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2022/08/31

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 磬―鰐口―荼吉尼天 (その7)・附「追補」 / 磬―鰐口―荼吉尼天~了

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。注は各段落末に配した。彼の読点欠や読点連続には、流石にそろそろ生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、句読点を私が勝手に変更したり、入れたりする。今回は分割する。

 なお、本篇はこの「追加」で終わっているが、「選集」では更に「追補」(大正六(一九一七)年四月発行の『考古学雑誌』第七巻第八号所収)がある。呈補にはないので、最後に注で「選集」を底本として追加した。そのため、新字正仮名で、さらに表記表現に有意な手が加えられてある。「選集」の最後の編者注記に『『考古学雑誌』七巻ハ号に「荼吉尼天について追補」と題して掲載、冒頭に「本誌六ノ二ノ四七および六ノ五ノ二八〇の追補とす」と著者注記があるので、これを収載した。』とある。

 

追 加 (大正五年一月『考古學雜誌』六卷五號)

 J.Theodore Bentの ‘The Cyclades,1885, p.279 に曰く、「希臘のセマントラは妙な發音器也。寺每に、大抵、木製と鐵製の此物各一を備ふ。甲は平削りの木片、多くは「もみぢ」木にて作り、凡そ三呎長、二吋幅なるを、堂の外に懸け、木槌もて打ち鳴す。通例、曉に木の者のみを敲く。然し、「レント」等の式日は、乙、卽ち、鐵製の物を打つ。是は半圓形の箍[やぶちゃん注:「たが」。]樣にて、其音、ひゞ目入たる銅鐸の如し。聞く、土耳其[やぶちゃん注:「トルコ」。]人、此邊を制伏して基督敎徒に鐘擣く事を禁ぜしより、セマントラ行はるゝに及べり」と。前囘引たるべロンが十六世紀に目擊せる者と記載稍々[やぶちゃん注:「やや」。]異なれど、大槪同じく、其稍々異なるは十六世紀より十九世紀の間に多少の改良を經たるならん。

[やぶちゃん注:「J.Theodore Bentの ‘The Cyclades, 1885, p.279」イギリスの探検家・考古学者・作家ジェームス・セオドア・ベント(James Theodore Bent 一八五二年~一八九七年)の「キクラデス諸島又は島内のギリシャ人たちの生活」(The Cyclades; or, Life among the Insular Greeks)。「Internet archive」で調べると、当該ページはここ

「セマントラ」上記リンク先で綴りは‘ semadra ’。ネットで調べたが、画像は見当たらない。

「三呎長、二吋幅」底本は前者が「三尺」となっているが、「呎」(フィート)に変えた。長さ九十一・四四センチ、幅五・〇八センチ。

「レント」上記原本では、‘a great  Lenten’とある。これは四旬斎(しじゅんさい:Great Lent)で、キリスト教(正教会・非カルケドン派・カトリック教会・聖公会・プロテスタント)に於て、「復活祭を準備する期間」を言う。

「前囘引たるべロンが十六世紀に目擊せる者」「磬―鰐口―荼吉尼天 (その1)」の本文及び私の注を参照。]

 野干と狐と別獸なるは(同號四九頁末より三行目)、羅什譯妙法蓮華經二に、野干狐狼鵰鷲鴟梟と連ねたるにて知べし。野干(ジャッカル)は、その相貌、狼に近く、猾智、狐に類せり。

[やぶちゃん注:底本の「野干」のルビは「ジャ カル」であるが、不自然に字空けがあることから、「選集」で「ッ」を補った。

「野干と狐と別獸なるは(同號四九頁末より三行目)」は「磬―鰐口―荼吉尼天 (その4)」の「荼吉尼の事は、余、……」以下の段落を指すものと思う。

「羅什譯妙法蓮華經二に、野干、狐、狼、鵰、鷲、鴟梟と連ねたる」神奈川県横浜市保土ケ谷の「日蓮宗妙福寺」公式サイト内の「姚秦三蔵法師鳩摩羅什」「譯」「妙法蓮華經」とある電子データを見るに、「野干狐狗 鵰鷲鵄梟」とあった。「鵰鷲」は「てうしう(ちょうしゅう)」でワシタカ類の中で大型の種を総称する語。「鵄梟」は「しけう(しきょう)」で「鴟梟」「鴟鴞」などとも書き、フクロウ類の別名である。「鵰鷲鵄梟」獰猛な猛禽類を指す。一部の「法華経」の現代語訳では「鵰(わしたか)・鷲(わし)・鵄(とび)・梟(ふくろう)」とも分離する。]

 大正三年盂買[やぶちゃん注:「ボンベイ」。]板行 Jackson and Enthoven, ‘Gujarat Folk-lore Notes,’ ch.x 、妖巫術(ウヰチクラフト)の一章、全くダーカンのことのみを記す。前囘引いたるバルフォールの印度事彙其他、諸事、皆な、ダキニを妖巫と譯せるを參するに、ダーカンはダキニのグジャラチ名なるは、疑ひを容れず。其章の梗槪を抄せんに云く、ダーカンに二種有り、人類のと、鬼類のもの、是也。女子、特異の日に生まるゝ者、人類ダーカンたり。其夫、之が爲に死す。又、其邪視に中る[やぶちゃん注:「あたる」。]一切の人も物も、害を蒙らざる無し。產死、又、不慮の死、又、自殺で果たる婦女もダーカンと成る。或は、信ずらく、下等姓の女人、死してダーカンと成る、上等姓のダーカンは稀[やぶちゃん注:「まれなる」。]者也、と。是等の鬼類ダーカンは、美衣を著、其體を嚴飾す。然れども、背を被はず。其背、怖るべく、見る者、慄死せざるは無し。鬼類ダーカンは、止だ[やぶちゃん注:「ただ」。]、婦女のみを苦しめ、之に憑かれたる婦女は、痙攣を急發し、髮を亂して、譯も無く叫喚す。鬼類ダーカンは、男を夫とし、美食を齎し與ふれば、其男、漸次、枯瘁して、死するに、大抵、六月を出ず。又、犢[やぶちゃん注:「こうし」。]をして、乳、呑ず[やぶちゃん注:「のまず」。]、㹀[やぶちゃん注:「めうし」。]をして、乳汁を生ぜず、或は、乳の代りに血を出さしむ。ダーカンの食は人屍にして、能く天に登る。猫、水牛、山羊、其他、何獸の形にも成り、意に任せて其身を大小にす。其足は反踵也。好んで墓冢、廢池、鑛穴、荒蓼の所に居り、又、四辻に當たれる敗壚に出づ、と。此他、諸章にもダーカンの事、若干條、出たれど、今は抄せず。

[やぶちゃん注:「大正三年」一九一四年。

Jackson and Enthoven, ‘Gujarat Folk-lore Notes,’ ch.x」英国統治時代のインドのイギリス人公務員で、将校にして歴史家・インド学者でもあったアーサー・メイソン・ティペッツ・ジャクソン(一八六六 年~一九〇九年)と、同じインドの公務員でインド研究者であったレジナルド・エドワード・エントーベンReginald Edward Enthoven(一八六九年~一九五二年)の共著になるインド北西部に位置するグジャラート州(グーグル・マップ・データ)の民俗誌「グジャラートの民間伝承ノート」の第十章‘X. WITCHCRAFT.’。「Internet archive」のこちらから、当該原文が視認出来る。「ダーカン」は‘ Dākan ’と綴っている。

「枯瘁」「こすい」は痩せこけて憔悴すること。

「六月」「むつき」。

「犢」子牛。

「㹀」雌牛(めうし)。

「反踵」踵(かかと)が反り返っていること。或いは踵が逆さまについていること。

「墓冢」(ちようぼ(ちょうぼ))は墓場のこと。

「荒蓼」「選集」も同じだが、「荒寥」(くわれう(こうりょう))地の誤りだろう。]

 桃源遺事卷三に、「水戶御城下に心光寺と云寺有り。此寺は萬千代殿(信吉)の御菩提所なり。西山公、彼寺を久慈郡向山と云所へ御引せ成され、堂塔式の通りに仰せ付られ、法式等も御改正被成、且、鉦鼓は本式に非ず迚、鰐口を差し置かれ、鉦鼓の如く、撞木を以、打鳴し、念佛を可申由、是、空也上人の例也とぞ云々」と有る。例の上人が、鰐口を兩分して敲鉦[やぶちゃん注:「たたきがね」。]とせりてふ傳說に據られたるにや。(大正四年十二月二日)

[やぶちゃん注:「桃源遺事」かの徳川(水戸)家第二代水戸藩主徳川光圀に関する逸話などを集大成した書で、光圀の誕生に力を尽くした三木之次の孫三木之幹や、宮田清貞・牧野和高らによって元禄一四(一七〇一)年に編纂された。書名は「西山遺事」ともする。国立国会図書館デジタルコレクションの昭和一八(一九四三)年清水書房刊の稲垣国三郎註解「桃源遺事 水戸光圀正傳」のここで当該部が視認出来る。

「心光寺」同前のこのページの頭注に、『水戶備前町』(ここ)『にあつた、淨土州、常照山、淨鑑院と稱し寺内表六十間裏六十六間あつた。』とあるので、現存しない。

「萬千代殿(信吉)」徳川家康の五男武田(松平)信吉(のぶよし 天正一一(一五八三)年~慶長八(一六〇三)年)。母は甲斐武田氏家臣秋山虎泰の娘於都摩。幼名は福松丸・武田万千代丸。正しくは松平信吉であるが、同名の松平信吉(藤井松平家)と区別するため、武田信吉と呼ばれる。慶長七(一六〇二)年に武田(松平)家藩主として常陸国水戸二十五万石に封ぜられ、旧家臣を中心とする武田遺臣を付せられて武田氏を再興している。但し、生来、病弱であったらしく、わずか二十一歳で死去している。参照した当該ウィキによれば、彼には『子女もいなかったので』、『武田氏は再び断絶した』。『水戸藩は異母弟の頼将(のちの頼宣)が入り、頼将が駿府に移封の後は、同じく異母弟の頼房が入部し、水戸徳川家の祖とな』った。『信吉の家臣の多くは水戸家に仕えることにな』ったとある。

「西山公」徳川光圀の尊号の一つ。彼はガチガチの排仏派であった。

「久慈郡向山」(むかうやま)延宝五(一六七七)年に心光寺は光圀の命で那珂郡向山村(現在の茨城県那珂市向山。グーグル・マップ・データ)に移されている。但し、そこにも現存はしない。

 以下、前注通り、「選集」に載る「追補」を添える。

   *

【追補】

 ドイツ人 A. F. L. M.Freiher von Haxthausen の‘Transcaucasia,Sketches of the Nations and Races between the Blak Sea and the Caspian,trans. Taylor, London, 1854, p.192 にいわく、ウトミシュ・アルテテム山に三百六十六谷あり。これについてアルメニア人伝えていわく、この国の一窟にむかし吸血鬼(ベムパヤール)棲み、その名をダクハナヴァール Dakhanavar という。この吸血鬼、きわめて人々がこの山の谷の数を知ることを忌み、山に入る者あれば、必ず夜中その足裏より血を吸って死に至らしむ。黠智に富める者二人、谷を数えんとて山に入るあり。日暮に及び、相謀って互いに両足を頭下に敷いて臥す。夜半に鬼来たり探るに、人体の両端に頭あって全く足なし。よって独語すらく、予かつてこの山の三百六十六谷を巡り人の血を吸い殺せしこと無数なるも、二頭あって足なき人に遇うはこれが始めなり。と言い終わりて逃げ去り、爾来また見えず。これより人初めてこの山の谷の数を知れり、と。ダクハナヴァールなる名も、血を吸って人を殺すことも、荼吉尼を飲血者(アスラ・パス)と呼ぶに似たれば、このアルメニアの鬼譚はもとインドの荼吉尼(グジャラチ名ダーカン)談と同根に出ずるものか。件(くだん)のハクストハウセンの書は本邦で多く読まれぬものらしきゆえ、見出ずるまま書きつけて荼吉尼天のことを調ぶる人の参考に供す。(一月二十日)

  (大正六年四月『考臺学雑誌』七巻八号)

   *

A. F. L. M.Freiher von Haxthausen の‘Transcaucasia,Sketches of the Nations and Races between the Blak Sea and the Caspian, trans. Taylor, London, 1854, p.192」ドイツの農学者・弁護士で作家のアウグスト・フォン・ハクストハウゼン(August Franz Haxthausen 一七九二年~一八六六年)。彼は一八四三年に六ヶ月間に亙ってロシアを旅した。ノヴゴロド・カザン・コーカサス・キーウを経てモスクワに至っている。翌年の春にドイツに戻って、印象を書き留めており、その体験の一部が後にこれ(「トランスコーカシア、黒海とカスピ海の間の国々と人種のスケッチ。」)となったもののようである。「トランスカウカシア」は「ザカフカス」(カフカスの彼方)に同じで、大カフカス山脈の南側の地域を指す呼称。現在のアゼルバイジャン・アルメニア・ジョージアの三共和国に相当する。他に「外カフカス」「南カフカス」とも称する。「Internet archive」のこちらで英訳である当該原本がここで読める(左ページから続いている)。

「ウトミシュ・アルテテム山」前の原本に‘Ultmish Altötem’とある。アルメニアはここ(グーグル・マップ・データ)だが、この山は現認出来ない。

「吸血鬼(ベムパヤール)」原文‘vampyre’。

「黠智」既出既注。「かつち」で「悪知恵」の意。]

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 磬―鰐口―荼吉尼天 (その6)

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから(左の後ろから三行目下方から)。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。注は各段落末に配した。彼の読点欠や読点連続には、流石にそろそろ生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、句読点を私が勝手に変更したり、入れたりする。今回は分割する。

 太字は底本では傍点「○」。]

 

 序に言ふ。趙末、西天三藏法賢譯佛說瑜伽大敎王經卷五に、復次辟除法、持誦者用獯狐翅、上書眞言及所降人名、以淨行婆羅門髮纒之、卽誦眞言加持、密埋地中、復想二大明王於彼打之、次想吽字、化成微小金剛杵、入所降人身、變成羯磨杵、有大熾焔、打彼降人、身分肢節悉令乾枯、又想諸金剛拏枳儞、悉來唼所降人身血、如是作法、速得辟除、誦此眞言曰、唵嚩日囉二合枳儞阿目割寫囉訖多二合羯哩沙二合野吽發吒半音二、誦此眞言已、依法相應、彼降伏人、速得身分乾枯、乃至除滅。拏枳儞の荼吉尼に同じきは言を俟たず。囉訖多は其一名と見え、元魏婆羅門瞿曇菩提流志が譯せる正法念處經十六に多を吒に作る。言く、囉訖吒(魏にて血食を言ふ)餓鬼、本爲人時、愛樂貪嗜血肉之食、其心慳嫉、戲笑作惡、殺生血食、不施妻子、如是惡人云々、墮惡道中、貪嗜云々、人皆名之、以爲夜叉。供養奉事。以血塗泥、 而祭祀之。既噉血已、恐怖加之、數求禱祀、人皆說之、以爲靈神、如是次第、得自活命壽命長遠云々。上に引る眞言は、此血食鬼を役使して仇人の血を吸ひ、身體枯槁して死に至らしむる者なり。其作法中に獯狐翅を用ると有るは、惟ふに、訓狐と同字にて梟の異名なるべし(法賢が譯せる金剛薩埵說頻那夜迦天成就儀軌經三にも、童女をして他人を好まず自分をのみ愛敬せしむる法を修するに、獯狐と鳥肉を食ふ[やぶちゃん注:「くらふ」。]事有り)。翅を用ると有るにて其然るを知る。狐の字あるを見て、猝に[やぶちゃん注:「にわかに」。]荼吉尼に狐を係る[やぶちゃん注:「かくる」。関係付ける。]事、印度既に有りし、と斷ずべからず。(八月十七日)

[やぶちゃん注:以上の経典は「大蔵経データベース」で校合した。孰れも中略があり、前者はそれがひどいので、一部は復元した。「選集」の一部を参考に手を加えた(具体的には熊楠の割注『(魏にて血食を言ふ)』は底本では、ただ、『(血食)』である)。

「趙末」不審。「選集」もそのままだが、百七十五年続いた趙は紀元前二二八年に秦に滅ぼされており、未だ仏教は伝来しておらず、中国への伝来はずっと後の一世紀である。以下の「西天三藏法賢」(?~一〇〇〇年)の訳になる「佛說瑜伽大敎王經」の成立は北宋末期であるから、「宋末」の誤りである。北宋の王は趙氏であるから、それで誤ったものだろう。以下、「復次辟除法、……」以下を訓読する。

   *

復(ま)た次に、辟除の法は、持誦する者、獯狐(くんこ)の翅を用ふ。上に眞言及び降(くだ)す所の人名を書き、淨行婆羅門の髮を以つて之れを纏ひ、卽ち、眞言を誦して加持し、密かに地中に埋む。復た、想ふ、『二大明王、彼(かしこ)に於いて之れを打つ』と。次に想ふ、『「吽」(うん)の字、化して微小なる金剛杵(こんがうしよ)と成り、降す所の人身に入り、變じて羯磨杵(かつましよ)と成り、大いに熾(も)ゆる焔(ほのほ)有りて、彼(か)の降す人を打ち、身分・肢節を悉く乾(かは)き枯らしむ。』と。又、想ふ、『諸(もろもろ)の金剛の拏枳儞(だきに)、悉く來たりて、降す所の人の身血を唼(すす)る。』と。是(かく)のごとく、法を作(な)せば、速やかに辟除するを得。此の眞言を誦するに曰はく、「唵嚩日囉二合枳儞阿目割寫囉訖多二合羯哩沙二合野吽發吒半音二。」[やぶちゃん注:多分発音(「引」は長音、「二合」は繰り返すことか)を表わすのであろう傍注を除いて漢字だけの読みを試みると、「アン バジラ ヌ シニ アモクカツシヤラキツタ ア カツリサ ヤウン ハツタ」か。]と。此の眞言を誦し已(をは)れば、法に依つて相ひ應じ、彼(か)の降伏する人、速やかに身分の乾き枯れ、乃至(ないし)は除滅するに至る。

   *

「元魏婆羅門瞿曇菩提流志」(げんぎ ばらもん ぐどん ぼだいるし)で、北インド出身の訳経僧「菩提流支」(ぼだいるし)のことであろう。北魏の都であった洛陽で訳経に従事し、大乗経論を三十部余り翻訳している。漢訳名を「道希」とも称した。訓読する。熊楠の割注も推定で書き換えた。

   *

囉訖吒(らきつた)(魏にて「血を食らふこと」を言ふ)餓鬼、本(もと)、人たりし時、愛樂して、血肉の食を貪-嗜(むさぼ)れり。其の心、慳嫉(けんしつ)にして、戲笑(ぎしやう)しては惡を作(な)し、殺生して血を食らひ、妻子に施さず。是(かく)のごとき惡人は云々、惡道の中に墮ち、血を貪-嗜る云々、人、皆、之れを名づくるに、以つて「夜叉」と爲(な)し、供養奉事するに、血を以つて塗泥(でいと)し、 而して之を祭祀す。既に血を噉(くら)ひ已(をは)れば、恐怖を人の加へ、數(しばしば)、禱(いの)ろ祀(まつ)ることを求む。人、皆、之れを說(よろこ)び、以つて靈神(れいしん)と爲(な)す。是(かく)のごとくに次第して、自(みづか)ら活命することを得、壽命は長遠なり云々。

   *

「慳嫉」物惜しみをし、嫉妬深いこと。「塗泥」本来は「泥濘(ぬかるみ)」の意だが、その邪神の身体に塗りたくることであろう。

「訓狐」これは、「夜、キツネを訓育(調教)する者」の謂いで、鳥の名であり、狐ではない。現行では、フクロウ目フクロウ科コノハズク属コノハズク Otus scopsに比定されている。最後の熊楠の注意喚起はすこぶる正しい。「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鴞(ふくろふ) (フクロウ類)」の私の「訓狐」の注を参照されたい。

「金剛薩埵說頻那夜迦天成就儀軌經三にも、童女をして他人を好まず自分をのみ愛敬せしむる法を修するに、獯狐と鳥肉を食ふ事有り」「大蔵経データベース」で確認したところ、『食獯狐及烏肉已。稱童女名顧視十方心作觀想。從夜至旦法得成就。彼之童女不欲事於他人。』とあるのが確認出来た。

「八月十七日」大正四(一九一五)年。]

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 磬―鰐口―荼吉尼天 (その5)

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから(右の後ろから二行目中途から)。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。注は各段落末に配した。彼の読点欠や読点連続には、流石にそろそろ生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、句読点を私が勝手に変更したり、入れたりする。今回は分割する。]

 

 ダキニ(荼吉尼)は、バルフォールの印度事彙に、妖巫(ウヰツチ)、又、女魅(フイーメル・ゴブリン)、又、飮血者(ブラツド・ドリンカー)(アスラ・パス)と名く、女小鬼(フイーメル・イムプ)の一種、カリに侍し、人肉を噉ふと有り。カリはシヴア神の后にて、慈恩傳三に、玄奘三藏、阿踰陀國より阿耶穆國に往く途中、賊、出で來たり、玄奘を殺して、突伽天神に嘉福を祈らんとせしてふ突伽(ヅルガ)と同神異相なり。カリ、兇相、極めて怖るべく、死と破壞を司どり、隨て[やぶちゃん注:「したがつて」。]、墓所の女神たり。以前は、其祭日に男子を神廟に捧げしに、夜中、カリ、現はれて、其血を吸ひ、之を殺せりと云ふ。荼吉尼衆は、實にカリに隨從する女魅輩にて、人の血肉を飮食す。されば、密敎徒が尊奉する荼尼天は、荼吉尼衆の本主、元とカリ女神と同體異相の者なるべければ、野干と多少の類緣、無きに非じ。蓋し野干はヒエナと俱に、インドで最も普通に人屍を求め食ふ獸なればなり(印度事彙三板二卷三九四頁參看)。扨、本邦、此獸を產せず。經律所見の野干黠智に富める事、酷しく[やぶちゃん注:「はなはだしく」。]狐に似たれば、輙ち、狐を野干と混視して、荼吉尼天の使い物、又、荼吉尼衆と同體とせるならん。野干が荼吉尼衆と俱にカリ女神の使者たりてふ事、書き留めたる物、眼前に在り乍ら、其抄物、多册にて、一寸、見當て得ざるぞ、遺憾なる。

[やぶちゃん注:「バルフォールの印度事彙」スコットランドの外科医で東洋学者エドワード・グリーン・バルフォア(Edward Green Balfour 一八一三年~一八八九年:インドに於ける先駆的な環境保護論者で、マドラスとバンガロールに博物館を設立し、マドラスには動物園も創設し、インドの森林保護及び公衆衛生に寄与した)が書いたインドに関するCyclopaedia(百科全書)の幾つかの版は一八五七年以降に出版されている。「Internet archive」の“ The Cyclopaedia of India ” (一八八五年刊第一巻)の原本の「877」ページの右列の十五行に‘DAKINI’の当該項目が確認出来る。起こしておく。

   *

DAKINI.  HIND.  A  witch,  a  female  goblin.  In Hindu  mythology  also  called  Asra-pas,  or  blooddrinkers  ;  a  kind  of  female  imp,  attendant  on Kali,  and  feeding  on  human  flesh.

   *

この内、‘goblin’(ゴブリン)は、醜い小人の姿をしたいたずら好きの精霊。森や洞窟に住み、ドイツでコボルト、フランスではゴブランと呼ぶ。嘗て、映画で有名になったグレムリン gremlin もゴブリンの一種である。

「カリ」「カーリー」はヒンドゥー教の女神。当該ウィキによれば、『その名は「黒き者」あるいは「時」の意(「時間、黒色」を意味するカーラの女性形)』。『血と殺戮を好む戦いの女神。シヴァの妻の一柱であり、カーリー・マー(黒い母)とも呼ばれる。仏典における漢字による音写は迦利、迦哩』。『シヴァの神妃デーヴィー(マハーデーヴィー)の狂暴な相のひとつとされる。同じくデーヴィーの狂暴な相であるドゥルガーや、反対に柔和な恵み深い相であるパールヴァティーの別名とされるが、これらの女神は元はそれぞれ別個の神格であったと考えられている』。『全身青みがかった黒色で』三『つの目と』四『本の腕を持ち』、四『本の腕の内』、『一本には刀剣型の武器を、一本には斬り取った生首を持っており』、『チャクラを開き、牙をむき出しにした口からは』、『長い舌を垂らし、髑髏』乃至『生首をつないだ首飾りをつけ、切り取った手足で腰を飾った姿で表される。絵画などでは』十『の顔と』六『本から』十『本の腕を持った姿で描かれることもある』。『シャークタ派で聖典とされる』「デーヴィーマーハートミャ」に『よると、女神ドゥルガーがシュムバ、ニシュムバという兄弟のアスラの軍と戦ったとき、怒りによって黒く染まった女神の額から出現し、アスラを殺戮したとされる。自分の流血から分身を作るアスラのラクタヴィージャとの戦いでは、流血のみならず』、『その血液すべてを吸い尽くして倒した』。『勝利に酔ったカーリーが踊り始めると、そのあまりの激しさに大地が粉々に砕けそうだったので、夫のシヴァ神がその足元に横たわり、衝撃を弱めなければならなかった。その際にシヴァの腹を踏みつけてしまい』、『ペロリと長い舌を出したカーリーの姿が、多くの絵や像で表現されている』。『殺戮と破壊の象徴であり、南インドを中心とする土着の神の性質を習合してきたものと解される。インド全体で信仰されているポピュラーな神だが、特にベンガル地方での信仰が篤』い。『インドの宗教家、神秘家ラーマクリシュナも熱心なカーリーの信奉者だった』。『インドにおいて』十九『世紀半ばまで存在していたとされているタギーとは、カーリーを信奉する秘密結社で、殺した人間をカーリーへの供物としていた』とある。なお、インド神話には長音のない「カリ」という悪魔が別にいるが、カーリーとは無関係なので注意が必要。

「慈恩傳三に、玄奘三藏、阿踰陀國より阿耶穆國に往く途中、賊、出で來たり、玄奘を殺して、突伽天神に嘉福を祈らんとせしてふ突伽(ヅルガ)と同神異相なり」「慈恩傳」は「大慈恩寺三藏法師傳」。三蔵法師として知られる唐の玄奘(六〇二年~六六四年)の伝記。全十巻。唐の慧立の編になる。「大蔵経データベース」で調べたところ、第三巻の以下のやや長い部分が当該部であると思われる。熊楠の訳と一致する箇所に下線(完全一致と思われ箇所は太字下線)にした。

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法師自阿踰陀國禮聖跡。順殑伽河。與八十餘人同船東下欲向阿耶穆。行可百餘里。其河兩岸皆是阿輸迦林非常深茂。於林中兩岸各有十餘。鼓棹迎流一時而出。船中驚擾投河者數人。賊遂擁船向岸。令諸人解脱衣服搜求珍寶。然彼群賊素事突伽天神。毎於秋中覓一人質状端美。殺取肉血用以祠之。以祈嘉福。見法師儀容偉麗體骨當之。相顧而喜曰。我等祭神時欲將過不能得人。今此沙門形貌淑美。殺用祠之豈非吉也。法師報。以奘穢陋之身得充祠祭。實非敢惜。但以遠來意者欲禮菩提樹像耆闍崛山。并請問經法。此心未遂。檀越殺之恐非吉也。船上諸人皆共同請。亦有願以身代。賊皆不許。於是賊帥遣人取水。於花林中除地設壇和泥塗掃。令兩人拔刀牽法師上壇欲即揮刃。法師顏無有懼。賊皆驚異。既知不免。語賊。願賜少時莫相逼惱。使我安心歡喜取滅。法師乃專心覩史多宮念慈氏菩薩。願得生彼。恭敬供養受瑜伽師地論。聽聞妙法成就通慧。還來下生教化此人。令修勝行捨諸惡業。及廣宣諸法利安一切。於是禮十方佛正念而坐。注心慈氏無復異縁。於心想中若似登蘇迷盧山。越一二三天見覩史多宮慈氏菩薩處妙寶臺天衆圍繞。此時身心歡喜。亦不知在壇不憶有賊。同伴諸人發聲號哭。須臾之間黒風四起折樹飛沙。河流涌浪船舫漂覆。賊徒大駭。問同伴曰。沙門從何處來。名字何等。報曰。從支那國來求法者此也。諸君若殺得無量罪。且觀風波之状。天神已瞋。宜急懺悔。賊懼相率懺謝稽首歸依。時亦不覺。賊以手觸。爾乃開目謂賊曰。時至耶。賊曰。不敢害師。願受懺悔。法師受其禮謝。爲説殺盜邪祠諸不善業。未來當受無間之苦。何爲電光朝露少時之身。作阿僧企耶長時苦種。賊等叩頭謝曰。某等妄想顛倒爲所不應爲事所不應事。若不逢師福徳感動冥祇。何以得聞啓誨。請從今日已去即斷此業。願師證明。於是遞相勸告。收諸劫具總投河流。所奪衣資各還本主。並受五戒。風波還靜。賊衆歡喜頂禮辭別。同伴敬歎轉異於常。遠近聞者莫不嗟怪。非求法殷重何以致茲。從此東行三百餘里。渡伽河。北至阿耶穆

   *

この「阿踰陀國」は「アユダこく」で、比定地としてインド・タイ・中国・日本などの説あるが、インドのアヨーディヤー(グーグル・マップ・データ)が最有力であると、ウィキの「首露王」にあった。インドの古都で、現在のウッタル・プラデーシュ州北部のファイザーバード県の内。「耶穆」佉「國」は「アヤムカこく」「アヨームカこく」「アヤボクキヤこく」で中インドの国らしい。「突伽(ヅルガ)」サンスクリット語「ドゥルガー」の漢音写。ヒンドゥー教の女神で、その名は「近づき難き者」の意。参照した当該ウィキによれば、『シヴァ神の神妃とされ』、『デーヴァ神族の要請によってアスラ神族と戦った』とし、『外見は優美で美しいが、実際は恐るべき戦いの女神で』、三『つの目を持っており、額の中央に』一『つの目がある』十『本あるいは』十八『本の腕に』、『それぞれ』、『神授の武器を持つ。虎もしくはライオンに乗る姿で描かれる』。『仏教においては准胝観音になったという説もあ』り、『突伽天女、突伽天神、塞天女とも呼ばれ』、『玄奘三蔵の伝記』「大慈恩寺三蔵法師伝(慈恩伝)」では『突伽という表記で登場する』。別名『チャームンダーを音写した遮文荼(しゃもんだ)という名前で七母天の一尊に数えられ』、『焔摩天の眷属にもなっている』とある。以上を見るに、玄奘はハンサムであったが故に、人身御供として狙われたが、その美男と仏徳故に、彼らを教化し、救われているのである。

「ヒエナ」英語‘hyena’で、哺乳綱食肉目ネコ亜目ハイエナ科 Hyaenidaeのハイエナ類。

「印度事彙三板二卷三九四頁」「Internet archive」の原本のここの「JACKAL」の項。左列の下から二行目に‘hyæna’の合成語表記でハイエナが出る。

「黠智」「かつち」で「悪知恵」の意。]

2022/08/30

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 磬―鰐口―荼吉尼天 (その4)

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから(左後ろから三行目末から。底本では、実は前の回の最後が、「風有りしより、」で以下と繋がっているが、「選集」は『風ありしなり。』と切れて、改行されている。それが正しい(断然、読み易い)と断じた)。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。注は各段落末に配した。彼の読点欠や読点連続には、流石にそろそろ生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、句読点を私が勝手に変更したり、入れたりする。今回は分割する。]

 

 荼吉尼の事は、余、其曼陀羅如き者を舊藏し、在英の間だ、種々調べたる書類有れど、只今、座右に存せず、又悉く忘却したれば、手近き典籍に採て管見を述んに、鹽尻帝國書院板、卷四六卷七四九頁に「陀祇尼天(乃ち荼吉尼天)は琰麼羅の屬にして、その種類一ならず云々、人の肝膽精氣を噉食す。然るに、地藏大士、慈悲を以て其相を鬼類に等しくし、之を招じて、人の爲に惱害を成さゞらしめ給ふを本主の陀祇尼天とす。正流の密家に祀る、是なり。其鬼類の實者外相を現ずるに、悉伽羅野干となる。季世、大方、此野干を祀りて陀祇尼と稱し、福を求め、幸を祈り、或は稻荷と呼んで、幣帛を捧ぐる族、多し」と有り。「大和本草」抔に言ふ如く、野干は狐と別物にて、英語ジャッカル、梵名スリガーラ(すなわち悉伽羅)、又、ジャムブカ、亜剌伯[やぶちゃん注:「アラビア」。]名シャガール、希伯ゞ拉[やぶちゃん注:「ヘブリウ」。ヘブライ語。]名シュアル、是等より射干、又、野干と轉譯せしなるべく、博物新編等には豪狗と作り、モレンドルフ說に、漢名豺は此獸を指すと云ふ。此物、狡譎甚しき由、多く印度、亜剌伯等の書に見え、聖書に狐の奸智深きを言るも、實は野干を指すならんといふ。隨つて支那、日本に行はるゝ狐の諸譚中、野干の傳說を混入せる事、多し(昨年、大正三年「太陽」、拙文「虎に關する史話と傳說、民俗」第五節一六〇――一六一頁を見よ)。

[やぶちゃん注:最後の丸括弧内は底本と「選集」の記載をカップリングした。

「鹽尻」江戸中期の国学者で尾張藩士天野信景(さだかげ)による十八世紀初頭に成立した大冊(一千冊とも言われる)膨大な考証随筆。当該活字本の当該箇所が国立国会図書館デジタルコレクションのここで視認できる。左下段中央にある。

「陀祇尼天」同じく「だきにてん」と読む。

「琰麼羅」「えんもら」と読んでおくが、ネット検索でも、「大蔵経データベース」でもこの文字列を見出せない。似たような発音では、「陰魔羅鬼(おんもらき)」がいるが、これは食人鬼ではないので違う。「太平百物語卷五 四十二 西の京陰魔羅鬼の事」の本文と私の注を参照されたい。食人鬼ということであれば、私の「小泉八雲 “JIKININKI” 原文 及び やぶちゃんによる原注の訳及びそれへの補注」(サイト版)で八雲の注の拙訳で示した、「羅叉娑(ラシャシャ)」、所謂、バラモン教やヒンズー教で、専ら「人を惑わし食らう魔物」として描かれることが多い羅刹(らせつ)の族を指すか。

「噉食す」「くらひしよくす」。

「正流の密家」正統な密教系寺院。

「實者外相」「じつしやげさう」。実際に人間の目に見える外観。

「悉伽羅野干」「しつがらやかん」。ウィキの「野干」に、『野干(やかん)とは漢訳仏典に登場する野獣。射干(じゃかん、しゃかん、やかん)豻(がん、かん)、野犴(やかん:犴は野生の犬のような類の動物、キツネやジャッカルなども宛てられる)とも。狡猾な獣として描かれる。中国では狐に似た正体不明の獣とされるが、日本では狐の異名として用いられることが多い』とし、唐の「本草拾遺」に『よると、「仏経に野干あり。これは悪獣にして、青黄色で狗(いぬ)に似て、人を食らい、よく木に登る。」といわれ、宋の』「翻訳名義集」では、『「狐に似て、より形は小さく、群行・夜鳴すること狼の如し。」とされ』、「正字通』には『「豻、胡犬なり。狐に似て』、『黒く、よく』、『虎豹を食らい、猟人これを恐れる。」とある』。『元は梵語の「シュリガーラ」』『を語源とし、インド仏典を漢訳する際に「野干」と音訳されたものである。他に、悉伽羅、射干、夜干とも音訳された。この動物は元々』は『インドにおいてジャッカル(この名称も元は梵語に由来する。特にユーラシアに分布しているのはキンイロジャッカル)』(食肉目イヌ型亜目イヌ下目イヌ科イヌ属キンイロジャッカルCanis aureus 『を指していたが、中国にはそれが生息していなかったため、狐や貂(てん)、豺(ドール)との混同がみられ、日本においては主に狐そのものを指すようにな』ったとし、『なお、インド在来の狐についてはベンガルギツネ』(イヌ科キツネ属ベンガルギツネ Vulpes bengalensis )『が存在し』、『食性や生息環境が競合する』。『インドでジャッカルは尸林』(注『遺体を火葬したり、遺棄した林。放置されたり、焼け残った遺体は鳥獣の餌となった』とある)『を徘徊して供物を盗んだり、屍肉を喰う不吉な獣として知られていたため、カーリーやチャームンダー』『など、尸林に居住する女神の象徴となった。また、インド仏教においても』、『野干は閻魔七母天の眷属とされた』とある。明治四三(一九一〇)年には、『南方熊楠が、漢訳仏典の野干は梵語「スルガーラ」(英語「ジャッカル」・アラビア語「シャガール」)の音写である旨を、『東京人類学雑誌』に発表した』と記し、挿絵に南方熊楠の「十二支考」の虎パートにある「ジャッカル(野干)」の画が示されてある。『日本では当初、主に仏教や陰陽道など知識階級の間で狐の異名として使われた。平安初期の』「日本霊異記」の上巻第二の「狐爲妻令生子緣」には、『狐が人間の女に化けて男の妻となり、子供もできたが、正体がばれた』際、『男から「来つ寝よ」(きつねよ)と言われ』、『「キツネ」という名が出来たとする説話が収録されているが、そこでも』、『狐のことを文中で「野干」と記す例が確認出来る』とし、さらに「拾芥抄」には『「野干鳴吉凶」』『として』、『狐の鳴き声によって吉凶を占うことがらについても記されている。鎌倉時代の』「吾妻鏡」には、野干(狐)によって名刀の行方が知れなくなったこと」(建仁元(一二〇一)年五月十四日の条)が記されて『いたりするほか、江戸時代以後には』、『一般的にも書籍などを通じて「狐の異名」として野干という語は使用されて来た。その他、各地の民話でも狐の別名として野干が登場する』。「大和本草」などの『本草学の書物などでは』、『漢籍の説を引いて、「形小さく、尾は大なり。よく木に登る。狐は形大なり。」と、狐と野干は大きさが違うとされているので別の生物であるという説を載せている』。『また、日本の密教においては、閻魔天の眷属の女鬼・荼枳尼(だきに)が野干の化身であると解釈され』(☜/☞)、『平安時代以後、野干=狐にまたがる姿の荼枳尼天となる。この日本独特の荼枳尼天の解釈は』、『やがて豊饒や福徳をもたらすという利益の面や狐(野干)に乗っているという点から』(☜/☞)、『稲荷神と習合したり、天狗信仰と結び付いて飯綱権現や秋葉権現、狗賓』(くひん:天狗の一種とされ、狼の姿で、犬の口を持つとされる。当該ウィキによれば、この異類は『山岳信仰の土俗的な神に近』く、『天狗としての地位は最下位だが、それだけに人間の生活にとって身近な存在であり、特に山仕事をする人々は、山で木を切ったりするために狗賓と密接に交流し、狗賓の信頼を受けることが最も重要とされていた』とある)『などが誕生した』。『能では狐の精をあらわした能面を「野干」と呼んでおり』、「殺生石」・「小鍛冶」など、『狐が登場する曲で使用されている』。「殺生石」に『登場する狐の役名も「野干の精」などと表記される』とある。

「季世」末期。著者の時制から中世末から近世初期。

「大和本草」貝原益軒の同書の巻之十六の「獸類」の「射干」。「狐」とは別立てで、間にヒト型異類「猩々」を中に挟んでいる。国立国会図書館デジタルコレクションの原本から訓読(読みは推定で歴史的仮名遣で附した。一部で送り仮名を仮に入れた)して起こす。なお、「㩆」の字は(へん)が「彳」であるが、「漢籍リポジトリ」のこちらの原本の、[048-36b]の影印画像で修正した。

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射干 陳藏器曰はく、『佛經に曰はく、「射干・貂㩆(てんしう)、此れは是れ、惡獸にて、靑黃犬(せいわうけん)に似て、人を食ふ。能くに緣る。」。』と。「詩經大全」、安成劉氏が曰はく、『犴、一つ、「豻」と作(な)す。胡地の犬なり。』と。「字彙」、『豻は野犬に同じ。狐に似て小く、胡地に出づ。』と。今、按ずるに、國俗、「狐」を「野干」とす。「本艸」に、狐の別名、此證無し。然れば、射干と、狐と、異なり。

   *

この冒頭の陳藏器の言は無効である。何故なら、李時珍の「本草綱目」のこの部分は、巻十七下の「草之六【毒草類三十種】」の一項である「射干」の集解中に紛れ込んであるものであるが、この「射干」は総標題の通り、毒草であって、動物ではないからである。序でに言っておくと、寺島良安の「和漢三才図会」の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 狐(きつね) (キツネ)」でも「野干」を別獣としている。そこで良安は和名に注して、

   *

「和名抄」に、『狐は木豆禰、射干なり。關中に呼ぶに、野干と爲すは語の訛りなり。』と。蓋し、「野干」は別獸なり。

   *

とはっきり断じている。

「博物新編」清代にイギリス人宣教師で医師のベンジャミン・ホブソン(Benjamin Hobson:中国名「合信」 一八一六年~一八七三年)が漢文で著した博物学書。本邦では明治時代に翻刻本や訳解本が出版されている。彼はロンドン大学で学んだ後、宣教師となり一八三九年にマカオの澳門教会医院で働き、広州西郊に恵愛医館を開設し、宣教医として働きながら、医学書を執筆した。中国に初めて西洋解剖学を伝えた「全体新論」が有名。一八五六年十月に「第二次アヘン戦争」が起こると、上海に避難し、仁済医館で働いた。二十年間、中国で働いた後、帰国し、ロンドンで没した。彼の著作は、幕末から明治初期にかけて日本に伝わり、日本の近代医学に影響を与えた(当該ウィキに拠った)。

「モレンドルフ」ドイツの言語学者で外交官であったパウル・ゲオルク・フォン・メレンドルフ(Paul Georg von Möllendorff 一八四七年~一九〇一年)のことであろう。十九世紀後半に朝鮮の国王高宗の顧問を務め、また、中国学への貢献でも知られ、満州語のローマ字表記を考案したことでも知られる。朝鮮政府での任を去った後、嘗ての上海で就いていた中国海関(税関)の仕事に復し、南の条約港寧波の関税局長官となり、そこで没した。

「豺」音「はサイ」。漢語では広く「野良犬・野犬」を指す。狼は含まない。

「狡譎」ずる賢いこと。

「虎に關する史話と傳說、民俗」第五節一六〇――一六一頁を見よ)」所謂、「十二支考」シリーズの「虎」の一部で、大正三(一九一四)年五月発行の『太陽』の「(五)佛敎譚」の第二部「二〇ノ五」がそれ。新字新仮名であるが、「青空文庫」のこちらで読める。]

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 磬―鰐口―荼吉尼天 (その3)

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから(右ページ最終行)。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。注は各段落末に配した。彼の読点欠や読点連続には、流石にそろそろ生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、句読点を私が勝手に変更したり、入れたりする。今回は分割する。]

 

 同號八八九頁に長井君、「日本に稻荷の崇拜の起たのは何時からかは私は測定することは出來ぬが云々」と前置して、弘法大師、南支部の五羊の傳說を齎らしたる、其羊何時しか狐に換り、又何時よりか稻荷を荼吉尼天と混同せるが、荼吉尼は毫も狐に關係無し、と言れたり。フレザーの大著ゴルズン・バウに、羊、狐、兎、狼等を諸方の民が穀精(コーン・スピリツト)と見做す例を夥しく擧げ、論說せり。吾邦に穀精の信有りしや否は、予、これを斷ずる能はざれど、印度人が田作に有害なる獸類を除くを以て虎を有難がり、古支那で十二月蜡の祭りに、平日、田鼠、田豕を食う功に報ひんとて猫と虎を饗し、吾邦にも玉置山抔、狼を神使とし、祀り迎へて、兎、鹿を誅鋤するを求むる諸例より推して、白井光太郞博士(四年前十一月一日「日本及日本人」神社合祀は國家の深憂)が、「狐を神獸とし蛇を神蟲として殺さざるは、古人が有益動物を保護して田圃の有害動物を驅除する自然の妙用を知り、之を世人に勵行せしむる手段とせし者」なりと說かれたるを、正しと思ふ。乃ち、耕作の業、起つてより、吾邦には古く、狐、狼、蛇等を神物とする風ありしなり。

[やぶちゃん注:「長井君」「選集」割注によれば、東洋史学者長井金風(きんぷう 慶応四(一八六八)年~大正一五(一九二六)年)。秋田県大館生まれ。本名長井行(あきら)。金風は号。法制史から経学に進み、比較言語の学を修め、考証学によって支那学を専攻した。『秋田魁(さきがけ)新報』主筆発行人、『二六新』報主筆、秋田県史編纂主任などを務めた。東洋各地を歴遊し、教育者で評論家の巌本善治や、佐々木信綱・森鷗外らと交遊があった。著書に「江氏四種」「周易物語」、歌書「万葉評釈」、私家版歌集「枯葉集」「拓葉和歌集」などがある(日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠った)。

「南支部」(華南のこと)「の五羊の傳說」五羊(ウーヤン)伝説。当該ウィキによれば、『古代中国の広州市を発祥とする』、五『頭のヤギが稲作を伝えたとする伝説』。『「五羊」という表記は最古のものだと唐代の詩で確認されており、関連する伝説は晋にまで遡る。同伝説には幾つかの異聞があったが、明代以降に統一された。一般的なウーヤン伝説は、中原の祖先達によって開拓された嶺南の歴史を反映したものである』とし、『言い伝えでは、古代の広州に旱魃が長年続いた時期があった。食物が極度に不足し、人々は飢えをしのぐことにも窮していた。ある日』、『突然、空で聖なる音楽が奏でられ』、五『色の雲が南シナ海の空から漂ってきた。続いて異なる』五『色の服を着た』五『人の仙人が、異なる』五『色のヤギに乗って』、『その雲と一緒に現れ、それぞれが稲穂』六『本の束を持っていた。仙人達は稲穂を民衆に与え』、『頭のヤギを残して雲で飛び去っ』『ていった。人々がその稲を地面に撒くと、それ以降は広州に風と雨が定期的にやってきて豊作をもたらしてくれた。すると仙人の残したヤギ』五『頭は、丘の上に登るや』、『石になってしまった。これが広州市の愛称の由来となった話である』。『この伝説の叙述記録は晋王朝まで遡ることができ、裴淵』(はいえん)『の随筆』「広州記」に『見られる。北宋の太平興国』八(九八三)年の「太平御覧」もまた、「広州記」の『引用から「広州庁舎にはヤギ」五『頭の絵がある。これは高固』(後の威王(在位:紀元前三三九年~紀元前三二九年)『が楚の大臣だった頃に』五『頭のヤギが穀物を携えてやって来たことから、広大な平野を持つ広州にとっての縁起物として、人々がそのヤギを描いたものだ」と言及している。また唐代の』「郡国志」にも『「三国時代後期の広州に仙人』五『人が』五『色のヤギに乗ってやって来たので、幸運を呼ぶとして今では人々がその絵を描いている」との言及がある』北宋の九八四『年に書かれた』「太平寰宇記」(たいへいかんうき)は、唐代の「続南越志」記述に続いて』、「仙人五人が五色のヤギと稲六粒を』『携えてやって来たとの古い言い伝えがある」と言及している』。『着目すべきは、最も古い晋代の話では仙人たちが出てこない点である。彼らが後世の話で登場して』五『頭のヤギに代わって(民衆に稲を渡す)英雄になった理由は、南北朝時代に道教が盛んになったためだと考えられている』。『唐代以降に「五羊」「羊城」が徐々に古代広州市の愛称となったことからも、同伝説が現地の人々に与えた影響の大きさが見て取れる。唐代の奇譚じみた伝説によると、その当時人々は広州にあった城隍廟でヤギ』五『頭を生贄に捧げていた』というが、『最も古い同様の慣習が南漢にあり、当時の人々が仙人達を祀るために「五仙観」という施設(道観)を建てた。北宋の経略使の張励は』「広州重修五仙祠記」に『ウーヤン伝説をくまなく記録し、五仙観建造の目的が仙人』五『人が到着した場所を記憶に残すためだと説明した。この記録書で、張励は』「南越嶺表遊記」や「図経」を『引用しつつ、以下のように物語を詳細に創作した。「初めから仙人は』五『人おり、それぞれが茎』六『本の稲穂を持ち』、五『頭のヤギに乗って到着した。彼らの服とヤギはどれも違う色で、全部合わせて』五『色だった。人々に稲穂を渡した後、仙人達は飛び去り、ヤギは石像になった。そこで、広州の人達は仙人達が到着した場所に寺院を建てたのである」』と。『伝説の具体的年代に関しては、書物によって様々で』、「太平御覧」では二つの『説を挙げており、楚の時代および三国時代に呉の滕脩が広州の役人に就いた時とされる』。「重修五仙祀記」では三つの』説があり、漢代の趙佗』(在位:紀元前二〇三年~紀元前一三七年)時代と、三国時代の呉の滕脩』(とうしゅう ?~二八八年)の『時代』と、『晋代の郭璞』(二七六年~三二四年:西晋・東晋の文学者・博物学者にして卜占者)『が城を移した時代』が挙げられている。『ところが』、明末清初に『屈大均が著した』「広東新語」は、この物語が周の夷王』(在位:紀元前八八五年~紀元前八七八年)『の時代に起きたと語っている。同書籍にある「五羊石」という話では「周の夷王の時代、南方の海に』五『人の仙人がおり、それぞれが色の異なる服を着て、彼らのヤギもまた服に応じた色である。それぞれ彼らは』六『本の茎を束ねた稲穂を持って現れ、人々にそれを預けて「この地に二度と飢餓が起こらないように」と祈願した。これを言い終えると』、『彼らは飛び去り、ヤギは石へと変わった」と書かれている』。『この話は現代のものと非常に似ており、伝説の重要な要素が全て含まれている』。二十『世紀以降に、「ウーヤン伝説」の神話学研究が行われるようになった。歴史家の岑仲勉は』、一九四八『年、関連する伝説上の話が先史の植民神話にあるという説を提示した。なぜなら、当時のヤギは中原の北西部にいる家畜で、広州がそこの北部だからである。また、仙人達が持っている稲穂は中原でのコメの収穫を表』わ『すものだった。そのため、ウーヤン伝説の歴史的起源は歴史的な出来事が由来とされている。西周の末期、姫姓の一族は楚の人々の抑圧に耐えきれず、彼らは家畜(ヤギ)と穀物(稲穂)を携えて、湘江沿いに嶺南まで南に移動し、その翌年に中国南部でこの』二『つを普及させた。つまりこれは、粤』(えつ:「越」とも書く。中国南部、現在の浙江省以南からベトナム北部にかけて居住しいた南方系民族及びその国を指す)『の人々が中原の先進文化を受け入れて文明の第一歩を踏み出した話の抜粋および改作だという』。『現代研究では、ウーヤン伝説には一般的に多くの史実が含まれていると考えられている。その一つが、楚の人々が生産していた米を嶺南に持ち込んだ点である。楚王朝の祖先一族の姓である「羋(Mi)」には、ヤギの鳴き声を表す擬声語「咩(Mie)」と同じ意味あいがある。二つ目は、西周の末期に楚の抑圧が原因で、姫姓一族がヤギと穀物を携えて』、『広州や珠江デルタに移住した点である。三つ目は』「広州記」の『一節「高固が威王だった頃」に由来するもので、戦国時代には高固とその一族が米と穀物を広州や珠江デルタに持ち込んだと人々は考えていた。高固の子孫の姓は「姜(Jiang)」で、これは漢字の「羊(中国語でヤギ)」と「女」で成り立っていたため、人々は高固一族の事を表すのに「羊」の文字を使っていた』ことなどが、『これらの歴史背景があるという』。但し、『楚の方言だと』、『「羊(Yang)」は実際には「犬(Quan)」を意味するため、ウーヤン伝説は実際のところ』、『チワン族やトン族ならびに南越国の少数民族で共有されていた「犬取稲種」という農耕神話の故事が由来だと考える学者もいる。この嶺南地方の故事が楚に持ち込まれた後、それが中原の知識人によって収集および改訂され、再び嶺南に持ち込まれた。だから「五色羊」というヤギは、実際には』、『色の毛を持つ伝説の犬「槃瓠」の事だとする説がある』とある。以下「関連した事物」の項があるが、省略する。

「フレザーの大著ゴルズン・バウ」ギリスの社会人類学者ジェームズ・ジョージ・フレイザー(James George Frazer 一八五四年~一九四一年)が一八九〇年から一九三六年の四十年以上、まさに半生を費やした全十三巻から成る大著で、原始宗教や儀礼・神話・習慣などを比較研究した「金枝篇」( The Golden Bough )。私の愛読書の一つである。当該部は「第四十八章 動物としての穀物霊」の「一 穀物の動物化身」以下(一九六七年改版岩波文庫刊「金枝篇」(三)永橋卓介訳の二四〇ページ以下に拠った)。

「十二月蜡の祭り」「蜡」は「蠟」の異体字で、旧暦十二月は「蠟月」と呼ぶが、調べてみると、「蜡」とは、中国古代にあっては、「求め集めること」を意味し、ここでは、毎年十二月に万物の霊を呼び集めて饗応する祭儀を指すようである。

「田鼠」モグラ。

「田豕」ここでは猪(イノシシ)の意。

「玉置山」(たまきさん)現在の奈良県吉野郡十津川村にある、大峰山系の霊山の一つである玉置山の山頂直下の九合目にある玉置神社(グーグル・マップ・データ)、或いは、習合していた修験道の進行対象としての玉置山そのもの。この周辺には狼信仰があったことが、oinuwolf氏のブログ「狼や犬の、お姿を見たり聞いたり探したりの訪問記―主においぬ様信仰―」で判る。

「誅鋤」(ちゆうじよ)は「有害対象物や悪人などを殺して絶滅すること」の意。

「白井光太郞」(みつたろう 文久三(一八六三)年~昭和七(一九三二)年)は植物学者・菌類学者。「南方熊楠 履歴書(その43) 催淫紫稍花追記」の私の注を参照。熊楠は神社合祀の反対運動のために彼に協力を求め、白井はそれに応じていた。]

記事更新再開

読書終了、水道工事の目途がついたので、更新を再開する。

2022/08/29

記事無記載延長

父の家の家屋内の水道線断裂により記事無記載を延長する。再開は不明。

2022/08/27

読書のため更新を一時中断する

久々に、じっくりと読みたい本があるので、記事更新を、一時、中断する。

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 磬―鰐口―荼吉尼天 (その2)

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから(右ページ四行目)。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。注は各段落末に配した。彼の読点欠や読点連続には、流石にそろそろ生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、句読点を私が勝手に変更したり、入れたりする。今回は分割する。]

 

 考古學雜誌五卷十二號八五五頁に、沼田君、和漢三才圖會に鰐口の名の起りを、裂口形似鰐首故名之乎と云るは、慥に當を得て居ると思ふと述らる。山口素絢の狂畫苑卷下に、土佐大藏少輔藤原行秀筆百鬼夜行の圖を出せる其第七葉表に、鰐口を首とし兩脚龍腹魚體魚尾を具えたる怪物有り。鰐口の眞中に一眼有り、兩耳を耳とし、裂口より舌長く出して這行く態なり。藤貞幹の好古小錄上に、百鬼夜行圖一卷畫光重とあるは此圖と同物にや。予一向不案内の事乍ら、百鬼夜行の圖は足利氏の代に成りし由、骨董集等に載せ有りしと記憶す。狂畫苑に寫し出す所ろ、其眞筆に違はずば、彼圖は、足利氏の世、既に此種の鉦鼓を鰐口と通稱せるを證し、兼て和漢三才圖會に先つて、裂口形似鰐首故名之と其義を辯ぜる者と謂べし。

[やぶちゃん注:「沼田君」「選集」によれば、沼田頼輔(よりすけ/らいすけ 慶応三(一八六七)年~昭和九(一九三四)年)で、歴史学者・紋章学者。相模国愛甲郡宮ヶ瀬村(現在の神奈川県愛甲郡清川村)生まれで元の姓は山本。理科大学簡易科第二部を修了し、教師・校長を歴任、明治四四(一九一一)年には旧土佐藩山内家史編纂所主任となった。考古学会副会長・人類学会と集古会の幹事を務めた。より詳しい事績は参照した当該ウィキを見られたい。

「和漢三才圖會に鰐口の名の起りを、裂口形似鰐首故名之乎と云る」事前に『「和漢三才圖會」卷第十九「神祭」の内の「鰐口」』を電子化注しておいたので参照されたい。

「山口素絢の狂畫苑卷下」「山口素絢」(そけん 宝暦九(一七五九)年~文政元(一八一八)年)は円山(まるやま)派の絵師で円山応挙の直弟子であるが、これは恐ら熊楠の誤りで、酷似した号「素絢斎」を用いた絵師鈴木鄰松(りんしょう 享保一七(一七三二)年~享和三(一八〇三)年)である。に木挽町家狩野派六代目絵師の狩野典信(みちのぶ)の門人。江戸の人で与力であったとされる。「狂畫苑」は明和七(一七七〇)年刊の絵本で、狩野探幽らの粉本を集成したもの。全三巻。「ARC古典籍ポータルデータベース」のこちらの図が熊楠が言う当該図。以下に示す「⽴命館⼤学アート・リサーチセンター」の所蔵画像である(許可有り)。

 

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「土佐大藏少輔」(とさのおほくらせういう)「藤原行秀」(生没年不詳)は室町前期の土佐派の絵師。土佐家系図には土佐行広の兄弟ともされるが、未詳。京洛の丸太町通り春日に居住したため、「春日行秀」とも称した。修理亮に任官し、宮廷の絵所預(えどころあずかり)を務めた。記録では、後崇光院の命による「牛板絵」(応永三一(一四二四)年)があり、現存作には醍醐寺蔵の称光帝御世始三壇法の本尊「普賢延命像」(応永二〇(一四一三)頃か)・清凉寺「融通念仏縁起絵巻」(応永二四(一四一七)年頃)の一部がある。鎌倉期の謹直な「やまと絵」手法の上に、南北朝期の奇矯な形態表現などを加え、室町期の「やまと絵」特徴的なの明度の高い色調の穏雅な作風を持っている。事績・作品ともに少ないが、土佐行広と並び、室町期「やまと絵」様式の確立と、土佐派の画壇における覇権確立に重要な役割を担ったと人物と推定されている(「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。彼の「百鬼夜行」(ひやくきやぎやう)「の圖」は、東大所蔵の土佐行秀の原画を蔭山広迢が摸写した彩色画の当該箇所が、「国文学研究資料館」の「電子資料館」のこちらで見られる。但し、先の模写も、こちらの彩色模写も鰐口の中央にあるのは「一眼」ではなく、金属製の蓮の葉様の飾り花である。以下に示す(パブリック・ドメインで許可有り)。絵巻全部を見、画像のダウン・ロードをしたい場合は、こちらで可能である。

 

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「這行く」「選集」は『這い行(ある)く』とするが、私は「はひありく」と読みたい。

「藤貞幹の好古小錄」藤貞幹(とう ていかん 享保一七(一七三二)年~寛政九(一七九七)年)は考証学者。京の僧家の出身。十八歳で還俗した。儒学・国学・有職故実に精通し、特に各地の金石文・古文書などを実地に研究。「衝口発」(しょうこうはつ)・「古瓦譜」(こがふ)」などを著わした。本姓は藤原。号は無仏斎・好古。「好古小錄」は考古書で寛政六(一七九四)年の序があり、京で板行されたもの。国立国会図書館デジタルコレクションの同板本のここに、『五十七百鬼夜行圖【一巻𤲿光重】』とあるのを指す。「光重」は土佐光重 (生没年未詳)は南北朝時代の画家。土佐行光の子。明徳元/元中七(一三九〇)年に絵所預となる。「畠山記」によると、その前年、父とともに、河内守護畠山基国の求めにより、八尾・飯盛・竜泉の城を描いている。正五位下・越前守(講談社デジタル版「日本人名大辞典+Plus」に拠った)。国立国会図書館デジタルコレクションのここで原本の写本(彩色)があり、構図は概ね同一である。以下に最大画像で示す(パブリック・ドメイン)。

 

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「骨董集等に載せ有りし」「骨董集」は岩瀬醒(さむる:戯作者山東京伝の本名)の随筆。大田南畝序。全三巻四冊。文化一一(一八一四)年から翌年にかけて刊行された考証物。江戸の風俗・服飾・器具・飲食等の起源や沿革を考証したもので、図解が多い。寛政改革の出版取締令による手鎖五〇日の刑に処せられて以後、京伝は洒落本の筆を断ち、考証随筆に精力を注いだ。「近世奇跡考」に次ぐものが本書であるが、著者の逝去により、上編のみで未完である(平凡社「百科事典マイペディア」に拠った)。【二〇二二年八月二十九日改稿・追記】所持する吉川弘文館随筆大成版で発見した。本文ばかり読んでいて、図を見なかった。「上之巻」の「竹馬」の項の図と、そのキャプションが相当する(吉川弘文館随筆大成版では画像のみ)。国立国会図書館デジタルコレクションでは、「竹馬」の項はここからで、当該図はここにある。国立国会図書館デジタルコレクションの画像は補正しても、地が焼けていて不満足なので、吉川弘文館随筆大成版のそれをトリミング補正して、以下に示し、電子化する。太字は原本では囲み字。句読点を打った。

 

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   * 

狂畫苑【安永四年印本。】に百鬼夜行(ひやくきやぎやう)の古画(こぐわ)を縮(しゆく)し、出(いだ)せり。其うちに此(この)啚(づ)あり。戯画(けぐわ)なれども、當時(そのとき)の竹馬(たけうま)のさまをみる便(たより)にはすべし。好古小録本朝畫史を合考(あはせかんがふ)るに、今、こゝに、文化十年より、およそ四百二十餘年(よねん)の昔(むかし)なり。駒(こま)の頭(かしら)の形につくる竹馬もふるくありし物(もの)なるべし。 

百鬼夜行(ひやくきやぎやう)は、すべて、戯画(けぐわ)の怪物(かいぶつ)、多ければ、竹馬に足をかきたるなどは、そらごとなるべし。唯(たゞ)、そのおほむねを、みんのみ。

    *

絵図のそれは鰐口の付喪神(つくもがみ)というより、俵のそれのように私には見える。「狂畫苑【安永四年印本。】」尾張藩士で喜多川歌麿に師事した絵師でもあった牧(月光亭)墨僊(安永四(一七七五)年~文政七(一八二四)年)の作品。「ARC古典籍ポータルデータベース」のこちらで、原画像を視認出来る。先と同じく、無許可で使用が可能であることが判ったので、以下に示す。「⽴命館⼤学アート・リサーチセンター」の所蔵画像である。

 

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「本朝畫史」狩野派の江戸前期の絵師狩野永納(えいのう)によって延宝六(一六七九)年に開板された日本画人伝。日本絵画史の基礎資料の一つとされる。「文化十年」一八一三年。「およそ四百二十餘年(よねん)の昔」単純に文化十年から「四百二十」年前としても、明徳四(一三九三)年で、室町時代の足利義満の治世である。

「違はずば」「たがはずば」。

「彼圖」「かのづ」。]

2022/08/26

「和漢三才圖會」卷第十九「神祭」の内の「鰐口」

 

[やぶちゃん注:〔→○○〕は、表字・訓読が不完全で私がより良いと思う表字・訓読、或いは送り仮名が全くないのを補填したものを指す。]

 

Waniguti

わにくち  俗云和尒久和

鰐口

△按鰐口以鐵鑄之形圓扁而半裂如鰐吻懸之社頭従

 上垂下布繩【長六七尺】俗名鉦緒而參詣人必先取繩敲其

 鐵靣未知其㨿恐是好事者本於鉦鼓而欲令異其音

 裂口形偶似鰐首故名之乎

   *

わにくち  俗に云ふ、「和尒久和〔→知〕(わにくち)」。

鰐口

△按ずるに、鰐口は鐵を以つて之れを鑄る。形、圓(まどか)にして、扁(ひらた)く、半(なかば)は、裂けて、鰐〔の〕吻(くち)のごとし。之れを社頭に懸けて、上より垂(たら)し、布繩を下(おろ)し【長さ、六、七尺。】、俗に「鉦の緒(を)」と名づく。而〔して〕、參詣人、必ず、先(ま)づ、繩を取りて、其の鐵靣(てつめん)を敲(たた)く。未だ其の㨿(よるところ)を知らず。恐らくは、是れ、好事(こうず〔→かうず〕)の者、鉦鼓(しやうこ)に本(もとづき)て、其の音を異ならしめんと欲し、口を裂く形、偶(たまたま)、鰐の首(かしら)に似たり故に、之れを名づくか。

 

[やぶちゃん注:当該ウィキによれば、『鰐口(わにぐち)とは仏堂の正面軒先に吊り下げられた仏具の一種で』、『神社の社殿で使われることもある。金口』・『金鼓とも呼ばれ』、『「鰐口」の初見は』正応六(一二九三)年の銘を持つ『宮城県柴田郡大河原町にある大高山神社のもの(東京国立博物館所蔵)』。『金属製梵音具の一種で、鋳銅や鋳鉄製のものが多い。鐘鼓を』二つ『合わせた形状で、鈴(すず)を扁平にしたような形をしている。上部に上から吊るすための耳状の取手が』二つ『あり、下側半分の縁に沿って細い開口部がある。金の緒と呼ばれる布施があり、これで鼓面を打』って、『誓願成就を祈念した。鼓面中央は撞座と呼ばれ』、『圏線によって内側から撞座区、内区、外区に区分される』。『現存する最古のものは、長野県松本市宮渕出土の』長保三(一〇〇一)年の銘の『もの』とある(最古のそれは東京国立博物館蔵で画像がある)。]

曲亭馬琴「兎園小説余禄」 筑後稻荷(とうか)山の石炭

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。句読点は現在の読者に判り易いように、底本には従わず、自由に打った。鍵括弧や「・」も私が挿入して読みやすくした。一部を読み易くするために《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。]

 

   ○筑後稻荷(とうか)山の石炭

西原老人與關生書中云《にしはららうじん、せきせいにあたふるしよちゆうに、いはく》、『黑崎よりの道は、深浦・深谷・手鎌・橫洲・大ぬた・すは・かなう・早米、磯にて御座候。此出先は「四ツ山」に御座候。是より、大ぬた迄、歸り、三池に入《いり》、「とうか(稻荷)山」と申《まをす》所より、石炭を出し申候。燒かへ申[やぶちゃん注:底本にはママ注記がある。]燒たて候間、近きつもりにて、登りかゝり候處、甚《はなはだ》遠く御座候。行なやみ候へ共、馬の足跡をしるべに登り申候處、石炭をほり候穴を「まぶ」と申候。今日は朔日故、休みにて、穴の内、暗く、入《いり》がたく候よしに付、番人をたのみ、松明《たいまつ》にて二十間ほど入り申候。去《さる》冬も、三人、石にうたれ死候由、危き事に御座候。穴の内は、外と、ちがひ、甚、冷氣にて、汗を入申候。其石を掘り候もの、每日百人餘づゝ穴に入申候。二、三間に燈火をてらし申候。鍬と鶴の觜《はし》にて、外《ほか》におもしろき道具は無ㇾ之。燈火も、かわらけにて御座候。山間に、二、三間四方程に、かりに屋根を拵へ、一尺ほど、生石《しやうせき》を敷並《しきなら》べ、火を入候て、其《それ》、宜《よく》燒《やき》候時、灰をかけ候へば、かたまり候よし、勘解由《かげゆ》の領分、草野と中山よりも出候』云々【解、云、「石炭は余るも、二、三種、藏弃《ざうきよ》す。その圖、「耽奇漫錄」にあり。合せ見るべし。】

[やぶちゃん注:「西原老人」「關生」柳河藩藩士西原好和と書家関其寧(きねい)。先のこちらの注を参照。

「黑崎」現在の福岡県北九州市八幡西区黒崎(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。北九州市の副都心に位置付けられており、江戸時代は長崎街道の宿場町として栄えた。

「深浦」「深谷」孰れも不詳。「今昔マップ」で戦前の地図を見ると、福岡県北九州市八幡西区野面附近に「深田」「山浦」の地名が見出せる。

「手鎌」福岡県大牟田市手鎌

「橫洲」不詳。

「大ぬた」福岡県大牟田市があるが、ここでは柳川を通り越してしまう。

「すは」福岡県久留米市諏訪野町(すわのまち)なら、ある。

「かなう」福岡県福岡市西区今宿上ノ原に叶嶽(かのうだけ)がある。

「早米」福岡県大牟田市早米来町(ぞうめきまち)なら、あるが、ここも柳川の先である。但し、古くはここは「磯」であったと推定される。一言言っておくと、西原はずっと江戸住まいで、実際には九州の地名には弱いのではないかと思われ、或いは、以上の幾つかの表記も怪しい気がしている。

「四ツ山」熊本県荒尾市四ツ山町(よつやままち)は前の早米来町の直近であり、ここは東北直近に「三池炭鉱宮原坑」の跡があるから、どうも、西原は素直に蟄居を受け入れて、おとなしく帰藩していないのではないかと思われ始めた。蟄居する前に存分に周辺を遊山したくなる気持ちは判る。しかし、藩では、相当、ヤキモキしていただろうな。

「とうか(稻荷)山」サイト「大牟田・荒尾の歴史遺産」の「江戸時代の三池炭鉱 1.三池炭山の発見」に、『三池で初めて石炭が発見されたのは、文明元』(一四六九)年一月十五日の『こととされている。伝承によると、三池郡稲荷村(とうかむら)の農夫である伝治左衛門』『夫婦が、薪を拾いに出かけた稲荷山(とうかやま)において、焚き火をしている折に石炭を発見したという。この伝承が正しければ、国内で最も早く石炭が発見されたのは三池の地ということになる』。但し、『この話が採録された最も古い文献でも安政』六(一八五九)『年のものにすぎ』ず、『そのため』、『この伝治左衛門による石炭発見の伝承がどの程度』、『事実を伝えているものなのか分からない』とあった。以下、この「稲荷山(とうかやま)」の考証が行われているが、一筋縄ではいかない問題のようである。ともかくも、その最終的な推定では、大牟田市のこの辺りの広域が旧稲荷山(グーグル・マップ・データ航空写真)であったらしい

『石炭をほり候穴を「まぶ」と申候』小学館「大辞泉」に出、漢字表記は「間府・間分・間歩」とし、『鉱山で、鉱石を取るために掘った穴。坑道』とあった。石炭に限らず、金属の鉱山の坑を言うようである。因みに、今に「マブダチ」(本当の親友)の意の語があるが、これは実は、この坑道の意から出たものだ、という説がサイト「雑学ネタ帳」の『「マブダチ」の語源・由来』に載っていた。それによれば、『「間歩」というのは「鉱山の坑道」(トンネル)を表す言葉だった。なぜ「トンネル」が「本物」という意味に変わったのか』というと、『盗賊たちの間では「金脈に通じる」ことから、「本物である」「良いものである」という意味に変化していった。江戸時代の盗賊にとって鉱山のトンネルは本物の金や銀が』ウマウマと『盗める場所だった』。そこから、『「本物」という意味だけが残り、現在の「マブ」になったと考えられている』『そして「マブ」に「友達」を意味する「ダチ」が付けられ、「マブダチ」という言葉が生まれた』とある一方、『一説によると「マブ」は、祭りや縁日などに露店を営む的屋が使っていた隠語だったという情報もある』とある。私は微妙に留保したい気がしている。

「今日は朔日故、休みにて」流石に重労働で過酷にして危険であったから、月の一日には全休となっていたらしい。

「二十間」三十六・三六メートル。

「汗を入」「汗がひく」の謂いであろう。

「二、三間」三・七~五・四五メートル。

「鶴の觜」鶴嘴(つるはし)。

「生石」掘り出した原石の石炭。

「勘解由」江戸幕府の勘定方の異称。

「草野」旧常磐炭田の福島県いわき市内の草野地区か。

「中山」山形県新庄市鳥越にあった中山炭鉱。

「藏弃」整理しないで、所蔵していること。

『「耽奇漫錄」にあり。合せ見るべし』国立国会図書館デジタルコレクションのこの「花炭」か。『豊後國臼杵の産』とある。]

曲亭馬琴「兎園小説余禄」 樂翁老侯案山子の賛

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。

 標題を含め、底本ではただ三行(吉川弘文館随筆大成版では二行)で「兎園小説」中、最も短い記事である。初行の読点は除去して、最初のそれは空欄とした。

 「樂翁」は「寛政の改革」を断行した老中松平定信(宝暦八(一七五九)年~文政一二(一八二九)年)の号。]

 

   ○樂翁老侯案山子の賛

 矢引たるは勇なり はなさゞるは仁なり

  智のひとつかけてをかしきかゞしかな

 

曲亭馬琴「兎園小説余禄」 熱田宮裁讃橋(「裁讃橋」は「裁斷橋」の誤り)

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。

 標題中の「裁讃橋」は吉川弘文館随筆大成版でも同じであるが、これは「裁斷橋」の誤りである。但し、この橋は現存しない。ここにあった(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「裁断橋」によれば、この『橋は宮宿の東の外れを流れていた精進川に架けられていた橋だが、擬宝珠に彫られていた銘文でその名を知られていた』。永正六(一五〇九)年の「熱田講式」には『既にその名が見られるという』とあり、『擬宝珠の銘文には、天正』一八(一五九〇)年の『小田原征伐で死去した堀尾金助という』十八『歳の男性の菩提を弔うべく、その母親が』三十三『回忌に息子を最後に見送った橋の架け替えを行ない、その供養としたことが記されている』。『伝承によっては、母親は橋を』二度、『かけ直しているとするものもある。息子の』三十三『回忌の橋の架け替えは』二『度目のことであったが、それを見ること無く亡くなったため、その養子堀尾類右衛門』が元和八(一六二二)年に『架け替えたとされ、この際に「息子(金助)の供養のためにこの書き付けを見る人は念仏を唱えてほしい」との母の願いが擬宝珠に刻まれたとされる』。『しかし、擬宝珠以外にこれらの伝承を裏付ける同時代史料が存在しないことから、擬宝珠に刻まれている内容以上のことは後世の創作とする見方もある』。ともかくも、『この銘文は日本女性三名文』(後の二つは「成尋阿闍梨母(じょうじんあじゃりのはは)の集」(成尋阿闍梨母(永延二(九八八)年?~?)は平安中期の女流歌人。陸奥守藤原実方の子貞叙に嫁し、僧成尋・成尊(せいそん)の二子を生んだ。夫とは早くして死別した。家集「成尋阿闍梨母集」は宋へ渡る子の成尋を思う母親の心情を詠んだものとして、古来、有名。この歌集は日記的なもので、延久五(一〇七三)年五月で終わっていることから、これ以降に没した推定される)と「ジャガタラ文(ぶみ)のお春の消息」(「お春」(寛永二(一六二五)年~一六九七(元禄一〇)年)は江戸初期に長崎に在住し、後にバタヴィア(ジャカルタ)へ追放されたイタリア人男性と日本人女性の混血女性。ジャカルタから日本へと宛てたとされる手紙が「ジャガタラ文」)と注にある)『のひとつにかぞえられている』とあり、本篇に出る銘文も載っている。また、ウィキの「堀尾金助」によれば、『安土桃山時代の武士』で、天正元(一五七三)年出生で、『堀尾吉晴』(後で注する)『の子、若しくは堀尾方泰の子とされるが』、『続柄には異説がある』。天正十八年の『豊臣秀吉の小田原征伐に吉晴と共に参戦したが』、六月十二日に『陣中で死去した。享年』十八で、『死因については病死説と戦死説があり、前者が有力とされるが、信頼に足る記録はなく未詳。弟の忠氏が吉晴の継嗣となった』。『吉晴が菩提を弔うため』、『妙心寺塔頭に俊巖院を建立する。寺名は金助の戒名「逸岩世俊禅定門」による』。『金助については、熱田の裁断橋を架け替えた際に付けられた金助実母の文である擬宝珠銘文にその名が見える』としつつ、以下、「出自と死因」の項では、『諸書の記述によって』、『吉晴との続柄が違う。どの説も決定的なものは無く、金助母の続柄も変わる』として、五つもの説が示されてある。馬琴は結果して、堀尾吉晴の実子説を採用している。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。句読点は現在の読者に判り易いように、底本には従わず、自由に打った。鍵括弧や「・」も私が挿入して読みやすくした。踊り字「〱」「〲」は正字化した。一部を読み易くするために《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。

 銘文二種は底本では、孰れも上・下段に分離してしまっているが、トリミングして合成し、補正を加えて掲げた。

 

   ○熱田宮裁讃橋

文政乙酉の首夏《しゆか》、西原梭江《ひこう》、筑後柳川へ移住の後、通家[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版にはここにママ注記があるが、これは「つうけ」と読み、ここは「昔から親しく交わってきた家」の意で問題ない。]關《せき》氏へ消息の文中に、熱田の宮「裁讃橋」の銘を寫しておこしたりしを、その婿《むこ》關思亮《しりやう》に借《かり》、抄す。

[やぶちゃん注:「文政乙酉」文政八(一八二五)年。

「首夏」初夏、或いは、陰暦四月の異称。

「西原梭江」「兎園会」会員の一人であった松蘿館こと柳河藩藩士西原好和、或いは、一甫(いっぽ 宝暦一〇(一七六〇)年~天保一五(一八四四)年)。幼少より、江戸で生活し、定府藩士として留守居や小姓頭格用人などを勤めたが、江戸に馴れ過ぎたせいか、幕府から「風聞宜しからず」として、国元筑紫への蟄居の譴責を受け、この文政八年四月に江戸を退去させられている。「兎園小説」冒頭の大槻氏の序の解説を参照。その「都落ち」での一コマということになるのである。恐らくは、彼の「兎園会」、引いては馴染んだ江戸への惜別の贈り物のつもりででもあったのであろうと思われる。

「關氏」書家關其寧(きねい)。

「關思亮」(しりょう 寛政八(一七九六)年~文政一三(一八三〇)年)の前の「婿」は「孫」の誤り。「兎園会」会員で海棠庵で頻出。三代に亙る書家。其寧の孫で、克明(こくめい)の子。常陸土浦藩士。父に学び、藩の右筆手伝などを務めた。書法や金石学などに通じ、父の「行書類纂」の編集を助けた。]

梭江云、『四月廿四日』云々、『宮宿《みやのしゆく》に投宿仕候。宮の宿の入口に橋御座候。この橋の擬寶珠《ぎぼし/ぎぼうしゆ》に何か銘御座候間、すり申度《まをしたく》、駕《かご》より下り申候。文字も、よくわかり申候。誰朽[やぶちゃん注:底本・吉川弘文館随筆大成版孰れもママ注記がある。「擬寳珠」の誤記か。]珠、四所に御座候。東南の柱に「裁讃橋」[やぶちゃん注:くどいが、「裁斷橋」の誤り。以下総て同じ。]とあり。その外は「裁談橋」[やぶちゃん注:これは事実。]とあり。西北の柱には六月十八日とあり。其外は六月十二日とあり。西南の柱ばかり、假名なり。銘、左の如し。

[やぶちゃん注:「宮宿」、東海道五十三次四十一番目の宿場町。東海道でも最大の宿場で、愛知県名古屋市熱田区の熱田神宮の南表の、この附近に当たる。

 以下は底本では御覧の通り、全体が罫線で囲まれてある。電子化では、本文と関好和の附記はそれぞれ繋げた。]

 

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熱田宮裁讃橋

右檀那意趣者、堀尾金助公、去天正十八年六月十二日、於相州小田原陣中逝去。其法號「逸岩世俊禪定門」也。慈母哀憐餘修造也。此橋以充卅三年忌、普同供養之儀矣。

 好和、按《あんずる》に、天正十八年より三十三年は、元和八戌年に當るか。

[やぶちゃん注:訓読する。

   *

右(みぎ)檀那の意趣は、堀尾金助《ほりをきんすけ》公、去《いんぬ》る天正十八年六月十二日、相州小田原陣中に於て逝去す。其の法號は「逸岩世俊禪定門(いつぐわんせいしゆんぜんぢやうもん)」なり。慈母、哀憐の餘り、修造せり。此の橋、以つて、三十三年忌に充てて、普(あまね)く供養の儀を同じうせり。

   *]

 

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てんしやう十八ねん二月、十八日に、をだはらの御ぢん、「ほりをきん助」と申《まをす》十八になりたる子を、たゝせてより、又、ふためとも見ざるかなしさのあまりに、いま、このはしをかける事、はゝの身には、ゑんるいともなり、そくしんじやうぶつ、し給へ。いつがんせいしゆんと、後のよの、又、のちまで、此かきつけを見る人は、念佛申《まをし》給へや。卅三のくやう也。

[やぶちゃん注:「ゑんるい」「緣類」(仏縁の類(たぐ)い)か。それだと、歴史的仮名遣は「えんるゐ」である。或いは「緣累」(仏縁を累(かさね)ること)ならば、「えんるい」でよい。

「いつがんせいしゆん」意味不明。或いは「一願成就」の読みの誤りか?

