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2022/08/01

曲亭馬琴「兎園小説余禄」始動 / 「兎園小說餘錄」目次・佐州民在町孝行奇特者の儀申上候書付

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。特に「第一」は地下文書や事件文書の写しが多い。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。

 挿絵は画像が、今一つ、ぼんやりしているが、底本の画像をトリミング補正して使用することとした。また、本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない。稀に底本の誤判読或いは誤植と思われるものがあり、そこは特に注記して吉川弘文館版で特異的に訂した)。諸凡例は先行する「兎園小説」(正編)に準じて、字下げその他は必ずしも底本に従わない(ブログのブラウザ上の不具合を防ぐため)。【 】は二行割注。今まで通り、句読点は現在の読者に判り易いように、底本には従わず、自由に打った。鍵括弧や「・」も私が挿入して読みやすくした。踊り字「〱」「〲」は正字化した。【二〇二二年八月一日始動 藪野直史】]

 

兎園小說目次

 

   第 一

佐渡の州民孝行幷奇特者の御褒美錄【凡廿人。】

[やぶちゃん注:これは吉川弘文館随筆大成版では、『佐州民在町孝行奇特者の儀申上候書付』となっている。これは、以下に見られる通り、第一条の標題と同じである。]

平井權八刑書のうつし

白子屋熊忠八等刑書の寫し

惡黨半七平古等刑書の寫し

佐野氏賜死記錄

奸賊彌左衞門紀事

日本左衞門人相書

深川八幡宮祭禮の日永代橋踏落衆人溺死紀事

西丸御書院番衆騷動略記

鼠小僧次郞吉略記

僞男子假婦人

【此小說は、官府の事又は殺伐の事などは、しるすまじきとて、初より社友と定めたれども、別集以下獨撰に至りては、それにしも拘らず。世に殺伐の事なるも、亦勸懲の爲なれば、捨ずして錄したり。されば憚るべきすぢ多かれば、叨に人の見ることをゆるさで、いよいよ帳中の祕となすのみ。あなかしこあなかしこ。壬辰閏月中院。】

[やぶちゃん注:「叨に」「みだりに」。「壬辰閏月中院」「院」は吉川弘文館随筆大成版でも同じだが、これは「浣」(くわん)の誤り。「中旬」のこと。天保三年閏十一月十日から十九日までになるが、これはグレゴリオ暦換算では一八三二年十二月三十一日から一月九日に当たる。

    第 二

小泉兄弟四人幷一媳褒賞略記

[やぶちゃん注:「媳」は「よめ」と読む。「嫁」である。吉川弘文館随筆大成版では「略」が「之」となっている。]

尾張宮驛裁讃橋の銘

[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版では『熱田宮裁讃橋の銘』となっている。]

樂翁老候案山子の賛

筑後稻荷山石炭

[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版では『筑後稲荷山の石炭』となっている。]

太田氏配流略說

[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版では最後が「略說」ではなく『風聞』となっている。]

八木八郞墓石

農民文次郞復讐略記

佐渡州妙法山蓮長寺瘞龜碑

[やぶちゃん注:「瘞」音「エイ」で、「埋める・埋葬する」の意。]

泊船門

墨田川の捨子

木下建藏觀琉球人詩

感冒流行

鰻鱈の怪

雷雪

目黑魚

靈蝦蟇靈蛇

[やぶちゃん注:「蝦蟇」は「がま」。ヒキガエルのこと。]

雀戰追考

大空武左衞門

[やぶちゃん注:「おほぞらぶざゑもん」と読む。]

己丑七赤小識

稻葉小僧假男子宇古

 

兎園小說餘錄 第一

 

