である』が、『神社の社殿で使われることもある。金口、金鼓とも呼ばれ』、『「鰐口」の初見は』正応六(一二九三)年の『銘をもつ宮城県柴田郡大河原町にある大高山神社のもの(東京国立博物館所蔵)』が表示名としては、現存するもので、最も古いとある。『金属製梵音具の一種で、鋳銅や鋳鉄製のものが多い。鐘鼓をふたつ合わせた形状で、鈴』『を扁平にしたような形をしている。上部に上から吊るすための耳状の取手がふたつあり、下側半分の縁に沿って細い開口部がある。金の緒と呼ばれる布施があり、これで鼓面を打ち』、『誓願成就を祈念した。鼓面中央は撞座と呼ばれ』、『圏線によって内側から撞座区、内区、外区に区分される』。物として『現存する最古のものは、長野県松本市宮渕出土の』長保三(一〇〇一)年の銘のもの、とある。辞書類を見ても、本邦で作られたものと推定されている。

「荼吉尼天」(だきにてん)は、仏教で、元は死者の肉を食う「夜叉」(鬼神)の類を指す。サンスクリット語「ダーキニー」の漢音写。「荼吉尼」「陀祇尼」とも表記する。大黒天の眷属とされ、六ヶ月前から人の死を予知する能力を持ち、臨終を待って、その肉を食らうとされる。密教の「胎蔵現図曼荼羅」の外院(げいん)南辺に配置されている。「大日経疏」(だいにちきょうしょ)巻十及び「普通真言蔵品」(ふつうしんごんぞうほん)第四に説かれている。人体中の黄(おう:心肝)を食すると、総てを意のままに成就することができるとされている。なお、本邦では、稲荷神の本地仏とされ、愛知県の豊川稲荷(妙厳寺(みょうごんじ))に祀られている(小学館「日本大百科全書」拠った)。

「津田君の磬の硏究」宗教学者で帝室博物館宗敎部主任を務めた津田敬武(のりたけ 明治一六(一八八三)年~昭和三六(一九六一)年:兵庫生まれ)の大正四(一九一五)年八月発行『考古学雑誌』第五巻第十二号所収の「磬の研究」。

Pierre Beron du Mans, “Les observations de plusieurs singularités et choses mémorables, trouvées en Grèce, Asie, Judée, Egypte, Arabie, et autres pays etranges, ” à Paris, 1554」フランスの博物学者で外交官でもあったピエール・ベロン・デュ・マン(Pierre Belon du Mans 一五一七年~一五六四年:ラテン語名Petrus Bellonius Cenomanus(ペトリュス・ベローニウス・セノマヌス))が一五五三年に刊行した“Les observations de plusieurs singularitez et choses memorables trouvées en Grèce, Asie, Judée, Egypte, Arabie et autres pays étrangèrs.” (「ギリシャ・アジア・ユダヤ・エジプト・アラビアその他の外国で発見された多くの特異点と記憶に残る対象の観察」)。

「アトス山寺」アトス山はギリシャ北東部のエーゲ海に突き出したアトス半島の先端に聳える標高二千三十三メートルの山で、その周辺はギリシャ正教会(東方正教会)の聖地となっており、「聖山」とも呼ばれる。寺は同正教会の修道院を指す。参照した当該ウィキによれば、『アトス山周辺には現在』も二十もの『修道院が所在し、東方正教の一大中心地である』とある。

「鈴石」(すずいし)は珍石の一種で、鳴石(rattle stone)と同類。球、乃至、楕円体の小さい土塊(結核体)で、振ると鈴のように音を立てる。本邦では、北海道名寄市郊外から産出するものが有名で、「名寄の鈴石」とよばれ、昭和一四(一九三九)年に天然記念物に指定された。これは径三~六センチメートルの中空の土塊で、粘土や砂が固まってできた鉄分の多い結核体が、その中心部で溶けだし(石灰分の多い中核が溶出するといわれる。ここで熊楠の言う「穴巢(けつさう)」がそれ)、周囲の砂などが、中に残ることによって形成された。第四紀更新世の河岸段丘層から産出する(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「雲根志等に其記載有りしと記憶す」本草学者で奇石収集家であった木内石亭が発刊した、私の遺愛する奇石書「雲根志」(安永二(一七七三)年前編・安永八(一七七九)年後編・享和元(一八〇一)年三編を刊行)の中の「前編巻之四」の掉尾にある「鈴石 卅一」。所持する現代思潮社復刻本『日本古典全集』で電子化する。句読点を打った。一部に濁点を打った。

   *

鈴石(すゞいし) 卅一

其色、薄(うす)白く、鷄卵(けいらん)のごとし。これを振るに、其こゑ、鈴に似たり。石中(せきちう)、空虛にして小石をふくむと見へたり[やぶちゃん注:ママ。]。何國(いづく)の產をしらず。實(まこと)に奇物(きぶつ)也。又、大和の生駒(いこま)山に鈴石(すゞいし)といふ物を出す。是は、「本草」の太乙餘量(たいいつよりやう)也。又、濃刕(のうしう)赤坂の驛、市橋(いちはし)村谷氏は、が弄石の高弟也。近世、鈴石を見出せり。同國靑墓(あをばかの)近山の片山の奥にありと。最も奇品なり。又、鮓答(さくたう)の一種に鈴のごとく鳴ものあり。

   *

「本草」は明の李時珍の「本草綱目」であるが、正しくは「太乙餘糧」である。「石」の部では、巻十の「金石之四」の「代赭石」の「集解」に「太乙餘根」と出るのみだが、「太乙餘糧」ならば、巻三上の「百病主治藥上」に二ヶ所、巻四下の「百病主治藥下」に一ヶ所確認できる。これは、平凡社「世界大百科事典」の「鉄」の項の荒俣宏氏の記載の、『太一余糧は正倉院御物の中にあり』、『日本では子持石』、『〈いしだんご〉〈すずいし〉などと呼ばれる泥鉄鉱である』とあるものと同一物であろう。これらは所謂、漢方・民間薬として古くから知られていいたようである。「鮓答」は動物の体内に発生した結石様物質などを言う。私の「和漢三才圖會卷第三十七 畜類 鮓荅(へいさらばさら・へいたらばさら) (獣類の体内の結石)」を参照されたい。

「一呎」一フート。三十・四八センチメートル。

「一吋半」一インチ半。三・八一センチメートル。

「綠響石」(りよくきやうせき)は緑色の「響岩」(きょうがん:phonolite)のこと。化学組成上は霞石閃長岩(かすみいしせんちょうがん)に当たる火山岩の一種。「フォノライト」とも呼ぶ。斑状を成し、暗緑或いは暗灰色で、有色鉱物は少ない。細粒の粗面岩状或いはガラス質の石基中に、ソーダ正長石・玻璃長石・霞石などの斑晶を有する。有色鉱物は、エジリン輝石・アルカリ角閃石など。薄い板状に割れやすく、その板を叩くと良い音がすることから命名された(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「四分の一吋」六・三五ミリメートル。

Carl Engel, “Musical Instruments, ”South Kensington Museum Art Handbook, 1875, pp.74, 76)」ドイツの音楽家で楽器の蒐集家としても知られたカール・エンゲル(Karl Engel 一八一八 年 ~一八八二 年)の一八七五年の著作「楽器」。「Internet archive」のここと、ここが相当ページ。

「フムボルト」海流の名で知られるプロイセンの博物学者・探検家・地理学者で、近代地理学の祖とされるフリードリヒ・ハインリヒ・アレクサンダー・フォン・フンボルト(Friedrich Heinrich Alexander von Humboldt  一七六九年~一八五九年)。

「南米オリノコ邊」南アメリカ大陸で第三の大河であるオリノコ川(スペイン語:Río Orinoco)。長さは凡そ二千六十キロメートル、流域面積約九十二万平方キロ。「オリノコ」はカリブ族の言葉で「川」を意味する。当該ウィキによれば、『ベネズエラ南部のブラジル国境に近いパリマ山地に源を発し、トリニダード島の南側で大きな三角州をつくり大西洋に注ぐ。河川の約』五分の四は『ベネズエラ領で、残り『はコロンビア領に属する』。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「天河石」(てんがせき)は青緑色又は緑青色の微斜カリ長石。南米のアマゾンや、ロシアのウラル地方、インドのカシミール地方などで良石を産出する。現行では飾り石用とされる。「アマゾナイト」「アマゾン石」の名もある(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。

「ブロンニヤール」フランスの化学者・鉱物学者・地質学者で動物学者でもあったアレキサンドル・ブロンニャール(Alexandre Brongniart 一七七〇年~一八四七年)。

Humboldt, Personal Narratives of Travels to the Equinoctical Regions of America,  Bohn`s Library, vol.ii, p.397)」Equinoctical」の綴りは「選集」でも同じだが、これは「Equinoctial」の誤り。「アメリカ大陸赤道地方への個人的な旅の物語」。一九〇七年版の同書と当該部が「Internet archive」で見られる。七行目に‘Amazon-stone’とある。]

2022/08/23

多滿寸太禮卷第五 獺の妖恠 / 多滿寸太禮卷第五~了

 

[やぶちゃん注:基礎底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこれPDF・第四巻一括版)。本篇には挿絵はない。本篇を以って「多滿寸太禮卷第五」は終わっている。]

 

   獺(かはをそ)の妖恠《えうけ》

 大永年中に、都五條の洞院に、一人の商人(あきうど)有《あり》、又五郞と名づく。年每に、駿河・遠江に徃來《わうらい》して、染絹を商ふ。

 その比《ころ》、世間も、しばしば、おだやかならねば、徃來(ゆきゝ)も、たやすからず。

[やぶちゃん注:「大永」。一五二一年から一五二八年まで。室町幕府将軍は足利義稙・足利義晴だが、既に戦国時代で大永七(一五二七)年二月十二日には「桂川原の戦い」が勃発、管領細川高国が細川六郎の連合軍に大敗して、将軍足利義晴を奉じて京から落ち延び、評定衆や奉行人まで逃げ出したため、幕府の機能は完全に麻痺していた。

「都五條の洞院」この中央附近(グーグル・マップ・データ)。]

 春も末つ方、都を出《いで》、高荷(たかに)は、人、あまた、そへてやり、その身は、共(とも)ひとりを具して行《ゆき》けるが、美濃・尾張を過《すぎ》て、已に三河路《みかはぢ》にかゝりて急ぎしに、二村山《ふたむらやま》のほとりにて、日、漸々(やうやう)、かたむき、人家、程遠くして、足、なづみ、入相(いりあひ)つぐる鐘の音も、聞えず、たつきもしらぬ山の麓に、霞(かすみ)、引《ひき》わたして、おぼろ月よの、ほのかにさしいでけるに、むかふをみれば、一むら茂れる森の木陰に、朱(あけ)の玉垣(たまがき)、かすかに見へければ、

「こよひ一夜(いちや)は、此《この》拜殿にあかさばや。」

と、御燈(ごとう)のひかりにつきて、立《たち》よりみれば、本社・拜殿、きらをみがき、

「さも結構なる御社《みやしろ》なり。いかなる神の御鎭座《ごちんざ》にや。」

と、心靜かに禮拜(らいはい)して、則ち、拜殿にのぼりて、わりごなんど、取り出だして、下部(しもべ)もろとも、食(しよく)して、

「究境(くつきやう)のやどり。」

と、嬉(うれ)しく、前なる川にて、足をあらひ、御寶殿の下に、淸らかなるやどりあれば、主從二人、もろ共に、前後もしらず、うちふしける。

[やぶちゃん注:「二村山」は現在の愛知県豊明市沓掛町皿池上(くつかけちょうさらいけかみ)にある標高七十一・八メートルの山。当該ウィキによれば、『豊明市の最高地点であり、眼下に広がる濃尾平野や岡崎平野のかなたに猿投山や伊吹山地、御嶽山までを一望にしうる景観は名勝として古くから知られる。歌枕ともなり、平安時代の頃から数多くの歌や紀行文の題材にされてきた。現在でも山頂から山麓にかけて、その長く風趣な歴史を物語る歌碑・石碑がいくつか残されている』とある。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。話柄内時制の二十余年後の「桶狭間の戦い」の戦地の東北直近である(次注の地図リンクで左下方に同「古戦場伝説地」を配しておいた)。

「たつきもしらぬ山の麓」「一むら茂れる森の木陰に、朱(あけ)の玉垣(たまがき)、かすかに見へければ」二村山山麓の神社となると、豊明神社であろうか。但し、後で「二村山八幡宮」と出るのだが、現行では八幡神を祀っているかどうか確認が出来なかった。]

  已に夜更(よふけ)、しづまりけるに、數(す)十人の聲して、どよめきければ、又五郞、目をさまし、ひそかにのぞき、うかゞひみるに、拜殿に、蝋燭《らふそく》、あまた、たてならべ、金(きん)の屛風、引《ひき》まはし、さも、きらびやかに裝束したる、めのと・半者(はしたもの)、ちらちらと、火かげに、みゆ。

「こは、いかに。」

と、よくよくみれば、上座とおぼしき所に、廿(はたち)あまりの上郞、琴(きん)をたづさえて、引しらぶるけしき、いはんかたなく、いつくしきに、年比(としごろ)の尼比丘尼(あまびくに)、そのかたはらにあり、女(め)の子童(わらは)三人、同じごとく出で立ちて、日を出したる扇子(あふぎ)を、一やうに、かざし、此上郞、琴を彈(だん)じ、尼は、ひとよぎりをふけば、めのとは、三味線(さみせん)をならしけるに、かの三人の童(わらは)は、やがて立ちあがり、調子にあはせて舞《まひ》をどりける。

[やぶちゃん注:「ひとよぎり」「一節切」。尺八の一種。長さ一尺一寸一分(約三十四センチメートル)ほどの短い竹製の縦笛。普通の尺八と異なり、節は一つだけある。室町中期に中国から伝えられたとされ、江戸時代にかけて用いられた。]

 くまなき春の朧月は思ふにつらし

 やみは 人めもいとはぬに 雨は

 音せで ふる五月雨《さみだれ》

 に ほさぬ袂は 風吹くかたへ

 引《ひか》ば なびかん花かづら、

 たぐひもあらしの山櫻 余所(よそ)

 の見るめも いかならん

と、おしかへし、おしかへし、立《たち》まふ體(てい)、まことに、又、たぐひなふ、めもあやに詠(なが)めゐたるに、布衣(ほい)のごとくに、白裝束したる、おのこ壱人《ひとり》、たてゑぼしきて、さも、すゝどげなる男、兩三人、松明(たいまつ)ともして、御手洗川(みたらし《がは》)の邊(へん)より出《いで》て、靜かにあゆみ入來り、拜殿にのぼり、上郞共に打みだれて、興を催(もよほ)しけるに、色々の生魚(なまうを)、數々、鉢(はち)にいれて、持ちはこぶ。

[やぶちゃん注:「御手洗川」これは固有名詞ではなく、神社に引き込んである浄水に主流であろう。]

 その魚、生《いけ》るがごとし。

 鯉・鮒・鱸(すゞき)なんどの、おどりはねしを、此の男ども、つかみくらいて[やぶちゃん注:ママ。]、男女(なんによ)、入《いり》みだれ、うちふし、不禮なるさま、いふ斗りなし。

 各《おのおの》、女、一人づゝ、かい抱(いだ)きて、たわむれたる[やぶちゃん注:ママ。]ありさま、ひとへに、人間(にんげん)のごとし。

 あまりに、ふしぎにおぼえて、よくよく、みれば、男の貌(かほ)、まなこ、丸く、ちいさく、口とがり、色、黑し。

『何樣(なにさま)、けだものゝ妖(ばけ)たるにこそ。』

と思ひければ、旅の用意に、もたせたる半弓《はんきゆう》を取り出《いだ》し、能(よ)く狙ひすまし、大將とおぼしき者の、胸のほとりを、したゝかに射付(いつけ)たり。

「あつ。」

と、おめく音(おと)して、上下、肝(きも)をけし、とりどり、逃げ出でたり。

 此《この》まぎれに、女共も、いづちいにけん、火も、きへ、闇に成りたり。

 かくて、漸々、明がたになり、しのゝめも、しらじらと明《あく》る比《ころ》ほひ、社司、二人、出で來りて、本社にむかひ、祈念しけるが、あたりに、血、ながれ、生魚(なまうを)、あまた喰《くひ》ちらして、けだものゝ足あと、拜殿に

「ひし」

と有《あり》。

 兩人、

「また、例(れい)の妖(ばけ)もの、出《いで》つらん。」

と、爰かしこ、見廻しけり。

 又五郞主從、社の下より、這《はひ》出ければ、社人(しやにん)、おどろき、

「何者ぞ。」

と、いへば、

「我々は、行き暮れたる旅人にて、夕べ、夜に入《いり》、人里もしらず、此《この》所に、ふしぬ。そもそも、『妖(ばけ)もの』と仰せらるゝは、いかなる事にて侍る。」

と問へば、

「その事にて候。此社は、二村山八幡宮とて、靈驗、あらたにましまし、近里(きんり)遠國(おんごく)より、かつごう[やぶちゃん注:ママ。「渴仰」の歴史的仮名遣は「かつがう」である。なお、「渇仰」は本来は仏教用語である。]の首(かうべ)を傾(かたむ)け奉りけるに、日外(いつぞや)のほどよりか、夜(よ)に入《いれ》ば、妖物(ばけもの)出《いで》て、人を、なやまし、氣を失《うしな》はするにより、あたりへ人の通(かよ)ひも侍らず。かたがたは、ふしぎの命、助かり給ふ。あやしき事も、さふらはずや。」

と語れば、又五郞、

『扨は。』

と思ひ、有《あり》つる事ども、具(つぶさ)に語り、

「則ち、矢を負(おは)せ侍る。此血をとめて見給へかし。さるにても、あまたの女どもは、いかなる妖情《えうせい》[やぶちゃん注:「情」はママ。後で「ようせい」と振られてある。]にてか侍らん。」

と、あたりを見まはすに、御社(みやしろ)に掛られたる繪馬に、けだかき上郞の、琴(きん)をひき、其《その》傍らに、尼・めのと・女共、あまた、あり。一よ切(ぎり)、さみせんを引《ひき》たり。めの童(わらは)、三人、たちて舞ふあり。屛風、そのほか、夕(ゆふべ)みたるに、露もたがはず、所々、血にまみれたり。

「うたがひもなく、此繪馬(ゑま)の情(せい)に、外(ほか)のけだ物の化(ばけ)て、妖情《えうせい》のあつまりける。」

と、則《すなはち》、かの繪馬をおろし、一々、喉(のんど)をつき破りて、かの血を尋ね、村人、大ぜい、催し、したひてみるに、御手洗川の艮(うしとら)[やぶちゃん注:北東。鬼門。]に、大きなる岩穴《いはあな》あり。

 其内へ、のり、ひきて、あり。里人、大勢、かゝりて、これを、うち崩し、ふかく掘り入《いる》程に、次第にうち廣く、一、二丈も掘りければ、獺、數(す)十疋、おどり出たり。

 そのてい、よのつねならず、大きにして、幾(いく)とせふるとも、しらず。

 人をみて、牙(きば)をかみ、とび付《つき》、喰付《くらひつき》けるを、或は、打殺《うちころ》し、切殺し《きりころ》けるほどに、已に十余疋なり。

 其《その》おくに、一つの大なる黑白《こくびやく》まだらの獺、むないたを矢につらぬかれて、齒をくい、牙をかみ出《いだ》して、死(しゝ)てあり。

『是《これ》ぞ、宵(よひ)の大將ならむ。』

と思へり。

 のこらず、うち殺して、をのをの、くらひけるに、更に、よのつねの獺に、かはらず。

 其の後(のち)、この社にばけもの絕《たえ》て、諸人(しよにん)、晝夜(ちうや)、參詣しけるとかや。

[やぶちゃん注:「獺」日本固有種のそれは、日本人が滅ぼした食肉目イタチ科カワウソ属ユーラシアカワウソ亜種ニホンカワウソ Lutra lutra nippon である。近代に至るまで、本邦の民俗社会に於ては、狐・狸に次いで人を化かす妖獣とされていた。博物誌は私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 獺(かはうそ) (カワウソ)」を参照されたい。]

多滿寸太禮卷第五 永好律師魔類降伏の事

 

[やぶちゃん注:基礎底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこれPDF・第四巻一括版)。挿絵は国書刊行会「江戸文庫」版の木越治校訂になる「浮世草子怪談集」のそれをトリミング補正して、適切と思われる箇所に挿入した。右左でセットの挿絵であるが、描かれた内容から、前後するため、特異的に分離して挿入した。

 

    永好律師《えいかうりつし》魔類《まるゐ》降伏(がうぶく)の事

 越前國金(かね)が御嶽(みたけ)の西面(にしをもて)に、一社の祠(ほこら)あり。

 此の所は、金が崎の城(しろ)とて、そのかみ、元弘より此方、數萬(すまん)の軍士、世々に戰亡《っせんばう》して、かばね累々として、郊原(こうげん)に朽ちぬ。

 かの社は「嶽(たけ)の明神」とて、靈驗あらたに、本社拜殿、玉をみがき、その傍らに寺院ありて、朝暮(てうぼ)の法施(ほつせ)、おこたらず。

[やぶちゃん注:「越前國金(かね)が御嶽(みたけ)の西面(にしをもて)に、一社の祠(ほこら)あり」現在の福井県敦賀市金ケ崎町にある金崎宮(かねがさきぐう)。当該ウィキによれば、『建武中興十五社の一社で』、『主祭神の一人である尊良』(たかよし:後醍醐天皇第一皇子)『親王と』、『その妻の恋愛伝説』で『知られている』。『当地にあった金ヶ崎城址の麓にある。恒良』(つねよし:尊良秦王の異母兄)『親王と尊良親王を祭神とする』。『恒良親王と尊良親王は、足利尊氏の入京により』、『北陸落ちした新田義貞、および氣比神宮の大宮司に奉じられて金ヶ崎城に入ったが、足利勢との戦いにより敗死した』とある。但し、「西面」とするが、位置的には「南面」である。

「金ヶ崎城」は別名「敦賀城」。当該ウィキによれば、『敦賀市北東部、敦賀湾に突き出した海抜』八十六メートルの『小高い丘(金ヶ崎山)に築かれた山城で』、その元は「治承・寿永の乱」(源平合戦)の『時、平通盛が木曾義仲との戦いのため』、『ここに城を築いたのが最初と伝えられる』とある。現在、この城の最も知られた攻防は、本篇より後の織田信長と徳川家康の「越前朝倉攻め」での信長軍の撤退敗北、「金ヶ崎崩れ」である。]

 去(さん)ぬる建武の兵亂(ひやうらん)に、寄手(よせて)の陣屋《ぢんをく》に破られ、其後(のち)、たれ、再興もなく、荒れ果てて、多くの年月(としつき)を送るに隨ひ、木の葉に道を埋み、ながく、人のかよひもたえ、雨露(うろ)に討たれ、をのづから、あらゆる鳥獸の栖(すみか)として、常は妖魁《えうくわい》のわざわひあれば、まれに徃きかふ樵夫(せうふ)も、あたりへ、近づかず。

 爰(こゝ)に、南都に永好律師とて、尊《たふと》き碩學の僧あり。戒法正しく、一寺の譽れ有りしが、深く世をいとひ、山林幽居の志(こゝろざし)ありて、此の山にまよひ入、かの芽屋(ばうをく)に休らひ、すみ給ふに、東北は、深山(みやま)、峨々と聳びへ、西南は、海上一片に、霞(かすみ)におほはれ、心も澄みて覺え給ひければ、朽ちて久しき房舍(ばうしや)を、かしこ爰の枯木(こぼく)をあつめ、かたのごとくに、しつらひて、晝は、里民に食を乞《こひ》て、よるは、木《こ》のみの油をとりて、窓前の燈(とほしび)となし、俗氣(ぞくき)、まれにして、靑山(せいざん)人(ひと)靜(しづか)也。鳥は春花(しゆん《くわ》)の枝に語り、猿は秋雲(しううん)の峯(みね)に叫(さけ)ぶ。蝉(せみ)の聲(こゑ)に夏(なつ)を送(をく)り、常は山草をあつものとし、諸木の皮を紙として、粉詞(ふんし)をのべ給へり。

[やぶちゃん注:「永好律師」不詳。

「幽居」底本では『いうこく』と振るが、歴史的仮名遣としても、読みとしても話にならない。或いは彫師が「幽谷」と取り違えてかく振ったものかも知れぬ。「幽居」の歴史的仮名遣は「いうきよ」である。

「一片」ここは「辺り一面」の意。

「あつもの」暖かい汁物。

「粉詞」ささやかな思いを綴った詩文。]

 

Eikou1

[やぶちゃん注:挿絵が全体に潰れ気味で、細部が判らぬので、底本の早稲田大学図書館「古典総合データベース」の単体画像をリンクさせておく。] 

 

 或る夜(よ)、窓下に燭をそむけ、几下(きか)に肱(ひぢ)をまげて、蕭然(せうぜん)として座(ざ)し給ふに、庵(いほり)の外面(そとも)に、人のおとなひ、あまた聞えて、數十人の來たる。

 みれば、僅かに、其たけ、三尺斗《ばかり》、黑き帽子を一面にかぶり、うす墨(ずみ)の衣(ころも)を、ゆたかに着なし、そのさま、から人に似たり。

 眼(まなこ)、ちいさく丸く光り、貌(かほ)の色、甚だ黑し。

 五、六十人、庵の外(ほか)まで入こみ、弓矢・鉾、あるひは太刀を帶(は)き、僧に向ひて、何(いづれ)も座したり。

 その主人とおぼしき者も、面(おもて)の色、おなじさまにて、黑白(こくびやく)の衣を着たり。僧にむかひて云ふ樣、

「われは『白蝙侯(はくへんこう)』と云ふ者也。此の社(やしろ)の中に住むで、此山を領する事、年、久し。御房(ごばう)の庵室(あんじつ)に近く住むといへども、心ざし有《あり》て、對顏(たいがん)せず。しかるに、今、こゝに、汝、庵をかまへて、吾が有《いう》となす。さるによつて、わがけんぞくを始め、他方の賓客(ひんかく)、汝をいとひて、道を失ふ。速かに此の地を去るべし。しからずんば、必ず、命を失ふべし。とくとく出で去るべし。」

と、大《おほい》に怒りて、みゆ。

 永好、更に恐れ給はず、

「夫(そ)れ、神(かみ)は、大乘(だいじやう)、順聖(じゆんせい)にして、異道(いだう)といへども、皆、佛法に奉(ほう)ず。祖神(そしん)、なを、しかなり。況や、小神(せうじん)をや。我、こゝに住して、常に佛經の祕要《ひえう》を誦(じゆ)す。神(しん)、なんぞ悅むで我を守護せざらんや。邪神、なを[やぶちゃん注:ママ。]、佛力(ぶつりき)にたえず。察するに、奇畜化鳥(きちくけてう)の類(たぐひ)、空社(くうしや)にすんで、妖恠《えうけ》をなすと、みえたり。速かに退散せずんば、護法に罸(ばつ)せられて、命を失ふべし。」

と宣ひければ、此者共、大に怒る色、みえて、聲々に、のゝめきをし入《いれ》ば、律師、暫く密呪(みつじゆ)を唱へ給へば、傍らに有ける圍爐(ゐろ)の内より、一つの火の玉飛び出で、おしあひ、ならびゐたる化者共(ばけものども)の中を飛びめぐれば、數百(すひやく)の者共、おめき叫び立ち、ちいさき鳥(とり)の形(かた)ちとなり、八方へにげまどひて、ちりぢりに成りぬ。

[やぶちゃん注:「大乘(だいじやう)、順聖(じゆんせい)にして」「大乘」は大乗仏典で特に「法華経」のこと指すから、「順聖」は、その教えの神聖性に対し、心から文句なく帰順することを言うのであろう。]

  夜《よ》も明(あけ)ければ、

「さるにても、かの妖物(ばけもの)、社中に住むといへば、何ものならむ。」

と、社(やしろ)の御戶(みと)をひらきて見給ふに、數百(すひやく)の蝙蝠(かふむり)、いくらともなく逃げ出けるが、霄《よひ》に燒かれたるとみへて、多く、得(ゑ)たゝぬもあり。其の中に、白きまだらのかふむり、一つ、片羽(かたは)、こがれて死(しゝ)て有《あり》。

「大將と見へつるは、かのものならん。」

と、是れを、ことごとく取り集めて、捨て給ひける。

[やぶちゃん注:「蝙蝠」底本では『かふむり』と振り、後文本文でもそうなっているので、特異的にママとした。歴史的仮名遣は「「かうもり」が正しく、しかも、見かけぬ読みではある。

「得(ゑ)たゝぬ」不可能を表わす呼応の副詞「え」に当て字した上に読みを誤ったもの。]

  又、ある夕暮に、廿(はたち)あまりのようがん美麗の女《をんな》、いづくともなく來り、律師にちかづき、

「我は、此の山のふもとに、何がしと申《まをす》者の娘にて候が、近きほどに、人に嫁(か)してまかりさふらふ。夫《をつと》、さる曲者(くせもの)にて、夜ごとに人を惱(なや)し、或は殺し候へば、あまりに不便(ふびん)に存じ、いろいろと敎訓いたし侍れど、更に承引なく、あまつさへ、わが身を殺害(せつがい)せんとす。一たん、のがれて出《いで》たり。師の慈悲を以つて、しばらく隱し置き給へ。」

と、淚をながしけるに、律師、

「此の所は、人倫、はなれ、我だに、しのぎかねたる草の庵に、あたふべき食物(しよくもつ)さへ、なし。然れども、けふは、日、すでに暮れければ、犬・狼のおそれもあり。こよひ一夜(いちや)は、庵にあかし給へ。明(あけ)なば、里へ出《いで》、いかなる方へも、おもむき給へ。」

とあれば、女性(によしやう)、大きに悅んで、すなはち、内に、いりぬ。

 その體(てい)、すべて只人(たゞうど)とも覺えず、雪の肌へ、淸らかに、奇香(きかう)あたりに薰(くん)じ、しらず、

『天人の爰(こゝ)に來りけるか。』

と、あやしまれ、色(いろ)をふくめるまなじりには、いかなる人も、まよひぬべし。

 されども、律師、戒行(かいぎやう)まつたき聖(ひじり)にておはしければ、いさゝか一念も起らず、只、觀法《くわんはふ》に心を亂さず。

 此の女(をんな)、せんかたなく、しきりに、おめき、息まきたり。

 聖、

「何事やらむ。いかに、かくは、くるしみ給へるぞ。」

と、問《とひ》給へば、

「心《ここ》ち、あしくて、腹を、なやみさふらふ。暫く、むねをおさへて給り候はゞや。」

と申せば、聖、爲方(せんかた)なく、錫杖に絹をまき、女の胸より、なでおろし給へば、少し、おだやかに成りぬ。

 かゝるほどに、夜(よ)も漸々(やうやう)明方のちかきに、をのづから、いねふり給ふに、庵のうへに聲ありて、

「何とて、かく隙(ひま)をとるぞ。とくとく、骸(かばね)をとり來れ。」

と呼べば、女のいはく、

「此の聖、行法、つよく、更に障碍(しやうげ)を、いれず。」

とぞ、いひける。

 律師、夢、さめ、

「さるにても、汝、何ものなれば、かくのごときぞ。」

と問ひ給へば、女、淚(なんだ)をながして、

「我は、此山に年(とし)經(へ)てすむ大蛇にて侍り。我、かゝる畜身(ちくしん)に生(しやう)を受けて、多くの年月を送る事を歎き、そのかみ、此院主、兼光(けんくわう)上人の示(しめし)を受けて、永く生類(しやうるい)を、ころさず。すぐに身を惠日(ゑにち)の光(ひかり)にやはらげ、佛果の緣によるべきに、建武の亂に、此の山、鬪爭(とうじやう)のちまたと成《なり》、堂社、荒廢して、人の死骸に、山を、かさぬ。これによつて、諸方の邪獸(じやじう)・變化(へんげ)の者、此山に集まり、しゝむらをくらひ、又、魔界の地となりぬ。自(みづか)らも、宿執《しゆくしふ》、つたなく、昔に歸り、人を惱まし、取り、くらふ。此の上(うへ)の山の岩洞(がんどう)に住むで、生類を食(しよく)とす。又、山上の城跡(しろあと)に、一人の邪神あり。通力(つうりき)、無辺にして、人の爲めに惡をなす。是によりて、他方の魔類、けんぞくとして住(ぢう)す。君、こゝにゐまして、おこなひ給ふにより、悉く、結界の地とならむ事をかなしみ、

『行法をさまたげ、命を取るべし。』

とて、我を、せむ。止事(やむごと)なくて、爰に來り、色(いろ)を以つて、さまたげ侍らんとしけるに、佛日(ぶつにち)の光(ひかり)におされて、今は出《いで》侍る。我、又、師をとらざる事を怒りて、彼(かれ)、我を取りくらい[やぶちゃん注:ママ。]、命を失ふべし。哀れ、師の大慈の法力を以《もつて》、わが一命を助けさせおはしませ。さもあらば、水を汲み、薪(たきゞ)をとりて、師にさゝげ、此の功力(くりき)を以、畜身を、まぬかるべし。」

とて、淚をながせば、聖、あはれに覺えて、則ち、符(ふ)をかきて、あたへ給ひ、

「これを身にふれてあらんには、更に、恐れ、有《ある》べからず。とくとく、歸るべし。」

と、示し給へば、女、大きによろこび、禮拜供敬(らいはい《くぎやう》)して、

「今より、永く、師につかへ侍り、佛法を守り奉らん。」

とて、出《いづ》ると見へしが、かきけすごとくに、失せにけり。

[やぶちゃん注:「兼光上人」不詳。]

 此の後(のち)、夜每に、異類・異形(いぎやう)の、姿を顯はし、聖を犯《をか》さむとしけれども、聖、物の數(かず)ともせず、いよいよ、觀念、おこたらざれば、をのづから[やぶちゃん注:ママ。]、護法童子、姿を顯はし、日夜、守り給へば、あたりにちかづくべき樣なく、年月(ねんげつ)を送り給ふ。

[やぶちゃん注:「護法童子」護法善神(ごほうぜんじん)の後世の呼び名。仏法及び仏教徒を守護する、主に天部の神々の童子姿をした者のこと。]

 此の山の麓の在所、數家(すけ)、たちならびて、繁昌の地なり。然(しか)るに、いつのほどよりか、人、あまた、うせ、あるひは、ゑやみ[やぶちゃん注:ママ。「疫」は「えやみ」でよい。]ければ、

「こはいかなる事ぞ。」

と、諸人(しよにん)、肝(きも)をけし、家々に、歎きの聲、やまず、ねぎ・山伏、あらゆるわざをなして、ふせぎ留(と)むるに、更に事ともせず、いよいよ、人、失せければ、老若男女(らうにやくなんによ)、おめき叫ぶ事、限りなし。

 此の里の長(おさ)、何がしの兵衞(ひやうゑ)とかや云ひしもの、諸人を、あつめ、

「いかゞせん。」

と評定しけり。

 爰に、或る者、申やうは、

「金ケ崎の山上(さんじやう)に、いつのほどよりか、化生(けしやう)のもの、栖んで、數年(すねん)、人のかよひなかりしに、去りぬる比《ころ》より、いづちともなく、僧とも、俗ともみへぬ人の、嶽(たけ)の御寺(みてら)の跡に、かたのごとくの庵を結びて住み給ふ。かゝる人倫絕《たえ》たる魔所に、をそれもなく住給《すみたまふ》は、いかさま、凡人(ぼんにん)にあらず、神仙のたぐひならめ。此《この》所にまふで行き、ひたすらに歎きなば、此事、靜まりなん。」

と申せば、里人、此の義(ぎ)に同じ數十人、深山(みやま)を分けて、かの庵室に尋ねまふでみるに、草のわら屋に草むしろ、誠に人の住むべくもなきに、髮も眉毛も生ひさがり、木(こ)の葉衣《はごろも》を身につゞり、御經(おんきやう)を尊《たふと》くよみ給ふ。そのこゑ、山にひびきて、聞《きく》もの、身の毛よだち、あたりをみれば、廿《はたち》あまりの、ようがんびれいの女性(によしやう)、錦の衣をきて、閼伽(あか)の水を汲みてあり。

 里人共、あまりの尊さに、御經を聽聞(ちやうもん)し、余念なく、とうとく、感淚をながしける。

 かくて、御經も終れば、兵衞、御前《ごぜん》にかしこまりて、ありし事ども、具(つぶさ)に語り、

「大慈大悲の御方便を、たれさせおはしまし、諸人の鬼難を、救はせ給へ。」

と、各《おのおの》、首(かうべ)を地に付《つけ》、禮拜(らいはい)す。

 聖、申させ給ひけるは、

「我、斗(はか)らずに此の山に來り、已に三とせを送る。魔障(ましやう)、山に充滿して、無量のわざはひをなすといへども、露斗(つゆばか)りもいとふ事なく、終《つひ》に護法にかられて、退散す。我、法力を以、諸人の歎きを休(や)むべし。此の符(ふ)を、里の四面(めん)に立て置くべし。殃《わざはひ》、忽ちに、なかるべし。」

とて、則ち、符をあたへ給へば、里人共、ひとへに、

「如來の御助(おんたすけ)。」

と悅び、禮拜恭敬(らいはい《くぎやう》)して、急ぎ、里に持歸り、四面(しめん)にあたら敷(しき)かり屋を立て、是れを勸請しけり。

 

Eikou2

[やぶちゃん注:同前で、底本の早稲田大学図書館「古典総合データベース」の単体画像をリンクさせておく。]  

 

 其の夜(よ)、里人共の夢に、髮、空(そら)ざまに赤く生ひのぼり、眼(まなこ)かゝやき、身には金(こがね)のよろひをかけ、手に手に、利劍を引《ひつ》さげたる人、四人、四方に立ちて、聲をあげてよび給ふに、色、白く、眼(まなこ)あかく、口は耳の根まで切れ、ふたつ牙(きば)は、劍(つるぎ)のごとく、長(たけ)なる髮を亂し、手には、赤き繩をもちて、人をからめ、めて[やぶちゃん注:「馬手」。右手。]に鐵のしもと[やぶちゃん注:「楚」。鞭。]をもつて、かうべを、打《うち》わり、朱(あけ)のちしほに身をそめなして、顯はれ出《いで》たり。

 四方へ逃げ出でむとせしを、四人の神人(しんにん)、中《なか》に取り込めて、をのをの[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]、劍をふるに、惣ち、通力(つうりき)うせて、大地におつるを、これをからめて空中(くうちう)に上(あが)り、海底(かいてい)にけおとし給ふ、と、みへて、夢、さめたり。

 夜明(よあけ)て、をのをの、語るに、すべて、夢中の事ども、おなじ。

 かのとられたるものは、その里の、うとくの者の子にてぞ有《あり》ける。大路(おほぢ)の木のえだにかゝりて有しを、急ぎ、引きおろしみるに、繩かけて、かうべを打わり、血に、そみたり。

 怖しなんども、あまりあり。

 數(す)百人とられしうちに、かの子の死骸ならでは、一人も、なし。

 是よりして、ながく、此の里のわざはひは、うせて、諸人、安堵しけり。

 四方(しはう)の假屋(かり《や》)をあらたに修造(しゆざう)して、「四天の宮(みや)」とかや申《まをし》て、あがめ敬(うやま)ひけるに、靈驗不雙(《ぶ》さう)なり。

「これ、ひとへに、かの神仙の冥慮(みやうりよ)にあり。」

とて、近里遠村(きんりゑんそん)より、聞《きき》つたへて、山上(さんじやう)しければ、聖も六ケ敷(むつかしく)やありけむ、いづちともなく失せ給ふ。

 その庵室の跡に、かの女性(によしやう)、おりおり[やぶちゃん注:ママ。]あらはれ、「法花經(ほけきやう)」を讀誦(どくじゆ)しければ、里人ども、爰に社(やしろ)を立て、「姬の宮」と申けるとかや。

 きどくの靈現(れいげん)、あらたなりけるとかや。

[やぶちゃん注:「かのとられたるものは、その里の、うとくの者の子にてぞ有ける。大路(おほぢ)の木のえだにかゝりて有しを、急ぎ、引きおろしみるに、繩かけて、かうべを打わり、血に、そみたり」「數(す)百人とられしうちに、かの子の死骸ならでは、一人も、なし」という意外な展開は、結果して、その最大の魔性の者と眷属が、その里の有徳の者(豪家)の子の命を奪って憑依していたということであろう。挿絵では四方の天部に成敗される複数の鬼が描かれているが、本文の当該シークエンスでは、ただ「人」とあるだけで、その異形に魔性どもが語られていないのは、ちょっと作者の力不足か。或いは、以上に示した意外性を出すための確信犯の仕儀であったものかも知れない。]

多滿寸太禮卷第五 村上左衞門妻貞心の事

 

[やぶちゃん注:基礎底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこれPDF・第四巻一括版。挿絵は国書刊行会「江戸文庫」版の木越治校訂になる「浮世草子怪談集」のそれをトリミング補正して、適切と思われる箇所に挿入した。]

 

    村上左衞門《むらかみさゑもんが》妻貞心の事

 中比(なかごろ)の事にや、四海、波、靜(しづか)にして、都鄙、遠境、君(きみ)の德にたのしみ、尊貴高家(かうけ)には、笙歌夜月(せいか《やげつ》)を家々に翫(もてあそ)び、誠に、めでたき世中なり。

[やぶちゃん注:「中比」そう遠くない昔。本作の刊行された江戸中期(元禄一七(一七〇四)年正月)から考えれば、鎌倉時代の中期の安定期から室町前期辺りとなろうが、後の本文の「かせ奉公」(後注有り)という語から、後者と推定した。

「笙歌夜月(せいか《やげつ》)」月の夜に、笙(しょう)の笛を吹き、歌を歌って楽しむこと。これは「和漢朗詠集」の巻上の二十四番、菅原文時(昌泰二(八九九)年~天元四(九八一)年:道真の孫)の、

   *

笙歌(せいか)の夜(よる)の月の家々(いへいへ)の思(おもひ) 詞酒(しいしゆ)の春の風の處々(ところどころ)の情(こころ)   菅三品(くわんさんぼん)

  笙歌夜月家々思 詞酒春風處々情  菅三品

   *

に拠る。これに従えば、「夜月」は「よるのつき」であるが、作者は下方に読みを添えておらず、四字熟語として用いているので、音読みとした。]

  其の比しも、尊卑をいはずして、鬮(くじ)を取りて相手を定め、興を催《もよほ》し、遊びとし、引出ものを結講(けつかう)する事、すべて貴賤上下(じやうげ)は申《まをす》に及ばず、洛中より邊土に及《およべ》り。是によりて、坐敷を、かざり、時ならぬものを求め、種々(しゆしゆ)のたはむれに日を送る。

 或る臣の家に、此儀式を好みて、男女《なんによ》上下をいはず、くじにまかせて、相手をさだむるに、亭主の御相手に、此《この》三、四年以前に、始めて參りたる侍《さむらひ》に、村上左衞門國方とて、いまだ、むそくの奉公の者、とりあひたり。人こそ多《おほき》に、御相手に成《なり》ぬれば、あるじの御心《みこころ》にも、好ましからず思ひ給ひぬ。

 左衞門も、

『はうばい・外樣《とざま》の相手ならば、かたのごとく、いとなむ事も有べきに、是は思ひもよらぬ過分の御(おん)相手になり、いかゞせん。』

と案じ煩ひける。

[やぶちゃん注:「村上左衞門國方」不詳。

「むそく」「無足」。中世以降、家臣の内で知行領地を持たないことや、奉公や職務に対する相応の報酬給付がないこと、また、そのさまや、そうした者を指して言った。]

  扨も、家に歸りて、妻に語りけるは、

「日比(ひごろ)、互に、こゝろざしも淺からず。此《この》とし月、かせ奉公をもし侍る。なにさま、身をたつる品(しな)もあらば、一たびは報はめとこそ思ひつるに、思ひの外の事、侍りて、『出家發心して、山々寺々をも修行し、後世(ごぜ)をこそ祈りまいらせん。』と、思ひたち侍る。年比の名殘も、こよひ斗りと思ふに、爲方(せんかた)なし。」

とて、さめざめと泣きふしける。

[やぶちゃん注:「かせ奉公」「悴(かせ)奉公」。「悴者(かせもの)奉公」。中世後期の武家被官の一つで、配下の侍の最下位。中間(ちゅうげん)の上で、若党や殿原(地侍)に相応する身分。「かせにん」「かせきもの」とも呼んだ。参照した小学館「日本国語大辞典」の用例には、『常陸税所文書』を挙げ、『年未詳』としつつも宝徳四/享徳元(一四五二)年から寛七/文正元(一四六六)年頃とし、十月十四日附書状に『巨細者可加世者申候』とある。]

 妻、おどろき、

「何事にか、かゝる御心《みこころ》は、俄かにつきたるぞ。」

と問へば、

「まことは、道心のおこりたるにも、あらず。又は、奉公に私(わたくし)もなし。たゞ、身のありさまのかなしくて、思ひ立ちたる斗りなり。當世、おしなべてする事なる鬮取(くじとり)の、御所(ごしよ)にも御沙汰有《あり》て、日を定められつるに、運の究《きはめ》のかなしさは、上(うへ)樣の御相手(おんあいて)に成りて、『引出物、見ぐるしからん。』と、をそれあり[やぶちゃん注:ママ。]。又は、人の思ふ所も恥づかし。笑われぬ[やぶちゃん注:ママ。]程に、いとなむべき力も、なし。ひとへに、冥加のつくる所と思ふ故に、かくは思ひ立ちぬる。」

と語れば、妻、これを聞《きき》て、

「誠に、左(さ)思ひとり給ふは、ことはりにてさふらふ。たゞし、この事ならば、など歎き給ふぞ。人の果報・幸ひといふ事も、心から、とこそ、いふめれ。已に御相手になりて、跡をくらまして失せなむも、上《うへ》の御爲《おんため》、しかるべからず。たとへ、此たび、世をのがれんと覺し給ふに付けて、尋常なる引出物、一つ。奉りて、その上にてこそ、出家もし給はゞ、道(みち)ならめ。ふかきえにしあればこそ、夫婦とも成《なり》ぬらん。歎きも、同じ歎き、悅《よろこび》も、同じく、よろこぶべきこそ、本意《ほい》ならめ。出家し給はゞ、吾とおなじく、さまをかへて、一筋に後(のち)の世をこそ、願はむずらめ。此の家も地も、親の代より、吾物《わがもの》にて侍れば、ともかくも、しか、へて、思ひ出《いだ》し給へ。一日も、かくて有《あり》ながら、いかにか、かなしみ給ふらん。」

といひければ、夫、云ふやう、

「かゝるつたなき身につれあひ給ひて、いつとなく心哀しき事斗りにて、此とし月、片腹いたくてぞ、おはすらん。我故《わがゆゑ》に、物ごとをさへ身を失はせまいらせん事、かへすがへす、あらざる事成《なる》べし。此事とては、思ひより、なき事なり。おことは、わかき人なれば、いかなる事をもして、世を送りなむ。わが身は、をどりありかむ事も易かるべし。年比の名殘こそ、かなしく覺ゆれ。」

とて、淚をながしけり。

[やぶちゃん注:「吾とおなじく、さまをかへて」「吾と」は副詞で「自分から」の意。「あなたが出家なされたら、私も自ら様を変えて出家致し、」の意。]

 妻は、

「猶、心をへだてゝ、かくは仰らるゝぞや。」

と、夜もすがら、いさめ、夜も明ければ、此いとなみの外、他事(たじ)なく、實に淺からず見へければ、

「さらば、ともかくも女房の斗《はから》ひにしたがはむ」

とて、屋地を、うりて、用途五十貫ほど、有けり。

 銀《しろがね》の折敷《をしき》に、金《こがね》の橘《たちばな》をつくらせて、ことごとしからぬやうにて、紙につゝみ、懷中して參りけり。

 かくて、傍輩も、をのをの、相手・相手に引出物して、はへばへしかりけり[やぶちゃん注:ママ。「はえばえし(映え映えし)」で「光栄である・晴れがましい」の意。]。

「何某は、上の御相手に參りて、その用意、有《ある》か。」

と、傍輩どもの問《とひ》ければ、

「いかでか用意仕らざらん。」

と、答へければ、

『いかほどの事か、仕《つかまつり》いたすべき。』

とて、目ひき、鼻ひき、貌(かほ)をそばめて、おかしげに思ひけり。

 上にも、片腹いたく思召《おぼしめし》たる氣色(けしき)なり。

 已に、ふところより、紙につゝみたる物を取り出だすをみて、

『させる事あらじ。』

と思ひて、あまりの笑止さに、諸人(しよにん)、面(おもて)をふせけり。

  扨、御前(ごぜん)に置きたる物をみれば、白銀(しろがね)の折敷に、金の橘を置《おき》たり。心も及ばれず、つくりたるにてぞ、有《あり》ける。

 これをみて、みな、目をおどろかし、上下男女、にがりきつてぞ、ゐたりける。

「抑(そもそも)、御恩もなきに、かゝるふしぎは、仕出したるぞ。」

と、御所中(ごしよちう)の人に尋ね仰せらるゝに、かのあらまし、委しく知りたる人、有《あり》しが、妻の心ざし、其身のありさま、ことごとく、申上《まをしあげ》ければ、大《おほい》に感じ下されて、返へり引出物には、かみ一枚(まい)をぞ、たびにける。

 

Murakamikunitaka

 

 是は、都ぢかき住吉郡(すみよしこほり)にて、大庄(だいしやう)一ヶ所永代(ゑいたい)押領(おうれう)すべき「御敎書(みげうしよ)」にてぞ、ありける。

 此の志(こゝろざし)を感じ思召《おぼしめし》て、五位尉(ゐのぜう)になされて、家の一臣にぞなされける。

 妻は、夫の爲に貞烈を顯はし、夫は、又、忠臣の本意(ほい)に叶ひて、子孫、ながく、榮花を究めしも、ひとへに、天のめぐみなるを、仰《そもそも》、夫婦とは、專ら五倫を兼たる物なり。

 故に、武王は、「吾に九臣あり。十人のみ。」と、妻を臣にたとへ給ひ、「小學」には、『夫婦禮順なるを、賓主のごとし。』といへり。

 かゝる、奧、ふかく、德、たかきものなるを、みだりに、亂行婬色《らんぎやういんしよく》にて、故なく家を破り、嫉妬にむねをこがして、夫婦の緣をも、ながく離別し、あまつさへ、故なき他人までも、うき名を、おほせぬる事、みな、婬欲のふたつに歸(き)す。

 いま、左衞門尉が妻は、ひとへに、わが身の欲を捨(すて)て、夫の爲に忠をなす。

 豈(あに)天の加護あらざらむや。

[やぶちゃん注:「武王」殷を滅ぼし、周を立てた初代の王(在位:紀元前一〇四六年?~紀元前一〇四三年)。

「小學」南宋の朱子学の創始者朱熹(一一三〇年~一二〇〇年)が朱子学を学ぶ基本書として五十代の頃に著したもの。「小學書」とも。

「賓主」賓客と家の主人。]

2022/08/22

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 紫螺・岩辛螺(イワニシ) / イボニシ

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。一部をマスキングした。データとクレジットは左丁の左下に、「以上勢州二見浦産 所藏」「丙申年二月大生氏勢刕大神宮拜詣帰𨊫爲土産予送之眞寫」とある。最後の「砑螺・ツメタ貝」で考証・訓読して注をするが(「𨊫」は中文サイトで「乃」の異体字とあるのを漸く見つけた)、謂うところは、「この見開きに描いた個体群は、総て、伊勢の二見ヶ浦産で、現在は私自身の所蔵になるものであるが、もとは私の知人の大生氏(読みは現代仮名遣で「おおばえ」・「おおう」・「おおぶ」・「おおしょう」などがある)が、伊勢神宮を参詣して帰るに際し、土産として私に送って呉れたもので、それを写生した。」ということのようである。]

 

Iwanisi_20220822162401

 

紫螺

 

岩辛螺(いわにし)【「百貝圖」。】

 

[やぶちゃん注:古くは貝紫(かいし)の原料の一種となり、また、肉が強い苦辛味を持つところの、

腹足綱直腹足亜綱新生腹足上目吸腔目高腹足亜目新腹足下目アッキガイ上科アッキガイ科レイシガイ亜科レイシガイ属イボニシThais clavigera

「疣辛螺」である。私は小学生の頃、江ノ島の岩場で白いハンカチを紫に染めた記憶と、塩茹でにして食って美味かったことぐらいしか覚えがないが、ウィキの「イボニシ」は、生態の「繁殖」のパート、及び、和歌山県田辺湾での同種の個体群の二型(C型とP型)の、形態と食性が異なり、さらに二つの群が遺伝的にも異なること、しかも、日本各地に見られる同種の多くはこのC型やP型とは異なる別の型であることなど、非常に興味深い記載があり、思わず、食い入るように読んでしまった。

「百貝圖」寛保元(一七四一)年の序を持つ「貝藻塩草」という本に、「百介図」というのが含まれており、介百品の着色図が載る。小倉百人一首の歌人に貝を当てたものという(磯野直秀先生の論文「日本博物学史覚え書」に拠った)。]

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 酌子貝・シヤクシカイ / イタヤガイ(六度目)

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。一部をマスキングした。データとクレジットは左丁の左下に、「以上勢州二見浦産 所藏」「丙申年二月大生氏勢刕大神宮拜詣帰𨊫爲土産予送之眞寫」とある。最後の「砑螺・ツメタ貝」で考証・訓読して注をするが(「𨊫」は中文サイトで「乃」の異体字とあるのを漸く見つけた)、謂うところは、「この見開きに描いた個体群は、総て、伊勢の二見ヶ浦産で、現在は私自身の所蔵になるものであるが、もとは私の知人の大生氏(読みは現代仮名遣で「おおばえ」・「おおう」・「おおぶ」・「おおしょう」などがある)が、伊勢神宮を参詣して帰るに際し、土産として私に送って呉れたもので、それを写生した。」ということのようである。]

 

Syakusigai_20220822155401

 

酌子貝【「しやくしがい」。蓋(ふた)を「緋扇貝」と云ふ。】

 

「酌子貝」、其の蓋、平らにして、薄く、一葉(いちえふ)のごとく、扇を開けるがごとし。故に「ひをうぎ貝」と云ふ。其の身、薄く、貝、凹(くぼ)く、国俗、「勺子(しやくし)とす。蓋は「勺子の貝」の上に、平(ひら)にかむり、鍋の蓋のごとく、合へり。竒とす。

 

[やぶちゃん注:本カテゴリで既に五度登場している、梅園の好きな、

斧足綱翼形亜綱イタヤガイ目イタヤガイ上科イタヤガイ科イタヤガイ属イタヤガイ Pecten albicans

(板屋貝)である。非常に古くから右の大きく膨らんだ貝殻が「貝杓子」(かいびしゃく)として利用されてきたため、「杓子貝」「柄杓貝」の名でも広く知られていた。

「緋扇貝」「ひをうぎ貝」「緋扇」の歴史的仮名遣は「ひあふぎ」である。現行、この名は色の変異が人工着色かと思われるほどに甚だしい、イタヤガイ科Mimachlamys 属ヒオウギ Mimachlamys nobilis の標準和名となっている。]

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類  櫻貝・サクラガイ / サクラガイ

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。一部をマスキングした。なお、この前の見開きの図群は、本カテゴリの当初にランダムに電子化した、『毛利梅園「梅園介譜」 マテガイ』『毛利梅園「梅園介譜」 ヨメガ皿(ヨメガカサ)』『毛利梅園「梅園介譜」 蟶・アゲマキ /(種考証中)』『毛利梅園「梅園介譜」 東海夫人(イガイ)』(個人的には、このイガイの図が好きだ)で電子化注を終えている。データとクレジットは左丁の左下に、「以上勢州二見浦産 所藏」「丙申年二月大生氏勢刕大神宮拜詣帰𨊫爲土産予送之眞寫」とある。最後の「砑螺・ツメタ貝」で考証・訓読して注をするが(「𨊫」は中文サイトで「乃」の異体字とあるのを漸く見つけた)、謂うところは、「この見開きに描いた個体群は、総て、伊勢の二見ヶ浦産で、現在は私自身の所蔵になるものであるが、もとは私の知人の大生氏(読みは現代仮名遣で「おおばえ」・「おおう」・「おおぶ」・「おおしょう」などがある)が、伊勢神宮を参詣して帰るに際し、土産として私に送って呉れたもので、それを写生した。」ということのようである。]

 

Sakuragai

 

櫻貝【「さくらがい」。「花貝」。】

 

「前歌仙三十六品貝」の内、

「夫木」、

 春たてばかすみの浦の

 あま人はまづひろをてん

 桜貝をや 西行

「前哥仙」、

  花貝 「浦の錦」に出づ。

   是れは「桜貝」と云ふ者也。「花貝」とも言ふべき者也。赤く薄き介なり。横に長きを「色貝」と云ふ。此(この)「歌仙」には「花貝」とす。

  「夫木」、

     枝ながらうづ巻波の折らねばや

       ちりぢり寄する千代の花貝

      「後歌仙介集」三條院御製。

        ゆきまぜに色を尽して寄る貝は

          錦

 

櫻貝、圖のごとく、五つ合はせ寄すれば、頗る櫻花のごとし。故に名づく。

 

[やぶちゃん注:最後のそれは、図の真左に配されてあり、図のキャプションととれる。『「後歌仙介集」三條院御製』の歌の下句が、「錦」で断ち切れているのはママで、これは国立国会図書館デジタルコレクションの別人の写本でも同じである。この不審な箇所は注の最後で推理しておいた。

 さて、古くからの「櫻貝」と呼ばれてきたものは、このサクラガイの他に、

マルスダレガイ目ニッコウガイ科サクラガイ属サクラガイ Nitidotellina hokkaidoensis

を筆頭として、それと類似した形と色を持つ

サクラガイ属カバザクラ Nitidotellina iridella

ニッコウガイ科モモノハナ属モモノハナガイ(エドザクラ)Moerella jedoensis

ニッコウガイ科 Macoma 属オオモモノハナMacoma praetexta

などを含んだ種群の総称ではあるが、この図の六個(或いは左五個体に右個体が含まれているとすれば、五個体)の貝群は、形状と色の合致から、まず、総てがサクラガイであると考えてよいと思われる。

「前歌仙三十六品貝」これは摂津の香道家大枝流芳(おおえだりゅうほう ?~寛延三(一七五〇)年頃)の著になる江戸時代初の本格的な板行本の介類書である「貝盡浦之錦(かひづくしうらのにしき)」に載る「前歌仙三十六種和歌」のこと。国立国会図書館デジタルコレクションの「貝盡浦之錦」に載る「前歌仙三十六種和歌」のここからで、まさにリンク先の左丁の最後に、

   *

   桜介(さくらかい) 右二

「夫木」西行

春(はる)たてはかすみのうらのあま人(ひと)はまづひろふらんさくら貝(かい)をや

   *

と載る。

「前哥仙」「花貝」「浦の錦」に出づ」『是れは「桜貝」と云ふ者也。「花貝」とも言ふべき者也。赤く薄き介なり。横に長きを「色貝」と云ふ。此れ、「歌仙」には「花貝」とす』これも同じく「貝盡浦之錦」の「前歌仙介三十六品評(ひんひやう)」の一節。国立国会図書館デジタルコレクションの先のものの前の巻のここから。歌仙貝のそれぞれの貝の解説で、当該部はここの左丁の終りから次の丁にかけてである。

   *

  花介(はなかい)左七

蛤類(ごうのるい) 是(これ)は「桜介(さくらかい)」と云もの也。「花かい」とも云べきものなり。赤くうすき介(かい)なり。横(よこ)に長(なが)きを、「色介(いろかい)」と云。これを「桜介(さくらかい)」に取(とり)ちがへ呼(よぶ)人あり。同類(どうるい)にて別種也。此の歌仙(かせん)には「花貝(はなかい)」と云り。

  *

太字にした箇所は、梅園がカットした部分である。因みに、この『横(よこ)に長(なが)きを、「色介(いろかい)」と云』というのは、私の遺愛する(しかし、皆、人にあげてしまった)斧足綱異歯亜綱マルスダレガイ目ニッコウガイ超科ニッコウガイ科ベニガイ属ベニガイ Pharaonella sieboldii のことである。そのため、わざわざ私は最初で、「この図の」と言ったのだ。

「夫木」「枝ながらうづ巻波の折らねばやちりぢり寄する千代の花貝」同じく「貝盡浦之錦」の「歌仙貝三十六種歌後集(ごしゅう)」の一節。国立国会図書館デジタルコレクションの二巻目のここからで、当該箇所はここの右丁最後。

   *

   花(はな)貝 右 二

「夫木」

枝(えだ)ながらうづまく波(なみ)のおらねばやちりぢりよする千代の花貝(はなかい)

   *

「後歌仙介集」「三條院御製」「ゆきまぜに色を尽して寄る貝は錦」前と同じ見開きに左丁の二種目の歌。

   *

   錦(にしき)貝  左 四

三條院御製

ゆきまぜに色(いろ)をつくしてよる貝はにしきの浦(うら)とみゆるなりけり

   *

梅園が、ここまで書いて、突然、断ち切った理由が、やっと判った。「櫻貝」は美しいから、「錦貝」もまた、同類だろうと、安易に考えて、彼はこの歌をうっかり書いてしまったのではないか? しかしその直後、恐らく、梅園は、同書の「後歌仙介之圖」の図を見たのだ。ここの左丁の左の最上部のそれだ。これは明らかに、現在の、斧足綱翼形亜綱カキ目イタヤガイ亜目イタヤガイ科カミオニシキ亜科カミオニシキ属ニシキガイ Chlamys squamata によく似ている。無論、サクラガイとは縁もゆかりもない。それに気づいて、ここで筆を止めたのであろう。本図譜に合わせる際にはカットしようと考えていたのを、うっかりカットせずに貼り合わせてしまったのではなかろうか?

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 赤蜆・黃蜆 / ヤマトシジミ或いはマシジミ

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。一部をマスキングした。]

 

Akasijiimikisijimi

 

赤蜆(あかしじみ)

 

     黃蜆(きしじみ)

 

  丙申六月廿八日、眞寫す。

 

[やぶちゃん注:本邦の在来種のシジミは三種で、

異歯亜綱シジミ科上科シジミ科 Corbicula 属ヤマトシジミ Corbicula japonica

同属マシジミ Corbicula leana

同属セタシジミ Corbicula sandai

で、それぞれについては、「大和本草卷之十四 水蟲 介類 蜆」の注で並置して簡単に解説しておいたが、最後のセタシジミは名にし負う、琵琶湖及びその周縁の瀬田川などの河川に限定される固有種であるから、江戸の梅園が、それを入手するのは難しく、特に誰かのコレクションの写生とも思われないので、外してよいだろう。

 さて、では、ヤマトシジミかマシジミかということになるが、ヤマトシジミは「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページの左から二番目と三番目の画像を見るに、赤褐色の個体と、有意に黄みを帯びた種が混在している。二番目の画像のキャプションには、『比較的若い個体』群とあり、『小さいものは黄色みを帯びている』とある。しかし、一方、マシジミの方は、当該ウィキによれば、『殻の表面は若いうちは黄褐色、成長につれて黒味がかり、緑色、黒色と変化していくが、生息場所の影響を強く受ける。成長につれて規則的な同心円状の凹凸がある』とあるから、どちらかに限定比定することは難しい。ぼてぶりの蜆売りや、魚店から入手したものならば、孰れかの同一種である可能性は多少は高くはなるかも知れぬ。

「丙申六月廿八日」天保七年。グレゴリオ暦一八三六年八月十日。]

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 海蛇・ハマガヅラ・蛇貝(ジヤガイ) / オオヘビガイ

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。一部をマスキングした。]

 

Oohebigai

 

海蛇【「はまかずら」。】

  【「蛇貝(へびがい)」。鎌倉。】

  【「へび貝」。江戸大森。】

魚に海蛇と云者は◦「ゑらぶ鰻鱺(うなぎ)」なり。又、「海蛇」を以つて、「水月(くらげ)」と為(な)すは、誤りなり。

 

丙申四月五日、大森より求め、眞寫す。

 

[やぶちゃん注:これは文句なしに、

腹足綱直腹足亜綱新生腹足上目吸腔目ムカデガイ科オオヘビガイSerpulorbis imbricatus

としていいだろう。私自身は、ここまで複数個体が積層している個体群を見たことがないのだが、「きしわだ自然友の会」公式サイト内の和歌山市大川(グーグル・マップ・データ)での「大川磯の観察会」のページの上から四枚目にそうした多数の個体群落が確認できた。

「海蛇」「カイジヤ」或いは「カイタ」「カイダ」と音で読んでいるか、「うみへび」と訓じているかは、確定できない。解説冒頭の「海蛇」は、一文の内容から「うみへび」でよいかと思うが、二文のクラゲの誤りとする「海蛇」は後注する通り、漢字の誤りがあり、その場合、「カイタ」「カイダ」と読んでいる可能性が頗る高いからである。

「はまかづら」「濱葛」で、この場合の「葛(かづら)」は陸の絡み着く蔓性植物の総称のそれである。

「江戸大森」現在は干拓と人口の運河となって、梅園が赴いた大森の本来の海辺は存在しないので、「今昔マップ」で示す。

「ゑらぶ鰻鱺(うなぎ)」梅園は「魚」と言っているが、れっきとした真正のヘビで猛毒(ハブ(爬虫綱有鱗目クサリヘビ科ハブ属ハブ Protobothrops flavoviridis )の七十~八十倍とされる神経毒エラブトキシン。但し、本種の性質がおとなしいことや、口が小さいことから、咬傷事故は思ったよりも少ない。例えば、『沖縄県公害衛生研究所報』(第二十四号・一九九〇年)の新城安哲・下地邦輝・富原靖博三氏の共同論文「沖縄県における海洋性有害生物による被害」PDF)の一九二七年から一九八九年十二月まで六十余年間の内、筆者らが集計できたデータでは、105ページに載るが、確かなエラブウミヘビ属による咬症ケースは一例のみ(死亡)である)を持つ、

有鱗目コブラ科エラブウミヘビ属エラブウミヘビ Laticauda semifasciata

である。参照した当該ウィキによれば、『日本では南西諸島に分布』し、『池間島・石垣島・西表島・久高島・仲之神島・宮古島などで繁殖例があり、繁殖地の北限は硫黄島(鹿児島県三島村)』であるが、『黒潮に乗って、九州以北まで漂流することもある』とし、さらに、『最も寒い時期の海水表面温度が約』摂氏十九度『以上の海域が分布域とされる』。『本種は本来、南西諸島を分布の北限としていたが、近年では、九州や四国、本州の南岸でも生息が確認されている。これは地球の温暖化が影響していると見られている。まれに、海流に乗り』、『本来の生息海域よりも高緯度の海域で捕獲されることもあり』、一九二〇年代には『日本海で捕獲された記録も残っている』とある。

『「海蛇」を以つて、「水月(くらげ)」と為(な)すは、誤りなり』これは、例えば、私の

寺島良安「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「海䖳(くらげ)」の項

を見て貰うと真相が見えてくるはずである。そうである。

「海蛇」ではなく、「海が正しく、この「」の字は正真正銘、クラゲを表わす古くからの漢語(字)

なのである。本邦の本草学のバイブルである明の李時珍の「本草綱目」では、クラゲについては、巻四十四の「鱗之三」(魚類)の中に入っている。私は、クラゲ・フリークなので、「漢籍リポジトリ」のこちら[104-50b]の影印本を参考に、国立国会図書館デジタルコレクションの寛文九(一六六九)年板行の訓点本の当該部を見つつ、訓読して電子化しておくと、

   *

海䖳(かいた)【「拾遺」。】

釋名「水母(すいぼ)」【「拾遺」】・「樗蒲魚(ちよぼぎよ)」【「拾遺」】・「石鏡(せききやう)」【時珍曰はく、「䖳」、「宅」に作る。二音。南人、訛りて「海折」と爲(な)す。或いは、「蜡鮓(しよさく)」と作(な)す者は、並びに非なり。劉恂が云はく、『閩人(びんひと)、「䖳」と曰(い)ひ、廣人(かうひと)「水母」曰ふ。「異苑」に「石鏡」と名づくなり。』と。】

集解【藏器曰はく、『䖳、東海に生ず。狀(かたち)、血䘓(けつかん)[やぶちゃん注:「血の凝固した塊り」の意か。]の大なる者のごとし、牀(とこ)のごとし。小なる者は、斗(しやくし)のごとし。眼目・腹・胃、無し。蝦(えび)を以つて、目と爲(な)し、蝦、動けば、䖳、沈む。故に曰ふ、「水母の目の蝦」と。亦、猶ほ、蛩蛩(きやうきやう)の駏驉(きよろ)に與(くみ)するがごときなり。煠(ゆ)で出だして、薑醋(しやうがず)を以つて、之れを進む。海人、以つて常の味(あじはい)と爲す。』と、時珍曰はく、『水母、形、渾然として凝結す。其の色、紅紫なり。口・眼、無し。腹の下、物、有り、絮(わた)を懸くるがごとし。羣蝦(むれえび)、之れに附きて、其の涎-洙(よだれ)を咂(す)ふ。浮-汎(う)きて、飛ぶがごとし。潮(うしほ)の爲めに、擁(いだ)かれるときは、則ち、蝦、去りて、䖳、へることを得ず。人、因りて、割(さ)きて、之れを取る。浸(ひた)すに、石灰の礬水を以つて、其の血汁を去る。其の色、遂に白し。其の最も厚き者は、之れを「䖳頭(たとう)」と謂ふ。味、更に勝れり。生熟なるものは、皆、茄柴灰(かさいばい)に鹽水を和し、之れを淹(つけ)て、食ふべし。良なり。】

氣味鹹・溫、毒、無し。主治婦人の勞損・積血・帶下。小兒の風疾。丹毒。湯火傷【藏器。】。河魚の疾(やまひ)を療す【時珍、「異苑」に出づ。】

   *

「蛩蛩」は幻想地誌「山海経」(せんがいきょう)」の「海外北経」に出る、北海の水中に棲息し、白い馬の形をした獣とする。「駏驉」は♂の馬と♀の驢馬の交雑種。以上の共生関係を言っている。

 さて、以上から判るように、日中の本草書では、概ね、クラゲを正しく「海蛇」ではなくして「海」と記しているのであるが、それを転写するに、「蛇」の字と勘違いしている記載や人々が多かったのを、梅園は「違う」と言っているのである。

「丙申四月五日」天保七年。グレゴリオ暦一八三六年五月二十日。以下の「求」の下の字は「從」の崩し字と判じ、「より」と訓じた。]

2022/08/21

曲亭馬琴「兎園小説余禄」 深川八幡宮祭禮の日、永代橋を踏落して人多く死せし事

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。句読点は現在の読者に判り易いように、底本には従わず、自由に打った。鍵括弧や「・」も私が挿入して読みやすくした。踊り字「〱」「〲」は正字化した。祭り番付など、一部を読み易くするために改行を施した。続く馬琴の解説は五段落となっているが、それでも読み難いので、適宜、段落を成形し、頭を一字下げにした。

 なお、大惨事となった永代橋崩落は、既に、

『曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 兩國河の奇異 庚辰の猛風 美日の斷木』の「永代橋を踏落(ふみおと)し」の注

で、かなり詳しく注を附してある。ここではそれに屋上屋を掛けるつもりはないので、そちらをまず読まれたい。また、

「甲子夜話卷之二 45 深川八幡宮祭禮のとき永代橋陷る事」

でも詳細注を附してあるから、合わせて先に読まれたい。なお、冒頭の祭り番付などの町名や、判り切った人物その他は労多くして益少なしなれば、注さない。地図もキリがなくなるので、特異的にやらない。悪しからず。その代わり、《 》で読みを推定で歴史的仮名遣で施し、読解の便に供した。]

 

   ○深川八幡宮祭禮の日、永代橋を踏落《ふみおと》して人多く死せし事

 文化四丁卯年秋八月、深川富ケ岡八幡宮祭禮あり【三十年餘、中絕せしを、今茲《こんじ》、興行すと云。】。十五日に渡るべかりしを、雨天にて延引《えんいん》、八月十九日に渡りし也。番附、左の如し。

△初番【れいがん寺門前。】「龍宮」のだし、一本。

△一番【海邊、大工町《だいくちやう》。】「神功皇后」のだし【引物、二つあり。】。

△二番【蛤町《はまぐりちやう》[やぶちゃん注:深川にあった。]。】「波の龍」のだし【引物、あり。】。

△三番【さが町。】「佐々木四郞」のだし。

△三番の内、附祭【おどりやたい・はやし方、大ぜい。引物、いろいろ。】。

△四番【相川町。】「戶がくし」のだし、一本。

△五番【熊井町。】「えびすに鯛」のだし【「大たこ」の引もの。】

△六番【富吉町《とみよしちやう》。】「ほうらい」のだし。

△七番【もろ町。】「いちむさし野」のだし。

△八番【大島町。】「御所車にさくら」のだし。

△九番【中島町。】「辨慶」人形のだし。

△十番【北川町《きたがはちやう》。奧川町《おくかはちやう》[やぶちゃん注:孰れも深川の内。]。】「和藤内《わとうない》」人形のだし。

△十一番【黑井町。】「武内《たけのうちの》すくね」のだし。

△十二番【元木場町。】「やぶさめ」のだし。

△十三番【木場町。】「はりぬき材木」のだし。

△十四番【木場町。】附祭。大神樂。

△橋前一番【箱崎町一丁目。二丁目。】「武内宿禰」のだし。外に、引物、三本。

△二番【大川端町。】「神功皇后」のだし。「大岩龍神《おほいわりゆうじん》」の引物。

△三番【靈岸じま白かね町一丁目。二丁目。】「白鷄」作り物のだし【「松竹梅」、引物。】。

△四番【靈岸島四日市町。】「源より朝」のだし、引物あり。

△五番【れいがん島しほ町。】「仁田四郞」のだし【大なる「ゐのしゝ」、引物。】。

△六番【靈岸島はま町。】「かぢ原」人形のだし【「梅」に「かぶと」の引物。】。

△七番【南新堀一丁目。二丁目。】「天の岩戶」のだし、一本。

△八番【長崎町一丁目。二丁目。】「よりよし」のだし、外に、引物、三つ。

△九番【川口町。東湊町一丁目。二丁目。】「熊坂」人形のだし、「月にうさぎ」の引物、「くじらぶね」・「牛若」の引物、「金賣吉次」・「吉内《きちない》」・「吉六《きちろく》」。

組合【「紅葉がり」のをどり、やたい・はやし方、大ぜい。】神輿、三社。

         番附板元 本屋しげ藏

              京屋宗兵衞

[やぶちゃん注:以上の二名の名は底本では「番附板元」の下に割注式で二行ポイント落ちで入るが、吉川弘文館随筆大成版で並置した。

「文化四丁卯年秋八月」八月一日はグレゴリオ暦一八〇七年九月二日。

「佐々木四郞」源頼朝直参の御家人で、山木兼隆追討から「石橋山の戦い」で奮戦した、「平家物語」の「富士川の先陣争い」でも知られる佐々木四郎高綱(永暦元(一一六〇)年~建保二(一二一四)年)。

「いちむさし野」不詳。武蔵野を代表する風景を合わせてモデリングした山車(だし)か。

「はりぬき材木」リアルに作った紙製の張りぼての材木。

「大岩龍神」京都市伏見区深草にある大岩神社の龍神か。

「白鷄」「はくけい」(はっけい)。白鶏は神慮に叶ったものとされ、祭祀用として神社で飼養され、また、一般でも珍重した。

「仁田四郞」佐々木と並ぶ直参の御家人で、第二代将軍源頼家に命ぜられて富士山麓の「人穴」を探索したことで知られる仁田忠常(仁安二(一一六七)年~建仁三(一二〇三)年)。北条の命で比企能員を謀殺するも、直後に北条から謀反の疑いをかけられ、殺害された。引き物の『大なる「ゐのしゝ」』は、「曾我兄弟の仇討ち」で知られる源頼朝の「富士の巻狩り」に於いて、手負いの暴れる大猪を仕留めたとされることに因んだものである。この話は「曽我物語」で知られる彼の豪勇談であるが、彼のウィキによれば、『その猪は実は山神であり、後の忠常の不幸は山神殺しの祟りであるとする。これは曾我祐成を討った忠常が』、『祐成の怨霊によって不慮の死を迎えたことから着想されたものだろう』とあり、また、『御伽草子「富士の人穴」は』、『忠常が富士の禁を破ったがために忠常は命を縮めたと説明する』とある。

「かぢ原」後の『「梅」に「かぶと」の引物』から、「富士川の先陣争い」で佐々木高綱と競った梶原影季(景時の嫡男)。

「よりよし」平安後期の武将で河内源氏の祖頼信の子であり、八幡太郎義家の父であった源頼義(承保二(一〇七五)年~永延二(九八八)年?)。「平忠常の乱」で父とともに奮戦し、「前九年の役」では陸奥守兼鎮守府将軍として義家とともに俘囚長安倍頼時の反乱を長年月に亙る苦戦の末、鎮定し、勇名を轟かせた。この時の精鋭は父以来の、また、自ら相模守・武蔵守などを務めた際に結びつきを深めた坂東武士たちであった。坂東武者や東国・江戸に於いて、非常な尊崇を受けた人物である。

『吉内」・「吉六」』は幸若舞の曲「烏帽子折(ゑぼしをり)」などで、義経を助けた金売り吉次の二人の弟とされる人物の名である。]

 永代橋、當時、かり橋に付、靈岸島・箱崎町・兩新堀等の九番は、船にて河を渡せり。

 當日【十九日。】、この祭り、三、四番、渡る折、已の中刻[やぶちゃん注:午前十時から十時半頃。]、永代橋、群集により、南の方、水際より、六、七間[やぶちゃん注:十一~十二メートル半。]の處の橋桁《はしげた》を踏落して、水沒の老若男女、數千人に及べり【翌日までに尸骸《しがい》を引あげしもの、無慮《およそ》、四百八十餘人也。この外は知れず。】。

 折から、一ツ橋樣、御見物の爲にや、御下《おんしも》やかたへ入らせらるゝ。御船にて御通行ありしかば、巳の時より、人の往來を禁《とど》めて、橋を渡させず。

 この故に、北の橋詰に、見物の良賤、彌《いや》が上に、聚合《あつまりあはせ》たれば、數萬人に及べり。

 かくて、御通行、果てゝ、

「すは、渡れ。」

といふ程しも、あらず、數萬の群集、立騷《たちさはぎ》て、おのおの、先を爭ひしかば、眞先に渡りしものは、恙もなく、渡り果《はた》しにけり。迹《あと》より、急ぐ勢ひにて、忽《たちまち》、橋を踏落しけり。

[やぶちゃん注:以下は底本も改行。]

 この立込《たちこみ》の人、一坪【六尺四方。】に五十人と推積《おしつも》りても、踏落したる十間[やぶちゃん注:十八・一八メートル。]の内だに、四、五百なるべし。況や、跡なるものは、さりとも知らで、人を推しつ、推されて、落《おつ》るもの、いくばくなりけん、想像《おもひや》るベし。

 こは、橋板をのみ、踏折りたるにあらず、橋杭《はしぐひ》の泥中へ、めりこみしにより、桁さへ、踏折られし也。前に進みしものゝ、

「橋、おちたり。」

と叫ぶをも聞かで、せんかたなかりしに、一個の武士あり、刀を引拔《ひきぬ》きて、さしあげつゝ、うち振りしかば、是には、人みな、驚《おどろき》怕れて、やうやく跡へ戾りしとぞ。

【此《この》落たる邊の水底《みづぞこ》は「ドロ」なりければ、群集の人の勢にて、橋梁を泥中へ踏込みしなり。後に橋を掛更《かけかへ》らるゝ時、この事、聞えて、「なほ、三、四尺も、杭のとまらずば、永代橋は、のちのちまで、船わたしになるべかりし。」と。この事、よく知れるものゝ、いひにき。】。

 通油町《とほりあぶらちやう》なる書肆鶴屋喜右衞門に、年來《としごろ》、使《つかは》れたる飯焚男某【人々、名をいはで、「おぢひ」と呼たり。】、三つになりける主《あるじ》の娘に、

「この祭を見せん。」

とて、背おひつゝ、永代橋を、なかば、渡る程に、前なる人々の、俄に叫ぶ聲せしに、五、六間、先だちて、風車《かざぐるま》をあきなふものゝ、姿は見えざれども、荷にさしたる風車の見えたるが、よろめくやうにて、見えずなりしを、

『怪し。』

と思ふ程に、

「橋の、落たり。」

と叫ぶ程しもあらず、白刄をうちふるものさへあるに、うち驚きつ。

 人もろともに、北のかたへ戾りしかば、主從、恙なき事を得たり【この鶴喜《つるき》が娘は、後妻の初子《うひご》にて、兩國なる賣藥店「稀薟丸《きれつぐわん》」の息子に嫁して、いま、なほ、あり。】

[やぶちゃん注:「稀薟丸」底本も吉川弘文館随筆大成版もこの字だが、調べると、「豨薟」(きけん)でキク科の一年草のメナモミ(キク亜綱キク目キク科キク亜科メナモミ属メナモミ Sigesbeckia pubescens )を意味することが判った。あまりに似ているので、この誤りの可能性が高いように思われたので、調べると、漢方薬に「稀薟丸」が現在もあることが判った(例えば、「福岡市薬剤師会」公式サイト内のここ)。

 以下は底本も改行。]

 この次の年【文化五年。】、元飯田町中坂下《いひだまちなかさかした》なる湯屋《ゆうや》有馬屋與總兵衞《よそべゑ》に使れたる火たき男某と申《まをす》も、永代橋の落たるとき、衆人と共に入水《じゆすい》せしものなり。こは、越後新潟のものにて、海邊にひとゝなりしかば、游ぐわざに熟したれども、入水の女、足にすがりて、思ひのまゝに泳ぐこと得《え》ならず[やぶちゃん注:不可能の呼応の副詞「え」の当て字。]。共に溺死すベかりしを、辛くして水中にて着たる單衣を脫捨、すがるものを蹴返し、拂退けなどしつゝ、やうやく、恙なきことを得たるなり。

「人に擕(すがる)るとき、足をそこねて、奉公なりがたければ、その九月、故鄕へまかりて、養生しつ。病ひ癒《いえ》たれば、この春、又、江戶へ來つ。」

と、いひけり。

 この男の話に、

「はじめ、先へ落たるものは、續きて落るものに打れて、矢庭《やには》に死たるも多かるべし。又、おなじ處へいくたりも落累《おちかさな》りて、下になりたるは、泥中へ推埋《おしう》められしも、多かりけん。」

と、いひにき。

[やぶちゃん注:以下、底本も改行。]

 予が妻の所緣《ゆかり》ありける山田屋といふ町人、當時、深川八幡門前にをり。このもの、かねてより、

「祭りの日には、子達を擕《つれ》て來ませ。」

などいはれしに、

『富岡の大神は、予が產沙《うぶすな》にてをはします。三十餘年前、彼《かの》祭りの渡りし折、予は尙、總角《あげまき》にて深川に在りしかば、故主《こしゆ》の供に立《たち》て觀たりき。さしも由緣あるおん神の祭なれば、子どもに觀するもよかるべし。」

と思ひしかば、その前夜、妻に誨《をし》へていふやう、

「翌《あす》、祭を觀にいなば、朝、とく、いづべし。いぬる頃、永代橋を渡りつる折《をり》、見たるに、彼橋の欄干の朽《くち》たる所、あり。安永の末[やぶちゃん注:安永は十年までだが、同年四月二日に天明に改元しており、以下から夏でないとおかしので、安永九(一七八〇)年か。]にか有けん、中洲の凉《りやう》のさかりなりし日、ある夜、『仙臺候の、花火を立らるゝ。』とて、常には、いやましの人、群集せし時に、いと多かる茶店に、人、居《をり》あまりて、大橋に聚合《あつまりあ》ふ人、いくらといふ數も知らざりければ、終《つひ》に、橋の欄干を推倒《おしたふ》して、入水せし老若、多かりき。これを思ふに、翌も亦、永代橋をわたる人多からんには、欄干を推倒すまじきものにもあらず。縱《たとひ》、彼《かの》橋に臨むとも、人、群集せば、引返して、大橋を渡りゆくべし。朝の出立《しゆつたつ》はやからば、さまで群集すべからず。この儀を、よくよく思ふべし。」

と、かねて、こゝろを得させしかば、十九日には、まだきより、支度して、この朝六ツ半時頃[やぶちゃん注:不定時法で午前六時半前後。]より、妻と子供を出《いだ》しやりけり。

 かくて午の初刻の頃、出入の肴《さかな》あき人《んど》の來《きた》て、

「今かた、河岸【小田原河岸也。】にて聞候に、祭見物の群集により、永代橋、落たり。さこそ怪我も多からめ、詳なることは、いまだ、知らず。」

といひ罵《ののし》る程に、やうやう、この噂、高く聞えて、人の驚き、大かたならず、近隣のともがら、おのおの、きて、

「今朝《けさ》、おん内《うち》かたの、御子達を倶して、祭、見に、いでませし頃、見かけまゐらせたりき。さぞ、御心ぐるしくおぼすらめ。とく、人を遣して、安否を問せ給はずや。」

と、いはざるものゝなかりしに、おのれ、答へて、

「いな、かねて、思ふよしありければ、知らるゝごとく、今朝、いとはやく、出しやりたりければ、をんな・子どものあしなりとも、五時《いつつ》前後[やぶちゃん注:同前で午前七時半前後。]には、永代橋を渡りけん。件《くだん》の橋の落たるは、四時《よつ》なかば[やぶちゃん注:同前で十時半から十一時頃。]と聞ゆれば、必《かならず》、恙あるべからず。されば、迎《むかへ》は、未《ひつじ》の頃[やぶちゃん注:午後二時前後。]よりつかはすべければ、なほ、はやかり。」

といふに、人みな、いぶかりて、なほ、

「かに。」

「かく。」

といふも、多かり。

 かくて、未くだる頃、迎の人に、挑燈、もたして、つかはすときに、示すやう、

「大橋も朽たれば、兩國橋より、かへり來よ。山王神田の祭禮には、しな、かはりて、渡り初《そむ》るも遲かるべく、祭の果《はつ》るは、夜にも、入りなん。かへさば、いよいよ、群集しつべし。足よはどもを扶《たす》けひきて、怪我、なさせそ。」

と、いひ付たり。

 これより後、近きわたりの友達より、消息して安否を問はるゝもありしかど、己《おのれ》は件の時刻をはかりて、

『恙あらじ。』

と思ひしかば、初よりして、些《いささか》も、さわがず。

 この年、長女は十四歲、その次は十二歲、孩兒《がいじ》は十歲、季女《すへむすめ》は八歲なりければ、

『走りあるきも、人なみなり。いかばかりの事あるべしや。』

と思ひつゝ待つ程に、この夜、戌の半《なかば》頃に、みな、恙なく、かへり來にけり。

 扨、事のやうを尋《たづぬ》るに、

「かねて云し給ひしよしも侍れば、今朝は、ことさらみちを急ぎて、まだ五ツにはならじと思ふ頃に、永代橋を渡り果しかば、渡る人も多からざりき。かくて、山田屋へいきて棧敷《さじき》に登り、まつりを觀て侍りけるに、四半時にもや、ありけん、鶴屋のかよひ伴頭金助夫婦が、隣棧敷へ來て、

『只今、永代橋落て候。やつがれらは第一番に渡り果しかば、恙もあらず。迹なるものは、入水せしも、あるらん。』

と、いひにき。さばれ、驚く程の事とは覺《おぼえ》ざりしに、祭りの果《はつ》る頃より、この噂、大かたならず聞えしに、胸、うちさわがれたれど、迎人《むかへびと》に仰《おほせ》つけられしよしも承りて、あわたゞしく歸路に赴くに、

『寺町通りは、なほ、人稠(ひとごみ)ならん。』

とて、木場にまはり、冬木町《ふゆぎちやう》をよぎり、海運橋、又、高橋を渡りし頃は、群集に、みちを、さりあへず、橋は、

『ゆらゆら』

と、ゆらめくにぞ、

『この橋も、今、落《おつ》るぞ。』

と、人の罵るに、胸、潰れ、からうじて、兩國橋まで、來にければ、活《いき》たる心地し侍りき。」

と、いひけり。

「吾は、『彼橋の落つべし』とは思はざりしが、安永の頃、大橋の欄干を推倒せし事もあれば、『人、多く出《いで》ぬ程に。』とて、今朝、はやく出しやりしは、われながら、よくも量《はか》りつるかな。」

と、いひ誇りて、笑ひにけり。

[やぶちゃん注:「長女」幸(さき)。文政七(一八二四)年馬琴五十八の時、馬琴は隠居となり、剃髪して「蓑笠漁隠」(さりつぎょいん)と称するようになり、この長女幸に婿養子吉田新六を迎え、清右衛門と名乗らせて、元飯田町の自身の家財一切を譲り、分家させた。

「その次」次女祐(ゆう)。事績不詳。

「孩兒」「幼(いとけ)い童子」の意しかないが、ここは「男の幼児」の意で特異的に使用している。言うまでもなく、馬琴最愛の嫡男瀧澤(琴嶺舎)興繼である。馬琴は彼に武家瀧澤家の復興を頼みとしていた。彼は医術を修め、文化一一(一八一四)年には「宗伯」と名乗ることを許された。文政元(一八一八)年には神田明神下石坂下同朋町(現在の千代田区外神田三丁目の秋葉原の芳林(ほうりん)公園付近)に家を買い、ここに滝沢家当主として宗伯を移らせている。二年後の文政三年には宗伯が当時は陸奥国梁川(やながわ)藩に移封されていた藩主松前章広(あきひろ)出入りの医員となった。これは馬琴の愛読者であった老公松前道広の好意であった。章広は後に旧領松前藩に復した。而して、かく宗伯が俸禄を得たことから、武家滝沢家の再興を悲願とする馬琴の思いの半ばは達せられたかに見えたが、宗伯は生来の多病虚弱であり、馬琴六十九の、天保六(一八三五)年五月八日、三十九歳の若さで亡くなっている。私は以前から気になって、盛んに調べているのだが、おかしなことに、複数の正規論文や小説風の作品を見ても、『不治の病』とか、或いは重い癲癇発作を起こす精神疾患であったとかを臭わせる記載はあるものの、正確に死因を名指しているものがないのである。識者の御教授を乞うものである。

「季女」三女鍬(くは)。後に渥美氏に嫁した。以上の子女記載は、概ね、主文をウィキの「滝沢馬琴」に拠った。]

 かくて、その次の日【八月廿日。】、

『彼橋の落たる光景を見ばや。』

と思ひて、晝飯を、はやく果しつ。孩兒を將《ひきい》て、兩國橋を、うち渡り、御船藏通り、大橋のほとりより、永代橋の南の詰までゆく程に、水死の櫃《ひつ》【「早桶」と唱《となふ》るものなり。】を舁《かつ》ぎつゝ、こなたざまに、來るもの、引《ひき》もきらず。そが中には、

「市ケ谷のものぞとよ。兄弟三人、祭、見に出て、三人ながら、溺死せし。」

など、呟きつゝゆくも、ありけり。

 この日、かへさに、大橋のほとりなる茶店に憩ひて、なほ、きのふの事を聞《きく》に、茶店の女房のいひけるは、

「きのふ、こゝより、永代橋の落たる折、見けるに、橋のなかばに、忽然と、白氣《はつき》、立《たち》て、煙の如くに見えけり。

『あれは、船火事にあらずや。』

など、いひつゝ、人も、われも、眺望して有けるに、しばらくして、永代橋の落て、人、あまた、入水せしよし、聞えしかば、

『さては。嚮《さき》の白氣は、落る人の驚きたる息なりけん。』

と、思ひ合し侍りき。」

と、いへり。

 この水沒の尸骸に、主《あるじ》ありて、引とりしは、四百八十餘人、こは、町奉行へ訴出《うつたへいで》たる書あげの趣也。

 この後、品川・上總・房州の浦々へ、流れ當りしも多くあり。

 又、

「主ありて尋ねしに、知れざるも多かり。」

といへば、凡《およそ》、二、三千人も死したらんか。いまだ知るべからず。

 むかし、貞和年間に、京なる四條河原にて、勸進猿樂の棧敷《さじき》、崩れて、人、多く死たるよしは、「太平記」に見えたれど、此永代橋の落たるは、それにも彌增《いやまし》ぬべき禍《わざはひ》にぞ有ける。

[やぶちゃん注:『貞和年間に、京なる四條河原にて、勸進猿樂の棧敷《さじき》、崩れて、人、多く死たるよしは、「太平記」に見えたれ』「太平記」巻二十七所収の「田樂(でんがく)の事付けたり長講(ちやうかう)見物の事」貞和五(一三四九)年六月十一日に発生した四条橋の橋勧進ために田楽が興行された。その際、見物用に組み上げた桟敷(上・中・下の約四百五十メートル)が多数の観客の重量に耐え切れなくなって、一気に将棋倒しに崩落、一瞬にして地獄の惨状を呈し、当時の日記によれば、死者百余人とする。国立国会図書館デジタルコレクションの「續帝國文庫」版の当該部冒頭をリンクさせておく。]

 このころ、

「夜な夜な、彼橋の邊の水中に、陰火のもゆる事もあり。又、鬼哭《きこく》の聲のせし事もあれば。」

とて、南の橋詰に、板壁の小屋を造りて、一個の法師、鉦、うち鳴らし、常念佛《じやうねぶつ》を唱へて、をり。

 爾後《こののち》、橋を掛更《かけかへ》られて、常念佛はあらずなりにき。

[やぶちゃん注:「鬼哭」浮ばれぬ亡者の泣き声。]

 又、その翌年八月、一周忌を弔ふ豪家《がうけ》の施主ありて、囘向院にて、大施餓鬼を興行せし事あり。河施餓鬼《かはせがき》をしつるも、ありけり。

[やぶちゃん注:以下、底本も改行している。]

 永代橋・大橋・新大橋は【一名「あづま橋」とも云。】、是まで、受負人ありて、橋の南北の詰に、板壁の小屋をしつらひて、番人二人、をり、笊《ざる》に、長き竹の柄を付たるを持《もち》て、武士・醫師・出家・神主の外は、一人別《ひとりべつ》に、橋を渡るものより、錢二文づゝ、取《とり》けり。人のわたらんとするを見れば、件の笊をさし出すに、その人、錢を笊に投入れて、渡りけり。この故に橋の朽たるも、掛更ること、速《すみやか》ならず。已むことを得ざるときは、假橋を造りて、本普請を延《のば》したり。こゝをもて、

