曲亭馬琴「兎園小説余禄」 奸賊彌左衞門紀事
[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。
底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。
本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。句読点は現在の読者に判り易いように、底本には従わず、自由に打った。鍵括弧や「・」も私が挿入して読みやすくした。踊り字「〱」「〲」は正字化した。箇条「一」の後は続いているが、一字空けた。条が二行に以上に亙る場合は、底本では、二行目以降が一字下げになるが、無視した。
「人相書」であるが、小学館「日本大百科全書」他によれば、犯罪者などを捜索・逮捕するために、その人の人相の特徴を記して配布するもの。人相書の制度は、江戸時代の初期頃からあったものと思われるが、制度が整ったのは、寛保二(一七四二)年制定の「公事方御定書」(くじかたおさだめがき)によってであり、その下巻第八十一条には、人相書の出される犯罪として、「公儀へ対し候重き謀計」・「主殺」(しゅごろし)・「親殺」及び「関所破」の四罪を定めている。「公儀へ対し候重き謀計」というのは、広い意味において、幕府に対する反逆行為を意味するものと考えられる。「主殺」というのは、庶民の家の奉公人が主人を殺すことである。「御定書」制定後、元の主人を殺した者や、主人や親に手負わせて行方不明になった者にも、人相書で捜査を命じることになり、また、主人の妻又は息子に手負わせた者も、これに準じられた。このように、人相書は特定の重罪人に対してだけ出されたもので、人相書でお尋ね者であることを知りながら、匿(かくま)ったり、又、召使いにして訴え出なかったりした者は、獄門の重刑に処せられた。なお、言っておくと、大方の方はご存知であろうが、「人相書」と言っても、文書で、人相その他の当該容疑者の特徴を書き記したもので、以下でも見る通り、風貌の特徴を始めとして、名前・通称・身体上の特徴・年齢、犯行時や、取り逃がしたり、逃亡した際の衣服や所持品の特徴,また、判っていれば、生国や、言語・発声の特徴などまでも掲げたが、似顔絵が描いてあるわけではない。時代劇ドラマの顔を描いたそれは、全くの演出である。なお、彼は膨大な配下を持った強盗団の首魁ではあるものの、以上の解説に見る通り、人相書が発行される対象犯罪ではなかった。則ち、以下のそれは極めて例外的なものであったのである。そういう点でも、馬琴は、この記事を書く気になったものと思われる。
なお、「東京都公文書館」公式サイト内の「江戸・東京を知る所蔵資料(アーカイブス)を読む旧・古文書解読チャレンジ講座」の第十一回の「史料の解読/読み下し例」に「史料の解読と読み下し例~江戸の人相書」「(史料出典:『撰要永久録 御触事之部』第十五)」で、本人相書の原本と判読を添えたものが見られる(但し、条の中間が省略されている)。
また、大石慎三郎氏の資料紹介と論文「武蔵国組合村構成について」(PDF)には、本人相書全文以外に、日本左衛門の犯行の巧妙さが、文書引用とともに詳細に解説されており、非常に参考になる。以下の人相書では判らない彼の犯行様態がよく判るので、少し引用すると(コンマを読点に代えた)、『天領支配については、治安問題とからんで、享保期に弱点が露呈するのであるが、その問題が更にあらわになるのが〝日本左衛門〟の事件である』。『彼は尾張藩の下士で、七里役であった浜村富右衛門の子供で、のち美濃で俳諧の宗匠などもしていたが、何時の頃からか』、『遠州を中心に盗みを働くようになり、配下数百人を引つれて、不義の蓄財をしたとされている富豪の家におしい』ったとして、以下の人相書が引用を受けて、
《引用開始》