   〇佐州在町孝行奇特者の儀申上候書付

             岡松八右衞門

             金澤 瀨兵衞

          佐州加茂郡關村

           觀音堂寺

              淨 入【當未七十七歲。】

右淨入儀、奇特成取計有ㇾ之趣相聞候に付、寬政十午年十一月、在勤鈴木新吉相糺候處、近鄕道橋等取繕、往來の助に相成候樣心懸候趣、奇特の儀に付、褒美として鳥目七貫文差遣候段、文化四卯年十二月申上置候處、其後、次第に老衰いたし、托鉢も相成兼、致難儀候之趣、無相違相聞候に付、同五辰年五月、在勤土屋長三郞相糺候處、是迄奇特を盡候も有ㇾ之に付、一生の内爲手當、一ケ年鳥目四貫文宛差遣申候。

[やぶちゃん注:「佐州」佐渡国。

「岡松八右衞門」佐渡奉行岡松久稠(「ひさしげ」と読むか)。文化七(一八一〇)年一月十一日就任、同十年二月七日、佐渡にて病死した。ここで言っておくと、佐渡奉行は正徳二(一七一二)年以降は、定員が二名となり、一名が現地の佐渡に在勤し、もう一名は江戸に詰めた。佐渡現地への在勤中の奉行は単身赴任であった。佐渡は私の好きなところで、人情が厚く、既に三度訪ねている。私が二〇一五年四月に全電子化訳注を完遂した「耳囊」の作者根岸鎮衛(しずもり)も嘗つて佐渡奉行を務めており(天明四(一七八四)年から天明七(一七八七)年七月まで。勘定奉行に転任)、その折りの話も同作には語られている。また、私のブログ・カテゴリ「怪奇談集」の全篇電子化を終っている「佐渡怪談藻鹽草」(各話へのリンク集ページ)は、トビッキりに面白い佐渡限定の怪奇談集である。是非、読まれたい。

「金澤瀨兵衞」(かなざはせへゑ)も佐渡奉行で、文化八(一八一一)年二月から文化十三年七月まで務めた。渡辺和弘氏のブログ・サイト「佐渡人名録」のこちらによれば、相川金銀山の運営の低下を積極的に改善し、『失業者に職を与えた』りて、鉱山の危機を救った『良吏として知られた』とある。長崎奉行に転役した。渡辺氏の以上のサイトは、上記の「佐渡怪談藻鹽草」でも盛んに利用させて戴いた素晴らしいサイトである。

「加茂郡關村」「觀音堂寺」現在の新潟県佐渡市関にある観音堂(グーグル・マップ・データ。以下指示のないものは同じ)。ストリートビューで見る限り、堂はあるが、無住のようである。

「當未」これは以下の総ての書付が纏めて書かれた文化八年辛未(かのとひつじ)「當」年での年齢を意味する。

「寬政十午十一月」一七九八年末から翌年。

「鈴木新吉」佐渡奉行鈴木正義の改名後の名乗り。在任は寛政九(一七九七)年閏七月二十四日から文化三年(一八〇六)年三月四日までで、奈良奉行に転任。

「文化四卯年十二月」一八〇七年は旧暦十二月二日まで、以降は翌年。

「土屋長三郞」佐渡奉行土屋正備(まさよし)。在任は文化三(一八〇六)年三月四日から文化六(一八〇九)年八月十二日までで、禁裏付に転任。

「四貫文」一文銭を紐に一千枚通したものを言い(実際には少し少ないのが普通だったようである)、千文が一貫。文化年間の米一升の平均小売価格は百文であった。現行で一升は七百円と措定すると、一貫文は七千円で、四貫文は二万八千円となる。以下はそれでご自分で計算されたい。なお、以下、夥しい褒賞が並んで驚くが、実は佐渡国は完全な幕府領で「一国天領」と呼ばれ、金山のお蔭で経済や生活状況は平均的には悪くなかった。何より、佐渡国では、幕府が独自の貨幣を造って通用させていたのである(国外への持ち出しは厳禁)。どこの国でもこうだったわけではあるまい。さればこそ、馬琴もこの話を書こうと思い立ったものであろう。

 以下、読み易くするために、次の書付との間を一行空けた。]

 