「こたびの如き愆《あやまち》あり。」

など、いふものも、多かりしにや。

 當時、願ひ人《びと》、ありて、

「以來、海船、江戶入の荷物、大小により、一個に付《つき》、水揚運上《みづあげうんじやう》、いかばかりづゝ、取ㇾ之《これをとる》を、御免あらば、右の三大橋の掛更《かけかへ》は、公儀は申上《まをしあぐ》るに及ばず、町人・百姓より、錢二文づゝ取ことなく、破損以前に掛かヘ可ㇾ仕《つかまつるべし》。」

と、願ひまうしゝかば、御詮議の上、

「その願ひに任せ給ひし。」

とぞ。こは、遠からぬ事にて、只今、四十前後の人は、よく知りたるもあらんを、遠きさかひの人の爲、又は、わかうまごらのこゝろ得《え》にもならんか、とて、そゞろにしるして、みづから警め、且、人をも、いましむるもの也。必、人々、群集せる祭見物に、女・子どもをつかはすは、えうなきこと也。かの日、わがやからの恙なかりしは、幸にして免れたる也。必、是、わが智惠のすぐれたるには、あらずかし。

[やぶちゃん注:「永代橋・大橋・新大橋は【一名「あづま橋」とも云。】」この記載は混乱しており、よろしくない。ただ、この異名の方は複数あって、それが誤認として多くの江戸庶民の中でも混同があったようである。整理すると、この「大橋」は「両国橋」の異名で、隅田川河口から順に記すと、「永代橋」・「新大橋」・「大橋(両国橋)」となる。架橋位置は概ね現在のそれぞれの橋とそれほど変わらない。異名の「吾妻橋」は、以上の三つの橋とは、本来は別物で、三橋のさらに上流の、ここ(グーグル・マップ・データ。ここでのみ例外的にリンクさせた)にある。ところが、この橋、別名を「大川橋」と呼ぶので、混同に拍車がかかったわけである。若干、名前が異なるが、江戸時代のこれらの橋の位置関係を示した図が載るサイト「ビバ! 江戸」の「江戸の大川(隅田川)の橋」を見られたい。]

曲亭馬琴「兎園小説余禄」 奸賊彌左衞門紀事

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。句読点は現在の読者に判り易いように、底本には従わず、自由に打った。鍵括弧や「・」も私が挿入して読みやすくした。踊り字「〱」「〲」は正字化した。箇条「一」の後は続いているが、一字空けた。条が二行に以上に亙る場合は、底本では、二行目以降が一字下げになるが、無視した。

 「人相書」であるが、小学館「日本大百科全書」他によれば、犯罪者などを捜索・逮捕するために、その人の人相の特徴を記して配布するもの。人相書の制度は、江戸時代の初期頃からあったものと思われるが、制度が整ったのは、寛保二(一七四二)年制定の「公事方御定書」(くじかたおさだめがき)によってであり、その下巻第八十一条には、人相書の出される犯罪として、「公儀へ対し候重き謀計」・「主殺」(しゅごろし)・「親殺」及び「関所破」の四罪を定めている。「公儀へ対し候重き謀計」というのは、広い意味において、幕府に対する反逆行為を意味するものと考えられる。「主殺」というのは、庶民の家の奉公人が主人を殺すことである。「御定書」制定後、元の主人を殺した者や、主人や親に手負わせて行方不明になった者にも、人相書で捜査を命じることになり、また、主人の妻又は息子に手負わせた者も、これに準じられた。このように、人相書は特定の重罪人に対してだけ出されたもので、人相書でお尋ね者であることを知りながら、匿(かくま)ったり、又、召使いにして訴え出なかったりした者は、獄門の重刑に処せられた。なお、言っておくと、大方の方はご存知であろうが、「人相書」と言っても、文書で、人相その他の当該容疑者の特徴を書き記したもので、以下でも見る通り、風貌の特徴を始めとして、名前・通称・身体上の特徴・年齢、犯行時や、取り逃がしたり、逃亡した際の衣服や所持品の特徴,また、判っていれば、生国や、言語・発声の特徴などまでも掲げたが、似顔絵が描いてあるわけではない。時代劇ドラマの顔を描いたそれは、全くの演出である。なお、彼は膨大な配下を持った強盗団の首魁ではあるものの、以上の解説に見る通り、人相書が発行される対象犯罪ではなかった。則ち、以下のそれは極めて例外的なものであったのである。そういう点でも、馬琴は、この記事を書く気になったものと思われる。

 なお、「東京都公文書館」公式サイト内の「江戸・東京を知る所蔵資料(アーカイブス)を読む旧・古文書解読チャレンジ講座」の第十一回の「史料の解読/読み下し例」に「史料の解読と読み下し例~江戸の人相書」「(史料出典:『撰要永久録 御触事之部』第十五)」で、本人相書の原本と判読を添えたものが見られる(但し、条の中間が省略されている)。

 また、大石慎三郎氏の資料紹介と論文「武蔵国組合村構成について」(PDF)には、本人相書全文以外に、日本左衛門の犯行の巧妙さが、文書引用とともに詳細に解説されており、非常に参考になる。以下の人相書では判らない彼の犯行様態がよく判るので、少し引用すると(コンマを読点に代えた)、『天領支配については、治安問題とからんで、享保期に弱点が露呈するのであるが、その問題が更にあらわになるのが〝日本左衛門〟の事件である』。『彼は尾張藩の下士で、七里役であった浜村富右衛門の子供で、のち美濃で俳諧の宗匠などもしていたが、何時の頃からか』、『遠州を中心に盗みを働くようになり、配下数百人を引つれて、不義の蓄財をしたとされている富豪の家におしい』ったとして、以下の人相書が引用を受けて、

   《引用開始》

盗人としては異例の、おそらく江戸時代最初の全国指名手配になった大盗賊である。この手配書は幕府官編の『御触書集成』にも収録されているほどだから、彼の事件が如何に大きいものであったか判ろうというものであるが、ここで問題にしたいのは、彼の大盗撒のためではない。問題になるのは、彼が当時の支配機構の弱点を巧みについて盗みを働いたという、その盗賊技術である。延享3年9月に遠州豊田郡関係村々から差出された日本左衛門の召捕を歎願する6ヵ条の訴状には、日本左衛門の盗みの手口を次のように説明している。[やぶちゃん注:以下の引用では、底本では条の「一」のみが一字下げ、後は二字下げである。数字はアラビア数字であるが、ちょっと気になるので、漢数字に代えた。]

 

一、……盗人入候はゞ鐘太鼓打、村々の人を集め追散し申様に被仰付候故、其通兼而村々申合置候へども、一軒へ入候へば近所七、八間の表裏へ盗人ども二、三人づゝ当を付、勿論其家道筋にも番人四、五人づゝ刀抜身にてかまへ居申候に付、何程かね大鼓たたき申候ても、人の身の上、命を捨て懸り申事いらざるものと、知らぬふりにて出合申人無御座候

一、遠州盗人強働の儀、三年以来の儀御座候へぱ、遠州御拝領被成候御大名様方御家来中、盗人弁宿寄委敷御詮議被成候に付、其知行所には宿仕候者も無御座候由承り候へども、是は御知行所の内計の御吟味に御座候へぱ、外に御代官所の内方、御旗本様分郷の在所抔徘徊仕候由及承候、日本左衛門手下の者の武芸勝れ申候出、殊に大勢に御座候へば、御旗本様御回の御手勢計にては搦御取候事難成、勿論盗人所々大勢罷在候はぱと沙汰有之候へぱ、逃し可申様に奉存候、乍恐御大名様方御同勢にて跡方、一日にばたばたと御捕被遊、在方百姓相助り候様に、御吟味の上被仰付被下置候はゞ難有奉存候事

 

 前条では日本左衛門一味の盗の仕方が如何に巧妙であるかということが判るが、後の方は、いささか問題のあることが記されている。即ち日本左衛門の一味は、この地方が私領・天領・旗本領が入組みになっているのを利用し、当時の警察力が、各々自分支配領限りにしか及ぱないことを利用し、私領で盗を働いては天領・旗本領に逃込み、また天領で盗を働いたときには私領・旗本領に逃込むといった、警備・取締りの盲点を巧みに利用し、更に私領と天領・旗本領とを較べると私領に比して天領・旗本領は警察力が著るしく弱い点を利用し、専ら天領・旗本領を重点的にねらうという方法をとっているのである。

   《引用終了》

日本左衛門の初期の犯行は『不義の蓄財をしたとされている富豪の家におしい』ったとあって、彼が義賊張りであったことが判り、支配違いの警戒不備を巧みに利用して逃走する悪知恵の働く人物でもあったことも判明するのである。]

 

   ○日本左衞門人相書

江戶より被ㇾ遣候御書付寫。

            十右衞門事

              濱島庄兵衞

一 せいの高さ、五尺、八、九寸程、

一 年二十九歲【見かけ、三十一歲に相見え申候。】、

一 鼻筋通り、

一 小袖、鯨さしにて三尺九寸、

一 月額、濃く、引疵、一寸五分程、

一 目、中、細く、貌、おも長なる方、

一 ゑり、右之方へ常にかたより罷在候、

一 びん、中、少し、そり、元ゆひ、十程まき、

一 迯去り候節、着用の品、

  こはく、びんろうじ、わた入小袖【但、紋所、丸に橘。】、

  下に、單物、もえぎ色、紬【紋所、同斷。】、じゆばん、白郡内。

一 脇差、長二尺五寸。鍔、無地。ふくりん、金福人模樣。さめしんちゆう、筋金あり。小柄、なゝこ、生物、いろいろ。かうがい、赤銅無地。切羽、はゞき、金。さや、黑く、しりに、少し、銀、有。

一 はな紙袋、もえぎらしや。但【うら、金入。】。

一 印籠、鳥のまき繪。

  此者、惡黨仲ケ間にては、「日本左衞門」と申候。其身は、曾て左樣に名乘不ㇾ申候。

[やぶちゃん注:以下は、底本通りの配置。]

右之通之者於ㇾ有ㇾ之者、其所に留置、御料は御代官、私領は領主・地頭へ申出、夫より、江戶・京・大阪、向寄の奉行所へ可申達候。最、及ㇾ聞候はゞ、其段可申出候。隱置、後日に、脇より相知候はゞ、可ㇾ爲曲事候。以上。

 延享三寅十月

[やぶちゃん注:以下は、底本では、二行目以降は一字下げ。]

右御書付、十二月十二日、御宿繼、奉書にて被仰遣候。此一條、「佐渡年代記」延享三丙寅年の記に見えたるを抄錄す。

[やぶちゃん注:「日本左衞門」(享保四(一七一八)年~延享四(一七四七)年三月二十一日:享年三十)は小学館「日本大百科全書」によれば、本名は『浜島庄兵衛』。『江戸中期、東海道筋で夜盗を働き』、二百『人もの』、『盗賊団の親分となり、日本左衛門と異名をとった。父は尾州家の家臣であったと伝わる。若くして放蕩』『のため』、『勘当され、遠江』『天竜川あたりの無頼仲間に加わった。押し込み強盗を働いたのは前後数年であるが、その悪事のため』、ここに見る通り。延享三年、『強盗としては例外的に人相書をもって御尋ね者とされた。それには、「年令二九歳、丈(たけ)五尺八寸ほど、色白く、鼻すじ通り、顔おもなが……」とある。京都まで逃れていたが、そこで町奉行所』(☞)『に自首し、江戸送りとなり』、翌年、『引廻』しの上、『獄門となった。歌舞伎』「青砥稿花紅彩画」(あおとぞうしはなのにしきえ)(通称「白浪五人男」「弁天小僧」。河竹黙阿弥作。幕末の文久二(一八六二)年三月、江戸の市村座で初演。本外題は三世歌川豊国筆の役者見立ての錦絵「白浪五人男」に着想した作であった。別外題は「弁天娘女男白浪」(べんてんむすめめおのしらなみ))の『日本駄右衛門(にっぽんだえもん)のモデルとして知られる』とある。

「五尺、八、九寸程」約一メートル七十六センチから一メートル七十九センチ弱。

「鯨さしにて三尺九寸」「鯨さし」は「鯨差し」で「鯨尺」(くじらじゃく)のこと。江戸時代から使われていた裁縫用の尺違いの物差し。尺貫法の「一尺二寸五分」(約三十七・九センチ)を「一尺」とするもの。最初に用いられた時期は不明確であるが、室町末期に「一尺二寸」の裁縫用の「呉服尺」が出現しており、それがさらに「五分」伸びたものと考えられる。名称は、クジラの髭(ひげ)で作られたことに由来する(小学館「日本大百科全書」に拠った)。換算すると、四十七・四センチメートル。

「月額」先に掲げた「東京都公文書館」の資料の訓読で「さかやき」と読んでいる。中世末期以後、成人男子が前額部から頭上にかけて髪をそり上げたこと(又、その部分)、所謂、「月代」(さかやき)に於ける、その前額部の様態を指す。江戸の太平の世になると、テッカテカに剃るのが流行ったが、下級の者・浪人・無頼の徒は、毛がモサモサ生えて「濃」かった。

「一寸五分程」約四センチ五ミリ。

「びん」「鬢」。頭部の左右の側面の耳際の髪のこと。

「こはく、びんろうじ、わた入小袖」「琥珀・檳榔子」の「綿入り小袖」で、先に掲げた「東京都公文書館」の資料の「語句説明」に、「琥珀」は『絹織物の一種である琥珀織のこと。緯糸(よこいと)の方向に低い畦がある平織物で、帯・袴地等に多く用いられた』とあり、「檳榔子」は『ヤシ科の植物檳榔樹の果実。薬用・染色用とする。ここでは檳榔子染めで染めた赤みを帯びた暗黒色のこと』とある。「檳榔樹」(びんろうじゅ)は単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科ビンロウ属ビンロウ Areca catechu のこと。檳榔子(びんろうじ)はビンロウの果実を指す。本種は本邦では産しないが、薬用・染料とするため、奈良時代の天平勝宝八(七五六)年頃、輸入された記録が既にある。

「單物」「ひとえ」。

「もえぎ色」「萌黃色」。

「紬」「つむぎ」。絹織物の一種。真綿や屑繭から手紡ぎした糸を用い、手織機によって平織にしたもの。織糸に節があるので、野趣に富み、丈夫である。多くは、植物染料を用い縞や絣(かすり)の織模様とするが、白紬に染色することもある。産地によって特色があり「結城(ゆうき)紬」や「大島紬」、伊豆八丈島の「黄八丈」、山形の「長井紬」(米沢紬)、長野の「上田紬」、沖縄の「久米島紬」、石川の「白山紬」などが知られる(平凡社「百科事典マイペディア」に拠った)。

「じゆばん」「襦袢」。下着。

「白郡内」「しろぐんない」。「郡内」は山梨県東部の富士山の麓に広がる古くからある地域名(現在の南都留郡。グーグル・マップ・データ。以下同じ。但し、北都留郡も「郡内」である)。「山梨県」公式サイトの「毎日を楽しく彩るやまなしのスペシャリテ|富士山の麓で1000年以上紡がれるハタオリマチの織物」によれば、実に千『年以上も前から織物業が営まれている織物の産地で』、『高い技術から生まれる美しい色柄を配した繊細で上質な織物は、かつては「甲斐絹」として知られてい』『たが、現在は「郡内織物」、「ふじやま織り」と呼ばれ、多くの人を魅了してい』るとある。

「二尺五寸」七十五・七センチメートル。

「鍔」「つば」。

「ふくりん」「覆輪」「伏輪」。刀の鍔の周縁を金属(鍍金(ときん)・鍍銀)の類で細長く覆って損壊に備え、あわせて装飾を兼ねたものを指す。

「金福人模樣」不詳。台湾のサイトのこちらに、達磨風フィギアの写真が載り、そこに「金福人」とあるので、金メッキの達磨像を言うのかも知れない。

「さめしんちゆう、筋金あり」「鮫眞鍮」で、「文化遺産オンライン」のこちらに、「鮫鞘角柄真鍮金具附刀子」の画像が載る(但し、中国製)。「刀子」は「とうす」で小刀のことである。物を切ったり、削ったりする、加工用途に用いられる工具の一種で、現代の小型の万能ナイフに通じる。長さは十五~三十センチ程度のものを言う。

「小柄」「こづか」。脇差の鞘の外側にさし添える小刀。振り飛ばして相手を刺すのに用いたりするが、江戸時代には脇差の装飾化していた。

「なゝこ」「魚子」「魶子」「斜子」「七子」。彫金技法の一つで、先端が小円になった鏨(たがね)を打ちこみ、金属の表面に細かい粒が密に置かれたように見せたもの。一般に地文として用い、ササン朝ペルシャから中国を経て、奈良時代には日本に伝わった。元は「魚(な)の子」の意で、魚卵の粒がつながっているような形になることからの呼称。

「生物」不詳。「いきもの」で動植物の図案を言うか。

「かうがい」「笄」。刀の鞘の差表(さしおもて)に指しておく篦(へら)状のもので、武器ではなく、髪を撫でつけるのに用いた。

「赤銅」「しやくどう」。

「切羽」(せつぱ(せっぱ))と読む。刀剣を構成する刀装具の一つで、鍔を表裏から挟むように装着する金具のこと。「物事に追われて余裕がなくなる」という意味を持つ慣用句「切羽詰まる」の語源として今に知られている。形状は刀剣の種類によって様々である。参照したサイト「刀剣ワールド」の『刀装具・拵「切羽とは」』を見られたい。画像もあり、非常に参考になる。前に注した物も、「目貫・小柄・笄・縁頭写真/画像」のページ等で画像が見られる。

「はゞき、金」「はばき」は「鎺」。刀身と鍔の接する部分に嵌める筒状の金具。同前のサイトのこちらを参照。

「もえぎ、らしや」「萌黄」色で「羅紗」製。

「金入」「きんいれ」。金箔を貼り付けてあるか。

「まき繪」「蒔繪」。日本左衛門、相当、お洒落!

「仲ケ間」「なかま」。

「右之通之者於ㇾ有ㇾ之者、其所に留置」「右の通りの者、之れ、有り於(お)かば、其の所に留め置き」。

「御料」天領。

「向寄」「むかひより」で「近くの」。

「及ㇾ聞候はゞ」実際に見かけたのでなくても、それらしい人物がいると聴いたならば。

「曲事」「くせごと」。不正行為。

「延享三」この前年に徳川吉宗は大御所となり、当時は名目上は徳川家重の治世である。

「御宿繼」「おんしゆくつぎ」で「御宿次」とも書き、宿駅から宿駅へと、人や荷物・文書等を送り継いでゆくこと。駅逓に同じ。

「佐渡年代記」慶長六(一六○一)年から嘉永四(一八五一)年までの二百五十一年間の佐渡奉行所の記録を編纂したもので、編者は明かでないが、地役人西川明雅が編纂したものを基本として、彼の没後に同じ地役人であった原田久通が書き続けたものとされる。]

2022/08/20

曲亭馬琴「兎園小説余禄」 奸賊彌左衞門紀事

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない。稀に底本の誤判読或いは誤植と思われるものがあり、そこは特に注記して吉川弘文館版で特異的に訂した)。句読点は現在の読者に判り易いように、底本には従わず、自由に打った。鍵括弧や「・」も私が挿入して読みやすくした。踊り字「〱」「〲」は正字化した。ベタで長々と続くので、段落を成形し、会話その他も改行し、読み易くした。

 

   ○奸賊彌左衞門紀事

 文政五年冬十二月中旬、芝神明前の地本問屋和泉や何がしが妻、その宵の程より、產の氣つきたるが、いと難產にて、子は死して生れたるに、辛くして、母は恙なかりき。

 しかるに、その夜五ツ時ごろ、いづみやが見世へ、書札一封を、もて來て、

「これは注文の狀也。よく、うけおさめ給へ。」

といひながら、はるかに投入れて、去りしもの、あり。見世なる手代ども、

「何方よりの注文ならん。」

とて、その上がきを見るに、

「和泉屋市兵衞樣 松浦彌左衞門」

とあり。

 聞しらぬ名なれ共、その儘、封じをひらきて、よみて見るに、こは、注文にはあらで、浪人の、合力を乞ふよし也。

[やぶちゃん注:「文政五年冬十二月中旬」グレゴリオ暦では一八二三年一月下旬。

「芝神明前」「芝神明門前町(しばしんめいもんぜんちやう)」。現在の港区芝大門一丁目(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「地本問屋」(ぢほんどんや(どいや))とは寛文期(一六六一年~一六七三年)から江戸で始まった地本を企画・制作して販売した問屋。「地本」とは江戸で出版された大衆本の総称で、洒落本・草双紙(赤本・黒本・青本・黄表紙・合巻(ごうかん))・読本・滑稽本・人情本・咄本・狂歌本などがあった。また、浮世絵版画も企画・出版しており、「地本錦絵問屋」「地本草紙問屋」「絵草紙屋」などとも呼ばれ、「板元」「版元」などとも称した。

「夜五ツ時ごろ」不定時法で午後八時頃。

「合力」「かふりよく」。資金援助。]

 こゝろえぬ趣なれば、皆、うちよりて評議する折から、あるじの妻、やうやく、わらの上をはなれて、產所に着ければ、あるじも、やゝ、こゝろおちつきて、見世のかたへ出たるに、手代ども、

「かやうかやうの事こそ候ひつれ。」

といふ。あるじ聞て、まづ、其狀を取りて見るに、その文面に、

「拙者事 四 五年以前まで 御隣町に罷在り御世話に預り候處 其後 いよいよ不如意に罷成り候て 當時は必至と致難儀候 最 在所表は 身分相應のものどもに候間 右國許へ罷越し 金子才覺いたし度存候へ共 何分 路用に指支候 近頃 無心の至に候へ共、金子 二分 借用いたし度候 最 當大晦日迄には 無相違一返濟可ㇾ致候 右の趣 御承知被ㇾ下候はゞ二分也とも 小粒也共 この袋へ入れ 御見世の仲柱へ 地より三尺程揚て 御張置可ㇾ被ㇾ下候 今晚 深更に及び 猶又罷越候て可ㇾ致受納候 扨又 拙者事 何がし【この師匠の姓名等は、くはしく書付たり。】が門人にて 年來勵術柔術等修業いたし 松浦流と申一流を立候へども 諺にいふ生兵法大疵の基にて 先年爲修業諸國を歷巡り候節、於信州思はずも不覺をとり候事抔有ㇾ之候。乍ㇾ去右體の御恩に預り候儀に候へば 爲謝禮 素人衆にても時の間に合ひ 災難を迯ㇾ候こゝろへを傳授可ㇾ致候 別紙をつねづねよく御覽被ㇾ成候て、御工夫被ㇾ成候へば、夜中往來抔の時 災難を迯れやすく候云々」

と。

 文言、甚、叮嚀に認め候て、やわら傳授の目錄を添たる事、凡、十餘條也。その大略は、「途中において、喧嘩をしかけられ、又は、馬鹿もの・醉興人に出あひ、無ㇾ據のがれがたき時、かやうかやうにして、早く相手の肩を如ㇾ此して打てば、その人、絕死す。」などいふ事、多く書、集たり。すべて、素人にもなりやすき趣にて、やわら免許の書ぶりにて、おくに

「和泉屋何がし殿 松浦彌左衞門」

と、わが名を大書して、書判あり。その手跡、拙からず、いか樣にも、武士めきたる手筋にて、商人の手風にあらず。

 本文の狀の内へは、二分判、一つ入るべき程の、ちひさなる袋を卷こめてあり。且、本文の尙々がきに、

「もし 此無心 聞濟無ㇾ之候はゞ 別封にいたし置候一通を 披見可ㇾ被ㇾ成候 御聞屆被ㇾ下候はゞ 右の別封は御開封に不ㇾ及 その儘 御返し可ㇾ被ㇾ下候」

と書そヘたり。

[やぶちゃん注:「わらの上をはなれて、產所に着ければ」血の穢れを嫌って、土間や庭の一画に産屋を作り、出産に際はさらにそこから離れて地面に藁を敷いて、そこで出産したものか。落ち着いて、家内に通じる産屋へ移動したということであろう。

「尙々がき」「なほなほがき」。追伸。]

 あるじ、讀終りて、

「げに、けしからぬ物乞ひかな。その別封には何事をか書たらん。それをも披きて見よ。」

といふに、手代ども、入興して、おしひらきて、主從みな、もろともに、ともし火のかたにうちつどひつゝ見るに、案の外なる文體にて、

「もし この無心を聞屆ざるにおいては 遠からず 思ひしらすべし あるじは勿論 家内の小者に至るまで 日くれて 門より外へ出なば 命はなきものと思ふべし それをおそれて夜中 一人も外へ出ずば 火をつけて燒拂ふべし」

などいふ、いとおそるべき事どもを、書つらねたり。

 手代どもは、この別封の趣に、興さめて、みなみな、舌をふるひつゝ、

「かくては、子どもたりとも【丁椎を「子ども」といふ也。】くれがたに錢湯にも遣しがたし。」

「どしてや、よけん。」

「かくや、すべき。」

などいふに、あるじは、左のみ、うちも騷がず。

「今宵、この取込中に、何事をか思案に及ぶベき。又、了簡もあるべきに、その書狀を、うしなふべからず。まづまづ、打捨ておけかし。」

と、いひさとしつゝ、產婦の事、こゝろもとなければ、あるじは、やがて、奧に赴きぬ。

 しかれども、手代等は、とにも、かくにも、心おちつかず、又、さまざまに談合するに、あるじの親類にて、芝邊より來あはせしものあり、その人も宵より見世に居て、事の趣をよく知りたれば、しばらく思案して、

「たとへ捨たりとも、わづかに、二分の事也。もし、その望みをかなへずば、いかなる意趣をふくみて、わざはひをなすべきか、揣り[やぶちゃん注:「はかり」。]がたし。まづ、こゝろみに、二分判一つ入れて、門の柱へ張おきて見よ。」

といふに、手代等一同に、

「しかるべく覺候。」

とて、件の小袋へ金を入れて、渠が望みのまゝに張置たり。

 さる程に、天明(よあけ)てければ、あるじ、見世に出て、件の事を問ふに、手代等こたへて、

「芝なる何がしどのゝ、『如ㇾ此(かく)々々』と、のたまふにより、我等、とりはからひて、かの袋へ、二分判ひとついれて、見世先なる柱へ張て候ひき。この事、その折告げ申すべく思ひしかども、御とりこみの折なれば、申すに及ばざりし。」

といふ。あるじ聞て、

「その金は、いかになりつる。今も、ありや、なしや。」

と問へば、手代等、こたへて、

「今朝、夜のあくると、やがて見世の戶をおしひらきて見候ひしに、金は、袋ともに、なかりき。おもふに、夜ふけて、とりに來て、もてゆきたるにこそ。」

といふ。

 あるじ聞て、

「さぞ、あらん、さぞ、あらん。世には、めづらしき强奪(おしとり)のくせものも、あれば、あるものかな。この事は、家主・名ぬしへ、耳うちしておくべし。」

と、いひながら、物に紛れて、その日、もはや已の時とおぼしきころ、同町なる繪草紙問屋の、わかさ屋何がしといふもの、町代のをとこと共に、あはたゞしげに、いづみ屋が見世に來て、若狹屋まづいふやう、

「いづみ屋ぬし、昨夜、ケ樣々々にての事は、なかりしか。」

と問ふに、あるじ驚きて、

「げにさることあり。」

と答ふ。

[やぶちゃん注:「已の時」午前十時頃。

「町代」(ちやうだい/まちだい)は町年寄や町名主を補佐するために彼らによって雇用され、町役人(ちょうやくにん)の下で町の運営上のさまざまな下級事務に携わった専業者。]

 わかさ屋、聞て、

「さればとよ。我が方にも、おなじすぢなる事、あり。しかるに、今朝未明に、御定まわり方の宅へめされて參りしに、

『いづみ屋も、來つるか。』

と問せ給ひしにより、

『いまだ參らず候。』

と申せしかば、

『罷かへりて、いづみやに、はやく來べしといへ。』

と、のたまふにより、はしりかへりて、告る也。この事、はやく訴奉らずば、後のおん咎も、はかりがたし。とくとく、し給へ。」

と、いはるゝに、あるじは、胸とゞろきて、そがまゝに、羽織うち着て、八町堀へおもむきければ、定まはりの衆よび入れて、

「汝が宿に、昨夜、ケ樣々々の事ありしか。」

と問るゝに、

「仰のごとく、さることの候ひき。」

と答へしかば、打うなづきて、

「その奸賊奴(かたりめ)は、はや、召捕れて[やぶちゃん注:「めしとられて」。]こゝにあり。よく、面を見よ。」

といはるゝに、和泉屋、ふたゝび驚きながら、急にかたへを見かへれば、年のころ、二十二、三歲とおぼしき町人體の男、いたく縛られて、をり。

[やぶちゃん注:「御定まわり方」「御定𢌞り方(おぢやうまはりかた)」町奉行所配下の同心で、江戸市中を巡回した者。「定町廻り」。]

 昨夜、松浦彌左衞門と似せ名[やぶちゃん注:「贋せ名」。]して、書狀を投おくりしには、似るべくも、あらず、いろ、うす白く、癖・かたち【◎脫字カ。】にて、世に小二才といふべき人がらなりければ、ふたゝび、心おどろきて、只あきれ果たるのみ。

 かくて宿所へ立かへりて、若狹屋とゝもに、件の事の趣を御番所へ訴奉りぬ【彼[やぶちゃん注:「かの」。]なげいれたる手紙も、そのまゝさし出せしなり。】。後にきくに、わかさ屋へ投人れたる封書も、おなじ文言にて、一字も、かはらず。しかれども、その人一人に、合力を乞ふやうに書なしたれば、合せ見ざる程は、いづれも、『われ一人に、つけられたるなめり。』と思はざるものは、なし。

 しかるに、わかさ屋は、その夜、かのなげ入れたるてがみを見て、うち驚き、やがて家主の宅へゆきて、由をつげ、又、名主の宅へ赳きて、よしを告げ、

「この事、いかゞ仕るべき。」

と問ひしに、名主、こたへて、

「それは、その方の心にあるべき事也。この方より、金子を遣せとも、つかはすなとも、指圖はしがたし。」

と、いはれたり。

 これらの往來と、問答に、小夜ふけて、はや丑三つ過たれども、

「わづかに二分の金を惜みて、わざはひをうけんより、二分捨て[やぶちゃん注:「すてて」。]こそ、夜のめは、やすからめ。」

て、是もおなじやうなる袋へ入れて、門の柱へ張りおきしに、わかさ屋が張おし金は、夜あけて見しに、そのまゝありけり。

 是により、わかさ屋は、金をば、そのまゝ納めて、彼手がみの中へ卷こめて、おくりしふくろの御番所へさし出しけり。

『そは、何ゆゑに、わかさ屋が張りおきし金はとらざりし。』

とて、後に考合するに、わかさやは、かれ是に、ひまどりて、その夜八ツすぎて、柱へ金を張りしかば、件の賊は、それより少しはやく、神明まへに來て、まづ、いづみ屋の手代の張りし金をとり、又。わかさやが見世先へ來て、柱を撫て見しに、いまだ張らざる以前の事なれば、そのまゝにゆき過し也。

 その後、わかさ屋も、金子を、かのふくろに入れて、望のまゝに柱へ張りおきし故、とられずと也。

 さて又、

「件の賊は、いかにして、はやくも召捕られし。」

と問ふに、芝宇田川町なる桐山何がしなる藥種見世へも、おなじ文言なる封書を投入れしに、桐山、ふかく、いぶかり、にくみて、家主・町代等と相談しつゝ、抱の鳶のものゝ、腕立[やぶちゃん注:「うでたて」。腕力が強いのを自慢して争いを好むこと。]を好むものありければ、その鳶のものをかたらひて、その夜、ひそかに見世の軒下に跟置しかば[やぶちゃん注:「つけおかしかば」。]、件の賊は、神明前より、直ぐに宇田川町へ赳きて、桐山が見世先にしのびより、柱へ手をかけんとする處を、待ぶせしたる鳶のもの、うしろより抱とめたり。賊は、いたく驚きながら、懷に、眞鍮錢四百文もてるを、はやく、かいつかみ、ふり揚ざまに、鳶のものゝ眉間を、

「はた」

と打しかば、額やぶれて、血は流るれども、組たる兩手を、ちつとも、放さず、頻りに聲をぞ、立たりける。

[やぶちゃん注:「芝宇田川町」「芝神明町」の東北一区画向こうの直近。この附近。]

 かねて合圖を定めし事なれば、桐山が手代、小もの等は、見世をひらきて、走り出、又、自身番屋【宇田川町の自身番屋は、きり山が見世のすぢ向ふに有。】よりも、左右の隣家よりも、人、あまた、落かさなりて、終に、賊をば、ぐるくまきにしつゝ、急に人を走らせて、定まはり方に告しにより、すなはち、召捕られたり。

 但、途中、捕りの趣にて、

「捕らせ給へ。」

と願ひしかば、桐山が名は出されず、一旦、とらへて、つき放すところを、召捕られしとかや。

[やぶちゃん注:桐山方の鳶らによって、事実上、捕縛されていたが、定町廻り同心の面子を慮って、形式上、以上のような仕方で正規の捕縛としたということである。]

 かくて、賊は入牢の後も、

「同類ありや。」

と問れしに、

「外に同類は候はず。母一人あり。妻も子ども候也。淺草寺のほとりなる飾り師にて候ひしが、近ごろ、渡世のわざ、ことの外、ひまになりて、渴命にも及ぶべきていたらくになり候により、不圖、せし、出來ごゝろにて、『松浦彌左衞門』といふ、にせ姓名をもて、處々へ封書を投入れて、おどして合力を乞し也。外に舊惡とても候はず。」

と陳じたり。

 しかれども、

「手がみの文面といひ、すべてのはかりやう、汝一人の胸より出たる事とは、思はれず。外に同類あるべし。」

とて、きびしく責問ひ給ひしかども、終に同類をば申さゞりしとぞ。

 さて又、かの賊が、おなじ文言なる手がみを投人れしは、馬喰町より、芝宇田川町まで十餘軒あり。

 みな、一件のかゝりあひなるをもて、しばしば御番所へ召呼れて、問せ給ふ事あり。

 かくて、去年とくれ、今年とたちて、七月【文政六年。】」に至りて、賊は牢死せしにより、事、やうやくに落着せり。

 和泉屋は、その事を訴奉るといへども、

「賊がいふむねにまかせて、金子を遣せし事、不埓也。」

とて、叱らせ給ふ。

 その外、一件のものども、みな、訴へ奉らざりし越度によりて、叱りおかせ給ひしとぞ。

 その中に、金もとられず、はやく訴奉りしにより、事なかりしもの、只、一人ありしとぞ。

 金をとられしは和泉屋一人也。

「手代等がはからひやう、おろかなるに似たれども、捕へて、つき出せしも、又、出來過ぎたるわざにて、あき人には、似つかはしからず。」

など、いひしものもありとぞ。

「畢竟、かざり師にて、劔術・やはらも、しらぬ賊なればこそ、よけれ、もし腕に覺あるくせものならば、彼腕立を好みし鳶のものも、あぶなきわざならずや。」

なんどいふ、評判さへ聞えたり。

 げに、かの手がみに、やはら傳授の一書をそへたるは、柔術・劔術にすぐれたるものと、思はせん爲なるべし。されば、かさねて金をとりに來つるとき、下人のおそれて近づかぬやうにはかりしかども、そは小兒をこそおどすべけれ、かく十餘軒なる門々を、夜ふけといふとも、再びとりに來つるといふ案内をさへ書しるせしは、最、をろかの至り也。

 且、歷々の町人は、をのづから、法度をわきまへ、よろづ、了筒あるものなれば、そこらは、みな、のぞきて、只、見世繁昌して、日夜に、いそがしき商人をのみ、えらみて、手がみを投入れしは、心を用ひしに似たれども、金を張りおきしは、わづかに二軒のみ。

 又、わづかに金二分を乞ひしは、出しやすからん爲なり。もし、金一兩ともいはゞ、みだりに遣すもの、あるべからず。奸賊[やぶちゃん注:「かたり」。]の計る所、大かた、こゝらに過ぎず。

 いづみ屋が遣せし金は、宇田川町にてとらへられしとき、ふり落しやしけん、その金は終に返らざりしとぞ。もし、彼賊、存命に候はゞ、遠流せらるべかりしに、牢死せしにより、死骸はとり捨たるべきむね、一統へ仰わたされしと也。

 この一件、去年十二月より、今年七月八日に至れり。

「誠に、めづらしき賊なれば、公裁も先例まれなりし故にや、八ケ月に及べり。」

と、人のいひしを、

『げに。さも侍りけん。』

と思はざるものは、なしとぞ。

 又、世評には、

「彼賊がおどしの別封に、『火災の事』なからんには、「重追放」にもなるべきものか。けしからぬことさへ書つらねしにより、遠流に定めさせ給ひしなるべし。」

と、いへり。

 げに、めづらしき奸賊也。おそるべし、おそるべし。

[やぶちゃん注:「重追放」は江戸時代の追放刑の中で最も重いもので、「関所破り」・「強訴」を企てた者などに科した。田畑・家屋敷は没収、庶民は犯罪地・住国・江戸十里四方に住むことを禁じ、武士の場合は犯罪地・住国及び関八州・京都付近・東海道街道筋などにも立入禁止とされた。彼の場合、脅しの中に重罪極刑であった「火つけ」があったことが、結果して致命的(天馬町の牢の悪環境での島流し待機による衰弱病気)であったということである。

 以下は底本では全体が一字下げ。馬琴の附記。]

 右、祕說に御座候へ共、爲御慰認候て奉ㇾ入尊覽候。最、他見を憚り候得ば、何とぞ御覽後は、このまま御返し被成下候樣、被二仰上可ㇾ被ㇾ下候。

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 海盤車・盲亀ノ浮木・桔梗貝・ヱンザヒトテ・タコノマクラ・海燕骨(キキヤウカイ)・総角貝 / ハスノハカシパン

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。]

 

Hasunohakasipan

 

海盤車【「盲亀(まうき)の浮木(ふぼく)」と云ふ。「桔梗貝(きけうがひ)」。】

   【「ひとで」【相馬。】。「ばんしや貝」【尾刕。】。】

   【「ゑんざひとで」。】

   【「たこのまくら」。】

 

表を「桔梗貝」と云ふ【伊勢二見浦。】。

 

  裏を「蓮葉貝(はすはがひ)」と云ふ【同上。】

 

[やぶちゃん注:以上は前が上部の図の、後が下部の図のキャプション。]

 

海燕骨(ききやうかい)【「百貝圖」に出づ。「総角貝(あげまきがひ)」。「圓座貝(ゑんざがひ)」。】

 

「海盤車」、生(せい)なる者、其の色、此くのごとくにして、表・裏、細毛あり。輕虚(けいきよ)にして、其の肉、無きがごとし。大小共(とも)、各(おのおの)、うらに、中穴(ちゆうけつ)あり。其の香(か)、甚だ腥臭(なまぐさ)し。品川の貝商(かいしやう)に求めて、其の生なる者を親見(しんけん)す。其の者、小なり。伊勢より求め送れる者は、方(はう)、三、四寸、其の者は、曝(さら)されて、其の色、白し。

 

丙申四月五日、伊勢詣(いせまうで)の旅士(りよし)、之れを送る。眞寫す。

 

[やぶちゃん注:これは、「蛤蚌類」ならぬ、

棘皮動物門海胆(ウニ)綱タコノマクラ目ヨウミャクカシパン科ハスノハカシパン属ハスノハカシパン Scaphechinus mirabilis

(和名は「蓮の葉菓子麵麭(パン)」とする説がある。「蓮の葉」は下部(開口部側の口器周縁の面に「蓮の葉」のような放射状の溝があることに由来する)である。ここに出る「海盤車」「盲亀の浮木」及び「海燕」の異名に就いては、『毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 紅葉貝(モミジガイ) / トゲモミジガイ(表・裏二図)』及び『毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 海盤車 / ハスノハカシパン』で既に注してあるので見られたい(「細毛」も後者に注してある)。また、寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十七 介貝部」の「海燕(もちかひ)」も見られたい。「もちかひ」とは「餠貝」のことで、彼らを言い得て妙である。

「桔梗貝」カシパンやタコノマクラの殻上にある花弁上に五つ広がる管足帯(歩帯)をキキョウの花弁に喩えた異名である。

「ひとで」『「ゑんざひとで」は、まだ、「圓座人手」で腑に落ちるが、何でただの「人手」なんや!?』と不審に思われる方がいよう(「圓座」は藁・菅(すげ)・藺草(いぐさ)などを渦巻形に丸く編んだ敷物。「わろうだ」)。そこは、「慶應義塾大学学術情報リポジトリ」の磯野直秀先生の「タコノマクラ考:ウニやヒトデの古名」を参照されたいのだが、実は、江戸時代の「タコノマクラ」は、第一に「ヒトデ」類の総称として、第二に「クモヒトデ」類を、第三にカシパン類を指すという三通りの使い方あった一方、現在、我々が普通に「タコノマクラ」呼んでいる上記の種を『指す用例はこれまで発見できず』、『おそらくは江戸時代には現われなかったと考えられる』と述べておられるのである。そこでは、無論、この梅園の「介譜」の本篇も検証されてある。而して、現在の標準和名が最初に正しく上記種に当てられた最初は明治一六(一八八三)年のことであったようである。

「百貝圖」複数回既出既注。寛保元(一七四一)年の序を持つ「貝藻塩草」という本に、「百介図」というのが含まれており、介百品の着色図が載る。小倉百人一首の歌人に貝を当てたものという(磯野直秀先生の論文「日本博物学史覚え書」(『慶應義塾大学日吉紀要』(第三十号・二〇〇一年刊・「慶應義塾大学学術情報リポジトリ」のこちらからダウン・ロード可能)に拠った)。

「総角貝(あげまきがひ)」「総(總)角」は髪形の一種。平安期までの小児の髪形の一種で、髪を額の中央から左右に分けて、それぞれを「みずら」(本邦の古代の男性の髪形。頭の額の中央から左右に分けて、耳のところで一結びしてから、その残りを8字形に結んだもの)のように結ったもので、江戸時代には遊里の太夫が兵庫髷に金糸の組紐を蜻蛉(とんぼ)形に結んだ髪飾りを用いたのに始まり、この髪飾りのついた髷をいう。ここは、その髪型の髪部分を先の花弁型の管足帯に擬えたもの。

「丙申四月五日」天保七年。グレゴリオ暦一八三六年五月十九日。]

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 「相貝經」(石朱仲著)

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。図はない。本篇「相貝經(さうばいきやう)」は魏・晋・唐・宋・明の小説を収録している叢書「五朝小説」に載る石朱仲(せきしゅちゅう:詳細事績不詳)の書いた一文である。国立国会図書館デジタルコレクションの「貝盡浦之錦(かひづくしうらのにしき)」に「附録」として収録されてある(その「解題」の磯野直秀先生の解説によれば、『本資料は紀伊徳川家への献上本らしい大型本である。著者大枝流芳』(おおえだりゅうほう ?~寛延三(一七五〇)年頃)『は摂津の香道家』であるが、十七『世紀後半には貝類収集が盛んになり、歌仙貝(和歌』三十六『首に合わせて選んだ貝』三十六『品)の刷物も元禄』二(一六八九)『年頃から板行されはじめていたが、総合的介類書の刊行は本書が最初である』とある)。その掲載の後に大枝は、『石朱仲が「相貝經」、五朝小說、魏・晉の藝術家の中に、之れ、有り。享保乙巳歳八月下浣、泉谷山の中に於て、之れを寫す。』と記している。「魏・晉」は魏晋南北朝時代で、後漢末期の「黄巾の乱」から始まり、隋が中国を再び統一するまでの複数の王朝が割拠していた時期を言う(一八四年~五八九年)。「享保乙巳歳八月下浣」は享保十年八月下旬で、グレゴリオ暦一七二五年九月下旬から十月五日までに相当する。梅園の訓点と比較してみたが、梅園は本書のそれを元にしているものと考えて問題ない。訓読では、私が一部で読みや送り仮名を施し、段落を成形した。]

 

Saubaikei

 

   相 貝 經

 

 黃帝・唐堯(たうげう)・夏禹(かう)、三代の貞瑞、靈竒の秘寳は、其の此れを次(つ)ぐ者、有り。

 貝、尺に盈(み)ちて、狀(かたち)、赤電(しやくでん)・黑雲(こくうん)のごとき、之れを「紫貝(しばい)」と謂ふ。

 素質、紅黒(こうこく)なるを、之れ、「朱貝(しゆばい)」と謂ふ。

 青地(あをぢ)に綠の文(もん)、之れ、「綬貝(じゆばい)」と謂ふ。

 黑き文に黃は、葢(けだ)し、之れ、「霞貝(かばい)」と謂ふ。

 「紫(し)」は疾(やまひ)を愈(いや)し、「朱」は目を明(あきらか)にし、「綬」は氣の障(さは)りを淸(きよ)くし、「霞」は蛆蟲(うじむし)を伏(ぶく)す。齡(よはひ)を延(のぶ)ること、能はずと雖も、壽を増す。其れ、害を禦(ふせ)ぐこと、一(いつ)なり。

 復又(またまた)、此れを下(さが)る者は、鷹の喙(くちばし)・蟬の脊は、以つて、溫を逐(おひはら)ひ、水を去る。竒功、無し。

 貝、大なる者、輪のごとし。

 文王、「大秦貝(だいしんばい)」を得(う)。徑(わたり)、半尋(はんひろ)。

 穆王(ぼくわう)、其の殻を得て、觀(くわん)に懸くる。

 秦の穆公は、以つて、「燕黽(えんまう)」を遺(のこ)し、以つて、目を明にして、遠くを察すべし。

 宣玉(せんぎよく)、宣金(せんきん)。

 南海の貝は、珠礫(しゆれき)のごとし。或いは「白駮(はくかう)」、其の性、寒、其の味、甘く、二水の「毒浮貝」は、人をして寡(か)ならしむに、以つて、婦人に近(ちかよす)る無し。黑白(こくびやく)各(おのおの)半(わか)るる、是れなり。

 「濯貝(たくばい)」は、人をして善(よ)く驚かしめ、以つて、童子に親(した)すむること無し。黃唇・㸃齒にして、赤き駮(まだら)有るもの是れなり。

 「雖貝(すいばい)」は、瘧(おこり)を病(や)ましむ。「黑鼻」・「無皮」、是れなり。

 「爵貝(しやくばい)」は、胎を消(しやう)ぜしむ。以つて、孕婦(はらみめ)に示す勿(なか)れ。赤き帶、通脊(つうせき)せる、是れなり。

 「慧貝(けいばい)」は、人をして善く忘れしむ。以つて、人に近(ちかよす)ること、勿れ。赤熾(せきし)の內殻、赤き絡(つらなり)、是れなり。

 「醟貝(ゑいばい)」は、童子をして愚かに、女人を淫(みだら)ならしむ。靑唇・赤鼻有り。是れなり。

 「碧貝(へきばい)」は、童子をして盜(ぬすみ)せしむ。背の上、縷(いと)の句(く)の唇(くちびる)、有り。是れなり。雨ふるときは、則ち、重く、霽(はれ)るときは、則ち輕(かろ)し。

 「委貝(いばい)」は、人をして志(こころざし)を強くし、夜行(やかう)するに、迷鬼・狼・豹・百獸を伏(ぶく)せしむ。赤くして、中(なか)、圓(まどか)なるもの、是れなり。雨ふるときは、則ち、輕く、霽るときは、則ち、重し。

[やぶちゃん注:以下の一段落は、底本では段落全体が一字下げ。最初の字下げをせずに差別化しておく。]

「緯畧(ゐりやく)」に云ふ、『師曠(しこう)、「禽經(きんけい)」有り。浮丘公、「鶴經(かくけい)」有り。相ひ畜(たくは)ふと雖も、亦た、「牛經」・「馬經」・「狗經」、有り。下(し)も、蟲・魚に至りて、「龜經」・「魚經」有り。唯(たゞ)、朱仲が傳へる所(とこ)ろの「貝經」は、恠竒、甚だし。經を琴髙(きんかう)に受ける。』と。

[やぶちゃん注:以下の頭の「○」は孰れも本文列から特異点で上に配されてある。]

○「綱目」曰はく、『蚌(ぼう)、蛤(ごう)と類を同じくして、形を異にす。長きの者を、通じて「蚌」と曰ひ、圓(まどか)なる者を、通じて「蛤」と曰ふ。故に「蚌」は「手」に從ひ、「蛤」は「合」に從ふ。皆、形を象(かたど)るなり。後世、混じて「蚌蛤」と稱するは、非なり。』と。

[やぶちゃん注:以下の一段落は底本では全体が三字下げで、字の大きさも小さい。頭の字下げをやはりやらずにおいた。]

此の説に從ひ、長(ちやう)を「蚌」とし、圓(ゑん)を「蛤」とす。殻、ねじけて厴(ふた)ある者、「螺」と云ひ、亦、「蠃(ら)」と云ふ。一片無對(むつい)の者は、則ち、「石决明(あわび)」の屬(たぐひ[やぶちゃん注:ママ。])なり。亦、竒形(きけい)の品あり。是れは異とす。

[やぶちゃん注:以下の内、終わりの「◦予、……」以下は字が小さい。梅園の附記である。]

○愼懋官(しんぼうくわん)の「花木考」に曰はく、『螺は多種にして掩(けわ[やぶちゃん注:別人の写本(位置が異なる)で確認した。しかし、意味が判らない。「ケツ」かも知れない。所謂、「尻(けつ)」で、以下の続きからは「蒂(へた)」のことのように思われる。])、白にして、香(か)ある者(もの)を、「香螺(こうら[やぶちゃん注:ママ。])」と曰ふ。殻、尖り、長き者を、「鑽螺(さんら)」と曰う[やぶちゃん注:ママ。]。味、之れに次ぐ。刺(とげ)有るを、「刺螺(しら)」と曰ふ。其の味、辛きを「辣螺(らつら)」と曰ふ。「拳螺(けんら)」と曰ふ有り。「劔螺」・「斑螺(はんら)」・「丁螺(ていら)」と』云〻(うんぬん)。◦予、余品(よひん)に「螺」の名を戴載(たいさい)するもの、其の數、少なからず。本條の集説、之れに出だす。

[やぶちゃん注:以下の二段落(行空けはママ)は本文から二字下げで字が小さい。やはり、頭下げを敢えてしなかった。]

貝品(かひひん)、其の數、盡し難し。其の中(うち)、「錦貝」は雅翫(がぐわん)の介の長(たけ)たり。諸州に有りと雖も、丹後・但馬・竹野浦の産、佳(よき)產なり。紀州の者、色、淡く、美ならず。貝品、多く出だすは、紀州和歌浦(わかのうら)・荒濵・加多(かだ)・粟島の北濵等、及び泉州・丹後・太皷(たいこ)の濵・琴彈(ことひき)の濵・紀州・熊野・伊勢・二見の浦、又、相州鎌倉雪の下・江の嶋の邉(あたり)、美貝(びかひ)あり。徃古(わうこ)より、貝賣(かひうる)家、多し。武州鈴ヶ森のほとり、大森の海邉(うみべ)よりも、多く出(いだ)す。又、貝賣家、あり。最も、諸州遠國に及んでは、美貝・竒貝の品(しな)夥(あまた)あるべし。得難(えがた)きをや。

 

貝合(かひあはせ)の事は、髙家(かうけ)女児の戯れにして、久しく傳われり[やぶちゃん注:ママ、]。家行(いへゆき)、「神主の記」ありて、其の始めを「舊事記(くじき)」に出(いづ)る「黒貝姫(いがいひめ[やぶちゃん注:ママ。])」と、「蛤貝姫(うむぎひめ)」とに取(と)れる。然れども、全文を考へるに、揷(さ)して貝合の濫觴(はじめ)とすべきに非らず。只(ただ)、其の名より牽(ひ)き合(あはせ)、附會(ふくわい)せり。景行天皇五十三年、淡水門(あわのみなと[やぶちゃん注:ママ。])に御幸す。白蛤を得る事あり。是れは、只、鱠(なます)と爲(な)して、之れを献ずと云〻。

貝合の事、介譜の説にあつからざれば、此(こゝ)に贅(こぶ[やぶちゃん注:ママ。別人の写本では「ガフ」と振る。普通に「ぜい」と振ってくれれば、躓かないのだがなぁ。])せず。

 

[やぶちゃん注:この「相貝經」は、以上の通り、民俗社会に於ける貝(貝殻)の呪術的な奇怪な記載を固有名とともに示して、所謂、後の六朝時代(二二二年~五八九年)に盛んに書かれ出した志怪小説の趣きを持っている。書誌学的には作者や本文について纏まって考証された文献はネット上にには見当たらない。私が見出せたのは、一つ、鈴鹿市出身の教師で貝類研究家であった金丸但馬(明治二三(一八九〇)年~昭和四五(一九七〇)年)が『ヴヰナス』に長期に亙って連載された「日本貝類學史」の「(8)」の、「第2章 支那本草學の 直譯と我が國本草學の建設」の章で、本「梅園介譜」にも出る林羅山道春の「多識編」で、「相貝經」からの「貝子(たからがひ)」固有名の提示に言及された部分であった(「J-Stage」のこちらからダウン・ロードできる)。そこでは、「説文」の字解から十種の和名を挙げた後に、「相貝經」にある八種について、ただ漢名をそのまま挙げてある。「多識編」原本の当該部は早稲田大学図書館「古典総合データベース」の単体画像のこちらの左丁一行目の「浮貝(フバイ)」から三行目の「委(イ)貝」までであるが、金丸氏はその論文で、以上の「相貝經」中の八種について、訳文を以下のように載せておられる45コマ目)。

   《引用開始》

淨貝は人をして寡ならしめるから婦人に近寄らしめてはならぬ

濯貝は人をして驚かしめるから童子に親しましめてはならぬ

雖貝は瘧黑を病ましめる[やぶちゃん注:これは「貝盡浦之錦」や梅園の読みとは異なる。]

嚼貝は胎を消さしめるから孕婦に示してはならぬ

惠貝は人をしてよく忘れしめるから人に近づけてはならぬ

醟貝は童子をして愚に、女人をして淫ならしめる

碧貝は童子をして盜せしめる

委貝は人をして志強く夜行に迷鬼狼豹百獸を伏せしめる

といふ實に奇怪な說が述べられて居り、學者[やぶちゃん注:林道春。]も之を和譯するのに窮し遂に音譯して置いたのである。

   《引用終了》

なお、金丸氏は基本「相貝經」に載る貝を総て「宝貝」タカラガイ科 Cypraeidaeに属するものと認識されていることが判った。古くから貝貨としてあり、現在もコレクター垂涎の種群であるから、特に異論はないが、果して全部が全部そうであるかどうかは、留保したい気はする。また、私の寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十七 介貝部」の「海蛤」の項にも、良安は本「相貝經」を引いている。私の古い訓読文を一部修正した。

   *

「相貝經」に、所謂(いはゆ)る。「碧貝」・「委貝」の、能く雨-霽(あめふるはるゝ)を知るがごときも、亦、妄ならざるなり【碧貝、背上に縷(る)[やぶちゃん注:糸のように細い筋。]有り。唇、勾(ま)がる。雨(あめふ)れば、則ち、重く、霽(はる)れば、則ち、輕し。委貝は赤くして、中圓。雨れば、則ち、輕く、霽れば、則ち、重し。】。其の他、勝(あ)へて計(かぞ)ふべからず。

   *

私が「相貝經」の他の記載について、冒頭の注の他に追加出来ることは以上に尽きる。以下、語注を禁欲的に附す。貝の同定は、記載が古い上、内容も乏しいので、基本的に種を検討しないが、「多識編」に記載があるのものは示す。

『貝、尺に盈(み)ちて、狀(かたち)、赤電(しやくでん)・黑雲(こくうん)のごとき、之れを「紫貝(しばい)」と謂ふ』る。「多識編」のここの左丁四行目に(太字は底本では四角二十囲み、黒地に白字抜き)、

   *

紫(シ)貝【「唐本草」。】。異名「文(ブン)貝」【「綱目」。】。

   *

『青地(あをぢ)に綠の文(もん)、之れ、「綬貝(じゆばい)」と謂ふ』「多識編」のここの右丁最終行目に、

   *

綬貝 美豆利加゛伊

   *

とある。「みどりがい」で殼背が緑色を呈するタカラガイの種と、林は「説文」などから解釈しているようである。

『黑き文に黃は、葢(けだ)し、之れ、「霞貝(かばい)」と謂ふ』「多識編」のここの左丁一行目に、

   *

霞貝 惠加岐加゛伊

   *

「壽を増す。其れ、害を禦(ふせ)ぐこと一(いつ)なり」「寿命を結果として伸ばすのであある。従って、人体に対する害を防ぐという点に於いて、以上の貝は、孰れも、同一の効果を持っているのである。」。

「此れを下(さが)る者は、鷹の喙(くちばし)・蟬の脊は、以つて、溫を逐(おひはら)ひ、水を去る。竒功、無し」ちょっと意味が判らないのだが、「下る」という部分から、『これらの貝の優れた効果を、有意に減衰してしまう呪物として、「鷹の觜(くちばし)」と「蟬の殻」(私はそう採る)があり、このマイナスの呪物は、体温を下げてしまい、体内の必要な水気(すいき)を除去してしまう。されば、先の貝類の効能を無効化してしまう。』と言っているものか。

「文王」(紀元前十二世紀~紀元前十一世紀頃)は殷末の周国の君主。殷の紂王に対する革命戦争(「牧野の戦い」)の名目上の主導者であり、周王朝を創始した武王や周公旦の父にあたる。後世、特に儒教にでは、武王や周公旦と合わせて、模範的・道徳的な君主(聖王)の代表例として崇敬される(当該ウィキに拠った)。

「大秦貝」諸論文を見るに、上記の周の文王が王権を示す「大貝」を入手したという伝承があり、後にそれを受けた後の中国王朝や西方での噂として生じた伝説の巨大な貝で、実在する種ではないようである。

「徑、半尋」殻の長径。当時の「尋」は八尺で約一メートル八十センチであるから、九十センチ。

「穆王」周朝の第五代王。

「觀」道教の神を祀る道観。当該ウィキによれば、『彼は中国全土を巡るのに特別な馬(穆王八駿)を走らせて』、遂には、『西の彼方にある、神々が住むとされた崑崙山にも立ち寄り』、『西王母に会い、西王母が後に入朝したと言う。このことは穆天子伝としてまとめられている。神話、伝説の要素を多く含む中国最古の旅行記である』とある。

「燕黽(えんまう)」不詳。ネットでも全く掛かってこない。「黽」には「蛙」の意があるが、判らぬ。貝に見える対象物の名で、「目を明にして、遠くを察す」ることが出来るという漢方的効能からは、思うに、例の南方熊楠の英文論文“ The Origin of the Swallow-Stone Myth ”(一般に「燕石考」と訳される)で知られる古生代のシルル紀から二畳紀に生存し、特に石炭紀に繁栄した腕足動物イシツバメ科に属する種の化石「石燕」(スピリファー:Spirifer)のことであろう。鳥が翼を広げた形の石灰質の殻をもち、その表面には放射状の襞がある。殻の中に螺旋形の腕骨を有するのが特徴で、漢名は形をツバメに譬て名づけたものである。私の)『「大和本草卷之三」の「金玉土石」類より「石燕」 (腕足動物の†スピリフェル属の化石)』を参照されたい。

「宣玉、宣金」不詳。それらの宝貝を「玉」や「金」に等しいと歴代の王は宣(のたも)うてこられた、ということか。

「珠礫」ここは単に、貝の礫(つぶて)なのであるが、それが宝石の珠玉に等しい美しさを持っているというのである。なお、「金塊珠礫」の故事成句があり、「贅沢を極めること」を言う。「塊」は「土の塊り」、「礫」は「小石」で、「金を土のように扱い、宝石を小石のように扱う」の意から、晩唐の杜牧の「阿房宮賦」が出典。

「白駮(はくかう)」不詳の貝の名。「白駮」は模様なら、「白い斑(ぶち)」を指す。

「二水」地名らしいが、不詳。台湾に二水郷はあるが、内陸なので違う。

「瘧」マラリア。

「緯畧」南宋の文人高似孫(一一五八年~一二三一年:(一二二五年に処州(現在の浙江省麗水市附近)の知州(知事)を務めたが、ひどい貪官であったという。官は礼部郎であったが、官人としては不遇であった。当該ウィキに拠った)の広範囲に及ぶ雑録集。彼は多才でカニの博物学書「蟹略」(かいりゃく)もものしている。

「師曠」(生没年不詳)は春秋時代の晋の平公(在位:紀元前五五八年~紀元前五三二年)に仕えた楽人。よく音を聞き分け、吉凶を占ったとされる。

「禽經」師曠が書いたとされる鳥類書。但し、偽書説もある。別に晋の博物学者張華の同名の作品が、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで視認出来る。

「浮丘公」仙人王子喬(生没年不詳:周の霊王(?~紀元前五四五年)の太子晋と同一人物とされる)の知人の道士。サイト「中国の図像を読む」の「第二節 鶴は松に巣をつくる?」の「三、長寿と仙禽としての鶴」を参考にさせて戴いた。

「鶴經」国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで浮丘公の「相鶴經」が視認出来る。

「相ひ畜(たくは)ふ」孰れも蔵書するの意であろう。

「牛經」国立国会図書館デジタルコレクションのこちらに「齊」の「甯戚」(ねいせき)の撰になる「相牛經」が載る。

「馬經」李伯樂の「相馬經」。「伯樂相馬經」とも。かの知られた伯楽(紀元前七世紀頃:春秋時代の人物。姓は孫、名は陽、伯楽は字。郜(こく)の国(現在の山東省菏沢市成武県)の人。馬が良馬か否かを見抜く相馬眼(そうばがん)に優れていた)の著とされる。

「狗經」不詳。

「龜經」早稲田大学図書館「古典総合データベース」にある明の陶宗儀の纂になる佚書の文集「説郛」(正篇・巻第百九)のPDF一括版の「58」コマ目から、作者不詳の抄録のそれが載る。カメ類の博物書であるが、亀卜関連の各個記載も散見される。

「魚經」不詳だが、これに類したものは、わんさかある。

「琴髙」「立命館大学アート・リサーチセンター」の「ArtWiki」の「琴高」に、漢の劉向(りゅうきょう)の「列仙傳」を訳して、『琴高は趙の人である。よく琴を弾いたので、宋の康王』(戦国時代の宋の第三十四代にして最後の君主。在位は紀元前三二九年~紀元前二八六年)『の舎人となった。涓子や彭祖の術を実践し、冀州・碭郡の地方を放浪すること二百余年。のち、碭水に潜って竜の子を取ってくると言い遺し、かつ弟子たちと約束して当日はみんな潔斎して水辺で待ち、祭場を設けておくようにと伝えた。すると、果たして赤い鯉に乗ってあらわれ、水から出て祠の中に坐した。翌朝には多数の人がこれを見にやってきた。こうして一月あまり滞在していたが、再び水中に入って去った』とある人物が遠い昔に書いたものか。この話自体が時間が異様に離れており、伝説的で信じ難い。

「綱目」李時珍の「本草綱目」の「蚌」の項からの引用。「漢籍リポジトリ」のこちら[108-4b]以下を参照。

『愼懋官(しんぼうくわん)の「花木考」』明の万暦年間(一五七三年~一六二〇年)に刊行された愼懋官(官人慎蒙(一五一〇年~一五八一年)の子)の撰になる博物書。以下は巻之七の「華夷鳥獣考 羽毛鱗介昆虫」の「螺」。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の一括PDF版(巻之六と巻之七の合冊)88コマ目。単体画像はこちら

「香螺」(かうら)は、本邦では、「甲香」、音では「カフカウ(コウコウ)」或いは「カヒカウ(カイコウ)」(「貝香」の当字)、または「へなたり」と訓ずる。吸腔目カニモリガイ上科キバウミニナ科 Cerithidea Cerithideopsilla 亜属ヘナタリ Cerithidea(Cerithideopsilla) cingulata 及びウミニナ(類形を有する複数の別種の通称)の仲間で、特にこれらの持つ角質の蓋を燻して香に利用した種群の総称である。

「鑽螺」現代中国では、尖塔の鋭い盤足目スイショウガイ(ソデボラ)科トンボガイ属スイショウガイ Terebellum terebellum terebellum に当てる。「鑽」は「錐」の意。

「刺螺」現代中国では、平板の螺形に放射状に棘が出る古腹足目リュウテンサザエ科リンボウガイ Guildfordia triumphans に当てているが、ここは広く腹足類の殻上に棘を多く出す種群を言っているものと思う。

「辣螺」ニシ類などの複数の「肉が辛い巻貝」を示す総称語。

「拳螺」これはサザエ型の種群を広く指す。

「劔螺」不詳。ナガニシのような尖塔性の縦長で長大な類か。

「斑螺」斑点紋を持つ巻貝の総称ととっておく。

「丁螺」不詳。画像検索をかけると、中文サイトでは盛んに螺塔が突き出た貝画像が出てくる。学名を調べようとしたが、一向、判らなんだ。

「本條の集説、之れに出だす」梅園も「相貝經」の対象が総て巻貝であることを認めているようである。

「錦貝」これは種名ではなく、広く色紋様が多色で美しい貝のことのように思う。確かに、斧足綱翼形亜綱カキ目イタヤガイ亜目イタヤガイ科カミオニシキ亜科カミオニシキ属ニシキガイ Chlamys squamata があり、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページでは、『市場に入荷することも、食用とされることもない』としつつ、『貝の収集の対象』で、『淡い紅色が美しい』とはあるが、二枚貝で、私の食指はその形からもちょっと動かないし、以下の称揚に相応しいとは思われない。

「雅翫(がぐわん)の介の長(たけ)たり」「雅びな玩弄の対象としての貝の長(おさ)、チャンピオンである」。

「竹野浦」兵庫県豊岡市竹野町(たけのちょう)竹野の竹野海岸附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「紀州和歌浦」和歌山県和歌山市の、この湾の旧広域呼称

「荒濵」不詳。但し、前後から考えると、現在の和歌山県和歌山市二里ヶ浜の磯ノ浦のように思われる。

「加多」現在の和歌山市加太(かだ)

「粟島の北濵」現在の淡路島の北東岸の兵庫県淡路市佐野附近か。

「太皷の濵」京都府京丹後市網野町掛津の太鼓浜。そこの北東と南西に「琴彈の濵」、鳴き砂で知られる現在の京都府京丹後市網野町掛津の琴引浜(ことひきはま)がある。

「武州鈴ヶ森」旧鈴ヶ森刑場があった、現在の東京都品川区南大井。現在は干拓で原「大森の海邉」は存在しないので、「今昔マップ」で示す。

「家行」度会家行(わたらいいえゆき 康元元(一二五六)年~正平六/観応二(一三五一)年?)は伊勢神宮の外宮(豊受大神宮)の神官で、伊勢神道の大成者。当該ウィキによれば、『度会有行の子で、村松を姓とし、はじめ行家といったが、禰宜昇格に際して改名した。徳治元』(一三〇六)年に『度会行忠の死没による欠員で禰宜に昇格し、以後累進して』、興国二/暦応四(一三四一)年には伊勢内外宮の十禰宜の上首である『一禰宜となり、南朝から従三位に叙せられ』、正平四/貞和五(一三四九)年に『職を退いた』。『伊勢神道の外宮の神官として、内宮より外宮を優位とする伊勢神道を唱えて、仏より神が上位であること(反本地垂迹説)と、外宮信仰を主張した』。『家行は学者・祠官としてのみならず』、「建武の新政」『挫折後の南北朝の動乱で』は、『南朝方の北畠親房を支援し、南伊勢地区の軍事的活動にも挺身した。後醍醐天皇の吉野遷幸に尽力したほか、その神国思想は北畠親房の思想に大きく影響し、親房の師とされ、また、他の南朝方にも影響を与えた』。『家行の著作の中では、特に』「類聚神祇本源」が『後世の神道に大きな影響を与えた』とある。

「神主の記」不詳。「類聚神祇本源」かどうかは判らない。調べる気も起らない。悪しからず。

「舊事記」平安時代の史書。全十巻。著者未詳。序に蘇我馬子らの撰とあるが、大同年間(八〇六年~八一〇年)以後、承平六(九三六)年以前の成立とされる。神代から推古天皇までの歴史を述べたもの。「先代旧事本紀」「旧事本紀」とも称する。

「黒貝姫」「蛤貝姫」ともに貝を神格化した女神で、天地開闢の神々の一柱である神皇産霊尊(かむみむすびのみこと)の子。前者は他に「蚶貝比賣(きさがいひめ)」「支佐加比賣(きさかひめ)」「枳佐加比賣(きさかひめ)」とも書き、後者は「宇武賀比比賣(うむかひめ)」とも書く。参照した、昔からお世話になっているサイト「玄松子の記憶」のこちらによれば、『八上比売』(やがみひめ『を得たため、兄弟八十神の怒りをかった大穴牟遅神』(おおなむちのみこ=大国主命)『は、伯岐』(伯耆に同じ)『の国で手間山』(てまやま)の『上より落とされた焼いた大石を麓で捕らえたことにより』、『焼死する。泣き憂えて天に上った御祖の命の願いにより、神産巣日神に派遣された𧏛貝比賣と蛤貝比賣が、母の乳汁(赤貝の貝殻の粉末に蛤の汁を混ぜたもの)によって、 大穴牟遅神を蘇生させた』とある。『𧏛貝比賣は、赤貝を神格化した女神』で、「先代旧事本紀」には「黒貝姫」と『ある。一説には、赤貝に刻(きさ:貝の年輪)があることによる』といい、『蛤貝比賣は、ハマグリを神格化した女神』であるとある。

「景行天皇五十三年、淡水門に御幸す。白蛤を得る事あり。是れは、只、鱠(なます)と爲(な)して、之れを献ず」国立国会図書館デジタルコレクションの黒板勝美編「日本書紀 訓読 中巻」(昭和六(一九三一)年岩波書店刊)の当該部をリンクさせておく。左ページの終りの部分である。

「介譜の説にあつからざれば」「介譜の類いでは、細かくは書かれていないので」。]

2022/08/19

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 鏡貝・カヽミガイ / カガミガイ

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。]

 

Kagamigai

 

鏡貝【「かゞみがい」。】

 

丙申八月三日、所藏、眞寫す。

 

[やぶちゃん注:これは、文句なく、そのまま、

斧足綱異歯亜綱マルスダレガイ科カガミガイ亜科カガミガイ属カガミガイ Phacosoma japonicum

である。『毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 白貝(シラガイ) / カガミガイ』で既に登場しているので、そちらの注を参照されたい。

「丙申」(ひのえさる)「八月三日」は天保六年。グレゴリオ暦一八三六年九月十三日。]

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 馬蹄螺・ムマガイ・馬ノ爪貝・駒ノ爪・アマ貝 / 異種二種で「アマオブネ」と「ウチムラサキ」

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。]

 

Bateira

 

「福州府志」に曰はく、

    馬蹄螺【「むまがい」・「馬の爪貝」・「駒のつめ」・「舟貝」。「舟貝」は、亦、別に一種、有り。】

       二種。

 

 伊勢二見浦産。

馬蹄螺

古(いにし)へは、「駒の爪」を「あま貝(がひ)」と云へり。今は通(とほ)して「駒の爪」と云ふ。

 

        仰(あふむけ)

 

府(ふせ)

[やぶちゃん注:貝図のキャプション。「仰」は解説の三行にくっ付いてしまっていて、甚だ紛らわしい。「府」は「臥(ふ)せ」の意で用いているか。「脊」と書くところを誤記したようにも見える。]

 

好子某、所藏。乞ひて寫す。時に、保六未臘月二日。

[やぶちゃん注:「好子」は不詳。「貝好きの、とある殿方」の意か。]

 

[やぶちゃん注:ここでは梅園は、別種のものと判っていて、確信犯で纏めて描いている。「二種」とあり、キャプションがあるから、上の二つの図は、一個体を仰向けて開口部を上にして描いたものと、同一個体の螺層表面を上にして伏せて描いたもので、同一個体であることが判る。まず、この上の二図の方が手っ取り早く同定出来る。これはもう、形状の特異性と、殻の上面は黒と白のまだら模様から、

腹足綱直腹足亜綱アマオブネガイ上目アマオブネガイ上科アマオブネガイ科コシタカアマガイ属アマオブネガイ

に同定できる。下方のそれは、内側を写しておいて欲しかったが(せめて内側の色を記載して欲しかった。しかし、もしかすると、所蔵者は図からみて、左右の貝殻を合わせて固定しており、梅園は遠慮して、内側を見ていないのかも知れない)、恐らくは「大浅利」の通称がある、

斧足綱異歯亜綱マルスダレガイ目マルスダレガイ科 Saxidomus 属ウチムラサキ Saxidomus purpurata

であろうと推定する。

「福州府志」これは今まで一貫して清の乾隆帝の代に刊行された福建省の地誌と紹介したものでは、実は、なく(「福州府志乾隆本」と称し、徐景熹の撰になる後続本)、著者不明の同名の明代に先行して書かれた、現在は「福州府志萬歷(ばんれき)本」と呼ばれるものであった。今までのものも、これの勘違いの可能性が出てきたので、後で再度、調べる(先程、検証を総て終えた)。以上は「中國哲學書電子化計劃」の同書を調べたところ、ガイド・ナンバー「365」に(コンマを読点に代え、一部の漢字を正字化し、記号も変えた。下線太字は私が附した。)、

   *

螺種類不一。曰田螺、曰溪螺。曰香螺、大如甌、長數寸、其掩雜衆香、燒之使益芳、獨燒則臭。「本草」謂之甲香。曰鈿螺、光彩如鈿、可飾鏡背。曰黃螺、殼厚、色黃。曰米螺、小粒如米。曰紅螺、肉可爲醬。曰蓼螺、味辛如蓼。曰椶螺、殼細長、文如雕鍐。曰竹螺、殼文粗、味淸香。曰紫背螺、紫色、有斑點、俗謂之砑螺。曰鸚鵡螺、狀若鸚鵡、堪作酒杯。曰泥螺、殼似螺而薄、多涎有膏、一名土鐵、又名麥螺。曰鴝鵒螺、殼小而厚、黑白。曰馬蹄螺、曰指甲螺、俱以形似因名。曰江橈螺、卽指甲之大者。曰花螺、圓而扁、殼有斑點、味勝黃螺。曰醋螺、出洪塘江、去殼醃之、味佳。曰莎螺、形如竹螺、味微苦、尾極脫。

   *

これは、どうもアマオブネ、或いは、その近縁種っぽい感じがしないでもない。

『「舟貝」は、亦、別に一種有り』アカガイやサルボウなどで知られる、斧足綱フネガイ目フネガイ科 Arcidae には「~フネガイ」は多く、これだけでは、現行和名では一種に絞ることは不可能である。

『今は通(とほ)して「駒の爪」と云ふ』市井で一般に「駒の爪」の呼称で通っているということ。

「保六未臘月二日」天保乙未(きのとひつじ)六年十二月二日。グレゴリオ暦一八三六年一月十九日。]

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 相思螺・郎君子・酢貝(スガイ)・ガンガラ / スガイ及びその蓋

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。引用文字列に多数の不審があったので、本文内に注を挟んだ。]

 

相思螺 相思子【「海槎餘録」。】

郎君子【「五雜爼」。俗に「酢貝(スガイ)」、又、「ガンガラ」。】

 

Sugai_20220819105301

 

○「海槎餘録(かいさよろく)」に曰はく、『相思子は海中に生(しやう)じ、螺(にな)の狀(かたち)のごとくして、中實(ちゆうじつ)にして、石に類す。大いさ、至粒に比するに、好事(かうず)の者、篋笥(けふし)に置(ち)するに、積歲(せきさい)壞せず、亦、轉動(てんどう)せず。若(も)し、醋(す)の一盂(いちう)を置き、試みに其の中へ投ずれば、遂に移動し、盤旋(ばんせん)して已(や)まず。』と。

[やぶちゃん注:「海槎餘録」は明の顧玠(こかい)撰になる一五四〇年成立の南方の地誌と思われる。「中國哲學書電子化計劃」のこちらと、「維基文庫」のこちらを見るに、本文は、『思子生於海中、如螺之狀、而中實石焉。大比粒、好事者置篋笥、積歲不壞、亦不轉動。若置醋一盂、試投其中、遂移動盤旋不已、亦一奇物也。』が正しい。傍線太字部が梅園のものと異なる。この内、梅園の「至」は明らかに「豆」の誤字であり、「豆粒(まめつぶ)に比(ひと)し」と訓ずるべきところである。「好事の者」の後は、「篋笥(けふし)」(長方形の竹製の文箱)「に蔵(をさ)め置くに」と訓ずるのが正しい。実は、これ、「毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 朗君子(スガイ) / スガイの石灰質の蓋とそれを酢に投入した際の二個体の発泡図!!!」の私の注で既に電子化しているので見られたい。但し、そこで使用したソースは上記二つとは別の、早稲田大学図書館「古典総合データベース」にある明の陶珽(とうてい)の纂になる「説郛」の中に抄出されたもので、多少の異同がある。而して梅園の「中實(ちゆうじつ)にして、石に類す」の部分で躓く読者は、これで、軟体部の前に付属する石灰質の蓋(蒂(へた))のことであることも判るであろう。]

○「閩部疏(びんぶそ)」に曰はく、『甫田の青山の海濵、小さき白石を産す。狀、杏仁に似て、兩辨に剪(さ)けり。腹に、文(もん)有り、蟲のごとく、向(むか)ふに、其の異なるを知る者、無し。兵人(へいじん)、青山を守るもの、沙石の中に於いて之れを拾ひ、歸る。試みに、之れを醯(す)の碟(さら)の中に貯(たくは)ふに、两(ふたつ)の石、離れて立ち、相ひ對せしむ。須臾(しゆゆ)にして、能く自(おのづか)ら動き、両(ふたつ)を相ひ迎合(げいがふ)す。之れを名づけて、「雌雄石」と曰ふ。亦、「相思子」と曰ふ。惟(た)だ、醯あれば、則ち、行(ゆ)くこと、易く、他(ほか)の物は、則ち、否(あら)ず。竟(つひ)に所以(ゆえん)を解せず、志(おも)を載(の)せられざるなり。』と。

[やぶちゃん注:「閩」は現在の福建省の広域旧称で、「閩部疏」は同地の地誌。原文は「中國哲學書電子化計劃」の影印本で起こすと、『莆田靑山海濱、産小白石。狀似杏仁、而、腹有文如、向無知其異者。兵人守靑山、於沙石中拾之歸。試貯之醯碟中、兩石離立相對、須臾能自動、相迎合、名之曰雌雄石、亦曰相思曾得四瓣、試之果爾。惟醯則行、易它物則否。竟不解所以、志所不載也。』であり、字の一部に異同があり(但し異体字で問題はない)、途中を略している(孰れも下線太字を附した)。カット部分は「曾つて、四瓣(よひら)を得、之れを試むるに、果(はた)して爾(しか)り。」であろう。]

予、曰はく、『「相思子」の厴(ふた)を「酢貝(すがひ)」と云ふ。其の螺(にな)を言はず。酢皿(すざら)に入れ、自(おのづか)ら動くこと竒なり。酢は物をよせる者にして、此の貝の厴、能く酢を好む故に、收斂(しめよせ)て、動かすなり。前條両書に載せ説(と)くがごとし。』と。

乙未臘月初七日、眞寫す。

 

[やぶちゃん注:これは、上に注した「毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 朗君子(スガイ) / スガイの石灰質の蓋とそれを酢に投入した際の二個体の発泡図!!!」で既に示した、

腹足綱古腹足目ニシキウズ上科リュウテン科オオベソスガイ属スガイ Lunella coreensis の蓋三個(右下方)

で、三つの内の左の二個体は酢に反応して発泡している状態を描いたものと思われ、さらに、貝自体の蓋附きのもの一個体と、螺層面を描いた、都合三個体

の図である。

「郎君子」命名の意味不詳。但し、中国で、成人した優れた仁徳を持った君子は漫りに争わないというから、この蒂が相寄り添うように運動することから、そうした徳性による命名のように私には思われる。

「五雜爼」「五雜組」とも表記する。明の謝肇淛(しゃちょうせい)が撰した歴史考証を含む随筆。全十六巻(天部二巻・地部二巻・人部四巻・物部四巻・事部四巻)。書名は元は古い楽府(がふ)題で、それに「各種の彩(いろどり)を以って布を織る」という自在な対象と考証の比喩の意を掛けた。主たる部分は筆者の読書の心得であるが、国事や歴史の考証も多く含む。一六一六年に刻本されたが、本文で遼東の女真が、後日、明の災いになるであろうという見解を記していたため、清代になって中国では閲覧が禁じられてしまい、中華民国になってやっと復刻されて一般に読まれるようになるという数奇な経緯を持つ。但し、同書では「郎君子」の名は見出せなかった。不審。

「乙未臘月初七日」天保六年十二月七日。グレゴリオ暦一八三六年一月二十四日。]

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 ワレカラ / モクズヨコエビ類の一種

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。]

 

ワレカラ

 

      丙申七月七日、眞寫す。

 

Warekara

 

此者、海中、藻に住む虫なり。形、水虱(とびむし)に似て、又、蝦にも似たり。雜魚(ざこ)に交り来(きた)る。水に入るれば、走り跳(をど)るものなり。[やぶちゃん字注:「入るれば」は底本は「入るは」。]

 

[やぶちゃん注:既に先行電子化したものに、『毛利梅園「梅園介譜」 ワレカラ』と、『毛利梅園「梅園介譜」 小螺螄(貝のワレカラ)』があるが、前者は正真正銘の種としての節足動物門甲殻亜門軟甲綱真軟甲亜綱フクロエビ上目端脚目ドロクダムシ亜目ワレカラ下目 Caprellida に属するワレカラ類と比定できるが、後者は図も説明も何だかよく判らない変なものである。而して、本図を見ると、明らかな丸い背を持ち、そこにいかにもエビ様の体節と、触角、複数の対脚、尾棘が確認でき、眼点らしきものも見える。しかし、逆立ちしてもこれはワレカラ下目 Caprellida のワレカラ類ではあり得ない。但し、民俗社会に於ては、これを「われから」と言うのは、強ち誤りとは言えない。平安時代には一般に知られていた「われから」は「古今和歌集」(延喜五(九〇五)年に初期完成したか)の巻第十五の「恋歌五」に、女官の典侍(ないし)藤原直子(なほいこ)朝臣の一首(八〇五番)、

 海士(あま)のかる藻にすむ蟲のわれからと

    音(ね)をこそなかめ世をばうらみじ

「音(ね)をこそなかめ」は「声を立てて泣こう」の意。ここにあるように、「我から」の掛詞として古く世より使用されており、当初は「乾くと殻が割れる」で「割れ殻」であったことからは、海藻類に附着している甲殻類を広く指したからであり、『毛利梅園「梅園介譜」 小螺螄(貝のワレカラ)』及び、私の栗本丹洲の「栗氏千蟲譜」(文化八(一八一一)年の成立)巻七及び巻八(一部)を見て戴くと判るが、江戸時代には本草学者の間でも、「ワレカラ」=貝の一種とする見解がかなり蔓延ってさえいたのである。例えば、私の「大和本草諸品圖下 ワレカラ・梅花貝・アメ・(標題無し) (ワレカラ類他・ウメノハナガイ・ヒザラガイ類・ミドリイシ類)」の図と解説を見られたい(これも丹洲と同じく本図の非常によく似ている)。平安の昔から近世まで、乾燥した海藻に附着していた生物は、十把一絡げで「われから」であったのである。

 さて、私が直ちに想起したのは、形状がぴったりと一致する、無論、「蛤蚌類」ならぬ、

節足動物門甲殻亜門軟甲綱真軟甲亜綱フクロエビ上目端脚目ヨコエビ亜目ハマトビムシ上科モクズヨコエビ科 Hyalidae に属するモクズエビ類、或いは、同モクズヨコエビ属モクズヨコエビ Hyale grandicornis

であった。但し、この類については、私は守備範囲ではないので、当初、躊躇していたのだが、ネットで調べるうち、格好のページを発見できた。サイト「Laboratory for Development, Evolution and Phylogenetics 発生・進化・系統の和田研究室」の「ワレカラの形態進化の謎を解く」の上から二枚目の並列写真である。キャプションには、

   《引用開始》

Figure 2. ワレカラとヨコエビ(ワレカラの側系統群)の形態の比較.

A)コミナトワレカラ Caprella kominatoensis. 数字は胸節の番号を表す.ワレカラには第7胸節より後ろに体節が見られない.また第3-4胸節に付属肢はなく,葉状の鰓(矢印)のみがある.Bar=20mmB)モズクヨコエビ科の一種 Hyalidae sp.. すべての胸節が付属肢を備え,第7胸節より後ろには腹部体節がある.Bar=10mm.