「くやう」「供養」。]

 

解《とく》、按《あんずる》に、堀尾帶刀《たてはき》先生吉晴、天正十八年の秋、遠江州濱松の城を賜ふて居ㇾ之《これにをり》。かくて、慶長五年の春二月、豐臣家の仰《おほせ》として、越前の府の城に移り、關ケ原の役《えき》、果て、出雲・隱岐二州を下されて、廿三萬五千石餘を領したりしに、吉晴の孫山城守忠晴、寬永十九年九月廿日、三十五歲にて卒《そつ》しぬ。子なければ、家、絕《たえ》たり。吉晴の内室、領分にもあらぬ尾州宮驛《みやのえき》の橋をかけ給ひしは、故《ゆゑ》あらん。なほ、考ふべし。

解、云《いはく》、この「裁讃橋の銘」は、「東海道名所記」をはじめとして、近ごろの印本「東海道名所圖繪」にも漏《もら》したれば、人の知ること、稀なりしを、抑りべ人、とー來、好事《かうず》の甲斐ありて、よくも見いだしぬるものかな。錄しもて、好古の人に示すのみ。

[やぶちゃん注:「堀尾帶刀先生吉晴」(天文一二(一五四三)年~慶長一六(一六一一)年)は安土桃山・江戸前期の武将。尾張丹羽郡の土豪堀尾泰晴(吉久)の長男。初め、織田信長に仕えたが、早くに主を豊臣秀吉に変え、天正元(一五七三)年、近江長浜の内に百万石を与えられ、同十三年には近江佐和山城主四万石となった。同十五年の「九州攻め」の後、従五位下・帯刀先生に任ぜられ、同十八年の「小田原攻め」の後、遠江浜松城(十二万石)に移った。秀吉の信任厚く、所謂、「三中老」の一人に任ぜられたが、秀吉死後の慶長四(一五九九)年、越前府中で五万石を与えられた際に、家督を子忠氏に譲り、越前府中に隠居することになった。翌五年七月に新領地へ赴く途中、三河の池鯉鮒(ちりふ:現在の知立市)で、同じ秀吉の家臣加賀井重望(しげもち:「秀望」とも称した)に切られて傷つき、九月の「関ケ原の戦い」には参戦できなかった。戦後、子の忠氏が出雲に転封されたのに従った。忠氏の早世後は孫忠晴(慶長四(一五九九)年~寛永一〇(一六三三)年:享年三十五。彼は亡くなる直前に末期養子を幕府に申し立てたが、その嘆願は認められず、無嗣・断絶、改易となり、大名家としての堀尾家は消滅してしまう)を補佐し、松江城を築いている(主文は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「東海道名所記」私の好きな浅井了意の著になる仮名草子。六巻六冊。万治二(一六五九)年の成立。諸国を遍歴してきた青道心楽阿弥(らくあみ)が、まずは江戸の名所を見物し、その後、連れの男とともに東海道の名所を見物、気楽な旅を続けながら、京に上るという構成で、名所名物の紹介・道中案内・楽阿弥らの狂歌や発句・滑稽談などを交えて、東海道の旅の実情を紹介したムック本のはしり。

「東海道名所圖繪」は六巻六冊。寛政九(一七九七)年刊行。京都三条大橋から江戸日本橋までの東海道沿いの名所旧跡・宿場記事・特産物などに加え、歴史や伝説などを描いたもので、一部には東海道を離れて、三河国の鳳来寺や遠江国の秋葉権現社なども含まれている。著者は京の俳人秋里籬島(あきさとりとう 生没年未詳)。絵師は円山応挙・土佐光貞・竹原春泉斎・北尾政美・栗杖亭鬼卵など錚々たる絵師約三十名が二百点を越える挿絵を担当している(当該ウィキ他に拠った)。]

曲亭馬琴「兎園小説余禄」 小泉兄弟四人幷一媳褒賞之記 / 「兎園小説余禄」巻二~開始

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。

 標題中の「媳」は「よめ」(嫁)。また、二男の「小泉大内藏」の名は「おほくら」。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。句読点は現在の読者に判り易いように、底本には従わず、自由に打った。鍵括弧や「・」も私が挿入して読みやすくした。一部を読み易くするために《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。]

 

兎園小說餘錄第二

 

   〇小泉兄弟四人一媳褒賞之記

          【品川新宿牛頭天王神主

             小泉上總介忰】

        總領  小泉出雲守【酉三十三歲。】

        二男  小泉大内藏【酉三十歲。】

        三男  小泉覺次 【酉二十六歲。】

        四男  小泉淸之助【酉十八歲。】

        出雲守妻  か よ【酉二十七歲。】

右上總儀は、去る文化八年の頃より、中風にて、今、以《もつて》、打臥罷在《うちふしまかりあり》、幷に同人妻儀も、十餘年以前より、持病の血暈《けつうん》、度々差發《さしおこり》致難儀候由、然處《しかるところ》、右之子供四人、幷《ならびに》、出雲、妻かよ、其孝行にて、晝夜無油斷看病介抱いたし、猶、亦、大内藏儀は、芝神明社家、相務罷在候に付、社務の暇、有ㇾ之候へば、早朝より、父母の方に罷越、看病いたし、兄弟四人・かよ共に、孝行、大かたならず、凡、十三、四年の間、異體一心に志を盡し候趣、相聞え、請取《うけとり》、しらべに相成《あひなる》。今玆《こんじ》、文政八年乙酉春三月日、右之者共、寺社御奉行所へ被召出、御褒美として、小泉出雲ヘ御銀《おぎん》十枚、外四人へ、御銀五枚づゝ、被ㇾ下ㇾ之候由。同年三月下旬、右之趣を印行《いんぎやう》して賣步行《うりあるき》候間、卽、使買取《かひとらしめ》、尙、亦、外も聞合《ききあはせ》候處、相違無ㇾ之事の由に付、しるしおく。かく、一家うち揃ひての孝行は、世に有がたし。尤《もつとも》美談たるべきもの也【乙酉四月廿三日。】。

[やぶちゃん注:「品川新宿牛頭天王」「品川区」公式サイト内の「東海道品川宿のはなし 第10回」によれば、『品川宿の6月の行事は貴布禰社』(きふねしゃ)『(今の荏原神社)と北品川稲荷社(今の品川神社)の牛頭天王祭から始ま』るとある。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「文化八年」一八一一年。

「血暈」産後に「血の道」で、眩暈(めまい)がしたり、体が震えたりする病気。「血振(ちぶるい)」とも呼ぶ。

「芝神明社家」現在の東京都港区芝大門一丁目に鎮座する芝大神宮。一時期には准勅祭社とされた東京十社の一社であった。

「文政八年乙酉」一八二五年。

「印行して」瓦版にして。]

ブログ・アクセス1,800,000アクセス突破記念 梅崎春生 ある青春

 

[やぶちゃん注:昭和二七(一九五二)年六月号『群像』に発表された。既刊本には収録されていない。

 底本は「梅崎春生全集」第五巻(昭和五九(一九八四)年十二月刊)に拠った。

 太字は底本では傍点「﹅」。文中に注を添えた。

 本篇の話柄内時制は冒頭部の「二十歳」という記載から、熊本五高時代の、数えなら、昭和九(一九三四)年、満年齢なら、その翌年に当たる。昭和九年ならば、怠け癖によって三年生を落第した年に当たる。この頃は、校友会雑誌『龍南』の編集委員を担当するとともに、同誌に詩を発表していた(ブログ・カテゴリ「梅崎春生」に各個に電子化注してあるほか、サイトで藪野直史編「梅崎春生全詩集」(ワード縦書一括版)を公開してある)。主人公も落第しているが、或いは、本作の「N」という落第生には、実は梅崎春生自身の影が込められているのかも知れない。先に言っておくと、本篇は途中で尻切れている感がある

 なお、本テクストは2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが本日午前中に1,800,000アクセスを突破した記念として公開する。【藪野直史】]

 

   あ る 青 春

 

 Nがある時、こんなことを言った。食事時だ。

「おれは子供のとき、おあずけをやらせられてたんだぜ」

「おあずけって、なんだね」と私は聞いた。

「おあずけって、おあずけさ。そら、犬なんかに命令するだろう。おあずけ。あれだよ」

 よく判らなかった。きっとNはその言葉を、隠喩(いんゆ)のつもりで言っているのだろう、と私は思った。私は黙っていた。するとNは箸を止めて、顔を上げた。うすいあばたのある大きな顔だが、その時はいつもよりも、一廻り大きく見えた。

「親爺が晩酌をやっているだろう。そしておれが食卓につくんだ。箸をとろうとすると、親爺が大きな声で、おあずけ、と号令する。おれは箸を置いて、親爺の晩酌がすむまで、じっと待っている。二時間でも三時間でも、待っているんだ」

「それはたいへんだな」と私は同情した。しかしその時、そんなNの子供のときの顔を、私はうまく想像できなかった。Nは私より二つ年長で、歳の割にはたいそう大人びた顔をしていたし、眼つきにもどこか暗いところがあった。つまり子供時分を類推させない顔だったのだ。

「辛かったよ。いつからそんなしきたりになっていたのか、おれにも記憶がないんだ。たぶん、物心もつかない頃から、犬を訓練するように、親爺はおれにおあずけを仕込んだんだろうな。きっとそうだよ」

 どういうことから、こんな話になったのか、私はよく覚えていない。しかしその時下宿の茶の間で、むかい合って食事をしていたことだけは覚えている。その古ぼげた素人下宿は、私たちが通っていた高等学校の裏手の、桑畑にかこまれた一郭にあった。賄(まかない)付きで月に十六円という、当時の田舎町にしても、破格に安い下宿屋だった。そのせいか待遇も安直で、三度々々油揚げが形をかえて出でくるような賄方だった。で、その時も、油揚げの煮付けか何かで、昼食をとっていたのだと思う。

「――食いたい食いたいと思って、一心に食卓をにらみつけている。おあずけは解けない。そのうちに眼の前の食べ物が、だんだん妙な具合に見えてくるんだな。腹はグウグウ鳴るしさ。まっ白い飯の色。味噌汁や煮付けの匂い。そいつらが内臓のどこかを、痛烈にぐいぐいとつき上げてくる。それと同時に、だな。眼の前の食べ物が、ただ膳の上に並べられているだけで、全然おれと関係のない物体のように、それも大昔からそうと決まっていたもののように、子供のおれには思われてくるんだ。そういうおれを、親爺は横目で見ながら、ゆっくりと盃をかたむけている」

「君の親爺さんは――」と私は訊(たず)ねた。「なにかね。ほんとの親爺さんだったかな?」

 Nはそれには返事をしなかった。大きな顔をかすかに振り振り、御飯を口にはこびながら、やがてはき出すように言った。

「親爺は大酒飲みで、しかも酒乱なんだ。いずれ中風でヨイヨイになるだろう。前の夏休みに帰ったとき、おれが勧(すす)めて、血圧を計らせたんだ。二百にちかかった」

 私たちは勤勉な学生ではなかった。私は二十歳。Nは二十二歳。ことにNは前年度に落第して、それで私と同級になったわけだ。今度つづけて落第すると、規定にしたがって、学校を出なくてはならない。それだのに、一学期も二学期も、彼は成績が悪かった。学期々々の成績は、校舎の一隅におおっぴらに貼り出される仕組みなので、貼り出された自分の成績に、大きな顔を悲廣にゆがめて眺め入っているNの顔を、私は思い出すことができる。それは反撥と嫌悪で腹の中がまっくろになったような顔だった。

 しかしそれもその時だけで、あとは彼は忘れてしまう。三学期になっても、身を入れて勉強するそぶりは全然なかった。しょっちゅう課業を怠けて、下宿に寝ころんで小説類を耽読したり、下手な謡曲をうなったり、夜は夜でマントをかぶって、街に酒を飲みに行ったりしていた。Nは年齢の割には酒はつよかった。どんな酒でも飲んだ。銘柄や味を吟味する方の口ではなかった。

 そしてNは金使いも荒かった。彼の実家は田舎の小地主で、それで私などにくらべて、潤沢な学資を送られていたんだと思う。しかしその金をNは、私から見るとほとんど無目的な浪費の仕方で、使い果たしてしまう。ふだんはゴールデンバットしか喫わないのに高価なパイプを買い求めたり、近くの温泉地にぜいたくな小旅行を試みたりするのだ。それは年若の私にも、すこし感傷的なやり方にさえ思われた。そしてしょっちゅうあちこちに借金をつくって、ピイピイしていた。

 その下宿は、拘橘(からたち)の垣根にかこまれたうす暗い家で、その離れの二部屋を借りて、私とNとはそれぞれ棲(す)んでいた。朽ちかけた竹の濡れ縁のついた、古ぼけたつくりの部屋だ。その主は年寄りの能楽師で、時折母屋の方から、鼓をうつ音や、歯の抜けたような謡い声が聞えてきたりする。そこらあたりに湿った土の匂いや、漠方薬を煎(せん)じる匂いが、いつもうすうすとただよっている。廂(ひさし)のひくい、だだっぴろい構えの家だった。下宿人は私とNの二人だけであった。こんな下宿をとくに好んだのではなく、下宿料が安いという取柄だけで、私はここに入っていたのだが、Nも同じ気持であったかどうかは判らない。おそらく同じではなかっただろう。学資の点からしても、経費を節減する必要は彼にはなかったのだから。そんなことは彼にはどうでもよかったのかも知れない。部屋は棲むに足ればよかったし、食事は油揚げであろうとなかろうと、腹を充たせばそれでいい。彼の日常からして、そう考えているようにも、私には見えた。それは育ちの違いというものを、私にときどき感じさせた。私は貧しい官吏の伜であったし、したがって貧しさということに対して、極めて敏感に気を使っていたし、自分の生活をストイックなものに思いなす意識が、常々私を離れたことがなかったから。そういう点で、私は彼の生態を、実感としては理解できなかった。ただ規則立った学業が嫌いだという点において、私は彼と共通していた。私も学校をさぼって絵を描いたり、母屋の老人について仕舞の型をならったり、Nにくっついて酒を飲みに行ったり、毎日そんなことばかりをしていた。その日その日がのんびりと過ぎればいい。そんな気持だった。だから私も極めて成績は悪かった。学年末が迫ってくるにつれて、しだいに私は憂鬱になっていた。試験の前の莫大な努力をかんがえるだけでも、私の気持は重くなった。努力とか力行とかいうことを、私は昔から好きな方ではなかったのだ。

 私たちがよく酒を飲みに行ったのは、田島屋といううどん屋兼居酒屋の店だった。学校は町からすこし離れたところにあって、私たちは下宿を出ると、学校の横手のさびしい畠道をぬけ、馬糞のにおいのする街道に出る。街道をしばらく歩くと、町の屋並みがやがて見えてくる。田島屋はその屋並みのいちばん入口のところにあった。なぜこの店に行くかといえば、ここが多分下宿からもっとも近い居酒屋だったからだ。(他にもひとつ理由がある。)もちろんこんな店には、私たちをのぞけば、高等学校の生徒などは出入りをしやしない。皆あかるい街に出て、ビヤホールや契茶店に入ったりするのである。田島屋の客は、おおむね近所の百姓や馬方や、そんな種類の人々が多かった。土間があって卓が四つ五つおいてある。奥には畳敷きの部屋がひとつある。土間の隅を格子(こうし)で仕切って、そこが調理場になり、何時もそこに一人の小娘がいて、うどんを茹(ゆ)でたり、徳利をあたためたりしていた。十六、七の色の白い、影の淡い感じの小女(こおんな)だった。その女をいつからNが好きになるようになったのか、私はよく知らない。学年末がそろそろ迫ってくる頃ではなかったかとも思う。

「あのギンコという女を、お前どう思うね?」

 Nは私にそんなことを聞いた。ギンコという名前であることを、私はその時初めて知った。

「どう思うって――」と私は口ごもった。どんな意味の質問なのか、よく判らなかったからだ。「あれはどこか身体が、弱いんじゃないかな。眉毛が妙にうすいじゃないか。病気なのかも知れないな」

 その病気の名を私は不謹慎に口にした。Nはやや暗い眼をまっすぐ私にむけ、考え考えしながら口を開いた。

「あのこは孤児なんだぜ。生れつきのひとりっ児なんだ。身寄りがないもんだから、あそこに引取られているんだ」

「だから影がうすい感じなんだな。しかし君はそんなことを、よく知っているんだね」

「おれはギンコが、好きなんだ」

 Nははっきりした口調で、そう言った。私は気押されたように口をつぐんでしまった。めらめらと燃え上るようなものが、Nのその言葉に感じられたからだ。それは同時にある理由から、いちまつの危惧みたいなものを、するどく私に感じさせた。一年近く隣同士に生活していて、Nの性格や日常をかなり知っていたので、いまNが女を好きになったことは、それだけである破局を私に漠然と予想させた。少し経って、私はさり気なく言った。

「好きになるのもいいけれど、今度は及第する算段をした方がいいと思うな。僕もそうするつもりだし――」

「そうすりゃいいだろう」

 そっけない口調でそうさえぎると、Nは盃(さかずき)を口に特って行った。その時私たちは、田島屋の奥座敷で、向い合って飲んでいたのだ。ここではよく芋焼酎をのませたが、その夜も確かそうだと思う。隙間風が肌にひりひりするような寒い夜だった。底冷えがして、酒でも飲まなければやり切れないような気侯だった。

「おれは近頃何だか、ばかばかしくなっているんだ」しばらくして袖口で唇を拭きながら、Nが言った。「ここで踏んばって勉強して、どうにか進級したとしてもさ、また同じような生活がえんえんと続くだけだろう。そりゃあまあ、続いてもいいけれどもさ、それを続けるために、寒い中をこつこつと勉強するなんて、とにかく何だか、やり切れない感じがしないかい」

「しないね」と私は答えた。「落第する方がよっぽどやり切れないよ。君だって、実際学校を追い出されるのは、困るんだろう」

「うん。それはすこしは、困るんだ」

 言葉ではそう言ったけれども、そのNの顔には、なんだか自分の内部のものを持ち扱いかねているような、奇妙な焦噪の色があらわれていた。私はまぶしくそれを見た。

「学校を追い出されたら、家に帰らなくてはいけないしな。家での生活は、おれはあまり面白くないんだ。酒もろくには飲めないし」

「それでギンコを好きになったとは、どういうことだね」

 と私は声をひそめて訊ねてみた。座敷の障子の破れから調理場が見え、ただよう湯気のあわいにギンコの姿がちらちらと動いていたからだ。Nのうす赤く血走った眼が、なにかいどむような光をたたえて、私を見詰めた。私はたじろいだ。

「好きということは、好きということさ。他に言い方があるかい」

 Nは女色には潔癖であったし、その頃彼はまだ、童貞であっただろう。潔癖というよりは、一部の高校生に特有な、無関心という感じに近かったと思う。だからNの言い方は、おそらく本音であったに違いない。しかしそのNの言葉を聞いた時、私はなにか当惑に似たものが、ひしひしと胸にのぼってくるのを感じていた。それは顔色に出さず、私はも一度探るように、Nに確かめていた。

「あのこがみなし児だから、なんだか不幸な感じがするから、君はあれを好きになったんじゃないだろうな」

 Nは不興気(げ)にだまった。その話はそこでとぎれた。だからよくは判らないけれども、私の質間はある程度、的(まと)を射ていたのではないかと思う。Nの日常から見て、不幸への傾倒とでも言ったようなものを、いつか私は彼の内部にうすうすと嗅ぎ当てていたから。つまり、この世の約束をはみ出て揺れ動くようなもの、尖鋭な光を放ち、かぐろい翳(かげ)を隈(くま)どるようなもの、そんなものを彼は無意識裡に切に求めているらしかった。そしてそれはその底に、平板な現実にたいする不信を、根強くひそめているようだった。おあずけをくった犬みたいな眼で、彼は自分の毎日を眺めている、それが彼の性格に、あるイリタブルな調子と狷介な傾向を、しだいにつけ加えてきている。これはもちろん私の観察にすぎないし、彼自身にもはっきりした自覚はなかったのだろう。彼のギンコヘの関心の仕方も、そういう焦点のむけ方なのだろうと、その時の私には思えたのだが。そしてそれ以上、ギンコについて言及するのを、私ははばかった。[やぶちゃん注:「イリタブル」irritable。「怒りっぽい・腹を立てやすい・激しやすい・短気な」の意。]

 その時まで私は、その女がギンコという名前であることも、みなし児であるということも、ほとんど知らなかった。しかし実は私は、ギンコの身体をすでに知っていた。ギンコは田島屋の雇い女でもあったけれども、同時に半分は春婦でもあったらしいからだ。田島屋の主人がギンコに、そんなことを強制していたのかどうかも、私は未だ知らない。ある夜偶然に、私は彼女の一夜の客となったに過ぎない。それもずいぶん前のことだった。まだ夏服を着ていた頃だったから、初夏か秋口のことだったに違いない。

 ある夜遅く私はひとりで街から帰ってきた。ずいぶん夜も更(ふ)けていて、街道にも人影はなかった。そして田島屋の店の表の提燈(ちょうちん)のかげから、突然そのギンコは私を呼び止めたのだ。

「ねえ。学生さん」

 私は立ち止った。私はすこしは酔っていた。提燈の乏しい光の中に、ギンコの顔が白い花のように、ぽっかり浮んでいた。それは妙に非現実的な感じだった。その顔が言った。

「ねえ。遊んでゆかない?」

 どんな気持であったかよく覚えていない。しかしその声にすぐ応じる気特になったのは、私の酔いの気紛れだったのだろうとも思う。私は平常身を持するに臆病であったし、冒険(?)は私の性には全然合わなかった。あるいは、提燈の光に照らされたギンコの、眉のうすい混血児めいた印象に、ふと強くひかされたのかも知れない。ごくありふれた顔でも、これが春婦だと意識した瞬間に、はげしくひきつけられたりすることが、時たま男にはあるものだ。私はまだ二十歳ではあったけれども、男であることは一応男だったのだから。

「そうだな。遊んでもいいな」

 私はいっぱしの男のような口を利(き)いた。女身にたいする畏怖や警戒を、私は出来るだけかくそうと努めていた。また一面には、こんなにスムーズに機会がやって来たことを、ひそかに喜ぶ気持もあったのだ。そのことは私に既知の経験ではなかった。しかしそれを眼の前の女身に知られるのは、私の自尊心が許さなかった。今思うと、あの頃の私は現在の私より、ずっとひねくれていたようだ。

 そして女の手が私に触れた。ギンコは花模様のワンピースを着ていた。腕をからむようにして、私を田島屋の店のなかに引き入れた。その動作はやわらかで、ひどく手慣れたやり方のように感じられた。私はほとんど無抵抗にそれに応じた。燈が消され、女が服を脱ぐ衣(きぬ)ずれの音が、闇の底でかすかに鳴った。出来るだけ無恥に! なにかをいらいらと待ちながら、私は自分にそう命令したりしていた。やはり緊張に耐えられなかったからだ。時間が過ぎた。

 やがて田島屋を出て下宿の方に戻りながら、私はいくらか虎脱した気特で、女身の記憶をしきりに反芻(はんすう)していた。ちりちりした髪の感触、肌の匂い、双の肩胛骨(けんこうこつ)のぐりぐりした動きなど。それらは断(き)れ断れな印象として、私の皮膚に残っていた。女なんて貧しいものじゃないかと、月を仰ぎながら、私はふと考えたりした。それが自分の生理の貧しさとは、私は考えなかったし、また気がつきもしなかった。自分を泥土につき落したつもりでいて、そのことで私はむしろ昂然(こうぜん)としていた。

 その夜のことは、私は誰にもしゃべらなかったし、Nにも秘密にしていた。しゃべったって始まらないじゃないか。それが若い私の自分への言い訳だった。しかしやはり私はそのことを、恥じたりこだわったりしていたのだろう。

 ギンコとの身体の交渉は、それまでにはそれ一度だけだった。その夜から一箇月ほどして、私はNをつれて田島屋ののれんをくぐった。酒を飲むためだ。しかしも一度あの女の顔を見たいという気特は、私には確かにあった。ギンコは格子(こうし)のなかで、せっせと注文のうどんを茄(ゆ)でていた。私の顔を見ても、空気を見るようで、べつだん表情を動かす風(ふう)もなかった。私はやや失望したし、また軽侮されたような気にもなった。Nは始めてのこの店を、なかなかいい店じゃないかと、大きな顔を左右にむけて、吟味するように眺め廻したりした。こんな店をNはそれまであまり知らなかったので、手軽で実質的なところがひどく気に入ったようだった。それから私たちは、しばしばこの店に通うようになった。ことに寒くなってくると、遠い街まで出かけるのは億劫(おっくう)なので、自然と田島屋に通う度数もふえてきていた。もうその頃はギンコの存在も、かすかな痛みの一点として胸に残るだけで、大体酒の運び手以上にはみ出た感じは、私からはすでに消え去っていた。強いて私は自分の心の一部分を、切り捨てていたのかも知れない。そんなことで心を労するのは無益だと、いつか私は心の底で計算していたのだろうから。

 しかしNがギンコを好きだと宣言したあの時、そのギンコとのいきさつを私が告白するのをはばかったのも、たんに羞恥やこだわりのせいではなかった。私の内部にある核のようなものを、Nの言葉がなにかするどく刺戟してきたからだ。私はNの網膜を通して、ふいに新しく生き返ってきたようなギンコの姿を、その時ありありと感知していた。イリタブルな情緒が私の心をゆすぶった。はげしい当惑に似た感じも、同時に胸にきた。

『学校がうまく行きそうにないもんだから、それでヤケになって、女に惚れやがる』

 毒々しく言えば、そんな気持にもなりながら、私はNに相対していたと言ってもいい。しかしヤケになっているのは、私の方かも知れなかった。試験のことも自信はなかったし、その準備の重さを考えるだけでも、少からずいらいらしていたのだから。

 そして私は実のところ、Nを嫉妬していたのかも知れない。平板な現実への不信から、強烈な夢をよそに結び得る彼の性格、それを許す彼の育ちや境遇。それらを瞬間に私は羨望し嫉視していたと、言えば言えるだろう。つまり私はNにたいして、この一年間単なる観察者であったことに、突然やり切れなくなっていたのだ。私のような経歴や性格にとって、無感動ということが、この世に身を処するもっとも有利な方法であることを、当時の私はもううすうすと感じ始めていたが、それを裏切ったのは、やはり私の『若さ』であった。『若さ』が持つ盲目的な衝動であった。

曲亭馬琴「兎園小説余禄」 僞男子 / 「兎園小説余禄」巻一~了

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。句読点は現在の読者に判り易いように、底本には従わず、自由に打った。鍵括弧や「・」も私が挿入して読みやすくした。踊り字「〱」「〲」は正字化した。一部を読み易くするために《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附し、改行を施した。標題は「にせなんし」と読んでおく。

 

   ○僞男子

麹町十三丁目なる蕎麥屋の下男に【「かつぎ男」といふものなり。】吉五郞といふものあり。

此もの實は女子也。人、久しく、これを知らず。

年、廿七、八許《ばかり》、月代《さかやき》を剃り、常に、腹掛を、かたくかけて、乳を顯さず。

背中に、大きなる、ほり物あり。俗に「金太郞小僧」といふものゝかたちを刺《ほ》りたり。この餘《ほか》、手足の甲までも、ほり物をせぬところ、なし。そのほり物に、ところどころ、朱をさしたれば、靑・紅、まじはりて、すさまじ。

丸顏、ふとり肉《じし》にて、大がら也。

そのはたらき、男に異なること、なし。

はじめは、四谷新宿なる引手茶屋にあり。そのゝち、件の蕎麥屋に來て、つとめたりとぞ。

[やぶちゃん注:「引手茶屋」遊廓で遊女屋へ客を案内する茶屋。江戸中期に揚屋(あげや)が衰滅した江戸吉原で、特に発達した。引手茶屋では、遊女屋へ案内する前に、芸者らを招いて酒食を供するなど、揚屋遊興の一部を代行した形であった。そこへ、指名の遊女が迎えにきて、遊女屋へ同道した。引手茶屋の利用は上級の妓女の場合に限られたから、遊廓文化の中心的意義を持った(小学館「日本大百科全書」に拠った)。]

誰いふとなく、

「渠《かれ》は、『僞男子』也。」

といふ風聞ありければや、四谷大宗寺橫町なる博突うち、これと通じて、男子を、うませけり。是により、里の評判、甚しかりしかば、蕎麥屋の主人、吉五郞には、身のいとまをとらせ、出生の男子は、主人、引とりて、養育す。

[やぶちゃん注:「四谷大宗寺橫町」(よつやだいそうじよこちやう)は現在の新宿区新宿一・二丁目相当。]

かくて、吉五郞は、木挽町のほとりに赴きてありし程、今茲、天保三年壬辰秋九月、町奉行所へ召捕られて入牢したり。これが吟味の爲、奉行所へ召呼るゝとて、牢屋敷より引出さるゝ折は、小傳馬町邊、群集して、觀るもの、堵《かき》の如くなりしとぞ【こは、十一月の事なり。】。

[やぶちゃん注:「天保三年壬辰」一八三二年。]

或は、いふ。

「此ものは、他鄕にて、良人を殺害《せつがい》して、迯《にげ》て、江戶に來つ。よりて、『僞男子』になりぬ。世をしのぶ爲也。」

など聞えしかども、虛實、定かならず。

四谷の里人に、此事をたづねしに、何の故に男子になりたるか、その故は詳《つまびらか》ならず。

四谷には、渠に似たる異形《いぎやう》の人、あり。

四谷大番町なる大番與力某甲の弟子《おとうとご》に、「おかつ」といふものあり。幼少のときより、その身の好みにやありけん、よろづ、女子《によし》のごとくにてありしが、成長しても、その形貌を更めず、髮も髱《たぼ》を出し、丸髷にして櫛・笄《こうがい》をさしたり。

[やぶちゃん注:女性の結髪の後部に張り出した髪を、撓めて作った、襟首に下がる部分の名称。日本髪の美しさのポイントとなる部分である。]

衣裳は勿論、女のごとくに廣き帶をしたれば、うち見る所、誰も男ならんとは思はねど、心をつけて見れば、あるきざま、女子のごとくならず。

今茲は【天保三年。】四十許歲《しじゆうばかりのとし》なるべし。妻もあり、子供も幾人かあり。

針醫を業とす。四谷にては、是を「をんな男」と唱へて、しらざるもの、なし。年來《としごろ》、かゝる異形の人なれども、惡事は聞えず、且、與力の弟なればや、頭より、咎《とがめ》もあらであるなれば、彼《かの》「僞男」吉五郞は、此「おかつ男」をうらやましく思ひて、男の姿になりたるか。いまだ知るべからず、といへり。

とまれかくまれ。珍說なれば、後の話柄になりもやせん、遺忘に備《そなへ》ん爲にして、そゞろに記しおくもの也。

 

兎園小說餘錄第一 

曲亭馬琴「兎園小説余禄」 鼠小僧次郞吉略記

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。句読点は現在の読者に判り易いように、底本には従わず、自由に打った。鍵括弧や「・」も私が挿入して読みやすくした。踊り字「〱」「〲」は正字化した。祭り番付など、一部を読み易くするために改行を施した。

 ご存知、義賊として知られる「鼠小僧次郎吉」(寛政九(一七九七)年?~天保三年八月十九日(一八三二年九月十三日)の記事。彼については、当該ウィキが詳しいので参照されたい。]

 

   ○鼠小僧次郞吉略記

此もの、元來、木挽町の船宿某甲が子なりとぞ。いとはやくより、放蕩無賴なりけるにや。家を逐れて武家の足輕奉公など、しけり。文化中、箱館奉行より町奉行に轉役して、程なく死去せられし荒尾但馬守の供押を勤め、其後、荒尾家を退きて、處々の武家に渡り奉公したり。依ㇾ之、武家の案内に熟したるかといふ一說あり。寔に[やぶちゃん注:「まことに」。]稀有の夜盜にて、この十五ケ年の間、大名屋敷へのみしのび入て、或は長局、或は納戶金をぬすみたりしといふ。その夜盜に入りける大名屋敷、凡、七十六軒、しのび入て、得ぬすまざりける大名屋敷十二軒、ぬすみとりし金子、都合三千百八十三兩二分餘、【軒別・金別は「聞まゝの記」にあり。】是、「白狀の趣なり。」とぞ聞えける。

[やぶちゃん注:「木挽町の船宿某甲が子なりとぞ」当該ウィキでは、『歌舞伎小屋』『中村座の便利屋稼業を勤める貞次郎(定吉・定七とも)の息子として元吉原(現在の日本橋人形町)に生まれる』(注に『愛知県蒲郡市という説もあるが、日本橋説の方が有力である』とある)としており、以下の荒尾但馬守以下と合わせて、もう、この頃には、あることないことの「鼠小僧伝説」が始まっているようである。

「文化中」一八〇四年から一八一八年まで。徳川家斉の治世。

「荒尾但馬守」荒尾但馬守成章。詳細事績不詳。町奉行は文政三(一八二〇)年から文政四(一八二一)年一月まで務めてはいる。芥川龍之介「戯作三昧」(リンク先は私の古い電子化。も別ページである)の「七」で、鼠小僧に言及した馬琴の話相手の本屋和泉屋市兵衛の台詞の中にも、この話が出るが、これは、現在、研究家によって「戯作三昧」 の典拠の一つとされる饗庭篁村の「馬琴日記紗」の「鼠小僧の事」がソースとされているので、ループしてしまっているので、原拠は不明である。

「供押」「ともおし」か(同前の「戯作三昧」の「七」で、市兵衛は『御供押し』と出る。中間(ちゅうげん)、或いは、その下の位か。

「長局」(ながつぼね)は、長く一棟に造って、幾つにも仕切った女房の住居。宮中・江戸城・諸藩の城中などに設けられていたとあるので、謂いとしては、相応しくない。]

かくて今茲[やぶちゃん注:「こんじ」。]【天保三壬辰年。】五月[やぶちゃん注:ここに底本では囲み字で『原本脫字』とある。]の夜、濱町なる松平宮内少輔屋敷へしのび入り、納戶金をぬすみとらんとて、主候の臥戶の襖戶をあけし折、宮内殿、目を覺して、頻に宿直の近習を呼覺して、「云々の事あり。そこらをよく見よ。」といはれしにより、みな、承りて見つるに、戶を引あけたる處、あり。「さては、盜人の入りたらん。」とて、是より、家中迄、さわぎ立て、殘す隈なく、あさりしかば、鼠小僧、庭に走出、屛[やぶちゃん注:塀(へい)。]を乘て、屋敷外へ「摚」[やぶちゃん注:「だう」。「支える・拒む・遮る」の意であるが、ここは、「ドン!」というオノマトペイアである。]と飛をりし折、町方定廻り役【榊原組同心大谷木七兵衞。】夜廻りの爲、はからずも、その處へ通りかゝりけり。深夜に武家の屛を乘て、飛おりたるものなれば、子細を問ふに及ばず、立地(たちどころ)[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版では漢字は『立処』。]に搦捕たり。扨、宮内殿屋敷へしのび入りしよし、白狀に及びしかば、留守居に屆けて掛合に及びしに、「途中捕りの趣に取計くれ候樣」賴[やぶちゃん注:「たのむ」。宮内殿の留守居が主語。]に付、右の趣に執行ひて[やぶちゃん注:「とりおこなひて」。]、向寄の町役人に預け、明朝、町奉行所へ聞えあげて、入牢せられ、度々、吟味の上、八月十九日、引廻しの上、鈴森に於て梟首せられけり。

このもの、惡黨ながら、人の難儀を救ひし事、しばしば也ければ、恩をうけたる惡黨、おのおの、牢見舞を遣したるも、いく度といふことを知らず。刑せらるゝ日は、紺の越後縮の帷子を着て、下には白練[やぶちゃん注:「しろねり」。]のひとへをかさね、襟に長總の珠數をかけたり。年は三十六、丸顏にて、小ぶとり也。馬にのせらるゝときも、役人中へ丁寧に時宜をして、惡びれざりしと、見つるものゝ話也。この日、見物の群集、堵[やぶちゃん注:「かき」。垣。]の如し。傳馬町より日本橋、京橋邊は、爪もたゝざりし程也しとぞ。鼠小僧の妹は、三絃の指南して、中橋邊にをり、召捕られし折まで、妹と同居也しといふ。虛實はしらねど、風聞のまゝを記すのみ。

[やぶちゃん注:「越後縮」(えちごちぢみ)は麻織物の一種。新潟県魚沼地方を主産とする。カラムシ(双子葉植物綱イラクサ目イラクサ科カラムシ属ナンバンカラムシ変種カラムシ Boehmeria nivea var. nipononivea )を用い、地の縦糸に強い撚りをかけて織り上げることで、ちじみしぼ(皺)をつけた主に夏用の織物のことを言う。

「帷子」「かたびら」。裏地を付けない一重のこと。

「白練のひとへ」「ひとへ」は「單衣」で、生糸で織った練られていない真っ白な絹で作った小袖(袖口の小さく縫いすぼまっている着流し風の上着)を言うかと思う。

「長總」「ながふさ」で、「小さなものが集まって垂れ下がっているもの」を言う。

「中橋」この附近(グーグル・マップ・データ)。]

曲亭馬琴「兎園小説余禄」 西丸御書院番衆騷動略記

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。句読点は現在の読者に判り易いように、底本には従わず、自由に打った。鍵括弧や「・」も私が挿入して読みやすくした。踊り字「〱」「〲」は正字化した。祭り番付など、一部を読み易くするために改行を施した。

 なお、本篇は「千代田の刃傷(にんじょう)」と呼ばれた、文政六(一八二三)年四月二十二日に松平忠寛(ただひろ:寛政三(一七九一)年生まれ。旗本。通称は外記(げき)。彼はその場で切腹した。享年三十三)が引き起こした殿中での刃傷事件(死者四名(一名は深手により翌日死亡)・外傷一名)「松平外記刃傷」の略記である。本事件については、より詳細な松浦静山の「フライング単発 甲子夜話卷之四十二 21 西城御書院番、刃傷一件」を先に電子化注しておいたので、そちらをまずは読まれたい。静山は立場上、より詳しい一次資料文書を記しているからである。

 

   ○西丸御書院番衆騷動略記

西丸御書院番松平外記、其相番に遺恨有ㇾ之。文政六年癸未四月廿二日申の時、於西丸御書院番部屋、及刄傷者如ㇾ左。

          西丸御書院番

            酒井山城守組

          高八百石 卽死  本 多 伊 織

                    年五十八歲

          高八百石 卽死  沼 間 左 京

                    年二十一歲

           式部卿殿用人

             戸田可十郞忰

          高三百石 卽死  戶田 彥之丞

                   年三十二歲

          高三百石 手負  間部 源十郞

                   年五十八歲

          高千五百石 手負 神尾 五郞三郞

                     年三十歲

           西丸御小納戶

             松平賴母伜 

          高三百石 自害  松 平 外 記

                   年三十三歲

一、右相手五人の内、三人者、卽死す。二人は、手負也。此内、一人は、翌日、死す。御書院番部屋二階にての事也。迯去者も有ㇾ之。後及御吟味云。

        其節の外科 天 野 良 節(養イ)

[やぶちゃん注:「養イ」は別な一本では「良養」とするの意。]

一、松平外記者、即時に自害せし也。右遺恨の趣は、御番所新加入の時、故老のともがら、慮外非法[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版は『非道』。そちらの方が躓かない。]擧動有ㇾ之。依ㇾ之、外記、度々、恥辱に及びしかば、堪忍なりがたく、今日、擊果せし也。懷中に書置有ㇾ之。

一、外記の目ざす相手は、本多伊織と外に一人あり。その人、この日、當番ならざりければ、必死を免れしといふ風聞あり。姓名、憚あれば、略ㇾ之。

當日、番頭酒井山城守と、御目附新庄鹿之助と、内談して、「この儀、内濟にせん。」と執計ひしに、上より御沙汰有ㇾ之。依ㇾ之、内證にて不相濟御詮議の上、酒井山城守、御目附加番新庄鹿之助、本番阿部四郞次郞は御役被召放訖。この日、相番の御番所も、小普請入被仰付、しもの、多く、有ㇾ之【阿部は本番なれども、この日、「いたはることあり」とて、新庄をたのみて、登城せず。翌日、出仕して、新庄とともに御咎を蒙りしとなり。】

[やぶちゃん注:「内濟」(ないさい)は、表沙汰にしないで(この場合は殿中刃傷であるから、当然、正式な幕閣に於てするべき評定を指す)をせずに、内々で事を済ませること。]

一、當日相番の何がし、うろたへて自分の屋敷まで迯かへりしを、所親、諫めて推戾したりなどいふ風聞もありけり。彼故老の輩、非法多かりし中に、外記の着たる肩衣の紋を、墨にてぬり消したること、しばしばなり。その肩衣は御紋つきもありしを、憚らで、ぬり消したりとぞ。外記殿の叔母は、御本丸の老女なりければ、その前日に件のぬりけされたる、御紋服の肩衣の御紋を、いくつか切ぬきて、ふみ箱に收め、叔母御へ委細を消息して、「かゝる事も候へば、堪忍なりがたく、覺悟仕りたり。」など聞えしかば、その叔母御より、ひそかに上へも聞えあげられしにや。上には、はやく知食て[やぶちゃん注:「しろしめされて」。]、廿二日の騷動の折、西丸へ御たづねの旨、あらせられしにより、西廳にも驚せ給ひて、御沙汰ありしかば、頭のはからひ、いたづら事となりて、御咎をかうむりたり、なんど、いふ。これらは下の風聞なれば、虛實はしらねど、さもあらんかと、ある人、いひけり。

一、松平外記、實は二十七歲也。居屋敷は築地小田原町にあり。父松平賴母は御納戶御膳番にて、年來、奉公の人也。外記自害の上は、父に、咎め、なし。相替らず勤めらるゝと言。部屋住たるによりて也。

[やぶちゃん注:かく書かれているが、アップ・トゥ・デイトな松浦静山の「フライング単発 甲子夜話卷之四十二 21 西城御書院番、刃傷一件」、及び、ウィキの「千代田の刃傷」及び「松平忠寛」によれば、父松平忠順は御役御免となっているが(心情から、とても続けてはいられぬであろう)、改易はされていないし、忠寛の子が家督も継いでいる。]

一、外記殿、この日、登城の折、用人某、「明日、おん迎は例刻に可指上哉。」と問[やぶちゃん注:「とひ」。]まうせしに、「否、迎は入らず。大かた、駕にて退出するならん。」といはれしを、こゝろ得がたく思ひしに、果して、この凶事ありしとぞ。

一、この年、本多伊織の門松のほとりへ、正月元目の朝、かひ犬が、人の首を啣來て[やぶちゃん注:「くはへきて」。]、捨置たり。未曾有の事なれば、驚きあやしまざるものもなく、主も家來も、いまいましがりて、はやくとり隱せしが、四月に至りて、かゝる珍事あり。「その身は、枉死したりける前兆なりしを、後に知る。」といふ。ある人の話也。

この頃、例の落頌落首、いくらともなく、いでたり。抑、「この騷動ありしより、御番所の風儀、改りて、新加入の人、動[やぶちゃん注:「やや」。]易くなりぬ。この外記の恩澤也。」など、いひけり。

[やぶちゃん注:「枉死」(わうし)は、災害に遭遇したり、殺害されたりして、非業の死を遂げることを言う。なお、他に「冤罪で死ぬこと」の意にも使う。]

按ずるに、寬永五年十一月六日の夜、西丸御番所奈良村孫九郞、その相番鈴木久右衞門、木造三郞左衞門に遣恨ありて擊果したり[やぶちゃん注:「うちはたしたり」。]。是、則、大猷院樣御代にて、今を距[やぶちゃん注:「へだた」。]ること百九十六年、前後、兩度、かゝる珍事あり。奈良村氏の事は、「寬永年錄」に見えたるを、左に抄錄す。

[やぶちゃん注:「寬永五年十一月六日」一六二八年十二月一日。馬琴の言うように、「年錄」(江戸幕府の諸役所で公務について記した日記を類を指す。現在はその中の幾つかが、写本編纂されて、いくつかの伝本が伝えられてある。国立国会図書館デジタルコレクションを調べたところ、この写本の、確かに、寛永五年十一月六日のここからで確認できた)に載っている。但し、この事件、殿中刃傷事件(死者は結果して一名)であるにも拘わらず、ネット上の記載が、何故か、頗る少ない。しかも、

その事件発生時制をネット上の数少ない記事では、圧倒的に「寛永四年」としている

のである(出典不詳)。而して、

もし、この寛永四年が正しいとするなら、実は、この事件が――殿中刃傷の最初――ということになる

のである。雑学専門サイト「草の実堂」のrapports氏の『江戸城での最初の刃傷事件 「豊島明重事件」』(こう標題しているものの、以下に見る通り、本事件が事実としての最初の刃傷とされている)で、「実は」の標題で、

   《引用開始》

実は「豊島重明事件」が起きる前の寛永4年(1627年)116日に、小姓組・楢村孫九郎が木造三左衛門と鈴木宗右衛門を襲った事件が起きた。

江戸城名で一緒に勤めていたものの喧嘩が原因で楢村孫九郎が抜刀したが、木造三左衛門と鈴木宗右衛門は逃げて無事だった。しかし止めに入った別の2人が大怪我を負い、その内の1人が落命している。

襲った楢村孫九郎は切腹となったが、逃げた木造三左衛門と鈴木宗右衛門は「卑怯」として家名断絶となっている。

武闘派で知られる小姓組内で起きた出来事だったが「逃げた」という点で余り表には出ることもなく、「豊島重明事件」が殿中での最初の事件だとされている。

   《引用終了》

とあるのである。ネット上では、何故か、少ない記載であるにも拘わらず、皆、一様に、刃傷犯人の名を「奈良村」ではなく、「楢村」としているから、彼らの引用ソースは国立国会図書館デジタルコレクションのそれではないことは明白である。なお、「wikiwand」の「曾我近祐」(そがちかすけ)に(太字は私が附した)、『江戸時代前期の幕臣』で、後に『大坂町奉行』となったとし、寛永三(一六二六)年に二百俵で出仕し、『寛永4年(1627年)116日夜、西の丸小姓組の同僚楢村孫九郎が木造三郎右衛門・鈴木久右衛門に刃傷に及ぶ事件が発生する。居合わせた近祐は倉橋忠尭とともに傷を受けながらも』、『即座に孫九郎を取り押さえた。この功により』、『下総国小金領400石を与えられ、後に1020石に加増さ』れた、とある。ここでも寛永四年である。なお、この刃傷の原因は、「年錄」でも、『遺恨』とのみあって、具体的な内容は判らない。

一、十一月大、云々、同月【寬永五戊辰年。】六日夜戊刻、西之丸にて御番所察良村孫九郞と申人、相番鈴木久右衞門、木造三郞左衞門兩人に、意趣にて切かゝり申候。兩人手負、全、敗北。介橋惣三郞と申者、相手には無ㇾ之候へ共、中へ入、深手を負、當座に相果申候。曾我又左衞門孫九郞を組留申候。夜中、燈をふみけし、殊の外、殿中諍動[やぶちゃん注:「じやうどう」。]、諸人、多く、馳參候。

一、鈴木、木造、日來、奈良村をあなどり、堪忍難ㇾ成候得共、相手二人に御座候間、一處に打果し可ㇾ申と存、相待候處、今夕、すでに御夜詰、過申候時、又慮外の儀候間、孫九郞、是をとゞめ、切かゝり申候。此節、相番所、皆、以、小脇指相口[やぶちゃん注:「あひくち」。匕首(歴史的仮名遣:あいくち)鍔のない短刀。懐剣の類。]にて、突留可ㇾ申外無ㇾ之候。孫九郞は、心がけ、日暮時分より、大脇ざしを、つゞらより出し、指替罷在候間、何も[やぶちゃん注:「いづれも」。]刀は手遠に置、小脇指計[やぶちゃん注:「ばかり」。]にて、むかひ、夜中の事なれば、大脇指にて、切たてられ、難儀不及是非。其後、火をたて、幸、鎭り[やぶちゃん注:「しづまり」。]、則、孫九卽は永井信濃守へ御預け被ㇾ成。十一月十三日に、於信濃守所切腹被仰付候。廿四歲。信濃守家來鈴木長作介錯之。孫九郞辭世、

    はたちあまり四ふゆの空の飛鳥川誰わが跡のなきをとはまし

一、其頃、歌人の聞えありし、信濃守内、佐賀和田喜六が、奈良村を追善に詠歌【詞書あり。今、略ㇾ之。喜六は、奈良村と竹馬の友なりしよし、詞書に見えたり。】、

 南  夏さびしわが身ならずば大かたの

       世のことわりに聞ましものを

 無  むら雨のさだめなき世のならひをも

       しらずがほにてぬるゝ袖かな

 阿  あはれてふことのみわびて世の人の

       わればかりなるなげきせましや

 彌  みづくきのあとをとゞむる袖の上は

       かはくときなきものにぞ有ける

 陀  たれか世にあはれをかけぬ人やあると

       とへばこたへずためしなの身や

 佛  ふたつなくみつなき法のちからにて

       にしにうまれん人をしぞおもふ

  寬永五年霜月十六日     高  昌 俊

[やぶちゃん注:「永井信濃守」当時、老中であった永井尚政(なおまさ 天正一五(一五八七)年~寛文八(一六六八)年)。上総国潤井戸藩主・下総国古河藩二代藩主・山城国淀藩初代藩主。当該ウィキによれば、『東京都新宿区の「信濃町」の名は、信濃守となった当時の下屋敷があったことに由来する』とある。

「佐賀和田喜六」不詳。

「高昌俊」不詳。]

 今の御番所は、かゝる事ありとだに聞もしらぬが

 多かるか。さればにや、前車の誡に、うとくして、

 家をほろぼし、身をうしなふに至れり。怕るべし、

 つゝしむべし。

[やぶちゃん注:「前車」(ぜんしや)「の誡」(いましめ)は「前車の覆(くつがへ)るは後車の戒め」は「誰かの失敗は後に続く者の戒めとなること」の喩え。中国で古くから使われている諺。例えば、「漢書」の「賈誼(かぎ)伝」に、紀元前二世紀の文人賈誼の文章に、「短期間しか続かなかった秦王朝の失敗からも学ぶことがある」ということを述べるために、「前車の覆るは、後車の誡」(前を走る車が転覆することは、後から行く車にとって戒めとなる)と引用されており、同様の表現は、「大戴礼記」の「保傅」(ほふ)や、「呉越春秋」の「勾践(こうせん)帰国外伝」などにも見られる(円満字二郎編「故事成語を知る辞典」に拠った)。]

2022/08/25

フライング単発 甲子夜話卷之四十二 21 西城御書院番、刃傷一件

 

[やぶちゃん注:以下、現在、電子化注作業中の滝沢馬琴「兎園小説余録」に必要となったため、急遽、電子化する。今回は特異的に注は必要と思われるものを文中・文末に入れ、読点と記号を追加し、やや読み難いと思われる語句については、推定で《 》により歴史的仮名遣で読みを附した。一部でブラウザの不具合を考え、底本の文字列の位置・配置を変えた。ポイント落ちは必ずしも全部は再現していない。文書等の切れ目は一行空けた。

 本篇は「千代田の刃傷(にんじょう)」と呼ばれた、文政六(一八二三)年四月二十二日に松平忠寛(ただひろ:寛政三(一七九一)年生まれ。旗本。通称は外記(げき)。彼はその場で切腹した。享年三十三)が引き起こした殿中での刃傷事件(死者四名(一名は深手により翌日死亡)・外傷一名)「松平外記刃傷」の略記である。当該ウィキによれば、この日、『西の丸の御書院番の新参・松平忠寛(松平外記)は、古参の度重なる侮罵と専横とに、ついに』、『鬱憤』、『これを抑えることができず、本多伊織、戸田彦之進および沼間左京の』三『人を殿中において斬り殺し、間部源十郎および神尾五郎三郎の』二『人には傷を負わせ(間部は深手により翌日』(翌々日とも)『に死亡)』(但し、間部源十郎については、以下の資料や、彼のウィキの「間部詮芳」(あきふさ。本名)を見るに、ずっと以前に死んでいるという説や、事件後、生きていることになっていたり、甚だ不審がある)、『自らは自刃し果てた』。『事件発生後に直接の上司である酒井山城守を交えて、事件を隠蔽する工作が行われ』、『目付は正式な見分書には死者が出た事を記載せず、後の保身のために真実を記した文書を封印文書として作成した。本丸から来た侍医は』、『死亡者を危篤状態と偽るために外科的工作と虚偽報告するように頼まれ、一旦は拒んだものの』、『これに従った。血で染まった』二十『畳の畳は深夜のうちに取り替えられた。加藤曳尾庵の』「我衣」に『よれば、外記が大奥に務める伯母に鬱憤を吐露した遺言ともいえる書き置きを渡していたため、大奥を通じて事件が露見したという』。『時の老中』『水野忠成が厳重詮議を行い、殺害された』三『人の所領は没収され、神尾は改易を申し渡された。なお、松平家は忠寛の子栄太郎が相続を許された』。処分者は殺害された三名、及び、外記の父、また、隠蔽工作をした上役連中を含め、実に十三人に及んだ(引用元にリストと処分内容有り。実際には以下を読むと、その隠蔽に関わった(医師などは、無理矢理、関わされた感が強い)者や、刃傷沙汰を知りながら、それを制止・捕縛をしなかったとされた不作為犯も含めると、恐らくはその倍以上の者が何らかの処分を受けていることが判る)。『事件の詮議は』「西丸御書院番酒井山城守組松平外記及刃傷致自害神尾五郞三郞外二拾壱人御詮議吟味一件」に『まとめられている。この史料によれば、松平外記は普段は几帳面で神経質、普段は穏やかだが』、『癇性が強く、人付き合いが下手な人物だったと証言されている』。『また、西丸書院番の酒井山城守組は、古株による新参者へのいじめで有名な職場だった。着任早々に外記の父松平頼母の後押しによって、追鳥狩で勢子の指揮を執る拍子木役に抜擢されるが、慣習を無視したこの人事によって』、『古株の反感を一身に浴びることとなった』。『追鳥狩の予行演習に遅刻した外記は重大な落ち度として責められ、拍子木役を辞退し』、『病気療養として自宅に引き籠もった。追鳥狩の翌日から職場復帰したが、古株からの嫌がらせや面罵は収まらず』、遂にこの仕儀に至ったのであった。『事件の顛末は瓦版で報じられ、落書も数多く作られた。市井の人々は』、『外記を取り押さえる事も出来ず、凶刃から逃げ惑った旗本の不甲斐なさを物笑いの種とした』。『この事件は曲亭馬琴』の「兎園小說餘錄」にも以下の通り、『収められ、歌舞伎狂言にもなった。大正時代には須藤南翠が小説化している』。『宮崎成身の雑録』「視聽草」に『よれば、事件から』七『か月後』、『昌平坂学問所で外記の模倣犯ともいえる事件が発生して』おり、『乱心し』て、三『人を殺傷した狩野軍兵衛は日頃から松平忠寛の仕業を賛美し、事件発生時も千代田の刃傷事件の書き付けを懐に所持していたという』とある。

 また、やや重複するが、ウィキの「松平忠寛」も引いておくと、『桜井松平家の庶流』(第七代忠頼の次男忠直が旗本となって、彼の次男忠治が分家し、さらにその忠治の次男忠輝が分家したできた家)である『松平頼母』(たのも)『忠順』(「ただまさ」か)『の子として』生まれた。『始めは内記と称し、後に外記と改め』た。第十一代将軍『徳川家斉に仕え』、文化八(一八一一)年に『書院番士、蔵米三百俵』となった。『弓術、馬術に長じ、廉直にして剛毅であることから』、『同輩に忌み妬まれた』。『当時、旗本の風紀は大いに乱れ、番士のなかでも新人』と『古参の区別は厳しく、新参者は奴隷のように酷使虐待されていた。その中で忠寛は、常に己が正義と信じるところを主張し、いささかも屈することがないので、ますます憎まれた』。文政六(一八二三)年四月、『駒場野の鳥狩にあたって非常な侮辱を被り』、それからほどなく、『同僚の本多伊織忠重、間部源十郎詮芳、沼間左京、戸田彦之進、神尾五郎三郎を殺傷し、切腹した』。『池田吉十郎、小尾友之進など』、『その場に居合わせた者は周章狼狽し、逃げ隠れ、殿中は大騒動であった。忠寛が部屋住であったため、父』『忠順は職を免じられたが』、『改易されず、忠寛の子の栄太郎が家を相続した。被害者』や関係責任者『らは免職、改易などされ、家禄は削減、あるいは没収など処罰を受けた。その後、番士の風紀は引き締まった。この事件は世間に喧伝され、文学、演劇などの素材となった』。『戒名は歸元院隨譽即證不退』とある。

 以下に見る通り、凄絶な「イジめ」が齎した最悪の事件であった。この「甲子夜話」の記録は、当該事件の原資料に当たっていて、馬琴の記事よりも遙かに細部が示されているばかりか、刃傷に及んだ松平外記の直接の上司が、前代未聞の殿中刃傷事件(結果的には三名が死亡し、一名が外傷を負い、外記は殿中のその場で自害した)を内輪で胡麻化そうとして、幕医らまで巻き込んで、死者を生きていたという噓の上申をした過程さえも、はっきりと暴露されているのが、これ、モノ凄い(逆にそのために同内容の文書が続くという、ややかったるい箇所もあるにはある)。それにしても、――上司から文書を改竄を強要させられ、良心に恥じて自殺された善人を出していながら、墨塗りし、平気の平左で官僚の事件を誤魔化す、どこかの国の、クソ汚ねえ官僚の嘘つき金魚の糞連中より――遙かに正統に捜査し、正当にして極めて厳しい処断をしているぜよ!