          佐州羽茂郡松ケ崎村

       持高十六石七斗餘 久右衞門【當未四十二歲】

右久右衞門儀、奇特の取計有ㇾ之相聞候に付、文化六巳年三月、在勤土屋長三郞相糺候處、村方取締其外村用等、名主之差添世話致し、小前の者共、上納米差支候節は、取替爲相納右之分、追々に取立候樣取計、其上困窮の者へは、相當の見繼致遣、文化辰年溝口鈞之助家來の内、松ケ崎へ出張の節、右久右衞門所持の明家、旅宿に申付候間、宿代被ㇾ下候處、右之内村入用に可ㇾ致旨にて、村仲間へ致配分候由、其外、是迄奇特の儀有ㇾ之趣相聞候に付、白銀二枚差遣申候。

右久右衞門儀、文化七午年三月、澤崎村一村燒失に付、一統難儀に及び候處、飯米其外器物等、夫々差遣救ひ候趣相聞候に付、同年八月在勤、岡松八右衞門相糺候處相違無ㇾ之、奇特の儀に付褒置申候。

[やぶちゃん注:「羽茂郡松ケ崎村」新潟県佐渡市松ケ崎

「村用」村の公的な用事。

「小前」(こまへ)は小前百姓で、江戸時代、田畑や家屋敷は所有するが、特別な家格や権利を持っていなかった本百姓を指す。但し、小作などの下層農民を広く指した場合もある。

「見繼」続けて様子を見守ってやること。

「溝口鈞之助」不詳。「きんのすけ」の読んでおく。

「入用」(いりよう)で、この場合は村の公的利益の意。

「澤崎村」小佐渡の南端の佐渡市沢崎(さわさき)。]

 

          佐州雜太郡竹田村

       持高八石一斗餘 又兵衞【當未五十五歲】

右又兵衞儀、孝行者之由相聞候に付、文化六巳年六月、在勤柳澤八郞右衞門相糺候處、又兵衞儀、近年病身に相成、百姓稼いたし兼候に付、石臼の目切を致渡世候處、父又右衞門儀八十歲に相成、及老衰行步不相叶候處、所々見物に參度旨申候節、近邊に候得ば脊負罷越、遠方の節は竹にて駕龍を拵乘せ致、雇人兩人にて父望の所へ連行、妻子は雜物等持運び、又兵衞留守の節は、妻子共父望の通致遣候旨、全又兵衞孝心を盡し候故、妻子も貞實に仕へ、一同奇特の儀に付、又兵衞へ鳥目五貫文、妻あきへ鳥目二貫文差遣申候。右又右衞門儀は去午年病死仕候。

[やぶちゃん注:「雜太」(さわた)「郡竹田村」現在の佐渡市竹田は真野の北(但し、それとは別に小佐渡の山中にも飛び地がある。戦前の地図を見ると、「眞野村飛地」とあった。古くからの山林(水源?)ででもあったものか)。

「柳澤八郞右衞門」佐渡奉行。文化五(一八〇八)年二月十七日就任、文化七(一八一〇)年十二月二十四日に普請奉行に転任。

「稼」「かせぎ」。

「石臼の目切」「いしうすのめきり」。磨り減った石臼の目を削って立てて修繕すること。

「行步不相叶候處」「ぎやうほ、あひかなはずさふらふところ」。歩行。「ありき」と当て訓してもよいが、公的な書付だから、音読みにしておく。

「參度旨」「まいりたきむね」。

「候得ば」「そふらえば」。この場合、歴史的仮名遣でも「へ」ではなく、「え」でよいのがこの手の文書の常識である。

「脊負罷越」「せおひ、まかりこし」。

「拵乘せ致」「こしらへ、のせいたし」。

「望」「のぞみ」。

「連行」「つれゆき」。

「通致遣候旨」「とほり、いたしやりさふらふむね。」

「全」「まつたく」。]

 

