曲亭馬琴「兎園小説余禄」 佐野氏賜死記錄
[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。
底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。
本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない。稀に底本の誤判読或いは誤植と思われるものがあり、そこは特に注記して吉川弘文館版で特異的に訂した)。句読点は現在の読者に判り易いように、底本には従わず、自由に打った。鍵括弧や「・」も私が挿入して読みやすくした。踊り字「〱」「〲」は正字化した。
先に注しておくと、これは天明四(一七八四)年三月二十四日に、江戸城中で発生した刃傷事件の裁断・切腹記録である。若年寄田沼意知(おきとも)が旗本佐野政言(まさこと)に襲われ、八日後に絶命した事件である。
まず、ウィキの「田沼意知」によれば、田沼意知(寛延二(一七四九)年生まれ。享年三十六歳)は『老中を務めた遠江国相良藩主』で、かの「田沼時代」で権勢を揮った『田沼意次の嫡男』である。明和四(一七六七)年、十九歳の若さで『従五位下大和守に叙任』され、『奏者番』を経て、天明三(一七八三)年には『意次の世子の身分のまま』、『若年寄となり』、『意次が主導する一連の政治を支えた。これは徳川綱吉時代に』、同じく『老中大久保忠朝』(ただとも)『の子忠増』(ただます)『が世子のまま』で『若年寄になって以来の異例な出世であ』った。『また、老中である父が奥詰めも同時に果たしたように、若年寄でありながら』、『奥詰めもした。その翌年に江戸城内において佐野政言に襲撃され、治療が遅れたため』、八『日後に死亡した』。『父子ともに現役の幕閣であったため、意次と別居するために』、『田沼家中屋敷または下屋敷へ移ったが、新たな屋敷を構えたのは』、『暗殺の直前であった』とある。
一方、遺恨を持った佐野政言(宝暦七(一七五七)年~天明四年四月三日(一七八四年五月二十一日))は、ウィキの「佐野政言」によれば、『佐野政豊の子で』、後に『目付や江戸町奉行を務めた村上義礼』(よしあや:寛政四(一七九二)年十一月、西ノ丸目付にある時、通商を求めてきたロシアの使節ラクスマンと交渉する宣諭使の一人となり、蝦夷地松前に派遣され、翌年六月二十七日の会見で通商交渉のための長崎入港を許可する信牌を与えた人物である)『は義兄(政言の妻の兄)』であった。彼は十『人姉弟の末子で一人息子であった』。『佐野善左衛門家は三河以来、徳川家に仕えた譜代である五兵衛政之を初代とし』て、『代々』、『番士を務めた家であり、綱吉治世の』元禄一一(一六九八)年から『番町に屋敷を構え』ており、『政言は』その六『代目にあたる。父伝右衛門政豊も大番や西丸や』、『本丸の新番を務め』、安永二(一七七三)年に『致仕し、代わって』八『月に政言が』十七『歳で家督』五百『石を相続』、安永六(一七七七)年には『大番士』、翌年には『新番士とな』った。その後、天明三(一七八三)年の『冬、将軍徳川家治の鷹狩りに供弓として選ばれる名誉を受け、雁』一『羽を射ち取りながら』、『褒賞にあずかれなかった』。翌年の三月二十四日、『江戸城中で若年寄』『田沼意知に向かって走りながら「覚えがあろう」と』三『度叫び』、元禄期頃の摂津国名刀工『一竿子忠綱』(いっかんしただつな)『作の大脇差で殿中刃傷に及んだ』。『その』『後に意知が絶命すると、佐野政言には同』四月三日、『切腹が命』ぜられ、伝馬町牢屋敷で『自害して果てた』。『数え』二十八の若さであった。