   《引用終了》

この写真のモズクヨコエビ科の一種のそれは、まさに本図にぴったりなのである。

「丙申七月七日」天保七年七夕。グレゴリオ暦一八三六年八月十八日。

「水虱(とびむし)」甲殻亜門軟甲綱真軟甲亜綱フクロエビ上目端脚目ハマトビムシ科 Talitridae の類。これが海浜に打ち上った海藻に附着していたなら、それもあり得るが、梅園はあくまで「海中」の「藻に住む虫」と言っているから、これは除外される。ハマトトビムシとモクズヨコエビの体制は似てはいる。]

2022/08/18

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 「イタラ貝・板屋貝・杓子橈」と「指甲螺・メクハシヤ」二種 / イタヤガイと触手動物のミドリシャミセンガイ

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングし、一部をマスキングした。]

 

Itayamekajya

 

イタラ貝

 アキタガイ 板屋貝 杓子貝(しやくしがひ)

漢賈(かんか)、筆談

    「半邉蚶」(ハンヘンカン)

 

薩刕の海、多く生ず。諸州、又、あり。其の肉柱、味、甘美。其の殻、一片は平(ひらたく)、一片は凹(くぼ)なる故、「半邉蚶」と云ふ。

 

三種

  乙未九月九日、眞寫す。

 

指甲螺(しかふら)【「閩書」・「三才圖會」。】

   めくはじや【肥前・肥後。】

   おとめがい【備前。】

 

江橈(カウゼウ)

  「漳州府志」曰はく、『江橈。綠の殻、白き尾。其の形、舟橈のごとし。故、名づく。』と。「泉州郡志」に、『形ち、指甲の如きにして、以つて、「指甲螺」と名づく。』と。

 

[やぶちゃん注:上部一個体は、梅園が好きで、都合、『毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 錦貝(ニシキガイ)・イタヤ貝 / イタヤガイ・ヒオウギ』を最初として四度も描いている、

斧足綱翼形亜綱イタヤガイ目イタヤガイ上科イタヤガイ科イタヤガイ属イタヤガイ Pecten albicans

で、下部の二個体は、殻が強い緑色を呈していること、生貝を描いているように見えることから、

触手動物門腕足綱無穴目シャミセンガイ科のミドリシャミセンガイLingula anatina 

である。老婆心乍ら、確認しておくと、シャミセンガイはこれは、「蛤蚌類」でないばかりか、軟体動物門 Mollusca に属する貝類ではなく、全く異なった生物群である腕足動物門 Brachiopoda に属する二枚の殻板を持った海産生物である。馴染みのない読者も多かろうから、取り敢えず、私の「大和本草卷之十四 水蟲 介類 メクハジヤ」を読まれたい。「シャミセンガイ」という和名は「三味線貝」で、本種は図の通り、肉質棒状の肉茎の先に、長方楕円様の形の一対の殻(二枚貝類とは異なり、左右ではなく、体制の前殻・後殻と呼ぶ)を支える全体を「三味線」に見立てて名づけたものである。

「アキタガイ」「秋田貝」であるが、これは誤り。アキタガイは現在も残るホタテガイ(斧足綱翼形亜綱イタヤガイ目イタヤガイ上科イタヤガイ科 Mizuhopecten 属ホタテガイ Mizuhopecten yessoensis )の異名である。

「漢賈、筆談」先行する上記リンク先にも出たが、漢人(当時は清国)の商人との筆談で得た漢名ということか。

「半邉蚶」現行でもイタヤガイの異名として残る。

「乙未九月九日」天保六年。グレゴリオ暦一八三五年十一月九日。

「指甲螺」「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のミドリシャミセンガイのページには、確かに、「地方名・市場名」の項に「シコウラ[指甲螺]」とある。但し、現代中国では、「指甲螺」を検索すると、調理品画像とともに圧倒的に斧足綱マルスダレガイ目ニッコウガイ超科ナタマメガイ科アゲマキ属アゲマキガイ Sinonovacula constricta らしきものが、ゾロゾロ出てくる。中には腹足綱前鰓亜綱新腹足目アクキガイ超科バイ科バイ属バイガイ Babylonia japonica らしきものも含まれている。巻貝を表わす「螺」で二枚貝のアゲマキガイはちょっと首をかしげるが、少なくとも中国の現代の市場では、上記の貝類(或いは近縁種)を一般には「指甲螺」と呼んでいるらしいことが判ったので附記しておく。なお、「指」は肉茎を、「甲」は貝殻の意と思う。

「閩書」複数回既出既注。明の何喬遠撰になる福建省の地誌「閩書南産志」。

「三才圖會」明の王圻(おうき)と、その次男王思義が編纂した中国の類書(百科事典)。全百六巻。一六〇九年成立。但し、今回、原本を見てみたが、「指甲螺」の記載は見出せなかった。というより、「三才図会」の貝類の記載は甚だ乏しいのである。非常に不審であるが、言っておくと、梅園は全く自分で調べていない。またしても全部が孫引きである。私の『「栗氏千蟲譜」巻九  栗本丹洲』を見られたい。一気に注をする気が失せた。そちらで概ね注してある。なお、「ミドリシャミセンガイなんて水族館でしか見たことがないが、生きた個体を江戸の梅園が手に入れることなんて出来たのか?」という疑義を示す読者に言っておくと、同種は、嘗つては、青森以南に普通に棲息していたのである。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページには、『現在では瀬戸内海の一部、九州の有明海、奄美大島など』で見られ、他に『朝鮮半島、中国、インド洋沿岸』とあるように、激減してしまった。当該ウィキによれば、『本邦では生息数が減少しており、地域によっては絶滅が危惧されている』とある通りである。なお、明治期に東京大学の「お雇い外国人」として来日して大森貝塚を発見、進化論を本邦に移植したアメリカ人動物学者エドワード・シルヴェスター・モース(Edward Sylvester Morse 一八三八年~一九二五年)は、実は、このシャミセンガイ類の専門家であった。私は『E.S.モース著石川欣一訳「日本その日その日」』の全電子化注を二〇一六年に終えているが、無論、何度も登場する。「日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第六章 漁村の生活 6 最初のドレッジ」をまずは見られたい。江の島でちょっとドレッジしても、ミドリシャミセンガイはさわに獲れたのである。東京湾にも棲息していたはずである。

「めくはじや【肥前・肥後。】」「おとめがい」「女冠者」と「乙女貝」である。本種の外観から若い女に喩えるのは、個人的には腑に落ちるが、私は腹背(先に言った通り、貝類の左右と異なる大きな体制の違いでの呼称)の殼内にある発条(バネ)樣の多数の繊毛を持った短い触手を持つ触手冠(これによって水中のデトリタスを漉し取って摂餌する)を女性性器に譬えた呼称と考えている。現在も有明海にはシャミセンガイとオオシャミセンガイ( Lingula adamsi )が棲息し(但し、後者は、「福岡県」公式サイト内のレッド・データ・ブックである「福岡県の希少野生生物」の当該種によれば(標本写真有り)、昭和二(一九二七)年の『柳川沖での採集が,国内初』で、『その後』、昭和四五(一九八〇)年までは、『有明海奥部を中心に』、同『湾中央部(熊本市河内町)』や『湾口部(熊本県上天草市松島町)など』、『多くの採集記録があ』ったが、『近年の採集記録』は『ほとんどない』というありさまである)、前者は当地で食用に供されている。私が食べたくて、未だ未食の海産物である。

「江橈(カウゼウ)」現代仮名遣では「コウジョウ」。「江」は海の入り江で、「橈」は櫂(かい)のこと。殻板の形からであろう。]

2022/08/17

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 海蜆(ウミシヽメ) / オキシジミ

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングし、一部をマスキングした。]

 

Umisijimi

 

海蜆【「うみしゞめ」。】

 

[やぶちゃん注:標題で示した通り、底本では、「ウミシヽメ」であるが、電子化本文では「ヾ」と濁音化した。国立国会図書館デジタルコレクションの別人の明るい写本でも同じである。なお、この別写本では、両個体ともに綺麗な輪状線が孰れの個体にも見える。底本のものを、試みにガンマ補正で明度を上げると、上の個体は殆んど見えないが、下の個体には確かに細かな輪状線が見え(是非、やってみて下さい。感動でした)、原本には、確かにそれが描かれていることが判った(【2022年8月18日追加:以下に別本の画像と、本自筆本のγ補正画像を追加した。】)。

 

Syahonumisizimi

 

Hosei

当初、斧足綱異歯亜綱マルスダレガイ目ニッコウガイ超科シオサザナミ科ムラサキガイ亜科イソシジミ属イソシジミ Nuttallia olivacea を考えた。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページによれば、生育域は『北海道南西部以南、九州、朝鮮半島』及び『中国沿岸』で、『潮間帯から水深10メートル』までとある。しかし、グーグル画像検索「イソシジミ」で見ても、本図は全体の形状が孰れも正円に近いこと、何よりも、歯丘があまりにも小さ過ぎるのが気になった。そこで仕切り直して考えた。その結果、

異歯亜綱マルスダレガイ目マルスダレガイ超科マルスダレガイ科オキシジミ亜科オキシジミ属オキシジミ Cyclina sinensis

に落ち着いた。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページの画像の中央の一枚を見られたい。これなら、本図と大きな不審なく、受け入れられた。グーグル画像検索「オキシジミ」を縦覧したところ、P太郎氏のブログ「贅沢堪能日誌」の「オキシジミ」の記事の、一枚目の画像が、かなり本図と合致するように思われた。ぼうずコンニャク氏の解説によれば、ほぼ円形であるから、貝殻の長さは四・五センチメートルとある。語源の項には、「目八譜」による和名で、『シジミに似て沖にいるという意味合い』だが、『シジミには似ているが、沖合でとれるわけでもなく、語源などは不明』とあった。生息域の項には、『海水生。潮間帯下部から水深20メートルの砂泥地』に棲み、『房総半島から九州。朝鮮半島、中国大陸南岸』とあって、梅園が入手し得る。吉良図鑑には、『食用となるも美味ではない』とある。ぼうずコンニャク氏も『アサリのようにあまく強いうま味ではなく、好き嫌いの出る味』とされ、『貝殻は薄いが硬い。軟体は赤みを帯びている。やや水分が多く、少し苦みがあ』る上に、『泥質のところにいるためか、泥、砂などを噛んでいることが多い』とあった。]

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 海馬・タツノヲトシゴ / タツノオトシゴ

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングし、一部をマスキングした。]

 

Tatunootosigo_20220817140401

 

「多識扁」

  海馬【「かいば」。】 水馬(すいば)

   「りうぐうのこま」

   「たつのをとしご」

 

「海馬」、海中の小魚の内に交りて、市に賣ること、あり。乾して貯め置きて、婦人の産する時、是れを手裏(てのうち)に把(にぎ)れば、子を、産(うむこと)、やすし。「本草」に『魚蝦の類』と云ふ。雌雄有り。

 

乙未八月廿九日、眞寫す。

 

「䑓湾府志」に曰はく、『海龍。澎湖(ほうこ)の澳(おき)にあり。冬の日、海の灘(なだ)に雙(なら)び躍る。漁人、之れを獲る。號して、珍物と為(な)す。首尾、龍に似、牙爪(がさう)、無し。長さ、徑(さしわたし)、尺にたらず。之れを以つて、薬に入るれば、功、倍す。「海馬」は、孫元衡に、詩、有りて、云はく、「澎島の漁人 我が歌を乞ふ / 海龍 雙躍して盤渦(うずまき)を出で / 爪牙 未だ空しくして 鱗鬣(りんれふ)を具(そな)へず / 直ちに似たり 枯魚(こぎよ) 河(かは)を過(わた)れと泣くに。」と。』と。

 

[やぶちゃん注:これは、無論、「蛤蚌類」ではない魚類の、

トゲウオ目ヨウジウオ亜目ヨウジウオ科タツノオトシゴ亜科タツノオトシゴ属 Hippocampus

で、本邦産では七種が確認されている(詳しくは『神田玄泉「日東魚譜」 海馬 (タツノオトシゴ)』の私の注を参照。そちらの絵はショボい)。標準和名のそれは、

タツノオトシゴ Hippocampus coronatus

で、北海道南部以南の日本近海・朝鮮半島南部に分布する代表種。全長八センチメートル内外。形態・色彩とも個体変異に富むが、胴の部分は側扁し、尾は長く物に巻きつけるようになっている。頭部は胴部にほぼ直角に曲り、馬の頭部を思わせる形状を成す。後頭部にある頂冠は高い。♂の腹部に育児嚢があり、♀はこの中に産卵し、卵は育児嚢の中で孵化し、親と同じような形にまで成長して後、外へ出る。この時の♂の出産の様子はすこぶる苦痛を思わせる様態を成すことが知られる。海藻の多い沿岸や内湾に棲息する。私も富山の雨晴海岸で銛突き中に見かけことがある。本図も乾燥標本と思われ、頭頂部にあるべき突起がないが、変にその部分が凹んでいることから、欠損したものと考えてよく、一応、同種に比定してよかろう。

「多識扁」林羅山道春が書いた辞書「多識編」。慶安二(一六四九)年の刊本があり、それが早稲田大学図書館「古典総合データベース」の「卷四」のこちらに「海馬【志也久那岐。】異名水馬(スイバ)」(太字は底本では二重の四角の中の黒地白抜き)とある。「志也久那岐」「しやくなぎ」で、「しやくなげ」とともに古いタツノオトシゴの異名の一つであるが、貝原益軒は「大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 海馬」で『世人コレヲシヤクナゲト云ハアヤマレリシヤクナケハ蝦蛄ナリ』と否定している。「蝦蛄」甲殻亜門軟甲綱トゲエビ亜綱口脚(シャコ)目シャコ上科シャコ科シャコ Oratosquilla oratoria 及び口脚目 Stomatopoda に属するシャコ類の総称である。さて、以下の解説は、梅園お得意の、徹頭徹尾、孫引きである。まず、その「大和本草」の『海中の小魚の内に交りて、市に賣ること、あり。乾して貯め置きて、婦人の産する時、是れを手裏(てのうち)に把(にぎ)れば、子を、産(うむこと)、やすし。「本草」に『魚蝦の類』と云ふ。雌雄有り』の箇所が、本篇に最初の解説部分でほぼ丸写ししてある。なお、この「本草」は時珍に「本草綱目」で、その巻四十四の「鱗之三」の「海馬」の以下を指す。「漢籍リポジトリ」のこちら[104-52b]を参照。

   *

釋名 「水馬」。弘景曰、『是、魚鰕類也。狀、如馬、形故名。』。

   *

「魚鰕」は魚類とエビ類を指すが、同項の「集解」では、例えば、蘇頌が『「異魚圖」云、漁人布網罟此魚多罣網上收取』などと記し、その後で時珍も『「徐表南方異物志」云、海馬有魚、狀如馬頭』とあるので、時珍は魚とするそれを否定してはいない。但し、前項は「海蝦」であり、魚と断定しているとは言い難い。

「りうぐうのこま」「龍宮の駒」。「駒」は「馬」で、属学名に偶然に酷似する。“ Hippocampus ”(ヒポカンパス)の語源はギリシャ語のラテン文字転写で“Hippos”(「馬」の意)、“Campos”(海の生物・怪物)の意である。

「たつのをとしご」「龍の落とし子」。

「乙未八月廿九日」天保六年。一八三五年七月二十四日。

『「䑓湾府志」に曰はく、……』これは全部が栗本丹洲「栗氏千蟲譜」巻八冒頭を飾る「海馬」からの孫引き。私のサイト版画像入り「蛙変魚 海馬 草鞋蟲 海老蟲 ワレカラ 蠲 丸薬ムシ 水蚤」を見られたい。

「䑓湾府志」「䑓」は「臺」の異体字。清代に書かれた官製の台湾地誌。複数あるが、その原書で一七六一年に台灣府知府(長官)になった余文儀(一七〇五年~一七八二年)が、任期中に編集したものである。「中國哲學書電子化計劃」のこちらの影印本で確認できる。

「澎湖」澎湖(ほうこ/ポンフー)諸島。台湾島の西方約五十キロメートルに位置する台湾海峡上の島嶼群。台湾領。ここ

「澳」「沖」に同じ。

「海の灘」普通は、海流・潮流が速い所、又は、風浪が激しく航行が困難な海域を指すが、単に沿岸水域を指す場合もあり、ここは後者であろう。

「號して、珍物と為す」それを「珍物」と称してとり囃している。

「尺にたらず」清代の「一尺」は三十二センチメートル。

「孫元衡」(一六六一年~?)は清朝の官人で、一七〇三年に台湾府海防補盜同知(補佐官)となり、一七〇七年には台湾府台湾県知県(県知事)となっている。

「直ちに似たり 枯魚(こぎよ) 河(かは)を過(わた)れと泣くに」最後のこの句の意味はよく判らない。識者の御教授を乞う。]

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 草鞋蠣・コロビガキ  / イタボガキ

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。]

 

「閩志(びんし)」に出づ。

  草鞋蠣(ツウアレイ)【「ころびがき」。】

  「いたぼ」【上總木更津。】

  「いたぼう」【濵川。】

 

Itabogaki

 

一種、洋海中に生じ、形、圓(まどか)にして、大いさ、六、七寸なるを、「ころびがき」と云ふ。一名、「夏がき」【加州。】、「はす子(ね)」【泉州。】、「をちがき」【備後。】、「をちひがき」【備前。】。[やぶちゃん字注:「夏」は底本では異体字のこれ(グリフウィキ)。「はす子」は梅園の書き癖では「ね」であるが、「蓮根」(ハスの地下茎)と「蓮子」(ハスの実の花托)を考えると、後者の方が断然、似ているので、私は「はすこ」と読みたかったが、国立国会図書館デジタルコレクションの「重訂本草綱目啓蒙」の巻之四十二「介之二」の冒頭の「牡蠣」の、ここの左丁の「ハス子」とあったのだが(「子」の読みはない)、所持する「東洋文庫」(島田勇雄訳注)の人見必大「本朝食鑑」(ひとみひつだい 寛永一九(一六四二)年頃?~元禄一四(一七〇一)年)が元禄一〇(一六九七)年に刊行した本邦初の本格的食物本草書「本朝食鑑」の「鱗介部之四」の「介類三十種」の「牡蠣」に同箇所を引いて、『ハスネ』とあった。更に言っておくと、同画像を見て戴くと、これまた、ここに並ぶ異名は、「本草綱目啓蒙」の引き写しであることが判明してしまったよ、梅園先生。]

此れは、海底に特生(とくせい)し、常の蠣(かき)の如くに疂(でふ)にして、石に著(つ)かず。故に、形、正しくして、偏歪(へんひ)ならず。

頌(しよう)の説に『大房如馬蹄』と云ふものにして、「閩書」の「艸鞋蠣(サウケイレイ)」なり。夏月、肉を食ふ。形は大なれども、味は常の蠣に劣れり。

 

  蓋(ふた)の圖[やぶちゃん注:下図右のキャプション。]

 

同十一月、同氏所藏、之れを乞ひて、眞寫す。

 

海の淺き渚(なぎさ)に生(しやう)ず。固まらず、孤(ひと)り生ず。「いたら貝」に似て、丸く、偏(ひらた)し。味、美(よ)からず。又、「いそがき」、「をきがき」、有り。是れ、「ころびがき」の一種。小なる者。

 

[やぶちゃん注:まず、大半の方は、図を見て、

斧足綱ウグイスガイ目イタボガキ科マガキ属イワガキ Crassostrea nippona

を想起するかとも思うのだが、梅園の解説を読むに、貝の軟体部を取り巻く原殻が丸いことを頻りに述べており、最後に「丸く」「偏」平で、しかも「小」さい「者」だと断じている。イワガキも見た目、丸いものもあるが、通常は原殻は長楕円形が多い。しかも貝殻が有意にぶ厚く、そのまま見ても、まさにゴツゴツの転石みたようで、二十センチメートルを超える個体も珍しくない(私は氷見の魚屋で当該サイズの二個体が鎮座している見、買って食い、千葉沖で採れた同サイズのものを行きつけの飲み屋で食べたことがある。私は無類の牡蠣フリークであるが、どうもイワガキだけは例外的に好きになれない。あの柔らかさと脂(あぶら)感というかネットリしたあれが、ダメである)。しかし、この図は明らかに確かに偏平で丸い。しかも梅園は盛んに小さいことを指示している。さらに、殻表面を見ると、翼状に上下と左方向に張り出したそこには、成長肋と放射肋がはっきりと綺麗に形成されており、これはイワガキの殻表面とは全く違う(因みに、イワガキの右殻(一般的に売られる際に上と見える平たい方)の表面に付着しているゴツゴツを全部削ぎ落すと、寧ろマガキのそれに近い)。さすれば、これは、

イタボガキ科イタボガキ属イタボガキOstrea denselamellosa

と比定するものである。大きさは成体で十五センチメートルを超えるが、イワガキと比較するならば小さいと言える。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のイタボガイ、及び、イワガキのページをリンクしておくので、そちらの写真を見比べられんことを望む。私の記事では、「大和本草卷之十四 水蟲 介類 牡蠣」がよかろう。ぼうずコンニャク氏の解説によれば、「イタボガキ」は「板甫牡蠣」(武蔵石寿「目八譜」による)で、『千葉県内房での呼び名。「いたぼ」は単に「板」なのではないだろうか? すなわち一見、汚れた板きれに見える。またもしくは板葺きの屋根のように板が重なっている』と記しておられる。梅園の『「いたぼ」【上總木更津。】』と合致する。因みに言っておくと、私が最も美味と感じたカキは、アイルランドの田舎で、自転車で売りに来ていた老婦人に。その場で剝いて貰って食べた、小さくて丸い、軟体部が美しい緑色をした、かの幻しのヨーロッパヒラガキ Ostrea edulis であった。

「閩志」明の黄仲昭編纂になる現在の福建省の地誌「八閩通志」(一四九〇年跋)。全八十七巻。福建省は古く略称を「閩」と称したが、宋代に、福州・建州・泉州・漳州・汀州・南剣州の六州と、邵武・興化の二つ軍に分かれていたことから「八閩」とも称した。

「草鞋蠣」(ツウアレイ)中国語の音写。現代中国語では「ツウォ シイエ リィー」。訓ずるなら、「わらぢがき」。言い得て妙だ。

「ころびがき」「轉び牡蠣」。「広辞苑」に『イタボガキの俗称。貝殻は厚く大きく、岩石につかずに小石などに付着して団塊状になって海底にころがっているので、この名がある』とあった。躓いて転ぶカキではなくて、岩礁に附着せず、海底にゴロゴロも散漫に転がっているさまを言ったもの。なお、同辞書では先に『カキの一種。奄美・沖縄諸島以南に分布』が載るのだが、ちょっとこんな名の種は知らない。分布域から言うと、カキ目ベッコウガキ科シャコガキ Hyotissa hyotis かなあ?

「濵川」江戸近辺であるとすれば、現在の東京都品川区東大井の京浜急行立会川駅付近は、当時は海浜で、旧地名を「濱川」と呼んだ。「今昔マップ」のこちらを見られたい。

『「夏がき」【加州。】』「加州」は加賀国(現在の石川県)。これは北日本で現在もこう呼び、関東でもかく呼ぶ。私が中高時代を過ごした富山では、マガキよりもこちらを美味として、「カキは夏のもんじゃ!」と魚屋は言っていた。

「泉州」和泉国(現在の大和川以南の大阪府南西部)。

『「をちがき」【備後。】』「備後」は現在の広島県の東半分。「落ち牡蠣」か。次注参照。

『「をちひがき」【備前。】』「備前」は現在の岡山県東南部と、香川県小豆郡・直島諸島、及び、兵庫県赤穂市の一部に相当する。私は前の「をちがき」とともに、岩から落ちたように小石に附着していることからの命名かと思ったが、サイト「フォートラベル」の「岡山/噂のカキオコ!今が旬 日生五味の市の牡蠣」という記事に、『おち牡蠣』『という網から落ちたもの』を言うとあった。「ひ」は不明。

「海底に特生(とくせい)し」「石に著(つ)かず」岩礁に附着せず、海底の砂地の転石に附くという正しい生態を記している。

「疂(でふ)にして」畳のように平べったくて。これも同前で正しい。

「偏歪(へんひ)ならず」イワガキのようにはゴツゴツしていないという点で、以上の二点と合わせて、本種がイタボガキであることを証明している。

「頌」明の李時珍の「本草綱目」がよく引く北宋の博物学者(科学者)で宰相であった蘇頌(そしょう 一〇二〇年~一一〇一年)。字は子容。泉州同安県出身。一〇四二年に進士に登第した。北宋に於て最高の機械学者であったとされる。哲宗の命を受け、世界最初の天文時計「水運儀象台」を設計し、一〇九二年に竣工すると同時に、彼は丞相に任ぜられた。一〇九七年に退官している。思うに、一〇六一年に完成させた「本草図経」中の叙述か。原本は全二十巻だったが、散佚、「証類本草」に引用されたものを元に作られた輯逸本がある(以上は当該ウィキに拠った)。

「大房如馬蹄」「本草綱目」の巻四十六の冒頭の「介之二」の最初にある「牡蠣」の「集解」中にある。「漢籍リポジトリ」のこちら[108-1b]の影印本の六罫の左列に出る。

「閩書」明の何喬遠撰になる福建省の地誌「閩書南産志」。

「艸鞋蠣(サウケイレイ)」なり。夏月、肉を食ふ。形は大なれども、味は常の蠣に劣れり。

「同十一月」天保六年。十一月は一日がグレゴリ曆では一八三五年十二月二十日で、この月は翌年に跨ぐ。

「同氏」既出既注の倉橋氏。

「いたら貝」先行する「錦貝(ニシキガイ)・イタヤ貝 / イタヤガイ・ヒオウギ」にイタヤガイの異名として出、次の丁にも標題で「イタラガイ」として出る。

「いそがき」マガキの異名として現在も残る。但し、これはマガキに限らず、岩礁帯に附着するカキ類の総称というべきかとも思う。

「をきがき」恐らくは「沖牡蠣(おきがき)」と思われる。関東でイワガキを、この異名でも呼ぶ。]

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 拂子貝(ホツスガイ)  / 海綿動物のホッスガイの致命的な海綿体本体部の欠損個体

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。一部をマスキングした。標題のみ。クレジットもない。漁師が底引きで引き揚げたものであろう。]

 

拂子貝(ほつすがい)

 

Hotsugai

 

[やぶちゃん注:これは、「蛤蚌類」ならぬ、

海綿動物門六放海綿(ガラス海綿)綱両盤亜綱両盤目ホッスガイ科ホッスガイHyalonema sieboldi 

であるが、図で言うと、柄の下方になくてはならない円筒型のコップ状の体部が全く欠損している。生態から言うと、これは倒立して描かれてしまっている。まあ、深海産で実際に生きた個体を当時見ることは不可能であったから、致し方ない。本体部は十~十五センチメートルのコップ状(その中腔は隔壁が縦に生じており、内部が四室に分かれている)を成し、その下部にガラスと同じ珪質の繊維でできた細長い柄の下に、長大な骨片のその先はまさにグラス・ファイバー様の束(根毛)になっており、それで深海底に突き刺さっているのである。英名は“glass-rope sponge”とも呼び、柄が長く、僧侶の持つ払子(「ほっす」は唐音。獣毛や麻などを束ねて柄をつけたもので、本来はインドで虫や塵などを払うのに用いた。本邦では真宗以外の高僧が用い、煩悩を払う法具)に似ていることに由来する。この根毛基底部(即ち柄の部分)には「一種の珊瑚蟲」、刺胞動物門花虫綱六放サンゴ亜綱イソギンチャク目イマイソギンチャク亜目無足盤族コンボウイソギンチャク(棍棒磯巾着)科 Epizoanthus 属カイメンイソギンチャク Epizoanthus fatuus が着生する。荒俣宏氏の「世界大博物図鑑別巻2 水生無脊椎動物」のホッスガイの項によれば、一八三二年、イギリスの博物学者J.E.グレイは、このホッスガイの柄に共生するイソギンチャクをホッスガイ Hyalonema sieboldi のポリプと誤認し、本種を軟質サンゴである花虫綱ウミトサカ(八放サンゴ)亜綱ヤギ(海楊)目 Gorgonacea の一種として記載してしまった。後、一八五〇年にフランスの博物学者A.ヴァランシエンヌにより本種がカイメンであり、ポリプ状のものは共生するサンゴ虫類であることを明らかにした、とあり、次のように解説されている(アラビア数字を漢数字に、ピリオドとコンマを句読点を直した)。『このホッスガイは日本にも分布する。相模湾に産するホッスガイは、明治時代の江の島の土産店でも売られていた。《動物学雑誌》第二三号(明治二三年九月)によると、これらはたいてい、延縄(はえなわ)の鉤(はり)にかかったものを商っていたという』。『B.H.チェンバレン《日本事物誌》第六版(一九三九)でも、日本の数ある美しい珍品のなかで筆頭にあげられるのが、江の島の土産物屋の店頭を飾るホッスガイだとされている』とある。……私は四十五前の七月、恋人と訪れた江の島のとある店で、美しいガラス細工と見紛う完品のそれを見たのを記憶している。……あれが最後だったのであろうか……私の儚い恋と同じように……(ホッスガイの画像は例えば、『千葉日報』の二〇一〇年三月十五日附の「ガラス繊維を持つ生物 ホッスガイ 【海の紳士録】」をご覧になられたい)。私の「生物學講話 丘淺次郎 四 寄生と共棲 五 共棲~(2)の2」も参考になる。]

2022/08/16

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 章魚舩・タコブ子  / 図はアオイガイ・解説対象はタコブネとアオイガイの混淆

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。一部をマスキングした。標題部は縦に二つのブロックが並んでいるが、並置させた。]

 

Takobune

 

章魚舩【「たこぶね」・「あをい貝」。】

 「譯史記餘」

      舤魚(ハンギヨ)

 「坤輿外記(こんよがいき)」

    舡魚(コウギヨ)【蛮名「ヒツセナーチクス」。「かいだこ」。「乙姫貝(おとひめがひ)」。】

 

明の艾儒畧(がいじゆりやく)が曰ふ、

『半殼を竪て、舟に當(あ)て、足の皮を張り、帆と當てて、風に乘りて行く。名づけて「舡魚(カウギヨ)」と曰ふ。』は、非なり。章魚舟の帆立貝の事なり。以つて、蓋し、帆と爲(な)して、殻を以つて、舟と爲(な)して走る。

「笈埃隨筆」に、

『越前海、蛸舩の大なるもの、七、八寸【中略。】、其の中に小(ちさ)き章魚(たこ)ありて、両手を、貝殻の外へ出(いだ)し、両足を、梶・竿の如くし、頭を立(たて)て、帆の如くし、游(およ)ぎめぐる故に、其の名あり。其の章魚、大毒有りて、食ふべからず。其の殻、花瓶と爲(す)。』と。

「延喜式」、「主斗式」[やぶちゃん注:「斗」=「計」。]に曰ふ、

『蛸鮨』と云ひ、此れ、『章魚舟』と云ふ。考ふるに、同書に『乾蛸(ほかしたこ)』あり、『蛸の腊(きたい)』あり。「大膳式」に『干鮹』あり。故に『蛸鮨』は『章魚舟』にあらず、『蛸の鮨』なり。[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの別人の写本では、「乾蛸(ホシタコ)」であるが、底本では明らかに「カ」に酷似した文字が認められる。衍字か。]

『蛸舟』は俗名、『貝蛸』【「本名」。】、一名、『弟姫貝(おとひめがひ)』と云ふ。[やぶちゃん注:同じく別人の写本では、この一行がない。]

○「日本書記」[やぶちゃん注:ママ。]敏達天皇五年の條下に『貝蛸皇女(かひたこのひめみこ)』あり。「貝蛸」の名、久し。

○「職方外記」に云ふ、『一種、介属の魚、僅か一尺許り。殼、有り。六足の足、有り。皮のごとし。他に徙(うつ)らんと欲すれば、則ち、半殻を竪て、舟に當て、足の皮を張りて、帆に當て、風に乘りて行く。名づけて「舡魚(かうぎよ)」と曰ふ。』と。

「龍威秘書」巻九「譯史紀餘」に云ふ、『舡魚。六足。殻、有り。皮は、僅かに長さ、尺許り。他に従(うつ)らんと欲すれば、則ち、半殼を竪てて舟に當て、足の皮を張りて帆に當てて、風に乘りて去る。』と。』[やぶちゃん注:「従」はママであるが、別人の写本では「徙」であり、後に示す孫引き元である「栗氏千蟲譜」でも「徙」であるから誤字である。]

          乙未八月廿九日倉橋氏

          所藏より、之れ、眞寫す。

 

[やぶちゃん注:まず、言っておかねばならないことは、図は、その形状から、これは、「蛤蚌類」ならぬ、「葵貝」、

頭足綱八腕形上目八腕(タコ)目無触毛亜目アオイガイ上科アオイガイ科アオイガイ属アオイガイ Argonauta argo の貝殻

である。ところが、解説はアオイガイとは似て非なる別種の「蛸舟」、

アオイガイ属タコブネ Argonauta hians

の方にやや傾いて書いてあるように一見、見える(後の「蛮名」の考証を参照)。則ち、この近縁種の二種のを全くの同一生物として書いているということになる。しかし、両者のの形成する「貝殻」は類似してはいるが、素人が見ても、別な物と認識できるほどには、細分の形と色、さらに構造にも有意な違いがあり、また、形成機序も全く異なっていて、アオイガイが外套膜から分泌した物質で形成するのに対し、タコブネは特殊化した第一腕から分泌する物質で形成する。それぞれの貝殻の違いは、ウィキペディアの「アオイガイ」に載る、♀の貝殻標本写真と、同じくウィキペディアの「タコブネ」に載る、♀の貝殻の同写真を比較して見られたい。因みに、私はアオイガイの殻が非常に好きで、少年の頃、由比が浜で拾った五個体を今も居間に飾ってある。反して、タコブネの貝殻は、水族館や標本屋の店先でしか見たことはなく、そのフォルムは私の好みではないから、食指も動かず、所持していない。私の記事では、両種ともに、まず、梅園が明らかに記載の一部で孫引きしていると思われる(後述する)、文化八(一八一一)年の成立とされる、

栗本丹洲「栗氏千蟲譜 巻十(全)」(サイト版。画像入り。初版は二〇〇七年の私のサイト記事では最下層のものだが、二〇一四年に全面改訂している)

が最も詳しく、私も力を入れて注釈している。他にブログ版では、

「大和本草卷之十四 水蟲 介類 タコブ子」

「生物學講話 丘淺次郎 第十一章 雌雄の別 三 局部の別 (5) ヘクトコチルス」

がよかろうかと思う。他に変わり種では、『航魚(タコフネ)を見れば凶事有り』とあるだけだが、

「南方熊楠 西曆九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語 (異れる民族間に存する類似古話の比較硏究) 7」

も民俗資料として読んでおく価値はあろう。

「あをい貝」(正しい歴史的仮名遣は「あふひがひ」)の和名は本種の♀の殻を二枚、開口部を下にして左右対称に合わせると、丁度、植物のアオイ(葵)の葉に似ることによる。当該ウィキのこちらの画像を参照。

「譯史記餘」「譯史紀餘」が正しい。清の陸次雲の著になる地理書。

「舤魚」「舤」は「舷(ふなばた)・船縁(ふなべり)・船の側面」の意。

「坤輿外記」明末清初に活躍したベルギー生まれのイエズス会士フェルディナンド・フェルビーストFerdinand Verbiest 一六二三年~一六八八年:漢名は南懐仁。一六四一年にイエズス会に入り、中国での布教のため、派遣され、一六五九年、中国に到着。陝西での布教に当たったが、まもなく北京によばれ、既に一六二三年から中国にいたドイツ人イエズス会士ヨハン・アダム・シャール・フォン・ベル(Johann Adam Schall von Bell 一五九二年~一六六六年:漢名は湯若望)を助けて欽天監(きんてんかん:天文台)で活躍、一時、その任を追われたが、復職し、アダム・シャール没後も修暦に従事、一六七三年には欽天監監正に任ぜられた。西洋式の各種天文観測機械の製作と解説書「霊台儀象志」や、世界地図「坤輿全図」(一六七四年)とその解説地誌「坤輿図説」(一六七二年)を著したほか、大砲の鋳造も指導するなど、幅広く活躍した。宣教面でも中国教区長を務め、北京で亡くなった。以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)坤輿図説」から主たる地誌的記事を取り除いて、奇異な話のみを抽出したもの早稲田大学図書館「古典総合データベース」の一括PDF版の本邦で写本されたものの、「10」コマ目右丁の終わりから二行から記載がある。起こす。句読点を追加した。

   *

有介属、之魚、僅尺許、有殻、六足、〻有皮、如、欲徙、則竪半殻、當舟張足皮、當帆、乗風而行。名曰舡魚(ヒウセナーイクス)。

   *

この本の確認は、実際に梅園が行ったもののようには見える。

『蛮名「ヒツセナーチクス」』この時代の接触出来る外国人の殆んどはオランダ人であるから、まず、オランダ語の「アオイガイ」を調べたが、schippertjeでオランダ語を知らない私が見ても、このカタカナ音写とは一致しそうもなかった。そこで、「タコブネ」の方を調べてみたところ、図に当たった。タコブネのオランダ語はpapiernautilus”で、試みにネットの機械翻訳機能で発音させたものを音写すると、「パピューナチレス」で、英語のそれは、“brown paper nautilus”(ブラウン・ペーパー・ノーチラス:茶色の紙製のオウムガイ)である。綴りから見て、オランダ語のそれも「紙のようなオウムガイ」の意と推定され、この「パピューナチレス」は、以上で字起こしした「坤輿外記」と殆んど相同であるから、梅園が振った「ヒツセナーチクス」も同じカタカナ音写と断定出来る

「かいだこ」カイダコはアオイガイの旧和名で、現在は異名とされる。その変遷は当該ウィキを参照されたい。前の注と合わせて、本図譜の本図がアオイガイとタコブネの混同記載となっていることが証明された

「乙姫貝」栗本丹洲「栗氏千蟲譜 巻十(全)」に(以下は原文。〔 〕は直前字の誤りを私が訂したもの。太字は私が附した。既に、実は丹洲もアオイガイとフネダコを混同して記載してしまっていることを証明するためにも「乙姫介」の記載以外の箇所にも附した。そちらでは、原文をまず提示し、後に「■やぶちゃん読解改訂版」(カタカナをひらがなにし、訓読整序して読み易くしたもの)も後半に配してある)、

   *

舡魚  蛮名 ヒツセナーテ〔チ〕リス 右ノ図蛮書落立茅〔弟〕篤中ニアリ直ニ抄出ス

本邦俗ニ章魚船ト呼一名貝章魚ト云此介殼ヲ人〔介〕品ニ入ル紀州ニテ葵介ト云小ナルヲ乙姫介ト云諸州ノ海中ヨリ産ス大ナルハ六七寸小ナル者二三寸純白ニシテ形鸚鵡螺ノ如ク薄脆玲瓏恰硝子ヲ以テ製造スルモノニ似タリ文理アリテ※瓏ヲナス畧秋海棠葉ノ紋脉ニ彷彿愛玩スルニ耐タリ中ニ一章魚ノ小ナルモノコレニ寄居ス六手ヲ殼肩ニ出シ両足ヲ殻後ニツキハリテ櫂竿ノ象ヲナス海面ヲ游行スルコト自在ナリ真ニ奇物ナリ此章魚ハ外來ノモノニ非ス此介ノ肉ナリ徑月大ナルニ随テ此介モ又大ニナルモノ也章魚ノ船ニ乘タルニ似タルニ因テ此名アリ徃年津輕海濱ニ此物一日數百群ヲナスコトアリテ寄來ル人多クコレヲトル然レドモ怪テ食フモノナシ試ニ煮テ犬ニ與テ喰ハシムルニ皆煩悶苦痛ノ体ナリ因テ有毒ノモノト知漁人偶得ルコトアレハ則章魚棄テ殼ノミヲ採リテ以テ珎玩トシテ四方ニ寄ス然レドモ其殼モロク碎ケ易ク久シク用ユルニタヘス[やぶちゃん字注:「※」=(がんだれ)の中に「毛」。読みも意味も不詳。因みに「瓏」は「明らかなさま・はっきりとしたさま」。或いは「尾」の崩しか? としても、「マデ」などの送りが無ければ、意味が通じない。]

   *

最後の「※」の不明字は現在も同じ。底本写本の国立国会図書館デジタルコレクションの当該ページの画像を示しておく(右丁四行目下方)。後に出す「弟姬貝(おとひめがひ)」と同じ。小さいから「弟」の方が当たりなのかも知れない。しかし、相似する薄い美しい殻を美称して「姫貝」と呼んだと措定するなら、アオイガイとカイダコの殻を並べた場合、アオイガイは最大十五センチメートル程度であるのに対し、カイダコの方は八・八センチメートルで、小さい。そうすると、この「おとひめがひ」は、俄然、実はカイダコの方の異名である可能性が物理的には高くなるようにも思われる。

「明の艾儒畧(がいじゅりやく)」明末の中国で宣教活動を行ったイタリア出身のイエズス会士ジュリオ・アレーニ(Giulio Aleni 一五八二年~一六四九年)の漢名。アレーニは北イタリアのブレッシャに生まれた。一六一〇年にマカオに至り、そこで数学を教えながら、中国に潜入する機会を待ち、一六一三年に中国に入り、北京で、知られた、優れた暦数学者にしてキリスト教徒であった徐光啓(一五六二年~一六三三年:洗礼名はパウルス(Paulus))の知遇を得、各地で布教活動を行った。一六二五年からは福建省で布教したが、一六三八年にキリスト教排撃事件が発生したため、マカオに引きあげたが、後、再び福建に戻った。一六四六年に清が福建に侵入したため、アレーニは福州から逃がれ、現在の福建省南平市延平(グーグル・マップ・データ)で亡くなった。さて、ここで梅園の小賢しい孫引きが、マタゾロ始まっている。そもそも「明の艾儒畧が曰ふ」という語り出しは奇異なること甚だしい。艾儒畧の、『半殼を竪て、舟に當(あ)て、足の皮を張り、帆と當てて、風に乘りて行く。名づけて「舡魚(カウギヨ)」と曰ふ』という記載元を書いていないのは、甚だ変則的である。これが「李時珍」だったり、「益軒」だったらまだしも、それほど当時の本邦で広く知られた人物ではない(しかも禁教のイエズス会士)彼を、突然、頭に据えるのは、異様だ。そこに梅園のミエミエの引用元隠蔽の仕儀が知れるのである。これは、梅園の解説の後の方に出る艾儒略の「職方外紀」(梅園の「職方外記」の「記」は誤り)の中の記載なのだ。彼が明で編纂した五巻から成る世界地理書で、一六二三年に成立し、同年に杭州で刊行され、一六二〇年代後半に福建で重刊された。福建での重刊の後も、幾つかの叢書に収められ、当時の中国の地理知識の発達に寄与した。さらに日本にも渡来し、禁書とされたにも拘わらず、密かに伝写され、鎖国時代の世界地理知識の向上に貢献した書である(以上は明治大学図書館公式サイト内の「蘆田文庫特別展」の「展示資料の詳細表示」の「職方外紀」の解説に拠った)。而して、ここで既に、殆んどビョーキに近い梅園の孫引きがバレるのである。やはり、これはまたしても、栗本丹洲「栗氏千蟲譜 巻十(全)」なのである(以下は原文。同前。下線太字は私が附した)。

   *

職方外記〔紀〕云一種介属之魚僅尺許有殼六足々有皮如欲他徙則竪半殼當舟張足皮當帆乘風而行名曰舡魚龍威秘書巻九譯史紀餘曰舡魚六足行殼有皮僅長尺許如欲他徙則竪半殼當舟張足皮當帆乘風而去

   *

あたかも、梅園自身が、禁制の地下本である艾儒略の「職方外紀」に親しく当たったようにしか見えない書き出しは、まさしく先行する栗本丹洲「栗氏千蟲譜」からの剽窃を隠蔽するための小賢しい弄くりに過ぎなかったのである。

「章魚舟の帆立貝」これはホタテガイとは無関係で、アオイガイの♀及びタコブネの♀の海上を移動するさまを夢想的に言ったもの(実際にはアオイガイもタコブネも海の表層附近を浮遊移動する)。しかし、「蓋し、帆と爲して、殻を以つて、舟と爲して走る」という記載は、一部の「足」(或いは足の間の皮膜)を「帆」のようにして、と言うべきところを脱字したものか。

「笈埃隨筆」江戸中期の旅行家百井塘雨(ももいとうう ?~寛政六(一七九四)年:本名定雄。京都室町の豪商「万家(よろづや)」の次男)の紀行。以下は、巻之五の「変態」の一節。吉川弘文館随筆大成版を元に、漢字を恣意的に正字化して全体を示す。陰陽の当該部の下線は私が附した。ちょっと表現に異同はあるが、まあ、問題ない、というより、梅園は、例の通り、「日本書紀」をあたかも自分が調べたように、改行して載せているが、ご覧の通り、またまた、孫引きであることが判る。読み易さを考えて、読点・記号、及び、推定で読みを追加した。踊り字「〱」は正字化した。

   *

   ○變 態

飛騨國高山府下滄州といふ人より、一奇物を送れり。其さま、笹の細きに、葉も、よのつねなり。其本なる葉のところ、二寸餘の物、生(な)り、末、細くして、魚の尾の形にして、兩目と覺しき所ありて、鰭も備はり、丸くして、鱗の樣に、笹の葉、有て、全體、細工物の如し。谷川の笹に自然と出來て、三、四月のころ、忽然と枝を放(はな)れ、水中に落入れば、魚と化す。號(なづけ)て「笹の魚」と云。尤も味ひ美なりと云々。これ、いまだ、諸書にも出ざる一變物なり。かゝる事は、往々、深山幽谷・海邊などに有べき事なるべしといへども、人、常に見ざる所なれば、いはず。適(たまたま)、一人、見て、その實(まこと)と告(つぐ)るといへども、信ずべからず。但し、我、見ざる事とて、誣(そしる)べからず。陰陽の氣變、はかり知り難し。人、天を覆ふ知ありとも、理は盡すべからず。「天化」あり、「氣化」あり、「心化」、「體化」あり。佛者、胎・卵・濕・化(け)の四生を說(とく)事、理、有(ある)哉(かな)。予、幼少の時、「宗祇諸國物語」とかやいふものを見しに、子供心にも珍らしとおもひし故に、今に記臆せり。何國の事にや、春の頃、蛇、多く出來りて、海中に走り、入(いり)て蛸となれり、といふ事ありき。甚だ怪しき事におもへり。近頃、越前に通ふ商人の語るを聞しに、春三月のころ、彼(かの)國に有(あり)しに、所の人々、誘ひて、「蛇の蛸になるを、見に行(ゆく)べし。」とて、破籠(わりご)樣の物を携へ、長閑(のどか)なる日に、濱邊に遊ぶ。暫くして、とある山の尾崎(をさき)より、蛇、出來りて、眞一文字に濱を下り、海中に游(およ)ぎゆらめき、十間許りも出(いづ)るや、尾を上(あげ)て打(うつ)事、數遍(すへん)しぬれば、尾先、裂(さけ)て、足、長く別かれ出(いづ)。「コハ、ふしぎ成(なる)事哉(かな)。」と、目を、はなさず、見留居(みとどけを)るうち、いまだ、半身は、蛇の儘にゆられけるが、また、水に打返り打返りするかと見れば、忽ち、全體、蛸と化して、沖の方へ行(ゆき)、夫より、追々、出(いで)ては、みな、斯(かく)のごとし。その化して、しばらくは、つかれ、苦みぬるや、惱める樣なり。是等、世にいふ、』『「手長蛸」に毒あり。』とするの本(もと)かと聞(きき)て、扨は、浮(うい)たる事にもあらざりしと覺ふ。又、同じ北海に一奇物あり。「蛸舟」と號し、大なるもの、七、八寸、色、淡白にして、貝、薄く、秋海堂の葉に似たる文理、麗(うるは)し。その中に、小き蛸、有りて、兩手を貝殼の外に出(いだ)し、兩足を梶・竿のごとく、頭を立(たて)て、帆の如くし、游ぎ𢌞るゆへ、その名あり。「その蛸、毒、有(あり)。」とて、人、食せず。その殼を取(とり)て花甁とす。按ずるに、「延喜式」「主計式」に、「貝蛸鮨(かひだこすし)」といふものあり。是(これ)歟(か)。「蛸舟」は、俗名・本名「貝蛸」、又、一名「弟姬貝(おとひめがひ)」といふ。『「日本書紀」敏達天皇の條下に、「貝蛸皇女(かひたこのひめみこ)」あれば、其名、久敷(ひさしき)事なるべし。』と、勢州谷川氏も、いへり。又、近江の湖水に、「アメノ魚」、「太刀魚」とて、魚あり。小さくして、鮱(ぼら)のごとし。

   *

引用部以外にも注を附したいところだが、そうすると、注が脱線して長くなるので、諦める。但し、一つだけ指摘しておくと、『予、幼少の時、「宗祇諸國物語」とかやいふものを見しに、子供心にも珍らしとおもひし故に、今に記臆せり。何國の事にや、春の頃、蛇、多く出來りて、海中に走り、入(いり)て蛸となれり、といふ事ありき。』とあるのは、私が同書の電子化注をしてあり、その「宗祇諸國物語 附やぶちゃん注 無足の蛇 七手の蛸」である。「春」とはないが、「ある日うらゝに風靜かな」日のこととして、以下に蛇が蛸に変ずるのを目撃したとするので、完全に合致する。

『「延喜式」、「主斗式」[やぶちゃん注:「斗」=「計」]』「主計式」(音で「しゆけいしき」と読んでおく。巻二十四に「上」が、第巻二十五が「下」があるが、「主計寮上」(「主計寮」は訓では「かずへのつかさ」)であろう。には、全国への庸・調などの作物の割り当てなどが書かれており、当時の全国の農産物・漁獲物・特産物を記すが、国立国会図書館デジタルコレクションの昭和六(一九三一)年大岡山書店刊の皇典講究所・全国神職会校訂の「延喜式 下巻」のこちらの左ページ一行目に、「蛸の腊(きたい)」に当たる「鮹(タコ)ノ醋四斤」と載る。「鮨」であったら、「熟(な)れずし」だが、直後に「鮨ノ鮒」とあるから、これは恐らく「鮹の醋(きたひ)」(正しい歴史的仮名遣はこれ)で、現在で言う「タコの丸干し」かと思われる。同じ画像の右ページの後ろから二行目に、「乾蛸(ほかしたこ)」に相当する「乾鮹(ホシタコ)九斤十三兩」とあるが(「蛸の醋」と直近で差別化しているところからは、こちらはタコを刻んで乾したものか? よく判らぬ)で「蛸鮨」は少なくともこの前後には見当たらない。私は「タコの馴れ鮨」というのは寡聞にして知らない。ここには多くの魚介類の「鮨」(なしもの)が載るから、それを桃井が見誤ったものを、無批判に梅園は孫引きしたのだろう。こういうところで、知らんぷりの孫引きの墓穴を掘ることとなってしまったのである。

「大膳式」「大膳職」(だいぜんしき/おほかしはでのつかさ)は律令制において宮内省に属する官司で、朝廷にあって臣下に対する饗膳を供する機関を指す。「延喜式」の巻三十二・三十三に「大膳」(信頼出来る論文を見ると、これを「大膳式」と別称するらしい)の「上」・「下」があるが、同前で「上」の冒頭「御膳ノ神八坐」の中に(ひらがなの読みは私の推定)「嶋鮑(しまあわび)。熬海鼠(イリコ)・鮹(タコ)。雑ノ醋(キタヒ)各六斤」とある。「熬海鼠」は、ナマコの腸(わた)を抜き去って茹でて乾燥させたもの。

「『蛸舟』は俗名、『貝蛸』【「本名」。】」現行では「カイダコ」は「アオイガイ」の異名である。

『「日本書記」便辰天皇五年の條下に『貝蛸皇女(かひたこのひめみこ)』あり』菟道貝蛸皇女(うじのかいたこのひめみこ 生没年未詳)は飛鳥時代の皇族で、敏達天皇と額田部皇女(後の推古天皇)の間に生まれた皇女。以下、途中に入れたのは、国立国会図書館デジタルコレクションの黒板勝美編「日本書紀 訓読」下巻(昭和七(一九三二)年岩波書店刊)の当該部)聖徳太子の従姉妹であり、妃となった(右ページ四行目)が、子なくして、結婚後、まもなく逝去したとされている。「日本書紀」の敏達天皇七年に「菟道皇女」が伊勢神宮に任ぜられるも、すぐに池辺皇子(いけべのおうじ)に強姦されたため、解任された(左ページ二行目)と記されているが、この「菟道貝蛸皇女」と同一人物であるかは定かでない、と当該ウィキにある。

「龍威秘書」清の馬俊良の手になる稀覯珍奇な書物を集めた叢書。

「譯史紀餘」清の陸次雲の撰したもので、画像で管見すると一種の類書のようなもののようである。これもまた、栗本丹洲「栗氏千蟲譜 巻十(全)」からの孫引きに過ぎない。

「乙未八月廿九日」天保六年で、グレゴリ曆一八三五年十月二十日。

「倉橋氏」既出既注であるが、再掲すると、本カテゴリで最初に電子化した『カテゴリ 毛利梅園「梅園介譜」 始動 / 鸚鵡螺』に出る、梅園にオウムガイの殻を見せて呉れた「倉橋尚勝」であるが、彼は梅園の同僚で幕臣(百俵・御書院番)である(国立国会図書館デジタルコレクションの磯野直秀先生の論文「『梅園図譜』とその周辺」PDF)を見られたい。]

2022/08/14

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 海鏡・月日貝  / ツキヒガイ

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。なお、以下のクレジットは御覧の通り、見開きの左丁の右下に書かれてある。梅園は今までも対象物の一個体を「一種」と数えている。同種のものを二つ書いても、「二種」と書いているのである。この毛利梅園の「介譜」は、写生画を切り張りして綺麗に冊子に綴じたものであるが、左右のページが同一の場合以外は、同じ一丁の中に写生クレジットを書いており、この場合、これを前の丁の「三種」のクレジットと採ることは私は出来ないと考えるものである。

 

「多識」

  海鏡【「月日貝」。】 鏡魚(キヤウギヨ) 瑣𤥐(サキツ) 膏藥盤(こうやくばん)

「綿繍萬花谷」曰はく、

  海鏡【廣人、呼んで、「膏藥盤」と爲(な)す。】

    日月蠔(ジツゲツガウ) 蟫蠇(インレイ)【「魚鑑(うをかがみ)」。】

 

       三種、倉橋氏藏。

         乙未八月廿七日、眞寫す。

 

Tukihigai

 

清、俗に日月殻(ジツゲツコク)、又、(テンレイ)と云ふ。清の吳震芳が「嶺南雜記」には日月とのみ云へり。其の文に曰はく、『海、豊かに、水族、甚だ夥(おびただ)し。「日月」と云ふ者、有り、蛤(ガウ)の類なり。大いさ、掌(てのひら)のごとく、扁(ひらた)し。殻、半片(かたひら)、白く、半片は紅(あか)し。土人、直(ただ)、之れを「日月」と名づく。』と。

 

[やぶちゃん注:下線は底本では右二重傍線。これは逡巡することなく、

斧足綱翼形亜綱イタヤガイ目イタヤガイ超科イタヤガイ科イタヤガイ亜科 Amusium Amusium 亜属ツキヒガイ Amusium japonicum japonicum

である(学名は「BISMaL(Biological Information System for Marine Life)」のこちら他に従った)。シノニムに Ylistrum japonicum があり、こちらで正式学名記載とするものあり、また、 Amusium 及び Ylistrum を「ツキヒガイ属」とする記載も多い。小学館「日本大百科全書」の奥谷喬司先生の解説によれば、『房総半島から九州にかけて分布し、水深10100メートルの細砂泥底に、右殻を下にして』、『なかば埋もれたように横たわっている。殻長と殻高はともに110ミリメートル、殻幅20ミリメートルに達し、殻は円形で膨らみは弱く』、『光沢があり、左殻は赤褐色、右殻は淡黄白色をしている。これを日と月に見立てたのが名の由来である。殻頂両側の耳は小さい。内面は白色で周縁は黄色、4552本の細肋』『を放射する。肉は黄色で、外套』『膜縁には多くの赤褐色の糸状触手を備え、その間には多数の目がある。殻を激しく開閉して泳ぎ』、『移動する。閉殻筋は食用とされ、殻は貝細工に用いられている』。『台湾など南方には、左殻の全体が赤褐色でなく、細い赤褐色の輪線となるタイワンツキヒガイA. j. formosumと、小形のタカサゴツキヒガイA. pleuronectesを産する』とある。画像は、当該ウィキに載る画像が鮮やかで素晴らしい(和歌山県御坊市名田町沖水深十八~三十六メートルからトロール船で一九八〇年に採取された個体)。

「多識」林羅山道春が書いた辞書「多識編」。国立国会図書館デジタルコレクションの慶安二(一六四九)年の刊本のここにあったが、何を血迷ったか、梅園先生!……「海鏡」の状には……『海鏡』『多伊良岐』……って書いてありますぜ? これって、ちょっと前の「タイラギ」ですぜ?…………

「鏡魚」「魚」は嘗つては「魚貝」の意で、広く海産動物全般を指した。

「瑣𤥐」「瑣」は「煩瑣」で判る通り、「小さい」の意だろう。さても、大修館書店の「廣漢和辭典」の「𤥐を見たら、不思議なことが書いてあるぞ! 『蛸𤥐(ソウキツ)・璅𤥐(ソウキツ)は、一に蟹奴(カイド)といい、腹中に蟹(かに)の子を宿して、共同生活をする一種の虫』……?……なんじゃこりゃあ!? 寄生蟹の宿主カイ? 続きは次の注をどうぞ!

「綿繍萬花谷」国立国会図書館デジタルコレクションの別人の写本でも「綿」となっているが、これは「錦」の誤り。「錦繡萬花谷」(きんしうばんくわこく(きんしゅうばんかこく))が正しい。「文化遺産データベース」のこちらによれば、同書は南宋の淳熙(じゅんき)一五(一一八三)年頃に撰せられた類書(百科事典)で、『中国文学史上に重視された』とある。「中國哲學書電子化計劃」で検索したところ、前集巻三十六に以下の文字列があった(一部の漢字に手を入れた)。句読点は私が適当に打った。

   *

海鏡膏葉[やぶちゃん注:多分、機械判読の「藥」の誤り。]盤海鏡廣人呼爲膏葉盤兩片合成殻圓中瑩滑内有紅蟹子海鏡飢則蟹出拾食蟹飽歸腹海鏡亦飽迫之以火卽蟹子走出立斃生剖之蟹子活逡巡亦死【「嶺表錄」】

   *

ピンノのような寄生蟹との面白そうな話が載っているのだが、私の乏しい漢文力では読みに自信が湧かない。残念だなあ、と思いつつ、何となく、いろいろなフレーズでネット・サーフと洒落てみたところが、図らずも、梅園の、以上の引用のネタ元(またしても孫引き!)を発見してしまった。「怡顔斎介品」(本草学者(博物学者と言ってよい)松岡恕庵(寛文八(一六六八)年~延享三(一七四六)年:名は玄達(げんたつ)。恕庵は通称、「怡顏齋」(いがんさい)は号。門弟には、かの「本草綱目啓蒙」を著わした小野蘭山がいる)が動植物や鉱物を九品目に分けて書いた「怡顔斎何品」の中の海産生物を記したもの)だ! 而して、「日本古典籍ビューア」で当該部に辿り着いてみたら、嬉しいことに訓点があった! 訓点はあくまで参考にして訓読を試みる。表記は正字でないものも、正字とした。この際なので、後の続く部分(次の丁まで)も全部、起こした。

   *

膏藥盤 「錦繡萬花谷」に曰はく、『海鏡、廣人(くわうひと)、呼びて、膏藥盤と爲(な)す。兩片、合成す。殻、圓(まどか)に、中(う)ち、瑩滑(えいかつ)にして、内(うち)、紅き蟹の子、有り。海鏡、飢うれば、則ち、蟹、出でて、食を拾ふ。蟹、飽(あ)きて腹に歸れば、海鏡も亦、飽(あ)く。之れ、迫(せま)るに、火を以つてすれば、卽ち、蟹の子、走り出(だ)し、立(ただち)に、斃(たふ)る。之れを生剖(せいぼう)すれば、蟹の子、活するより、逡巡して、亦た、死す。』と。「漳州府志(しやうしうふし)」に曰はく、『海月(かいげつ)は、海蛤(かいがふ)の類なり。一名、蠔鏡(がうきやう)、形、圓(まどか)にして、月のごとし。亦、之れを海鏡と謂ふ。土人、鱗次(りんじ)して、之れを、天窻(てんまど)と爲す。』と。「海物異名記」に、『一名、老葉盤(らいえふばん)。』と。 ○達、按ずるに、膏藥盤、俗に「月日貝」と名づく[やぶちゃん注:この行の頭書に『日月殼【淸、俗。】』と『日月【「嶺南雑錄」。】』とある。]。片(かた)、白く、半片(はんかた)、赤し。故に名づく。和(わ)に海鏡を「たいらき」とするは、誤りなり。又、「福志」の「海月」は「水(みづ)くらげ」なり。

   *

・「廣人」は国名じゃないが、漢文の掟に則って「こうひと」と訓じておいた。広東(カントン)地方の民草。「膏藥盤」は本種の殻を練り膏薬を入れる器にしていたからであろうと思う。いやいや! この話、甚だ面白い! 寄生蟹のお腹がくちくなれば、その住み家に戻ると、主人の貝もおなかがふくれるという共感呪術だからである。それが、貝と蟹との生死にも関わることが、最後の部分で明らかになるという寸法だ。「漳州府志」は清の乾隆帝の代に成立した現在の福建省南東部に位置する漳州市一帯の地誌(グーグル・マップ・データ)。「鱗次」魚の鱗のように次々に重ね並べて家の天窓の覆いとするというのである。腑に落ちる。「海物異名記」嘗つて別な電子化注で、中文サイトの「福州府志」を見た際、同書では七ヶ所で引用されており、それなりに有名な海産物誌らしいが、詳細は不詳である。しかし、その時、同書での引用箇所を管見したところでは、ちょっと言い方に怪しい感じがしたのを覚えている。「老葉盤」「わくらば」のそれで、赤い一方を紅葉した葉に喩えて、かく言ったものであろう。「和」日本。『「福志」の「海月」は「水(みづ)くらげ」なり』この最後の最後で、松岡は何だか訳の分からぬことを記している。「福志」は「漳志」の誤りとしか思えない(実は底本を見て貰うと判るのだが、次の項は「石𧋤」(せきこう:節足動物門甲殻亜門顎脚綱鞘甲亜綱蔓脚(フジツボ)下綱完胸上目有柄目ミョウガガイ亜目ミョウガガイ科カメノテ属カメノテ Capitulum mitellaのこと)なのであるが、その解説の冒頭が、『福州府志曰、』と始まっており、真右にこの「福志」が並んでいるので、もしかすると、単なる版元の誤刻かとも思われる)。それを誤りとして読んでも、さらに判らぬ。「ミズクラゲを、どうやって繋げ並べたら、天窓になるんや!!! 溶けて流れて、ハイ、さようなら、でっせ!」というツッコミである。そうして私は即座に、この「海月」とはツキヒガイではないと見たのである。ツキヒガイでは天窓の蓋=覆いにはなるだろうが、光りは殆んど通さないから、「窓」にはならない。ところがどっこい! 正真正銘、「窓になる貝」が、別にあるのだ。それも、それを「海月」と呼んでも、おかしくないものなのだ。そう、名にし負う「窓貝」で、斧足綱翼形亜綱ウグイスガイ目ナミマガシワ超科ナミマガシワ科マドガイ属マドガイ Placuna placenta だ! 「ブリタニカ国際大百科事典」によれば、殻長は九・五センチ、殻高は十センチ、殻幅は僅か七ミリで、殻は円形で扁平、特に右殻は平らである。殻表は銀白色で、半透明、微細な放射条が走る。浅海の砂底に棲息し、古く中国などで、右殻を切って、窓の障子に嵌めてガラスのように用いたことから、その名があるのである。「そんなの知らねえぞ!」と言われるだろう。当然だ。本邦には棲息しないからだ。マドガイは台湾以南の太平洋・インド洋に分布する。ところがだ、ここはどこだ? 漳州市だぜ? だてに辛気臭く地図リンクをしてるんわけじゃねえ! はい! ほら、台湾以南でしょ? 学名のグーグル画像検索をリンクさせておく。東南アジアに行った方は土産物屋でこれを加工した飾り物見たことが必ずあるはずだ。

「日月蠔」「蠔」この漢字は牡蠣(カキ)を表わす。海中に出来たカキの巨大な山を「蠔山」(ごうざん)と呼ぶのだが、他には海に潜って貝を採る海士・海女の謂いしかない。正直言って、昔、中国では海辺に住む人以外は海産物に疎かった。かの李時珍の「本草綱目」も海産物になったとたん、誤りが激しく目立つのである。彼は湖北省黄岡市出身で(武漢の東方)、北京や南京に出向いた時はあるが、例えば、海浜で親しく生物を観察した痕跡は叙述には見られない。その内容の殆んどは聞き書きだったようだ。というわけで、食通でもない限り、現代の欧米人と同じで、海産物を表わす漢字を日本人のようには沢山は知らないわけである。二枚貝は「蚌」や「蛤」で通ずるから、画数は多いけれど、まあ、「蠔」でもいいわけだ。但し、マドガイはやや凸凹しているから、そこはカキっぽく「蠔」とするの意はあるやも知れぬ。

「蟫蠇」不詳。「蟫」は現代中国語では昆虫の紙魚(シミ)の古語で、「蠇」はやっぱり牡蠣なんだな。

「魚鑑」江戸時代の外科医武井周作の著で天保二(一八三一)刊。国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像のここ。乗りかかった舟だ。電子化しておく。ここに梅園が引いた箇所がある(下線は底本では右傍線)。

   *

つきひがひ 淸(からの)俗(ぞく)に日月蠔(じつげつかう)、一名「(タンレイ)といふ。大サ、二、三寸。殻(から)、丸く、半片(かたひら)は紅(くれなゐ)なり。薩(さつま)・勢(いせ)・紀(きい)に產す。柱(はしら)、寸余、味(あじわ)ひ、美(よ)し。

   *

「倉橋氏」既出既注

「乙未八月廿七日」天保六年で、グレゴリオ暦一八三五年十月十八日。

『清の吳震芳が「嶺南雜記」』一七〇五年に吳震方(但し、ネット記載の中には確かに「吳震芳」とするものがあった)が「嶺南雜記」が書いた地方地誌か。]

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 花紫・若紫・内ウラサキ  / フジナミガイ

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。なお、本図にはクレジットがない。]

 

花紫(はなむらさき)

 又、

 若紫

 内ウラサキ 


Utimurasaki

 

[やぶちゃん注:こりゃあ、大浅利の斧足綱異歯亜綱マルスダレガイ目マルスダレガイ科 Saxidomus 属ウチムラサキ Saxidomus purpurata じゃあ、ねえぞ!? ウチムラサキの貝の内側を描いたとしても、梅園が、こんなシュールな反転デフォルメなんぞをするとは思われん! こんな輪状紋はウチムラサキには、ねえ紋(もん)!! おまけに、明らかにこりゃ、貝殻の表面の図であって、今までの梅園の図を見ても、凹んでいる内側を、こんな逆立ちしたような立体には、彼は、決して描かんぞッツ! さすれば、これは、記された和名の全部が異名として、貝図だけから、判断せねばならぬのか? いやいや、名前に仄かなヒントがあるぞ! そうだ! これは「紫のゆかり」でねえか? そうさ、

マルスダレガイ目ニッコウガイ超科シオサザナミガイ科ムラサキガイ属フジナミガイ Boeddinghaus Sanguin

「藤波貝」だんべ! Machiko YAMADAさんのサイト「微小貝データベース」の同種の、写真を見られたい。生貝で表面の剥離が生じていないなら、こうゴッツうなろうものではないカイ! 「でも、藤色なんかしてねえぜ? 何が「紫のゆかり」やねん!?」とツッコむ輩は、個人ブログ(女性)の「あうるの森」の「貝殻拾い【フジナミガイ】【アケボノキヌタ】…南房総・多田良海岸」の写真を見んさい! 上から二枚目と三枚目だ! 薄紫色が見えるやろ? ついでに同ページの最初に写真のフジナミガイは、いかにも本図に似ているじゃないの!! ちょっち、形は、やっぱ、デフォルメやけんど……]

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 眞珠・アコヤガイ  / アコヤガイ

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。一部をマスキングした。標題は一部が縦に並ぶが、概ね改行した。なお、本図にはクレジットがない。]

 

Sinjyu_20220814083201

 

「多識扁(たしきへん)」

  眞珠【「かいの玉」。「あこやの玉」。】

  【異名。】蠙珠(ヒンシユ)【「禹貢(うこう)」。】

       珍珠【「間寶」。】 蚌珠(バウシユ)【「南方志」。】

  珠牡【「をやがい」。】

  胎貝(あこやがい)

  珠母(しゆぼ) 銀母蠃(ぎんぼら)【「廣東新語(カントンしんご)」。】

    眞珠貝【肥前。】 そで貝

    老いたるを「厚貝(あつがひ)」と云ふ。

[やぶちゃん字注:底本の「蠙」の(つくり)は「濵」の(つくり)である。表記出来ないのでこれに代えた。]

 

時珍曰はく、「龍の珠は領(うなじ)に在り、蛇の珠は口に在り、魚の珠は目に在り、鮫の珠は皮に在り、鼈(べつ)の珠は足に在り、蚌(ばう)の珠は腹に在る。皆、蚌の珠に及ばず。」と。

按ずるに、眞珠は、貝の珠、各(おのおの)、數種あり。「石决明(あわび)」、「淺利貝」、「蜆」、「蚌(どぶがい)」など、皆、眞珠、有り。伊勢・尾張より出だす眞珠、上品なり。番客、髙價(かうぢき)を以つて、之れを求め、藥に入るる。目を明(あきらか)にすること、此の珠の明功(めいこう)なり。本朝、珍珠の一つとす。

「山家集」

   あこや取る淡菜(いがい)の殻をつみ置きて

                       西行

      寶(たから)の跡を見するなりけり

 

[やぶちゃん注:これは言わずと知れた、

斧足綱ウグイスガイ目ウグイスガイ科アコヤガイ属ベニコチョウガイ亜種アコヤガイ Pinctada fucata martensii

である。詳しくは、私の『「大和本草卷之三」の「金玉土石」より「眞珠」』、或いは、サイトの「和漢三才圖會 卷第四十七 介貝部」の「あこやがひ」の項を見られたい。因みに、後者の「あこやがひ」の項には、先のタイラギの項で出た、「𧍧䗯」が標題漢字として、掲げられてある(同リンク先はユニコード以前の古い電子化であるので、「𧍧䗯」の漢字が表示されていない。検索は「あこやがひ」でお願いする)。なお、和名の「阿古屋貝」の阿古屋は現在の愛知県阿久比町(あぐいちょう:グーグル・マップ・データ)周辺の古い地名で、この辺りで採れた真珠を阿古屋珠(あこやだま)と呼んだことから、真珠を阿古屋と呼ぶようになったとも言うが、現行の行政町域は全く海に面していない。

「多識扁」林羅山道春が書いた辞書「多識編」。慶安二(一六四九)年の刊本があり、それが早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらにあったので、調べたところ、「卷四」(合冊の「2」)のこちらに(HTML単独画像。左丁最終行)、以下のようにあった。太字は底本では黒字白抜き字。

   *

真珠【加伊乃多末。】異名蠙珠【「禹貢」。】。

   *

なお、「蠙」の(つくり)は同じく「濵」の(つくり)であるが、同前でこれに代えた。

「禹貢」は「書経」の中の一編で、古代中国の政治書・地理書。著者や成立年代は未詳。伝説上の聖王禹が全国を九つの州に分け、各地の山脈・水系・地理・物産を調査し、貢賦の制度を定めた事跡を記したもの。

「開寶」北宋の九七三年に国士監から刊行された本草書「開宝新詳定本草」、或いは、その翌年に改訂された「開宝重定本草」か。

「南方志」不詳。但し、出典は判明している。李時珍の「本草綱目」の巻四十六「介之二」の「眞珠」(「漢籍リポジトリ」のこちら[108-9a]影印本画像を参照)の「釋名」で、実際には、ここの「異名」三種は実は全部、それぞれの出典を見たのではなく、そこからの孫引きである。頭の「釋名」を割注式にするという不審が、また解けた。ここで梅園は時珍が『珍珠【開寶】蚌珠【南山志】蠙珠【禹貢】』(「蠙」は同前)としているのを、わざと順序を変えている。前に言った彼の小賢しい偽装である。なお、この「南山志」は「漢籍リポジトリ」で文字列検索しても、六つの書物にしか載らないことが判った。恐らくは佚書で、現存しないものと思われる。

「珠牡【「をやがい」。】」「を」はママ。「牡(をす)」に真珠の「親(おや)」を掛け合わせたものか。但し、梅園は今まで見てきた通り、歴史的仮名遣の誤りが甚だ多いから、「親」を「をや」と訓じているのかも知れず、真珠の「親貝」はすこぶる腑に落ちる異名ではある。なお、アコヤガイは雌雄同体で牝牡の区別はない。「牡蠣」のマガキなどと同じ民俗的伝承があったものと思われる。

「銀母蠃」「蠃」はしかし、漢籍にして意外な用法で、相応しくない。これは漢語ではカタツムリや巻貝を示す語だからである。まあ、巻貝に見えない巻貝のアワビも真珠を作るから、細かいことは言うのはよそう。

「廣東新語」は明末清初明清末期の詩人で、「嶺南三大家」の一人である屈大均(一六三〇年~一六九五年)の生地広東の地方風俗誌的随筆。彼は強い反清思想を持っていた。五言律詩を得意とする典雅な詩風で、明の遺民として詩名が高かった。晩年を広東で送り、本書はその時期の代表作である。

「眞珠貝【肥前。】」真珠の名の発祥は肥前と言われて奇異に思う方もいようが、ウィキの「真珠」によれば、『日本は古くから真珠の産地として有名であった。北海道や岩手県にある縄文時代の遺跡からは、糸を通したとみられる穴が空いた淡水真珠が出土している』。「魏志倭人伝」にも『邪馬台国の台与が曹魏に白珠(真珠)』五千粒を『送ったことが記されて』おり、「古事記」・「日本書紀」・「万葉集」にも、『真珠の記述が見られ』、「万葉集」には『真珠を詠み込んだ歌が』五十六『首含まれる。当時は「たま」「まだま」「しらたま(白玉)」などと呼ばれた。とくに』(☞)『肥前国の大村湾は肥前国風土記にも記されているように、天然真珠などの一大産地であった。景行天皇は湾の北岸地域に住んでいた速来津姫・健津三間・箆簗らから、白玉・石上神木蓮子玉(いそのかみいたびだま)・美しき玉の』三『色の玉を奪い取った。天皇は「この国は豊富に玉が備わった国であるから具足玉国(そないだまのくに)と呼ぶように」と命じ、それが訛って彼杵(そのぎ)』(大村湾東北の沿岸の旧古名・旧郡名。この附近(グーグル・マップ・データ))『という地名になったともいわれる。それら』三『色の玉は石上神宮』(いそのかみじんぐう:奈良の知られたそれ)『の神宝となった』とあることで納得されるであろう。

「そで貝」底本では「ソテ貝」だが、恐らくはアコヤガイの形状からのミミクリーで「袖貝」で腑に落ちる。

「厚貝」読みを調べるてみると、漆工芸の螺鈿細工の世界で「あつがい」として生きている加工貝類材の用語にあった。「文化財遺産オンライン」の「螺鈿」、及び、京都の「鹿田喜造(よしぞう)漆店」公式サイト内の「ショッピング 厚貝(あつがい)」を見られたい。

『時珍曰はく、「龍の珠は領(うなじ)に在り、……」「本草綱目」の「眞珠」は巻四十六「介之二」にある。「漢籍リポジトリ」のこちら[108-9a]から始まるが、当該部は「集解」中の終りの部分にある。[108-10a]の影印本画像を見られたいが、実は梅園は大きな誤りをしでかしている。これは李時珍の言ではなく、陸佃の記載である。

   *

陸佃云、『蚌蛤無隂陽牝牡。須雀蛤化成。故能生珠、專一於隂精也。龍珠、在頷、蛇珠、在口、魚珠在眼、𩸥珠在皮、鼈珠在足、蛛珠在腹。皆不及蚌珠也。

   *

梅園はこの不詳の漢字「𩸥」を「鮫」としているが、国立国会図書館デジタルコレクションの本邦の寛文版の同ヶ所(左丁最終行下方)では、確かに「鮫」となっている。さて、この「陸佃」(りくでん)は「埤雅」(ひが)の作者として知られる北宋の官人にして王安石の門人であった博物学者であり、これも「埤雅」の一節で、「中國哲學書電子化計劃」の影印本を見ると、巻一の「鮫」にあった。そこでは「𩸥」は「鮫」となっているから、これはよいだろう。梅園の記載を電子化しながら、私は『鮫皮のあのブツブツの下に珠がある考えたとして腑に落ちるな』と思ったからである。但し、「皆不及蚌珠也」は「埤雅」にはなく、思うに、この部分だけは時珍の添えたものと私は判断する。そこだけは、梅園先生の謂いは正しいと言えるようだ。

「石决明(あわび)」目くるめく虹色の真珠光沢を殻の内側に持つアワビで真珠が出来ることは、古くから知られており、説話などにもよく出てくる。実物を見たことはないが、大阪ECO動物海洋専門学校の公式ブログ「大阪ECOブログ―エコびより―」の「アワビから真珠ができることを知っていますか?」でネットで蒐集したという画像があるので、是非、見られたい。そそるね! なお、中国では小さな仏像を生貝に押し込んで成形する仏像真珠があり、これは実際に何度も見たことがあるが、殆んどホラーの世界で醜く、私は大嫌いである。私の「想山著聞奇集 卷の五 鮑貝に觀世音菩薩現し居給ふ事」を見られたい。日中ともに、専ら、売僧(まいす)が高値(こうじき)で奇蹟として売り歩いたトンデモものである。

「淺利貝」私は若い頃、白い小指の頭ほどの珠を実際に食している最中に発見したことがある。現在も貧しい標本箱の中にあるはずである。

「蜆」同前。しかし、齧ってしまい、砂かと思って、吐き出したところが、球体の二片となりにけりであった。

「蚌(どぶがい)」これは超有名で、所謂、淡水産の大型の「ドブガイ」類(複数種で説明するのは面倒なので、私の「大和本草諸品圖下 アマリ貝・蚌(ドフカヒ)・カタカイ・鱟魚(ウンキウ) (アリソガイ或いはウチムラサキ・イケチョウガイ或いはカラスガイとメンカラスガイとヌマガイとタガイ・ベッコウガサとマツバガイとヨメガカサ・カブトガニ)」の「蚌(ドフカヒ)」の私の注を参照されたい)では、真珠ができることが、やはりよく知られていた。特にイシガイ科イケチョウガイ属イケチョウガイ Hyriopsis schlegelii では、アコヤガイの形成する真珠に匹敵する美しい真珠が採れるため、近年はそれを用いた真珠製造が行われている。私は嘗つて叔母にその鈍色の光りを放つブローチを買ってプレゼントしたことがあるが、何でもベトナムかタイ辺りで作っているらしい。告白すると、私は宝石に興味が全くないが、真珠だけは大好きだ。小学校六年生の時、疵物であったが、亡き母の誕生日にプレゼントした。藤沢のアクセサリー店に行って、これこれの目的で、「千円しかありません」と言ったら三人の女性店員が感激して、恐らく、遙かに高いブローチを千円で売ってくれたのを思い出す。

「伊勢」古くから知られ、現在ではこちらが専ら真珠の本家となったことはご存知の通り。私の『「日本山海名産図会」電子化注始動 / 第三巻 目録・伊勢鰒』も参考になろう。西行の同じ歌も引かれてある。

「目を明(あきらか)にすること、此の珠の明功(めいこう)なり」「石决(決)明」(せきけつめい/けつめいし)は真珠というより、貝粉で、中でもアワビやトコブシミなどのミガイ科 Haliotidaeの殻を粉末にしたものが、この名で漢方として使用された(カルシウム分が多いため、樟脳と合わせて、結膜炎などの眼病薬や強壮・強精剤としてもて囃された)のが元となったアワビの中国で古くからある異名である。

「あこや取る淡菜(いがい)の殻をつみ置きて寶(たから)の跡を見するなりけり」     西行の「山家集」の下巻にある(一三八七番)、

   伊良胡(いらこ)へ渡りたりけるに、

   「いがひ」と申(まをす)蛤(はまぐり)

   に、「阿古屋」のむねと侍るなり。それを

   取りたる殼を、高く積みおきたりけるを

   見て

阿古屋とるいかひの殼を積みおきて

      寶の跡を見するなりけり

   *

「伊良胡」志摩の答志と対する伊良湖岬。「いがひ」「胎貝」で斧足綱翼形亜綱イガイ目イガイ科イガイ Mytilus coruscus であるが、ハマグリとは別種であるが、音数律から二枚貝のそれに代えたものであろう。「阿古屋」ここでは「阿古屋の珠」の略で、真珠を指す。「むねと」「主(むね)として」。「真珠の主人(あるじ)として」の意か。]

2022/08/13

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 鳥貝  / トリガイ

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。なお、この見開きの左丁の「(ワレカラ)」は、当初にランダムに好きなものを電子化した際に、既に『毛利梅園「梅園介譜」 小螺螄(貝のワレカラ)』として電子化注を終えている。]

 

Torigai

 

鳥貝(とりがい)【「さるがしら」。】

 茶碗貝

   丹後宮津

 

其形、魁蛤(あかゞい)に似たり。彩色(さいしよく)、「本草」に曰ふが如し。其の身は鳥の觜(くちばし)に似たり。『化(け)して、「かいつぶり」となる。』と云ひ、或いは曰はく、『犬猫、之れを食へば、耳の、縮(ちぢ)まりて小になる。』と云ひ、『此の貝、鳰【かいつぶり】と化す。故に鳥貝と云ふ。』と。其の殻を紙を以つて張り、中に「砂からくり」をなし、小兒の玩(もてあそび)とす。又、漆(うるし)を商ふ者、此の貝に漆を入れ、人に、あとふ。

 

乙未(きのえひつじ)三月上巳(じやうみ)の日、時に、二種を眞寫す。

 

[やぶちゃん注:殻は勿論、生貝の足の部分も描き込んで(もっと黒みがかった感じだと思うが、殻部分の辺縁の黝ずみ感(リアルだが、ちょっと汚く見える)を和らげるために足の彩色を相対的に黒を薄くして、帯びるところの紫で抑えたことで、柔軟な感じが出、また、本種の貝殻の持つ均整のとれた対称性を強調するとともに、全体にグロテスクにならぬように配慮もされているように感じる)、よく描けている。

斧足綱マルスダレガイ目ザルガイ科トリガイFulvia mutica

である。

「さるがしら」この異名は生き残っていないようである。紅潮した「猿」の「頭」(顔)で腑に落ちるのだが、武蔵石寿の「目八譜」を縦覧してみたところ、全く別の複数の種(私が確認出来ただけでトリガイではなく、それぞれも異なる二種)に「猿頭」の名を与えていた、

「茶碗貝」「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページに異名としてある。殻は内側が紫紅色を帯び、大型のものは茶碗と呼びたくなる気持ちは判る。

「丹後宮津」「天橋立」で知られる現在の京都府宮津(グーグル・マップ・データ)。古くより鳥貝の名産地として知られる。

「魁蛤(あかゞい)」翼形亜綱フネガイ目フネガイ上科フネガイ科アカガイ Anadara broughtonii 。先行する『毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 𩲗蛤(アカヽイ) / アカガイ』を参照。

「本草」「大和本草卷之十四 水蟲 介類 鳥貝」である。どうも、かくも梅園の書き方をこうして覚えてくると、真っ先に私は、この『彩色(さいしよく)、「本草」に曰ふが如し』という、どこか仰々しい言い回し(この「彩色」へのルビは梅園が直に振っているのである)に、何時もの不審を抱いたのであるが……案の定だ! 以下、「此の貝、鳰【かいつぶり】と化す。故に鳥貝と云ふ」というトンデモ化生(けしょう)説に至るまで、「大和本草」のそちらの記載の順序をちょっと変えただけの、梅園お得意のほぼマンマの孫引きなのである。一気に注をする気が失せた。というより、「大和本草」の方で私は強力に注してあるので、そちらを読まれれば、こと足りるのである。いや――彼の剽窃には、ある種の後ろめたさがそこはかとなく漂っている。順序を入れ替えるのは、その罪悪感を軽減し、自身の言葉のように錯覚させる効果がある。最後で徐ろに二件の民俗記載を何んとなく添えているのも、そうした意識の一つと言える。

『其の殻を紙を以つて張り、中に「砂からくり」をなし、小兒の玩(もてあそび)とす』何となく判る。今度、鳥貝の殻に和紙を張って作ってみたい。

「あとふ」「與(あた)ふ」の音変化のママ表記。

「乙未三月上巳日」天保六年三月十日己巳(つちのとみ)で、グレゴリオ暦一八三五年四月七日。

「二種」本図と前の「カラスノマクラ」を指す。]

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 カラスノマクラ  / カラスノマクラ(=ハンレイヒバリガイ=ハンレイヒバリ)

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。なお、この見開きの左丁の「(ワレカラ)」は、当初にランダムに好きなものを電子化した際に、既に『毛利梅園「梅園介譜」 小螺螄(貝のワレカラ)』として電子化注を終えている。写生のクレジットは最下方にあるので、次の「鳥貝(トリガイ)」で電子化する。]

 

からすのまくら

 

Karasunomakura

 

[やぶちゃん注:保育社の波部図鑑(昭和三六(一九六一)年初版)では「ハンレイヒバリガイ」の名で載る。しかし、

ネット上の、ある貝類サイトでは、この「ハンレイヒバリガイ」或いは「ハンレイヒバリ」を異名となり、現在の標準和名を「カラスノマクラ」する

といった記載がある。ところが、

サイト「日本のレッドデータ」(NPO法人「野生生物調査協会」と同法人「Envision環境保全事務所」作成)の同種のページでは、標題和名を「ハンレイヒバリガイ」

とする。一方、

「福岡県の希少野生生物 福岡県レッドデータブック」(福岡県自然環境課作成)では、標題和名は「ハンレイヒバリ」で、しかも「種の概要」の項には、

『別名カラスノマクラ』

としつつ、

『柳川方言の「からすのまくら」はコケガラス』(イガイ科ヒバリガイ属コケガラス:「苔鴉」か)『と思われるが』、『淡水のイシガイ類なども含め』、『「黒くて長い貝」に広く使われたようである』

と、「カラスノマクラ」は御当地の方言由来の異名と断じている。而して、私がいつもお世話になる最も信頼している、

「BISMaL(Biological Information System for Marine Life:国立研究開発法人「海洋研究開発機構(JAMSTEC)」によって構築され、その沖縄での拠点「国際海洋環境情報センター(GODAC)」が運用)では「カラスノマクラ/ハンレイヒバリ」と並置

してある。私は形状からであろう雲雀の風雅もいいが、成貝の見た目の生態印象から、名にし負うたものとして「カラスノマクラ」で記すこととする。

斧足綱翼形亜綱イガイ目イガイ超科イガイ科カラスノマクラ Modiolus hanleyi

に比定する。……しかし、正直、公的なレッド・データ資料で名前がバラバラなのは、かなり「危険がアブない」ことと私などは思うがねぇ。……

 なお、本種は殻表面の上皮を研磨清拭すると、かなり美しい色を呈するようである。言うこともないから、学名のグーグル画像検索をリンクして終わりとする。]

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類  𧍧䗯(カンシン)・タイラキ / タイラギ

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。]

 

𧍧䗯(カンシン)【「たいらぎ」。「水土記」。】 𧍧蛤(カンガフ) 生䗯(セイシン)【「嘉祐(かいう)」。】

  𧌊【「たいらぎ」。】 和名、出所不詳。

 

「江瑤玉珧(カウエウギヨクタウ)」を以つて、「たいらぎ」と訓ず。「玉珧」は「海月(かいげつ)」なり。「海鏡」を以つて爲(して)、「たいらぎ」とす。此の者、則ち、「日月貝(じつげつがひ)」なり。皆、別種なり。一種、別に「いたら貝」と云ふ者、之れ、有り。肉の柱(はしら)、同じくして、異(い)なり。

 

甲午十二月十三日、納眞寫(をさめしんしや)として筆(ひつ)す。

 

Tairagi

 

「宛委餘編(ゑんいよへん)」

   江瑤柱(カウエウチユウ)【「たいらぎ」。】

本邦、「瑊璡」或いは「𧌊(シヤ/セ)」を以つて「たいらぎ」とすは、誤りなるべし。「大和本草」に『たいらぎ、四つの肉柱、なし。』と。是れ、審らかに察せざるなり。『大肉柱(おほにくばしら)一つ、餘(よ)の三柱は、至つて小なり。』と松岡翁「介品」に載せたり。園曰はく、「タイラギ、大肉柱一つ、其の廻(まは)りは、鰒魚(あわび)の、膓筋(わたすぢ)を纏へるが如し。其の膓、兒(こ)を生ずるとき、色、赤し。

 

[やぶちゃん注:底本本文は総てに亙って「たいらぎ」の箇所は「タイラキ」の表記であるが、濁音化した。因みに、タイラギについては、私は、かなり多くの記載を今までしてきている。ここでは、一つ、面白い『武蔵石寿「目八譜」 タイラギ磯尻粘着ノモノ』をリンクさせておく。

 「たいらぎ」という和名については、無批判に「平」(たいら)な「貝」を語原と記す記事が多く、流通でも寿司屋でもその捌いてしまった貝柱のみを「平貝(たいらがい)」と呼ぶが、所持する相模貝類同好会一九九七年五月刊の岡本正豊・奥谷喬司著「貝の和名」(相模貝類同好会創立三十周年記念・会報『みたまき』特別号)の「タイラギ」によれば(コンマは読点に代えた)、『直角三角形に近い形の30㎝以上にもなる大型の食用貝。泥深い海底に尖った方を下にして立って生息しているので、漁師はタチガイといい、また貝柱は市場ではタイラガイ(平貝)と呼ばれている。このタイラガイこそ本来あるべきこの種の和名ではないかと思われる。「平ら」という理由は今一つはっきりしないが、この種の地方名にはターラゲー、タイラギャー、タイラゲェ、テェラゲェなどタイラガイの訛りが多い。従ってタイラギガイと言ってはギとガイの重複表現になる』とある。

 さて。これは言うまでもなく、

斧足綱翼形亜綱イガイ目ハボウキガイ科クロタイラギ属タイラギ

であるが、同種については、長く

タイラギ Atrina pectinata Linnaeus, 1758

を原種とし、本邦に棲息する

殻表面に細かい鱗片状突起のある有鱗型

と、

鱗片状突起がなく殻表面の平滑な無鱗型

を、

生息環境の違いによる単なる形態の個体変異

としたり、二種ともに、

Atrina pectinata の亜種

として扱ったりしてきたのであるが、一九九六年、アイソザイム分析の結果、

有鱗型と無鱗型は全くの別種である

ことが明らかとなった(現在、前者は一応、 Atrina lischkeana Clessin,1891に同定されているが、確定的ではない)。加えて、これら二種間の雑種も自然界には一〇%以上は存在することも明らかとなっている(以上は、所持する図鑑類やウィキの「タイラギ」その他を参照した)ため、日本産タイラギ数種(中国産では、現在、四つの型が存在することが判っている)の学名は早急な修正が迫られている。

「𧍧䗯(カンシン)」ネット最強の漢和辞典「漢字林」の「虫部」の「𧍧」には、『ハマグリ(蛤)やシオフキガイ(潮吹貝)などに似た二枚貝で平(ひら)たく毛があるという、「【康熙字典:申集中:虫部:𧍧】《𨻰藏器曰》生東海似蛤而扁有毛或作螊」』とある(「䗯」も同じことが記されてある)。これでは、タイラギには、到底、限定出来ぬ。例えば、寺島良安の「和漢三才圖會 卷第四十七 介貝部」の「あこやがひ」の項には、この「𧍧䗯」が標題漢字として堂々と掲げられちゃっているんである(同リンク先はユニコード以前の古い電子化であるので、「𧍧䗯」の漢字が表示されていない。検索は「あこやがひ」でお願いする)。

「水土記」早稲田大学図書館「古典総合データベース」の元末明初の学者陶宗儀の纂になる佚文集成「説郛」の巻第六十二に載る宋の趙朴撰の「臨海水土記」を見たが、載らず、検索でもそれらしいものがない。一つ、「中國哲學書電子化計劃」で、明の方以智撰の語学書「通雅」の中に(影印本で起こした)、

   *

「海物異名記」、密丁魁蛤之子也。「興化志」、有空豸朗晃形厚脣黑智、在閩中、見有圓蛤號曰銅丁者、正是。其類、今俗呼異名耳蝏䗒馬刀、細長蛤也。𧍧䗯、扁蛤也。陳藏器曰、扁而多毛如淡菜類、擔羅新羅之蛤也。

   *

という記載を見つけた(句読点は私があてずっぽで附した)。或いは、この記載を梅園は目にし、「海物異名記」を「臨海水土記」と誤ったのではないかとも思った。しかし、この陳蔵器の「多毛如淡菜類」というのは、タイラギではなく、イガイ類にこそふさわしい解説に見える。

「嘉祐」「嘉祐本草」。北宋の嘉祐二(一五七)年に「開宝重定本草」に基づいて、編纂された本草書。

「𧌊」漢語。確かに本字を本邦では「たいらぎ」と訓じているが、中国でこれをタイラギに当てているかどうかは、「康熙字典」の「虫部」第八に『𧌊。「集韻」、『四夜切、音䣃。與蝑同。「類篇」、蟹醢。或作蛤𧌋』とあって、タイラギかどうかは甚だ怪しい。

『「江瑤玉珧」を以つて、「たいらぎ」と訓ず』「江」を「海の静かな入り江」でとり、「瑤」は「玉」とともに「美しい宝石」であり、「玉珧」或いは「珧」で、辞書類がタイラギと訓じ、「刀や弓の装飾に用いる貝の殻」とする。なお、現代中国語では、大陸では「櫛江珧」、台湾では「牛角江珧蛤」と呼ぶ。

「海月(かいげつ)」本邦の辞書類にタイラギの別名とする。タイラギの殻の内面には、微かな真珠光沢がある。「海鏡」もそれを指すと思われる。貝殻の面が黒く、それを「月」に、内側のそれを「日」とするものか。

『此の者、則ち、「日月貝(じつげつがひ)」なり。皆、別種なり』これはやや、意味が読み取り難いが、『「日月貝」或いは「月日貝(つきひがい)」に類した呼称の貝の名が複数の貝種の名として与えられているが、これらは、皆、全く、異なった別種にその名を勝手に与えているのである』という謂いと私はとる。例えば、非常に美しい、左殻は赤褐色、右殻は黄色みを帯びた白というハイブリッドで「日」と「月」を持つところの、斧足綱翼形亜綱カキ目イタヤガイ亜目イタヤガイ科ツキヒガイ亜科ツキヒガイ属ツキヒガイ Ylistrum japonicum がそれである。ご存知ない方は「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページの画像を見られたい。なお、そこで、ぼうずコンニャク氏は、『個人的には、左殻と右殻の外面でついた呼び名だというが、内側を重ねて』、『月の月齢を表して遊んだのではないかと思う事がある』とされ、そうした写真も載せておられる。私ははなはだ感動したし、その語原説を指示したいと強く感じた

『一種、別に「いたら貝」と云ふ者、之れ、有り。肉の柱(はしら)、同じくして、異(い)なり』当初は、さんざん梅園が描いてきた、

斧足綱翼形亜綱イタヤガイ目イタヤガイ上科イタヤガイ科イタヤガイ属イタヤガイ Pecten albicans

の訛りだろうとのみ思っていたが、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」で「イタラガイ」で検索すると、他に、現行異名として、ここの、

イタヤガイ科カミオニシキ亜科エゾギンチャク属エゾギンチャク Swiftopecten swiftii

及び、ここの、

カミオニシキ亜科カミオニシキ属カミオニシキ

の異名として挙がっていた。

「甲午十二月十三日」天保五年。グレゴリオ暦では一八三五年一月十一日。

「納眞寫(をさめしんしや)」その年の最後の写生という意味で、似たような言い方は前で複数出現している。但し、この三字の語では初めてで、「をさめの」と呼んだ方がいいかも知れない。それにしても、この年は、年末に何か仕事があったものか(梅園は幕臣旗本で書院番・御小姓組を勤めた)、やけに早い(この年の当月は大の月(三十日まで)だから、大晦日まで十七日もある。

「宛委餘編」明の官僚王世貞の撰になる論考。

『本邦、「瑊璡」或いは「𧌊」を以つて「たいらぎ」とす。誤りなるべし』以上の検証から私もそう思う。

『「大和本草」に『たいらぎ、四肉柱、なし。』と。是れ、審らかに察せざるなり』私の「大和本草附錄巻之二 介類 玉珧 (タイラギ或いはカガミガイ)」にある、『タイラギハ只肉牙一柱耳』を勝手に書き変えたんだな、と思ったら、これ、実は梅園、「大和本草」に直に当たったのではなく、以下の『松岡翁「介品」』にある松岡の考証部をそのまま抜き書きしていることが判明。ちょっとどころか、大いに鼻白んだ。なお、リンク先の最後で注したが、そもそもが二枚貝には四つも貝柱のある種は、無論、ない。要は、貝を片方の殻に添ってすっぱり開いた結果の見た目として、四つと言っている初歩的な非科学的な誤認である。タイラギには勿論、二基の「貝柱」=閉殻筋がちゃんとあるのである。ただ、前閉殻筋の方は殻頂近くにあって、ごく小さいのに対し、後閉殻筋は殻の中央部にデン! とあり、大型個体では直径五センチメートル以上に達する。片殻の内側に包丁を綺麗に入れて削ぎ切れば、閉殻筋は殆んど跡を残すこともなく、一本に見えるというわけである。さすれば、以下の『松岡翁「介品」』の謂いも、納得されるものと存ずる。

『松岡翁「介品」』梅園よりも前代の儒学者で本草学者の松岡恕庵(じょあん 寛文八(一六六八)年~延享三(一七四六)年:京生まれ。恕庵は通称で、名は玄達、号は怡顔斎(いがんさい)など。門弟に、かの小野蘭山がいる)が動植物・鉱物を九種の品目(桜品・梅品・蘭品・竹品・菓品・菜品・菌品・介品・石品)に分けて叙述した本草書「怡顔斎何品」の一つ。彼の遺稿を子息と門人が編集したもの。早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらの上巻の一括PDF版の「25」コマ目から。当該部は「26」コマ目の六行目以下。梅園の剽窃、またしても、見破れたり!