 

43―21 西城御書院番、刃傷一件

今年四月廿二日、西城にて、御書院番の松平外記と云《いへ》るが、部屋にて、相番《あひばん》三人を斬殺《きりころ》し、二人に、深手、負はせ、己《おのれ》は自殺してける。是に由《よつ》て、世上、種々の風說なれど、孰《いずれ》か實《まこと》なる、知《しる》べからず。因《よつて》、始に雜聞を擧《あげ》て、終に御裁許の條々を錄す。

[やぶちゃん注:「今年四月廿二日」文政六年癸未。グレゴリオ暦一八二三年六月一日。]

 

外記は西方御小納戶賴母《たのも》、總領、年廿一なり。切られしは、本田伊織、年五十八。戶田彥之進、淸水御用人嘉十郞、總領、年三十二。沼間右京、廿一。この三人は卽死せしとぞ。深手は間部源七郞、年五十八。神尾五郞三郞、年三十。外記が脇指は「村正」にて有《あり》しと。世傳ふ。この鍛冶《かぢ》は御當家に不吉なりと。然るに又、かゝることの生ぜしも不思議なり。外記、自刄せしの狀は、二階を下り、庭に出《いで》、腹、一文字に切り、鋒《きつさき》を口に含み、うつ伏になりて死せりと云。一《いつ》は、柱に倚《より》かかりて、自ら咽を剌《さし》て絕せりと云ふ。孰れか是なるや。又、本田伊織が切られしは、部屋の二階に何か書《かき》て居たるに、外記、立寄《たちより》て、刀を振上ると見へしが、はや、首は向《むかふ》に落《おち》たりとなり。五郞三郞は逃去《にげさり》て逐《お》はれ、臀《しり》を切られたりとぞ。又、この刄傷《にんじやう》の起りは、御場《おば》の騎馬に、外記、年、若けれども、撰ばれしを、年かさなる者、猜《そね》みて、御場演習のとき、不都合なること有しかば、其ときは、病と稱して御場を勤めざりしことを含みしと云。又、外記が、腹、切《きり》たる一說に、腹、切て、咽をかゝんと爲《せ》しが、血、柄《つか》につき、手、滑《ぬめ》なりしかば、立《たち》あがり、衣のすそを割取《さきとり》て、柄にまとひ、咽を刺たりと云。又、この番衆の部屋は、坊主衆の部屋の向《むかひ》にて、隔《へだて》に板塀あり。某と云《いふ》小坊主、見ゐたるに、何か騷動の音なりしが、やがて、外記、血刀を提《さげ》て、椽《えん》に出で、手水鉢の水を吞《のみ》たり。小坊主は、懼《おそろ》しく覺たれば、かの塀の戶口を〆《しめ》たり。其後は知らず、と。諺に「惡事千里」と。この一件、都下一般のとり沙汰《ざた》なれど、理外なるは、廿三日の晝前、朝川鼎《あさかはかなへ》が宅に、杉戶宿より、田夫、來り、玄關に腰をかけ居《をり》、何か話すを聞けば、この騷ぎのことなり。鼎、思ふには、『前日、哺時後《ひぐれどきあと》のことなるに、九里餘、行程ある杉戶の者、翌晝前に、かく話すこと、不審なり。』と、立出て、その田夫に「何《いか》かに。」と問《とひ》たれば、「其ときの書付など、持《もち》ゐたり。」となり。又、御小姓組なる某の示せしもの、有り。「他組のこと成《な》れど、實記にや。」と、左に寫す。

[やぶちゃん注:「御場」冒頭で引用した中の『駒場野の追鳥狩』で、駒場野は現在の東京都目黒区駒場で、江戸時代の将軍の鷹狩場。広さは約十六万坪もあった。この附近(グーグル・マップ・データ。以下注なしは同じ)。戦前の「今昔マップ」も添えておく。「御場」は「御拳場」(おこぶしば)或いは「御留場」(おとめば)の略で、前者は、将軍が、自ら、拳に鷹をすえて狩りをする猟場の意であり、後者は一般人の立ち入りを止めていたのの意か、厳重な禁猟区で鳥を嚇すことさえも禁止されていた。

「朝川鼎」は儒学者朝川善庵(天明元(一七八一)年~嘉永二(一八四九)年)。鼎は本名。字は五鼎(ごけい)。当該ウィキによれば、本篇の著者『平戸藩主』『松浦氏を初めとして津藩主・藤堂氏や大村藩主』『大村氏などの大名が門人となり』、江戸本所の小泉町』(現在の墨田区両国二~四丁目相当。「人文学オープンデータ共同利用センター」の「江戸マップβ版 尾張屋版 本所絵図 本所絵図(位置合わせ地図)」をリンクさせておく)『に私塾を開いていた。

「杉戶宿」(すぎとじゅく)は江戸日本橋から五番目の奥州街道・日光街道の宿場町。現在の埼玉県北葛飾郡杉戸町にあった。]

 

    四月廿二日夕七時前

手負 高千五百五拾石【西丸御書院番、酒井山城守組。】

          間部《まなべ》源十郞

      宿赤坂三河臺   未四十八

  ひよめき、はすに三寸程、深さ壱寸

  五分程の疵、一ケ所。右の手首、竪

  (たて)に四寸程、深さ弐、三分程

  之疵、一ケ所。同所、大指の脇、弐

  寸程之そぎ疵、一ケ所。

[やぶちゃん注:「夕七時」(ゆふななつどき)不定時法で午後四時半過ぎ頃か。

「宿」「しゆく」と音読みしておく。屋敷。

「未四十八」「未」は本年(干支)のことで、数え年。

「ひよめき」本来は「乳児の頭の前頂部の骨と骨との間の隙間」を指す。

「三寸」約九センチメートル。

「壱寸五分程」約四センチ五ミリ。

「四寸程」約十二センチ。

「弐、三分程」約六~九ミリ。

「大指」「おやゆび」。

「弐寸」六センチ。]

手負 高千五百石 同   神尾五郞三郞

      宿椛町貳丁目谷  未三十

  尻こぶた、橫に三寸程、深さ五、六

  分程之疵、一ケ所。

[やぶちゃん注:「尻こぶた」「尻臀」。尻の左右に分かれた肉付きの豊かな部分。

「五、六分程」約一・五~一・八センチ。]

卽死 高三百俵 同 【式部御用人、可十郞、總領】

              戶田彥之進

      宿小日向冷水番所   未三十二

  かたより、ゑりへかけ、はすに一尺

  三、四寸、深さ二寸程の疵、一ケ所。

  尻こぶた、二寸程の淺疵、一ケ所。

[やぶちゃん注:「一尺三、四寸」約三十九~四十二センチ。]

卽死 高八百石   同    沼間右京

      宿新道壹番町     未三十二

  右の頰の下、咽《のど》え、かけ、

  五寸程、深さ、七、八分程の疵、一

  ケ所。右の手、ひぢの下、竪に三寸

  程の淺疵、一ケ所。

[やぶちゃん注:「五寸程」約十五センチ。

「七、八分程」約二・一~二・四センチ。]

卽死 高八百石   同    本多伊織

      宿北本所津輕西門前南角 未五十八

  耳のわきより、あばら迄、はすに一

  尺二、三寸程の深疵、一ケ所。

[やぶちゃん注:「一尺二、三寸」約三十六~三十九センチ。]

自殺 高三百俵   同 【西丸御小納戶、賴母總領。】

      宿築地小田原町  松平外記

  咽に、突疵、一ケ所。腹に、突疵、一ケ所。

或曰。この外記が自盡せしときは、腹に突《つき》たてし刀、あまり深くして引𢌞すこと、能はず。乃《すなはち》、ぬきて、咽に突たてたれど、死せず。因て、刀をぬきて、席《たた》みに置《おき》たるとき、卽ち、死せり、となり。又、外記の脇指は「村正」に非ずして、關打《せきうちの》平造《ひらづくり》の者にして、一尺三寸なりし、と云。又、一人、厠に居《をり》しを、外記、戶を開き見て、「其《そこ》もとには、遺恨なし。」迚《とて》、そのまゝ立去りながら、「掛金を外よりかけて行たれば、内より出ること能はず、こまりたり。」となり。

[やぶちゃん注:「築地小田原町」厳密には「築地南小田原町(つきぢみなみおだはらちやう)」が正しい。現在の中央区築地六丁目・七丁目(グーグル・マップ・データ)。築地本願寺の裏手にして聖路加国際病院の南西並びで、今の勝鬨橋附近の隅田川右岸に当たる。

「一尺三寸」約三十九センチ。]

 

 十月九日於堀田攝津守殿御宅仰渡候之寫

    申渡之覺

          西丸御書院番頭 酒井山城守

                  名代 高木右京

當四月廿二日當番之節、松平外記刄傷之始末、追々被ㇾ遂御詮議候處、夕七つ時過之變事に而《て》、本多伊織、沼間右京、戶田彥之進者《は》、卽死、間部源十郞者、深手に而《て》倒れ、其餘、部屋内之者共、手負候、神尾五郞三郞迄、御番所え、走出、御襖を立候内、外記、自殺候由之處、池田吉十郞儀、刻限其外、諸事、品《しな》能取繕《よくとりつくろひ》、僞《いつはり》之儀、申候旨、御番衆一同申ㇾ之。其方儀、爲ㇾ泊《とまりのため》罷出、大久保六郞右衞門より承り候はゞ、早速、遂見分、御目付、申談取斗可ㇾ申《とりはからひまをすべき》處、大病人之由、相違《さうい》之儀、宜《よろしく》、新庄鹿之助え、申、鹿之助より及催促候而も、有躰《ありてい》之儀、不申達、常躰《つねのてい》病人に可旨、數原《すはら》玄忠え、打合候儀は無ㇾ之由申聞候得共、度々、容躰書《ようだいがき》も爲引替候由、玄忠者、申立、終夜、疵人《きずびと》之療養も不ㇾ加、其分に打過在候者、右程之變事を内分に取斗度《とりはからひたき》心底と相聞、至翌朝手負自殺と申達候而も、屆書御目付見分之節、卽死之者を存命之趣に取斗、其外、諸事、吉十郞、取繕候相違之儀共、其儘に申立候段、彼是、如何之次第《いかがのしだい》、不束《ふつつか》之事候。依ㇾ之、御役御免、差扣《さしつかへ》被仰付者也。

[やぶちゃん注「堀田攝津守」は当時の若年寄(堅田藩藩主)堀田正敦(まさあつ)。

「差扣」江戸時代の刑罰の一つ。公家・武士の職務上の過失、又、その家来や親族に不祥事があった際、出仕を禁じ、自邸に謹慎させることを言う。無論、これは最終的な処罰ではなく、審議途中の臨時刑に過ぎない。

 以下、殆んど同一内容の文書が、二通、示されるが、これは別な複数の人物によって内容が厳重に再検証されているのであり、逆にその精度が資料として、いや高まる。]

 

          同組頭 大久保六郞右衞門

              名代 本多鍵太郞

當四月廿二日當番之節、松平外記刄傷之始末、追々被ㇾ遂御詮議候處、夕七つ時過之變事に而、本多伊織、川間右京、戸田彥之助は卽死、問部源十郞者、深手に而倒れ、其餘、部屋内之者共、手負候神尾五郞三郞迄、御番所え、走、御襖を立候内、外記、自殺候由之處、池田吉十郞儀、刻限其外、諸事、品能取繕、申候旨、御番衆一同申ㇾ之。其方儀、中之口部屋に罷候事に候得共、最初より樣子も及ㇾ承ㇾ申處、手負人之容躰、數原玄忠え、爲ㇾ見《みせ》ながら、最初より不ㇾ殘、病人之由、或者、壱人、自殺、外者、病氣之旨、御目付え、申達、容躰書も、度々、玄忠より爲引替、終夜、疵人之療養も不ㇾ加、其分に打過候者、右程之變事を内分に取斗度心底と相聞、至翌朝手負自殺と申達候而も、屆書御目付見分之節、卽死之者を存命之趣に取斗、其外、諸事、吉十郞、取繕候相違之儀共、其儘に申立罷在候段、彼是、如何之次第、不束之事に候。依ㇾ之、御役御免、差扣被仰付者也。

 

           西丸御目付 新庄鹿之助

                 名代 春田四郞五郞

其方儀、當四月廿二日當番之節、酒井山城守組御書院番及刄傷候儀、組頭大久保六郞右衞門より、最初は、五、六人病人之由申聞、自殺壱人、病人、四、五人と申ㇾ之、又、山城守より者、六人共、病人之由に而、駕籠斷《ことわり》差出候得共、風聞も承り候事故、駕籠に而、差出候取斗、難ㇾ致、勘辨之上、可申聞旨、及挨拶候處、其後、度々致催促候而も、段々、及延引、至翌朝、自殺・手負之旨、申聞候に付、御本丸當番之外料《ぐわいれう》呼上之儀、申遣候由候得共、殿中不容易變事に而、風聞も承り候儀と申、殊に番顯・組頭申聞候趣も、彼是、致相違、數原玄忠、差出候容躰書も、度々、引替候上者、疑敷《うたがはしき》儀に付、不取敢、遂穿鑿見分取斗可ㇾ申處、翌朝に至迄、等閑《なほざり》に打過罷在候段、内談之趣をも致承知、其筋々之存意に令同意候之儀故と相聞、勤柄《つとめがら》に不似合始末、不束之事に候。依ㇾ之、御役御免、差扣被仰付者也。

[やぶちゃん注:「外料」(現代仮名遣「げりょう」)は、底本では後文再出でも編者によるママ注記があるのだが、これは江戸時代、外科医を表わす語として普通に資料に出(「外科」の誤字ではない)、辞書にも載るので、この注記は甚だ不審である。

 

          同    阿部四郞五郞

               名代 阿部忠四郞

其方儀、當四月廿二日加泊之節、酒井山城守組御書院番及刄傷候儀、當番新庄鹿之助え、組頭大久保六郞右皆門より、五、六人急病人有ㇾ之由申聞、其後、山城守より者、大病人と而已《のみ[やぶちゃん注:二字の読み。]》申立候段及ㇾ承、鹿之助、取斗、可任置《まかせおくべく》、翌朝、自殺手負之旨、申聞候迄、等閑に打過罷在、殿中不容易變事之處、强而《しひて》病人と申張《まをしはり》候は、山城守、存寄《ぞんじより》可ㇾ有ㇾ之事に存候迚、段々、及延引候儀之旨申聞候段、如何之次第、不束之事候。依ㇾ之、御役御免被ㇾ成候。

[やぶちゃん注:「加泊」「かはく」と読んでおく。「泊りの当直をする(仕事に「加」わる)」という意味であろう。]

 

                 松 平 賴 母

                  名代 三枝傳五郞

 西丸御小納戶役、御免被ㇾ成候。

右、於堀田攝津守宅、若年寄・中・西丸共、出坐、同人申

[やぶちゃん注:刃傷に及んだ松平寛の父である。]

 

            御番醫師 數 原 玄 忠

其方儀、當四月廿二日、西丸當詐番に罷在、酒井山城守組御書院番、及刄傷候節、疵所之樣子、乍見請《みうけながら》、其筋筋之意存、離れ候儀、難申立迚、手負人之趣に、御目付え、容躰書、差出し、其後も任内談、色々、容躰書、引替、翌朝、手負・自殺之書面に相直候而も、疵人、何《いづれ》も存命之由、相違之儀、申立、御目付見分之節も同樣之書面、差出候段、不束之事候。

[やぶちゃん注:「其筋筋之意存、離れ候儀」その上司らの言い分と、事実が全く「相違」していることを。]

 

                 竹 内 英 仙

                 名代 田中俊哲

            同外料  曾 谷 伯 安

                 名代 岡本東明

                 河 島 周 庵

                 名代 古田瑞琢

                 天 野 良 運

                 名代 坂本養景

其方共儀、當四月廿二日於西丸酒井山城守組御書院番手負人之容躰見請候節、五人共、疵之淺深者、有ㇾ之候得共、存命之趣、見《これ、けんぶんし》、御目付え、申達書之内、三人は相果候儀候處、相違之儀、申聞候段、其筋筋之存意に相泥《あひなづみ》候事と相聞、不束之事に候。

右於テ同人宅同人申渡之、御目付御手洗五郞兵衞・柴田三左衞門、相越。

[やぶちゃん注:「其筋筋之存意に相泥《あひなづみ》候事」その上司連中の隠蔽工作の仕儀に積極的に添うように振る舞ったこと。]

 

 十月九日 西九御書院番一件落着被仰渡之控

    申渡之覺

[やぶちゃん注:ここに底本(一九七七年平凡社刊中村・中野氏校訂「東洋文庫」版)には『(〈 〉内小字は朱書――校訂者)』とある。太字に代えて差別化した。]

 

   【西九御書院番酒井山城守組】神尾五郞三郞

                     三十

其方儀、當四月廿二日請取當番之節、部屋二階に致轉寢《うたたね》罷在候處、夕七つ時過、物音に而目覺、松平外記、相番共を及二刄傷一候を乍見受捕押《とりおさへ》も不ㇾ仕、上り口之方え、披《ひら》き、後ろ疵を請《うけ》、二階より落《おち》、白衣、無刀之儘、御番所え缺出《かけいだし》、「蘇鐵之間《そてつのま》」迄、參り候段、卑怯之次第候。剩《あまつさへ》、有躰《ありてい》申立存、遁出《にげだし》候儀を押隱《おしかくし》罷在候段、旁《かたがた》不埓之至に候。依ㇾ之、改易被仰付者也。

[やぶちゃん注:只管、逃げまくった、本事件の最も武士としてあるまじき不面目の男の処分。確かに生きている関係者では、最も重い「改易」お家断絶である。

 

                 池田吉十郞

                    五十二

其方儀、當四月廿二日請取當番之節、部屋二階より下り、藪庄七郞と談居《だんじをり》候處、夕七つ時過、致物音、松平外記及刄傷候由に而、二階之相番共、駈下り候に付、驚《おどろき》、白衣・無刀之儘、外《ほか》相番共一同、御番所え、駈出、外記を捕候心付も無ㇾ之、御襖を建、剩《あまつさへ》、井上政之助、着用之、上下・脇差、押而借請《おして、かりうけ》、漸《やうやう》、部屋裏之方より𢌞り、見屆候仕合《しあはせ》故、最早、外記、自殺に及候始末に至り候段、臆候次第に候。其上、有躰申立候而者《ては》、難相濟存じ、刻限は暮六つ時過に而、相番共六人者《は》、張番、六人者、膝代りに出、此者近藤小膳者、組顯部屋え、可シ二相越ス一と、「蘇鐵之間」迄參り候節、變事之由、卽死之者も存命之旨、相違之儀とも此者取繕申張罷在候段、御後《おんうし》ろ闇《ぐらき》致し方、殊に重立《かさねだて》、乍取扱、疵人之手當其外、不行屆取斗方、彼是、不埒之至候。依ㇾ之、御番、被召放。隱居被仰付候。愼可罷在者也。

[やぶちゃん注:「御後《おんうし》ろ闇《ぐらき》致し方」の「御」は将軍に対してのニュアンスであろう。]

 

                 間部源十郞

                    五十八

其方儀、當四月廿二日請取當番之節、部屋二階に居眠罷在候處、松平外記、此者、頭上切付疊懸《きりつけ、たたみか》け、右之手首えも、疵、請《うけ》、眼中え、血、流れ入、其儘、倒れ罷候段、不意之儀と者《は》乍ㇾ申、油斷之次第、不心懸《ふこころがけ》之至《いたりに》候。依ㇾ之、御番被召放、隱居被仰付。愼可罷在者也。

[やぶちゃん注:これは実際には、深手を負い、事件の翌日(或いは翌々日とも)に死亡したはずの間部隼人源十郎に対する処分。しかし、以上の通り、源十郎は死んでいないことになっている。不審。]

 

                 藪庄 七郞

                    五十一

                  近藤 小膳

                    五十一

其方共儀、當四月廿二日泊番之節、部屋に罷在候處、夕七つ時過、致物音、松平外記及刄傷候由に而、二階之相番共、駈下り候に付、驚、相番共、一同、御番所え、駈出、外記を取押候心付も無ㇾ之、池田吉十郞、部屋内を見屆候迄、御襖を建候段、臆候次第候。剩、有躰難ク申立テ存、取候樣、吉十郞え、相任、相違之儀ども、但々、申張罷在候始末、古くも乍ㇾ勤、別而《べつして》、不埒之至に候。依ㇾ之、御番被召放、小普請入《こぶしんいり》、逼塞《ひつそく》被仰付者也。

[やぶちゃん注:「逼塞」現代仮名遣「ひっそく」。武士や僧侶に行われた謹慎刑。門を閉じ、昼間の出入りを禁じたもの。「閉門」(門・窓を完全に閉ざして出入りを堅く禁じる重謹慎刑)より軽く、「遠慮」(処罰形式は「逼塞」と同内容であるが、それよりも事実上は自由度の高い軽謹慎刑)より重い。夜間に潜り戸からの目立たない出入りは許された。

 

                 長野勝次郞

                    三十三

其方儀、當四月廿二日、當番之節、爲使用部屋二階より下り候處、夕七つ時過、致物音、松平外記、及刄傷候由に而、二階之相番ども、駈下り候に付、驚、白衣・無刀之儘、相番一同、御番所え、駈出、御襖を建、吉十郞、部屋内之祿子、見屆候迄、押へ罷在候段、臆候次第、剩、事濟候後も、痔疾、差發《さしおこり》候迚、夜五時《よるいつつどき》頃迄、便所に罷在、殊に有躰申立、吉十郞、取候相違之儀を、同樣、申候段、旁《かたがた》、不埒之至に候。依ㇾ之、御番被召放、小普請入、逼塞被仰付者也。

[やぶちゃん注:「夜五時頃」不定時法で午後八時半頃。]

 

                 川村淸次郞

                    五十二

其方儀、當四月廿二日請取當番之節、部屋二階に致休息候處、夕七つ時過、松平外記、不意に脇指を拔、本多伊織、戸田彥之進え、切付候に付、驚、外記を捕押候心付も無ㇾ之、白衣・無刀之儘、駈下り、外相番共、御番所、駈出候節、出後《でおく》れ、左之手を御襖建付え、被ㇾ挾候事、難儀、葛籠重《つづらがさ》ね、有ㇾ之、側之《そばの》屛風を引寄せ、事濟候迄、其間に隱れ居候段、臆候次第候。剩、有躰申立、吉十郞、取候相違之儀を、同樣、申候段、旁、不埓之至に候。依ㇾ之、御番被召放。小普請入、逼塞被仰付者也。

[やぶちゃん注:「請取當番」先に当番であった者が、後の者に交代することであろう。

「葛籠重ね」竹を使って網代に縦横に組み合わせて編んだ四角い衣装箱の積み重ねたもの。]

 

                  伊丹七之助

                    四十七

                  小尾友之進

                    三十六

其方共儀、當四月廿二日請取當番之節、部屋二階に休息致し罷候處、夕七つ時過、松平外記、腰物、拵《こしらへ》之咄《はなし》抔致、不意に脇差を拔、本多伊織、戶田彥之進え、切付候付、驚、外記を捕押候心付も無ㇾ之、白衣・無刀之儘、缺下《かけお》り、外《ほか》相番共一同、御番所え、駈出し、池田吉十郞、部屋内を見屆候迄、御襖を建候段、臆候次第候。剩、有躰申立、吉十郞、取候相違之儀、同樣、申候段、旁、不埒之至に候。依ㇾ之、御番被召放、小普請入、逼塞被仰付者也。

 

                 井上政之助

                    三十二

其方儀、當四月廿二日泊番之節、御番所張罷候處、夕七つ時過、松平外記、及刄傷候由に而、部屋内之者共、疵請《うけ》候五郞三郞迄、御番所え、駈候に付、席《たたみ》を立、狼狽罷候段、勤番之詮《なすすべ》も無ㇾ之、剩、吉十郞、任ㇾ申、上下・脇差迄、貸遣《かしやり》、近藤小膳、着替之上下を着し、事濟候後も、部屋内に、疵人、爲心付罷在候儀、迷惑に存じ、夜五時頃迄、裏、濡椽《ぬれえん》え、出候段、彼是、臆候次第候。殊に有躰申立存じ、吉十郞、取繕候相違之儀を、同樣候段、旁、不埒之至に候。依ㇾ之、御番被召放、小普請入、逼塞被仰付者也。

 

                 飯塚甲之助

                    四十八

                  堀長左衞門

                    四十二

                  橫山重三郞

                    三十六

其方共儀、當四月廿二日泊番之節、部屋に罷處、夕七つ時過、松平外記及刄傷候由に而、二階之相番共、駈下り候に付、外、相番一同、御番所え、駈出、外記を捕押候心付も無ㇾ之、吉十郞、部屋内を見屆候迄、御襖を建候段、臆候次第候。剩、有躰難申立存、吉十郞、取候相違之儀を、同樣、申候段、不埒之至候。依ㇾ之、御番御免、小普請入、差扣被仰付者也。

                 内藤 政五郞

                    四十二

                  荒川三郞兵衞

                    三十六

                  日 向 政 吉

                    三十一

其方共儀、當四月廿二日泊番之節、御番所張罷候處、夕七つ時過、松平外記及刄傷候由に而、部屋内之者共、疵、請候五郞三郞迄、御番所え、駈出候に付、席を立、狼狽罷候段、勤番之詮も無ㇾ之、殊に有躰難申立存じ、吉十郞、取候相違之儀を、同樣候段、旁、不埒之至候。依ㇾ之、御番御免、小普請入、被仰付者也。

 

                 曲淵大學

                   三十六

其方儀、駒場野追鳥狩《おひとりがり》に付、席下之松平外記、拍子木役に相成候を不心能存じ《こころよからずぞんじ》、宅え、外記、吹聽に參り候節、申《まをしあざわらひ》、同人宅え、寄合之節、半之助、任ㇾ申、致不參、外記、心に留候樣子に而、「病氣」を申立、拍子木役を相斷、當四月廿二日、相番共を、及刄傷候次第に至候段、差迫、致亂心候儀と相聞候。外記、氣狹成生質《きせばなるたち》と存候はば、其心得も可ㇾ有ㇾ之處、嘲哢ケ間敷申成《てうろうがましくまをしなし》候段、不埒之事に候。依ㇾ之、御番御免、小普請入、被仰付者也。

[やぶちゃん注:ここ以降の複数の人物が、最後に松平外記忠寛に加えられた精神的な意味での「イジめ」の致命的一撃の張本連中であった。特に、この曲淵(まがりぶち)大学と、次の安西伊賀之助の実行犯二人によるそれこそ、外記をして刃傷に走らせたスプリング・ボードであった。外記が実は本当に殺したかった最悪の連中に、この二人は必ず含まれる。曲淵大学は、旗本で二千五十石、ここにある通り、小普請入りとなり、御役御免の上、屋敷も移転させられている。命が助かっただけでも、恩の字と思え!

 

                 安西伊賀之助

                    四十一

其方儀、駒場野追鳥狩に付、席下之外記、拍子木役に相成候を不心能存じ、同人宅寄合之節、遲刻致し、於席上、外記、心に障り候儀、申ㇾ之、鼠山《ねづみやま》稽古之節も、彼是、申嘲《まをしあざわらひ》、廉立《かどだち》候及挨拶、同人、心に留り候樣子に而、「病氣」を申立、拍子木役を相斷、當四月廿二日、相番共え、及刄傷候次第に至り候段、差迫、致亂心候儀と相聞候。外記、氣狹成生質と存候上は、其心得も可ㇾ有ㇾ之處、嘲哢ケ間敷儀申成候段、不埒之事に候。依ㇾ之、御番御免、小普請入、被仰付者也。

[やぶちゃん注:「安西伊賀之助」は旗本で八百五十石。同前で、小普請入り、御役御免、屋敷も移転させられた。

「鼠山」個人ブログ『Chichiko Papalog 「気になる下落合」オルタネイト・テイク』の『江戸期の絵図でたどる「鼠山」』で古地図を用いて細かな考証がなされている。恐らくは、下落合の丘陵地帯で、この「御留山」辺りに近いか。]

 

                 岡部半之助

                    四十三

其方儀、外記を、伊賀之助・大學、嘲哢致し候儀、及見聞、外記儀、「席上之者を越、拍子木役に成、心配。」之旨申聞候儀も有ㇾ之、此者、相拍子木役之儀にも候得者、心付方も可ㇾ有ㇾ之處、其儘に打過候段、不束之事に候。

[やぶちゃん注:この岡部半之助は、外記がはっきりと心配を漏らしていることから、それなりに外記が信頼していた人物と思われる。彼は「イジめ」の不作為犯ということになる。

 

                 内田伊三郞

                    四十

                  細井吉太郞

                    二十一

                  松平九郞右衞門

                    三十

其方共儀、外記を伊賀之助・大學、致嘲哢候儀及見聞候はゞ、心付方も可ㇾ有ㇾ之處、其儘に打過候段、不行屆《ふゆきとどきの》事に候。

[やぶちゃん注:彼ら三人も「イジめ」の助勢罪の不作為犯である。]

 

           吉十郞、總領 池田市之丞

           病氣に付、名代

                御書院版八木丹波組   三島六郞

父吉十郞儀、御番被召放、隱居被仰付、知行高之内、被ㇾ減五百石。此者え、被ㇾ下、小普請入、被仰付者也。

[やぶちゃん注:これは盛んに出た、現場にいて、事態収拾を小賢しい悪知恵を以って虚偽に塗り固めようとした張本人池田吉十郎の処分である。病気というのも怪しいものだが、親父さん九百石から四百石を召し上げの処分を食らった。幕閣を騙そうとしたのだから、正直、ここまでの記載を見る限り、本人を重い逼塞以上にすべきであろうと思うのだが、ウィキの「千代田の刃傷」によれば、彼は養子で三島政春(九百石)の実子とあるから、或いは、この実父が幕閣にパイプを持っていたのかも知れない。]

 

           源十郞、總領 間部隼人

                   三十一

父源十郞、御番被召放、隱居被仰付候。此者儀、家替、無相違被ㇾ下、小普請入、被仰付者也。

[やぶちゃん注:これは実際には、深手を負い、事件の翌日(或いは翌々日とも)に死亡した間部隼人源十郎の子に対する処分。しかし、やはり、父源十郎は死んでいないことになっている。]

 

右之通、未十月九日於評定所大目付岩瀨伊豫守、町奉行筒井伊賀守、御目付金森甚四郞、立合ヒ、落着被候申渡書之寫。

   西丸御書院番頭え、相渡候御書取寫。

   手負、相果候に付、知行、上《あげ》り候。

           酒井山城守組 本多 伊織

   同斷に付、知行・屋敷・家作、上り候。

                  沼間 右京

   同斷に付、御切米、上り候。

                  戶田彥之進

   自殺に付、御切米、上り候。

                  松平 外記

右之通候間、可ㇾ被ㇾ得其意候。尤御勘定奉行、御普請奉行、小普請奉行え可ㇾ被ㇾ談候。

[やぶちゃん注:以上の「上り」というのは、幕府が取り上げてしまうことを指す。例えば、本多伊織(膳所藩本多家一門の本多忠豪養子)は子の右膳が事件後に家督相続をしてはいるが、米三百俵支給に減ぜられており、沼間右京は改易・絶家、戸田は、職禄米の召し上げを受け、結果的には絶家となっている。]

 

  西丸御小性組番頭え、相渡候御書取寫。

   西丸御書院番酒井山城守組

    伊織養子 大久保豐後守組 本 多 右 膳

右養父伊織、相果候に付、知行上り候。尤、右膳儀、御構《おかまひ》無ㇾ之、取米三百俵幷屋敷家作共、其儘被ㇾ下候間、其段可ㇾ被申渡候。

  未十月十日森川内膳正殿、西丸御徒士頭永田與左衞門え、御渡御書取寫。

 

       西丸御徒士頭 佐 山 左 門

當四月廿二日、松平外記、及刄傷候節、其方組當番に而、組頭鈴木伴次郞取扱方、行屆、組之者共、心懸け宜《よろしき》趣、相聞候。此段、無急度沙汰候事。

[やぶちゃん注:「無急度」「きつとなく」。緩み怠ることなく厳重に(今の状態を維持せよ)。]

 

       西丸表六尺  源  太郞

其方儀、西丸御書院松平外記儀、於御場所柄刄傷候上、致自殺候一件に付相尋候處、不埒之筋も無ㇾ之間、無ㇾ構。

右、於評定所、岩瀨伊豫守・筒井伊賀守・金森甚四郞、立合、伊豫守・伊賀守、申二渡之

 

   十月九日

  彼一件後、諸向《しよむき》へ被仰達書付

西丸御書院番松平外記、相番共を及刄傷候始末、被ㇾ掛御詮議之處、相番共、常々、嘲哢ケ間敷仕成《てうろうがましきしなり》も有ㇾ之に付、差迫亂心候樣子に相聞、變事之期《へんじのご》に至候而《いたりさふらふて》も、相番共、立候者も無ㇾ之段、不覺悟之事共に候。出勤之作法、組中も申合等は、前々度々、被仰出候趣も有ㇾ之處、兎角、心懸、等閑《なほざり》に相成、古番《こばん》之者は權高《けんだか》に我意《がい》を立《たて》、新規之者を爲ㇾ致迷惑之儀《めいわくいたさすのぎ》、組え、風儀之樣に成行候而は《なりゆきさふらうては》、如何之次第に候。向後《かうご》、御番方は不ㇾ及申に、何《いづ》れ、之《これ》、向々に而も《むきぬきにても》、非常之事有ㇾ之節、勤方、相立候樣、申合、一同、相互に致和熟、御奉公相勤ムル事、專一に心懸ㇾ申候。

右之通、向々《むきむき》え、可ㇾ被相達候。

   十月

2022/08/24

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 磬―鰐口―荼吉尼天 (その1)

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。注は各段落末に配した。彼の読点欠や読点連続には、流石にそろそろ生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、句読点を私が勝手に変更したり、入れたりする。今回は分割する。]

 

     磬―鰐口―荼吉尼天 (大正四年十月考古學雜誌第六卷第二號)

 

 津田君の磬の硏究の參考まで申し上ぐるは、Pierre Beron du Mans, Les observations de plusieurs singularités et choses mémorables, trouvées en Grèce, Asie, Judée, Egypte, Arabie, et autres pays etranges, à Paris, 1554, fol.38, a.  に云く、「ヴェネチア人に服從せる希臘人は、土耳古人の奴隸たる希臘人よりも多く自由を享く。彼輩兩つながら寺の門上に釘もて一鐵片を懸く。その厚さ三指、長さ一臂、やや弧狀に曲れり。之を打てば、淸音、鐘に似たるを出す。アトス山寺に全く鐘無く、此鐵片のみを用ひ、勤行の都度、之を敲いて僧衆を招集す」と。是れ、東南歐、ギリシア敎の高野山とも云べきアトス大寺に鐵磬類似の物を鐘に代用したるなり。今日も然りやを知らず。序でに言ふ、石を樂器に使ふ例、和漢石磬の外に、鈴石とて石中の穴巢に小石を孕めるを、振り鳴らして兒戲とする事有り。雲根志等に其記載有りしと記憶す。西大陸發見前より印甸人[やぶちゃん注:「選集」はカタカナで『インジアン』とする。]瓢に小石を入れ、柄を付け、振り鳴して樂器とせり。古祕魯人[やぶちゃん注:「古ペルー人」。]は長凡そ一呎、幅一吋半の綠響石の扁片、脊、曲り、厚さ四分の一吋、其れより、漸次、兩尖端に向て薄く成る事、小刀の刄の如きを、樂器とす。脊の中央に小孔有り、絲を通して、之を懸け、堅き物もて、打つ時、奇異の樂音を發すと。是れ、西大陸にも古く石磬有りしなり(Carl Engel, Musical Instruments, South Kensington Museum Art Handbook, 1875, pp.74, 76)。フムボルトが南米オリノコ邊で得たる天河石は、以前、土人、之を極て薄き板とし、中央に孔を穿ち、絲を通し、懸下して、堅き物もて打てば、金屬を打つ如き音を出せり。フ氏、歐州に還つて之をブロンニヤールに示せしに、ブ氏、支那の石磬を以て之に比せりと云ふ(Humboldt, Personal Narratives of Travels to the Equinoctical Regions of America,”  Bohn`s Library, vol.ii, p.397)。

[やぶちゃん注:「磬」(けい)は中国古代の体鳴楽器(弦や膜などを用いることなく、弾性体によって作られた本体が振動して音を出す楽器)で、「ヘ」の字形をした石、又は玉・銅製の板を吊り下げて、「ばち」で叩いて音を出す。一枚だけからなる「特磬」と、複数の磬を並べて旋律を鳴らすことができるようにした「編磬」があるが、後者が一般的である(以上は当該ウィキ他に拠った。リンク先に画像有り)。

「鰐口」(わにぐち)は当該ウィキによれば、『仏堂の正面軒先に吊り下げられた仏具の一種である』が、『神社の社殿で使われることもある。金口、金鼓とも呼ばれ』、『「鰐口」の初見は』正応六(一二九三)年の『銘をもつ宮城県柴田郡大河原町にある大高山神社のもの(東京国立博物館所蔵)』が表示名としては、現存するもので、最も古いとある。『金属製梵音具の一種で、鋳銅や鋳鉄製のものが多い。鐘鼓をふたつ合わせた形状で、鈴』『を扁平にしたような形をしている。上部に上から吊るすための耳状の取手がふたつあり、下側半分の縁に沿って細い開口部がある。金の緒と呼ばれる布施があり、これで鼓面を打ち』、『誓願成就を祈念した。鼓面中央は撞座と呼ばれ』、『圏線によって内側から撞座区、内区、外区に区分される』。物として『現存する最古のものは、長野県松本市宮渕出土の』長保三(一〇〇一)年の銘のもの、とある。辞書類を見ても、本邦で作られたものと推定されている。

「荼吉尼天」(だきにてん)は、仏教で、元は死者の肉を食う「夜叉」(鬼神)の類を指す。サンスクリット語「ダーキニー」の漢音写。「荼吉尼」「陀祇尼」とも表記する。大黒天の眷属とされ、六ヶ月前から人の死を予知する能力を持ち、臨終を待って、その肉を食らうとされる。密教の「胎蔵現図曼荼羅」の外院(げいん)南辺に配置されている。「大日経疏」(だいにちきょうしょ)巻十及び「普通真言蔵品」(ふつうしんごんぞうほん)第四に説かれている。人体中の黄(おう:心肝)を食すると、総てを意のままに成就することができるとされている。なお、本邦では、稲荷神の本地仏とされ、愛知県の豊川稲荷(妙厳寺(みょうごんじ))に祀られている(小学館「日本大百科全書」拠った)。

「津田君の磬の硏究」宗教学者で帝室博物館宗敎部主任を務めた津田敬武(のりたけ 明治一六(一八八三)年~昭和三六(一九六一)年:兵庫生まれ)の大正四(一九一五)年八月発行『考古学雑誌』第五巻第十二号所収の「磬の研究」。

Pierre Beron du Mans, “Les observations de plusieurs singularités et choses mémorables, trouvées en Grèce, Asie, Judée, Egypte, Arabie, et autres pays etranges, ” à Paris, 1554」フランスの博物学者で外交官でもあったピエール・ベロン・デュ・マン(Pierre Belon du Mans 一五一七年~一五六四年:ラテン語名Petrus Bellonius Cenomanus(ペトリュス・ベローニウス・セノマヌス))が一五五三年に刊行した“Les observations de plusieurs singularitez et choses memorables trouvées en Grèce, Asie, Judée, Egypte, Arabie et autres pays étrangèrs.” (「ギリシャ・アジア・ユダヤ・エジプト・アラビアその他の外国で発見された多くの特異点と記憶に残る対象の観察」)。

「アトス山寺」アトス山はギリシャ北東部のエーゲ海に突き出したアトス半島の先端に聳える標高二千三十三メートルの山で、その周辺はギリシャ正教会(東方正教会)の聖地となっており、「聖山」とも呼ばれる。寺は同正教会の修道院を指す。参照した当該ウィキによれば、『アトス山周辺には現在』も二十もの『修道院が所在し、東方正教の一大中心地である』とある。

「鈴石」(すずいし)は珍石の一種で、鳴石(rattle stone)と同類。球、乃至、楕円体の小さい土塊(結核体)で、振ると鈴のように音を立てる。本邦では、北海道名寄市郊外から産出するものが有名で、「名寄の鈴石」とよばれ、昭和一四(一九三九)年に天然記念物に指定された。これは径三~六センチメートルの中空の土塊で、粘土や砂が固まってできた鉄分の多い結核体が、その中心部で溶けだし(石灰分の多い中核が溶出するといわれる。ここで熊楠の言う「穴巢(けつさう)」がそれ)、周囲の砂などが、中に残ることによって形成された。第四紀更新世の河岸段丘層から産出する(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「雲根志等に其記載有りしと記憶す」本草学者で奇石収集家であった木内石亭が発刊した、私の遺愛する奇石書「雲根志」(安永二(一七七三)年前編・安永八(一七七九)年後編・享和元(一八〇一)年三編を刊行)の中の「前編巻之四」の掉尾にある「鈴石 卅一」。所持する現代思潮社復刻本『日本古典全集』で電子化する。句読点を打った。一部に濁点を打った。

   *

鈴石(すゞいし) 卅一

其色、薄(うす)白く、鷄卵(けいらん)のごとし。これを振るに、其こゑ、鈴に似たり。石中(せきちう)、空虛にして小石をふくむと見へたり[やぶちゃん注:ママ。]。何國(いづく)の產をしらず。實(まこと)に奇物(きぶつ)也。又、大和の生駒(いこま)山に鈴石(すゞいし)といふ物を出す。是は、「本草」の太乙餘量(たいいつよりやう)也。又、濃刕(のうしう)赤坂の驛、市橋(いちはし)村谷氏は、が弄石の高弟也。近世、鈴石を見出せり。同國靑墓(あをばかの)近山の片山の奥にありと。最も奇品なり。又、鮓答(さくたう)の一種に鈴のごとく鳴ものあり。

   *

「本草」は明の李時珍の「本草綱目」であるが、正しくは「太乙餘糧」である。「石」の部では、巻十の「金石之四」の「代赭石」の「集解」に「太乙餘根」と出るのみだが、「太乙餘糧」ならば、巻三上の「百病主治藥上」に二ヶ所、巻四下の「百病主治藥下」に一ヶ所確認できる。これは、平凡社「世界大百科事典」の「鉄」の項の荒俣宏氏の記載の、『太一余糧は正倉院御物の中にあり』、『日本では子持石』、『〈いしだんご〉〈すずいし〉などと呼ばれる泥鉄鉱である』とあるものと同一物であろう。これらは所謂、漢方・民間薬として古くから知られていいたようである。「鮓答」は動物の体内に発生した結石様物質などを言う。私の「和漢三才圖會卷第三十七 畜類 鮓荅(へいさらばさら・へいたらばさら) (獣類の体内の結石)」を参照されたい。

「一呎」一フート。三十・四八センチメートル。

「一吋半」一インチ半。三・八一センチメートル。

「綠響石」(りよくきやうせき)は緑色の「響岩」(きょうがん:phonolite)のこと。化学組成上は霞石閃長岩(かすみいしせんちょうがん)に当たる火山岩の一種。「フォノライト」とも呼ぶ。斑状を成し、暗緑或いは暗灰色で、有色鉱物は少ない。細粒の粗面岩状或いはガラス質の石基中に、ソーダ正長石・玻璃長石・霞石などの斑晶を有する。有色鉱物は、エジリン輝石・アルカリ角閃石など。薄い板状に割れやすく、その板を叩くと良い音がすることから命名された(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「四分の一吋」六・三五ミリメートル。

Carl Engel, “Musical Instruments, ”South Kensington Museum Art Handbook, 1875, pp.74, 76)」ドイツの音楽家で楽器の蒐集家としても知られたカール・エンゲル(Karl Engel 一八一八 年 ~一八八二 年)の一八七五年の著作「楽器」。「Internet archive」のここと、ここが相当ページ。

「フムボルト」海流の名で知られるプロイセンの博物学者・探検家・地理学者で、近代地理学の祖とされるフリードリヒ・ハインリヒ・アレクサンダー・フォン・フンボルト(Friedrich Heinrich Alexander von Humboldt  一七六九年~一八五九年)。

「南米オリノコ邊」南アメリカ大陸で第三の大河であるオリノコ川(スペイン語:Río Orinoco)。長さは凡そ二千六十キロメートル、流域面積約九十二万平方キロ。「オリノコ」はカリブ族の言葉で「川」を意味する。当該ウィキによれば、『ベネズエラ南部のブラジル国境に近いパリマ山地に源を発し、トリニダード島の南側で大きな三角州をつくり大西洋に注ぐ。河川の約』五分の四は『ベネズエラ領で、残り『はコロンビア領に属する』。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「天河石」(てんがせき)は青緑色又は緑青色の微斜カリ長石。南米のアマゾンや、ロシアのウラル地方、インドのカシミール地方などで良石を産出する。現行では飾り石用とされる。「アマゾナイト」「アマゾン石」の名もある(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。

「ブロンニヤール」フランスの化学者・鉱物学者・地質学者で動物学者でもあったアレキサンドル・ブロンニャール(Alexandre Brongniart 一七七〇年~一八四七年)。

Humboldt, Personal Narratives of Travels to the Equinoctical Regions of America,  Bohn`s Library, vol.ii, p.397)」Equinoctical」の綴りは「選集」でも同じだが、これは「Equinoctial」の誤り。「アメリカ大陸赤道地方への個人的な旅の物語」。一九〇七年版の同書と当該部が「Internet archive」で見られる。七行目に‘Amazon-stone’とある。]

2022/08/23

多滿寸太禮卷第五 獺の妖恠 / 多滿寸太禮卷第五~了

 

[やぶちゃん注:基礎底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこれPDF・第四巻一括版)。本篇には挿絵はない。本篇を以って「多滿寸太禮卷第五」は終わっている。]

 

   獺(かはをそ)の妖恠《えうけ》

 大永年中に、都五條の洞院に、一人の商人(あきうど)有《あり》、又五郞と名づく。年每に、駿河・遠江に徃來《わうらい》して、染絹を商ふ。

 その比《ころ》、世間も、しばしば、おだやかならねば、徃來(ゆきゝ)も、たやすからず。

[やぶちゃん注:「大永」。一五二一年から一五二八年まで。室町幕府将軍は足利義稙・足利義晴だが、既に戦国時代で大永七(一五二七)年二月十二日には「桂川原の戦い」が勃発、管領細川高国が細川六郎の連合軍に大敗して、将軍足利義晴を奉じて京から落ち延び、評定衆や奉行人まで逃げ出したため、幕府の機能は完全に麻痺していた。

「都五條の洞院」この中央附近(グーグル・マップ・データ)。]

 春も末つ方、都を出《いで》、高荷(たかに)は、人、あまた、そへてやり、その身は、共(とも)ひとりを具して行《ゆき》けるが、美濃・尾張を過《すぎ》て、已に三河路《みかはぢ》にかゝりて急ぎしに、二村山《ふたむらやま》のほとりにて、日、漸々(やうやう)、かたむき、人家、程遠くして、足、なづみ、入相(いりあひ)つぐる鐘の音も、聞えず、たつきもしらぬ山の麓に、霞(かすみ)、引《ひき》わたして、おぼろ月よの、ほのかにさしいでけるに、むかふをみれば、一むら茂れる森の木陰に、朱(あけ)の玉垣(たまがき)、かすかに見へければ、

「こよひ一夜(いちや)は、此《この》拜殿にあかさばや。」

と、御燈(ごとう)のひかりにつきて、立《たち》よりみれば、本社・拜殿、きらをみがき、

「さも結構なる御社《みやしろ》なり。いかなる神の御鎭座《ごちんざ》にや。」

と、心靜かに禮拜(らいはい)して、則ち、拜殿にのぼりて、わりごなんど、取り出だして、下部(しもべ)もろとも、食(しよく)して、

「究境(くつきやう)のやどり。」

と、嬉(うれ)しく、前なる川にて、足をあらひ、御寶殿の下に、淸らかなるやどりあれば、主從二人、もろ共に、前後もしらず、うちふしける。

[やぶちゃん注:「二村山」は現在の愛知県豊明市沓掛町皿池上(くつかけちょうさらいけかみ)にある標高七十一・八メートルの山。当該ウィキによれば、『豊明市の最高地点であり、眼下に広がる濃尾平野や岡崎平野のかなたに猿投山や伊吹山地、御嶽山までを一望にしうる景観は名勝として古くから知られる。歌枕ともなり、平安時代の頃から数多くの歌や紀行文の題材にされてきた。現在でも山頂から山麓にかけて、その長く風趣な歴史を物語る歌碑・石碑がいくつか残されている』とある。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。話柄内時制の二十余年後の「桶狭間の戦い」の戦地の東北直近である(次注の地図リンクで左下方に同「古戦場伝説地」を配しておいた)。

「たつきもしらぬ山の麓」「一むら茂れる森の木陰に、朱(あけ)の玉垣(たまがき)、かすかに見へければ」二村山山麓の神社となると、豊明神社であろうか。但し、後で「二村山八幡宮」と出るのだが、現行では八幡神を祀っているかどうか確認が出来なかった。]

  已に夜更(よふけ)、しづまりけるに、數(す)十人の聲して、どよめきければ、又五郞、目をさまし、ひそかにのぞき、うかゞひみるに、拜殿に、蝋燭《らふそく》、あまた、たてならべ、金(きん)の屛風、引《ひき》まはし、さも、きらびやかに裝束したる、めのと・半者(はしたもの)、ちらちらと、火かげに、みゆ。

「こは、いかに。」

と、よくよくみれば、上座とおぼしき所に、廿(はたち)あまりの上郞、琴(きん)をたづさえて、引しらぶるけしき、いはんかたなく、いつくしきに、年比(としごろ)の尼比丘尼(あまびくに)、そのかたはらにあり、女(め)の子童(わらは)三人、同じごとく出で立ちて、日を出したる扇子(あふぎ)を、一やうに、かざし、此上郞、琴を彈(だん)じ、尼は、ひとよぎりをふけば、めのとは、三味線(さみせん)をならしけるに、かの三人の童(わらは)は、やがて立ちあがり、調子にあはせて舞《まひ》をどりける。

[やぶちゃん注:「ひとよぎり」「一節切」。尺八の一種。長さ一尺一寸一分(約三十四センチメートル)ほどの短い竹製の縦笛。普通の尺八と異なり、節は一つだけある。室町中期に中国から伝えられたとされ、江戸時代にかけて用いられた。]

 くまなき春の朧月は思ふにつらし

 やみは 人めもいとはぬに 雨は

 音せで ふる五月雨《さみだれ》

 に ほさぬ袂は 風吹くかたへ

 引《ひか》ば なびかん花かづら、

 たぐひもあらしの山櫻 余所(よそ)

 の見るめも いかならん

と、おしかへし、おしかへし、立《たち》まふ體(てい)、まことに、又、たぐひなふ、めもあやに詠(なが)めゐたるに、布衣(ほい)のごとくに、白裝束したる、おのこ壱人《ひとり》、たてゑぼしきて、さも、すゝどげなる男、兩三人、松明(たいまつ)ともして、御手洗川(みたらし《がは》)の邊(へん)より出《いで》て、靜かにあゆみ入來り、拜殿にのぼり、上郞共に打みだれて、興を催(もよほ)しけるに、色々の生魚(なまうを)、數々、鉢(はち)にいれて、持ちはこぶ。

[やぶちゃん注:「御手洗川」これは固有名詞ではなく、神社に引き込んである浄水に主流であろう。]

 その魚、生《いけ》るがごとし。

 鯉・鮒・鱸(すゞき)なんどの、おどりはねしを、此の男ども、つかみくらいて[やぶちゃん注:ママ。]、男女(なんによ)、入《いり》みだれ、うちふし、不禮なるさま、いふ斗りなし。

 各《おのおの》、女、一人づゝ、かい抱(いだ)きて、たわむれたる[やぶちゃん注:ママ。]ありさま、ひとへに、人間(にんげん)のごとし。

 あまりに、ふしぎにおぼえて、よくよく、みれば、男の貌(かほ)、まなこ、丸く、ちいさく、口とがり、色、黑し。

『何樣(なにさま)、けだものゝ妖(ばけ)たるにこそ。』

と思ひければ、旅の用意に、もたせたる半弓《はんきゆう》を取り出《いだ》し、能(よ)く狙ひすまし、大將とおぼしき者の、胸のほとりを、したゝかに射付(いつけ)たり。

「あつ。」

と、おめく音(おと)して、上下、肝(きも)をけし、とりどり、逃げ出でたり。

 此《この》まぎれに、女共も、いづちいにけん、火も、きへ、闇に成りたり。

 かくて、漸々、明がたになり、しのゝめも、しらじらと明《あく》る比《ころ》ほひ、社司、二人、出で來りて、本社にむかひ、祈念しけるが、あたりに、血、ながれ、生魚(なまうを)、あまた喰《くひ》ちらして、けだものゝ足あと、拜殿に

「ひし」

と有《あり》。

 兩人、

「また、例(れい)の妖(ばけ)もの、出《いで》つらん。」

と、爰かしこ、見廻しけり。

 又五郞主從、社の下より、這《はひ》出ければ、社人(しやにん)、おどろき、

「何者ぞ。」

と、いへば、

「我々は、行き暮れたる旅人にて、夕べ、夜に入《いり》、人里もしらず、此《この》所に、ふしぬ。そもそも、『妖(ばけ)もの』と仰せらるゝは、いかなる事にて侍る。」

と問へば、

「その事にて候。此社は、二村山八幡宮とて、靈驗、あらたにましまし、近里(きんり)遠國(おんごく)より、かつごう[やぶちゃん注:ママ。「渴仰」の歴史的仮名遣は「かつがう」である。なお、「渇仰」は本来は仏教用語である。]の首(かうべ)を傾(かたむ)け奉りけるに、日外(いつぞや)のほどよりか、夜(よ)に入《いれ》ば、妖物(ばけもの)出《いで》て、人を、なやまし、氣を失《うしな》はするにより、あたりへ人の通(かよ)ひも侍らず。かたがたは、ふしぎの命、助かり給ふ。あやしき事も、さふらはずや。」

と語れば、又五郞、

『扨は。』

と思ひ、有《あり》つる事ども、具(つぶさ)に語り、

「則ち、矢を負(おは)せ侍る。此血をとめて見給へかし。さるにても、あまたの女どもは、いかなる妖情《えうせい》[やぶちゃん注:「情」はママ。後で「ようせい」と振られてある。]にてか侍らん。」

と、あたりを見まはすに、御社(みやしろ)に掛られたる繪馬に、けだかき上郞の、琴(きん)をひき、其《その》傍らに、尼・めのと・女共、あまた、あり。一よ切(ぎり)、さみせんを引《ひき》たり。めの童(わらは)、三人、たちて舞ふあり。屛風、そのほか、夕(ゆふべ)みたるに、露もたがはず、所々、血にまみれたり。

「うたがひもなく、此繪馬(ゑま)の情(せい)に、外(ほか)のけだ物の化(ばけ)て、妖情《えうせい》のあつまりける。」

と、則《すなはち》、かの繪馬をおろし、一々、喉(のんど)をつき破りて、かの血を尋ね、村人、大ぜい、催し、したひてみるに、御手洗川の艮(うしとら)[やぶちゃん注:北東。鬼門。]に、大きなる岩穴《いはあな》あり。

 其内へ、のり、ひきて、あり。里人、大勢、かゝりて、これを、うち崩し、ふかく掘り入《いる》程に、次第にうち廣く、一、二丈も掘りければ、獺、數(す)十疋、おどり出たり。

 そのてい、よのつねならず、大きにして、幾(いく)とせふるとも、しらず。

 人をみて、牙(きば)をかみ、とび付《つき》、喰付《くらひつき》けるを、或は、打殺《うちころ》し、切殺し《きりころ》けるほどに、已に十余疋なり。

 其《その》おくに、一つの大なる黑白《こくびやく》まだらの獺、むないたを矢につらぬかれて、齒をくい、牙をかみ出《いだ》して、死(しゝ)てあり。

『是《これ》ぞ、宵(よひ)の大將ならむ。』

と思へり。

 のこらず、うち殺して、をのをの、くらひけるに、更に、よのつねの獺に、かはらず。

 其の後(のち)、この社にばけもの絕《たえ》て、諸人(しよにん)、晝夜(ちうや)、參詣しけるとかや。

[やぶちゃん注:「獺」日本固有種のそれは、日本人が滅ぼした食肉目イタチ科カワウソ属ユーラシアカワウソ亜種ニホンカワウソ Lutra lutra nippon である。近代に至るまで、本邦の民俗社会に於ては、狐・狸に次いで人を化かす妖獣とされていた。博物誌は私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 獺(かはうそ) (カワウソ)」を参照されたい。]

多滿寸太禮卷第五 永好律師魔類降伏の事

 

[やぶちゃん注:基礎底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこれPDF・第四巻一括版)。挿絵は国書刊行会「江戸文庫」版の木越治校訂になる「浮世草子怪談集」のそれをトリミング補正して、適切と思われる箇所に挿入した。右左でセットの挿絵であるが、描かれた内容から、前後するため、特異的に分離して挿入した。

 

    永好律師《えいかうりつし》魔類《まるゐ》降伏(がうぶく)の事

 越前國金(かね)が御嶽(みたけ)の西面(にしをもて)に、一社の祠(ほこら)あり。

 此の所は、金が崎の城(しろ)とて、そのかみ、元弘より此方、數萬(すまん)の軍士、世々に戰亡《っせんばう》して、かばね累々として、郊原(こうげん)に朽ちぬ。

 かの社は「嶽(たけ)の明神」とて、靈驗あらたに、本社拜殿、玉をみがき、その傍らに寺院ありて、朝暮(てうぼ)の法施(ほつせ)、おこたらず。

[やぶちゃん注:「越前國金(かね)が御嶽(みたけ)の西面(にしをもて)に、一社の祠(ほこら)あり」現在の福井県敦賀市金ケ崎町にある金崎宮(かねがさきぐう)。当該ウィキによれば、『建武中興十五社の一社で』、『主祭神の一人である尊良』(たかよし:後醍醐天皇第一皇子)『親王と』、『その妻の恋愛伝説』で『知られている』。『当地にあった金ヶ崎城址の麓にある。恒良』(つねよし:尊良秦王の異母兄)『親王と尊良親王を祭神とする』。『恒良親王と尊良親王は、足利尊氏の入京により』、『北陸落ちした新田義貞、および氣比神宮の大宮司に奉じられて金ヶ崎城に入ったが、足利勢との戦いにより敗死した』とある。但し、「西面」とするが、位置的には「南面」である。

「金ヶ崎城」は別名「敦賀城」。当該ウィキによれば、『敦賀市北東部、敦賀湾に突き出した海抜』八十六メートルの『小高い丘(金ヶ崎山)に築かれた山城で』、その元は「治承・寿永の乱」(源平合戦)の『時、平通盛が木曾義仲との戦いのため』、『ここに城を築いたのが最初と伝えられる』とある。現在、この城の最も知られた攻防は、本篇より後の織田信長と徳川家康の「越前朝倉攻め」での信長軍の撤退敗北、「金ヶ崎崩れ」である。]

 去(さん)ぬる建武の兵亂(ひやうらん)に、寄手(よせて)の陣屋《ぢんをく》に破られ、其後(のち)、たれ、再興もなく、荒れ果てて、多くの年月(としつき)を送るに隨ひ、木の葉に道を埋み、ながく、人のかよひもたえ、雨露(うろ)に討たれ、をのづから、あらゆる鳥獸の栖(すみか)として、常は妖魁《えうくわい》のわざわひあれば、まれに徃きかふ樵夫(せうふ)も、あたりへ、近づかず。

 爰(こゝ)に、南都に永好律師とて、尊《たふと》き碩學の僧あり。戒法正しく、一寺の譽れ有りしが、深く世をいとひ、山林幽居の志(こゝろざし)ありて、此の山にまよひ入、かの芽屋(ばうをく)に休らひ、すみ給ふに、東北は、深山(みやま)、峨々と聳びへ、西南は、海上一片に、霞(かすみ)におほはれ、心も澄みて覺え給ひければ、朽ちて久しき房舍(ばうしや)を、かしこ爰の枯木(こぼく)をあつめ、かたのごとくに、しつらひて、晝は、里民に食を乞《こひ》て、よるは、木《こ》のみの油をとりて、窓前の燈(とほしび)となし、俗氣(ぞくき)、まれにして、靑山(せいざん)人(ひと)靜(しづか)也。鳥は春花(しゆん《くわ》)の枝に語り、猿は秋雲(しううん)の峯(みね)に叫(さけ)ぶ。蝉(せみ)の聲(こゑ)に夏(なつ)を送(をく)り、常は山草をあつものとし、諸木の皮を紙として、粉詞(ふんし)をのべ給へり。

[やぶちゃん注:「永好律師」不詳。

「幽居」底本では『いうこく』と振るが、歴史的仮名遣としても、読みとしても話にならない。或いは彫師が「幽谷」と取り違えてかく振ったものかも知れぬ。「幽居」の歴史的仮名遣は「いうきよ」である。

「一片」ここは「辺り一面」の意。

「あつもの」暖かい汁物。

「粉詞」ささやかな思いを綴った詩文。]

 

Eikou1

[やぶちゃん注:挿絵が全体に潰れ気味で、細部が判らぬので、底本の早稲田大学図書館「古典総合データベース」の単体画像をリンクさせておく。] 

 

 或る夜(よ)、窓下に燭をそむけ、几下(きか)に肱(ひぢ)をまげて、蕭然(せうぜん)として座(ざ)し給ふに、庵(いほり)の外面(そとも)に、人のおとなひ、あまた聞えて、數十人の來たる。

 みれば、僅かに、其たけ、三尺斗《ばかり》、黑き帽子を一面にかぶり、うす墨(ずみ)の衣(ころも)を、ゆたかに着なし、そのさま、から人に似たり。

 眼(まなこ)、ちいさく丸く光り、貌(かほ)の色、甚だ黑し。

 五、六十人、庵の外(ほか)まで入こみ、弓矢・鉾、あるひは太刀を帶(は)き、僧に向ひて、何(いづれ)も座したり。

 その主人とおぼしき者も、面(おもて)の色、おなじさまにて、黑白(こくびやく)の衣を着たり。僧にむかひて云ふ樣、

「われは『白蝙侯(はくへんこう)』と云ふ者也。此の社(やしろ)の中に住むで、此山を領する事、年、久し。御房(ごばう)の庵室(あんじつ)に近く住むといへども、心ざし有《あり》て、對顏(たいがん)せず。しかるに、今、こゝに、汝、庵をかまへて、吾が有《いう》となす。さるによつて、わがけんぞくを始め、他方の賓客(ひんかく)、汝をいとひて、道を失ふ。速かに此の地を去るべし。しからずんば、必ず、命を失ふべし。とくとく出で去るべし。」

と、大《おほい》に怒りて、みゆ。

 永好、更に恐れ給はず、

「夫(そ)れ、神(かみ)は、大乘(だいじやう)、順聖(じゆんせい)にして、異道(いだう)といへども、皆、佛法に奉(ほう)ず。祖神(そしん)、なを、しかなり。況や、小神(せうじん)をや。我、こゝに住して、常に佛經の祕要《ひえう》を誦(じゆ)す。神(しん)、なんぞ悅むで我を守護せざらんや。邪神、なを[やぶちゃん注:ママ。]、佛力(ぶつりき)にたえず。察するに、奇畜化鳥(きちくけてう)の類(たぐひ)、空社(くうしや)にすんで、妖恠《えうけ》をなすと、みえたり。速かに退散せずんば、護法に罸(ばつ)せられて、命を失ふべし。」

と宣ひければ、此者共、大に怒る色、みえて、聲々に、のゝめきをし入《いれ》ば、律師、暫く密呪(みつじゆ)を唱へ給へば、傍らに有ける圍爐(ゐろ)の内より、一つの火の玉飛び出で、おしあひ、ならびゐたる化者共(ばけものども)の中を飛びめぐれば、數百(すひやく)の者共、おめき叫び立ち、ちいさき鳥(とり)の形(かた)ちとなり、八方へにげまどひて、ちりぢりに成りぬ。

[やぶちゃん注:「大乘(だいじやう)、順聖(じゆんせい)にして」「大乘」は大乗仏典で特に「法華経」のこと指すから、「順聖」は、その教えの神聖性に対し、心から文句なく帰順することを言うのであろう。]

  夜《よ》も明(あけ)ければ、

「さるにても、かの妖物(ばけもの)、社中に住むといへば、何ものならむ。」

と、社(やしろ)の御戶(みと)をひらきて見給ふに、數百(すひやく)の蝙蝠(かふむり)、いくらともなく逃げ出けるが、霄《よひ》に燒かれたるとみへて、多く、得(ゑ)たゝぬもあり。其の中に、白きまだらのかふむり、一つ、片羽(かたは)、こがれて死(しゝ)て有《あり》。

「大將と見へつるは、かのものならん。」

と、是れを、ことごとく取り集めて、捨て給ひける。

[やぶちゃん注:「蝙蝠」底本では『かふむり』と振り、後文本文でもそうなっているので、特異的にママとした。歴史的仮名遣は「「かうもり」が正しく、しかも、見かけぬ読みではある。

「得(ゑ)たゝぬ」不可能を表わす呼応の副詞「え」に当て字した上に読みを誤ったもの。]

  又、ある夕暮に、廿(はたち)あまりのようがん美麗の女《をんな》、いづくともなく來り、律師にちかづき、

「我は、此の山のふもとに、何がしと申《まをす》者の娘にて候が、近きほどに、人に嫁(か)してまかりさふらふ。夫《をつと》、さる曲者(くせもの)にて、夜ごとに人を惱(なや)し、或は殺し候へば、あまりに不便(ふびん)に存じ、いろいろと敎訓いたし侍れど、更に承引なく、あまつさへ、わが身を殺害(せつがい)せんとす。一たん、のがれて出《いで》たり。師の慈悲を以つて、しばらく隱し置き給へ。」

と、淚をながしけるに、律師、

「此の所は、人倫、はなれ、我だに、しのぎかねたる草の庵に、あたふべき食物(しよくもつ)さへ、なし。然れども、けふは、日、すでに暮れければ、犬・狼のおそれもあり。こよひ一夜(いちや)は、庵にあかし給へ。明(あけ)なば、里へ出《いで》、いかなる方へも、おもむき給へ。」

とあれば、女性(によしやう)、大きに悅んで、すなはち、内に、いりぬ。

 その體(てい)、すべて只人(たゞうど)とも覺えず、雪の肌へ、淸らかに、奇香(きかう)あたりに薰(くん)じ、しらず、

『天人の爰(こゝ)に來りけるか。』

と、あやしまれ、色(いろ)をふくめるまなじりには、いかなる人も、まよひぬべし。

 されども、律師、戒行(かいぎやう)まつたき聖(ひじり)にておはしければ、いさゝか一念も起らず、只、觀法《くわんはふ》に心を亂さず。

 此の女(をんな)、せんかたなく、しきりに、おめき、息まきたり。

 聖、

「何事やらむ。いかに、かくは、くるしみ給へるぞ。」

と、問《とひ》給へば、

「心《ここ》ち、あしくて、腹を、なやみさふらふ。暫く、むねをおさへて給り候はゞや。」

と申せば、聖、爲方(せんかた)なく、錫杖に絹をまき、女の胸より、なでおろし給へば、少し、おだやかに成りぬ。

 かゝるほどに、夜(よ)も漸々(やうやう)明方のちかきに、をのづから、いねふり給ふに、庵のうへに聲ありて、

「何とて、かく隙(ひま)をとるぞ。とくとく、骸(かばね)をとり來れ。」

と呼べば、女のいはく、

「此の聖、行法、つよく、更に障碍(しやうげ)を、いれず。」

とぞ、いひける。

 律師、夢、さめ、

「さるにても、汝、何ものなれば、かくのごときぞ。」

と問ひ給へば、女、淚(なんだ)をながして、

「我は、此山に年(とし)經(へ)てすむ大蛇にて侍り。我、かゝる畜身(ちくしん)に生(しやう)を受けて、多くの年月を送る事を歎き、そのかみ、此院主、兼光(けんくわう)上人の示(しめし)を受けて、永く生類(しやうるい)を、ころさず。すぐに身を惠日(ゑにち)の光(ひかり)にやはらげ、佛果の緣によるべきに、建武の亂に、此の山、鬪爭(とうじやう)のちまたと成《なり》、堂社、荒廢して、人の死骸に、山を、かさぬ。これによつて、諸方の邪獸(じやじう)・變化(へんげ)の者、此山に集まり、しゝむらをくらひ、又、魔界の地となりぬ。自(みづか)らも、宿執《しゆくしふ》、つたなく、昔に歸り、人を惱まし、取り、くらふ。此の上(うへ)の山の岩洞(がんどう)に住むで、生類を食(しよく)とす。又、山上の城跡(しろあと)に、一人の邪神あり。通力(つうりき)、無辺にして、人の爲めに惡をなす。是によりて、他方の魔類、けんぞくとして住(ぢう)す。君、こゝにゐまして、おこなひ給ふにより、悉く、結界の地とならむ事をかなしみ、

『行法をさまたげ、命を取るべし。』

とて、我を、せむ。止事(やむごと)なくて、爰に來り、色(いろ)を以つて、さまたげ侍らんとしけるに、佛日(ぶつにち)の光(ひかり)におされて、今は出《いで》侍る。我、又、師をとらざる事を怒りて、彼(かれ)、我を取りくらい[やぶちゃん注:ママ。]、命を失ふべし。哀れ、師の大慈の法力を以《もつて》、わが一命を助けさせおはしませ。さもあらば、水を汲み、薪(たきゞ)をとりて、師にさゝげ、此の功力(くりき)を以、畜身を、まぬかるべし。」

とて、淚をながせば、聖、あはれに覺えて、則ち、符(ふ)をかきて、あたへ給ひ、

「これを身にふれてあらんには、更に、恐れ、有《ある》べからず。とくとく、歸るべし。」

と、示し給へば、女、大きによろこび、禮拜供敬(らいはい《くぎやう》)して、

「今より、永く、師につかへ侍り、佛法を守り奉らん。」

とて、出《いづ》ると見へしが、かきけすごとくに、失せにけり。

[やぶちゃん注:「兼光上人」不詳。]

 此の後(のち)、夜每に、異類・異形(いぎやう)の、姿を顯はし、聖を犯《をか》さむとしけれども、聖、物の數(かず)ともせず、いよいよ、觀念、おこたらざれば、をのづから[やぶちゃん注:ママ。]、護法童子、姿を顯はし、日夜、守り給へば、あたりにちかづくべき樣なく、年月(ねんげつ)を送り給ふ。

[やぶちゃん注:「護法童子」護法善神(ごほうぜんじん)の後世の呼び名。仏法及び仏教徒を守護する、主に天部の神々の童子姿をした者のこと。]

 此の山の麓の在所、數家(すけ)、たちならびて、繁昌の地なり。然(しか)るに、いつのほどよりか、人、あまた、うせ、あるひは、ゑやみ[やぶちゃん注:ママ。「疫」は「えやみ」でよい。]ければ、

「こはいかなる事ぞ。」

と、諸人(しよにん)、肝(きも)をけし、家々に、歎きの聲、やまず、ねぎ・山伏、あらゆるわざをなして、ふせぎ留(と)むるに、更に事ともせず、いよいよ、人、失せければ、老若男女(らうにやくなんによ)、おめき叫ぶ事、限りなし。

 此の里の長(おさ)、何がしの兵衞(ひやうゑ)とかや云ひしもの、諸人を、あつめ、

「いかゞせん。」

と評定しけり。

 爰に、或る者、申やうは、

「金ケ崎の山上(さんじやう)に、いつのほどよりか、化生(けしやう)のもの、栖んで、數年(すねん)、人のかよひなかりしに、去りぬる比《ころ》より、いづちともなく、僧とも、俗ともみへぬ人の、嶽(たけ)の御寺(みてら)の跡に、かたのごとくの庵を結びて住み給ふ。かゝる人倫絕《たえ》たる魔所に、をそれもなく住給《すみたまふ》は、いかさま、凡人(ぼんにん)にあらず、神仙のたぐひならめ。此《この》所にまふで行き、ひたすらに歎きなば、此事、靜まりなん。」

と申せば、里人、此の義(ぎ)に同じ數十人、深山(みやま)を分けて、かの庵室に尋ねまふでみるに、草のわら屋に草むしろ、誠に人の住むべくもなきに、髮も眉毛も生ひさがり、木(こ)の葉衣《はごろも》を身につゞり、御經(おんきやう)を尊《たふと》くよみ給ふ。そのこゑ、山にひびきて、聞《きく》もの、身の毛よだち、あたりをみれば、廿《はたち》あまりの、ようがんびれいの女性(によしやう)、錦の衣をきて、閼伽(あか)の水を汲みてあり。

 里人共、あまりの尊さに、御經を聽聞(ちやうもん)し、余念なく、とうとく、感淚をながしける。

 かくて、御經も終れば、兵衞、御前《ごぜん》にかしこまりて、ありし事ども、具(つぶさ)に語り、

「大慈大悲の御方便を、たれさせおはしまし、諸人の鬼難を、救はせ給へ。」

と、各《おのおの》、首(かうべ)を地に付《つけ》、禮拜(らいはい)す。

 聖、申させ給ひけるは、

「我、斗(はか)らずに此の山に來り、已に三とせを送る。魔障(ましやう)、山に充滿して、無量のわざはひをなすといへども、露斗(つゆばか)りもいとふ事なく、終《つひ》に護法にかられて、退散す。我、法力を以、諸人の歎きを休(や)むべし。此の符(ふ)を、里の四面(めん)に立て置くべし。殃《わざはひ》、忽ちに、なかるべし。」

とて、則ち、符をあたへ給へば、里人共、ひとへに、

「如來の御助(おんたすけ)。」

と悅び、禮拜恭敬(らいはい《くぎやう》)して、急ぎ、里に持歸り、四面(しめん)にあたら敷(しき)かり屋を立て、是れを勸請しけり。

 

Eikou2

[やぶちゃん注:同前で、底本の早稲田大学図書館「古典総合データベース」の単体画像をリンクさせておく。]  

 

 其の夜(よ)、里人共の夢に、髮、空(そら)ざまに赤く生ひのぼり、眼(まなこ)かゝやき、身には金(こがね)のよろひをかけ、手に手に、利劍を引《ひつ》さげたる人、四人、四方に立ちて、聲をあげてよび給ふに、色、白く、眼(まなこ)あかく、口は耳の根まで切れ、ふたつ牙(きば)は、劍(つるぎ)のごとく、長(たけ)なる髮を亂し、手には、赤き繩をもちて、人をからめ、めて[やぶちゃん注:「馬手」。右手。]に鐵のしもと[やぶちゃん注:「楚」。鞭。]をもつて、かうべを、打《うち》わり、朱(あけ)のちしほに身をそめなして、顯はれ出《いで》たり。

 四方へ逃げ出でむとせしを、四人の神人(しんにん)、中《なか》に取り込めて、をのをの[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]、劍をふるに、惣ち、通力(つうりき)うせて、大地におつるを、これをからめて空中(くうちう)に上(あが)り、海底(かいてい)にけおとし給ふ、と、みへて、夢、さめたり。

 夜明(よあけ)て、をのをの、語るに、すべて、夢中の事ども、おなじ。

 かのとられたるものは、その里の、うとくの者の子にてぞ有《あり》ける。大路(おほぢ)の木のえだにかゝりて有しを、急ぎ、引きおろしみるに、繩かけて、かうべを打わり、血に、そみたり。

 怖しなんども、あまりあり。

 數(す)百人とられしうちに、かの子の死骸ならでは、一人も、なし。

 是よりして、ながく、此の里のわざはひは、うせて、諸人、安堵しけり。

 四方(しはう)の假屋(かり《や》)をあらたに修造(しゆざう)して、「四天の宮(みや)」とかや申《まをし》て、あがめ敬(うやま)ひけるに、靈驗不雙(《ぶ》さう)なり。

「これ、ひとへに、かの神仙の冥慮(みやうりよ)にあり。」

とて、近里遠村(きんりゑんそん)より、聞《きき》つたへて、山上(さんじやう)しければ、聖も六ケ敷(むつかしく)やありけむ、いづちともなく失せ給ふ。

 その庵室の跡に、かの女性(によしやう)、おりおり[やぶちゃん注:ママ。]あらはれ、「法花經(ほけきやう)」を讀誦(どくじゆ)しければ、里人ども、爰に社(やしろ)を立て、「姬の宮」と申けるとかや。

 きどくの靈現(れいげん)、あらたなりけるとかや。

[やぶちゃん注:「かのとられたるものは、その里の、うとくの者の子にてぞ有ける。大路(おほぢ)の木のえだにかゝりて有しを、急ぎ、引きおろしみるに、繩かけて、かうべを打わり、血に、そみたり」「數(す)百人とられしうちに、かの子の死骸ならでは、一人も、なし」という意外な展開は、結果して、その最大の魔性の者と眷属が、その里の有徳の者(豪家)の子の命を奪って憑依していたということであろう。挿絵では四方の天部に成敗される複数の鬼が描かれているが、本文の当該シークエンスでは、ただ「人」とあるだけで、その異形に魔性どもが語られていないのは、ちょっと作者の力不足か。或いは、以上に示した意外性を出すための確信犯の仕儀であったものかも知れない。]

多滿寸太禮卷第五 村上左衞門妻貞心の事

 

[やぶちゃん注:基礎底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこれPDF・第四巻一括版。挿絵は国書刊行会「江戸文庫」版の木越治校訂になる「浮世草子怪談集」のそれをトリミング補正して、適切と思われる箇所に挿入した。]

 

    村上左衞門《むらかみさゑもんが》妻貞心の事

 中比(なかごろ)の事にや、四海、波、靜(しづか)にして、都鄙、遠境、君(きみ)の德にたのしみ、尊貴高家(かうけ)には、笙歌夜月(せいか《やげつ》)を家々に翫(もてあそ)び、誠に、めでたき世中なり。

[やぶちゃん注:「中比」そう遠くない昔。本作の刊行された江戸中期(元禄一七(一七〇四)年正月)から考えれば、鎌倉時代の中期の安定期から室町前期辺りとなろうが、後の本文の「かせ奉公」(後注有り)という語から、後者と推定した。

「笙歌夜月(せいか《やげつ》)」月の夜に、笙(しょう)の笛を吹き、歌を歌って楽しむこと。これは「和漢朗詠集」の巻上の二十四番、菅原文時(昌泰二(八九九)年~天元四(九八一)年:道真の孫)の、