葬儀は四月五日に『行われたが、両親など』、『遺族は謹慎を申し付けられたため』、『出席できなかった。佐野家も改易となり、遺産は父に譲ることが認められた』。『唯一の男子である政言には子がなかったこともあり』、『佐野家は絶えたが、幕末になって再興されている』。『犯行の動機は、意知と』、『その父意次が先祖粉飾のために藤姓足利氏流佐野家の系図を借り返さなかった事』(ここには「要出典要請」がかけられてある)、『下野国の佐野家の領地にある佐野大明神を意知の家来が横領し』、『田沼大明神にした事、田沼家に賄賂を送ったが』、『一向に昇進出来なかった事等々、諸説』『あったが』、『幕府は乱心として処理した』。『墓所は台東区浅草の徳本寺』(とくほんじ)にある(後で地図リンクを附して再掲する)。『田沼とその倹約令を嫌う風潮があった市中では跡継ぎを斬ったことを評価され、世人からは「世直し大明神」』『と呼ばれて崇められた。高止まりだった米の相場は投機筋の売り参入で刑の翌日から下落し財政は逼迫、やがて』、天明六(一七八六)年の処分(天明六年八月二十五日に将軍家治が死去したが、その死の直前から「家治の勘気を被った」として、意次は、その周辺から遠ざけられていたが、将軍の死が秘せられていた間に失脚する。この動きには反田沼派や一橋家(徳川治済)の策謀があったともされ、八月二十七日に老中を辞任させられ、最後には大坂にある蔵屋敷の財産の没収と江戸屋敷の明け渡しも命ぜられた。しかもそれだけに留まらず、蟄居を命じられ、二度目の減封を受け、藩主であった遠江国相良の相良城も打ち壊され、城内に備蓄されていた八万両の内、一万三千両と塩・味噌までもが、備蓄用の名目で没収されている。ここはウィキの「田沼意次」に拠った)を経て、二年後の天明八年に『田沼意次も失脚』すると、『年が明け』、『改元後の』寛政元(一七八九)年に、本事件などを踏まえて田沼派の凋落を描いた黄表紙「黒白水鏡」(こくびゃくみずかがみ;石部琴好(いしべきんこう)作・北尾政演(きたおまさのぶ:戯作者山東京伝の絵師名)画)が出版されるが、『刃傷事件を表現したとして、版元と絵師が手鎖に処されたうえ、江戸払いと過料を申し付けられ』ている。他に同年の八月、大坂の北堀江豊竹座で初演された菅専助・中村魚眼合作の時代物浄瑠璃「有職鎌倉山」(ゆうしょくかまくらやま(歴史的仮名遣では頭は「いうしよく」);全九段)ものがあり、これは本事件を北条時頼の時代に仮託して脚色たもので、佐野源左衛門が三浦荒次郎を討ち、切腹を命じられるが、後にその子梅之助が佐野家を継ぐという展開のものがある。後の馬琴の添え辞によれば、こちらの方が、「黒白水鏡」よりも先にあったと読める。加藤好夫氏のサイト「浮世絵文献資料館」のこちらによれば、『黄表紙の画工が罰せられたのはこれが初めてか。これまで、所謂』、『浮世絵師が画工として加わった作品が当局の忌憚に触れたことはあったが、画工そのものが咎められたことはなかった。浮世絵が当局の視野の中に看過できないものとして入ってきた』ことを証左するものとされておられる。
再び、ウィキの「田沼意知」に戻ると、この事件は、『江戸市民の間では佐野政言を賞賛し』、『田沼政治に対する批判が高まり、幕閣においても』、『松平定信ら反田沼派が台頭することとなった。江戸に田沼意知を嘲笑う落首が溢れている中、オランダ商館長イサーク・ティチングは『鉢植えて 梅か桜か咲く花を 誰れたきつけて 佐野に斬らせた』という落首を世界に伝え、「田沼意知の暗殺は幕府内の勢力争いから始まったものであり、井の中の蛙ぞろいの幕府首脳の中、田沼意知ただ一人が日本の将来を考えていた。彼の死により、近い将来起こるはずであった開国の道は、今や完全に閉ざされたのである」と書き残していた』ともある。]