「其の膓、兒(こ)を生ずるとき、色、赤し」これは♀の場合である。因みに、内臓は新鮮なものを蒸し焼きにすると、実は非常に美味いことを知っている人は少ない。]

2022/08/12

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類  鶉貝(ウヅラガイ) / ウズラガイ

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングし、一部をマスキングした。これと前の「蓼螺」についての附記があるので、両方にそれを残した。電子化は前の「蓼螺」でのみ行ったので、そちらを見られたい。]

 

鶉貝(うづらがい)

 

Uzuragai_20220812171301

 

[やぶちゃん注:前にはさんざん停滞させられたが、今度は、すんなり、あっさり、正真正銘の完品の、

石畳状の美しいウズラガイ(前鰓亜綱盤足目ヤツシロガイ超科ヤツシロガイ科ウズラガイ属ウズラガイ Tonna perdix

である。]

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類  蓼螺・小辛螺・辢螺・ニガニシ・カラニシ・長ニシ・ニシ・ヘタナリ・ツベタ・巻ニシ・夜ナキボラ/ ナガニシ

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングし、一部をマスキングした。これと次の「鶉貝(ウヅラガイ)」についての附記があるので、両方にそれを残した。電子化はこちらでのみする。]

 

蓼螺(れうら)【「綱目」。】 辢螺(らつら)【「寧波府志」。】

小辛螺(にし)【「和名抄」。「にがにし」・「からにし」・「長にし」・「にし」。】

 「へなたり」

 「つべた」

 「巻にし」【備後。】

 「夜なきぼら」

 

Henatari

 

按ずるに、「つべた」は「酥螺(そら)」にして、狀(かたち)、蝸牛(かたつむり)に似て、此の者に非(あら)ず。

 

二種、倉橋氏、藏。

乙未(きのとひつじ)八月廿四日、乞ひ借りて、眞寫す。

 

[やぶちゃん注:異名を十一も挙げているが、挙げておいて、否定するのは、どうかと思うね。どこの地方名かも示していないし。江戸かね? 閑話休題。これは、もう、『毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 長螺 / ナガニシ或いはコナガニシ』の時のような虞れを抱くことなく、縦肋がしっかり肩で角張っていて、前管もにょっぽり出てるから、すっきりと、

腹足綱新腹足目エゾバイ上科イトマキボラ科ナガニシ亜科ナガニシ属ナガニシ Fusinus perplexus

としてよいだろう。

「蓼螺【「綱目」。】(現代仮名遣「りょうら」)は本邦の近世の絶対的博物書のチャンピオン、明の李時珍の「本草綱目」の巻四十六の「介之二」の「蓼蠃」の項(以下に見る通り、「螺」と「蠃」は同義字)。「漢籍リポジトリ」のこちらの、[108-33b]の影印本画像で見られたい。

   *

蓼蠃(れうら)【「拾遺」。】

集解【藏器曰はく、『蓼螺は永嘉(えいか)の海中に生ず。味、辛辣にして蓼(たで)のごとし。』と。時珍曰はく、『按ずるに、「韻㑹(いんくわい)」云はく、『蓼螺は紫色にして斑文(はんもん)有り。今、寧波より泥螺(でいら)を出だす。狀(かたち)、蠶豆(そらまめ)のごとし。海錯(かいさく)に代(か)へ充(あ)つべし。』と。』と。】

肉 氣味 辛・平にして、毒、無し。

主治 飛尸(ひし)・遊蠱(いうこ)。生(なま)にて之れを食ふとき、浸すに、薑醋(しやうがず)を以つてして、彌(いよいよ)佳なり【藏器。】。

   *

「永嘉」は浙江省温州市永嘉県(グーグル・マップ・データ)。「海錯」本来は「夥しい海産物」を指すが、ここは代表的海産(食)物の一つの意であろう。「飛尸」前触れなしの気絶・卒倒の症状を指す。「遊蠱」疾患名であるが、不詳。さても、ここでそろそろ提示した方がいいのが、「大和本草卷之十四 水蟲 介類 蓼蠃」である。そちらの注で述べた通り、この「蓼蠃」=「辛螺」=「にし」というのは、外套腔から浸出する粘液が辛味(苦味)を持っている腹足類のニシ類を指す語であるが、辛味を持たない種にも宛てられている科を越えた広汎通称で、

直腹足亜綱 Apogastropoda 下綱新生腹足上目吸腔目高腹足亜目新腹足下目アッキガイ上科アッキガイ科アカニシ(赤辛螺)Rapana venosa

吸腔目テングニシ科テングニシ(天狗辛螺)Hemifusus tuba

等を含むが、特に

腹足目イトマキボラ科 Fusinus 属ナガニシ(長辛螺)Fusinus perplexus

及び、実際に強い苦辛味を持つ

腹足綱直腹足亜綱新生腹足上目吸腔目高腹足亜目新腹足下目アッキガイ上科アッキガイ科レイシガイ亜科レイシガイ属イボニシ(疣辛螺)Thais clavigera

を指すことが割合に多いように思われる、と述べたからである。

「辢螺」複数の「肉が辛い巻貝」を示す総称語である。

「寧波府志」明の張時徹らの撰になる浙江省寧波府の地誌。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の原本画像のPDFで当該巻を含む三巻分一冊の「卷之十二 物產」の「鱗之屬」の冒頭から58コマ目の左丁三行目に「辣螺」とある。字が違うが、意味は同じでる。

「小辛螺」「和名抄」源順(みなもとのしたごう)の「和名類聚抄」の巻第一九の「鱗介部第三十」「龜貝類第二百三十八」の「小辛螺(にし)」(「にし」は三字に対する読みとして振られてある)。国立国会図書館デジタルコレクションの寛文七(一六六七)年板本の当該部で訓読する。

   *

小辛螺(にし) 七巻「食經」に云はく、『小辛螺【和名「仁之」。】、「楊氏漢語抄」に云はく、『蓼螺子』と。』と。

   *

「にがにし」「苦螺」。実際、「辛み」に加えて「苦み」を感じるものも、ナガニシ及びその近縁種には、かなりある。その味の印象が強いために、辛くも苦くもない種も含めた広義のニシ類に対しても「辛螺」を当てて総称した歴史がある。但し、最近は貝を表わすのに漢字をめっきり見なくなったため、「辛螺」を「ニシ」と読める若者は激減したように思われる。

「へたなり」前回の「長螺」でも注したが、古え、数種の香料を練り合わせて作る練り香の素材の一つとして、一部の巻貝の蓋(蒂(へた))が好んで用いられ、それを一般名詞で「甲香(へなたり)」と呼んだが、ニシ類は特に好まれた。「大和本草卷之十四 水蟲 介類 甲貝(テングニシ)」の私の注を参照されたい。

「つべた」『按ずるに、「つべた」は「酥螺(そら)」にして、狀(かたち)、蝸牛(かたつむり)に似て、此の者に非(あら)ず』「つべた」は、腹足綱直腹足亜綱新生腹足上目吸腔目高腹足亜目タマキビガイ下目タマガイ上科タマガイ科ツメタガイ属ツメタガイ Glossaulax didyma 及び、その近縁種を指す。私の『武蔵石寿「目八譜」 ツメタガイ類』を参照されたい。「酥螺」の「酥」は「バター」の意の他に、「食べ物などがぼろぼろに砕けやすい、さくさくとして柔らかい、口に入れるとすぐとける」という意があるが、ここは殻の色からバターの意味か。ツメタガイは熱を加えると、身は固く締まって、柔らかくない。私は小学二年生の夏の終わり、台風一過の由比ガ浜でバケツ二杯分の多量の貝を拾ったが、材木座に実家で、それを茹でて一族内揃って大食した。個人的には歯応えのある食べ物が好きな私は、ツメタガイを最も美味く感じ、あらかたを私一人で食べ尽くした。茹で身で、有に丼二杯はあったと思う。翌日、腹を壊した。それ以来、二十八年間、食べていない。そろそろ食べようかと思っている。

「巻にし」「備後」小野蘭山述の「重訂本草綱目啓蒙」の「巻之四十二」の「蓼螺」の項に(国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像の当該部で起こし、訓読した)、

   *

蓼螺 にし・ながにし・にがにし・からにし・まきにし【備後。】・よなき【「大和本草」。】・かうかひ【筑前肥前。】・うみとり【「本朝食鑑」。】・「よなき螺」【同上。】・うしがひ【防州。】。一名、「辣螺」【「蟹譜」・「寧波府志」。】。

海中に生ず。形、玉-螺(ばい)より大にして、その流(れう)[やぶちゃん注:殻高を言うか。]、更に長し。外(ほか)に、短き黑褐の毛、あり。肉は紅螺に似て、味、美なり。腸(わた)は至つて辛辣、厴(へた)は玉螺の厴の如し。藥舖(やくほ/くすりみせ)に、采(と)りて、甲香(かふかう)とす。その爛殼の毛、已に脫落し、淺黃紅色となる。此の物を「よなき介(がひ)」と云ふは、俗、稱して、『小兒の夜啼き、止まざれば、一箇を採り、兒(こ)の枕邊(まくらべ)に置き、誓ひて曰はく、「兒の夜啼き、治(をさ)まざれば、則ち、殻を破り、肉を抜拔き、野に棄つ。若(も)し、之れ、治まれば、則ち、江海に放つ、」と。是に於いて、夜啼き、必ず止む。』と。一種、形、小さく、流、短く、色、白くして、粗(あらあら)黑く、疣(いぼ)、相ひ連なる者を、「いわにし」と云ふ。一名、「いはかた」【防州。】、「ほうほうにし」【備前。】、「ほうじにし」【同上。】、「からにし」【土州。】、此の外、品類、多し。

   *

とある。「夜なきぼら」は以上で注の必要がなくなった。なお、所持する江戸前中期の医師で本草学者であった人見必大(ひとみひつだい 寛永一九(一六四二)年頃?~元禄一四(一七〇一)年:本姓は小野、名は正竹。父は四代将軍徳川家綱の幼少期の侍医を務めた人見元徳(玄徳)、兄友元も著名な儒学者であった)が元禄一〇(一六九七)年に刊行した本邦最初の本格的食物本草書「本朝食鑑」の「蓼螺」にも、「マキニシ【備後。】」とあったので、非常に古くからの呼称として知られていたことが判った。

「倉橋氏」既出既注であるが、再掲すると、本カテゴリで最初に電子化した『カテゴリ 毛利梅園「梅園介譜」 始動 / 鸚鵡螺』に出る、梅園にオウムガイの殻を見せて呉れた「倉橋尚勝」であるが、彼は梅園の同僚で幕臣(百俵・御書院番)である(国立国会図書館デジタルコレクションの磯野直秀先生の論文「『梅園図譜』とその周辺」PDF)を見られたい。

「乙未八月廿四日」天保六年で、グレゴリ曆一八三五年十月十五日。]

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 荷苞貝(キンチヤクカイ)二種 / キンチャクガイとウチムラサキ

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングし、一部をマスキングした。]

 

荷苞貝

きんちやくがい

 

Kintyakugai

 

二種。

甲午(きのえうま)十月朔日(ついたち)、芝蝦(しばえび)の中に交じれるを得、眞寫す。

 

[やぶちゃん注:上方の個体は確かに、

斧足綱翼形亜綱ウグイスガイ目イタヤガイ超科イタヤガイ科キンチャクガイ属キンチャクガイ Decatopecten striatus

としてよいだろう。小学館「日本大百科全書」の奥谷喬司先生の記載によれば、『太平洋側は房総半島、日本海側では能登』『半島以南から九州まで、また朝鮮半島、中国沿岸にも分布し、潮間帯下から水深50メートルぐらいの砂底にすむ。殻高45ミリメートル、殻長50ミリメートル、殻幅20ミリメートルぐらい。殻は厚手で堅固、殻表には太くて低い5本の放射肋』『があり、形が巾着に似ている。太い放射肋の上には微細な放射肋もあり、また通常は、成長の滞ったところで段がついている。殻表は白から赤褐色、さらには濃紫黒色のものまであり、大きなまだら模様になっているのが普通である』とある。

 しかし、下方の個体はあらゆる点で、キンチャクガイではない。これは、前背縁が、急激に鋭角で下がっているのがやや気になるが、殻表面の激しく粗い成長輪脈とその色彩から、所謂、通称「大浅利」(おおあさり)で知られる、

斧足綱異歯亜綱マルスダレガイ目マルスダレガイ科 Saxidomus 属ウチムラサキ Saxidomus purpurata

ではないかと判じた。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページ、及び、サイト「旬の食材百科」の同種のページの画像、特にこれを見られると、私がそう同定したくなる気持ちが判って頂けるものと思う。こっちは前者が女性用の可愛い「巾着」に似ているのに比して、寧ろ、守銭奴の持つ金口(かねぐち)パッチンの無粋な「蝦蟇口」(がまぐち)って感じだが。

「荷苞貝」ちょっと中国語っぽい。「荷苞」は、中国や朝鮮半島に自生する、個性的なハートに雫をつけたような形の花で知られる「華鬘草」、キンポウゲ目ケシ科ケマンソウ亜科ケマンソウ属ケマンソウ Lamprocapnos spectabilis の花に擬えたものではあるまいか。現代中国語では「荷包牡丹」「荷包花」と書くからである。

「甲午十月朔日」天保五年十月一日は、グレゴリオ暦一八三四年十月一日。

「芝蝦」現行の標準和名では、内湾の泥底に好んで棲息するクルマエビ科ヨシエビ属シバエビ Metapenaeus joyneri である。この和名は、嘗つて、江戸の芝浦で多く漁獲されたことに由来する。]

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 曲貝・マガリ・沙蠶・ジイカセナカ / 固着性ゴカイの虫体

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングし、一部をマスキングした。]

 

Magari

 

「百介圖」

    曲貝【「マガリ」。】

「福州府志」

    沙蠶

     「じいがせなか」

          佐渡。

 

          同年十月二日、眞寫。

 

「大和本草」曰はく、『其の貝、蠣に類す。』と。予、自(みづか)ら、之れを、石决明(あわび)の貝の裏より、得る。則ち、之れを取り、同年九月廿六日、眞寫す。石决明の貝にも、多くは付かず、まれに、之れ、有る。貝の内の肉は、「ごかい」の虫に似て、足、多し。色も相(あひ)同じ。

 

[やぶちゃん注:この解説には、多くの問題(錯誤・誤認)があり、まず、それらを除去しないと、話が進まない。まず、「百介圖」(複数回既出既注。こちらを参照されたい。現物はネット上には見当たらない)を出典とする「曲貝」及び「マガリ」と異名する対象物であるが、これは、解説でそれを受けた形で、貝原益軒の「大和本草」を挙げていることから、これは「大和本草」の「マガリ」と同一物であると梅園が判断していることが判る。而して、それは「大和本草諸品圖下 子安貝・海扇・マガリ・紅蛤 (ヤツシロガイ或いはウズラガイ・イタヤガイ・オオヘビガイ・ベニガイ)」(私の電子化注)であることが判然とする。その図の左丁の上段の「マガリ」である。そこで益軒は(原文を私が訓読したもののみを示す)、

   *

まがり 蠣(かき〕の類。海邊の岩に付きて生ず。其の殻、屈曲す。肉、其の中に在り。味、頗る好し。其の漢名、未だ知らず。

   *

とあり、私はそれを、図と解説文から、

   *

「マガリ」は、「蠣(かき)の類」とするが、誤りで(不定形で、そう捉えた気持ちは判る)、この「マガリ」という名と図と「屈曲す」とあることから、

腹足綱直腹足亜綱新生腹足上目吸腔目ムカデガイ科オオヘビガイ属オオヘビガイ Serpulorbis imbricatus

である。(以下略)

   *

と同定した。これは誰もが納得戴けるはずである。因みに、「マガリ」は同種の古名で、現在でも異名として通用している。そして、無論、ここで梅園が図示したものが、オオヘビガイなんぞではないことも明らかであろう。まず、オオヘビガイは、日和見的に大型化した貝類の殻に附着することはあるかも知れぬが、図鑑類では、潮間帯の岩礁に附着して棲息する。因みに形状が同じくクネクネした全くの別種である、吸腔目カニモリガイ上科ミミズガイ Tenagodus cumingii を想起される方がいるかも知れぬが、同種は棲息場所が特異的限定的で、干潮線下のカイメン類の中に埋もれて群生するから、お話にならないのである(尤も、本種もカキの殻に付いたカイメン中に棲息するケースはある。実際に見つけたこともある)。というより、オオヘビガイもミミズガイもその軟体部はこんな色をしていないし、梅園の『貝の内の肉は、「ごかい」の虫に似て、足、多し』という観察とは全く一致しないから、二種ともに――「退場」――となるのである。

 則ち、梅園は、「大和本草」のそれを、無批判に採用して、本種を「貝」の「カキ」の仲間である、とやらかしてしまったのである。

 そればかりか、梅園は、やらんでいいものを、「佐渡」の地方異名として、ここに「じいがせなか」と添えてしまったのである。この「じいがせなか」は貝類が好きな小学生なら、即座にこの異名を以って確かにそれを正確に言い当てるであろう。それは、

多板綱 Polyplacophora の背面に一列に並んだ八枚の殻板を持ったヒザラガイ(多板)類(標準和名としてはタイプ種である多板綱新ヒザラガイ目ウスヒザラガイ亜目クサズリガイ科ヒザラガイ属ヒザラガイ Acanthopleura japonica に当てられている)

「火皿貝」(一説に、こちらの表記のそれは近代初期の貝類研究家として知られる平瀬與一郎の命名とされ、「煤けた火皿」に似ていることからという)「膝皿貝」(こちらは剥がした際の腹側に湾曲する状態を膝蓋骨(所謂、「膝の皿」)に見立てたという)「石鼈貝」(中国由来と思われ、形がスッポンに似ているからである。現代中国語でも「多板綱」は別に「石鱉綱」である。「鱉」は「鼈」の異体字)彼らを附着している岩や石から剥がすと、丸まる習性があり、その時の丸まったそれから、「爺が背」という異名を持ったのである、因みに、本邦には超深海産も含め、約百種が棲息するが、海浜の岩礁や転石水域に見られるものは二十種ほどである。なお、佐渡でヒザラガイの地方名として「じいがせ」が現在も使われていることは、lllo氏のブログ「ガシマ しなしなやります佐渡ヶ島ホトダイアリ」の「アメ(ジイガセゴウ)(あめ)」で確認出来る。それによれば、『佐渡の沿岸にも普通にみられ、時には食用にされることもある。岩から剥がすと、腹側の方に曲がるので「爺が背」の名が付けられた。アメ(阿女)という呼び名は現在用いられていないが、ジイガセは、使われている。ジイガセゴウの名は、『佐渡州物産』(または『佐渡産物志』『佐州圖』など)、江戸中期享保年間に編纂された『諸国産物帳』の一つや、栗本丹洲の表わした『千蟲譜』文化八年(一八一一)に載せられている。ゴウは蜈蚣(ムカデ)に似ていることに由来する。』とある。「ゴウ」も解明したところで、これも――「退場」――して頂く。

 さて。ここで、退場させなかった部分のみを以下に示すと、

   *

「福州府志」

    沙蠶

          同年十月二日、眞寫。

予、自(みづか)ら、之れを、石决明(あわび)の貝の裏より、得る。則ち、之れを取り、同年九月廿六日、眞寫す。石决明の貝にも、多くは付かず、まれに、之れ、有る。貝の内の肉は、「ごかい」の虫に似て、足、多し。色も相(あひ)同じ。

   *

となって、いかにもすっきりしてきたじゃないか! 焦らずに、まずは語注を示すと、

・「福州府志」複数回既出既注。清の乾隆帝の代に刊行された福建省の地誌。巻之二十六に出る。「中國哲學書電子化計劃」の乾隆本の影印本で電子化すると、

   *

沙蚕【似土筍而長。「閩書」、『生海沙中如蚯蚓。」。】 土鑽【似沙蚕而長。】

   *

とある。「沙蠶(沙蚕)」は、ここでは、

環形動物門多毛綱サシバゴカイ目ゴカイ超科ゴカイ科 Nereididae ゴカイ類或いはそれに形状が似た概ね、環形動物門 Annelida に属する各種の総称

であり、「土筍」(どじゅん)は環形動物門の星口(ほしくち)動物 Sipuncula(嘗ては星口動物門Sipunculaとして独立させていた)の一種(複数種)で、中でも特に、中国などで現在も好んで食用とされている、サメハダホシムシ綱サメハダホシムシ目サメハダホシムシ科サメハダホシムシ属(漢名:「土筍」或いは「可口革囊星蟲」)Phascolosoma esculenta を代表種としてよい。詳しくは、『畔田翠山「水族志」 (二四七) ナマコ』の注を参照されたい。「閩書」は明の何喬遠撰になる福建省の地誌「閩書南産志」の略である(これも複数回既出既注)。「土鑽」(どさん)」は同じくゴカイの仲間か、或いは、環形動物の一種と思われる。「鑽」は「穿(うが)つ・掘る」で、海底或いは潮間帯の泥土に穴を穿って住むの謂いであるからである。

・「同年十月二日」前からの続きで、これは天保五年のその日で、グレゴリオ暦一八三四年十一月二日。図の内の右側の二個体の写生日ということであろう。

・「石决明(あわび)」腹足綱原始腹足目ミミガイ科アワビ属 Haliotis に属する種の総称。国産九種でも食用種のクロアワビ Haliotis discus discus ・メガイアワビ Haliotis gigantea ・マダカアワビ Haliotis madaka ・エゾアワビ Haliotis discus hannai (クロアワビの北方亜種であるが同一種説もあり)・トコブシHaliotis diversicolor aquatilis ・ミミガイ Haliotis asinina までを挙げておけば、まずは、よかろう。詳しくは、私の寺島良安の「和漢三才圖會 卷第四十七 介貝部」の冒頭にある「鰒(あはひ)」、及び貝原益軒の「大和本草卷之十四 水蟲 介類 石決明 (アワビ)」を参照されたい。なお、彼はこの前年と、この年の二月にアワビを写生している。『毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 石决明雌貝(アワビノメガイ)・石决明雄貝(アワビノヲカイ) / クロアワビの個体変異の著しい二個体 或いは メガイアワビとクロアワビ 或いは メガタワビとマダカアワビ』を見られたい。

・「裏」は「うち」と訓ずるべきであろう。恐らくは生貝の、「アワビの殻表面から」の意である。

・「同年九月廿六日」グレゴリオ暦一八三四年十月二十八日で、先の二個体を描くより先の、三日前に当たる。思うに、梅園は、この日に魚屋からアワビの生貝を入手し、それを観察するために、海水にアワビを入れておいたものかと推測する。

・「貝の内の肉は」「貝」は梅園がこれを「貝」だと思い込んでいるためからこう言ったのであって、則ち、この図に描いた三体の赤い生物は、アワビの殻に表面に穴を穿って棲んでいたか、或いは自身が形成した「棲管」の中にいたことが判明するのである。

 さて。遂に、この奇体な三個体の生物の正体が見えてきた。それは『「ごかい」の虫に似て』おり、『足』も『多』くあり、その『色も相(あひ)同じ』=「ゴカイにそっくりだ」と言っているのである。いやいや、梅園先生、そりゃ、似て非なるものじゃなくて、広い意味で、ゴカイの仲間なんだと思うよ!

 結論に入る。これらは、無論、「蛤蚌類」ならぬ、貝類に固着して棲息するゴカイ類である、

環形動物門多毛綱ケヤリムシ(毛槍虫)目ケヤリムシ科 Sabellidae・カンザシゴカイ科 Serpulidae・ウズマキゴカイ科 Spirorbidaeの中の一種或いは二種或いは三種

であろう。種まで同定したいが、私はゴカイ類のこうした固着性ゴカイの虫生体の様態や体色を殆んど見たことがないので、これ以上は不可能である。但し、カキ養殖関係の論文を見ると、ウズマキゴカイ属ウズマキゴカイ Neodexiospira foraminosa の附着による害の報告が散見された。少なくともウズマキゴカイの頭部の鰓糸からなる鰓冠は赤い個体がいる。

 なお、実は、当初は早合点して、同じ固着性ゴカイの、色も毒々しい紅色の、

カンザシゴカイ科 Hydroides 属カサネカンザシ Hydroides elegans

を考えたのだが、当該ウィキによれば(太字は私が附した)、『カサネカンザシは、外来種で』、『日本では』、大正一七(一九二八)年の『和歌山県の標本が最も古い記録であり、オーストラリアからの船体付着やバラスト水によって導入されたと考えられる』。一九七〇『年代には太平洋沿岸に』、一九八〇『年代には日本海沿岸に拡散し、現在では本州から南西諸島のほぼ全域に定着している』。『瀬戸内海では』一九六九『年から』一九七〇『年代初めにかけて養殖カキに本種が異常に密生したことがあり、こうした貝類・網・ブイの被害額は数十億円に達』した。『また、発電所や工場などの取水施設に大量に付着し、汚損被害を発生させる。『同様の被害を発生させる近縁種にはカニヤドリカンザシがいる』。『また、貝類のムラサキイガイやミドリイガイ、タテジマフジツボなども、日本各地の湾岸を脅かす厄介な外来種である』。『外来生物法により要注意外来生物に指定されており、日本の侵略的外来種ワースト』百『にも選ばれている』とあったので、違うことを言い添えておく。]

2022/08/11

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 サルノフグリ / トマヤガイ或いはその近縁種

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングし、一部をマスキングした。この丁の内、左下方の固着性ゴカイ類を除き、ここまでの四個体は、今まで同様、梅園の親しい町医師和田氏(詳細不詳)のコレクションからである。その記載はここで以下に電子化した。]

 

Sarunohugusi

 

「さるのふぐり」

 

 

右、四種、和田氏藏。

   同九月廿五日、眞寫す。以上。

   都合、百五種。

 

[やぶちゃん注:「サルノフグリ」とは植物の「オオイヌフグリ」と同じく、「猿の陰嚢」=「猿の睾丸」=「猿のきんたま」の意である。而して調べてみたところ、「尼崎市」公式サイト内にあった尼崎の海の環境調査結果PDF)の享保二〇(一七三五)年に成った『「尼崎産魚」に記載された魚介類』の八十二種の「71」種目に確かに『サルノフグリ』があるのに快哉を叫んだ(直前は『サクラカイ』で、後には『ガウハギ』と『ヲニヒトデ』が続く。「ヲニヒトデ」は現在の「オニヒトデ」ではなく、種同定は出来ないが、大型のヒトデの異名であろう)。

 これに力を得て、同定に取り掛かった。まず、右脇のデータの中の「四種」とは、前の「長螺」と「茶入貝」とこの二個体の「四種」の意ととって間違いない。しかし、今までも、同じ種二個体を「二種」と表現することを梅園は普通にやっている。従って、私は標題のみを間に挟んで何も解説を書いていない以上、梅園は、この二個体を同一種或いは類似種と判断して描いたと考えてよい。

 そこで、よく見てみると、大きさは違うが、この――いかにも不定形なガタガタの外縁部の形状が――この左右の個体で――細部に亙って――驚くべき相同性を示している――ことに気づくのである。

 そうして、同一と思われる種を描く場合、梅園は、なるべく向きを変えて描いていたことを考えると、これは、或いは、

全体に斑点が打たれて紋様を描いていると思われる右個体が「殻の面」

であり、

周縁内側部分が白くて中にサイケデリックに見える多色が入れてあるのが「同一種のやや大きな殻の内側」

を描いたものであり、恐らくは貝殻の内側の中央部分が、海藻や異物によって、かく汚損しているのだ、と考えよいように私には思われるのである。

 さて。こんなに不定形なブサイクな貝がいるだろうかってか?

 これが、いるのだ!

 私は、その独特の形から、直感的に気づいていた! これは、多分、間違いなく、

軟体動物門二枚貝綱マルスダレガイ目トマヤガイ超科トヤマガイ科トマヤガイ属トヤマガイ Cardita leana

或いは、その近縁種である。全体は多くの図鑑やネット記載では「ほぼ長方形」と言っているが、実物を見ると、もっとガタガタして見える。それは殻表面に非常に強い太い密着した放射肋が発達しており(十五条内外)、その結果として、全体に微妙な捩じれが生じているからである。「千葉の県立博物館 デジタルミュージアム」のこちらの写真を見られたい。放射肋が内壁にも影響を与えて、赤茶けているのが見えるぜ! ヒャッホー! 個人的には私は「ブサカワ」の癖に侘びた「苫屋貝」の名にし負うこいつが、結構、実は、好きなのである。「サルノフグリ」も言い得て妙だぜ!

「同九月廿五日」前からの続きで、これは天保五年のその日で、グレゴリオ暦一八三四年十月二十七日となる。]

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 茶入貝 / イモガイ類の稚貝

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。この丁の内、左下方の固着性ゴカイ類を除き、四個体は、今まで同様、梅園の親しい町医師和田氏(詳細不詳)のコレクションからである。その記載はここに電子化した。]

 

茶入貝

 

Tyairegai

 

[やぶちゃん注:形状から、

腹足綱新腹足目イモガイ科イモガイ亜科イモガイ属 Conus

の稚貝と見てよいだろう(大きければ、特異な形状から、もう少し大きく描くはずである)。若干、外口部がアーチ状に見えるのは、中央部に欠損があるのかも知れない。イモガイの類は稚貝でも既に、貝殻表面に成体と同じ模様を形成するものが多いから、これも目立った模様を持たない単色で黄白色を呈し、螺塔が低く潰れている種を挙げるならば(一応、当時の本邦の本土に限って考えると)、

イモガイ属ヤセイモ Conus (Virgiconus) emaciatus

   同属ロウソクガイ Conus (Virgiconus) quercinus

の二種が考えられようか。

「茶入貝」現行ではこの名は生き残っていないが、残しておいてよい和名だがなあ。イモよりゃマシだと思うけどな。]

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 長螺 / ナガニシ或いはコナガニシ

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングし、一部をマスキングした。この丁の内、左下方の固着性ゴカイ類を除き、四個体は、今まで同様、梅園の親しい町医師和田氏(詳細不詳)のコレクションからである。その記載はここに電子化した。]

 

長螺

 

Naganisi_20220811121201

 

[やぶちゃん注:名前そのままなら、

腹足綱新腹足目エゾバイ上科イトマキボラ科ナガニシ亜科ナガニシ属ナガニシ Fusinus perplexus

となろうが、全体にスマートで、大成すると、ナガニシは縦肋が肩で角張ってくるから、その比較的若い個体であるか、或いは、形状が酷似するも、大きくはならない、同属の、

ナガニシ属コナガニシ Fusinus ferrugineus

かも知れない。にしても、孰れであっても、前管が短過ぎる感じが否めないので、欠損している可能性が甚だ高い。]

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 尻髙河貝子・腰髙ガンガラ / バテイラ

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。なお、この見開きの丁もまた、梅園の親しい町医師和田氏(詳細不詳)のコレクションからである。その記載はこちらで電子化した。本図を以って当該見開きの絵図は終わっている。]

 

Siritakanina

 

 

「大和本草」に出づ。

    尻髙河貝子 【「腰髙がんがら」・「山も〻」とも呼ぶ。】

    「しりたかにな」。「とうじん」。

 

[やぶちゃん注:これは螺塔を高く描き過ぎているが、

腹足綱前鰓亜綱古腹足目ニシキウズガイ上科リュウテン科クボガイ亜科コシダカガンガラ属バテイラ Omphalius pfeifferi pfeifferi

であろう(馬蹄螺)。実は、この尖塔状態は、バテイラとしては、全く以っておかしいのである。同種は、横から見ると、正三角形に近いからである。貝口をこちらに向けて描いたら、尖塔部はこんな風には逆立ちしても見えないのである。或いは、螺塔を描くためにデフォルメしたと言われるかも知れない。そうかも知れない。しかし、どうも、この描き方には、実は私は、ある疑いを感じているのである。

――彼は本当に和田氏所有の実物を目の前にして、この絵を描いたのでは、ないのではないか?――

という激しい疑問である。それは、梅園が記している「大和本草」にある。私の「大和本草諸品圖下 石ワリ貝・タチ貝・ツベタ貝・シリタカニナ (穿孔貝の一種・タイラギ(図は無視)・ツメタガイ及びその近縁種・バテイラ)」「シリタカミナ」の図(左丁下段。私はバテイラに同定している)を見て戴くと判るのだが、驚くべきことに、異様に似ているのである。蒂(へた)が描いてあるから、違うと言えば違うが、或いは、その開口部を描いておいて、実際には殆んど見えないはずの尖塔部を、「大和本草」のその図を参考に、創作して書き直したのではないかという疑いである。

「腰髙がんがら」は別に、クボガイ亜科クボガイ属コシダカガンガラ Tegula rustica の標準和名に合致するのだが、同種は螺塔がバテイラのようには尖らず、全体に丸みを帯びており、これまた、逆立ちしても、こんな絵にはならないのである(開口部をこちらに向けたら、螺塔は殆んど見えなくなる)。なお、この「コシダカガンガラ」は「腰高岩殻」で、これは「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページ他によれば、本草家で薩摩藩主島津重豪(しげひで)に長く仕えた曽占春(そう せんしゅん:明末に福建から帰化した人の末裔)の著になる貝類書「渚の丹敷(にしき)」(享和三(一八〇三)年自序)によるもので、岩殻(=小石)に似ていることによる。則ち、本図をバテイラでだめだというのであれば、なおのこと、コシダカガンガラでは決してないのである。そもそもが、この「腰高岩殻」というのは、私も好きな広く食用に供する岩礁に棲息する「磯物」と呼ぶ巻貝の昔の総称とした認識した方が正しいのである。

「山も〻」不詳の異名だが、ブナ目ヤマモモ科ヤマモモ属ヤマモモ Morella rubra の、如何にもブツブツとした粒状の突起に覆われた赤褐色の熟した実を、紅藻類などが附着した「磯物」らに名づけたとして、これ、腑に落ちると言える。

「とうじん」不詳。魚の側鰭上目タラ目ソコダラ科トウジン属トウジン Coelorinchus japonicus よろしく、尖った尖塔を鼻の高い西洋人=「唐人」(とうじん)に喩えたか。]

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 米螺(コメニナ) / サラサバイの稚貝か

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。なお、この見開きの丁もまた、梅園の親しい町医師和田氏(詳細不詳)のコレクションからである。その記載はこちらで電子化した。]

 

米螺(こめにな)【一種。】

 

Komenina

 

[やぶちゃん注:「米螺」は底本の右丁に既に出たが、要は微小貝群の総称である。これは色調から、嘗つて、一時、その紅色の色調に美しい更紗模様があるそればかりをビーチ・コーミング時期があった微小貝の、

腹足綱前鰓亜綱古腹足目ニシキウズ超科リュウテンサザエ科サラサバイ属サラサバイPhasianella solida

の稚貝のように私には思われる。]

泉鏡花 怪異と表現法 (談話) 正規表現版 オリジナル注附

 

[やぶちゃん注:これは表現からも判る通り、談話を記者が筆記したものである。底本とした所持する昭和一七(一九四二)年岩波書店刊「鏡花全集」巻二十八によれば、昭和四二(一九六七)年四月というクレジットが載るものの、原ソースが記されていない。なお、加工データとして、加工データとして嘗つて大変お世話になった(私の鏡花の俳句集のこちらのものは、サイト主が贈って下さったものである)サイト「鏡花花鏡」で公開されていたHTML版の本篇(春陽堂版全集底本で総ルビ)を使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。踊り字「〱」は生理的に嫌いなので、正字化した。これは実際、電子化した際に、ユニコードのそれを配しても、気持ちの悪さに変わりはないからである。また、今回は、「Googleブックス」で春陽堂版「きよう花全集 卷十五」をダウン・ロードして参考にした。但し、春陽堂版のルビは談話という性質上、ルビは鏡花が附したものではあり得ず、談話の聴き取り手の編集者が勝手に歴史的仮名遣で附したものと断じ、底本通りで示し、不審な箇所は、注で春陽堂版のルビを参考にして、各段落末の注の中に配して示した。そういう訳で、ルビが殆んどない以上、本篇はPDF縦書版化はしない。但し、底本の九ヶ所のルビと傍点(ここでは太字に代えた)も、読み難いので、恐らくは岩波版編集者が「春陽堂版」を参考に附したものではあろうと推定はする。而して口語で語られた本篇は、寧ろ、現代仮名遣で示す方が原話には相応しいと言えるが、そうしたものは現代の出版物で既に活字化されているから、ここはそれ、底本通りとして電子化し、それらと差別化することとする。なお、幸い、「鏡花花鏡」で公開されていたものとPDF縦書版が、「Geolog Project」のアーカイブで辛うじてネットのこちらに残っているので(私は公開時に保存しているが、そこでは明朝体で、リンク先のゴシックのようには気持ち悪くない)、それを考えれば、なおのこと、縦書版の屋上屋は不要と言えると判断する。]

 

 怪異と表現法

 

 不思議と云ひましても色々ありますが、此處では靈顯、妖怪、幽靈なぞの類に就いて云ふのでありまして、是等のものを文學上に表現致します態度に就て、まあ、お話したいと思ひます。

 不思議を描く。先づ第一に不思議を描くには不思議らしく書いては不可ません。斯うやつてお話してをります中に、疊の中から鬼女の首が出現(あらは)れたなぞと申しましても、あんまり突拍子もなくて凄味もありません。ですから、幽靈を幽靈とし、妖怪を妖怪として書いては怖くない、只何となく不思議のものが出て來て、物を云つたり何かする方が恐しいのです。

[やぶちゃん注:「をります中に」の「中」は「うち」。春陽堂版に従う(以下、断りのないものは同じ)。一方で、「疊の中から」の「中」は「なか」である。]

 其處で幽靈なら幽靈の形を表現(あらは)すのは未だ容易ですが、夫に口を利かせるとなると、サア中々難かしくなつて來ます。何故なら怪異には地方的特色と云ふものがあつて、例へば牛込の化物を京橋へ持つて行けば、工合が惡くなる樣なもんですから、其の時と場所に相當した言葉を使はなければならぬ。是が中々大變です、昔私の故鄕(くに)の某所に、一の橋があつて其處へ每夜貉が化けて出て通行人に時刻を問ひ返事をすると、齒を出してニヤリと笑ふ、と云ふ話がありますが、其時間を問ふ時の言葉は「何時(なんどき)ヤー」と云つて長く引張るのです。其引張る調子が如何にも氣味が惡うござんすが、是を若し巢鴨か早稻田邊の橋の袂で、「君今何時です」と訊かれたつて少毫(ちつと)も恐い事はありません。併し此の場合には、

[やぶちゃん注:「未だ」「まだ」。

「例へば」は春陽堂版では「假令(たと)へば」。

「每夜」「まいよ」。但し、「鏡花花鏡」で公開されていたPDF縦書版では「まいばん」と振り、私はこれが正しいように感じるている。

「貉」「むじな」。]

 註入りの意味 「何時ー」てんですから、東京人にも意味が判りますけれども、或る地方の言葉なぞになると、全く東京人には判らぬのがある。そんな言葉で幽靈が何と云つたつて、東京人には少許(ちつと)も恐(こは)く感ぜられない場合があります。ト云つて「右は何々の意味に侯」と註を入れる譯にも行かないから、どうしても仕方がありません、言葉の難かしいと云ふ例には斯んな話もあります。昔の化猫の話に、猫が鴨居を傳はつて 行つて、鼠を捕らうとして取落したときに「南無三」と云ふ。此「南無三」と云ふ言葉は此場合に一種の凄味があるけれども、若し「しまつた」と云つたら何だか猫が肌脫ぎに向鉢卷でもして居さうで氣が脫けてしまふでせう。

[やぶちゃん注:「難かしい」「難」には「むづ」とルビする。

「化猫」は無論、「ばけねこ」だが、春陽堂版は「猫化」で「ねこばけ」とルビする。]

 あら怨しや 昔の幽靈は紋切形の樣に「あら怨めしや」と云ひますけれども、こんな言葉は近代人の耳には凄くもなんともない。さうかと云つて「チチンプイプイごよの御寶」とも猶更云へず、譯の判らぬ漢語やギリシヤ文字を並べる事ことも固もとより出來できず、全まつたく幽靈いうれいの言葉位厄介ことばぐらゐやくかいなものはありやしません。

[やぶちゃん注:「チチンプイプイごよの御寶」「御寶」は「おたから」と読む。僕らは、母に「ちちんぷいぷい痛いの痛いの飛んでけ!」と言われたものだが、「深川不動堂」公式サイト内の「おまじない!? ~ ちちんぷいぷいのお話 ~」には、『古くは』これは、『ちちんぷいぷい御代(ゴヨ)の御宝(オンタカラ)』と言ったとあり、『この語源には諸説ありますが、江戸幕府三代将軍徳川家光公の乳母である春日局と関係があるという説があります』。『幼少の頃、泣き虫であった家光公に春日局が「知仁武勇は御代の御宝(ちじんぶゆうはごよのおんたから)」と云いました』。『則ち、「あなたは武士の頭領と成るべく徳を備えた徳川家の宝なのですから、泣くのではありません」と諭し、家光公が泣き止んだという伝記です』とある。

「並べる」春陽堂版では「並」は「竝」。]

 夫で話は又後へ戾りますが、不思議をかいて讀者に只の不思議と思はせずに、何となく實(まこと)らしく、凄く思はせる好い例は講釋師の村井一(はじめ)が本鄕の振袖火事の話をして、因緣のある振袖を燒いたら空へ飛上つて、スツクと人の形の樣に突立つて、パツと飛散ると共に本堂の棟へ落ちて、それが爲めあの大火事になつたと話しましたが、其話をする前に、前提として、自分が曾て下谷の或る町を通ると、突然後方(うしろ)の空中で「チヤラチヤラ」と異樣の響がした。不思議に思つて振返ると、夫は風鈴屋が旋風の爲に荷を卷上げられて、風鈴が一度に「チヤラチヤラ」と鳴つたのでした、と云ふ話をしました。比話をしておいて、振袖火事の方をやつたから、普通なら振袖が自然に飛上つて、人の樣な形をするのは餘り不思議で信じ難いのを、此話をきいた爲にそんなに不思議でもなくなつた。是は實に話を人にきかせる周到な用意で、別に人を欺く手段ではないのです。一寸とした事ですが、此用意を吞込まなければ、中々不思議の事を書くのは難かしいのです。

[やぶちゃん注:「好い」「よい」。

「村井一」講釈師としての芸名は「邑井一(むらゐはじめ)」が正しい。本名は村井徳一(天保一二(一八四一)年~明治四三 (一九一〇)年)は江戸牛込南町生まれ。田安家の御家人(御納戸同心)の子として生まれ、幕末には彰義隊に加わったこともあった。十五歳の頃、上方の講釈師旭堂南鱗(きょくどうなんりん)の弟子になろうとしたが、断られ、十六の時、初代真龍斎貞水(二代目一龍斎貞山)に入門、「菊水」を名乗った。後に「巴水」とし、貞水が貞山を襲名した際、「貞朝」と改名、さらに初代貞吉の三代目貞山襲名に伴い、二代目一龍斎貞吉(ていきち)を名乗った。後に本名の村井姓に因んで、二代目邑井貞吉と改め、真打ちとなり、後、長男吉雄に三代目を譲って、邑井一と改名した。得意な演目に「五福屋政談」・「玉菊灯籠」・「小夜衣双紙」・「加賀騒動」・「伊達騒動」・「曽我物語」・「紀伊国屋文左衛門」・「鈴木主水」などがあり、特に写実的な世話物を得意とした。武家の出身だけあって、行儀正しく、品格の備わった名手と伝えられ、無本で弁じたが、地の言葉が、そのまま、文章を成していると称賛された(日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」に拠った)。

「振袖火事」「明暦の大火」の後の異名。明暦三年一月十八日から二十日(一六五七年三月二日から四日)に発生した江戸の大半を焼いた大火災。江戸本郷丸山町から出火し、江戸城本丸を始め、江戸市中を焼き尽くした。死者は十万人以上とされ、江戸城も西丸を残して焼失、幕府は復興に際し、御三家をはじめとする大名屋敷の城外への移転や、寺社の外辺部への移転などを進め、町屋も道幅を広げ、広小路や火除地を設定し、家屋の規模を定めるなどの措置をとった。翌年には定火消(じようびけし)を置いている。なお、「振袖火事」の名の由来となった、丸山町本妙寺の和尚が因縁のある振袖を燃やした火が同寺本堂に移り大火となったという話は、史実とは言いがたい(ここまでは主に平凡社「百科事典マイペディア」に拠った)。当該ウィキが詳しく、出火については、幕府が意図的に放火したとする驚天動地の説と、火元が老中屋敷であったために、『幕府の威信が失墜してしまう』ことを恐れて、本妙寺が火元を引き受けた、とする説が記されている。なお、そこに、哀れな因縁の振袖供養の出火伝承について書かれた最後に、『小泉八雲も登場人物名を替えた小説を著している。伝説の誕生は大火後まもなくの時期であり、同時代の浅井了意は大火を取材して「作り話」と結論づけている』とあるが、八雲のそれは“ FURISODÉ ”で、私の「小泉八雲 振袖 (田部隆次訳)」で読める。

「實に」「じつに」。なお、春陽堂版では最後に『(話。)』とある。]

2022/08/10

泉鏡花の童謡・民謡・端唄風の唄集成「唄」公開

泉鏡花の童謡・民謡・端唄風の唄集成「唄」をPDF縦書ルビ版「心朽窩旧館」に公開した。

ブログ・アクセス1,790,000アクセス突破記念 梅崎春生 雨女 雨男

 

[やぶちゃん注:「雨女」は昭和三七(一九六二)年十一月号『小説新潮』に、その完全な続編である「雨男」は、同誌の翌昭和三十八年の一月号と、三月号に「(続)」として連載発表された。既刊本には収録されていない。

 底本は「梅崎春生全集」第四巻(昭和五九(一九八四)年九月沖積舎刊)に拠った。「雨男」は以上の通り、二回連載であるが、底本では一本に纏められているため、どこで切れたのかは判らない。

 文中に注を添えた。なお、本篇に登場する「山名」という姓のエキセントリックな副主人公は、梅崎春生の他の小説にもたびたび登場するのだが、そのモデルは彼の友人の画家秋野卓美(大正一一(一九二二)年~平成一三(二〇〇一)年)である。「立軌会」同人(元「自由美術協会」会員)で、春生(大正四(一九一五)年生)より七つ年下である。エッセイに近い実録市井物の「カロ三代」に実名フル・ネームで登場している。

 なお、本テクストは2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが本日、つい先ほど、1,790,000アクセスを突破した記念として公開する。【藪野直史】]

 

   雨  女

 

 縁側に腰をおろして、ぼんやりと庭の秋草を眺めていると、裏木戸の方角から瓶のようなものをぶら下げて、山名君が入って来た。彼は玄関から堂々と入って来ることもあるし、時には勝手口から、また時には裏木戸を押してスイスイと、その時の気分で入って来るのである。つまり私の家を自分の家同然に考えているらしい。ちょいと頭を下げた。

「御免下さい。長いこと御無沙汰しました」

「うん。久しぶりだねえ。まあ掛けなさい」

 私は座蒲団を押しやった。

「すこし瘦せたようだね。どこかに旅行でもしていたのか」

 いつもはふくらんだような顔をしているのに、今日見ると妙にしなびている。山名君は腰をおろして、自分の頰を撫でた。

「そうですか。やはり瘦せましたか。そう言えばいろいろ苦労したからなあ」

「夏瘦せでバテたのか?」

「いいえ。別荘に行ってたんですよ」

「別荘に? 君が?」

 私は思わず声を大きくした。

「なにか悪いことでもしたのかい?」

「え? 悪いこととは、何です?」

「別荘というのは、刑務所のことだろう。つまりムショ帰り――」

「冗談じゃないですよ、ムショ帰りだなんて!」

 彼は憤然と首をこちらへねじ向けた。

「僕が刑務所に入れられるような、そんな悪人だと思っているのですか? 善良な市民をつかまえて、刑務所などと――」

「ごめん。ごめん」

 私はあやまった。

「でもね、君が別荘を持っているような裕福な身分じゃないことを、僕はよく知っている。そこでついかん違いをしたんだ。あやまるよ。君は悪事を働けるような、そんな肝(きも)っ玉の大きな人柄じゃない」

「それ、ほめてるんですか。それとも――」

「勿論ほめてんだよ」

「それならいいですがね」

 山名君は機嫌を直した。

「もっとも別荘と言っても、友達の別荘です」

「ああ。別荘の居候(いそうろう)か」

「またそういうことを言う」

 また眼が三角になり始めた。

「一夏の主人は、僕ですよ」

「そうか。それは失言だった。つまり一夏借りたというわけだね。うらやましいな。それで借り賃は、いくらだった?」

「それがその、ちょっと複雑な事情がありましてね。僕の絵の仲間に、木村というのがいて、そいつの告別式、いや、ある酒場で送別会を二人でやりました」

 

 山名君の話によると、その木村という男は金持の伜(せがれ)で、絵はあまり上手ではない。素人(しろうと)に毛の生えた程度で、道楽に絵を描きながら、のらくらと人生を送っているのだそうだ。

 ところがこの度一念発起して、パリに修業に行くことになった。山名君に言わせると、修業とは称しているが、実は遊びに行くんだとのことだが、それはどちらでもよろしい。この物語とはあまり関係がない。

 で、その酒場で、

「パリとはうらやましいねえ」

 と山名君は木村に言った。

「おれなんか、パリどころか、当分東京ばかりで、山や海にも行けそうにないよ」

「それは気の毒だなあ」

 木村は酔眼を宙に浮かせて、しばらく考えていたが、やがて、

「君は海が好きか。それとも山の方かね」

「うん。海もいいが、夏は山の方がいいねえ。いろんな草花が咲いているし、それに静かだしね」

 山名の家の近くの土地で、近頃家の新築が始まり、電気ノコギリやハンマーの音が、毎日遠慮なく飛び込んで来る。それで彼はすっかり参り、切に静寂を求めていた。

「うん。山か。実は僕は山に別荘を持っている。帽子高原というところだ。今はニッコウキスゲの花盛りだろう。いいとこだよ」

 木村はぐっとグラスを乾した。

「そこを君に貸してやろう。どうせ僕はパリ行きで、空いている」

「貸すって、そりゃありがたいが、貸賃の方は――」

「もちろんタダだよ。自由に使いなさい」

 山名君はしめたと思った。金持とつき合っていて、損することはない。

「そりゃありがたいね。是非使わせていただこう」

「そうだ。タダと言ってもね」

 木村は膝をたたいた。

「あそこは村有地で、つまり借地なんだ。今年分の地代は、君が払って呉れ」

「地代って、いくらだね」

「たしか一年間で、坪当り十二円だったかな。安いもんだよ」

「うん。その位なら僕にも払える。それだけかね?」

「ああ。それに電燈代だ。この二つを君に頼む」

 よろしい、というわけで、タダ借りの約束が成立した。そして木村は。ペンで別荘地の略図を書いた。

「戦争前に建てた家だから、相当古ぼけているが、なかなか眺めのいい場所だよ。ただガスがないんでね、飯盒(はんごう)を持って行くといい」

「夜具のたぐいは?」

「東京からチッキで送ってもいいし、村に貸蒲団屋もある。絵の道具さえ持って行けば、その日から仕事にかかれるよ」

 山名君はすっかり嬉しくなって、無理してその日の勘定を支払ったそうである。そしてそれから一週間後、リュックを背にして、東京から旅立った。ごみごみと暑い東京を離れるのはいい気分だったが、汽車はやたらに混んでいた。リュック姿が多いのは、夏山登りの若者たちだろう。なぜ近頃の若い者たちは、ネコもシャクシも、苦労して山登りしたがるんだろう。山名君は思った。

「おれはキャンプ族ではないぞ。れっきとした別荘族だぞ」

 いい気なものだが、そうでも思って気分を高揚させていなきゃ、通路に立ちん坊は出来ないほど、混雑していたとのことだ。急行ではなく、鈍行である。急行券を惜しんだのではなく、鈍行でないとその駅にとまらないのだ。

[やぶちゃん注:「帽子高原」は不詳。「ニッコウキスゲの花盛りだろう」とあり(標準和名は「ゼンテイカ」(禅庭花)で単子葉植物綱キジカクシ目ススキノキ科キスゲ亜科ワスレグサ属ゼンテイカ Hemerocallis dumortieri var. esculenta 。群落が有名な日光に因んでそれを冠した「ニッコウキスゲ」の異名の方が遙かに全国的に通用してしまっているが、誤解のないように言っておくと、日光の固有種ではなく、本州以北から北海道まで日本各地に分布し、原産地も中国と日本である)、後で、「帽子山」と出るが、そうした条件に似たものならば、栃木県日光市川俣にある大王帽子山(さんのうぼうしさん:グーグル・マップ・データ航空写真)があるものの、どうも近くの駅に急行が止まらないという辺りは甚だ不審であり、このロケーションは春生が適当に仮想したものと思われる。]

 

 駅に降り立つと、さすがに東京と違って空気が澄明で、パクパク吸うと非常においしい。下車したのは二十人そこそこで、あまり喧伝されずにひなびているというのが、木村の説明であった。

 駅前はちょいとした商店街になっている。帽子高原はここから更にバスで一時間の行程だ。バスを待つ間、リュック姿の女三人連れに、彼は話しかけた。

「どちらに行くんだね?」

「あたし達、大帽子山に登る予定なの」

「キャンプする予定なのかい?」

「そうだけど、初めてのコースで、どこでキャンプしていいのか、見当がつかないのよ。小父さん、ここらに委しいの?」

「いや。それほど」

 女たちが気軽に応じるのも、旅の解放感からだろう。三人ともそれほど美人じゃなかった。一人は軽いすが眼だし、次のは色が黒く、もう一人はちんちくりんであった。山名君のことを小父さんと呼んだのは、そのちんちくりんで、彼は多少げっそりした。山名君は四十に垂々(なんなん)としているが、まだ自分では青年のつもりなのである。

 やがてバスが来た。数年前流行した『田舎のバスは……』云々という歌を連想させるようなボロ車で、皆はそれに乗り込んだ。これは揺れそうだと思ったら、果して大揺れで、道がてんでなっていない。穴だらけだ。穴にタイヤが入ると、がくんと腰にこたえたり、身体ごと飛び上ったりする。数時間の立ちん坊の揚句だから、彼はへとへとになったが、土地の人は平気だし、三人の女達はキャアキャアとはしゃいで、ジュースを飲んだり、菓子を食べたりしている。彼にもチューインガムを呉れたが、くちゃくちゃ食べていると舌を嚙みそうなので、辞退した。

 やっと終点の帽子村に着いた。山名君はよろよろと降りた。帽子村は帽子高原の入口で、戸数五六十軒の村である。唐もろこしの葉末を渡って来る風は、さわやかで秋のような冷気を帯びている。彼は深呼吸をした。やっと到着したという安堵感からだ。そこへさっきのすが眼嬢が近づいて来た。

「小父さんはここに泊るの?」

「いや。僕はもう少し上に、別荘を持っているんだ」

「まあ。別荘を!」

 すが眼はびっくりしたような表情になった。どう見てもくたびれた中年の薄汚れたようなのが、別荘を持っていようとは、彼女には意外だったらしい。山名君は得意げに胸を張って答えた。

「そうだよ。対山荘という名なんだ」

 それから彼は、木村が借りて呉れた地図を取り出し、部落の店の位置を探した。〈何でも屋〉と言う屋号で、日用品や食料品、貨蒲団なども貸して呉れる、という木村の話であった。三人の女は向うで何かこそこそ相談しているようだったが、彼が〈何でも屋〉の方に歩き出すと、ぞろぞろと送り狼のようについて来る。

 彼がそこで米や味噌や干魚などを買い求め、蒲団の交渉をし始めると、店の主人が、 「どちらにお住まいで?」

「対山荘だよ」

「対山荘?」

 主人は眼をぎろりとさせた。

「あのバケ、いえ、木村先生の――」

「うん。あいつは一年の予定で、パリに行ったんだよ。そこでこの一夏、僕が借りることにしたんだ。今まで木村は毎夏来てたのかい?」

「へえ」

 主人は困ったような顔をした。

「まあいらっしゃっても、一日か二日泊って、それでお帰りになるようですな。あの方は淋しいところが、あまりお好きじゃないようで――」

「一日か二日か。ぜいたくな奴だなあ、あいつも」

 主人が貸蒲団を取りに立つと、向うでごそごそしていた三人女のすが眼が、皆を代表するといった恰好(かっこう)でつかつかと彼に近づいて来た。

「小父さん。ひとつ頼みがあるんだけれど」

「何だね?」

「あたしたち三人で、蒲団を運んだげるから、小父さんの別荘に泊めて呉れない?」

「え。うちに泊りたいと言うのか」

「そうよ。立派な別荘なんでしょ。キャンプするのが面倒くさくなったのよ」

「ふん」

 山名君は考え込んだ。木村の話では三間か四間あるという話だったし、一部屋ぐらい泊らせたって、何と言っことはなかろう。かえってにぎやかで、愉しいかも知れない。

「そうだね。泊めて上げてもいいよ」

「わあ。うれしい」

「話の判る小父さんだわあ」

 女達は口々に喜んで、飛び上った。そして貸蒲団をそれぞれ肩にかついだ。大きなリュックを背負った上に、貸蒲団をかつげるのだから、戦後女性の休力も強くなったものである。

 山名君は三人の強力(ごうりき)を従えた侍(さむらい)大将みたいな気分になり、山荘の方向に意気揚々と歩き始めた。背後から女たちの会話が聞える。

「ねえ。おスガ。うまく行っただろう」

「何言ってんのさ。チビ。あたしの交渉がうまかったからよ。ねえ。黒助」

 どうもおスガとはすが眼女のこと、チビとはちんちくりんのこと、黒助は色黒い女のことらしい。男同士であだ名をつけるのは普通だけれど、女同士でつけ合って、それをかげでこそこそ使用せず、おおっぴらに呼び合うなんて、戦前にはあまりなかったことだ。

 山荘は村落から約千メートルほどの距離で、林間のだらだら坂を登る。うしろで話しているのが聞える。

「しかし、ポンと頼みを聞いて呉れるなんて、なかなかいかすおっさんだよ」

「どんな別荘だろうねえ。今日は一風呂浴びたいわ」

「物見遊山(ゆさん)に来たんじゃないよ。チビ。山登りが目的だぞ」

「知ってるよ。でも相手が別荘だろ。風呂ぐらいはありそうなもんじゃないか」

「何だね、二人とも。つまらんことで喧嘩するんじゃない」

[やぶちゃん注:「田舎のバスは……」三木鶏郎作詞作曲で、中村メイ子(旧芸名表記)が昭和三〇(一九五五)年に歌ってヒットした。YouTubeのsabo yobo氏のこちらで、蓄音機の演奏で聴け、歌詞は「J-Lyric.net」のこちらで総てが視認できる。]

 

 山名君は語る。

『ニッコウキスゲの咲き乱れた草原を横切り、別荘に近づくにつれて、僕は期待と同時に、ある大きな不安が影のように、頭上にかぶさって来るのを感じました。だって小生も彼等と同じく、その山荘を見たことがないんですからねえ。どうぞ立派な山荘であって呉れるように。快適な風呂場がくっついていますようにと、内心祈りながら歩を進めていました。これは見栄じゃない。僕自身の一夏の生活にかかわって来るんですからな。

 やがて落葉松(からまつ)や白樺や栗の木の彼方に、赤い屋根が見えて来ました。

「あっ。あれだ。あれが対山荘だ」

 と僕は思わず叫びましたよ。折しも夕陽が屋根に照り映えて、きらきらと光る。僕らは元気を取り戻し、ほとんど走るようにしてその建物に近づいた。古ぼけた木柵があって、門柱が二つ立ち、ひとつには「木村」と、ひとつには「対山荘」と書いてある。そこを入って建物の前に立った時、僕は大げさに言えば、愕然としましたね。

「あ。こりゃ相当ガタが来てるなあ」

 古ぼけていると木村は言っていたが、古ぼけているという程度のものではありません。今まで樹々に隠されてるから判らなかったけれど、ペンキは剝げ落ち、建物全休はピサの斜塔ほどじゃないが、東の方に傾いている。かなりがっしりした材木を使ってあるのですが、なにしろ戦前も戦前、三十年ぐらいは経っているらしく、それに年中ほとんど無人と来ていますから、ガタが来て傾くのも当然でしょう。屋根はトタンぶきで、ところどころサビが来て、さっききらきち光ったのも、夕陽がうまい具合に射したからで、屋根自身が光ったわけじゃありません。私はがっかり、また面目を失したような気分で、リュックを外して腰をおろすと、女の一人が呆れたように言いました。

「これが小父さんの別荘なの?」

「そうだよ」

「別荘と言うと、白樺林に取り囲まれた、もっとカッコ好い建物のことじゃない?」

「そうねえ。これ、まるで山賊小屋みたいね」

 山賊小屋とはひどいことを言いやがる、と思ったんですが、当の僕ですらそんな感じがしたのだから、仕方がない。

「山賊小屋で悪かったねえ。それじゃキャンプにすればいいじゃないか」

「小父さま。怒ったの? ごめんなさい」

 おスガがとりなしました。

「チビってあわてん坊でね、第一印象で直ぐ口をきくんだから」

「山賊小屋でもいいよ」

 チビが恐縮しているのを見て、僕は若干気の毒になりました。

「どうせとれは僕の別荘じゃないんだからな。友達のを一夏借りたんだ」

 まったく余計なことを言ったもんです。それからやっこらしょと立ち上り、木村から預った鍵で入口の扉をあけた。ぷんと古くさい空気のにおいが、そこらにただよいました。

 家の中は割合よく片付けられていました。とっつきの部屋が板の間で、卓だの椅子だのが置いてあり、暖炉の如きものもついている。そこから廊下となり、右手に畳敷きの部屋がある。突き当りが台所で、そこから鉤(かぎ)の手に曲って、アトリエ風の部屋がくっついている。これはベッドつきです。早速僕はこのアトリエを自分の部屋ときめた。僕は貸布団をベッドに運ばせて、女どもに言いました。

「ここは僕が使う。君たちは畳敷きの部屋に泊れ」

 それから窓を開くと、一望千里のすばらしい眺めで、左手に丸くそびえ立つのが大帽子山、右手になだらかに盛り上っているのが小帽子山です。庭は一面ニッコウキスゲや、名も知らぬ草花が点々と咲いています。あたりはしんと静かで、

「ああ。いいところに来たなあ。ここなら存分風景画が描けるぞ」

 と思わず呟(つぶ)いたぐらいです。

 すっかり満足して、あちこち見回していると、台所のすぐ裏手にドラム罐(かん)が立ててある。何だろうと思って、台所口から出て見ると、これがどうも風呂らしい。石を組んでドラム罐を持ち上げ、その空間が焚(た)き口で、黒くすすけています。僕は大声で女どもを呼びました。

「おおい。風呂場があるぞ。入りたきゃ自分たちで沸かせ」

 女たちは早速飛んで来ました。一目見ると、びっくり顔になって、三人で顔を見合わせています。チピが何か口を出そうとして、おスガに、

「しっ!」

 とたしなめられた。おそらく第一印象を口走りたかったのでしょう。ざまあ見ろと思って、僕はそのままアトリエに引込みました。窓からそっとのぞいて見ていると、何かこそこそと相談しているようでした』

 

「で、その別荘には、水はあるのかい?」

「ええ。村営の水道の本管が、すぐ近くを通っていてね、水源池は大帽子山の麓(ふもと)にあるのです」

 山名君は冷えた茶をがぶりと飲んだ。

「本管から水を引いて、蛇口から出ることになってるんです。つめたくていい水ですよ。東京のカルキ臭い水道の水とは、くらべものにならん」

「そりゃくらべものにならんだろう。それで風呂の方は、どうした?」

「沸かしましたよ、もちろん。それで僕が真先に入って――」

「でも、焚いたのは、女性たちだろう」

「そうですよ。しかし僕がその別荘の主ですからね。優先権がある」

 山名君は鼻をうごめかした。

「それから庭に出て、飯盒で自炊しようとすると、女たちが今から入浴するんだから、見ちゃいけないと言う。冗談じゃない。僕はこれでも画家だから、女の裸なんか見飽きていると答えると、信用しないんですな。飯はつくって上げるからと、三人がかりで僕をアトリエに押し込んでしまいました。近頃の女と来たら、力が強いですねえ。それに多勢に無勢(ぶぜい)だし――」

「いくら多勢に無勢と言っても、だらしないじゃないか。たかが女の力で――」

「いえ。彼女らが入浴しているのを、窓のすき間から、こっそりのぞいて見たんですがね。その休格のいいこと、腕や股の太いこと、まるで女金時(きんとき)みたいでした。あんたみたいな瘦せっぽちなら、一対一でもかないっこありません」

「いやだね。君にはのぞき趣味があるのか」

「趣味じゃないですよ。参考までに観察しただけです」

「さあ。どうだかね。それで、その晩の飯はつくってもらったのか」

「もちろんですよ。約束ですからね。しかしなかなか飯が出来ない。僕は腹ぺこになって、いらいらしてアトリエをぐるぐる歩き回っていると、やがて黒助がやって来て、小父さま、食事が出来ましたから、どうぞおいで下さいと言う。もう外は暗くなっていました。そこで飯だけもらって、自分ひとりで食べりゃよかったんだけれど、ついのこのことついて行ったのが、運のつきでした」

 

『ついて行って見ると、食事場は暖炉のあるれいの居間で、ふと卓を見ると、罐詰が切ってあり、でんと安ウィスキーの大瓶が乗っている。さっきの〈何でも屋〉で買い求めたのでしょう。僕は呆れて言いました。

「何だ。君たちはウィスキーを飲むのか」

「ええ。飲みますよ。飲んじゃいけないんですか?」

 とチビが言いました。

「いえ。小父さんに感謝の意味もあるのよ」

 おスガがつけ加えました。

「小父さんはアルコール、おきらい?」

「いや。きらいじゃないが――」

 僕は椅子に腰をおろした。

「君たちはあんまり飲むと、明日大帽子山に登れなくなるぞ」

「大丈夫ですよ。まあ、小父さん、一杯」

 コップにごぼごぼと注がれでは、もう飲まないわけには行きません。すきっ腹だから用心のために、台所からつめたい水を運ばせて、水割りにして、クジラの罐詰なんかをつまんで飲んでいる中に、だんだん酔いが回って来ました。高原の別荘という静かなムードが、それに拍車をかけた傾向もあるようです。女たちもよく飲み、よく食べました。その時の会話によると、女たちはどこかの劇団の女優のタマゴみたいなもので、テレビにも時々出演すると言う。何だかそれを得意にしているような口ぶりなので、僕も対抗上自分の画歴について語り、あるいは仲間の話や、木村からこの別荘を借り受けたいきさつなども、しゃべったような気がします。チビがこう言ったのを、かすかに覚えています。

「タダでこんな立派な別荘が借りられるなんて、すばらしいわねえ」

 何だい、さっきは山賊小屋みたいだと言ったくせに、などと思っている中に、僕はすっかり酔っぱらって、前後不覚になってしまったらしい。

 ふっと眼が覚めたら、アトリエのベッドの上で、蒲団にしがみつくようにして寝ていました。宿酔で頭が重く、ふらふらと立ち上って台所に行き、つめたい水をがぶがぶと飲みました。女どもはどうしているかと、居間の方に行って見たら、卓の上ににぎり飯が三箇置いてあって、

「朝のオニギリをつくりました。召し上って下さい。わたしたちは今から大帽子山に登って来ます。午前七時」

 やはり若さというのは強いものですねえ。昨夜彼女たちも酔っぱらって、ドジョウすくいやツイストを踊ったくらいなのに、今朝は早々と起き出て弁当をつくり、山登りに出かけた。乱暴なガラガラ女たちと思っていたのに、ニギリ飯を宿代に置いて行くなんて、割にしおらしいところもある。そう感心して、ニギリ飯を食べかけたが、宿酔のせいで一箇平らげるのがせいぜいでした。

 また水を飲んで庭に出ると、いい天気で、彼方に大帽子小帽子の稜線が、くっきりと見える。僕は早速スケッチブックを取り出して、スケッチを始めました。一応スケッチに取り、二三日中に本式に画布に取組もうという心算(つもり)なのです。

 そして午後二時頃でしたか、腹がへって来たので、居間に入って残りのニギリ飯を食べていると、

「ごめん」と言う声がして、若い男が扉をあけて入って来ました。

「電力会社の者ですがね、電燈代を徴収に来ました」

「ああ。そう」

 私はアトリエから金を持って、戻って来ました。

「昨日ここに来たばかりなのに、もう電燈代を取るのかね?」

「いいえ。これは昨年の八月から、今年の七月分の代金です。別荘の方はそういう決めになってますんで」

「そう。いくら?」

 男は伝票を差出しました。見ると七千八百円になっています。僕は驚いて反問しました。

「七千八百円とは、一休どういう計算だね? 木村君は一夏に一日か二日しか暮さないとう話じゃないか」

「あんた、木村さんじゃないんですか?」

「そうだよ。この夏だけ借りたんだ」

「ああ。道理で話が通じないと思った」

 男はなめたような口をききました。

「電燈代というのはね、毎月の基本料金の上に、使っただけの料金が加算されるんですよ。だからこの七千八百円の大部分は、一年の基本料金です。お判りですか?」

「ああ、判ったよ。判ったよ」

 電燈代はこちら持ちという約束なので、仕方がありません。数枚の千円紙幣が、かくして僕の手から離れて行きました。木村にとっては何でもない金だろうけれど、僕にとっては大金です。

「こりゃ倹約してやって行かねばならないぞ。地代のこともあるし」

 徴収人が帰ってから、僕は思いました。

「ここでいい作品を仕上げて、モトを取らなくちゃ」

 嚙みつくような勢いで、残りのニギリ飯を食べ終え、また庭に飛び出し、スケッチを再開しようとすると、山や空の色がもう変っていて、帽子連山の稜線がぼやけています。山や高原の気候の変化は、烈しいものですねえ。しばらく色鉛筆を置いて、雲の動きなどを眺めていると、白い雲は流れ去り、何だか黒っぽい雲が大帽子山の頂上にかかり、やがて山頂をすっぽりと包みかくすように垂れて来たですな。

「ははあ。山では雨が降り始めたんだな。だから山と言うやつは、用心しなくちゃいけない」

 あの三人女のことが少々心配でしたが、朝の七時に出発したんだから、もう山を降りて、もしかすると今頃は町行きのバスに乗っているかも知れない。そう思ってスケッチはやめ、アトリエに戻り、ベッドに横になっていました。しばらくうとうとしていたようです。急に部屋の中がしめっぽくなって来たので、驚いて起き上り、窓の外を見ると、一面に霧がかかっていて、帽子連山はおろか、五十メートル先の樹の形さえさだかに見えないくらいで、むき出しにした二の腕がつめたい。あわててリュックからセーターを出し、それをまとめて、〈何でも屋〉の方に走り降りました。炭やタバコを買うためです。買ったあとで、

「昨日の三人女、今日ここを通らなかったかね?」

 と主人に聞くと、今日は姿を見ないとの返答で、そんな世間話をしている中に、外は霧雨となりました。全くここらの気候は、予測し難いものです。やむなく番傘をひとつ買い求めた。実際別荘生活というものは、金がかかるものですねえ。何かあると、一々新規に買わなくちゃいけない。

 ぶらぶらと対山荘に戻って、台所のコンロに炭火をおこし、飯をたいて干物(ひもの)を焼いていると、入口の方でがやがやと騒がしい声がする。飛んで行って見ると、あの三人女です。アノラックは着ているけれども、全身ずぶ濡れで、まるで水から引き上げられた犬みたいに、ぶるぶるっと雨滴を板の間に弾き飛ばしていました。

「何だ。今頃帰って来たのか」

 僕はあきれて嘆息しました。

「朝七時から出かけて、今まで何をしてたんだい?」

「頂上近くのお花畑で、昼寝をしてたのよ」

 アノラックを脱ぎながら、黒助が言いました。おスガもチビも不機嫌そうに、衣類の始末をしています。

「昼寝だなんて、のんきだなあ」

「チビのやつが言い出したのよ」

 おスガがぷんぷんした口調で言いました。

「チビ助は雨女(あめおんな)のくせに、昼寝しようと言い出して――」

「何さ。雨女はお前じゃないか!」

 チビが言い返しました。

「この間高尾山に登った時も、帰りはどしゃ降りじゃないか。もうおスガと一緒に山登りするのは、御免だよ」

「まあ、まあ、どちらが雨女か知らないが――」

 僕は取りなしてやりました。

「早く着換えて、帰る準備をした方がいいよ。最終のバスは七時五十分だから」

「あら」

「そりゃ約束が違うわよ。おっさん」

 小父さまからとたんに、おっさんに転落したんですから、面くらいましたな。陰でこそこそならともかく、正面切ってですからねえ。

「な、なにが約束が違うんだ」

 僕はどもりました。

「そんな約束をした覚えはないぞ」

「昨夜したじゃないの」

 とチビがまなじりを上げて言いました。

「どうせタダの別荘だから、ゆっくりして行きなさいと、そう言ったじゃないの。少し酔っぱらっていたけどさ」

「少しじゃないわよ。酔って動けなくなったのを、三人でアトリエにかついで行ったのよ」

 アッと僕は内心驚きました。どうも記億にないと思ったら、この連中にかつぎ出されたとは、一代の不覚です。

「だからあたしたち、当分ゆっくりするわよ。そしてどちらがほんとの雨女か、はっきりさせてやる」

 おスガがチビをにらみました。

「おい。チビ。〈何でも屋〉に一走りして、焼酎を買って来い」

「イヤだよ。飲みたきゃ自分で買って来な」

 そこで一悶着ありそうでしたが、結局クジ引きということになって、買い番は黒助に当りました。黒助はうらめしそうに着換えをしながら、

「小父さん。淑女たちの着換えの場面は、男性は遠慮するのがエチケットよ」

「そうよ。そうよ。昨日も窓からのぞいてたわよ。卑怯ねえ」

 こんなのが淑女と自称するのですから、驚き入ります。僕はさんざん言いまくられて、台所に戻って来ると、干魚は真黒に焦げて、反(そ)りくり返っていました。忌々(いまいま)しいったら、ありゃしません。仕方がないので、それをポイと窓の外に放り捨て、タクアンをせっせと刻んでいると、おスガがやって来て、コンロを貸して呉れと言う。何を焼くんだと訊ねると、肉を煮るんだと言う。

「肉があるのか。うらやましいなあ。少し分けて呉れないか。タクアンだけで飯を食うのは佗(わび)しい」

「そうね。他ならぬ小父さんのことだから、御馳走して上げるわ」

 というわけで、やがて黒助が焼酎瓶やネギをぶら下げて戻って来て、コンロを居間に運び、スキヤキが始まりました。僕も飯盒(はんごう)を持ってそれに参加しましたが、また焼酎を飲まされて、飯なんかどうでもよくなりました。肉は硬くて筋があって、そのくせ脂肪があまりない。聞いてみると馬肉だそうで、焼酎を牛飲して馬肉を馬食するなんて、とんだ淑女もあればあったものです。

 そこでまた雨女談義となり、結局おスガが大帽子山、チビが小帽子山に登り、どちらが雨に降られるか、それで決定しようと言うことになりました。その判定役として、僕と黒助が途中のイガグリ峠で待機するということになり、酔っていたもんですから、僕もうっかりとその役目を引受けた。

 最初の夜のウィスキーと言い、その夜の焼酎と言い、僕を酔っぱらわせて、この別荘に居直ろうという謀略のにおいが感じられてなりません。うかうかとその手に乗ったのが、僕の不徳と言えば言えますが。――』

 

「そうだよ。君は酔っぱらうと、すぐだらしなくなるからな」

 私は山名君をたしなめてやった。

「折角静寂を求めて高原に行ったのに、何にもならないじゃないか。そんな苦労をしたせいで、夏瘦せしたと言うのかい?」

「いえいえ。こんなのは序の口ですよ」

 彼は口をとがらせた。

「ほんとの高原の災厄は、これから始まるんです」

 山名君は忌々しげに私の庭に、ぺっと唾をはいた。

[やぶちゃん注:「唾」は底本では「睡」であるが、誤字と断じて訂した。]

 

 

   雨  男

 

 

「そうか。それが災厄の序の口か」

 私は縁側から腰を上げながら言った。

「そろそろ暗くなって来たし、続きは書斎で聞こう。まあ上りなさい」

 風も少し冷えて来た。庭樹の葉がさらさらと鳴る。

「こちらは日の暮れ方が早いですなあ。帽子高原にいた時はこんなものじゃなかったです。七時になってもまだまだ明るかった」

「そりゃそうだよ。夏は一番日が長い季節だ。早く日が暮れるのは、東京の責任じゃない」

「そりゃそうですがね」

 山名君も腰を浮かせた。

「しかし、それだけじゃないですよ。空気の澄み方が違う。あちらは澄んでいるから、光線がいつまでも透き通るが、東京は空気がきたないですからな。ガラスにたとえると、東京の空気はすりガラスです。てんでくらべものにならん」

 何だ、一夏高原に過ごしたからと言って、東京をそんなに蔑(さげす)むことはなかろうと思いながら、私は書斎に入った。山名君もとことこ上って来て、私に向ってあぐらをかき、大切そうに風呂敷包みをそばに置いた。私は訊(たず)ねた。

「何だい、それは」

「酒瓶ですよ」

 彼は得意そうに、ゴソゴソと風呂敷を解いた。中からうやうやしくウィスキーの瓶を取り出した。

「なるほど。久しぶりにウィスキーを一緒に酌(く)み交そうと言うわけか」

 と私は頰をむずむずとほころばせた。彼は本来はケチなのに、それを押しての好意がうれしかったのである。

「『淋しさに宿を立ち出でて眺むれば、いづくも同じ秋の夕暮』だからな。飲みたくなるのも当然だ」

「いえ。一緒に酌み交そうというんじゃないんです」

 山名君はあわててさえぎった。

「誰もそんなことは言わない。第一これはウィスキーじゃないですよ」

「何だい? するとそれはタダの井戸水か?」

「水じゃありませんよ。焼酎です。しかしタダの焼酎じゃない」

 もったいをつけて私にその瓶を手渡した。

「中を透かして御覧なさい。何か入っているでしょう」

 私は瓶をかざして、窓の外にむけ、眼を凝らした。中にはミミズ状のものが身をくねらして、うねうねと液休にひたっている。私は少々気味が悪くなって、瓶を机の上に戻した。

「何だね、これは。回虫か?」

「回虫だなんて、そんなものを漬けて、何になりますか。薬屋の広告見本じゃあるまいし」

 憤然と口をとがらせた。

「マムシですよ。つまりマムシ酒というわけです。ホンモノですからねえ。高価なもんですよ」

「マムシ酒か。うん。水漬(みづ)くカバネでなく、酒漬くマムシか。それなら安心だ。話にはよく聞くが見るのはこれが初めてだ。なるほどねえ」

 私はふたたび瓶を打ちかざした。よく見れば回虫などでは決してなく、まさしく蛇の形である。

「ずいぶん小さな、可愛らしいマムシだねえ。子供蛇だね。君がつかまえたのかね?」

「マムシというのは元来小さな蛇ですよ。可愛いなんてとんでもない。これでも猛毒があって、嚙まれると七転八倒の苦しみの後、数時間で死んでしまう」

 彼は私の無知をせせら笑うようにして説明した。

「そんな猛毒の蛇を、素人(しろうと)がとらえられるとでも思ってんですか。帽子高原の人に貰ったんですよ」

「そうか。そうだろうと思った。しかし得をしたなあ。そんな大切な酒を僕に呉れるなんて、いつもの君にも似合わない――」

「いつ上げると言いました?」

 机の上から山名君は瓶を取り戻した。

「盃(さかずき)に一杯だけ、飲ませて上げようと思って、はるばる持って来たんですよ」

「なんだ。やっぱりケチだなあ。盃一杯だなんて。せめてコップに一杯か二杯――」

「と、とんでもない」

 彼はまた口をとがらせた。

「コップに一杯も飲めば、のぼせて鼻血が出ますよ。なにしろ精の強い蛇ですからねえ。あんたなんか、盃一杯でも多過ぎるくらいです。僕もこの間二杯飲んだら、身体中がカッカッなって、夜も眠れなかった。とにかく盃を持って来ます」

 彼は立ち上って、勝手にわが家の台所におもむき、盃二つと清酒の一升瓶、コップを出し、それから棚や冷蔵庫の中からつまみ物数種を皿に入れ、書斎に戻って来た。彼は他人のくせに、わが家の台所については私以上にくわしく、どこに何がしまってあるか、手に取るように知っている。好奇心に富んでいるというか、図々しいというか、まことにふしぎな人物である。

 つまりマムシ酒をダシにして、うちの酒を飲もうという魂胆が、これではっきり知れた。私は多少にが虫をかみつぶした表情になったのだろう。彼は盃を二つ机の上に置き、猫撫で声で私にすすめた。

「さあ、どうぞ。マムシ酒を一杯」

 私は盃を手にした。山名君は大切そうに、薄茶色の液体をとくとくと注いだ。盃を口のあたりまで持って来ると、ぷんと生ぐさいにおいがした。

「へんなにおいがするな。これ、大丈夫か」

「大丈夫ですよ」

 彼は自分の盃にもそれを充たした。

「マムシの精のにおいです。これはまだつくって三年しか経っていないので、においも味も薄いですが、十年酒ぐらいになると、蛇身がすっかりとろけて、酒にしみ込んで、水にでも割らなきゃ、とても飲めたものじゃありません。こうやって飲めばいいんですよ」

 山名君は鼻をつまんで、ぐっとあおった。そして鼻から手を離して、深呼吸をした。

「なるほど」

 私も真似をして、ぐっと飲み干した。鼻をつまんでも、生ぐさいものが口の中から食道に、パッとひろがるのが判った。私もあわてて深呼吸した。

「さあ。口直しにどうぞ」

 すかさず彼はコップに清酒を注ぎ、私に差し出した。私は飛びつくようにして、ゴクゴクと飲んだ。においが少しは消えた。

「うまいでしょう。におい消しには覿面(てきめん)でしょう」

 彼は得意そうに、また押しつけがましい口調で言い、自分のコップの分もうまそうにあおった。

「うまいでしょうたって、これはおれの酒だよ」

 私は手荒く酒瓶を引き寄せて、自分のにまた注いだ。

「君からうまいのまずいのって、説教される覚えはない」

「そりゃあんたの酒ですよ。あんたの台所から持って来たんだもの」

 頰をふくらませた。

「僕はお宅の酒の味をほめているんですよ。それなのに、何を怒っているんですか?」

 うんざりして、何も言うことはなくなって来た。他人の言葉には敏感に反応するくせに、他人には実に図々しい発言をする。これが山名君の特徴なのである。私は南京豆をつまみながら言った。

「それで、帽子高原の方は、どうなったんだ。女どもは山に登り、君はイガグリ峠まで行ったのか?」

「行きましたとも」

 もう一杯飲みたそうな風情だったが、私が酒瓶を握りしめて離さないので、未練げに視線をうつむけ、マムシ酒を風呂敷につつみ込んだ。

「これからが面白いんですがね、でも、お仕事の邪魔でしょう。これでおいとま致します」

「おいおい。待って呉れ。折角(せっかく)話が佳境に入って来たのに」

 仕方がないから手を伸ばして、彼のコップにもこぼれるほど注いでやった。彼はにやりとして、口をコップに近づけ、チュウとすすった。

「とにかく大変でしたよ。イガグリ峠と言ってもね、そんじょそこらにあるようなラクな峠じゃない。なに、野猿峠くらいだって? あんなのとは、くらべものにならんです。標高千八百メートルぐらいはあるんですからね」

「おスガが大帽子、チビが小帽子だったね」

「そうです。それでその翌朝、朝五時に起きましてね――」

[やぶちゃん注:「淋しさに宿を立ち出でて眺むれば、いづくも同じ秋の夕暮」ご存知「小倉百人一首」七十番の良暹法師(りょうぜん 生没年不詳:比叡山の僧で、祇園別当となり、後には大原に隠棲した。歌人として活躍し、長暦二(一〇三八)年の「権大納言家歌合」など、多くの歌合にも出詠している。私撰集「良暹打聞」を編み、家集も存在したが、孰れも現存しない。勅撰集には三十一首が載る)の一首。出典は「後拾遺和歌集」巻第四「秋上」(三三三番)。

「野猿峠」(やえんとうげ)は東京都八王子市南東部の多摩丘陵西部にある峠。京王電鉄京王線とほぼ平行する標高百七十~二百メートルの尾根にあり、大栗川(おおくりがわ)流域を通る野猿街道が八王子市北野へ抜ける峠である。その名の如く、嘗つては、野生の猿の遊ぶ所であったが、第二次世界大戦後の急激な都市化によって、峠の周囲に住宅団地が形成されて地形をすっかり変えてしまい、昔の面影は全くない。僅かに峠の南の野鳥料理がその名残である(小学館「日本大百科全書」に拠った)。「今昔マップ」の戦前の地図の、この中央の「手平松(鳶松)」とあって標高(200.9)とある当たりが、高度からもそれらしい。お疑いの向きは、グーグル・マップ・データのここをご覧あれ。交差点に「野猿峠」とある。]

 

『五時と言っても、今時の五時でなく、夏の高原の五時ですからねえ。もう外はすっかり明るい。庭に出て見ると、昨夜の雨はすっかりやんで、空は晴れ、空気がピンと澄み通っています。大、小の帽子山が手に取るように近くに見えます。急いで御飯をたいてオニギリをつくり、え? 僕がじゃありません。つくったのは女どもです。それから登山支度をととのえて、と言っても僕は判定役ですから、何も持たず、オニギリや雨具も一切女たちのリュックに入れてもらい、〈何でも屋〉におもむき、オカズやジュースその他を買いました。

 僕はステッキ一本の軽装です。

 おスガとチビはその店で、安帽子を一個ずつ買いました。それぞれ頂上に置いて来て、登頂の証拠にしようというわけなのです。別荘にとって返し、水筒に水を入れ、いよいよ出発ということになりました。

「いくら何でも手ぶらじゃおかしいわ。水筒くらい自分で持ったらどう?」という女たちの言葉を容れて、僕も水筒だけは肩にぶら下げることにしました。

 別荘の裏手からだらだら坂の径(みち)となり、野原に出ると、ニッコウキスゲ、オミナエシ、月見草、ゲンノショーコなどが一面に咲き乱れています。女どもは植物については何の知識もないようで、

「あら。可愛い花」

 などとゲンノショーコをほめたりするものですから、僕が教えてやりました。

「それはゲンノショーコと言ってね、その根を煎じてのむと、腹の薬になるんだよ」

「あら。そうなの。薬草なのねえ」

 おスガが言いました。

「チビなんか、休が小さいくせに、大食いばかりして、しょっちゅうお腹をピーピーこわしてるじゃないの。帰りにたくさん取って帰って煎じてのんだらどう?」

「なにさ。大食いはおスガじゃないか。バカにしてるわ」

 そんなおしゃべりをしている中に、道はだんだん林の中に入り、険しくなって来ました。渓流に沿い、ジグザグ道を登るのですが、そのジグザグがえんえんと続くものですから、先ず僕が顎(あご)を出し始めた。二日酔いの気もあるし齢も齢ですからねえ。咽喉(のど)がやたらに乾くので、水筒の水を飲み飲み、後に遅れじと脚にムチ打ってつづく。

 女どもですか。やはり若さということは、元気なものですねえ。トットコトットコ、汗一粒も流さず、ぐんぐん登って行く。ついにたまりかねて、僕は大声を出しました。

「待って呉れえ。ここらで一休みしよう。水筒の水もなくなったよう」

 三人は立ち止った。黒助が戻って来て、

「まあ汗だらけじゃないの。小父さん。今からへばっちゃ、後が思いやられるじゃないの」

「だって、つらいんだから仕様がない」

「大切な水筒をもうカラッポにするなんて、常識外(はず)れだわ」

 黒助はつけつけと言いました。

「じゃ、あたいが汲んで来て上げるから、水筒をこちらにお寄越し?」

 つけつけした口はきくけれど、割に黒助は親切気のある女なのです。そこで二人に追いついて、大休止ということになりました。黒助は身軽に渓流へ降りて行った。昨夜の雨のせいか、流れは岩をかみ、白いしぶきを立て、とうとうと流れています。もうここらは林相が一変して白樺がなくなり、赤樺の巨木がニョキュョキと立っていて、水の音、まれに鳥の声以外は、何も聞えません。

 僕は苔(こけ)の上にぐったり横になっていましたが、女たちは全然消耗してなくて、じっとはしていません。林の中に入り込んで、花をつんだり、キノコを採ったりしていました。

「小父さん。このキノコ、食べられる?」

 チピがにゅっと一本のキノコを突き出したが、キノコに関しては僕もあまり知識はない。

「さあ、よく知らないが、食べない方がいいんじゃないか。山荘で皆で食べて、ひっそりと死んでたりすると、山中湖事件じゃないが、大騒ぎになるぜ」

「そうねえ。でも、もったいないから、持って帰って、ジャンケンして負けたものが食べることにしない?」

 チビは食い下りました。若さというものは、強いと同時に、無鉄砲なものですねえ。

「いっしょにゲンノショーコをのめば、食中(あた)りをしないですむんじゃない?」

「じゃ、そうすればいいだろ」

 僕はつっぱなしました。

「しかし、おれはジャンケンの仲間には入らないよ。君たちは毒キノコのこわさを知らないな。ゲンノショーコなどで追いつくものか」

 これでチビもあきらめたようです。林に向って叫びました。

「おおい、おスガ。これ、毒キノコだってさ、採るのはやめにしなよ」

 やがて黒助が渓流から崖を登って来て、僕に水筒を渡しました。見るとスラックスの裾がずぶ濡れになっています。

「ほんとに苦労させるよ」

 黒助はこぼしました。

「岩はすべるし、流れは早いしさ。小父さん、もうあんまりがぶがぶ飲むんじゃないよ」

「そうよ、そうよ。口ばっかりが達者で力はないのよ。小父さん、齢はいくつ?」

 さんざんいじめられて、僕はもう形なしです。それからまた出発。道はますます険しくなり、台風でもあったのか、道は倒木に埋められて、それを器械体操か軽業のように乗り越えて行かねばなりません。

 僕はしばしば悲鳴を上げて、小休止を要求し、やっとのことでイガグリ峠に到着しました。

 イガグリ峠は一面の草原で眺望がよくきくのです。大帽子山、小帽子山。またはるか下方にきれいな池が見えます。聞いてみると、黒髪池と言うのだそうで、それがしきりに僕の画欲をそそりました。

「僕はここで待ってるよ」

 一本落葉松(からまつ)の下に腰をおろして、僕は言いました。

「僕の食糧や飲み物、スケッチブックその他を、出して呉れ。おスガにチビは登って来い」

「もちろん登るわよ。おスガ。帽子を置いて来ることを忘れるな」

「合点だ」

 おスガは雲助のような言葉で言いました。

「黒助はどうする?」

「あたしゃ小父さんとここに一緒にいても仕様がないから、黒髪池に行って見るよ」

「そうだね。こんなとこに男性と一緒にいたら、あぶないからね。では」

 いつもは男あつかいにはしないくせに、こんな時にだけ男性あつかいにするのですから、勝手気ままもはなはだしい。何か痛烈なことを言って返してやりたかったのですが、くたびれていて、そんな元気も出なかった。

「バイバイ」

「バイバイ」

 と、僕を一本松の下に残して、女どもは三方に別れて出発。やがてその姿は小さくなり、僕の視野から消えました。

 僕は芝草の上に長々と脚を投げ出し、弁当を開き、ウィスキーの小瓶の栓をあけました。ウィスキーは咽喉(のど)をやいて胃袋に落ち、やがてほのぼのと酔いが皮膚によみがえって来ました。

「ああ。静かにして孤独なる真昼の宴!」

 と僕は心から思いました。真昼といっても、まだ十時半頃です。早起きして、相当に歩いたせいで、もう昼になったような錯覚を起したのでしょう。

「この世に女どもがいなくなると、かくまで平和に、また幸福になるものか」

 小瓶一本を飲み干し、弁当をがつがつと食べました。朝はろくに食べてないから、まさにこれは天来の味でした。こんなうまい昼飯を、僕はこの数年来、食べたことがありません。あとはごろりと横になって、白雲の去来するさまを眺めていると、そのまま仙人にでもなったような気がしました』

[やぶちゃん注:「月見草」私の大好きな本当のそれは、六~九月頃に、夕方の咲き始めは白色で、翌朝の萎む頃には薄いピンク色となる、バラ亜綱フトモモ目アカバナ科マツヨイグサ属ツキミソウ Oenothera tetraptera (メキシコ原産。江戸時代に鑑賞用として渡来)であるが、恐らく梅崎春生の言っているのは、孰れも私の大嫌いな、主に黄色の花を咲かせる同属オオマツヨイグサ Oenothera erythrosepala(「大待宵草」。原産地不明だが、北アメリカ中部が措定されている)、丈の低い同属マツヨイグサ Oenothera stricta (「待宵草」。南アメリカ原産)、同属メマツヨイグサ Oenothera biennis(「雌待宵草」。北アメリカ原産)などと推定される。

「ゲンノショーコ」漢字表記は「現(験)の証拠」。フウロソウ目フウロソウ科フウロソウ属フウロソウ節ゲンノショウコ Geranium thunbergii当該ウィキによれば、『古来より、下痢止めや胃腸病に効能がある薬草として有名で、和名の由来は、煎じて飲むとその効果がすぐ現れるところからきている』とあり、本種は『白い花を付ける白色系と、ピンク色を付ける紅色系とがあり、日本では、富士川付近を境に東日本では白花が多く、西日本では淡紅、日本海側で紅色の花が多く分布している』とある。

「山中湖事件」ちょっと調べるのに手間取ったが、mitsuhide2007氏のブログ「最近の古いモノは!」の「山中湖の怪死事件」(三回分割なので、御自分で後の二回は読まれたい)で判った。昭和三七(一九六二)年九月十三日午前十時二十分頃、山中湖畔にあった別荘が出火、十一時には鎮火したが、別荘内から十人もの死体が発見され、孰れも仰向けで、頭や首に損傷があり、「助けてくれ」という声を聞いたという証言もあった事件を指す(後にこれは出火通報をした人物の発したものと判明する)。『死体は男女の区別もできないほど、損傷が激し』かったため、後に『司法解剖にかけられ』ている。当日の新聞夕刊には『焼跡に十人の死体。山中湖の別荘。戦後第二の大量殺人?』とし、翌日の記事では『内部からカギ。殺人放火か?心中の巻き添えか?』とあったという(「第二」とは毒物によって十二人が殺害された怪事件「帝銀事件」(昭和二三(一九四八)年一月二十六日に東京都豊島区長崎の帝国銀行椎名町支店で発生)の次の「大量殺人事件」の意)。ほどなく、死体の身元は金融業者(四十三)と、その愛人(四十五)、及び、『バー「リスボン」のホステスと従業員たちであった』(バーの位置は不詳)。九月十一日夜、『金融業者と愛人はバーで飲んで、その後』、『従業員たちと』タクシー二台で『出かけ』、翌十二日午前三時三十分に別荘に到着していた。なお、その『山荘は愛人が管理していた』とある。捜査は二転三転するが、結果だけを言うと、司法解剖によって、全員の死因が一酸化炭素中毒だった。則ち、つけっ放しにしていた『フロ場のプロパンガスが不完全燃焼し、一酸化炭素』が『発生』し、『それが山荘に充満して、中毒死』したのであった。そこに空焚きしていたフロ場から出火が発生、その火災による家屋損壊の際、既に死体となっていた彼らの遺骸が激しく損傷を受けたのであった。さて。悲惨な事故事件だが、一つ興味深いのは、この「雨男」の前篇が発表されたのが、昭和三十七年の十月号、続篇が翌年の三月号なのだが、以上はどう見ても、昭和三十七年十月号分である。今の雑誌もそうだが、十月号は十月一日或いはそれ以前に発行されるのが、普通である。この事件の捜査では、実は出火の再現実験なども行っており、短期に真相が明らかになったわけではないから、梅崎はまさに九月下旬の〆切までにこの原稿を書いたはずだから、まさにアップトゥデイトな「猟奇殺人事件」としてのニュアンスを持った台詞であったと言えるのである。

 

『それからうとうとと、僕は二時間ばかり眠ったらしいのです。まぶしいので、ふっと眼が覚めた。僕をおおっていた一本松の影が、太陽の運行と共に移動して、僕の顔はむき出しの日光にさらされていたわけですな。僕は眼をぱちぱちさせながら、上半身を起した。

 見上げると、大帽子山も小帽子山も、白い雲が流れているだけで、ほんとに気持のいい好天気です。下方に黒髪池もキラキラと光り、あたりの風物は動かず、耳がジーンとするほどの静かさでした。

「あいつら、雨女などと罪をなすりつけ合っていたが、この世に雨女なんてあるものかい。バカだなあ」

 そう呟きながらスケッチブックを開き、帽子山の山容や池の形、高山植物の花の色などを、ゆっくりと写生し始めました。邪魔が入らないので、ゆっくりとスケッチが出来、二時間後に女たちが戻って来るまでに、かなりの枚数が完成しました。

 最初に黒助が戻って来て、十分後にはおスガが、

「やっ、ほう。やっ、ほう」

 などと、あらぬことをわめきながら、かけるようにして下山して来ました。いささかも疲れた様子は見えません。

「小父さん。待たせて悪かったわね。もう元気は回復したでしょう。チビはまだ?」

「まだだよ」

 スケッチブックや色鉛筆を片付けながら、僕は答えました。

「あいつ、また昼寝してるんだな。仕様がないなあ。何かあると直ぐ昼寝をするんだから」

「そうよ。そうよ」

 黒助が賛意を表しました。

「それで夜は夜で、大いびきをかいて、寝言なんかを言うんだからねえ」

 三人車座になってジュースを飲んだりしていると、三十分ほど経ってチビが小帽子山の方から降りて来ました。おスガがきめつけました。

「また昼寝してたんだろう。全くお前みたいに昼寝の好きな女もめずらしいよ」

「昼寝なんかするもんですか。イイ、だ」

 チビは顎(あご)を突き出しました。

 「あたしゃね、高山植物の採取をしてたんだよ。もともと植物には趣味があるんでね」

 見ると植物が根こそぎ引き抜かれて、チビの手に束になっています。僕は注意をしてやりました。

「おいおい。根こそぎは乱暴だよ。根さえあれば、また咲くじゃないか」

「だって、これ、対山荘に移植してやろうと思うのよ。それにこの根、食べられるかも知れないじゃないの。細いゴボウみたいでさ。少くとも酒のサカナぐらいにはなるわよ」

 空には白雲があわただしく行き交(か)って、風も少々ひんやりとして来たようです。そこで出発と言うことになりました。おスガもチビも、自分が雨女でないという証しを立てたものですから、満足して、そういがみ合うこともなく、割に和やかにリュックをかつぎ上げました。

 ところが山の天気というものは、判らないものですねえ。

 イガグリ峠を出て倒木の道を経て、キノコを採ったあたりの赤樺の林にさしかかると、ポツリと上から垂れて来たものがある。ふり仰ぐと、入り組んだ梢のあわいに見える空が、おどろおどろと黝(くろず)んで、落ちて来たのは虫や鳥のオシッコではなく、まさしく雨の雫(しずく)と知れました。

「それっ。たいへんだ」

「小父さん。走るわよ」

 と、三人の女族は呼び交しながら、素早く雨具を着用して、走り出しました。僕もビニールの雨具を着たが、御存じのように無器用なたちでしょう。ボタンをかけ終ってフードをかぶると、女たちの姿はすでになく、雨も次第に烈しくなって来るようです。直接に道には落ちて来ませんが、赤樺その他の樹々の葉にたまって、まとまって大粒になり、ぽたぽたと音を立て始めました。