          佐州羽茂郡多田村

           甚太郞妻

               し げ【當未五十一歲】

右しげ義、奇特者之由相聞候に付、文化六巳年六月、在勤柳澤八郞右衞門相糺候處、夫甚太郞儀、九ケ年來中風相煩罷在、同人父甚兵衞儀、八十二歲に相成、及老衰候處、しげ儀、早朝より極晚迄、日雇稼に罷出、又は致賃仕事、纔の助精を以、兩人を育、食事には、被ㇾ雇先より隙を貰ひ歸宅いたし、兩人へ食事爲ㇾ致、右に准じ、眞實に仕へ、夫數年の病中、懇に致介抱候段、奇特の儀に付、褒美として鳥目五貫文差遣申候。

[やぶちゃん注:「羽茂郡多田村」佐渡市多田(おおた)。

「極晚迄」「ごくおそくまで」と訓じておく。

「育」「はぐくみ」。

「被ㇾ雇先より」「やとはれさきより」

「隙」「ひま」。

「爲ㇾ致」「いたしなし」。

「右に准じ」「みぎにじゆんじ」。ここは夫にもその夫に父にも分け隔てなく介護したことを言っていよう。

「夫」「その」か「をつと」か迷うところだが、指示語の「その」は、やや文脈に、妙に事大主義的な硬い構えの雰囲気が生じてしまうので、「をつと」と読みたい。]

 

          佐州加茂郡虫崎村

            兵吉下男

               喜 助【當未六十九歲】

右喜助儀、奇特者の由相聞候に付、文化六巳年十一月、在勤柳澤八郞右衞門相糺候處、幼年の頃、兵吉、祖父代より當兵吉迄、三代奉公、實體に相勤候旨、右村方の儀は、小村にて人數少に付、他村より幼年の者、貰請、養育いたし、年頃に相成候得ば、暇を取、他村へ立入候者、有ㇾ之、幼年より養育いたし候詮無ㇾ之候處、喜助儀は幼少より養育に成候恩分、忘却不ㇾ致、數十年奉公、實體に相勤候付、爲褒美鳥目五貫文差遣申候。

[やぶちゃん注:「加茂郡虫崎村」新潟県佐渡市虫崎(むしさき)。大佐渡の北の東側の海浜。

「實體に」「じつていに」。実直に。

「人數少に付」「にんず、すくなきにつき」。

「暇を取」「ひまをとり」。奉公の年季収めを乞い。

「養育候詮無ㇾ之候處」「養育し候ふ」も「之れ無くさふらうところ」と、せめて「も」は欲しい。]

 

          佐州雜太郡相川一丁目江戶

          澤金五郞借地長助養子

            佐州御雜藏小遣

              長 次【當未三十八歲】

右長次儀、孝行者の由相聞候に付、文化六巳年、在勤柳澤八郞右衞門相糺候處、十五年以前、長助方え聟養子に相越、御雜藏小遣相勤候處、養父長助儀、六十一歲に相成、年寄候に付、骨折、業も致兼、養母さつは、六十歲に相成、五年以前丑年以來、鼓服相煩、外、病、差添、久々快氣不ㇾ致、同人妻儀も出產後、肥立かね、殊に幼年の子供二人有ㇾ之、厄介多にて、取續致兼候に付、長次、夏向は烏賊獵等に罷出、晝夜相働、右體、困窮の中にて、兩親の者ども、朝暮の食事迄、萬端、篤く心を用ひ、貞實に仕、其上、養母幷妻子ども、小瘡、相煩、至、艱難に相暮候處、兩親の者を實着に相勞り候故、親共儀も長次を慕ひ、家内一同睦敷相交、孝心にいたし、殊に小遣も大切に相勤候趣、無相違相聞候に付、爲褒美鳥目五貫文差遣申候。