○佐野氏賜死記錄
寶曆五亥年五月廿七日、落着、曲淵甲斐守、掛。
新御番蜷川相模守組
佐野善左衞門
二十八歲
右之者儀、去月廿四日、於二殿中一田沼山城守へ手疵爲ㇾ負候。亂心といへ共、山城守、右手元にて依二相果一、切腹被ㇾ仰旨、松平周防守殿、依二御差圖一、於二評定所一大目付大屋遠江守、町奉行曲淵甲斐守、御目付山川下總守、立合申渡候間、檢使可二相渡―もの也。
天明四辰年四月三日夕七時、御揃にて於二評定
所一大目付大屋遠江守殿、町奉行曲淵甲斐守殿、
御目付山川下總守殿、御立合、落着。
新御番蜷川相模守組
切腹 佐野善左衞門
二十八歲
北方御組同心
介錯人 高 木 伊 助
四十一歲
添介錯 同斷
大蘆 五郞治
向方同心
原田和多五郞
御目付山川下總守殿
御徒目付
八木岡 政七
尾本藤右衞門
御小人目付
二 人
御使のもの
二 人
牢屋敷え出役與力
藤田 介十郞
向方
由比 忠五郞
出役同心雙方
四 人
石出帶刀組同心
三方持 杉山 幸内
右佐野善左衞門へ、於二御座敷一被二仰渡一相濟、同所御衝立際、介十郞・忠五郞、罷出候。佐野善左衞門儀、切腹被二仰付一候間、牢屋敷へ出役仕、前々の通、諸事念入相勤可ㇾ申旨、爲二檢使一、山川下總守殿、御越被ㇾ成候段、御頭被二仰渡一候に付、右善左衞門、駕籠に乘せ、出役同心雙方四人、牢屋敷同心二人附、介十郞・忠五郞儀は御目付へ申談、右駕籠に引續罷越、牢屋敷表門より入、大牢屋へ、駕籠の儀、差置、出役同心、附添、介十郞、持參いたし候御證文、石出帶刀へ相渡申候。無ㇾ程、御徒目付も罷越候に付、牢屋見廻り申、該場所、見置申候。
[やぶちゃん注:以下、官職や名前は必要と思われるもののみに限った。
「寶曆五亥年五月廿七日、落着」の「寶曆五亥年五月廿七日」は年月日総てが不審であるので、何らかの錯簡である。宝暦五年(西暦一七五五年)は乙亥で確かに干支は合っているものの、そもそもこの年では、意知七歳、政言に至っては生まれてないんだから!
「曲淵甲斐守」曲淵景漸(まがりぶち かげつぐ 享保一〇(一七二五)年~寛政一二(一八〇〇)年)は旗本で明和六(一七六九)年に江戸北町奉行に就任し、約十八年間に渡って奉行職を務め、江戸の統治に尽力した。参照した当該ウィキによれば、『在職中に起こった田沼意知刃傷事件を裁定し、犯人である佐野政言を取り押さえなかった若年寄や目付らに出仕停止などの処分を下した。政言の介錯を務めたのは景漸配下の同心であったという』とある。彼は後の天明七(一七八七)年に江戸で発生した「天明の打ちこわし」の責任を問われ、西ノ丸留守居に降格されてしまうが、『松平定信が老中に就任すると、経済に通暁している知識を買われて勘定奉行として抜擢され』、復権している。序に言っておくと、前の「寶曆五亥年」では、彼は未だ三十一歳で、恐らくは未だ小十人頭か目付でしかなかった。
「新御番」(しんごばん)は「新番」に同じで、江戸幕府の職名。寛永二〇(一六四三)年に創置されたもので、若年寄支配。「土圭(とけい)の間」近くに詰め、将軍外出時に先駆を勤めた。
「爲ㇾ負候」「おはせさふらふ」。
「右手元にて」以上の手技(てわざ)で以って。
「大目付大屋遠江守」大屋明薫(みつしげ)。