 そこで僕も走り出しました。

 その時初めて発見したのですが、山道というのは、登るよりも降りる方がつらいものですねえ。前屈みになる関係上、足先が靴につまって痛いし、石ころや岩の根が足裏にひびくし、それに雨が先回りをしたらしく、つるつるとすべるのです。何度尻餅をついたわ、よろけたりしたか、判らないほどです。

「うば捨て山じゃあるまいし、このおれを放って逃げて行くなんて、何と薄情な女たちだろう」

 僕は彼女らをのろいつつ、やっと一時間後に帽子高原に到着、草原を横切って、対山荘に戻って参りました。女たちはもちろん帰着していて、着換えをすまし、食事の準備に大わらわでした。

「おや。小父さん。ずいぶん早かったわねえ」

「すっかり濡れたわね。こちらはこんな小降りなのに」

 対山荘付近はパラパラの小降りで、しかしイガグリ峠方面を眺めると、深い霧にとざされていて、つまり女たちは雨に先立って遁走(とんそう)し、僕だけが雨の中をよたよたと走っていたというわけですな。おスガが猫撫で声で言いました。

「ずいぶん冷えたでしょう。焼酎でも飲みましょうよ。でもワリカンよ」

 何がワリカンかと、僕も少々腹立ちましたが、こんな女たちを相手に喧嘩するのも大人気ないので、

「ふん。ワリカンか。じゃおれの分、ここに置くよ」

 と言い残して、アトリエに引込みました。着換えをしながら台所の方に耳を立てていると、黒助の声で、

「今日は馬肉のナマと行こうよ。サシミがうまいそうよ」

「でも、あのおっさんはナマで食べるかしら?」

「じゃ今日採って来た植物の根を、肉といっしょに煮て――」

 これはチビの声です。

「おっさんにあてがっとけばいいよ」

 着換えをすませて台所に出ると、チビがせっせと根を切っていたところでした。ゴツンと心にひっかかるところがあって、

「おい。その紫色の花、ちょっと貸して呉れないか。植物図鑑で調べるから」

 アトリエに戻って図鑑で探し当てた時、僕は体中がゾーッとして、毛が逆立ちしましたねえ。何とそれはトリカブトの花だったからです。僕はあわてて台所に突進した。

「おい。君たち。これは何の花か知ってるか?」

 僕は図鑑のその頁をぴたぴたとたたきました。

「何だか虫が知らせると思ったが、これ、トリカブトなんだぞ。こんなものを酒の肴にあてがわれて、たまるもんか」

「へえ。何なの。そのトリカブトって?」

「知らないのか。無知蒙昧(もうまい)な輩(やから)だなあ。猛毒があるんだぞ。アイヌの毒矢は皆、この毒を使ってるんだ」

「まあ、猛毒だって?」

 三人の女は大あわてして手を洗い、各々部屋に戻って、それ赤チンを、それオキシフルをと、大騒ぎです。毒が皮膚から吸収されるものか。それよりもそれを食わされそうになったおれは、一体どうなるんだと、面白くない気持で台所に突っ立っていたら、やがてチビが顔をのぞかせて、

「小父さん。それ、どこかに捨てて来てよ。気色が悪いから」

 何と勝手な言い草でしょうね。しかし言って聞かせても判る相手じゃないから、僕はそれらをひとまとめにして新聞紙にくるみ、山荘裏のくさむらにポイと捨てて来てやりました。

「あやうく毒殺されるところだったな。あぶない。あぶない」

 飯盒(はんごう)で自分の飯をたきながら、僕は思いました。

「あんな危険な女たちのつくったおかずを、もう決して口にしないことにしよう」

 アトリエに戻り、鮭罐(さけかん)をごりごり切っていると、扉をほとほとと叩いて、黒助が呼びに来ました。

「小父さん。焼酎飲みに来ない?」

 僕は一瞬ためらいました。また何か食わせられはしないかと、心配したのです。

「うん。でも――」

「でももストもないわよ。ちゃんと割前を払ったんでしょう」

 そう言えばそうであるし、〈何でも屋〉の焼酎に毒が入っている筈がない。おかずさえ食わなきゃいいんだと、ついにまた宴に参加する気持に踏み切ったのです』

 

「ずいぶんケチな動機で踏み切ったもんだなあ」

 私はあきれて嘆息した。

「そんなケチな根性だから、女にもなめられるんだよ。そんな場合、毅然とした態度をとって、女どもを追い出す方向に踏み切るべきだよ」

「そう僕も思ったんですがねえ。相手が石臼みたいな女たちでしょう。これはムリに追い出すより、策略をもって追い返すべきだと――」

「え? 策略? どんな策略だい?」

「それを申せば長いことになりますが――」

 山名君は浮かない表情となり、清酒瓶を耳のそばに持って行って、コトコトと振った。振らなくても、ガラス瓶だから、透けて見える。もう酒がなくなったというデモンストレーションなのである。

「あんたもお仕事があるでしょうから、今夜はここらで失礼して、続きは次回に――」

「おいおい。イヤな真似はよせよ。もう台所に酒はないのか?」

「ええ。これですっからかんです」

 山名君は酒瓶を置いた。

「何なら買って参りましょうか」

「仕方がない。二級酒でいいよ、二級酒で」

「何ですか。僕の話が二級酒にしか価しないというわけですか」

 彼は頰をふくらませた。

「折角面白い話だと思って参上したのに、それを二級品だとは――」

「いいよ。いいよ。君の好きなものを買っといで」

 女に対しては弱いのに、私相手では彼は俄然(がぜん)強くなるのである。

「そうですか。では、そう言うことに」

 やがて山名君は意気揚々として、一級酒を小脇にかかえて戻って来た。ポケットから牛罐を二つ取り出した。

「帽子高原ではね、ニクと言えば馬肉のことなんですよ。ブタは豚肉、鶏はトリ肉と言いますがね、肉屋に行ってニクを呉れと言うと、黙って馬肉を呉れるんです」

「ほう。牛は食わないのかね?」

「ほとんど食べないようですな。あそこらの牛は肉が固いからでしょう」

「で、その夜、君は馬肉の刺身を食ったのか?」

「食べるもんですか。馬の生肉なんて。あたったら、たいへんですからねえ。でも、東京に戻ってさる人に聞いたら、馬肉には寄生虫はいないそうですねえ。そうと知ってたら、食べればよかった」

 山名君は続切りで牛罐をあけた。

「女たちはその刺身を食べたのかね」

「ええ。粉ワサビをといてね、まるでマグロの中トロみたいだなんて言いながら、うまがっていたようです。僕にも食えとすすめたが、こちらも意地ですからねえ、鮭罐専門と行きました」

 

『その中だんだん酔っぱらって来ると、またチビとおスガが口争いを始めました。どうもこの二人は、最初から口喧嘩ばかりしていて、そんなに気が合わなきゃ、一緒に旅行しなけりゃいいのに、と思うんですが、当人たちにしてみれば、やはり張合いがあって愉しいのでしょう。つまりお互いに粉ワサビみたいな役割を果しているんだと思います。

 口争いの原因ですか。高山植物を引っこ抜いて来たという件で、

「チビ。お前は小帽子山に登らずに、麓で昼寝して、申し訳に雑草を引き抜いて来たんだろ」

 このおスガの言葉が、チビを刺戟したんですな。

「小帽子山には登りたくなかったんだろ」

「なによ、おスガ。何であたしが登りたくないわけがあるんだい」

「もし登って雨に降られりゃ、チビが雨女になってしまうからさ」

「冗談じゃないよ。おスガこそ大帽子山に登らなかったんだろ」

 そういう言い争いが、十分ぐらいも続いたでしょうか。頃を見はからって、僕はけしかけるように言いました。

「君たちは二人とも、帽子を山頂に置いて来たんだろ」

「そうよ」

「じゃ二人で明日、別々に登って、確認し合えばいいじゃないか」

 いくらタフな女たちでも、三日続けて山登りすれば、ヘばって帰京する気になるかも知れない。それが僕の策略でした。果して女たちはその餌に食いついて来た。

「そうよ。小父さんの言う通りだわ」

「よし。おスガは明日小帽子山に登れ。あたしゃ大帽子山に登るよ」

 おスガもチビも、もう意地になったようです。意地にでもならなきゃ、同じ山道を三度も登り降り出来る筈がありません。

「じゃ検査役に、小父さんもイガグリ峠に来て呉れない?」

「イヤだよ。あんなとこ。おれの足はマメだらけなんだから、それだけはかんべんして呉れ」

 結局僕は検査役を免除され、黒助がイガグリ峠で待機するということに決まりました。黒助はあんまり気が進まないらしく、

「同じとこばかりに行くのは、つまんねえなあ」

 と、愚痴をこぼしつつ、やっと承諾しました。黒助は三人の中では一番年長らしく、どちらかと言うといつもたしなめ役に回っていました。

 さて、宴果ててアトリエに引取り、僕はのうのうと眠りに入りました。明日は女どもはいない。ゆっくりと孤独が味わえると思うと、まことにのんびりした気分でしたねえ。

 朝六時頃、

「小父さん。行って来るわよっ!」

 という声に目覚めて、寝ぼけ眼をこすりながら庭に出て見ると、三人はもうリュック姿で、驚いたことには黒助が馬に乗っていました。馬と言っても毛並もよごれた、よぽよぼの駄馬でしたが。

「ど、どうしたんだ。その馬」

 と訊ねると、村の青年に頼んで、今日一日タダで借りて来たとのこと。彼女たちも一応女優の卵ですから、色目か何かを使って借りて来たに違いありません。この辺の素朴なる青年は、東京の女優と聞いて、ついふらふらとタダ貸ししたのでしょう。

「君たち、一体馬に乗れるのかい?」

「乗れるのかいって、ちゃんとこうやって乗ってるじゃないの」

 チピがつんけんと言い返しました。

「この馬はね、おとなしい馬だから、あばれたりすることは絶対にないってさ」

「そりゃそうかも知れないが、こんなよぼよぼ馬で、どうしてあの倒木地帯を通り抜けるつもりだね?」

「倒木? ああ、そうだったわね」

 何かこそこそ相談しているようでしたが、

「倒木地帯の前のところにつないで置いて、あとはあたしたち、自分の足で登るわよ」

「そうかい。それならいいけれど――」

 僕はチビに言ってやりました。

「頼むから毒キノコだのトリカブトだののお土産はおことわりだよ。まあせいぜいくたびれて戻っておいで」

「まあ。行けないもんだから、あんな厭がらせを言ってるよ。いい、だ」

 そして彼女らは落葉松(からまつ)道を通って、やがてその姿は消えました。

 ふり仰ぐと、今日も雲一つない好い天気です。これが夕方になるとザーッと来るんだからな、などと思いながら、顔を洗いに渓流の方に歩を踏み出すと、股やふくら脛(はぎ)がぎくぎくと痛む。昨日足を酷使したので、筋肉が凝ったのでしょう。仕様がないので台所で歯をみがき、まだ体全体の疲れが抜けていないようなので、ベッドに取って返して、昼頃までぐっすり眠りました。

 起き出て、散歩がてらに〈何でも屋〉におもむき、食料品を買い求め、ついでにもぎ立ての唐モロコシを六本ほど分けてもらい、対山荘に戻って茄(ゆ)でて食べていると、玄関の方から、

「ごめん。ごめん」

 という声が聞える。何事ならんと唐モロコシを横ぐわえにしたまま出て見ると、詰襟服の中年男が立っています。僕の姿を見ると、皮鞄をがちゃがちゃと開きながら、

「ええ。早速ですが、地代をいただきに来ました」

「え? すると、あんたは?」

「村の役場の者です」

 詰襟をゆるめて、タオルで首筋をごしごしと拭きました。いくら高原でも、真昼の光線はかなり暑いのです。

「ああ。坪十二円のやつですね」

「そうです」

「暑いでしょう。つめたい水でも一杯、いかがですか」

 僕はお世辞を言いました。僕は割かた役人には弱い方なのです。水をコップに入れて持って来て、

「で、総計おいくらですか?」

「ええと――」

 役人はうまそうに水を飲み、あっさりと言いました。

「合計二万四千円です」

「え? 二万四千円?」

「そうです。木村さんは二千坪借りていらっしゃる」

「二千坪も?」

 僕は思わず大声を立てました。せいぜい百坪か百五十坪借りていると思っていたのに、二千坪だなんて何と言うことでしょう。

「二万四千円、今すぐ払えと言うんですか?」

「そうです。契約は契約ですからねえ」

「払えないと言えば?」

「払えなきゃ、没収するだけです。立退(たちの)いていただくことになりますな」

「そりゃ弱ったな。せめて半額だけ今年収めて、あとは来年に――」

「そりゃダメですよ。二千坪だからこそ、坪十二円にしてあるんだ」

 役人の口調は、ちょっと横柄になりました。

「来年に回すと言うなら、村会にかけて、地代値上げということになりますよ。それでよかったら、どうぞ」

 悲憤の涙が胸にあふれて来るような気がしましたねえ。でも、地代はこちらで持つという、木村との約束は約束です。僕は足音も荒くアトリエに戻って、二万四千円という金をわし摑(づか)みにして、玄関に出て来た。

「では、払います。仕方がない」

「そうですか」

 役人は鞄の中から受取証を出し、僕の手から札束をもぎ取るようにして、コップの残りの水を飲み干しながら言いました。

「お宅の水はつめたいですな」

 僕は返事もしてやらなかった。コップを引ったくって、玄関に戻ると、もう役人の姿は見えませんでした。

 僕は俄(にわ)かに食欲が喪失し、庭に出てスケッチなどやろうとしたが、心が乱れて鉛筆を手にする気にもなれません。猛獣のようにうなりながら、そこらを歩き回っていますと、また入口の方から、

「ごめん。木村さんはいませんかあ」

 と呼ばわる声がする。行って見ると、開襟シャツを着た色の黒い青年で、これまた皮鞄を手に提(さ)げている。

「なんですか、あんたは。また役場の人ですか」

「そうです。よく判りましたな」

 青年はにやにやして、皮鞄を開きました。

「水道代を徴収に来ました。お宅はたしか蛇口が三つでしたな」

「そうですよ。それがどうしたんです?」

「蛇口一箇で五百円、あとは一つ増す度に二百円ずつですから、合計九百円いただきます」

「役場じゃ水道代まで取るんですか?」

 僕は嘆息しながら、ポケットから千円札を出しました。

「どうして思い合わせたように、今日取りに来るんですか?」

「いえ。この別荘の人は、来たかと思うとすぐ帰ってしまうんでね、情報が入り次第おうかがいするというわけなんですよ。本宅に一々連絡していては、通信費がかかるんでねえ」

 なるほど役人どもが相次いで来訪するわけは判ったが、その度に金を取られるのは僕なんですからねえ。仏頂面をするのも当然でしょう。役人はおつりの百円玉を置き、

「では」

 とか何とか、あいまいなあいさつをして、そそくさと門を出て行きました。

「ちくしょうめ!」

 僕は後ろ姿をにらみつけ、家の中にかけ込み、あらゆる蛇口を開いて、水を出し放しにしてやりました。ここの水道はメーター制じゃなく、一箇いくらの計算ですから、使わなきゃ損だと言うわけです。水は僕の復讐心みたいに烈しく、飛沫を上げてほとばしりました。

 それでいくらか気分が晴れたが、考えてみると水を出し放しにして、それがどうって言うことはありません。再び庭に飛び出して、ぐるぐる歩き回り、帽子連山の方を眺めると、今日はふしぎにいい天気で、まだ雨の気は少しもただよっていないようです。

「ほんとにあいつらと来たら――」

 僕は鼻息荒くつぶやきました。

「おれが地代や電燈代やで、三万円以上払ってるというのに、タダでのうのうと山登りなんかしてやがって。一体おれを何と思ってるんだろう」

 あんなにごっそり持って行かれては、とても一夏は持ちそうにもない。木村に手紙を出して、僕が使っているのは山荘とその周辺の土地だけだから、あとの雑木林の分の地代を至急送って呉れ、と書こうかなどと思いわずらったり、事情を女どもに話して、宿泊料として少し出させようと考えてみたり、しかしあの女たちが素直に出すだろうかと思ったり、あるいは頭を上げ、あるいは頭を垂れたりして歩き回っている中に、

「あの女たちはキャンプに来たと言ってたが、どのくらいの旅費を用意して来たのだろうか」

 という疑問にぶつかりました。十万や二十万という大金を用意して、キャンプに出かけることはあまりないことですからねえ。

「よし。今晩は巧みにポーカーに誘い込んで、あいつらの有り金全部をはたかせてやろう。無一文になれば、彼等は食うことが出来なくなって、東京に逃げ帰るだろう」

 その名案に僕はぽんと掌を打ち合わせました。僕は幼にして勝負ごとは大好きで、たいていの賭けごとには長じているのです。あの女たちは心臓は強いが、脳が弱いようなところがあるから、成功するんじゃないかというのが、僕のねらいでした。

 その思い付きに気を好くして、でもスケッチにふけるほどの気分にはならず、〈何でも屋〉に降りて行って、安い釣竿や針や糸など一式、買い込んで来ました。さっき下見した様子では、近くを流れる渓流には、魚がいるらしい。ヤマメかハヤでも取れれば、その分だけおかず代が浮く。趣味と実益をかねた暇つぶしというのが僕の目算でした。なにしろ自給自足の休制を固めなきゃ、とても一夏越せそうにありませんからねえ。

 かれこれしている中に、ふと帽子連山の方を眺めると、淡青色の空をバックに、くっきりと山容が浮び上り、なだらかな斜面がイガグリ峠に凹んでいます。

「チェツ。運のいい奴らだなあ」

 僕は思わず舌打ちをしました。ずぶ濡れになって戻って来る姿を想像していたのに、舌打ちしたくなるのも当然でしょう。

 やがて一時間ほど経って、山荘の裏手の方角から、

「やっ、ほう」

「やっ、ほう」

 と、れいの奇声が聞えたものですから、のそのそと(股やふくら脛(はぎ)がまだ痛いので)出て行くと、三人がにこにこと白い歯を見せながら、こちらに手を振っています。それだけならいいけれど、あの老馬の上におスガとチビが二人で得意げにまたがり、黒助が手綱を取って、どこで拾ったのか知らないが、シャンシャンと鈴を鳴らしたりしています。呆れて近づくと、哀れや老馬はその重みに耐えかね、全身汗みずくになって、はあはあとあえいでいます。いくら相手が女でも、二人も乗せりゃ、へたばるにきまっています。

「何だ。ひでえじゃないか」

 僕は義憤を感じて、黒助から手綱を引ったくり、大声を出しました。

「いくら何でも、これじゃ馬が可哀そうだ。早く降りなさい。降りろ!」

 馬の胴体をがさがさゆさぶったので、二人は悲鳴を上げて、ころがり落ちるようにして降りました。僕は早速馬を庭に引き入れ、バケツで水をやると、馬は喜んでごくんごくんとまたたく間に飲んでしまいました。バケツ一杯で、約一斗はあるでしょうな。それをいっぺんに飲み干したんだから、驚きです。

「こんなに咽喉(のど)を渇かせてる馬に、二人も乗るなんて、君たちにはヒューマニズムというものがないのか」

「だって約束だもの」

 チビが口をとがらせました。

「行きは黒助が一人で乗りずくめだったから、帰りはあたしとおスガが乗ったのよ」

「馬の都合も考えず、勝手にそんなことをしていいのか」

 老馬は感謝のまなざしで、しょぼしょぼと僕の顔を眺めて、合点々々しました。

「おお。よしよし。腹もすいただろう。今食べ物を持って来てやるから、待ってろよな」

 僕は台所に飛んで行って、唐モロコシと野菜の切屑を持って戻って来ました。馬は大喜びで、唐モロコシや野菜をぱりぱりと食べました。よほど飢えと渇きに苦しんでいたんですな。よりによって悪い女たちに借りられたもんです。

 僕の見幕が烈しいものですから、女たちは五六歩離れて、こそこそ話をしていました。

「あっ。もったいないわねえ。あの唐モロコシ」

「おいしそうねえ。あたしたちに御馳走しないで、馬に食わせるなんて、一休あのおっさん、どういうつもりかしら」

「あれっ。あのニンジン、あたしたちのニンジンよ。ひとの野菜を馬に勝手に食べさせるなんて、むちゃねえ。そんなことが許されていいもんかしら」

「黙れ!」

 僕は怒鳴りました。

「さんざん馬をタダでこき使って、ニンジンやるのも惜しいのか。図々しいにも程があるぞ。早く馬を持主に帰して、ていねいにお礼を言って来い。そうしないと、対山荘の恥になる!」

 少しきつく言って置かないと、何を仕出かすか知れないので、僕はことさら強く突っぱねました。すると、女たちは反発すると思ったら、案外素直に頭を垂れて、

「はい」

 と僕から手綱を受取って、馬をいたわるようなポーズを取りながら、村の方に降りて行きました。ちょっと意外でしたが、思うにこれは近頃の若い女たちの特徴で、下から出るとつけ上るけれど、頭からがっと押えると案外シュンとなるものらしいです。ことに彼女らは女優の卵なので、監督さんあたりにひとにらみされると、とたんに従順になるという傾向があるのかも知れません。嬉しくなって、僕は彼女らの後ろ姿に追討ちをかけました。

「今日は風呂をわかせよ。おれが入るんだから」

 今日のポーカー作戦はうまく行きそうだと、とたんに愉快になって、僕は家にとって返し、釣竿をかついで渓流にとことこと降りました。夕暮れ時というのは、川魚釣りには一番いい時刻なのです。一時間ほどの間に型のいいヤマメを三匹釣り上げて、アトリエに戻って来ると、連中もいくらか反省したと見え、黒助は台所仕事をし、おスガとチビはドラム罐の下の薪(たきぎ)の燃え具合をしきりに調整していました。台所の板の間には、唐モロコシ十数本と安ウィスキーの瓶が二本置かれています。僕は黒助に訊(たず)ねました。

「馬は戻して来たのか」

「戻して来たわよ。ついでに唐モロコシ十本、もらって来ちゃった」

「もらった? 買ったんじゃないのか?」

「買うもんですか。馬に食わせるほど実っているんだもの」

 黒助は庖丁の手を休めました。

「おスガったら、図々しいのよ。トリ鍋にするから、鶏一羽呉れとせがんで――」

「せがむって、タダでか」

「そうよ。そうしたらさすがに向うの青年もイヤだと言うから――」

「あたり前だ。馬をタダ借りされた上、鶏一羽をサービスするような好人物が、この世にいるわけがない」

「そうでしょ。だからあたしが、唐モロコシで我慢しましょうと、おスガをたしなめてる中に、チビがキビ畠にもぐり込んで、もうゴシゴシともいで来てしまったの」

「まるで押売り強盗のたぐいだね」

 僕は呆れて嘆息しました。

「それで、そいつを肴にして、今日もウィスキーを飲むのかい?」

「ええ。お互いに雨女じゃないことが判ったから、お祝いの会をやるんだって」

「そうか。頂上にお互いの帽子を確認して来たというわけだね。君は何をしてた?」

「イガグリ峠の一本松の下で、ぼんやりしてたわ。つまんないの」

 黒助は溜息をつきました。

「寝ころんで、雲の動きなどをぼさっと眺めて、時間をつぶしてたのよ」

「雲を見て、何か感じなかったかね」

 僕は興味をもよおして、訊ねてみた。

「何かって、何をよ?」

「うん。うまく口では言えないが、大自然の悠久さとか、人間の孤独だとか、またそれに伴うしんかんとした愉しさをとかさ」

「感じなかったわ。全然」

 黒助は小さなあくびをしました。

「感じたのは、退屈だけよ」

 僕が昨日感じたことを、彼女は何も感じていない。ふうん、そんなものかな。世代の相違というやつかな、と僕にはよく判らなかったんですが、あんたはどう思いますか?』

 

「そりゃやっぱり、世代とか年齢の相違だろうね」

 と私は答えた。

「そんなチンピラ小娘に、自然の悠久や孤独を説いたって、仕方がないやね。やはり君みたいな中年男にならないと――」

「中年男? それ、僕のことですか?」

「そうだよ」

「冗談でしょう。中年男だなんて」

 山名君はコップを手にしたまま、大いにふくれた。

「まだ青年ですよ。そりゃ生れは大正末期だけれど、育ちは昭和ですからね。あんまり失礼なことは言わないで下さい」

「しかしだね、イガグリ峠如きに登って、足腰を痛めるなんて、休力的に衰えが来ている証拠だ」

「イガグリ峠と安っぽくおっしゃいますがね、どんなにきつい峠か、登ったこともないくせに――」

「そうだな。そう言えば登ったことはないが――」

 ちょっと私も言葉に窮した。

「と、とにかく君は、人生の空しさとか、虚無を知っている。ところが近頃の若い者には、それがない。行動があるだけだ。だからむやみやたらと山に登りたがる」

「虚無は彼女らの方じゃないですか」

 ぐっと一口飲んで、彼は反論した。

「一本松の下で、何も感じないで、退屈ばかりしていたというのが、虚無、すなわち、頭がからっぽだという証拠です」

「よしよし、判ったよ」

 面倒くさくなって、私はあやまった。

「僕の言い方が悪かった。君を青年だとすれば、その女たちの精神年齢は十二三歳の子供だというわけだ」

「そうです。それなら僕も納得出来ます」

 山名君は安心したように、牛罐から一片つまみ上げて、口の中に放り込んだ。

「全く十二歳、いや、それよりも低く八歳ぐらいかも知れない」

「それでその夜は、成功したのか?」

 

『ええ。大成功でした。僕は先ず風呂に入って、アトリエで待機していると、やがて女が呼びに来た。また夕食を御一緒にしませんか、という誘いです。待っていましたとばかり、早速腰を上げました。先ほど釣ったヤマメを一匹ぶら下げてね。居間の方に行くと、女たちはすでに茹(ゆ)で唐モロコシを卓の上に山と積み上げて、もうウィスキーをちびちびとやっていました。

「よく飲むんだねえ。毎晩じゃないか」

「ええ。毎晩ですよ。小父さん。唐モロコシを御馳走するわよ」

 とチビが慈善者面(づら)をして勧める。そこで僕は、そんなかっぱらって来たようなのを食えるか、おれはこれで行く、とヤマメを見せびらかせながら、コンロの上に乗せました。とたんに彼女らの眼が猫の眼みたいに、ぎろりと光ったですな。新鮮な魚類に飢えていたのに、眼の前につき出されて、ぎょっとしたらしいのです。ふん、思う壺に入ったなと――!』

 

「何が思う壺だね?」

「敵をいらいらさせて、じれったがらせて、精神を惑乱させて、それでポーカーに勝とうというのが僕の神経戦術でした」

 精神年齢八歳の女たちと、こんなに熱心に張り合うなんて、山名君の精神年齢もかなり低いんじゃないか。そう思ったが、言えば怒るにきまっているから、言うのはやめにした。

「ふん。そこで?」

 

『そこで敵も対抗上、イワシの罐詰などをあけ、それを肴(さかな)にしていましたが、罐詰と生まではかないっこない。それに僕のヤマメは脂(あぶら)が乗って、実にうまかった。ウィスキーを片手に、またたく間に一匹食べ終えると、アトリエに戻り、一匹ぶら下げて戻って来ました。三人の眼がまたぎろりと光った。

 金網の上に乗せると、脂をジイジイとしたたらせて、うまそうな匂いを放つ。焼け上るのを待ち兼ねて、金網の上から直接片面ずつ箸でつついて食べる。女たちは面白くなさそうな顔をして、ウィスキーをあおり、唐モロコシを歯でしごいて、ごしごし嚙んでいました。

 二匹食べ終っても、まだ満足しないので、また一匹ぶら下げて戻って来た。するとたまりかねたようにおスガが言いました。

「小父さん。その魚、どこで仕入れて来たの?」

「仕入れたんじゃない」

 僕は悠然として答えました。

「裏の渓流で釣って来たんだ」

「何匹釣ったの?」

「三匹だけだよ。釣ろうと思えばもっと釣れたが、そんなに獲ったって仕方がないしね。おれの分だけ釣って、あとは明日ということにしたんだ」

「まあ、ケチ!」

 チビが舌打ちをしました。

「あたしたちがいるのを忘れたの? この唐モロコシだって、小父さんに食べさせようと思って、決死の思いでもいで来たのに!」

「唐モロコシはお昼に食べて、食べ飽きたよ」

 僕はわざとのろのろした口調で言ってやりました。

「君ら、ヤマメを食いたかったのか。それじゃ自分で釣って来ればいいじゃないか」

「でもあたしたち、山登りに忙しくて、釣る暇がないんだもの。小父さんにも判ってるでしょう」

「山登りって、遊びじゃないか」

「遊びじゃないわよ。今日の登山は」

 チビが言いつのりました。

「用事があって登ったのよ」

「何の用事だい?」

「お互いの帽子を確認しに行ったのよ」

「そんなの、用事と言えるかい?」

 僕はせせら笑った。

「用事というのは、もっと実質のあるもんだ。苦労して帽子を見に行くなんて、意味も何もない。骨折損のくたびれ儲(もう)けというやつだね」

「いい加減なことを言ってるわ。この雨――」

 とたんに黒助がシッと声をかけたので、チビは口をつぐみました。

「え? 雨って、何だい?」

「いえ。何でもないのよ」

 おスガがとりなしました。

「チビって、すぐ変なことを口走るから――」

「でも、小父さん」

 チビはおスガをにらみつけ、そして僕に食い下りました。

「小父さんは今日、大雨が降ってあたしたちが濡れ鼠になって来ればよい、と思ったでしょう」

「な、なにを根拠に――」

 図星をさされて、僕は思わずどもりました。

「そんなことを言うんだい。濡れようと濡れまいと君たちの勝手で、僕と何の関係もない」

「関係あるわよ。思っただけでなく、その思いを実行に移したでしょう」

「実行? おれが何を実行した?」

「雨乞いよ」

「雨乞いを? ばかばかしいや。いつおれが雨乞いをした?」

「したじゃないの。水道を出し放しにしてさ。あんな調子に雨が降ればいいと、蛇口をあけ放しにしたんでしょう」

 さすがの僕もあっけに取られましたな。そりゃ雨が降ればいいなとは考えはしたけれど、そんな邪推を受けるとは夢にも思わなかった。

「違うよ。水道を出し放しにしたのは、他にわけがあるんだ」

「何のわけよ?」

 僕は沈黙した。水道料を取られて、腹立ちまぎれに出し放しにしたとは、あまりにも子供っぽくて、他人に話せることじゃないですからねえ。

「それよりも降雨とおれに、何の関係があると言うんだね?」

 僕は話の方向をちょっとずらした。

「君らが着換えをするところを見て、おれが喜ぶとでも思っているのかい。それほど魅力ある体とは思わないがねえ」

「裸の話をしてるんじゃないわよ」

 体をけなされてかんにさわったらしく、チビがきんきん声を出しました。

「雨男のことよ」

 とうとう言ってしまった、という表情で、おスガと黒助は眼くばせし合いました。

「雨男? そりゃ何だい?」

「小父さんが雨男だと言うことよ」

 チビは居直りました。

「おれが雨男だって? どういうわけでそんな結論が出るんだい?」

「昨日四人で登ったでしょ。すると帰りに降られた。今日は小父さん抜きで、あたしたち三人で登ったら、全然雨に降られなかった。四引く三は一。雨を呼ぶ張本人は、まさしく小父さんじゃないのさ」

 チビは得意気に鼻翼をふくらませました。

「三人で討議した結果、そういう結論が出たのよ」

 この論理にはあきれましたねえ。三人の表情を見ると、真面目にそう思い込んでいるらしく、僕は返す言葉がなかった。

「するとおれは、自分が雨男になりたくないばかりに、雨乞いをしたりしたと言うわけか。おどろいたねえ。じゃあおれは、トランプのババ抜きのババか」

「そうよ。そのババよ。小父さん、何の趣味もない朴念仁かと思ったら、トランプなんかやれるの?」

 うまいことトランプに乗って来やがったなと、僕は思わずにやにやしました。その笑いを、僕が恐れ入ったと解釈したらしく、チピは追討ちをかけました。

「雨が降る気配がないもんだから、やけになって魚釣りして、あたしたちに見せびらかして、口惜しがらせようとたくらんだのよ。どう? 図星でしょ」

 誤解もここまで来ると、もう誤解をとくすべもありません。僕は観念しました。

「そうか。そんな結論が出たのか。それなら仕方がない。僕は雨男でもいいよ。差支えないよ。差支えないがだ、さっきの君の言葉に、気に食わないとこが一箇所ある」

「どこよ?」

「トランプが出来るかという箇所だ。トランプなんか、おれは名人だぞ。あのむつかしいゲームを知ってるか? ええと、ポーなんとか言う――」

「ポーカーでしょう」

「ああ、それそれ、そのポーカーだ」

 ポーなんとか、などととぼけたのは、僕一世一代の名演技でした。これで女たちはすっかり引っかかったようです。

「へえ。ポーカー、やれるの?」

「人は見かけによらぬものねえ」

「あんまりバカにしないで呉れ」

 僕は言いました。

「去年友達から習ったばかりだけど、筋がいいとほめられたんだぞ。何なら一丁やるか」

「でもー」

 チビは周囲を見回しながら言った。

「あたしたち、トランプは持って来なかったのよ」

「おれの部屋の押入れに一組あったよ。多分木村が置き忘れたんだろう。何なら持って来ようか」

 僕は立ち上り、わざとよろよろし、酔ったふりをしながら、画室に戻りました。しばらくベッドの上で休憩、そしてトランプを摑(つか)んで出て来た。休憩したのは、女どもに相談の時間を与えるためです。

 僕が入って行くや否や、チビが言いました。

「小父さん。ポーカー、本式のでやる? それとも略式?」

「本式って、どんなんだい?」

「現金を賭けるのよ」

「現金?」

 僕は眼をぱちぱちさせて、困ったような表情をつくりました。案の定(じょう)彼女らは相談して、昨年習ったばかりのほやほやであるし、酔ってはいるし、ここらで僕からごっそりまき上げようとの方針に一決したのに違いありません。チビが声を強めた。

「本式のでやらなきゃ、面白くないわねえ」

「そうよ」

「そうよ」

 と、あとの二人も賛成しました。

「小父さんはイヤなの? 案外度胸がないのねえ」

「よし。現金でもOKだ」

 と、僕は派手に自分の胸を叩きました』

 

「それで勝ったのかい?」

 私は頰杖をついたまま訊ねた。

「ごっそりまき上げたのか」

「ええ。もちろんですよ」

 山名君は昂然と眉を上げた。

「向うは三人とも、少し酔っぱらっているし、勝負を楽しむことよりも、賭け金にこだわっているんですからね。負けがこんで来ると、頭にかっかっ来る。頭に来ちゃ、とても勝てっこありません」

「しかしよくトランプが都合よく、押入れに置き忘れてあったもんだねえ」

「いえ。実はそれはウソで――。」

 山名君はにやにやと笑った。

「退屈しのぎになろうかと思って、僕がリュックに持参したもんです」

「え? 君のか?」

「そうです。かなり古ぼけて、すり切れたようなトランプで、こんなところで役に立とうとは思わなかったですな」

「へえ。すり切れた古いトランプね」

 ある疑念が私の胸に湧き上って来た。

「じゃ、そのトランプの裏のすり切れ具合で、何の札か判るような仕掛けになってるんじゃないか」

「冗、冗談でしょう。判れば独り占いなんか出来やしない」

「でも、だね」

 私はたたみかけた。

「女たちから金をまき上げようと考えたあと、裏を仔細(しさい)に調べて、特徴を覚えようと努力しなかったのか」

「しつこいですなあ。まるで検事の反対訊問みたいだよ。ああ、しんが疲れる」

 彼はマムシ酒を清酒の中に少量垂らし、ぐっとあおった。

「覚えようとしたって、そうそう全部は覚え切れるもんじゃないですよ」

「でも若干は覚えたり、目印をつけたりしただろう」

「そんなに疑うんなら、僕は帰りますよ」

 彼は憤然として腰を浮かした。

「折角いいタネになると思って、お話に上ったのに、そうケチをつけられちゃ、僕も立つ瀬はありません」

「まあ、まあ」

 私は頰杖を外(はず)して、頭を下げた。

「僕の言い方もトゲがあった。あやまる。も少し話して行って呉れ」

 少しインチキをしたらしいとは思うが、そこが聞き手のつらさで、私はあやまった。とにかく機嫌を取りながら話を引き出さねばならぬので、しんが疲れるのはこちらの方なのである。

「そうですか。それなら特に今回は不問に付することにして――」

 山名君はふたたび腰を据(す)えた。

 

「トランプにインチキはなかったとして――」

 山名君が腰を据えるのを見定めて、私は言った。

「大体そんなことだろうと思ったよ」

 山名君という人物は、年がら年中愚痴をこぼし、損ばかりをしたような話をしているけれども、現実にはそうそうしてやられてばかりはいない。最後にはがっちりと得をする。そういう型の男なのである。

「何がそんなことなのです?」

「いや。君ほどの人物が、三人の小娘に手玉に取られて、引き下がる筈がないということさ」

 私はお世辞を言った。

「金を巻き上げて追い返すなんて、大した知能犯、いや、知能的なやり方だったね。で、その三人、すごすごと下山したのかい?」

「下山なんかするもんですか。あのチャッカリ屋ども」

「え? 下山しない? でも金がなきゃ、蒲団も借りられないし、第一買い物に事欠くだろう」

「そう思うのが素人の浅はかさです」

 彼は私のタバコを平気で抜き取り、うまそうに紫煙をはき出した。もう窓の外は暗くなり、風の音も強くなったようだ。

「女は男と違うんですからね。生活力という点にかけては、女は断然男よりは強いです。その証拠に、終戦後のことを考えてごらんなさい。男は瘦せてひょろひょろしていたのに、女たちはほとんど瘦せず、栄養失調にもかからず――」

「おいおい。終戦後と今では違うよ」

「いえ。危急の場合に立てば、今でもそうですよ。これが男なら、敗北を意識して、おとなしく下山するところでしょうが、彼女たちは踏みとどまって、実によく頑張った。敵ながら天晴れと、ほめてやりたいぐらいです」

 

『敗色濃しと知った頃から、三人の女たちは少々あわて出したようです。それはそうでしょう。僕の技倆をすっかりなめ切って、金を巻き上げてやろうとの心算だったんですからねえ。彼女らの一人が折角いい手がつくと、僕はサッとおりるし、僕にいい手が回ると、

「弱ったな。弱ったなあ」

 と相手を油断させて、ごっそりと巻き上げるし、ついに彼女たちも変だなあと思い始めたらしいのです。

「ちょいとお訊(たず)ねするけれど――」

 とおスガが疑わしそうに、僕の顔を見ました。

「小父さん、去年ポーカーを覚えたというけれど、それ本当?」

「本当だとも。去年の冬だったかな、木村から教わったんだ」

 木村と言うのは、この別荘の持主です。今度は黒助が、

「それにしてはうま過ぎるわねえ」

「なに。ちょっとツイてるだけなんだよ」

「あたし、ずいぶんすっちゃったわ」

 嘆声を上げたのは、チビです。チビは小軀のくせに闘志があって、特攻隊のようにぶつかって来るものですから、僕の手にかかって軽くいなされてしまうのです。黒助は性格上用心深いところがあって、おりる時はおりるが、チビはおりるということをしない。損をするのは当然でしょう。

「運がついてないと、あきらめるんだね」

 僕はなぐさめてやりました。

「しかし帰りの旅費だけは、残しとけよな。東京まで歩いちゃ帰れないんだから」

「にくいことを言うわね。まだ勝ち続けるつもり?」

 それでもチビはリュックを引寄せ、眼をぱちぱちさせて何か暗算をした。旅費の計算をしたんでしょう。目尻を逆立てて、

「さあ、来い」

 と力みました。しかし力んだ甲斐もなく、それから三十分後には、チビはすっからかんになって、トランプを卓に叩きつけました。

「もうやめようっと」

 口惜しげに私をにらみました。

「あたし何だかインチキにかかったような気がするわ」

「あたしもやめる!」

 おスガもチビの真似をして、トランプを投げたところを見ると、これまた相当にすったらしい。一勝負毎の現金取引きですから、僕のポケットは紙幣でざくざくしている。黒助はそれほど負けはしなかったけれど、二人がやめると言い出したので、彼女もやめる気になったようです。トランプをそろえて、私に手渡しました。僕は退屈そうにあくびをしながら、立ち上りました。

「おれはもう寝るよ」

 おスガとチビが相談しています。

「おスガ。どうする。明日からの食事に困るじゃないか」

「――うん。あたしゃパパに電報を打って、金を送ってもらうわ」

「うん。そりゃうまい手ね。送って来たらあたしに少し貸してお呉れよ」

「イヤだよ。チビは自分で才覚しな」

 おスガはつっぱねました。パパだなんて、おスガみたいなガチャガチャ女にも父親がいるのかと、僕は何だかおかしくなり、廊下に出て、アトリエに戻って来ました。そのまま横になりましたが、数日来の鬱憤が一時に晴れたようで、よく眠れたですねえ。

 翌日の十時頃眼を覚まし、裏の水道で顔を洗って台所に入ると、居間から男女の声ががやがや聞えて来ます。耳をそばだてていると、

「へんねえ。うちに山名なんて人、いないわよ」

「でも封筒にちゃんと書いてありますからねえ」

 これは男の声です。

「あっ。あれは郵便屋じゃないか」

 僕が居間にすっ飛んで行くと、果して入口に立っているのは、制服を着た郵便集配人でした。僕はあわてて女たちを叱りました。

「おいおい。冗談じゃないよ。山名ってえのは、僕のことだ」

「へえ。小父さんが山名なの」

 チビがあきれ顔で言いました。

「小父さんにも名前があるのねえ」

「あたりまえだ。名前のない人間があってたまるか」

「でもそんなにスマートな名前を持ってるなんて、意外ねえ」

「スマートもへったくれもあるか」

 と集配人から手紙を受取りましたが、考えてみると、僕も実は彼女たちの名前を知らない。知っているのは、チビだの黒助だのというあだ名だけですから、あいこと言えばあいこです。僕は封を切って読んだ。次のような文面です。

 

 〈拝啓

  木村先輩の送行会が昨日ありまして、本日先輩は羽

 田発にてパリに旅立たれました。その節先輩の申され

 るには、自分は帽子高原に別荘を持っている。山名と

 いう男に番をさせてあるから、行きたけりゃ何時でも

 行って泊りなさい、という木村先輩の言葉でした。そ

 こで相談の上、早速おうかがいすることにしましたか

 ら、その節は万事よろしく願います。不一

                    山野生

                    水原生〉

 

「うっ!」

 と思わず僕はうなりました。土地代や電燈代その他で三万円以上も払っている。とても僕一人では持ち切れないので、半分はそちらで持ってほしいと、木村に速達を出そうと思っていた矢先、もうパリに飛んで行ったとは何事でしょう。パリの住所は判らないし、うならざるを得ないではありませんか。

「バカにしてやがら」

 山野とか水原という男を僕は知りませんが、木村が先輩風を吹かせた様子が眼に見えるようで、しだいに腹が立って来ました。

「何がバカにしてるの?」

 おスガが冷やかすような口調で言いました。

「何か悪い知らせでもあったの?」

「君らと何も関係はない」

 僕は大声で言いました。

「それよりも。パパに電報は打ったのか?」

「打ちましたよ。そして帰りにこれを農家で分けてもらって、朝飯のかわりにしたのよ」

 見ると卓の上には、唐モロコシの食べがらだらけで、芯の長さから言うと、ゆうに一尺近くもありそうな大型のものでした。

「分けてもらったというのは、タダでかい?」

「もちろんそうよ」

 チビがつんとして答えました。

「大型で、すこし粒が固いけど、とてもおいしかったわよ」

「あんまり乞食みたいな真似をして呉れるなよ」

 僕はたしなめました。

「対山荘の面目にかかわるからな」

「だって小父さんは、あたしからごっそり巻き上げたじゃないの。払おうたって、払えやしないわ」

 そして彼女は戸棚をあけました。

「まだこれだけあるんだから、二日や三日は餓えはしないわようだ」

 大型唐モロコシがその中に、わんさと積まれています。余りのことに僕はぐっと咽喉(のど)がつまって、返事が出来ませんでした』

 

「そんなに大きなのが、その高原で出来るのかね?」

 私は食欲を感じながら訊ねた。

「さぞかし食いでがあるだろうなあ」

「それがお笑い草なんですよ」

 山名君は小気味よげに、にやにやと笑った。

「後で〈何でも屋〉のおやじに聞いてみると、大型のやつは牛や馬に食わせるためのものだそうで、帽子村東方約二キロのところに牧場があり、それで栽培しているとのことです。人間用のものはもっと小柄で、粒もやわらかい。僕はそれを聞いて、思わず笑いましたな」

 そして山名君は大口をあけて、思い出し笑いをした。

「牛馬用の唐モロコシを食べて喜んでるんですから、世話はありません」

「ふうん。すると彼女等の歯も、相当丈夫なんだね。うらやましいよ」

「そ、そりゃ丈夫ですな」

「それで。パパの為替(かわせ)なるものは、直ぐに到着したのかい?」

「いえ。なかなか到着しないんですよ」

 彼は笑いを収めて、忌々(いまいま)しげに言った。

「それよりもその日の午後、山野と水原がやって来たんです」

「ほう。どんな男たちだった?」

「山野はがっしりした体格で、水原はすらりとした背高男で、そうですな、齢は二十五六と言ったところですか。両方とも木村の中学校の時の後輩だそうです。対山荘にやって来て、咽喉が乾いたというので、水をやると、うまいうまいと言って、コップで十杯近くもがぶがぶと飲みました」

「それじゃそいつらも、ちょいとした子馬並みだね」

 私は嘆息した。

「なにしろ若さというものは、貴重なものだ」

「いえ。近頃の若者と来たら、生意気なもので、僕に向って、番人の山名さんってあんたのことか、と聞くから、僕は彼等をアトリエに連れて行って、怒鳴りつけてやりました。僕はここの番人じゃないんだぞ。木村から一夏借りた、れっきとした別荘の主人だぞってね」

 

『するとさすがに彼等もしゅんとなり、

「そうでしたか。木村先輩がそんな風(ふう)におっしゃっていたので――」

「木村の言うことなんか、当てになるもんか。先輩風を吹かせただけだよ」

「それは僕たちの失言でした。なにぶんよろしくお願いいたします」

 というわけで、僕も少々可哀そうになり、

「では泊めてやるから、表の居間を君たちの部屋にしなさい。寝具その他は村の〈何でも屋〉で借りて来ればいい」

「それから――」

 水原がおそるおそる質問しました。

「庭にいた三人の女たちは、誰ですか。山名さんの友達かどなたかで?」

「友達なんかであるものか」

 三人女が入り込んだいきさつを簡単に説明し、注意を与えてやりました。

「人間には交際の自由はある。それは僕も認める。しかしあの女たちには、あまり近づかない方がいいと、僕は思う。何しろトリカブトの根を食わされそうになったぐらいだからね。危険な女たちだ」

 この注意もあまり彼等にはきかなかったようです。若いから仕様がないというとこでしょうかな。僕が裏の渓流に釣りに行った間に、彼等は三人女に案内されて〈何でも屋〉に行ったらしいのです。〈何でも屋〉の場所を教えなかったのが、僕の不覚と言えば不覚ですが、三人女にしてみれば、よきカモござんなれ、と待ちかまえていた時に、山野と水原が姿をあらわしたので、早速飛びかかったというわけでしょう。

 その途次で、三人女が青年たちに対し、如何に僕の生活を論じ、悪評を加えたか、つまびらかにしません。しかしポーカーで負けた腹いせに、散々悪口を言ったんだろうとは想像出来ます。青年たちも甘いから、どうもそれに同調したような節がある。

 僕がヤマメを十匹ほど釣り上げて、対山荘に引き上げて来ると、五人の男女はせっせと台所で食事の支度をしていました。聞いていると、もう、

「山やん」

 とか、

「水ちゃん」

 とか、青年たちをあだ名で呼び合っていたようです。で、僕は山野をアトリエに呼んで、話が違うじゃないか、となじると、

「でもね、彼女たちは金を持ってないでしょう。為替が来るまで、食事をいっしょにして呉れと頼まれまして――」

「それがあいつらの手なんだよ。そんな古い手に乗るなんて、だらしがないじゃないか」

「へええ。金がなくなったてえのも、山名さんがトランプで巻き上げたんだそうじゃないですか。すご腕だなあ」

「何がすご腕だ。去年習ったばかりだよ」

「そうですか。でも、一つ屋根の下でいがみ合っているのは、ばかばかしいですねえ。今晩は僕らがウィスキーをおごりますから、ひとつ親睦会と行こうじゃありませんか。女たちもそれを希望しています」

「へえ。あいつらがねえ」

 僕は少々あきれました。

「あの女たち、毎晩飲んでんだぜ。まだ飲み足りないのかなあ」

「ええ。小父さんがどっさり魚を釣って来るから、それをサカナにしてと――」

「あいつらがそう言ったのか?」

 女ってほんとに図々しいもんですねえ。

「よろしい。魚は提供する。そのかわりにウィスキーはたんと飲ませてもらうよ」

「承知しました。先輩。よろしく願います」

 とうとう僕は、先輩にされてしまいました。しかしこの〈先輩〉という言葉は、あまり相手を尊敬した言葉じゃないようですな。相手にたかるような時に使用する言葉で、あまりいい気にはなっていられません。

 それでその夜は、ヤマメと馬肉の御馳走で、もちろんウィスキーも並んでいます。女たちも御機嫌でした。それはそうでしょう。こんなことがなけりゃ、牛馬用の唐モロコシでぼそぼそ食事する筈だったんですからねえ。僕も年長らしい寛容さで、終始にこにこしながら、適当に面白い話などしてやり、コップをぐいぐいとあけました。何だかヘんに酔っぱらったようです。

 僕の機嫌がいいものですから、若いものたちもいい気分になったらしく、

「先輩。少し踊り狂ってもいいですか」

 と、交々(こもごも)立ち上って、ツイストなどを踊り始めました。僕はあの踊りが大嫌いなのですが、今更やめろと命じるわけにも行かず、その中酔いが回って、何もかも判らなくなってしまいました』

 

「よく君は何もかも判らなくなってしまうんだねえ」

 私は嘆声を発した。

「君ももう中年、いや、青年末期にさしかかっているんだから、タダ酒と言ったって、ほどほどにした方がいいよ」

「タダ酒?」

 たちまち山名君は聞きとがめた。

「そりゃその夜の酒は、僕にとってはタダですよ。しかしね、地代その他で僕は三万二千七百円という金を払ってるじゃないですか。それなのに彼等は――」

「判った。判ったよ」

 私は押しとどめた。

「それでその夜もベッドまでかついで行かれたのかい?」

「そうらしいです」、

 やはり照れくさいのか、彼は頭に手をやった。

「翌日また宿酔気味で眼が覚めてみると、庭にどやどやと足音がして、小父さん行って来るわよっ、先輩行って参ります、とかけ声をかけて――」

「どこに行ったんだね」

「大帽子山に登ろうというんですな」

 

『それを聞いて僕はあきれました。男どもはともかく、女たちはここに着いて以来、毎日のように帽子山に登っているのです。見ればへんてつもない、ただの山なんですからねえ。僕は言ってやりました。

「君らは一体何度あの山に登れば気が済むんだい?」

「気が済む済まないは、別ですよ」

 チビが言い返しました。

「今日はガイド、つまり案内人として登るのよ。日当ももらったし――」

「日当?」

 僕は大声を出して、男たちをにらみました。あまりの甘さに腹が立ったのです。

「いえね、この人たちが道案内をして呉れると言うんでね」

 水原が弁解をしました。

「疲れたら荷物もかついで呉れると言うので、ついその親切にほだされて――」

「判ったよ。行きなさい。どこにでも行きなさい!」

 僕は窓をぴしゃりとしめました。全く面白くない気持です。一行五人が白樺の間を縫って、遠ざかって行くのを見届けて、またべッドにごろりと横になりました。

 昼頃起き上ってかんたんな食事をすませたが、何だか関節でも抜けたように気だるく、絵を描く気持にもならず、庭に出てぼんやり帽子連山を眺めていました。今日もいい天気で、山々はくっきりと青空に浮き上っています。

「ちくしょうめ。このおれを雨男と言いやがったな」

 忌々しくタバコを踏みにじり、僕は芝草の上にごろりと横になりました。

「一体おれはここに、何をしに来たのだろう。孤独と平和を求めて、画業に専念しようと思ったのに、次々に災厄が襲いかかって、全然気分が落ちつかない」

 その時はっと心にひっかかった言葉がありました。雨男、という言葉です。

「雨男。それは現実に雨に降られる男ではなく、行く先々で災厄に見舞われる男という意味ではなかろうか?」

 その意味では、いみじくもチビが言い当てた如く、まさしく僕は典型的な用男でした。猛烈な反発が僕の胸に湧き上って来ました。

「おれだけが損をして、あいつらが得をするなんて、そんな不合理なことがあるか!」

 僕は立ち上り、熊のように行ったり来たりしながら考えました。しかし出て行けと言っても、出て行きそうにない奴らばかりです。ついに僕は結論に達しました。

「よし。あいつらから、宿泊料を取ることにしよう」

 宿泊料を取れば、連中も気がひきしまって、遊び呆けることもないだろうし、また帰心を起すことになるかも知れない。その上僕のふところにもプラスになる。そこが僕のねらいでした。

 夕方彼等はまた草花をどっさりかかえ、笑いさざめきながら戻って来ました。あんまり草花を取るなと言っておいたのに、ほんとに仕様のない奴らですねえ。見て見ぬふりをして、アトリエに引っこんでいると、やがて山野が呼びに来ました。

「先輩、食事をいっしょにやりませんか。昨夜のウィスキーも、まだ残っていますよ」

「よしきた」

 と僕は応答しました』

 

「そこで宿泊料のことを切り出したのかね」

 私はにやにやしながら訊ねた。宿泊料などを思いつくところが、山名君の本領なのである。

「一日いくらにした?」

「一日三百円ですよ」

「へえ。そりゃ高いなあ」

「あいつらもそう言っていました」

 山名君はコップをあおった。

「ウィスキーが行き渡った頃を見はからって、切り出したんですが、猛烈な女群の反撃にあいましてね。山小屋だって素泊りは三百円ぐらいなのに、ここで三百円とは暴利だって――」

「それで何と返事した?」

「対山荘は山小屋と違う。ゆったりして快適だし、水も電気もあるし、と言いかけると、山小屋というのは、わざわざ平地から営々と材木をかついで上ってつくったものだから、その労賃がこめられていると――」

「僕もその女群の説に、若干賛成だね」

「でも、山小屋の方は素泊りで、つまり夕方から翌朝までですよ。こちらは一日使いずくめですからねえ」

 彼は慨嘆した。

「すると向うじゃ、この別荘は木村からタダで借りたんじゃないかと言う。男たちも女群に同調して、木村先輩の耳に入ると具合が悪いじゃないか、なんて言い出して来たので、僕は憤然としてアトリエから領収書を持って来て見せてやりました」

 彼は講釈師のように、卓をポンとたたいた。

「どうだ。三万二千八百円。これだけおれは支払ったんだぞ。これでもタダだと言うのか!」

「連中、びっくりしただろうね」

「ええ。僕の鼻息が荒かったもんですから、しゅんとなってこそこそ相談していましたが、ここに五人いる、一日で千五百円、月に四万五千円は暴利じゃないか。半額にしろって切り出して来た」

「なかなか計算がこまかいね」

 私は酒を注いでやった。

「半額にしたのかい?」

「ええ。あっさりと半額にしてやりました。僕は実に気前がいいですからねえ」

 山名君はゆっくりとコップを口に持って行った。

「そのかわりに条件をつけてやりました。宿泊料はその日その日に払うこと。そのくらいは当然でしょう?」

「まあそうだろうな」

「するとチビが猛烈に反対しました。何故かというと、彼女は金を持たないからです。その日払いをするくらいなら、庭にキャンプを張って寝泊りをするという。そこで僕も少々意地になって、庭を使うなら、土地代を払え。坪十二円――」

「おいおい。坪十二円は年間じゃないのか」

「そうなんですよ。向うもそれに気がついて、月にすれば一円、日割にすれば三銭三厘――」

「取ることにしたのか?」

「いや。もらっても仕方がないので、負けてやることにしました。で、チビはその晩から庭にテントを張ったんですが、僕が眠りにおちるのを見すまして、窓から部屋にもぐり込んでいたようです。僕も夜中に起き出して、現場を押える情熱もないですからねえ」

「でも、君は日銭が入るようになったから、大だすかりだろう。うまいことをやったね」

 こんな具合にして、山名君はいつも敗勢を盛り返して、抜け日なく得をするのである。私も何度彼のその手にやられたか判らない。

「それで。パパの為替はついたのか?」

「ええ。五日目にね。為替でなく、本人がやって来たのです」

 

『その日僕は二キロほど散歩して、山村風物をスケッチして、三時頃戻って来ますと、居間の方で聞き慣れぬせきばらいの音が聞える。はて、連中は出かけている筈だと、そっとのぞいて見ると、見も知らぬ男が椅子に腰をおろし、新聞を読んでいました。

 丸顔のずんぐりした体つきの男で、頭のてっぺんがそろそろ禿げかかっているくせに、皮膚はつやつやしている。年の頃はいくつぐらいなのか、見当のつかない、妙な感じの男でした。僕は訊ねた。

「あんたはどなたですか?」

「え? わしですか?」

 男は椅子にかけたまま答えました。

「電報が来たから、様子見がてらやって来たですタイ」

「ああ。それじゃあなたは、おスガのパパ――」

「いや。パパというのはあだ名で、本名は丸井です。東京で画廊を経営しております」

 彼は僕に名刺を呉れました。

「おスガはどこかに出かけましたか」

「ええ。連中は今日は大滝に出かけると言って、朝早く出発しましたが――」

 そして僕はその連中がこの山荘にいるいきさつを簡単に説明してやりました。

 まったく彼等は歩き回るのが大好きで、今日は大滝、昨日は黒髪池、一昨日は帽子湿原地帯と、出かけてばかりいるのです。夜になれば酒を飲み、ツイストだのチャールストンなどを踊り、そのタフなことと言ったら、お話になりません。あのエネルギーを生産的な方に回せばいいのですがねえ。

「へえ。そんなに遊び回ってばかりいるとですか?」

 丸井は眉をひそめました。

「その男の二人とは、どんな男ですか。よか男ですか?」

「さあ。僕も今度が初めてのつき合いで――」

「どうも怪しいと思った」

 丸井は掌を拳固の形にしました。

「わしから金だけを巻き上げて、得体の知れない男たちと遊びおって。全くもって手のつけられない女だ」

 その激昂ぶりが烈しかったので、僕も興味を催して、いろいろと質問し始めました。丸井という男は見かけに似ず割にあっさりした人物で、九州出身者の特徴なんでしょうな、ざっくばらんにいろんなことを話して呉れました。

 それによると丸井は画廊を経営しながら、九州から若い嫁さんをもらったんですが、一年ぐらいでその女は家出して、今はファッションモデルになっているんだそうです。その女は十歳ぐらいの時孤児になり、丸井が学資その他の面倒を見てやっていたのですが、その恩を忘れて丸井を裏切ったわけですな。その女の名を訊ねて、僕はびっくりしました。僕ですら名を知っているような有名なファッションモデルで、どうもこの丸井という男とは結びつかないような感じがしたからです。丸井は眼を据えて言いました。

「折角小さな時から育てて、花を開かせて見ると、とんでもない毒アザミだったというわけですタイ」

 それから今晩ここに泊っていいかと聞くので、宿泊料のこと、貸蒲団のことなどを説明してやりました。するとその〈何でも屋〉に案内して呉れと言うので、いっしょに出かけることにしました。〈何でも屋〉の片隅には木の卓が二つ置いてあって、飲食が出来るようになっているのです。それを見て丸井は、

「少し早いけど、一杯やりましょうや」

 と、一級酒とサカナを注文しました。僕も嫌いな方ではないので、よろこんで相伴(しょうばん)することになりました。

 その時の話によると、おスガはそのファッションモデルの友人だそうで、家出事件に関しては丸井に非常に同情し、いろいろとなぐさめて呉れたとのことです。丸井もその情にほだされておスガが好きになり、近頃では結婚しようとまで考えたのですが、おスガの言い分では、

「あたしは。パパに同情はするわよ。でも、同情と愛情は別だわ」

 そのくせ小遺はしょっちゅうせびりに来る。その時の台辞(せりふ)は、

「少しずつ愛情が湧いて来そうだわ。その愛情が固まるまで待っててね」

 僕は一級酒をチビチビやりながら、この素朴なる人物に大いに同情と共感を感じましたな。よほどのこと、

「あんな女はあきらめてしまいなさい」

 と忠告したかったのですが、人間の愛情は自由なものですからねえ。横から口を出すべきでないと、やっと自分の気持を押えました。

 そろそろ夕方になって来たので、蒲団を借り、米その他を買い、酒を御馳走になった手前、僕が持ってやろうと思い、ためしに、

「丸井さん。あんたは齢はいくつですか?」

 と訊ねると、

「三十五歳です」

 これには僕もおどろきましたな。僕はもう四十五六になっているだろうと考えていたのです。全く女だけじゃなく、男の齢というものは判らないものですねえ。だから全部持ってやるのをやめて、半分だけかついで、対山荘に戻って来ました。

 すると連中はもう戻って来ていて、台所でごとごと食事の準備をしていました。僕のあとについて、のこのこと入って来た丸井の姿を見て、おスガは、

「あっ」

 と声を上げました。

「何だパパがやって来たの。為替だけでよかったのに」

「わしが来ちゃいけないのか?」

「いえ。うれしいのよ。うれしいけれど、パパは忙しいんでしょう?」

「いや。仕事は友人に頼んだから、わしは当分暇だよ。この山名さんに頼んで、当分ここに泊めてもらうことにしたよ」

 その時のおスガの表情は面白かったですねえ。半分うれしいような、半分困ったような微妙な表情で、丸井の肩を抱くような恰好(かっこう)をしました。女優の卵だけあって、その仕種はまことに巧妙で、丸井もすっかり満足したようです。

「おお、おお。よし、よし。小遣はたっぷり持って来たよ」

「あら。パパはすこしお酒くさいわね」

 おスガは丸井から離れました。

「どこかで飲んで来たの?」

「うん。山名さんと〈何でも屋〉で一杯やって来た」

 そして丸井はぐるりと連中を見回しました。

「皆さんとお近付きのしるしに、今日はわしが一本おごろうか」

 妙な濡れ場で、気まずいようなものがただよっていた雰囲気も、それでいっぺんに吹き飛んで、連中は歓声を上げました。ほんとに現金なものです』

 

「よく飲むんだねえ。君もその連中も」

 私はあきれて言った。

「毎晩じゃないか。よく肝臓をいためないもんだなあ」

「でもあの山荘は、テレビはないし、夜遊びに行くところはないし、夜になると何にもすることがないんですよ」

 山名君は答えた。

「飲むのも当然でしょう」

「で、その夜も大酒盛りか」

「そうです」

 山名君はうまそうにコップ酒をなめた。

「ところが宴果てて、丸井の寝る場所が問題になりましてね。丸井は板の間に寝るのはイヤだから、おスガの部屋にしたいと言い出しました。するとチビがそれを反対して――」

「そりゃそうだろう」

「ところがそういうわけには行かないんです。チビは名目上キャンプに寝泊りしてることになっていて、僕に宿泊料を払ってないんですよ。したがって発言権は何もないのです」

「なるほど」

「それを僕に指摘されて、チビはしゅんとなり、しばらくしてプッとふくれて、キャンプで寝りゃいいんでしょ、キャンプで、などと捨台辞(すてぜりふ)を残して、庭へ出て行きました」

「すると、丸井は、おスガと黒助の部屋に寝たというわけだね」

「まあそういうことですな」

「でも君は一応別荘の主だから、風紀についての監督権もある筈だろう」

 私はいぶかしく訊ねた。

「男と女をいっしょの部屋に寝かしていいのかい?」

「僕も一応そうは思ったんですがね」

 山名君は落着いて言った。

「しかし男女と言っても、二対一でしょう。黒助がいるんだし、それに丸井とおスガと結ばれることは、非難することじゃなく、むしろ祝福さるべきことですからねえ。しかし、ここに哀れをとどめたのは、チビです。皆が家の中に寝ているのに、戸外で独り寝ですからね」

 

『翌日起きると、台所はがやがやして、皆で握り飯などをつくっています。その中に丸井も入っていて、いそいそと弁当づくりにいそしんでいるものですから、僕は少しびっくりして訊ねました。

「丸井さん。どこかに行くんですか?」

「いえね、おスガが――」

 丸井は照れくさそうに答えました。

「わしを大帽子山に連れて行って呉れると言うんでね、行くことにしましたタイ」

 ははあ、と僕は思ったですな。丸井を山に連れて行って、くたくたにさせて、あるいは足腰をいためさせて、こんなところはこりごりだと、東京に帰してしまおう。そういう風(ふう)な計画を立てたんじゃないか、と僕は考えたのです。

 丸井というのは悪い人物ではないが、あまり女にもてそうな男じゃない。齢も三十五の割には爺むさく、若い連中の仲間にとけ込めそうにもない。そこでちょっと僕は丸井が気の毒になりました。

「丸井さん」

 と僕は忠告しました。

「悪いことは言わないから、村から馬を一頭借りて行きなさいよ。乗って行くとラクですよ」

「馬なんか要らないわよ。ねえ、パパ」

 おスガがそう言ったところを見ると、やはり僕の推側が当っていたようです。

「うちの。パパは山名さんみたいに、足弱じゃないのよ」

「おお。そうとも。そうとも」

 丸井はうれしそうに合点々々をしました。

「わしは足には自信があるんで、心配せんでもええです」

 そうまで言われると、僕も忠告を引っこめざるを得ません。やがて弁当がととのい、各自にリュックを背負って、

「先輩。行って参ります」

「留守頼んだわよ」

 と、手を振りながら、帽子連山の方に出発して行きました。

 

 僕は午前中アトリエを掃除、昼食をすませて庭に出ると、はるか大帽子山の方を眺めると、今日は雲行きの具合がおかしい。

「おや。雨が降るんじゃないか?」

 そう思った時、突然にやにや笑いがこみ上げて来ましたが、もし雨が降ると、雨男の名が僕から丸井に移るんじゃないかと考え、すこし気の毒な気もしました。

「雨の来ない前に、一釣りして来るか」

 僕はアトリエから釣竿を取り出し、れいの渓流に急ぎました。下流から攻めて、かなり上流まで達し、十匹ほど釣り上げた時、とうとう空はどんよりと曇り、今にも雨滴が落ちて来そうになりました。これはたいへんだと釣竿をたたみ、小走りで対山荘に戻って来ますと、やがてばらばらと大粒の雨が降って来ました。

「ついに降って来やがったな」

 僕は窓から首を出しました。帽子連山もイガグリ峠も雨にまぎれて、一面茫々(ぼうぼう)の視界です。

「連中はまさか丸井を、置きざりにして来やしないかな」

 僕も置きざりにされかかった経験があるので、それが心配でした。ところが案外だったですな。それから半時間ほどして、

「やっ、ほう。ただいま!」

 と叫びながら真先に飛び込んで来たのは、丸井でした。台所裏のサービスヤードで雨衣を脱いでいる丸井に、僕は訊ねました。

「若い者たちはどうしました?」

「競走で帰ろうというわけでね、若い者たちに負けてなるものかと、わしは懸命に走りましたタイ。あの連中ももう直ぐ着くでしょう」

「おどろいたなあ。ほんとに健脚ですねえ」

「何の、何の。ほんのお粗末な足ですタイ」

 男二人とおスガと黒助が帰来したのは、それから十分後です。

「チビはどうした?」

「チビは辷(すべ)って、足をすり剝いて、ビッコを引きながら走ってたわよ」

 おスガが言いました。

「競走だから、放って走ったのよ」

「不人情なもんだなあ」

 僕はあきれました。

 チビが到着したのは、それから三十分も経ってからでしょうか。ビッコを引き引き、顔が雨か汗か涙か知らないが、びしょ濡れになっています。他の連中が着換えてさっぱりしているので、チビは怒りました。

「何だい。迎えに来て呉れたっていいじゃないか!」

「だって競走だもん」

「いくら競走でも、あたし怪我したんだよ。たすけてくれるのが、人間の義務じゃないか。ああ、口惜しい!」

 ぷんぷん言いながら、チビは着換え始めました。夕立だったと見え、雨は小降りになり、ところどころに青空さえ見え始めていました。水原が手伝ってやろうとすると、

「何もしなくてもいいわよ。あたし、男ってきらい!」

 とヒステリー性の声を上げました』

[やぶちゃん注:「サービスヤード」service yardは和製英語で、勝手口の外側の屋外に設けられた家事スペースで、物干し場所や、ゴミ等の置き場所として活用されたり、荷物などの一時的な保管場所として使用されたりすることが多い。日曜大工を行なうスペースとして利用したり、時期によっては、植木鉢・プランターの避難場所として使用する場合もある。建物の側面や裏側など、正面からは見えにくい位置に設置されており、屋根・壁・物干し台・ウッドデッキ・コンセントなどが設けられることもある(「東建コーポレーション」の「建築用語辞典」のこちらに拠った)。]

 

「それでその夜も酒宴というわけか」

 私は訊ねた。

「もちろんそうですよ。明日は小帽子山に登ろうと、丸井のパパが張り切ってね」

「心身ともずいぶん頑丈な男だね」

 私は感心した。

「全然くたびれてないのかい?」

「そうなんですよ。その丸井が僕にも行かないかと誘ったが、僕はイガグリ峠で精いっぱいですから、断ることにしました」

 そして山名君は舌打ちをした。

「おスガと黒助が、この人は雨男だから連れて行かない方がいいだなんて――」

「雨男は君から丸井に移ったんじゃないのかね?」

「癪(しゃく)にさわることには、依然として僕なんですよ」

「なぜ?」

「なぜって言うと、丸井は小遣をたくさん持ってるでしょう。だから丸井を雨男にすれば、具合が悪いんです」

「なるほどね。現金なもんだな」

 私は了承した。

「それでチビの不機嫌さは、なおったのかい?」

「いえ。相変らずのプンプンで、酒のぐい飲みをやって酔っぱらい、明日あたしは山登りはしないと言い出しました」

「そうか。やはり足の怪我のせいか」

「いや。それだけじゃないのです」

 山名君はゆっくりと掌を動かした。

「あとで黒助に聞いたんですが、つまりチビは水原にほのかなる恋情を抱いたんですな。大帽子山頂でそれを打ちあけたところが、婉曲に水原から断られたらしい」

「なんだ。もう恋か。早いもんだね」

「その上帰りに怪我はするし、皆から置きざりにされるし、すっかり頭に来たんでしょうな」

「すると翌日は、チビは行かなかったというわけだね」

「そうなんです」

 彼はまた舌打ちをした。

「折角僕が親切心を出して、雨で地面が濡れているから、キャンプはやめて、今夜だけは特別にタダにしてやるから、家の中で寝なさいとすすめたら、イヤよと拒絶して、庭に出て行きました」

 

『翌日僕とチビをのぞく五人は、威勢よく小帽子山へ出発しました。チビはキャンプの中で、ふて寝をしていました。

 僕はひとりで朝飯をぼそぼそと食べ、弁当をつくり、スケッチブックと釣竿をたずさえ、庭に出てキャンプをのぞくと、まだその時もチビはふてくされて、穴熊みたいにとじこもっている。

「夕方までスケッチなどして来るからね」

 僕はやさしく言ってやりました。

「留守番を頼むよ」

 チビはうなずいただけで、返事はしませんでした。

 それからそこらをぶらぶら歩き、午前中はスケッチ、午後は魚釣りなどして夕方戻って来ると、もう小帽子山の連中は戻って来て、何かわいわい騒いでいます。黒助は僕の顔を見ると、

「小父さん。チビはどこかに行ったの?」

「なぜ?」

「姿が見えないのよ。それが当人だけじゃなく、荷物までもよ」

「そりゃおかしいな」

 と僕もいっしょになって探して歩くと、アトリエの外壁に、絵具を使って、

 

 〈おスガのバカヤロ。黒助のバカヤロ。皆バカヤロ。

 山名のバカヤロ。あたしは東京に帰るぞ〉

 

と落書きがしてある。僕がびっくりして皆を呼び立てると、連中は集まって来て、

「何だい。チビの奴。黙って帰るなんて」

「自分こそバカヤロじゃないか」

 と口々にののしっていました。僕は。バカヤロと書かれたって、別に腹も立ちませんが、ふっと気がつくと、その絵具の色はマルスヴァイオレットです。はっとしてアトリエに飛び込んで調べると、まさしくそれがなくなっているではありませんが。マルスヴァイオレットというのは、丁度(ちょうど)桜の幹に似たような色で、専門家じゃないと使わない絵具なのです。地方都市などでは、おいそれと手に入らない貴重なもので、僕は憤然として、

「チビの住所はどこだ?」

 とおスガや黒助に訊ねると、

「さあ、どこかしら。東京じゃ喫茶店なんかで時々顔を合わせるけれど、住所は知らない」

 との返事で、近頃の若い者の交友なんて、実際たよりないものですねえ。

 それからまたはっと気がつき、

「あいつは借金もそのままにして行きやしなかっただろうな」

 と〈何でも屋〉にすっ飛んで行くと、おやじが出て来て、

「すっかり勘定をすまして、お土産まで買い求めて、バスにお乗りになりました」

 これには僕も感心しました。案外たよりないように見えて、たよりがあるんですな。

 で、その夜もチビに悪口された残念会ということになりました』

[やぶちゃん注:「マルスヴァイオレット」Mars violet。下塗りから上塗りまで幅広く用いられる、この色(欧文グーグル画像検索結果)。明治期頃からは舶来顔料として日本画の色材にも使用されるようになった。]

 

「残念会というけれど――」

 私は聞きとがめた。

「君にとっては、同居人が一人減って、たすかったんじゃないのかい。しかもチビはキャンプ暮しで、タダ泊りだから」

「その点ではそうですがねえ」

 山名君は浮かぬ顔をした。

「こちらの損害も甚大ですよ」

「損害というと、マルスヴァイオレットだけだろう。あんまりケチケチしない方がいいんじゃないか」

「絵具の件じゃないんですよ」

 山名君は憤然として眉を動かした。

「チビの奴、東京に戻って、あちこちの連中に対山荘のことを、言い触らしたんです」

「君たちの悪口をか?」

「いいえ。悪口なら辛抱出来るけれど、とにかく〈何でも屋〉で蒲団を借りて対山荘に行けば、百五十円で泊れる。空気はいいし、水はおいしいし、ことに唐モロコシがうまい。さあ、行きなさい、行きなさいというわけです」

「なるほどね」

 私は感服した。

「それはチビの親切心からでなく、対山荘に人をごしごし押し込んで、皆を困らせようというわけだね。うまく考えたもんだな」

「そうです。チビの作戦は図に当ったわけです」

 彼は慨嘆した。

 

『最初やって来たのは、爺さん婆さんの二人連れです。僕が夕方戻って来ると、居間に腰をおろして、煙管でタバコなんか吸っていました。僕の顔を見ると、爺さんは、

「あんたさんが管理人かね。二人で二日ばかり泊らせていただくよ。はい。六百円」

 いきなり掌に押しつけられたので、ここは宿屋じゃない、と断る暇もありませんでした。一体誰からここのことを聞いたんですか、と訊ねてみたら、

「公園のベンチに休んでいたら、背の低い女の子がやって来て、教えて呉れた」

 とのことです。チビのことに違いありません。時刻も時刻で、追い帰すわけにも行かず、そのまま泊めてやることにしました。

 その老人たちが二日経って帰ったと思ったら、今度は中年女が三人連れでやって来て、

「泊らせてもらいますよ。ああ、汽車の立ちづめで、腰の痛いこと」

 と居坐ってしまいました。

 もとからいた連中、ことにおスガと黒助は大憤慨で、

「折角平和と静寂をたのしんでいたのに、チビのやつ、とんでもないいたずらをしやがって――」

 ぷんぷんのおかんむりです。しかし、平和と静寂をたのしみたかったのは、僕であって、彼女たちも一種の侵入者だから、そんなことを言う権利はないと思うんですがねえ。

 それからが大変です。千客万来とまでは行きません、が、毎日々々誰かが蒲団をかついで、対山荘目がけてエッサエッサと登って来る。今まで泊めたんですから、

「今日からはお断り」

 と追い帰すわけには行かない。

 それに風紀上の問題もあるでしょう。それで僕は最後の指揮権を発動して、表の居間に男、横の畳部屋には女と、はっきり区分けして、夜中に這って歩いてはならないと、掲示を出すことにしました。すると丸井のパパはそれが不服で、

「わしはおスガたちと寝て、一度も間違いを犯さなかったじゃないですか。わしだけは特例にしなさい」

 と食い下って来たけれど、僕は断乎としてしりぞけました。特例を認めてたんじゃ、風紀が保てないんですからな。

 東京で三十三度を越す暑い日が、何日か続いたことがあったでしょう。あの時なんかひどかったですねえ。十五人以上も、それも一緒ではなくばらばらにやって来て、収拾がつかない有様で、アロハ姿のあんちゃんあり、子供連れのサラリーマンあり、その他いろいろで、部屋に入り切れず、廊下や台所にも寝てもらいました。こんなに人が多くなると、庭には紙屑や唐モロコシの食べかすだらけで、仕方なく僕は山野や水原に加勢してもらって、ゴミを捨てるための大きな穴をいくつも掘ったぐらいです。

 さすがの丸井ももううんざりしたようで、おスガと黒助を伴って、東京に帰ることになりました。

「涼しいことは涼しいけれど、これじゃ留置場と同じこと。わしは女たちといっしょに、暑い東京に帰りますバイ」

 これが丸井の台辞(せりふ)です。

 これは僕の臆測ですが、どうもおスガは山野に、黒助は水原に(ほのかなる慕情)を感じていたらしいのですが、こう人数が殖えてはやり切れません。とうとう丸井の言葉に従って、帰京することになりました。

 山野と水原はその日、三人を見送るためにバスに乗って、駅まで行ったのですが、汽車の煙や汽笛の音を聞いて、俄然(がぜん)郷愁を感じたらしいのです。女と別れるという辛さもあったのでしょう。それから二日後、

「先輩。僕たちも東京に帰ることにしました」

「ながながとお世話になりました」

 と荷物をまとめて、対山荘を出発しました。身寄りが皆いなくなったようで、今までは荷厄介に思っていたのに、ちょっと淋しかったですな。

 それからもお客は絶えません。チビのいたずらにしては、少々しつこ過ぎると思って、やって来る連中に訊ねると、おどろきましたねえ。もうチビの紹介じゃなく、それ以後にやって来た客たちが、家に戻っては次々言い触らして、

「それならばおれも」

「あたしも」

 という具合で別の奴がやって来るという事実が判明しました。どうもチビのいたずらにしては、大げさだと思った。こんなに口から口へ喧伝されては、来訪者は幾何級数的に増加する一方でしょう。たまった話ではありません。

 一体どうしたらよかろうかと、画業にも手が着かず、アトリエに閉じこもって考えていると、それから三日経った昼間、巡査が一人庭をぐるりと回って、コツコツとアトリエの窓を叩きました。

「こんにちは」

 巡査は挙手の礼をしました。

「この別荘の主人は、あんたかね」

「はあ。僕ですが、何か――」

「ここで宿料を取って、人を泊めてるというのは、ほんとかね?」

「え。ど、どうしてそれを――」

「投書があってね、それにそう書いてあった」

 巡査は部屋の中をじろじろと見回しました。

「旅館業をいとなむなら、ちゃんと届けを出してもらわなきゃいかん。警察や保健所などにだね」

「旅館業というほどには――」

「でもちゃんと泊り賃を取っとるだろ」

「はあ。タダというわけには――」

「そら。やはり取っとるじゃないか」

 巡査は僕をにらみました。

「明日午前十時迄に、本署に出頭してもらおう。はい。これを」

 令書みたいな紙片を渡し、巡査はまた挙手の礼をして戻って行きました。

 僕はもう泣き出したいような気分でしたねえ。折角いい絵を描こうと帽子高原くんだりまでやって来たのに、がやがやした連中から悩まされ、あまつさえ警察にまで呼び出されるんですからねえ。

「ちくしょうめ。これも皆あいつらのせいだ!」

 あの三人女さえ入って来なけりゃ、平和と静かさがたのしめたのにと、僕は自分の頭をゴツゴツと二三度殴ってやりました。そして二時間ばかり考えた末、ついに夜逃げをする決心がつきました』

[やぶちゃん注:「幾何級数」等比級数に同じ。]

 

「夜逃げって、対山荘をか」

 私は大声を出した。

「折角借りた別荘を夜逃げしたのか?」

「そうですよ」

 山名君は平然として言った。

「色々考えてみたけれど、それ以外に手はない」

「日本無責任時代というが、君のやり方も全然無責任だなあ」

「だって逃げ出さなきゃ、警察に出頭せねばならないんですよ」

 彼は頰をふくらませた。

「すると旅館法違反か何かで、留置場に入れられるかも知れない。僕というれっきとした画家がですよ」

「判ったよ。それで?」

「それからひそかに荷づくりをして、黄昏にまぎれて対山荘を出、〈何でも屋〉に行きました。おやじは愛想よく、僕を迎えて呉れましたな。それでおやじに別荘の鍵を渡して――」

「そのおやじ、信用出来る男かい?」

「さあ。どうでしょう。それほどのつき合いもしなかったから――」

 彼はまた無責任なことを言った。

「僕は急用が出来たんで、東京に戻る。以後対山荘目当ての客には、蒲団は貸さないで呉れ。今六七人泊っているが、明日か明後日には帰ってしまうだろう。そうしたら鍵をしめて、その鍵は明年まで預っといて呉れと――」

「呆れたもんだね。ますます無責任時代だ」

「おやじはよろこんで引き受けて呉れましたよ」

 山名君はコップの残りを飲み干した。長話なので、夜もしんしんと更け、遠くから犬の遠吠えが聞えて来る。酒肴ももはや尽き果てたようである。

「おやじは僕にずいぶん感謝しましてね」

「鍵のことをか?」

「いえ。たくさんの人が対山荘にやって来たので、貸蒲団がよく出たし、罐詰類の売り上げもぐんと殖えた。これもひとえに旦那さんのおかげだというわけで、片隅の木卓でビールを御馳走になり、その上お土産(みやげ)だと言って呉れたのが、このマムシ酒です」

 彼はマムシ酒の瓶を取り、いとおしげに撫でさすった。

「とても精力がつくんだそうですよ。これは」

「もう一杯飲まして呉れ」

 彼はためらったが、私がタイミングよく盃をにゅっと突き出したので、渋々と八分目ほど注いだ。私はぐっとあおったが、酔いが回っているので、先刻ほどはにおいも苦にならないようだ。

「それから最終バスに乗り、警察署を横目に見ながら、駅舎にかけ込みました。やがて汽車が来たんで、真先に乗り込みました。ほんとにすべてから、解放された感じでしたねえ。でも、密告の投書を出したのは、一体誰だったでしょう。何の恨みがあってそんなことをしたのか、あんたには見当はつきませんか」

「つかないね。つくわけがないよ」

「そうでしょうなあ。僕にもつきません」

 彼は溜息をついた。

「折角一夏をたのしもうと思って行ったのに、面倒はかかるし、心境は乱されるし、土地代は取られるし、それで夜逃げと来ちゃ、ほんとに僕は浮ばれませんよ。それほどの犠牲を払って得たものは、このマムシ酒一本だけです。ああ、何と僕はバカな男だろう」

「うん。相当なバカだね」

 しかし次の瞬間、私ははっと思い当った。

「でも君は、土地代などを嘆いているが、たくさんの人を泊めて、宿泊料を取ったんだろう」

「そうですよ」

「廊下や台所にも寝せたというから、延べ人数にしては相当だ。一人百五十円として、百人で一万五千円、二百人で三万円。君は何とかかとか言いながら、結構もとを取ったんじゃないか?」

「そ、そんなこと――」

 山名君は狼狽して手を振った。

「そんな悪どいことを、この僕が――」

 しかしその周章ぶりからして、また彼の性格からして、もとを取ったのみならず、相当に儲(もう)けを握って東京に戻って来たに違いない。そうその時思ったし、今でも思っている。

2022/08/09

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 娵ノ笠・カタシ貝 / ウノアシ 附・武蔵石寿「目八譜」のウノアシの記載と図

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。なお、この見開きの丁もまた、梅園の親しい町医師和田氏(詳細不詳)のコレクションからである。その記載はこちらで電子化した。]

 

「大和本草」

   娵ノ笠(よめのかさ) かたし貝(がひ)【二種。】

 

Yomenokasa

 

「前歌仙介三十六品」の内

               片貝

     伊勢嶋や二見の浦のかたし貝

      あわで月日を待(まつ)ぞつれなき

「六々貝合和哥」

      右十二番

     我袖はいろ香て泻のかたし貝

      あふてうことも波にしほれて

 

[やぶちゃん注:まず、ご覧の通りの形状で、これは、現在の貝の辺縁が綺麗な楕円を描く「嫁が笠」、腹足綱始祖腹足亜綱笠形腹足上目カサガイ目ヨメガカサ上科ヨメガカサ科ヨメガカサ属ヨメガカサ Cellana toreuma ではなく、放射肋が強く、海鳥の足を思わせるところの「鵜の足(脚)」、

カサガイ目ユキノカサガイ(コモガイ)科ウノアシ属リュウキュウウノアシ亜種ウノアシPatelloida saccharina form lanx

である。「二種」とあるが、孰れもウノアシと同定してよく、上の個体は殻上面を、下のやや大きな個体は、放射肋の部分や、中央部の辺縁の周囲が、上の個体のそれより、有意に白く描かれていることから、殻を裏返した内側を描いたものと考えられる。因みに、和名は、幕臣武蔵石寿の(弘化二(一八四五)年の富山藩主前田利保の序があるが、その後も書き足されている。貝類以外の生物や破片及び巻貝の蓋などを含め、総品数は千百六十九もある)の貝譜の最高峰とされる「目八譜」に拠る命名で、殻を上から見た形が鵜の足に似ていることによる。同書の全電子化は是非やりたいのだが、大作で分量が半端ないので、躊躇している。但し、一応、ブログ・カテゴリ『武蔵石寿「目八譜」」は作ってあり、ちょろっと部分電子化はしているのだが。せめても、その「鵜ノ足」部分を以下に示すこととしよう。底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの当該部(第十一巻の「無對類」の内)を用いた。最後にある図を、トリミングして載せておいた(図の関係上、解説の最終行を入れてある)。頭の通し番号を赤くしたのは、赤の丸の内に書かれているからである。カタカナはひらがなに直し、句読点を打ち、一部に推定で濁点と、歴史的仮名遣で読みを添えた。

   *

三十 「鵜の足」 傳称

○石壽云(いはく)、紅葉介(もみぢがひ)同種にして、海水に摩洗して、頂(いただき)青白色、或は、褐色にして、背の辺(あたり)迠(まで)、水白色(すいはくしよく)、或は、黒褐色にして、水鳥の足、水抓(みづかき)に似たり。高稜、白く、剥(は)げ、鳥の足に似たり。

又、頂、白色の所、靑黒色、痣(あざ)の如き班文あり。裏、白色にして、表の文、透明す。又、肌、白色。頂、鈍(にぶき)紫色。裏、白色、光、あり。此(この)余(ほか)、文理・班文、挙(あげ)て數へがたし。表の班文を以て、名を異にするのみ。

 

Mokuhatihuunoasi

 

   *

「大和本草」「大和本草卷之十四 水蟲 介類 ヨメノサラ(ヨメガカサ)」を指しているが、そちらを読んで戴くと判るが、これはウノアシの記載ではなく、私は正真正銘のヨメガカサの記載と断じている。梅園は恐らく、そちらの本文ではなく、「大和本草諸品圖下 海ホウザイ・クズマ・ヨメノ笠・辛螺 (ウミニナ或いはホソウミニナ・クロフジツボ・ウノアシ・レイシガイの一種か)」の「ヨメノ笠」を見たものと断言出来る。そこで益軒は、『ヨメノ笠 ヨメノ皿トハ別ナリ内ニ肉少アリヨメノ皿ト云物ニ似タリ海邊ノ岩ニ付ケリ』とし、『ヨメノ笠ノ仰圖』及び『ヨメノ笠ノ俯圖』というキャプションを施して、ウノアシの図を掲げているからである。

「かたし貝」「片し貝」で、古語で二枚貝の貝殻が離れて一枚になったものを言う。「かたつがい」とも言い、「片し」は、もとは副詞で「別々に」「ちぐはぐに」の意であり、「し」は強調の副助詞である。因みに、「つ」の方は、「上(かみ)つ巻」「時つ風」と同じで、所属・位置を表わす上代の連体格の助詞である。

「前歌仙介三十六品」寛延二(一七四九)年に刊行された本邦に於いて最初に印刷された貝類書である香道家大枝流芳の著になる「貝盡(かいづくし)浦の錦」(二巻)の上巻に載る「前歌仙貝三十六品評」のことと思われる。「Terumichi Kimura's Shell site」の「貝の和名と貝書」によれば、同書は『貝に関連する趣味的な事が記されて』おり、『著者自ら後に序して、「大和本草その他もろこしの諸書介名多しといえども是れ食用物産のために記す。この書はただ戯弄のために記せしものなれば玩とならざる類は是を載せず」と言っている』とある。

「伊勢嶋や二見の浦のかたし貝あわで月日を待(まつ)ぞつれなき」「貝盡浦の錦」の「前歌仙貝三十六品評」(国立国会図書館デジタルコレクションの当該作のここの画像を視認)、によると、

   *

   片介(かたしかひ)  左三

い勢嶋(しま)や二見(ふたみ)の浦のかたし貝(かひ)あはで月日(つきひ)を待(まつ)ぞつれなき

   *

とある。「日文研」の「和歌データベース」の「夫木和歌抄」を確認したところ、の「巻二十五」の「雑七」に載るが(11592番)、作者は不詳である。

「六々貝合和哥」「ろくろくかひあはせわか」は潜蜑子(かずきのあまのこ)の撰になる元禄三(一六九〇)年刊の、当時辺りから流行った三十六歌仙に擬えた歌仙貝選定本。三十六品の貝と、それぞれの貝名を詠みこんだ和歌三十六首を選んだもの。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここで見られるが、梅園はやっぱり崩し字が苦手で、わけのわからぬ字起こしをしている。以下に正しいものを示す。なお、貝の図はこちらの左頁(但し、こちらが歌合せの「右」であるので注意されたい)の「十二 かたし貝」で、明らかにウノアシである。

   *

 右十二 かたし貝

我袖はいつかひかたのかたし貝 後花園院

あふてふことも波にしほれて   御製

   *

書き直すと、

 我が袖はいつか干潟の片し貝

    逢ふてふことも波にしほれて

「いつか」は「何時か」で「いつの間にか」の意であろう。「いつか干潟」という地名に掛けているのかとも思ったが、そのような歌枕の地名は見出せなかった。後花園天皇は室町時代の天皇で応永二六(一四一九)年生まれ、寛正五(一四六四)年崩御。]

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 甲貝・カブト貝 / イシダタミ

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。なお、この見開きの丁もまた、梅園の親しい町医師和田氏(詳細不詳)のコレクションからである。その記載はこちらで電子化した。]

 

Kavutogai

 

甲貝【かぶとがい。】

 

「海膽(うに)」を以つて「カブト貝」とす。夫(それ)とは別物にして、此貝、俯(ふせ)たる所、さながら甲(かぶと)に似たり。故に名とす。

 

[やぶちゃん注:これは小学生が見ても、

腹足綱古腹足目ニシキウズガイ上科ニシキウズガイ科イシダタミ属イシダタミ Monodonta confusa

と判る。私の好きな貝だ。]

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 珠貝(タマカイ)・白玉椿 / ハナガイ

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。なお、この見開きの丁もまた、梅園の親しい町医師和田氏(詳細不詳)のコレクションからである。その記載はこちらで電子化した。]

 

Tamagai

 

珠貝(たまがい) 「百貝圖」に「白玉椿」と云ふ。

 

[やぶちゃん注:特異な強く滑らかな環肋(八条或いは九条を数える)から、

斧足綱異歯亜綱マルスダレガイ目マルスダレガイ科ハナガイ属ハナガイPlacamen tiara

「花貝」と同定してよかろう。学名と和名のグーグル画像検索をリンクしておく。

「百貝圖」何度も出てくるが、再掲しておくと、寛保元(一七四一)年の序を持つ「貝藻塩草」という本に、「百介図」というのが含まれており、介百品の着色図が載る。小倉百人一首の歌人に貝を当てたものという(磯野直秀先生の論文「日本博物学史覚え書」(『慶應義塾大学日吉紀要』(第三十号・二〇〇一年刊・「慶應義塾大学学術情報リポジトリ」のこちらからダウン・ロード可能)に拠った)。]

2022/08/08

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 鶉貝(ウツラガイ) / 迂遠な長考によりウズラガイの螺塔の先端部の欠損片と推理した

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。なお、この見開きの丁もまた、梅園の親しい町医師和田氏(詳細不詳)のコレクションからである。その記載はこちらで電子化した。]

 

Uzuragai

 

鶉貝(うづらがい)

 

[やぶちゃん注:現在の標準和名のそれは、

腹足綱ヤツシロガイ上科ヤツシロガイ科ヤツシロガイ属ウズラガイ Tonna perdix

であるが、同種はどこから描いても、この形にはならないと、まず、思い込んでしまった。長い間、本「梅園介譜」の更新をしなかったのは、本図には甚だ困ったからである。当初、私は、

この図を不用意にも、断然、斧足類(二枚貝)と思い込んだ

のである。その前提で、種を同定しようとし乍ら、しっくりくるものが見当たらず、停滞していたのである。則ち、私は、

左の丸いそれが稜であり、右が前の右殻であると完全に思い込んでしまっていた

のである。しかし、よく見ると、

この図は左方向に石畳状に螺を描いている

則ち、

向こう側に開口している腹足類ではないか?

という、疑いが、暫く後になって生じ始め、そこで、またまた、立ち止まってしまっていたのである。しかし、では、

何故、この向きで描いたのか?