   *

笙歌(せいか)の夜(よる)の月の家々(いへいへ)の思(おもひ) 詞酒(しいしゆ)の春の風の處々(ところどころ)の情(こころ)   菅三品(くわんさんぼん)

  笙歌夜月家々思 詞酒春風處々情  菅三品

   *

に拠る。これに従えば、「夜月」は「よるのつき」であるが、作者は下方に読みを添えておらず、四字熟語として用いているので、音読みとした。]

  其の比しも、尊卑をいはずして、鬮(くじ)を取りて相手を定め、興を催《もよほ》し、遊びとし、引出ものを結講(けつかう)する事、すべて貴賤上下(じやうげ)は申《まをす》に及ばず、洛中より邊土に及《およべ》り。是によりて、坐敷を、かざり、時ならぬものを求め、種々(しゆしゆ)のたはむれに日を送る。

 或る臣の家に、此儀式を好みて、男女《なんによ》上下をいはず、くじにまかせて、相手をさだむるに、亭主の御相手に、此《この》三、四年以前に、始めて參りたる侍《さむらひ》に、村上左衞門國方とて、いまだ、むそくの奉公の者、とりあひたり。人こそ多《おほき》に、御相手に成《なり》ぬれば、あるじの御心《みこころ》にも、好ましからず思ひ給ひぬ。

 左衞門も、

『はうばい・外樣《とざま》の相手ならば、かたのごとく、いとなむ事も有べきに、是は思ひもよらぬ過分の御(おん)相手になり、いかゞせん。』

と案じ煩ひける。

[やぶちゃん注:「村上左衞門國方」不詳。

「むそく」「無足」。中世以降、家臣の内で知行領地を持たないことや、奉公や職務に対する相応の報酬給付がないこと、また、そのさまや、そうした者を指して言った。]

  扨も、家に歸りて、妻に語りけるは、

「日比(ひごろ)、互に、こゝろざしも淺からず。此《この》とし月、かせ奉公をもし侍る。なにさま、身をたつる品(しな)もあらば、一たびは報はめとこそ思ひつるに、思ひの外の事、侍りて、『出家發心して、山々寺々をも修行し、後世(ごぜ)をこそ祈りまいらせん。』と、思ひたち侍る。年比の名殘も、こよひ斗りと思ふに、爲方(せんかた)なし。」

とて、さめざめと泣きふしける。

[やぶちゃん注:「かせ奉公」「悴(かせ)奉公」。「悴者(かせもの)奉公」。中世後期の武家被官の一つで、配下の侍の最下位。中間(ちゅうげん)の上で、若党や殿原(地侍)に相応する身分。「かせにん」「かせきもの」とも呼んだ。参照した小学館「日本国語大辞典」の用例には、『常陸税所文書』を挙げ、『年未詳』としつつも宝徳四/享徳元(一四五二)年から寛七/文正元(一四六六)年頃とし、十月十四日附書状に『巨細者可加世者申候』とある。]

 妻、おどろき、

「何事にか、かゝる御心《みこころ》は、俄かにつきたるぞ。」

と問へば、

「まことは、道心のおこりたるにも、あらず。又は、奉公に私(わたくし)もなし。たゞ、身のありさまのかなしくて、思ひ立ちたる斗りなり。當世、おしなべてする事なる鬮取(くじとり)の、御所(ごしよ)にも御沙汰有《あり》て、日を定められつるに、運の究《きはめ》のかなしさは、上(うへ)樣の御相手(おんあいて)に成りて、『引出物、見ぐるしからん。』と、をそれあり[やぶちゃん注:ママ。]。又は、人の思ふ所も恥づかし。笑われぬ[やぶちゃん注:ママ。]程に、いとなむべき力も、なし。ひとへに、冥加のつくる所と思ふ故に、かくは思ひ立ちぬる。」

と語れば、妻、これを聞《きき》て、

「誠に、左(さ)思ひとり給ふは、ことはりにてさふらふ。たゞし、この事ならば、など歎き給ふぞ。人の果報・幸ひといふ事も、心から、とこそ、いふめれ。已に御相手になりて、跡をくらまして失せなむも、上《うへ》の御爲《おんため》、しかるべからず。たとへ、此たび、世をのがれんと覺し給ふに付けて、尋常なる引出物、一つ。奉りて、その上にてこそ、出家もし給はゞ、道(みち)ならめ。ふかきえにしあればこそ、夫婦とも成《なり》ぬらん。歎きも、同じ歎き、悅《よろこび》も、同じく、よろこぶべきこそ、本意《ほい》ならめ。出家し給はゞ、吾とおなじく、さまをかへて、一筋に後(のち)の世をこそ、願はむずらめ。此の家も地も、親の代より、吾物《わがもの》にて侍れば、ともかくも、しか、へて、思ひ出《いだ》し給へ。一日も、かくて有《あり》ながら、いかにか、かなしみ給ふらん。」

といひければ、夫、云ふやう、

「かゝるつたなき身につれあひ給ひて、いつとなく心哀しき事斗りにて、此とし月、片腹いたくてぞ、おはすらん。我故《わがゆゑ》に、物ごとをさへ身を失はせまいらせん事、かへすがへす、あらざる事成《なる》べし。此事とては、思ひより、なき事なり。おことは、わかき人なれば、いかなる事をもして、世を送りなむ。わが身は、をどりありかむ事も易かるべし。年比の名殘こそ、かなしく覺ゆれ。」

とて、淚をながしけり。

[やぶちゃん注:「吾とおなじく、さまをかへて」「吾と」は副詞で「自分から」の意。「あなたが出家なされたら、私も自ら様を変えて出家致し、」の意。]

 妻は、

「猶、心をへだてゝ、かくは仰らるゝぞや。」

と、夜もすがら、いさめ、夜も明ければ、此いとなみの外、他事(たじ)なく、實に淺からず見へければ、

「さらば、ともかくも女房の斗《はから》ひにしたがはむ」

とて、屋地を、うりて、用途五十貫ほど、有けり。

 銀《しろがね》の折敷《をしき》に、金《こがね》の橘《たちばな》をつくらせて、ことごとしからぬやうにて、紙につゝみ、懷中して參りけり。

 かくて、傍輩も、をのをの、相手・相手に引出物して、はへばへしかりけり[やぶちゃん注:ママ。「はえばえし(映え映えし)」で「光栄である・晴れがましい」の意。]。

「何某は、上の御相手に參りて、その用意、有《ある》か。」

と、傍輩どもの問《とひ》ければ、

「いかでか用意仕らざらん。」

と、答へければ、

『いかほどの事か、仕《つかまつり》いたすべき。』

とて、目ひき、鼻ひき、貌(かほ)をそばめて、おかしげに思ひけり。

 上にも、片腹いたく思召《おぼしめし》たる氣色(けしき)なり。

 已に、ふところより、紙につゝみたる物を取り出だすをみて、

『させる事あらじ。』

と思ひて、あまりの笑止さに、諸人(しよにん)、面(おもて)をふせけり。

  扨、御前(ごぜん)に置きたる物をみれば、白銀(しろがね)の折敷に、金の橘を置《おき》たり。心も及ばれず、つくりたるにてぞ、有《あり》ける。

 これをみて、みな、目をおどろかし、上下男女、にがりきつてぞ、ゐたりける。

「抑(そもそも)、御恩もなきに、かゝるふしぎは、仕出したるぞ。」

と、御所中(ごしよちう)の人に尋ね仰せらるゝに、かのあらまし、委しく知りたる人、有《あり》しが、妻の心ざし、其身のありさま、ことごとく、申上《まをしあげ》ければ、大《おほい》に感じ下されて、返へり引出物には、かみ一枚(まい)をぞ、たびにける。

 

Murakamikunitaka

 

 是は、都ぢかき住吉郡(すみよしこほり)にて、大庄(だいしやう)一ヶ所永代(ゑいたい)押領(おうれう)すべき「御敎書(みげうしよ)」にてぞ、ありける。

 此の志(こゝろざし)を感じ思召《おぼしめし》て、五位尉(ゐのぜう)になされて、家の一臣にぞなされける。

 妻は、夫の爲に貞烈を顯はし、夫は、又、忠臣の本意(ほい)に叶ひて、子孫、ながく、榮花を究めしも、ひとへに、天のめぐみなるを、仰《そもそも》、夫婦とは、專ら五倫を兼たる物なり。

 故に、武王は、「吾に九臣あり。十人のみ。」と、妻を臣にたとへ給ひ、「小學」には、『夫婦禮順なるを、賓主のごとし。』といへり。

 かゝる、奧、ふかく、德、たかきものなるを、みだりに、亂行婬色《らんぎやういんしよく》にて、故なく家を破り、嫉妬にむねをこがして、夫婦の緣をも、ながく離別し、あまつさへ、故なき他人までも、うき名を、おほせぬる事、みな、婬欲のふたつに歸(き)す。

 いま、左衞門尉が妻は、ひとへに、わが身の欲を捨(すて)て、夫の爲に忠をなす。

 豈(あに)天の加護あらざらむや。

[やぶちゃん注:「武王」殷を滅ぼし、周を立てた初代の王(在位:紀元前一〇四六年?~紀元前一〇四三年)。

「小學」南宋の朱子学の創始者朱熹(一一三〇年~一二〇〇年)が朱子学を学ぶ基本書として五十代の頃に著したもの。「小學書」とも。

「賓主」賓客と家の主人。]

2022/08/22

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 紫螺・岩辛螺(イワニシ) / イボニシ

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。一部をマスキングした。データとクレジットは左丁の左下に、「以上勢州二見浦産 所藏」「丙申年二月大生氏勢刕大神宮拜詣帰𨊫爲土産予送之眞寫」とある。最後の「砑螺・ツメタ貝」で考証・訓読して注をするが(「𨊫」は中文サイトで「乃」の異体字とあるのを漸く見つけた)、謂うところは、「この見開きに描いた個体群は、総て、伊勢の二見ヶ浦産で、現在は私自身の所蔵になるものであるが、もとは私の知人の大生氏(読みは現代仮名遣で「おおばえ」・「おおう」・「おおぶ」・「おおしょう」などがある)が、伊勢神宮を参詣して帰るに際し、土産として私に送って呉れたもので、それを写生した。」ということのようである。]

 

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紫螺

 

岩辛螺(いわにし)【「百貝圖」。】

 

[やぶちゃん注:古くは貝紫(かいし)の原料の一種となり、また、肉が強い苦辛味を持つところの、

腹足綱直腹足亜綱新生腹足上目吸腔目高腹足亜目新腹足下目アッキガイ上科アッキガイ科レイシガイ亜科レイシガイ属イボニシThais clavigera

「疣辛螺」である。私は小学生の頃、江ノ島の岩場で白いハンカチを紫に染めた記憶と、塩茹でにして食って美味かったことぐらいしか覚えがないが、ウィキの「イボニシ」は、生態の「繁殖」のパート、及び、和歌山県田辺湾での同種の個体群の二型(C型とP型)の、形態と食性が異なり、さらに二つの群が遺伝的にも異なること、しかも、日本各地に見られる同種の多くはこのC型やP型とは異なる別の型であることなど、非常に興味深い記載があり、思わず、食い入るように読んでしまった。

「百貝圖」寛保元(一七四一)年の序を持つ「貝藻塩草」という本に、「百介図」というのが含まれており、介百品の着色図が載る。小倉百人一首の歌人に貝を当てたものという(磯野直秀先生の論文「日本博物学史覚え書」に拠った)。]

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 酌子貝・シヤクシカイ / イタヤガイ(六度目)

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。一部をマスキングした。データとクレジットは左丁の左下に、「以上勢州二見浦産 所藏」「丙申年二月大生氏勢刕大神宮拜詣帰𨊫爲土産予送之眞寫」とある。最後の「砑螺・ツメタ貝」で考証・訓読して注をするが(「𨊫」は中文サイトで「乃」の異体字とあるのを漸く見つけた)、謂うところは、「この見開きに描いた個体群は、総て、伊勢の二見ヶ浦産で、現在は私自身の所蔵になるものであるが、もとは私の知人の大生氏(読みは現代仮名遣で「おおばえ」・「おおう」・「おおぶ」・「おおしょう」などがある)が、伊勢神宮を参詣して帰るに際し、土産として私に送って呉れたもので、それを写生した。」ということのようである。]

 

Syakusigai_20220822155401

 

酌子貝【「しやくしがい」。蓋(ふた)を「緋扇貝」と云ふ。】

 

「酌子貝」、其の蓋、平らにして、薄く、一葉(いちえふ)のごとく、扇を開けるがごとし。故に「ひをうぎ貝」と云ふ。其の身、薄く、貝、凹(くぼ)く、国俗、「勺子(しやくし)とす。蓋は「勺子の貝」の上に、平(ひら)にかむり、鍋の蓋のごとく、合へり。竒とす。

 

[やぶちゃん注:本カテゴリで既に五度登場している、梅園の好きな、

斧足綱翼形亜綱イタヤガイ目イタヤガイ上科イタヤガイ科イタヤガイ属イタヤガイ Pecten albicans

(板屋貝)である。非常に古くから右の大きく膨らんだ貝殻が「貝杓子」(かいびしゃく)として利用されてきたため、「杓子貝」「柄杓貝」の名でも広く知られていた。

「緋扇貝」「ひをうぎ貝」「緋扇」の歴史的仮名遣は「ひあふぎ」である。現行、この名は色の変異が人工着色かと思われるほどに甚だしい、イタヤガイ科Mimachlamys 属ヒオウギ Mimachlamys nobilis の標準和名となっている。]

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類  櫻貝・サクラガイ / サクラガイ

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。一部をマスキングした。なお、この前の見開きの図群は、本カテゴリの当初にランダムに電子化した、『毛利梅園「梅園介譜」 マテガイ』『毛利梅園「梅園介譜」 ヨメガ皿(ヨメガカサ)』『毛利梅園「梅園介譜」 蟶・アゲマキ /(種考証中)』『毛利梅園「梅園介譜」 東海夫人(イガイ)』(個人的には、このイガイの図が好きだ)で電子化注を終えている。データとクレジットは左丁の左下に、「以上勢州二見浦産 所藏」「丙申年二月大生氏勢刕大神宮拜詣帰𨊫爲土産予送之眞寫」とある。最後の「砑螺・ツメタ貝」で考証・訓読して注をするが(「𨊫」は中文サイトで「乃」の異体字とあるのを漸く見つけた)、謂うところは、「この見開きに描いた個体群は、総て、伊勢の二見ヶ浦産で、現在は私自身の所蔵になるものであるが、もとは私の知人の大生氏(読みは現代仮名遣で「おおばえ」・「おおう」・「おおぶ」・「おおしょう」などがある)が、伊勢神宮を参詣して帰るに際し、土産として私に送って呉れたもので、それを写生した。」ということのようである。]

 

Sakuragai

 

櫻貝【「さくらがい」。「花貝」。】

 

「前歌仙三十六品貝」の内、

「夫木」、

 春たてばかすみの浦の

 あま人はまづひろをてん

 桜貝をや 西行

「前哥仙」、

  花貝 「浦の錦」に出づ。

   是れは「桜貝」と云ふ者也。「花貝」とも言ふべき者也。赤く薄き介なり。横に長きを「色貝」と云ふ。此(この)「歌仙」には「花貝」とす。

  「夫木」、

     枝ながらうづ巻波の折らねばや

       ちりぢり寄する千代の花貝

      「後歌仙介集」三條院御製。

        ゆきまぜに色を尽して寄る貝は

          錦

 

櫻貝、圖のごとく、五つ合はせ寄すれば、頗る櫻花のごとし。故に名づく。

 

[やぶちゃん注:最後のそれは、図の真左に配されてあり、図のキャプションととれる。『「後歌仙介集」三條院御製』の歌の下句が、「錦」で断ち切れているのはママで、これは国立国会図書館デジタルコレクションの別人の写本でも同じである。この不審な箇所は注の最後で推理しておいた。

 さて、古くからの「櫻貝」と呼ばれてきたものは、このサクラガイの他に、

マルスダレガイ目ニッコウガイ科サクラガイ属サクラガイ Nitidotellina hokkaidoensis

を筆頭として、それと類似した形と色を持つ

サクラガイ属カバザクラ Nitidotellina iridella

ニッコウガイ科モモノハナ属モモノハナガイ(エドザクラ)Moerella jedoensis

ニッコウガイ科 Macoma 属オオモモノハナMacoma praetexta

などを含んだ種群の総称ではあるが、この図の六個(或いは左五個体に右個体が含まれているとすれば、五個体)の貝群は、形状と色の合致から、まず、総てがサクラガイであると考えてよいと思われる。

「前歌仙三十六品貝」これは摂津の香道家大枝流芳(おおえだりゅうほう ?~寛延三(一七五〇)年頃)の著になる江戸時代初の本格的な板行本の介類書である「貝盡浦之錦(かひづくしうらのにしき)」に載る「前歌仙三十六種和歌」のこと。国立国会図書館デジタルコレクションの「貝盡浦之錦」に載る「前歌仙三十六種和歌」のここからで、まさにリンク先の左丁の最後に、

   *

   桜介(さくらかい) 右二

「夫木」西行

春(はる)たてはかすみのうらのあま人(ひと)はまづひろふらんさくら貝(かい)をや

   *

と載る。

「前哥仙」「花貝」「浦の錦」に出づ」『是れは「桜貝」と云ふ者也。「花貝」とも言ふべき者也。赤く薄き介なり。横に長きを「色貝」と云ふ。此れ、「歌仙」には「花貝」とす』これも同じく「貝盡浦之錦」の「前歌仙介三十六品評(ひんひやう)」の一節。国立国会図書館デジタルコレクションの先のものの前の巻のここから。歌仙貝のそれぞれの貝の解説で、当該部はここの左丁の終りから次の丁にかけてである。

   *

  花介(はなかい)左七

蛤類(ごうのるい) 是(これ)は「桜介(さくらかい)」と云もの也。「花かい」とも云べきものなり。赤くうすき介(かい)なり。横(よこ)に長(なが)きを、「色介(いろかい)」と云。これを「桜介(さくらかい)」に取(とり)ちがへ呼(よぶ)人あり。同類(どうるい)にて別種也。此の歌仙(かせん)には「花貝(はなかい)」と云り。

  *

太字にした箇所は、梅園がカットした部分である。因みに、この『横(よこ)に長(なが)きを、「色介(いろかい)」と云』というのは、私の遺愛する(しかし、皆、人にあげてしまった)斧足綱異歯亜綱マルスダレガイ目ニッコウガイ超科ニッコウガイ科ベニガイ属ベニガイ Pharaonella sieboldii のことである。そのため、わざわざ私は最初で、「この図の」と言ったのだ。

「夫木」「枝ながらうづ巻波の折らねばやちりぢり寄する千代の花貝」同じく「貝盡浦之錦」の「歌仙貝三十六種歌後集(ごしゅう)」の一節。国立国会図書館デジタルコレクションの二巻目のここからで、当該箇所はここの右丁最後。

   *

   花(はな)貝 右 二

「夫木」

枝(えだ)ながらうづまく波(なみ)のおらねばやちりぢりよする千代の花貝(はなかい)

   *

「後歌仙介集」「三條院御製」「ゆきまぜに色を尽して寄る貝は錦」前と同じ見開きに左丁の二種目の歌。

   *

   錦(にしき)貝  左 四

三條院御製

ゆきまぜに色(いろ)をつくしてよる貝はにしきの浦(うら)とみゆるなりけり

   *

梅園が、ここまで書いて、突然、断ち切った理由が、やっと判った。「櫻貝」は美しいから、「錦貝」もまた、同類だろうと、安易に考えて、彼はこの歌をうっかり書いてしまったのではないか? しかしその直後、恐らく、梅園は、同書の「後歌仙介之圖」の図を見たのだ。ここの左丁の左の最上部のそれだ。これは明らかに、現在の、斧足綱翼形亜綱カキ目イタヤガイ亜目イタヤガイ科カミオニシキ亜科カミオニシキ属ニシキガイ Chlamys squamata によく似ている。無論、サクラガイとは縁もゆかりもない。それに気づいて、ここで筆を止めたのであろう。本図譜に合わせる際にはカットしようと考えていたのを、うっかりカットせずに貼り合わせてしまったのではなかろうか?

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 赤蜆・黃蜆 / ヤマトシジミ或いはマシジミ

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。一部をマスキングした。]

 

Akasijiimikisijimi

 

赤蜆(あかしじみ)

 

     黃蜆(きしじみ)

 

  丙申六月廿八日、眞寫す。

 

[やぶちゃん注:本邦の在来種のシジミは三種で、

異歯亜綱シジミ科上科シジミ科 Corbicula 属ヤマトシジミ Corbicula japonica

同属マシジミ Corbicula leana

同属セタシジミ Corbicula sandai

で、それぞれについては、「大和本草卷之十四 水蟲 介類 蜆」の注で並置して簡単に解説しておいたが、最後のセタシジミは名にし負う、琵琶湖及びその周縁の瀬田川などの河川に限定される固有種であるから、江戸の梅園が、それを入手するのは難しく、特に誰かのコレクションの写生とも思われないので、外してよいだろう。

 さて、では、ヤマトシジミかマシジミかということになるが、ヤマトシジミは「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページの左から二番目と三番目の画像を見るに、赤褐色の個体と、有意に黄みを帯びた種が混在している。二番目の画像のキャプションには、『比較的若い個体』群とあり、『小さいものは黄色みを帯びている』とある。しかし、一方、マシジミの方は、当該ウィキによれば、『殻の表面は若いうちは黄褐色、成長につれて黒味がかり、緑色、黒色と変化していくが、生息場所の影響を強く受ける。成長につれて規則的な同心円状の凹凸がある』とあるから、どちらかに限定比定することは難しい。ぼてぶりの蜆売りや、魚店から入手したものならば、孰れかの同一種である可能性は多少は高くはなるかも知れぬ。

「丙申六月廿八日」天保七年。グレゴリオ暦一八三六年八月十日。]

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 海蛇・ハマガヅラ・蛇貝(ジヤガイ) / オオヘビガイ

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。一部をマスキングした。]

 

Oohebigai

 

海蛇【「はまかずら」。】

  【「蛇貝(へびがい)」。鎌倉。】

  【「へび貝」。江戸大森。】

魚に海蛇と云者は◦「ゑらぶ鰻鱺(うなぎ)」なり。又、「海蛇」を以つて、「水月(くらげ)」と為(な)すは、誤りなり。

 

丙申四月五日、大森より求め、眞寫す。

 

[やぶちゃん注:これは文句なしに、

腹足綱直腹足亜綱新生腹足上目吸腔目ムカデガイ科オオヘビガイSerpulorbis imbricatus

としていいだろう。私自身は、ここまで複数個体が積層している個体群を見たことがないのだが、「きしわだ自然友の会」公式サイト内の和歌山市大川(グーグル・マップ・データ)での「大川磯の観察会」のページの上から四枚目にそうした多数の個体群落が確認できた。

「海蛇」「カイジヤ」或いは「カイタ」「カイダ」と音で読んでいるか、「うみへび」と訓じているかは、確定できない。解説冒頭の「海蛇」は、一文の内容から「うみへび」でよいかと思うが、二文のクラゲの誤りとする「海蛇」は後注する通り、漢字の誤りがあり、その場合、「カイタ」「カイダ」と読んでいる可能性が頗る高いからである。

「はまかづら」「濱葛」で、この場合の「葛(かづら)」は陸の絡み着く蔓性植物の総称のそれである。

「江戸大森」現在は干拓と人口の運河となって、梅園が赴いた大森の本来の海辺は存在しないので、「今昔マップ」で示す。

「ゑらぶ鰻鱺(うなぎ)」梅園は「魚」と言っているが、れっきとした真正のヘビで猛毒(ハブ(爬虫綱有鱗目クサリヘビ科ハブ属ハブ Protobothrops flavoviridis )の七十~八十倍とされる神経毒エラブトキシン。但し、本種の性質がおとなしいことや、口が小さいことから、咬傷事故は思ったよりも少ない。例えば、『沖縄県公害衛生研究所報』(第二十四号・一九九〇年)の新城安哲・下地邦輝・富原靖博三氏の共同論文「沖縄県における海洋性有害生物による被害」PDF)の一九二七年から一九八九年十二月まで六十余年間の内、筆者らが集計できたデータでは、105ページに載るが、確かなエラブウミヘビ属による咬症ケースは一例のみ(死亡)である)を持つ、

有鱗目コブラ科エラブウミヘビ属エラブウミヘビ Laticauda semifasciata

である。参照した当該ウィキによれば、『日本では南西諸島に分布』し、『池間島・石垣島・西表島・久高島・仲之神島・宮古島などで繁殖例があり、繁殖地の北限は硫黄島(鹿児島県三島村)』であるが、『黒潮に乗って、九州以北まで漂流することもある』とし、さらに、『最も寒い時期の海水表面温度が約』摂氏十九度『以上の海域が分布域とされる』。『本種は本来、南西諸島を分布の北限としていたが、近年では、九州や四国、本州の南岸でも生息が確認されている。これは地球の温暖化が影響していると見られている。まれに、海流に乗り』、『本来の生息海域よりも高緯度の海域で捕獲されることもあり』、一九二〇年代には『日本海で捕獲された記録も残っている』とある。

『「海蛇」を以つて、「水月(くらげ)」と為(な)すは、誤りなり』これは、例えば、私の

寺島良安「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「海䖳(くらげ)」の項

を見て貰うと真相が見えてくるはずである。そうである。

「海蛇」ではなく、「海が正しく、この「」の字は正真正銘、クラゲを表わす古くからの漢語(字)

なのである。本邦の本草学のバイブルである明の李時珍の「本草綱目」では、クラゲについては、巻四十四の「鱗之三」(魚類)の中に入っている。私は、クラゲ・フリークなので、「漢籍リポジトリ」のこちら[104-50b]の影印本を参考に、国立国会図書館デジタルコレクションの寛文九(一六六九)年板行の訓点本の当該部を見つつ、訓読して電子化しておくと、

   *

海䖳(かいた)【「拾遺」。】

釋名「水母(すいぼ)」【「拾遺」】・「樗蒲魚(ちよぼぎよ)」【「拾遺」】・「石鏡(せききやう)」【時珍曰はく、「䖳」、「宅」に作る。二音。南人、訛りて「海折」と爲(な)す。或いは、「蜡鮓(しよさく)」と作(な)す者は、並びに非なり。劉恂が云はく、『閩人(びんひと)、「䖳」と曰(い)ひ、廣人(かうひと)「水母」曰ふ。「異苑」に「石鏡」と名づくなり。』と。】

集解【藏器曰はく、『䖳、東海に生ず。狀(かたち)、血䘓(けつかん)[やぶちゃん注:「血の凝固した塊り」の意か。]の大なる者のごとし、牀(とこ)のごとし。小なる者は、斗(しやくし)のごとし。眼目・腹・胃、無し。蝦(えび)を以つて、目と爲(な)し、蝦、動けば、䖳、沈む。故に曰ふ、「水母の目の蝦」と。亦、猶ほ、蛩蛩(きやうきやう)の駏驉(きよろ)に與(くみ)するがごときなり。煠(ゆ)で出だして、薑醋(しやうがず)を以つて、之れを進む。海人、以つて常の味(あじはい)と爲す。』と、時珍曰はく、『水母、形、渾然として凝結す。其の色、紅紫なり。口・眼、無し。腹の下、物、有り、絮(わた)を懸くるがごとし。羣蝦(むれえび)、之れに附きて、其の涎-洙(よだれ)を咂(す)ふ。浮-汎(う)きて、飛ぶがごとし。潮(うしほ)の爲めに、擁(いだ)かれるときは、則ち、蝦、去りて、䖳、へることを得ず。人、因りて、割(さ)きて、之れを取る。浸(ひた)すに、石灰の礬水を以つて、其の血汁を去る。其の色、遂に白し。其の最も厚き者は、之れを「䖳頭(たとう)」と謂ふ。味、更に勝れり。生熟なるものは、皆、茄柴灰(かさいばい)に鹽水を和し、之れを淹(つけ)て、食ふべし。良なり。】

氣味鹹・溫、毒、無し。主治婦人の勞損・積血・帶下。小兒の風疾。丹毒。湯火傷【藏器。】。河魚の疾(やまひ)を療す【時珍、「異苑」に出づ。】

   *

「蛩蛩」は幻想地誌「山海経」(せんがいきょう)」の「海外北経」に出る、北海の水中に棲息し、白い馬の形をした獣とする。「駏驉」は♂の馬と♀の驢馬の交雑種。以上の共生関係を言っている。

 さて、以上から判るように、日中の本草書では、概ね、クラゲを正しく「海蛇」ではなくして「海」と記しているのであるが、それを転写するに、「蛇」の字と勘違いしている記載や人々が多かったのを、梅園は「違う」と言っているのである。

「丙申四月五日」天保七年。グレゴリオ暦一八三六年五月二十日。以下の「求」の下の字は「從」の崩し字と判じ、「より」と訓じた。]

2022/08/21

曲亭馬琴「兎園小説余禄」 深川八幡宮祭禮の日、永代橋を踏落して人多く死せし事

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。句読点は現在の読者に判り易いように、底本には従わず、自由に打った。鍵括弧や「・」も私が挿入して読みやすくした。踊り字「〱」「〲」は正字化した。祭り番付など、一部を読み易くするために改行を施した。続く馬琴の解説は五段落となっているが、それでも読み難いので、適宜、段落を成形し、頭を一字下げにした。

 なお、大惨事となった永代橋崩落は、既に、

『曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 兩國河の奇異 庚辰の猛風 美日の斷木』の「永代橋を踏落(ふみおと)し」の注

で、かなり詳しく注を附してある。ここではそれに屋上屋を掛けるつもりはないので、そちらをまず読まれたい。また、

「甲子夜話卷之二 45 深川八幡宮祭禮のとき永代橋陷る事」

でも詳細注を附してあるから、合わせて先に読まれたい。なお、冒頭の祭り番付などの町名や、判り切った人物その他は労多くして益少なしなれば、注さない。地図もキリがなくなるので、特異的にやらない。悪しからず。その代わり、《 》で読みを推定で歴史的仮名遣で施し、読解の便に供した。]

 

   ○深川八幡宮祭禮の日、永代橋を踏落《ふみおと》して人多く死せし事

 文化四丁卯年秋八月、深川富ケ岡八幡宮祭禮あり【三十年餘、中絕せしを、今茲《こんじ》、興行すと云。】。十五日に渡るべかりしを、雨天にて延引《えんいん》、八月十九日に渡りし也。番附、左の如し。

△初番【れいがん寺門前。】「龍宮」のだし、一本。

△一番【海邊、大工町《だいくちやう》。】「神功皇后」のだし【引物、二つあり。】。

△二番【蛤町《はまぐりちやう》[やぶちゃん注:深川にあった。]。】「波の龍」のだし【引物、あり。】。

△三番【さが町。】「佐々木四郞」のだし。

△三番の内、附祭【おどりやたい・はやし方、大ぜい。引物、いろいろ。】。

△四番【相川町。】「戶がくし」のだし、一本。

△五番【熊井町。】「えびすに鯛」のだし【「大たこ」の引もの。】

△六番【富吉町《とみよしちやう》。】「ほうらい」のだし。

△七番【もろ町。】「いちむさし野」のだし。

△八番【大島町。】「御所車にさくら」のだし。

△九番【中島町。】「辨慶」人形のだし。

△十番【北川町《きたがはちやう》。奧川町《おくかはちやう》[やぶちゃん注:孰れも深川の内。]。】「和藤内《わとうない》」人形のだし。

△十一番【黑井町。】「武内《たけのうちの》すくね」のだし。

△十二番【元木場町。】「やぶさめ」のだし。

△十三番【木場町。】「はりぬき材木」のだし。

△十四番【木場町。】附祭。大神樂。

△橋前一番【箱崎町一丁目。二丁目。】「武内宿禰」のだし。外に、引物、三本。

△二番【大川端町。】「神功皇后」のだし。「大岩龍神《おほいわりゆうじん》」の引物。

△三番【靈岸じま白かね町一丁目。二丁目。】「白鷄」作り物のだし【「松竹梅」、引物。】。

△四番【靈岸島四日市町。】「源より朝」のだし、引物あり。

△五番【れいがん島しほ町。】「仁田四郞」のだし【大なる「ゐのしゝ」、引物。】。

△六番【靈岸島はま町。】「かぢ原」人形のだし【「梅」に「かぶと」の引物。】。

△七番【南新堀一丁目。二丁目。】「天の岩戶」のだし、一本。

△八番【長崎町一丁目。二丁目。】「よりよし」のだし、外に、引物、三つ。

△九番【川口町。東湊町一丁目。二丁目。】「熊坂」人形のだし、「月にうさぎ」の引物、「くじらぶね」・「牛若」の引物、「金賣吉次」・「吉内《きちない》」・「吉六《きちろく》」。

組合【「紅葉がり」のをどり、やたい・はやし方、大ぜい。】神輿、三社。

         番附板元 本屋しげ藏

              京屋宗兵衞

[やぶちゃん注:以上の二名の名は底本では「番附板元」の下に割注式で二行ポイント落ちで入るが、吉川弘文館随筆大成版で並置した。

「文化四丁卯年秋八月」八月一日はグレゴリオ暦一八〇七年九月二日。

「佐々木四郞」源頼朝直参の御家人で、山木兼隆追討から「石橋山の戦い」で奮戦した、「平家物語」の「富士川の先陣争い」でも知られる佐々木四郎高綱(永暦元(一一六〇)年~建保二(一二一四)年)。

「いちむさし野」不詳。武蔵野を代表する風景を合わせてモデリングした山車(だし)か。

「はりぬき材木」リアルに作った紙製の張りぼての材木。

「大岩龍神」京都市伏見区深草にある大岩神社の龍神か。

「白鷄」「はくけい」(はっけい)。白鶏は神慮に叶ったものとされ、祭祀用として神社で飼養され、また、一般でも珍重した。

「仁田四郞」佐々木と並ぶ直参の御家人で、第二代将軍源頼家に命ぜられて富士山麓の「人穴」を探索したことで知られる仁田忠常(仁安二(一一六七)年~建仁三(一二〇三)年)。北条の命で比企能員を謀殺するも、直後に北条から謀反の疑いをかけられ、殺害された。引き物の『大なる「ゐのしゝ」』は、「曾我兄弟の仇討ち」で知られる源頼朝の「富士の巻狩り」に於いて、手負いの暴れる大猪を仕留めたとされることに因んだものである。この話は「曽我物語」で知られる彼の豪勇談であるが、彼のウィキによれば、『その猪は実は山神であり、後の忠常の不幸は山神殺しの祟りであるとする。これは曾我祐成を討った忠常が』、『祐成の怨霊によって不慮の死を迎えたことから着想されたものだろう』とあり、また、『御伽草子「富士の人穴」は』、『忠常が富士の禁を破ったがために忠常は命を縮めたと説明する』とある。

「かぢ原」後の『「梅」に「かぶと」の引物』から、「富士川の先陣争い」で佐々木高綱と競った梶原影季(景時の嫡男)。

「よりよし」平安後期の武将で河内源氏の祖頼信の子であり、八幡太郎義家の父であった源頼義(承保二(一〇七五)年~永延二(九八八)年?)。「平忠常の乱」で父とともに奮戦し、「前九年の役」では陸奥守兼鎮守府将軍として義家とともに俘囚長安倍頼時の反乱を長年月に亙る苦戦の末、鎮定し、勇名を轟かせた。この時の精鋭は父以来の、また、自ら相模守・武蔵守などを務めた際に結びつきを深めた坂東武士たちであった。坂東武者や東国・江戸に於いて、非常な尊崇を受けた人物である。

『吉内」・「吉六」』は幸若舞の曲「烏帽子折(ゑぼしをり)」などで、義経を助けた金売り吉次の二人の弟とされる人物の名である。]

 永代橋、當時、かり橋に付、靈岸島・箱崎町・兩新堀等の九番は、船にて河を渡せり。

 當日【十九日。】、この祭り、三、四番、渡る折、已の中刻[やぶちゃん注:午前十時から十時半頃。]、永代橋、群集により、南の方、水際より、六、七間[やぶちゃん注:十一~十二メートル半。]の處の橋桁《はしげた》を踏落して、水沒の老若男女、數千人に及べり【翌日までに尸骸《しがい》を引あげしもの、無慮《およそ》、四百八十餘人也。この外は知れず。】。

 折から、一ツ橋樣、御見物の爲にや、御下《おんしも》やかたへ入らせらるゝ。御船にて御通行ありしかば、巳の時より、人の往來を禁《とど》めて、橋を渡させず。

 この故に、北の橋詰に、見物の良賤、彌《いや》が上に、聚合《あつまりあはせ》たれば、數萬人に及べり。

 かくて、御通行、果てゝ、

「すは、渡れ。」

といふ程しも、あらず、數萬の群集、立騷《たちさはぎ》て、おのおの、先を爭ひしかば、眞先に渡りしものは、恙もなく、渡り果《はた》しにけり。迹《あと》より、急ぐ勢ひにて、忽《たちまち》、橋を踏落しけり。

[やぶちゃん注:以下は底本も改行。]

 この立込《たちこみ》の人、一坪【六尺四方。】に五十人と推積《おしつも》りても、踏落したる十間[やぶちゃん注:十八・一八メートル。]の内だに、四、五百なるべし。況や、跡なるものは、さりとも知らで、人を推しつ、推されて、落《おつ》るもの、いくばくなりけん、想像《おもひや》るベし。

 こは、橋板をのみ、踏折りたるにあらず、橋杭《はしぐひ》の泥中へ、めりこみしにより、桁さへ、踏折られし也。前に進みしものゝ、

「橋、おちたり。」

と叫ぶをも聞かで、せんかたなかりしに、一個の武士あり、刀を引拔《ひきぬ》きて、さしあげつゝ、うち振りしかば、是には、人みな、驚《おどろき》怕れて、やうやく跡へ戾りしとぞ。

【此《この》落たる邊の水底《みづぞこ》は「ドロ」なりければ、群集の人の勢にて、橋梁を泥中へ踏込みしなり。後に橋を掛更《かけかへ》らるゝ時、この事、聞えて、「なほ、三、四尺も、杭のとまらずば、永代橋は、のちのちまで、船わたしになるべかりし。」と。この事、よく知れるものゝ、いひにき。】。

 通油町《とほりあぶらちやう》なる書肆鶴屋喜右衞門に、年來《としごろ》、使《つかは》れたる飯焚男某【人々、名をいはで、「おぢひ」と呼たり。】、三つになりける主《あるじ》の娘に、

「この祭を見せん。」

とて、背おひつゝ、永代橋を、なかば、渡る程に、前なる人々の、俄に叫ぶ聲せしに、五、六間、先だちて、風車《かざぐるま》をあきなふものゝ、姿は見えざれども、荷にさしたる風車の見えたるが、よろめくやうにて、見えずなりしを、

『怪し。』

と思ふ程に、

「橋の、落たり。」

と叫ぶ程しもあらず、白刄をうちふるものさへあるに、うち驚きつ。

 人もろともに、北のかたへ戾りしかば、主從、恙なき事を得たり【この鶴喜《つるき》が娘は、後妻の初子《うひご》にて、兩國なる賣藥店「稀薟丸《きれつぐわん》」の息子に嫁して、いま、なほ、あり。】

[やぶちゃん注:「稀薟丸」底本も吉川弘文館随筆大成版もこの字だが、調べると、「豨薟」(きけん)でキク科の一年草のメナモミ(キク亜綱キク目キク科キク亜科メナモミ属メナモミ Sigesbeckia pubescens )を意味することが判った。あまりに似ているので、この誤りの可能性が高いように思われたので、調べると、漢方薬に「稀薟丸」が現在もあることが判った(例えば、「福岡市薬剤師会」公式サイト内のここ)。

 以下は底本も改行。]

 この次の年【文化五年。】、元飯田町中坂下《いひだまちなかさかした》なる湯屋《ゆうや》有馬屋與總兵衞《よそべゑ》に使れたる火たき男某と申《まをす》も、永代橋の落たるとき、衆人と共に入水《じゆすい》せしものなり。こは、越後新潟のものにて、海邊にひとゝなりしかば、游ぐわざに熟したれども、入水の女、足にすがりて、思ひのまゝに泳ぐこと得《え》ならず[やぶちゃん注:不可能の呼応の副詞「え」の当て字。]。共に溺死すベかりしを、辛くして水中にて着たる單衣を脫捨、すがるものを蹴返し、拂退けなどしつゝ、やうやく、恙なきことを得たるなり。

「人に擕(すがる)るとき、足をそこねて、奉公なりがたければ、その九月、故鄕へまかりて、養生しつ。病ひ癒《いえ》たれば、この春、又、江戶へ來つ。」

と、いひけり。

 この男の話に、

「はじめ、先へ落たるものは、續きて落るものに打れて、矢庭《やには》に死たるも多かるべし。又、おなじ處へいくたりも落累《おちかさな》りて、下になりたるは、泥中へ推埋《おしう》められしも、多かりけん。」

と、いひにき。

[やぶちゃん注:以下、底本も改行。]

 予が妻の所緣《ゆかり》ありける山田屋といふ町人、當時、深川八幡門前にをり。このもの、かねてより、

「祭りの日には、子達を擕《つれ》て來ませ。」

などいはれしに、

『富岡の大神は、予が產沙《うぶすな》にてをはします。三十餘年前、彼《かの》祭りの渡りし折、予は尙、總角《あげまき》にて深川に在りしかば、故主《こしゆ》の供に立《たち》て觀たりき。さしも由緣あるおん神の祭なれば、子どもに觀するもよかるべし。」

と思ひしかば、その前夜、妻に誨《をし》へていふやう、

「翌《あす》、祭を觀にいなば、朝、とく、いづべし。いぬる頃、永代橋を渡りつる折《をり》、見たるに、彼橋の欄干の朽《くち》たる所、あり。安永の末[やぶちゃん注:安永は十年までだが、同年四月二日に天明に改元しており、以下から夏でないとおかしので、安永九(一七八〇)年か。]にか有けん、中洲の凉《りやう》のさかりなりし日、ある夜、『仙臺候の、花火を立らるゝ。』とて、常には、いやましの人、群集せし時に、いと多かる茶店に、人、居《をり》あまりて、大橋に聚合《あつまりあ》ふ人、いくらといふ數も知らざりければ、終《つひ》に、橋の欄干を推倒《おしたふ》して、入水せし老若、多かりき。これを思ふに、翌も亦、永代橋をわたる人多からんには、欄干を推倒すまじきものにもあらず。縱《たとひ》、彼《かの》橋に臨むとも、人、群集せば、引返して、大橋を渡りゆくべし。朝の出立《しゆつたつ》はやからば、さまで群集すべからず。この儀を、よくよく思ふべし。」

と、かねて、こゝろを得させしかば、十九日には、まだきより、支度して、この朝六ツ半時頃[やぶちゃん注:不定時法で午前六時半前後。]より、妻と子供を出《いだ》しやりけり。

 かくて午の初刻の頃、出入の肴《さかな》あき人《んど》の來《きた》て、

「今かた、河岸【小田原河岸也。】にて聞候に、祭見物の群集により、永代橋、落たり。さこそ怪我も多からめ、詳なることは、いまだ、知らず。」

といひ罵《ののし》る程に、やうやう、この噂、高く聞えて、人の驚き、大かたならず、近隣のともがら、おのおの、きて、

「今朝《けさ》、おん内《うち》かたの、御子達を倶して、祭、見に、いでませし頃、見かけまゐらせたりき。さぞ、御心ぐるしくおぼすらめ。とく、人を遣して、安否を問せ給はずや。」

と、いはざるものゝなかりしに、おのれ、答へて、

「いな、かねて、思ふよしありければ、知らるゝごとく、今朝、いとはやく、出しやりたりければ、をんな・子どものあしなりとも、五時《いつつ》前後[やぶちゃん注:同前で午前七時半前後。]には、永代橋を渡りけん。件《くだん》の橋の落たるは、四時《よつ》なかば[やぶちゃん注:同前で十時半から十一時頃。]と聞ゆれば、必《かならず》、恙あるべからず。されば、迎《むかへ》は、未《ひつじ》の頃[やぶちゃん注:午後二時前後。]よりつかはすべければ、なほ、はやかり。」

といふに、人みな、いぶかりて、なほ、

「かに。」

「かく。」

といふも、多かり。

 かくて、未くだる頃、迎の人に、挑燈、もたして、つかはすときに、示すやう、

「大橋も朽たれば、兩國橋より、かへり來よ。山王神田の祭禮には、しな、かはりて、渡り初《そむ》るも遲かるべく、祭の果《はつ》るは、夜にも、入りなん。かへさば、いよいよ、群集しつべし。足よはどもを扶《たす》けひきて、怪我、なさせそ。」

と、いひ付たり。

 これより後、近きわたりの友達より、消息して安否を問はるゝもありしかど、己《おのれ》は件の時刻をはかりて、

『恙あらじ。』

と思ひしかば、初よりして、些《いささか》も、さわがず。

 この年、長女は十四歲、その次は十二歲、孩兒《がいじ》は十歲、季女《すへむすめ》は八歲なりければ、

『走りあるきも、人なみなり。いかばかりの事あるべしや。』

と思ひつゝ待つ程に、この夜、戌の半《なかば》頃に、みな、恙なく、かへり來にけり。

 扨、事のやうを尋《たづぬ》るに、

「かねて云し給ひしよしも侍れば、今朝は、ことさらみちを急ぎて、まだ五ツにはならじと思ふ頃に、永代橋を渡り果しかば、渡る人も多からざりき。かくて、山田屋へいきて棧敷《さじき》に登り、まつりを觀て侍りけるに、四半時にもや、ありけん、鶴屋のかよひ伴頭金助夫婦が、隣棧敷へ來て、

『只今、永代橋落て候。やつがれらは第一番に渡り果しかば、恙もあらず。迹なるものは、入水せしも、あるらん。』

と、いひにき。さばれ、驚く程の事とは覺《おぼえ》ざりしに、祭りの果《はつ》る頃より、この噂、大かたならず聞えしに、胸、うちさわがれたれど、迎人《むかへびと》に仰《おほせ》つけられしよしも承りて、あわたゞしく歸路に赴くに、

『寺町通りは、なほ、人稠(ひとごみ)ならん。』

とて、木場にまはり、冬木町《ふゆぎちやう》をよぎり、海運橋、又、高橋を渡りし頃は、群集に、みちを、さりあへず、橋は、

『ゆらゆら』

と、ゆらめくにぞ、

『この橋も、今、落《おつ》るぞ。』

と、人の罵るに、胸、潰れ、からうじて、兩國橋まで、來にければ、活《いき》たる心地し侍りき。」

と、いひけり。

「吾は、『彼橋の落つべし』とは思はざりしが、安永の頃、大橋の欄干を推倒せし事もあれば、『人、多く出《いで》ぬ程に。』とて、今朝、はやく出しやりしは、われながら、よくも量《はか》りつるかな。」

と、いひ誇りて、笑ひにけり。

[やぶちゃん注:「長女」幸(さき)。文政七(一八二四)年馬琴五十八の時、馬琴は隠居となり、剃髪して「蓑笠漁隠」(さりつぎょいん)と称するようになり、この長女幸に婿養子吉田新六を迎え、清右衛門と名乗らせて、元飯田町の自身の家財一切を譲り、分家させた。

「その次」次女祐(ゆう)。事績不詳。

「孩兒」「幼(いとけ)い童子」の意しかないが、ここは「男の幼児」の意で特異的に使用している。言うまでもなく、馬琴最愛の嫡男瀧澤(琴嶺舎)興繼である。馬琴は彼に武家瀧澤家の復興を頼みとしていた。彼は医術を修め、文化一一(一八一四)年には「宗伯」と名乗ることを許された。文政元(一八一八)年には神田明神下石坂下同朋町(現在の千代田区外神田三丁目の秋葉原の芳林(ほうりん)公園付近)に家を買い、ここに滝沢家当主として宗伯を移らせている。二年後の文政三年には宗伯が当時は陸奥国梁川(やながわ)藩に移封されていた藩主松前章広(あきひろ)出入りの医員となった。これは馬琴の愛読者であった老公松前道広の好意であった。章広は後に旧領松前藩に復した。而して、かく宗伯が俸禄を得たことから、武家滝沢家の再興を悲願とする馬琴の思いの半ばは達せられたかに見えたが、宗伯は生来の多病虚弱であり、馬琴六十九の、天保六(一八三五)年五月八日、三十九歳の若さで亡くなっている。私は以前から気になって、盛んに調べているのだが、おかしなことに、複数の正規論文や小説風の作品を見ても、『不治の病』とか、或いは重い癲癇発作を起こす精神疾患であったとかを臭わせる記載はあるものの、正確に死因を名指しているものがないのである。識者の御教授を乞うものである。

「季女」三女鍬(くは)。後に渥美氏に嫁した。以上の子女記載は、概ね、主文をウィキの「滝沢馬琴」に拠った。]

 かくて、その次の日【八月廿日。】、

『彼橋の落たる光景を見ばや。』

と思ひて、晝飯を、はやく果しつ。孩兒を將《ひきい》て、兩國橋を、うち渡り、御船藏通り、大橋のほとりより、永代橋の南の詰までゆく程に、水死の櫃《ひつ》【「早桶」と唱《となふ》るものなり。】を舁《かつ》ぎつゝ、こなたざまに、來るもの、引《ひき》もきらず。そが中には、

「市ケ谷のものぞとよ。兄弟三人、祭、見に出て、三人ながら、溺死せし。」

など、呟きつゝゆくも、ありけり。

 この日、かへさに、大橋のほとりなる茶店に憩ひて、なほ、きのふの事を聞《きく》に、茶店の女房のいひけるは、

「きのふ、こゝより、永代橋の落たる折、見けるに、橋のなかばに、忽然と、白氣《はつき》、立《たち》て、煙の如くに見えけり。

『あれは、船火事にあらずや。』

など、いひつゝ、人も、われも、眺望して有けるに、しばらくして、永代橋の落て、人、あまた、入水せしよし、聞えしかば、

『さては。嚮《さき》の白氣は、落る人の驚きたる息なりけん。』

と、思ひ合し侍りき。」

と、いへり。

 この水沒の尸骸に、主《あるじ》ありて、引とりしは、四百八十餘人、こは、町奉行へ訴出《うつたへいで》たる書あげの趣也。

 この後、品川・上總・房州の浦々へ、流れ當りしも多くあり。

 又、

「主ありて尋ねしに、知れざるも多かり。」

といへば、凡《およそ》、二、三千人も死したらんか。いまだ知るべからず。

 むかし、貞和年間に、京なる四條河原にて、勸進猿樂の棧敷《さじき》、崩れて、人、多く死たるよしは、「太平記」に見えたれど、此永代橋の落たるは、それにも彌增《いやまし》ぬべき禍《わざはひ》にぞ有ける。

[やぶちゃん注:『貞和年間に、京なる四條河原にて、勸進猿樂の棧敷《さじき》、崩れて、人、多く死たるよしは、「太平記」に見えたれ』「太平記」巻二十七所収の「田樂(でんがく)の事付けたり長講(ちやうかう)見物の事」貞和五(一三四九)年六月十一日に発生した四条橋の橋勧進ために田楽が興行された。その際、見物用に組み上げた桟敷(上・中・下の約四百五十メートル)が多数の観客の重量に耐え切れなくなって、一気に将棋倒しに崩落、一瞬にして地獄の惨状を呈し、当時の日記によれば、死者百余人とする。国立国会図書館デジタルコレクションの「續帝國文庫」版の当該部冒頭をリンクさせておく。]

 このころ、

「夜な夜な、彼橋の邊の水中に、陰火のもゆる事もあり。又、鬼哭《きこく》の聲のせし事もあれば。」

とて、南の橋詰に、板壁の小屋を造りて、一個の法師、鉦、うち鳴らし、常念佛《じやうねぶつ》を唱へて、をり。

 爾後《こののち》、橋を掛更《かけかへ》られて、常念佛はあらずなりにき。

[やぶちゃん注:「鬼哭」浮ばれぬ亡者の泣き声。]

 又、その翌年八月、一周忌を弔ふ豪家《がうけ》の施主ありて、囘向院にて、大施餓鬼を興行せし事あり。河施餓鬼《かはせがき》をしつるも、ありけり。

[やぶちゃん注:以下、底本も改行している。]

 永代橋・大橋・新大橋は【一名「あづま橋」とも云。】、是まで、受負人ありて、橋の南北の詰に、板壁の小屋をしつらひて、番人二人、をり、笊《ざる》に、長き竹の柄を付たるを持《もち》て、武士・醫師・出家・神主の外は、一人別《ひとりべつ》に、橋を渡るものより、錢二文づゝ、取《とり》けり。人のわたらんとするを見れば、件の笊をさし出すに、その人、錢を笊に投入れて、渡りけり。この故に橋の朽たるも、掛更ること、速《すみやか》ならず。已むことを得ざるときは、假橋を造りて、本普請を延《のば》したり。こゝをもて、

「こたびの如き愆《あやまち》あり。」

など、いふものも、多かりしにや。

 當時、願ひ人《びと》、ありて、

「以來、海船、江戶入の荷物、大小により、一個に付《つき》、水揚運上《みづあげうんじやう》、いかばかりづゝ、取ㇾ之《これをとる》を、御免あらば、右の三大橋の掛更《かけかへ》は、公儀は申上《まをしあぐ》るに及ばず、町人・百姓より、錢二文づゝ取ことなく、破損以前に掛かヘ可ㇾ仕《つかまつるべし》。」

と、願ひまうしゝかば、御詮議の上、

「その願ひに任せ給ひし。」

とぞ。こは、遠からぬ事にて、只今、四十前後の人は、よく知りたるもあらんを、遠きさかひの人の爲、又は、わかうまごらのこゝろ得《え》にもならんか、とて、そゞろにしるして、みづから警め、且、人をも、いましむるもの也。必、人々、群集せる祭見物に、女・子どもをつかはすは、えうなきこと也。かの日、わがやからの恙なかりしは、幸にして免れたる也。必、是、わが智惠のすぐれたるには、あらずかし。

[やぶちゃん注:「永代橋・大橋・新大橋は【一名「あづま橋」とも云。】」この記載は混乱しており、よろしくない。ただ、この異名の方は複数あって、それが誤認として多くの江戸庶民の中でも混同があったようである。整理すると、この「大橋」は「両国橋」の異名で、隅田川河口から順に記すと、「永代橋」・「新大橋」・「大橋(両国橋)」となる。架橋位置は概ね現在のそれぞれの橋とそれほど変わらない。異名の「吾妻橋」は、以上の三つの橋とは、本来は別物で、三橋のさらに上流の、ここ(グーグル・マップ・データ。ここでのみ例外的にリンクさせた)にある。ところが、この橋、別名を「大川橋」と呼ぶので、混同に拍車がかかったわけである。若干、名前が異なるが、江戸時代のこれらの橋の位置関係を示した図が載るサイト「ビバ! 江戸」の「江戸の大川(隅田川)の橋」を見られたい。]

曲亭馬琴「兎園小説余禄」 奸賊彌左衞門紀事

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。句読点は現在の読者に判り易いように、底本には従わず、自由に打った。鍵括弧や「・」も私が挿入して読みやすくした。踊り字「〱」「〲」は正字化した。箇条「一」の後は続いているが、一字空けた。条が二行に以上に亙る場合は、底本では、二行目以降が一字下げになるが、無視した。

 「人相書」であるが、小学館「日本大百科全書」他によれば、犯罪者などを捜索・逮捕するために、その人の人相の特徴を記して配布するもの。人相書の制度は、江戸時代の初期頃からあったものと思われるが、制度が整ったのは、寛保二(一七四二)年制定の「公事方御定書」(くじかたおさだめがき)によってであり、その下巻第八十一条には、人相書の出される犯罪として、「公儀へ対し候重き謀計」・「主殺」(しゅごろし)・「親殺」及び「関所破」の四罪を定めている。「公儀へ対し候重き謀計」というのは、広い意味において、幕府に対する反逆行為を意味するものと考えられる。「主殺」というのは、庶民の家の奉公人が主人を殺すことである。「御定書」制定後、元の主人を殺した者や、主人や親に手負わせて行方不明になった者にも、人相書で捜査を命じることになり、また、主人の妻又は息子に手負わせた者も、これに準じられた。このように、人相書は特定の重罪人に対してだけ出されたもので、人相書でお尋ね者であることを知りながら、匿(かくま)ったり、又、召使いにして訴え出なかったりした者は、獄門の重刑に処せられた。なお、言っておくと、大方の方はご存知であろうが、「人相書」と言っても、文書で、人相その他の当該容疑者の特徴を書き記したもので、以下でも見る通り、風貌の特徴を始めとして、名前・通称・身体上の特徴・年齢、犯行時や、取り逃がしたり、逃亡した際の衣服や所持品の特徴,また、判っていれば、生国や、言語・発声の特徴などまでも掲げたが、似顔絵が描いてあるわけではない。時代劇ドラマの顔を描いたそれは、全くの演出である。なお、彼は膨大な配下を持った強盗団の首魁ではあるものの、以上の解説に見る通り、人相書が発行される対象犯罪ではなかった。則ち、以下のそれは極めて例外的なものであったのである。そういう点でも、馬琴は、この記事を書く気になったものと思われる。

 なお、「東京都公文書館」公式サイト内の「江戸・東京を知る所蔵資料(アーカイブス)を読む旧・古文書解読チャレンジ講座」の第十一回の「史料の解読/読み下し例」に「史料の解読と読み下し例~江戸の人相書」「(史料出典:『撰要永久録 御触事之部』第十五)」で、本人相書の原本と判読を添えたものが見られる(但し、条の中間が省略されている)。

 また、大石慎三郎氏の資料紹介と論文「武蔵国組合村構成について」(PDF)には、本人相書全文以外に、日本左衛門の犯行の巧妙さが、文書引用とともに詳細に解説されており、非常に参考になる。以下の人相書では判らない彼の犯行様態がよく判るので、少し引用すると(コンマを読点に代えた)、『天領支配については、治安問題とからんで、享保期に弱点が露呈するのであるが、その問題が更にあらわになるのが〝日本左衛門〟の事件である』。『彼は尾張藩の下士で、七里役であった浜村富右衛門の子供で、のち美濃で俳諧の宗匠などもしていたが、何時の頃からか』、『遠州を中心に盗みを働くようになり、配下数百人を引つれて、不義の蓄財をしたとされている富豪の家におしい』ったとして、以下の人相書が引用を受けて、

   《引用開始》

盗人としては異例の、おそらく江戸時代最初の全国指名手配になった大盗賊である。この手配書は幕府官編の『御触書集成』にも収録されているほどだから、彼の事件が如何に大きいものであったか判ろうというものであるが、ここで問題にしたいのは、彼の大盗撒のためではない。問題になるのは、彼が当時の支配機構の弱点を巧みについて盗みを働いたという、その盗賊技術である。延享3年9月に遠州豊田郡関係村々から差出された日本左衛門の召捕を歎願する6ヵ条の訴状には、日本左衛門の盗みの手口を次のように説明している。[やぶちゃん注:以下の引用では、底本では条の「一」のみが一字下げ、後は二字下げである。数字はアラビア数字であるが、ちょっと気になるので、漢数字に代えた。]

 

一、……盗人入候はゞ鐘太鼓打、村々の人を集め追散し申様に被仰付候故、其通兼而村々申合置候へども、一軒へ入候へば近所七、八間の表裏へ盗人ども二、三人づゝ当を付、勿論其家道筋にも番人四、五人づゝ刀抜身にてかまへ居申候に付、何程かね大鼓たたき申候ても、人の身の上、命を捨て懸り申事いらざるものと、知らぬふりにて出合申人無御座候

一、遠州盗人強働の儀、三年以来の儀御座候へぱ、遠州御拝領被成候御大名様方御家来中、盗人弁宿寄委敷御詮議被成候に付、其知行所には宿仕候者も無御座候由承り候へども、是は御知行所の内計の御吟味に御座候へぱ、外に御代官所の内方、御旗本様分郷の在所抔徘徊仕候由及承候、日本左衛門手下の者の武芸勝れ申候出、殊に大勢に御座候へば、御旗本様御回の御手勢計にては搦御取候事難成、勿論盗人所々大勢罷在候はぱと沙汰有之候へぱ、逃し可申様に奉存候、乍恐御大名様方御同勢にて跡方、一日にばたばたと御捕被遊、在方百姓相助り候様に、御吟味の上被仰付被下置候はゞ難有奉存候事

 

 前条では日本左衛門一味の盗の仕方が如何に巧妙であるかということが判るが、後の方は、いささか問題のあることが記されている。即ち日本左衛門の一味は、この地方が私領・天領・旗本領が入組みになっているのを利用し、当時の警察力が、各々自分支配領限りにしか及ぱないことを利用し、私領で盗を働いては天領・旗本領に逃込み、また天領で盗を働いたときには私領・旗本領に逃込むといった、警備・取締りの盲点を巧みに利用し、更に私領と天領・旗本領とを較べると私領に比して天領・旗本領は警察力が著るしく弱い点を利用し、専ら天領・旗本領を重点的にねらうという方法をとっているのである。

   《引用終了》

日本左衛門の初期の犯行は『不義の蓄財をしたとされている富豪の家におしい』ったとあって、彼が義賊張りであったことが判り、支配違いの警戒不備を巧みに利用して逃走する悪知恵の働く人物でもあったことも判明するのである。]

 

   ○日本左衞門人相書

江戶より被ㇾ遣候御書付寫。

            十右衞門事

              濱島庄兵衞

一 せいの高さ、五尺、八、九寸程、

一 年二十九歲【見かけ、三十一歲に相見え申候。】、

一 鼻筋通り、

一 小袖、鯨さしにて三尺九寸、

一 月額、濃く、引疵、一寸五分程、

一 目、中、細く、貌、おも長なる方、

一 ゑり、右之方へ常にかたより罷在候、

一 びん、中、少し、そり、元ゆひ、十程まき、

一 迯去り候節、着用の品、

  こはく、びんろうじ、わた入小袖【但、紋所、丸に橘。】、

  下に、單物、もえぎ色、紬【紋所、同斷。】、じゆばん、白郡内。

一 脇差、長二尺五寸。鍔、無地。ふくりん、金福人模樣。さめしんちゆう、筋金あり。小柄、なゝこ、生物、いろいろ。かうがい、赤銅無地。切羽、はゞき、金。さや、黑く、しりに、少し、銀、有。

一 はな紙袋、もえぎらしや。但【うら、金入。】。

一 印籠、鳥のまき繪。

  此者、惡黨仲ケ間にては、「日本左衞門」と申候。其身は、曾て左樣に名乘不ㇾ申候。

[やぶちゃん注:以下は、底本通りの配置。]

右之通之者於ㇾ有ㇾ之者、其所に留置、御料は御代官、私領は領主・地頭へ申出、夫より、江戶・京・大阪、向寄の奉行所へ可申達候。最、及ㇾ聞候はゞ、其段可申出候。隱置、後日に、脇より相知候はゞ、可ㇾ爲曲事候。以上。

 延享三寅十月

[やぶちゃん注:以下は、底本では、二行目以降は一字下げ。]

右御書付、十二月十二日、御宿繼、奉書にて被仰遣候。此一條、「佐渡年代記」延享三丙寅年の記に見えたるを抄錄す。

[やぶちゃん注:「日本左衞門」(享保四(一七一八)年~延享四(一七四七)年三月二十一日:享年三十)は小学館「日本大百科全書」によれば、本名は『浜島庄兵衛』。『江戸中期、東海道筋で夜盗を働き』、二百『人もの』、『盗賊団の親分となり、日本左衛門と異名をとった。父は尾州家の家臣であったと伝わる。若くして放蕩』『のため』、『勘当され、遠江』『天竜川あたりの無頼仲間に加わった。押し込み強盗を働いたのは前後数年であるが、その悪事のため』、ここに見る通り。延享三年、『強盗としては例外的に人相書をもって御尋ね者とされた。それには、「年令二九歳、丈(たけ)五尺八寸ほど、色白く、鼻すじ通り、顔おもなが……」とある。京都まで逃れていたが、そこで町奉行所』(☞)『に自首し、江戸送りとなり』、翌年、『引廻』しの上、『獄門となった。歌舞伎』「青砥稿花紅彩画」(あおとぞうしはなのにしきえ)(通称「白浪五人男」「弁天小僧」。河竹黙阿弥作。幕末の文久二(一八六二)年三月、江戸の市村座で初演。本外題は三世歌川豊国筆の役者見立ての錦絵「白浪五人男」に着想した作であった。別外題は「弁天娘女男白浪」(べんてんむすめめおのしらなみ))の『日本駄右衛門(にっぽんだえもん)のモデルとして知られる』とある。

「五尺、八、九寸程」約一メートル七十六センチから一メートル七十九センチ弱。

「鯨さしにて三尺九寸」「鯨さし」は「鯨差し」で「鯨尺」(くじらじゃく)のこと。江戸時代から使われていた裁縫用の尺違いの物差し。尺貫法の「一尺二寸五分」(約三十七・九センチ)を「一尺」とするもの。最初に用いられた時期は不明確であるが、室町末期に「一尺二寸」の裁縫用の「呉服尺」が出現しており、それがさらに「五分」伸びたものと考えられる。名称は、クジラの髭(ひげ)で作られたことに由来する(小学館「日本大百科全書」に拠った)。換算すると、四十七・四センチメートル。

「月額」先に掲げた「東京都公文書館」の資料の訓読で「さかやき」と読んでいる。中世末期以後、成人男子が前額部から頭上にかけて髪をそり上げたこと(又、その部分)、所謂、「月代」(さかやき)に於ける、その前額部の様態を指す。江戸の太平の世になると、テッカテカに剃るのが流行ったが、下級の者・浪人・無頼の徒は、毛がモサモサ生えて「濃」かった。

「一寸五分程」約四センチ五ミリ。

「びん」「鬢」。頭部の左右の側面の耳際の髪のこと。

「こはく、びんろうじ、わた入小袖」「琥珀・檳榔子」の「綿入り小袖」で、先に掲げた「東京都公文書館」の資料の「語句説明」に、「琥珀」は『絹織物の一種である琥珀織のこと。緯糸(よこいと)の方向に低い畦がある平織物で、帯・袴地等に多く用いられた』とあり、「檳榔子」は『ヤシ科の植物檳榔樹の果実。薬用・染色用とする。ここでは檳榔子染めで染めた赤みを帯びた暗黒色のこと』とある。「檳榔樹」(びんろうじゅ)は単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科ビンロウ属ビンロウ Areca catechu のこと。檳榔子(びんろうじ)はビンロウの果実を指す。本種は本邦では産しないが、薬用・染料とするため、奈良時代の天平勝宝八(七五六)年頃、輸入された記録が既にある。

「單物」「ひとえ」。

「もえぎ色」「萌黃色」。

「紬」「つむぎ」。絹織物の一種。真綿や屑繭から手紡ぎした糸を用い、手織機によって平織にしたもの。織糸に節があるので、野趣に富み、丈夫である。多くは、植物染料を用い縞や絣(かすり)の織模様とするが、白紬に染色することもある。産地によって特色があり「結城(ゆうき)紬」や「大島紬」、伊豆八丈島の「黄八丈」、山形の「長井紬」(米沢紬)、長野の「上田紬」、沖縄の「久米島紬」、石川の「白山紬」などが知られる(平凡社「百科事典マイペディア」に拠った)。

「じゆばん」「襦袢」。下着。

「白郡内」「しろぐんない」。「郡内」は山梨県東部の富士山の麓に広がる古くからある地域名(現在の南都留郡。グーグル・マップ・データ。以下同じ。但し、北都留郡も「郡内」である)。「山梨県」公式サイトの「毎日を楽しく彩るやまなしのスペシャリテ|富士山の麓で1000年以上紡がれるハタオリマチの織物」によれば、実に千『年以上も前から織物業が営まれている織物の産地で』、『高い技術から生まれる美しい色柄を配した繊細で上質な織物は、かつては「甲斐絹」として知られてい』『たが、現在は「郡内織物」、「ふじやま織り」と呼ばれ、多くの人を魅了してい』るとある。

「二尺五寸」七十五・七センチメートル。

「鍔」「つば」。

「ふくりん」「覆輪」「伏輪」。刀の鍔の周縁を金属(鍍金(ときん)・鍍銀)の類で細長く覆って損壊に備え、あわせて装飾を兼ねたものを指す。

「金福人模樣」不詳。台湾のサイトのこちらに、達磨風フィギアの写真が載り、そこに「金福人」とあるので、金メッキの達磨像を言うのかも知れない。

「さめしんちゆう、筋金あり」「鮫眞鍮」で、「文化遺産オンライン」のこちらに、「鮫鞘角柄真鍮金具附刀子」の画像が載る(但し、中国製)。「刀子」は「とうす」で小刀のことである。物を切ったり、削ったりする、加工用途に用いられる工具の一種で、現代の小型の万能ナイフに通じる。長さは十五~三十センチ程度のものを言う。

「小柄」「こづか」。脇差の鞘の外側にさし添える小刀。振り飛ばして相手を刺すのに用いたりするが、江戸時代には脇差の装飾化していた。

「なゝこ」「魚子」「魶子」「斜子」「七子」。彫金技法の一つで、先端が小円になった鏨(たがね)を打ちこみ、金属の表面に細かい粒が密に置かれたように見せたもの。一般に地文として用い、ササン朝ペルシャから中国を経て、奈良時代には日本に伝わった。元は「魚(な)の子」の意で、魚卵の粒がつながっているような形になることからの呼称。

「生物」不詳。「いきもの」で動植物の図案を言うか。

「かうがい」「笄」。刀の鞘の差表(さしおもて)に指しておく篦(へら)状のもので、武器ではなく、髪を撫でつけるのに用いた。

「赤銅」「しやくどう」。

「切羽」(せつぱ(せっぱ))と読む。刀剣を構成する刀装具の一つで、鍔を表裏から挟むように装着する金具のこと。「物事に追われて余裕がなくなる」という意味を持つ慣用句「切羽詰まる」の語源として今に知られている。形状は刀剣の種類によって様々である。参照したサイト「刀剣ワールド」の『刀装具・拵「切羽とは」』を見られたい。画像もあり、非常に参考になる。前に注した物も、「目貫・小柄・笄・縁頭写真/画像」のページ等で画像が見られる。

「はゞき、金」「はばき」は「鎺」。刀身と鍔の接する部分に嵌める筒状の金具。同前のサイトのこちらを参照。

「もえぎ、らしや」「萌黄」色で「羅紗」製。

「金入」「きんいれ」。金箔を貼り付けてあるか。

「まき繪」「蒔繪」。日本左衛門、相当、お洒落!