「御目付山川下總守」山川貞幹(さだもと)。彼を調べる内に、とんでもない凄いページを発見した。「国立公文書館」の「旗本御家人III お仕事いろいろ」の中の「22. 田沼実秘録」である。それによれば、「目付」は『幕臣の行状や政務全般に監視の目を光らせる』役であったが、同時に『切腹の検使(切腹が滞りなく執行されるよう監視し、見届ける役)も務め』たとあり、本事件のことが挙げられており、『佐野政言は大目付の松平対馬守忠郷によって組み留められ』という、どのウィキにも書かれていなかった事実が判明し、四月三日に『佐野政言に切腹が申し渡され、小伝馬町の牢屋敷内の揚座敷(500石以下の旗本の未決囚の独房)の前で切腹執行。このとき検使を務めたのが目付の山川下総守貞幹(さだもと)で』あったとある。しかも、『このような場合は、切腹人が三方』(さんぽう:本文にも出るが、前と左右の三方に刳形 (くりかた)の穴をあけた台を方形の折敷(おしき)に附けたもの。檜(ひのき)の白木製を普通とし、神仏や貴人に物を供したり、儀式の際に物を載せたりするのに用いるあれ。「三宝」とも書く)『の上の木刀を手に取ろうと前かがみになったところを介錯人が斬首するのが定法で』あった『が、佐野政言は』「短刀(真剣)で自ら腹を切りたい」と』『懇願』し、『立ち合いの人々を当惑させ』たとあって、山川貞幹は『このとき』『思慮深い対応』をしたことが『記されて』あるとあった。全部で六つの「田沼実秘録」の画像が載るが、そこには詳細な切腹罪場(以下の本文に出るように、実際には、切腹用に用意された九寸五分(二十九センチ弱)の短刀は木製であって、先に打ち首にされた。考えて見れば、時代劇では実際の柄無しの身だけの本身の実短刀を使っているが、最後の最後に死にきれず、逆に場の人間たちをそれで傷つけるケースも十分に考えられるのであるから、これは正しい方法と言えるのである)の見取り図が、「5」と「6」に載るのだが、馬琴はこの書物を見なかったのが甚だ惜しまれる。この画像は出所を明記して変更を加えなければ、使用許可が出ているので、以下に掲げる(この前後の記載とリンクで出所を明記していると私は判断する)。
彼なら、ここに書かれている以上の山川の対応の内容をしっかり記したはずだからである。「1」がその内容であるが(「2」に渡る箇所は実際の仕儀が書かれている)、私の力では全部を起こすのには時間がかかりそうだし、よく判らぬところもある。ただ、右丁一~六行目で、「木太刀」を「三方へ載せ」て前左衛門の「正面へ差並」べたことが記され、「此」の「木太刀は音定法也」とある。ところが、善左衛門は、これを見るや、「自身」で「切腹」を「仕」(つかまつ)りたい「何卒」、実際の真剣の「切物」を下さるようにと、末期の懇請を下総守に申し出て、山川は「思ひもふけぬ」困った「事」であったので、「甚」「当惑致」した、といったことが書かれてある。その後は、それを上役に伝えるやり取りらしいが、左丁三行目で善左衛門が、何かを「承」っており、五行目辺りで、「三方は御定式にて候間」、「戴き候」「樣にと」、何か懐柔している感じがある。困って、「田沼実秘録」で検索し、さんざん探したところ、この資料展示を実際に見られたYamaRan氏のブログ「YamaRan's:備忘録」の「旗本御家人III お仕事いろいろ」の記事内に正解と思われる部分があるのを見つけた。そこには、『城内で刃傷沙汰を起こして切腹を申し渡された佐野善左衛門。この人が切腹に真剣を使いたいと言い出した』。『当時は、お腹を召す前に介錯、というのが切腹マナーだったため、刀は真剣じゃなかったわけで』、『そこで目付・山川下総守のナイス判断』となり、『「じゃあ真剣を用意しますので、今はとりあえず形だけ、お願いします」と』言われて承諾し、『言われた通りに』、『目の前の刀に手を伸ばして』、『体を前傾させたところで、首をおとした』。『本人は要求が受け入れられたと思って亡くなるわけで』。『目付』、これ、『いい人。(「田沼実秘録」)』と書かれてあった。その内、時間をとって全部の字起こしをしてみたいとは考えている。