盗人としては異例の、おそらく江戸時代最初の全国指名手配になった大盗賊である。この手配書は幕府官編の『御触書集成』にも収録されているほどだから、彼の事件が如何に大きいものであったか判ろうというものであるが、ここで問題にしたいのは、彼の大盗撒のためではない。問題になるのは、彼が当時の支配機構の弱点を巧みについて盗みを働いたという、その盗賊技術である。延享3年9月に遠州豊田郡関係村々から差出された日本左衛門の召捕を歎願する6ヵ条の訴状には、日本左衛門の盗みの手口を次のように説明している。[やぶちゃん注:以下の引用では、底本では条の「一」のみが一字下げ、後は二字下げである。数字はアラビア数字であるが、ちょっと気になるので、漢数字に代えた。]
一、……盗人入候はゞ鐘太鼓打、村々の人を集め追散し申様に被仰付候故、其通兼而村々申合置候へども、一軒へ入候へば近所七、八間の表裏へ盗人ども二、三人づゝ当を付、勿論其家道筋にも番人四、五人づゝ刀抜身にてかまへ居申候に付、何程かね大鼓たたき申候ても、人の身の上、命を捨て懸り申事いらざるものと、知らぬふりにて出合申人無御座候
一、遠州盗人強働の儀、三年以来の儀御座候へぱ、遠州御拝領被成候御大名様方御家来中、盗人弁宿寄委敷御詮議被成候に付、其知行所には宿仕候者も無御座候由承り候へども、是は御知行所の内計の御吟味に御座候へぱ、外に御代官所の内方、御旗本様分郷の在所抔徘徊仕候由及承候、日本左衛門幷手下の者の武芸勝れ申候出、殊に大勢に御座候へば、御旗本様御回の御手勢計にては搦御取候事難成、勿論盗人所々大勢罷在候はぱと沙汰有之候へぱ、逃し可申様に奉存候、乍恐御大名様方御同勢にて跡方、一日にばたばたと御捕被遊、在方百姓相助り候様に、御吟味の上被仰付被下置候はゞ難有奉存候事
前条では日本左衛門一味の盗の仕方が如何に巧妙であるかということが判るが、後の方は、いささか問題のあることが記されている。即ち日本左衛門の一味は、この地方が私領・天領・旗本領が入組みになっているのを利用し、当時の警察力が、各々自分支配領限りにしか及ぱないことを利用し、私領で盗を働いては天領・旗本領に逃込み、また天領で盗を働いたときには私領・旗本領に逃込むといった、警備・取締りの盲点を巧みに利用し、更に私領と天領・旗本領とを較べると私領に比して天領・旗本領は警察力が著るしく弱い点を利用し、専ら天領・旗本領を重点的にねらうという方法をとっているのである。
《引用終了》
日本左衛門の初期の犯行は『不義の蓄財をしたとされている富豪の家におしい』ったとあって、彼が義賊張りであったことが判り、支配違いの警戒不備を巧みに利用して逃走する悪知恵の働く人物でもあったことも判明するのである。]
○日本左衞門人相書
江戶より被ㇾ遣候御書付寫。
十右衞門事
濱島庄兵衞
一 せいの高さ、五尺、八、九寸程、
一 年二十九歲【見かけ、三十一歲に相見え申候。】、
一 鼻筋通り、
一 小袖、鯨さしにて三尺九寸、
一 月額、濃く、引疵、一寸五分程、
一 目、中、細く、貌、おも長なる方、
一 ゑり、右之方へ常にかたより罷在候、
一 びん、中、少し、そり、元ゆひ、十程まき、
一 迯去り候節、着用の品、
こはく、びんろうじ、わた入小袖【但、紋所、丸に橘。】、
下に、單物、もえぎ色、紬【紋所、同斷。】、じゆばん、白郡内。
一 脇差、長二尺五寸。鍔、無地。ふくりん、金福人模樣。さめしんちゆう、筋金あり。小柄、なゝこ、生物、いろいろ。かうがい、赤銅無地。切羽、はゞき、金。さや、黑く、しりに、少し、銀、有。
一 はな紙袋、もえぎらしや。但【うら、金入。】。
一 印籠、鳥のまき繪。
此者、惡黨仲ケ間にては、「日本左衞門」と申候。其身は、曾て左樣に名乘不ㇾ申候。
[やぶちゃん注:以下は、底本通りの配置。]
右之通之者於ㇾ有ㇾ之者、其所に留置、御料は御代官、私領は領主・地頭へ申出、夫より、江戶・京・大阪、向寄の奉行所へ可二申達一候。最、及ㇾ聞候はゞ、其段可二申出一候。隱置、後日に、脇より相知候はゞ、可ㇾ爲二曲事一候。以上。
延享三寅十月
[やぶちゃん注:以下は、底本では、二行目以降は一字下げ。]