「仲ケ間」「なかま」。

「右之通之者於ㇾ有ㇾ之者、其所に留置」「右の通りの者、之れ、有り於(お)かば、其の所に留め置き」。

「御料」天領。

「向寄」「むかひより」で「近くの」。

「及ㇾ聞候はゞ」実際に見かけたのでなくても、それらしい人物がいると聴いたならば。

「曲事」「くせごと」。不正行為。

「延享三」この前年に徳川吉宗は大御所となり、当時は名目上は徳川家重の治世である。

「御宿繼」「おんしゆくつぎ」で「御宿次」とも書き、宿駅から宿駅へと、人や荷物・文書等を送り継いでゆくこと。駅逓に同じ。

「佐渡年代記」慶長六(一六○一)年から嘉永四(一八五一)年までの二百五十一年間の佐渡奉行所の記録を編纂したもので、編者は明かでないが、地役人西川明雅が編纂したものを基本として、彼の没後に同じ地役人であった原田久通が書き続けたものとされる。]

2022/08/20

曲亭馬琴「兎園小説余禄」 奸賊彌左衞門紀事

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない。稀に底本の誤判読或いは誤植と思われるものがあり、そこは特に注記して吉川弘文館版で特異的に訂した)。句読点は現在の読者に判り易いように、底本には従わず、自由に打った。鍵括弧や「・」も私が挿入して読みやすくした。踊り字「〱」「〲」は正字化した。ベタで長々と続くので、段落を成形し、会話その他も改行し、読み易くした。

 

   ○奸賊彌左衞門紀事

 文政五年冬十二月中旬、芝神明前の地本問屋和泉や何がしが妻、その宵の程より、產の氣つきたるが、いと難產にて、子は死して生れたるに、辛くして、母は恙なかりき。

 しかるに、その夜五ツ時ごろ、いづみやが見世へ、書札一封を、もて來て、

「これは注文の狀也。よく、うけおさめ給へ。」

といひながら、はるかに投入れて、去りしもの、あり。見世なる手代ども、

「何方よりの注文ならん。」

とて、その上がきを見るに、

「和泉屋市兵衞樣 松浦彌左衞門」

とあり。

 聞しらぬ名なれ共、その儘、封じをひらきて、よみて見るに、こは、注文にはあらで、浪人の、合力を乞ふよし也。

[やぶちゃん注:「文政五年冬十二月中旬」グレゴリオ暦では一八二三年一月下旬。

「芝神明前」「芝神明門前町(しばしんめいもんぜんちやう)」。現在の港区芝大門一丁目(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「地本問屋」(ぢほんどんや(どいや))とは寛文期(一六六一年~一六七三年)から江戸で始まった地本を企画・制作して販売した問屋。「地本」とは江戸で出版された大衆本の総称で、洒落本・草双紙(赤本・黒本・青本・黄表紙・合巻(ごうかん))・読本・滑稽本・人情本・咄本・狂歌本などがあった。また、浮世絵版画も企画・出版しており、「地本錦絵問屋」「地本草紙問屋」「絵草紙屋」などとも呼ばれ、「板元」「版元」などとも称した。

「夜五ツ時ごろ」不定時法で午後八時頃。

「合力」「かふりよく」。資金援助。]

 こゝろえぬ趣なれば、皆、うちよりて評議する折から、あるじの妻、やうやく、わらの上をはなれて、產所に着ければ、あるじも、やゝ、こゝろおちつきて、見世のかたへ出たるに、手代ども、

「かやうかやうの事こそ候ひつれ。」

といふ。あるじ聞て、まづ、其狀を取りて見るに、その文面に、

「拙者事 四 五年以前まで 御隣町に罷在り御世話に預り候處 其後 いよいよ不如意に罷成り候て 當時は必至と致難儀候 最 在所表は 身分相應のものどもに候間 右國許へ罷越し 金子才覺いたし度存候へ共 何分 路用に指支候 近頃 無心の至に候へ共、金子 二分 借用いたし度候 最 當大晦日迄には 無相違一返濟可ㇾ致候 右の趣 御承知被ㇾ下候はゞ二分也とも 小粒也共 この袋へ入れ 御見世の仲柱へ 地より三尺程揚て 御張置可ㇾ被ㇾ下候 今晚 深更に及び 猶又罷越候て可ㇾ致受納候 扨又 拙者事 何がし【この師匠の姓名等は、くはしく書付たり。】が門人にて 年來勵術柔術等修業いたし 松浦流と申一流を立候へども 諺にいふ生兵法大疵の基にて 先年爲修業諸國を歷巡り候節、於信州思はずも不覺をとり候事抔有ㇾ之候。乍ㇾ去右體の御恩に預り候儀に候へば 爲謝禮 素人衆にても時の間に合ひ 災難を迯ㇾ候こゝろへを傳授可ㇾ致候 別紙をつねづねよく御覽被ㇾ成候て、御工夫被ㇾ成候へば、夜中往來抔の時 災難を迯れやすく候云々」

と。

 文言、甚、叮嚀に認め候て、やわら傳授の目錄を添たる事、凡、十餘條也。その大略は、「途中において、喧嘩をしかけられ、又は、馬鹿もの・醉興人に出あひ、無ㇾ據のがれがたき時、かやうかやうにして、早く相手の肩を如ㇾ此して打てば、その人、絕死す。」などいふ事、多く書、集たり。すべて、素人にもなりやすき趣にて、やわら免許の書ぶりにて、おくに

「和泉屋何がし殿 松浦彌左衞門」

と、わが名を大書して、書判あり。その手跡、拙からず、いか樣にも、武士めきたる手筋にて、商人の手風にあらず。

 本文の狀の内へは、二分判、一つ入るべき程の、ちひさなる袋を卷こめてあり。且、本文の尙々がきに、

「もし 此無心 聞濟無ㇾ之候はゞ 別封にいたし置候一通を 披見可ㇾ被ㇾ成候 御聞屆被ㇾ下候はゞ 右の別封は御開封に不ㇾ及 その儘 御返し可ㇾ被ㇾ下候」

と書そヘたり。

[やぶちゃん注:「わらの上をはなれて、產所に着ければ」血の穢れを嫌って、土間や庭の一画に産屋を作り、出産に際はさらにそこから離れて地面に藁を敷いて、そこで出産したものか。落ち着いて、家内に通じる産屋へ移動したということであろう。

「尙々がき」「なほなほがき」。追伸。]

 あるじ、讀終りて、

「げに、けしからぬ物乞ひかな。その別封には何事をか書たらん。それをも披きて見よ。」

といふに、手代ども、入興して、おしひらきて、主從みな、もろともに、ともし火のかたにうちつどひつゝ見るに、案の外なる文體にて、

「もし この無心を聞屆ざるにおいては 遠からず 思ひしらすべし あるじは勿論 家内の小者に至るまで 日くれて 門より外へ出なば 命はなきものと思ふべし それをおそれて夜中 一人も外へ出ずば 火をつけて燒拂ふべし」

などいふ、いとおそるべき事どもを、書つらねたり。

 手代どもは、この別封の趣に、興さめて、みなみな、舌をふるひつゝ、

「かくては、子どもたりとも【丁椎を「子ども」といふ也。】くれがたに錢湯にも遣しがたし。」

「どしてや、よけん。」

「かくや、すべき。」

などいふに、あるじは、左のみ、うちも騷がず。

「今宵、この取込中に、何事をか思案に及ぶベき。又、了簡もあるべきに、その書狀を、うしなふべからず。まづまづ、打捨ておけかし。」

と、いひさとしつゝ、產婦の事、こゝろもとなければ、あるじは、やがて、奧に赴きぬ。

 しかれども、手代等は、とにも、かくにも、心おちつかず、又、さまざまに談合するに、あるじの親類にて、芝邊より來あはせしものあり、その人も宵より見世に居て、事の趣をよく知りたれば、しばらく思案して、

「たとへ捨たりとも、わづかに、二分の事也。もし、その望みをかなへずば、いかなる意趣をふくみて、わざはひをなすべきか、揣り[やぶちゃん注:「はかり」。]がたし。まづ、こゝろみに、二分判一つ入れて、門の柱へ張おきて見よ。」

といふに、手代等一同に、

「しかるべく覺候。」

とて、件の小袋へ金を入れて、渠が望みのまゝに張置たり。

 さる程に、天明(よあけ)てければ、あるじ、見世に出て、件の事を問ふに、手代等こたへて、

「芝なる何がしどのゝ、『如ㇾ此(かく)々々』と、のたまふにより、我等、とりはからひて、かの袋へ、二分判ひとついれて、見世先なる柱へ張て候ひき。この事、その折告げ申すべく思ひしかども、御とりこみの折なれば、申すに及ばざりし。」

といふ。あるじ聞て、

「その金は、いかになりつる。今も、ありや、なしや。」

と問へば、手代等、こたへて、

「今朝、夜のあくると、やがて見世の戶をおしひらきて見候ひしに、金は、袋ともに、なかりき。おもふに、夜ふけて、とりに來て、もてゆきたるにこそ。」

といふ。

 あるじ聞て、

「さぞ、あらん、さぞ、あらん。世には、めづらしき强奪(おしとり)のくせものも、あれば、あるものかな。この事は、家主・名ぬしへ、耳うちしておくべし。」

と、いひながら、物に紛れて、その日、もはや已の時とおぼしきころ、同町なる繪草紙問屋の、わかさ屋何がしといふもの、町代のをとこと共に、あはたゞしげに、いづみ屋が見世に來て、若狹屋まづいふやう、

「いづみ屋ぬし、昨夜、ケ樣々々にての事は、なかりしか。」

と問ふに、あるじ驚きて、

「げにさることあり。」

と答ふ。

[やぶちゃん注:「已の時」午前十時頃。

「町代」(ちやうだい/まちだい)は町年寄や町名主を補佐するために彼らによって雇用され、町役人(ちょうやくにん)の下で町の運営上のさまざまな下級事務に携わった専業者。]

 わかさ屋、聞て、

「さればとよ。我が方にも、おなじすぢなる事、あり。しかるに、今朝未明に、御定まわり方の宅へめされて參りしに、

『いづみ屋も、來つるか。』

と問せ給ひしにより、

『いまだ參らず候。』

と申せしかば、

『罷かへりて、いづみやに、はやく來べしといへ。』

と、のたまふにより、はしりかへりて、告る也。この事、はやく訴奉らずば、後のおん咎も、はかりがたし。とくとく、し給へ。」

と、いはるゝに、あるじは、胸とゞろきて、そがまゝに、羽織うち着て、八町堀へおもむきければ、定まはりの衆よび入れて、

「汝が宿に、昨夜、ケ樣々々の事ありしか。」

と問るゝに、

「仰のごとく、さることの候ひき。」

と答へしかば、打うなづきて、

「その奸賊奴(かたりめ)は、はや、召捕れて[やぶちゃん注:「めしとられて」。]こゝにあり。よく、面を見よ。」

といはるゝに、和泉屋、ふたゝび驚きながら、急にかたへを見かへれば、年のころ、二十二、三歲とおぼしき町人體の男、いたく縛られて、をり。

[やぶちゃん注:「御定まわり方」「御定𢌞り方(おぢやうまはりかた)」町奉行所配下の同心で、江戸市中を巡回した者。「定町廻り」。]

 昨夜、松浦彌左衞門と似せ名[やぶちゃん注:「贋せ名」。]して、書狀を投おくりしには、似るべくも、あらず、いろ、うす白く、癖・かたち【◎脫字カ。】にて、世に小二才といふべき人がらなりければ、ふたゝび、心おどろきて、只あきれ果たるのみ。

 かくて宿所へ立かへりて、若狹屋とゝもに、件の事の趣を御番所へ訴奉りぬ【彼[やぶちゃん注:「かの」。]なげいれたる手紙も、そのまゝさし出せしなり。】。後にきくに、わかさ屋へ投人れたる封書も、おなじ文言にて、一字も、かはらず。しかれども、その人一人に、合力を乞ふやうに書なしたれば、合せ見ざる程は、いづれも、『われ一人に、つけられたるなめり。』と思はざるものは、なし。

 しかるに、わかさ屋は、その夜、かのなげ入れたるてがみを見て、うち驚き、やがて家主の宅へゆきて、由をつげ、又、名主の宅へ赳きて、よしを告げ、

「この事、いかゞ仕るべき。」

と問ひしに、名主、こたへて、

「それは、その方の心にあるべき事也。この方より、金子を遣せとも、つかはすなとも、指圖はしがたし。」

と、いはれたり。

 これらの往來と、問答に、小夜ふけて、はや丑三つ過たれども、

「わづかに二分の金を惜みて、わざはひをうけんより、二分捨て[やぶちゃん注:「すてて」。]こそ、夜のめは、やすからめ。」

て、是もおなじやうなる袋へ入れて、門の柱へ張りおきしに、わかさ屋が張おし金は、夜あけて見しに、そのまゝありけり。

 是により、わかさ屋は、金をば、そのまゝ納めて、彼手がみの中へ卷こめて、おくりしふくろの御番所へさし出しけり。

『そは、何ゆゑに、わかさ屋が張りおきし金はとらざりし。』

とて、後に考合するに、わかさやは、かれ是に、ひまどりて、その夜八ツすぎて、柱へ金を張りしかば、件の賊は、それより少しはやく、神明まへに來て、まづ、いづみ屋の手代の張りし金をとり、又。わかさやが見世先へ來て、柱を撫て見しに、いまだ張らざる以前の事なれば、そのまゝにゆき過し也。

 その後、わかさ屋も、金子を、かのふくろに入れて、望のまゝに柱へ張りおきし故、とられずと也。

 さて又、

「件の賊は、いかにして、はやくも召捕られし。」

と問ふに、芝宇田川町なる桐山何がしなる藥種見世へも、おなじ文言なる封書を投入れしに、桐山、ふかく、いぶかり、にくみて、家主・町代等と相談しつゝ、抱の鳶のものゝ、腕立[やぶちゃん注:「うでたて」。腕力が強いのを自慢して争いを好むこと。]を好むものありければ、その鳶のものをかたらひて、その夜、ひそかに見世の軒下に跟置しかば[やぶちゃん注:「つけおかしかば」。]、件の賊は、神明前より、直ぐに宇田川町へ赳きて、桐山が見世先にしのびより、柱へ手をかけんとする處を、待ぶせしたる鳶のもの、うしろより抱とめたり。賊は、いたく驚きながら、懷に、眞鍮錢四百文もてるを、はやく、かいつかみ、ふり揚ざまに、鳶のものゝ眉間を、

「はた」

と打しかば、額やぶれて、血は流るれども、組たる兩手を、ちつとも、放さず、頻りに聲をぞ、立たりける。

[やぶちゃん注:「芝宇田川町」「芝神明町」の東北一区画向こうの直近。この附近。]

 かねて合圖を定めし事なれば、桐山が手代、小もの等は、見世をひらきて、走り出、又、自身番屋【宇田川町の自身番屋は、きり山が見世のすぢ向ふに有。】よりも、左右の隣家よりも、人、あまた、落かさなりて、終に、賊をば、ぐるくまきにしつゝ、急に人を走らせて、定まはり方に告しにより、すなはち、召捕られたり。

 但、途中、捕りの趣にて、

「捕らせ給へ。」

と願ひしかば、桐山が名は出されず、一旦、とらへて、つき放すところを、召捕られしとかや。

[やぶちゃん注:桐山方の鳶らによって、事実上、捕縛されていたが、定町廻り同心の面子を慮って、形式上、以上のような仕方で正規の捕縛としたということである。]

 かくて、賊は入牢の後も、

「同類ありや。」

と問れしに、

「外に同類は候はず。母一人あり。妻も子ども候也。淺草寺のほとりなる飾り師にて候ひしが、近ごろ、渡世のわざ、ことの外、ひまになりて、渴命にも及ぶべきていたらくになり候により、不圖、せし、出來ごゝろにて、『松浦彌左衞門』といふ、にせ姓名をもて、處々へ封書を投入れて、おどして合力を乞し也。外に舊惡とても候はず。」

と陳じたり。

 しかれども、

「手がみの文面といひ、すべてのはかりやう、汝一人の胸より出たる事とは、思はれず。外に同類あるべし。」

とて、きびしく責問ひ給ひしかども、終に同類をば申さゞりしとぞ。

 さて又、かの賊が、おなじ文言なる手がみを投人れしは、馬喰町より、芝宇田川町まで十餘軒あり。

 みな、一件のかゝりあひなるをもて、しばしば御番所へ召呼れて、問せ給ふ事あり。

 かくて、去年とくれ、今年とたちて、七月【文政六年。】」に至りて、賊は牢死せしにより、事、やうやくに落着せり。

 和泉屋は、その事を訴奉るといへども、

「賊がいふむねにまかせて、金子を遣せし事、不埓也。」

とて、叱らせ給ふ。

 その外、一件のものども、みな、訴へ奉らざりし越度によりて、叱りおかせ給ひしとぞ。

 その中に、金もとられず、はやく訴奉りしにより、事なかりしもの、只、一人ありしとぞ。

 金をとられしは和泉屋一人也。

「手代等がはからひやう、おろかなるに似たれども、捕へて、つき出せしも、又、出來過ぎたるわざにて、あき人には、似つかはしからず。」

など、いひしものもありとぞ。

「畢竟、かざり師にて、劔術・やはらも、しらぬ賊なればこそ、よけれ、もし腕に覺あるくせものならば、彼腕立を好みし鳶のものも、あぶなきわざならずや。」

なんどいふ、評判さへ聞えたり。

 げに、かの手がみに、やはら傳授の一書をそへたるは、柔術・劔術にすぐれたるものと、思はせん爲なるべし。されば、かさねて金をとりに來つるとき、下人のおそれて近づかぬやうにはかりしかども、そは小兒をこそおどすべけれ、かく十餘軒なる門々を、夜ふけといふとも、再びとりに來つるといふ案内をさへ書しるせしは、最、をろかの至り也。

 且、歷々の町人は、をのづから、法度をわきまへ、よろづ、了筒あるものなれば、そこらは、みな、のぞきて、只、見世繁昌して、日夜に、いそがしき商人をのみ、えらみて、手がみを投入れしは、心を用ひしに似たれども、金を張りおきしは、わづかに二軒のみ。

 又、わづかに金二分を乞ひしは、出しやすからん爲なり。もし、金一兩ともいはゞ、みだりに遣すもの、あるべからず。奸賊[やぶちゃん注:「かたり」。]の計る所、大かた、こゝらに過ぎず。

 いづみ屋が遣せし金は、宇田川町にてとらへられしとき、ふり落しやしけん、その金は終に返らざりしとぞ。もし、彼賊、存命に候はゞ、遠流せらるべかりしに、牢死せしにより、死骸はとり捨たるべきむね、一統へ仰わたされしと也。

 この一件、去年十二月より、今年七月八日に至れり。

「誠に、めづらしき賊なれば、公裁も先例まれなりし故にや、八ケ月に及べり。」

と、人のいひしを、

『げに。さも侍りけん。』

と思はざるものは、なしとぞ。

 又、世評には、

「彼賊がおどしの別封に、『火災の事』なからんには、「重追放」にもなるべきものか。けしからぬことさへ書つらねしにより、遠流に定めさせ給ひしなるべし。」

と、いへり。

 げに、めづらしき奸賊也。おそるべし、おそるべし。

[やぶちゃん注:「重追放」は江戸時代の追放刑の中で最も重いもので、「関所破り」・「強訴」を企てた者などに科した。田畑・家屋敷は没収、庶民は犯罪地・住国・江戸十里四方に住むことを禁じ、武士の場合は犯罪地・住国及び関八州・京都付近・東海道街道筋などにも立入禁止とされた。彼の場合、脅しの中に重罪極刑であった「火つけ」があったことが、結果して致命的(天馬町の牢の悪環境での島流し待機による衰弱病気)であったということである。

 以下は底本では全体が一字下げ。馬琴の附記。]

 右、祕說に御座候へ共、爲御慰認候て奉ㇾ入尊覽候。最、他見を憚り候得ば、何とぞ御覽後は、このまま御返し被成下候樣、被二仰上可ㇾ被ㇾ下候。

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 海盤車・盲亀ノ浮木・桔梗貝・ヱンザヒトテ・タコノマクラ・海燕骨(キキヤウカイ)・総角貝 / ハスノハカシパン

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。]

 

Hasunohakasipan

 

海盤車【「盲亀(まうき)の浮木(ふぼく)」と云ふ。「桔梗貝(きけうがひ)」。】

   【「ひとで」【相馬。】。「ばんしや貝」【尾刕。】。】

   【「ゑんざひとで」。】

   【「たこのまくら」。】

 

表を「桔梗貝」と云ふ【伊勢二見浦。】。

 

  裏を「蓮葉貝(はすはがひ)」と云ふ【同上。】

 

[やぶちゃん注:以上は前が上部の図の、後が下部の図のキャプション。]

 

海燕骨(ききやうかい)【「百貝圖」に出づ。「総角貝(あげまきがひ)」。「圓座貝(ゑんざがひ)」。】

 

「海盤車」、生(せい)なる者、其の色、此くのごとくにして、表・裏、細毛あり。輕虚(けいきよ)にして、其の肉、無きがごとし。大小共(とも)、各(おのおの)、うらに、中穴(ちゆうけつ)あり。其の香(か)、甚だ腥臭(なまぐさ)し。品川の貝商(かいしやう)に求めて、其の生なる者を親見(しんけん)す。其の者、小なり。伊勢より求め送れる者は、方(はう)、三、四寸、其の者は、曝(さら)されて、其の色、白し。

 

丙申四月五日、伊勢詣(いせまうで)の旅士(りよし)、之れを送る。眞寫す。

 

[やぶちゃん注:これは、「蛤蚌類」ならぬ、

棘皮動物門海胆(ウニ)綱タコノマクラ目ヨウミャクカシパン科ハスノハカシパン属ハスノハカシパン Scaphechinus mirabilis

(和名は「蓮の葉菓子麵麭(パン)」とする説がある。「蓮の葉」は下部(開口部側の口器周縁の面に「蓮の葉」のような放射状の溝があることに由来する)である。ここに出る「海盤車」「盲亀の浮木」及び「海燕」の異名に就いては、『毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 紅葉貝(モミジガイ) / トゲモミジガイ(表・裏二図)』及び『毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 海盤車 / ハスノハカシパン』で既に注してあるので見られたい(「細毛」も後者に注してある)。また、寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十七 介貝部」の「海燕(もちかひ)」も見られたい。「もちかひ」とは「餠貝」のことで、彼らを言い得て妙である。

「桔梗貝」カシパンやタコノマクラの殻上にある花弁上に五つ広がる管足帯(歩帯)をキキョウの花弁に喩えた異名である。

「ひとで」『「ゑんざひとで」は、まだ、「圓座人手」で腑に落ちるが、何でただの「人手」なんや!?』と不審に思われる方がいよう(「圓座」は藁・菅(すげ)・藺草(いぐさ)などを渦巻形に丸く編んだ敷物。「わろうだ」)。そこは、「慶應義塾大学学術情報リポジトリ」の磯野直秀先生の「タコノマクラ考:ウニやヒトデの古名」を参照されたいのだが、実は、江戸時代の「タコノマクラ」は、第一に「ヒトデ」類の総称として、第二に「クモヒトデ」類を、第三にカシパン類を指すという三通りの使い方あった一方、現在、我々が普通に「タコノマクラ」呼んでいる上記の種を『指す用例はこれまで発見できず』、『おそらくは江戸時代には現われなかったと考えられる』と述べておられるのである。そこでは、無論、この梅園の「介譜」の本篇も検証されてある。而して、現在の標準和名が最初に正しく上記種に当てられた最初は明治一六(一八八三)年のことであったようである。

「百貝圖」複数回既出既注。寛保元(一七四一)年の序を持つ「貝藻塩草」という本に、「百介図」というのが含まれており、介百品の着色図が載る。小倉百人一首の歌人に貝を当てたものという(磯野直秀先生の論文「日本博物学史覚え書」(『慶應義塾大学日吉紀要』(第三十号・二〇〇一年刊・「慶應義塾大学学術情報リポジトリ」のこちらからダウン・ロード可能)に拠った)。

「総角貝(あげまきがひ)」「総(總)角」は髪形の一種。平安期までの小児の髪形の一種で、髪を額の中央から左右に分けて、それぞれを「みずら」(本邦の古代の男性の髪形。頭の額の中央から左右に分けて、耳のところで一結びしてから、その残りを8字形に結んだもの)のように結ったもので、江戸時代には遊里の太夫が兵庫髷に金糸の組紐を蜻蛉(とんぼ)形に結んだ髪飾りを用いたのに始まり、この髪飾りのついた髷をいう。ここは、その髪型の髪部分を先の花弁型の管足帯に擬えたもの。

「丙申四月五日」天保七年。グレゴリオ暦一八三六年五月十九日。]

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 「相貝經」(石朱仲著)

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。図はない。本篇「相貝經(さうばいきやう)」は魏・晋・唐・宋・明の小説を収録している叢書「五朝小説」に載る石朱仲(せきしゅちゅう:詳細事績不詳)の書いた一文である。国立国会図書館デジタルコレクションの「貝盡浦之錦(かひづくしうらのにしき)」に「附録」として収録されてある(その「解題」の磯野直秀先生の解説によれば、『本資料は紀伊徳川家への献上本らしい大型本である。著者大枝流芳』(おおえだりゅうほう ?~寛延三(一七五〇)年頃)『は摂津の香道家』であるが、十七『世紀後半には貝類収集が盛んになり、歌仙貝(和歌』三十六『首に合わせて選んだ貝』三十六『品)の刷物も元禄』二(一六八九)『年頃から板行されはじめていたが、総合的介類書の刊行は本書が最初である』とある)。その掲載の後に大枝は、『石朱仲が「相貝經」、五朝小說、魏・晉の藝術家の中に、之れ、有り。享保乙巳歳八月下浣、泉谷山の中に於て、之れを寫す。』と記している。「魏・晉」は魏晋南北朝時代で、後漢末期の「黄巾の乱」から始まり、隋が中国を再び統一するまでの複数の王朝が割拠していた時期を言う(一八四年~五八九年)。「享保乙巳歳八月下浣」は享保十年八月下旬で、グレゴリオ暦一七二五年九月下旬から十月五日までに相当する。梅園の訓点と比較してみたが、梅園は本書のそれを元にしているものと考えて問題ない。訓読では、私が一部で読みや送り仮名を施し、段落を成形した。]

 

Saubaikei

 

   相 貝 經

 

 黃帝・唐堯(たうげう)・夏禹(かう)、三代の貞瑞、靈竒の秘寳は、其の此れを次(つ)ぐ者、有り。

 貝、尺に盈(み)ちて、狀(かたち)、赤電(しやくでん)・黑雲(こくうん)のごとき、之れを「紫貝(しばい)」と謂ふ。

 素質、紅黒(こうこく)なるを、之れ、「朱貝(しゆばい)」と謂ふ。

 青地(あをぢ)に綠の文(もん)、之れ、「綬貝(じゆばい)」と謂ふ。

 黑き文に黃は、葢(けだ)し、之れ、「霞貝(かばい)」と謂ふ。

 「紫(し)」は疾(やまひ)を愈(いや)し、「朱」は目を明(あきらか)にし、「綬」は氣の障(さは)りを淸(きよ)くし、「霞」は蛆蟲(うじむし)を伏(ぶく)す。齡(よはひ)を延(のぶ)ること、能はずと雖も、壽を増す。其れ、害を禦(ふせ)ぐこと、一(いつ)なり。

 復又(またまた)、此れを下(さが)る者は、鷹の喙(くちばし)・蟬の脊は、以つて、溫を逐(おひはら)ひ、水を去る。竒功、無し。

 貝、大なる者、輪のごとし。

 文王、「大秦貝(だいしんばい)」を得(う)。徑(わたり)、半尋(はんひろ)。

 穆王(ぼくわう)、其の殻を得て、觀(くわん)に懸くる。

 秦の穆公は、以つて、「燕黽(えんまう)」を遺(のこ)し、以つて、目を明にして、遠くを察すべし。

 宣玉(せんぎよく)、宣金(せんきん)。

 南海の貝は、珠礫(しゆれき)のごとし。或いは「白駮(はくかう)」、其の性、寒、其の味、甘く、二水の「毒浮貝」は、人をして寡(か)ならしむに、以つて、婦人に近(ちかよす)る無し。黑白(こくびやく)各(おのおの)半(わか)るる、是れなり。

 「濯貝(たくばい)」は、人をして善(よ)く驚かしめ、以つて、童子に親(した)すむること無し。黃唇・㸃齒にして、赤き駮(まだら)有るもの是れなり。

 「雖貝(すいばい)」は、瘧(おこり)を病(や)ましむ。「黑鼻」・「無皮」、是れなり。

 「爵貝(しやくばい)」は、胎を消(しやう)ぜしむ。以つて、孕婦(はらみめ)に示す勿(なか)れ。赤き帶、通脊(つうせき)せる、是れなり。

 「慧貝(けいばい)」は、人をして善く忘れしむ。以つて、人に近(ちかよす)ること、勿れ。赤熾(せきし)の內殻、赤き絡(つらなり)、是れなり。

 「醟貝(ゑいばい)」は、童子をして愚かに、女人を淫(みだら)ならしむ。靑唇・赤鼻有り。是れなり。

 「碧貝(へきばい)」は、童子をして盜(ぬすみ)せしむ。背の上、縷(いと)の句(く)の唇(くちびる)、有り。是れなり。雨ふるときは、則ち、重く、霽(はれ)るときは、則ち輕(かろ)し。

 「委貝(いばい)」は、人をして志(こころざし)を強くし、夜行(やかう)するに、迷鬼・狼・豹・百獸を伏(ぶく)せしむ。赤くして、中(なか)、圓(まどか)なるもの、是れなり。雨ふるときは、則ち、輕く、霽るときは、則ち、重し。

[やぶちゃん注:以下の一段落は、底本では段落全体が一字下げ。最初の字下げをせずに差別化しておく。]

「緯畧(ゐりやく)」に云ふ、『師曠(しこう)、「禽經(きんけい)」有り。浮丘公、「鶴經(かくけい)」有り。相ひ畜(たくは)ふと雖も、亦た、「牛經」・「馬經」・「狗經」、有り。下(し)も、蟲・魚に至りて、「龜經」・「魚經」有り。唯(たゞ)、朱仲が傳へる所(とこ)ろの「貝經」は、恠竒、甚だし。經を琴髙(きんかう)に受ける。』と。

[やぶちゃん注:以下の頭の「○」は孰れも本文列から特異点で上に配されてある。]

○「綱目」曰はく、『蚌(ぼう)、蛤(ごう)と類を同じくして、形を異にす。長きの者を、通じて「蚌」と曰ひ、圓(まどか)なる者を、通じて「蛤」と曰ふ。故に「蚌」は「手」に從ひ、「蛤」は「合」に從ふ。皆、形を象(かたど)るなり。後世、混じて「蚌蛤」と稱するは、非なり。』と。

[やぶちゃん注:以下の一段落は底本では全体が三字下げで、字の大きさも小さい。頭の字下げをやはりやらずにおいた。]

此の説に從ひ、長(ちやう)を「蚌」とし、圓(ゑん)を「蛤」とす。殻、ねじけて厴(ふた)ある者、「螺」と云ひ、亦、「蠃(ら)」と云ふ。一片無對(むつい)の者は、則ち、「石决明(あわび)」の屬(たぐひ[やぶちゃん注:ママ。])なり。亦、竒形(きけい)の品あり。是れは異とす。

[やぶちゃん注:以下の内、終わりの「◦予、……」以下は字が小さい。梅園の附記である。]

○愼懋官(しんぼうくわん)の「花木考」に曰はく、『螺は多種にして掩(けわ[やぶちゃん注:別人の写本(位置が異なる)で確認した。しかし、意味が判らない。「ケツ」かも知れない。所謂、「尻(けつ)」で、以下の続きからは「蒂(へた)」のことのように思われる。])、白にして、香(か)ある者(もの)を、「香螺(こうら[やぶちゃん注:ママ。])」と曰ふ。殻、尖り、長き者を、「鑽螺(さんら)」と曰う[やぶちゃん注:ママ。]。味、之れに次ぐ。刺(とげ)有るを、「刺螺(しら)」と曰ふ。其の味、辛きを「辣螺(らつら)」と曰ふ。「拳螺(けんら)」と曰ふ有り。「劔螺」・「斑螺(はんら)」・「丁螺(ていら)」と』云〻(うんぬん)。◦予、余品(よひん)に「螺」の名を戴載(たいさい)するもの、其の數、少なからず。本條の集説、之れに出だす。

[やぶちゃん注:以下の二段落(行空けはママ)は本文から二字下げで字が小さい。やはり、頭下げを敢えてしなかった。]

貝品(かひひん)、其の數、盡し難し。其の中(うち)、「錦貝」は雅翫(がぐわん)の介の長(たけ)たり。諸州に有りと雖も、丹後・但馬・竹野浦の産、佳(よき)產なり。紀州の者、色、淡く、美ならず。貝品、多く出だすは、紀州和歌浦(わかのうら)・荒濵・加多(かだ)・粟島の北濵等、及び泉州・丹後・太皷(たいこ)の濵・琴彈(ことひき)の濵・紀州・熊野・伊勢・二見の浦、又、相州鎌倉雪の下・江の嶋の邉(あたり)、美貝(びかひ)あり。徃古(わうこ)より、貝賣(かひうる)家、多し。武州鈴ヶ森のほとり、大森の海邉(うみべ)よりも、多く出(いだ)す。又、貝賣家、あり。最も、諸州遠國に及んでは、美貝・竒貝の品(しな)夥(あまた)あるべし。得難(えがた)きをや。

 

貝合(かひあはせ)の事は、髙家(かうけ)女児の戯れにして、久しく傳われり[やぶちゃん注:ママ、]。家行(いへゆき)、「神主の記」ありて、其の始めを「舊事記(くじき)」に出(いづ)る「黒貝姫(いがいひめ[やぶちゃん注:ママ。])」と、「蛤貝姫(うむぎひめ)」とに取(と)れる。然れども、全文を考へるに、揷(さ)して貝合の濫觴(はじめ)とすべきに非らず。只(ただ)、其の名より牽(ひ)き合(あはせ)、附會(ふくわい)せり。景行天皇五十三年、淡水門(あわのみなと[やぶちゃん注:ママ。])に御幸す。白蛤を得る事あり。是れは、只、鱠(なます)と爲(な)して、之れを献ずと云〻。

貝合の事、介譜の説にあつからざれば、此(こゝ)に贅(こぶ[やぶちゃん注:ママ。別人の写本では「ガフ」と振る。普通に「ぜい」と振ってくれれば、躓かないのだがなぁ。])せず。

 

[やぶちゃん注:この「相貝經」は、以上の通り、民俗社会に於ける貝(貝殻)の呪術的な奇怪な記載を固有名とともに示して、所謂、後の六朝時代(二二二年~五八九年)に盛んに書かれ出した志怪小説の趣きを持っている。書誌学的には作者や本文について纏まって考証された文献はネット上にには見当たらない。私が見出せたのは、一つ、鈴鹿市出身の教師で貝類研究家であった金丸但馬(明治二三(一八九〇)年~昭和四五(一九七〇)年)が『ヴヰナス』に長期に亙って連載された「日本貝類學史」の「(8)」の、「第2章 支那本草學の 直譯と我が國本草學の建設」の章で、本「梅園介譜」にも出る林羅山道春の「多識編」で、「相貝經」からの「貝子(たからがひ)」固有名の提示に言及された部分であった(「J-Stage」のこちらからダウン・ロードできる)。そこでは、「説文」の字解から十種の和名を挙げた後に、「相貝經」にある八種について、ただ漢名をそのまま挙げてある。「多識編」原本の当該部は早稲田大学図書館「古典総合データベース」の単体画像のこちらの左丁一行目の「浮貝(フバイ)」から三行目の「委(イ)貝」までであるが、金丸氏はその論文で、以上の「相貝經」中の八種について、訳文を以下のように載せておられる45コマ目)。

   《引用開始》

淨貝は人をして寡ならしめるから婦人に近寄らしめてはならぬ

濯貝は人をして驚かしめるから童子に親しましめてはならぬ

雖貝は瘧黑を病ましめる[やぶちゃん注:これは「貝盡浦之錦」や梅園の読みとは異なる。]

嚼貝は胎を消さしめるから孕婦に示してはならぬ

惠貝は人をしてよく忘れしめるから人に近づけてはならぬ

醟貝は童子をして愚に、女人をして淫ならしめる

碧貝は童子をして盜せしめる

委貝は人をして志強く夜行に迷鬼狼豹百獸を伏せしめる

といふ實に奇怪な說が述べられて居り、學者[やぶちゃん注:林道春。]も之を和譯するのに窮し遂に音譯して置いたのである。

   《引用終了》

なお、金丸氏は基本「相貝經」に載る貝を総て「宝貝」タカラガイ科 Cypraeidaeに属するものと認識されていることが判った。古くから貝貨としてあり、現在もコレクター垂涎の種群であるから、特に異論はないが、果して全部が全部そうであるかどうかは、留保したい気はする。また、私の寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十七 介貝部」の「海蛤」の項にも、良安は本「相貝經」を引いている。私の古い訓読文を一部修正した。

   *

「相貝經」に、所謂(いはゆ)る。「碧貝」・「委貝」の、能く雨-霽(あめふるはるゝ)を知るがごときも、亦、妄ならざるなり【碧貝、背上に縷(る)[やぶちゃん注:糸のように細い筋。]有り。唇、勾(ま)がる。雨(あめふ)れば、則ち、重く、霽(はる)れば、則ち、輕し。委貝は赤くして、中圓。雨れば、則ち、輕く、霽れば、則ち、重し。】。其の他、勝(あ)へて計(かぞ)ふべからず。

   *

私が「相貝經」の他の記載について、冒頭の注の他に追加出来ることは以上に尽きる。以下、語注を禁欲的に附す。貝の同定は、記載が古い上、内容も乏しいので、基本的に種を検討しないが、「多識編」に記載があるのものは示す。

『貝、尺に盈(み)ちて、狀(かたち)、赤電(しやくでん)・黑雲(こくうん)のごとき、之れを「紫貝(しばい)」と謂ふ』る。「多識編」のここの左丁四行目に(太字は底本では四角二十囲み、黒地に白字抜き)、

   *

紫(シ)貝【「唐本草」。】。異名「文(ブン)貝」【「綱目」。】。

   *

『青地(あをぢ)に綠の文(もん)、之れ、「綬貝(じゆばい)」と謂ふ』「多識編」のここの右丁最終行目に、

   *

綬貝 美豆利加゛伊

   *

とある。「みどりがい」で殼背が緑色を呈するタカラガイの種と、林は「説文」などから解釈しているようである。

『黑き文に黃は、葢(けだ)し、之れ、「霞貝(かばい)」と謂ふ』「多識編」のここの左丁一行目に、

   *

霞貝 惠加岐加゛伊

   *

「壽を増す。其れ、害を禦(ふせ)ぐこと一(いつ)なり」「寿命を結果として伸ばすのであある。従って、人体に対する害を防ぐという点に於いて、以上の貝は、孰れも、同一の効果を持っているのである。」。

「此れを下(さが)る者は、鷹の喙(くちばし)・蟬の脊は、以つて、溫を逐(おひはら)ひ、水を去る。竒功、無し」ちょっと意味が判らないのだが、「下る」という部分から、『これらの貝の優れた効果を、有意に減衰してしまう呪物として、「鷹の觜(くちばし)」と「蟬の殻」(私はそう採る)があり、このマイナスの呪物は、体温を下げてしまい、体内の必要な水気(すいき)を除去してしまう。されば、先の貝類の効能を無効化してしまう。』と言っているものか。

「文王」(紀元前十二世紀~紀元前十一世紀頃)は殷末の周国の君主。殷の紂王に対する革命戦争(「牧野の戦い」)の名目上の主導者であり、周王朝を創始した武王や周公旦の父にあたる。後世、特に儒教にでは、武王や周公旦と合わせて、模範的・道徳的な君主(聖王)の代表例として崇敬される(当該ウィキに拠った)。

「大秦貝」諸論文を見るに、上記の周の文王が王権を示す「大貝」を入手したという伝承があり、後にそれを受けた後の中国王朝や西方での噂として生じた伝説の巨大な貝で、実在する種ではないようである。

「徑、半尋」殻の長径。当時の「尋」は八尺で約一メートル八十センチであるから、九十センチ。

「穆王」周朝の第五代王。

「觀」道教の神を祀る道観。当該ウィキによれば、『彼は中国全土を巡るのに特別な馬(穆王八駿)を走らせて』、遂には、『西の彼方にある、神々が住むとされた崑崙山にも立ち寄り』、『西王母に会い、西王母が後に入朝したと言う。このことは穆天子伝としてまとめられている。神話、伝説の要素を多く含む中国最古の旅行記である』とある。

「燕黽(えんまう)」不詳。ネットでも全く掛かってこない。「黽」には「蛙」の意があるが、判らぬ。貝に見える対象物の名で、「目を明にして、遠くを察す」ることが出来るという漢方的効能からは、思うに、例の南方熊楠の英文論文“ The Origin of the Swallow-Stone Myth ”(一般に「燕石考」と訳される)で知られる古生代のシルル紀から二畳紀に生存し、特に石炭紀に繁栄した腕足動物イシツバメ科に属する種の化石「石燕」(スピリファー:Spirifer)のことであろう。鳥が翼を広げた形の石灰質の殻をもち、その表面には放射状の襞がある。殻の中に螺旋形の腕骨を有するのが特徴で、漢名は形をツバメに譬て名づけたものである。私の)『「大和本草卷之三」の「金玉土石」類より「石燕」 (腕足動物の†スピリフェル属の化石)』を参照されたい。

「宣玉、宣金」不詳。それらの宝貝を「玉」や「金」に等しいと歴代の王は宣(のたも)うてこられた、ということか。

「珠礫」ここは単に、貝の礫(つぶて)なのであるが、それが宝石の珠玉に等しい美しさを持っているというのである。なお、「金塊珠礫」の故事成句があり、「贅沢を極めること」を言う。「塊」は「土の塊り」、「礫」は「小石」で、「金を土のように扱い、宝石を小石のように扱う」の意から、晩唐の杜牧の「阿房宮賦」が出典。

「白駮(はくかう)」不詳の貝の名。「白駮」は模様なら、「白い斑(ぶち)」を指す。

「二水」地名らしいが、不詳。台湾に二水郷はあるが、内陸なので違う。

「瘧」マラリア。

「緯畧」南宋の文人高似孫(一一五八年~一二三一年:(一二二五年に処州(現在の浙江省麗水市附近)の知州(知事)を務めたが、ひどい貪官であったという。官は礼部郎であったが、官人としては不遇であった。当該ウィキに拠った)の広範囲に及ぶ雑録集。彼は多才でカニの博物学書「蟹略」(かいりゃく)もものしている。

「師曠」(生没年不詳)は春秋時代の晋の平公(在位:紀元前五五八年~紀元前五三二年)に仕えた楽人。よく音を聞き分け、吉凶を占ったとされる。

「禽經」師曠が書いたとされる鳥類書。但し、偽書説もある。別に晋の博物学者張華の同名の作品が、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで視認出来る。

「浮丘公」仙人王子喬(生没年不詳:周の霊王(?~紀元前五四五年)の太子晋と同一人物とされる)の知人の道士。サイト「中国の図像を読む」の「第二節 鶴は松に巣をつくる?」の「三、長寿と仙禽としての鶴」を参考にさせて戴いた。

「鶴經」国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで浮丘公の「相鶴經」が視認出来る。

「相ひ畜(たくは)ふ」孰れも蔵書するの意であろう。

「牛經」国立国会図書館デジタルコレクションのこちらに「齊」の「甯戚」(ねいせき)の撰になる「相牛經」が載る。

「馬經」李伯樂の「相馬經」。「伯樂相馬經」とも。かの知られた伯楽(紀元前七世紀頃:春秋時代の人物。姓は孫、名は陽、伯楽は字。郜(こく)の国(現在の山東省菏沢市成武県)の人。馬が良馬か否かを見抜く相馬眼(そうばがん)に優れていた)の著とされる。

「狗經」不詳。

「龜經」早稲田大学図書館「古典総合データベース」にある明の陶宗儀の纂になる佚書の文集「説郛」(正篇・巻第百九)のPDF一括版の「58」コマ目から、作者不詳の抄録のそれが載る。カメ類の博物書であるが、亀卜関連の各個記載も散見される。

「魚經」不詳だが、これに類したものは、わんさかある。

「琴髙」「立命館大学アート・リサーチセンター」の「ArtWiki」の「琴高」に、漢の劉向(りゅうきょう)の「列仙傳」を訳して、『琴高は趙の人である。よく琴を弾いたので、宋の康王』(戦国時代の宋の第三十四代にして最後の君主。在位は紀元前三二九年~紀元前二八六年)『の舎人となった。涓子や彭祖の術を実践し、冀州・碭郡の地方を放浪すること二百余年。のち、碭水に潜って竜の子を取ってくると言い遺し、かつ弟子たちと約束して当日はみんな潔斎して水辺で待ち、祭場を設けておくようにと伝えた。すると、果たして赤い鯉に乗ってあらわれ、水から出て祠の中に坐した。翌朝には多数の人がこれを見にやってきた。こうして一月あまり滞在していたが、再び水中に入って去った』とある人物が遠い昔に書いたものか。この話自体が時間が異様に離れており、伝説的で信じ難い。

「綱目」李時珍の「本草綱目」の「蚌」の項からの引用。「漢籍リポジトリ」のこちら[108-4b]以下を参照。

『愼懋官(しんぼうくわん)の「花木考」』明の万暦年間(一五七三年~一六二〇年)に刊行された愼懋官(官人慎蒙(一五一〇年~一五八一年)の子)の撰になる博物書。以下は巻之七の「華夷鳥獣考 羽毛鱗介昆虫」の「螺」。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の一括PDF版(巻之六と巻之七の合冊)88コマ目。単体画像はこちら

「香螺」(かうら)は、本邦では、「甲香」、音では「カフカウ(コウコウ)」或いは「カヒカウ(カイコウ)」(「貝香」の当字)、または「へなたり」と訓ずる。吸腔目カニモリガイ上科キバウミニナ科 Cerithidea Cerithideopsilla 亜属ヘナタリ Cerithidea(Cerithideopsilla) cingulata 及びウミニナ(類形を有する複数の別種の通称)の仲間で、特にこれらの持つ角質の蓋を燻して香に利用した種群の総称である。

「鑽螺」現代中国では、尖塔の鋭い盤足目スイショウガイ(ソデボラ)科トンボガイ属スイショウガイ Terebellum terebellum terebellum に当てる。「鑽」は「錐」の意。

「刺螺」現代中国では、平板の螺形に放射状に棘が出る古腹足目リュウテンサザエ科リンボウガイ Guildfordia triumphans に当てているが、ここは広く腹足類の殻上に棘を多く出す種群を言っているものと思う。

「辣螺」ニシ類などの複数の「肉が辛い巻貝」を示す総称語。

「拳螺」これはサザエ型の種群を広く指す。

「劔螺」不詳。ナガニシのような尖塔性の縦長で長大な類か。

「斑螺」斑点紋を持つ巻貝の総称ととっておく。

「丁螺」不詳。画像検索をかけると、中文サイトでは盛んに螺塔が突き出た貝画像が出てくる。学名を調べようとしたが、一向、判らなんだ。

「本條の集説、之れに出だす」梅園も「相貝經」の対象が総て巻貝であることを認めているようである。

「錦貝」これは種名ではなく、広く色紋様が多色で美しい貝のことのように思う。確かに、斧足綱翼形亜綱カキ目イタヤガイ亜目イタヤガイ科カミオニシキ亜科カミオニシキ属ニシキガイ Chlamys squamata があり、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページでは、『市場に入荷することも、食用とされることもない』としつつ、『貝の収集の対象』で、『淡い紅色が美しい』とはあるが、二枚貝で、私の食指はその形からもちょっと動かないし、以下の称揚に相応しいとは思われない。

「雅翫(がぐわん)の介の長(たけ)たり」「雅びな玩弄の対象としての貝の長(おさ)、チャンピオンである」。

「竹野浦」兵庫県豊岡市竹野町(たけのちょう)竹野の竹野海岸附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「紀州和歌浦」和歌山県和歌山市の、この湾の旧広域呼称

「荒濵」不詳。但し、前後から考えると、現在の和歌山県和歌山市二里ヶ浜の磯ノ浦のように思われる。

「加多」現在の和歌山市加太(かだ)

「粟島の北濵」現在の淡路島の北東岸の兵庫県淡路市佐野附近か。

「太皷の濵」京都府京丹後市網野町掛津の太鼓浜。そこの北東と南西に「琴彈の濵」、鳴き砂で知られる現在の京都府京丹後市網野町掛津の琴引浜(ことひきはま)がある。

「武州鈴ヶ森」旧鈴ヶ森刑場があった、現在の東京都品川区南大井。現在は干拓で原「大森の海邉」は存在しないので、「今昔マップ」で示す。

「家行」度会家行(わたらいいえゆき 康元元(一二五六)年~正平六/観応二(一三五一)年?)は伊勢神宮の外宮(豊受大神宮)の神官で、伊勢神道の大成者。当該ウィキによれば、『度会有行の子で、村松を姓とし、はじめ行家といったが、禰宜昇格に際して改名した。徳治元』(一三〇六)年に『度会行忠の死没による欠員で禰宜に昇格し、以後累進して』、興国二/暦応四(一三四一)年には伊勢内外宮の十禰宜の上首である『一禰宜となり、南朝から従三位に叙せられ』、正平四/貞和五(一三四九)年に『職を退いた』。『伊勢神道の外宮の神官として、内宮より外宮を優位とする伊勢神道を唱えて、仏より神が上位であること(反本地垂迹説)と、外宮信仰を主張した』。『家行は学者・祠官としてのみならず』、「建武の新政」『挫折後の南北朝の動乱で』は、『南朝方の北畠親房を支援し、南伊勢地区の軍事的活動にも挺身した。後醍醐天皇の吉野遷幸に尽力したほか、その神国思想は北畠親房の思想に大きく影響し、親房の師とされ、また、他の南朝方にも影響を与えた』。『家行の著作の中では、特に』「類聚神祇本源」が『後世の神道に大きな影響を与えた』とある。

「神主の記」不詳。「類聚神祇本源」かどうかは判らない。調べる気も起らない。悪しからず。

「舊事記」平安時代の史書。全十巻。著者未詳。序に蘇我馬子らの撰とあるが、大同年間(八〇六年~八一〇年)以後、承平六(九三六)年以前の成立とされる。神代から推古天皇までの歴史を述べたもの。「先代旧事本紀」「旧事本紀」とも称する。

「黒貝姫」「蛤貝姫」ともに貝を神格化した女神で、天地開闢の神々の一柱である神皇産霊尊(かむみむすびのみこと)の子。前者は他に「蚶貝比賣(きさがいひめ)」「支佐加比賣(きさかひめ)」「枳佐加比賣(きさかひめ)」とも書き、後者は「宇武賀比比賣(うむかひめ)」とも書く。参照した、昔からお世話になっているサイト「玄松子の記憶」のこちらによれば、『八上比売』(やがみひめ『を得たため、兄弟八十神の怒りをかった大穴牟遅神』(おおなむちのみこ=大国主命)『は、伯岐』(伯耆に同じ)『の国で手間山』(てまやま)の『上より落とされた焼いた大石を麓で捕らえたことにより』、『焼死する。泣き憂えて天に上った御祖の命の願いにより、神産巣日神に派遣された𧏛貝比賣と蛤貝比賣が、母の乳汁(赤貝の貝殻の粉末に蛤の汁を混ぜたもの)によって、 大穴牟遅神を蘇生させた』とある。『𧏛貝比賣は、赤貝を神格化した女神』で、「先代旧事本紀」には「黒貝姫」と『ある。一説には、赤貝に刻(きさ:貝の年輪)があることによる』といい、『蛤貝比賣は、ハマグリを神格化した女神』であるとある。

「景行天皇五十三年、淡水門に御幸す。白蛤を得る事あり。是れは、只、鱠(なます)と爲(な)して、之れを献ず」国立国会図書館デジタルコレクションの黒板勝美編「日本書紀 訓読 中巻」(昭和六(一九三一)年岩波書店刊)の当該部をリンクさせておく。左ページの終りの部分である。

「介譜の説にあつからざれば」「介譜の類いでは、細かくは書かれていないので」。]

2022/08/19

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 鏡貝・カヽミガイ / カガミガイ

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。]

 

Kagamigai

 

鏡貝【「かゞみがい」。】

 

丙申八月三日、所藏、眞寫す。

 

[やぶちゃん注:これは、文句なく、そのまま、

斧足綱異歯亜綱マルスダレガイ科カガミガイ亜科カガミガイ属カガミガイ Phacosoma japonicum

である。『毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 白貝(シラガイ) / カガミガイ』で既に登場しているので、そちらの注を参照されたい。

「丙申」(ひのえさる)「八月三日」は天保六年。グレゴリオ暦一八三六年九月十三日。]

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 馬蹄螺・ムマガイ・馬ノ爪貝・駒ノ爪・アマ貝 / 異種二種で「アマオブネ」と「ウチムラサキ」

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。]

 

Bateira

 

「福州府志」に曰はく、

    馬蹄螺【「むまがい」・「馬の爪貝」・「駒のつめ」・「舟貝」。「舟貝」は、亦、別に一種、有り。】

       二種。

 

 伊勢二見浦産。

馬蹄螺

古(いにし)へは、「駒の爪」を「あま貝(がひ)」と云へり。今は通(とほ)して「駒の爪」と云ふ。

 

        仰(あふむけ)

 

府(ふせ)

[やぶちゃん注:貝図のキャプション。「仰」は解説の三行にくっ付いてしまっていて、甚だ紛らわしい。「府」は「臥(ふ)せ」の意で用いているか。「脊」と書くところを誤記したようにも見える。]

 

好子某、所藏。乞ひて寫す。時に、保六未臘月二日。

[やぶちゃん注:「好子」は不詳。「貝好きの、とある殿方」の意か。]

 

[やぶちゃん注:ここでは梅園は、別種のものと判っていて、確信犯で纏めて描いている。「二種」とあり、キャプションがあるから、上の二つの図は、一個体を仰向けて開口部を上にして描いたものと、同一個体の螺層表面を上にして伏せて描いたもので、同一個体であることが判る。まず、この上の二図の方が手っ取り早く同定出来る。これはもう、形状の特異性と、殻の上面は黒と白のまだら模様から、

腹足綱直腹足亜綱アマオブネガイ上目アマオブネガイ上科アマオブネガイ科コシタカアマガイ属アマオブネガイ

に同定できる。下方のそれは、内側を写しておいて欲しかったが(せめて内側の色を記載して欲しかった。しかし、もしかすると、所蔵者は図からみて、左右の貝殻を合わせて固定しており、梅園は遠慮して、内側を見ていないのかも知れない)、恐らくは「大浅利」の通称がある、

斧足綱異歯亜綱マルスダレガイ目マルスダレガイ科 Saxidomus 属ウチムラサキ Saxidomus purpurata

であろうと推定する。

「福州府志」これは今まで一貫して清の乾隆帝の代に刊行された福建省の地誌と紹介したものでは、実は、なく(「福州府志乾隆本」と称し、徐景熹の撰になる後続本)、著者不明の同名の明代に先行して書かれた、現在は「福州府志萬歷(ばんれき)本」と呼ばれるものであった。今までのものも、これの勘違いの可能性が出てきたので、後で再度、調べる(先程、検証を総て終えた)。以上は「中國哲學書電子化計劃」の同書を調べたところ、ガイド・ナンバー「365」に(コンマを読点に代え、一部の漢字を正字化し、記号も変えた。下線太字は私が附した。)、

   *

螺種類不一。曰田螺、曰溪螺。曰香螺、大如甌、長數寸、其掩雜衆香、燒之使益芳、獨燒則臭。「本草」謂之甲香。曰鈿螺、光彩如鈿、可飾鏡背。曰黃螺、殼厚、色黃。曰米螺、小粒如米。曰紅螺、肉可爲醬。曰蓼螺、味辛如蓼。曰椶螺、殼細長、文如雕鍐。曰竹螺、殼文粗、味淸香。曰紫背螺、紫色、有斑點、俗謂之砑螺。曰鸚鵡螺、狀若鸚鵡、堪作酒杯。曰泥螺、殼似螺而薄、多涎有膏、一名土鐵、又名麥螺。曰鴝鵒螺、殼小而厚、黑白。曰馬蹄螺、曰指甲螺、俱以形似因名。曰江橈螺、卽指甲之大者。曰花螺、圓而扁、殼有斑點、味勝黃螺。曰醋螺、出洪塘江、去殼醃之、味佳。曰莎螺、形如竹螺、味微苦、尾極脫。

   *

これは、どうもアマオブネ、或いは、その近縁種っぽい感じがしないでもない。

『「舟貝」は、亦、別に一種有り』アカガイやサルボウなどで知られる、斧足綱フネガイ目フネガイ科 Arcidae には「~フネガイ」は多く、これだけでは、現行和名では一種に絞ることは不可能である。

『今は通(とほ)して「駒の爪」と云ふ』市井で一般に「駒の爪」の呼称で通っているということ。

「保六未臘月二日」天保乙未(きのとひつじ)六年十二月二日。グレゴリオ暦一八三六年一月十九日。]

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 相思螺・郎君子・酢貝(スガイ)・ガンガラ / スガイ及びその蓋

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。引用文字列に多数の不審があったので、本文内に注を挟んだ。]

 

相思螺 相思子【「海槎餘録」。】

郎君子【「五雜爼」。俗に「酢貝(スガイ)」、又、「ガンガラ」。】

 

Sugai_20220819105301

 

○「海槎餘録(かいさよろく)」に曰はく、『相思子は海中に生(しやう)じ、螺(にな)の狀(かたち)のごとくして、中實(ちゆうじつ)にして、石に類す。大いさ、至粒に比するに、好事(かうず)の者、篋笥(けふし)に置(ち)するに、積歲(せきさい)壞せず、亦、轉動(てんどう)せず。若(も)し、醋(す)の一盂(いちう)を置き、試みに其の中へ投ずれば、遂に移動し、盤旋(ばんせん)して已(や)まず。』と。

[やぶちゃん注:「海槎餘録」は明の顧玠(こかい)撰になる一五四〇年成立の南方の地誌と思われる。「中國哲學書電子化計劃」のこちらと、「維基文庫」のこちらを見るに、本文は、『思子生於海中、如螺之狀、而中實石焉。大比粒、好事者置篋笥、積歲不壞、亦不轉動。若置醋一盂、試投其中、遂移動盤旋不已、亦一奇物也。』が正しい。傍線太字部が梅園のものと異なる。この内、梅園の「至」は明らかに「豆」の誤字であり、「豆粒(まめつぶ)に比(ひと)し」と訓ずるべきところである。「好事の者」の後は、「篋笥(けふし)」(長方形の竹製の文箱)「に蔵(をさ)め置くに」と訓ずるのが正しい。実は、これ、「毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 朗君子(スガイ) / スガイの石灰質の蓋とそれを酢に投入した際の二個体の発泡図!!!」の私の注で既に電子化しているので見られたい。但し、そこで使用したソースは上記二つとは別の、早稲田大学図書館「古典総合データベース」にある明の陶珽(とうてい)の纂になる「説郛」の中に抄出されたもので、多少の異同がある。而して梅園の「中實(ちゆうじつ)にして、石に類す」の部分で躓く読者は、これで、軟体部の前に付属する石灰質の蓋(蒂(へた))のことであることも判るであろう。]

○「閩部疏(びんぶそ)」に曰はく、『甫田の青山の海濵、小さき白石を産す。狀、杏仁に似て、兩辨に剪(さ)けり。腹に、文(もん)有り、蟲のごとく、向(むか)ふに、其の異なるを知る者、無し。兵人(へいじん)、青山を守るもの、沙石の中に於いて之れを拾ひ、歸る。試みに、之れを醯(す)の碟(さら)の中に貯(たくは)ふに、两(ふたつ)の石、離れて立ち、相ひ對せしむ。須臾(しゆゆ)にして、能く自(おのづか)ら動き、両(ふたつ)を相ひ迎合(げいがふ)す。之れを名づけて、「雌雄石」と曰ふ。亦、「相思子」と曰ふ。惟(た)だ、醯あれば、則ち、行(ゆ)くこと、易く、他(ほか)の物は、則ち、否(あら)ず。竟(つひ)に所以(ゆえん)を解せず、志(おも)を載(の)せられざるなり。』と。

[やぶちゃん注:「閩」は現在の福建省の広域旧称で、「閩部疏」は同地の地誌。原文は「中國哲學書電子化計劃」の影印本で起こすと、『莆田靑山海濱、産小白石。狀似杏仁、而、腹有文如、向無知其異者。兵人守靑山、於沙石中拾之歸。試貯之醯碟中、兩石離立相對、須臾能自動、相迎合、名之曰雌雄石、亦曰相思曾得四瓣、試之果爾。惟醯則行、易它物則否。竟不解所以、志所不載也。』であり、字の一部に異同があり(但し異体字で問題はない)、途中を略している(孰れも下線太字を附した)。カット部分は「曾つて、四瓣(よひら)を得、之れを試むるに、果(はた)して爾(しか)り。」であろう。]

予、曰はく、『「相思子」の厴(ふた)を「酢貝(すがひ)」と云ふ。其の螺(にな)を言はず。酢皿(すざら)に入れ、自(おのづか)ら動くこと竒なり。酢は物をよせる者にして、此の貝の厴、能く酢を好む故に、收斂(しめよせ)て、動かすなり。前條両書に載せ説(と)くがごとし。』と。

乙未臘月初七日、眞寫す。

 

[やぶちゃん注:これは、上に注した「毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 朗君子(スガイ) / スガイの石灰質の蓋とそれを酢に投入した際の二個体の発泡図!!!」で既に示した、

腹足綱古腹足目ニシキウズ上科リュウテン科オオベソスガイ属スガイ Lunella coreensis の蓋三個(右下方)

で、三つの内の左の二個体は酢に反応して発泡している状態を描いたものと思われ、さらに、貝自体の蓋附きのもの一個体と、螺層面を描いた、都合三個体

の図である。

「郎君子」命名の意味不詳。但し、中国で、成人した優れた仁徳を持った君子は漫りに争わないというから、この蒂が相寄り添うように運動することから、そうした徳性による命名のように私には思われる。

「五雜爼」「五雜組」とも表記する。明の謝肇淛(しゃちょうせい)が撰した歴史考証を含む随筆。全十六巻(天部二巻・地部二巻・人部四巻・物部四巻・事部四巻)。書名は元は古い楽府(がふ)題で、それに「各種の彩(いろどり)を以って布を織る」という自在な対象と考証の比喩の意を掛けた。主たる部分は筆者の読書の心得であるが、国事や歴史の考証も多く含む。一六一六年に刻本されたが、本文で遼東の女真が、後日、明の災いになるであろうという見解を記していたため、清代になって中国では閲覧が禁じられてしまい、中華民国になってやっと復刻されて一般に読まれるようになるという数奇な経緯を持つ。但し、同書では「郎君子」の名は見出せなかった。不審。

「乙未臘月初七日」天保六年十二月七日。グレゴリオ暦一八三六年一月二十四日。]

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 ワレカラ / モクズヨコエビ類の一種

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。]

 

ワレカラ

 

      丙申七月七日、眞寫す。

 

Warekara

 

此者、海中、藻に住む虫なり。形、水虱(とびむし)に似て、又、蝦にも似たり。雜魚(ざこ)に交り来(きた)る。水に入るれば、走り跳(をど)るものなり。[やぶちゃん字注:「入るれば」は底本は「入るは」。]

 

[やぶちゃん注:既に先行電子化したものに、『毛利梅園「梅園介譜」 ワレカラ』と、『毛利梅園「梅園介譜」 小螺螄(貝のワレカラ)』があるが、前者は正真正銘の種としての節足動物門甲殻亜門軟甲綱真軟甲亜綱フクロエビ上目端脚目ドロクダムシ亜目ワレカラ下目 Caprellida に属するワレカラ類と比定できるが、後者は図も説明も何だかよく判らない変なものである。而して、本図を見ると、明らかな丸い背を持ち、そこにいかにもエビ様の体節と、触角、複数の対脚、尾棘が確認でき、眼点らしきものも見える。しかし、逆立ちしてもこれはワレカラ下目 Caprellida のワレカラ類ではあり得ない。但し、民俗社会に於ては、これを「われから」と言うのは、強ち誤りとは言えない。平安時代には一般に知られていた「われから」は「古今和歌集」(延喜五(九〇五)年に初期完成したか)の巻第十五の「恋歌五」に、女官の典侍(ないし)藤原直子(なほいこ)朝臣の一首(八〇五番)、

 海士(あま)のかる藻にすむ蟲のわれからと

    音(ね)をこそなかめ世をばうらみじ

「音(ね)をこそなかめ」は「声を立てて泣こう」の意。ここにあるように、「我から」の掛詞として古く世より使用されており、当初は「乾くと殻が割れる」で「割れ殻」であったことからは、海藻類に附着している甲殻類を広く指したからであり、『毛利梅園「梅園介譜」 小螺螄(貝のワレカラ)』及び、私の栗本丹洲の「栗氏千蟲譜」(文化八(一八一一)年の成立)巻七及び巻八(一部)を見て戴くと判るが、江戸時代には本草学者の間でも、「ワレカラ」=貝の一種とする見解がかなり蔓延ってさえいたのである。例えば、私の「大和本草諸品圖下 ワレカラ・梅花貝・アメ・(標題無し) (ワレカラ類他・ウメノハナガイ・ヒザラガイ類・ミドリイシ類)」の図と解説を見られたい(これも丹洲と同じく本図の非常によく似ている)。平安の昔から近世まで、乾燥した海藻に附着していた生物は、十把一絡げで「われから」であったのである。

 さて、私が直ちに想起したのは、形状がぴったりと一致する、無論、「蛤蚌類」ならぬ、

節足動物門甲殻亜門軟甲綱真軟甲亜綱フクロエビ上目端脚目ヨコエビ亜目ハマトビムシ上科モクズヨコエビ科 Hyalidae に属するモクズエビ類、或いは、同モクズヨコエビ属モクズヨコエビ Hyale grandicornis

であった。但し、この類については、私は守備範囲ではないので、当初、躊躇していたのだが、ネットで調べるうち、格好のページを発見できた。サイト「Laboratory for Development, Evolution and Phylogenetics 発生・進化・系統の和田研究室」の「ワレカラの形態進化の謎を解く」の上から二枚目の並列写真である。キャプションには、

   《引用開始》

Figure 2. ワレカラとヨコエビ(ワレカラの側系統群)の形態の比較.

A)コミナトワレカラ Caprella kominatoensis. 数字は胸節の番号を表す.ワレカラには第7胸節より後ろに体節が見られない.また第3-4胸節に付属肢はなく,葉状の鰓(矢印)のみがある.Bar=20mmB)モズクヨコエビ科の一種 Hyalidae sp.. すべての胸節が付属肢を備え,第7胸節より後ろには腹部体節がある.Bar=10mm.