「御徒目付」(おかちめつけ)目付の支配に属し、組頭に統率されて文書の起案・旧規調査や探索・城内番所の監督・玄関取締りや評定所及び牢獄などへの出役(しゅつやく:臨時に別な役職を兼ねること)・将軍出御の道触れなどに従った。
「向方」「むかうがた」で、南町奉行所方の意か。後にも盛んに出てくるのは、それではちょっと説明しきれないので、初めは、ある行動の先方で出迎えて警固する役の意かと思っていたのだが、よく判らない。
「石出帶刀」(いしでたてわき)は江戸幕府伝馬町牢屋敷の長官である囚獄(牢屋奉行)の世襲名。当該ウィキによれば、『初代の石出帯刀は』、『当初』、『大御番』(おおごばん:五番方(書院番・小姓組・大番・小十人・新番)に数えられる軍事部門の職制。五番方の中で最も歴史が古く、最も規模が大きかった。格式は両番(書院番・小姓組)の下に置かれ、馬上資格を持っていた。徳川将軍本陣備である他の四番方が若年寄支配だったのに対し、先手備である大番は老中支配だった。江戸本城と幕府要地の警護を担当した)『を務めていたが、徳川家康の江戸入府の際に罪人を預けられ、以来』、『その職を務めるようになった。石出左兵衛』『勘介から町奉行に出された石出家の』「由緒」書によると、『当初は本多図書常政と名乗っていた。後に在所名に因んで』、『石出姓に改めたとされているが、現在の千葉市若葉区中野町千葉中の石出一族の出身』で『本来』、『石出帯刀とは』地名ではなく、『一族の長の名である』とある(以下、初代他の記載があるが、略す)。『囚獄は町奉行の配下に属して』おり、『その職務内容は、牢屋敷役人である同心及び下男等の支配、牢屋敷と収監者の管理、各牢屋の見回りと収監者からの訴え』を聴取すること、『牢屋敷内における刑罰執行の立会い、赦免の立会い等となっていた』。『家禄は三百俵。格式は、譜代・役上下・御目見以下であるが』、『旗本である』(以下禄高が記されるが略す)。なお、関係ないので引かないが、「著名な石出帯刀」の項があり、『歴代の石出帯刀のうちで最も高名な人物』として石出吉深(よしふか)の興味深い記載がある。是非、読まれたい。
「御衝立際」「おんついたてのきは」。
「爲二檢使一」「檢使(けんし)として」。
「御頭」「おかしら」。牢屋敷担当職の筆頭であろう。
「申談」「まをしだんじ」。
「引續罷越」「ひきつづき」て「まかりこし」。]
但、揚座敷三の部屋と、四の部屋の番所檢使
場に相成、不ㇾ殘薄緣敷、中之所に屛風を建
有ㇾ之。正面庭に無緣の疊二疊敷、其外手當
の儀、前廉、牢屋見廻りへ被二仰渡一敷砂掃除
等、諸事、支度いたし有ㇾ之候。暮時前に相
成、殊に雨天故、高張挑燈等も差出し、檢使
場へは手燭二つ燈し申候。場所の儀、爲二見
合の一。繪圖面、左に記【圖省略。】
[やぶちゃん注:先に掲げた切腹場の見取り図を参照されたい。
「前廉」(まへかど)。名詞の副詞的用法で「事前に・前もって」の意。]
○今日、夕方より大雨に付、牢屋敷門内、揚座敷、庭迄、御目付衆、木履・傘御用有ㇾ之候樣、御頭より御挨拶被ㇾ成、且、牢屋敷見廻り、幷、石出帶刀、傘、用させ候樣被ㇾ成度旨、是又、御目付衆へ被ㇾ及二御挨拶一候間、牢屋敷へ罷越候はゞ、右之趣、見廻り帶刀へ可二申聞一旨、頭、被二仰渡一候に付、申達。
[やぶちゃん注:「木履」「ぼくり」。下駄のこと。
「用させ」「もちひさせ」。]
○暫、間、有ㇾ之、下總守殿、御出に付、牢屋敷見廻り與力、帶刀、御徒目付、門前へ出迎、介十郞、忠五郞は揚陣敷、庭口に罷在、御挨拶申上、御徒目付、御案内いたし、屛風建候所へ、下總守殿、御通り、着座有ㇾ之。御徒目付兩人は、右屛風の外、左の方へ上り、介十郞、忠五郞は、同所右之方へ上り、何れも着座帶刀し罷在候。番所外庭、左の方、御小人目付、御使の者、つくばい罷在。右の方に牢屋見廻り帶刀、罷在。其次に出役同心、牢屋同心、つくばい罷在。
