曲亭馬琴「兎園小説余禄」 白子屋熊、忠八等刑書寫
[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。
底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。
本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない。稀に底本の誤判読或いは誤植と思われるものがあり、そこは特に注記して吉川弘文館版で特異的に訂した)。句読点は現在の読者に判り易いように、底本には従わず、自由に打った。鍵括弧や「・」も私が挿入して読みやすくした。踊り字「〱」「〲」は正字化した。
本篇は毒婦の代表として知られ、その事件内容と「くま」の美貌故に、芝居となった超弩級に知られた女性である。]
○白子屋熊、忠八等刑書寫
白子屋おくま申渡、
松平左近將監殿御指圖、町奉行大岡越前守掛。
一、新材木町庄三郞下女きく、聟養子又四郞へ手疵爲ㇾ負候一件。
新材木町庄三郞下女
き く【年十七歲】
其方儀、主人庄三郞妻つね、何樣に申付候共、主人の事に候得ば、致方も可ㇾ有ㇾ之處、又四郞に疵付候段、不屆至極に付、死罪申付也。
右庄三郞傍輩下女
ひ さ【年三十二歲】
其方儀、主人庄三郞聟養子又四郞へ、疵付候程、たゝき候樣に、傍輩女きくへ申勸め、其上、又四郞妻くまへ、手代忠八、密通の取次いたし、旁不屆に付、町中引廻し之上、死罪申二付之一。
[やぶちゃん注:「死罪申二付之一。」「死罪、之れ、申し付く(るなり)。」。]
右庄三郞下人
忠 八【年三十七歲】
其方儀、主人庄三郞養子又四郞妻くまと、密通致候段、不屆至極に付、町中引廻の上、淺草において獄門申二付之一。
右庄三郞娘
く ま【年二十二歲】
其方儀、手代忠八と致二密通一候段、不屆に付、町中引廻の上、死罪中二付之一。
新材木町庄三郞妻
つ ね
其方儀、養子又四郞に、きく疵付候儀に付、つね事は母子の儀に候得共、惡心を以、巧候より事起り候。依ㇾ之遠島申二付之一。
享保十二年未二月廿五日、落着。
この一件の趣は、」近世江戸著聞集」といふ俗書に、具に載たり。合せ見るべし。
[やぶちゃん注:「白子屋熊」「しろこやくま」。ウィキの「白子屋お熊」を引く(一部の芝居についてウィキをリンクさせた)。白子屋お熊(宝永二(一七〇五)年~享保十二年二月二十五日(一七二七年四月十六日):享年二十三。生年は独自に機械逆算した。ウィキが享年二十三とするのと、そこに記された元禄十六年生まれでは、数え年が合わないからである)は、『江戸日本橋新材木町』(現在の中央区日本橋堀留町一丁目。グーグル・マップ・データ)『の材木問屋「白子屋」の長女。父は店主白子屋庄三郎、母はつね、婿として又四郎を迎え』ていた。お熊は、享保十一年十月十七日(一七二六年十一月十日)に『発生した「白子屋事件」の計画犯の一人で、同年』十二月七日(一七二六年十二月二十九日)、『大岡忠相の判決が下り、翌』享保十二年二月二十五日(この年は閏一月があったため、一七二七年四月十六日)『に市中引き回しの上』、『獄門に処せられた』。『首は浅草で晒された』後、『引き取られ、現在、東京都港区にある常照院に墓所があり、同区の専光寺には供養塔がある』。『お熊と白子屋事件は、後世に演劇・芸能の題材とされ』、安永四(一七七五)年)に『発表された人形浄瑠璃』「恋娘昔八丈」(こいむすめむかしはちじょう:松貫四(まつ かんし)・吉田角丸(かどまる)の合作)の女主人公『白木屋お駒』『のモデルにされたり、河竹黙阿弥作の歌舞伎』「梅雨小袖昔八丈」(つゆこそでむかしはちじょう)で実名の「お熊」で『登場したりしている』。「白子屋事件」は享保十一年十月十七日『早朝、就寝中であった新材木町の材木問屋「白子屋」の娘』「くま」の『夫である又四郎が、白子屋の下女』「きく」(当時十六歳)に『頸部を剃刀で切りかかられ』、『抵抗したところ、頭部に傷を負った。又四郎の傷は浅く』「きく」『を取り押さえた後』、『助けを呼んだため、大事には至らなかった』。