   《引用終了》

この写真のモズクヨコエビ科の一種のそれは、まさに本図にぴったりなのである。

「丙申七月七日」天保七年七夕。グレゴリオ暦一八三六年八月十八日。

「水虱(とびむし)」甲殻亜門軟甲綱真軟甲亜綱フクロエビ上目端脚目ハマトビムシ科 Talitridae の類。これが海浜に打ち上った海藻に附着していたなら、それもあり得るが、梅園はあくまで「海中」の「藻に住む虫」と言っているから、これは除外される。ハマトトビムシとモクズヨコエビの体制は似てはいる。]

2022/08/18

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 「イタラ貝・板屋貝・杓子橈」と「指甲螺・メクハシヤ」二種 / イタヤガイと触手動物のミドリシャミセンガイ

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングし、一部をマスキングした。]

 

Itayamekajya

 

イタラ貝

 アキタガイ 板屋貝 杓子貝(しやくしがひ)

漢賈(かんか)、筆談

    「半邉蚶」(ハンヘンカン)

 

薩刕の海、多く生ず。諸州、又、あり。其の肉柱、味、甘美。其の殻、一片は平(ひらたく)、一片は凹(くぼ)なる故、「半邉蚶」と云ふ。

 

三種

  乙未九月九日、眞寫す。

 

指甲螺(しかふら)【「閩書」・「三才圖會」。】

   めくはじや【肥前・肥後。】

   おとめがい【備前。】

 

江橈(カウゼウ)

  「漳州府志」曰はく、『江橈。綠の殻、白き尾。其の形、舟橈のごとし。故、名づく。』と。「泉州郡志」に、『形ち、指甲の如きにして、以つて、「指甲螺」と名づく。』と。

 

[やぶちゃん注:上部一個体は、梅園が好きで、都合、『毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 錦貝(ニシキガイ)・イタヤ貝 / イタヤガイ・ヒオウギ』を最初として四度も描いている、

斧足綱翼形亜綱イタヤガイ目イタヤガイ上科イタヤガイ科イタヤガイ属イタヤガイ Pecten albicans

で、下部の二個体は、殻が強い緑色を呈していること、生貝を描いているように見えることから、

触手動物門腕足綱無穴目シャミセンガイ科のミドリシャミセンガイLingula anatina 

である。老婆心乍ら、確認しておくと、シャミセンガイはこれは、「蛤蚌類」でないばかりか、軟体動物門 Mollusca に属する貝類ではなく、全く異なった生物群である腕足動物門 Brachiopoda に属する二枚の殻板を持った海産生物である。馴染みのない読者も多かろうから、取り敢えず、私の「大和本草卷之十四 水蟲 介類 メクハジヤ」を読まれたい。「シャミセンガイ」という和名は「三味線貝」で、本種は図の通り、肉質棒状の肉茎の先に、長方楕円様の形の一対の殻(二枚貝類とは異なり、左右ではなく、体制の前殻・後殻と呼ぶ)を支える全体を「三味線」に見立てて名づけたものである。

「アキタガイ」「秋田貝」であるが、これは誤り。アキタガイは現在も残るホタテガイ(斧足綱翼形亜綱イタヤガイ目イタヤガイ上科イタヤガイ科 Mizuhopecten 属ホタテガイ Mizuhopecten yessoensis )の異名である。

「漢賈、筆談」先行する上記リンク先にも出たが、漢人(当時は清国)の商人との筆談で得た漢名ということか。

「半邉蚶」現行でもイタヤガイの異名として残る。

「乙未九月九日」天保六年。グレゴリオ暦一八三五年十一月九日。

「指甲螺」「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のミドリシャミセンガイのページには、確かに、「地方名・市場名」の項に「シコウラ[指甲螺]」とある。但し、現代中国では、「指甲螺」を検索すると、調理品画像とともに圧倒的に斧足綱マルスダレガイ目ニッコウガイ超科ナタマメガイ科アゲマキ属アゲマキガイ Sinonovacula constricta らしきものが、ゾロゾロ出てくる。中には腹足綱前鰓亜綱新腹足目アクキガイ超科バイ科バイ属バイガイ Babylonia japonica らしきものも含まれている。巻貝を表わす「螺」で二枚貝のアゲマキガイはちょっと首をかしげるが、少なくとも中国の現代の市場では、上記の貝類(或いは近縁種)を一般には「指甲螺」と呼んでいるらしいことが判ったので附記しておく。なお、「指」は肉茎を、「甲」は貝殻の意と思う。

「閩書」複数回既出既注。明の何喬遠撰になる福建省の地誌「閩書南産志」。

「三才圖會」明の王圻(おうき)と、その次男王思義が編纂した中国の類書(百科事典)。全百六巻。一六〇九年成立。但し、今回、原本を見てみたが、「指甲螺」の記載は見出せなかった。というより、「三才図会」の貝類の記載は甚だ乏しいのである。非常に不審であるが、言っておくと、梅園は全く自分で調べていない。またしても全部が孫引きである。私の『「栗氏千蟲譜」巻九  栗本丹洲』を見られたい。一気に注をする気が失せた。そちらで概ね注してある。なお、「ミドリシャミセンガイなんて水族館でしか見たことがないが、生きた個体を江戸の梅園が手に入れることなんて出来たのか?」という疑義を示す読者に言っておくと、同種は、嘗つては、青森以南に普通に棲息していたのである。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページには、『現在では瀬戸内海の一部、九州の有明海、奄美大島など』で見られ、他に『朝鮮半島、中国、インド洋沿岸』とあるように、激減してしまった。当該ウィキによれば、『本邦では生息数が減少しており、地域によっては絶滅が危惧されている』とある通りである。なお、明治期に東京大学の「お雇い外国人」として来日して大森貝塚を発見、進化論を本邦に移植したアメリカ人動物学者エドワード・シルヴェスター・モース(Edward Sylvester Morse 一八三八年~一九二五年)は、実は、このシャミセンガイ類の専門家であった。私は『E.S.モース著石川欣一訳「日本その日その日」』の全電子化注を二〇一六年に終えているが、無論、何度も登場する。「日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第六章 漁村の生活 6 最初のドレッジ」をまずは見られたい。江の島でちょっとドレッジしても、ミドリシャミセンガイはさわに獲れたのである。東京湾にも棲息していたはずである。

「めくはじや【肥前・肥後。】」「おとめがい」「女冠者」と「乙女貝」である。本種の外観から若い女に喩えるのは、個人的には腑に落ちるが、私は腹背(先に言った通り、貝類の左右と異なる大きな体制の違いでの呼称)の殼内にある発条(バネ)樣の多数の繊毛を持った短い触手を持つ触手冠(これによって水中のデトリタスを漉し取って摂餌する)を女性性器に譬えた呼称と考えている。現在も有明海にはシャミセンガイとオオシャミセンガイ( Lingula adamsi )が棲息し(但し、後者は、「福岡県」公式サイト内のレッド・データ・ブックである「福岡県の希少野生生物」の当該種によれば(標本写真有り)、昭和二(一九二七)年の『柳川沖での採集が,国内初』で、『その後』、昭和四五(一九八〇)年までは、『有明海奥部を中心に』、同『湾中央部(熊本市河内町)』や『湾口部(熊本県上天草市松島町)など』、『多くの採集記録があ』ったが、『近年の採集記録』は『ほとんどない』というありさまである)、前者は当地で食用に供されている。私が食べたくて、未だ未食の海産物である。

「江橈(カウゼウ)」現代仮名遣では「コウジョウ」。「江」は海の入り江で、「橈」は櫂(かい)のこと。殻板の形からであろう。]

2022/08/17

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 海蜆(ウミシヽメ) / オキシジミ

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングし、一部をマスキングした。]

 

Umisijimi

 

海蜆【「うみしゞめ」。】

 

[やぶちゃん注:標題で示した通り、底本では、「ウミシヽメ」であるが、電子化本文では「ヾ」と濁音化した。国立国会図書館デジタルコレクションの別人の明るい写本でも同じである。なお、この別写本では、両個体ともに綺麗な輪状線が孰れの個体にも見える。底本のものを、試みにガンマ補正で明度を上げると、上の個体は殆んど見えないが、下の個体には確かに細かな輪状線が見え(是非、やってみて下さい。感動でした)、原本には、確かにそれが描かれていることが判った(【2022年8月18日追加:以下に別本の画像と、本自筆本のγ補正画像を追加した。】)。

 

Syahonumisizimi

 

Hosei

当初、斧足綱異歯亜綱マルスダレガイ目ニッコウガイ超科シオサザナミ科ムラサキガイ亜科イソシジミ属イソシジミ Nuttallia olivacea を考えた。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページによれば、生育域は『北海道南西部以南、九州、朝鮮半島』及び『中国沿岸』で、『潮間帯から水深10メートル』までとある。しかし、グーグル画像検索「イソシジミ」で見ても、本図は全体の形状が孰れも正円に近いこと、何よりも、歯丘があまりにも小さ過ぎるのが気になった。そこで仕切り直して考えた。その結果、

異歯亜綱マルスダレガイ目マルスダレガイ超科マルスダレガイ科オキシジミ亜科オキシジミ属オキシジミ Cyclina sinensis

に落ち着いた。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページの画像の中央の一枚を見られたい。これなら、本図と大きな不審なく、受け入れられた。グーグル画像検索「オキシジミ」を縦覧したところ、P太郎氏のブログ「贅沢堪能日誌」の「オキシジミ」の記事の、一枚目の画像が、かなり本図と合致するように思われた。ぼうずコンニャク氏の解説によれば、ほぼ円形であるから、貝殻の長さは四・五センチメートルとある。語源の項には、「目八譜」による和名で、『シジミに似て沖にいるという意味合い』だが、『シジミには似ているが、沖合でとれるわけでもなく、語源などは不明』とあった。生息域の項には、『海水生。潮間帯下部から水深20メートルの砂泥地』に棲み、『房総半島から九州。朝鮮半島、中国大陸南岸』とあって、梅園が入手し得る。吉良図鑑には、『食用となるも美味ではない』とある。ぼうずコンニャク氏も『アサリのようにあまく強いうま味ではなく、好き嫌いの出る味』とされ、『貝殻は薄いが硬い。軟体は赤みを帯びている。やや水分が多く、少し苦みがあ』る上に、『泥質のところにいるためか、泥、砂などを噛んでいることが多い』とあった。]

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 海馬・タツノヲトシゴ / タツノオトシゴ

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングし、一部をマスキングした。]

 

Tatunootosigo_20220817140401

 

「多識扁」

  海馬【「かいば」。】 水馬(すいば)

   「りうぐうのこま」

   「たつのをとしご」

 

「海馬」、海中の小魚の内に交りて、市に賣ること、あり。乾して貯め置きて、婦人の産する時、是れを手裏(てのうち)に把(にぎ)れば、子を、産(うむこと)、やすし。「本草」に『魚蝦の類』と云ふ。雌雄有り。

 

乙未八月廿九日、眞寫す。

 

「䑓湾府志」に曰はく、『海龍。澎湖(ほうこ)の澳(おき)にあり。冬の日、海の灘(なだ)に雙(なら)び躍る。漁人、之れを獲る。號して、珍物と為(な)す。首尾、龍に似、牙爪(がさう)、無し。長さ、徑(さしわたし)、尺にたらず。之れを以つて、薬に入るれば、功、倍す。「海馬」は、孫元衡に、詩、有りて、云はく、「澎島の漁人 我が歌を乞ふ / 海龍 雙躍して盤渦(うずまき)を出で / 爪牙 未だ空しくして 鱗鬣(りんれふ)を具(そな)へず / 直ちに似たり 枯魚(こぎよ) 河(かは)を過(わた)れと泣くに。」と。』と。

 

[やぶちゃん注:これは、無論、「蛤蚌類」ではない魚類の、

トゲウオ目ヨウジウオ亜目ヨウジウオ科タツノオトシゴ亜科タツノオトシゴ属 Hippocampus

で、本邦産では七種が確認されている(詳しくは『神田玄泉「日東魚譜」 海馬 (タツノオトシゴ)』の私の注を参照。そちらの絵はショボい)。標準和名のそれは、

タツノオトシゴ Hippocampus coronatus

で、北海道南部以南の日本近海・朝鮮半島南部に分布する代表種。全長八センチメートル内外。形態・色彩とも個体変異に富むが、胴の部分は側扁し、尾は長く物に巻きつけるようになっている。頭部は胴部にほぼ直角に曲り、馬の頭部を思わせる形状を成す。後頭部にある頂冠は高い。♂の腹部に育児嚢があり、♀はこの中に産卵し、卵は育児嚢の中で孵化し、親と同じような形にまで成長して後、外へ出る。この時の♂の出産の様子はすこぶる苦痛を思わせる様態を成すことが知られる。海藻の多い沿岸や内湾に棲息する。私も富山の雨晴海岸で銛突き中に見かけことがある。本図も乾燥標本と思われ、頭頂部にあるべき突起がないが、変にその部分が凹んでいることから、欠損したものと考えてよく、一応、同種に比定してよかろう。

「多識扁」林羅山道春が書いた辞書「多識編」。慶安二(一六四九)年の刊本があり、それが早稲田大学図書館「古典総合データベース」の「卷四」のこちらに「海馬【志也久那岐。】異名水馬(スイバ)」(太字は底本では二重の四角の中の黒地白抜き)とある。「志也久那岐」「しやくなぎ」で、「しやくなげ」とともに古いタツノオトシゴの異名の一つであるが、貝原益軒は「大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 海馬」で『世人コレヲシヤクナゲト云ハアヤマレリシヤクナケハ蝦蛄ナリ』と否定している。「蝦蛄」甲殻亜門軟甲綱トゲエビ亜綱口脚(シャコ)目シャコ上科シャコ科シャコ Oratosquilla oratoria 及び口脚目 Stomatopoda に属するシャコ類の総称である。さて、以下の解説は、梅園お得意の、徹頭徹尾、孫引きである。まず、その「大和本草」の『海中の小魚の内に交りて、市に賣ること、あり。乾して貯め置きて、婦人の産する時、是れを手裏(てのうち)に把(にぎ)れば、子を、産(うむこと)、やすし。「本草」に『魚蝦の類』と云ふ。雌雄有り』の箇所が、本篇に最初の解説部分でほぼ丸写ししてある。なお、この「本草」は時珍に「本草綱目」で、その巻四十四の「鱗之三」の「海馬」の以下を指す。「漢籍リポジトリ」のこちら[104-52b]を参照。

   *

釋名 「水馬」。弘景曰、『是、魚鰕類也。狀、如馬、形故名。』。

   *

「魚鰕」は魚類とエビ類を指すが、同項の「集解」では、例えば、蘇頌が『「異魚圖」云、漁人布網罟此魚多罣網上收取』などと記し、その後で時珍も『「徐表南方異物志」云、海馬有魚、狀如馬頭』とあるので、時珍は魚とするそれを否定してはいない。但し、前項は「海蝦」であり、魚と断定しているとは言い難い。

「りうぐうのこま」「龍宮の駒」。「駒」は「馬」で、属学名に偶然に酷似する。“ Hippocampus ”(ヒポカンパス)の語源はギリシャ語のラテン文字転写で“Hippos”(「馬」の意)、“Campos”(海の生物・怪物)の意である。

「たつのをとしご」「龍の落とし子」。

「乙未八月廿九日」天保六年。一八三五年七月二十四日。

『「䑓湾府志」に曰はく、……』これは全部が栗本丹洲「栗氏千蟲譜」巻八冒頭を飾る「海馬」からの孫引き。私のサイト版画像入り「蛙変魚 海馬 草鞋蟲 海老蟲 ワレカラ 蠲 丸薬ムシ 水蚤」を見られたい。

「䑓湾府志」「䑓」は「臺」の異体字。清代に書かれた官製の台湾地誌。複数あるが、その原書で一七六一年に台灣府知府(長官)になった余文儀(一七〇五年~一七八二年)が、任期中に編集したものである。「中國哲學書電子化計劃」のこちらの影印本で確認できる。

「澎湖」澎湖(ほうこ/ポンフー)諸島。台湾島の西方約五十キロメートルに位置する台湾海峡上の島嶼群。台湾領。ここ

「澳」「沖」に同じ。

「海の灘」普通は、海流・潮流が速い所、又は、風浪が激しく航行が困難な海域を指すが、単に沿岸水域を指す場合もあり、ここは後者であろう。

「號して、珍物と為す」それを「珍物」と称してとり囃している。

「尺にたらず」清代の「一尺」は三十二センチメートル。

「孫元衡」(一六六一年~?)は清朝の官人で、一七〇三年に台湾府海防補盜同知(補佐官)となり、一七〇七年には台湾府台湾県知県(県知事)となっている。

「直ちに似たり 枯魚(こぎよ) 河(かは)を過(わた)れと泣くに」最後のこの句の意味はよく判らない。識者の御教授を乞う。]

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 草鞋蠣・コロビガキ  / イタボガキ

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。]

 

「閩志(びんし)」に出づ。

  草鞋蠣(ツウアレイ)【「ころびがき」。】

  「いたぼ」【上總木更津。】

  「いたぼう」【濵川。】

 

Itabogaki

 

一種、洋海中に生じ、形、圓(まどか)にして、大いさ、六、七寸なるを、「ころびがき」と云ふ。一名、「夏がき」【加州。】、「はす子(ね)」【泉州。】、「をちがき」【備後。】、「をちひがき」【備前。】。[やぶちゃん字注:「夏」は底本では異体字のこれ(グリフウィキ)。「はす子」は梅園の書き癖では「ね」であるが、「蓮根」(ハスの地下茎)と「蓮子」(ハスの実の花托)を考えると、後者の方が断然、似ているので、私は「はすこ」と読みたかったが、国立国会図書館デジタルコレクションの「重訂本草綱目啓蒙」の巻之四十二「介之二」の冒頭の「牡蠣」の、ここの左丁の「ハス子」とあったのだが(「子」の読みはない)、所持する「東洋文庫」(島田勇雄訳注)の人見必大「本朝食鑑」(ひとみひつだい 寛永一九(一六四二)年頃?~元禄一四(一七〇一)年)が元禄一〇(一六九七)年に刊行した本邦初の本格的食物本草書「本朝食鑑」の「鱗介部之四」の「介類三十種」の「牡蠣」に同箇所を引いて、『ハスネ』とあった。更に言っておくと、同画像を見て戴くと、これまた、ここに並ぶ異名は、「本草綱目啓蒙」の引き写しであることが判明してしまったよ、梅園先生。]

此れは、海底に特生(とくせい)し、常の蠣(かき)の如くに疂(でふ)にして、石に著(つ)かず。故に、形、正しくして、偏歪(へんひ)ならず。

頌(しよう)の説に『大房如馬蹄』と云ふものにして、「閩書」の「艸鞋蠣(サウケイレイ)」なり。夏月、肉を食ふ。形は大なれども、味は常の蠣に劣れり。

 

  蓋(ふた)の圖[やぶちゃん注:下図右のキャプション。]

 

同十一月、同氏所藏、之れを乞ひて、眞寫す。

 

海の淺き渚(なぎさ)に生(しやう)ず。固まらず、孤(ひと)り生ず。「いたら貝」に似て、丸く、偏(ひらた)し。味、美(よ)からず。又、「いそがき」、「をきがき」、有り。是れ、「ころびがき」の一種。小なる者。

 

[やぶちゃん注:まず、大半の方は、図を見て、

斧足綱ウグイスガイ目イタボガキ科マガキ属イワガキ Crassostrea nippona

を想起するかとも思うのだが、梅園の解説を読むに、貝の軟体部を取り巻く原殻が丸いことを頻りに述べており、最後に「丸く」「偏」平で、しかも「小」さい「者」だと断じている。イワガキも見た目、丸いものもあるが、通常は原殻は長楕円形が多い。しかも貝殻が有意にぶ厚く、そのまま見ても、まさにゴツゴツの転石みたようで、二十センチメートルを超える個体も珍しくない(私は氷見の魚屋で当該サイズの二個体が鎮座している見、買って食い、千葉沖で採れた同サイズのものを行きつけの飲み屋で食べたことがある。私は無類の牡蠣フリークであるが、どうもイワガキだけは例外的に好きになれない。あの柔らかさと脂(あぶら)感というかネットリしたあれが、ダメである)。しかし、この図は明らかに確かに偏平で丸い。しかも梅園は盛んに小さいことを指示している。さらに、殻表面を見ると、翼状に上下と左方向に張り出したそこには、成長肋と放射肋がはっきりと綺麗に形成されており、これはイワガキの殻表面とは全く違う(因みに、イワガキの右殻(一般的に売られる際に上と見える平たい方)の表面に付着しているゴツゴツを全部削ぎ落すと、寧ろマガキのそれに近い)。さすれば、これは、

イタボガキ科イタボガキ属イタボガキOstrea denselamellosa

と比定するものである。大きさは成体で十五センチメートルを超えるが、イワガキと比較するならば小さいと言える。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のイタボガイ、及び、イワガキのページをリンクしておくので、そちらの写真を見比べられんことを望む。私の記事では、「大和本草卷之十四 水蟲 介類 牡蠣」がよかろう。ぼうずコンニャク氏の解説によれば、「イタボガキ」は「板甫牡蠣」(武蔵石寿「目八譜」による)で、『千葉県内房での呼び名。「いたぼ」は単に「板」なのではないだろうか? すなわち一見、汚れた板きれに見える。またもしくは板葺きの屋根のように板が重なっている』と記しておられる。梅園の『「いたぼ」【上總木更津。】』と合致する。因みに言っておくと、私が最も美味と感じたカキは、アイルランドの田舎で、自転車で売りに来ていた老婦人に。その場で剝いて貰って食べた、小さくて丸い、軟体部が美しい緑色をした、かの幻しのヨーロッパヒラガキ Ostrea edulis であった。

「閩志」明の黄仲昭編纂になる現在の福建省の地誌「八閩通志」(一四九〇年跋)。全八十七巻。福建省は古く略称を「閩」と称したが、宋代に、福州・建州・泉州・漳州・汀州・南剣州の六州と、邵武・興化の二つ軍に分かれていたことから「八閩」とも称した。

「草鞋蠣」(ツウアレイ)中国語の音写。現代中国語では「ツウォ シイエ リィー」。訓ずるなら、「わらぢがき」。言い得て妙だ。

「ころびがき」「轉び牡蠣」。「広辞苑」に『イタボガキの俗称。貝殻は厚く大きく、岩石につかずに小石などに付着して団塊状になって海底にころがっているので、この名がある』とあった。躓いて転ぶカキではなくて、岩礁に附着せず、海底にゴロゴロも散漫に転がっているさまを言ったもの。なお、同辞書では先に『カキの一種。奄美・沖縄諸島以南に分布』が載るのだが、ちょっとこんな名の種は知らない。分布域から言うと、カキ目ベッコウガキ科シャコガキ Hyotissa hyotis かなあ?

「濵川」江戸近辺であるとすれば、現在の東京都品川区東大井の京浜急行立会川駅付近は、当時は海浜で、旧地名を「濱川」と呼んだ。「今昔マップ」のこちらを見られたい。

『「夏がき」【加州。】』「加州」は加賀国(現在の石川県)。これは北日本で現在もこう呼び、関東でもかく呼ぶ。私が中高時代を過ごした富山では、マガキよりもこちらを美味として、「カキは夏のもんじゃ!」と魚屋は言っていた。

「泉州」和泉国(現在の大和川以南の大阪府南西部)。

『「をちがき」【備後。】』「備後」は現在の広島県の東半分。「落ち牡蠣」か。次注参照。

『「をちひがき」【備前。】』「備前」は現在の岡山県東南部と、香川県小豆郡・直島諸島、及び、兵庫県赤穂市の一部に相当する。私は前の「をちがき」とともに、岩から落ちたように小石に附着していることからの命名かと思ったが、サイト「フォートラベル」の「岡山/噂のカキオコ!今が旬 日生五味の市の牡蠣」という記事に、『おち牡蠣』『という網から落ちたもの』を言うとあった。「ひ」は不明。

「海底に特生(とくせい)し」「石に著(つ)かず」岩礁に附着せず、海底の砂地の転石に附くという正しい生態を記している。

「疂(でふ)にして」畳のように平べったくて。これも同前で正しい。

「偏歪(へんひ)ならず」イワガキのようにはゴツゴツしていないという点で、以上の二点と合わせて、本種がイタボガキであることを証明している。

「頌」明の李時珍の「本草綱目」がよく引く北宋の博物学者(科学者)で宰相であった蘇頌(そしょう 一〇二〇年~一一〇一年)。字は子容。泉州同安県出身。一〇四二年に進士に登第した。北宋に於て最高の機械学者であったとされる。哲宗の命を受け、世界最初の天文時計「水運儀象台」を設計し、一〇九二年に竣工すると同時に、彼は丞相に任ぜられた。一〇九七年に退官している。思うに、一〇六一年に完成させた「本草図経」中の叙述か。原本は全二十巻だったが、散佚、「証類本草」に引用されたものを元に作られた輯逸本がある(以上は当該ウィキに拠った)。

「大房如馬蹄」「本草綱目」の巻四十六の冒頭の「介之二」の最初にある「牡蠣」の「集解」中にある。「漢籍リポジトリ」のこちら[108-1b]の影印本の六罫の左列に出る。

「閩書」明の何喬遠撰になる福建省の地誌「閩書南産志」。

「艸鞋蠣(サウケイレイ)」なり。夏月、肉を食ふ。形は大なれども、味は常の蠣に劣れり。

「同十一月」天保六年。十一月は一日がグレゴリ曆では一八三五年十二月二十日で、この月は翌年に跨ぐ。

「同氏」既出既注の倉橋氏。

「いたら貝」先行する「錦貝(ニシキガイ)・イタヤ貝 / イタヤガイ・ヒオウギ」にイタヤガイの異名として出、次の丁にも標題で「イタラガイ」として出る。

「いそがき」マガキの異名として現在も残る。但し、これはマガキに限らず、岩礁帯に附着するカキ類の総称というべきかとも思う。

「をきがき」恐らくは「沖牡蠣(おきがき)」と思われる。関東でイワガキを、この異名でも呼ぶ。]

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 拂子貝(ホツスガイ)  / 海綿動物のホッスガイの致命的な海綿体本体部の欠損個体

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。一部をマスキングした。標題のみ。クレジットもない。漁師が底引きで引き揚げたものであろう。]

 

拂子貝(ほつすがい)

 

Hotsugai

 

[やぶちゃん注:これは、「蛤蚌類」ならぬ、

海綿動物門六放海綿(ガラス海綿)綱両盤亜綱両盤目ホッスガイ科ホッスガイHyalonema sieboldi 

であるが、図で言うと、柄の下方になくてはならない円筒型のコップ状の体部が全く欠損している。生態から言うと、これは倒立して描かれてしまっている。まあ、深海産で実際に生きた個体を当時見ることは不可能であったから、致し方ない。本体部は十~十五センチメートルのコップ状(その中腔は隔壁が縦に生じており、内部が四室に分かれている)を成し、その下部にガラスと同じ珪質の繊維でできた細長い柄の下に、長大な骨片のその先はまさにグラス・ファイバー様の束(根毛)になっており、それで深海底に突き刺さっているのである。英名は“glass-rope sponge”とも呼び、柄が長く、僧侶の持つ払子(「ほっす」は唐音。獣毛や麻などを束ねて柄をつけたもので、本来はインドで虫や塵などを払うのに用いた。本邦では真宗以外の高僧が用い、煩悩を払う法具)に似ていることに由来する。この根毛基底部(即ち柄の部分)には「一種の珊瑚蟲」、刺胞動物門花虫綱六放サンゴ亜綱イソギンチャク目イマイソギンチャク亜目無足盤族コンボウイソギンチャク(棍棒磯巾着)科 Epizoanthus 属カイメンイソギンチャク Epizoanthus fatuus が着生する。荒俣宏氏の「世界大博物図鑑別巻2 水生無脊椎動物」のホッスガイの項によれば、一八三二年、イギリスの博物学者J.E.グレイは、このホッスガイの柄に共生するイソギンチャクをホッスガイ Hyalonema sieboldi のポリプと誤認し、本種を軟質サンゴである花虫綱ウミトサカ(八放サンゴ)亜綱ヤギ(海楊)目 Gorgonacea の一種として記載してしまった。後、一八五〇年にフランスの博物学者A.ヴァランシエンヌにより本種がカイメンであり、ポリプ状のものは共生するサンゴ虫類であることを明らかにした、とあり、次のように解説されている(アラビア数字を漢数字に、ピリオドとコンマを句読点を直した)。『このホッスガイは日本にも分布する。相模湾に産するホッスガイは、明治時代の江の島の土産店でも売られていた。《動物学雑誌》第二三号(明治二三年九月)によると、これらはたいてい、延縄(はえなわ)の鉤(はり)にかかったものを商っていたという』。『B.H.チェンバレン《日本事物誌》第六版(一九三九)でも、日本の数ある美しい珍品のなかで筆頭にあげられるのが、江の島の土産物屋の店頭を飾るホッスガイだとされている』とある。……私は四十五前の七月、恋人と訪れた江の島のとある店で、美しいガラス細工と見紛う完品のそれを見たのを記憶している。……あれが最後だったのであろうか……私の儚い恋と同じように……(ホッスガイの画像は例えば、『千葉日報』の二〇一〇年三月十五日附の「ガラス繊維を持つ生物 ホッスガイ 【海の紳士録】」をご覧になられたい)。私の「生物學講話 丘淺次郎 四 寄生と共棲 五 共棲~(2)の2」も参考になる。]

2022/08/16

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 章魚舩・タコブ子  / 図はアオイガイ・解説対象はタコブネとアオイガイの混淆

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。一部をマスキングした。標題部は縦に二つのブロックが並んでいるが、並置させた。]

 

Takobune

 

章魚舩【「たこぶね」・「あをい貝」。】

 「譯史記餘」

      舤魚(ハンギヨ)

 「坤輿外記(こんよがいき)」

    舡魚(コウギヨ)【蛮名「ヒツセナーチクス」。「かいだこ」。「乙姫貝(おとひめがひ)」。】

 

明の艾儒畧(がいじゆりやく)が曰ふ、

『半殼を竪て、舟に當(あ)て、足の皮を張り、帆と當てて、風に乘りて行く。名づけて「舡魚(カウギヨ)」と曰ふ。』は、非なり。章魚舟の帆立貝の事なり。以つて、蓋し、帆と爲(な)して、殻を以つて、舟と爲(な)して走る。

「笈埃隨筆」に、

『越前海、蛸舩の大なるもの、七、八寸【中略。】、其の中に小(ちさ)き章魚(たこ)ありて、両手を、貝殻の外へ出(いだ)し、両足を、梶・竿の如くし、頭を立(たて)て、帆の如くし、游(およ)ぎめぐる故に、其の名あり。其の章魚、大毒有りて、食ふべからず。其の殻、花瓶と爲(す)。』と。

「延喜式」、「主斗式」[やぶちゃん注:「斗」=「計」。]に曰ふ、

『蛸鮨』と云ひ、此れ、『章魚舟』と云ふ。考ふるに、同書に『乾蛸(ほかしたこ)』あり、『蛸の腊(きたい)』あり。「大膳式」に『干鮹』あり。故に『蛸鮨』は『章魚舟』にあらず、『蛸の鮨』なり。[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの別人の写本では、「乾蛸(ホシタコ)」であるが、底本では明らかに「カ」に酷似した文字が認められる。衍字か。]

『蛸舟』は俗名、『貝蛸』【「本名」。】、一名、『弟姫貝(おとひめがひ)』と云ふ。[やぶちゃん注:同じく別人の写本では、この一行がない。]

○「日本書記」[やぶちゃん注:ママ。]敏達天皇五年の條下に『貝蛸皇女(かひたこのひめみこ)』あり。「貝蛸」の名、久し。

○「職方外記」に云ふ、『一種、介属の魚、僅か一尺許り。殼、有り。六足の足、有り。皮のごとし。他に徙(うつ)らんと欲すれば、則ち、半殻を竪て、舟に當て、足の皮を張りて、帆に當て、風に乘りて行く。名づけて「舡魚(かうぎよ)」と曰ふ。』と。

「龍威秘書」巻九「譯史紀餘」に云ふ、『舡魚。六足。殻、有り。皮は、僅かに長さ、尺許り。他に従(うつ)らんと欲すれば、則ち、半殼を竪てて舟に當て、足の皮を張りて帆に當てて、風に乘りて去る。』と。』[やぶちゃん注:「従」はママであるが、別人の写本では「徙」であり、後に示す孫引き元である「栗氏千蟲譜」でも「徙」であるから誤字である。]

          乙未八月廿九日倉橋氏

          所藏より、之れ、眞寫す。

 

[やぶちゃん注:まず、言っておかねばならないことは、図は、その形状から、これは、「蛤蚌類」ならぬ、「葵貝」、

頭足綱八腕形上目八腕(タコ)目無触毛亜目アオイガイ上科アオイガイ科アオイガイ属アオイガイ Argonauta argo の貝殻

である。ところが、解説はアオイガイとは似て非なる別種の「蛸舟」、

アオイガイ属タコブネ Argonauta hians

の方にやや傾いて書いてあるように一見、見える(後の「蛮名」の考証を参照)。則ち、この近縁種の二種のを全くの同一生物として書いているということになる。しかし、両者のの形成する「貝殻」は類似してはいるが、素人が見ても、別な物と認識できるほどには、細分の形と色、さらに構造にも有意な違いがあり、また、形成機序も全く異なっていて、アオイガイが外套膜から分泌した物質で形成するのに対し、タコブネは特殊化した第一腕から分泌する物質で形成する。それぞれの貝殻の違いは、ウィキペディアの「アオイガイ」に載る、♀の貝殻標本写真と、同じくウィキペディアの「タコブネ」に載る、♀の貝殻の同写真を比較して見られたい。因みに、私はアオイガイの殻が非常に好きで、少年の頃、由比が浜で拾った五個体を今も居間に飾ってある。反して、タコブネの貝殻は、水族館や標本屋の店先でしか見たことはなく、そのフォルムは私の好みではないから、食指も動かず、所持していない。私の記事では、両種ともに、まず、梅園が明らかに記載の一部で孫引きしていると思われる(後述する)、文化八(一八一一)年の成立とされる、

栗本丹洲「栗氏千蟲譜 巻十(全)」(サイト版。画像入り。初版は二〇〇七年の私のサイト記事では最下層のものだが、二〇一四年に全面改訂している)

が最も詳しく、私も力を入れて注釈している。他にブログ版では、

「大和本草卷之十四 水蟲 介類 タコブ子」

「生物學講話 丘淺次郎 第十一章 雌雄の別 三 局部の別 (5) ヘクトコチルス」

がよかろうかと思う。他に変わり種では、『航魚(タコフネ)を見れば凶事有り』とあるだけだが、

「南方熊楠 西曆九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語 (異れる民族間に存する類似古話の比較硏究) 7」

も民俗資料として読んでおく価値はあろう。

「あをい貝」(正しい歴史的仮名遣は「あふひがひ」)の和名は本種の♀の殻を二枚、開口部を下にして左右対称に合わせると、丁度、植物のアオイ(葵)の葉に似ることによる。当該ウィキのこちらの画像を参照。

「譯史記餘」「譯史紀餘」が正しい。清の陸次雲の著になる地理書。

「舤魚」「舤」は「舷(ふなばた)・船縁(ふなべり)・船の側面」の意。

「坤輿外記」明末清初に活躍したベルギー生まれのイエズス会士フェルディナンド・フェルビーストFerdinand Verbiest 一六二三年~一六八八年:漢名は南懐仁。一六四一年にイエズス会に入り、中国での布教のため、派遣され、一六五九年、中国に到着。陝西での布教に当たったが、まもなく北京によばれ、既に一六二三年から中国にいたドイツ人イエズス会士ヨハン・アダム・シャール・フォン・ベル(Johann Adam Schall von Bell 一五九二年~一六六六年:漢名は湯若望)を助けて欽天監(きんてんかん:天文台)で活躍、一時、その任を追われたが、復職し、アダム・シャール没後も修暦に従事、一六七三年には欽天監監正に任ぜられた。西洋式の各種天文観測機械の製作と解説書「霊台儀象志」や、世界地図「坤輿全図」(一六七四年)とその解説地誌「坤輿図説」(一六七二年)を著したほか、大砲の鋳造も指導するなど、幅広く活躍した。宣教面でも中国教区長を務め、北京で亡くなった。以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)坤輿図説」から主たる地誌的記事を取り除いて、奇異な話のみを抽出したもの早稲田大学図書館「古典総合データベース」の一括PDF版の本邦で写本されたものの、「10」コマ目右丁の終わりから二行から記載がある。起こす。句読点を追加した。

   *

有介属、之魚、僅尺許、有殻、六足、〻有皮、如、欲徙、則竪半殻、當舟張足皮、當帆、乗風而行。名曰舡魚(ヒウセナーイクス)。

   *

この本の確認は、実際に梅園が行ったもののようには見える。

『蛮名「ヒツセナーチクス」』この時代の接触出来る外国人の殆んどはオランダ人であるから、まず、オランダ語の「アオイガイ」を調べたが、schippertjeでオランダ語を知らない私が見ても、このカタカナ音写とは一致しそうもなかった。そこで、「タコブネ」の方を調べてみたところ、図に当たった。タコブネのオランダ語はpapiernautilus”で、試みにネットの機械翻訳機能で発音させたものを音写すると、「パピューナチレス」で、英語のそれは、“brown paper nautilus”(ブラウン・ペーパー・ノーチラス:茶色の紙製のオウムガイ)である。綴りから見て、オランダ語のそれも「紙のようなオウムガイ」の意と推定され、この「パピューナチレス」は、以上で字起こしした「坤輿外記」と殆んど相同であるから、梅園が振った「ヒツセナーチクス」も同じカタカナ音写と断定出来る

「かいだこ」カイダコはアオイガイの旧和名で、現在は異名とされる。その変遷は当該ウィキを参照されたい。前の注と合わせて、本図譜の本図がアオイガイとタコブネの混同記載となっていることが証明された

「乙姫貝」栗本丹洲「栗氏千蟲譜 巻十(全)」に(以下は原文。〔 〕は直前字の誤りを私が訂したもの。太字は私が附した。既に、実は丹洲もアオイガイとフネダコを混同して記載してしまっていることを証明するためにも「乙姫介」の記載以外の箇所にも附した。そちらでは、原文をまず提示し、後に「■やぶちゃん読解改訂版」(カタカナをひらがなにし、訓読整序して読み易くしたもの)も後半に配してある)、

   *

舡魚  蛮名 ヒツセナーテ〔チ〕リス 右ノ図蛮書落立茅〔弟〕篤中ニアリ直ニ抄出ス

本邦俗ニ章魚船ト呼一名貝章魚ト云此介殼ヲ人〔介〕品ニ入ル紀州ニテ葵介ト云小ナルヲ乙姫介ト云諸州ノ海中ヨリ産ス大ナルハ六七寸小ナル者二三寸純白ニシテ形鸚鵡螺ノ如ク薄脆玲瓏恰硝子ヲ以テ製造スルモノニ似タリ文理アリテ※瓏ヲナス畧秋海棠葉ノ紋脉ニ彷彿愛玩スルニ耐タリ中ニ一章魚ノ小ナルモノコレニ寄居ス六手ヲ殼肩ニ出シ両足ヲ殻後ニツキハリテ櫂竿ノ象ヲナス海面ヲ游行スルコト自在ナリ真ニ奇物ナリ此章魚ハ外來ノモノニ非ス此介ノ肉ナリ徑月大ナルニ随テ此介モ又大ニナルモノ也章魚ノ船ニ乘タルニ似タルニ因テ此名アリ徃年津輕海濱ニ此物一日數百群ヲナスコトアリテ寄來ル人多クコレヲトル然レドモ怪テ食フモノナシ試ニ煮テ犬ニ與テ喰ハシムルニ皆煩悶苦痛ノ体ナリ因テ有毒ノモノト知漁人偶得ルコトアレハ則章魚棄テ殼ノミヲ採リテ以テ珎玩トシテ四方ニ寄ス然レドモ其殼モロク碎ケ易ク久シク用ユルニタヘス[やぶちゃん字注:「※」=(がんだれ)の中に「毛」。読みも意味も不詳。因みに「瓏」は「明らかなさま・はっきりとしたさま」。或いは「尾」の崩しか? としても、「マデ」などの送りが無ければ、意味が通じない。]

   *

最後の「※」の不明字は現在も同じ。底本写本の国立国会図書館デジタルコレクションの当該ページの画像を示しておく(右丁四行目下方)。後に出す「弟姬貝(おとひめがひ)」と同じ。小さいから「弟」の方が当たりなのかも知れない。しかし、相似する薄い美しい殻を美称して「姫貝」と呼んだと措定するなら、アオイガイとカイダコの殻を並べた場合、アオイガイは最大十五センチメートル程度であるのに対し、カイダコの方は八・八センチメートルで、小さい。そうすると、この「おとひめがひ」は、俄然、実はカイダコの方の異名である可能性が物理的には高くなるようにも思われる。

「明の艾儒畧(がいじゅりやく)」明末の中国で宣教活動を行ったイタリア出身のイエズス会士ジュリオ・アレーニ(Giulio Aleni 一五八二年~一六四九年)の漢名。アレーニは北イタリアのブレッシャに生まれた。一六一〇年にマカオに至り、そこで数学を教えながら、中国に潜入する機会を待ち、一六一三年に中国に入り、北京で、知られた、優れた暦数学者にしてキリスト教徒であった徐光啓(一五六二年~一六三三年:洗礼名はパウルス(Paulus))の知遇を得、各地で布教活動を行った。一六二五年からは福建省で布教したが、一六三八年にキリスト教排撃事件が発生したため、マカオに引きあげたが、後、再び福建に戻った。一六四六年に清が福建に侵入したため、アレーニは福州から逃がれ、現在の福建省南平市延平(グーグル・マップ・データ)で亡くなった。さて、ここで梅園の小賢しい孫引きが、マタゾロ始まっている。そもそも「明の艾儒畧が曰ふ」という語り出しは奇異なること甚だしい。艾儒畧の、『半殼を竪て、舟に當(あ)て、足の皮を張り、帆と當てて、風に乘りて行く。名づけて「舡魚(カウギヨ)」と曰ふ』という記載元を書いていないのは、甚だ変則的である。これが「李時珍」だったり、「益軒」だったらまだしも、それほど当時の本邦で広く知られた人物ではない(しかも禁教のイエズス会士)彼を、突然、頭に据えるのは、異様だ。そこに梅園のミエミエの引用元隠蔽の仕儀が知れるのである。これは、梅園の解説の後の方に出る艾儒略の「職方外紀」(梅園の「職方外記」の「記」は誤り)の中の記載なのだ。彼が明で編纂した五巻から成る世界地理書で、一六二三年に成立し、同年に杭州で刊行され、一六二〇年代後半に福建で重刊された。福建での重刊の後も、幾つかの叢書に収められ、当時の中国の地理知識の発達に寄与した。さらに日本にも渡来し、禁書とされたにも拘わらず、密かに伝写され、鎖国時代の世界地理知識の向上に貢献した書である(以上は明治大学図書館公式サイト内の「蘆田文庫特別展」の「展示資料の詳細表示」の「職方外紀」の解説に拠った)。而して、ここで既に、殆んどビョーキに近い梅園の孫引きがバレるのである。やはり、これはまたしても、栗本丹洲「栗氏千蟲譜 巻十(全)」なのである(以下は原文。同前。下線太字は私が附した)。

   *

職方外記〔紀〕云一種介属之魚僅尺許有殼六足々有皮如欲他徙則竪半殼當舟張足皮當帆乘風而行名曰舡魚龍威秘書巻九譯史紀餘曰舡魚六足行殼有皮僅長尺許如欲他徙則竪半殼當舟張足皮當帆乘風而去

   *

あたかも、梅園自身が、禁制の地下本である艾儒略の「職方外紀」に親しく当たったようにしか見えない書き出しは、まさしく先行する栗本丹洲「栗氏千蟲譜」からの剽窃を隠蔽するための小賢しい弄くりに過ぎなかったのである。

「章魚舟の帆立貝」これはホタテガイとは無関係で、アオイガイの♀及びタコブネの♀の海上を移動するさまを夢想的に言ったもの(実際にはアオイガイもタコブネも海の表層附近を浮遊移動する)。しかし、「蓋し、帆と爲して、殻を以つて、舟と爲して走る」という記載は、一部の「足」(或いは足の間の皮膜)を「帆」のようにして、と言うべきところを脱字したものか。

「笈埃隨筆」江戸中期の旅行家百井塘雨(ももいとうう ?~寛政六(一七九四)年:本名定雄。京都室町の豪商「万家(よろづや)」の次男)の紀行。以下は、巻之五の「変態」の一節。吉川弘文館随筆大成版を元に、漢字を恣意的に正字化して全体を示す。陰陽の当該部の下線は私が附した。ちょっと表現に異同はあるが、まあ、問題ない、というより、梅園は、例の通り、「日本書紀」をあたかも自分が調べたように、改行して載せているが、ご覧の通り、またまた、孫引きであることが判る。読み易さを考えて、読点・記号、及び、推定で読みを追加した。踊り字「〱」は正字化した。

   *

   ○變 態

飛騨國高山府下滄州といふ人より、一奇物を送れり。其さま、笹の細きに、葉も、よのつねなり。其本なる葉のところ、二寸餘の物、生(な)り、末、細くして、魚の尾の形にして、兩目と覺しき所ありて、鰭も備はり、丸くして、鱗の樣に、笹の葉、有て、全體、細工物の如し。谷川の笹に自然と出來て、三、四月のころ、忽然と枝を放(はな)れ、水中に落入れば、魚と化す。號(なづけ)て「笹の魚」と云。尤も味ひ美なりと云々。これ、いまだ、諸書にも出ざる一變物なり。かゝる事は、往々、深山幽谷・海邊などに有べき事なるべしといへども、人、常に見ざる所なれば、いはず。適(たまたま)、一人、見て、その實(まこと)と告(つぐ)るといへども、信ずべからず。但し、我、見ざる事とて、誣(そしる)べからず。陰陽の氣變、はかり知り難し。人、天を覆ふ知ありとも、理は盡すべからず。「天化」あり、「氣化」あり、「心化」、「體化」あり。佛者、胎・卵・濕・化(け)の四生を說(とく)事、理、有(ある)哉(かな)。予、幼少の時、「宗祇諸國物語」とかやいふものを見しに、子供心にも珍らしとおもひし故に、今に記臆せり。何國の事にや、春の頃、蛇、多く出來りて、海中に走り、入(いり)て蛸となれり、といふ事ありき。甚だ怪しき事におもへり。近頃、越前に通ふ商人の語るを聞しに、春三月のころ、彼(かの)國に有(あり)しに、所の人々、誘ひて、「蛇の蛸になるを、見に行(ゆく)べし。」とて、破籠(わりご)樣の物を携へ、長閑(のどか)なる日に、濱邊に遊ぶ。暫くして、とある山の尾崎(をさき)より、蛇、出來りて、眞一文字に濱を下り、海中に游(およ)ぎゆらめき、十間許りも出(いづ)るや、尾を上(あげ)て打(うつ)事、數遍(すへん)しぬれば、尾先、裂(さけ)て、足、長く別かれ出(いづ)。「コハ、ふしぎ成(なる)事哉(かな)。」と、目を、はなさず、見留居(みとどけを)るうち、いまだ、半身は、蛇の儘にゆられけるが、また、水に打返り打返りするかと見れば、忽ち、全體、蛸と化して、沖の方へ行(ゆき)、夫より、追々、出(いで)ては、みな、斯(かく)のごとし。その化して、しばらくは、つかれ、苦みぬるや、惱める樣なり。是等、世にいふ、』『「手長蛸」に毒あり。』とするの本(もと)かと聞(きき)て、扨は、浮(うい)たる事にもあらざりしと覺ふ。又、同じ北海に一奇物あり。「蛸舟」と號し、大なるもの、七、八寸、色、淡白にして、貝、薄く、秋海堂の葉に似たる文理、麗(うるは)し。その中に、小き蛸、有りて、兩手を貝殼の外に出(いだ)し、兩足を梶・竿のごとく、頭を立(たて)て、帆の如くし、游ぎ𢌞るゆへ、その名あり。「その蛸、毒、有(あり)。」とて、人、食せず。その殼を取(とり)て花甁とす。按ずるに、「延喜式」「主計式」に、「貝蛸鮨(かひだこすし)」といふものあり。是(これ)歟(か)。「蛸舟」は、俗名・本名「貝蛸」、又、一名「弟姬貝(おとひめがひ)」といふ。『「日本書紀」敏達天皇の條下に、「貝蛸皇女(かひたこのひめみこ)」あれば、其名、久敷(ひさしき)事なるべし。』と、勢州谷川氏も、いへり。又、近江の湖水に、「アメノ魚」、「太刀魚」とて、魚あり。小さくして、鮱(ぼら)のごとし。

   *

引用部以外にも注を附したいところだが、そうすると、注が脱線して長くなるので、諦める。但し、一つだけ指摘しておくと、『予、幼少の時、「宗祇諸國物語」とかやいふものを見しに、子供心にも珍らしとおもひし故に、今に記臆せり。何國の事にや、春の頃、蛇、多く出來りて、海中に走り、入(いり)て蛸となれり、といふ事ありき。』とあるのは、私が同書の電子化注をしてあり、その「宗祇諸國物語 附やぶちゃん注 無足の蛇 七手の蛸」である。「春」とはないが、「ある日うらゝに風靜かな」日のこととして、以下に蛇が蛸に変ずるのを目撃したとするので、完全に合致する。

『「延喜式」、「主斗式」[やぶちゃん注:「斗」=「計」]』「主計式」(音で「しゆけいしき」と読んでおく。巻二十四に「上」が、第巻二十五が「下」があるが、「主計寮上」(「主計寮」は訓では「かずへのつかさ」)であろう。には、全国への庸・調などの作物の割り当てなどが書かれており、当時の全国の農産物・漁獲物・特産物を記すが、国立国会図書館デジタルコレクションの昭和六(一九三一)年大岡山書店刊の皇典講究所・全国神職会校訂の「延喜式 下巻」のこちらの左ページ一行目に、「蛸の腊(きたい)」に当たる「鮹(タコ)ノ醋四斤」と載る。「鮨」であったら、「熟(な)れずし」だが、直後に「鮨ノ鮒」とあるから、これは恐らく「鮹の醋(きたひ)」(正しい歴史的仮名遣はこれ)で、現在で言う「タコの丸干し」かと思われる。同じ画像の右ページの後ろから二行目に、「乾蛸(ほかしたこ)」に相当する「乾鮹(ホシタコ)九斤十三兩」とあるが(「蛸の醋」と直近で差別化しているところからは、こちらはタコを刻んで乾したものか? よく判らぬ)で「蛸鮨」は少なくともこの前後には見当たらない。私は「タコの馴れ鮨」というのは寡聞にして知らない。ここには多くの魚介類の「鮨」(なしもの)が載るから、それを桃井が見誤ったものを、無批判に梅園は孫引きしたのだろう。こういうところで、知らんぷりの孫引きの墓穴を掘ることとなってしまったのである。

「大膳式」「大膳職」(だいぜんしき/おほかしはでのつかさ)は律令制において宮内省に属する官司で、朝廷にあって臣下に対する饗膳を供する機関を指す。「延喜式」の巻三十二・三十三に「大膳」(信頼出来る論文を見ると、これを「大膳式」と別称するらしい)の「上」・「下」があるが、同前で「上」の冒頭「御膳ノ神八坐」の中に(ひらがなの読みは私の推定)「嶋鮑(しまあわび)。熬海鼠(イリコ)・鮹(タコ)。雑ノ醋(キタヒ)各六斤」とある。「熬海鼠」は、ナマコの腸(わた)を抜き去って茹でて乾燥させたもの。

「『蛸舟』は俗名、『貝蛸』【「本名」。】」現行では「カイダコ」は「アオイガイ」の異名である。

『「日本書記」便辰天皇五年の條下に『貝蛸皇女(かひたこのひめみこ)』あり』菟道貝蛸皇女(うじのかいたこのひめみこ 生没年未詳)は飛鳥時代の皇族で、敏達天皇と額田部皇女(後の推古天皇)の間に生まれた皇女。以下、途中に入れたのは、国立国会図書館デジタルコレクションの黒板勝美編「日本書紀 訓読」下巻(昭和七(一九三二)年岩波書店刊)の当該部)聖徳太子の従姉妹であり、妃となった(右ページ四行目)が、子なくして、結婚後、まもなく逝去したとされている。「日本書紀」の敏達天皇七年に「菟道皇女」が伊勢神宮に任ぜられるも、すぐに池辺皇子(いけべのおうじ)に強姦されたため、解任された(左ページ二行目)と記されているが、この「菟道貝蛸皇女」と同一人物であるかは定かでない、と当該ウィキにある。

「龍威秘書」清の馬俊良の手になる稀覯珍奇な書物を集めた叢書。

「譯史紀餘」清の陸次雲の撰したもので、画像で管見すると一種の類書のようなもののようである。これもまた、栗本丹洲「栗氏千蟲譜 巻十(全)」からの孫引きに過ぎない。

「乙未八月廿九日」天保六年で、グレゴリ曆一八三五年十月二十日。

「倉橋氏」既出既注であるが、再掲すると、本カテゴリで最初に電子化した『カテゴリ 毛利梅園「梅園介譜」 始動 / 鸚鵡螺』に出る、梅園にオウムガイの殻を見せて呉れた「倉橋尚勝」であるが、彼は梅園の同僚で幕臣(百俵・御書院番)である(国立国会図書館デジタルコレクションの磯野直秀先生の論文「『梅園図譜』とその周辺」PDF)を見られたい。]

2022/08/14

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 海鏡・月日貝  / ツキヒガイ

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。なお、以下のクレジットは御覧の通り、見開きの左丁の右下に書かれてある。梅園は今までも対象物の一個体を「一種」と数えている。同種のものを二つ書いても、「二種」と書いているのである。この毛利梅園の「介譜」は、写生画を切り張りして綺麗に冊子に綴じたものであるが、左右のページが同一の場合以外は、同じ一丁の中に写生クレジットを書いており、この場合、これを前の丁の「三種」のクレジットと採ることは私は出来ないと考えるものである。

 

「多識」

  海鏡【「月日貝」。】 鏡魚(キヤウギヨ) 瑣𤥐(サキツ) 膏藥盤(こうやくばん)

「綿繍萬花谷」曰はく、

  海鏡【廣人、呼んで、「膏藥盤」と爲(な)す。】

    日月蠔(ジツゲツガウ) 蟫蠇(インレイ)【「魚鑑(うをかがみ)」。】

 

       三種、倉橋氏藏。

         乙未八月廿七日、眞寫す。

 

Tukihigai

 

清、俗に日月殻(ジツゲツコク)、又、(テンレイ)と云ふ。清の吳震芳が「嶺南雜記」には日月とのみ云へり。其の文に曰はく、『海、豊かに、水族、甚だ夥(おびただ)し。「日月」と云ふ者、有り、蛤(ガウ)の類なり。大いさ、掌(てのひら)のごとく、扁(ひらた)し。殻、半片(かたひら)、白く、半片は紅(あか)し。土人、直(ただ)、之れを「日月」と名づく。』と。

 

[やぶちゃん注:下線は底本では右二重傍線。これは逡巡することなく、

斧足綱翼形亜綱イタヤガイ目イタヤガイ超科イタヤガイ科イタヤガイ亜科 Amusium Amusium 亜属ツキヒガイ Amusium japonicum japonicum

である(学名は「BISMaL(Biological Information System for Marine Life)」のこちら他に従った)。シノニムに Ylistrum japonicum があり、こちらで正式学名記載とするものあり、また、 Amusium 及び Ylistrum を「ツキヒガイ属」とする記載も多い。小学館「日本大百科全書」の奥谷喬司先生の解説によれば、『房総半島から九州にかけて分布し、水深10100メートルの細砂泥底に、右殻を下にして』、『なかば埋もれたように横たわっている。殻長と殻高はともに110ミリメートル、殻幅20ミリメートルに達し、殻は円形で膨らみは弱く』、『光沢があり、左殻は赤褐色、右殻は淡黄白色をしている。これを日と月に見立てたのが名の由来である。殻頂両側の耳は小さい。内面は白色で周縁は黄色、4552本の細肋』『を放射する。肉は黄色で、外套』『膜縁には多くの赤褐色の糸状触手を備え、その間には多数の目がある。殻を激しく開閉して泳ぎ』、『移動する。閉殻筋は食用とされ、殻は貝細工に用いられている』。『台湾など南方には、左殻の全体が赤褐色でなく、細い赤褐色の輪線となるタイワンツキヒガイA. j. formosumと、小形のタカサゴツキヒガイA. pleuronectesを産する』とある。画像は、当該ウィキに載る画像が鮮やかで素晴らしい(和歌山県御坊市名田町沖水深十八~三十六メートルからトロール船で一九八〇年に採取された個体)。

「多識」林羅山道春が書いた辞書「多識編」。国立国会図書館デジタルコレクションの慶安二(一六四九)年の刊本のここにあったが、何を血迷ったか、梅園先生!……「海鏡」の状には……『海鏡』『多伊良岐』……って書いてありますぜ? これって、ちょっと前の「タイラギ」ですぜ?…………

「鏡魚」「魚」は嘗つては「魚貝」の意で、広く海産動物全般を指した。

「瑣𤥐」「瑣」は「煩瑣」で判る通り、「小さい」の意だろう。さても、大修館書店の「廣漢和辭典」の「𤥐を見たら、不思議なことが書いてあるぞ! 『蛸𤥐(ソウキツ)・璅𤥐(ソウキツ)は、一に蟹奴(カイド)といい、腹中に蟹(かに)の子を宿して、共同生活をする一種の虫』……?……なんじゃこりゃあ!? 寄生蟹の宿主カイ? 続きは次の注をどうぞ!

「綿繍萬花谷」国立国会図書館デジタルコレクションの別人の写本でも「綿」となっているが、これは「錦」の誤り。「錦繡萬花谷」(きんしうばんくわこく(きんしゅうばんかこく))が正しい。「文化遺産データベース」のこちらによれば、同書は南宋の淳熙(じゅんき)一五(一一八三)年頃に撰せられた類書(百科事典)で、『中国文学史上に重視された』とある。「中國哲學書電子化計劃」で検索したところ、前集巻三十六に以下の文字列があった(一部の漢字に手を入れた)。句読点は私が適当に打った。

   *

海鏡膏葉[やぶちゃん注:多分、機械判読の「藥」の誤り。]盤海鏡廣人呼爲膏葉盤兩片合成殻圓中瑩滑内有紅蟹子海鏡飢則蟹出拾食蟹飽歸腹海鏡亦飽迫之以火卽蟹子走出立斃生剖之蟹子活逡巡亦死【「嶺表錄」】

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ピンノのような寄生蟹との面白そうな話が載っているのだが、私の乏しい漢文力では読みに自信が湧かない。残念だなあ、と思いつつ、何となく、いろいろなフレーズでネット・サーフと洒落てみたところが、図らずも、梅園の、以上の引用のネタ元(またしても孫引き!)を発見してしまった。「怡顔斎介品」(本草学者(博物学者と言ってよい)松岡恕庵(寛文八(一六六八)年~延享三(一七四六)年:名は玄達(げんたつ)。恕庵は通称、「怡顏齋」(いがんさい)は号。門弟には、かの「本草綱目啓蒙」を著わした小野蘭山がいる)が動植物や鉱物を九品目に分けて書いた「怡顔斎何品」の中の海産生物を記したもの)だ! 而して、「日本古典籍ビューア」で当該部に辿り着いてみたら、嬉しいことに訓点があった! 訓点はあくまで参考にして訓読を試みる。表記は正字でないものも、正字とした。この際なので、後の続く部分(次の丁まで)も全部、起こした。

   *

膏藥盤 「錦繡萬花谷」に曰はく、『海鏡、廣人(くわうひと)、呼びて、膏藥盤と爲(な)す。兩片、合成す。殻、圓(まどか)に、中(う)ち、瑩滑(えいかつ)にして、内(うち)、紅き蟹の子、有り。海鏡、飢うれば、則ち、蟹、出でて、食を拾ふ。蟹、飽(あ)きて腹に歸れば、海鏡も亦、飽(あ)く。之れ、迫(せま)るに、火を以つてすれば、卽ち、蟹の子、走り出(だ)し、立(ただち)に、斃(たふ)る。之れを生剖(せいぼう)すれば、蟹の子、活するより、逡巡して、亦た、死す。』と。「漳州府志(しやうしうふし)」に曰はく、『海月(かいげつ)は、海蛤(かいがふ)の類なり。一名、蠔鏡(がうきやう)、形、圓(まどか)にして、月のごとし。亦、之れを海鏡と謂ふ。土人、鱗次(りんじ)して、之れを、天窻(てんまど)と爲す。』と。「海物異名記」に、『一名、老葉盤(らいえふばん)。』と。 ○達、按ずるに、膏藥盤、俗に「月日貝」と名づく[やぶちゃん注:この行の頭書に『日月殼【淸、俗。】』と『日月【「嶺南雑錄」。】』とある。]。片(かた)、白く、半片(はんかた)、赤し。故に名づく。和(わ)に海鏡を「たいらき」とするは、誤りなり。又、「福志」の「海月」は「水(みづ)くらげ」なり。

   *

・「廣人」は国名じゃないが、漢文の掟に則って「こうひと」と訓じておいた。広東(カントン)地方の民草。「膏藥盤」は本種の殻を練り膏薬を入れる器にしていたからであろうと思う。いやいや! この話、甚だ面白い! 寄生蟹のお腹がくちくなれば、その住み家に戻ると、主人の貝もおなかがふくれるという共感呪術だからである。それが、貝と蟹との生死にも関わることが、最後の部分で明らかになるという寸法だ。「漳州府志」は清の乾隆帝の代に成立した現在の福建省南東部に位置する漳州市一帯の地誌(グーグル・マップ・データ)。「鱗次」魚の鱗のように次々に重ね並べて家の天窓の覆いとするというのである。腑に落ちる。「海物異名記」嘗つて別な電子化注で、中文サイトの「福州府志」を見た際、同書では七ヶ所で引用されており、それなりに有名な海産物誌らしいが、詳細は不詳である。しかし、その時、同書での引用箇所を管見したところでは、ちょっと言い方に怪しい感じがしたのを覚えている。「老葉盤」「わくらば」のそれで、赤い一方を紅葉した葉に喩えて、かく言ったものであろう。「和」日本。『「福志」の「海月」は「水(みづ)くらげ」なり』この最後の最後で、松岡は何だか訳の分からぬことを記している。「福志」は「漳志」の誤りとしか思えない(実は底本を見て貰うと判るのだが、次の項は「石𧋤」(せきこう:節足動物門甲殻亜門顎脚綱鞘甲亜綱蔓脚(フジツボ)下綱完胸上目有柄目ミョウガガイ亜目ミョウガガイ科カメノテ属カメノテ Capitulum mitellaのこと)なのであるが、その解説の冒頭が、『福州府志曰、』と始まっており、真右にこの「福志」が並んでいるので、もしかすると、単なる版元の誤刻かとも思われる)。それを誤りとして読んでも、さらに判らぬ。「ミズクラゲを、どうやって繋げ並べたら、天窓になるんや!!! 溶けて流れて、ハイ、さようなら、でっせ!」というツッコミである。そうして私は即座に、この「海月」とはツキヒガイではないと見たのである。ツキヒガイでは天窓の蓋=覆いにはなるだろうが、光りは殆んど通さないから、「窓」にはならない。ところがどっこい! 正真正銘、「窓になる貝」が、別にあるのだ。それも、それを「海月」と呼んでも、おかしくないものなのだ。そう、名にし負う「窓貝」で、斧足綱翼形亜綱ウグイスガイ目ナミマガシワ超科ナミマガシワ科マドガイ属マドガイ Placuna placenta だ! 「ブリタニカ国際大百科事典」によれば、殻長は九・五センチ、殻高は十センチ、殻幅は僅か七ミリで、殻は円形で扁平、特に右殻は平らである。殻表は銀白色で、半透明、微細な放射条が走る。浅海の砂底に棲息し、古く中国などで、右殻を切って、窓の障子に嵌めてガラスのように用いたことから、その名があるのである。「そんなの知らねえぞ!」と言われるだろう。当然だ。本邦には棲息しないからだ。マドガイは台湾以南の太平洋・インド洋に分布する。ところがだ、ここはどこだ? 漳州市だぜ? だてに辛気臭く地図リンクをしてるんわけじゃねえ! はい! ほら、台湾以南でしょ? 学名のグーグル画像検索をリンクさせておく。東南アジアに行った方は土産物屋でこれを加工した飾り物見たことが必ずあるはずだ。

「日月蠔」「蠔」この漢字は牡蠣(カキ)を表わす。海中に出来たカキの巨大な山を「蠔山」(ごうざん)と呼ぶのだが、他には海に潜って貝を採る海士・海女の謂いしかない。正直言って、昔、中国では海辺に住む人以外は海産物に疎かった。かの李時珍の「本草綱目」も海産物になったとたん、誤りが激しく目立つのである。彼は湖北省黄岡市出身で(武漢の東方)、北京や南京に出向いた時はあるが、例えば、海浜で親しく生物を観察した痕跡は叙述には見られない。その内容の殆んどは聞き書きだったようだ。というわけで、食通でもない限り、現代の欧米人と同じで、海産物を表わす漢字を日本人のようには沢山は知らないわけである。二枚貝は「蚌」や「蛤」で通ずるから、画数は多いけれど、まあ、「蠔」でもいいわけだ。但し、マドガイはやや凸凹しているから、そこはカキっぽく「蠔」とするの意はあるやも知れぬ。

「蟫蠇」不詳。「蟫」は現代中国語では昆虫の紙魚(シミ)の古語で、「蠇」はやっぱり牡蠣なんだな。

「魚鑑」江戸時代の外科医武井周作の著で天保二(一八三一)刊。国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像のここ。乗りかかった舟だ。電子化しておく。ここに梅園が引いた箇所がある(下線は底本では右傍線)。

   *

つきひがひ 淸(からの)俗(ぞく)に日月蠔(じつげつかう)、一名「(タンレイ)といふ。大サ、二、三寸。殻(から)、丸く、半片(かたひら)は紅(くれなゐ)なり。薩(さつま)・勢(いせ)・紀(きい)に產す。柱(はしら)、寸余、味(あじわ)ひ、美(よ)し。

   *

「倉橋氏」既出既注

「乙未八月廿七日」天保六年で、グレゴリオ暦一八三五年十月十八日。

『清の吳震芳が「嶺南雜記」』一七〇五年に吳震方(但し、ネット記載の中には確かに「吳震芳」とするものがあった)が「嶺南雜記」が書いた地方地誌か。]

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 花紫・若紫・内ウラサキ  / フジナミガイ

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。なお、本図にはクレジットがない。]

 

花紫(はなむらさき)

 又、

 若紫

 内ウラサキ 


Utimurasaki

 

[やぶちゃん注:こりゃあ、大浅利の斧足綱異歯亜綱マルスダレガイ目マルスダレガイ科 Saxidomus 属ウチムラサキ Saxidomus purpurata じゃあ、ねえぞ!? ウチムラサキの貝の内側を描いたとしても、梅園が、こんなシュールな反転デフォルメなんぞをするとは思われん! こんな輪状紋はウチムラサキには、ねえ紋(もん)!! おまけに、明らかにこりゃ、貝殻の表面の図であって、今までの梅園の図を見ても、凹んでいる内側を、こんな逆立ちしたような立体には、彼は、決して描かんぞッツ! さすれば、これは、記された和名の全部が異名として、貝図だけから、判断せねばならぬのか? いやいや、名前に仄かなヒントがあるぞ! そうだ! これは「紫のゆかり」でねえか? そうさ、

マルスダレガイ目ニッコウガイ超科シオサザナミガイ科ムラサキガイ属フジナミガイ Boeddinghaus Sanguin

「藤波貝」だんべ! Machiko YAMADAさんのサイト「微小貝データベース」の同種の、写真を見られたい。生貝で表面の剥離が生じていないなら、こうゴッツうなろうものではないカイ! 「でも、藤色なんかしてねえぜ? 何が「紫のゆかり」やねん!?」とツッコむ輩は、個人ブログ(女性)の「あうるの森」の「貝殻拾い【フジナミガイ】【アケボノキヌタ】…南房総・多田良海岸」の写真を見んさい! 上から二枚目と三枚目だ! 薄紫色が見えるやろ? ついでに同ページの最初に写真のフジナミガイは、いかにも本図に似ているじゃないの!! ちょっち、形は、やっぱ、デフォルメやけんど……]

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 眞珠・アコヤガイ  / アコヤガイ

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。一部をマスキングした。標題は一部が縦に並ぶが、概ね改行した。なお、本図にはクレジットがない。]

 

Sinjyu_20220814083201

 

「多識扁(たしきへん)」

  眞珠【「かいの玉」。「あこやの玉」。】

  【異名。】蠙珠(ヒンシユ)【「禹貢(うこう)」。】

       珍珠【「間寶」。】 蚌珠(バウシユ)【「南方志」。】

  珠牡【「をやがい」。】

  胎貝(あこやがい)

  珠母(しゆぼ) 銀母蠃(ぎんぼら)【「廣東新語(カントンしんご)」。】

    眞珠貝【肥前。】 そで貝

    老いたるを「厚貝(あつがひ)」と云ふ。

[やぶちゃん字注:底本の「蠙」の(つくり)は「濵」の(つくり)である。表記出来ないのでこれに代えた。]

 

時珍曰はく、「龍の珠は領(うなじ)に在り、蛇の珠は口に在り、魚の珠は目に在り、鮫の珠は皮に在り、鼈(べつ)の珠は足に在り、蚌(ばう)の珠は腹に在る。皆、蚌の珠に及ばず。」と。

按ずるに、眞珠は、貝の珠、各(おのおの)、數種あり。「石决明(あわび)」、「淺利貝」、「蜆」、「蚌(どぶがい)」など、皆、眞珠、有り。伊勢・尾張より出だす眞珠、上品なり。番客、髙價(かうぢき)を以つて、之れを求め、藥に入るる。目を明(あきらか)にすること、此の珠の明功(めいこう)なり。本朝、珍珠の一つとす。

「山家集」

   あこや取る淡菜(いがい)の殻をつみ置きて

                       西行

      寶(たから)の跡を見するなりけり

 

[やぶちゃん注:これは言わずと知れた、

斧足綱ウグイスガイ目ウグイスガイ科アコヤガイ属ベニコチョウガイ亜種アコヤガイ Pinctada fucata martensii

である。詳しくは、私の『「大和本草卷之三」の「金玉土石」より「眞珠」』、或いは、サイトの「和漢三才圖會 卷第四十七 介貝部」の「あこやがひ」の項を見られたい。因みに、後者の「あこやがひ」の項には、先のタイラギの項で出た、「𧍧䗯」が標題漢字として、掲げられてある(同リンク先はユニコード以前の古い電子化であるので、「𧍧䗯」の漢字が表示されていない。検索は「あこやがひ」でお願いする)。なお、和名の「阿古屋貝」の阿古屋は現在の愛知県阿久比町(あぐいちょう:グーグル・マップ・データ)周辺の古い地名で、この辺りで採れた真珠を阿古屋珠(あこやだま)と呼んだことから、真珠を阿古屋と呼ぶようになったとも言うが、現行の行政町域は全く海に面していない。

「多識扁」林羅山道春が書いた辞書「多識編」。慶安二(一六四九)年の刊本があり、それが早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらにあったので、調べたところ、「卷四」(合冊の「2」)のこちらに(HTML単独画像。左丁最終行)、以下のようにあった。太字は底本では黒字白抜き字。

   *

真珠【加伊乃多末。】異名蠙珠【「禹貢」。】。

   *

なお、「蠙」の(つくり)は同じく「濵」の(つくり)であるが、同前でこれに代えた。

「禹貢」は「書経」の中の一編で、古代中国の政治書・地理書。著者や成立年代は未詳。伝説上の聖王禹が全国を九つの州に分け、各地の山脈・水系・地理・物産を調査し、貢賦の制度を定めた事跡を記したもの。

「開寶」北宋の九七三年に国士監から刊行された本草書「開宝新詳定本草」、或いは、その翌年に改訂された「開宝重定本草」か。

「南方志」不詳。但し、出典は判明している。李時珍の「本草綱目」の巻四十六「介之二」の「眞珠」(「漢籍リポジトリ」のこちら[108-9a]影印本画像を参照)の「釋名」で、実際には、ここの「異名」三種は実は全部、それぞれの出典を見たのではなく、そこからの孫引きである。頭の「釋名」を割注式にするという不審が、また解けた。ここで梅園は時珍が『珍珠【開寶】蚌珠【南山志】蠙珠【禹貢】』(「蠙」は同前)としているのを、わざと順序を変えている。前に言った彼の小賢しい偽装である。なお、この「南山志」は「漢籍リポジトリ」で文字列検索しても、六つの書物にしか載らないことが判った。恐らくは佚書で、現存しないものと思われる。

「珠牡【「をやがい」。】」「を」はママ。「牡(をす)」に真珠の「親(おや)」を掛け合わせたものか。但し、梅園は今まで見てきた通り、歴史的仮名遣の誤りが甚だ多いから、「親」を「をや」と訓じているのかも知れず、真珠の「親貝」はすこぶる腑に落ちる異名ではある。なお、アコヤガイは雌雄同体で牝牡の区別はない。「牡蠣」のマガキなどと同じ民俗的伝承があったものと思われる。

「銀母蠃」「蠃」はしかし、漢籍にして意外な用法で、相応しくない。これは漢語ではカタツムリや巻貝を示す語だからである。まあ、巻貝に見えない巻貝のアワビも真珠を作るから、細かいことは言うのはよそう。

「廣東新語」は明末清初明清末期の詩人で、「嶺南三大家」の一人である屈大均(一六三〇年~一六九五年)の生地広東の地方風俗誌的随筆。彼は強い反清思想を持っていた。五言律詩を得意とする典雅な詩風で、明の遺民として詩名が高かった。晩年を広東で送り、本書はその時期の代表作である。

「眞珠貝【肥前。】」真珠の名の発祥は肥前と言われて奇異に思う方もいようが、ウィキの「真珠」によれば、『日本は古くから真珠の産地として有名であった。北海道や岩手県にある縄文時代の遺跡からは、糸を通したとみられる穴が空いた淡水真珠が出土している』。「魏志倭人伝」にも『邪馬台国の台与が曹魏に白珠(真珠)』五千粒を『送ったことが記されて』おり、「古事記」・「日本書紀」・「万葉集」にも、『真珠の記述が見られ』、「万葉集」には『真珠を詠み込んだ歌が』五十六『首含まれる。当時は「たま」「まだま」「しらたま(白玉)」などと呼ばれた。とくに』(☞)『肥前国の大村湾は肥前国風土記にも記されているように、天然真珠などの一大産地であった。景行天皇は湾の北岸地域に住んでいた速来津姫・健津三間・箆簗らから、白玉・石上神木蓮子玉(いそのかみいたびだま)・美しき玉の』三『色の玉を奪い取った。天皇は「この国は豊富に玉が備わった国であるから具足玉国(そないだまのくに)と呼ぶように」と命じ、それが訛って彼杵(そのぎ)』(大村湾東北の沿岸の旧古名・旧郡名。この附近(グーグル・マップ・データ))『という地名になったともいわれる。それら』三『色の玉は石上神宮』(いそのかみじんぐう:奈良の知られたそれ)『の神宝となった』とあることで納得されるであろう。

「そで貝」底本では「ソテ貝」だが、恐らくはアコヤガイの形状からのミミクリーで「袖貝」で腑に落ちる。

「厚貝」読みを調べるてみると、漆工芸の螺鈿細工の世界で「あつがい」として生きている加工貝類材の用語にあった。「文化財遺産オンライン」の「螺鈿」、及び、京都の「鹿田喜造(よしぞう)漆店」公式サイト内の「ショッピング 厚貝(あつがい)」を見られたい。

『時珍曰はく、「龍の珠は領(うなじ)に在り、……」「本草綱目」の「眞珠」は巻四十六「介之二」にある。「漢籍リポジトリ」のこちら[108-9a]から始まるが、当該部は「集解」中の終りの部分にある。[108-10a]の影印本画像を見られたいが、実は梅園は大きな誤りをしでかしている。これは李時珍の言ではなく、陸佃の記載である。

   *

陸佃云、『蚌蛤無隂陽牝牡。須雀蛤化成。故能生珠、專一於隂精也。龍珠、在頷、蛇珠、在口、魚珠在眼、𩸥珠在皮、鼈珠在足、蛛珠在腹。皆不及蚌珠也。

   *

梅園はこの不詳の漢字「𩸥」を「鮫」としているが、国立国会図書館デジタルコレクションの本邦の寛文版の同ヶ所(左丁最終行下方)では、確かに「鮫」となっている。さて、この「陸佃」(りくでん)は「埤雅」(ひが)の作者として知られる北宋の官人にして王安石の門人であった博物学者であり、これも「埤雅」の一節で、「中國哲學書電子化計劃」の影印本を見ると、巻一の「鮫」にあった。そこでは「𩸥」は「鮫」となっているから、これはよいだろう。梅園の記載を電子化しながら、私は『鮫皮のあのブツブツの下に珠がある考えたとして腑に落ちるな』と思ったからである。但し、「皆不及蚌珠也」は「埤雅」にはなく、思うに、この部分だけは時珍の添えたものと私は判断する。そこだけは、梅園先生の謂いは正しいと言えるようだ。

「石决明(あわび)」目くるめく虹色の真珠光沢を殻の内側に持つアワビで真珠が出来ることは、古くから知られており、説話などにもよく出てくる。実物を見たことはないが、大阪ECO動物海洋専門学校の公式ブログ「大阪ECOブログ―エコびより―」の「アワビから真珠ができることを知っていますか?」でネットで蒐集したという画像があるので、是非、見られたい。そそるね! なお、中国では小さな仏像を生貝に押し込んで成形する仏像真珠があり、これは実際に何度も見たことがあるが、殆んどホラーの世界で醜く、私は大嫌いである。私の「想山著聞奇集 卷の五 鮑貝に觀世音菩薩現し居給ふ事」を見られたい。日中ともに、専ら、売僧(まいす)が高値(こうじき)で奇蹟として売り歩いたトンデモものである。

「淺利貝」私は若い頃、白い小指の頭ほどの珠を実際に食している最中に発見したことがある。現在も貧しい標本箱の中にあるはずである。

「蜆」同前。しかし、齧ってしまい、砂かと思って、吐き出したところが、球体の二片となりにけりであった。

「蚌(どぶがい)」これは超有名で、所謂、淡水産の大型の「ドブガイ」類(複数種で説明するのは面倒なので、私の「大和本草諸品圖下 アマリ貝・蚌(ドフカヒ)・カタカイ・鱟魚(ウンキウ) (アリソガイ或いはウチムラサキ・イケチョウガイ或いはカラスガイとメンカラスガイとヌマガイとタガイ・ベッコウガサとマツバガイとヨメガカサ・カブトガニ)」の「蚌(ドフカヒ)」の私の注を参照されたい)では、真珠ができることが、やはりよく知られていた。特にイシガイ科イケチョウガイ属イケチョウガイ Hyriopsis schlegelii では、アコヤガイの形成する真珠に匹敵する美しい真珠が採れるため、近年はそれを用いた真珠製造が行われている。私は嘗つて叔母にその鈍色の光りを放つブローチを買ってプレゼントしたことがあるが、何でもベトナムかタイ辺りで作っているらしい。告白すると、私は宝石に興味が全くないが、真珠だけは大好きだ。小学校六年生の時、疵物であったが、亡き母の誕生日にプレゼントした。藤沢のアクセサリー店に行って、これこれの目的で、「千円しかありません」と言ったら三人の女性店員が感激して、恐らく、遙かに高いブローチを千円で売ってくれたのを思い出す。