[やぶちゃん注:「相川一丁目江戶澤」現在の佐渡市相川江戸沢町(えどざわまち)附近と思われる。

「御雜藏小遣」(おざうぐらこづかひ)佐渡奉行所の雑用蔵の管理役人の使用人であろう。

「鼓腹」底本は「鼓服」だが、吉川弘文館随筆大成版でかく訂した。これは「こふく」で、所謂、病的な腹部の膨満や異様にお腹(なか)が張って、悪心(おしん)・嘔吐・便秘が起こる症状を言っていよう。

「肥立かね」「ひだちかね」。産後の肥立ちが悪く。

「厄介多にて」「やつかいおおきにて」。

「烏賊獵」「いかれう」。イカ漁。佐渡は対馬暖流とリマン寒流が交差するため、豊富な漁場を形成されており、中でも、この海流に特異性から、一年中、多様なイカ類が水揚げされるため、佐渡を代表する特産品の一つとなっている。

「小瘡」「こがさ」と読んでおく。慢性蕁麻疹ならば、家族に伝染はしないから、或いはアレルギー性蕁麻疹で、体質的に家族で発する可能性はあるかも知れない。或いは風疹や水痘を順に三人が発症したものか。

「睦敷相交」「むつまじく、あひまじはり」。]

 

         佐州加茂郡馬首村

           勘兵衞養子

               市 兵 衞【當未五十三歲】

右市兵衞儀、孝行者の由相聞候に付、文化七午年二月、在勤柳澤八郞右衞門相糺候處、十三年以前、勘兵衞方え養子に相越、諸事養父の心に隨ひ、無油斷渡世小身の百姓に候得共、養父へ不自由不相掛樣心掛、食物等迄、氣を付、孝心に仕へ、家内一同睦敷、村内の者へも柔和に交り候趣に付、褒美として鳥目五貫文差遣申候。

[やぶちゃん注:「加茂郡馬首村」佐渡市馬首。]

 

         佐州雜太郡河原田本町名主

           大坂御𢌞米世話肝煎

       持高九石五斗餘  源右衞門【當未五十五歲】

右源右衞門儀、奇特の取計有に之趣相聞候に付、享和三亥年三月、在勤鈴木新吉相糺候處、前年戌十一月地震の砌、町内一統及難儀に候に付、貧窮の者共へ、夫々飯米等施し相救候趣、奇特の儀に付、褒美として鳥目五貫文差遣候段、文化四卯年十二月申上置候。然處、此者儀、一體大坂御廻米世話肝煎申付置候處、致出精候趣相聞候に付、同七午年七月、在勤岡松八右衞門相糺候處、河原田御藏納米の儀は、船廻し少々□半國仲筋より、陸附にて差出候間、俵拵等不ㇾ宜、船積幷大坂表にて水揚の節、目溢れ有ㇾ之樣相見候處、手入方俵拵等の儀、年々村方へ申敎、實着に致世話候に付、近年俵拵、宜、納方、果敢取、右者、全、源右衞門、出精相勤候故の儀、其上平日、町内取扱等も宜故、小前の者一統、歸伏候趣に付、爲褒美白銀二枚差遣申候。

[やぶちゃん注:「□」は原資料の欠字。このため、これを含む部分は私には意味がうまくとれないのだが、佐渡での稲作は両津と真野の間の平地に限られ(「ひなたGPS」の戦前の地図を見られたい)、思うに、収穫と俵詰も、潮気を避けて、その中間の、一番、水田域の多い佐渡の最内陸の地域で行われていたものと思われる。そうなると、農家自体で俵は作られるが、俵詰めは野良の作業場で行われたのかも知れない。とすれば、その俵を移動させ、詰め、それをまた、農家に持ち込み、やおら、廻米船が来ると担ぎ出すという一連の行程の中で、俵が緩むことは考えられるように思われる。私は少なくともそのように受け取った。