『白子屋側は、婿養子である又四郎の実家に示談を持ちかけたが、又四郎の実家は又四郎』と「くま」『夫婦の不仲が噂になっていること』、「きく」の『犯行動機が不明であることから』、『白子屋を怪しみ』、四日後の十月二十日、『町奉行所に事件の調査を訴え出た。奉行所が下手人である』「きく」『を取り調べたところ、きくは店主』『庄三郎の妻』「くま」の母である「つね」に、『犯行を教唆されたことを自白した』。「きく」の『証言を得た奉行所が』「つね」・「くま」『母子を問い詰めると、又四郎の殺害計画を自供した』。『そもそも』「くま」と『又四郎の婚約は、当時資金繰りに苦しんでいた白子屋が、大伝馬町の資産家の息子であった又四郎の結納金目当てで取り決めたことであった』「くま」は『夫を嫌い、結婚後も古参の下女』「ひさ」に『手引きをさせて』、『手代の忠八と関係を持っており、母の』「つね」も『娘の密通を知りながら』、『これを容認していた』。「くま」は『離縁を望んでいたが、又四郎と離縁すれば』、『金を返さねばならず、「又四郎を病死に見せかけて殺せば、金を返さず忠八と結婚できる」と考え』母子ともに『殺害計画を練るようになった』。『最初は』、『病死に見せかけた毒殺を計画し、出入りの按摩であった横山玄柳という盲人を騙し』、『又四郎に毒を盛らせたが、彼は体調を崩すに留まり、死に至らなかった。毒殺計画が失敗したことによって焦った』「つね」と「くま」は、「きく」を『脅して』、『又四郎に切りかかるように仕向けたが、これも前述の通り』、『失敗して殺害計画が露見、白子屋の関係者は』、それぞれ『裁かれることとなった』。『妻子の監督を怠り、世間を騒がした罪を問われた店主』『庄三郎と、事件に加担した按摩の横山玄柳は江戸所払いとなり、殺人未遂実行犯である下女の「きく」は『死罪、密通をそそのかした罪で』下女の「ひさ」は『市中引き回しの上』、『死罪、密通の罪で手代忠八は市中引廻しの上獄門、従犯と見做された「つね」は『遠島』で済んだが(本篇、主犯と認定された「くま」は、『密通と夫の殺害未遂という重罪を問われ』、市『中引廻しの上』、『獄門と仕置が下った』(この「獄門」は疑問がある。本篇でも「死罪」であり、後にリンクさせた第一次史料と考えてよい「享保通鑑(つがん)」には、ここに(左丁一・二行目)はっきりと「死罪」と書かれてあるからである。因みに、「死罪」は江戸では小伝馬町牢屋敷で斬首されるだけである(但し、その遺骸は様斬(ためしぎ)りにされた)のに対し、「獄門」は斬首後、刑場で梟首にされる付加刑があり、鈴ヶ森或いは小塚原の刑場の獄門台上に首だけが三日の間、晒された遺体への侮辱刑であった)。この「くま」は、『結婚前から日本橋中でも美貌で知られており、引廻しの際は評判の美貌の悪女を一目見ようと沿道に観衆が押し掛けた。裸馬に乗せられた』「くま」は『観衆の期待に応えるように、白無垢の襦袢と』、中着(なかぎ:肌着と表着の間に着るもの)の『上に』、『当時』、『非常に高価であった黄八丈の小袖を重ね、水晶の数珠を首に掛けた華やかな姿で、静かに経を唱えて落ち着いた様子であったという』。『殺害が未遂に終わったとはいえ、主犯のお熊の美貌や』、『処刑時の派手なパフォーマンスなどから』、『江戸で大変な波紋を呼び』、馬場文耕著宝暦七(一七五七)年序の随筆「近世江都著聞集」(きんせいえどちょもんしゅう:巻四の「白子屋一族亡失の辨」。国立国会図書館デジタルコレクションの「燕石十種」第二巻所収のものがここから読める。ここは「獄門」とある)・幕府代官小宮山昌世(まさよ)の記した裁判記録「享保通鑑」(刑の執行日の項に綴られてある。「国文学研究資料館」の写本で確認出来た。左丁最終行から後に続く)・「兎園小説余録」(本篇)・宝暦頃(一七六〇年前後)に成立した不詳の作者(元禄二(一六八九)年生まれ)が江戸で見聞した珍事を記した「江戸真砂六十帖広本」(国立国会図書館デジタルコレクションの「燕石十種」第二のここで活字で読める)・江戸の町名主で考証家であった斎藤月岑(げっしん 文化元(一八〇四)年~明治一一(一八七八)年)著の「武江年表」(国立国会図書館デジタルコレクションの国書刊行会本のここで見られるが、本の性質上、以上の中では最も記載が短い)等に『事件が取り上げられている』とある。]