右御書付、十二月十二日、御宿繼、奉書にて被二仰遣一候。此一條、「佐渡年代記」延享三丙寅年の記に見えたるを抄錄す。
[やぶちゃん注:「日本左衞門」(享保四(一七一八)年~延享四(一七四七)年三月二十一日:享年三十)は小学館「日本大百科全書」によれば、本名は『浜島庄兵衛』。『江戸中期、東海道筋で夜盗を働き』、二百『人もの』、『盗賊団の親分となり、日本左衛門と異名をとった。父は尾州家の家臣であったと伝わる。若くして放蕩』『のため』、『勘当され、遠江』『天竜川あたりの無頼仲間に加わった。押し込み強盗を働いたのは前後数年であるが、その悪事のため』、ここに見る通り。延享三年、『強盗としては例外的に人相書をもって御尋ね者とされた。それには、「年令二九歳、丈(たけ)五尺八寸ほど、色白く、鼻すじ通り、顔おもなが……」とある。京都まで逃れていたが、そこで町奉行所』(☞)『に自首し、江戸送りとなり』、翌年、『引廻』しの上、『獄門となった。歌舞伎』「青砥稿花紅彩画」(あおとぞうしはなのにしきえ)(通称「白浪五人男」「弁天小僧」。河竹黙阿弥作。幕末の文久二(一八六二)年三月、江戸の市村座で初演。本外題は三世歌川豊国筆の役者見立ての錦絵「白浪五人男」に着想した作であった。別外題は「弁天娘女男白浪」(べんてんむすめめおのしらなみ))の『日本駄右衛門(にっぽんだえもん)のモデルとして知られる』とある。
「五尺、八、九寸程」約一メートル七十六センチから一メートル七十九センチ弱。
「鯨さしにて三尺九寸」「鯨さし」は「鯨差し」で「鯨尺」(くじらじゃく)のこと。江戸時代から使われていた裁縫用の尺違いの物差し。尺貫法の「一尺二寸五分」(約三十七・九センチ)を「一尺」とするもの。最初に用いられた時期は不明確であるが、室町末期に「一尺二寸」の裁縫用の「呉服尺」が出現しており、それがさらに「五分」伸びたものと考えられる。名称は、クジラの髭(ひげ)で作られたことに由来する(小学館「日本大百科全書」に拠った)。換算すると、四十七・四センチメートル。
「月額」先に掲げた「東京都公文書館」の資料の訓読で「さかやき」と読んでいる。中世末期以後、成人男子が前額部から頭上にかけて髪をそり上げたこと(又、その部分)、所謂、「月代」(さかやき)に於ける、その前額部の様態を指す。江戸の太平の世になると、テッカテカに剃るのが流行ったが、下級の者・浪人・無頼の徒は、毛がモサモサ生えて「濃」かった。
「一寸五分程」約四センチ五ミリ。
「びん」「鬢」。頭部の左右の側面の耳際の髪のこと。
「こはく、びんろうじ、わた入小袖」「琥珀・檳榔子」の「綿入り小袖」で、先に掲げた「東京都公文書館」の資料の「語句説明」に、「琥珀」は『絹織物の一種である琥珀織のこと。緯糸(よこいと)の方向に低い畦がある平織物で、帯・袴地等に多く用いられた』とあり、「檳榔子」は『ヤシ科の植物檳榔樹の果実。薬用・染色用とする。ここでは檳榔子染めで染めた赤みを帯びた暗黒色のこと』とある。「檳榔樹」(びんろうじゅ)は単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科ビンロウ属ビンロウ Areca catechu のこと。檳榔子(びんろうじ)はビンロウの果実を指す。本種は本邦では産しないが、薬用・染料とするため、奈良時代の天平勝宝八(七五六)年頃、輸入された記録が既にある。
「單物」「ひとえ」。
「もえぎ色」「萌黃色」。
「紬」「つむぎ」。絹織物の一種。真綿や屑繭から手紡ぎした糸を用い、手織機によって平織にしたもの。織糸に節があるので、野趣に富み、丈夫である。多くは、植物染料を用い縞や絣(かすり)の織模様とするが、白紬に染色することもある。産地によって特色があり「結城(ゆうき)紬」や「大島紬」、伊豆八丈島の「黄八丈」、山形の「長井紬」(米沢紬)、長野の「上田紬」、沖縄の「久米島紬」、石川の「白山紬」などが知られる(平凡社「百科事典マイペディア」に拠った)。