[やぶちゃん注:「小人目付」徒目付に従って、各種の調査や警備などに当たる役職。]
○切腹人、差出候儀、介十郞、御徒目付へ及二會釋一候得ば、御徒目付、切腹人、差出可ㇾ申哉之段、相伺候處、可二差出一旨、下總守殿、出役へ、御差圖、有ㇾ之。牢屋見廻りへ申達、駕籠より出し、添介錯兩人、左右に附添、當人、肢を押へ【右の方、五郞治、左の方、和多五郞。】、疊の上へ連參、疊一ぱいに跡の方へ、隨分、足をひらかせ、座させ申候。伊助、罷出、當人へ對し、名乘、一禮を成し、當人の後ろ、通り、左の方へ參り、後え向に、つくばい、刀を拔、控居候。添介錯のもの、手傳候て、肩衣を剝、肌を脫せ、兩脇、少、後ろの方に控居、牢屋同心、三方に九寸五分を【但、木刀九寸五分にて、紙にて包、こよりにて二所、結。】、載せ、持出、三尺程、明け【兩人、隨分、手を延し。】候程に置、前に置、退。五郞治儀、見計、三方、戴之候樣、申聞、當人手を懸け候所を、伊助、介錯致し、直に五郞治、首を揚る。首【檢使方へ顏を向る。】、下總守、見屆候旨、御徒目付申し、首を死骸に添置、卽時に、下男、薄緣二枚持出し、死骸へ懸け、四人にて、疊の儘、南の方、堀際へ寄せ申候。畢て、御目付衆、引取、直、評定所へ御出被ㇾ成候に付、介十郞、忠五郞は、最初の通、入口迄、御送り、牢屋見廻り、帶刀は、門内迄、御送申候。御徒目付は引續罷越、此節、下總守殿、麻上下、着替、檢使御勤、御徒目付も麻上下、着替申候。此方出役、着替候例も有ㇾ之候得共、御目付衆の外は、御檢使に無ㇾ之候間、着替候には不ㇾ及旨、御頭被二仰聞一候に付、介十郞、忠五郞は、平服にて相勤候。介錯の同心は、何れも、帶刀、袴計、着、股立取る。三方持候牢屋同心も、帶刀、袴計、着、股立取、相勤申候。此節、牢屋見廻り服部仁左衞門、向方佐野五郞左衞門、囚獄石出帶刀、罷出候。但、下總守殿供廻りは、中仕切外に差置、長柄持・草履取は、入口外の邊に控させ置申候。
[やぶちゃん注:「差出可ㇾ申哉之段」「『差し出だし申すべきや』の段」。
「肢」「あし」。
「跡」これは畳の後ろの方の意味の「あと」。
「隨分、足をひらかせ、座させ申候」その状態からは、別な動作を成すことが、甚だ困難になると同時に、介錯するに易く打てるように頭を下げさせるわけである。
「持出」「もちいだし」。
「三尺程、明け【兩人、隨分、手を延し。】候程に置、前に置、退」これも身体の自由を奪うための仕儀であり、やはり頭が自動的に下がることになる。
「見計」「みはからひ」。
「戴之候樣」「戴ㇾ之候樣」の脱字ではないか。「之れを戴き候ふ樣(やう)」で「三方を、早(はよ)う、手に戴かれよ!」と、わざとせかすして焦らせるとともに、突っ張らかった体はますます緊張して、思うように動かなくなるである。
「直に」「ただちに」。
「揚る」「あぐる」。
「向る」「むくる」。
「薄緣」畳表に縁だけをつけた敷物。
「堀際」「ほりぎは」。
「畢て」「をはりて」。
「直」「ただちに」。
「麻上下」「あさかみしも」。
「着替」「きかへ」。
「檢使御勤」一単語と採った。
「此方」「こなたの」と読んでおく。
「帶刀」これは「たてはき」ではなく、「たいとう」である。刀を差していることを言う。
「袴計着」「はかまばかり、き」。
「股立取る」「ももだちとる」で、「股立」は、袴の左右両脇の開きの縫止めの部分を指すが、そこを摘まんで、腰紐や帯に挟み、袴の裾をたくし上げることを「股立を取る」と言い、機敏な動作をする際の仕度の一つとされた。武将の外出の際、供として、走り使いをした「走り衆」の風俗で、この装束は「上下返し股立」とも称し、烏帽子・素襖(すおう)姿で、股立を取って、脚絆を附け、而して、大小の刀を差したのである(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。