「雜太郡河原田本町」現在の佐渡市河原田本町(かわはらだほんまち)。真野湾の湾奥中央の岸辺。

「廻米」「かいまい」。江戸時代、多量の米を一地点(おもに生産地)から他の地点(大坂・江戸などの大市場)に輸送することを指し、また、輸送米そのものをも言った。米穀の大量輸送は近世初頭には兵糧米を主としたが、幕藩体制が確立されると、諸藩が領主の江戸藩邸での生活諸経費などを賄うため、徴収した年貢米を、大坂・江戸などの米穀市場に回送・販売することが主となった。当初は、各地の相場に通じた豪商に回送事業を統轄させ、販売まで請け負わせていたが、寛文期(一六六一年~一六七三年)頃を境として、諸藩は廻米方(かいまいがた)を置いて、藩自身の機構による廻米体制を確立していた。回送運賃は海上輸送(河川を含む)が陸上のそれより数倍安価であり、西廻海運・東廻海運の発達を促すことになったのである(平凡社「百科事典マイペディア」に拠った)。さても、この場合の「御」は「おん」か「お」か。まあ、「おん」で落ちついておく。

「前年戌十一月地震」享和二年十一月十五日(一八〇二年十二月九日)に小佐渡の先端の南側の中継ぎの湊として栄えた港町である佐渡島小木(おぎ)附近で発生した「佐渡小木地震」。マグニチュード6.5から7.0と推定される地震で、「享和佐渡地震」とも呼ばれる。当該ウィキによれば、『津波発生の記録はな』く、『小木半島の海岸では約』二『メートル』『の隆起が生じたと考えられており、露出した中新世の枕状熔岩を見ることができる』。『小木地域に被害が集中し』、「大日本地震史料」によると、『「小木町は総戸数』四百五十三『戸が殆んど全潰し、出火して住家』三百二十八『戸、土蔵』二十三『棟、寺院』二『ケ所を焼失、死者』十八『名、湊は、地形変じて干潟となった」と記録されている』(大田南畝の随筆「一話一言」(安永八(一七七九)年から文政三(一八二〇)年頃の執筆)や「佐渡年代記」(慶長六(一六○一)年から嘉永四(一八五一)年までの二百五十一年間の佐渡奉行所の記録を編纂したもので、編者は明かでないが、地役人西川明雅が編纂したものを基本として、彼の没後に同じ地役人であった原田久通が書き続けたものとされる)。『しかし、隆起した時刻と地震の時系列を示す資料は不十分で』、「佐渡年代記」には巳刻(午前十時頃)『に所々破損する程度の地震が起こり、未刻』(午後二時頃)『に大いに震い』、『御役所を始め』、『人家に至るまで破損に及んだという。なお、金鉱山の坑夫たちは数日前から異常を察知し』、『坑道に入らずにいたため』、『犠牲者は無かったと伝えられている』。研究者が「一言一話」所収の『「佐洲地震一件」を調べた結果』では、焼失家屋三百二十八棟・全壊家屋七百三十二棟・損壊家屋 千四百二十三棟・焼死者十四名・圧死者五名・負傷者二名とある。

「文化四年十二月」既出既注。

「河原田」先の本町を含む旧新潟県佐渡郡河原田町(かわはらだまち:「Geoshapeリポジトリ」の「歴史的行政区域データセットβ版」もあるので、そちらを見られたい。

「果敢取」「はたして、あへえとり」。「はたして、問題なく受け取り」の意であろう。]

 

         佐州加茂郡二方潟村

    持高八十六石餘 名主 源 五 郞【當未五十五歲】

右源五郞儀、孝行奇特者の由相聞候に付、享和元酉年十月、在勤蜂屋源八郞相糺候處、老父へ孝行に仕へ、寢食等の世話も人手へ不ㇾ懸、都て、父の心に叶候樣取計、居村は勿論、隣村迄、貧窮の者候ば、米穀等合力いたし候趣相聞、奇特の事に付、褒美として白銀二枚差遣候段、文化四卯年十二月申上置候處、源五郞儀、彌、奇特の取計等有ㇾ之趣相聞候に付、同七午年八月、在勤岡松八右衞門相糺候處、老父儀、子年、病死いたし候處、其後、他家に罷在候兄五郞右衞門病氣にて、步行等致兼候に付、源五郞、日々相越、給物等は勿論、諸事心附、睦敷相勞り候旨、靑木村傳吉類燒の節、致難儀候趣及ㇾ承、右家相調、傳吉住居相成候樣、自分入用差加取、繕いたし遣、其外、貧家の者共へ不相知米穀等及合力に、取續方、實着に世話いたし候旨、奇特の儀に付、佐州御役所雇町人幷兩替屋申付候。