という疑問が生ずる。或いは、

開口部は手前で欠損してしまっていて、中央の軸がむき出しになっていた

のかも知れない、則ち、

向こう側は描きようがない欠損片ではなかったか?

などという、種同定以前のところで、堂々巡りをしていたのである。

 ところが、私はいろいろな、私の今は貧しくなった標本と、図鑑と、ネットの複数の貝サイトの画像と見比べてみても、

どうも、これぞ、というものに出逢わなかった

のである。

 そんな中、今日、久しぶりに上記の梅園の絵を拡大して見ていたところが、ふっと

――最初に否定し、ろくな検証もしなかった、ウズラガイに立ち戻って考えてみた

のである。……すると……これ……

ウズラガイの頂頭部(最先端は欠損しているもの。その証拠に、絵の最上部は白く潰れているように描かれている!)のみを外したものによく似ているような気がしてきた

のである。非常にお世話になっているMachiko YAMADAさんのサイト「微小貝データベース」ウズラガイの写真を見られたい。そう! 私は、

「この本体層の上の次体部が、ポコっと、外れたと仮定し、さらに尖塔部の最後の螺層(胎殻)がポロっといって、そこで潰れたと考えると、実は、この梅園の絵のように、なるんじゃないか?!」

と思い至ったのである。そうすると、

この螺層表面の――ある種、変則的にある模様が――ジグザグに形成されるウズラガイのそれに似ているように見えてきたし、中央を走る有意な凹みが、まさに縫合と一致を見る

のである。或いは、梅園は所蔵者である和田氏から、「これは鶉貝という、なかなか模様の美しい貝なのだが、惜しいかな、欠けた一部でしかない。しかし、一つ、描いておく価値はあると思う。」などという慫慂を受けたものかも知れない。以上、大方の御叱正を俟つものではある。]

只野真葛 むかしばなし (56)

 

一、深井半左衞門といふ鑓(やり)つかい、澁川と引(ひき)はりて、代々、浪人にて、師範して世をへし人なり。同じ築地に住居せし故、稽古の音など聞(きき)たりし。ワ、おぼゑし半左衞門が父なるべし。鑓、つかふ事のみ、心入(こころいれ)て、芝居といふもの、見ざりしとぞ。

 さるを、ふと、外にて、昔の名人海老藏と同座せし事、有しとぞ。其時、半左衞門、云(いはく)、

「さて、私事(わたくしこと)は、家業にかまけて、四拾に及ぶまで、芝居、見し事、なし。今夜、幸ひ、音に聞えし其元(そこもと)に逢(あひ)しかば、狂言見しにも增(まさ)りたり。」

と、いひしを、海老藏、深く感じ、

「其業(わざ)を專(もつぱら)につとめて、芝居見られぬは、潔し。いで、左樣ならば、「矢の根」、五郞の『せりだし』、上障子(うへしやうじ)の内の『にらみ』を、見せ申(まをす)べし。」

とて、其形(かた)をして見せしに、半左衞門、橫手を打(うつ)て感じ、

「實(まこと)、名人と呼(よば)るゝも、うべなり。其身内、少しも、すきなし。」

と、ほめしとぞ。

「今一ツ、何ぞ。」

と、このみしかば、

「然(しから)ば、『俱梨伽羅不動(くりからふどう)のにらみ』。」

とて、仕(しまはし)て見せしに、

「是は。すきだらけなり。」

と、いはれ、

「こふか、こふか。」

と、樣々、工夫して身振せしが、其座にては、出來ざりしとぞ。

 それより、每夜、狂言しまひては、半左衞門が方へ來り、『不動のにら見』して、直(なほ)しもらひしとぞ。【おもふに、「くりから不動」は、首ばかりだしてにらむ故、からだは拔(ぬけ)ても、よさそうなものなり。[やぶちゃん注:底本に「原頭註」とある。]】

「一昔の人は、きこん、別なり。」

と、父樣、御はなしなり。

 半左衞門は海老藏と懇意に成(なり)てより、

「外の役者、みるに及ばず。」

とて、一生、芝居は見ざりしとぞ。

[やぶちゃん注:「深井半左衞門」ある古本屋のデータで、文政一一(一八二八)年刊の「初目録業理教口授秘書 寶蔵院流槍術礒野派」という文書に、「深井半左衛門正光」の名を見つけた。

「澁川」渋川伴五郎義方。前回分を参照されたい。

「海老藏」いろいろ調べたが、何代目かは不詳。本時制が、渋川は承応三(一六五四)年生まれで、宝永元(一七〇四)年に没しており、この深井はそれと張り合ったというのだから、時代が相応に絞れるのであるが、「海老藏」を名乗った時期がしっくりくる人物がいない。さらに、次注した「矢の根」は以下の通り、享保一四(一七二九)年よりも前には存在しないわけで、或いは、真葛の記憶の錯誤があるか。

「矢の根」歌舞伎狂言。時代物。一幕。「歌舞伎十八番」の一つ。二世市川団十郎の創演で、享保一四(一七二九)年に「扇恵方曾我 (すえひろえほうそが)」の一番目として上演され、大当りをとった。原拠は、幸若舞曲及び土佐浄瑠璃の「和田酒盛」。その後、中絶したが、九世団十郎によって復活され、今日の形式となった。矢の根を磨いていた曾我五郎が、夢で兄十郎の危難を告げられ、工藤祐経の館へはせ向うという筋で、荒事の様式美と、伴奏の豪快な三味線の「大薩摩(おおざつま)節」が、よく調和し、大らかで夢幻的な一幕となっている(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。私は歌舞伎嫌いなので、これ以上のシーンの説明は出来ない。Mimosanoki氏のYouTubeの「矢の根」の冒頭であろう。

「俱梨伽羅不動(くりからふどう)のにらみ」不詳。]

只野真葛 むかしばなし (55)

 

一、四郞左衞門樣師の澁川伴五郞は、男子兩人有しが、微力(びりき)にて、家業にうとく、昨今の弟子にも、自由に取(とり)まわさるゝ樣なりしとぞ。諸門弟も、下々、笑(わらひ)そしりて有(あり)しとぞ。

 其子共、十四、十六ともいふ年の頃、伴五郞に至て懇意の友、來り、つくづくいけんせしは、

「扨、其許(そこもと)、如何思わるゝや。子息達、此如(かくのごと)く、かよわき生(しやう)にては、家業、繼(つぎ)がたかるべし。門弟の内より見ぬきて、業(わざ)をつがせ、子達は餘(ほか)の業を學ばせらるゝぞ、よからめ。」

と云出(いひいで)しに、兩人の子も其座に有しとぞ。

 伴五郞、さしうつむき、

「困り入(いり)たる事。」

とばかり、こたへて、すゝめし事には從ざりしとなり。

 諌めし人、いきどほりて、

「お爲《ため》と存(ぞんず)ればこそ、申出(まをしいで)し事なり。御用(おんもち)ひ、無(なき)に於ては、せんもなし。重(かさね)て御目にかゝり難し。かほど、かよわき子達を、さも有者(あるもの)と思わるゝは、親心とは申(まをし)ながら、氣の毒の事。」

とて、立(たち)たりしとぞ。

 此諫(いさめ)を聞(きき)て、兩人の子供は、胸も摧くるばかりにて、落淚して有しとぞ。

 それより、兩人いひ合せて、門人歸りし跡にて、晝夜、怠らず、やわら取(とり)て有しとぞ。夜も一時づゝ、外(ほか)は寢ざりしに、半年ほど、左樣に精出(せいいだ)して稽古したれば、弟の方は、餘程、上りしが、兄はうごかぬ事なりし、となり。

 それにも屈せず、殊更、骨折(ほねをり)て有(あり)しかば、三年を經て、一度に上達し、兄の方、格別に强く成(あり)しとぞ。

 はじめ、門人ども、壱人(ひとり)も勝(かつ)事、能わぬほどに成たり。

 ワ、おぼへて、伴五郞とて來りし人は、此兄なり。小男にて有し。

 父伴五郞、增上寺山門の明(あき)たる時、見物に登りしが、人込(ひとごみ)の上、女の見物、多く、

「めぐるに、はかどらぬ。」

とて、欄檻(らんくわん)を渡りて有しが、

「それも面倒。」

とて、下に人のすきたるを見て、とび下りしを、

「それ、とんだ人が有(あり)、誰だ、誰だ。」

と、人々、いふ。

「柔(やは)ら取(とり)の伴五郞よ、伴五郞よ。」

と、いひ合(あひ)しを、或禪憎、見て居(ゐ)たりしが、

「我も、とばれそふなもの。」

とて、行(ゆき)てみて、たゞ歸りしが、又の年も來りて見しが、

「未だし。」

とて、歸(かへり)しとなり。

 三年めには、山門にのぼりて、欄檻を渡り、伴五郞がせし如く、人の中へとび下(お)りて有し、とぞ。

 扨(さて)、いふ樣(やう)、

「伴五郞は柔(やはら)の術を極(きはめ)し故、山門より、とび、我は座禪をして、心を納(をさめ)し故、同じく、とぶ事を得たり。三年已前、伴五郞に及ざりしを、くやしく思ひし故、わざわざ年每(としごと)に爰(ここ)にいたりて試(こころみ)しなり。今、飛(とぶ)事を得て、おもゑ、晴(はれ)たり。」

とて、去(さり)しとぞ【此はなしは、今の四郞左衞門樣、よく御存じなりし。ワは、少しうろおぼいなり。[やぶちゃん注:底本に「原頭註」とある。]】。

[やぶちゃん注:いちいち指摘はしないが、この条、歴史的仮名遣の誤りや誤字が特異的に多い。

「四郞左衞門」先に何度も出た柔術に秀でた平助の長兄、真葛の伯父。

「澁川伴五郞」渋川伴五郎義方。「只野真葛 むかしばなし (21)」の私の注の冒頭「澁川流のやはら」参照。

「おもゑ」年来の悔しい「思ひ」。]

多滿寸太禮卷第五 木津五郞常盤國至る事

 

[やぶちゃん注:基礎底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこれPDF・第四巻一括版。挿絵は国書刊行会「江戸文庫」版の木越治校訂になる「浮世草子怪談集」のそれをトリミング補正(今回は念入りに清拭し、左右の枠を除去し、合成した)して、適切と思われる箇所に挿入した。]

 

多滿寸太禮卷第五

   木津(きづ)五郞、常盤國(ときはのくに)に至る事

 去(さんぬ)る永祿の比、越後の國、寺泊と云ふ湊に、木津五郞とて、うとくなる商人(あきうど)あり。

[やぶちゃん注:「永祿」一五五八年から一五七〇年まで。室町幕府将軍は足利義輝・足利義栄・足利義昭であるが、後の木津の語りを読まれると判るが、永禄の末年十三年でも微妙に合わない気がし、もう少し後の、元亀年間(一五七〇年から一五七三年まで)とすべきであった。具体的には元亀四(一五七三)年七月の、織田信長の足利義昭の放逐(室町幕府滅亡)の直前辺りでないと、木津の語りと矛盾するからである。]

 多くの酒を作りて、每年(まいねん)、大船(たいせん)に積みて、ゑぞ・松前にわたり、ばいばいをなしけるに、あるとし、例のごとく、舟をしたて、海原はるかにうかみけるに、俄かに氣色(けしき)かはり、東西、墨のごとくに、かき曇り、猛風、せがいを洗(あら)ひ、あまたの舟ども、見るうちに、十方(じつぱう)へ吹流(ふきながさ)れ、五郞が舟も、何國(いづく)を、そこともなく、吹き流されけるに、船中(せんちう)の者ども數(す)十人、生きたる心ちもなく、七日七夜(なぬかなゝよ)、風にまかせて走りけり。

[やぶちゃん注:「せがい」「船枻」。和船の両側の舷に渡した板。櫓を漕いだり、棹をさしたりする部分を言う。]

 風、少し、靜まり、舟も漸々(やう《やう》)、ゆり、すへたり。

 人心《ひとごこ》ちある者、十余人の外は、助かる者、なし。

「いかならん所へも、舟をつけて、しばらく、舟を用意して、本國に歸るべし。」

と、五郞、舟ばたにたち、あがりてみるに、いづくはしらず、茫々たる汀《みぎは》へぞ着きにける。

 遙かに詠(なが)めやりたるに、一里斗り向ふに、夥敷(おびたゝしき)かまへ、見えたり。

 よくよくみるに、二重《ふたへ》の樓門、五重の城(しろ)、瑠璃の瓦、城頭(じやうとう)の金魚(きんぎよ)、日に央《えい》じ、玉のはたほこ、天にひるがへり、猶、奧深く、幾重ともなき大家(たいか)のかまへ、空に聳へて、おびたゝし。

[やぶちゃん注:「金魚」鯱(しゃちほこ)。]

 四、五丈(ぢやう)も、たかき石の堤(つつみ)をつき、所〻に高門(かうもん)あり。築地(ついぢ)の上には、廻廊ありて、濱の面(おもて)に見へたり。あらゆる鳥(とり)獸(けだもの)、人に恐れず。

「あはれ、是は、龍宮城に來りけるや。」

と、肝も心も身にそはず。十余人の者ども、

「たとへ身をすつるとも、ゆきて見ばや。」

と思ひ、舟を渚に引き付け、いかりを、かたくして、おぼつかなくも、步み近付くに、四、五町[やぶちゃん注:三百四十六~五百四十五メートル。]も隔つらんと覺ゆるに、遙かに太鞁(たいこ)の音、聞えて、石門(せきもん)、

「はつ」

と、ひらき、數(す)十人出《いづ》るをみれば、髮は赤く、禿(かぶろ)のごとく、貌(かほ)の色、黃色にして、眼(まなこ)、すさまじく、勢(せい)は七尺ゆたかに[やぶちゃん注:二メートル十二センチを遙かに超えて。]、黑き衣(ころも)を着し、一面に丸(まる)きの棒を、つきたり。

 其の詞(ことば)、一つも聞き分きがたく、此の者どもを眞中(まんなか)にとり込めて、城中(じやうちう)にいりぬ。

 その體(てい)、のがれがたければ、五郞、懷中より筆硯(ひつけん)をとり出し、

「大日本國(だいにつほんこく)越後國の商人 風に流されて 爰に至る 國王の哀れみを受けて 本國 歸らん事をねがふ」

といふ事を、こまごまと書《かき》て、彼(か)の者共が前に投げ出だす。

 一人、これをとりて、良(やゝ)しばし、何事やらん、囁(さゝや)きて、やがて、内に入りぬ。

 かゝる程に、鐘をならし、鉦(どら)をうちて、立ちさはぎければ、

「あはや、今、ころさるゝか。」

と、十余人の者共、肝も心も身にそはず。

 

Kidugorou

 

[やぶちゃん注:王の車を牽いているのは羊である。]

 

 良(やゝ)久敷(ひさしく)ありて、車、とどろき、近づくをみれば、數(す)千の官人(くわんにん)、先(さき)を拂ひ、數百(すひやく)の后妃(こうひ)、玉(たま)のかむりをかたむけ、そのさま、水牛のごとくの獸(けだもの)に、金銀を、以、ちりばめたる、あざやかなる車をひかせ、出で來りぬ。

 十余人の者共も、

「國王ならん。」

と、頭(かうべ)を地につけて、かしこまり、遙かに車の内をみるに、髮(ひげ)[やぶちゃん注:ママ。]は雪のおどろをみだし、目のうち、黃色にひかりありて、身には、錦の衣を着し、此者どもを一目みて、淚をながし、袂を貌(かほ)におほひて、しばし有て、

「良(やゝ)、日本の者共かや。なつかしの有さまや。」

と、敕定(ちよくぢやう)あれば、此の者ども、覺えず、淚を流し、ひれふしけり。大王、のたまひけるは、

「彼等を、よくよくいたはり、本城(ほんじやう)に伴ふべし。」

とて、入らせたまへば、數(す)十人來り、始めにはちがひ、禮をあつくし、請じ入《いれ》ければ、したがひて、ゆく。

 四方(よも)をみるに、そのきれいなる事、云ふ斗りなく、見なれぬ花木(くわぼく)、名もしらぬ草の花、淺むらさき、赤き、白き、咲《さき》つゞけたるよそほひ、更に人間(にんげん)の栖(すみか)にあらず。

 匂ひ、よもに、かほりて、玉しゐ、さわやかに、心、たゞびやうびやうとして、雲にのぼる思ひあり。庭の面(おもて)を見わたせば、諸木の梢《こずゑ》には、五色(ごしき)の鳥、飛《とび》かけり、さえづる聲の面白さ、この世の内とも思はれず。池のうちには、淸き水、たゝえて、金銀のうろくづ、游(およ)ぎめぐり、うきしづみ、或は赤き栗、みどりの棗(なつめ)、しきわたしたる眞砂、立ちならびたる岩ほの間より、靜かに水の流れたるも、さはがしからず。

 殿中には、無量の寶を粧(かざ)り、みな、金銀を以、ちりばめたり。遙かの玉殿に、豹(へう)の皮をかけたる曲祿(きよくろく)をまうけたり。

[やぶちゃん注:「曲祿」「曲彔」或いは「曲椂」が正しい。法会の際などに僧が用いる椅子で、背の寄り掛かりの部分を半円形に曲げ、脚をX字形に交差させたものが多い。]

暫くありて、大王、出《いで》給へば、左右(さう)の侍人(おもとびと)、ぶがくを奏し、まことに極樂國土に至るかと、心も空(そら)におぼえたり。

[やぶちゃん注:「侍人(おもとびと)」「御許人」の当て訓。貴人の側そば近くに仕える人。侍従・侍女・女房の類い。]

 良(やゝ)ありて、大王、仰けるは、

「汝等、日本の者どもと聞《きき》て、なつかしくおぼえ、希れに對面をなす。吾、この地に住《すみ》て、二百余歲をふるに、異國他國の者、爰に流《ながれ》よる事、數(す)百人といへども、終《つひ》に日本人の來る事なし。抑《そもそも》、この國は北海(ほつかい)の果て、漢東(かんとう)の東面(ひがしおもて)、日本を去る事、一萬(いちまん)八千里、漢唐(かんとう)は、いまだ、北海の濱(はま)にして、稀れに西唐(さいたう)・南和(なんわ)の人、吹きよせらるゝといへども、此の所は、又、漢唐に隔(へだゝ)りて、昔より、漂船(へうせん)の至る事、なし。今、汝等、不思義に爰に來たる事、ひとへに吾が機緣、つきずして、あひみる事のうれしさよ。

  我は、過《すぎ》し「元弘の亂」に、關東鎌倉におゐて、高時、滅亡の時節、其名をふるふ、長崎勘解由(かげゆ)左衞門と云ふ者也。亂世(らんせい)をいとひ、何地(いづち)をそこともしらず、或時は海をこへ、或時は山をこへて、みとせの春秋(はるあき)を送りて此所に至る。多くの者をしたがへて、已に國王に幸《さひはひ》して、終に此國を領して、他方(たはう)に奪はれず、榮花を究め、をのづから生長して、年比、吾が朝(てう)にて聞き及びし、常盤國《ときはのくに》と云ひしは、則、この所なり。此國、つねに四季、なふして、寒暑なし。いつも吾が朝(てう)の秋に似たり。凡そ萬木千草(ばんぼくせんさう)、をのづから四季をわかたず、みどりを生じ、五穀、なを、種(たね)をおろすに、月を經ずして實のる。米穀・菓爪(くわくわ)、冨饒(ふねう)にして、萬寶(ばんほう)を地に出《いだ》す。農民、たがやすに力(ちから)をつくさず、生類を食せずして、珍味に、あく。これによつて、魚鳥(ぎよてう)、人を怖れず、畜類、つねに、がひをなさず。さるによつて、唐(たう)には菩薩國と云《いふ》とかや。

 今は、としさり、世もおしうつり、いかなる人か、國土を治め、誰の世にてあるらん。委しく、かたり給《たまは》れ。」

[やぶちゃん注:「長崎勘解由(かげゆ)左衞門」「太平記」巻第十によれば、鎌倉幕府滅亡の元弘三/正慶二(一三三三)年、新田義貞率いる攻め手一群が鎌倉の極楽寺坂に攻め入った際、そこを守った武将に、高時の下で実質的な権勢を維持していた得宗被官(御内人)長崎円喜を首魁とする長崎氏の一族の内の、長崎三郎左衛門入道思元(しげん:出家後の法名。俗名は高光(たかみつ)或いは高元(たかもと)とされる)と、その子息勘解由左衛門為基がいた。守勢を維持出来なくなった父は息子に別行動をとるように指示し、自身は東勝寺に戻り、高時・円喜らと自害したが、息子の長崎勘解由左衛門為基はその後どうなったかは未だ明らかではない。彼の生年は未詳でその時の年齢は判らぬが、永禄元年から数えると、二百二十五年前で、話としては合う。]

とあれば、五郞承り、大に驚き、

「さん候。そのかみ、元弘の始より、今、御當家に及びて、歲霜已に二百二十余年。高時公滅亡の後、しばらく後醍醐天皇、世を知《しろ》し召《めし》、大塔宮尊雲親王(おほたうのみやそんうんしんわう)、天下の權(けん)を執り給ひしに、幾程なく、足利治部太輔尊氏(あしかゞぢぶのたゆふたかうぢ)、天下を奪ひ給ひ、子孫、すでに十三代。征夷大將軍源義昭公の御代にて、盡(つき)、織田信長公、天下の權を執り給ふ。抑《そもそも》、此信長公は、桓武天皇三十二代、平相國淸盛に二十一代の後胤、織田彈正忠(おだだんじやうのちゆう)平信秀(たいらののぶひで)の次男なり。當時も、日本は、半ば、亂れて、猶、諸國に戰ひ、たえず。元弘・建武より以來(このかた)、いまだ一日も易き事、なし。諸人(しよにん)、安堵の思ひに住《ぢゆう》せず、或は、主を殺し、臣を害し、子は親を打《うち》、親は子を殺す。互《たがひ》に國を合はせ、郡(こほり)を奪ひとらんとす。此後、いかなる世にか、一天下、靜謐(せいひつ)して、万民(ばんみん)、安穩(あんおん)成るべしとも、おぼえず。」

と、委細に奏し申せば、大王、たもとをしぼり、

「我、かゝるたのしみに日を送るといへども、越鳥(ゑつてう)、南枝(なんし)に巢をかけ、胡馬(こば)、北風にいなゝく、とかや。常に日のもとに向かひては、淚をながす。傳へきく、朝比奈義秀は、高麗國(かうらいこく)にわたりて、荒人神と成《なり》つるも、異邦のたのしみ、本意(ほい)ならず。今、汝が物語を聞《きき》て、往昔(そのかみ)、戀ひしく、茫然とす。しかれども、數百年(すひやくねん)、亂世(らんせい)をさけ、今、此國に、たのしみを、うへる。生前(しやうぜん)の思ひで、何か、これにしかむ。汝等、妻子を引きわかれ、遠く爰に來り、心を異國にくるしまむ。急ぎ歸りて、此有樣を本朝(ほんてう)につたふべし。」

[やぶちゃん注:「越鳥、南枝に巢をかけ、胡馬、北風にいなゝく」「越鳥、南枝に巣を懸け、胡馬北風に嘶く」は「故郷の忘れがたいことや、故郷を恋い慕うこと」の喩え。望郷の念にかられること、ノスタルジアの意。中国南方の越の国から渡って来た鳥は、樹木の日の暖かな南側の枝に巣を作って南を思い、北方の胡の国から来た馬は、北風が吹いてくると、故郷を懐かしんで嘶くという「文選」の古詩に由来する。

「朝比奈義秀」(安元二(一一七六)年~?)は稀代の剛勇でとみに知られた鎌倉幕府初期の御家人。和田義盛の三男にして朝比奈氏当主。安房国朝夷(あさい)郡に領地としたことで「朝比奈」を苗字とした。建暦三(一二一三)年五月二日、第二代執権北条義時の度重なる挑発を受け、父義盛が決起した際にも大活躍したが、翌三日には劣勢に転じ、義盛を始めとした主だった武将は討ち死にしたが、義秀(当時は三十八歳)は、船六艘に残余の五百騎を乗せ、所領の安房へ脱出している。その後の消息は不明であるが、「和田系図」は、高麗へ逃れたと記している。]

とて、さまざまの珍味をもてなし、

「暫く、舟を用意せんまに、城邊を打ち𢌞りて、心をたのしみ、歸るべし。」

とて、朱衣《しゆえ》の官人(くわんにん)を、かれらにそへて、近隣を見せ給ふ。

 大王より外(ほか)は、すべて、その詞(ことば)も通ずる事、あたはず。

 その國民、大小の家、冨貴にして、猪・熊、或は羊、見もなれぬ獸物(けだもの)に荷物を負《おは》せ、鳥類は、終日(ひねもす)、田畠(でんはた)をたがやし、夕陽(ゆふひ)には、人家に來りて、食を與(あた)ふ。

 東南に冷泉の、ふたつの瀧あり。諸人、こゝに至りて、身を浴す。冷泉の流れは、人家にせきいれて、朝三暮四のたよりとす。

[やぶちゃん注:「朝三暮四」朝夕の粗食の意。]

 儒佛の敎なく、神社・道家(だうけ)の禮典も、なし。只、宗廟の玉殿を山上にまふけ、諸人(しよにん)、偈仰(かつご う)の體(てい)有《あり》。

 女は錦の織物をいとなみ、おとこは五穀をかりおさむ。

 一人として、おとれるもなく、勝(すぐ)れて貴(たうと)きも、なし。

 文書(もんじよ)あれども、文字の分(わけ)もなし。

[やぶちゃん注:「文字の分(わけ)もなし」全く判読することが出来なかったの意であろう。漢字でもなかったのである。]

 或は、油(あぶら)、洞(ほら)より、わき出で、地より酒の泉(いづみ)を生(しよう)ず。その味、甘露のごとし。

 白髮(はくはつ)の男女(なんによ)、幾(いく)とせふると云《いふ》事をしらず。五百、七百の星霜をふるといへり。「北州の千歲」とは、爰の事ならん。

[やぶちゃん注:「北州の千歲」「北州」は仏教の宇宙観に於いて、中央に聳える須彌山(しゅみせん)をとりまくとされる四大洲(四つの大陸)の一つで、北方にあって、他の三洲に勝れ、寿命千歳の楽土とされる「北倶盧洲」(ほっくるしゅう)の略称。「鬱単越」(うったんおつ)とも呼ぶ。]

 又、家每(いへごと)に、七弦の琴(きん)のごとくなる物をしらべて、これをたのしみとす。

 東西南北、ひろき事、七日を經て、果(はて)に至るといへり。西は、猶、漢唐(かんたう)につゞきて、その幾千万里と云《いふ》事をしらず。

 國のうち、若(も)し死亡の者あれば、國郡(こくぐん)、こぞつて是をかざり、宗廟(そうべう)の玉殿におさむ、とかや。

 金銀は山河の流れにまろびて、みちみち、銅・鉄は地にみちたり。

 一日一夜(いちじついちや)は、猶、日のもとの、五、六日をふるごとし。

 日輪、海より出《いで》て、海に沒す。月も又、是におなじ。

 此國の人は、夜も、眼(まなこ)、あきらかにして、晝のごとし。

 男子《なんし》は少(ちい)さき利劔(りけん)を帶《おび》、或は鉄の棒をつき、女子《によし》は、たんごん美麗にして、同じく髮をみだせり。親子夫婦の禮法、をのづから正しく、ふしどを分かつ。

[やぶちゃん注:「たんごん」「端嚴」(「たんげん」とも読む)で、姿などが整っていて、威厳のあること。]

 かゝりし程に、舟、やうやく、なりて、暇(いとま)を申《まをし》て出《いづ》るに、今更、名殘(なごり)おしく、更に、わかれがたし。

 大王も、ふかくの淚をながし給ふ。

 城中の男女も、をのをの、石門(せきもん)まで送り、これをみる。

 米穀・金銀、色々の產物を舟につみ、十余人の者ども、をのをの、一心に太神宮を拜して、順風に帆を擧げたれば、神明の御利生(ごりしやう)にや、舟は矢を射るごとくにして、多くの日數を經(へ)て、佐渡の國まで、漸々(やうやう)と着岸し、それより、浦づたひ、本國、歸りしに、すべて、三年を海中に送り、國に歸り、此《この》事を披露しける。

 則ち、受け來たる寶物を、八彥山(やひこさん)の寶藏に納め奉りけり。

 更に、歸り來たる方角もわきまへず、何(いづ)れの方とも、しれざりけり。

[やぶちゃん注:「八彥山」「彌彥山」が正しい。新潟県西蒲原郡弥彦村と長岡市との境にある。標高六百三十四メートル。当該ウィキによれば、『新潟県の広い地域から見ることができ、弥彦神社の祭神・天香山命を祀った山として、古くから人々の崇敬を集め、山全体が弥彦』(本来は地名と神霊の名を区別して「いやひこ」と読んでいたが、現在は同じく「やひこ」で慣用化されてしまっている)『神社の神域となっている』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

2022/08/07

將欲能爲自等身大――

將に能く自づと等身大たらんと欲す――

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 古き和漢書に見えたるラーマ王物語

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから(右ページ後ろから三行目の中間)。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。但し、例によって段落が少なく、ベタでダラダラ続くため、「選集」を参考に段落を成形し、注は各段落末に配した。彼の読点欠や読点連続には、流石にそろそろ生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、句読点を私が勝手に変更したり、入れたりする。

 なお、本篇は内容的にダブるのは仕方がないが、後の大正九(一九二九)年に『太陽』に連載された「十二支考」の「猴に關する民俗と傳說」の「五 民俗(2)」で、全くそっくりの内容が繰り返されてある。新字新仮名で「青空文庫」のこちらに電子化されてある。比較されたい。]

 

     古き和漢書に見えたるラーマ王物語

           (大正三年八月考古學雜誌第四卷第十二號)

 明治二十六年秋、予、故サー・ウラストン・フランクス(エンサイクロペヂア・ブリタニカ十一板十一卷に其傳を載す)を助けて、大英博物館宗敎部の佛像佛具の名を定むる時、本邦俗間所祀の庚申像に必ず猴を副る由、話せしに、其はラーマーヤナに出たるハヌマン猴將軍抔より起れる信仰ならんと言れし。當時、パリのギメー博物館に讀書中の土宜法龍僧正へ此事を問合わせたるに、返書有り、庚申の夜、祭る靑面金剛は、ラーマの本體ヴシュヌ神より轉成せる者の如し迚、其相形を詳記し、斯れはフランクス氏の推測、其實に近からんと述られたり(一九〇三年龍動[やぶちゃん注:「ロンドン」。]發行ノーツ・エンド・キーリス九輯二卷四三〇乃至四三二頁、予の三猿考を見よ)。依て、和漢に古く、ヴシュヌ神、ラーマ王、及、ハヌマン猴將軍の事を傳へたる證左を知人共に求めしも、確たる回答を受ず。不得已[やぶちゃん注:「やむをえず」。]、自ら氣長く藏經其他を閱して、果然、古く和漢の佛典に、件の名號・傳說、竝びに少なからず散見するを知り錄し置きつ。惟ふにラーマーヤナはマハーブハーラタと印度の二大長賦たり。彼國の考古學に最も重大の關係有る者なれば、印度の事物に注意深き人々は、業に[やぶちゃん注:

すでに」。]此物語の槪要古く和漢に知られ居たるを知悉さるゝならんも、今年二月十日の「日本及日本人」に猪狩史山氏のラーマ王物語出て其梗槪を序せるを見れば、一般讀者中には、今も此物語の何たるを知らざる人も多きにや。其人々は、無論、此物語が蚤く[やぶちゃん注:「はやく」。]和漢に傳はり居たるに氣付ざるべければ、遼東の豕の譏を顧みず、舊日の備忘錄に據て鄙見を述る事左の如し。

[やぶちゃん注:「ラーマ王物語」古代インドの大長編叙事詩で、ヒンドゥー教の聖典の一つであり、「マハーバーラタ」(世界最長編(十八編で詩数は十万を超える)の叙事詩。北インドに行われていた伝承がほぼ四世紀頃に形を整えたもので、バーラタ族の大戦争が主題)と並ぶインド二大叙事詩の一つである「ラーマーヤナ」のこと。当該ウィキによれば、サンスクリットで書かれた全七巻で、『総行数は聖書にも並ぶ』四万八千『行に及ぶ。成立は紀元』三『世紀頃で、詩人ヴァールミーキが、ヒンドゥー教の神話と古代英雄コーサラ国のラーマ王子の伝説を編纂したものとされる』とある。シノプシスは引用元を参照されたい。

「明治二十六年」一八九三年。熊楠はこの前年の九月に渡英しており、この頃、大英博物館に出入りするようになっていた。

「サー・ウラストン・フランクス(エンサイクロペヂア・ブリタニカ十一板十一卷に其傳を載す)」オウガスタス・ウォラストン・フランクス(Sir Augustus Wollaston Franks 一八二六年〜一八九七年)は大英博物館の英国・中世古美術及び民族誌学部部長(一八六六年就任)。晩年は博物館理事も兼務した。熊楠を大英博物館に招いた人物で、東洋美術のコレクターとしても著名。熊楠御用達の「エンサイクロペディア・ブリタニカ」(Encyclopædia Britannica)のそれは、載るべき箇所は「Internet archiveのここだが、多分、「FRANCKE, AUGUST HREMANN」という別人の記載を見誤ったもので、彼の記載はない。

「副る」「そへる」。

「ハヌマン猴將軍」当該ウィキによれば、ハヌマーンは『インド神話における神猿。風神ヴァーユが天女アンジャナーとの間にもうけた子とされる』。『名前は「顎骨を持つ者」の意。変幻自在の体は』、『その大きさや姿を自在に変えられ、空も飛ぶ事ができる。大柄で顔は赤く、長い尻尾を持ち雷鳴のような咆哮を放つとされる。像などでは四つの猿の顔と一つの人間の顔を持つ五面十臂の姿で表されることもある』とあり、「ラーマーヤナでの記述」の項には、『ハヌマーンは猿王スグリーヴァが兄ヴァーリンによって王都キシュキンダーを追われた際、スグリーヴァに付き従い、後にヴィシュヌ神』(ヒンドゥー教の神。「リグ・ベーダ」では単に太陽を神格化したものであったが、後世、シバ・ブラフマー(梵天)と並ぶ最高神の地位を占めるようになった。宇宙の維持発展を司る。仏陀も、その化身とされる)『の化身であるラーマ王子とラクシュマナに助けを請う。ラーマが約束通りにヴァーリンを倒してスグリーヴァの王位を回復した後、今度はラーマ王子の願いで』、『その妃シータの捜索に参加する。そしてラークシャサ(仏教での羅刹)王ラーヴァナの居城、海を越えたランカー(島の意味。セイロン島とされる)にシータを見出し、ラーマに知らせる。それ以外にも』、『単身あるいは猿族を率いて』、『幾度もラーマを助けたとされており、その中でも最も優れた戦士、弁舌家とされている』とある。

「土宜法龍僧正」(どきほうりゅう 安政元(一八五四)年~ 大正一二(一九二三)年)真言僧で真言宗高野派管長。複数回既出既注であるが、再掲しておく。名古屋生まれ。本姓は臼井。四歳の時に伯母の貞月尼を通じて出家し、「法龍」と称した。明治二(一八六九)年に高野山に登って、真言・天台などの教義を学び、仏教教学の研究に努めた。明治二六(一八九三)年、アメリカのシカゴで開催された「万国宗教会議」に日本仏教の代表の一人として参加した。その会議終了後、ヨーロッパに渡り、パリでは「ギメ博物館」仏教部の要請を受けて五ヶ月間、滞在しており、また、ロンドンでは、まさに滞欧中であった南方熊楠と出会い、互いに意気投合して、パリ滞在中にもロンドンの南方と書簡を交わすようになり、西域・チベットへの仏教探訪の旅を語り合ってもいる。また、南方が紀伊に帰ってからも、文通が頻繁に行われ、南方の宗教観、特に曼荼羅論・宇宙論に大きな影響を及ぼしている(この往復書簡は甚だ面白い)。明治三十九年に仁和寺門跡御室派管長、大正九(一九二〇)年に高野派管長となり、真言宗各派連合総裁・高野山大学総理などを兼任した。

「一九〇三年龍動發行ノーツ・エンド・キーリス九輯二卷四三〇乃至四三二頁、予の三猿考を見よ」。同年五月三十日発行の‘Notes and queries’に載った南方熊楠の論考‘JAPANESE  MONKEYS.’。「Internet archive」のこちらで読める。

「猪狩史山」(いかりしざん 明治六(一八七三)年~昭和一三(一九三八)年)は教育者・漢学者猪狩又蔵のペン・ネーム。福島県生まれ。東京文学院哲学科を卒業後、日本中学校の教師となる。大正三(一九一四)年、杉浦重剛(じゅうこう)が東宮御学問所御用掛となり、御進講の「倫理」の草案作りに着手すると、よき女房役として七年間奉仕した。後に日本中学校校長を務めた。著書に「倫理御進講草案」の編纂刊行、「杉浦重剛先生伝」・「日本皇室論」・「成吉思汗」などがある(日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠った)。

「遼東の豕の譏」(そしり)熊楠がよく使う故事成句。「後漢書」の「朱浮伝」の中で、遼東で珍しいとされた白頭の豚が、河東では珍しくなかったという故事から、「世間知らずであったために、つまらないことを誇りに思って自惚れること」の喩え。

 以下、「宝物集」(ほうぶつしゅう:平安末から鎌倉初期の仏教説話集。後白河法皇の近習として北面に仕えた平康頼著。康頼が帰洛した治承三(一一七九)年以後、数年間で成立したものと思われる。嵯峨清涼寺における僧俗の談話という「大鏡」「無名草子」などのような座談・問答形式をとっている)を縮約引用しているが、読みが振れるものが多いため、ここでは所持する「新日本古典文学大系」(小泉・山田校注。一九九三年岩波書店刊)版他で本文を可能な限り(熊楠が手を入れているので)校合し、特異的に《 》で読みを示した。太字は底本では傍点「○」。その後の「(本の儘)」は熊楠の注である。]

 治承の頃、平康賴が筆せりてふ寶物集卷五より、本文を、多少、節略して引かんに云く、『昔し、釋迦如來、天竺の大國の王と生れて座《おは》しゝ時、隣國舅氏國《きうしこく》、飢渴して殆んど餓死に及べり。舅氏國の人民、相《あひ》議して、我等徒らに死んより、隣の大國に向ふて、五穀を奪取《うばひとり》て命を活《いく》べし。一日と雖も、存命せん事、庶幾《こひねが》ふ所也とて、已に軍立《いくさだ》つを、大國、聞付て、萬が一の勢《せい》なるが故に、輕しめ嘲りて、手捕りにせんとするを聞て、大王、公卿に宣はく、「合戰の時、多くの人、死なんとす、願くは軍を止むべし」と制し給ひしかば、「宣旨と申し乍ら、此事こそ力及び侍らね、隣國、進み襲ふを、鬪はずば、存命すべからず」と申し侍りければ、大王、竊に后《きさき》を呼て、「我、國王として合戰を好まば、多くの人、死なんとす。我、深山に籠りて佛法を修行すべし。汝は如何《いかが》思ひ給ふ」との玉ひければ、后、「今更に如何に離れ奉らん」との玉ひければ、終に大王に具して、深山に籠り玉ひぬ。大國の軍、國王の失せ玉ふ事に驚て、戰ふ事無くして、小國に順《したが》ひぬ』。

[やぶちゃん注:「舅氏國」「新日本古典文学大系」版脚注に、『丘慈』(きゅうじ)『国のことか。丘慈は亀茲』(きじ)『とも書く』とあり、見よ注で、現在の『中国新疆ウイグル自治区にあった国。仏教東漸の要地であった』とある。]

『大王、深山にして嶺の木《こ》の子《み》を拾ひ、澤の若菜を摘《つみ》て行ひ給ひける程に、一人の梵士、出で來りて、「お伽仕る可し」とて仕へ奉る。大王、嶺の木の子を拾ひにおはしたる間に、此梵士、后を盜んで失せぬ。大王、還りて見給ふに、后の坐《おは》せざりければ、山深く尋入り給ふ。道に大なる鳥有り、二つの羽、折れて、既に死門《しもん》に入る。大鳥、大王に申さく、「日來《ひごろ》、付き奉りたりつる梵士、后を盜み奉りて逃侍りつるを、大王、還り給ふ迄と思ひて防ぎ侍りつれども、梵士、龍王の形を現じて、此羽を蹴折《けをり》たり」と云て、遂に死門に入りぬ。大王、哀れと思して、高嶺《たかきみね》に掘埋《ほりうづみ》て、梵士は龍王にて有けると云事を知《しり》て、南方に向《むかつ》て坐しましけるほどに、深山の中に、無量百千萬の猿、集まりて罵りける所へ坐はしぬ。猿猴《ゑんこう》、大王を見付て、悅びて云く、「我等、年來[やぶちゃん注:「としごろ」。]、領する山を、隣國より討ち取らんとするなり、明日《みやうにち》午の時に、軍、定むべし。大王を以て大將とすべし」と云ふ。大王思ひ懸ぬ所へ來たりて悔しく思召乍ら、「承りぬ」迚、居給ひたりければ、弓矢をもて、大王に奉れり。云ふが如く、次の日の午の時斗りに、池に、萍《うきくさ》、靡きて、數萬の兵《つはもの》、襲ひ來《きた》る。大王、猿猴の勸めに依《より》て、弓を引きて、敵に向ひ給ふに、弓勢《ゆんぜい》、人に勝れて、臂《ひぢ》、背央《せなか》に廻る。敵《かたき》、大王の弓勢を見て、箭《や》を放たざる先に、遁れぬ』。

[やぶちゃん注:「梵士」カーストの最上位に位置する司祭階級のバラモン。]

『猿猴等、大に悅び、「此喜びには如何なる事をか爲《なさ》んずる」と云ければ、大王、猿猴らに告て曰く、「われ、年來《ねんごろ》の后を龍王に盜み取られたり、故に龍宮城に向《むかひ》て南方へ行く也」と宣ひければ、猿猴等申さく、「我等が存命、偏《ひと》へに大王の力也。爭《いかで》か、其恩を思ひ知ざらん、速かに送り奉る可し」とて、數萬の猿猴、大王に隨て往き、南海の邊《ほと》りに到らざりければ、徒《いたづら》に日月を送る程に、梵天帝釋、大王の殺生を恐れて、國を捨て、猿猴の、恩を知りて南海に向ふ事を憐れと思して、小猿に變じて數萬の猿の中に雜りて云樣、「斯くていつと無く龍宮を守ると雖も叶ふべきに非ず、猿一つして板一枚、草(くさ)一把(いつぱ)を儲けて、橋に渡し、筏に組《くみ》て、龍宮城へ渡らん」と云ければ、小猿の僉議に任せて、各々、板一枚、草一把を構へて、橋に渡し、筏に組て、自然(じねん)に龍宮城に至れば、龍王、怒《いかり》をなして、大いなる聲を起こして、くれをやりて(本の儘)光を放つ程に、猿猴、霧に醉ひ、雪に怖れて、顚《たふ》れ伏す。小猿、雪山《せつざん》に登りて、大藥王樹《だいやくわうじゆ》と云《いふ》木の枝を伐《きり》て、歸り來たりて、醉臥《ゑひふ》したる猿共を撫《なづ》るに、忽ち、醉醒め、心猛く成《なり》て、龍を責む。龍王、光を放《はなち》て鬩《ひらめ》きけるを、大王、矢を射出す。龍王、大王の矢に中《あた》りて、猿猴の中に落ぬ。小龍等、戰はずして遁去《にげさ》りぬ。猿猴ら、龍宮に責入《せめいり》て后を取返し、七寶を奪ひ取て、本《もと》の深山に歸る。扨、彼《かの》舅氏國の王、失《うせ》にければ、大國、小國、臣下等、此王を、忍びて、迎え取りて、二箇國の王として有り云々、細かには六波羅蜜經にぞ申しためる』。

[やぶちゃん注:「南海の邊《ほと》りに到らざりければ」底本では「南海の邊りに到りければ」であるが、「新日本古典文学大系」版及び別本を見ても、上記通りで、それでないと、後の「徒に日月を送る程に」以下、筏を作るという展開に合わないので訂した。

くれをやりて」熊楠は意味が判らないので「(本の儘)」と注を入れたのだが、「新日本古典文学大系」版脚注によれば、『眩(れ)れをくらわして。急に強い光をあてて目くらがし』(目暗まし)『をくわせることか。「くれ」は、目の前が、暗さ』、又は『まぶしさで見えなくなること』と注する。龍王の幻術として腑に落ちる。

「大藥王樹」「新日本古典文学大系」版脚注に、『最もすぐれた治病効能のあるという薬用樹。薬樹王とも』とある。

「六波羅蜜經」唐の般若の最初の翻訳になる「大乗理趣六波羅蜜経」のこと。但し、「新日本古典文学大系」版脚注には、但し、『ここに記述されている釈迦如来前生時代の説話は、この六波羅蜜経にはみいだせない。いかなる経典から引いたか、出典未詳』とする。

 以下の「六度集経」は「大蔵経データベース」で校合し、「選集」を参考に読みを《 》で挿入した。

 予未だ所謂、六波羅蜜經を見ざれど、三國吳の天竺三藏法師康僧會譯六度集經卷五に、ラーマ王物語有るを見出たれば、節略して引んに云く、『昔し、菩薩有り、大國王たり。常に四等を以て衆生を育護し、聲、遐邇《かじ》を動かし、歎懿《たんい》せざる靡《な》し。舅《しう》、亦、王と爲て異國に在り。性、貪《むさぼり》て恥無く、兵を興して菩薩の國を奪んと欲す。菩薩の群僚、僉(みな)、曰く、「吾、寧ろ、天仁と爲《なり》て貴く、豺狼《さいらう》と爲て賤しからじ」と。民曰く、「寧ろ、有道《うだう》の畜と爲るも、無道の民と爲らじ」と。武士を料選し、軍を陳《つら》ねて振旅す。國王、流涕して曰く、「吾《わが》一躬《いつく》を以て兆民の命を毀《こぼ》たば、國、亡びて、復し難く、人身、獲《え》難し。吾、遁れ邁《ゆ》かば、國境、咸《み》な康《やす》からん」と。王、元妃《もとのきさき》と俱に、國を委《すて》て去り、舅、入《いり》て國に處《を》り、政、苛《か》に、民、困しみ、舊君を思詠する事、孝子の慈親を存する如し。王、元妃と山林に處るに、海に邪龍有り、妃の光顏を好み、化《け》して梵志と爲り、訛《いつは》つて道士の似《まね》して禪定す。王、觀て、心欣び、日に果を採《とり》て供養す。龍、王の出行《いでゆ》くを伺ひ、妃を盜み、挾(さしばさ)んで海居に還る。山に巨鳥有り、翼を張り、徑《みち》を塞ぎ、龍と戰ふ。龍、爲に震雷し、鳥を擊《うち》て、其右翼を墮《おと》し、遂に妃を獲《とり》て、海に還る。王、果を採り、還て、其妃を見ず。乃(すなは)ち、弓を執り、矢を持ち、元妃を尋求《じんきう》す。榮流を覩《み》て、其源を極むるに巨獼猴《きよびこう》を見る。哀慟して曰く、「吾れ、舅氏と肩を竝べて王たり。舅、勢を以て、吾衆を强奪す。子《なんぢ》、今、何の緣有て、此山岨《やまそば》を翔《かけ》るか」と。菩薩、答て曰く、「吾と獼と、その憂ひ、齊《ひと》し。吾、又、妃を亡ひ、之《ゆ》く所を知ず」と。猴曰く、「子、吾を助け戰《たたかひ》て吾《わが》士衆を復さば、子の爲に妃を尋ね、終《つひ》に、必ず、獲ん」と。明日、猴、舅と戰ふ。王、乃ち、弓を彎《ひ》き、矢を持ち、股肱《ここう》、勢ひ、張る。舅、遙かに悚懼《しようく》し、猴王の衆、反《かへ》る。遂に衆に命じ、行《ゆき》て、人王の妃を索めしむ。猴衆、鳥、翼を病むを見る。鳥曰く、「龍、妃を盜めり。吾、勢ひ如《し》く無し。今、海中大洲の上に在り」と言畢《いひをはり》て絕す』。

『猴王、衆を卒《ひき》い、海に臨み、以て渡る亡きを憂ふ。天帝釋、化して猴と爲り、身に疥癬を病《やめ》り。來り進んで曰く、「今、士衆の多き、其れ、海沙に喩《たと》ふ。今、各衆をして、石を負ひ、海を杜《ふさ》がしめば、以て、高山を爲すべし。何ぞ但に彼《かの》洲に通ずるのみならんや」と。衆、其謀《はかりごと》に從ひ、石を負て、功、成り、衆、濟《わた》るを得、洲を圍んで累沓す。龍、毒霧を化し、猴衆、都《すべ》て病み、地に仆《たふ》れざる無し。二王、悵愁《ちやうしう》せしかば、小猴、重ねて曰く、「聖念を勞する無かれ」と。卽ち、天藥を以て、衆の鼻中に傅《つ》け、衆、卽ち、奮鼻して興《おこ》り、力勢、前に踰《こ》ゆ。龍、卽ち、風雲を興し、勃怒霹靂、乾《けん》を震《ふるは》し、地を動かす。小猴曰く、「人王、射に妙なり。天、電耀するは、卽ち、龍なり。矢を發して、凶を除き、民の爲に禍《わざはひ》を除かば、衆聖、怨《うらみ》、なけん」と。霆耀《ていえう》電光の時、王、箭を放ち、龍、胸を射殺さる。猴衆、「善《よ》し」と稱し、小猴、門を開きて、妃を出す。二王、俱に本山に還り、更に相《あひ》辭謝す。會《たまた》ま、舅王、死して、嗣子無し。臣民、奔馳《ほんち》して、舊君を尋ね、君臣、相見《あひまみえ》、哀泣、俱に還り、舅國を併せ獲《と》る。兆民歡喜、稱壽萬歲、大赦寬政、民心欣々[やぶちゃん注:熊楠が面倒になって原文のままに出したもの。訓読する。「兆民は歡喜し、『壽萬歲』と稱(とな)ふ。大赦して政(まつりごと)を寬(ゆる)くし、民心、欣々たり。」。]、含笑《ゑみをふくみ》、且つ、行く。王曰く、「婦、夫《をつと》とする所を離れ、隻行一宿《せきかういつしゆく》するも、衆《おほ》く、疑望、有り。豈况んや旬朔《じゆんさく》をや。爾《なん》ぢ、女《なんぢ》の家に還らば、事、古儀に合《あは》ん」と。妃曰く、「吾、穢蟲《えちゆう》の窟に在りと雖も、蓮《はちす》の淤泥《おでい》に居るが如し。吾言、信《まこと》有らば、地、其れ、拆《さ》けん」と。言畢て、地、裂く。曰く、「吾が信、現ぜり」と。王曰く、「善哉《よきかな》、夫れ、貞潔は沙門の行《ぎやう》」と。斯れより、國内、商人、利を讓り、仕者《つかふるもの》、位を辭し、豪、能く賤を忍び、强弱を凌がず、王に化せられしなり。婬婦、操を改め、危命守貞、欺者尙信、巧僞守眞[やぶちゃん注:同前。しかし底本は誤りが多いので、「大蔵経データベース」で修正した。というよりも、ここは経の伝本自体に誤字が多い。「命を危くしても貞を守り、欺く者も信を尙(たつと)び、巧僞のものも眞を守る。」]、妃に化せらるなり。佛・諸比丘に告ぐ、時の國王は吾身、妃は瞿夷《くい》、舅は調達《ぢようだつ》、天帝釋は彌勒、是れ也と。』

[やぶちゃん注:「四等」カーストの四階級を指すか。

「遐邇《かじ》を動かし」遠方・近辺に対しても普く慈悲を施すことか。

「歎懿《たんい》」麗しいと感嘆すること。

「豺狼《さいらう》」野良犬と狼。「むごたらしいことをする人」の喩え。ここは触穢の生業をする人々を指すか。

「料選」優れた人材を選ぶこと。

「振旅」兵を整えて凱旋すること。

「禪定」思いを静め、心を明らかにして、真正の理を悟る修法であるそれを、幻術を以ってあたかもそのように見せたのである。

「榮流」大いなる大河の流れ。

「巨獼猴《きよびこう》」巨大な猿。

「股肱《ここう》」腿(もも)と肘(ひじ)。

「悚懼《しようく》」恐れ慄くこと。

「身に疥癬を病《やめ》り」尋常でない状態は、時に異能異才の風貌を与えるものである。

「洲」ここは龍宮城を指す。

「累沓」何度も踏みつけて振動させることであろう。

「乾《けん》」天。

「衆聖」多くの聖人。

「疑望」不詳。後の「旬朔」は十日と一日であるから、「望」は望月で「疑」はその前後で、月の満ち欠けが必ず循環すること、元に戻ることを言っているようには思われる。

「穢蟲《えちゆう》の窟」龍を「穢れた虫」と言い、龍宮を「窟」と言ったもの。

「蓮《はちす》の淤泥《おでい》」清浄な神聖なハスの花の咲く浅く細かな泥で水面は澄んでいる沼の意でとる。

「妃は瞿夷《くい》」こちらに、『十二遊経によると』、『釈迦が太子であった時の第一夫人』の名とする。『第二夫人が耶輪多羅女とされる。しかし太子瑞応本起経巻上では、羅睺羅の生母とされ、耶輪多羅女と同一人物とされている。また同経によると、瞿夷は昔、定光仏の時、儒童菩薩として修行していた釈迦に二茎の青蓮華を供養し、将来、夫婦となることを約束したと説かれている』とあった。

「調達」提婆達多(だいばだった)の別名。釈迦の従兄弟。出家前の釈迦の競争相手であり、釈迦が出家し、悟りを開いて以後、一度はその弟子となったが、後に離反し、阿闍世王と結んで仏教教団に対抗したとされる。仏典では、生きながら地獄におちた極悪人とされるが、仏教から分立した禁欲主義的な宗教運動の組織者としての一面を持っている(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。]

 惟ふに佛出世前斯譚已に印度に存せしを、佛滅後、其徒が金口に假托して、佛と、其在世間時の妻瞿夷と、宗敵調達と後繼者彌勒との本生譚(ジヤータカ)に仕上げたるなるべし。現存パーリ語の本生譚集には此物語無し、と知己のパーリ學者輩より聞けり。ラーマーヤナムは、通說にラーマ王と同時の仙人ヴァールミーキの作と稱せられ、異傳頗る多く、現存する所、三大別本有り、每本載せる所の三分一は他の二本に全く見えず。孰れも梵語もて筆せられしは佛世後の事なれど、此物語、佛世前遍く俗間に歌はれ、種々の改竄と增補を受し樣なり(エンサイクロペヂア・ブリタニカ十一板二十四卷一六九頁)。されば寶物集や六度集經に傳ふる所、現在、梵土の諸本と異所多きも怪しむに足ず。

[やぶちゃん注:「金口」「きんく」で「仏の口」で、釈迦の説法を指す。

「本生譚」(ほんしやうたん)「(ジヤータカ)」仏教説話集。パーリ語で「生れたものに関する」の意。インドに古くからある業報輪廻思想を仏陀に当て嵌めたもの。現世で悟る以前、仏陀が六道で菩薩として様々な姿形をとって善行を行ってきた様を述べる。現在世の物語・過去世の物語・過去と現在のつながりを説く三つの部門から成る。成立年代は明確ではないが,起原前二世紀には、これを題材にした彫刻が出現している。説話数はパーリー語の聖典で五百四十七編を数える。早くから各国語に翻訳されて西方諸国に広まり、「千一夜物語」・「イソップ物語」・「グリム童話」などに影響を与えており、また、本邦の「今昔物語集」にも類話が見られる(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「エンサイクロペヂア・ブリタニカ十一板二十四卷一六九頁」「Internet archive」の同原本当該部はここ。]

  序でに言ふ、昨年七月の鄕土硏究二六四頁に、志田義秀君、とぎ(伽)なる語は鎌倉時代に始て現はれしがごとし迚、源平盛衰記や增鏡を引り。然るに上に引ける寶物集の文既に「一人の梵士出來りて、御伽仕る可しとて仕へ奉る」と有り。此文、眞に治承頃の筆ならば、とぎの語は盛衰記や增鏡より早く行れ居りたるを證するに足る。

[やぶちゃん注:太字傍線は底本では傍点「●」。以下同じ。加工用の「万葉文庫」版でも傍点の指示があるので、「選集」も参考にして後の「とぎ」にも同じ処理を施した。

「志田義秀」(ぎしゅう 明治九(一八七六)年~昭和二一(一九四六)年)は国文学者で俳人。明治三六(一九〇三)年、東京帝大学部国文科卒。後、第六高等学校教授・旧制成蹊高等学校教授・東洋大学教授を歴任、昭和一二(一九三七)年、「問題の点を主としたる芭蕉の伝記の研究」で文学博士を授与されている。

 なお、以下、随所に漢訳経典の白文が入っており(これは総て「大蔵経データベース」で校合した)、甚だ読み難いので、暫くは漢文脈の部分の直後に【 】で私の訓読文を挿入することにする。経典名その他、難読と判断したものは《 》で読みを添えた。経の訓読は「選集」のそれの中には、およそそんな風に訓読は出来ないとものが、複数あるため、「大蔵経データベース」の原本の返り点や、知り得るネット上の経典訓読サイトを参考に使して私の納得出来るものにしてある。

 六度集經、何の代、何人が述たるを知ず、康僧會の譯文、專ら俗人に敎へんとて、三國吳の俗語を用ひしと見え、其態、特異なり。而して此經、一切、ラーマ、シタ等の人名を擧ず。馬鳴大士(佛敎傳統十二祖)の大莊嚴經論卷三(羅什、姚秦の時譯す)に羅摩造草橋、楞伽羅摩は草橋(さうきやう)を造りて、瑜伽城(ゆがじやう)に至るを得たり。】。羅摩はラーマ、楞伽はランカ、羅刹洲(今の錫蘭[やぶちゃん注:「セイロン」。])の都なり。卷五に、昔し、中天竺の諸婆羅門、爲聚落主、說羅摩延書(ラーマーヤナ)又婆羅他書(マハーブハーラタ)【聚落主の爲に、「羅摩延書」(ラーマーヤナ)、又「婆羅他書」(マハーブハーラタ)を說く。】」と載せ、龍樹菩薩(十四祖)の大智度論(譯人同上)二十三に、問曰有人見無常事至、轉更堅著、如國王夫人、寶女從地中生、爲十頭羅刹、將度大海、王大憂愁、智臣諫言、王智力具足、夫人還在不久、何以懷憂、答言我所以憂者、不慮我婦難得、但恐壯時易過【問ひて曰はく、「人、有り、無常の事の至れるを見て、轉(うた)た更に堅著す。國王夫人のごとし。寶女(はうぢよ)、地中より生じて、十頭羅刹と爲(な)り、將(まさ)に大海を度(わた)らんとす。王、大いに憂愁す。智臣、諫めて曰はく、「王は、智力、具足す。夫人、還(ま)た、在ること、久しからず。何を以つてか、憂ひを懷く。」と。答へて言はく、「我れ、憂ふる所以(ゆゑん)は、我が婦の得難きを慮(おもんぱか)らず、但(ただ)、壯時(さうじ)の過ぎ易きのみを恐るればなり。」と。】」とあり、十頭羅刹(ダサグリヴア)卽ち楞伽鬼王(ラーヴァナ)が、ラーマの妃シタを掠め去し時の話なり。

 北凉譯・馬鳴撰佛所行讃經卷二に車匿《しやのく》、悉達太子に別を惜む辭中、今於空野中、棄太子而歸、則同須曼提、棄捨羅摩【今、空野の中において、太子を棄てて歸らば、則ち、須曼提(しゆまんだい)に同じく、羅摩に棄-捨(す)てられん。】。又、卷五に、七王佛、舍利を爭て戰はんとし、獨樓那婆羅門に諫止され相語る詞中、羅摩爲私陀(シタ)、殺害諸鬼神【羅摩は私陀(シタ)の爲めに、諸(もろもろ)の鬼神を殺害す。】と言り。劉宋譯賓頭盧說法緣經に、優陀延王雄武如羅摩延(ラーマをラーマーヤナと誤記せしなり)、又羅摩害十頭羅刹及數千億羅刹衆【優陀延王(うだえんわう)は、雄武なること、羅摩延(ラーマをラーマーヤナと誤記せしなり)のごとし。又、羅摩は、十頭羅刹及び數千億の羅刹衆を害す。】。苻秦譯鞞婆沙論《びばしやろん》に、問曰何以故佛契經立作章、答曰、欲視佛契經無量義故、此外部少義無義、少義者、誦羅摩那(ラーマーヤナ)十二千章二句義(其頃一萬二千章有しなり)、羅摩泥(ラーヴァナ)、將私陀去、彼羅彌(ラーマ)還將來、無義者、以一女故殺十八姟衆、又衆生多起鬪諍縛云々、婆羅多(ブハラタ)(兄也)、摩訶婆羅他(マハーブハラタ)(弟也)・羅摩(ラーマ)(兄なり)・羅叉那(ラクシユマナ)(弟也)、爲私陀(シタ)(妻也)云々、爲彼一女故殺十八姟人【「問ひて曰はく、何を以つての故に、佛の契經(スートラ)は、立つるに章を作るや。」と。答へて曰はく、「佛の契經の無量の義を視んと欲する故なり。此の外、部に少義・無義あり。少義とは、羅摩那(ラーマーヤナ)、十二千章二句義(其の頃、一萬二千章有りしなり)を誦するにて、羅摩泥(ラーヴァナ)、私陀を將れて去り、かの羅彌(ラーマ)に還(かへ)し、將(も)ち來たるなり。無義とは、一女を以つて、故に十八姟(がい)の衆を殺し、又、衆生、多く、鬪諍縛(とうじやうばく)を起こす云々。婆羅多(ブハラタ)(兄なり)・摩訶婆羅他(マハーブハラタ)(弟なり)、羅摩(ラーマ)(兄なり)、羅叉那(ラクシユマナ)(弟なり)は、私陀(シタ)(妻なり)の爲めに云々、彼(か)の一女の爲め、故に十八姟の人を殺す。」と。】と出で、陳譯婆藪盤頭傳《ばそばんづでん》に、法師婆沙、賓《けいひん》國に往て、毘婆沙論を盜み出さんとし、佯狂失言【狂と佯(よそほ)ひて、失言をなし、】」、大衆、毘婆沙義を論ずれば、乃ち、羅摩延の傳を問ふ、と。唐譯大方廣佛華嚴經善賢行願品に、天阿修羅常與戰、伐十頭羅刹、焚燒南海楞伽大城云々、如是一切皆由女人【天と阿修羅、常に與(とも)に戰い、十頭羅刹を伐ち、南海の楞伽大城を焚燒す云々、是くのごとく、一切は皆、女人に由る。】。

[やぶちゃん注:「車匿」釈迦が出家のために王城を去った際、御者として従い、後に出家した人の名。傲慢で、他の僧と和合することがなかったが、釈迦入滅後は、阿難について学び、阿羅漢果を証したという。

「私陀」 仏典に登場するインドの仙人の名。二人おり、一人は過去世に釈尊のため「法華経」を説いたとする者。今一人は、釈尊誕生の時、その相を見て、「出家すれば、大慈悲の聖師となり、王となれば、転輪王となる。」と予言したという人物。どちらかは、判らぬ。

「姟」數単位。現在では1020とする。但し、南方熊楠は「猴に關する民俗と傳說」の「五 民俗(2)」では、『十八姟(今の数え方で百八十億)』(「選集」に拠る)としているが、根拠不明。

「陳譯婆藪盤頭傳」は見当たらぬので、般若譯「大方廣佛華嚴經」に載る、ほぼ同じ文字列で校合した。「婆藪盤頭」は古代北インドのガンダーラ生まれの仏教瑜伽行唯識(ゆがぎょうゆいしき)学派の僧で、サンスクリット名「ヴァスバンドゥ」の漢音写。「婆藪般豆」等とも音写する。古くは「天親」、新訳では「世親」(せしん)とする。、初め、部派仏教の説一切有部(うぶ)・経量部に学び、「倶舎論」(くしゃろん)を著した。その後、兄無着(むじゃく)の勧めで、大乗仏教に帰し、瑜伽行唯識学派の根底を築いた。「唯識二十論」・「唯識三十頌」・「十地経論」・「浄土論」等の多くの著書があり、「千部の論師(ろんじ)」と称せられる。七高僧の第二祖とする。]

 是等諸例もて、ラーマ王物語古く支那に傳はりしを知るべし。ホヰーラーがラーマの楞伽攻めを釋して、其、所謂、羅刹衆とは錫蘭の佛徒を指すと言ひしは疑はしけれど、佛典中には動やもすれば羅摩の殺生過酷と、私陀一人の爲に斯る大罪を造りしを責る語氣多く、暗に佛敎、印度敎[やぶちゃん注:ヒンズー教。]相容れざりしを示せり。元魏譯入楞伽經に至つては、發端なる諸佛品の初めに、歸命大慧海毘盧遮那佛、如是我聞、一時婆伽婆住大海畔摩羅耶山頂上楞伽城中云々。城主羅婆那(ラーヴァナ)夜叉王、又名羅婆邪十頭羅刹、楞伽請佛聽法【大慧海、毘盧遮那佛に歸命し、「是くのごとく、我れ、聞く、一時、婆伽婆(バガバ)、大海の畔りの摩羅耶山が頂上の楞伽城中に住す云々。城主の羅婆那(ラーヴァナ)は夜叉王にして、又、羅婆邪十頭羅刹とも名づく。楞伽、佛に請ひて、法を聽く。】と有て、明かに鬼王ラーヴァナを揚げ、印度敎の聖王ラーマを貶すの意を露はせり。吾邦俗間に大に行はれし三世相大雜書、又、東海道名所記四に載せたる、牛頭天王、頗利采女を娶りて、南天竺夜叉國の巨旦王を伐つ譚、又、御伽草子梵天國の、中納言、梵天王の娘を娶りしを、羅刹國の「はくもん」王に奪はれたる後、取復せし[やぶちゃん注:「とりもどせし」。]話等、多少、ラーマ物語に似たり。

[やぶちゃん注:「ホヰーラー」不詳。綴りは「Wheeler」か。

「錫蘭」既注。「セイロン」。

「動や」「やや」

「責る」「せむる」。

「印度敎」既注。ヒンズー教。

「大慧海」不詳。

「婆伽婆(バガバ)」梵語「バガヴァット」の漢音写。「世尊」と漢訳する。阿弥陀仏の徳号。

「三世相大雜書」(さんぜさうおほざつしよ)は「雑書」の一つ。雑書とは、各種の暦占に関する書物の総称で、暦注などに記載された八卦・方位・干支・星宿・七曜などに記載された吉凶や様々な禁忌を始めとした、各種暦占について庶民に判り易く解説したもの。陰陽道の書物の影響を強く受けて発達したと考えられている(ウィキの「雑書」に拠った)。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで、ズバり、「三世相大雜書」が見られる。明二三(一八九〇)年薫志堂刊の活字本である。

「東海道名所記四に載せたる、牛頭天王、頗利采女を娶りて、南天竺夜叉國の巨旦王を伐つ譚」私の好きな浅井了意の著になる仮名草子。六巻六冊。万治二(一六五九)年の成立。諸国を遍歴してきた青道心楽阿弥(らくあみ)が、まずは江戸の名所を見物し、その後、連れの男とともに東海道の名所を見物、気楽な旅を続けながら、京に上るという構成で、名所名物の紹介・道中案内・楽阿弥らの狂歌や発句・滑稽談などを交えて、東海道の旅の実情を紹介したムック本のはしり。早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちら(四巻目一括PDF版)の板本の「18」コマ目以降に書かれてある。

「御伽草子梵天國」(ぼんてんごく)「の中納言、梵天王の娘を娶りしを、羅刹國の「はくもん」王に奪はれたる後、取復せし話」「梵天國」は室町時代の作かとされる本地物の貴種遍歴談。梵天王の娘と、それを娶った中納言の物語。後に浄瑠璃として語られた。国立国会図書館デジタルコレクションのここから、今泉定介:畠山健校訂になる明治二四(一八九一)年刊の活字本で読める。読むのがかったるい方向けには、子供向けにカラー版の非常に素敵な絵本「梵天国物語」(武田雪夫・文/羽石光志・絵)が、本文はすべてひらがなで、兎も角、絵がとても美しい。超お薦め!

 序でに言ふ、二十年斗り前、予が大略上の如く筆記せし時、梵敎の三大尊中、ブラーマは梵天、シヴァは大自在天、此二つは、しばしば、佛典に見ゆるも、ヴシュヌ(ラーマ王の本體)は一向見えず、と說く人、多く、故サー・モニエル・ウヰリアムスも、此事を釋かん[やぶちゃん注:「とかん」。]とて、釋伽佛、原來、ヴシュヌの化身なれば、佛徒、已に釋尊を奉ずる上、更に、ヴシュヌ神を祀るに及ばざるなり、と述べられしと記憶す。爾後、予、久しく宗敎の學に係ざれば、是亦頗る遼東の豕と察すれど、今ヴシュヌ神の事、亦、實は佛經に多く散見する一斑を示さんに、大智度論に云ふ、韋紐天秦言遍聞言、四臂捉貝、持輪騎金翅鳥、【韋紐天(ゐぢ(ゐち)うてん)[やぶちゃん注:ヴィシュヌの漢音写の一つ。]〔秦にては「遍聞」と言ふ。〕、四臂は貝を捉(と)り、輪を持ちて、金翅鳥に騎(の)れり。[やぶちゃん注:〔 〕は原典では割注である。「大蔵経データベース」に拠ってかく処理した。]】是れ、ヴシュヌの相なり。此他、毗搜紐(婆藪盤頭傳)、毘瑟笯天(瑜珈師地論)、毘紐、又、毗瘦紐天子(雜阿含經)、毗沙紐(無明羅刹經)、遍淨天(經律異相十二)、吠率怒天(飜譯名義集)等、譯名多般にて一定せず。眞言の胎藏界曼陀羅、外金剛部院南方六十五尊中に毘紐女あり。ヴシュヌの音譯かと思へど、その棒組に夜摩女、自在女もあれば、ヴシュヌの女身若くは娘てふ意なるべし(曼荼羅私鈔下)。又、唐の湛然述、止觀輔行傳弘決卷十に、一切外人所計不過二天三仙。言二天者、謂摩醯首羅(マヘースヴアラ)天(大自在天、乃ち、シヴア神)毘紐天、亦云韋紐天、亦韋糅天、此翻遍勝、亦遍悶亦遍淨。阿含云、是色天。倶舍云、第三禪頂天。淨影云、處住欲界之極云々、大論云、有大神力而多恚害、時人畏威遂加尊事、劫初一人手波海水、千頭二千手、委在法華疏中、疏云、二十四手、千頭少一、化生水上、齊中有千葉蓮華、華中有光、如萬日倶照、梵王因此華下生、生已作是念言、何故空無衆生、作是念時、他方世界衆生應生此者、有八天子忽然化生、八天子是衆生之父母(吾邦の兩部神道にも八王子有り)、梵王是八天子之父母、韋紐是梵王之父母、遠推根本、世所尊敬、故云世尊。胎藏界、外金剛院西方四十八尊中に毘紐天を列せり。

[やぶちゃん注:「止觀輔行傳弘決卷十」の引用は「大蔵経データベース」で校合した。誤字・異体字がかなりあり、「云々」で判る通り、カット部分がある(そこは私は復元していない)。以下に訓読を独立させる。

   *

一切外人の計る所は、二天三仙に過ぎず。二天と言ふは、「摩醯首羅天」(マヘースヴアラ)(大自在天、乃(すなは)ち、シヴア神)・「毘紐天」を謂ふ。亦、「韋紐天」、亦、「韋糅天」とも言ふ。此(ここ)にては「遍勝」、亦、「遍聞」、亦、「遍淨」とも翔(うつ)す。「阿含」に云はく、是れ、「色天」たり。「倶舍」に云はく、「第三禪頂天」たり。淨影(じやうやう)言はく、『處(お)つて欲界の極みに住めり』云々、『大神力(だいしんりき)有りて、恚(いか)り害(そこな)ふこと、多し。時の人、威を畏れ、遂に尊(たつと)び事(つか)ふることを加へたり。劫初(かふしよ)に、一人の手にて、海水を波(なみだ)たすに、千頭・二千手なり。』と。委しくは「法華疏」の中に在り。「疏」に言はく、『二十四手にして、千頭、一(いつ)を少(か)き、水上(すいじやう)に化生(けしやう)す。齊(もすそ)の中に千葉(えんえふ)の蓮華あり、花の中に光りあり、萬日(ばんじつ)俱(とも)に照らすがごとし。梵王、この華によって下生(げしやう)し、生じ已(をは)りて、是の念(おも)ひを作(な)して言はく、「何の故に空しくして衆生無きや。」と。是の念を作す時、他方世界の衆生、應(まさ)に此(ここ)に生まるべき者たり。八天子、有り、忽然として化生(けしやう)す。八天子は、是れ、衆生の父母(ぶも)(吾邦の兩部神道にも八王子有り)、梵天は、是れ、八天子の父母、韋紐は是れ、梵王の父母なり。遠く根本を推(お)すに、世の尊敬する所を世尊と云へり。』。

   *

「淨影」不詳。或いは、北周から隋にかけての地論宗の僧の慧遠(えおん 五二三年~五九二年)のことか? 彼は東晋の僧で廬山の慧遠がいるため、それと区別して「浄影寺の慧遠」と呼ばれるからである。

「齊」は「大蔵経データベース」のものを採った。底本も「選集」もここは「臍」となっており、「選集」では『ほぞ』とルビする。これも確かに意味として通じるが、「齊」には「臍」の意はない。茎を蓮花の裳裙(もすそ)と喩えるのは自然であると私は判断したからである。或いは、「止觀輔行傳弘決」には、「臍」とするものがあるのかも知れぬが、「大蔵経」の校異には挙がっていない。

 以上、経典に校合と訓読をメインとして、延べ五日もかけている。まだ注し足りない不服な箇所があるが、ちょっと疲れた。これで終わりにする。但し、私個人としては、以上で全体の九割以上は南方熊楠の言わんとしていることを捉え得たと感じている。

2022/08/06

曲亭馬琴「兎園小説余禄」 佐野氏賜死記錄

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない。稀に底本の誤判読或いは誤植と思われるものがあり、そこは特に注記して吉川弘文館版で特異的に訂した)。句読点は現在の読者に判り易いように、底本には従わず、自由に打った。鍵括弧や「・」も私が挿入して読みやすくした。踊り字「〱」「〲」は正字化した。

 先に注しておくと、これは天明四(一七八四)年三月二十四日に、江戸城中で発生した刃傷事件の裁断・切腹記録である。若年寄田沼意知(おきとも)が旗本佐野政言(まさこと)に襲われ、八日後に絶命した事件である。

 まず、ウィキの「田沼意知」によれば、田沼意知(寛延二(一七四九)年生まれ。享年三十六歳)は『老中を務めた遠江国相良藩主』で、かの「田沼時代」で権勢を揮った『田沼意次の嫡男』である。明和四(一七六七)年、十九歳の若さで『従五位下大和守に叙任』され、『奏者番』を経て、天明三(一七八三)年には『意次の世子の身分のまま』、『若年寄となり』、『意次が主導する一連の政治を支えた。これは徳川綱吉時代に』、同じく『老中大久保忠朝』(ただとも)『の子忠増』(ただます)『が世子のまま』で『若年寄になって以来の異例な出世であ』った。『また、老中である父が奥詰めも同時に果たしたように、若年寄でありながら』、『奥詰めもした。その翌年に江戸城内において佐野政言に襲撃され、治療が遅れたため』、八『日後に死亡した』。『父子ともに現役の幕閣であったため、意次と別居するために』、『田沼家中屋敷または下屋敷へ移ったが、新たな屋敷を構えたのは』、『暗殺の直前であった』とある。

 一方、遺恨を持った佐野政言(宝暦七(一七五七)年~天明四年四月三日(一七八四年五月二十一日))は、ウィキの「佐野政言」によれば、『佐野政豊の子で』、後に『目付や江戸町奉行を務めた村上義礼』(よしあや:寛政四(一七九二)年十一月、西ノ丸目付にある時、通商を求めてきたロシアの使節ラクスマンと交渉する宣諭使の一人となり、蝦夷地松前に派遣され、翌年六月二十七日の会見で通商交渉のための長崎入港を許可する信牌を与えた人物である)『は義兄(政言の妻の兄)』であった。彼は十『人姉弟の末子で一人息子であった』。『佐野善左衛門家は三河以来、徳川家に仕えた譜代である五兵衛政之を初代とし』て、『代々』、『番士を務めた家であり、綱吉治世の』元禄一一(一六九八)年から『番町に屋敷を構え』ており、『政言は』その六『代目にあたる。父伝右衛門政豊も大番や西丸や』、『本丸の新番を務め』、安永二(一七七三)年に『致仕し、代わって』八『月に政言が』十七『歳で家督』五百『石を相続』、安永六(一七七七)年には『大番士』、翌年には『新番士とな』った。その後、天明三(一七八三)年の『冬、将軍徳川家治の鷹狩りに供弓として選ばれる名誉を受け、雁』一『羽を射ち取りながら』、『褒賞にあずかれなかった』。翌年の三月二十四日、『江戸城中で若年寄』『田沼意知に向かって走りながら「覚えがあろう」と』三『度叫び』、元禄期頃の摂津国名刀工『一竿子忠綱』(いっかんしただつな)『作の大脇差で殿中刃傷に及んだ』。『その』『後に意知が絶命すると、佐野政言には同』四月三日、『切腹が命』ぜられ、伝馬町牢屋敷で『自害して果てた』。『数え』二十八の若さであった。葬儀は四月五日に『行われたが、両親など』、『遺族は謹慎を申し付けられたため』、『出席できなかった。佐野家も改易となり、遺産は父に譲ることが認められた』。『唯一の男子である政言には子がなかったこともあり』、『佐野家は絶えたが、幕末になって再興されている』。『犯行の動機は、意知と』、『その父意次が先祖粉飾のために藤姓足利氏流佐野家の系図を借り返さなかった事』(ここには「要出典要請」がかけられてある)、『下野国の佐野家の領地にある佐野大明神を意知の家来が横領し』、『田沼大明神にした事、田沼家に賄賂を送ったが』、『一向に昇進出来なかった事等々、諸説』『あったが』、『幕府は乱心として処理した』。『墓所は台東区浅草の徳本寺』(とくほんじ)にある(後で地図リンクを附して再掲する)。『田沼とその倹約令を嫌う風潮があった市中では跡継ぎを斬ったことを評価され、世人からは「世直し大明神」』『と呼ばれて崇められた。高止まりだった米の相場は投機筋の売り参入で刑の翌日から下落し財政は逼迫、やがて』、天明六(一七八六)年の処分(天明六年八月二十五日に将軍家治が死去したが、その死の直前から「家治の勘気を被った」として、意次は、その周辺から遠ざけられていたが、将軍の死が秘せられていた間に失脚する。この動きには反田沼派や一橋家(徳川治済)の策謀があったともされ、八月二十七日に老中を辞任させられ、最後には大坂にある蔵屋敷の財産の没収と江戸屋敷の明け渡しも命ぜられた。しかもそれだけに留まらず、蟄居を命じられ、二度目の減封を受け、藩主であった遠江国相良の相良城も打ち壊され、城内に備蓄されていた八万両の内、一万三千両と塩・味噌までもが、備蓄用の名目で没収されている。ここはウィキの「田沼意次」に拠った)を経て、二年後の天明八年に『田沼意次も失脚』すると、『年が明け』、『改元後の』寛政元(一七八九)年に、本事件などを踏まえて田沼派の凋落を描いた黄表紙「黒白水鏡」(こくびゃくみずかがみ;石部琴好(いしべきんこう)作・北尾政演(きたおまさのぶ:戯作者山東京伝の絵師名)画)が出版されるが、『刃傷事件を表現したとして、版元と絵師が手鎖に処されたうえ、江戸払いと過料を申し付けられ』ている。他に同年の八月、大坂の北堀江豊竹座で初演された菅専助・中村魚眼合作の時代物浄瑠璃「有職鎌倉山」(ゆうしょくかまくらやま(歴史的仮名遣では頭は「いうしよく」);全九段)ものがあり、これは本事件を北条時頼の時代に仮託して脚色たもので、佐野源左衛門が三浦荒次郎を討ち、切腹を命じられるが、後にその子梅之助が佐野家を継ぐという展開のものがある。後の馬琴の添え辞によれば、こちらの方が、「黒白水鏡」よりも先にあったと読める。加藤好夫氏のサイト「浮世絵文献資料館」のこちらによれば、『黄表紙の画工が罰せられたのはこれが初めてか。これまで、所謂』、『浮世絵師が画工として加わった作品が当局の忌憚に触れたことはあったが、画工そのものが咎められたことはなかった。浮世絵が当局の視野の中に看過できないものとして入ってきた』ことを証左するものとされておられる。

 再び、ウィキの「田沼意知」に戻ると、この事件は、『江戸市民の間では佐野政言を賞賛し』、『田沼政治に対する批判が高まり、幕閣においても』、『松平定信ら反田沼派が台頭することとなった。江戸に田沼意知を嘲笑う落首が溢れている中、オランダ商館長イサーク・ティチングは『鉢植えて 梅か桜か咲く花を 誰れたきつけて 佐野に斬らせた』という落首を世界に伝え、「田沼意知の暗殺は幕府内の勢力争いから始まったものであり、井の中の蛙ぞろいの幕府首脳の中、田沼意知ただ一人が日本の将来を考えていた。彼の死により、近い将来起こるはずであった開国の道は、今や完全に閉ざされたのである」と書き残していた』ともある。]

 

   ○佐野氏賜死記錄

寶曆五亥年五月廿七日、落着、曲淵甲斐守、掛。

            新御番蜷川相模守組

              佐野善左衞門

                  二十八歲

右之者儀、去月廿四日、於殿中田沼山城守へ手疵爲ㇾ負候。亂心といへ共、山城守、右手元にて依相果、切腹被ㇾ仰旨、松平周防守殿、依御差圖、於評定所大目付大屋遠江守、町奉行曲淵甲斐守、御目付山川下總守、立合申渡候間、檢使可相渡もの也。

 天明四辰年四月三日夕七時、御揃にて於評定

 所大目付大屋遠江守殿、町奉行曲淵甲斐守殿、

 御目付山川下總守殿、御立合、落着。

            新御番蜷川相模守組

      切腹      佐野善左衞門

                  二十八歲

            北方御組同心

      介錯人     高 木  伊 助

                  四十一歲

      添介錯   同斷

              大蘆 五郞治

            向方同心

              原田和多五郞

            御目付山川下總守殿

             御徒目付

              八木岡 政七

              尾本藤右衞門

            御小人目付

              二    人

            御使のもの

              二    人

            牢屋敷え出役與力

              藤田 介十郞

            向方

              由比 忠五郞

            出役同心雙方

              四    人

            石出帶刀組同心

    三方持       杉山  幸内

右佐野善左衞門へ、於御座敷仰渡相濟、同所御衝立際、介十郞・忠五郞、罷出候。佐野善左衞門儀、切腹被仰付候間、牢屋敷へ出役仕、前々の通、諸事念入相勤可ㇾ申旨、爲檢使、山川下總守殿、御越被ㇾ成候段、御頭被仰渡候に付、右善左衞門、駕籠に乘せ、出役同心雙方四人、牢屋敷同心二人附、介十郞・忠五郞儀は御目付へ申談、右駕籠に引續罷越、牢屋敷表門より入、大牢屋へ、駕籠の儀、差置、出役同心、附添、介十郞、持參いたし候御證文、石出帶刀へ相渡申候。無ㇾ程、御徒目付も罷越候に付、牢屋見廻り申、該場所、見置申候。

[やぶちゃん注:以下、官職や名前は必要と思われるもののみに限った。

「寶曆五亥年五月廿七日、落着」の「寶曆五亥年五月廿七日」は年月日総てが不審であるので、何らかの錯簡である。宝暦五年(西暦一七五五年)は乙亥で確かに干支は合っているものの、そもそもこの年では、意知七歳、政言に至っては生まれてないんだから!