「伊勢」古くから知られ、現在ではこちらが専ら真珠の本家となったことはご存知の通り。私の『「日本山海名産図会」電子化注始動 / 第三巻 目録・伊勢鰒』も参考になろう。西行の同じ歌も引かれてある。

「目を明(あきらか)にすること、此の珠の明功(めいこう)なり」「石决(決)明」(せきけつめい/けつめいし)は真珠というより、貝粉で、中でもアワビやトコブシミなどのミガイ科 Haliotidaeの殻を粉末にしたものが、この名で漢方として使用された(カルシウム分が多いため、樟脳と合わせて、結膜炎などの眼病薬や強壮・強精剤としてもて囃された)のが元となったアワビの中国で古くからある異名である。

「あこや取る淡菜(いがい)の殻をつみ置きて寶(たから)の跡を見するなりけり」     西行の「山家集」の下巻にある(一三八七番)、

   伊良胡(いらこ)へ渡りたりけるに、

   「いがひ」と申(まをす)蛤(はまぐり)

   に、「阿古屋」のむねと侍るなり。それを

   取りたる殼を、高く積みおきたりけるを

   見て

阿古屋とるいかひの殼を積みおきて

      寶の跡を見するなりけり

   *

「伊良胡」志摩の答志と対する伊良湖岬。「いがひ」「胎貝」で斧足綱翼形亜綱イガイ目イガイ科イガイ Mytilus coruscus であるが、ハマグリとは別種であるが、音数律から二枚貝のそれに代えたものであろう。「阿古屋」ここでは「阿古屋の珠」の略で、真珠を指す。「むねと」「主(むね)として」。「真珠の主人(あるじ)として」の意か。]

2022/08/13

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 鳥貝  / トリガイ

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。なお、この見開きの左丁の「(ワレカラ)」は、当初にランダムに好きなものを電子化した際に、既に『毛利梅園「梅園介譜」 小螺螄(貝のワレカラ)』として電子化注を終えている。]

 

Torigai

 

鳥貝(とりがい)【「さるがしら」。】

 茶碗貝

   丹後宮津

 

其形、魁蛤(あかゞい)に似たり。彩色(さいしよく)、「本草」に曰ふが如し。其の身は鳥の觜(くちばし)に似たり。『化(け)して、「かいつぶり」となる。』と云ひ、或いは曰はく、『犬猫、之れを食へば、耳の、縮(ちぢ)まりて小になる。』と云ひ、『此の貝、鳰【かいつぶり】と化す。故に鳥貝と云ふ。』と。其の殻を紙を以つて張り、中に「砂からくり」をなし、小兒の玩(もてあそび)とす。又、漆(うるし)を商ふ者、此の貝に漆を入れ、人に、あとふ。

 

乙未(きのえひつじ)三月上巳(じやうみ)の日、時に、二種を眞寫す。

 

[やぶちゃん注:殻は勿論、生貝の足の部分も描き込んで(もっと黒みがかった感じだと思うが、殻部分の辺縁の黝ずみ感(リアルだが、ちょっと汚く見える)を和らげるために足の彩色を相対的に黒を薄くして、帯びるところの紫で抑えたことで、柔軟な感じが出、また、本種の貝殻の持つ均整のとれた対称性を強調するとともに、全体にグロテスクにならぬように配慮もされているように感じる)、よく描けている。

斧足綱マルスダレガイ目ザルガイ科トリガイFulvia mutica

である。

「さるがしら」この異名は生き残っていないようである。紅潮した「猿」の「頭」(顔)で腑に落ちるのだが、武蔵石寿の「目八譜」を縦覧してみたところ、全く別の複数の種(私が確認出来ただけでトリガイではなく、それぞれも異なる二種)に「猿頭」の名を与えていた、

「茶碗貝」「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページに異名としてある。殻は内側が紫紅色を帯び、大型のものは茶碗と呼びたくなる気持ちは判る。

「丹後宮津」「天橋立」で知られる現在の京都府宮津(グーグル・マップ・データ)。古くより鳥貝の名産地として知られる。

「魁蛤(あかゞい)」翼形亜綱フネガイ目フネガイ上科フネガイ科アカガイ Anadara broughtonii 。先行する『毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 𩲗蛤(アカヽイ) / アカガイ』を参照。

「本草」「大和本草卷之十四 水蟲 介類 鳥貝」である。どうも、かくも梅園の書き方をこうして覚えてくると、真っ先に私は、この『彩色(さいしよく)、「本草」に曰ふが如し』という、どこか仰々しい言い回し(この「彩色」へのルビは梅園が直に振っているのである)に、何時もの不審を抱いたのであるが……案の定だ! 以下、「此の貝、鳰【かいつぶり】と化す。故に鳥貝と云ふ」というトンデモ化生(けしょう)説に至るまで、「大和本草」のそちらの記載の順序をちょっと変えただけの、梅園お得意のほぼマンマの孫引きなのである。一気に注をする気が失せた。というより、「大和本草」の方で私は強力に注してあるので、そちらを読まれれば、こと足りるのである。いや――彼の剽窃には、ある種の後ろめたさがそこはかとなく漂っている。順序を入れ替えるのは、その罪悪感を軽減し、自身の言葉のように錯覚させる効果がある。最後で徐ろに二件の民俗記載を何んとなく添えているのも、そうした意識の一つと言える。

『其の殻を紙を以つて張り、中に「砂からくり」をなし、小兒の玩(もてあそび)とす』何となく判る。今度、鳥貝の殻に和紙を張って作ってみたい。

「あとふ」「與(あた)ふ」の音変化のママ表記。

「乙未三月上巳日」天保六年三月十日己巳(つちのとみ)で、グレゴリオ暦一八三五年四月七日。

「二種」本図と前の「カラスノマクラ」を指す。]

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 カラスノマクラ  / カラスノマクラ(=ハンレイヒバリガイ=ハンレイヒバリ)

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。なお、この見開きの左丁の「(ワレカラ)」は、当初にランダムに好きなものを電子化した際に、既に『毛利梅園「梅園介譜」 小螺螄(貝のワレカラ)』として電子化注を終えている。写生のクレジットは最下方にあるので、次の「鳥貝(トリガイ)」で電子化する。]

 

からすのまくら

 

Karasunomakura

 

[やぶちゃん注:保育社の波部図鑑(昭和三六(一九六一)年初版)では「ハンレイヒバリガイ」の名で載る。しかし、

ネット上の、ある貝類サイトでは、この「ハンレイヒバリガイ」或いは「ハンレイヒバリ」を異名となり、現在の標準和名を「カラスノマクラ」する

といった記載がある。ところが、

サイト「日本のレッドデータ」(NPO法人「野生生物調査協会」と同法人「Envision環境保全事務所」作成)の同種のページでは、標題和名を「ハンレイヒバリガイ」

とする。一方、

「福岡県の希少野生生物 福岡県レッドデータブック」(福岡県自然環境課作成)では、標題和名は「ハンレイヒバリ」で、しかも「種の概要」の項には、

『別名カラスノマクラ』

としつつ、

『柳川方言の「からすのまくら」はコケガラス』(イガイ科ヒバリガイ属コケガラス:「苔鴉」か)『と思われるが』、『淡水のイシガイ類なども含め』、『「黒くて長い貝」に広く使われたようである』

と、「カラスノマクラ」は御当地の方言由来の異名と断じている。而して、私がいつもお世話になる最も信頼している、

「BISMaL(Biological Information System for Marine Life:国立研究開発法人「海洋研究開発機構(JAMSTEC)」によって構築され、その沖縄での拠点「国際海洋環境情報センター(GODAC)」が運用)では「カラスノマクラ/ハンレイヒバリ」と並置

してある。私は形状からであろう雲雀の風雅もいいが、成貝の見た目の生態印象から、名にし負うたものとして「カラスノマクラ」で記すこととする。

斧足綱翼形亜綱イガイ目イガイ超科イガイ科カラスノマクラ Modiolus hanleyi

に比定する。……しかし、正直、公的なレッド・データ資料で名前がバラバラなのは、かなり「危険がアブない」ことと私などは思うがねぇ。……

 なお、本種は殻表面の上皮を研磨清拭すると、かなり美しい色を呈するようである。言うこともないから、学名のグーグル画像検索をリンクして終わりとする。]

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類  𧍧䗯(カンシン)・タイラキ / タイラギ

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。]

 

𧍧䗯(カンシン)【「たいらぎ」。「水土記」。】 𧍧蛤(カンガフ) 生䗯(セイシン)【「嘉祐(かいう)」。】

  𧌊【「たいらぎ」。】 和名、出所不詳。

 

「江瑤玉珧(カウエウギヨクタウ)」を以つて、「たいらぎ」と訓ず。「玉珧」は「海月(かいげつ)」なり。「海鏡」を以つて爲(して)、「たいらぎ」とす。此の者、則ち、「日月貝(じつげつがひ)」なり。皆、別種なり。一種、別に「いたら貝」と云ふ者、之れ、有り。肉の柱(はしら)、同じくして、異(い)なり。

 

甲午十二月十三日、納眞寫(をさめしんしや)として筆(ひつ)す。

 

Tairagi

 

「宛委餘編(ゑんいよへん)」

   江瑤柱(カウエウチユウ)【「たいらぎ」。】

本邦、「瑊璡」或いは「𧌊(シヤ/セ)」を以つて「たいらぎ」とすは、誤りなるべし。「大和本草」に『たいらぎ、四つの肉柱、なし。』と。是れ、審らかに察せざるなり。『大肉柱(おほにくばしら)一つ、餘(よ)の三柱は、至つて小なり。』と松岡翁「介品」に載せたり。園曰はく、「タイラギ、大肉柱一つ、其の廻(まは)りは、鰒魚(あわび)の、膓筋(わたすぢ)を纏へるが如し。其の膓、兒(こ)を生ずるとき、色、赤し。

 

[やぶちゃん注:底本本文は総てに亙って「たいらぎ」の箇所は「タイラキ」の表記であるが、濁音化した。因みに、タイラギについては、私は、かなり多くの記載を今までしてきている。ここでは、一つ、面白い『武蔵石寿「目八譜」 タイラギ磯尻粘着ノモノ』をリンクさせておく。

 「たいらぎ」という和名については、無批判に「平」(たいら)な「貝」を語原と記す記事が多く、流通でも寿司屋でもその捌いてしまった貝柱のみを「平貝(たいらがい)」と呼ぶが、所持する相模貝類同好会一九九七年五月刊の岡本正豊・奥谷喬司著「貝の和名」(相模貝類同好会創立三十周年記念・会報『みたまき』特別号)の「タイラギ」によれば(コンマは読点に代えた)、『直角三角形に近い形の30㎝以上にもなる大型の食用貝。泥深い海底に尖った方を下にして立って生息しているので、漁師はタチガイといい、また貝柱は市場ではタイラガイ(平貝)と呼ばれている。このタイラガイこそ本来あるべきこの種の和名ではないかと思われる。「平ら」という理由は今一つはっきりしないが、この種の地方名にはターラゲー、タイラギャー、タイラゲェ、テェラゲェなどタイラガイの訛りが多い。従ってタイラギガイと言ってはギとガイの重複表現になる』とある。

 さて。これは言うまでもなく、

斧足綱翼形亜綱イガイ目ハボウキガイ科クロタイラギ属タイラギ

であるが、同種については、長く

タイラギ Atrina pectinata Linnaeus, 1758

を原種とし、本邦に棲息する

殻表面に細かい鱗片状突起のある有鱗型

と、

鱗片状突起がなく殻表面の平滑な無鱗型

を、

生息環境の違いによる単なる形態の個体変異

としたり、二種ともに、

Atrina pectinata の亜種

として扱ったりしてきたのであるが、一九九六年、アイソザイム分析の結果、

有鱗型と無鱗型は全くの別種である

ことが明らかとなった(現在、前者は一応、 Atrina lischkeana Clessin,1891に同定されているが、確定的ではない)。加えて、これら二種間の雑種も自然界には一〇%以上は存在することも明らかとなっている(以上は、所持する図鑑類やウィキの「タイラギ」その他を参照した)ため、日本産タイラギ数種(中国産では、現在、四つの型が存在することが判っている)の学名は早急な修正が迫られている。

「𧍧䗯(カンシン)」ネット最強の漢和辞典「漢字林」の「虫部」の「𧍧」には、『ハマグリ(蛤)やシオフキガイ(潮吹貝)などに似た二枚貝で平(ひら)たく毛があるという、「【康熙字典:申集中:虫部:𧍧】《𨻰藏器曰》生東海似蛤而扁有毛或作螊」』とある(「䗯」も同じことが記されてある)。これでは、タイラギには、到底、限定出来ぬ。例えば、寺島良安の「和漢三才圖會 卷第四十七 介貝部」の「あこやがひ」の項には、この「𧍧䗯」が標題漢字として堂々と掲げられちゃっているんである(同リンク先はユニコード以前の古い電子化であるので、「𧍧䗯」の漢字が表示されていない。検索は「あこやがひ」でお願いする)。

「水土記」早稲田大学図書館「古典総合データベース」の元末明初の学者陶宗儀の纂になる佚文集成「説郛」の巻第六十二に載る宋の趙朴撰の「臨海水土記」を見たが、載らず、検索でもそれらしいものがない。一つ、「中國哲學書電子化計劃」で、明の方以智撰の語学書「通雅」の中に(影印本で起こした)、

   *

「海物異名記」、密丁魁蛤之子也。「興化志」、有空豸朗晃形厚脣黑智、在閩中、見有圓蛤號曰銅丁者、正是。其類、今俗呼異名耳蝏䗒馬刀、細長蛤也。𧍧䗯、扁蛤也。陳藏器曰、扁而多毛如淡菜類、擔羅新羅之蛤也。

   *

という記載を見つけた(句読点は私があてずっぽで附した)。或いは、この記載を梅園は目にし、「海物異名記」を「臨海水土記」と誤ったのではないかとも思った。しかし、この陳蔵器の「多毛如淡菜類」というのは、タイラギではなく、イガイ類にこそふさわしい解説に見える。

「嘉祐」「嘉祐本草」。北宋の嘉祐二(一五七)年に「開宝重定本草」に基づいて、編纂された本草書。

「𧌊」漢語。確かに本字を本邦では「たいらぎ」と訓じているが、中国でこれをタイラギに当てているかどうかは、「康熙字典」の「虫部」第八に『𧌊。「集韻」、『四夜切、音䣃。與蝑同。「類篇」、蟹醢。或作蛤𧌋』とあって、タイラギかどうかは甚だ怪しい。

『「江瑤玉珧」を以つて、「たいらぎ」と訓ず』「江」を「海の静かな入り江」でとり、「瑤」は「玉」とともに「美しい宝石」であり、「玉珧」或いは「珧」で、辞書類がタイラギと訓じ、「刀や弓の装飾に用いる貝の殻」とする。なお、現代中国語では、大陸では「櫛江珧」、台湾では「牛角江珧蛤」と呼ぶ。

「海月(かいげつ)」本邦の辞書類にタイラギの別名とする。タイラギの殻の内面には、微かな真珠光沢がある。「海鏡」もそれを指すと思われる。貝殻の面が黒く、それを「月」に、内側のそれを「日」とするものか。

『此の者、則ち、「日月貝(じつげつがひ)」なり。皆、別種なり』これはやや、意味が読み取り難いが、『「日月貝」或いは「月日貝(つきひがい)」に類した呼称の貝の名が複数の貝種の名として与えられているが、これらは、皆、全く、異なった別種にその名を勝手に与えているのである』という謂いと私はとる。例えば、非常に美しい、左殻は赤褐色、右殻は黄色みを帯びた白というハイブリッドで「日」と「月」を持つところの、斧足綱翼形亜綱カキ目イタヤガイ亜目イタヤガイ科ツキヒガイ亜科ツキヒガイ属ツキヒガイ Ylistrum japonicum がそれである。ご存知ない方は「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページの画像を見られたい。なお、そこで、ぼうずコンニャク氏は、『個人的には、左殻と右殻の外面でついた呼び名だというが、内側を重ねて』、『月の月齢を表して遊んだのではないかと思う事がある』とされ、そうした写真も載せておられる。私ははなはだ感動したし、その語原説を指示したいと強く感じた

『一種、別に「いたら貝」と云ふ者、之れ、有り。肉の柱(はしら)、同じくして、異(い)なり』当初は、さんざん梅園が描いてきた、

斧足綱翼形亜綱イタヤガイ目イタヤガイ上科イタヤガイ科イタヤガイ属イタヤガイ Pecten albicans

の訛りだろうとのみ思っていたが、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」で「イタラガイ」で検索すると、他に、現行異名として、ここの、

イタヤガイ科カミオニシキ亜科エゾギンチャク属エゾギンチャク Swiftopecten swiftii

及び、ここの、

カミオニシキ亜科カミオニシキ属カミオニシキ

の異名として挙がっていた。

「甲午十二月十三日」天保五年。グレゴリオ暦では一八三五年一月十一日。

「納眞寫(をさめしんしや)」その年の最後の写生という意味で、似たような言い方は前で複数出現している。但し、この三字の語では初めてで、「をさめの」と呼んだ方がいいかも知れない。それにしても、この年は、年末に何か仕事があったものか(梅園は幕臣旗本で書院番・御小姓組を勤めた)、やけに早い(この年の当月は大の月(三十日まで)だから、大晦日まで十七日もある。

「宛委餘編」明の官僚王世貞の撰になる論考。

『本邦、「瑊璡」或いは「𧌊」を以つて「たいらぎ」とす。誤りなるべし』以上の検証から私もそう思う。

『「大和本草」に『たいらぎ、四肉柱、なし。』と。是れ、審らかに察せざるなり』私の「大和本草附錄巻之二 介類 玉珧 (タイラギ或いはカガミガイ)」にある、『タイラギハ只肉牙一柱耳』を勝手に書き変えたんだな、と思ったら、これ、実は梅園、「大和本草」に直に当たったのではなく、以下の『松岡翁「介品」』にある松岡の考証部をそのまま抜き書きしていることが判明。ちょっとどころか、大いに鼻白んだ。なお、リンク先の最後で注したが、そもそもが二枚貝には四つも貝柱のある種は、無論、ない。要は、貝を片方の殻に添ってすっぱり開いた結果の見た目として、四つと言っている初歩的な非科学的な誤認である。タイラギには勿論、二基の「貝柱」=閉殻筋がちゃんとあるのである。ただ、前閉殻筋の方は殻頂近くにあって、ごく小さいのに対し、後閉殻筋は殻の中央部にデン! とあり、大型個体では直径五センチメートル以上に達する。片殻の内側に包丁を綺麗に入れて削ぎ切れば、閉殻筋は殆んど跡を残すこともなく、一本に見えるというわけである。さすれば、以下の『松岡翁「介品」』の謂いも、納得されるものと存ずる。

『松岡翁「介品」』梅園よりも前代の儒学者で本草学者の松岡恕庵(じょあん 寛文八(一六六八)年~延享三(一七四六)年:京生まれ。恕庵は通称で、名は玄達、号は怡顔斎(いがんさい)など。門弟に、かの小野蘭山がいる)が動植物・鉱物を九種の品目(桜品・梅品・蘭品・竹品・菓品・菜品・菌品・介品・石品)に分けて叙述した本草書「怡顔斎何品」の一つ。彼の遺稿を子息と門人が編集したもの。早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらの上巻の一括PDF版の「25」コマ目から。当該部は「26」コマ目の六行目以下。梅園の剽窃、またしても、見破れたり!

「其の膓、兒(こ)を生ずるとき、色、赤し」これは♀の場合である。因みに、内臓は新鮮なものを蒸し焼きにすると、実は非常に美味いことを知っている人は少ない。]

2022/08/12

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類  鶉貝(ウヅラガイ) / ウズラガイ

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングし、一部をマスキングした。これと前の「蓼螺」についての附記があるので、両方にそれを残した。電子化は前の「蓼螺」でのみ行ったので、そちらを見られたい。]

 

鶉貝(うづらがい)

 

Uzuragai_20220812171301

 

[やぶちゃん注:前にはさんざん停滞させられたが、今度は、すんなり、あっさり、正真正銘の完品の、

石畳状の美しいウズラガイ(前鰓亜綱盤足目ヤツシロガイ超科ヤツシロガイ科ウズラガイ属ウズラガイ Tonna perdix

である。]

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類  蓼螺・小辛螺・辢螺・ニガニシ・カラニシ・長ニシ・ニシ・ヘタナリ・ツベタ・巻ニシ・夜ナキボラ/ ナガニシ

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングし、一部をマスキングした。これと次の「鶉貝(ウヅラガイ)」についての附記があるので、両方にそれを残した。電子化はこちらでのみする。]

 

蓼螺(れうら)【「綱目」。】 辢螺(らつら)【「寧波府志」。】

小辛螺(にし)【「和名抄」。「にがにし」・「からにし」・「長にし」・「にし」。】

 「へなたり」

 「つべた」

 「巻にし」【備後。】

 「夜なきぼら」

 

Henatari

 

按ずるに、「つべた」は「酥螺(そら)」にして、狀(かたち)、蝸牛(かたつむり)に似て、此の者に非(あら)ず。

 

二種、倉橋氏、藏。

乙未(きのとひつじ)八月廿四日、乞ひ借りて、眞寫す。

 

[やぶちゃん注:異名を十一も挙げているが、挙げておいて、否定するのは、どうかと思うね。どこの地方名かも示していないし。江戸かね? 閑話休題。これは、もう、『毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 長螺 / ナガニシ或いはコナガニシ』の時のような虞れを抱くことなく、縦肋がしっかり肩で角張っていて、前管もにょっぽり出てるから、すっきりと、

腹足綱新腹足目エゾバイ上科イトマキボラ科ナガニシ亜科ナガニシ属ナガニシ Fusinus perplexus

としてよいだろう。

「蓼螺【「綱目」。】(現代仮名遣「りょうら」)は本邦の近世の絶対的博物書のチャンピオン、明の李時珍の「本草綱目」の巻四十六の「介之二」の「蓼蠃」の項(以下に見る通り、「螺」と「蠃」は同義字)。「漢籍リポジトリ」のこちらの、[108-33b]の影印本画像で見られたい。

   *

蓼蠃(れうら)【「拾遺」。】

集解【藏器曰はく、『蓼螺は永嘉(えいか)の海中に生ず。味、辛辣にして蓼(たで)のごとし。』と。時珍曰はく、『按ずるに、「韻㑹(いんくわい)」云はく、『蓼螺は紫色にして斑文(はんもん)有り。今、寧波より泥螺(でいら)を出だす。狀(かたち)、蠶豆(そらまめ)のごとし。海錯(かいさく)に代(か)へ充(あ)つべし。』と。』と。】

肉 氣味 辛・平にして、毒、無し。

主治 飛尸(ひし)・遊蠱(いうこ)。生(なま)にて之れを食ふとき、浸すに、薑醋(しやうがず)を以つてして、彌(いよいよ)佳なり【藏器。】。

   *

「永嘉」は浙江省温州市永嘉県(グーグル・マップ・データ)。「海錯」本来は「夥しい海産物」を指すが、ここは代表的海産(食)物の一つの意であろう。「飛尸」前触れなしの気絶・卒倒の症状を指す。「遊蠱」疾患名であるが、不詳。さても、ここでそろそろ提示した方がいいのが、「大和本草卷之十四 水蟲 介類 蓼蠃」である。そちらの注で述べた通り、この「蓼蠃」=「辛螺」=「にし」というのは、外套腔から浸出する粘液が辛味(苦味)を持っている腹足類のニシ類を指す語であるが、辛味を持たない種にも宛てられている科を越えた広汎通称で、

直腹足亜綱 Apogastropoda 下綱新生腹足上目吸腔目高腹足亜目新腹足下目アッキガイ上科アッキガイ科アカニシ(赤辛螺)Rapana venosa

吸腔目テングニシ科テングニシ(天狗辛螺)Hemifusus tuba

等を含むが、特に

腹足目イトマキボラ科 Fusinus 属ナガニシ(長辛螺)Fusinus perplexus

及び、実際に強い苦辛味を持つ

腹足綱直腹足亜綱新生腹足上目吸腔目高腹足亜目新腹足下目アッキガイ上科アッキガイ科レイシガイ亜科レイシガイ属イボニシ(疣辛螺)Thais clavigera

を指すことが割合に多いように思われる、と述べたからである。

「辢螺」複数の「肉が辛い巻貝」を示す総称語である。

「寧波府志」明の張時徹らの撰になる浙江省寧波府の地誌。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の原本画像のPDFで当該巻を含む三巻分一冊の「卷之十二 物產」の「鱗之屬」の冒頭から58コマ目の左丁三行目に「辣螺」とある。字が違うが、意味は同じでる。

「小辛螺」「和名抄」源順(みなもとのしたごう)の「和名類聚抄」の巻第一九の「鱗介部第三十」「龜貝類第二百三十八」の「小辛螺(にし)」(「にし」は三字に対する読みとして振られてある)。国立国会図書館デジタルコレクションの寛文七(一六六七)年板本の当該部で訓読する。

   *

小辛螺(にし) 七巻「食經」に云はく、『小辛螺【和名「仁之」。】、「楊氏漢語抄」に云はく、『蓼螺子』と。』と。

   *

「にがにし」「苦螺」。実際、「辛み」に加えて「苦み」を感じるものも、ナガニシ及びその近縁種には、かなりある。その味の印象が強いために、辛くも苦くもない種も含めた広義のニシ類に対しても「辛螺」を当てて総称した歴史がある。但し、最近は貝を表わすのに漢字をめっきり見なくなったため、「辛螺」を「ニシ」と読める若者は激減したように思われる。

「へたなり」前回の「長螺」でも注したが、古え、数種の香料を練り合わせて作る練り香の素材の一つとして、一部の巻貝の蓋(蒂(へた))が好んで用いられ、それを一般名詞で「甲香(へなたり)」と呼んだが、ニシ類は特に好まれた。「大和本草卷之十四 水蟲 介類 甲貝(テングニシ)」の私の注を参照されたい。

「つべた」『按ずるに、「つべた」は「酥螺(そら)」にして、狀(かたち)、蝸牛(かたつむり)に似て、此の者に非(あら)ず』「つべた」は、腹足綱直腹足亜綱新生腹足上目吸腔目高腹足亜目タマキビガイ下目タマガイ上科タマガイ科ツメタガイ属ツメタガイ Glossaulax didyma 及び、その近縁種を指す。私の『武蔵石寿「目八譜」 ツメタガイ類』を参照されたい。「酥螺」の「酥」は「バター」の意の他に、「食べ物などがぼろぼろに砕けやすい、さくさくとして柔らかい、口に入れるとすぐとける」という意があるが、ここは殻の色からバターの意味か。ツメタガイは熱を加えると、身は固く締まって、柔らかくない。私は小学二年生の夏の終わり、台風一過の由比ガ浜でバケツ二杯分の多量の貝を拾ったが、材木座に実家で、それを茹でて一族内揃って大食した。個人的には歯応えのある食べ物が好きな私は、ツメタガイを最も美味く感じ、あらかたを私一人で食べ尽くした。茹で身で、有に丼二杯はあったと思う。翌日、腹を壊した。それ以来、二十八年間、食べていない。そろそろ食べようかと思っている。

「巻にし」「備後」小野蘭山述の「重訂本草綱目啓蒙」の「巻之四十二」の「蓼螺」の項に(国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像の当該部で起こし、訓読した)、

   *

蓼螺 にし・ながにし・にがにし・からにし・まきにし【備後。】・よなき【「大和本草」。】・かうかひ【筑前肥前。】・うみとり【「本朝食鑑」。】・「よなき螺」【同上。】・うしがひ【防州。】。一名、「辣螺」【「蟹譜」・「寧波府志」。】。

海中に生ず。形、玉-螺(ばい)より大にして、その流(れう)[やぶちゃん注:殻高を言うか。]、更に長し。外(ほか)に、短き黑褐の毛、あり。肉は紅螺に似て、味、美なり。腸(わた)は至つて辛辣、厴(へた)は玉螺の厴の如し。藥舖(やくほ/くすりみせ)に、采(と)りて、甲香(かふかう)とす。その爛殼の毛、已に脫落し、淺黃紅色となる。此の物を「よなき介(がひ)」と云ふは、俗、稱して、『小兒の夜啼き、止まざれば、一箇を採り、兒(こ)の枕邊(まくらべ)に置き、誓ひて曰はく、「兒の夜啼き、治(をさ)まざれば、則ち、殻を破り、肉を抜拔き、野に棄つ。若(も)し、之れ、治まれば、則ち、江海に放つ、」と。是に於いて、夜啼き、必ず止む。』と。一種、形、小さく、流、短く、色、白くして、粗(あらあら)黑く、疣(いぼ)、相ひ連なる者を、「いわにし」と云ふ。一名、「いはかた」【防州。】、「ほうほうにし」【備前。】、「ほうじにし」【同上。】、「からにし」【土州。】、此の外、品類、多し。

   *

とある。「夜なきぼら」は以上で注の必要がなくなった。なお、所持する江戸前中期の医師で本草学者であった人見必大(ひとみひつだい 寛永一九(一六四二)年頃?~元禄一四(一七〇一)年:本姓は小野、名は正竹。父は四代将軍徳川家綱の幼少期の侍医を務めた人見元徳(玄徳)、兄友元も著名な儒学者であった)が元禄一〇(一六九七)年に刊行した本邦最初の本格的食物本草書「本朝食鑑」の「蓼螺」にも、「マキニシ【備後。】」とあったので、非常に古くからの呼称として知られていたことが判った。

「倉橋氏」既出既注であるが、再掲すると、本カテゴリで最初に電子化した『カテゴリ 毛利梅園「梅園介譜」 始動 / 鸚鵡螺』に出る、梅園にオウムガイの殻を見せて呉れた「倉橋尚勝」であるが、彼は梅園の同僚で幕臣(百俵・御書院番)である(国立国会図書館デジタルコレクションの磯野直秀先生の論文「『梅園図譜』とその周辺」PDF)を見られたい。

「乙未八月廿四日」天保六年で、グレゴリ曆一八三五年十月十五日。]

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 荷苞貝(キンチヤクカイ)二種 / キンチャクガイとウチムラサキ

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングし、一部をマスキングした。]

 

荷苞貝

きんちやくがい

 

Kintyakugai

 

二種。

甲午(きのえうま)十月朔日(ついたち)、芝蝦(しばえび)の中に交じれるを得、眞寫す。

 

[やぶちゃん注:上方の個体は確かに、

斧足綱翼形亜綱ウグイスガイ目イタヤガイ超科イタヤガイ科キンチャクガイ属キンチャクガイ Decatopecten striatus

としてよいだろう。小学館「日本大百科全書」の奥谷喬司先生の記載によれば、『太平洋側は房総半島、日本海側では能登』『半島以南から九州まで、また朝鮮半島、中国沿岸にも分布し、潮間帯下から水深50メートルぐらいの砂底にすむ。殻高45ミリメートル、殻長50ミリメートル、殻幅20ミリメートルぐらい。殻は厚手で堅固、殻表には太くて低い5本の放射肋』『があり、形が巾着に似ている。太い放射肋の上には微細な放射肋もあり、また通常は、成長の滞ったところで段がついている。殻表は白から赤褐色、さらには濃紫黒色のものまであり、大きなまだら模様になっているのが普通である』とある。

 しかし、下方の個体はあらゆる点で、キンチャクガイではない。これは、前背縁が、急激に鋭角で下がっているのがやや気になるが、殻表面の激しく粗い成長輪脈とその色彩から、所謂、通称「大浅利」(おおあさり)で知られる、

斧足綱異歯亜綱マルスダレガイ目マルスダレガイ科 Saxidomus 属ウチムラサキ Saxidomus purpurata

ではないかと判じた。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページ、及び、サイト「旬の食材百科」の同種のページの画像、特にこれを見られると、私がそう同定したくなる気持ちが判って頂けるものと思う。こっちは前者が女性用の可愛い「巾着」に似ているのに比して、寧ろ、守銭奴の持つ金口(かねぐち)パッチンの無粋な「蝦蟇口」(がまぐち)って感じだが。

「荷苞貝」ちょっと中国語っぽい。「荷苞」は、中国や朝鮮半島に自生する、個性的なハートに雫をつけたような形の花で知られる「華鬘草」、キンポウゲ目ケシ科ケマンソウ亜科ケマンソウ属ケマンソウ Lamprocapnos spectabilis の花に擬えたものではあるまいか。現代中国語では「荷包牡丹」「荷包花」と書くからである。

「甲午十月朔日」天保五年十月一日は、グレゴリオ暦一八三四年十月一日。

「芝蝦」現行の標準和名では、内湾の泥底に好んで棲息するクルマエビ科ヨシエビ属シバエビ Metapenaeus joyneri である。この和名は、嘗つて、江戸の芝浦で多く漁獲されたことに由来する。]

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 曲貝・マガリ・沙蠶・ジイカセナカ / 固着性ゴカイの虫体

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングし、一部をマスキングした。]

 

Magari

 

「百介圖」

    曲貝【「マガリ」。】

「福州府志」

    沙蠶

     「じいがせなか」

          佐渡。

 

          同年十月二日、眞寫。

 

「大和本草」曰はく、『其の貝、蠣に類す。』と。予、自(みづか)ら、之れを、石决明(あわび)の貝の裏より、得る。則ち、之れを取り、同年九月廿六日、眞寫す。石决明の貝にも、多くは付かず、まれに、之れ、有る。貝の内の肉は、「ごかい」の虫に似て、足、多し。色も相(あひ)同じ。

 

[やぶちゃん注:この解説には、多くの問題(錯誤・誤認)があり、まず、それらを除去しないと、話が進まない。まず、「百介圖」(複数回既出既注。こちらを参照されたい。現物はネット上には見当たらない)を出典とする「曲貝」及び「マガリ」と異名する対象物であるが、これは、解説でそれを受けた形で、貝原益軒の「大和本草」を挙げていることから、これは「大和本草」の「マガリ」と同一物であると梅園が判断していることが判る。而して、それは「大和本草諸品圖下 子安貝・海扇・マガリ・紅蛤 (ヤツシロガイ或いはウズラガイ・イタヤガイ・オオヘビガイ・ベニガイ)」(私の電子化注)であることが判然とする。その図の左丁の上段の「マガリ」である。そこで益軒は(原文を私が訓読したもののみを示す)、

   *

まがり 蠣(かき〕の類。海邊の岩に付きて生ず。其の殻、屈曲す。肉、其の中に在り。味、頗る好し。其の漢名、未だ知らず。

   *

とあり、私はそれを、図と解説文から、

   *

「マガリ」は、「蠣(かき)の類」とするが、誤りで(不定形で、そう捉えた気持ちは判る)、この「マガリ」という名と図と「屈曲す」とあることから、

腹足綱直腹足亜綱新生腹足上目吸腔目ムカデガイ科オオヘビガイ属オオヘビガイ Serpulorbis imbricatus

である。(以下略)

   *

と同定した。これは誰もが納得戴けるはずである。因みに、「マガリ」は同種の古名で、現在でも異名として通用している。そして、無論、ここで梅園が図示したものが、オオヘビガイなんぞではないことも明らかであろう。まず、オオヘビガイは、日和見的に大型化した貝類の殻に附着することはあるかも知れぬが、図鑑類では、潮間帯の岩礁に附着して棲息する。因みに形状が同じくクネクネした全くの別種である、吸腔目カニモリガイ上科ミミズガイ Tenagodus cumingii を想起される方がいるかも知れぬが、同種は棲息場所が特異的限定的で、干潮線下のカイメン類の中に埋もれて群生するから、お話にならないのである(尤も、本種もカキの殻に付いたカイメン中に棲息するケースはある。実際に見つけたこともある)。というより、オオヘビガイもミミズガイもその軟体部はこんな色をしていないし、梅園の『貝の内の肉は、「ごかい」の虫に似て、足、多し』という観察とは全く一致しないから、二種ともに――「退場」――となるのである。

 則ち、梅園は、「大和本草」のそれを、無批判に採用して、本種を「貝」の「カキ」の仲間である、とやらかしてしまったのである。

 そればかりか、梅園は、やらんでいいものを、「佐渡」の地方異名として、ここに「じいがせなか」と添えてしまったのである。この「じいがせなか」は貝類が好きな小学生なら、即座にこの異名を以って確かにそれを正確に言い当てるであろう。それは、

多板綱 Polyplacophora の背面に一列に並んだ八枚の殻板を持ったヒザラガイ(多板)類(標準和名としてはタイプ種である多板綱新ヒザラガイ目ウスヒザラガイ亜目クサズリガイ科ヒザラガイ属ヒザラガイ Acanthopleura japonica に当てられている)

「火皿貝」(一説に、こちらの表記のそれは近代初期の貝類研究家として知られる平瀬與一郎の命名とされ、「煤けた火皿」に似ていることからという)「膝皿貝」(こちらは剥がした際の腹側に湾曲する状態を膝蓋骨(所謂、「膝の皿」)に見立てたという)「石鼈貝」(中国由来と思われ、形がスッポンに似ているからである。現代中国語でも「多板綱」は別に「石鱉綱」である。「鱉」は「鼈」の異体字)彼らを附着している岩や石から剥がすと、丸まる習性があり、その時の丸まったそれから、「爺が背」という異名を持ったのである、因みに、本邦には超深海産も含め、約百種が棲息するが、海浜の岩礁や転石水域に見られるものは二十種ほどである。なお、佐渡でヒザラガイの地方名として「じいがせ」が現在も使われていることは、lllo氏のブログ「ガシマ しなしなやります佐渡ヶ島ホトダイアリ」の「アメ(ジイガセゴウ)(あめ)」で確認出来る。それによれば、『佐渡の沿岸にも普通にみられ、時には食用にされることもある。岩から剥がすと、腹側の方に曲がるので「爺が背」の名が付けられた。アメ(阿女)という呼び名は現在用いられていないが、ジイガセは、使われている。ジイガセゴウの名は、『佐渡州物産』(または『佐渡産物志』『佐州圖』など)、江戸中期享保年間に編纂された『諸国産物帳』の一つや、栗本丹洲の表わした『千蟲譜』文化八年(一八一一)に載せられている。ゴウは蜈蚣(ムカデ)に似ていることに由来する。』とある。「ゴウ」も解明したところで、これも――「退場」――して頂く。

 さて。ここで、退場させなかった部分のみを以下に示すと、

   *

「福州府志」

    沙蠶

          同年十月二日、眞寫。

予、自(みづか)ら、之れを、石决明(あわび)の貝の裏より、得る。則ち、之れを取り、同年九月廿六日、眞寫す。石决明の貝にも、多くは付かず、まれに、之れ、有る。貝の内の肉は、「ごかい」の虫に似て、足、多し。色も相(あひ)同じ。

   *

となって、いかにもすっきりしてきたじゃないか! 焦らずに、まずは語注を示すと、

・「福州府志」複数回既出既注。清の乾隆帝の代に刊行された福建省の地誌。巻之二十六に出る。「中國哲學書電子化計劃」の乾隆本の影印本で電子化すると、

   *

沙蚕【似土筍而長。「閩書」、『生海沙中如蚯蚓。」。】 土鑽【似沙蚕而長。】

   *

とある。「沙蠶(沙蚕)」は、ここでは、

環形動物門多毛綱サシバゴカイ目ゴカイ超科ゴカイ科 Nereididae ゴカイ類或いはそれに形状が似た概ね、環形動物門 Annelida に属する各種の総称

であり、「土筍」(どじゅん)は環形動物門の星口(ほしくち)動物 Sipuncula(嘗ては星口動物門Sipunculaとして独立させていた)の一種(複数種)で、中でも特に、中国などで現在も好んで食用とされている、サメハダホシムシ綱サメハダホシムシ目サメハダホシムシ科サメハダホシムシ属(漢名:「土筍」或いは「可口革囊星蟲」)Phascolosoma esculenta を代表種としてよい。詳しくは、『畔田翠山「水族志」 (二四七) ナマコ』の注を参照されたい。「閩書」は明の何喬遠撰になる福建省の地誌「閩書南産志」の略である(これも複数回既出既注)。「土鑽」(どさん)」は同じくゴカイの仲間か、或いは、環形動物の一種と思われる。「鑽」は「穿(うが)つ・掘る」で、海底或いは潮間帯の泥土に穴を穿って住むの謂いであるからである。

・「同年十月二日」前からの続きで、これは天保五年のその日で、グレゴリオ暦一八三四年十一月二日。図の内の右側の二個体の写生日ということであろう。

・「石决明(あわび)」腹足綱原始腹足目ミミガイ科アワビ属 Haliotis に属する種の総称。国産九種でも食用種のクロアワビ Haliotis discus discus ・メガイアワビ Haliotis gigantea ・マダカアワビ Haliotis madaka ・エゾアワビ Haliotis discus hannai (クロアワビの北方亜種であるが同一種説もあり)・トコブシHaliotis diversicolor aquatilis ・ミミガイ Haliotis asinina までを挙げておけば、まずは、よかろう。詳しくは、私の寺島良安の「和漢三才圖會 卷第四十七 介貝部」の冒頭にある「鰒(あはひ)」、及び貝原益軒の「大和本草卷之十四 水蟲 介類 石決明 (アワビ)」を参照されたい。なお、彼はこの前年と、この年の二月にアワビを写生している。『毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 石决明雌貝(アワビノメガイ)・石决明雄貝(アワビノヲカイ) / クロアワビの個体変異の著しい二個体 或いは メガイアワビとクロアワビ 或いは メガタワビとマダカアワビ』を見られたい。

・「裏」は「うち」と訓ずるべきであろう。恐らくは生貝の、「アワビの殻表面から」の意である。

・「同年九月廿六日」グレゴリオ暦一八三四年十月二十八日で、先の二個体を描くより先の、三日前に当たる。思うに、梅園は、この日に魚屋からアワビの生貝を入手し、それを観察するために、海水にアワビを入れておいたものかと推測する。

・「貝の内の肉は」「貝」は梅園がこれを「貝」だと思い込んでいるためからこう言ったのであって、則ち、この図に描いた三体の赤い生物は、アワビの殻に表面に穴を穿って棲んでいたか、或いは自身が形成した「棲管」の中にいたことが判明するのである。

 さて。遂に、この奇体な三個体の生物の正体が見えてきた。それは『「ごかい」の虫に似て』おり、『足』も『多』くあり、その『色も相(あひ)同じ』=「ゴカイにそっくりだ」と言っているのである。いやいや、梅園先生、そりゃ、似て非なるものじゃなくて、広い意味で、ゴカイの仲間なんだと思うよ!

 結論に入る。これらは、無論、「蛤蚌類」ならぬ、貝類に固着して棲息するゴカイ類である、

環形動物門多毛綱ケヤリムシ(毛槍虫)目ケヤリムシ科 Sabellidae・カンザシゴカイ科 Serpulidae・ウズマキゴカイ科 Spirorbidaeの中の一種或いは二種或いは三種

であろう。種まで同定したいが、私はゴカイ類のこうした固着性ゴカイの虫生体の様態や体色を殆んど見たことがないので、これ以上は不可能である。但し、カキ養殖関係の論文を見ると、ウズマキゴカイ属ウズマキゴカイ Neodexiospira foraminosa の附着による害の報告が散見された。少なくともウズマキゴカイの頭部の鰓糸からなる鰓冠は赤い個体がいる。

 なお、実は、当初は早合点して、同じ固着性ゴカイの、色も毒々しい紅色の、

カンザシゴカイ科 Hydroides 属カサネカンザシ Hydroides elegans

を考えたのだが、当該ウィキによれば(太字は私が附した)、『カサネカンザシは、外来種で』、『日本では』、大正一七(一九二八)年の『和歌山県の標本が最も古い記録であり、オーストラリアからの船体付着やバラスト水によって導入されたと考えられる』。一九七〇『年代には太平洋沿岸に』、一九八〇『年代には日本海沿岸に拡散し、現在では本州から南西諸島のほぼ全域に定着している』。『瀬戸内海では』一九六九『年から』一九七〇『年代初めにかけて養殖カキに本種が異常に密生したことがあり、こうした貝類・網・ブイの被害額は数十億円に達』した。『また、発電所や工場などの取水施設に大量に付着し、汚損被害を発生させる。『同様の被害を発生させる近縁種にはカニヤドリカンザシがいる』。『また、貝類のムラサキイガイやミドリイガイ、タテジマフジツボなども、日本各地の湾岸を脅かす厄介な外来種である』。『外来生物法により要注意外来生物に指定されており、日本の侵略的外来種ワースト』百『にも選ばれている』とあったので、違うことを言い添えておく。]

2022/08/11

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 サルノフグリ / トマヤガイ或いはその近縁種

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングし、一部をマスキングした。この丁の内、左下方の固着性ゴカイ類を除き、ここまでの四個体は、今まで同様、梅園の親しい町医師和田氏(詳細不詳)のコレクションからである。その記載はここで以下に電子化した。]

 

Sarunohugusi

 

「さるのふぐり」

 

 

右、四種、和田氏藏。

   同九月廿五日、眞寫す。以上。

   都合、百五種。

 

[やぶちゃん注:「サルノフグリ」とは植物の「オオイヌフグリ」と同じく、「猿の陰嚢」=「猿の睾丸」=「猿のきんたま」の意である。而して調べてみたところ、「尼崎市」公式サイト内にあった尼崎の海の環境調査結果PDF)の享保二〇(一七三五)年に成った『「尼崎産魚」に記載された魚介類』の八十二種の「71」種目に確かに『サルノフグリ』があるのに快哉を叫んだ(直前は『サクラカイ』で、後には『ガウハギ』と『ヲニヒトデ』が続く。「ヲニヒトデ」は現在の「オニヒトデ」ではなく、種同定は出来ないが、大型のヒトデの異名であろう)。

 これに力を得て、同定に取り掛かった。まず、右脇のデータの中の「四種」とは、前の「長螺」と「茶入貝」とこの二個体の「四種」の意ととって間違いない。しかし、今までも、同じ種二個体を「二種」と表現することを梅園は普通にやっている。従って、私は標題のみを間に挟んで何も解説を書いていない以上、梅園は、この二個体を同一種或いは類似種と判断して描いたと考えてよい。

 そこで、よく見てみると、大きさは違うが、この――いかにも不定形なガタガタの外縁部の形状が――この左右の個体で――細部に亙って――驚くべき相同性を示している――ことに気づくのである。

 そうして、同一と思われる種を描く場合、梅園は、なるべく向きを変えて描いていたことを考えると、これは、或いは、

全体に斑点が打たれて紋様を描いていると思われる右個体が「殻の面」

であり、

周縁内側部分が白くて中にサイケデリックに見える多色が入れてあるのが「同一種のやや大きな殻の内側」

を描いたものであり、恐らくは貝殻の内側の中央部分が、海藻や異物によって、かく汚損しているのだ、と考えよいように私には思われるのである。

 さて。こんなに不定形なブサイクな貝がいるだろうかってか?

 これが、いるのだ!

 私は、その独特の形から、直感的に気づいていた! これは、多分、間違いなく、

軟体動物門二枚貝綱マルスダレガイ目トマヤガイ超科トヤマガイ科トマヤガイ属トヤマガイ Cardita leana

或いは、その近縁種である。全体は多くの図鑑やネット記載では「ほぼ長方形」と言っているが、実物を見ると、もっとガタガタして見える。それは殻表面に非常に強い太い密着した放射肋が発達しており(十五条内外)、その結果として、全体に微妙な捩じれが生じているからである。「千葉の県立博物館 デジタルミュージアム」のこちらの写真を見られたい。放射肋が内壁にも影響を与えて、赤茶けているのが見えるぜ! ヒャッホー! 個人的には私は「ブサカワ」の癖に侘びた「苫屋貝」の名にし負うこいつが、結構、実は、好きなのである。「サルノフグリ」も言い得て妙だぜ!

「同九月廿五日」前からの続きで、これは天保五年のその日で、グレゴリオ暦一八三四年十月二十七日となる。]

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 茶入貝 / イモガイ類の稚貝

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。この丁の内、左下方の固着性ゴカイ類を除き、四個体は、今まで同様、梅園の親しい町医師和田氏(詳細不詳)のコレクションからである。その記載はここに電子化した。]

 

茶入貝

 

Tyairegai

 

[やぶちゃん注:形状から、

腹足綱新腹足目イモガイ科イモガイ亜科イモガイ属 Conus

の稚貝と見てよいだろう(大きければ、特異な形状から、もう少し大きく描くはずである)。若干、外口部がアーチ状に見えるのは、中央部に欠損があるのかも知れない。イモガイの類は稚貝でも既に、貝殻表面に成体と同じ模様を形成するものが多いから、これも目立った模様を持たない単色で黄白色を呈し、螺塔が低く潰れている種を挙げるならば(一応、当時の本邦の本土に限って考えると)、

イモガイ属ヤセイモ Conus (Virgiconus) emaciatus

   同属ロウソクガイ Conus (Virgiconus) quercinus

の二種が考えられようか。

「茶入貝」現行ではこの名は生き残っていないが、残しておいてよい和名だがなあ。イモよりゃマシだと思うけどな。]

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 長螺 / ナガニシ或いはコナガニシ

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングし、一部をマスキングした。この丁の内、左下方の固着性ゴカイ類を除き、四個体は、今まで同様、梅園の親しい町医師和田氏(詳細不詳)のコレクションからである。その記載はここに電子化した。]

 

長螺

 

Naganisi_20220811121201

 

[やぶちゃん注:名前そのままなら、

腹足綱新腹足目エゾバイ上科イトマキボラ科ナガニシ亜科ナガニシ属ナガニシ Fusinus perplexus

となろうが、全体にスマートで、大成すると、ナガニシは縦肋が肩で角張ってくるから、その比較的若い個体であるか、或いは、形状が酷似するも、大きくはならない、同属の、

ナガニシ属コナガニシ Fusinus ferrugineus

かも知れない。にしても、孰れであっても、前管が短過ぎる感じが否めないので、欠損している可能性が甚だ高い。]

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 尻髙河貝子・腰髙ガンガラ / バテイラ

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。なお、この見開きの丁もまた、梅園の親しい町医師和田氏(詳細不詳)のコレクションからである。その記載はこちらで電子化した。本図を以って当該見開きの絵図は終わっている。]

 

Siritakanina

 

 

「大和本草」に出づ。

    尻髙河貝子 【「腰髙がんがら」・「山も〻」とも呼ぶ。】

    「しりたかにな」。「とうじん」。

 

[やぶちゃん注:これは螺塔を高く描き過ぎているが、

腹足綱前鰓亜綱古腹足目ニシキウズガイ上科リュウテン科クボガイ亜科コシダカガンガラ属バテイラ Omphalius pfeifferi pfeifferi

であろう(馬蹄螺)。実は、この尖塔状態は、バテイラとしては、全く以っておかしいのである。同種は、横から見ると、正三角形に近いからである。貝口をこちらに向けて描いたら、尖塔部はこんな風には逆立ちしても見えないのである。或いは、螺塔を描くためにデフォルメしたと言われるかも知れない。そうかも知れない。しかし、どうも、この描き方には、実は私は、ある疑いを感じているのである。

――彼は本当に和田氏所有の実物を目の前にして、この絵を描いたのでは、ないのではないか?――

という激しい疑問である。それは、梅園が記している「大和本草」にある。私の「大和本草諸品圖下 石ワリ貝・タチ貝・ツベタ貝・シリタカニナ (穿孔貝の一種・タイラギ(図は無視)・ツメタガイ及びその近縁種・バテイラ)」「シリタカミナ」の図(左丁下段。私はバテイラに同定している)を見て戴くと判るのだが、驚くべきことに、異様に似ているのである。蒂(へた)が描いてあるから、違うと言えば違うが、或いは、その開口部を描いておいて、実際には殆んど見えないはずの尖塔部を、「大和本草」のその図を参考に、創作して書き直したのではないかという疑いである。

「腰髙がんがら」は別に、クボガイ亜科クボガイ属コシダカガンガラ Tegula rustica の標準和名に合致するのだが、同種は螺塔がバテイラのようには尖らず、全体に丸みを帯びており、これまた、逆立ちしても、こんな絵にはならないのである(開口部をこちらに向けたら、螺塔は殆んど見えなくなる)。なお、この「コシダカガンガラ」は「腰高岩殻」で、これは「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページ他によれば、本草家で薩摩藩主島津重豪(しげひで)に長く仕えた曽占春(そう せんしゅん:明末に福建から帰化した人の末裔)の著になる貝類書「渚の丹敷(にしき)」(享和三(一八〇三)年自序)によるもので、岩殻(=小石)に似ていることによる。則ち、本図をバテイラでだめだというのであれば、なおのこと、コシダカガンガラでは決してないのである。そもそもが、この「腰高岩殻」というのは、私も好きな広く食用に供する岩礁に棲息する「磯物」と呼ぶ巻貝の昔の総称とした認識した方が正しいのである。

「山も〻」不詳の異名だが、ブナ目ヤマモモ科ヤマモモ属ヤマモモ Morella rubra の、如何にもブツブツとした粒状の突起に覆われた赤褐色の熟した実を、紅藻類などが附着した「磯物」らに名づけたとして、これ、腑に落ちると言える。

「とうじん」不詳。魚の側鰭上目タラ目ソコダラ科トウジン属トウジン Coelorinchus japonicus よろしく、尖った尖塔を鼻の高い西洋人=「唐人」(とうじん)に喩えたか。]

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 米螺(コメニナ) / サラサバイの稚貝か

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。なお、この見開きの丁もまた、梅園の親しい町医師和田氏(詳細不詳)のコレクションからである。その記載はこちらで電子化した。]

 

米螺(こめにな)【一種。】

 

Komenina

 

[やぶちゃん注:「米螺」は底本の右丁に既に出たが、要は微小貝群の総称である。これは色調から、嘗つて、一時、その紅色の色調に美しい更紗模様があるそればかりをビーチ・コーミング時期があった微小貝の、

腹足綱前鰓亜綱古腹足目ニシキウズ超科リュウテンサザエ科サラサバイ属サラサバイPhasianella solida

の稚貝のように私には思われる。]

泉鏡花 怪異と表現法 (談話) 正規表現版 オリジナル注附

 

[やぶちゃん注:これは表現からも判る通り、談話を記者が筆記したものである。底本とした所持する昭和一七(一九四二)年岩波書店刊「鏡花全集」巻二十八によれば、昭和四二(一九六七)年四月というクレジットが載るものの、原ソースが記されていない。なお、加工データとして、加工データとして嘗つて大変お世話になった(私の鏡花の俳句集のこちらのものは、サイト主が贈って下さったものである)サイト「鏡花花鏡」で公開されていたHTML版の本篇(春陽堂版全集底本で総ルビ)を使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。踊り字「〱」は生理的に嫌いなので、正字化した。これは実際、電子化した際に、ユニコードのそれを配しても、気持ちの悪さに変わりはないからである。また、今回は、「Googleブックス」で春陽堂版「きよう花全集 卷十五」をダウン・ロードして参考にした。但し、春陽堂版のルビは談話という性質上、ルビは鏡花が附したものではあり得ず、談話の聴き取り手の編集者が勝手に歴史的仮名遣で附したものと断じ、底本通りで示し、不審な箇所は、注で春陽堂版のルビを参考にして、各段落末の注の中に配して示した。そういう訳で、ルビが殆んどない以上、本篇はPDF縦書版化はしない。但し、底本の九ヶ所のルビと傍点(ここでは太字に代えた)も、読み難いので、恐らくは岩波版編集者が「春陽堂版」を参考に附したものではあろうと推定はする。而して口語で語られた本篇は、寧ろ、現代仮名遣で示す方が原話には相応しいと言えるが、そうしたものは現代の出版物で既に活字化されているから、ここはそれ、底本通りとして電子化し、それらと差別化することとする。なお、幸い、「鏡花花鏡」で公開されていたものとPDF縦書版が、「Geolog Project」のアーカイブで辛うじてネットのこちらに残っているので(私は公開時に保存しているが、そこでは明朝体で、リンク先のゴシックのようには気持ち悪くない)、それを考えれば、なおのこと、縦書版の屋上屋は不要と言えると判断する。]

 

 怪異と表現法

 

 不思議と云ひましても色々ありますが、此處では靈顯、妖怪、幽靈なぞの類に就いて云ふのでありまして、是等のものを文學上に表現致します態度に就て、まあ、お話したいと思ひます。

 不思議を描く。先づ第一に不思議を描くには不思議らしく書いては不可ません。斯うやつてお話してをります中に、疊の中から鬼女の首が出現(あらは)れたなぞと申しましても、あんまり突拍子もなくて凄味もありません。ですから、幽靈を幽靈とし、妖怪を妖怪として書いては怖くない、只何となく不思議のものが出て來て、物を云つたり何かする方が恐しいのです。

[やぶちゃん注:「をります中に」の「中」は「うち」。春陽堂版に従う(以下、断りのないものは同じ)。一方で、「疊の中から」の「中」は「なか」である。]

 其處で幽靈なら幽靈の形を表現(あらは)すのは未だ容易ですが、夫に口を利かせるとなると、サア中々難かしくなつて來ます。何故なら怪異には地方的特色と云ふものがあつて、例へば牛込の化物を京橋へ持つて行けば、工合が惡くなる樣なもんですから、其の時と場所に相當した言葉を使はなければならぬ。是が中々大變です、昔私の故鄕(くに)の某所に、一の橋があつて其處へ每夜貉が化けて出て通行人に時刻を問ひ返事をすると、齒を出してニヤリと笑ふ、と云ふ話がありますが、其時間を問ふ時の言葉は「何時(なんどき)ヤー」と云つて長く引張るのです。其引張る調子が如何にも氣味が惡うござんすが、是を若し巢鴨か早稻田邊の橋の袂で、「君今何時です」と訊かれたつて少毫(ちつと)も恐い事はありません。併し此の場合には、

[やぶちゃん注:「未だ」「まだ」。

「例へば」は春陽堂版では「假令(たと)へば」。

「每夜」「まいよ」。但し、「鏡花花鏡」で公開されていたPDF縦書版では「まいばん」と振り、私はこれが正しいように感じるている。

「貉」「むじな」。]

 註入りの意味 「何時ー」てんですから、東京人にも意味が判りますけれども、或る地方の言葉なぞになると、全く東京人には判らぬのがある。そんな言葉で幽靈が何と云つたつて、東京人には少許(ちつと)も恐(こは)く感ぜられない場合があります。ト云つて「右は何々の意味に侯」と註を入れる譯にも行かないから、どうしても仕方がありません、言葉の難かしいと云ふ例には斯んな話もあります。昔の化猫の話に、猫が鴨居を傳はつて 行つて、鼠を捕らうとして取落したときに「南無三」と云ふ。此「南無三」と云ふ言葉は此場合に一種の凄味があるけれども、若し「しまつた」と云つたら何だか猫が肌脫ぎに向鉢卷でもして居さうで氣が脫けてしまふでせう。

[やぶちゃん注:「難かしい」「難」には「むづ」とルビする。

「化猫」は無論、「ばけねこ」だが、春陽堂版は「猫化」で「ねこばけ」とルビする。]

 あら怨しや 昔の幽靈は紋切形の樣に「あら怨めしや」と云ひますけれども、こんな言葉は近代人の耳には凄くもなんともない。さうかと云つて「チチンプイプイごよの御寶」とも猶更云へず、譯の判らぬ漢語やギリシヤ文字を並べる事ことも固もとより出來できず、全まつたく幽靈いうれいの言葉位厄介ことばぐらゐやくかいなものはありやしません。

[やぶちゃん注:「チチンプイプイごよの御寶」「御寶」は「おたから」と読む。僕らは、母に「ちちんぷいぷい痛いの痛いの飛んでけ!」と言われたものだが、「深川不動堂」公式サイト内の「おまじない!? ~ ちちんぷいぷいのお話 ~」には、『古くは』これは、『ちちんぷいぷい御代(ゴヨ)の御宝(オンタカラ)』と言ったとあり、『この語源には諸説ありますが、江戸幕府三代将軍徳川家光公の乳母である春日局と関係があるという説があります』。『幼少の頃、泣き虫であった家光公に春日局が「知仁武勇は御代の御宝(ちじんぶゆうはごよのおんたから)」と云いました』。『則ち、「あなたは武士の頭領と成るべく徳を備えた徳川家の宝なのですから、泣くのではありません」と諭し、家光公が泣き止んだという伝記です』とある。

「並べる」春陽堂版では「並」は「竝」。]

 夫で話は又後へ戾りますが、不思議をかいて讀者に只の不思議と思はせずに、何となく實(まこと)らしく、凄く思はせる好い例は講釋師の村井一(はじめ)が本鄕の振袖火事の話をして、因緣のある振袖を燒いたら空へ飛上つて、スツクと人の形の樣に突立つて、パツと飛散ると共に本堂の棟へ落ちて、それが爲めあの大火事になつたと話しましたが、其話をする前に、前提として、自分が曾て下谷の或る町を通ると、突然後方(うしろ)の空中で「チヤラチヤラ」と異樣の響がした。不思議に思つて振返ると、夫は風鈴屋が旋風の爲に荷を卷上げられて、風鈴が一度に「チヤラチヤラ」と鳴つたのでした、と云ふ話をしました。比話をしておいて、振袖火事の方をやつたから、普通なら振袖が自然に飛上つて、人の樣な形をするのは餘り不思議で信じ難いのを、此話をきいた爲にそんなに不思議でもなくなつた。是は實に話を人にきかせる周到な用意で、別に人を欺く手段ではないのです。一寸とした事ですが、此用意を吞込まなければ、中々不思議の事を書くのは難かしいのです。

[やぶちゃん注:「好い」「よい」。

「村井一」講釈師としての芸名は「邑井一(むらゐはじめ)」が正しい。本名は村井徳一(天保一二(一八四一)年~明治四三 (一九一〇)年)は江戸牛込南町生まれ。田安家の御家人(御納戸同心)の子として生まれ、幕末には彰義隊に加わったこともあった。十五歳の頃、上方の講釈師旭堂南鱗(きょくどうなんりん)の弟子になろうとしたが、断られ、十六の時、初代真龍斎貞水(二代目一龍斎貞山)に入門、「菊水」を名乗った。後に「巴水」とし、貞水が貞山を襲名した際、「貞朝」と改名、さらに初代貞吉の三代目貞山襲名に伴い、二代目一龍斎貞吉(ていきち)を名乗った。後に本名の村井姓に因んで、二代目邑井貞吉と改め、真打ちとなり、後、長男吉雄に三代目を譲って、邑井一と改名した。得意な演目に「五福屋政談」・「玉菊灯籠」・「小夜衣双紙」・「加賀騒動」・「伊達騒動」・「曽我物語」・「紀伊国屋文左衛門」・「鈴木主水」などがあり、特に写実的な世話物を得意とした。武家の出身だけあって、行儀正しく、品格の備わった名手と伝えられ、無本で弁じたが、地の言葉が、そのまま、文章を成していると称賛された(日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」に拠った)。

「振袖火事」「明暦の大火」の後の異名。明暦三年一月十八日から二十日(一六五七年三月二日から四日)に発生した江戸の大半を焼いた大火災。江戸本郷丸山町から出火し、江戸城本丸を始め、江戸市中を焼き尽くした。死者は十万人以上とされ、江戸城も西丸を残して焼失、幕府は復興に際し、御三家をはじめとする大名屋敷の城外への移転や、寺社の外辺部への移転などを進め、町屋も道幅を広げ、広小路や火除地を設定し、家屋の規模を定めるなどの措置をとった。翌年には定火消(じようびけし)を置いている。なお、「振袖火事」の名の由来となった、丸山町本妙寺の和尚が因縁のある振袖を燃やした火が同寺本堂に移り大火となったという話は、史実とは言いがたい(ここまでは主に平凡社「百科事典マイペディア」に拠った)。当該ウィキが詳しく、出火については、幕府が意図的に放火したとする驚天動地の説と、火元が老中屋敷であったために、『幕府の威信が失墜してしまう』ことを恐れて、本妙寺が火元を引き受けた、とする説が記されている。なお、そこに、哀れな因縁の振袖供養の出火伝承について書かれた最後に、『小泉八雲も登場人物名を替えた小説を著している。伝説の誕生は大火後まもなくの時期であり、同時代の浅井了意は大火を取材して「作り話」と結論づけている』とあるが、八雲のそれは“ FURISODÉ ”で、私の「小泉八雲 振袖 (田部隆次訳)」で読める。

「實に」「じつに」。なお、春陽堂版では最後に『(話。)』とある。]

2022/08/10

泉鏡花の童謡・民謡・端唄風の唄集成「唄」公開

泉鏡花の童謡・民謡・端唄風の唄集成「唄」をPDF縦書ルビ版「心朽窩旧館」に公開した。

ブログ・アクセス1,790,000アクセス突破記念 梅崎春生 雨女 雨男

 

[やぶちゃん注:「雨女」は昭和三七(一九六二)年十一月号『小説新潮』に、その完全な続編である「雨男」は、同誌の翌昭和三十八年の一月号と、三月号に「(続)」として連載発表された。既刊本には収録されていない。

 底本は「梅崎春生全集」第四巻(昭和五九(一九八四)年九月刊)に拠った。「雨男」は以上の通り、二回連載であるが、底本では一本に纏められているため、どこで切れたのかは判らない。

 文中に注を添えた。なお、本篇に登場する「山名」という姓のエキセントリックな副主人公は、梅崎春生の他の小説にもたびたび登場するのだが、そのモデルは彼の友人の画家秋野卓美(大正一一(一九二二)年~平成一三(二〇〇一)年)である。「立軌会」同人(元「自由美術協会」会員)で、春生(大正四(一九一五)年生)より七つ年下である。エッセイに近い実録市井物の「カロ三代」に実名フル・ネームで登場している。

 なお、本テクストは2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが本日、つい先ほど、1,790,000アクセスを突破した記念として公開する。【藪野直史】]

 

   雨  女

 

 縁側に腰をおろして、ぼんやりと庭の秋草を眺めていると、裏木戸の方角から瓶のようなものをぶら下げて、山名君が入って来た。彼は玄関から堂々と入って来ることもあるし、時には勝手口から、また時には裏木戸を押してスイスイと、その時の気分で入って来るのである。つまり私の家を自分の家同然に考えているらしい。ちょいと頭を下げた。

「御免下さい。長いこと御無沙汰しました」

「うん。久しぶりだねえ。まあ掛けなさい」

 私は座蒲団を押しやった。

「すこし瘦せたようだね。どこかに旅行でもしていたのか」

 いつもはふくらんだような顔をしているのに、今日見ると妙にしなびている。山名君は腰をおろして、自分の頰を撫でた。

「そうですか。やはり瘦せましたか。そう言えばいろいろ苦労したからなあ」

「夏瘦せでバテたのか?」

「いいえ。別荘に行ってたんですよ」

「別荘に? 君が?」

 私は思わず声を大きくした。

「なにか悪いことでもしたのかい?」

「え? 悪いこととは、何です?」

「別荘というのは、刑務所のことだろう。つまりムショ帰り――」

「冗談じゃないですよ、ムショ帰りだなんて!」

 彼は憤然と首をこちらへねじ向けた。

「僕が刑務所に入れられるような、そんな悪人だと思っているのですか? 善良な市民をつかまえて、刑務所などと――」

「ごめん。ごめん」

 私はあやまった。

「でもね、君が別荘を持っているような裕福な身分じゃないことを、僕はよく知っている。そこでついかん違いをしたんだ。あやまるよ。君は悪事を働けるような、そんな肝(きも)っ玉の大きな人柄じゃない」

「それ、ほめてるんですか。それとも――」

「勿論ほめてんだよ」

「それならいいですがね」

 山名君は機嫌を直した。

「もっとも別荘と言っても、友達の別荘です」

「ああ。別荘の居候(いそうろう)か」

「またそういうことを言う」

 また眼が三角になり始めた。

「一夏の主人は、僕ですよ」

「そうか。それは失言だった。つまり一夏借りたというわけだね。うらやましいな。それで借り賃は、いくらだった?」

「それがその、ちょっと複雑な事情がありましてね。僕の絵の仲間に、木村というのがいて、そいつの告別式、いや、ある酒場で送別会を二人でやりました」

 

 山名君の話によると、その木村という男は金持の伜(せがれ)で、絵はあまり上手ではない。素人(しろうと)に毛の生えた程度で、道楽に絵を描きながら、のらくらと人生を送っているのだそうだ。

 ところがこの度一念発起して、パリに修業に行くことになった。山名君に言わせると、修業とは称しているが、実は遊びに行くんだとのことだが、それはどちらでもよろしい。この物語とはあまり関係がない。

 で、その酒場で、

「パリとはうらやましいねえ」

 と山名君は木村に言った。

「おれなんか、パリどころか、当分東京ばかりで、山や海にも行けそうにないよ」

「それは気の毒だなあ」

 木村は酔眼を宙に浮かせて、しばらく考えていたが、やがて、

「君は海が好きか。それとも山の方かね」

「うん。海もいいが、夏は山の方がいいねえ。いろんな草花が咲いているし、それに静かだしね」

 山名の家の近くの土地で、近頃家の新築が始まり、電気ノコギリやハンマーの音が、毎日遠慮なく飛び込んで来る。それで彼はすっかり参り、切に静寂を求めていた。

「うん。山か。実は僕は山に別荘を持っている。帽子高原というところだ。今はニッコウキスゲの花盛りだろう。いいとこだよ」

 木村はぐっとグラスを乾した。

「そこを君に貸してやろう。どうせ僕はパリ行きで、空いている」

「貸すって、そりゃありがたいが、貸賃の方は――」

「もちろんタダだよ。自由に使いなさい」

 山名君はしめたと思った。金持とつき合っていて、損することはない。

「そりゃありがたいね。是非使わせていただこう」

「そうだ。タダと言ってもね」

 木村は膝をたたいた。

「あそこは村有地で、つまり借地なんだ。今年分の地代は、君が払って呉れ」

「地代って、いくらだね」

「たしか一年間で、坪当り十二円だったかな。安いもんだよ」

「うん。その位なら僕にも払える。それだけかね?」

「ああ。それに電燈代だ。この二つを君に頼む」

 よろしい、というわけで、タダ借りの約束が成立した。そして木村は。ペンで別荘地の略図を書いた。

「戦争前に建てた家だから、相当古ぼけているが、なかなか眺めのいい場所だよ。ただガスがないんでね、飯盒(はんごう)を持って行くといい」

「夜具のたぐいは?」

「東京からチッキで送ってもいいし、村に貸蒲団屋もある。絵の道具さえ持って行けば、その日から仕事にかかれるよ」

 山名君はすっかり嬉しくなって、無理してその日の勘定を支払ったそうである。そしてそれから一週間後、リュックを背にして、東京から旅立った。ごみごみと暑い東京を離れるのはいい気分だったが、汽車はやたらに混んでいた。リュック姿が多いのは、夏山登りの若者たちだろう。なぜ近頃の若い者たちは、ネコもシャクシも、苦労して山登りしたがるんだろう。山名君は思った。

「おれはキャンプ族ではないぞ。れっきとした別荘族だぞ」

 いい気なものだが、そうでも思って気分を高揚させていなきゃ、通路に立ちん坊は出来ないほど、混雑していたとのことだ。急行ではなく、鈍行である。急行券を惜しんだのではなく、鈍行でないとその駅にとまらないのだ。

[やぶちゃん注:「帽子高原」は不詳。「ニッコウキスゲの花盛りだろう」とあり(標準和名は「ゼンテイカ」(禅庭花)で単子葉植物綱キジカクシ目ススキノキ科キスゲ亜科ワスレグサ属ゼンテイカ Hemerocallis dumortieri var. esculenta 。群落が有名な日光に因んでそれを冠した「ニッコウキスゲ」の異名の方が遙かに全国的に通用してしまっているが、誤解のないように言っておくと、日光の固有種ではなく、本州以北から北海道まで日本各地に分布し、原産地も中国と日本である)、後で、「帽子山」と出るが、そうした条件に似たものならば、栃木県日光市川俣にある大王帽子山(さんのうぼうしさん:グーグル・マップ・データ航空写真)があるものの、どうも近くの駅に急行が止まらないという辺りは甚だ不審であり、このロケーションは春生が適当に仮想したものと思われる。]

 