[やぶちゃん注:「加茂郡二方潟村」「弐方潟」が正しい。こちらの記載から、この附近と思われる。

「蜂屋源八郞」佐渡奉行。享和元(一八〇一)年四月七日就任、同三年四月十八日、小普請奉行に転じた。

「文化四卯年十二月」既出既注。

「子年」享和四年甲子。一八〇四年。

「自分入用差加取」「自分に必要な費用をも敢えて取り出して差し加えて」の意か。]

 

         佐州加茂郡二方潟村

       持高三十四石餘 久右衞門【當未三十七歲】

右久右衞門儀、孝行者の由相聞候に付、文化七午年七月、在勤岡松八右衞門相糺候處、父甚右衞門儀は、妻二男共、召連、別家に罷在候間、日々相越、父母の安否を承り、作附其外、何事によらず、兩親の心に不ㇾ背樣いたし、他出等致候節は親共へ申聞、親共、久右衞門宅へ相越候節は、農業に出居候ても、夫婦共、直に罷歸、睦敷咄合いたし、都て致孝心に、奇特の儀に付、爲褒美鳥目五貫文差遣申候。

[やぶちゃん注:「都て」「すべて」。]

 

         佐州加茂郡夷町

           淸次郞忰家大工

               和 吉【當未四十八歲】

右和吉儀、孝行者の由相聞候に付、文化七午年七月、在勤岡松八右衞門相禮候處、養父淸次郞九十二歲に相成、極老に付、耳も遠く、起臥等も不自由の處、和吉夫婦のもの共、厚心附、入湯に相越度旨申候處、夫婦の者、脊負、罷越、諸事、養父の心に應じ候樣取計候に付、右に准じ、子供迄も祖父を大切に相勞り候趣、全、夫婦の者共、年來、孝養を盡候故の儀、奇特の儀に付、爲褒美和吉へ鳥目五貫文、妻へ二貫文差遣申候。

[やぶちゃん注:「加茂郡夷町」佐渡市両津夷の海側。「ひなたGPS」を参照されたい。]

 

         佐州雜太郡上相川町

           かね養娘

              ま さ【當未四十五歲】

右まさ儀、孝行者の由相聞候に付、文化七午年七月、在勤岡松八右衞門相糺候處、まさ儀、かね、姪に候處、幼年より養、娘に相成、かね倶々、銀山鏈石撰立候儀、渡世に致候處、養母七十三歲に相成、寅年以來、脚氣、相煩候に付、困窮の中、種々療治差加、晝夜看病いたし、午年に至、快氣致候故、石撰業に罷越度旨申節は、心に不ㇾ背樣、脊負相越、諸事致孝行に、奇特の儀に付、爲褒美鳥目五貫文差遣申候。

[やぶちゃん注:「鏈石撰」「くさりいしえり」と訓じておく。サイト「SADO-KOI」の「佐渡の錬金術師たち 用語解説」に「石選女」(いしえりめ)の項があり、『建場小屋で、鏈石(くさりいし)(鉱石)の品質分け(選別)をする女性のことで、鉱山労働者の妻女が担当してい』たとあり、その『石選女が使う道具』の絵図もある。

「寅年」文化三(一八〇六)年。

「丑年」文化七年。]

 