「長柄持」長柄の傘や長柄の槍などを持って主人に従う者。
なお、この切腹のシークエンス以降は、サイト「東京坂道ゆるラン」のYASS_ASAI氏の「伝馬町牢屋敷(3)切腹から世直し大明神へ」の記事がよい。伝馬町老屋敷内の切腹場が現代の地図と重ねて示されてあり、この切腹の仕儀も「国立公文書館」の「田沼実秘録」の画像と思われるものを使用して、細かに示されてあり、佐野家の位置も判る。]
○善左衞門死骸の儀、牢屋見廻りより、先格の通、被ㇾ伺候に付、牢屋同心一人、評定所まで召連、御目付衆、御立戾、御内座へ御着座後、介十郞、忠五郞、御内座へ出、御仕置請事無ㇾ滯相濟候段、御頭へ申上、一旦、引退、猶又、御徒目付、申合、一同に御内座へ罷出、介十郞、右佐野善左衞門死骸の儀、貰人も有ㇾ之候はゞ、差遣可ㇾ申哉之段、御頭へ相伺候處、御目付所へも御談被ㇾ成候上、勝手次第可ㇾ遣旨、被二仰渡一候に付、其段、書面にて牢屋敷見廻りへ相達候。右召連候牢屋同心に爲ㇾ持、遣す。
[やぶちゃん注:「貰人」「もらふひと」。これは二様にとれる。この手の死罪となった者の遺体は試し斬りに用いられるのが普通であったから、それ用に呉れという武士がいたなら、それに渡された。別に、彼の場合は遺族がいるので、彼らが遺体を引き取りたいと願い出てきたら渡してよいという意味でもあろう。
「爲ㇾ持」「持たせ」であろう。]
但、介錯人・添介錯は、年番吉田忠藏、
相調、差人にて申渡、向方、添介錯は、
忠藏より、向方年番へ相達候。其外、
牢屋敷手當等、年番方にて、兼て取計
有ㇾ之候。
[やぶちゃん注:この一段、何を言っているのか、今一つ、判らない。介錯人及び添え介錯人に対して、怪我はなかったか、仕儀に不都合がなかったか、或いは、事後に意見があるか、というような聴取かと思われる。
「差人」「さじん」は「使いの者」の意。
「年番」一年交代で勤めること。]
一、添介錯兩人は、直に牢屋敷へ罷越、介錯高木伊助は、御番所へ被二召呼一、御頭、御出懸、御直に、被二仰渡一牢屋敷へ罷越申候。
蜷川相模守組
筑山 伊右衞門
中渡承人
山下 彌左衞門
右は、下總守殿、牢屋敷より御歸後、御別座にて、佐野善左衞門切腹被二仰付一候、頭へ可二申達一旨被二仰渡一相濟申候。
御詮議掛り 加藤 又左衞門
松浦彌次右衞門
[やぶちゃん注:ともかくも、全体、点検と確認が神経症的に細かであることが伝わってくる。
以下は、馬琴の添え辞。]
因にいふ。佐野氏の屋敷は番町御馬屋谷にありけり。今の笹本靭負殿の屋敷、是也。谷の方なる屛際に、古木のしだれ櫻、兩三株あり。「佐野の櫻」とて、花の比は、往來の人、必、見かへりて賞したり。
[やぶちゃん注:「番町御馬屋谷」「番長御厩谷坂(ばんちやうおんまやだに)」が正しい表記。「笹本靭負」(ゆげい/ゆきえ)は幾つかの切絵図を見たが、確認出来なかったものの、そもそもグーグル・マップ・データに「佐野善左衛門宅跡」として載っていた。東京都千代田区九段南三丁目六の「大妻通り」(ここが旧御厩谷坂)の大妻学院附近に相当し、そのサイド・パネルのこちらで解説板が読める。
「屛際」「へいぎは」。塀際。
『「佐野の櫻」とて、花の比は、往來の人、必、見かへりて賞したり』事実記載は確認出来なかった。]
