曲亭馬琴「兎園小説余禄」 小泉兄弟四人幷一媳褒賞之記 / 「兎園小説余禄」巻二~開始
[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。
底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。
標題中の「媳」は「よめ」(嫁)。また、二男の「小泉大内藏」の名は「おほくら」。
本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。句読点は現在の読者に判り易いように、底本には従わず、自由に打った。鍵括弧や「・」も私が挿入して読みやすくした。一部を読み易くするために《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。]
兎園小說餘錄第二
〇小泉兄弟四人幷一媳褒賞之記
【品川新宿牛頭天王神主
小泉上總介忰】
總領 小泉出雲守【酉三十三歲。】
二男 小泉大内藏【酉三十歲。】
三男 小泉覺次 【酉二十六歲。】
四男 小泉淸之助【酉十八歲。】
出雲守妻 か よ【酉二十七歲。】
右上總儀は、去る文化八年の頃より、中風にて、今、以《もつて》、打臥罷在《うちふしまかりあり》、幷に同人妻儀も、十餘年以前より、持病の血暈《けつうん》、度々差發《さしおこり》致二難儀一候由、然處《しかるところ》、右之子供四人、幷《ならびに》、出雲、妻かよ、其孝行にて、晝夜無二油斷一看病介抱いたし、猶、亦、大内藏儀は、芝神明社家、相務罷在候に付、社務の暇、有ㇾ之候へば、早朝より、父母の方に罷越、看病いたし、兄弟四人・かよ共に、孝行、大かたならず、凡、十三、四年の間、異體一心に志を盡し候趣、相聞え、請取《うけとり》、しらべに相成《あひなる》。今玆《こんじ》、文政八年乙酉春三月日、右之者共、寺社御奉行所へ被二召出一、御褒美として、小泉出雲ヘ御銀《おぎん》十枚、外四人へ、御銀五枚づゝ、被ㇾ下ㇾ之候由。同年三月下旬、右之趣を印行《いんぎやう》して賣步行《うりあるき》候間、卽、使二買取一《かひとらしめ》、尙、亦、外も聞合《ききあはせ》候處、相違無ㇾ之事の由に付、しるしおく。かく、一家うち揃ひての孝行は、世に有がたし。尤《もつとも》美談たるべきもの也【乙酉四月廿三日。】。
[やぶちゃん注:「品川新宿牛頭天王」「品川区」公式サイト内の「東海道品川宿のはなし 第10回」によれば、『品川宿の6月の行事は貴布禰社』(きふねしゃ)『(今の荏原神社)と北品川稲荷社(今の品川神社)の牛頭天王祭から始ま』るとある。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。
「文化八年」一八一一年。
「血暈」産後に「血の道」で、眩暈(めまい)がしたり、体が震えたりする病気。「血振(ちぶるい)」とも呼ぶ。
「芝神明社家」現在の東京都港区芝大門一丁目に鎮座する芝大神宮。一時期には准勅祭社とされた東京十社の一社であった。
「文政八年乙酉」一八二五年。
「印行して」瓦版にして。]
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