「曲淵甲斐守」曲淵景漸(まがりぶち かげつぐ 享保一〇(一七二五)年~寛政一二(一八〇〇)年)は旗本で明和六(一七六九)年に江戸北町奉行に就任し、約十八年間に渡って奉行職を務め、江戸の統治に尽力した。参照した当該ウィキによれば、『在職中に起こった田沼意知刃傷事件を裁定し、犯人である佐野政言を取り押さえなかった若年寄や目付らに出仕停止などの処分を下した。政言の介錯を務めたのは景漸配下の同心であったという』とある。彼は後の天明七(一七八七)年に江戸で発生した「天明の打ちこわし」の責任を問われ、西ノ丸留守居に降格されてしまうが、『松平定信が老中に就任すると、経済に通暁している知識を買われて勘定奉行として抜擢され』、復権している。序に言っておくと、前の「寶曆五亥年」では、彼は未だ三十一歳で、恐らくは未だ小十人頭か目付でしかなかった。

「新御番」(しんごばん)は「新番」に同じで、江戸幕府の職名。寛永二〇(一六四三)年に創置されたもので、若年寄支配。「土圭(とけい)の間」近くに詰め、将軍外出時に先駆を勤めた。

「爲ㇾ負候」「おはせさふらふ」。

「右手元にて」以上の手技(てわざ)で以って。

「大目付大屋遠江守」大屋明薫(みつしげ)。

「御目付山川下總守」山川貞幹(さだもと)。彼を調べる内に、とんでもない凄いページを発見した。「国立公文書館」の旗本御家人III お仕事いろいろ」の中の「22. 田沼実秘録」である。それによれば、「目付」は『幕臣の行状や政務全般に監視の目を光らせる』役であったが、同時に『切腹の検使(切腹が滞りなく執行されるよう監視し、見届ける役)も務め』たとあり、本事件のことが挙げられており、『佐野政言は大目付の松平対馬守忠郷によって組み留められ』という、どのウィキにも書かれていなかった事実が判明し、四月三日に『佐野政言に切腹が申し渡され、小伝馬町の牢屋敷内の揚座敷(500石以下の旗本の未決囚の独房)の前で切腹執行。このとき検使を務めたのが目付の山川下総守貞幹(さだもと)で』あったとある。しかも、『このような場合は、切腹人が三方』(さんぽう:本文にも出るが、前と左右の三方に刳形(くりかた)の穴をあけた台を方形の折敷(おしき)に附けたもの。檜(ひのき)の白木製を普通とし、神仏や貴人に物を供したり、儀式の際に物を載せたりするのに用いるあれ。「三宝」とも書く)『の上の木刀を手に取ろうと前かがみになったところを介錯人が斬首するのが定法で』あった『が、佐野政言は』「短刀(真剣)で自ら腹を切りたい」と』『懇願』し、『立ち合いの人々を当惑させ』たとあって、山川貞幹は『このとき』『思慮深い対応』をしたことが『記されて』あるとあった。全部で六つの「田沼実秘録」の画像が載るが、そこには詳細な切腹罪場(以下の本文に出るように、実際には、切腹用に用意された九寸五分(二十九センチ弱)の短刀は木製であって、先に打ち首にされた。考えて見れば、時代劇では実際の柄無しの身だけの本身の実短刀を使っているが、最後の最後に死にきれず、逆に場の人間たちをそれで傷つけるケースも十分に考えられるのであるから、これは正しい方法と言えるのである)の見取り図が、「5」「6」に載るのだが、馬琴はこの書物を見なかったのが甚だ惜しまれる。この画像は出所を明記して変更を加えなければ、使用許可が出ているので、以下に掲げる(この前後の記載とリンクで出所を明記していると私は判断する)。

 

I_pop05

 

I_pop06

 

彼なら、ここに書かれている以上の山川の対応の内容をしっかり記したはずだからである。「1」がその内容であるが(「2」に渡る箇所は実際の仕儀が書かれている)、私の力では全部を起こすのには時間がかかりそうだし、よく判らぬところもある。ただ、右丁一~六行目で、「木太刀」を「三方へ載せ」て前左衛門の「正面へ差並」べたことが記され、「此」の「木太刀は音定法也」とある。ところが、善左衛門は、これを見るや、「自身」で「切腹」を「仕」(つかまつ)りたい「何卒」、実際の真剣の「切物」を下さるようにと、末期の懇請を下総守に申し出て、山川は「思ひもふけぬ」困った「事」であったので、「甚」「当惑致」した、といったことが書かれてある。その後は、それを上役に伝えるやり取りらしいが、左丁三行目で善左衛門が、何かを「承」っており、五行目辺りで、「三方は御定式にて候間」、「戴き候」「樣にと」、何か懐柔している感じがある。困って、「田沼実秘録」で検索し、さんざん探したところ、この資料展示を実際に見られたYamaRan氏のブログ「YamaRan's:備忘録」の「旗本御家人III お仕事いろいろ」の記事内に正解と思われる部分があるのを見つけた。そこには、『城内で刃傷沙汰を起こして切腹を申し渡された佐野善左衛門。この人が切腹に真剣を使いたいと言い出した』。『当時は、お腹を召す前に介錯、というのが切腹マナーだったため、刀は真剣じゃなかったわけで』、『そこで目付・山川下総守のナイス判断』となり、『「じゃあ真剣を用意しますので、今はとりあえず形だけ、お願いします」と』言われて承諾し、『言われた通りに』、『目の前の刀に手を伸ばして』、『体を前傾させたところで、首をおとした』。『本人は要求が受け入れられたと思って亡くなるわけで』。『目付』、これ、『いい人。(「田沼実秘録」)』と書かれてあった。その内、時間をとって全部の字起こしをしてみたいとは考えている。

「御徒目付」(おかちめつけ)目付の支配に属し、組頭に統率されて文書の起案・旧規調査や探索・城内番所の監督・玄関取締りや評定所及び牢獄などへの出役(しゅつやく:臨時に別な役職を兼ねること)・将軍出御の道触れなどに従った。

「向方」「むかうがた」で、南町奉行所方の意か。後にも盛んに出てくるのは、それではちょっと説明しきれないので、初めは、ある行動の先方で出迎えて警固する役の意かと思っていたのだが、よく判らない。

「石出帶刀」(いしでたてわき)は江戸幕府伝馬町牢屋敷の長官である囚獄(牢屋奉行)の世襲名。当該ウィキによれば、『初代の石出帯刀は』、『当初』、『大御番』(おおごばん:五番方(書院番・小姓組・大番・小十人・新番)に数えられる軍事部門の職制。五番方の中で最も歴史が古く、最も規模が大きかった。格式は両番(書院番・小姓組)の下に置かれ、馬上資格を持っていた。徳川将軍本陣備である他の四番方が若年寄支配だったのに対し、先手備である大番は老中支配だった。江戸本城と幕府要地の警護を担当した)『を務めていたが、徳川家康の江戸入府の際に罪人を預けられ、以来』、『その職を務めるようになった。石出左兵衛』『勘介から町奉行に出された石出家の』「由緒」書によると、『当初は本多図書常政と名乗っていた。後に在所名に因んで』、『石出姓に改めたとされているが、現在の千葉市若葉区中野町千葉中の石出一族の出身』で『本来』、『石出帯刀とは』地名ではなく、『一族の長の名である』とある(以下、初代他の記載があるが、略す)。『囚獄は町奉行の配下に属して』おり、『その職務内容は、牢屋敷役人である同心及び下男等の支配、牢屋敷と収監者の管理、各牢屋の見回りと収監者からの訴え』を聴取すること、『牢屋敷内における刑罰執行の立会い、赦免の立会い等となっていた』。『家禄は三百俵。格式は、譜代・役上下・御目見以下であるが』、『旗本である』(以下禄高が記されるが略す)。なお、関係ないので引かないが、「著名な石出帯刀」の項があり、『歴代の石出帯刀のうちで最も高名な人物』として石出吉深(よしふか)の興味深い記載がある。是非、読まれたい。

「御衝立際」「おんついたてのきは」。

「爲檢使」「檢使(けんし)として」。

「御頭」「おかしら」。牢屋敷担当職の筆頭であろう。

「申談」「まをしだんじ」。

「引續罷越」「ひきつづき」て「まかりこし」。]

 但、揚座敷三の部屋と、四の部屋の番所檢使
 場に相成、不ㇾ殘薄緣敷、中之所に屛風を建
 有ㇾ之。正面庭に無緣の疊二疊敷、其外手當
 の儀、前廉、牢屋見廻りへ被仰渡敷砂掃除
 等、諸事、支度いたし有ㇾ之候。暮時前に相
 成、殊に雨天故、高張挑燈等も差出し、檢使
 場へは手燭二つ燈し申候。場所の儀、爲
 合の。繪圖面、左に記【圖省略。】

[やぶちゃん注:先に掲げた切腹場の見取り図を参照されたい。

「前廉」(まへかど)。名詞の副詞的用法で「事前に・前もって」の意。]

○今日、夕方より大雨に付、牢屋敷門内、揚座敷、庭迄、御目付衆、木履・傘御用有ㇾ之候樣、御頭より御挨拶被ㇾ成、且、牢屋敷見廻り、幷、石出帶刀、傘、用させ候樣被ㇾ成度旨、是又、御目付衆へ被ㇾ及御挨拶候間、牢屋敷へ罷越候はゞ、右之趣、見廻り帶刀へ可申聞旨、頭、被仰渡候に付、申達。

[やぶちゃん注:「木履」「ぼくり」。下駄のこと。

「用させ」「もちひさせ」。]

○暫、間、有ㇾ之、下總守殿、御出に付、牢屋敷見廻り與力、帶刀、御徒目付、門前へ出迎、介十郞、忠五郞は揚陣敷、庭口に罷在、御挨拶申上、御徒目付、御案内いたし、屛風建候所へ、下總守殿、御通り、着座有ㇾ之。御徒目付兩人は、右屛風の外、左の方へ上り、介十郞、忠五郞は、同所右之方へ上り、何れも着座帶刀し罷在候。番所外庭、左の方、御小人目付、御使の者、つくばい罷在。右の方に牢屋見廻り帶刀、罷在。其次に出役同心、牢屋同心、つくばい罷在。

[やぶちゃん注:「小人目付」徒目付に従って、各種の調査や警備などに当たる役職。]

○切腹人、差出候儀、介十郞、御徒目付へ及會釋候得ば、御徒目付、切腹人、差出可ㇾ申哉之段、相伺候處、可差出旨、下總守殿、出役へ、御差圖、有ㇾ之。牢屋見廻りへ申達、駕籠より出し、添介錯兩人、左右に附添、當人、肢を押へ【右の方、五郞治、左の方、和多五郞。】、疊の上へ連參、疊一ぱいに跡の方へ、隨分、足をひらかせ、座させ申候。伊助、罷出、當人へ對し、名乘、一禮を成し、當人の後ろ、通り、左の方へ參り、後え向に、つくばい、刀を拔、控居候。添介錯のもの、手傳候て、肩衣を剝、肌を脫せ、兩脇、少、後ろの方に控居、牢屋同心、三方に九寸五分を【但、木刀九寸五分にて、紙にて包、こよりにて二所、結。】、載せ、持出、三尺程、明け【兩人、隨分、手を延し。】候程に置、前に置、退。五郞治儀、見計、三方、戴之候樣、申聞、當人手を懸け候所を、伊助、介錯致し、直に五郞治、首を揚る。首【檢使方へ顏を向る。】、下總守、見屆候旨、御徒目付申し、首を死骸に添置、卽時に、下男、薄緣二枚持出し、死骸へ懸け、四人にて、疊の儘、南の方、堀際へ寄せ申候。畢て、御目付衆、引取、直、評定所へ御出被ㇾ成候に付、介十郞、忠五郞は、最初の通、入口迄、御送り、牢屋見廻り、帶刀は、門内迄、御送申候。御徒目付は引續罷越、此節、下總守殿、麻上下、着替、檢使御勤、御徒目付も麻上下、着替申候。此方出役、着替候例も有ㇾ之候得共、御目付衆の外は、御檢使に無ㇾ之候間、着替候には不ㇾ及旨、御頭被仰聞候に付、介十郞、忠五郞は、平服にて相勤候。介錯の同心は、何れも、帶刀、袴計、着、股立取る。三方持候牢屋同心も、帶刀、袴計、着、股立取、相勤申候。此節、牢屋見廻り服部仁左衞門、向方佐野五郞左衞門、囚獄石出帶刀、罷出候。但、下總守殿供廻りは、中仕切外に差置、長柄持・草履取は、入口外の邊に控させ置申候。

[やぶちゃん注:「差出可ㇾ申哉之段」「『差し出だし申すべきや』の段」。

「肢」「あし」。

「跡」これは畳の後ろの方の意味の「あと」。

「隨分、足をひらかせ、座させ申候」その状態からは、別な動作を成すことが、甚だ困難になると同時に、介錯するに易く打てるように頭を下げさせるわけである。

「持出」「もちいだし」。

「三尺程、明け【兩人、隨分、手を延し。】候程に置、前に置、退」これも身体の自由を奪うための仕儀であり、やはり頭が自動的に下がることになる。

「見計」「みはからひ」。

「戴之候樣」「戴ㇾ之候樣」の脱字ではないか。「之れを戴き候ふ樣(やう)」で「三方を、早(はよ)う、手に戴かれよ!」と、わざとせかすして焦らせるとともに、突っ張らかった体はますます緊張して、思うように動かなくなるである。

「直に」「ただちに」。

「揚る」「あぐる」。

「向る」「むくる」。

「薄緣」畳表に縁だけをつけた敷物。

「堀際」「ほりぎは」。

「畢て」「をはりて」。

「直」「ただちに」。

「麻上下」「あさかみしも」。

「着替」「きかへ」。

「檢使御勤」一単語と採った。

「此方」「こなたの」と読んでおく。

「帶刀」これは「たてはき」ではなく、「たいとう」である。刀を差していることを言う。

「袴計着」「はかまばかり、き」。

「股立取る」「ももだちとる」で、「股立」は、袴の左右両脇の開きの縫止めの部分を指すが、そこを摘まんで、腰紐や帯に挟み、袴の裾をたくし上げることを「股立を取る」と言い、機敏な動作をする際の仕度の一つとされた。武将の外出の際、供として、走り使いをした「走り衆」の風俗で、この装束は「上下返し股立」とも称し、烏帽子・素襖(すおう)姿で、股立を取って、脚絆を附け、而して、大小の刀を差したのである(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「長柄持」長柄の傘や長柄の槍などを持って主人に従う者。

 なお、この切腹のシークエンス以降は、サイト「東京坂道ゆるラン」のYASS_ASAI氏の「伝馬町牢屋敷(3)切腹から世直し大明神へ」の記事がよい。伝馬町老屋敷内の切腹場が現代の地図と重ねて示されてあり、この切腹の仕儀も「国立公文書館」の「田沼実秘録」の画像と思われるものを使用して、細かに示されてあり、佐野家の位置も判る。

○善左衞門死骸の儀、牢屋見廻りより、先格の通、被ㇾ伺候に付、牢屋同心一人、評定所まで召連、御目付衆、御立戾、御内座へ御着座後、介十郞、忠五郞、御内座へ出、御仕置請事無ㇾ滯相濟候段、御頭へ申上、一旦、引退、猶又、御徒目付、申合、一同に御内座へ罷出、介十郞、右佐野善左衞門死骸の儀、貰人も有ㇾ之候はゞ、差遣可ㇾ申哉之段、御頭へ相伺候處、御目付所へも御談被ㇾ成候上、勝手次第可ㇾ遣旨、被仰渡候に付、其段、書面にて牢屋敷見廻りへ相達候。右召連候牢屋同心に爲ㇾ持、遣す。

[やぶちゃん注:「貰人」「もらふひと」。これは二様にとれる。この手の死罪となった者の遺体は試し斬りに用いられるのが普通であったから、それ用に呉れという武士がいたなら、それに渡された。別に、彼の場合は遺族がいるので、彼らが遺体を引き取りたいと願い出てきたら渡してよいという意味でもあろう。

「爲ㇾ持」「持たせ」であろう。]

 但、介錯人・添介錯は、年番吉田忠藏、

 相調、差人にて申渡、向方、添介錯は、

 忠藏より、向方年番へ相達候。其外、

 牢屋敷手當等、年番方にて、兼て取計

 有ㇾ之候。

[やぶちゃん注:この一段、何を言っているのか、今一つ、判らない。介錯人及び添え介錯人に対して、怪我はなかったか、仕儀に不都合がなかったか、或いは、事後に意見があるか、というような聴取かと思われる。

「差人」「さじん」は「使いの者」の意。

「年番」一年交代で勤めること。]

一、添介錯兩人は、直に牢屋敷へ罷越、介錯高木伊助は、御番所へ被召呼、御頭、御出懸、御直に、被仰渡牢屋敷へ罷越申候。

         蜷川相模守組

             筑山 伊右衞門

   中渡承人

             山下 彌左衞門

右は、下總守殿、牢屋敷より御歸後、御別座にて、佐野善左衞門切腹被仰付候、頭へ可申達旨被仰渡相濟申候。

   御詮議掛り     加藤 又左衞門

             松浦彌次右衞門

[やぶちゃん注:ともかくも、全体、点検と確認が神経症的に細かであることが伝わってくる。

 以下は、馬琴の添え辞。]

因にいふ。佐野氏の屋敷は番町御馬屋谷にありけり。今の笹本靭負殿の屋敷、是也。谷の方なる屛際に、古木のしだれ櫻、兩三株あり。「佐野の櫻」とて、花の比は、往來の人、必、見かへりて賞したり。

[やぶちゃん注:「番町御馬屋谷」「番長御厩谷坂(ばんちやうおんまやだに)」が正しい表記。「笹本靭負」(ゆげい/ゆきえ)は幾つかの切絵図を見たが、確認出来なかったものの、そもそもグーグル・マップ・データに「佐野善左衛門宅跡」として載っていた。東京都千代田区九段南三丁目六の「大妻通り」(ここが旧御厩谷坂)の大妻学院附近に相当し、そのサイド・パネルのこちらで解説板が読める。

「屛際」「へいぎは」。塀際。

『「佐野の櫻」とて、花の比は、往來の人、必、見かへりて賞したり』事実記載は確認出来なかった。]

當時、佐野氏の墓所へ、良賤、參詣、群集したりと云。寺は淺草本願寺地中也。又、操狂言にとり組て、三浦義村、佐野常世の義太夫、流行せしかば、葺屋町の歌舞妓座にても、この狂言をして、大入なりき。これも狂言の名題は忘れたり。初、この操狂言は浪花の作者のつくりしを、江戶へとりよせて、そのまゝに興行しつるなり。當時の雜說くさぐさなりしを、事繁ければ、略ㇾ之。

[やぶちゃん注: 「寺は淺草本願寺の寺「地」の「中」(うち)「也」これは先に引用で出した、現在の東京都台東区西浅草にある浄土真宗東本願寺派徳本寺(とくほんじ:グーグル・マップ・データ。以下同じ)で(東本願寺参道の右手にあるが、現在は単立寺院である)、墓も現存する。サイド・パネルのこちらに墓の画像がある。尖頭部が損壊しているが、彼の戒名「元良院釈以貞」の下の三字が確認出来る。

「操狂言」「あやつりきやうげん」。人形浄瑠璃のこと。

「狂言の名題は忘れたり」既注だが、「有職鎌倉山」。

「三浦義村、佐野常世」「有職鎌倉山」の田沼意知をモデルとした悪役が「三浦荒次郎義村」で、佐野善左衛門政言をモデルとした主人公が「佐野源左衛門経世(つねよ)」である。因みに、この名は「いざ鎌倉」譚を絡めた能「鉢木」で知られる北条時頼の隠密の諸国遍歴中に出逢った、あの人物と完全に同じである。

「葺屋町」現在の中央区日本橋堀留町一丁目日本橋人形町三丁目付近。寛永(元年は一六二四年)から天保年間(最後は年で一八四四年)にかけて、実に二百年余に亙って賑わった歓楽街で、芝居茶屋の多い町であった。

 以下は底本では、全体が一字下げ。但し、これも馬琴の追記と思われるので、読みやすくするために、ここでは、以下のように処理した。]

 此年の春より、「いよさのすいしよで氣はざんざ」という小うた流行して、小人は、みな、うたへり。是は伊勢大神宮御遷宮の材木を曳く爲に、山田の町人山原佳木[やぶちゃん注:「やまはらよしき」と取り敢えず読んでおく。]といふ者、作りし音頭なりしを、江戶まで流行したる也。かくて四月に至て、佐野氏の異變ありしかば、「いよ佐野すいきよで血は善左」と、秀句してうたひし也。童謠の應驗は今にはじめぬことながら、これらは、尤、奇といふべし。

[やぶちゃん注:「いよさのすいしよで氣はざんざ」国立国会図書館デジタルコレクションのここの国立国会図書館所蔵の藤田徳太郎著「近代歌謡の研究」(昭和一二(一九三七)年人文書院刊)の目次に立項されているが、残念ながら中身は読めない。しかし、暁洲舎氏のサイト「日本の民謡 曲目解説」の「九州」のパートに、

   《引用開始》

  「岳の新太郎さん」(佐賀)

    《岳の新太郎さんの 下らす道は 銅(かね)の千灯篭ないとん 明かれかし色者の粋者で 気はざんざ》

  佐賀県南部、藤津郡太良町に地固めの唄として伝わっていた唄。囃し言葉から、ザンザ節とも呼ばれる。長崎との県境にある多良岳に寺があり、今から二百年ほど昔、新太郎という寺僧がいた。新太郎に思いを寄せた近村の娘たちは、女人禁制の多良岳から、新太郎が下ってくるのを待ちこがれたという。その歌詞から曲名がある。天明41784)年春、三重県伊勢の山田の町人・山原佳木が、伊勢神宮の遷宮式に、氏子たちが御用材を引く「お木曳き木遣り唄」として作曲したものが全国に広められ、各地で地固めの唄などに利用されたものが元唄。昭和311956)年、初代鈴木正夫がレコードに吹き込んで、一躍、県を代表する唄となった。

   《引用終了》

とあった。「伊勢の山田」は伊勢神宮の玄関に当たるこの附近

「應驗」とはちょっと思わないが。]

2022/08/05

室生犀星 随筆「天馬の脚」 正規表現版 「文藝時評」

 

[やぶちゃん注:底本のここ(「一 月評家を弔す」冒頭をリンクさせた)から。今まで通り、原本のルビは( )で、私が老婆心で附したものは《 》である。太字は底本では傍点「﹅」。]

 

   文藝時評

 

 

 一 月評家を弔す

 

 往昔の文壇的事故のうちで、凡ゆる月評家はその批評の目的を達することに於て輕蔑されてゐた。卑小、狹慮、仲間褒め、下賤、乳臭、それらの標語は月評家が四方から受ける非難の聲であり、その流れ矢は或は彼等の致命傷となつて彼等の姿を一時沒落させた位だつた。凡そ月評家たらんとするものは徐ろに殺氣立たねばならず、殺氣立つた後に凡ゆる辻斬野盜の類にまで成り下らねばならなかつた。事實彼等は辻斬試斬後掛け拔打ちの外、正面から鯉口を切つた譯ではなかつた。それ故か彼等は此卑しい月評家的糊口を以て、充分に完膚なきまでに輕蔑された。往昔の月評家は例令《たとへ》その動機が辻斬の黨であつたにせよ、一脈の純粹さが無いではなかつた。しかも彼等はその目的を達することに於て敬遠され卑小視せられ、或者は悶悶たる客氣《かくき》を擁《いだ》いて空しく陋巷に飢ゑねばならなかつた。

[やぶちゃん注:「客氣」血気。]

 凡ゆる月評家達は或は勇敢に討死した。死屍の累累たる彼方に作家達は悠然として殘存してゐるのも、彼等にはどうする事もできない存在だつた。彼等の野武士風な好みも其眞向からの遣《やつ》つけ主義もみな攻勢的殺氣のわざだつた。斯くて若い文壇の野武士は次第に討死をした。凡ゆる卑しい汚名の月評の中にある一つの眞實な確證さへも、冷笑の中に封じられて終つた。誰一人として月評家風の業蹟、その仕事の跡を想ふ者とては無かつた。事實彼等のその一行の文章の跡さへも書籍の上に偲ぶことが出來なかつた。名もない犧牲のあとは徒らに文藝の王城を取卷く雜草を肥すばかりだつた。

 そして今自分の立つところの茫茫たる雜草の中から見る文藝的王城に、その一人づつの果し合ひから何物かを取らねばならない。彼等を讀破することによつて自分から「批評」なるものを引摺り出さなければならない。一人づつの手腕と力量とを知らねばならない。降參する時は降參せねばならない。打込む隙は遁すことのできない果し合ひをせねばならない。凡ゆる末路悲しい月評家風な憎しみと不愉快な的にもなり、またそれ故の月評家風な討死をせねばならない。誰一人として囘顧する者もない路傍の死屍となつた凡ゆる過去の月評家のやうに、自分もまた同じい命運の跡を殘さねばならないであらう。彼等を葬《とむら》ふところの自分の立場をも知らねばなず、――啾啾《しうしう》の聲の怨府《ゑんぷ》のうめき聲より、自分は彼らを弔はねばならぬ。そのやくざな碌でなしの墓碑の上にも春花を抛打《なげう》つて遣らねばならぬ。斯くて名譽ある併し結局は討死をする此仕事に就くであらう。

[やぶちゃん注:「啾啾」小声でしくしくと泣くさま。

「怨府」人々の怨(うら)みの集まる所。]

 

 二 肉體と作品

 

  瀧井孝作氏の「父來たる」(改造四月號)の素材は、曾て彼の最も讀者への親しみを繫いでゐる「父親」物の内の一篇である。かういふ素材と讀者との感情的關係は、それだからと言つて身邊小說の非難の的にはならない。却つて隔《はな》れた親しみの密度を感じない素材よりも、我我はどれだけ此素材への親しみを感じるか分らない。身邊的な心境消息の本體は、凡ゆる小說の骨格を爲すものであり、讀者へ生みつける關係は到底出駄羅目《でたらめ》な設計された人生の、放射線風な描寫なぞの比較ではない。五年十年といふ風に作者にも重要な人生であり得るものは、五年後七年後の讀者にも作者を知る爲に重要な人生であつて、決して假定された罐詰的人生の展開ではない。心境小說に非難の聲の起つた昨今にこそ、心境小說への睨みを强調しそれを趁《お》ひ詰めることにより、心境小說經驗者の最後の榮光を擔ふべきであらう。

[やぶちゃん注:「父來たる」昭和三(一九二八)年四月号『改造』発表。私は未読。]

 瀧井氏の描寫の中の辿辿《たどたど》しさ、素朴さ、舌足らずの吃吃《きつきつ》たる勢調、石屋が石の面を落す時の細かい用心を敢てする寧ろ木彫的な接觸は、漸く志賀氏等の文體を突破し完全に「瀧井孝作」へ塡《はま》り込んでゐることは、一讀者としての自分に小さい安心を與へた。彼の如き鈍重な肉體的なねばり氣で押してゆく種類のものは、どういふ場合にも失敗することは尠いものである。何故かといへばその肉體的な壓力の手重《ておも》さは、彼自身に問題を執るよりも今の新銳であるための驕怠の輩に眞似のできないことだからである。新進であるための恐るべき後の日の豫測的な頽廢時期を知り、新進であるための忘失されやすい恭愼の心を約束する彼の立場は、又一文人としての持すべき眞實な傲岸な態度を保つてゐた。尠くともそれは近時の新進氣銳の作家の中に稀に見ることであり、自分の快敵とする抑抑の所以であつた。

[やぶちゃん注:「吃吃」滑らかでないさま。

「手重さ」「容易でないさま」、或いは、「扱いが丁寧であるさま」。私は、あまり彼の小説を読んでいないが(自由律俳句はさわに読んでいる)、ここは後者であろう。]

「父來たる」の描寫力は一行あての叩き込みであり、田舍者の素朴さに溶かれた銳い「氣持」風な疊み込みの仕上げだつた。停車場で半日を待つ彼の氣永さよりも、その氣永さを押し伸べる彼も一種の「力の人」に外ならなかつた。「無限抱擁」の中にある鈍重な行爲とその氣質のネバリは、遂に一批評家の筆端をも煩はさなかつたが、特異な位置、特異な作品としての此一書物を自分は愛讀した。何より彼が俳人として文體にその描写の力を得てゐるといふことは、到底市井の一下馬評に過ぎない。

[やぶちゃん注:「無限抱擁」大正一〇(一九二一)年から同十三年にかけて、『新小説』『改造』などに発表した四篇を昭和二(一九二七)年に合はせて発表した長編私小説の恋愛物。私は若い時に中途で投げ出したまま、完読していない。]

 彼の持つジワジワした味ひが年月とともに硬くなりはしないか、ジワジワがよい意味の皺になればよいが肉體的な皺になりはしないか、皺の中に垢がたまりはしないか、これらの不安はないでもないが、彼は體力的にこの皺をよく用ひ艶を含ませ「瀧井孝作」をこの種の固まつた一作家に膠着させてはならぬ。

 

 三 芥川、志賀、里見氏等の斷想

 

 芥川龍之介、志賀直哉、里見弴氏等は各《おのおの》名文家である。斟くとも芥川氏は凡ゆる大正時代の描寫の最極北、描寫的な文章上の最も著しい標本であつた。その氣質の銳さに依つて從來の文章的な皮の幾枚かを剝脫し、古い明治年代の文章の上に彼自身の「皮」を張り付け是を入念に硏ぎ澄《すま》した人だつた。この年代に芥川氏ほどの「皮」を示した文學者は他にもあつたけれど、彼ほど丹念な磨きの中に精進する文學者は極めて稀だつた。彼にはいい加減の「加減」さへ分らぬ淫文家だつた。打込みは一字づつであり、一行づつの杜撰な打込ではなかつた。それ故か、彼は不思議にその文章上の苦吟に後代への「虹」を豫感してゐたもののごとく、氣質上の鑄刻的な薄命さは、顧みて又首肯《うなづ》けるところが無いでもなかつた。

 

 芥川氏の生涯の敵は志賀直哉氏の外に、何人の光背も認めなかつた。志賀氏の中に拔身を提げて這入る芥川氏の引返しには、甚しい疲勞の痕があり容顏蒼みを帶びる辟易があつた。彼の生涯の中に最も壯烈な精神的に戰ひを挑む時は、何時も志賀直哉氏を檢討することだつた。生地で行き、ハダカ身で行く志賀氏は彼の持つ「皮」の下にもう一枚ある、薄い卵黃を保つ皮のやうなものを持つてゐた。芥川氏はそれの一瞥を經驗するごとに彼自身の皮を磨くことを怠らなかつた。志賀氏は素手だつたけれど、芥川氏は何か手に持たなければ行けなかつた。彼等はその描寫の上で斯の如く斷然別れてゐた。そして彼は大正年間の描寫風な文章の型を何人よりも的確に築き上げ、これを兼て彼自身が常に總身に負ひ乍ら感じてゐたものの一つである「後代」へその八卷の全集を叩きつけて去つたも同樣であつた。

[やぶちゃん注:「八卷の全集」最初の「芥川龍之介全集」(通称「元版」)岩波書店から昭和二(一九一七)年十一月から昭和四年二月までに全八巻が刊行された。但し、犀星のこの章は昭和三年のもので、全巻発売にはまだ至っていなかった。しかし、実は室生犀星自身が編集委員の一人であったので、かく書けるわけである。而して、「芥川龍之介全集」の宣伝にも一躍かっている手前味噌でもあるのである。

 以下、一行空けは底本のママ。]

 

 志賀直哉氏の文章の中にある「時代」はふしぎに芥川氏よりも、直接的な長命と新しさを共有してゐた。單なる新しさであるよりも以上に氣持風だつた。氣持の接觸だつた。言葉よりも頭のヒラメキを感じ美に肉感があつた。かういふ文學は凡ゆる大正年代の「文學」に於て試みられた最初のもの、その文學的な耕土の掘返しの一人者だつた。その「氣持」の掘下げは直ちに巧みに卽刻に利用され踏臺にされ、凡ゆる文學的な靑年のもつ文章に作用された。その速度ある作用は彼自身さへ知らぬ間に、美事な次への文學的な下地への吸入を敢て爲されてゐた。もうそれは志賀直哉氏のものであるよりも次の時代のものに違ひなかつた。自分は驚くべき大正年代の鏡のやうな縱斷面に、云ふまでもなく、名文家志賀直哉氏を見ることは、餘りに靜かすぎる光景であつた。その靜かさは芥川氏を圍繞《いねう》するものと同樣な靜かさだつた。

 里見弴氏も亦名文家に違ひない。芥川、志賀氏の正面的な少しもたぢろがないところの、ひた押しに迫るちからを里見氏は背負投げを食はして置いて、徐ろに彼はその巧みな餘裕のある小手先を示しこれを彼の文章の上に試みてゐた。彼のすべり、彼のなめらかさ、そして彼の最も特異な體を開いて見せる小手先、就中、彼の進んで碎けた分りのよい、鮮かさ過るほがらかさを、釣の名人か何かのやうにその糸を縱橫に投げ操つてゐた。芥川、志賀氏とは向きも姿も反對してゐたけれど、不思議な眞實を磨きあげるための描寫の中では、その蒼白い炎を上げてゐることも亦同樣な或名人型を築き上げてゐた。

[やぶちゃん注:「ほがらかさ」の傍点はママ。前の二つの傍点に徴するなら、「さ」にも傍点があるべきである。]

 彼等は日本に於て特記すべき名文家であり、文章と氣質と同樣に秤《はか》られ沁み込みを見せてゐる作家だつた。人生觀上の作家は他に求めねばならぬが、「描寫」の上に充分な記錄的存在としての三氏は、その三面相打つところの新しい「古今」を暗示してゐると言へるであらう。

 

 四 詩人出身の小說家

 

 今から七八年前に時の批評家だつた江口換氏は、自分の或一作を批評して「彼は人間を書くことを知らない。」と云つたことがあつた。自分は小癩な氣持を起して例に依つて聞き流してゐたが、事實彼の指摘する人間が書けてゐないことも、自分の胸に痞へなこともなかつた。彼のいふところは要するに詩人出の小說家が多く低迷する不用な輪廓描寫や、下らない草花や風景的な文章を抉《えぐ》り立てるところにあつた。又同時に各新聞の文藝欄に陣取る月評家等は、言合《いひあは》したやうに自分の小說がいかに詩人的であるために下らないかを品隲《ひんしつ》し、隙もなく自分の行手をふさいでゐた。併し自分は凡ゆる雜誌に腕の限り書き續けてゐるより外に、自分の力量を示すことができないやうな時代苦を經驗してゐた。自分は机にさへ對へば立ちどころに一篇の作を書くことができ、それを直ぐに叩きつけることに依つて些かも後悔を感じなかつた。此恐るべき文學的野性の中に荒唐な作をつづけた四五年の間、自分の詩は漸く衰弱し優雅な思ひは枯渴された。自分は豐かな肉を剝ぎ取られ骨だらけになつて殘存してゐた。江口換氏の所謂人間を書かずにゐて、詩的描寫のいい加減な眞向からの遣つけ仕事に親しんでゐたからだつた。

[やぶちゃん注:「品隲」品定め。]

 詩人出の作家の持つ病癖的な、胡魔化し小說といふより人生には不用な詩的描寫は、自分だけには亂次(だらし)のないものだつた。同時に詩人出小說家の八方の口は開いてゐて、何處を向いても彼の「一篇」は作ることのできるよう、多くの不用の詩や言葉や語彙や感覺を持ち合してゐた。又それ故に詩人出の小說家が飽かれること、本物の人生の眞中に行き着かないまでに沒落するのも、おもに此詩人的な素質上の濫用に原因してゐた。凡ゆる詩人出の小說家が一家を爲さない間に姿を匿し、或は滅亡するのも强ち詩人であるといふ境涯的な排斥ばかりではなかつた。詩的感情の利用から受ける輕蔑自身さへ、多くの文壇的な冷遇の所以を釀すものに近かつた。

 島崎藤村、佐藤春夫の二氏位を殘す外、詩人出に天下に地位を得てゐるものはなかつた。當然天下を二分する位に詩人出小說家の轡《くつわ》を駢《なら》ぶべき筈であるのに、殆ど寥寥《れうれう》二三氏を數へる位だつた。彼等がいかに多く詩人的であることに於て、奈何に小說家に不向きであるかが理解されるであらう。佐藤惣之助、千家元麿氏等の折折の勞作すら、殆ど凡ゆる小說的な片影さへ殘さずに沈湎《ちんめん》した。佐藤氏の「大調和」の二三の作すら決して感覺派の諸公に遲れるものではないが、作家運に惠まれない詩人出小說家の常として酬いられること皆無であつた。均しく彼等の素質的な江口換氏の指摘する「人間」を書く事をしない爲ではなからうか、さういふ江口換氏の評的の確證はともあれ、凡ゆる批評は同時に五六年の後にも猶振返つて肯定すべきものは肯定すべきであつた。月評家の須臾《しゆゆ》にして消失すべき運命的な仕事さへ、後に其作家に思當る光茫を曳くものである事も忘れてはならない。――

[やぶちゃん注:「寥寥」もの淋しいまでに数が少ないさま。

「沈湎」沈み溺れること。特に酒色に耽って荒んだ生活を送ること。

「大調和」雑誌名。佐藤春夫がよく投稿していた。

「須臾」現代仮名遣「しゅゆ」。「暫くの間」「ごく僅かな時間」の意の名詞。元は仏教用語でサンスクリット語の時間単位「ムフールタ」の漢訳。

 以下、一行空けは底本のママ。]

 

 詩人出小說家である島崎藤村氏の近作、(女性四月号)は、どういふ方向にあつて彼は百年の大家であるかといふことを示してゐるか?――「草の言葉」一篇は島崎氏の老いたる感傷の結晶であり、冬の日の植物の心を彼自身に引當て、靜かに詩のごとく物語つたものに過ぎない。小品と銘を打たれてゐるが同時にこの老詩人の溜息を聞くやうなものである。島崎氏に於て初めてそれを公にし是を認められるであらうが、自分のごときさへ此種の文章を發表する氣がしない。かういふ寂しい氣持を盛るに何故に最つと島崎氏は人生的な織り込みを敢てしなかつたかを疑うてゐる。

[やぶちゃん注:「草の言葉」は不詳。「近作、(女性四月号)」と同一かどうかも知らぬ。「島崎藤村全集」には確かに入っていることは確認出来た。私は藤村は人間として大嫌いである。]

 

 五 時勢の窓

 

 雜誌の廢刊と圓本的墮落は新しく世に問はんとする作家に、その進路と行手を塞いで見せた。文壇への登龍門は大雜誌の光背に據る事ではなく、小刻みな雜誌によつて少しづつの聲名をつなぎ得ることに於て、漸くその名聲を小出しに羅列することすら肝要な時勢であつた。それ故新進的な湧くが如き光彩を見ることは無いであらう。新感覺と稱せられる作家等も少しづつ遲遲とした步みにより、今日の橫光利一氏、中河與一氏、片岡鐵兵氏等を爲したる外、岸田國士、岡田三郞、犬養健、稻垣足穗氏等と雖も、往年の既成作家の如き喝采の中に現れたものでない、新進の道、つねにあるが如く又その道展《ひら》けざるに似てゐるやうである。

 文藝の事たるや寧ろ小刻みな聲名による恭愼な進み方も、一擧にして表面に現れる事も其執れも惡くはないが、唯時勢は既に既成作家にすら生活的にも危機を、新進には曾て無かつた程の苛酷な試練を與へてゐる。それ故に今後新しい作家が輩出しても、或は往昔の古文人のごとき生活の苦節を敢て偲ばなければならないかも知れない。既に我我既成の徒にはその用意が出來、陋居に破垣を敢て結んでも、說を大衆に求めることも亦自らの立場を危くするものではない。未だ現れぬ新進もまた新緣の窓邊に己れを鍛へるために飢渴位は、平然として併し心で喰ひ止めて行くベき時であらう。 

 

 六 齋藤茂吉氏の隨筆

 

 歌人齋藤茂吉氏は或は文壇外の人であるかも知れぬ。文壇人であることはは齋藤氏の場合何か知ら當つてゐない、と言つても矢張り文壇の人以外ではないやうである。彼は唯作品で戰ふ文壇人でないだけで結局文壇の人であるかも知れないのである。木下杢太郞氏とともに文壇の埃や塵の外に職を持つてゐること、折折の西洋紀行の文章を發表してゐることに於て、啻《ただ》に茂吉氏が歌人でないことだけは解るやうである。

 

 昨春以來齋藤氏の滯歐紀行の數多い發表は、描寫力の素直さや洞察の銳どさに加へて、氣質上の鈍重な併も明るい壓力を自分は感じ、さういふ描寫の少ない文壇に稀に見るよい文章だと思うた。併も齋藤氏の描寫力はいつも明るい一面と又曇天的な風景に接すると同樣な鬱陶しさをも持つてゐた。銳どさは折折文章の下地に網の目のやうに針立つてゐたけれど、それは文章や描寫の上の企圖でさうなる職業的賣文の徒の談《かた》る銳どさではなかつた。氣質と肉體とが行動するごとに感じる、自然な素直な銳どさだつた。鈍重な人間のもつ深い銳どさだつた。「西洋羈旅小品」(中央公論四月號)の一篇の中にも、歌人齋藤茂吉の吟懷は啻に齋藤茂吉の吟懷に止まらずに、その描寫の底にある誠の相貌は、人生の本道へも交涉をもたらす手腕を美事に準備し且つ表現して餘すところがなかつた。山河水色に對する氏の感情はもはやそれらを自然的な獨立性のあるものとせずに、我我と同樣な感情的な位置へまで呼込んでゐることは、彼が歌人として「赤光」以來の秀拔の偉才を示してゐるものであるが、しかし彼は山河の相貌に單に同化作用を起してゐるものでなく、實に彼は淚ある山嶽の姿に接觸するまでの、それらの自然のもろさに抱かれてゐる氣持を經驗してゐる。かういふ感情の微妙以上の微妙さの中にある茂吉氏の描寫は天下の文章に對《むか》うて挑戰せずに靜に隔月位に發表され、識者にのみ愛讀されてゐるばかりである。かういふ秀れた文人の位置に自分は感激の言葉無きを得ない。

[やぶちゃん注:「西洋羈旅小品」「斎藤茂吉全集」(岩波書店版)の目次には見当たらない。不審。

 以下の一行空けは底本のママ。]

 

 歌人齋藤茂吉氏が大正三年代に出現したことは、當時の歌壇を粉碎し根本から建て直した。併しそれにも勝る彼の目立たぬ文章の上の仕事は文壇の外側を靜に流れてはゐるが大河は自ら人の目にふれないでゐない、――それらの描寫には左顧右眄が無く、意識的な調和や作法やうまさを練ることなく、鈍重に尖銳な、細緻に粗大な、折折氣質上の明るい悒《いぶ》せき哀傷を沁み亘《わた》らせてゐる。時にある會話のうまさと美しさ、それは生きてゐることばをそのまま兩手にすくうて、そつと紙の上に置いたやうにまで自然な呼吸づかひを知つてゐる。不思議に文章に時代の匂や調べが査《しら》べられずに、十年後にも古くならないものを持つてゐる。歌人の臭みを帶びず、きざな氣取りが無く、しかも彫刻的であることに於て原始的な鑿《のみ》の冴えをもつてゐる。これを歌人の文章であるといふことに於て片付けることは、彼の何物をも知らぬ者であらう。事實に於て彼は歌人の境涯を拔け出てゐることは、描寫の確實な獨立性のある未來を證明してゐるからである。

 

 七 勞作の人

 

 德田秋聲氏の「日は照らせども」(文藝春秋四月號)を讀んで、何よりも事件の經過の上に、作者として凡ゆる手腕を盡せるものであることを知つた。その複雜な事件的な人生を澁滯なく押し開き、それに解決を與へないでゐるところ、凡ゆる父親の平凡性を一步も出ないでゐること、自ら處理し裁きを强調すること無きところ、尠くとも作品の上に何等の愚痴や口說きのあとがなく、白髮的な嚴霜《げんさう》を偲ばせる一父親の面目の窺はれるのは、讀者として自分の快く感じた所以だつた。

[やぶちゃん注:「日は照らせども」昭和三(一九二八)年四月発行の『文藝春秋』に発表された恋愛小説。

 以下の一行空けは底本のママ。]

 

「目は照らせども」の人生にはその素材の上で、もはや批評的なものの插人されない確實性を持つた作品である。かういふ人生の諸事件的な作品への斬り込みは、無理にその隙間へ鑿を入れてコヂ開けねばならぬ。さういふ俗流の批評は自分にはできない藝當である。このやうな作は若い人のためにどれだけ存在していいか分らぬ。この中に妙に人に敎へる描寫的な人生を物語り、且つ暗示してゐる。これは德田氏の中に持つものの德の一つの現れであらう。決して作品的な剌戟に據るものでなく、或親切な作品はかういふ風に書くべきであるといふ約《つ》ましい指導が、作者も意識せずに讀者はそれを何氣なく獨りで受入れ會得するやうである。作の一つも書かうと意圖する者、作家たり得る者へも此感情が働き繫がつて行くのは、他の作家には全然無いと言つてよい。作家として彼がかういふ位置にあることは、いかに彼が人生への直面的な原稿紙と彼との間に、隙間の無いことを證明するものに外ならないであらう。そして彼が何よりも小說の先生であることを否めない。彼が益益小說の先生であり得ることにより彼の實直な人生記述者である符牒を一層重い位置に押上げるであらう。

 

 昨今の文壇で活躍したのは、北村小松氏や片岡鐵兵氏、又かういふ僕自身でも無かつた。瘦魂《さうこん》よく世評に耐へ信ずるままに生活し、又數多くの勞作を爲し得た德田秋聲氏であつたらう。その人生に處するところの老骨は、彼が末期的の餘燼の中に眞率な正直過ぎる程の組立を敢てした。冷笑と漫罵の中に荒まずに一層愛すベきものを愛し、いそしむべき作を怠らなかつたのは、何と言つても「嚴霜」的であり、何處までも彼自身を以て遂に押し切つたことは美事な勇敢さであつた。數多くの作品の中にある尖りと不安とに震へてゐた愛情も、年を經て作に重要な美しさ素直さを發見されて行くであらう。例令、それが老境に點ぜられた一女性の兎角の事件であつたにせよ、包まず匿さず堂堂と寧ろ人間的なほどの發露を敢てしたことは、遂に彼の場合のみでなく一文學者としての最後の氣魄を示したことは、人目を忍ぶ老醜的痴情の多き現世に、正直なほど壯烈なる人生の最後の炎を上げたことはその作品の上に秀作を求め得られた點に於ても、我我は德田氏を先づ活躍した昨年の重なる人物としなければならぬ。

[やぶちゃん注:「北村小松」(明治三四(一九〇一)年~昭和三九(一九六四)年)は劇作家・小説家・脚本家。当該ウィキによれば、『青森県三戸郡八戸町(現・八戸市)生まれ。八戸中学校』『を経て』、『慶應義塾大学英文科卒。在学中から小山内薫に師事して劇作を学び、卒業後に松竹キネマ蒲田研究所に入社。松竹の』映画「マダムと女房」(昭和六(一九三一)年公開の日本初の本格的トーキー映画。五所平之助監督)など、『多くの映画シナリオを書く。戦後はユーモア小説作家に転じた』。「人物のゐる街の風景』(大正一五(一九二六)年)が『初期代表作で、初期は左翼文学にも手を染めたが、戦時下は戦争協力小説を多く書き、スパイものを編纂した』。また、他に翻訳もある。終戦の翌年、『公職追放を受けて活動停止追放処分とな』ったが、昭和二五(一九五〇)年に解除された、とある。]

 

 八 作家の死後に就て

 

 近松秋江氏の「遺言」(中央公論)の中には、綿綿たる子孫に對する露骨な一文學者の「遣言」的なものが書かれてゐる。かういふ内容は近松秋江氏ばかりでなく、尠くとも子供を持つてゐる作家の陰氣な午後の想念を悒《いぶ》せく曇らせて來るものである。此場合近松氏は最も己を語ることに情熱を多分に持つ饒舌家であり、その事に依つて他を憚るの人ではない。しかも憂慮や懸念の情が寧ろ敍情的な愚痴の形態を取つてゐるのは、その性質的なものの上に止むを得ないことであらうが、さういふ愚痴を愚痴ることによつて死後の「彼」自身を見ようとするのも、現世の苦勞人秋江氏が未來へ働きかける物哀しげな感情の吐息であらう。併乍ら最も壯烈な生活者としての凡ゆる俤《おもかげ》の中には、子供や遺族を思へば思ふ程押强く現世に坐り込むのが、老境の重厚な態度でなければならない、秋江氏には此境の物腰が坐り切らないで、語るに急ぐはその子を愛する感情を誇張してゐると言はれても、それが或程度までの本統[やぶちゃん注:ママ。]であることも首肯けよう。老境にあつて子を思ひ遺族への念ひを潜ませることは、常に鐵の如き意志が無ければならない。若し我我が老境に於て嘆き悲しみを敢てしなければならないとしたら、その鐵を打碎くの槪がなければならないのは、文學的老境の大地盤のできた後に何の不思議があらう。

[やぶちゃん注:「遺言」は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらにある「新選近松秋江集」(昭和三(一九二八)年改造社刊)で読めるPDF一括版。「287」コマ目から)。

 次の一行空けは底本のママ。]

 

 我我は作家の遺すべきものは改造社や春陽堂の印稅の計算ではない。吾吾の遺さなければならないものは只一つよき作品の威光や信賴であり、そのよき作品が命令する現世的生活の物質充塡であるとしたら、最も壯烈なる作家は葬費をも用意しないで逝去すべき榮譽を擔ふべきであらう、吾吾の死後の吾吾の遺族は改めて彼等の生活を敢て實行しなければならぬ。そのために彼等の必要とする養育費が、父親の作品の命令による當然の物質的な收入があれば兎も角、それらの收入が無かつたことは作家として後代へ傳へるものの無かつた所以である。吾吾の死後に敢て爲される吾吾の子孫の輕蔑や冷笑こそ、或意味に於ける最も辛辣な批評たり得ることは否めない。一つの叙情、子孫への公開狀であるところの「遺言」の本體も、結局は近松氏の大なる愚痴の中に、彼自身の心に養ひ得た永年の描出的遺言たるに止まつてゐるだらう、綿綿の情はよく人をとらへ得るが、吾吾の聞きたいのは鐵の自ら烈日の下に燒け伸びるごときを、「遺言」の壯烈な中に望みたいのである。しかも彼が彼の精神と肉體への衰弱期にあれほどまでに後慮の愁や心配りを敢てすることも、彼一人ではなく人の親の中にあるものであるが、同時にそのためにこそ腹の底に押し沈めて置くべき生涯の用意ではなかつたか?――何ごとも默然として老の日を步め、口を利かず敢然として御身の途を步め、かういふ言葉こそ若し老の日にあらん時に僕たちの考へることである。

 

 我我はどういふ意味にも吾吾の死後の安らかな遺族を想像することができず、又安らかな遺族を想像し得ても今日の我我には用が無い。吾吾の生きてゐる間にすら不幸な貧しい生活が、吾吾の死後に於て安らかであることは絕對にない。吾吾の遺族は我我と生活を俱にしたため、凡ゆる貧と戰ふくらゐの心の用意は既に覺悟しなければならない。吾吾の生きてゐる間にピアノを習つてゐた娘らも、或は燐寸《マツチ》の箱張りをしなければならないかも知れない。學校も中途で廢めなければならないかも知れない。さういふ窮乏の中にこそ吾吾の子供は生き育たねばならぬ。吾吾の妻はボロと垢とから立ち上り、これらの子供のために凡ゆる燐寸の箱張りや女工、派出婦まで成下り働かねばならぬ。一文人の内妻の成下りは決して不名譽ではない。敢然として一文人の妻として凡ゆる賤業に就くことは、錢餘りて飽食するよりどれだけ文人風であるかも知れぬ。我我が吾吾の遺言を敢てすることは「用意はもうできてゐるか」と唯一言で濟むだけである。この言葉こそ吾吾の全生涯へ雷鳴のごとく傳はるべきである。同時に派出婦とまでに成下つた吾吾の女らやその娘の生涯にも、依然たる此雷鳴のごとき聲を常に落し記憶させねばならぬ。一文人はその一代で亡びてしまへばいいのだ。近松氏の「遺言」一篇に依つて自分は以上數行を考ヘ得たことを謝して置く。

 

 九 「文藝趣味」の常識化

 

  自分の文藝的な生ひ立ちの時代には、單なる文藝趣味といふだけでも極めて少數な仲間にのみ限られ、文藝的な人物といふ目標だけでも可成りに新しい異端者の樣に思惟されてゐた。親兄姉は勿論の事、親戚の間柄にすら一種の左翼的な思想として吾吾の文藝趣味は危險視され嫌厭されてゐたものであつた。それらの頑迷さに最後まで戰うて來た吾吾の今日から見れば、凡ゆる文藝趣味の一般化は、常識としての文藝の存在を意味し、どういふ靑年にもなほ文藝の理解に遲れた者が無く、社會的な日常應酬にも現代の文藝が揷話されるやうになつたのは、彼等靑年の父や母の智識的成長を物語ると同時に、曾ての長髮的文藝趣味の願廢と沒落、文學者風の生活の放埒と衒氣とから完全に脫却されたものであつた。今日の靑年は詩や小說を書かないものは無く、また詩や小說を創作し得るといふことは、往昔の靑年が歌俳諧を作り得ると同程度の、廣汎な意味の常識たる以外に何等「藝術的」なる特種の人物でないことを證明するに外ならないものだつた。それ故文藝批評を以て靑年間の日常生活の目標たり得ることは、何等の疑ひもなき一般的な文藝の普及を物語るものであつた。

 文藝趣味を危險視したところの一つの封建、それらの成長が靑年間に流布されることの憂慮を以て終始してゐた道學者及び吾吾の周圍は、今日の文學的な諸《もろもろ》の表現に依るところの根本的な人間學の要素が玆《ここ》にあつたことに氣付き、再び文藝趣味に鉾を向けることは無くなつた。そして靑年の一般的な解釋による文藝趣味は、それ自身を吸入することによる離れた愛讀者風の好尙と、又文藝を制作することに依る意欲的な好尙との、自ら二手に別れて文藝城を包圍してゐることも實際であつた。文藝を文藝としての位置に客観的眺望を以てするものと、それを制作する側の位置とが凡ゆる靑年間に識別され得たのも、文藝の何物であるかと云ふことの理解を必然に會得したからであらう。才能無くして文藝の使徒たることは往昔の靑年の意企であり、今日に於ては最早問題にすらならない。

 

 十 大センチメンタリズムと長篇小說

 

 トルストイやドストエフスキイの長篇小說の中に洪水のごとく奔流して盡きなかつたもの、ニイチエやワグネルを包む重厚な城砦《じやうさい》的な感情の壓力、凡ゆるベエトオベンの組織的な會曾ての表現の内で最も完全な表現だつたシンフオニイ、ミケランゼロ、ドラクロア、ゴヤ、それらは一つとして大センチメンタリズムの蘊奧《うんあう》を極めてゐないものはない。最も有害な錄で無しの紙屑センチメンタリズムもその人間の大成期に於て「落着」を表はすことは、猶俗流の間にさへ認められないこともない。

[やぶちゃん注:「蘊奧」(「うんあう(うんのう)」は「うんあう(うんおう)」の連声) 教義・学問・技芸などの最も奥深いところ。「奥義」「極意」に同じ。「薀奥」とも書く。]

 あらゆる長篇小說の軌道に必要なるものは、終始渝《かは》る無き熱情の發揚であり、大センチタリズムに磨きをかけることに依つて、その人生的な建築を爲し遂げることができるであらう。大センチメンタリズムの影を見ること無き長篇讀物は、その讀物としての性質上、ただちに倦怠を腐釀《ふぢやう》することはいふまでもない。長篇小說の上の倦怠は罪惡以上の僞瞞であることを知らねばならぬ。彼等の讀物としての用意と條件との過程に於て時代的であり、凡ゆる人生の相貌の橫縱の幅や奧、そして最も約束されねばならぬことは、何よりも思想的な時代の潛在層が唯一とされることである。彼等はそれ自身で時代の新聞でなければならず、あらゆる反射鏡的な效果ある六百萬人の抱擁をも爲し得る、大通俗のハガネによつて切斷されねばならぬ。「戰爭と平和」「罪と罰」の存在、西鶴物の各物語の存在、ワグネルとベエトオベンの唱道、そして我我は、――我我作家はその生涯の内に三つ以上は決して書き得ない長篇に手を觸れねばならないのだ。種種なデツサンを爲し終へた後の我我が必然着手しなければならない仕事は組み建てられた塔を初めから遣り直すことである。その仕事への打込みは、我我を包圍する大センチメンタリズムに據らなければならないのである。今日まで吾吾の日夜攻勢して來たところの凡ゆる弓矢の巷、あらゆる硝煙の的であつたところの一つしかない、今見紛らすと復永く打ち攻めることのできない大センチメンタリズムを攻め上げることにより、吾吾の長編小說の軌道を明らかに認識することができるであらう。

[やぶちゃん注:「僞瞞」「欺瞞」の誤用の慣用語。]

  吾吾の爲し得たところの凡ゆる作品的經驗とその量積、自然に我我を押し上げたところの一つの人生的なクライマツクス、聳える一つの塔、その塔にともしびを點すことにより、其窓窓を明るくすることに依つて、吾吾の長篇小說、生涯の仕事、吾吾の最後の情熱を盛り上げることができるであらう。吾吾のもう一度立ち上ることをも約束し、又吾吾の過去の或はやくざな仕事すら奈何に「今日」の我我を築き上げるために必要だつたかを人人は知り、人人はこれらの塔を初めて見上げて、絕えず人生への睨みを忘れなかつたところの我我及彼等を注目するであらう。

 

 十一 政治的情熱

 

 今度の選擧で自分も勞農黨のM氏に一票を投じた。政治に興味を持たない自分だつたが、何か旺《さか》んな情熱を感じ其情熱に觸れることは好ましい愉快さであつた。尠くとも其時代的な炎を自分だけのものとして手强く感じることは、日頃の倦怠や文弱の暮しから見て勇ましいものに違ひなかつた。自分は此雜然たる喧騷の中に我我も待ち得、又同感し得る情熱のあることを不愉快に思はなかつた。

[やぶちゃん注:「勞農黨」大正一五(一九二六)年三月五日に創立された左派政党である労働農民党の略称。当該ウィキによれば、前年十二月に『結成された農民労働党が共産主義と繋がっているとの嫌疑で即日禁止された』『ことから、当初は左派を排除した形で結党されていた。中央執行委員長には日本農民組合委員長だった杉山元治郎』(もとじろう)『が就任』したが、『結党後に地方支部が組織されていく過程で左派が流入、親共産主義の立場を取る左派の地方党員と反共主義の立場を取る右派の幹部が対立し』、早くも同年十二月には『右派が脱党して』「社会民衆党」『(委員長は安部磯雄)を結成』、『相前後して中間派が』「日本労農党」『(後の委員長が麻生久)を結成し』、結果して『労働農民党(委員長は大山郁夫)は左派が主導権を握った。三派が鼎立した』。『分裂後の労働農民党は大山郁夫委員長・細迫兼光書記長が指導し、対華非干渉・労働法制定などの運動を進めた。最初の普通選挙となった』昭和三(一九二八)年の第十六回衆議院議員総選挙(犀星の言っている選挙はこれ)では、『権力の干渉は厳しく、香川県から立候補した大山郁夫陣営に対する弾圧は強烈をきわめた。このときの現地の運動員として、当時農民組合の指導にはいっていた後の小説家島木健作がいた。しかし、全国で無産政党最多の』二十八『万票を獲得し、水谷長三郎と山本宣治の』二『名の当選者を出』した(孰れも京都選挙区)。『山本は帝国議会で特別高等警察(特高)の拷問行為を暴露することを得意としたが、右翼青年に暗殺された』とある。

M氏」不詳。]

 菊池寬、藤森成吉《せいきち》二氏の落選には、分けて菊池氏の落選の報を得たときは何か腹立たしかつた。彼だけは公平な眼を以て當選させねばならなかつた。自分は號外を見て暗い街巷に佇んで二重に腹立たしかつた。彼が蒼蠅的新聞記者から文壇の大御所などと謳はれることは取らないが、さういふ下馬評を外にし、勇敢な彼は、文壇的一城主を負うて立つ、他の城主等の持たぬ不斷な「戰國時代」の地圖を開いて見てゐる男に違ひなかつた。神經質ではあるが「粗大」を持つてゐることも事實だつた。かういふ意味では中村武羅夫《むらお》氏もまた「租大」な野性を持ち合してゐた。彼等の此「粗大」は谷崎潤一郞氏の作品の相貌に於ける「大谷崎《おほたにざき》」たる所以のものと自ら異つてゐるが、菊池中村二氏の有つ粗大さに、何時も社會的な時代相ともいふベき、何か文壇の流れを突き拔けたものを持ち合してゐた。と言つても彼等は同時に社會的事業に加はつてはゐないが、ともに文壇社會ともいふべき雰圍氣の中に何時も何等かの「炎」を上げてゐることは疑へない事實だつた。

[やぶちゃん注:「菊池寬、藤森成吉二氏の落選」菊池は同選挙に東京一区から社会民衆党公認で立候補したが、落選し、藤森は長野県諏訪郡上諏訪町(現在の諏訪市)生まれで、労働農民党公認として長野三区から立候補したが、次々点で落選した。

「中村武羅夫」(明治一九(一八八六)年~昭和二四(一九四九)年)は、当該ウィキによれば、『北海道岩見沢村生まれ。家は鳥取県からの開拓移民で旧士族の家系。岩見沢村立東小学校卒。岩見沢尋常高等小学校卒業後、進学を望むも家のりんご園経営が没落したため断念。小学校の代用教員を経て、博文館の「文章世界」で小説が次点佳作となったのを』契機として明治四〇(一九〇七)年に上京し、『大町桂月、徳田秋声と親しくなり』、『彼らの紹介で、小栗風葉門下に入』った。『後に真山青果の紹介で『新潮』記者となり、明治末から大正期にかけて同誌の中心的編集者として活躍した。『中央公論』の滝田樗陰と並んで大正期の名編集者と称された』大正一四(一九二五)年には、『プロレタリア文学の勃興と『文藝春秋』への抵抗として『不同調』を新潮社から刊行し、岡田三郎・尾崎士郎・今東光・間宮茂輔らを糾合』したが、昭和四(一九二九)年に休刊した。『代わって『近代生活』を創刊、新興芸術派の拠点とし』、また、前年昭和三年六月には編集長となっていた『新潮』に評論「誰だ? 花園を荒らす者は!」で『マルクス主義文芸派を真正面から批判し』、『「芸術派」の結集をはかったものとして名高い』。昭和一六(一九四一)年八月に箱根の『日本精神道場で行なわれた大政翼賛会主催の第一回特別修練会に、瀧井孝作、横光利一らと共に参加。昭和』十『年代後半には日本文学報国会設立の中心となった。敗戦後は戦争協力者として立場を失い、新潮社を辞して』程無く、『辻堂の自宅で原稿執筆中に脳溢血を起こして死去した』とある。犀星(昭和三七(一九六二)年に肺癌で没している)は結果して「社會的事業に加はつて」『「炎」を上げ』た、彼の末路をどう考えたのか、ちょっと聴いてみた気がする。]

 ともあれ菊池氏の落選はその報を得てそれを知つた自分を極度に陰鬱にした。同じ文壇の空氣を吸つてゐる同士のよしみは、平常彼と言葉を交す機會のないにも拘らず、自ら異常な意識の下に潜り根强く働いてゐることを、自分自身のために發見もし喜びもした。藤森氏は鄕里の鬪爭ではあり當選するものと思うてゐたが、自分はその不幸な報を得て意外な思ひをした。溫恭《をんきよう》なる彼のために自分も逆流する殘念さを感じるのであつた。藤森氏が勞働もされ其道につかれたことには、自分は別に說をもつてゐる者であるが、ともあれ、あれ程の勞苦を思ふだけでも彼も疑ひなき當選者でなければならなかつた。この苦き經驗は或はよき次の時代を形づくることを自分は信じて疑はない。

[やぶちゃん注:藤森成吉は明治二五(一八九二)年生まれで、犀星より三つ年下。昭和五二(一九七七)年、散歩中、トラックに轢かれたことが原因となって死去した。]

 

 十二 大衆作品本體

 

 自分は大衆文藝といふものに未だどれだけも親愛の情を感じてゐない。一つには大正年間に發展した此新樣式の作品が、自分を根本から動搖させ感激させないからである。自分を敎育した今日までの諸種の純文藝作品は、人としての手ほどきから細かな其心持の構へにまで入り込んで、殆ど完全に自分の人間學を卒業させたと言つてよい。かういふ今の自分を建て直し牽制すべき新樣式の陣容は、全きまでに自分を壓倒して來るところの、今までに無かつた素晴しさを持つものでなければならない。尠くとも自分を永く考へさせる凝視的な集中を此新樣式の文藝の上に注ぎたい熱望を持たねばならぬ。

 大衆文學は僕のごとき文藝の士の讀物である限り、僕程度の讀書力への剌戟と牽制である限り、又凡ゆる讀書階級を抱擁する通俗の可能性を持つものであるとすれば、タテからも橫からも隙間のない渾然たる新作品の發揚でなければならない。凡ゆる過去の純文藝の銳どさ深さをもつ作者の用意があり、それらの純文藝的氣質からも岐《わか》れて出た目覺ましい一つの進み方としての、これらの大衆作品の陣容が存在し得るとしたら、それは軈《やが》て僕を人にならしめた諸の小說中の人生への睨み方の訓育と同じい效果を、大衆自身の頭や心臟へ抛げつけるであらう。讀み物は單に面白い範圍のものは絕對に作者側の良心から抹消さるべきことであり、讀者側からは面白かつたといふ興味ではなく、面白くもありタメにもなつたといふ事實、その作品自らにあるよき營養ある人生學や人間學の諸相が、一作品の讀後にすら影響するといふことが、大衆作品のよき標準であり目的であらねばならない。大衆作品の陰鬱な過去――中間讀物時代から今日までへの脫却と進路には、まだ嚴格な内容への檢討が爲されてゐないことは、漸く大衆的なといふ呼聲の流行の鎭まりかけた今日に於て、辛辣にこれを解體し批判する必要があり、彼等がどの程度までの心臟的讀物であり得たかに就て、大衆自身が旺盛な大俎《おほまないた》を搬出するであらう。それは時を經て彼等自身の反省によつてのみ此新樣式の存續を意味するであらう。

 圓本流行の今日の大衆階級の進み方は、トルストイやドストエフスキイ、イブセンやストリンドベリイの中にある大衆性、その莫大な通俗性を嗅ぎ出したことも事實である。尾崎紅葉、夏目漱石にある通俗への妥協、凡ゆる大作家の持つものが常に藝術的であり得ると同時に、又通俗的な透明な太い線を全作品の中に刺し貫いてゐることも事實である。

「レ・ミゼラブル」の大通俗の用意、「罪と罰」の伏線、「復活」の人間學初步、これらは今日に於て殆ど何人もその大衆性のある作品であることを否む人はなからう。讀書階級が進むことは奈何なる峻峯的作家をすら一先づ大衆自身の大群衆へまで引き下ろさねば承知しない。芥川龍之介、谷崎潤一郞すらも、大衆自身は敬意ある眼付をして「面白さ」の中へ引き込んで、今日に於ては既に消化してゐるではないか。吾吾のいふ大衆作品が生やさしい樂ないい加減な仕事ではなく、一時の流行的作爲を弄するものではなく、純文藝の本流に交流すべきものであることは明白であらう。中間讀物の成上りや純文藝の苦節に耐へなかつた輩が、此群衆的な大センチメンタリズムの本道を濶步することは、軈て初めて自ら滑𥡴であつた彼自身の姿な見出すであらう。凡ゆる大衆作家は手厚い重みのある濶步を純文藝の本道の上にまで踏みつけ得ることにより、光榮ある此新樣式の中に文學としての古今に氣脈を通じるであらう。今の混戰された中ではどの程度までの大衆作品であるかといふことを識別しがたいと言つてよい。

 

 十三 稻垣足穗氏の耳に

 

 稻垣足穗氏の近代文明に對する解說、及びそれらに根をもつ制作は一時のやうに自分にその「新鮮」さを感じさせなくなつたのは、氏がその特異な材料にのみ每時も同じい開拓をしてゐる爲ではなかつたか。自體最も危險である「新鮮」を目ざして進むことは、巧みな轉期や速かに體をかはすことに於て、その「新鮮」を支持して行くものであるが、當然行くべき重厚さへも辿り着かずにゐるのはどうしたものであらう。

「黃漠奇聞《くわうばくきぶん》」を書いた彼の文學は、凡ゆる感覺派の作品の上に輝いてもゐたし、またああいふ文學は三度出ることも尠いであらう。空想の建築的量積がどの程度まで歷史的考證に運命づけられてゐるか。人間の空想力が決してその作者が一代にのみ釀成されるものでなく、稻垣氏の祖先からそれらの空想が存在してゐたものであり、彼により初めて形を爲したと言つてよいのである。さういふ「黃漠奇聞」の作者たる稻垣氏が性來の怠け癖から、樂な物ばかりを書くといふことは、我我讀者から彼の「耳」に囁いて奮勵を望まねばならぬ。彼の「耳」がそれを聞かない風をしたときに、自分は囁いた序に彼の「耳」に嚙みついてやらねばならぬ。

[やぶちゃん注:「黃漠奇聞」私は未見なので、サイト「ラバン船長のブックセイリング」のこちらを参照されたい。因みに稲垣は私は生理的にだめで(多分、若い時に見た彼の写真が原因と思う)、最後の一撃はいかにも犀星らしく、非常に爽快である。]

 

 十四 情熱と良心

 

 我我作家に恐ろしいものは情熱の膠化《かうくわ》された時代、良心の燻ぶりかけ麻痺されかかつた時である。どういふ作品の劣性の中にも情熱が一すぢ起つてない時は踉《つ》いてゆけない。讀むことも情熱の作用のない限り讀めるものではない。吾吾の不斷に鍛へかけるものは最《も》う情熱を搖り動かすことより外に、その作者としての良心の打込みがないやうである。情熱の沈潜された時はそのままの「沈潜」で讀めるものであるが、乾燥され膠化されることは作者の危機とまで言つてよい。我我にさういふ膠化した狀態は何時でも來てゐるが、それを敲き破るか、そこでもう一度振ひ立つかしなければならぬ。殆ど目に止らぬ膠化狀態にある自分を自覺することも作者の良心だ。自分で自分を胡魔化すことは止すがいい。いい加減なところで「濟す」ことはもう止めるがいい。

[やぶちゃん注:「膠化」ゼリー状に固まること。ここは「固まり始めてしまうこと」の意。

「踉《つ》いてゆけない」この「踉」には「躍る・飛び上がる」の意の他に、「行こうとするさま」の意がある。その当て訓と採った。ネットで「踉いて」で検索すると、複数の作家が「踉(つ)いて行く」というような表現を使っていることが判った。因みに、「ウェッジ文庫」版でも「つ」とルビを振っている。]

 

 十五 流行と不流行

 

 最近作家生活の危機を暗示しそれに屬する自分の道を瞭《あきら》かにした。自分の如き思ひを摧《くだ》くの作家も自ら生活の内外を警戒したであらう。雜誌や單行本の不振と作家に作を求むる事尠き近時に於て、徐《おもむろ》に破顏一笑を以て是に當るは、文人の心漸く我我に宿つたも同樣である。紅葉、露伴の昔、秋聲、白鳥の苫節の時代を思へば、今日吾吾の赤貧を以て文事に從ふは、寧ろ壯烈な誠の期臻《きた》れるものに違ひない。

 由來文壇の流行と非流行の影響が作家の心境に及ぼす憂欝なる極印《ごくいん》くらゐ、その作家を悒《いぶ》せく苛酷に取扱ふものはない。或は作家を再び立てない程度にまで卑屈にするものも、その作を求められる事無き懊惱《あうなう》の時期にあるのだ。作者はそのプロレタリアの徒であると否とに拘らず、作品を以て常に歇《や》むなき彼を示し、或は休息なき我を押し立てねばならない。それこそ苦痛に鞭打ち蒼白い嘆息の中からも、寧ろ戰慄すべき作家的炎を搔き立てねばならない。此作家的炎の中に弱り果てた彼や我を寧ろ宗敎的な雰圍氣の中にさへ押立ててジヤアナリズムの墮性と麻痺とによるものと對抗する外はない。絕對的なまで作品のみによる作家生活の本道は、この作品の苦節と打込み以外には立てないのである。今目の產業或は事業的不況に墜落した底の中でこそ、誠の作家は流行不流行に拘らず煮湯を飮み喘ぐのも亦面白い興味のあることであらう。

[やぶちゃん注:「極印」元は江戸時代に金・銀貨や器物などの品質の保証や偽造の防止などのために打った印を指し、転じて、「動かしがたい証拠・証明・刻印」の意となった。]

 作家は作中にゐない時は氣持の速度に平和はあつても、嚴格な鉾先の銳どさを失うてゐることは事實である。作家はその作を示さない時に進步はあり得ても、それを釣り上げる鈎《はり》を失うてゐることは危險である。やはり作家は絕えず書き、書くことと同樣な頭にヒラメキを起らせる機會を失うてはならない。求められる事により一層彼は彼の鍛へを彼自身に加へなければならない。今日に於て作を求められることは其物質的表現に拘らず、それは誠の彼を求められるものに違ひなからう。全く自分らは精神の碎片(かけら)を手渡してゐる自信を持ち得てゐるのである。精神の碎片、氣持の中の雲霧、それらによりヘトヘトに疲れた大切なものを手渡しすることは、好況時代に於ける濫作時の彼や我の比較ではないであらう。

 凡ゆる編輯者は作家の中の銳い星を射《い》り當てるものでなければならない。作家の苦節に對する一つの友情でなければならず、彼等と吾吾のよき挨拶と情熱とによる朗かな提携以上のものでなければならぬ。編輯者は又慘酷な拒絕者であり得ても、同樣に作家の雰圍氣の熾烈さを搔き分け見立てるものでなければならぬ。よき編輯者によるよき作家のつどひの美しさ、彼等と我我はその喜びに昂奮するお互ひの氣持を忘れてはならぬ。さういふ表顯《へうけん》が形づくる一つの雜誌は最早「雜誌」なるものを超えて、直接友情なるものをその讀む人人に囁くであらう。「雜誌」が何よりも輕薄な雜誌の役目を果す前に、これらの後後までも讀まれる永い讀書の種子を撒いて置かねばならないのである。

[やぶちゃん注:「表顯」具体的な形で広く世にあらわし示すこと。]

 又凡ゆる編輯者は流行不流行に拘らず、文壇にすみずみに目を行き亘らし作家の精進と努力とに絕えず眼を放つてゐなければならない者である。作することによりよくなる作家を見失うてはならず、其作家に鍛へを呼び起すものも亦大なる編輯者でなければならぬ。編輯者は同時に批評家の位置にも亦作家同樣の實力をも抱擁し、作家に肉迫し作家も編輯者へ肉迫し壓倒しなければならぬ。自分はかういふ二つの迫力の世界に我我や彼等を置きたい希望に燃えてゐるものである。

 

 十六 文藝家協會に望む

 

 文藝家協會の事業は着着實行され成績を擧げてゐることは、殆ど何人と雖も肯定し得るところである。自分は先般來圓本流行の折にも協會が干與《かんよ》し、其人名の遣漏を指摘するやうな立場に有り得たならば、作家を網羅する上に萬萬粗漏が無かつたらうにと思へる程である。

[やぶちゃん注:「文藝家協會」正式には「日本文藝家協會」。大正一五(一九二六)年に「劇作家協会」と「小説家協会」が合併して発足。初代会長は菊池寛。昭和一七(一九四二)年に一度、解散して「日本文学報国会」に吸収されたが、昭和二一(一九四六)年に再発足した。

「干與」「關與(関与)」に同じ。但し、「關與」の場合は歴史的仮名遣は「くわんよ」となる。]

 圓本に於ける作家の選定は出版書肆の成算にあることは勿論であるが、同時に書肆は協會にも建議し、協會は協會の認めるところの有爲の文人を推薦する權利を持たねばならぬ。書肆の意嚮《いかう》外の文人であつても協會の嚴格なる推薦に據る文人は、一層手强くその文人的に不滅な光榮ある作家でなければならぬ。さういふ意味に於ける作家をも書肆はこれを加へるところの、當然な雅量を自覺せねばならぬ。圓本の如きは元元作家と書肆との美事な二面相打つことに依つて、その事業を完成すベき性質のものであり、決して書肆の獨立的な事業ではない。これは强《あなが》ち圓本に限らず凡ゆる書物を出版する時に於て、著者と出版書肆の間によき感性上の融合があつて後に、世に問ひ其美や淸さや値を品隲《ひんしつ》さるべきものである。圓本の如き現象には最も親切であり事務的である協會が、自ら作家の間に甚しき遣漏を努めて避ける如きことをも、その事業の一項に加ふるべきである。上演料や著書其他と同じい結果を最近に協會が其成績の上に擧げられんことを希望する。一つには改造社あたりの文學全集が誠の全集だとするには、餘りに巨鱗を逸してゐる恨《うらみ》があるのである。併しそれは單なる片片たる改造社の問題ではなく、以後協會の爲によき指導をその杜撰な集篇の上に加へることを忘れてはならぬ。

 一代の文人は大厦高樓《たいかかうろう》の中に住むのはよい。又一代の文人は當然に其得べきものを得ずして赤貧に甘んじるのもよい。只さういふ現象が習慣的な世俗意識の中に加へられることは、各作家のために警戒すべきことであらう。同時に大厦高樓に住む文人も自ら警《いまし》めて此文藝的な溫かい愛情からも、協會と相伍して今日の資本家に當るべきであらう。

[やぶちゃん注:本邦の著作権は、国際的な著作権を定めた「ベルヌ条約」が締結された翌年の明治二一(一八八七)年に「版権條令」が制定され、二年後に「版権法」を制定しているが、「ベルヌ条約」に日本が加盟したのは、明治三二(一八九九)年年四月十八日で、同年七月十五日から国内法として「旧著作権法」が制定履行された(「版権法」等の関連旧法は同時に廃止された)。現行の「著作権法」は昭和四五(一九七〇)年であった。]

 

 十七 批評と神經

 

 自分は十年間殆ど月評する立場にあつたことがなく、從つて他人の作品に自說を持ち出した機緣の無かつたものである。自分の考へを僞瞞無く人に傳へる困難は、槪ね卑劣な場合を除く外はよく思はれる例しがない。他の作品に自分を食ひ入れることは神經の痛みを感じてならないものである。自分は他人の平穩な氣持に交涉を求めることの影響を恐れてゐるものである。さういふ細心な神經の震へに觸れる作品、神經が隈なく作品を網の手に搔き搜ることは、自分の批評の中では阻止しがたいものである。

 月評も亦修養の一つでないことも無い。頭のハタラキを自然に試驗されるところの、彼自身莫迦なら莫迦をこれ程叮嚀に告白する機會に立つてゐるものはないからである。彼等の多くは勇敢であるために倒れ、鯱のやうに尖り立つて沒落した。

 自分は批評の眼目に於て既に殺氣を感じてゐた。併も今は自分にあるものは殺氣ではなかつた。朗かな正當な、顏を赧《あか》らめる必要なき自分を握ることができたのである。凡ゆる批評の靜かさの中にゐてこそ、他人の作品の中へ入ることはできるが、文藝の値は騷騷しい殺氣の中に品隲され得るものではない。靜かな上にも靜かな、呼吸の通ふ音すらも聽えないところで自分は詰め寄るより外はないのである。さういふ自分の批評の立場にあることを闡明にすることは、或は一つの德望であるかも知れぬ。

 

 十八 武者小路氏と「時代遲れ」

 

「殺される男」(中央公論)武者小路氏のこれまで見た多くの作品の中に脈打つ、思想的な問題を取扱つたものであり、自分は何度も見たやうな氣がしたのは、恐らく彼の單純な同じい韻律を含む表現に據つたためであらう。武者小路氏のかういふ表現の型は自分には頭に這入《はひ》り過ざ、這入り過ぎてゐるために再描寫の感覺を强ひられるのである。その簡素な日常の言葉どほりの表現は、その内容の死に直面したものをありありと感じさせても、自分の心を二重三重に取圍み染染と沁み徹らせて來ない。死の問題にしても其作者の氣持の眞劍さはあつても、コナれるだけコナれてゐない。心にぴつたりと吸ひ付いて來ないのである。

[やぶちゃん注:「殺される男」は「殺される人々」の誤り。昭和三(一九二八)年五月号『中央公論』に載った。「書肆田高」のこちらを参照されたい。同号には、室生犀星が「山のほとり」を掲載していることが判る。]

  武者小路氏の新しい文章や感激といふものも、其値の新しさは持ち乍ら何か時代遲れの感じである。それは一つは時代の險惡さが灰汁のやうに押し寄せてゐるためであらう。今の世に彼の持つ淸潔な、靑年のままの考へを今までに大切に持ち越したやうな思想的な明快さは、もう今の靑年の心には作用しなくなつてゐることは事實である。併乍ら今の靑年の大背景の中にある巨石としての武者小路氏は、蘚苔《こけ》をおびながらゐることも是亦事實である。自分は彼を時代遲れといふことを肯定するものだが、彼の中にある何か一本の道、孰方《どつち》にしても人間がそれを辿るべき要素をもつ本道だけは、初めから時代遲れではあつたが、其十年前の時代遲れと今日のそれと尺度が同じいことを發見しなければならぬ。恐らくその一本の軌道だけは今後十年も適用し又時代遲れの相を帶びながらも、不思議な地位を保ち得るものであらう。それは彼の狙ひが的を外れてゐない、的確な一つものをねらうてゐるからである。神、運命、人間、さういふ彼の狙ひは十年をも打通して執拗に弓矢を番《つが》へてゐるからである。彼は最も古いものを摸索し手摑みにしようとしてゐるのだ。彼が新しいといふことは彼への氣の毒な誤謬だつた。

「殺される男」の中に自分は武者小路氏の「炎」を感じない。ラクに書いたとしか思はれない弛みを感じるのだ。或は彼の表現の流暢さは何時も其爲に彼を爲し彼を築き上げてゐるといへば云へるが、あの通りの流暢さの中にも自分に影響する銳どさを缺いてゐる。或は上演の效果からいへば相應の成績を上げるかも知れぬが、併し我我看客は「言葉」だけを聞いて「心」を感じ得る事は出來ないであらう。何故と云へば彼は此一篇に於て運命へのどうどう𢌞り、それの輪廓を彼の流儀に依つて表現した單なる筋書に過ぎないからであつた。

[やぶちゃん注:前の二ヶ所の読みは私の好みの読みで附した。なお、私は中学二年の夏、旺文社文庫で「真理先生」を読んだ時、全く以って古臭いという印象を持ち、時間を無駄にしたと感じて以来、彼の作品を全く評価していない。]

 

 十九 背景的な作者

 

 谷崎潤一郞氏の「續蘿洞先生《ぞくらどうせんせい》」は何時か「改造」に掲載された續篇であり、相渝《あひかは》らず谷崎物である以上に何等の交涉を新時代に齎《もたら》すものではない。さういふ意味でまた菊池寬氏の「半自敍傳」を品隲するのは妥當ではないが、併し此二作家が新時代と沒交涉であるところは一致するやうである。谷崎氏はそのグロテスクな人を莫迦にするやうな時代の桁外れの大味で行き、菊池氏は飽迄眞面目な一本氣で生ひ立ちの記を綴る點に、對蹠《たいせき》的な作家の道のりを物語つてゐる。

「續羅洞先生」の完璧は骨董的な時代味であり、過去の記錄的な作品の延長である。同時に谷崎潤一郞といふ美名が正札を附けるところの、創作欄的な宣傳風な作品でなければならぬ。創作欄を何となく後援し裝飾し宜傳するところの作品は、それは作家の現在よりも逈《はる》かに過去の作品の背景が物語る魅惑であり業蹟であらう。しかも谷崎氏は特に此一作を以て何等の彼自身の起直りや勉强のあとを暗示してゐない。彼は音に彼の圖圖しい猛猛しさで突立つてゐるだけである。その圖圖しいところのものは又どういふ時代にも跨ぎかける圖圖しさである。自分はかういふ作者をもつことは新時代にあつては、何よりも歷史的である點で認めたいものだと思うてゐる。彼はその一つ一つの作品よりも何時も「谷崎」を大きく纏め上げ、すぐ「谷崎」全體を感じさせるからである。

 菊池氏の「半自敍傳」はまだ一回しか出てゐないが、創作欄の抱擁力を示す以外に充分な菊池寬氏の、一文人の中期の作品の叩き込みや起直りの精進を續けなければならぬ。第一回の作品速度には思ひ出風な韻律のままで書き出してゐるが、其處に氣質的な作の炎を上げることは何よりも肝要とすべきであらう。凡ゆる自敍傳は作者の「眉と眉との間」がくらくらする程度の、その作品の炎の中に立たねばならぬ。自分も自敍傳を書き直してゐる時に菊池氏の作品に接したのであるが、決して樂な氣持でスラスラとした味ひで行つてはならぬと思うてゐる。自分の經驗では何かもう一度息づまる創作苦を再驗しなければならぬのだ。

 菊池氏は此作品で何等文壇に寄與する考へはないらしいが、自分は彼がさういふ自敍傳を書き出したことは見遁せない。過去の作品を完全に締め付けるものであり彼の中期の氣持のスルドサとダレとの孰方かを示すべきものだからである。谷崎氏のごときは初めからの「あの調子」であるが、菊池氏は眞面目な人であり其處に彼自身の立場があり、自分は今後に於てそれを見たいと思うてゐる。

 彼等二作家の背景的な過去作品を引提げて立つことは、さういふ背景なき作家との比較では、殘念乍ら彼等の手重さを感じなければならぬ。よき文人は皆過去の光背を以て立つところのものであり、それ故にこそ彼等が寸分隙間なく疲勞なら疲勞そのものにも鞭打たなければならぬのだ。

              (昭和三年)

[やぶちゃん注:「續蘿洞先生」は大正一四(一九二五)年四月号『改造』に発表した正編「蘿洞先生」の続編で、昭和三(一九二八)年五月号『新潮』に載った。正編は「青空文庫」のこちらで読め、続編は個人サイト「悠悠炊事」のこちらで読める。因みに私は「惡魔」を始めとした、この手の変態的な谷崎の作品が生理的に受けつけられない。小説では「蘆刈」(リンク先は「青空文庫」。但し、新字新仮名)ぐらいしか評価しない。但し、「陰翳禮讃」「厠のいろいろ」は別格で称揚するものである。リンク先は創元社昭和一四(一九三九)年刊の作品集「陰翳禮讃」の国立国会図書館デジタルコレクションの当該作の冒頭である。後者は「谷崎潤一郎 厠のいろいろ (正字正仮名版)」として私のブログで電子化してある。

『菊池寬氏の「半自敍傳」』は昭和三(一九二八)年から翌年にかけて書かれた後、続編を含む完本として亡くなる前年の昭和二二(一九四七)年に出版されている。私は未読。]

2022/08/04

曲亭馬琴「兎園小説余禄」 惡黨半七・平吉等、刑書寫

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない。稀に底本の誤判読或いは誤植と思われるものがあり、そこは特に注記して吉川弘文館版で特異的に訂した)。句読点は現在の読者に判り易いように、底本には従わず、自由に打った。鍵括弧や「・」も私が挿入して読みやすくした。踊り字「〱」「〲」は正字化した。]

 

   ○惡黨半七・平吉等、刑書寫

(堀イ)田相模守殿御差圖、土屋越前守掛。

          通新町與兵衞店

            藤八方に居候

                 半  七

            右同町家持

                 平  吉

右半七儀、手合の者、拵、人々、名前を僞り、五ケ所より、小兒五人、貰請、右養子證文添書、謀判いたし、禮金都合五兩三分請取、右小兒五人〆殺、或は乍ㇾ生土中へ埋、又は菰に包、川中へ打込、畑地へ捨候も有ㇾ之。里子に遣置、病死いたし候死骸請取、川へ投げ捨候儀共、人倫に有ㇾ之間敷仕業、重々不屆至極に付、爲見懲の町中引廻の上、日本橋にて三日晒の上、於淺草磔申付之

右平吉儀、同町藤八方に居候半七、人の名前を僞り、四ケ所より小兒貰請候口入、又は世話いたし遣、右小兒を、半七、殺害におよび、或は捨候儀には、申合は不ㇾ致候得共、半七儀、巧を以、色々、方便を替、金銀爲ㇾ可ㇾ取、小兒どもを貰請候儀は乍ㇾ存、半七任賴候に、淵底も不ㇾ存儀を取拵、先々え申達、養子證文に、僞りの名前有ㇾ之をも存罷在、半七より受取候印形押し、且、半七、餘人の名前を僞候を先方へ引合、剩、貰受候小兒の行先をも不存、其上、養育金の内、禮錢等受候段、重々不屆至極に付、町中引廻の上、死罪申付之

[やぶちゃん注:「依(堀イ)田相模守殿」編注の「イ」は「一本」或いは「異本」の意。「土屋越前守」が以下の人物であれば、指図すべき立場にあるのは老中と考えられる。すると、まず、老中に依田姓の者はいないことから、「堀田」が正しいとして、その当時、「相模守」で「老中」であった人物に佐倉藩初代藩主堀田正亮(ほったまさすけ 正徳二(一七一二)年~宝暦一一(一七六一)年)がいるので彼であろう。堀田は延享二(一七四五)年十一月に老中となり、翌年、出羽国山形藩から佐倉藩に国替えされ、寛延二(一七四九)年には老中首座となっている。但し、官歷がやや悩ましく、享保一六(一七三一)年に従五位下相模守に叙任されているが、延享元年に従四位下となり、翌二年には侍従となっている。但し、通称を「相模守」で通したとすれば(彼は在職のまま死去している)、土屋が南町奉行であった時期の六年足らずの間が合致する。

「土屋越前守」彼かどうか確定は出来ないが、前の指図している人物の姓が確定出来ないことから、一つ、旗本土屋越前守正方(宝永六(一七〇九)年~明和五(一七六八)年)ではないかと推定した。彼は宝暦二(一七五二)年二月に京都町奉行(東町奉行)に昇任し、同年四月に従五位下・越前守に叙任されており、宝暦三(一七五四)年十二月二十四日に江戸町奉行(南町奉行)となっている

「通新町」下谷通新町(したやとおりしんまち)であろう。現在の東京都荒川区南千住一丁目に相当する(グーグル・マップ・データ)。

「手合の者、拵」「てあひのもの、こしらへ」。同心する悪党仲間らを集めて。

「貰請」「もらひうけ」。

「謀判」ここは里子を受け取るに際しての証文を偽造すること。

「〆殺」「しめころし」。

「乍ㇾ生土中へ埋」「いきながら、どちゆうへうづめ」。

「菰に包、川中へ打込」「「こもにつつみ、かわなかへうちこみ」。

「里子に遣置、病死いたし候死骸請取、川へ投げ捨候」里子として他人に預けたが、病死してしまった、その元里親から、その子を埋葬すると偽って金を受け取っておきながら、その実、遺体を川へ投げ込んで済ましておいたということであろう。

「有ㇾ之間敷仕業」「これあるまじきしわざ」。

「爲見懲の」この返り点はママ。吉川弘文館随筆大成版でも同じ。当初、打ち間違いと思ったが、どうもこれでいいようだ。則ち、「みこらしのため」で、「人倫に悖る所行の見せしめのために」の意。

「日本橋にて三日晒」(みつかさらし)は付加刑。ウィキの「晒(刑罰)」によれば、『罪人の名誉や社会的地位を奪う目的で一定の手続きのもとで公衆に晒すこと』で、『江戸時代の日本では主に付加刑として』、『罪人を縛り上げ』、『路傍に置き見せしめにする刑として晒があった』。『江戸では日本橋高札場』(☜)『の正面東方の空き地で行われ、囚人は手だけを自由にして本しばりされた』。『晒の時間は朝五ツ時から夕七ツ時までとされた』(不定時法で「朝五ツ時」は夏で午前七時少し前、冬で午前八時半、「夕七ツ時」は夏で午後五時過ぎ、冬で午後三時四十五分頃に当たる)『主人を殺した者は晒のうえ』、『鋸引き、負傷させた者は晒のうえ』、『磔にされた』。『僧の女犯には単独の刑罰として晒が課されたこともあった』とある。

「貰請候口入」「もらいうけさふらうくちいれ」。直接の仲買役を担当すること。

「申合は不ㇾ致候得共」「まをしあはせはいたさずそうらえども」。「そのように殺処分等をする件については、半七とちゃんと申し合わせていたものではないが」の意。

「巧」「たくみ」。

「方便を替」犯行行為を臨機応変に変え。

「爲ㇾ可ㇾ取」「とるべくなし」。

「乍ㇾ存」「ぞんじながら」。

「半七任賴候に」ここも同前。半七に「たよりさふらうにまかせ」。後のことは、総て半七にまかせっきりで。

「淵底も」(えんていも)(副詞的に用いて)「深くも・詳しくも」。

「不ㇾ存儀を取拵」「存ぜざる儀を取り拵え」。尋問の際、平吉は「殺処分等を全く知らなかった、それとは関係ない」と偽証したのである。しかし、実際には「先々え申達、養子證文に、僞りの名前有ㇾ之をも存罷在」里子に出したい親に対してその仲介をなし、里子受け取りの証文に、いもしない偽名が用いられていることを「ぞんじまかりあり」(よく判っていた)というのである。

「印形」「いんぎやう」。印鑑。

「餘人の名前を僞候を先方へ引合」偽名の人物を仲間に演じさせて、里子の親に引き合わせ。

「剩」「あまつさへ」。

「貰受候小兒の行先をも不存」平吉は買った子どもが、どうなったかに全く関心を示さず。]

2022/08/03

多滿寸太禮卷第四 火車の說

 

[やぶちゃん注:この話、底本原本(早稲田大学図書館「古典総合データベース」の同書、及び、国立国会図書館デジタルコレクションの画像のこちら。前者は後刷本と推定されている)の誤字と歴史的仮名遣の誤りが異様に多い(特に前者の表記は「鬼畜」を「鬼蓄」にするなど、見るに堪えない)。挿絵は国書刊行会の「江戸文庫」版の木越治校訂「浮世草子怪談集」(一九九四年刊)をトリミング補正して適切と思われる箇所に挿入した。前半と、後に出る登場人物の「周嚴長老」(しゅうごんちょうろう)の説教部が異様にかったるく(言っていることが、なんだか、結局、同じことを繰り返している感じが否めない)、前者の怪異シークエンスが決して悪くないにも拘わらず、読後が妙にすっきりしない(後の別話が、たいして面白くないのも影響している)。これは構成を間違えていると言わざるを得ない。しかも、結局、電子化し終えたところで「はた!」と気がついて、大いに呆れてしまったのは、この話の後の説教や、屍の襲撃シーン、さらに、冒頭の「火車」の解説に至っては、これ、実は、狗張子卷之六 杉田彥左衞門天狗に殺さる」の殆んど、いいとこ取りの、剽窃じゃねえか! アホンダラが! 「國道和尙」の最後の台詞を張り付けて、磔(はりつけ)にしたるわ!