當時、佐野氏の墓所へ、良賤、參詣、群集したりと云。寺は淺草本願寺地中也。又、操狂言にとり組て、三浦義村、佐野常世の義太夫、流行せしかば、葺屋町の歌舞妓座にても、この狂言をして、大入なりき。これも狂言の名題は忘れたり。初、この操狂言は浪花の作者のつくりしを、江戶へとりよせて、そのまゝに興行しつるなり。當時の雜說くさぐさなりしを、事繁ければ、略ㇾ之。
[やぶちゃん注: 「寺は淺草本願寺の寺「地」の「中」(うち)「也」これは先に引用で出した、現在の東京都台東区西浅草にある浄土真宗東本願寺派徳本寺(とくほんじ:グーグル・マップ・データ。以下同じ)で(東本願寺参道の右手にあるが、現在は単立寺院である)、墓も現存する。サイド・パネルのこちらに墓の画像がある。尖頭部が損壊しているが、彼の戒名「元良院釈以貞」の下の三字が確認出来る。
「操狂言」「あやつりきやうげん」。人形浄瑠璃のこと。
「狂言の名題は忘れたり」既注だが、「有職鎌倉山」。
「三浦義村、佐野常世」「有職鎌倉山」の田沼意知をモデルとした悪役が「三浦荒次郎義村」で、佐野善左衛門政言をモデルとした主人公が「佐野源左衛門経世(つねよ)」である。因みに、この名は「いざ鎌倉」譚を絡めた能「鉢木」で知られる北条時頼の隠密の諸国遍歴中に出逢った、あの人物と完全に同じである。
「葺屋町」現在の中央区日本橋堀留町一丁目・日本橋人形町三丁目付近。寛永(元年は一六二四年)から天保年間(最後は年で一八四四年)にかけて、実に二百年余に亙って賑わった歓楽街で、芝居茶屋の多い町であった。
以下は底本では、全体が一字下げ。但し、これも馬琴の追記と思われるので、読みやすくするために、ここでは、以下のように処理した。]
此年の春より、「いよさのすいしよで氣はざんざ」という小うた流行して、小人は、みな、うたへり。是は伊勢大神宮御遷宮の材木を曳く爲に、山田の町人山原佳木[やぶちゃん注:「やまはらよしき」と取り敢えず読んでおく。]といふ者、作りし音頭なりしを、江戶まで流行したる也。かくて四月に至て、佐野氏の異變ありしかば、「いよ佐野すいきよで血は善左」と、秀句してうたひし也。童謠の應驗は今にはじめぬことながら、これらは、尤、奇といふべし。
[やぶちゃん注:「いよさのすいしよで氣はざんざ」国立国会図書館デジタルコレクションのここの国立国会図書館所蔵の藤田徳太郎著「近代歌謡の研究」(昭和一二(一九三七)年人文書院刊)の目次に立項されているが、残念ながら中身は読めない。しかし、暁洲舎氏のサイト「日本の民謡 曲目解説」の「九州」のパートに、
《引用開始》
「岳の新太郎さん」(佐賀)
《岳の新太郎さんの 下らす道は 銅(かね)の千灯篭ないとん 明かれかし色者の粋者で 気はざんざ》
佐賀県南部、藤津郡太良町に地固めの唄として伝わっていた唄。囃し言葉から、ザンザ節とも呼ばれる。長崎との県境にある多良岳に寺があり、今から二百年ほど昔、新太郎という寺僧がいた。新太郎に思いを寄せた近村の娘たちは、女人禁制の多良岳から、新太郎が下ってくるのを待ちこがれたという。その歌詞から曲名がある。天明4(1784)年春、三重県伊勢の山田の町人・山原佳木が、伊勢神宮の遷宮式に、氏子たちが御用材を引く「お木曳き木遣り唄」として作曲したものが全国に広められ、各地で地固めの唄などに利用されたものが元唄。昭和31(1956)年、初代鈴木正夫がレコードに吹き込んで、一躍、県を代表する唄となった。
《引用終了》
とあった。「伊勢の山田」は伊勢神宮の玄関に当たるこの附近。
「應驗」とはちょっと思わないが。]
« 室生犀星 随筆「天馬の脚」 正規表現版 「文藝時評」 | トップページ | 「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 古き和漢書に見えたるラーマ王物語 »