 駅に降り立つと、さすがに東京と違って空気が澄明で、パクパク吸うと非常においしい。下車したのは二十人そこそこで、あまり喧伝されずにひなびているというのが、木村の説明であった。

 駅前はちょいとした商店街になっている。帽子高原はここから更にバスで一時間の行程だ。バスを待つ間、リュック姿の女三人連れに、彼は話しかけた。

「どちらに行くんだね?」

「あたし達、大帽子山に登る予定なの」

「キャンプする予定なのかい?」

「そうだけど、初めてのコースで、どこでキャンプしていいのか、見当がつかないのよ。小父さん、ここらに委しいの?」

「いや。それほど」

 女たちが気軽に応じるのも、旅の解放感からだろう。三人ともそれほど美人じゃなかった。一人は軽いすが眼だし、次のは色が黒く、もう一人はちんちくりんであった。山名君のことを小父さんと呼んだのは、そのちんちくりんで、彼は多少げっそりした。山名君は四十に垂々(なんなん)としているが、まだ自分では青年のつもりなのである。

 やがてバスが来た。数年前流行した『田舎のバスは……』云々という歌を連想させるようなボロ車で、皆はそれに乗り込んだ。これは揺れそうだと思ったら、果して大揺れで、道がてんでなっていない。穴だらけだ。穴にタイヤが入ると、がくんと腰にこたえたり、身体ごと飛び上ったりする。数時間の立ちん坊の揚句だから、彼はへとへとになったが、土地の人は平気だし、三人の女達はキャアキャアとはしゃいで、ジュースを飲んだり、菓子を食べたりしている。彼にもチューインガムを呉れたが、くちゃくちゃ食べていると舌を嚙みそうなので、辞退した。

 やっと終点の帽子村に着いた。山名君はよろよろと降りた。帽子村は帽子高原の入口で、戸数五六十軒の村である。唐もろこしの葉末を渡って来る風は、さわやかで秋のような冷気を帯びている。彼は深呼吸をした。やっと到着したという安堵感からだ。そこへさっきのすが眼嬢が近づいて来た。

「小父さんはここに泊るの?」

「いや。僕はもう少し上に、別荘を持っているんだ」

「まあ。別荘を!」

 すが眼はびっくりしたような表情になった。どう見てもくたびれた中年の薄汚れたようなのが、別荘を持っていようとは、彼女には意外だったらしい。山名君は得意げに胸を張って答えた。

「そうだよ。対山荘という名なんだ」

 それから彼は、木村が借りて呉れた地図を取り出し、部落の店の位置を探した。〈何でも屋〉と言う屋号で、日用品や食料品、貨蒲団なども貸して呉れる、という木村の話であった。三人の女は向うで何かこそこそ相談しているようだったが、彼が〈何でも屋〉の方に歩き出すと、ぞろぞろと送り狼のようについて来る。

 彼がそこで米や味噌や干魚などを買い求め、蒲団の交渉をし始めると、店の主人が、 「どちらにお住まいで?」

「対山荘だよ」

「対山荘?」

 主人は眼をぎろりとさせた。

「あのバケ、いえ、木村先生の――」

「うん。あいつは一年の予定で、パリに行ったんだよ。そこでこの一夏、僕が借りることにしたんだ。今まで木村は毎夏来てたのかい?」

「へえ」

 主人は困ったような顔をした。

「まあいらっしゃっても、一日か二日泊って、それでお帰りになるようですな。あの方は淋しいところが、あまりお好きじゃないようで――」

「一日か二日か。ぜいたくな奴だなあ、あいつも」

 主人が貸蒲団を取りに立つと、向うでごそごそしていた三人女のすが眼が、皆を代表するといった恰好(かっこう)でつかつかと彼に近づいて来た。

「小父さん。ひとつ頼みがあるんだけれど」

「何だね?」

「あたしたち三人で、蒲団を運んだげるから、小父さんの別荘に泊めて呉れない?」

「え。うちに泊りたいと言うのか」

「そうよ。立派な別荘なんでしょ。キャンプするのが面倒くさくなったのよ」

「ふん」

 山名君は考え込んだ。木村の話では三間か四間あるという話だったし、一部屋ぐらい泊らせたって、何と言っことはなかろう。かえってにぎやかで、愉しいかも知れない。

「そうだね。泊めて上げてもいいよ」

「わあ。うれしい」

「話の判る小父さんだわあ」

 女達は口々に喜んで、飛び上った。そして貸蒲団をそれぞれ肩にかついだ。大きなリュックを背負った上に、貸蒲団をかつげるのだから、戦後女性の休力も強くなったものである。

 山名君は三人の強力(ごうりき)を従えた侍(さむらい)大将みたいな気分になり、山荘の方向に意気揚々と歩き始めた。背後から女たちの会話が聞える。

「ねえ。おスガ。うまく行っただろう」

「何言ってんのさ。チビ。あたしの交渉がうまかったからよ。ねえ。黒助」

 どうもおスガとはすが眼女のこと、チビとはちんちくりんのこと、黒助は色黒い女のことらしい。男同士であだ名をつけるのは普通だけれど、女同士でつけ合って、それをかげでこそこそ使用せず、おおっぴらに呼び合うなんて、戦前にはあまりなかったことだ。

 山荘は村落から約千メートルほどの距離で、林間のだらだら坂を登る。うしろで話しているのが聞える。

「しかし、ポンと頼みを聞いて呉れるなんて、なかなかいかすおっさんだよ」

「どんな別荘だろうねえ。今日は一風呂浴びたいわ」

「物見遊山(ゆさん)に来たんじゃないよ。チビ。山登りが目的だぞ」

「知ってるよ。でも相手が別荘だろ。風呂ぐらいはありそうなもんじゃないか」

「何だね、二人とも。つまらんことで喧嘩するんじゃない」

[やぶちゃん注:「田舎のバスは……」三木鶏郎作詞作曲で、中村メイ子(旧芸名表記)が昭和三〇(一九五五)年に歌ってヒットした。YouTubeのsabo yobo氏のこちらで、蓄音機の演奏で聴け、歌詞は「J-Lyric.net」のこちらで総てが視認できる。]

 

 山名君は語る。

『ニッコウキスゲの咲き乱れた草原を横切り、別荘に近づくにつれて、僕は期待と同時に、ある大きな不安が影のように、頭上にかぶさって来るのを感じました。だって小生も彼等と同じく、その山荘を見たことがないんですからねえ。どうぞ立派な山荘であって呉れるように。快適な風呂場がくっついていますようにと、内心祈りながら歩を進めていました。これは見栄じゃない。僕自身の一夏の生活にかかわって来るんですからな。

 やがて落葉松(からまつ)や白樺や栗の木の彼方に、赤い屋根が見えて来ました。

「あっ。あれだ。あれが対山荘だ」

 と僕は思わず叫びましたよ。折しも夕陽が屋根に照り映えて、きらきらと光る。僕らは元気を取り戻し、ほとんど走るようにしてその建物に近づいた。古ぼけた木柵があって、門柱が二つ立ち、ひとつには「木村」と、ひとつには「対山荘」と書いてある。そこを入って建物の前に立った時、僕は大げさに言えば、愕然としましたね。

「あ。こりゃ相当ガタが来てるなあ」

 古ぼけていると木村は言っていたが、古ぼけているという程度のものではありません。今まで樹々に隠されてるから判らなかったけれど、ペンキは剝げ落ち、建物全休はピサの斜塔ほどじゃないが、東の方に傾いている。かなりがっしりした材木を使ってあるのですが、なにしろ戦前も戦前、三十年ぐらいは経っているらしく、それに年中ほとんど無人と来ていますから、ガタが来て傾くのも当然でしょう。屋根はトタンぶきで、ところどころサビが来て、さっききらきち光ったのも、夕陽がうまい具合に射したからで、屋根自身が光ったわけじゃありません。私はがっかり、また面目を失したような気分で、リュックを外して腰をおろすと、女の一人が呆れたように言いました。

「これが小父さんの別荘なの?」

「そうだよ」

「別荘と言うと、白樺林に取り囲まれた、もっとカッコ好い建物のことじゃない?」

「そうねえ。これ、まるで山賊小屋みたいね」

 山賊小屋とはひどいことを言いやがる、と思ったんですが、当の僕ですらそんな感じがしたのだから、仕方がない。

「山賊小屋で悪かったねえ。それじゃキャンプにすればいいじゃないか」

「小父さま。怒ったの? ごめんなさい」

 おスガがとりなしました。

「チビってあわてん坊でね、第一印象で直ぐ口をきくんだから」

「山賊小屋でもいいよ」

 チビが恐縮しているのを見て、僕は若干気の毒になりました。

「どうせとれは僕の別荘じゃないんだからな。友達のを一夏借りたんだ」

 まったく余計なことを言ったもんです。それからやっこらしょと立ち上り、木村から預った鍵で入口の扉をあけた。ぷんと古くさい空気のにおいが、そこらにただよいました。

 家の中は割合よく片付けられていました。とっつきの部屋が板の間で、卓だの椅子だのが置いてあり、暖炉の如きものもついている。そこから廊下となり、右手に畳敷きの部屋がある。突き当りが台所で、そこから鉤(かぎ)の手に曲って、アトリエ風の部屋がくっついている。これはベッドつきです。早速僕はこのアトリエを自分の部屋ときめた。僕は貸布団をベッドに運ばせて、女どもに言いました。

「ここは僕が使う。君たちは畳敷きの部屋に泊れ」

 それから窓を開くと、一望千里のすばらしい眺めで、左手に丸くそびえ立つのが大帽子山、右手になだらかに盛り上っているのが小帽子山です。庭は一面ニッコウキスゲや、名も知らぬ草花が点々と咲いています。あたりはしんと静かで、

「ああ。いいところに来たなあ。ここなら存分風景画が描けるぞ」

 と思わず呟(つぶ)いたぐらいです。

 すっかり満足して、あちこち見回していると、台所のすぐ裏手にドラム罐(かん)が立ててある。何だろうと思って、台所口から出て見ると、これがどうも風呂らしい。石を組んでドラム罐を持ち上げ、その空間が焚(た)き口で、黒くすすけています。僕は大声で女どもを呼びました。

「おおい。風呂場があるぞ。入りたきゃ自分たちで沸かせ」

 女たちは早速飛んで来ました。一目見ると、びっくり顔になって、三人で顔を見合わせています。チピが何か口を出そうとして、おスガに、

「しっ!」

 とたしなめられた。おそらく第一印象を口走りたかったのでしょう。ざまあ見ろと思って、僕はそのままアトリエに引込みました。窓からそっとのぞいて見ていると、何かこそこそと相談しているようでした』

 

「で、その別荘には、水はあるのかい?」

「ええ。村営の水道の本管が、すぐ近くを通っていてね、水源池は大帽子山の麓(ふもと)にあるのです」

 山名君は冷えた茶をがぶりと飲んだ。

「本管から水を引いて、蛇口から出ることになってるんです。つめたくていい水ですよ。東京のカルキ臭い水道の水とは、くらべものにならん」

「そりゃくらべものにならんだろう。それで風呂の方は、どうした?」

「沸かしましたよ、もちろん。それで僕が真先に入って――」

「でも、焚いたのは、女性たちだろう」

「そうですよ。しかし僕がその別荘の主ですからね。優先権がある」

 山名君は鼻をうごめかした。

「それから庭に出て、飯盒で自炊しようとすると、女たちが今から入浴するんだから、見ちゃいけないと言う。冗談じゃない。僕はこれでも画家だから、女の裸なんか見飽きていると答えると、信用しないんですな。飯はつくって上げるからと、三人がかりで僕をアトリエに押し込んでしまいました。近頃の女と来たら、力が強いですねえ。それに多勢に無勢(ぶぜい)だし――」

「いくら多勢に無勢と言っても、だらしないじゃないか。たかが女の力で――」

「いえ。彼女らが入浴しているのを、窓のすき間から、こっそりのぞいて見たんですがね。その休格のいいこと、腕や股の太いこと、まるで女金時(きんとき)みたいでした。あんたみたいな瘦せっぽちなら、一対一でもかないっこありません」

「いやだね。君にはのぞき趣味があるのか」

「趣味じゃないですよ。参考までに観察しただけです」

「さあ。どうだかね。それで、その晩の飯はつくってもらったのか」

「もちろんですよ。約束ですからね。しかしなかなか飯が出来ない。僕は腹ぺこになって、いらいらしてアトリエをぐるぐる歩き回っていると、やがて黒助がやって来て、小父さま、食事が出来ましたから、どうぞおいで下さいと言う。もう外は暗くなっていました。そこで飯だけもらって、自分ひとりで食べりゃよかったんだけれど、ついのこのことついて行ったのが、運のつきでした」

 

『ついて行って見ると、食事場は暖炉のあるれいの居間で、ふと卓を見ると、罐詰が切ってあり、でんと安ウィスキーの大瓶が乗っている。さっきの〈何でも屋〉で買い求めたのでしょう。僕は呆れて言いました。

「何だ。君たちはウィスキーを飲むのか」

「ええ。飲みますよ。飲んじゃいけないんですか?」

 とチビが言いました。

「いえ。小父さんに感謝の意味もあるのよ」

 おスガがつけ加えました。

「小父さんはアルコール、おきらい?」

「いや。きらいじゃないが――」

 僕は椅子に腰をおろした。

「君たちはあんまり飲むと、明日大帽子山に登れなくなるぞ」

「大丈夫ですよ。まあ、小父さん、一杯」

 コップにごぼごぼと注がれでは、もう飲まないわけには行きません。すきっ腹だから用心のために、台所からつめたい水を運ばせて、水割りにして、クジラの罐詰なんかをつまんで飲んでいる中に、だんだん酔いが回って来ました。高原の別荘という静かなムードが、それに拍車をかけた傾向もあるようです。女たちもよく飲み、よく食べました。その時の会話によると、女たちはどこかの劇団の女優のタマゴみたいなもので、テレビにも時々出演すると言う。何だかそれを得意にしているような口ぶりなので、僕も対抗上自分の画歴について語り、あるいは仲間の話や、木村からこの別荘を借り受けたいきさつなども、しゃべったような気がします。チビがこう言ったのを、かすかに覚えています。

「タダでこんな立派な別荘が借りられるなんて、すばらしいわねえ」

 何だい、さっきは山賊小屋みたいだと言ったくせに、などと思っている中に、僕はすっかり酔っぱらって、前後不覚になってしまったらしい。

 ふっと眼が覚めたら、アトリエのベッドの上で、蒲団にしがみつくようにして寝ていました。宿酔で頭が重く、ふらふらと立ち上って台所に行き、つめたい水をがぶがぶと飲みました。女どもはどうしているかと、居間の方に行って見たら、卓の上ににぎり飯が三箇置いてあって、

「朝のオニギリをつくりました。召し上って下さい。わたしたちは今から大帽子山に登って来ます。午前七時」

 やはり若さというのは強いものですねえ。昨夜彼女たちも酔っぱらって、ドジョウすくいやツイストを踊ったくらいなのに、今朝は早々と起き出て弁当をつくり、山登りに出かけた。乱暴なガラガラ女たちと思っていたのに、ニギリ飯を宿代に置いて行くなんて、割にしおらしいところもある。そう感心して、ニギリ飯を食べかけたが、宿酔のせいで一箇平らげるのがせいぜいでした。

 また水を飲んで庭に出ると、いい天気で、彼方に大帽子小帽子の稜線が、くっきりと見える。僕は早速スケッチブックを取り出して、スケッチを始めました。一応スケッチに取り、二三日中に本式に画布に取組もうという心算(つもり)なのです。

 そして午後二時頃でしたか、腹がへって来たので、居間に入って残りのニギリ飯を食べていると、

「ごめん」と言う声がして、若い男が扉をあけて入って来ました。

「電力会社の者ですがね、電燈代を徴収に来ました」

「ああ。そう」

 私はアトリエから金を持って、戻って来ました。

「昨日ここに来たばかりなのに、もう電燈代を取るのかね?」

「いいえ。これは昨年の八月から、今年の七月分の代金です。別荘の方はそういう決めになってますんで」

「そう。いくら?」

 男は伝票を差出しました。見ると七千八百円になっています。僕は驚いて反問しました。

「七千八百円とは、一休どういう計算だね? 木村君は一夏に一日か二日しか暮さないとう話じゃないか」

「あんた、木村さんじゃないんですか?」

「そうだよ。この夏だけ借りたんだ」

「ああ。道理で話が通じないと思った」

 男はなめたような口をききました。

「電燈代というのはね、毎月の基本料金の上に、使っただけの料金が加算されるんですよ。だからこの七千八百円の大部分は、一年の基本料金です。お判りですか?」

「ああ、判ったよ。判ったよ」

 電燈代はこちら持ちという約束なので、仕方がありません。数枚の千円紙幣が、かくして僕の手から離れて行きました。木村にとっては何でもない金だろうけれど、僕にとっては大金です。

「こりゃ倹約してやって行かねばならないぞ。地代のこともあるし」

 徴収人が帰ってから、僕は思いました。

「ここでいい作品を仕上げて、モトを取らなくちゃ」

 嚙みつくような勢いで、残りのニギリ飯を食べ終え、また庭に飛び出し、スケッチを再開しようとすると、山や空の色がもう変っていて、帽子連山の稜線がぼやけています。山や高原の気候の変化は、烈しいものですねえ。しばらく色鉛筆を置いて、雲の動きなどを眺めていると、白い雲は流れ去り、何だか黒っぽい雲が大帽子山の頂上にかかり、やがて山頂をすっぽりと包みかくすように垂れて来たですな。

「ははあ。山では雨が降り始めたんだな。だから山と言うやつは、用心しなくちゃいけない」

 あの三人女のことが少々心配でしたが、朝の七時に出発したんだから、もう山を降りて、もしかすると今頃は町行きのバスに乗っているかも知れない。そう思ってスケッチはやめ、アトリエに戻り、ベッドに横になっていました。しばらくうとうとしていたようです。急に部屋の中がしめっぽくなって来たので、驚いて起き上り、窓の外を見ると、一面に霧がかかっていて、帽子連山はおろか、五十メートル先の樹の形さえさだかに見えないくらいで、むき出しにした二の腕がつめたい。あわててリュックからセーターを出し、それをまとめて、〈何でも屋〉の方に走り降りました。炭やタバコを買うためです。買ったあとで、

「昨日の三人女、今日ここを通らなかったかね?」

 と主人に聞くと、今日は姿を見ないとの返答で、そんな世間話をしている中に、外は霧雨となりました。全くここらの気候は、予測し難いものです。やむなく番傘をひとつ買い求めた。実際別荘生活というものは、金がかかるものですねえ。何かあると、一々新規に買わなくちゃいけない。

 ぶらぶらと対山荘に戻って、台所のコンロに炭火をおこし、飯をたいて干物(ひもの)を焼いていると、入口の方でがやがやと騒がしい声がする。飛んで行って見ると、あの三人女です。アノラックは着ているけれども、全身ずぶ濡れで、まるで水から引き上げられた犬みたいに、ぶるぶるっと雨滴を板の間に弾き飛ばしていました。

「何だ。今頃帰って来たのか」

 僕はあきれて嘆息しました。

「朝七時から出かけて、今まで何をしてたんだい?」

「頂上近くのお花畑で、昼寝をしてたのよ」

 アノラックを脱ぎながら、黒助が言いました。おスガもチビも不機嫌そうに、衣類の始末をしています。

「昼寝だなんて、のんきだなあ」

「チビのやつが言い出したのよ」

 おスガがぷんぷんした口調で言いました。

「チビ助は雨女(あめおんな)のくせに、昼寝しようと言い出して――」

「何さ。雨女はお前じゃないか!」

 チビが言い返しました。

「この間高尾山に登った時も、帰りはどしゃ降りじゃないか。もうおスガと一緒に山登りするのは、御免だよ」

「まあ、まあ、どちらが雨女か知らないが――」

 僕は取りなしてやりました。

「早く着換えて、帰る準備をした方がいいよ。最終のバスは七時五十分だから」

「あら」

「そりゃ約束が違うわよ。おっさん」

 小父さまからとたんに、おっさんに転落したんですから、面くらいましたな。陰でこそこそならともかく、正面切ってですからねえ。

「な、なにが約束が違うんだ」

 僕はどもりました。

「そんな約束をした覚えはないぞ」

「昨夜したじゃないの」

 とチビがまなじりを上げて言いました。

「どうせタダの別荘だから、ゆっくりして行きなさいと、そう言ったじゃないの。少し酔っぱらっていたけどさ」

「少しじゃないわよ。酔って動けなくなったのを、三人でアトリエにかついで行ったのよ」

 アッと僕は内心驚きました。どうも記億にないと思ったら、この連中にかつぎ出されたとは、一代の不覚です。

「だからあたしたち、当分ゆっくりするわよ。そしてどちらがほんとの雨女か、はっきりさせてやる」

 おスガがチビをにらみました。

「おい。チビ。〈何でも屋〉に一走りして、焼酎を買って来い」

「イヤだよ。飲みたきゃ自分で買って来な」

 そこで一悶着ありそうでしたが、結局クジ引きということになって、買い番は黒助に当りました。黒助はうらめしそうに着換えをしながら、

「小父さん。淑女たちの着換えの場面は、男性は遠慮するのがエチケットよ」

「そうよ。そうよ。昨日も窓からのぞいてたわよ。卑怯ねえ」

 こんなのが淑女と自称するのですから、驚き入ります。僕はさんざん言いまくられて、台所に戻って来ると、干魚は真黒に焦げて、反(そ)りくり返っていました。忌々(いまいま)しいったら、ありゃしません。仕方がないので、それをポイと窓の外に放り捨て、タクアンをせっせと刻んでいると、おスガがやって来て、コンロを貸して呉れと言う。何を焼くんだと訊ねると、肉を煮るんだと言う。

「肉があるのか。うらやましいなあ。少し分けて呉れないか。タクアンだけで飯を食うのは佗(わび)しい」

「そうね。他ならぬ小父さんのことだから、御馳走して上げるわ」

 というわけで、やがて黒助が焼酎瓶やネギをぶら下げて戻って来て、コンロを居間に運び、スキヤキが始まりました。僕も飯盒(はんごう)を持ってそれに参加しましたが、また焼酎を飲まされて、飯なんかどうでもよくなりました。肉は硬くて筋があって、そのくせ脂肪があまりない。聞いてみると馬肉だそうで、焼酎を牛飲して馬肉を馬食するなんて、とんだ淑女もあればあったものです。

 そこでまた雨女談義となり、結局おスガが大帽子山、チビが小帽子山に登り、どちらが雨に降られるか、それで決定しようと言うことになりました。その判定役として、僕と黒助が途中のイガグリ峠で待機するということになり、酔っていたもんですから、僕もうっかりとその役目を引受けた。

 最初の夜のウィスキーと言い、その夜の焼酎と言い、僕を酔っぱらわせて、この別荘に居直ろうという謀略のにおいが感じられてなりません。うかうかとその手に乗ったのが、僕の不徳と言えば言えますが。――』

 

「そうだよ。君は酔っぱらうと、すぐだらしなくなるからな」

 私は山名君をたしなめてやった。

「折角静寂を求めて高原に行ったのに、何にもならないじゃないか。そんな苦労をしたせいで、夏瘦せしたと言うのかい?」

「いえいえ。こんなのは序の口ですよ」

 彼は口をとがらせた。

「ほんとの高原の災厄は、これから始まるんです」

 山名君は忌々しげに私の庭に、ぺっと唾をはいた。

[やぶちゃん注:「唾」は底本では「睡」であるが、誤字と断じて訂した。]

 

 

   雨  男

 

 

「そうか。それが災厄の序の口か」

 私は縁側から腰を上げながら言った。

「そろそろ暗くなって来たし、続きは書斎で聞こう。まあ上りなさい」

 風も少し冷えて来た。庭樹の葉がさらさらと鳴る。

「こちらは日の暮れ方が早いですなあ。帽子高原にいた時はこんなものじゃなかったです。七時になってもまだまだ明るかった」

「そりゃそうだよ。夏は一番日が長い季節だ。早く日が暮れるのは、東京の責任じゃない」

「そりゃそうですがね」

 山名君も腰を浮かせた。

「しかし、それだけじゃないですよ。空気の澄み方が違う。あちらは澄んでいるから、光線がいつまでも透き通るが、東京は空気がきたないですからな。ガラスにたとえると、東京の空気はすりガラスです。てんでくらべものにならん」

 何だ、一夏高原に過ごしたからと言って、東京をそんなに蔑(さげす)むことはなかろうと思いながら、私は書斎に入った。山名君もとことこ上って来て、私に向ってあぐらをかき、大切そうに風呂敷包みをそばに置いた。私は訊(たず)ねた。

「何だい、それは」

「酒瓶ですよ」

 彼は得意そうに、ゴソゴソと風呂敷を解いた。中からうやうやしくウィスキーの瓶を取り出した。

「なるほど。久しぶりにウィスキーを一緒に酌(く)み交そうと言うわけか」

 と私は頰をむずむずとほころばせた。彼は本来はケチなのに、それを押しての好意がうれしかったのである。

「『淋しさに宿を立ち出でて眺むれば、いづくも同じ秋の夕暮』だからな。飲みたくなるのも当然だ」

「いえ。一緒に酌み交そうというんじゃないんです」

 山名君はあわててさえぎった。

「誰もそんなことは言わない。第一これはウィスキーじゃないですよ」

「何だい? するとそれはタダの井戸水か?」

「水じゃありませんよ。焼酎です。しかしタダの焼酎じゃない」

 もったいをつけて私にその瓶を手渡した。

「中を透かして御覧なさい。何か入っているでしょう」

 私は瓶をかざして、窓の外にむけ、眼を凝らした。中にはミミズ状のものが身をくねらして、うねうねと液休にひたっている。私は少々気味が悪くなって、瓶を机の上に戻した。

「何だね、これは。回虫か?」

「回虫だなんて、そんなものを漬けて、何になりますか。薬屋の広告見本じゃあるまいし」

 憤然と口をとがらせた。

「マムシですよ。つまりマムシ酒というわけです。ホンモノですからねえ。高価なもんですよ」

「マムシ酒か。うん。水漬(みづ)くカバネでなく、酒漬くマムシか。それなら安心だ。話にはよく聞くが見るのはこれが初めてだ。なるほどねえ」

 私はふたたび瓶を打ちかざした。よく見れば回虫などでは決してなく、まさしく蛇の形である。

「ずいぶん小さな、可愛らしいマムシだねえ。子供蛇だね。君がつかまえたのかね?」

「マムシというのは元来小さな蛇ですよ。可愛いなんてとんでもない。これでも猛毒があって、嚙まれると七転八倒の苦しみの後、数時間で死んでしまう」

 彼は私の無知をせせら笑うようにして説明した。

「そんな猛毒の蛇を、素人(しろうと)がとらえられるとでも思ってんですか。帽子高原の人に貰ったんですよ」

「そうか。そうだろうと思った。しかし得をしたなあ。そんな大切な酒を僕に呉れるなんて、いつもの君にも似合わない――」

「いつ上げると言いました?」

 机の上から山名君は瓶を取り戻した。

「盃(さかずき)に一杯だけ、飲ませて上げようと思って、はるばる持って来たんですよ」

「なんだ。やっぱりケチだなあ。盃一杯だなんて。せめてコップに一杯か二杯――」

「と、とんでもない」

 彼はまた口をとがらせた。

「コップに一杯も飲めば、のぼせて鼻血が出ますよ。なにしろ精の強い蛇ですからねえ。あんたなんか、盃一杯でも多過ぎるくらいです。僕もこの間二杯飲んだら、身体中がカッカッなって、夜も眠れなかった。とにかく盃を持って来ます」

 彼は立ち上って、勝手にわが家の台所におもむき、盃二つと清酒の一升瓶、コップを出し、それから棚や冷蔵庫の中からつまみ物数種を皿に入れ、書斎に戻って来た。彼は他人のくせに、わが家の台所については私以上にくわしく、どこに何がしまってあるか、手に取るように知っている。好奇心に富んでいるというか、図々しいというか、まことにふしぎな人物である。

 つまりマムシ酒をダシにして、うちの酒を飲もうという魂胆が、これではっきり知れた。私は多少にが虫をかみつぶした表情になったのだろう。彼は盃を二つ机の上に置き、猫撫で声で私にすすめた。

「さあ、どうぞ。マムシ酒を一杯」

 私は盃を手にした。山名君は大切そうに、薄茶色の液体をとくとくと注いだ。盃を口のあたりまで持って来ると、ぷんと生ぐさいにおいがした。

「へんなにおいがするな。これ、大丈夫か」

「大丈夫ですよ」

 彼は自分の盃にもそれを充たした。

「マムシの精のにおいです。これはまだつくって三年しか経っていないので、においも味も薄いですが、十年酒ぐらいになると、蛇身がすっかりとろけて、酒にしみ込んで、水にでも割らなきゃ、とても飲めたものじゃありません。こうやって飲めばいいんですよ」

 山名君は鼻をつまんで、ぐっとあおった。そして鼻から手を離して、深呼吸をした。

「なるほど」

 私も真似をして、ぐっと飲み干した。鼻をつまんでも、生ぐさいものが口の中から食道に、パッとひろがるのが判った。私もあわてて深呼吸した。

「さあ。口直しにどうぞ」

 すかさず彼はコップに清酒を注ぎ、私に差し出した。私は飛びつくようにして、ゴクゴクと飲んだ。においが少しは消えた。

「うまいでしょう。におい消しには覿面(てきめん)でしょう」

 彼は得意そうに、また押しつけがましい口調で言い、自分のコップの分もうまそうにあおった。

「うまいでしょうたって、これはおれの酒だよ」

 私は手荒く酒瓶を引き寄せて、自分のにまた注いだ。

「君からうまいのまずいのって、説教される覚えはない」

「そりゃあんたの酒ですよ。あんたの台所から持って来たんだもの」

 頰をふくらませた。

「僕はお宅の酒の味をほめているんですよ。それなのに、何を怒っているんですか?」

 うんざりして、何も言うことはなくなって来た。他人の言葉には敏感に反応するくせに、他人には実に図々しい発言をする。これが山名君の特徴なのである。私は南京豆をつまみながら言った。

「それで、帽子高原の方は、どうなったんだ。女どもは山に登り、君はイガグリ峠まで行ったのか?」

「行きましたとも」

 もう一杯飲みたそうな風情だったが、私が酒瓶を握りしめて離さないので、未練げに視線をうつむけ、マムシ酒を風呂敷につつみ込んだ。

「これからが面白いんですがね、でも、お仕事の邪魔でしょう。これでおいとま致します」

「おいおい。待って呉れ。折角(せっかく)話が佳境に入って来たのに」

 仕方がないから手を伸ばして、彼のコップにもこぼれるほど注いでやった。彼はにやりとして、口をコップに近づけ、チュウとすすった。

「とにかく大変でしたよ。イガグリ峠と言ってもね、そんじょそこらにあるようなラクな峠じゃない。なに、野猿峠くらいだって? あんなのとは、くらべものにならんです。標高千八百メートルぐらいはあるんですからね」

「おスガが大帽子、チビが小帽子だったね」

「そうです。それでその翌朝、朝五時に起きましてね――」

[やぶちゃん注:「淋しさに宿を立ち出でて眺むれば、いづくも同じ秋の夕暮」ご存知「小倉百人一首」七十番の良暹法師(りょうぜん 生没年不詳:比叡山の僧で、祇園別当となり、後には大原に隠棲した。歌人として活躍し、長暦二(一〇三八)年の「権大納言家歌合」など、多くの歌合にも出詠している。私撰集「良暹打聞」を編み、家集も存在したが、孰れも現存しない。勅撰集には三十一首が載る)の一首。出典は「後拾遺和歌集」巻第四「秋上」(三三三番)。

「野猿峠」(やえんとうげ)は東京都八王子市南東部の多摩丘陵西部にある峠。京王電鉄京王線とほぼ平行する標高百七十~二百メートルの尾根にあり、大栗川(おおくりがわ)流域を通る野猿街道が八王子市北野へ抜ける峠である。その名の如く、嘗つては、野生の猿の遊ぶ所であったが、第二次世界大戦後の急激な都市化によって、峠の周囲に住宅団地が形成されて地形をすっかり変えてしまい、昔の面影は全くない。僅かに峠の南の野鳥料理がその名残である(小学館「日本大百科全書」に拠った)。「今昔マップ」の戦前の地図の、この中央の「手平松(鳶松)」とあって標高(200.9)とある当たりが、高度からもそれらしい。お疑いの向きは、グーグル・マップ・データのここをご覧あれ。交差点に「野猿峠」とある。]

 

『五時と言っても、今時の五時でなく、夏の高原の五時ですからねえ。もう外はすっかり明るい。庭に出て見ると、昨夜の雨はすっかりやんで、空は晴れ、空気がピンと澄み通っています。大、小の帽子山が手に取るように近くに見えます。急いで御飯をたいてオニギリをつくり、え? 僕がじゃありません。つくったのは女どもです。それから登山支度をととのえて、と言っても僕は判定役ですから、何も持たず、オニギリや雨具も一切女たちのリュックに入れてもらい、〈何でも屋〉におもむき、オカズやジュースその他を買いました。

 僕はステッキ一本の軽装です。

 おスガとチビはその店で、安帽子を一個ずつ買いました。それぞれ頂上に置いて来て、登頂の証拠にしようというわけなのです。別荘にとって返し、水筒に水を入れ、いよいよ出発ということになりました。

「いくら何でも手ぶらじゃおかしいわ。水筒くらい自分で持ったらどう?」という女たちの言葉を容れて、僕も水筒だけは肩にぶら下げることにしました。

 別荘の裏手からだらだら坂の径(みち)となり、野原に出ると、ニッコウキスゲ、オミナエシ、月見草、ゲンノショーコなどが一面に咲き乱れています。女どもは植物については何の知識もないようで、

「あら。可愛い花」

 などとゲンノショーコをほめたりするものですから、僕が教えてやりました。

「それはゲンノショーコと言ってね、その根を煎じてのむと、腹の薬になるんだよ」

「あら。そうなの。薬草なのねえ」

 おスガが言いました。

「チビなんか、休が小さいくせに、大食いばかりして、しょっちゅうお腹をピーピーこわしてるじゃないの。帰りにたくさん取って帰って煎じてのんだらどう?」

「なにさ。大食いはおスガじゃないか。バカにしてるわ」

 そんなおしゃべりをしている中に、道はだんだん林の中に入り、険しくなって来ました。渓流に沿い、ジグザグ道を登るのですが、そのジグザグがえんえんと続くものですから、先ず僕が顎(あご)を出し始めた。二日酔いの気もあるし齢も齢ですからねえ。咽喉(のど)がやたらに乾くので、水筒の水を飲み飲み、後に遅れじと脚にムチ打ってつづく。

 女どもですか。やはり若さということは、元気なものですねえ。トットコトットコ、汗一粒も流さず、ぐんぐん登って行く。ついにたまりかねて、僕は大声を出しました。

「待って呉れえ。ここらで一休みしよう。水筒の水もなくなったよう」

 三人は立ち止った。黒助が戻って来て、

「まあ汗だらけじゃないの。小父さん。今からへばっちゃ、後が思いやられるじゃないの」

「だって、つらいんだから仕様がない」

「大切な水筒をもうカラッポにするなんて、常識外(はず)れだわ」

 黒助はつけつけと言いました。

「じゃ、あたいが汲んで来て上げるから、水筒をこちらにお寄越し?」

 つけつけした口はきくけれど、割に黒助は親切気のある女なのです。そこで二人に追いついて、大休止ということになりました。黒助は身軽に渓流へ降りて行った。昨夜の雨のせいか、流れは岩をかみ、白いしぶきを立て、とうとうと流れています。もうここらは林相が一変して白樺がなくなり、赤樺の巨木がニョキュョキと立っていて、水の音、まれに鳥の声以外は、何も聞えません。

 僕は苔(こけ)の上にぐったり横になっていましたが、女たちは全然消耗してなくて、じっとはしていません。林の中に入り込んで、花をつんだり、キノコを採ったりしていました。

「小父さん。このキノコ、食べられる?」

 チピがにゅっと一本のキノコを突き出したが、キノコに関しては僕もあまり知識はない。

「さあ、よく知らないが、食べない方がいいんじゃないか。山荘で皆で食べて、ひっそりと死んでたりすると、山中湖事件じゃないが、大騒ぎになるぜ」

「そうねえ。でも、もったいないから、持って帰って、ジャンケンして負けたものが食べることにしない?」

 チビは食い下りました。若さというものは、強いと同時に、無鉄砲なものですねえ。

「いっしょにゲンノショーコをのめば、食中(あた)りをしないですむんじゃない?」

「じゃ、そうすればいいだろ」

 僕はつっぱなしました。

「しかし、おれはジャンケンの仲間には入らないよ。君たちは毒キノコのこわさを知らないな。ゲンノショーコなどで追いつくものか」

 これでチビもあきらめたようです。林に向って叫びました。

「おおい、おスガ。これ、毒キノコだってさ、採るのはやめにしなよ」

 やがて黒助が渓流から崖を登って来て、僕に水筒を渡しました。見るとスラックスの裾がずぶ濡れになっています。

「ほんとに苦労させるよ」

 黒助はこぼしました。

「岩はすべるし、流れは早いしさ。小父さん、もうあんまりがぶがぶ飲むんじゃないよ」

「そうよ、そうよ。口ばっかりが達者で力はないのよ。小父さん、齢はいくつ?」

 さんざんいじめられて、僕はもう形なしです。それからまた出発。道はますます険しくなり、台風でもあったのか、道は倒木に埋められて、それを器械体操か軽業のように乗り越えて行かねばなりません。

 僕はしばしば悲鳴を上げて、小休止を要求し、やっとのことでイガグリ峠に到着しました。

 イガグリ峠は一面の草原で眺望がよくきくのです。大帽子山、小帽子山。またはるか下方にきれいな池が見えます。聞いてみると、黒髪池と言うのだそうで、それがしきりに僕の画欲をそそりました。

「僕はここで待ってるよ」

 一本落葉松(からまつ)の下に腰をおろして、僕は言いました。

「僕の食糧や飲み物、スケッチブックその他を、出して呉れ。おスガにチビは登って来い」

「もちろん登るわよ。おスガ。帽子を置いて来ることを忘れるな」

「合点だ」

 おスガは雲助のような言葉で言いました。

「黒助はどうする?」

「あたしゃ小父さんとここに一緒にいても仕様がないから、黒髪池に行って見るよ」

「そうだね。こんなとこに男性と一緒にいたら、あぶないからね。では」

 いつもは男あつかいにはしないくせに、こんな時にだけ男性あつかいにするのですから、勝手気ままもはなはだしい。何か痛烈なことを言って返してやりたかったのですが、くたびれていて、そんな元気も出なかった。

「バイバイ」

「バイバイ」

 と、僕を一本松の下に残して、女どもは三方に別れて出発。やがてその姿は小さくなり、僕の視野から消えました。

 僕は芝草の上に長々と脚を投げ出し、弁当を開き、ウィスキーの小瓶の栓をあけました。ウィスキーは咽喉(のど)をやいて胃袋に落ち、やがてほのぼのと酔いが皮膚によみがえって来ました。

「ああ。静かにして孤独なる真昼の宴!」

 と僕は心から思いました。真昼といっても、まだ十時半頃です。早起きして、相当に歩いたせいで、もう昼になったような錯覚を起したのでしょう。

「この世に女どもがいなくなると、かくまで平和に、また幸福になるものか」

 小瓶一本を飲み干し、弁当をがつがつと食べました。朝はろくに食べてないから、まさにこれは天来の味でした。こんなうまい昼飯を、僕はこの数年来、食べたことがありません。あとはごろりと横になって、白雲の去来するさまを眺めていると、そのまま仙人にでもなったような気がしました』

[やぶちゃん注:「月見草」私の大好きな本当のそれは、六~九月頃に、夕方の咲き始めは白色で、翌朝の萎む頃には薄いピンク色となる、バラ亜綱フトモモ目アカバナ科マツヨイグサ属ツキミソウ Oenothera tetraptera (メキシコ原産。江戸時代に鑑賞用として渡来)であるが、恐らく梅崎春生の言っているのは、孰れも私の大嫌いな、主に黄色の花を咲かせる同属オオマツヨイグサ Oenothera erythrosepala(「大待宵草」。原産地不明だが、北アメリカ中部が措定されている)、丈の低い同属マツヨイグサ Oenothera stricta (「待宵草」。南アメリカ原産)、同属メマツヨイグサ Oenothera biennis(「雌待宵草」。北アメリカ原産)などと推定される。

「ゲンノショーコ」漢字表記は「現(験)の証拠」。フウロソウ目フウロソウ科フウロソウ属フウロソウ節ゲンノショウコ Geranium thunbergii当該ウィキによれば、『古来より、下痢止めや胃腸病に効能がある薬草として有名で、和名の由来は、煎じて飲むとその効果がすぐ現れるところからきている』とあり、本種は『白い花を付ける白色系と、ピンク色を付ける紅色系とがあり、日本では、富士川付近を境に東日本では白花が多く、西日本では淡紅、日本海側で紅色の花が多く分布している』とある。

「山中湖事件」ちょっと調べるのに手間取ったが、mitsuhide2007氏のブログ「最近の古いモノは!」の「山中湖の怪死事件」(三回分割なので、御自分で後の二回は読まれたい)で判った。昭和三七(一九六二)年九月十三日午前十時二十分頃、山中湖畔にあった別荘が出火、十一時には鎮火したが、別荘内から十人もの死体が発見され、孰れも仰向けで、頭や首に損傷があり、「助けてくれ」という声を聞いたという証言もあった事件を指す(後にこれは出火通報をした人物の発したものと判明する)。『死体は男女の区別もできないほど、損傷が激し』かったため、後に『司法解剖にかけられ』ている。当日の新聞夕刊には『焼跡に十人の死体。山中湖の別荘。戦後第二の大量殺人?』とし、翌日の記事では『内部からカギ。殺人放火か?心中の巻き添えか?』とあったという(「第二」とは毒物によって十二人が殺害された怪事件「帝銀事件」(昭和二三(一九四八)年一月二十六日に東京都豊島区長崎の帝国銀行椎名町支店で発生)の次の「大量殺人事件」の意)。ほどなく、死体の身元は金融業者(四十三)と、その愛人(四十五)、及び、『バー「リスボン」のホステスと従業員たちであった』(バーの位置は不詳)。九月十一日夜、『金融業者と愛人はバーで飲んで、その後』、『従業員たちと』タクシー二台で『出かけ』、翌十二日午前三時三十分に別荘に到着していた。なお、その『山荘は愛人が管理していた』とある。捜査は二転三転するが、結果だけを言うと、司法解剖によって、全員の死因が一酸化炭素中毒だった。則ち、つけっ放しにしていた『フロ場のプロパンガスが不完全燃焼し、一酸化炭素』が『発生』し、『それが山荘に充満して、中毒死』したのであった。そこに空焚きしていたフロ場から出火が発生、その火災による家屋損壊の際、既に死体となっていた彼らの遺骸が激しく損傷を受けたのであった。さて。悲惨な事故事件だが、一つ興味深いのは、この「雨男」の前篇が発表されたのが、昭和三十七年の十月号、続篇が翌年の三月号なのだが、以上はどう見ても、昭和三十七年十月号分である。今の雑誌もそうだが、十月号は十月一日或いはそれ以前に発行されるのが、普通である。この事件の捜査では、実は出火の再現実験なども行っており、短期に真相が明らかになったわけではないから、梅崎はまさに九月下旬の〆切までにこの原稿を書いたはずだから、まさにアップトゥデイトな「猟奇殺人事件」としてのニュアンスを持った台詞であったと言えるのである。

 

『それからうとうとと、僕は二時間ばかり眠ったらしいのです。まぶしいので、ふっと眼が覚めた。僕をおおっていた一本松の影が、太陽の運行と共に移動して、僕の顔はむき出しの日光にさらされていたわけですな。僕は眼をぱちぱちさせながら、上半身を起した。

 見上げると、大帽子山も小帽子山も、白い雲が流れているだけで、ほんとに気持のいい好天気です。下方に黒髪池もキラキラと光り、あたりの風物は動かず、耳がジーンとするほどの静かさでした。

「あいつら、雨女などと罪をなすりつけ合っていたが、この世に雨女なんてあるものかい。バカだなあ」

 そう呟きながらスケッチブックを開き、帽子山の山容や池の形、高山植物の花の色などを、ゆっくりと写生し始めました。邪魔が入らないので、ゆっくりとスケッチが出来、二時間後に女たちが戻って来るまでに、かなりの枚数が完成しました。

 最初に黒助が戻って来て、十分後にはおスガが、

「やっ、ほう。やっ、ほう」

 などと、あらぬことをわめきながら、かけるようにして下山して来ました。いささかも疲れた様子は見えません。

「小父さん。待たせて悪かったわね。もう元気は回復したでしょう。チビはまだ?」

「まだだよ」

 スケッチブックや色鉛筆を片付けながら、僕は答えました。

「あいつ、また昼寝してるんだな。仕様がないなあ。何かあると直ぐ昼寝をするんだから」

「そうよ。そうよ」

 黒助が賛意を表しました。

「それで夜は夜で、大いびきをかいて、寝言なんかを言うんだからねえ」

 三人車座になってジュースを飲んだりしていると、三十分ほど経ってチビが小帽子山の方から降りて来ました。おスガがきめつけました。

「また昼寝してたんだろう。全くお前みたいに昼寝の好きな女もめずらしいよ」

「昼寝なんかするもんですか。イイ、だ」

 チビは顎(あご)を突き出しました。

 「あたしゃね、高山植物の採取をしてたんだよ。もともと植物には趣味があるんでね」

 見ると植物が根こそぎ引き抜かれて、チビの手に束になっています。僕は注意をしてやりました。

「おいおい。根こそぎは乱暴だよ。根さえあれば、また咲くじゃないか」

「だって、これ、対山荘に移植してやろうと思うのよ。それにこの根、食べられるかも知れないじゃないの。細いゴボウみたいでさ。少くとも酒のサカナぐらいにはなるわよ」

 空には白雲があわただしく行き交(か)って、風も少々ひんやりとして来たようです。そこで出発と言うことになりました。おスガもチビも、自分が雨女でないという証しを立てたものですから、満足して、そういがみ合うこともなく、割に和やかにリュックをかつぎ上げました。

 ところが山の天気というものは、判らないものですねえ。

 イガグリ峠を出て倒木の道を経て、キノコを採ったあたりの赤樺の林にさしかかると、ポツリと上から垂れて来たものがある。ふり仰ぐと、入り組んだ梢のあわいに見える空が、おどろおどろと黝(くろず)んで、落ちて来たのは虫や鳥のオシッコではなく、まさしく雨の雫(しずく)と知れました。

「それっ。たいへんだ」

「小父さん。走るわよ」

 と、三人の女族は呼び交しながら、素早く雨具を着用して、走り出しました。僕もビニールの雨具を着たが、御存じのように無器用なたちでしょう。ボタンをかけ終ってフードをかぶると、女たちの姿はすでになく、雨も次第に烈しくなって来るようです。直接に道には落ちて来ませんが、赤樺その他の樹々の葉にたまって、まとまって大粒になり、ぽたぽたと音を立て始めました。

 そこで僕も走り出しました。

 その時初めて発見したのですが、山道というのは、登るよりも降りる方がつらいものですねえ。前屈みになる関係上、足先が靴につまって痛いし、石ころや岩の根が足裏にひびくし、それに雨が先回りをしたらしく、つるつるとすべるのです。何度尻餅をついたわ、よろけたりしたか、判らないほどです。

「うば捨て山じゃあるまいし、このおれを放って逃げて行くなんて、何と薄情な女たちだろう」

 僕は彼女らをのろいつつ、やっと一時間後に帽子高原に到着、草原を横切って、対山荘に戻って参りました。女たちはもちろん帰着していて、着換えをすまし、食事の準備に大わらわでした。

「おや。小父さん。ずいぶん早かったわねえ」

「すっかり濡れたわね。こちらはこんな小降りなのに」

 対山荘付近はパラパラの小降りで、しかしイガグリ峠方面を眺めると、深い霧にとざされていて、つまり女たちは雨に先立って遁走(とんそう)し、僕だけが雨の中をよたよたと走っていたというわけですな。おスガが猫撫で声で言いました。

「ずいぶん冷えたでしょう。焼酎でも飲みましょうよ。でもワリカンよ」

 何がワリカンかと、僕も少々腹立ちましたが、こんな女たちを相手に喧嘩するのも大人気ないので、

「ふん。ワリカンか。じゃおれの分、ここに置くよ」

 と言い残して、アトリエに引込みました。着換えをしながら台所の方に耳を立てていると、黒助の声で、

「今日は馬肉のナマと行こうよ。サシミがうまいそうよ」

「でも、あのおっさんはナマで食べるかしら?」

「じゃ今日採って来た植物の根を、肉といっしょに煮て――」

 これはチビの声です。

「おっさんにあてがっとけばいいよ」

 着換えをすませて台所に出ると、チビがせっせと根を切っていたところでした。ゴツンと心にひっかかるところがあって、

「おい。その紫色の花、ちょっと貸して呉れないか。植物図鑑で調べるから」

 アトリエに戻って図鑑で探し当てた時、僕は体中がゾーッとして、毛が逆立ちしましたねえ。何とそれはトリカブトの花だったからです。僕はあわてて台所に突進した。

「おい。君たち。これは何の花か知ってるか?」

 僕は図鑑のその頁をぴたぴたとたたきました。

「何だか虫が知らせると思ったが、これ、トリカブトなんだぞ。こんなものを酒の肴にあてがわれて、たまるもんか」

「へえ。何なの。そのトリカブトって?」

「知らないのか。無知蒙昧(もうまい)な輩(やから)だなあ。猛毒があるんだぞ。アイヌの毒矢は皆、この毒を使ってるんだ」

「まあ、猛毒だって?」

 三人の女は大あわてして手を洗い、各々部屋に戻って、それ赤チンを、それオキシフルをと、大騒ぎです。毒が皮膚から吸収されるものか。それよりもそれを食わされそうになったおれは、一体どうなるんだと、面白くない気持で台所に突っ立っていたら、やがてチビが顔をのぞかせて、

「小父さん。それ、どこかに捨てて来てよ。気色が悪いから」

 何と勝手な言い草でしょうね。しかし言って聞かせても判る相手じゃないから、僕はそれらをひとまとめにして新聞紙にくるみ、山荘裏のくさむらにポイと捨てて来てやりました。

「あやうく毒殺されるところだったな。あぶない。あぶない」

 飯盒(はんごう)で自分の飯をたきながら、僕は思いました。

「あんな危険な女たちのつくったおかずを、もう決して口にしないことにしよう」

 アトリエに戻り、鮭罐(さけかん)をごりごり切っていると、扉をほとほとと叩いて、黒助が呼びに来ました。

「小父さん。焼酎飲みに来ない?」

 僕は一瞬ためらいました。また何か食わせられはしないかと、心配したのです。

「うん。でも――」

「でももストもないわよ。ちゃんと割前を払ったんでしょう」

 そう言えばそうであるし、〈何でも屋〉の焼酎に毒が入っている筈がない。おかずさえ食わなきゃいいんだと、ついにまた宴に参加する気持に踏み切ったのです』

 

「ずいぶんケチな動機で踏み切ったもんだなあ」

 私はあきれて嘆息した。

「そんなケチな根性だから、女にもなめられるんだよ。そんな場合、毅然とした態度をとって、女どもを追い出す方向に踏み切るべきだよ」

「そう僕も思ったんですがねえ。相手が石臼みたいな女たちでしょう。これはムリに追い出すより、策略をもって追い返すべきだと――」

「え? 策略? どんな策略だい?」

「それを申せば長いことになりますが――」

 山名君は浮かない表情となり、清酒瓶を耳のそばに持って行って、コトコトと振った。振らなくても、ガラス瓶だから、透けて見える。もう酒がなくなったというデモンストレーションなのである。

「あんたもお仕事があるでしょうから、今夜はここらで失礼して、続きは次回に――」

「おいおい。イヤな真似はよせよ。もう台所に酒はないのか?」

「ええ。これですっからかんです」

 山名君は酒瓶を置いた。

「何なら買って参りましょうか」

「仕方がない。二級酒でいいよ、二級酒で」

「何ですか。僕の話が二級酒にしか価しないというわけですか」

 彼は頰をふくらませた。

「折角面白い話だと思って参上したのに、それを二級品だとは――」

「いいよ。いいよ。君の好きなものを買っといで」

 女に対しては弱いのに、私相手では彼は俄然(がぜん)強くなるのである。

「そうですか。では、そう言うことに」

 やがて山名君は意気揚々として、一級酒を小脇にかかえて戻って来た。ポケットから牛罐を二つ取り出した。

「帽子高原ではね、ニクと言えば馬肉のことなんですよ。ブタは豚肉、鶏はトリ肉と言いますがね、肉屋に行ってニクを呉れと言うと、黙って馬肉を呉れるんです」

「ほう。牛は食わないのかね?」

「ほとんど食べないようですな。あそこらの牛は肉が固いからでしょう」

「で、その夜、君は馬肉の刺身を食ったのか?」

「食べるもんですか。馬の生肉なんて。あたったら、たいへんですからねえ。でも、東京に戻ってさる人に聞いたら、馬肉には寄生虫はいないそうですねえ。そうと知ってたら、食べればよかった」

 山名君は続切りで牛罐をあけた。

「女たちはその刺身を食べたのかね」

「ええ。粉ワサビをといてね、まるでマグロの中トロみたいだなんて言いながら、うまがっていたようです。僕にも食えとすすめたが、こちらも意地ですからねえ、鮭罐専門と行きました」

 

『その中だんだん酔っぱらって来ると、またチビとおスガが口争いを始めました。どうもこの二人は、最初から口喧嘩ばかりしていて、そんなに気が合わなきゃ、一緒に旅行しなけりゃいいのに、と思うんですが、当人たちにしてみれば、やはり張合いがあって愉しいのでしょう。つまりお互いに粉ワサビみたいな役割を果しているんだと思います。

 口争いの原因ですか。高山植物を引っこ抜いて来たという件で、

「チビ。お前は小帽子山に登らずに、麓で昼寝して、申し訳に雑草を引き抜いて来たんだろ」

 このおスガの言葉が、チビを刺戟したんですな。

「小帽子山には登りたくなかったんだろ」

「なによ、おスガ。何であたしが登りたくないわけがあるんだい」

「もし登って雨に降られりゃ、チビが雨女になってしまうからさ」

「冗談じゃないよ。おスガこそ大帽子山に登らなかったんだろ」

 そういう言い争いが、十分ぐらいも続いたでしょうか。頃を見はからって、僕はけしかけるように言いました。

「君たちは二人とも、帽子を山頂に置いて来たんだろ」

「そうよ」

「じゃ二人で明日、別々に登って、確認し合えばいいじゃないか」

 いくらタフな女たちでも、三日続けて山登りすれば、ヘばって帰京する気になるかも知れない。それが僕の策略でした。果して女たちはその餌に食いついて来た。

「そうよ。小父さんの言う通りだわ」

「よし。おスガは明日小帽子山に登れ。あたしゃ大帽子山に登るよ」

 おスガもチビも、もう意地になったようです。意地にでもならなきゃ、同じ山道を三度も登り降り出来る筈がありません。

「じゃ検査役に、小父さんもイガグリ峠に来て呉れない?」

「イヤだよ。あんなとこ。おれの足はマメだらけなんだから、それだけはかんべんして呉れ」

 結局僕は検査役を免除され、黒助がイガグリ峠で待機するということに決まりました。黒助はあんまり気が進まないらしく、

「同じとこばかりに行くのは、つまんねえなあ」

 と、愚痴をこぼしつつ、やっと承諾しました。黒助は三人の中では一番年長らしく、どちらかと言うといつもたしなめ役に回っていました。

 さて、宴果ててアトリエに引取り、僕はのうのうと眠りに入りました。明日は女どもはいない。ゆっくりと孤独が味わえると思うと、まことにのんびりした気分でしたねえ。

 朝六時頃、

「小父さん。行って来るわよっ!」

 という声に目覚めて、寝ぼけ眼をこすりながら庭に出て見ると、三人はもうリュック姿で、驚いたことには黒助が馬に乗っていました。馬と言っても毛並もよごれた、よぽよぼの駄馬でしたが。

「ど、どうしたんだ。その馬」

 と訊ねると、村の青年に頼んで、今日一日タダで借りて来たとのこと。彼女たちも一応女優の卵ですから、色目か何かを使って借りて来たに違いありません。この辺の素朴なる青年は、東京の女優と聞いて、ついふらふらとタダ貸ししたのでしょう。

「君たち、一体馬に乗れるのかい?」

「乗れるのかいって、ちゃんとこうやって乗ってるじゃないの」

 チピがつんけんと言い返しました。

「この馬はね、おとなしい馬だから、あばれたりすることは絶対にないってさ」

「そりゃそうかも知れないが、こんなよぼよぼ馬で、どうしてあの倒木地帯を通り抜けるつもりだね?」

「倒木? ああ、そうだったわね」

 何かこそこそ相談しているようでしたが、

「倒木地帯の前のところにつないで置いて、あとはあたしたち、自分の足で登るわよ」

「そうかい。それならいいけれど――」

 僕はチビに言ってやりました。

「頼むから毒キノコだのトリカブトだののお土産はおことわりだよ。まあせいぜいくたびれて戻っておいで」

「まあ。行けないもんだから、あんな厭がらせを言ってるよ。いい、だ」

 そして彼女らは落葉松(からまつ)道を通って、やがてその姿は消えました。

 ふり仰ぐと、今日も雲一つない好い天気です。これが夕方になるとザーッと来るんだからな、などと思いながら、顔を洗いに渓流の方に歩を踏み出すと、股やふくら脛(はぎ)がぎくぎくと痛む。昨日足を酷使したので、筋肉が凝ったのでしょう。仕様がないので台所で歯をみがき、まだ体全体の疲れが抜けていないようなので、ベッドに取って返して、昼頃までぐっすり眠りました。

 起き出て、散歩がてらに〈何でも屋〉におもむき、食料品を買い求め、ついでにもぎ立ての唐モロコシを六本ほど分けてもらい、対山荘に戻って茄(ゆ)でて食べていると、玄関の方から、

「ごめん。ごめん」

 という声が聞える。何事ならんと唐モロコシを横ぐわえにしたまま出て見ると、詰襟服の中年男が立っています。僕の姿を見ると、皮鞄をがちゃがちゃと開きながら、

「ええ。早速ですが、地代をいただきに来ました」

「え? すると、あんたは?」

「村の役場の者です」

 詰襟をゆるめて、タオルで首筋をごしごしと拭きました。いくら高原でも、真昼の光線はかなり暑いのです。

「ああ。坪十二円のやつですね」

「そうです」

「暑いでしょう。つめたい水でも一杯、いかがですか」

 僕はお世辞を言いました。僕は割かた役人には弱い方なのです。水をコップに入れて持って来て、

「で、総計おいくらですか?」

「ええと――」

 役人はうまそうに水を飲み、あっさりと言いました。

「合計二万四千円です」

「え? 二万四千円?」

「そうです。木村さんは二千坪借りていらっしゃる」

「二千坪も?」

 僕は思わず大声を立てました。せいぜい百坪か百五十坪借りていると思っていたのに、二千坪だなんて何と言うことでしょう。

「二万四千円、今すぐ払えと言うんですか?」

「そうです。契約は契約ですからねえ」

「払えないと言えば?」

「払えなきゃ、没収するだけです。立退(たちの)いていただくことになりますな」

「そりゃ弱ったな。せめて半額だけ今年収めて、あとは来年に――」

「そりゃダメですよ。二千坪だからこそ、坪十二円にしてあるんだ」

 役人の口調は、ちょっと横柄になりました。

「来年に回すと言うなら、村会にかけて、地代値上げということになりますよ。それでよかったら、どうぞ」

 悲憤の涙が胸にあふれて来るような気がしましたねえ。でも、地代はこちらで持つという、木村との約束は約束です。僕は足音も荒くアトリエに戻って、二万四千円という金をわし摑(づか)みにして、玄関に出て来た。

「では、払います。仕方がない」

「そうですか」

 役人は鞄の中から受取証を出し、僕の手から札束をもぎ取るようにして、コップの残りの水を飲み干しながら言いました。

「お宅の水はつめたいですな」

 僕は返事もしてやらなかった。コップを引ったくって、玄関に戻ると、もう役人の姿は見えませんでした。

 僕は俄(にわ)かに食欲が喪失し、庭に出てスケッチなどやろうとしたが、心が乱れて鉛筆を手にする気にもなれません。猛獣のようにうなりながら、そこらを歩き回っていますと、また入口の方から、

「ごめん。木村さんはいませんかあ」

 と呼ばわる声がする。行って見ると、開襟シャツを着た色の黒い青年で、これまた皮鞄を手に提(さ)げている。

「なんですか、あんたは。また役場の人ですか」

「そうです。よく判りましたな」

 青年はにやにやして、皮鞄を開きました。

「水道代を徴収に来ました。お宅はたしか蛇口が三つでしたな」

「そうですよ。それがどうしたんです?」

「蛇口一箇で五百円、あとは一つ増す度に二百円ずつですから、合計九百円いただきます」

「役場じゃ水道代まで取るんですか?」

 僕は嘆息しながら、ポケットから千円札を出しました。

「どうして思い合わせたように、今日取りに来るんですか?」

「いえ。この別荘の人は、来たかと思うとすぐ帰ってしまうんでね、情報が入り次第おうかがいするというわけなんですよ。本宅に一々連絡していては、通信費がかかるんでねえ」

 なるほど役人どもが相次いで来訪するわけは判ったが、その度に金を取られるのは僕なんですからねえ。仏頂面をするのも当然でしょう。役人はおつりの百円玉を置き、

「では」

 とか何とか、あいまいなあいさつをして、そそくさと門を出て行きました。

「ちくしょうめ!」

 僕は後ろ姿をにらみつけ、家の中にかけ込み、あらゆる蛇口を開いて、水を出し放しにしてやりました。ここの水道はメーター制じゃなく、一箇いくらの計算ですから、使わなきゃ損だと言うわけです。水は僕の復讐心みたいに烈しく、飛沫を上げてほとばしりました。

 それでいくらか気分が晴れたが、考えてみると水を出し放しにして、それがどうって言うことはありません。再び庭に飛び出して、ぐるぐる歩き回り、帽子連山の方を眺めると、今日はふしぎにいい天気で、まだ雨の気は少しもただよっていないようです。

「ほんとにあいつらと来たら――」

 僕は鼻息荒くつぶやきました。

「おれが地代や電燈代やで、三万円以上払ってるというのに、タダでのうのうと山登りなんかしてやがって。一体おれを何と思ってるんだろう」

 あんなにごっそり持って行かれては、とても一夏は持ちそうにもない。木村に手紙を出して、僕が使っているのは山荘とその周辺の土地だけだから、あとの雑木林の分の地代を至急送って呉れ、と書こうかなどと思いわずらったり、事情を女どもに話して、宿泊料として少し出させようと考えてみたり、しかしあの女たちが素直に出すだろうかと思ったり、あるいは頭を上げ、あるいは頭を垂れたりして歩き回っている中に、

「あの女たちはキャンプに来たと言ってたが、どのくらいの旅費を用意して来たのだろうか」

 という疑問にぶつかりました。十万や二十万という大金を用意して、キャンプに出かけることはあまりないことですからねえ。

「よし。今晩は巧みにポーカーに誘い込んで、あいつらの有り金全部をはたかせてやろう。無一文になれば、彼等は食うことが出来なくなって、東京に逃げ帰るだろう」

 その名案に僕はぽんと掌を打ち合わせました。僕は幼にして勝負ごとは大好きで、たいていの賭けごとには長じているのです。あの女たちは心臓は強いが、脳が弱いようなところがあるから、成功するんじゃないかというのが、僕のねらいでした。

 その思い付きに気を好くして、でもスケッチにふけるほどの気分にはならず、〈何でも屋〉に降りて行って、安い釣竿や針や糸など一式、買い込んで来ました。さっき下見した様子では、近くを流れる渓流には、魚がいるらしい。ヤマメかハヤでも取れれば、その分だけおかず代が浮く。趣味と実益をかねた暇つぶしというのが僕の目算でした。なにしろ自給自足の休制を固めなきゃ、とても一夏越せそうにありませんからねえ。

 かれこれしている中に、ふと帽子連山の方を眺めると、淡青色の空をバックに、くっきりと山容が浮び上り、なだらかな斜面がイガグリ峠に凹んでいます。

「チェツ。運のいい奴らだなあ」

 僕は思わず舌打ちをしました。ずぶ濡れになって戻って来る姿を想像していたのに、舌打ちしたくなるのも当然でしょう。

 やがて一時間ほど経って、山荘の裏手の方角から、

「やっ、ほう」

「やっ、ほう」

 と、れいの奇声が聞えたものですから、のそのそと(股やふくら脛(はぎ)がまだ痛いので)出て行くと、三人がにこにこと白い歯を見せながら、こちらに手を振っています。それだけならいいけれど、あの老馬の上におスガとチビが二人で得意げにまたがり、黒助が手綱を取って、どこで拾ったのか知らないが、シャンシャンと鈴を鳴らしたりしています。呆れて近づくと、哀れや老馬はその重みに耐えかね、全身汗みずくになって、はあはあとあえいでいます。いくら相手が女でも、二人も乗せりゃ、へたばるにきまっています。

「何だ。ひでえじゃないか」

 僕は義憤を感じて、黒助から手綱を引ったくり、大声を出しました。

「いくら何でも、これじゃ馬が可哀そうだ。早く降りなさい。降りろ!」

 馬の胴体をがさがさゆさぶったので、二人は悲鳴を上げて、ころがり落ちるようにして降りました。僕は早速馬を庭に引き入れ、バケツで水をやると、馬は喜んでごくんごくんとまたたく間に飲んでしまいました。バケツ一杯で、約一斗はあるでしょうな。それをいっぺんに飲み干したんだから、驚きです。

「こんなに咽喉(のど)を渇かせてる馬に、二人も乗るなんて、君たちにはヒューマニズムというものがないのか」

「だって約束だもの」

 チビが口をとがらせました。

「行きは黒助が一人で乗りずくめだったから、帰りはあたしとおスガが乗ったのよ」

「馬の都合も考えず、勝手にそんなことをしていいのか」

 老馬は感謝のまなざしで、しょぼしょぼと僕の顔を眺めて、合点々々しました。

「おお。よしよし。腹もすいただろう。今食べ物を持って来てやるから、待ってろよな」

 僕は台所に飛んで行って、唐モロコシと野菜の切屑を持って戻って来ました。馬は大喜びで、唐モロコシや野菜をぱりぱりと食べました。よほど飢えと渇きに苦しんでいたんですな。よりによって悪い女たちに借りられたもんです。

 僕の見幕が烈しいものですから、女たちは五六歩離れて、こそこそ話をしていました。

「あっ。もったいないわねえ。あの唐モロコシ」

「おいしそうねえ。あたしたちに御馳走しないで、馬に食わせるなんて、一休あのおっさん、どういうつもりかしら」

「あれっ。あのニンジン、あたしたちのニンジンよ。ひとの野菜を馬に勝手に食べさせるなんて、むちゃねえ。そんなことが許されていいもんかしら」

「黙れ!」

 僕は怒鳴りました。

「さんざん馬をタダでこき使って、ニンジンやるのも惜しいのか。図々しいにも程があるぞ。早く馬を持主に帰して、ていねいにお礼を言って来い。そうしないと、対山荘の恥になる!」

 少しきつく言って置かないと、何を仕出かすか知れないので、僕はことさら強く突っぱねました。すると、女たちは反発すると思ったら、案外素直に頭を垂れて、

「はい」

 と僕から手綱を受取って、馬をいたわるようなポーズを取りながら、村の方に降りて行きました。ちょっと意外でしたが、思うにこれは近頃の若い女たちの特徴で、下から出るとつけ上るけれど、頭からがっと押えると案外シュンとなるものらしいです。ことに彼女らは女優の卵なので、監督さんあたりにひとにらみされると、とたんに従順になるという傾向があるのかも知れません。嬉しくなって、僕は彼女らの後ろ姿に追討ちをかけました。

「今日は風呂をわかせよ。おれが入るんだから」

 今日のポーカー作戦はうまく行きそうだと、とたんに愉快になって、僕は家にとって返し、釣竿をかついで渓流にとことこと降りました。夕暮れ時というのは、川魚釣りには一番いい時刻なのです。一時間ほどの間に型のいいヤマメを三匹釣り上げて、アトリエに戻って来ると、連中もいくらか反省したと見え、黒助は台所仕事をし、おスガとチビはドラム罐の下の薪(たきぎ)の燃え具合をしきりに調整していました。台所の板の間には、唐モロコシ十数本と安ウィスキーの瓶が二本置かれています。僕は黒助に訊(たず)ねました。

「馬は戻して来たのか」

「戻して来たわよ。ついでに唐モロコシ十本、もらって来ちゃった」

「もらった? 買ったんじゃないのか?」

「買うもんですか。馬に食わせるほど実っているんだもの」

 黒助は庖丁の手を休めました。

「おスガったら、図々しいのよ。トリ鍋にするから、鶏一羽呉れとせがんで――」

「せがむって、タダでか」

「そうよ。そうしたらさすがに向うの青年もイヤだと言うから――」

「あたり前だ。馬をタダ借りされた上、鶏一羽をサービスするような好人物が、この世にいるわけがない」

「そうでしょ。だからあたしが、唐モロコシで我慢しましょうと、おスガをたしなめてる中に、チビがキビ畠にもぐり込んで、もうゴシゴシともいで来てしまったの」

「まるで押売り強盗のたぐいだね」

 僕は呆れて嘆息しました。

「それで、そいつを肴にして、今日もウィスキーを飲むのかい?」

「ええ。お互いに雨女じゃないことが判ったから、お祝いの会をやるんだって」

「そうか。頂上にお互いの帽子を確認して来たというわけだね。君は何をしてた?」

「イガグリ峠の一本松の下で、ぼんやりしてたわ。つまんないの」

 黒助は溜息をつきました。

「寝ころんで、雲の動きなどをぼさっと眺めて、時間をつぶしてたのよ」

「雲を見て、何か感じなかったかね」

 僕は興味をもよおして、訊ねてみた。

「何かって、何をよ?」

「うん。うまく口では言えないが、大自然の悠久さとか、人間の孤独だとか、またそれに伴うしんかんとした愉しさをとかさ」

「感じなかったわ。全然」

 黒助は小さなあくびをしました。

「感じたのは、退屈だけよ」

 僕が昨日感じたことを、彼女は何も感じていない。ふうん、そんなものかな。世代の相違というやつかな、と僕にはよく判らなかったんですが、あんたはどう思いますか?』

 

「そりゃやっぱり、世代とか年齢の相違だろうね」

 と私は答えた。

「そんなチンピラ小娘に、自然の悠久や孤独を説いたって、仕方がないやね。やはり君みたいな中年男にならないと――」

「中年男? それ、僕のことですか?」

「そうだよ」

「冗談でしょう。中年男だなんて」

 山名君はコップを手にしたまま、大いにふくれた。

「まだ青年ですよ。そりゃ生れは大正末期だけれど、育ちは昭和ですからね。あんまり失礼なことは言わないで下さい」

「しかしだね、イガグリ峠如きに登って、足腰を痛めるなんて、休力的に衰えが来ている証拠だ」

「イガグリ峠と安っぽくおっしゃいますがね、どんなにきつい峠か、登ったこともないくせに――」

「そうだな。そう言えば登ったことはないが――」

 ちょっと私も言葉に窮した。

「と、とにかく君は、人生の空しさとか、虚無を知っている。ところが近頃の若い者には、それがない。行動があるだけだ。だからむやみやたらと山に登りたがる」

「虚無は彼女らの方じゃないですか」

 ぐっと一口飲んで、彼は反論した。

「一本松の下で、何も感じないで、退屈ばかりしていたというのが、虚無、すなわち、頭がからっぽだという証拠です」

「よしよし、判ったよ」

 面倒くさくなって、私はあやまった。

「僕の言い方が悪かった。君を青年だとすれば、その女たちの精神年齢は十二三歳の子供だというわけだ」

「そうです。それなら僕も納得出来ます」

 山名君は安心したように、牛罐から一片つまみ上げて、口の中に放り込んだ。

「全く十二歳、いや、それよりも低く八歳ぐらいかも知れない」

「それでその夜は、成功したのか?」

 

『ええ。大成功でした。僕は先ず風呂に入って、アトリエで待機して