         佐州雜太郡相川町

           下戶町兩替屋

            山形屋與惣左衞門【當未四十歲】

         同國羽茂郡宿根木村

     持高三十五石六斗餘 忠 三 郞【當未十六歲】

     同二十三石五斗餘  勘 四 郞【當未十八歲】

     同五石二斗餘    久 兵 衞【當未五十一歲】

     同十石四斗餘    庄 兵 衞【當未三十歲】

右の者共儀、奇特の取計有ㇾ之趣相聞候に付、文化七午年七月、在勤岡松八右衞門相糺候處、同年三月、澤崎村一村燒失に付、一統及難儀救處、飯米、其外、器物等、夫々差遣相救候趣、奇特の儀に付褒置申候。

[やぶちゃん注:「宿根木村」佐渡市宿根木(しゅくねぎ)。小佐渡の南端の本州側で、北前船の寄港地として発展し、船大工によって作られた当時の面影を色濃く残す町並みが私の大のお好みである。]

 

         佐州雜太郡鹿伏村

           吉右衞門二男

               竹 次 郞【當未二十七歲】

右竹次郞儀、孝行者の由相聞候に付、文化八未年閏二月、在勤岡松八右衞門相糺候處、右之者儀、兩親は勿論、家内の者へ、平日、柔和に相交り、母は六年以前より病氣にて步行も致兼候處、百姓稼の疲も不ㇾ厭、夜分は致看病、日雇稼に出候ても、暫、隙を乞、罷歸り、食物迄も厚く心を用ひ、一體、實體の者に付、外より養子に貰ひ請度旨申候ても、母病氣快氣不ㇾ致内は、參候儀も相斷、母の心に叶候樣、實着之致介抱兩親へ孝心に仕へ候趣に付、爲褒美鳥目三貫文差遣申候。

[やぶちゃん注:「鹿伏村」佐渡市相川鹿伏(あいかわかぶせ)。]

 

         佐州銀山山師

           秋田權之助下女

               な   つ【當未四十二歲】

右なつ儀、奇特者の由相聞候に付、文化八未年閏二月、在勤岡松八右衞門相糺候處、十六年以前、權之肋親代より致奉公候處、主人困窮に付、給錢等、極通、請取兼候儀も有ㇾ之候得共、實體、相働、是迄、折々、緣邊の儀、申來候得共、權之肋幷弟共、若年に有ㇾ之、同人母は老年に及び、家事の世話も行屆兼候故、難見放趣を以、緣邊の儀は相斷、手透の節は外にも被相賴針仕事等いたし、先々より、禮物貰請候得共、權之助勝手向人用に遣候由、都て厚く心を用ひ、主人を大切に存、奉公相勵候趣、卑賤の身分には奇特の儀に付、爲褒美鳥目五貫文差遣申候。

[やぶちゃん注:「給錢等、極通」(きはめどおり)、「請取兼候」「下女としての給金なども、決めた通りには、請い受けることもしかねるばかりの状態でありましたが」の意。

「緣邊の儀」「えんへん」とは結婚のことであろう。

「手透」「てすき」。手隙き。

「被相賴」「あひたのまれ(て)」。

「人用」(じんよう)村落の交際費であろう。]

 

         佐州加茂郡上橫山村

           持高三石六斗餘

               仁右衞門【當未四十八歲】

右仁右衞門設、孝行者の由相聞候に付、文化八未年三月、在勤岡松八右衞門相糺候處、老母え孝行に仕へ、日々、百姓稼の疲をも不ㇾ厭、寢食の世話をも人手え不ㇾ懸樣、取計ひ、夜分も厚く致介抱小身困窮の中にて、食物等、格別、心を用ひ、妻子共へも孝心に可ㇾ致旨常々申付、家内は勿論、村方のものへも、柔和に交り候趣、奇特の儀に付、爲褒美鳥目五貫文差遣申候。

右之通御座候。以上。

 未四月

              岡松八右衞門

              金澤 瀨兵衞

[やぶちゃん注:「上橫山村」佐渡市上横山

 本篇、「兎園小説」中でも、最初から最後まで、すこぶる気持ちよく読める一篇である。]

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