「じゆばん」「襦袢」。下着。
「白郡内」「しろぐんない」。「郡内」は山梨県東部の富士山の麓に広がる古くからある地域名(現在の南都留郡。グーグル・マップ・データ。以下同じ。但し、北都留郡も「郡内」である)。「山梨県」公式サイトの「毎日を楽しく彩るやまなしのスペシャリテ|富士山の麓で1000年以上紡がれるハタオリマチの織物」によれば、実に千『年以上も前から織物業が営まれている織物の産地で』、『高い技術から生まれる美しい色柄を配した繊細で上質な織物は、かつては「甲斐絹」として知られてい』『たが、現在は「郡内織物」、「ふじやま織り」と呼ばれ、多くの人を魅了してい』るとある。
「二尺五寸」七十五・七センチメートル。
「鍔」「つば」。
「ふくりん」「覆輪」「伏輪」。刀の鍔の周縁を金属(鍍金(ときん)・鍍銀)の類で細長く覆って損壊に備え、あわせて装飾を兼ねたものを指す。
「金福人模樣」不詳。台湾のサイトのこちらに、達磨風フィギアの写真が載り、そこに「金福人」とあるので、金メッキの達磨像を言うのかも知れない。
「さめしんちゆう、筋金あり」「鮫眞鍮」で、「文化遺産オンライン」のこちらに、「鮫鞘角柄真鍮金具附刀子」の画像が載る(但し、中国製)。「刀子」は「とうす」で小刀のことである。物を切ったり、削ったりする、加工用途に用いられる工具の一種で、現代の小型の万能ナイフに通じる。長さは十五~三十センチ程度のものを言う。
「小柄」「こづか」。脇差の鞘の外側にさし添える小刀。振り飛ばして相手を刺すのに用いたりするが、江戸時代には脇差の装飾化していた。
「なゝこ」「魚子」「魶子」「斜子」「七子」。彫金技法の一つで、先端が小円になった鏨(たがね)を打ちこみ、金属の表面に細かい粒が密に置かれたように見せたもの。一般に地文として用い、ササン朝ペルシャから中国を経て、奈良時代には日本に伝わった。元は「魚(な)の子」の意で、魚卵の粒がつながっているような形になることからの呼称。
「生物」不詳。「いきもの」で動植物の図案を言うか。
「かうがい」「笄」。刀の鞘の差表(さしおもて)に指しておく篦(へら)状のもので、武器ではなく、髪を撫でつけるのに用いた。
「赤銅」「しやくどう」。
「切羽」(せつぱ(せっぱ))と読む。刀剣を構成する刀装具の一つで、鍔を表裏から挟むように装着する金具のこと。「物事に追われて余裕がなくなる」という意味を持つ慣用句「切羽詰まる」の語源として今に知られている。形状は刀剣の種類によって様々である。参照したサイト「刀剣ワールド」の『刀装具・拵「切羽とは」』を見られたい。画像もあり、非常に参考になる。前に注した物も、「目貫・小柄・笄・縁頭写真/画像」のページ等で画像が見られる。
「はゞき、金」「はばき」は「鎺」。刀身と鍔の接する部分に嵌める筒状の金具。同前のサイトのこちらを参照。
「もえぎ、らしや」「萌黄」色で「羅紗」製。
「金入」「きんいれ」。金箔を貼り付けてあるか。
「まき繪」「蒔繪」。日本左衛門、相当、お洒落!
「仲ケ間」「なかま」。
「右之通之者於ㇾ有ㇾ之者、其所に留置」「右の通りの者、之れ、有り於(お)かば、其の所に留め置き」。
「御料」天領。
「向寄」「むかひより」で「近くの」。
「及ㇾ聞候はゞ」実際に見かけたのでなくても、それらしい人物がいると聴いたならば。
「曲事」「くせごと」。不正行為。
「延享三」この前年に徳川吉宗は大御所となり、当時は名目上は徳川家重の治世である。
「御宿繼」「おんしゆくつぎ」で「御宿次」とも書き、宿駅から宿駅へと、人や荷物・文書等を送り継いでゆくこと。駅逓に同じ。
「佐渡年代記」慶長六(一六○一)年から嘉永四(一八五一)年までの二百五十一年間の佐渡奉行所の記録を編纂したもので、編者は明かでないが、地役人西川明雅が編纂したものを基本として、彼の没後に同じ地役人であった原田久通が書き続けたものとされる。]
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