   *

「そのかみは、關東がた、人、死すれば、火車(くわしや)の來りて、尸(かばね)を、うばひとり、ひき割(さき)て、大木の枝に懸置(かけおき)たる事もおほかりしを、今は、佛法のをしへ、ひろく、諸人、みな、後世(ごせ)をねがひ、佛神をたふとび、ふかく信心をおこし、正直正念に成たる世なれば、火車の妖怪も稀に成侍べり。只、おそるべきは、我らの惡行(あくぎやう)・まうねんなり。地ごく・鬼畜も餘所(よそ)よりは來らず、みづから、招く罪科(つみとが)なり。此たび、仕損じては、二たび返らぬ一大事ぞ。ふかく信じて、ねがひ、もとむべきは、佛果菩提の道なり。」

   *

お前さん! 因業深い剽窃地獄に落ちるで! というわけで、注する気が、全く失せた。必要最小限に留めた。悪しからず。なお、「火車」は、上記リンク先の私の最後の注を参照されたい。

 

  火車(くわしや)の說

 

 往古、東國方《がた》、人、死すれば、骸(かばね)をうばひ取、引さきて、木の枝にかけ、或は、首をぬき、手足(しゆそく)をもぎ、又は、屍を虛空(こくう)につかむで、失(うす)る事もあり。

 これを「火車(くわしや)」と名付て、往々にありしとぞ。すべて關東にも限らず、國々にも稀にはありける事也。

 今は、佛法、あまねく廣く、諸人、みな、佛道にたよりて、後生(ごしやう)を願ひ、佛神を貴(たつと)み、深く信心を發(はつ)し、專ら正直を先とし、正念に住(ぢう)せる世なれば、彼(かの)火車の妖恠(ようけ)もまれに成《なり》けるとぞ。

 只、恐るべきは、平生(へいぜい)の惡行、妄念(まうねん)なり。地獄・鬼畜も、よそよりは來《きた》るべからず。後生ならずして、百三拾六地獄も、皆、目前に、あり。天道・極樂も、皆、一心の迷悟にあり。されば、このたび、仕損じては、二度歸らぬ一大事なり。高位高官の家には、佛神に祈り、或は霊藥をもとめて、世繼を願ひ給へども、子、まれ也。唯、下賤には、うとましきほど、子も出來くる也。

 つらつら、これを思へば、人、死しても、善果(ぜんくわ)はまれに、惡業(あくごう)は多く、高位には生(むま)れがたく、下賤には生れやすしと、みえたり。况や、佛身に至らむ事をや。下賤といへども、生(しやう)を人中(にんちう)に更來(ふけきた)るは、心性(しんしやう)を失なはず。畜身異形(ちくしんゐぎやう)に生(むま)れん事は、かなしからずや。平世(へいぜい)、淺欲薄業(せんよくはくごう)なれば、物に恐るゝ心なく、心性、つねに靜かに、やすく、苦患(くげん)なければ、をのづから、佛心に、ちかし。信じて願ひもとむべきは、佛果菩提(ぶつくわぼだい)なり。たとへ、佛道にうすき人も、五常の道にそむかず、正直、正路(しやうろ)ならば、などか、罪業(ざいごう)あらん。心に恐れて愼むべきは、惱道邪欲(なうだうじやよく)なり。

  されば、上野(かうづけ)の國名古(なご)といへる所に、宗興寺(しうこうじ)とかや云《いへ》る禪宗の寺あり。此の寺の住持、そのかみより、一代、直(すぐ)にたもつことなく、血脈相承(けつみやくそうぜう)の規矩もたへ、牌(はい)をたつる禪師もなし。常は、をのづから無住なりしとかや。

[やぶちゃん注:「上野の國名古」「宗興寺」こんな地名も、こんな寺も、少なくとも現存しない模様である。]

 その故は、此の里、大座(おほざ)の村にて、家數《いえかず》、多く立ちならび、をしなべ、禪宗にて、此の寺の旦越(だんおつ)なれば、田畠(でんはた)金銀、多く寄附して、冨貴(ふうき)の境地也。

[やぶちゃん注:「大座の村」村落域が広いことを言っているようである。

「旦越」「檀越」に同じ。]

 當郡(たうぐん)の官主(くわんしゆ)、中(なか)にも、此の寺の大旦那(だいだんな)なり。

 此名主(なぬし)いかなる故(ゆへ)にや、代々、死して、葬禮におもむくといなや、晴天、かき曇り、黑雲(くろくも)おほひて、必ず、屍(かばね)を、つかむ。

[やぶちゃん注:「名主」宗興寺のある郷村の名主。]

 これによつて、あまたの知識、得《え》留(とめ)ずして、寺をひらく事、數人(すにん)なり。

[やぶちゃん注:「得」は呼応の不可能の副詞「え」への当て字。

「寺をひらく事、數人なり」名主が必ず火車に襲われるのを、手を拱いているしかなく、恥と怖さで、住持が去ってしまい、ちゃんとした住僧が居つかないために、半人前の修行僧や、半僧半俗の寺男のような者たちが、ようやっと寺を維持している有様であったのである。]

 爰(こゝ)に、周嚴長老(しうごんちやうろう)といへる廣學才智の活僧有しが、此の事を傳へ聞き、はるばる、こゝに來り、此の寺を望みけるに、諸(しよ)旦那、悅び、もてなし、則ち、住持職にすへて、渴仰(かつがう)しけるが、ほどなく、彼(かの)名主の禪門、大切(たいせつ)に惱み、既に、この比(ころ)、世をさらむとす。

[やぶちゃん注:「周嚴長老」太田道灌の叔父に鎌倉建長寺長老の周厳禅師(天文四(一五三五)年没)がいる。

「禪門」ここは禅宗(万一、この長老が前注の人物なら、臨済宗)の熱心な信者ということ。]

 一鄕(いちごう)の者ども、

「あはや、例(れい)の事にて、又、此の寺(てら)、無住にこそ、ならんずれ。」

と、なゝめならず、云ひふらしける。

 寺中(じちう)の僧徒も、うき事に思ひ、をのをの、ひそめきあへり。

 さるほどに、此の長老、

「已に禪門、けふあすを過ごさじ。」

と聞えければ、深く座禪觀法に入《いり》て、寢食をわすれ、妄想倒動(まうぞうてんどう)を拂ひて、蕭然(しやうぜん)として、座し給ふ。

  既に夜(よ)も深更におよび、燈火(ともしび)ほそき卓(しよく)の本《もと》に、數年(すねん)、此の寺に飼ひ置きたる、まだらの猫、住寺(ぢうぢ)のまへに、目をほそめていねぶり居(ゐ)たり。

 かゝる所に、いづくともなく、友猫(ともねこ)の聲して、呼び出《だ》しけるに、此猫、

「ねう」

と答へて、出でけるが、やり戶の、少しひらきたる所より、出でたり。

 前(まへ)の猫、板緣(いたゑん)についゐて、云ひけるは、

「名主の禪門、すでに、こよひ、身まかりぬ。例のごとく、云ひ合はせて、とる也。御邊(ごへん)も、いよいよ、出(いで)らるべし。明朝(みやうてう)、卯の尅(こく)[やぶちゃん注:午前六時前後。]、葬(そう)する也。とくとく、用意、有るべし。」

と云ひければ、寺の猫、答へけるは、

「我(われ)は、此の度(たび)の連衆(れんじゆ)は、はづさるべし。其の故は、住持の心、れいのごとくに、とられず。何樣(なにさま)、樣子によるべし。」

と、慥(たしか)に答へて、別れけり。

  長老、此の事の始終を具さに聞き、いよいよ、觀念、おこたらず。

 此の猫、又、もとの所にかへりて、いねぶり、うかゞい[やぶちゃん注:ママ。]、ゐたり。

 其の時、住持、此の猫を、

「はつた」

と、にらまへ、

「をのれ、畜身(ちくしん)の形(かたち)を以《もつて》、萬物の霊(れい)たる、佛性同體(ぶつしやうどうたい)の人死(にんし)を妨(さまた)げつる奇恠(きくわい)さよ。彼(かの)禪門におゐては、我(わが)あらんかぎりは、障㝵(しやうげ)を入《いれ》じ。をのれ、速やかに追ひ出(だ)して、狼犬(らうけん)に、くらはすべし。」

と、叱(しつ)し給へば、ゆたかに伏居(ふしゐ)たる猫の、

「むくむく」

と起きて、飛び出《いで》て、逃げ去りぬ。

[やぶちゃん注:「障㝵」「障碍」に同じ。妨げ。]

 長老、

『さればこそ。』

と、思ふに、かの死人(しにん)の事を告げ來《きた》る。

 

Kasya

 夜(よ)、明けぬれば、一鄕(ごう)の者ども、

「すはや。」

と、をのゝきながら、をのをの、棺(くわん)をかきつらねて、野邊に出けるに、案のごとく、晴天、俄かに、かき曇り、黑雲(くろくも)一むら、此の棺の上に、おほひて、うずまきたり[やぶちゃん注:ママ。]。

  長老、少しも動じ給はず、卽ち、輿(こし)をかきすへさせ、引導は、さしをき、かの黑雲を、

「きつ」

と、にらみ、口に呪文を唱へ、大音(だいおん)を出(いだ)して云《いはく》、

「汝、畜身業報(ちくしんごうほう)の心(こゝろ)を以《もつて》、萬物(ばんもつ)の眞霊(しんれい)たる佛性(ぶつしやう)をとらば、忽ちに、護法に罸(ばつ)せらるべし。野良猫めら。」

と、叱(しつ)し給へば、其の體(てい)、顯はれける故か、忽ち、雲、きへ、空、晴れて、もとの晴天とぞ、成りにける。

  其後(そのゝち)、心靜かに引導し、葬禮の規式を取り行ひ給ひぬ。

 此の時こそ、諸人(しよにん)も、人心(ひとごゝ)ちつき、安堵の思ひをなし、禪門の子息も、罪業はれたる心ちして、いよいよ、尊(たうと)み、敬(うやま)ひける。

 扨こそ、近鄕近里の村々まで、猫をあつめて、遠鄕(えんきよう)へ捨てけるとぞ。

 此の後(のち)、永く絕《たえ》にける。

 長老、諸人(しよにん)をあつめ、高談(かうだん)の序《ついで》に此の事を述べられしが、

「凡そ、『妖は妖より起こる』といへり。邪氣、勝つ時は、正氣を奪ふ。我(わが)心(こゝろ)、則ち、邪氣の本(もと)となる故に、やがて眞性(しんしやう)を奪はれて、妖恠(ようけ)にあふ也。眼(まなこ)に一臀(ひとつのまけ)あれば、空花(くうくわ)、散乱す。塵空(ぢんくう)、もとより、花(はな)有りて、散るにあらず。眼(まなこ)に病ひありて、めぼしの花を見るがごとし。眞性正念(しんしやうしやうねん)に住(ぢう)する時は、なんぞ、外《そと》の妖邪(ようじや)、おかす事、あらんや。 抑(そもそも)、佛法に敎(をし)ゆる所の、五塵六欲の境界(きやうがい)に、此心法(しんほう)をうばゝれて、行方(ゆくかた)なく取り失ひ、常にまよふて、くるしみをなす。その心をとりもどし、留(とめ)ゑ[やぶちゃん注:ママ。]たるこそ、霊理(れいり)ふしぎの正見正智(しやうけんしやうち)は出生(しゆつしやう)する也。此正念を萬境(ばんきやう)にとられ、蟬(せみ)のもぬけの衣(ころも)となれば、もろもろの妖邪に犯さるゝ。たとへば、用心なく、家主《いへぬし》なき家には、盜人(ぬすびと)の入り易きがごとし。 凡そ、天地廣大の中には、奇特不思議の有るまじきにもあらず。人に魂魄あり、その精氣(せいき)、正心(しやうじん)なれば、本理(ほんり)に歸(き)して、非道、なし。德、をのづからそなはるを以《もつて》、魔障(ましやう)をしりぞく。是(これ)に叶はぬ愚人(ぐにん)は、神(かみ)に祈り、佛(ほとけ)をたのみて、信(しん)を生(しやう)ずれば、神力佛力(しんりきぶつりき)によつて、自《おのづから》正念に住する也。」

[やぶちゃん注:「一臀(ひとつのまけ)」こんな当て訓は見たことがないが、尻は人体の最も後ろで、攻められれば、弱点となるニュアンスがあるので、まあ腑には落ちる。

「めぼしの花」「目星の花が散る」という成句があり、「疲れたりして目がかすみ、星のようなものがちらついて見える」ことを言う。]

 又、近き比(ころ)、美濃國不破郡(ふわこほり[やぶちゃん注:ママ。])に、孫右衞門(まごうへもん)とかやいへる、うとくの農民あり。

[やぶちゃん注:「美濃國不破郡」現在、岐阜県不破郡(グーグル・マップ・データ)は残っている。関ケ原町が含まれることで知られる。]

 彼(か)が娘を、近き程の城下の商人(あきうど)に、緣を結びて送りしが、此の商人、心たゞしからずして、家も、又、貧なりければ、孫右衞門、うるさき事に思ひ、七才に成りける男子(なんし)一人を、夫《をつと》の方(かた)に殘して、此娘を取りもどしける。

 此の子は、母をしたひて、一里あまりの道をたどりて、度々(たびたび)母に逢ひに來《きた》るを、かの孫右衞門、情(なさけ)なきものにて、後(のち)は、母にも逢はせず、追ひ返しけるに、かの母、歎き、かなしみ、

「さりとも、子には逢ふほどの事は、ゆるし給へ。」

と侘ぶれども、更に耳にも聞《きき》いれず。

 これを、うきことに、恨み歎きけるが、いつとなく、煩ひて、終《つひ》に、かの母、身まかりぬ。

 扨、葬せむとて、一夜(いちや)とかくする程に、此死人(しびと)、よみがへりけり。

 上下(じやうげ)、悅びあへれど、更に、物いふ事もなく、食(しよく)も喰(くは)ざりける。

 只、このみ・菓物(くだ《もの》)なむど、折々、喰(くひ)て、茫然として居(ゐ)たり。

 かくて、日數(《ひ》かず)も過ぎけれど、更に、ものをも、いはねば、

「いかさまにも、樣子こそ、あるらめ。」

と、多くの神に祈り、神子(みこ)・山伏に賴みて、祈念を致しけれども、あえて、驗(しるし)なし。

 あまりの詮(せん)なさに、おなじほとりに、霊佛(れいぶつ)の藥師如來のおはしけるが、此別當を、ひたすら、たのみ、ねはんの理趣分(りしゆぶん)をくりたまひしに、三日に及びける朝(あした)、かの孫右衞門が家に、年比、飼ひける猫、かの病人(びやう《にん》)の前にて、只、一聲(《ひと》こゑ)、高く吠《ほえ》て、血を吐きて、忽ちに死(しに)けり。いまゝで、茫然として居たる病人、霜(しも)の消ゆるごとくに、

「しはしは」

と成りて、ねぶるがことくに、落ち入《いり》たり。

 其後《そののち》、屍(かばね)をとりをき、跡(あと)を弔(とむら)ひける。

 此猫の見入《みいり》て、三十日あまりを過ごしけるこそ、ふしぎなれ。

  世の中に、人を迷はし、あらゆる恠(あやしみ)をなす事、むかしより、きつね・狸といへども、多くは、猫の所爲(しよ《ゐ》)なり。

 おさなき[やぶちゃん注:ママ。]兒(ちご)の夜(よ)なきなんどゝいへるも、まゝ、猫のする事、とぞ。

 其性(しやう)、天然(てんねん)、執(しう)、ふかく、あくまで、ひがみ、眼(まなこ)に、二六時中の時節を顯はし、聲に律聲(りつせい)を出して、誠(まこと)に陰獸の長(ちやう)なり。

[やぶちゃん注:「二六時中の時節を顯はし」猫の瞳が一日の二十四時間に於いて変移するという話は、とある猫信者の教え子から聴いたことがある。]

 陰氣、陽を隱して、人氣(ひとのき)を奪ひ、化(け)して、人の、かひをなす。

 魔性(ましやう)の一名(いちめう)、

「ねこま。」

と、いへば、よろこぶとかや。

 「猫また」の事、書籍(しよじやく)にも多く云ひつたへたり。「徒然草」にも云ひをけり。飼ひもとめん人、心あるべき事也。

[やぶちゃん注:『「徒然草」にも云ひをけり』「古今百物語評判卷之三 第八 徒然草猫またよやの事附觀教法印の事」の私の注で電子化してある。]

曲亭馬琴「兎園小説余禄」 白子屋熊、忠八等刑書寫

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない。稀に底本の誤判読或いは誤植と思われるものがあり、そこは特に注記して吉川弘文館版で特異的に訂した)。句読点は現在の読者に判り易いように、底本には従わず、自由に打った。鍵括弧や「・」も私が挿入して読みやすくした。踊り字「〱」「〲」は正字化した。

 本篇は毒婦の代表として知られ、その事件内容と「くま」の美貌故に、芝居となった超弩級に知られた女性である。]

 

   ○白子屋熊、忠八等刑書寫

白子屋おくま申渡、

松平左近將監殿御指圖、町奉行大岡越前守掛。

一、新材木町庄三郞下女きく、聟養子又四郞へ手疵爲ㇾ負候一件。

           新材木町庄三郞下女

              き く【年十七歲】

其方儀、主人庄三郞妻つね、何樣に申付候共、主人の事に候得ば、致方も可ㇾ有ㇾ之處、又四郞に疵付候段、不屆至極に付、死罪申付也。

           右庄三郞傍輩下女

              ひ さ【年三十二歲】

其方儀、主人庄三郞聟養子又四郞へ、疵付候程、たゝき候樣に、傍輩女きくへ申勸め、其上、又四郞妻くまへ、手代忠八、密通の取次いたし、旁不屆に付、町中引廻し之上、死罪申付之

[やぶちゃん注:「死罪申付之。」「死罪、之れ、申し付く(るなり)。」。]

           右庄三郞下人

              忠 八【年三十七歲】

其方儀、主人庄三郞養子又四郞妻くまと、密通致候段、不屆至極に付、町中引廻の上、淺草において獄門申付之

           右庄三郞娘

              く ま【年二十二歲】

其方儀、手代忠八と致密通候段、不屆に付、町中引廻の上、死罪中付之

           新材木町庄三郞妻

              つ ね

其方儀、養子又四郞に、きく疵付候儀に付、つね事は母子の儀に候得共、惡心を以、巧候より事起り候。依ㇾ之遠島申付之

    享保十二年未二月廿五日、落着。

 この一件の趣は、」近世江戸著聞集」といふ俗書に、具に載たり。合せ見るべし。

[やぶちゃん注:「白子屋熊」「しろこやくま」。ウィキの「白子屋お熊」を引く(一部の芝居についてウィキをリンクさせた)。白子屋お熊(宝永二(一七〇五)年~享保十二年二月二十五日(一七二七年四月十六日):享年二十三。生年は独自に機械逆算した。ウィキが享年二十三とするのと、そこに記された元禄十六年生まれでは、数え年が合わないからである)は、『江戸日本橋新材木町』(現在の中央区日本橋堀留町一丁目。グーグル・マップ・データ)『の材木問屋「白子屋」の長女。父は店主白子屋庄三郎、母はつね、婿として又四郎を迎え』ていた。お熊は、享保十一年十月十七日(一七二六年十一月十日)に『発生した「白子屋事件」の計画犯の一人で、同年』十二月七日(一七二六年十二月二十九日)、『大岡忠相の判決が下り、翌』享保十二年二月二十五日(この年は閏一月があったため、一七二七年四月十六日)『に市中引き回しの上』、『獄門に処せられた』。『首は浅草で晒された』後、『引き取られ、現在、東京都港区にある常照院に墓所があり、同区の専光寺には供養塔がある』。『お熊と白子屋事件は、後世に演劇・芸能の題材とされ』、安永四(一七七五)年)に『発表された人形浄瑠璃』「恋娘昔八丈」(こいむすめむかしはちじょう:松貫四(まつ かんし)・吉田角丸(かどまる)の合作)の女主人公『白木屋お駒』『のモデルにされたり、河竹黙阿弥作の歌舞伎』「梅雨小袖昔八丈」(つゆこそでむかしはちじょう)で実名の「お熊」で『登場したりしている』。「白子屋事件」は享保十一年十月十七日『早朝、就寝中であった新材木町の材木問屋「白子屋」の娘』「くま」の『夫である又四郎が、白子屋の下女』「きく」(当時十六歳)に『頸部を剃刀で切りかかられ』、『抵抗したところ、頭部に傷を負った。又四郎の傷は浅く』「きく」『を取り押さえた後』、『助けを呼んだため、大事には至らなかった』。『白子屋側は、婿養子である又四郎の実家に示談を持ちかけたが、又四郎の実家は又四郎』と「くま」『夫婦の不仲が噂になっていること』、「きく」の『犯行動機が不明であることから』、『白子屋を怪しみ』、四日後の十月二十日、『町奉行所に事件の調査を訴え出た。奉行所が下手人である』「きく」『を取り調べたところ、きくは店主』『庄三郎の妻』「くま」の母である「つね」に、『犯行を教唆されたことを自白した』。「きく」の『証言を得た奉行所が』「つね」・「くま」『母子を問い詰めると、又四郎の殺害計画を自供した』。『そもそも』「くま」と『又四郎の婚約は、当時資金繰りに苦しんでいた白子屋が、大伝馬町の資産家の息子であった又四郎の結納金目当てで取り決めたことであった』「くま」は『夫を嫌い、結婚後も古参の下女』「ひさ」に『手引きをさせて』、『手代の忠八と関係を持っており、母の』「つね」も『娘の密通を知りながら』、『これを容認していた』。「くま」は『離縁を望んでいたが、又四郎と離縁すれば』、『金を返さねばならず、「又四郎を病死に見せかけて殺せば、金を返さず忠八と結婚できる」と考え』母子ともに『殺害計画を練るようになった』。『最初は』、『病死に見せかけた毒殺を計画し、出入りの按摩であった横山玄柳という盲人を騙し』、『又四郎に毒を盛らせたが、彼は体調を崩すに留まり、死に至らなかった。毒殺計画が失敗したことによって焦った』「つね」と「くま」は、「きく」を『脅して』、『又四郎に切りかかるように仕向けたが、これも前述の通り』、『失敗して殺害計画が露見、白子屋の関係者は』、それぞれ『裁かれることとなった』。『妻子の監督を怠り、世間を騒がした罪を問われた店主』『庄三郎と、事件に加担した按摩の横山玄柳は江戸所払いとなり、殺人未遂実行犯である下女の「きく」は『死罪、密通をそそのかした罪で』下女の「ひさ」は『市中引き回しの上』、『死罪、密通の罪で手代忠八は市中引廻しの上獄門、従犯と見做された「つね」は『遠島』で済んだが(本篇、主犯と認定された「くま」は、『密通と夫の殺害未遂という重罪を問われ』、市『中引廻しの上』、『獄門と仕置が下った』(この「獄門」は疑問がある。本篇でも「死罪」であり、後にリンクさせた第一次史料と考えてよい「享保通鑑(つがん)」には、ここに(左丁一・二行目)はっきりと「死罪」と書かれてあるからである。因みに、「死罪」は江戸では小伝馬町牢屋敷で斬首されるだけである(但し、その遺骸は様斬(ためしぎ)りにされた)のに対し、「獄門」は斬首後、刑場で梟首にされる付加刑があり、鈴ヶ森或いは小塚原の刑場の獄門台上に首だけが三日の間、晒された遺体への侮辱刑であった)。この「くま」は、『結婚前から日本橋中でも美貌で知られており、引廻しの際は評判の美貌の悪女を一目見ようと沿道に観衆が押し掛けた。裸馬に乗せられた』「くま」は『観衆の期待に応えるように、白無垢の襦袢と』、中着(なかぎ:肌着と表着の間に着るもの)の『上に』、『当時』、『非常に高価であった黄八丈の小袖を重ね、水晶の数珠を首に掛けた華やかな姿で、静かに経を唱えて落ち着いた様子であったという』。『殺害が未遂に終わったとはいえ、主犯のお熊の美貌や』、『処刑時の派手なパフォーマンスなどから』、『江戸で大変な波紋を呼び』、馬場文耕著宝暦七(一七五七)年序の随筆「近世江都著聞集」(きんせいえどちょもんしゅう:巻四の「白子屋一族亡失の辨」。国立国会図書館デジタルコレクションの「燕石十種」第二巻所収のものがここから読める。ここは「獄門」とある)・幕府代官小宮山昌世(まさよ)の記した裁判記録「享保通鑑」(刑の執行日の項に綴られてある。「国文学研究資料館」の写本で確認出来た。左丁最終行から後に続く)・「兎園小説余録」(本篇)・宝暦頃(一七六〇年前後)に成立した不詳の作者(元禄二(一六八九)年生まれ)が江戸で見聞した珍事を記した「江戸真砂六十帖広本」(国立国会図書館デジタルコレクションの「燕石十種」第二のここで活字で読める)・江戸の町名主で考証家であった斎藤月岑(げっしん 文化元(一八〇四)年~明治一一(一八七八)年)著の「武江年表」(国立国会図書館デジタルコレクションの国書刊行会本のここで見られるが、本の性質上、以上の中では最も記載が短い)等に『事件が取り上げられている』とある。]

曲亭馬琴「兎園小説余禄」 平井權八刑書寫

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない。稀に底本の誤判読或いは誤植と思われるものがあり、そこは特に注記して吉川弘文館版で特異的に訂した)。句読点は現在の読者に判り易いように、底本には従わず、自由に打った。鍵括弧や「・」も私が挿入して読みやすくした。踊り字「〱」「〲」は正字化した。]

 

   ○平井權八刑書寫

延寶七未年十一月三日、行。

一 平井權八【年不ㇾ知。】。是は無宿浪人。

二 此もの儀、武州於大宮原小刀賣を切殺、金銀取候者、品川において磔、

      札文言

 此者、追剝の本人、其上、宿次の證文、
 たばかり取、剩、手鎖を外し、缺落仕候
 に付、如ㇾ此に、おこのふもの也。

  十一月日

[やぶちゃん注:「延寶七未年十一月三日」グレゴリオ暦一六七九年十二月三日。

「行」処断と磔(はりつけ)を「おこのふ」の意であろう。

「大宮原」現在の埼玉県さいたま市大宮区であろう(グーグル・マップ・データ)。

「札」高札。

「宿次」「しゆつぎ」で、思うに、小刀売りを刺殺した際、彼が持っていた関所或いは宿場を継いで商いすることを公的に認めた証文であろう。被告人は無宿浪人であるから、関所はおろか、宿屋でも証明する物を持っておらず、通行は厳しかったから、そのために奪取したのであろう。

「剩」「あまつさへ」。

「手鎖」「てぐさり」。手錠。彼は殺人で捕縛され、その際、持っているはずのない証文を持っていたことが明らかとなり、窃盗も追加された。ところが、手錠を外して、逃亡、再逮捕され、三つの罪によって、かく極刑となったのである。]

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 火齊珠に就て (その三・「追加」の3) / 火齊珠に就て~了

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから(右ページ後ろから三行目の中間)。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。但し、例によって段落が少なく、ベタでダラダラ続くため、「選集」を参考に段落を成形し、注は各段落末に配した。彼の読点欠や読点連続には、流石にそろそろ生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、句読点を私が勝手に変更したり、入れたりする。ちょっと注に手がかかるので、四回(本篇を独立させ、後のやや長い「追加」を三つに分ける)に分割した。]

 

 又二卷七號に、吉谷君は玻瓈、硝子の文字もまた隋唐時代の書に初て見ると言われたり。予は本草網目水精の條に、時珍が藥燒成者有氣眼、謂之硝子、一名海水精、抱朴子言、交廣人作假木精盌是此と有る。明朝前に硝子の語、あるを知らず。果して隋唐の世に、此語を用ひたる例有らば、敎示を吝まざらん事を望む。玻瓈に至ては、隋唐前にも此字確かに有り。陳の眞諦が譯せる立世阿毘曇論卷二の第五品に、漏闍耆利象王住所、或有金堂、或有銀堂、玻瓈・瑠璃、亦復如是、第八品に、須彌山王云々、東邊眞金所、西邊白銀所成、北邊瑠璃所成、南邊玻瓈、其一切邊衆寶所成云々。城外四邊七重寶栅云々、其最裏樹、眞金爲成、次是白銀、第三瑠璃、四玻瓈柯。其れより先、姚秦の鳩摩羅什譯大智度論卷十に、瑠璃玻瓈等皆出山窟中云々、若法沒盡時、諸舍利皆變爲如意珠、譬如千歲過氷化爲玻瓈珠。歐州にも古え、水精は氷が凝て成る所と信じたるを、十七世紀にサー・トマス・ブラウンの俗說辨惑(プセウドドキシヤ・エピデミカ)二卷一章、特に之を排せり。後世、支那人が「ガラス」を玻瓈と呼し事、和漢三才圖會卷六十等に見え、飜譯名義集卷八に、頗梨或云塞頗胝迦、此云水玉、卽蒼玉、或云水精、又云白珠、塞頗胝迦は、玄奘譯阿毘達磨藏顯宗論卷四に頗胝迦とせり。「モニエル・ウヰリヤムス」其他の梵語字彙を見るに、水精の梵名スファーティカ、立世阿昆曇論には水精と飜したる所と、玻瓈柯、又、玻瓈と音譯せる所と有り、スファーティカを玻瓈柯と訛略し、又、玻瓈と縮めたるにや。但し、今日の波斯語とヒンヅー語共に水槽をバルールと呼び、梵語に「ガラス」製の飮器をパリグハ、又パーリーと名けたれば、其より玻瓈柯、又、玻瓈の漢字を用い初めしが、水精と硬硝子、時として頗る識別し難きは、大英類典十一板卷十一に見ゆ。

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「◦」。

「本草網目水精の條に、時珍が藥燒成者有氣眼、謂之硝子、一名海水精、抱朴子言、交廣人作假木精盌是此とある」まず、「漢籍リポジトリ」で校合し、国立国会図書館デジタルコレクションの寛文九(一六六九)年版の当該部(右丁二行目末から)の訓点を参考にして以下に訓読する。

   *

藥にし、燒き成す者は氣眼あり。之れを「硝子」と謂ふ。一名「海水精」。「抱朴子」に、言はく、『交廣の人、假(えせ)の水精の盌(わん)を作る。』とは、是れ此れなり。

   *

「陳の眞諦が譯せる立世阿毘曇論」(りゅうせあびどんろん:現代仮名遣:正式には「佛說立世阿毘曇論」)は真諦(しんだい:サンスクリット名:パラマールタ 四九九年~五六九年:西インド生まれで五四八年に梁の武帝に招かれて渡来した訳経僧。その後、梁末から陳にかけての難を、蘇州や杭州の地に避けつつ、訳経事業を開始した)の漢訳になる、阿毘達磨(アビダルマ)学の論書(仏教の教説の研究・思想体系及びそれらの解説書・注釈書を指す)。「大蔵経データベース」で校合した。但し、熊楠はどれも、長い原文を漢文めいて作文しており(例えば、以下の冒頭)、さらに掟破りの操作がある。則ち、以下の本書引用中の原本では「玻瓈」は総て「頗梨」と表記されているのを、書き変えてある点である(まあ、先に注したように同一物と見做してよいとは思うので、取り敢えずはそのままとしたが、やはり引用としては捏造レベルであり、完全なレッド・カードで退場ある。なお、王の名は機械的に音で読んだ。

   *

漏闍耆利象王(ろうじやぎりしやうわう)の住む所は、或いは金堂有り、或いは銀堂有り、玻瓈、瑠璃も復た、是くのごとし。

   *

「第八品」同書の巻二の「天住處品第八」であるので注意されたい。底本を見られたいが(右ページ八行目)、「爲」が「所」になっていたり、「樹」が落ちており、存在しない「用」が入っているので、ここは原本に従い、熊楠の引用を修正した。

   *

須彌山(しゆみせん)の王云々、東邊は眞金の成す所(ところ)、西邊は白銀の成す所、北邊は瑠璃の成す所、南邊は玻瓈、其の一切の邊は衆寶の成す所云々。城外の四邊は、七重の寶栅あり云々、其の最も裏(うち)なる樹(き)は、眞金の爲(し)成すところ、次は白銀、第三は瑠璃、四(し)は玻瓈柯(はりか)たり。

   *

「柯」は柄或いは枝状に加工したそれを指すか。

「姚秦」(えうしん)「の鳩摩羅什譯大智度論」「姚秦」(ようしん)は後秦のこと。五胡十六国の一つで、三八四年に羌(きょう)族の長であった姚萇(ようちょう)が前秦から独立して建国した。都は長安で、二代興の時代には華北の西半分を領したが、三代目の四一七年、かの東晋の名将劉裕に滅ぼされた。「大智度論」は「摩訶般若波羅蜜経」(大品般若経)に対して注釈を加えた書。百巻に及ぶ。初期の仏教からインド中期仏教までの術語を詳説する形式になっているので、仏教百科事典的に扱われることが多い。漢訳は鳩摩羅什(くらまじゅう 三五〇年頃~四〇九年頃:中国の仏典翻訳僧の中で最も偉大な者の一人。父はインド人で、母は亀茲(きじ)国(中央アジアに存在したオアシス都市国家。現在の新疆ウイグル自治区アクス地区クチャ市附近にあった)の王女という。七歳で出家し、仏教を学び、さらに北インドに学んだ。その後、中央アジア諸国をめぐり、大乗仏教に接し、亀茲国に帰国したが、後に後秦に招かれて長安に行き、訳経事業に従事した)による(四〇二年~四〇五年成立)。同じく「大蔵経データベース」で校合した。ここでも熊楠は「頗梨」を「玻瓈」に書き換えている

   *

瑠璃・玻瓈等は、皆、山窟中に出づ云々。若(も)し、法(ほふ)の沒盡する時は、諸(もろもろ)の舍利、皆、變じて如意の珠と爲れり。譬へば、千歲を過ぐる氷の、化(け)して玻瓈の珠と爲るがごとし。

   *

「法」は「はふ」ではないのか? と突っ込む人のために言っておくと、仏教用語の場合は「はふ」ではなく、かく歴史的仮名遣表記をするのが普通である。

「サー・トマス・ブラウンの俗說辨惑(プセウドドキシヤ・エピデミカ)」イングランドの博物学者で名文家としてとみに知られるトマス・ブラウン(Sir Thomas Browne 一六〇五年~一六八二年)が一六四六年に初版を刊行し、最終改訂版を一六七二年に出した‘Pseudodoxia Epidemica ’(プセウドドキシア・エピデミカ:「伝染性謬見」「荒唐世説」などと邦訳される)。

『後世、支那人が「ガラス」を玻瓈と呼し事、和漢三才圖會卷六十等に見え』このためにこちらで当該箇所である『「和漢三才圖會」卷第六十「玉石類伊」の内の「玻瓈(はり)」』を電子化しておいた。

「飜譯名義集」(ほんやくみやうぎしふ)は南宋で一一四三年に成立した梵漢辞典。七巻或いは二十巻。法雲編。漢訳仏典の重要梵語二千余を六十四目に分類し、各語について、訳語・出典を記したもの。「大蔵経データベース」で校合した。

   *

「頗梨、或いは塞頗胝迦(さいはていか)と云ふ。此(ここ)にては水玉(すいぎよく)と云ふ。卽ち、蒼玉、或いは水精(すいしやう)と云ひ、又、白珠と云ふ。」

「塞頗胝迦」は前に掲げた宮嶋純子氏の論文『漢訳仏典における翻訳語「頗梨」の成立』(『東アジア文化交渉研究』(二〇〇八年三月)収載。「関西大学学術リポジトリ」のこちらからダウン・ロード出来る)に載る。源信の「往生要集」中巻では「頗胝迦寶」と出る。所持する浄土真宗僧で仏教学者の花山勝友(はなやましょうゆう 昭和六(一九三一)年~平成七(一九九五)年)訳「往生要集」(現漢文新字体訓点附・一九七二年徳間書店刊)には注して、『玻璃(はり)と同じで、水晶のこと。』とある。

「玄奘譯阿毘達磨藏顯宗論卷四に頗胝迦とせり」「大蔵経データベース」で確認、四ヶ所出る。

「モニエル・ウヰリヤムス」既出既注

「立世阿毘曇論には水精と飜したる所と、玻瓈柯、又、玻瓈と音譯せる所と有り」「大蔵経データベース」で確認したが、「水精」が第二に一ヶ所、「玻瓈柯」「玻瓈」は第六に「玻梨柯」で四ヶ所見つけたが、「玻瓈」や「玻梨」はなかった。不審。

「スファーティカを玻瓈柯と訛略し、又、玻瓈と縮めたるにや」これはサンスクリット漢訳語の変遷を推定したものとして目を惹く。但し、その場合、圧倒的に多い「玻梨」を示さねば、不完全である。なお、ここで、たまたま千葉工業大学付属研究所教授岸井貫氏の論文『「ガラス」の語彙と語源』PDF。『マテリアルインテグレーション』連載(一九九九年)が原形か)を見つけた。本篇にこの箇所や、南方の仮説なども引かれてあり、本論考の「ガラス」の歴史考証としては最新のもので、最も信頼出来るものであろうから、是非、読まれたい。

「水精と硬硝子、時として頗る識別し難きは、大英類典十一板卷十一に見ゆ」既出既注の熊楠御用達の「エンサイクロペディア・ブリタニカ」(Encyclopædia Britannica)で、十一版の第十二巻を「Internet archive」の「Glass」の「101」の右に、十四世紀頃には、ヨーロッパで水晶で出来ているように見える硬質ガラスで製品を作ったことが出てくる。]

 古へ至硬の寶石を切瑳する術開けざりし世には、諸寶石は唯だ奇物として扱はれ、眞珠、水晶等、較や柔かにして工を施し易き者の佳品が專ら珍重され、從つて佛經に、金剛石抔主として其硬きを稱揚するのみ、眞珠の紅を帶びたるも者(鉢摩羅迦)、眞珠の大にして最も優れたる者(摩尼寶)等を至寶とし、水精の最も純良なるを玻瓈と名けて、金、銀、瑠璃と竝べて須彌の四寶と稱へ、又馬瑙、硨磲等とともに七寶と呼びしなり。玻瓈、水精一物と大和本草にも云り。

[やぶちゃん注:「較や」「やや」。

「鉢摩羅伽」読み不明。「はつまらか」と仮に読んでおく。「大蔵経データベース」で検索すると、「大智度論」・「翻譯名義集」・「淨土三部經音義集」に記載がある。「大智度論」では「七宝」(後注参照)以外に挙げており、信頼出来る論文では、現在のルビーに比定している。

「摩尼寶」「まにほう」と読んでおく。

「須彌の四寶」「しゆみのしほう」。金・銀・瑠璃・玻璃。須弥山(しゅみせん)はそれで出来ているとする。

「七寶」(しちほう)は仏教で貴重とされる七種の宝。当該ウィキによれば、『七種(ななくさ)の宝、七珍ともいう。工芸品の「七宝」(七寶瑠璃、七宝焼)の語源と言われている。専ら』、『工芸品の七宝をシッポウとよび、仏教の七宝をシチホウと』呼び、『サンスクリット語』では『サプタラットナ、パーリ語』では『サッタラタナ』と呼ぶ。「無量寿経」に『おいては』、「金・銀・瑠璃・玻璃・硨磲(しゃこ)・珊瑚・瑪瑙」とされ、「法華経」『においては』、「金・銀・瑪瑙・瑠璃・硨磲・真珠・玫瑰(まいかい)」と『される』とある。この内、『瑠璃は、サンスクリット語では』バイドゥーリヤ(漢音写:「吠瑠璃」(べいるり))、『パーリ語で』『ヴェルーリヤ』で、『青色の宝玉で、アフガニスタン産ラピスラズリと推定されている。後に、青色系のガラスもさすようになった』とあり、玻璃は、サンスクリット語』漢意訳で「水精」(すいしょう)、『無色(白色)の水晶、後に、無色のガラスを指す』とし、『硨磲は、シャコガイの殻、又は白色系のサンゴ』、『玫瑰は、詳細は不明であるが、赤色系の宝玉とされる』とある。

「玻瓈、水精一物と大和本草にも云り」国立国会図書館デジタルコレクションの原本を見ると、貝原益軒の「大和本草」の巻之三の「金玉土石」の項の「水晶」の条には、この記載は、全く、ない。その後の「硝子(ビイドロ)」の条を読むと、そこで益軒は(訓読する)、「今、俗、用ひる所のガラスをも『琉璃』と云ふ。是は藥物を以つて作る『琉璃』の、にせ物なり。近來、此の製法、中華に傳り、琉璃・火齊珠・南蠻珠・大秦珠等の名あり。皆、ビイドロなり。」と述べた後、「通鑑(つがん)」綱目の註や「本草綱目」の「水精」の集解をダラダラと引いた最後で、「今、按ずるに、皆、是れ、ビイドロなり。」と言い放って終わっているのである。則ち、熊楠は自分に都合のいいように疑問がある箇所をざっくりとカットして語ってしまっていることが判る。益軒は「人工的に作った硝子は水晶ではない」と断言しており、中国で言う「水精」も「琉璃」も、その中に人工的に作った偽物である「ビイドロ」が多量に含まれていることをこそ、言っているのである。ちょっと、熊楠にして、鼻白む杜撰な引用である。]

 吾國にても明治十四年の東京博覽會に、一萬圓の水精一顆甲州より出品有りし。金剛石を切瑳する法は、一四五六年(義政將軍の時)レウイ・ド・バールケン、之を發明せしも、十六世紀に至て初て流行せり。支那の一地方に金剛石を出せど、切瑳の術を知らず、纔かに磁器を穿つ鑽として祕藏する由、五、六年前の東洋學藝雜誌にて見たり。西洋にて金剛石の切瑳術、弘まりてより、眞珠等、諸寶の價、大に墮しは、ボーン文庫本英譯ハムボルト回歸線内亞米利加紀行一卷五章に見ゆ。

[やぶちゃん注:「明治十四年の東京博覽會」明治一四(一九八一)年三月一日から六月三十日まで上野公園で開催された第二回内国勧業博覧会。国立国会図書館公式サイト内の「博覧会 近代技術の展示場」のこちらを参照されたい。

「一四五六年」康正正年十一月末から同二年十二月初めまで。

「レウイ・ド・バールケン」人類史上、初めてダイヤモンドを研磨したとされる伝説のダイヤモンド研磨師ルドウィック・ヴァン・ベルケム(Lodewyk van Berken/英語転写:Ludwig van Berquem)。「BRIDGE ANTWERP BRILLIANT GALLERY」公式サイトのこちら(日本語)を参照されたい。

「鑽」「きり」。錐。

「五、六年前の東洋學藝雜誌」国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで、題名のみは見られるが、ざっと見たところでは、どの論文か不明。

「弘まりてより」「ひろまりてより」。

「大に墮し」「おほいにおちし」。

「ボーン文庫本英譯ハムボルト回歸線内亞米利加紀行」プロイセンの博物学者・探検家・地理学者として知られるフリードリヒ・ハインリヒ・アレクサンダー・フォン・フンボルト(Friedrich Heinrich Alexander, Freiherr von Humboldt 一七六九年~一八五九年)の英訳の‘Personal narrative of travels to the equinoctial regions of the New continent during the years 1799-1804’(「一七九九年から一八〇四年の新大陸赤道地域への旅行の私的な物語」)か?]

 再び按ずるに、頗梨を玻瓈に作る事、東晉の朝、已に有り。卽ち、佛陀跋陀羅譯、觀佛三昧海經卷一、阿私陀仙、悉達太子の眉間白毫を相するに、卽取尺度量其長短、足滿五尺、如瑠璃筒、放已右旋、如玻瓈珠、顯現無量百千色光と出たり。

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「○」。

「東晉の朝」三一七年~四二〇年。

「佛陀跋陀羅」(ぶっだばったら:サンスクリット語/ブッダバドラ 三五九年~四二九年)は東晋の中国で活動した北インド出身の訳経僧。

「觀佛三昧海經」「大蔵経データベース」で校合し、頭に少し追加した。

「卽ち、尺を取り、その長短を度量するに、五尺に滿つるに足り、瑠璃の筒(つつ)のごとし。放(はな)ち已(をは)れば、右に旋(めぐ)りて、玻瓈の珠のごとし。無量百千の色光(しきくわう)を顯現す。」。]

 序に言ふ、一八八五年第三板、バルフールの印度事彙卷一頁一二一一に、當時印度てに「ガラス」作る料品、多きに拘らず、普通の德利すら作り得ず。是れ「アルカリ」を用ること過多にて、舌を「ガラス」に充るに、其味を覺ゆる程なるに因ると有り。大英類典一二卷九七頁に、古フヰニシア人、鍋を粗鹸(不純なる炭酸曹達)もて支え、物を煮て、鍋下に「ガラス」樣の物を見出だしたるが「ガラス」の始め也と傳ふるは、多少の本據有り、全く火勢に因て、鹸と砂と結合して、「ガラス」に酷似せる珪酸曹達を作り、其より進んで珪酸曹達を耐久性「ガラス」に仕立てたるなるべしと云へり。想ふに、往時、支那人も、硝石等の「アルカリ」鹽を夥く用ひて「ガラス」を作りしより、硝石より生ずるとの意で、硝子と名づくるに及びたる者か。

[やぶちゃん注:「一八八五年第三板、バルフールの印度事彙」「選集」では書名に『ゼ・サイクロベジア・オヴ・インジア』と振る。これは南方熊楠の論考に複数回既出既注のスコットランドの外科医で東洋学者エドワード・グリーン・バルフォア(Edward Green Balfour 一八一三年~一八八九年)で、彼はインドに於ける先駆的な環境保護論者で、マドラスとバンガロールに博物館を設立し、マドラスには動物園も創設し、インドの森林保護及び公衆衛生に寄与した。彼はインドに関するCyclopaedia(百科全書)“The Cyclopaedia of India を出版し、その幾つかの版は一八五七年以降に出版されている。「Internet archive」の原本のこちらの右ページ左に「GLASS」の項がある。

「充る」「あつる」。

「大英類典一二卷九七頁」既出既注の「エンサイクロペディア・ブリタニカ」(Encyclopædia Britannica)で、「Internet archive」のこちらの、右ページの右の段の下から七行目からが当該部。

「古フヰニシア人」Phoenician。セム族の一派であったフェニキア人は、紀元前一五〇〇年頃からシリア地方の地中海沿岸地域に都市国家群を建てたが、その総称は「フェニキア」。主な都市国家はシドン・ビブロス・テュロスで、紀元前八世紀以降は政治的独立を失い、起原前四世紀にマケドニアに敗れ、起原前一世紀にはローマに併合された。因みに、彼らのアルファベットをギリシア人は採用した。

「粗鹸」(そけん)「選集」では『ナトロン』とルビする。「natron」は炭酸ナトリウムの水和物と炭酸水素ナトリウムを主成分とする天然の炭酸塩鉱物。アフリカや北米の塩湖や干上がった湖に産出する。古代より石鹸やガラスの原材料として用いられた。

「曹達」「ソーダ」。

「硝石」天然に産出する硝酸カリウムKNO3。チリ硝石及びペルー硝石は硝酸ナトリウムであるが,硝石の壁は硝酸カルシウムで、幾つかの洞穴の壁で見つかっている。]

〔追記〕支那にて「ガラス」を玻瓈、琉璃と稱するは、外國名の音譯にて、火齊珠なる語は漢代より見ゆるも、此三名共に「ガラス」の外に種々の石をも指す名たる事、上述の如し。硝子は遙か後に出で來たりし名也。然るに、漢代の書に陽燧を載す(秦の呂覽にも載せたりと思へど、記憶のみにて今其書を見ざれば確かならず)。准南子註や古今注に據れば、金屬にて製り、火を日より取る物なれど、後漢の初め、王充が筆せし論衡の率性篇に、陽燧取火於天、五月丙午日中之時、消鍊五石、鑄以爲器、磨礪生光、仰以嚮日、則火來至、此眞取火之道也、と有り。是れ、確かに漢代既に石を鎔して「ガラス」を作り、「レンズ」を製せしを證するに足る。之に反し、琉璃、火齊等に人造物有る由は、漢以後の書に始めて見る所なり。又、女媧が五色の石を鍊て天を補ひしてふ文有れど、小說なれば信じ難し。

[やぶちゃん注:「秦の呂覽」(りよらん)は「呂氏春秋」の別称。秦の呂不韋(りょふい ?~紀元前二三五年)の撰になる、先秦の諸学説や諸説話を集めた類書。全二十六巻。

「製り」「つくり」。

「王充が筆せし論衡の率性篇に、陽燧取火於天、……」王充(二七年~100年頃)は後漢初の思想家。会稽上虞 (浙江省)出身。若い時、洛陽に出て班彪 (はんぴょう:「漢書」の著者班固の父)について学んだ。家が貧しかったので、書店で立ち読みして暗唱したという。郷里に帰って郡に仕えたが、世俗に合わず、辞職した。当時としては珍しく合理的批判精神の持ち主であった。「論衡」は全三十巻八十五篇(但し、一篇は篇名のみで散佚)から成る思想書・評論書。実証主義の立場から自然主義論・天論・人間論・歴史観など多岐多様な事柄を説き、一方で、非合理的な先哲や陰陽五行思想・災異説を迷信論として徹底的に批判した書である。「論衡」の巻第二の「率性篇」の以下は、「漢籍リポジトリ」のこちらで校合した。訓読する。

   *

陽燧(やうすい)とは、火を天より取るものなり。五月丙午(へいご)の日中の時、五石(ごせき)を消鍊し、鑄(い)て以つて器と爲(な)し、磨礪(まれい)して、光を生ぜしめ、仰(うはむ)けて、以つて日に嚮(む)くれば、則ち、火、來たり至る。此れ、眞(しん)に火を取るの道なり。

   *

「陽燧」とは、火を作りだすために太陽光線を集光する銅製の鏡を指す。「五石」古代の五種の薬石。石層(堆積岩か)・丹砂(たんしゃ:辰砂(シナバー:cinnabar)。硫化水銀からなる鉱物)・雄黄(砒素の硫化鉱物)・白礬(はくばん:明礬)・青磁石(せいじしゃく:青色を帯びた磁性を持った石か)の総称。多くは道教で不老長生薬の原料として道士が用いたものとして出る。「消鍊」熱を加えて溶かすこと。「磨礪」磨き上げること。]

2022/08/02

「和漢三才圖會」卷第六十「玉石類伊」の内の「玻瓈(はり)」

 

[やぶちゃん注:〔→○○〕は、訓読が不完全で私がより良いと思う訓読、或いは送り仮名が全くないのを補填したものを指す。]

 

Hari

 

はり  頗黎 水玉

玻瓈

ヲ リイ

本綱玻瓈出南番有酒色紫色白色瑩澈與水精相似碾

開有雨㸃花者爲眞藥燒成者有氣眼而輕也玻瓈玉石

之類生土中或云千歲氷所化亦未必然

△按玻※未曽見之疑南蕃硝子乎【今唐人呼硝子稱波宇利伊乃琉※字音】

[やぶちゃん注:二ヶ所の「番」は第一画目がないものだが、「番」の異体字。表字出来ないので「番」に代えた。最後の二ヶ所の「※」は上部が(「王」+「利」)で、下部が「木」である。意味は「玻璃」=「玻瓈」と同じと思う(「東洋文庫」はそのように訳している)が、良安が明らかに違った字として書いているので、かく処理した。]

   *

はり  頗黎〔はり〕 水玉〔すいぎよく〕

玻瓈

ヲ リイ

「本綱」に、『玻瓈〔はり〕、南番に出づ。酒色・紫色・白色。瑩-澈(すきとほ)り、水精〔すいしやう〕と相ひ似たり。碾(き)り開ひて、雨㸃花〔うてんくわ〕有る者を眞〔しん〕と爲〔な〕す。藥にて燒成〔やきなし〕たる者は、氣眼〔きがん〕有りて、輕〔かろ〕し。玻瓈の玉は石の類〔→なり〕。土中〔どちゆう〕に生ず。或いは云ふ、「千歲〔せんざい〕の氷〔こほり〕の化〔くわ〕せる」と云ふ[やぶちゃん注:訓点にある。]。亦、未だ必〔→ずしも〕然らず。』と。

△按ずるに、玻※〔はり〕は、未だ曽つて之れを見ず。疑ふらくは、南蕃の硝子(ビドロ)か【今、唐人、硝子を呼びて、「波宇利伊〔ハウリイ〕」と稱す。乃い〔→ち〕、「琉※〔はり〕」〔→の〕字の音〔→なり〕。】。

[やぶちゃん注:「玻瓈」水晶を指すが、「本草綱目」では「水精〔すいしやう〕と相ひ似たり」と言っているので、近縁の物にも見えるが、別種なものと認識している。さればこそか、良安は未だ嘗つて見たことがないと断言しており、次の項目が「水精」であることから、別物として、「硝子(ビドロ)」=ビードロ=ガラスではないか? と疑義を示しているのである。

「南番」「南蛮」に同じ。

「雨㸃花」当初は内部に空気が泡状になって散在することを言うと考えたが、それでは次の「氣眼」とダブってしまうので不詳と言わざるを得ない。それとも、丸い泡状ではなくて、雨の雫(💧)型の内部空洞が花のように美しく並んでいるものを言うか? 判らん。

「氣眼」は平凡社「東洋文庫」の訳では、割注で『細かな泡点』と解説している。

「波宇利伊〔ハウリイ〕」「玻瓈」は現代中国語では「ボオ・リイ」。]

「和漢三才圖會」卷第六十「玉石類伊」の内の「寶石(つがるいし)」

[やぶちゃん注:〔→○○〕は、訓読が不完全で私がより良いと思う訓読、或いは送り仮名が全くないのを補填したものを指す。]

 

Tugaruisi

 

つがるいし

         津輕石之類

寶石

パウ◦シツ

本綱出西番囬鶻雲南遼東有紅綠碧紫數色大者如指

頭小者如豆粒皆碾成珠狀其紅者名刺子碧者名靛子

翠者名馬價珠黃者名木難珠紫者名蠟子山海經云騩

山多玉凄水出焉西注於海中多采石采石卽寶石也

△按奥州津輕今邊地海濱有奇石大者如拳白質帶微

 赤色碾成珠狀則精瑩玲瀧可愛小者如豆粒白色有

 光澤以爲津輕舎利藏小塔頂禮恭敬而偶有殖生者

 蓋此寳石之類矣

一種有淺黒色大小不均共肌理不濃石而小石數百散

 生如米粒而光澤或時落焉是疑可母石乎希有之物

   *

つがるいし

         津輕(〔つ〕がる)石の類。

寶石

パウ◦シツ

「本綱」に、『西番〔せいばん〕・囬鶻〔くわいこつ〕・雲南・遼東に出づ。紅・綠・碧・紫の數色、有り。大なる者、指頭のごとく、小さき者は豆粒のごとし。皆、碾(き)りて、珠の狀〔かたち〕を〔→に〕成す。其の紅なる者を刺子〔しし〕と名づく。碧なる者を靛子〔ぢやうし〕と名づく。翠なる者を馬價珠〔ばかしゆ〕と名づく。黃なる者を木難珠〔ぼくなんしゆ〕と名づく。紫なる者を蠟子〔らうし〕と名づく。「山海經」に云はく、『騩山(きざん)、玉〔ぎよく〕多し。凄水〔せいすい〕は焉〔ここ〕を出でて、西の方[やぶちゃん注:訓点通り。]、海中に注(そそ)ぎ、采石〔さいせき〕、多し。』と。采石は、卽ち、寶石なり。』と。

△按ずるに、奥州津輕(つがる)今邊地(いまべち)の海濱に、奇石有り。大なる者、拳(こぶし)のごとく、白質〔しろぢ〕、微赤色を帶ぶ。碾(き)りて、珠の狀〔かたち〕に成せば、則ち、精瑩玲瀧(〔せいえいれいろう〕/すきとほり[やぶちゃん注:後者は右に振る。])として愛しつべし。小さき者、豆粒のごとく、白色、光澤有り。以つて「津輕舎利〔つがるしやり〕」と爲〔な〕す。小塔に藏〔をさ〕めて頂禮恭敬して、偶(たまたま)、殖-生(ふ)へる者有り。蓋し此れ、寳石の類か。

一種、淺黒色、大小、均(ひと)しからざる有り。共〔とも〕に、肌理(きめ)濃(こまや)なならざる石にして、小石、數百、散生〔さんせい〕して、米粒のごとくにして、光-澤〔つや〕あり。或る時に、落つ。是れ、疑ふらくは母石〔ぼせき〕なるべきか。希有〔けう〕の物なり。

[やぶちゃん注:「津輕石」「津輕舎利」はメノウ(瑪瑙。縞状の玉髄の一種で、オパール(蛋白石)・石英・玉髄が、火成岩或いは堆積岩の空洞中に層状に沈殿してできた、鉱物の変種)のこと。後者の「舎利」は本石が釈迦の遺骨の代わりとして、多くの寺院に祀られたことに由来し、「津輕」は、そのメノウが古くより多く現在の青森県東津軽郡今別町(いまべつまち:グーグル・マップ・データ本文の「今邊地(いまべち)」に同じ)の海岸で採れたことによる。グーグル画像検索「津軽舎利」をリンクさせておく。

「西番」「西蕃」に同じ。「吐蕃」とも書き、「本草綱目」を書いた李時珍の生きた明代には「西蔵」(現在のチベット)を、かく蔑視して呼んだ。

「囬鶻」ウイグル。]

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 火齊珠に就て (その三・「追加」の2)

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから(右ページ後ろから三行目の中間)。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。但し、例によって段落が少なく、ベタでダラダラ続くため、「選集」を参考に段落を成形し、注は各段落末に配した。彼の読点欠や読点連続には、流石にそろそろ生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、句読点を私が勝手に変更したり、入れたりする。ちょっと注に手がかかるので、四回(本篇を独立させ、後のやや長い「追加」を三つに分ける)に分割する。]

 

 今日、結晶の、比重の、硬度の、成分のと、精査識別の法、備はれる世と異り、古え玉石を種々混同誤錯して、異名もて一物を呼び、一名もて諸種を通稱せしは、吾國で空靑(ラピスラズリ)をも碧銅鑛(アズライト)をも紺靑と呼び、支那で水晶と石英の別、定かならず、梵語に「ガラス」と水晶を「シスヂャン」と通稱し、歐州で古え「トパズ」と云しは、今の「ペリドット」と「クリオライト」で、今の空靑を古え「サッフール」と呼びたるにて知るべし。吾國に玉も珠も球も「たま」で通稱し、梵語に水晶をも氷糖をも貝子をも一名で呼びし例さえ有り。されば、說文に火齊玫瑰也と云ひ、集韻に琉璃火齊珠也と有るは、ほんの相似たる物を擧たる迄にて、後世妄りに是等を同一物と信じたるより、彼我混淆、琉璃も火齊珠も玫瑰も苦土雲母も、悉く强て一類と見做すに及びしならん。愚見を以てすれば、火齊と稱せる者或は「ガラス」にして或は「ガラス」に非ざりしに似たり。其事は他日稿を更めて述ぶべし。扨、上にも引ける通り、時珍、又續漢書云、哀牢夷出火精琉璃、則火齊乃火精之訛、正與水精對と云るにて、予の前既に火齊を火精と見て、水精に對する名とせし學者有るを知るべし。愚見を以てすれば、此文、火精と琉璃とは別物なるが如し。其を集韻に誤て一物とせしより、種々の混雜隨て生ぜしなるべく、此一書に琉璃火齊珠也と有ればとて、琉璃の外に火齊無く、火齊の外に琉璃無く、琉璃も火齊も悉く「ガラス」なりと斷ぜば、則ち、大いに鑿せん[やぶちゃん注:「いりほがせん」。「穿鑿し過ぎて的が外れているであろう」の意]。

[やぶちゃん注:「碧銅鑛(アズライト)」藍銅鉱の英語名(azurite)は炭酸塩鉱物の一種で、「ブルー・マラカイト」(blue malachite)と呼ばれる宝石でもある。

「トパズ」トパーズ(topaz)。アルミニウム・弗素などを含有する珪酸塩鉱物。無色・赤・青・緑・黄色などで透明又は半透明、ガラス光沢を有する。斜方晶系。柱状結晶で美しいものは宝石用とする。「黄玉」(おうぎょく)。当該ウィキには、ギリシャ語の『トパゾスは』『古くは』『ペリドットを意味し、「ペリドット」と現在のトパーズが混同されていた』とあった。

「ペリドット」(peridot)はカンラン石(苦土橄欖石)の中で、宝石として扱われるものの呼称。当該ウィキによれば、『含有する鉄分の作用によって緑色を示す』。『夜間照明の下でも昼間と変わらない鮮やかな緑色を維持したため、ローマ人からは「夜会のエメラルド」と呼ばれていた』。『後に』『十字軍によって紅海に浮かぶセントジョンズ島』(現在のザバルガッド島)『から持ち帰られ』、『中世の教会の装飾に使われた』。二百『カラット以上ある大きなペリドットが、ケルン大聖堂にある東方の三博士の』三『つの聖堂を飾っている』とある。

「クリオライト」(cryolite)は氷晶石。産出が比較的稀なハロゲン化鉱物の一つ。物質名はヘキサフルオロアルミン酸ナトリウム(Sodium hexafluoroaluminate)。当該ウィキによれば、一七九九年に『西グリーンランドのイビクドゥト』(Ivigtût:現在のイヒドゥート(Ivittuut)『で発見された。最初は「解けない氷」と考えられ、外観があまりにも氷に似ていることから』、『この名前がついた(ギリシャ語で「冷気の石」)。そのほかの国でも産出が報告されているが、現在でも、結晶として』纏まって『産出するのはグリーンランドだけである』とある。

「空靑」既出。ラピスラズリの漢名。

「サッフール」ウィキの「ラピスラズリ」に、『古代ギリシャでサプフィールといったのは、今のサファイアではなく、ラピスラズリであったという説もある。(古代ローマの大プリニウスが著した博物誌には、サッフィール(サッピルス)の名でラピスラズリが記載されており、「金が点になって光っている」、「最良のものはペルシャで発見される」等と記述されている。)』。「旧約聖書」の「出エジプト記』に出る『祭司の装飾品のひとつである胸当てに』、『はめ込む石と』ある『青い石(sappir)は、ラピスラズリだといわれている。また』、「新約聖書」の「ヨハネ黙示録」では、『世界が終末を迎えた後』、『現れるとされる新エルサレムの都の神殿の東西南北』十二『の礎には』、『それぞれ』十二『種類の石で飾られ、そのうちの』二『番目がサファイア』、十一『番目が青玉と記述されているが、青玉は現在ではサファイアのことを指すので、もしそうであれば』、二『番目のサファイアはラピスラズリのことを指している可能性がある。この他にも』「旧約聖書」で『モーセがシナイ山にて、神より授かったとされるモーゼの十戒が刻まれた石版はサファイアとされていたが、これもラピスラズリであったといわれている』と、まさに熊楠が言う「混淆」が判る。

「貝子」(ばいし)この場合、古代から用いられてきたタカラガイ類の貝貨。

「說文」(せつもん)は「說文解字」の略。漢字の構成理論である六書(りくしょ)に従い、その原義を論ずることを体系的に試みた最初の字書。後漢の許慎の著。紀元後一〇〇年頃の成立。

「集韻」宋代の一〇三九年に丁度らによって書かれた勅撰の韻書。]

 又、古谷君は親交なる諸友の助けを假り、後漢書の有らゆる諸本を遍閱して、何れも哀牢出火精瑠璃とはなくて、出水精瑠璃と有れば、類函引く所は誤字也と斷ぜらる。然れども續漢書に火精と有るは、類函成りし前百二十五年、李時珍、亦、之を言へり。續漢書は本草綱目引用書目にも、露人ブレットシュナイデルが引きたる事言要元にも言く、三國の世に、謝承、作る。後漢書は芳賀、下田二君の說に、其八志は晉の司馬彪撰し、本紀と列傳は宋の茫蔚宗、作れり(プ氏のボタニコン・シニクム一九三頁。二君の日本家庭百科字彙明治三十九年板、四〇七頁)。本誌三卷二號に述し如く、予は洋行前、一向、漢學の素養無く、渡英後、故楢原(井上)陳政氏と、「ダグラス」男の大英博物館漢籍目錄編纂を助くるに臨み、愴惶其學に志せし當時、ウヰリーの支那書目を見、初めて范曄の後漢書の外、又、謝承の後漢書、華嶠の後漢書等有るを知り、館より其等を北京書肆に就て購入せん事をダ男に勸め聽かれしが、その書未著到中に退館したれば、謝氏の書果して現在するか否を知ず。然し乍ら、其の康煕朝迄傳存せしは、古今圖書集成や淵鑑類函に多く范氏の書と駢び引れたるにて明か也。

[やぶちゃん注:「本草綱目引用書目」国立国会図書館デジタルコレクションの寛文七(一六六七)年版の「本草綱目」の当該部を示した。左丁三行目下段に「謝承後漢書」とある(同書については三つ後の注を見られたい)。

「露人ブレットシュナイデル」「露人」は事実としては正しくない。バルト・ドイツ人の医師で中国学者にして植物学者であったアレクサンダー・ヘルマン・エミール・ブレットシュナイダー(Alexander Hermann Emil Bretschneider 一八三三年~一九〇一年)である。当該ウィキによれば、彼は『ロシア帝国の外交団の医師として北京などで働き、中国の歴史に関する著作を行った』とあり、ロシア語名も持っていることから、熊楠はロシア人と思い込んでいたのであろう。

「事言要元」明の陳懋学(ちんぼうがく:一六一二年に科挙に登第)撰の類書だが、「事言要玄集」の誤り

「三國の世に、謝承、作る」これは最も古いものに属する「後漢書」と称する後漢の史書の一つで、後漢末期から三国時代の呉にかけての官吏で歴史家謝承(しゃしょう 生没年不詳)のもので、全百三十巻であったが、散佚している。以下で熊楠も言及するが、実は「後漢書」と呼ばれたものは、複数、あった。その後、既注の現在知られる「後漢書」=南朝宋の政治家・文学者・歴史家范曄(はんよう 三九八年~四四五年)の「本紀」十巻・「列伝」八十巻が書かれた。その後も、同書名のものとして、呉の華嶠(かきょう 生没年未詳)の九十七巻がある(そして、この後、やはり既に注した通り、東晋の司馬彪の「続漢書」(全八十三巻)が書かれ、その内の「志」三十巻が散佚を免れ、范曄の「漢書」にカップリングされて今にある)。後、東晋の学者で歴史家の謝沈(しゃ しん 生没年不詳)による全百二十二巻や、同じく官僚で歴史家・音楽家でもあった東晋の袁山松(えん さんしょう 生年未詳~四〇一年)にも「後漢書」がある。

「芳賀」例の国文学者芳賀矢一。

「下田」日本の女子教育家下田次郎(明治五(一八七二)年~昭和一三(一九三八)年)。

「其八志は晉の司馬彪撰し」現行では総てが司馬彪が撰したものとされる。ごく最近まで、誤った見解が罷り通っていたらしい。

「茫蔚宗」(はん じょうそう:現代仮名遣)范曄の字(あざな)。

「プ氏のボタニコン・シニクム一九三頁」ブレットシュナイダーの引用元。‘Botanicum Sinicum’ (ラテン語で「中国の植物学者」の意:一八二二年刊の植物学書)。

「二君の日本家庭百科字彙明治三十九年板」前記の芳賀・下田共著。明三九(一九〇六)年富山房刊だが、この版は改訂増補版である。こんな二人の共著の家庭百科なんぞゼッタイに買わねえな、俺なら。

「楢原(井上)陳政」(ならはらちんせい 文久二(一八六二)年~明治三三(一九〇〇)年)は外務官僚。江戸出身。幕臣楢原儀兵衛の長男。維新後、養子となって井上姓となったが、後に復籍した。明治一〇(一八七七)年に政府印刷局勤務する一方、清国公使館で中国語を学んだ。その後、清に渡り、杭州の兪楼(ゆろう)で勉学し、明治二十三年には公使館書記生として渡英、エジンバラ大学に学んだ(この時、熊楠と接触があったことになる)。帰国後、「日清戦争」の明治二十八年の北京での「日清講和条約会議」では通訳を務めている。その後、北京の日本公使館通訳官、明治三十二年には二等書記官となった。しかし、明治三十三年の「義和団の乱」の際、粛親王府を防御中、負傷、破傷風によって亡くなった。

『「ダグラス」男』「男」(だん)はナイト称号の「Sir」を意訳したもの。イギリスの中国学者ロバート・ケナウェイ・ダグラス(Robert Kennaway Douglas 一八三八年~一九一三年)。複数回、既出既注。中でも、「南方熊楠 履歴書(その6) ロンドンにて(2)」をリンクさせておこう。

「愴惶」「倉皇」「蒼惶」などとも書き、「あわてふためくさま・あわただしいさま」の意。

「ウヰリーの支那書目」不詳。

「康煕朝」清の元号(一六六二年~一七二二年)。

「古今圖書集成」十八世紀、清代に制作された類書。現存するこうした百科事典類中、中国史上、最大であり、その巻数は実に一万巻ある。正式名称は「欽定古今圖書集成」である。

「駢び」「ならび」。]

 例せば、類函一二八廉潔一に、後漢書曰、李忠字仲都云々。謝承後漢書云、高弘字武伯云々、華嶠後漢書曰、樂松家貧云々。又一八二挽歌三に、司馬彪續漢書をも引り。是は范氏の書に併せ行はるゝ者ならん。又謝氏の後漢書を單に續漢書として、他の後漢書と別てる所多し。卷二四九兄弟二に、續漢書より姜肱傳を引き、次に後漢書の班固傳を引ける如し。依て察するに、後出の范氏の後漢書に、前輩たる謝氏の續漢書より採れる事多からんも、二書各々記する所同じからざる者亦多ければこそ、斯く別々に引れたるなれ。前出爲正の義に遵はゞ、續漢書の哀牢出火精瑠璃が正文にして、後漢書の水精は火精を誤寫せしと判ずるの外無らん。然るを其名の相似たるより、何の精査を爲さず、漫然續漢書の文字を論ずるに後漢書の諸本を以てするは、舊唐書や長門本平家物語、又、埃囊抄や東海道名所記を見ずに、新唐書、普通の平家物語、塵添埃囊抄、東海道名所圖會にのみ就て、其文字の正否を彼れ是れ論ずるに同じからずや。續漢書に出火精と有るを予自ら見ざれど、類函の外、本草綱目、亦、同樣に文を引き、特に火齊の原意は火精と迄附記したれば、輕々しく水精を火精と誤讀したりと見えず。况や、火精は水精に對する名と論じたるに於ておや。兎に角予は古谷君及び其親交諸君に對し、續漢書の存否、續漢書に火精の二字の有無、及び李時珍が續漢書を引て火齊は火精の訛りとせるの當否を問ふ。

[やぶちゃん注:「淵鑑類函」は例によって「漢籍リポジトリ」で確認して校合した。

「類函一二八廉潔一に、後漢書曰、李忠字仲都云々。謝承後漢書云、高弘字武伯云々、華嶠後漢書曰、樂松家貧云々」ここ[133-2a]の終りから[133-3b]までの抜粋)。訓読する。

   *

『「後漢書」曰、李忠、字は仲都』云々。『謝承が「後漢書」に曰はく、『高弘、字は武伯、』云々。『華嶠が「後漢書」に曰わく、樂松、家、貧しくして』云々」。

   *

「一八二挽歌三に、司馬彪續漢書をも引り」ここ[187-35a]を参照。

「卷二四九兄弟二に、續漢書より姜肱傳を引き、次に後漢書の班固傳を引ける」ここ[254-5a]を参照。

「前出爲正」「前に出づるを正と爲(な)す」。

「遵はゞ」「したがはば」。

「舊唐書」(くとうじょ:現代仮名遣)は中国五代十国時代の後晋の出帝の時に劉昫らによって編纂された歴史書。「二十四史」の一つ。唐の成立(六一八年)から滅亡まで(九〇七年)について書かれている。当初は単に「唐書」だったが、「新唐書」が編纂されてからは、かく呼ばれるようになった。完成は九四五年。

「長門本平家物語」寿永四/元暦二・文治元(一一八五)年頃に基本形ができ、宝治三年・建長元(一二四九)年頃に現在の形となったと推定されている。

「埃囊抄」(あいのうしょう:同前)室町中期に編纂された辞典。勧勝寺の僧行誉の著で、文安二(一四四五)年または翌年の成立。

「東海道名所記」浅井了意作の仮名草子。万治年間(一六五八年~一六六一年)成立。僧侶の楽阿弥と連れの青年が、狂歌や洒落を織り交ぜて綴った江戸から京都までの道中記。駅間の里数・名所旧跡・産物などが詳細に記載されている。

「新唐書」単に「唐書」とも呼ぶ。北宋の欧陽脩・曾公亮らの奉勅撰で一〇六〇年成立。

「普通の平家物語」ウィキの「平家物語」によれば、『平家物語という題名は後年の呼称であり、当初は』『合戦が本格化した』時期から、「治承物語」と『呼ばれていたと推測されているが、確証はない』とあり、『正確な成立時期は分かっていないものの』、仁治元(一二四〇)年に『藤原定家によって書写された『兵範記』(平信範の日記)の紙背文書に「治承物語六巻号平家候間、書写候也」とあるため、それ以前に成立したと考えられている。しかし』「治承物語」が『現存の平家物語にあたるかという問題も残り、確実』ではない。『少なくとも延慶本の本奥書』延慶二(一三〇九)年『以前には成立していたものと考えられている』とある。

「塵添埃囊抄」(じんてんあいのうしょう:同前)天文元(一五三二)年に僧某(本文では釈氏某比丘)によって「埃囊抄」を改訂を施したもの。

「東海道名所圖會」江戸後期に刊行された江戸の名所図会。寛政九(一七九七)年刊。]

2022/08/01

曲亭馬琴「兎園小説余禄」始動 / 「兎園小說餘錄」目次・佐州民在町孝行奇特者の儀申上候書付

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。特に「第一」は地下文書や事件文書の写しが多い。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。

 挿絵は画像が、今一つ、ぼんやりしているが、底本の画像をトリミング補正して使用することとした。また、本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない。稀に底本の誤判読或いは誤植と思われるものがあり、そこは特に注記して吉川弘文館版で特異的に訂した)。諸凡例は先行する「兎園小説」(正編)に準じて、字下げその他は必ずしも底本に従わない(ブログのブラウザ上の不具合を防ぐため)。【 】は二行割注。今まで通り、句読点は現在の読者に判り易いように、底本には従わず、自由に打った。鍵括弧や「・」も私が挿入して読みやすくした。踊り字「〱」「〲」は正字化した。【二〇二二年八月一日始動 藪野直史】]

 

兎園小說目次

 

   第 一

佐渡の州民孝行幷奇特者の御褒美錄【凡廿人。】

[やぶちゃん注:これは吉川弘文館随筆大成版では、『佐州民在町孝行奇特者の儀申上候書付』となっている。これは、以下に見られる通り、第一条の標題と同じである。]

平井權八刑書のうつし

白子屋熊忠八等刑書の寫し

惡黨半七平古等刑書の寫し

佐野氏賜死記錄

奸賊彌左衞門紀事

日本左衞門人相書

深川八幡宮祭禮の日永代橋踏落衆人溺死紀事

西丸御書院番衆騷動略記

鼠小僧次郞吉略記

僞男子假婦人

【此小說は、官府の事又は殺伐の事などは、しるすまじきとて、初より社友と定めたれども、別集以下獨撰に至りては、それにしも拘らず。世に殺伐の事なるも、亦勸懲の爲なれば、捨ずして錄したり。されば憚るべきすぢ多かれば、叨に人の見ることをゆるさで、いよいよ帳中の祕となすのみ。あなかしこあなかしこ。壬辰閏月中院。】

[やぶちゃん注:「叨に」「みだりに」。「壬辰閏月中院」「院」は吉川弘文館随筆大成版でも同じだが、これは「浣」(くわん)の誤り。「中旬」のこと。天保三年閏十一月十日から十九日までになるが、これはグレゴリオ暦換算では一八三二年十二月三十一日から一月九日に当たる。

    第 二

小泉兄弟四人幷一媳褒賞略記

[やぶちゃん注:「媳」は「よめ」と読む。「嫁」である。吉川弘文館随筆大成版では「略」が「之」となっている。]

尾張宮驛裁讃橋の銘

[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版では『熱田宮裁讃橋の銘』となっている。]

樂翁老候案山子の賛

筑後稻荷山石炭

[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版では『筑後稲荷山の石炭』となっている。]

太田氏配流略說

[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版では最後が「略說」ではなく『風聞』となっている。]

八木八郞墓石

農民文次郞復讐略記

佐渡州妙法山蓮長寺瘞龜碑

[やぶちゃん注:「瘞」音「エイ」で、「埋める・埋葬する」の意。]

泊船門

墨田川の捨子

木下建藏觀琉球人詩

感冒流行

鰻鱈の怪

雷雪

目黑魚

靈蝦蟇靈蛇

[やぶちゃん注:「蝦蟇」は「がま」。ヒキガエルのこと。]

雀戰追考

大空武左衞門

[やぶちゃん注:「おほぞらぶざゑもん」と読む。]

己丑七赤小識

稻葉小僧假男子宇古

 

兎園小說餘錄 第一

 

   〇佐州在町孝行奇特者の儀申上候書付

             岡松八右衞門

             金澤 瀨兵衞

          佐州加茂郡關村

           觀音堂寺

              淨 入【當未七十七歲。】

右淨入儀、奇特成取計有ㇾ之趣相聞候に付、寬政十午年十一月、在勤鈴木新吉相糺候處、近鄕道橋等取繕、往來の助に相成候樣心懸候趣、奇特の儀に付、褒美として鳥目七貫文差遣候段、文化四卯年十二月申上置候處、其後、次第に老衰いたし、托鉢も相成兼、致難儀候之趣、無相違相聞候に付、同五辰年五月、在勤土屋長三郞相糺候處、是迄奇特を盡候も有ㇾ之に付、一生の内爲手當、一ケ年鳥目四貫文宛差遣申候。

[やぶちゃん注:「佐州」佐渡国。

「岡松八右衞門」佐渡奉行岡松久稠(「ひさしげ」と読むか)。文化七(一八一〇)年一月十一日就任、同十年二月七日、佐渡にて病死した。ここで言っておくと、佐渡奉行は正徳二(一七一二)年以降は、定員が二名となり、一名が現地の佐渡に在勤し、もう一名は江戸に詰めた。佐渡現地への在勤中の奉行は単身赴任であった。佐渡は私の好きなところで、人情が厚く、既に三度訪ねている。私が二〇一五年四月に全電子化訳注を完遂した「耳囊」の作者根岸鎮衛(しずもり)も嘗つて佐渡奉行を務めており(天明四(一七八四)年から天明七(一七八七)年七月まで。勘定奉行に転任)、その折りの話も同作には語られている。また、私のブログ・カテゴリ「怪奇談集」の全篇電子化を終っている「佐渡怪談藻鹽草」(各話へのリンク集ページ)は、トビッキりに面白い佐渡限定の怪奇談集である。是非、読まれたい。

「金澤瀨兵衞」(かなざはせへゑ)も佐渡奉行で、文化八(一八一一)年二月から文化十三年七月まで務めた。渡辺和弘氏のブログ・サイト「佐渡人名録」のこちらによれば、相川金銀山の運営の低下を積極的に改善し、『失業者に職を与えた』りて、鉱山の危機を救った『良吏として知られた』とある。長崎奉行に転役した。渡辺氏の以上のサイトは、上記の「佐渡怪談藻鹽草」でも盛んに利用させて戴いた素晴らしいサイトである。

「加茂郡關村」「觀音堂寺」現在の新潟県佐渡市関にある観音堂(グーグル・マップ・データ。以下指示のないものは同じ)。ストリートビューで見る限り、堂はあるが、無住のようである。

「當未」これは以下の総ての書付が纏めて書かれた文化八年辛未(かのとひつじ)「當」年での年齢を意味する。

「寬政十午十一月」一七九八年末から翌年。

「鈴木新吉」佐渡奉行鈴木正義の改名後の名乗り。在任は寛政九(一七九七)年閏七月二十四日から文化三年(一八〇六)年三月四日までで、奈良奉行に転任。

「文化四卯年十二月」一八〇七年は旧暦十二月二日まで、以降は翌年。

「土屋長三郞」佐渡奉行土屋正備(まさよし)。在任は文化三(一八〇六)年三月四日から文化六(一八〇九)年八月十二日までで、禁裏付に転任。

「四貫文」一文銭を紐に一千枚通したものを言い(実際には少し少ないのが普通だったようである)、千文が一貫。文化年間の米一升の平均小売価格は百文であった。現行で一升は七百円と措定すると、一貫文は七千円で、四貫文は二万八千円となる。以下はそれでご自分で計算されたい。なお、以下、夥しい褒賞が並んで驚くが、実は佐渡国は完全な幕府領で「一国天領」と呼ばれ、金山のお蔭で経済や生活状況は平均的には悪くなかった。何より、佐渡国では、幕府が独自の貨幣を造って通用させていたのである(国外への持ち出しは厳禁)。どこの国でもこうだったわけではあるまい。さればこそ、馬琴もこの話を書こうと思い立ったものであろう。

 以下、読み易くするために、次の書付との間を一行空けた。]

 

          佐州羽茂郡松ケ崎村

       持高十六石七斗餘 久右衞門【當未四十二歲】

右久右衞門儀、奇特の取計有ㇾ之相聞候に付、文化六巳年三月、在勤土屋長三郞相糺候處、村方取締其外村用等、名主之差添世話致し、小前の者共、上納米差支候節は、取替爲相納右之分、追々に取立候樣取計、其上困窮の者へは、相當の見繼致遣、文化辰年溝口鈞之助家來の内、松ケ崎へ出張の節、右久右衞門所持の明家、旅宿に申付候間、宿代被ㇾ下候處、右之内村入用に可ㇾ致旨にて、村仲間へ致配分候由、其外、是迄奇特の儀有ㇾ之趣相聞候に付、白銀二枚差遣申候。

右久右衞門儀、文化七午年三月、澤崎村一村燒失に付、一統難儀に及び候處、飯米其外器物等、夫々差遣救ひ候趣相聞候に付、同年八月在勤、岡松八右衞門相糺候處相違無ㇾ之、奇特の儀に付褒置申候。

[やぶちゃん注:「羽茂郡松ケ崎村」新潟県佐渡市松ケ崎

「村用」村の公的な用事。

「小前」(こまへ)は小前百姓で、江戸時代、田畑や家屋敷は所有するが、特別な家格や権利を持っていなかった本百姓を指す。但し、小作などの下層農民を広く指した場合もある。

「見繼」続けて様子を見守ってやること。

「溝口鈞之助」不詳。「きんのすけ」の読んでおく。

「入用」(いりよう)で、この場合は村の公的利益の意。

「澤崎村」小佐渡の南端の佐渡市沢崎(さわさき)。]

 

          佐州雜太郡竹田村

       持高八石一斗餘 又兵衞【當未五十五歲】

右又兵衞儀、孝行者之由相聞候に付、文化六巳年六月、在勤柳澤八郞右衞門相糺候處、又兵衞儀、近年病身に相成、百姓稼いたし兼候に付、石臼の目切を致渡世候處、父又右衞門儀八十歲に相成、及老衰行步不相叶候處、所々見物に參度旨申候節、近邊に候得ば脊負罷越、遠方の節は竹にて駕龍を拵乘せ致、雇人兩人にて父望の所へ連行、妻子は雜物等持運び、又兵衞留守の節は、妻子共父望の通致遣候旨、全又兵衞孝心を盡し候故、妻子も貞實に仕へ、一同奇特の儀に付、又兵衞へ鳥目五貫文、妻あきへ鳥目二貫文差遣申候。右又右衞門儀は去午年病死仕候。

[やぶちゃん注:「雜太」(さわた)「郡竹田村」現在の佐渡市竹田は真野の北(但し、それとは別に小佐渡の山中にも飛び地がある。戦前の地図を見ると、「眞野村飛地」とあった。古くからの山林(水源?)ででもあったものか)。

「柳澤八郞右衞門」佐渡奉行。文化五(一八〇八)年二月十七日就任、文化七(一八一〇)年十二月二十四日に普請奉行に転任。

「稼」「かせぎ」。

「石臼の目切」「いしうすのめきり」。磨り減った石臼の目を削って立てて修繕すること。

「行步不相叶候處」「ぎやうほ、あひかなはずさふらふところ」。歩行。「ありき」と当て訓してもよいが、公的な書付だから、音読みにしておく。

「參度旨」「まいりたきむね」。

「候得ば」「そふらえば」。この場合、歴史的仮名遣でも「へ」ではなく、「え」でよいのがこの手の文書の常識である。

「脊負罷越」「せおひ、まかりこし」。

「拵乘せ致」「こしらへ、のせいたし」。

「望」「のぞみ」。

「連行」「つれゆき」。

「通致遣候旨」「とほり、いたしやりさふらふむね。」

「全」「まつたく」。]

 

          佐州羽茂郡多田村

           甚太郞妻

               し げ【當未五十一歲】

右しげ義、奇特者之由相聞候に付、文化六巳年六月、在勤柳澤八郞右衞門相糺候處、夫甚太郞儀、九ケ年來中風相煩罷在、同人父甚兵衞儀、八十二歲に相成、及老衰候處、しげ儀、早朝より極晚迄、日雇稼に罷出、又は致賃仕事、纔の助精を以、兩人を育、食事には、被ㇾ雇先より隙を貰ひ歸宅いたし、兩人へ食事爲ㇾ致、右に准じ、眞實に仕へ、夫數年の病中、懇に致介抱候段、奇特の儀に付、褒美として鳥目五貫文差遣申候。

[やぶちゃん注:「羽茂郡多田村」佐渡市多田(おおた)。

「極晚迄」「ごくおそくまで」と訓じておく。

「育」「はぐくみ」。

「被ㇾ雇先より」「やとはれさきより」

「隙」「ひま」。

「爲ㇾ致」「いたしなし」。

「右に准じ」「みぎにじゆんじ」。ここは夫にもその夫に父にも分け隔てなく介護したことを言っていよう。

「夫」「その」か「をつと」か迷うところだが、指示語の「その」は、やや文脈に、妙に事大主義的な硬い構えの雰囲気が生じてしまうので、「をつと」と読みたい。]

 

          佐州加茂郡虫崎村

            兵吉下男

               喜 助【當未六十九歲】

右喜助儀、奇特者の由相聞候に付、文化六巳年十一月、在勤柳澤八郞右衞門相糺候處、幼年の頃、兵吉、祖父代より當兵吉迄、三代奉公、實體に相勤候旨、右村方の儀は、小村にて人數少に付、他村より幼年の者、貰請、養育いたし、年頃に相成候得ば、暇を取、他村へ立入候者、有ㇾ之、幼年より養育いたし候詮無ㇾ之候處、喜助儀は幼少より養育に成候恩分、忘却不ㇾ致、數十年奉公、實體に相勤候付、爲褒美鳥目五貫文差遣申候。

[やぶちゃん注:「加茂郡虫崎村」新潟県佐渡市虫崎(むしさき)。大佐渡の北の東側の海浜。

「實體に」「じつていに」。実直に。

「人數少に付」「にんず、すくなきにつき」。

「暇を取」「ひまをとり」。奉公の年季収めを乞い。

「養育候詮無ㇾ之候處」「養育し候ふ」も「之れ無くさふらうところ」と、せめて「も」は欲しい。]

 

          佐州雜太郡相川一丁目江戶

          澤金五郞借地長助養子

            佐州御雜藏小遣

              長 次【當未三十八歲】

右長次儀、孝行者の由相聞候に付、文化六巳年、在勤柳澤八郞右衞門相糺候處、十五年以前、長助方え聟養子に相越、御雜藏小遣相勤候處、養父長助儀、六十一歲に相成、年寄候に付、骨折、業も致兼、養母さつは、六十歲に相成、五年以前丑年以來、鼓服相煩、外、病、差添、久々快氣不ㇾ致、同人妻儀も出產後、肥立かね、殊に幼年の子供二人有ㇾ之、厄介多にて、取續致兼候に付、長次、夏向は烏賊獵等に罷出、晝夜相働、右體、困窮の中にて、兩親の者ども、朝暮の食事迄、萬端、篤く心を用ひ、貞實に仕、其上、養母幷妻子ども、小瘡、相煩、至、艱難に相暮候處、兩親の者を實着に相勞り候故、親共儀も長次を慕ひ、家内一同睦敷相交、孝心にいたし、殊に小遣も大切に相勤候趣、無相違相聞候に付、爲褒美鳥目五貫文差遣申候。

[やぶちゃん注:「相川一丁目江戶澤」現在の佐渡市相川江戸沢町(えどざわまち)附近と思われる。

「御雜藏小遣」(おざうぐらこづかひ)佐渡奉行所の雑用蔵の管理役人の使用人であろう。

「鼓腹」底本は「鼓服」だが、吉川弘文館随筆大成版でかく訂した。これは「こふく」で、所謂、病的な腹部の膨満や異様にお腹(なか)が張って、悪心(おしん)・嘔吐・便秘が起こる症状を言っていよう。

「肥立かね」「ひだちかね」。産後の肥立ちが悪く。

「厄介多にて」「やつかいおおきにて」。

「烏賊獵」「いかれう」。イカ漁。佐渡は対馬暖流とリマン寒流が交差するため、豊富な漁場を形成されており、中でも、この海流に特異性から、一年中、多様なイカ類が水揚げされるため、佐渡を代表する特産品の一つとなっている。

「小瘡」「こがさ」と読んでおく。慢性蕁麻疹ならば、家族に伝染はしないから、或いはアレルギー性蕁麻疹で、体質的に家族で発する可能性はあるかも知れない。或いは風疹や水痘を順に三人が発症したものか。

「睦敷相交」「むつまじく、あひまじはり」。]

 

         佐州加茂郡馬首村

           勘兵衞養子

               市 兵 衞【當未五十三歲】

右市兵衞儀、孝行者の由相聞候に付、文化七午年二月、在勤柳澤八郞右衞門相糺候處、十三年以前、勘兵衞方え養子に相越、諸事養父の心に隨ひ、無油斷渡世小身の百姓に候得共、養父へ不自由不相掛樣心掛、食物等迄、氣を付、孝心に仕へ、家内一同睦敷、村内の者へも柔和に交り候趣に付、褒美として鳥目五貫文差遣申候。

[やぶちゃん注:「加茂郡馬首村」佐渡市馬首。]

 

         佐州雜太郡河原田本町名主

           大坂御𢌞米世話肝煎

       持高九石五斗餘  源右衞門【當未五十五歲】

右源右衞門儀、奇特の取計有に之趣相聞候に付、享和三亥年三月、在勤鈴木新吉相糺候處、前年戌十一月地震の砌、町内一統及難儀に候に付、貧窮の者共へ、夫々飯米等施し相救候趣、奇特の儀に付、褒美として鳥目五貫文差遣候段、文化四卯年十二月申上置候。然處、此者儀、一體大坂御廻米世話肝煎申付置候處、致出精候趣相聞候に付、同七午年七月、在勤岡松八右衞門相糺候處、河原田御藏納米の儀は、船廻し少々□半國仲筋より、陸附にて差出候間、俵拵等不ㇾ宜、船積幷大坂表にて水揚の節、目溢れ有ㇾ之樣相見候處、手入方俵拵等の儀、年々村方へ申敎、實着に致世話候に付、近年俵拵、宜、納方、果敢取、右者、全、源右衞門、出精相勤候故の儀、其上平日、町内取扱等も宜故、小前の者一統、歸伏候趣に付、爲褒美白銀二枚差遣申候。

[やぶちゃん注:「□」は原資料の欠字。このため、これを含む部分は私には意味がうまくとれないのだが、佐渡での稲作は両津と真野の間の平地に限られ(「ひなたGPS」の戦前の地図を見られたい)、思うに、収穫と俵詰も、潮気を避けて、その中間の、一番、水田域の多い佐渡の最内陸の地域で行われていたものと思われる。そうなると、農家自体で俵は作られるが、俵詰めは野良の作業場で行われたのかも知れない。とすれば、その俵を移動させ、詰め、それをまた、農家に持ち込み、やおら、廻米船が来ると担ぎ出すという一連の行程の中で、俵が緩むことは考えられるように思われる。私は少なくともそのように受け取った。

「雜太郡河原田本町」現在の佐渡市河原田本町(かわはらだほんまち)。真野湾の湾奥中央の岸辺。

「廻米」「かいまい」。江戸時代、多量の米を一地点(おもに生産地)から他の地点(大坂・江戸などの大市場)に輸送することを指し、また、輸送米そのものをも言った。米穀の大量輸送は近世初頭には兵糧米を主としたが、幕藩体制が確立されると、諸藩が領主の江戸藩邸での生活諸経費などを賄うため、徴収した年貢米を、大坂・江戸などの米穀市場に回送・販売することが主となった。当初は、各地の相場に通じた豪商に回送事業を統轄させ、販売まで請け負わせていたが、寛文期(一六六一年~一六七三年)頃を境として、諸藩は廻米方(かいまいがた)を置いて、藩自身の機構による廻米体制を確立していた。回送運賃は海上輸送(河川を含む)が陸上のそれより数倍安価であり、西廻海運・東廻海運の発達を促すことになったのである(平凡社「百科事典マイペディア」に拠った)。さても、この場合の「御」は「おん」か「お」か。まあ、「おん」で落ちついておく。

「前年戌十一月地震」享和二年十一月十五日(一八〇二年十二月九日)に小佐渡の先端の南側の中継ぎの湊として栄えた港町である佐渡島小木(おぎ)附近で発生した「佐渡小木地震」。マグニチュード6.5から7.0と推定される地震で、「享和佐渡地震」とも呼ばれる。当該ウィキによれば、『津波発生の記録はな』く、『小木半島の海岸では約』二『メートル』『の隆起が生じたと考えられており、露出した中新世の枕状熔岩を見ることができる』。『小木地域に被害が集中し』、「大日本地震史料」によると、『「小木町は総戸数』四百五十三『戸が殆んど全潰し、出火して住家』三百二十八『戸、土蔵』二十三『棟、寺院』二『ケ所を焼失、死者』十八『名、湊は、地形変じて干潟となった」と記録されている』(大田南畝の随筆「一話一言」(安永八(一七七九)年から文政三(一八二〇)年頃の執筆)や「佐渡年代記」(慶長六(一六○一)年から嘉永四(一八五一)年までの二百五十一年間の佐渡奉行所の記録を編纂したもので、編者は明かでないが、地役人西川明雅が編纂したものを基本として、彼の没後に同じ地役人であった原田久通が書き続けたものとされる)。『しかし、隆起した時刻と地震の時系列を示す資料は不十分で』、「佐渡年代記」には巳刻(午前十時頃)『に所々破損する程度の地震が起こり、未刻』(午後二時頃)『に大いに震い』、『御役所を始め』、『人家に至るまで破損に及んだという。なお、金鉱山の坑夫たちは数日前から異常を察知し』、『坑道に入らずにいたため』、『犠牲者は無かったと伝えられている』。研究者が「一言一話」所収の『「佐洲地震一件」を調べた結果』では、焼失家屋三百二十八棟・全壊家屋七百三十二棟・損壊家屋 千四百二十三棟・焼死者十四名・圧死者五名・負傷者二名とある。

「文化四年十二月」既出既注。

「河原田」先の本町を含む旧新潟県佐渡郡河原田町(かわはらだまち:「Geoshapeリポジトリ」の「歴史的行政区域データセットβ版」もあるので、そちらを見られたい。

「果敢取」「はたして、あへえとり」。「はたして、問題なく受け取り」の意であろう。]

 

         佐州加茂郡二方潟村

    持高八十六石餘 名主 源 五 郞【當未五十五歲】

右源五郞儀、孝行奇特者の由相聞候に付、享和元酉年十月、在勤蜂屋源八郞相糺候處、老父へ孝行に仕へ、寢食等の世話も人手へ不ㇾ懸、都て、父の心に叶候樣取計、居村は勿論、隣村迄、貧窮の者候ば、米穀等合力いたし候趣相聞、奇特の事に付、褒美として白銀二枚差遣候段、文化四卯年十二月申上置候處、源五郞儀、彌、奇特の取計等有ㇾ之趣相聞候に付、同七午年八月、在勤岡松八右衞門相糺候處、老父儀、子年、病死いたし候處、其後、他家に罷在候兄五郞右衞門病氣にて、步行等致兼候に付、源五郞、日々相越、給物等は勿論、諸事心附、睦敷相勞り候旨、靑木村傳吉類燒の節、致難儀候趣及ㇾ承、右家相調、傳吉住居相成候樣、自分入用差加取、繕いたし遣、其外、貧家の者共へ不相知米穀等及合力に、取續方、實着に世話いたし候旨、奇特の儀に付、佐州御役所雇町人幷兩替屋申付候。

[やぶちゃん注:「加茂郡二方潟村」「弐方潟」が正しい。こちらの記載から、この附近と思われる。

「蜂屋源八郞」佐渡奉行。享和元(一八〇一)年四月七日就任、同三年四月十八日、小普請奉行に転じた。

「文化四卯年十二月」既出既注。

「子年」享和四年甲子。一八〇四年。

「自分入用差加取」「自分に必要な費用をも敢えて取り出して差し加えて」の意か。]

 

         佐州加茂郡二方潟村

       持高三十四石餘 久右衞門【當未三十七歲】

右久右衞門儀、孝行者の由相聞候に付、文化七午年七月、在勤岡松八右衞門相糺候處、父甚右衞門儀は、妻二男共、召連、別家に罷在候間、日々相越、父母の安否を承り、作附其外、何事によらず、兩親の心に不ㇾ背樣いたし、他出等致候節は親共へ申聞、親共、久右衞門宅へ相越候節は、農業に出居候ても、夫婦共、直に罷歸、睦敷咄合いたし、都て致孝心に、奇特の儀に付、爲褒美鳥目五貫文差遣申候。

[やぶちゃん注:「都て」「すべて」。]

 

         佐州加茂郡夷町

           淸次郞忰家大工

               和 吉【當未四十八歲】

右和吉儀、孝行者の由相聞候に付、文化七午年七月、在勤岡松八右衞門相禮候處、養父淸次郞九十二歲に相成、極老に付、耳も遠く、起臥等も不自由の處、和吉夫婦のもの共、厚心附、入湯に相越度旨申候處、夫婦の者、脊負、罷越、諸事、養父の心に應じ候樣取計候に付、右に准じ、子供迄も祖父を大切に相勞り候趣、全、夫婦の者共、年來、孝養を盡候故の儀、奇特の儀に付、爲褒美和吉へ鳥目五貫文、妻へ二貫文差遣申候。

[やぶちゃん注:「加茂郡夷町」佐渡市両津夷の海側。「ひなたGPS」を参照されたい。]

 

         佐州雜太郡上相川町

           かね養娘

              ま さ【當未四十五歲】

右まさ儀、孝行者の由相聞候に付、文化七午年七月、在勤岡松八右衞門相糺候處、まさ儀、かね、姪に候處、幼年より養、娘に相成、かね倶々、銀山鏈石撰立候儀、渡世に致候處、養母七十三歲に相成、寅年以來、脚氣、相煩候に付、困窮の中、種々療治差加、晝夜看病いたし、午年に至、快氣致候故、石撰業に罷越度旨申節は、心に不ㇾ背樣、脊負相越、諸事致孝行に、奇特の儀に付、爲褒美鳥目五貫文差遣申候。

[やぶちゃん注:「鏈石撰」「くさりいしえり」と訓じておく。サイト「SADO-KOI」の「佐渡の錬金術師たち 用語解説」に「石選女」(いしえりめ)の項があり、『建場小屋で、鏈石(くさりいし)(鉱石)の品質分け(選別)をする女性のことで、鉱山労働者の妻女が担当してい』たとあり、その『石選女が使う道具』の絵図もある。

「寅年」文化三(一八〇六)年。

「丑年」文化七年。]

 

         佐州雜太郡相川町

           下戶町兩替屋

            山形屋與惣左衞門【當未四十歲】

         同國羽茂郡宿根木村

     持高三十五石六斗餘 忠 三 郞【當未十六歲】

     同二十三石五斗餘  勘 四 郞【當未十八歲】

     同五石二斗餘    久 兵 衞【當未五十一歲】

     同十石四斗餘    庄 兵 衞【當未三十歲】

右の者共儀、奇特の取計有ㇾ之趣相聞候に付、文化七午年七月、在勤岡松八右衞門相糺候處、同年三月、澤崎村一村燒失に付、一統及難儀救處、飯米、其外、器物等、夫々差遣相救候趣、奇特の儀に付褒置申候。

[やぶちゃん注:「宿根木村」佐渡市宿根木(しゅくねぎ)。小佐渡の南端の本州側で、北前船の寄港地として発展し、船大工によって作られた当時の面影を色濃く残す町並みが私の大のお好みである。]

 

         佐州雜太郡鹿伏村

           吉右衞門二男

               竹 次 郞【當未二十七歲】

右竹次郞儀、孝行者の由相聞候に付、文化八未年閏二月、在勤岡松八右衞門相糺候處、右之者儀、兩親は勿論、家内の者へ、平日、柔和に相交り、母は六年以前より病氣にて步行も致兼候處、百姓稼の疲も不ㇾ厭、夜分は致看病、日雇稼に出候ても、暫、隙を乞、罷歸り、食物迄も厚く心を用ひ、一體、實體の者に付、外より養子に貰ひ請度旨申候ても、母病氣快氣不ㇾ致内は、參候儀も相斷、母の心に叶候樣、實着之致介抱兩親へ孝心に仕へ候趣に付、爲褒美鳥目三貫文差遣申候。

[やぶちゃん注:「鹿伏村」佐渡市相川鹿伏(あいかわかぶせ)。]

 

         佐州銀山山師

           秋田權之助下女

               な   つ【當未四十二歲】

右なつ儀、奇特者の由相聞候に付、文化八未年閏二月、在勤岡松八右衞門相糺候處、十六年以前、權之肋親代より致奉公候處、主人困窮に付、給錢等、極通、請取兼候儀も有ㇾ之候得共、實體、相働、是迄、折々、緣邊の儀、申來候得共、權之肋幷弟共、若年に有ㇾ之、同人母は老年に及び、家事の世話も行屆兼候故、難見放趣を以、緣邊の儀は相斷、手透の節は外にも被相賴針仕事等いたし、先々より、禮物貰請候得共、權之助勝手向人用に遣候由、都て厚く心を用ひ、主人を大切に存、奉公相勵候趣、卑賤の身分には奇特の儀に付、爲褒美鳥目五貫文差遣申候。

[やぶちゃん注:「給錢等、極通」(きはめどおり)、「請取兼候」「下女としての給金なども、決めた通りには、請い受けることもしかねるばかりの状態でありましたが」の意。

「緣邊の儀」「えんへん」とは結婚のことであろう。

「手透」「てすき」。手隙き。

「被相賴」「あひたのまれ(て)」。

「人用」(じんよう)村落の交際費であろう。]

 

         佐州加茂郡上橫山村

           持高三石六斗餘

               仁右衞門【當未四十八歲】

右仁右衞門設、孝行者の由相聞候に付、文化八未年三月、在勤岡松八右衞門相糺候處、老母え孝行に仕へ、日々、百姓稼の疲をも不ㇾ厭、寢食の世話をも人手え不ㇾ懸樣、取計ひ、夜分も厚く致介抱小身困窮の中にて、食物等、格別、心を用ひ、妻子共へも孝心に可ㇾ致旨常々申付、家内は勿論、村方のものへも、柔和に交り候趣、奇特の儀に付、爲褒美鳥目五貫文差遣申候。

右之通御座候。以上。

 未四月

              岡松八右衞門

              金澤 瀨兵衞

[やぶちゃん注:「上橫山村」佐渡市上横山

 本篇、「兎園小説」中でも、最初から最後まで、すこぶる気持ちよく読める一篇である。]

« 2022年7月 | トップページ | 2022年9月 »